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キノコを逆さにしたような燈籠が並ぶ。ズームして。「江島弁財天」。「五頭龍大神」と。椰子の木を見上げて。球形の竹籠の如き燈籠に近づいて。遊歩道を東に進む。「海山プラザ(UMIYAMA PLAZA)」に向かって進む。そして、再び「江の島シーキャンドル」に向かって、中央の遊歩道を進む。さらに進む。そして引き返して影絵広場横に戻る。カップルが仲良くハートを二人で。そして「LON CAFE」前の広場へ。2003年に日本初のフレンチトースト専門店としてオープンしたと。店内では食事を楽しむ方々の姿が。以下2枚の写真は以前にこの場所を訪ねた時の写真。そしてこちらはこの日の私の写真であるが残念ながらピンボケ。しかし、以前のニュースでは「江ノ島大橋の門を閉門します!」と。夜間における江の島島内の騒音対策のため、江ノ島大橋の通行止め時間帯である夜間、大橋入口に設置されている門扉を閉門します。閉門時間帯は、江の島入口交差点方向から江の島島内へは車両(路線バス、タクシー、特定小型原動機付自転車及び普通自転車を除く。)を利用して入ることはできませんので注意してください。ご理解ご協力をお願いします。門扉閉門開始日 令和6年7月13日(土曜日)から門扉閉門時間 午後10時から午前5時までこの時の時間は19:55であり、閉鎖まで2時間以上あったが、既に江ノ島大橋のナトリューム照明は消えていたのであった。そして撮影スポット・MAIAMI BEACHI AREAへ(以前の写真)。正面から。遠く横浜方面の高層建築物の姿を、カメラの設定を変えて最大ズームして。山の上に見えたのは「横浜ランドマークタワー」の頂部であっただろうか?「◯」!!この写真の頂部が見えていたのであろうか?(写真はネットから) ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.08.31
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そして「岩屋通り」を戻り、「江の島サムエル・コッキング苑」入口まで戻る。「夜灯りの夢庭(よるあかりのゆめにわ)」がサムエルコッキング苑にて開催中。こちらも江の島灯籠の期間中は、「夜灯りの夢庭」として、ライトアップが行われているのだ。入場は有料(夜間入場料:大人500円/子人:250円)。苑内入口には、無数の光が宙に浮かぶような美麗なオブジェが出迎えてくれたのであった。様々な形の燈籠が、紫の垂れ幕を背景に。「三つ鱗」があしらわれた灯籠は、和風の意匠ながらも多角形でアート作品の如くに。「昔々、鎌倉の深沢の沼に体が一つで頭が五つある恐ろしい龍が棲んでいました。」「この五頭龍は様々な災いを周辺の村にもたらし長きにわたり人々を苦しめていました。」「龍の人喰いを恐れた村人たちは毎年泣く泣く幼子を人身御供に差し出すようになったのです。」「ところが欽明天皇13年天地を轟かす地鳴りが起こり海底から島がわき起こりました。 これが江の島でした。」「天からは美しい天女が現れ江の島へと舞い降りました。」「五頭龍は美しい天女に結婚を申し込みました。 しかしこれまでの悪行の数々を指摘され断られてしまいます」「五頭龍はこれまでの行いを悔い改心を誓います。 天女はその言葉を信じ夫婦となったのです。」「それからというもの五頭龍は日々村人たちに尽くしました。 しかしその度に体は衰えていったのでした。」「「私の命もやがておわるでしょう。これからは山となってこの地をお守りしたい」 これが江の島の対岸にある龍口山です。」「山の中腹には龍の形をした岩があり天女を慕うようにいつまでも江の島を見守っているのだそうです。」振り返って。再び風になびく羽衣、その周囲に輝く燈籠を追う。ここは帰路に訪ねた影絵広場。「昆明広場」も帰路に。「江の島シーキャンドル」に向かって進む。オレンジ色の燈籠。「江の島シーキャンドル」の光も刻々と青の姿を変えて。枯れ枝に囲まれた燈籠。「江の島シーキャンドル」への遊歩道の左右の燈籠を楽しみながら進む。一面、丸い竹灯籠の世界は広がっていた。自由に編まれた竹籠が輝く。近づいて。江の島シーキャンドルを下から見上げて。トランポリンで遊ぶ子供たち。「江の島燈籠2024メッセージ燈籠大切な人に言葉を残しませんか?ご自由にお書きください」。様々な文字が。英語、中国語そして子供たちの文字も。神秘の世界への入口の如くに。「江島弁財天」と。鬱蒼とした森の如き場所にも灯りが。ここには、円柱状の燈籠も。山小屋の前庭の如し。こちらは、たわわに実る果実のごとくに。再び「江の島シーキャンドル」を。この日は青であったが、期間中は色が毎日変わるのであろうか?そして海鼠壁(なまこかべ)の建物に向かって進む。以前は松本館として使われていた蔵風の建物。現在「UMIYAMA DO」としてリニューアルオープンしていると。「松本市 日本:長野県姉妹都市提携年月日1961年7月29日(松本市から来藤した日を提携日とする。)提携の動機と経過東洋のスイスといわれている長野県松本市と、東洋のマイアミ・ビーチと呼ばれている藤沢市は、日本の海と山を代表する観光都市てあり、市民がお互いのまち(観光地)を訪問して交流を図る「海と山との市民交歓会」がきっかけとなり、全国に先がけて観光面で姉妹都市の縁を結びました。松本市の概要本州および長野県のほは中央に位置し、400年以上の歴史を誇る城下町・松本は、日本で最も古い小学校の一つとされる旧開智学校の開校や旧制松本高等学校の誘致など、教育を重んじる気風であり、明治時代から「学都」として豊かな文化を育んできました.また、日本百名山に数えられる美ヶ原や日本を代表する山岳景勝地である上高地をはしめ3000メートル級の峰々が通ねる北アルプスなど、大自然の宝庫でもあり「岳都」としても有名です。美しい四季に磨かれた感性が芸術、音楽への恵みとなり、オーケストラコンサート、オペラをニ本柱とした世界屈指の音楽家たちが共演するセイジ・オザワ 松本フェスティバルは多くの愛好者に親しまれており、「楽都」としても知られています。市民の心の拠りどころでもある松本城を街のシンポルとして、「「三ガク都」まつもと」~岳都、楽都、学都~と称されています。」「藤沢市・松本市 姉妹都市提携40周年記念」碑。「松本市・藤沢市姉妹都市提携40周年記念碑「海と山の絆」(山辺石)この記念碑は、藤沢市との姉妹都市提携40周年を記念して松本市から贈られたものです。藤沢市の姉妹都市である松本市域には、江戸時代に建立された約280体の石造道祖神があります。なかでも男女の神様をひとつの石に刻んだ「双体道祖神」は、地域の特徴ある道祖神として観光に訪れる人々の人気を集めています。道祖神は、古くは村を守る境のかみとして祀られました。村の繁栄を願って祀られた道祖神は、後に疫病除けや縁結び、豊作などあらゆる願いをかなえてくれる身近な神様へと変わっていきました。今も松本では2月8日の朝早く、誰にもみつからないように道祖神に餅を付けると良縁に恵まれるといわれ、双体の像容とあいまって縁結びの神様として信じられています。「海と山の絆」は、「双体道祖神」をモデルに造られています。異なる環境、文化のなかで育ってきた海の民(藤沢市)と山の民(松本市)の出会いに感謝する気持ち、お互いの歴史と文化を尊重する気持ち、そして、これからも「仲良く」「末永く」友好を深められますようにとの願いを込めて、純真な「男の子」と「女の子」の像が刻まれています。松本市と藤沢市の友好の象徴であるこの碑は、松本域の石垣にも使われている特産の「山辺石(安山岩)」造られています。」海鼠壁(なまこかべ)に近づいて。紫そして緑の燈籠。五頭龍の姿が。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.08.30
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この日は、8月26日(月)、早朝に自宅から自転車で5分ほどの場所にある、「ひまわり畑」に向かいました。今年は、1回目は、これも自宅近くで初めての場所の7月7日の「ひまわり畑」👈️リンク 、そして2箇所目は8月13日の「座間のひまわり畑」👈️リンク そして今回が3箇所目の「ひまわり畑」なのであった。国道467号から20mほど奥にある「ひまわり畑」。既に、過去2回の「ひまわり畑」のブログアップで、ひまわり・ヒマワリ・向日葵の美しさを表現する言葉は全て使ってしまったのでこれ以後はキャプションなしでお楽しみください。太陽の光が降り注ぐ広い畑。その中央に立つ一本の高い茎があり、その先には大きなひまわりの花が咲いていた。花びらは鮮やかな黄色で、太陽の光を浴びて輝いていいたのであった。花の中心には茶色い花芯があり、その周りにはたくさんの小さな黒い種が並んでいた。風が吹くたびに、ひまわりはゆっくりと揺れて。その美しい姿は、夏の暖かい風景を象徴。ひまわりは、希望と情熱を感じさせる花であり、その存在は私に元気と活力を与えてくれたのであった。そして、帰路に残雪が全て消えた富士山山頂近くの雄姿を。 ・・・おわり・・・
2024.08.29
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「龍宮」を後にすると直ぐ左手にあったのが「龍恋の鐘」入口案内板。江の島の弁財天と五頭龍の伝説にちなんでつくられた、カップルの名所。見晴らしのいい丘の上に大きな鐘が据えられ、南京錠がいくつもつけられた金網が周りをぐるりと囲んでいる。恋人同士でこの地を訪れて鐘を鳴らし、金網に南京錠をつけると永遠に結ばれる と。二人仲良くカップルが「龍恋の鐘」を鳴らす。戻って、「龍宮」の鳥居を振り返る。「稚児ヶ淵」の岩場に向かって急な石段を下る。さらに。「食事 のみもの 見晴亭」が前方に。「ようこそ 江の島岩屋洞窟へ」。海が見えて来た。前方下に「稚児ヶ淵」が現れた。伊豆半島の灯りが見えた。「稚児ヶ淵 ⇇岩屋」碑。島の西南端、岩屋の周辺に広がる、隆起現象でうまれた海食台地。屏風のように連なる断崖の真下にあり、打ち寄せては砕ける波と、富士山の向こうに沈む夕日の美しさで知られ、「かながわの景勝50選」にも選ばれている。磯釣りの名所としても知られ、休日には多くの太公望でにぎわう。稚児ヶ淵の名前は、かつて稚児の白菊👈️リンク がここから身を投げたことから付いたといわれている と。その時扇子に記して、渡し守に委ねた辞世が、次の二首です。 白菊の しのぶの里の 人問はば 思い入江の 島とこたえよ 憂きことを 思い入江の 島かげに すつる命は 波の下草行方の知れない白菊の後を追って江の島にたどりつき、その最後を知った自休和尚は、残された扇子を見るや自らも次の一首を残して後を追いました。 白菊の 花の情けの 深き海に ともに入江の 島ぞ嬉しき「稚児ヶ淵・永瀬覇天朗の句碑」。「稚児ヶ淵・永瀬覇天朗の句碑稚児ヶ淵は島の西側に位置し、大正12年(1923年)の関東大震災で1mほど隆起した波食台地です。この名称の由来は、建長寺の修行僧自休が、江の島へ百ヶ日参詣の帰り、相承院の稚児白菊と出会ったのが縁で恋におちいりました。しかしその恋も実らず、ついには白菊はこの断崖から身を投げ、自休もそのあとを追ったという悲恋物語からおこっています。ここから眺める富士山夕焼けの相模灘の美しさは、まさしく「かながわ景勝50選」のひとつに数えられるものです。永瀬覇天朗の句碑は、たて148cm、横97cmの仙台石の中にきざまれています。この句碑は、もとは岩屋への桟橋近くに建立されましたが、大波で破壊され、再建の際に、現在地に移されました。覇天朗は大正時代に藤沢が生んだ新鋭俳人です。」永瀬天明の句碑はこの場所に建っていたのだが、台風で倒壊し、半分は流されで紛失し、半分が上の岩場に残っているのだという。再び伊豆半島方向をズームして。「稚児ヶ淵石灯籠」。かつて使用されていた「龍燈」で、もともとは江ノ島沖で嵐に遭遇した人が龍燈松の灯りに救われたお礼にと江戸期に建立したものですが、明治32年頃に大波に押し流されてしまいました。現在の燈籠は昭和2年に建て替えられたコンクリート製のもの と。小田原方面。湘南海岸を見る。大山方向をズームして。平塚・二宮方向。岩屋方向。妻の友人が建てたという公衆トイレ「稚児ヶ淵レストハウス」。再び「稚児ヶ淵石灯籠」。左から「佐羽淡斉の詩碑」、「芭蕉句碑」、「遊江嶋」。●「佐羽淡斉の詩碑」佐羽淡斉の詩碑は、野火で碑面が剥落していたのを、4代目の子孫が再建したものです。淡斉は、上州桐生の人で、大窪詩沸門下の詩人です。全国の各所旧跡を遍歴して百詩碑建立を図り、江の島の碑はその第1号として建てられました と。この碑には、次の七言律詩が刻まれています。 瓊砂一路截波通 孤嶼崚梨屹海中 潮浸龍王宮裏月 花香天女廟前風 客樓斫膾絲々白 神洞燒燈穗々紅 幾入蓬雙諳秘跡 不須幽討倩仙童●「芭蕉句碑」芭蕉の句碑は、握り飯の半面を押しつぶしたような素朴な碑型の河原石で、「潮墳」の碑と称されて観光客に親しまれています。青緑の色濃い自然石を程よく活用して「疑ふな潮の花も浦の春 はせお」(『疑ふ那潮能花も浦乃春 はせお』)と彫りこまれたこの句は元禄二年(1689年)に、芭蕉が「伊勢・二見ヶ浦の図(いろいろな画家が描いていますので誰のもかは不明です)を見て詠んだものです。●「遊江嶋」八雲庵遊江嶋詩碑は、宝暦二年(1752年)に建てられたもので、臥龍軒一梁の書で「遊江嶋」との漢詩が刻まれています。八雲庵及び臥龍軒一梁という方の事績はよくわかりません。左から「龍燈塔」、「石塔」、「題石壁」。●「龍燈塔」この石碑は、文化六年(1809年)に、江戸・深川新地の遊郭・五明楼の喜兵衛が建てたものです。よろず芸事の神様とされる江島弁財天は、新吉原・深川新地といったあたりの遊郭の人々からも篤く信仰されていました。●「石塔」刻文は風化して全く読み取れませんが、足元に線香皿や蝋燭立の穴があるところから、墓石であることは間違いなさそうです。かつてこの付近に「稚児が淵」の名の由来となった稚児・白菊の石塔があったと伝えられており、この石がそれではないかと云われています。●「題石壁」こちらは、江戸中期の儒学者で詩人の服部南郭の詩碑です。南郭没後・かなり年数を経た文化二年(1805年)に舞岡相長保という人が建てたもので、書家・源美徳の筆による 「石壁」と題された七言絶句が刻まれています。この詩は、南郭が江ノ島を訪れ舞岡相長保の外祖父にあたる方の家に宿泊した折に、岩に墨で書き下ろされたものだそうです。 風濤石岸闘鳴雷 直撼楼台萬丈廻 被髪釣鼈滄海客 三山到処蹴波開京都の商家に生まれた南郭は、若くして徳川綱吉の寵臣・柳沢吉保に仕え、綱吉のブレーン・荻生徂徠の門下となりました。詩文に秀で、殊に盛唐詩に通じ、江戸中期に一時代を画す存在として、多くの門弟を輩出しました。 また文人画家としても知られています。「稚児が淵稚児が淵は海水によって削られて比較的平坦になった岩盤が隆起したことによってうまれました。その昔、白菊という名前の稚児がここから身を投げたという話が「稚児ヶ淵」の名前の由来となっています。稚児ヶ淵からは、広がる海と空、富士山の向こうに沈む夕日を一望することができ、その絶景から「かながわの景勝50選」にも選ばれています。また、釣りの名所としても知られており、休日は釣り人でにぎわっています。」そして来た石段の道を、復路は上って行った。「見晴亭」。「龍宮」まで引き返す。そして「奥津宮」。そしてさらに「岩屋道」を引き返す。さらに、戻るに連れて姿を変える「江の島シーキャンドル」、「燈籠」の姿をカメラで追いながら「江の島サムエル・コッキング苑」に向かって歩を進めたのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.08.29
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時間は19:00を過ぎ、ようやく「江の島シーキャンドル」が青く点灯された。御岩屋道を「奥津宮」に向かって石段を下る。再び「江の島シーキャンドル」を振り返って。「御岩屋道 奥津宮⇇」碑。「木食上人行場窟」碑。「山ふたつの谷底に、木食上人行場窟と呼ばれる洞窟があります。そのほぼ中央に高さ約1m、幅約80mに扁平石を組み合わせて石廊を築き、その上に石造阿弥陀如来立像が設置されていました。木食とは、五穀(米・麦・アワ・キビ・豆)を絶ち、木の実で生活することです。この修行を木食行といい、木食行をする人たちを木食上人と言いました。」上記案内板には「木食上人行場窟」の写真もあったが、かなり劣化していたので、昔、訪ねた時の写真を。「御岩屋道」を下って行くと、だんだんと「江の島シーキャンドル」の姿の全体像が見えて来た。「磯料理 江之島亭」の手前の石段を上る。燈籠。さらに「奥津宮」に向かって進む。「奥津宮」のライトアップが見えて来た。「奥津宮」の石鳥居も姿を現した。「「東海江島辯財天祠石鳥居記」碑。「東海江島辯財天祠石鳥居記文政6年(1823)に笠木が折れた伝源頼朝寄進の石鳥居を文政十年(1827年)に修理した時の記念碑です。碑文には文政年間に台風の被害で近くの松の大木が倒れ鳥居を壊してしまい、その修理に関する事が記されています。この時の修理に浄財を寄進した浅草、上野、神田、湯島の人々の名前も記されています。」正面に石鳥居。「手水舎」。この「手水舎」及び手水鉢は、東京南千手の材木問屋・熊野屋安兵衛の奉納。手前の柱2本の礎石には「耳のある亀」の彫刻が彫られていた。「石鳥居」。扁額「奥津宮」。奥津宮は、本宮御旅所と称され、夏期の避暑地だったのだと。祭神は多紀理比賣命(たぎりひめのみこと)。「江島神社 奥津宮」碑。江の島島内三ヶ所のお宮(辺津宮・中津宮・奥津宮)を総称して江島神社といいます。江島神社は、福岡県の宗像神社と同じく、多紀理比賣命(たきりひめのみこと)、市寸島比賣命(いちきしまひめのみこと)、田寸津比賣命(たきつひめのみこと)の三柱の女神を祀ってます。奥津宮は三女神のうち多紀理比賣命をお祀りしています。昔は「本宮御旅所」と称されていました。この由来は、岩屋本宮に安置してある仏像を、岩屋本宮に安置してある仏像を、岩屋付近の荒い波から避けるため毎年四月中旬から十月中旬までここに遷座したことによります。天保十二年(1841)に焼失し、翌十三年に再建されたものが現在の社殿です。当社の弁財天は日本三大弁財天の一つで、七福神の弁財天として、また芸能を司る妙音天女としても崇敬され江戸時代は庶民、歌舞伎役者、武士と幅広い階層から信仰を集め、大変賑わいました。」力石は、江戸時代に日本一の力持ちといわれた岩槻藩の卯之助が奉納した石。 80貫(320キロ)とのこと。弁財天の祭礼で力競技を行ったときのもの。 「亀石(亀甲石)」。「亀石(亀甲石)」碑。「亀石(亀甲石)古い標文に『倉四名石の一つで、またの名を「蔵六石」という。」とあります。「武江年表」に文化3年(1806年)弁秀堂という人が弁財天を信拳して、金光明最勝王経を写経しここへ納め、上に置く石を探したところ、亀の形をした石を発見したのて江の島に奉納したと書かれています。大いちょうの木の下に置かれています。」「奥津宮奥津宮には三女神の一柱である多紀理比賣命(たぎりひめのみこと)をお祀りしています。奥津宮は当初は壮麗を極めていましたカが、1841年に消失、現在の社殿は1842年に再建されたものです。岩屋(龍神伝説発症の地)に一番近い奥津宮は明治時代まで本宮御旅所と称されました。これは.岩屋の本宮に海水が入ってしまう四月から十月の間は御神体を陸上に遷座する必要があった為、この期間の社殿として造営されたことによります。」「奥津宮」を正面から。移動して。「奥津宮多紀理比賣命(たぎりひめのみこと)をお祀りしています。多紀理比賣命は、三人姉妹の一番上の姉神で、安らかに海を守る神様といわれてます。相模湾を臨む岩屋に一番近い奥津宮は、昔は、本宮または御旅所(おたびしょ)と称され、社殿は壮麗を極めていましたが、天保十二年(一八四一)に消失。翌十三年に再建されたのが現在の御社殿(入母屋造り)です。更に平成二十三年(ニ〇一一年)に御社殿を修復いたしました。養和ニ年(一一八ニ年)に、源頼朝により奉納された石鳥居や、江戸の絵師・酒井抱一が拝殿天上に描いた、どこからみてもこちらを睨んでいるように見える「八方睨みの亀」は有名です。」「宏達」碑。題額の「宏達」は、「宏大で事理に通ずる」という意味だそうです。「源通久題」とありますので、おそらく晩年の久我通久侯の書と思われます (久我家は村上源氏の流れを汲む清華家の家柄です)。また碑文の撰者は「文学博士幸田成行」とありますが、「成行」は「幸田露伴」の本名です。露伴は京都大学の教壇に立ったことがあり文学博士号を授与されています。書は、日本独自のかな書道の大家「小野鵞堂」です。調べてみますと、思った以上の豪華メンバーであった。「山田検校座像」。こちらは、箏曲「江の島曲」で知られる山田流琴曲の開祖・山田検校の銅像です。初代の銅像は大正6年(1917年)の百回忌に幸田露伴らによって建てられましたが、第二次大戦で供出されてしまいました。今あるものは、平成16年(2004年)に、元の鋳型を利用して再鋳したものです。「山田流箏曲流祖 山田検校像」。「山田検校斗養一坐像大正6年(1917)建立、平成16年(2004)再建。江戸箏曲の始祖とも言うべき山田検校の等身大の坐像です。山田検校の作曲した「江の島曲」は有名です。坐像の横の石碑は明治の文豪幸田露伴による撰文が刻され山田検校の芸術家としての功績を称えています。」斜めから。賽銭箱前から。奥津宮拝殿天井の「八方睨みの亀」は、1803年(享和3年)、酒井抱一によって描かれた「正面向亀図」。どこから見てもこちらを睨んでいるように見えることから「八方睨みの亀」と呼ばれるようになった。現在掲げられているものは、1994年(平成6年)に描かれた模写で、原画は江島神社宝殿に納められているとのこと。 「天上画 八方睨みの亀1803年に江戸時代の絵師である酒井抱ーによって描かれ、1971年には籘沢市の指定文化財となりました。八方とは「あらゆる方向」という意味で、どこから見ても描かれた亀がこちらを睨んでいるように見えることから「八方呪みの亀」と呼ばれています。酒井抱ーによって描かれた実物の絵は海風による損傷から守るために江島神社の社務所に保管されており、現在掲げられているものは、1994年に日本画家の片岡華陽画伯によって描かれた復元画です。」「奥津宮」の「本殿」を見る。扁額「奥津宮」。奥津宮の石灯籠。「江島神社 龍宮(わだつみのみや)」に向かって進む。燈籠。江島神社の社紋・「向い波の中の三つの鱗」。「江島神社 龍宮」扁額「龍宮」。狛犬(右)。狛犬(左)。「龍宮上の龍神」。近づいて。龍宮の入口の上部には、口に龍珠をくわえている龍大神がおかれていた。「龍宮(わだつのみや) 御祭神 龍神江の島は湧出以来龍のすむ所と言われ、古来より龍神は弁財天信仰と習合し、密接な結びつきから江島縁起を始め多くの伝説が残っている。「太平記」には時の執権、北条時政が江の島に参籠して子孫の繁栄を祈った時に、龍(大蛇)が現れ、三つの鱗を落とせり、時政祈願成就とよろこび、その三鱗を授かり家紋となす。或るは北条貞時が霊夢を見、龍池に赴くと金銅の龍頭を見たと、或るは「足利治乱記」には海に夜毎光ありて白龍長さ廿丈許(約六〇米)なるが海中から出て、絵島石穴に飛入るを諸人多見之と、謡曲「江ノ島」には天女が龍神と姿を現じて、七難即滅七福即生悪事災難を払ひて諸願成就を宣う御声も新たに聞こえとある。伝説は多く残されており、この神秘なる趣意を鑑み、平成六年九月吉日に当社発祥地たる岩屋洞窟の真上に御鎮座となった。龍神詠歌天地の開けし御代は 平成の天の戸明けゆく 東天紅蒼海(あさみかげうみ)漫々と立ち渡り舞う老の波 今ぞ時なる重陽に龍神の吟ずる声ありて 波浪を蹴たてて 逆巻く潮の迫るとともに 龍神海上翔け昇り 五色の彩雲普々に その雲上に顕ずなり 願事叶ふ如意宝珠三光を発し 島上の龍宮に天降り給ひぬ 衆生済度の方便 生死の相助けんと…御神慮幽くにありて噫 かたじけなきかな」「龍宮(わだつみのみや)」。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.08.28
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「辺津宮」への東側鳥居から中津宮に向かって進む。「御岩屋道」を「中津宮」に向かう。【江の島】内に 2つの商店街《弁財天仲見世通り》《御岩屋道通り》があり、こちらは《弁財天仲見世通り》と比較し レトロ感タップリの店舗が何軒かあります、但し《弁財天仲見世通り》はフラットな道ですが こちらは 石段を上がったり下がったりする必要があります(山二つと江の島岩屋の高低差は 約44m)。しかしながら 《江の島》の名物《女夫(めおと)饅頭》の店舗を比較した場合 《弁財天仲見世通り》での【井上総本家】や【紀の国屋本店】に対し こちらの【中村屋羊羹店 明治35年(1902)】創業 添付 写真参照】は 雰囲気タップリであり 又【魚見亭】【富士見亭】のように 眺望の良い飲食店もあり お薦めします とネットから。右手にあった「中津宮広場」を歩く。「季節のフローティングフラワー」近づいて。展望台広場に向かって進む。「展望台広場ウッドデッキ」からの「江の島ヨットハーバー」を見下ろす。「湘南港灯台」方向をズームして。右手の白い建物が「江の島ヨットハーバー管理事務所」、その左手が「湘南港」。「聖天島公園」内にある「聖天神社」も見えた。そして正面に江島神社・「中津宮」が現れた。平成11年に江の島歌舞伎が行われた時の5代尾上菊五郎、7代菊之助の記念手形。「しだれ梅」。「平成十一年(一九九九年)七代目尾上菊五郎、五代目尾上菊之助出演の「江の島大歌舞伎」が盛大に開催されました。当地ゆかりの「弁天娘女男白波」を演目とし、菊之助が演じた弁天小僧は大いに観衆をわかせました。開演に先立ちお練りで弁財天に詣でた際、菊之助御自身の手植えにより献樹された「しだれ梅」であります。」ご祭神は市寸島比賣命(いちきしまひめのみこと)。中津宮は、もとの上之宮で、文徳天皇仁壽三年(853年)に慈覚大師が創建。元禄二年(1689年)に、五代将軍・徳川綱吉により、本殿・幣殿・拝殿からなる権現造りの社殿が再建されました。現在の社殿は、平成八年(1996年)の全面的な改修によるもので、元禄二年当時の朱色が鮮明な社殿を再現しています。平成二十三年(2011年)には幣殿、拝殿の床板を張り替え、御札授与所も再建され、社殿脇には水琴窟を構えた庭園が開園しました(開園時間は午前9時~午後4時/無料)。また、境内に奉納された石燈籠からは、江戸時代における商人・芸人・庶民の信仰の深さをうかがい知ることができます と。見事な彫刻をズームして。「中津宮」を後にして、「エスカー3区乗場」方向に進む。正面に「江の島サムエル・コッキング苑」が現れた。夕焼けを背景に「江の島シーキャンドル」の展望台を見る。「江の島サムエル・コッキング苑」チケット売り場。再び展望台をズームして。「江の島燈籠 2024特別企画 夜灯りの夢庭開催期間 7 / 20 (土)→8 / 31 (土)会場 江の島サムエル・コッキンク苑」「亀ヶ岡広場」を訪ねた。「亀ヶ岡広場」は江の島の頂上付近まで楽々登れるエスカーの終点近くにある広場。眺めがよく、海や江の島展望台シーキャンドルの姿を見ることが出来たのであった。広場には売店やベンチがあり、江の島観光の一休みに利用する方も多い場所。毎年イルミネーションの時期には美しい光に彩られ、幻想的な広場に変身する。お隣のサムエルコッキング苑は有料だが、亀ヶ岡広場は無料でイルミネーションを堪能することが出来るのであった。「亀ヶ岡広場」からの「江の島シーキャンドル」は未だ点灯せず。時間は18:58。「江の島展望台」近く、南の海方向への燈籠。近づいて。緑にライトアップされて。後2分で点灯か?「江の島サムエル・コッキンク苑」の園内を訪ねるのは帰路にと、さらに御岩屋道を奥津宮に向かって進む。「海花亭」の燈籠も暗くなり色鮮やかに。時間は19:00。その先にあったのが「江の島大師」。江の島大師は、島から仏教寺院がなくなって百数十年を経た1993年(平成5年)、1964年(昭和39年)に廃業した旅館「江の島館」跡地に、最福寺 (鹿児島市)の関東別院として創建された単立寺院である と。「高野山真言宗 最福寺別院」と。しかし、既に門は閉ざされていたが、内部の境内には「真っ赤な大きな仁王像」の姿が。色あざやかな阿吽の仁王像が入口両側に。 仁王像(右)。仁王像(左)。その先にあったのが「福島漁村の句碑」。「福島漁村の句碑」案内碑。 「昔、この場所には江の島館という旅館があり、福島漁村はその旅館の主人でした。漁村は、間宮霞軒(中津宮境内に句碑あり)と同じく、恵比寿楼の永野泉山の門下で俳諧・歌学を学び、特に優れた弟子でした。句碑は、漁村の三回忌である昭和31年(1956年)につくられたものです。旅館はその後、火災により焼失しました。貝がらも 桜の名あり 島の春」さらに奥津宮に向かって進む。「貝広物産店」世界の貝2000種を展示即売。インテリアやお土産、また貝のコレクターに人気の店 と。「民宿 海上亭」。玄関前には、竹で編んだ球状のカゴの如き燈籠。さらに石段を下る。江の島をちょうど二分する境となって いることから、俗に「山ふたつ」といわれている場所。ガイドによると、断層に沿って侵食された海食胴が崩落したことで「山ふたつ」が出来たともいわれていると。「山ふたつ江の島は上空から見るとひょうたんのようにくびれた形をしており、ここは江の島をニ分するくびれ部分にあたることから俗に「山ふたっ」と呼ばれています。波によって削られてできた洞窟の天井部分が崩れ落らたことにより、現在のようなくびれた形になったといわれています。山ふたつの谷底には遊行僧が修行したと伝わる窟がありますが、現在は危険なため立ら入りが禁止されています。」「江の島の関東ローム層と「江の島縁起」この場所で観察できる赤主は関東ローム層中の武蔵野口一ム層と呼はれる地層です。これは、第四紀後期更新世(約12.6~1.17万年前)に活発な火山活動をしていた箱根山、富士山などの火山から降り注いた火山灰や火山砕屑物が江の島の基盤をつくる葉山層と呼ばれる固い岩石の上に堆積してできたもので、関東一円に広がっています。長い年月の間に火山灰にまれる鉱物の鉄分が酸化した鉄さびが赤土の色を作っています。赤土の中に、やや粒が荒く、白っぽい帯のような地層が何本か確認できます。これは軽石層(パミス)と呼ばれ、主に箱根火山の大噴火の時に短時間で大量に降り積もった火山砕屑物です。ここでは、下層から三涌軽石層(MP)、東京軽石層(TP)、箱根三色旗軽石層(SP)の3つの軽石層を見ることができます。箱根火山由来のローム層の中で、江の島で観察できるのは約8万年前のものからですので、島が陸化したのもその時代ではないかと推察されます。有名な「江ノ島縁起」は平安時代中期に書かれた五頭竜と弁天様が登場する江の島誕生の物語です。その中に「欽明天皇13年(西暦552年) 4月13日真っ黒い雲が天空を覆い、深い霧が立ち込め、大地震が10日も続いた後、霧の上から弁天様が従えた四天王や風神雷神が空から石を降らせ、海からは真っ赤な火柱とともに岩が噴き出して江の島は誕生した」との記述があります。平安中期には、大地震による島の隆起や富士山の噴火で火山灰や軽石が降ってきた記録もあり、このような自然現象が人々の暮らしや信仰と結びついて、「江ノ島縁起」誕生となったのかもしれません。」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.08.27
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江島神社の参道を進むと、正面に「江島神社」の「朱の鳥居(大鳥居)」とその先に「瑞心門」。「江の島燈籠 2024」マップ。時間は18:40、既に「光の絵巻(瑞心門)」が始まっていた。VELVETA DESIGNによるインスタレーション「光の絵巻」 江の島誕生の伝承「江島縁起」を軸にした物語を光と音で演出していると。しかし、まだ周囲に明るさが残っているので、帰路にゆっくり楽しむこととした。朱の大鳥居の下には、琵琶形の案内看板。「日本三大弁財天 江島神社」と。上部には「江島神社 社紋」が。「江島神社 社紋」は、北条家の家紋「三枚の鱗」の伝説にちなみ考案されたもので、「向い波の中の三つの鱗」を表現しているのだと。『太平記』によれば、建久三年(1190年)鎌倉幕府を司った北条時政が、子孫繁栄を願うため江の島の御窟(現在の岩屋)に参籠したところ、満願の夜に弁財天が現れました。時政の願いを叶えることを約束した弁財天は、大蛇となり海に消え、あとには三枚の鱗が残され、時政はこれを家紋にしたと伝えられています とネットから。狛犬(右)。1mを超える堂々たる大きな狛犬がいた。右手の阿像、鬣、尾の流れも美しい。狛犬(左)。吽像の鬣をくわえた姿。そして正面に「随神門」。インスタレーション「光の絵巻」 が始まっていたが、暗くなった帰路にと。「瑞心門瑞心門は龍宮城を模した神門です。参拝者が瑞々しい心でお参りができるようにとの思いで名付けられました。門の両側には日本画家・片岡華陽画伯による唐獅子図が飾られています。門をくぐった正面にある弁財天童子石像は2002年に江島神社御鎮座1450年を記念して建てられたものです。瑞心門より先へ続く石段は江島神社の辺津宮へとつながっています。」左手に、「江の島エスカー」の乗車駅が。昭和34年に国内初の屋外エスカレーターとして、高低差46メートルを4連で結ぶ全長106メートル の「江の島エスカー」 が稼働。もちろん私は階段を徒歩にて。右手奥には「裏参道」に架かる朱の欄干の「御幸橋(みゆきばし)」の姿が。「江島神社全景絵地図御祭神は、三人姉妹の女神様」社伝によると、欽明天皇十三年(五五二年)に、「欽明天皇の御宇、神宜により詔して宮を島南の竜穴に建てられ一歳二度の祭祀この時に始まる」とあります。これは、欽明天皇の勅命で、島の洞窟(岩屋)に神様を祀ったのが、江島神社の始まりであることが記されてます。欽明天皇は、聖徳太子よりも少し前の時代の天皇で、この頃、日本では仏教が公伝され、日本固有の神道と外来の仏教が共に大事にされていました。」「江島神社全景絵地図」をズームして。歩いて来た参道を振り返る。再び「瑞心門」のインスタレーション(展示空間)「光の絵巻」を。唐獅子(右)もライトアップされて。門の両脇には唐獅子画が飾られていた。これも片岡華陽が描いた絵。唐獅子はご祭神の守護と参拝者に厄災がふりかからぬよう祈願の意味が込められているのだと。唐獅子(左)。童子を伴い右手に宝剣、左手に宝珠を持った弁財天の石像が階段上の正面に。 江島神社ご鎮座1450年を記念して奉献。近づいて。「弁財天 童子像建立之記平安時代中期に撰述せられた「江島縁起」は、天地開闢のことより説き起し、東海道相模国江ノ島が 天下の霊地たるを記述せられている。縁起に曰く、「欽明天皇13年卯月12日、戌刻より23日辰刻に至るまで、江野南海湖水湊口に雲霞暗く 蔽いて、天地震動すること十日に余れり。諸々の天衆龍神水火雷電山神類夜叉羅刹、雲上より 磐石をくだし海底より塊砂をふき出す。その後、竭雲収まり軽霞まきしりぞいて、海上に忽ちに 一つの嶋を成せり。即ち江野にまぞらえへて、これを江野嶋という。天女、雲上に顕れ、 白龍、十五童子を従へ、この嶋上に降居したまへり」とあり、弁財天が江ノ島に祀られることと なりしを伺い知ることが出来る。折りしも当神社御鎮座1450年を向へ、記念事業としてこの縁起に基づき、弁財天顕現の一場面を、篤志者の御浄財を以て石像にて奉製いたし、弁財天の無量無辺不可思議の功徳を後の世永く称え奉るべく、祈念建立いたすものなり。 江島神社宮司 相原圀彦」「江島神社 三宮の御案内 辺津宮・中津宮・奥津宮の三宮を総称して江島神社と称す●辺津宮(下之宮)御祭神……田寸津比売命(たぎつひめのみこと) 土御門天皇 建永元年(一二〇六年)源実朝が創建。 弁天堂には日本三文弁財天の妙音・八臂弁財天御尊像を始め、十五童子像・御宇多天皇の勅額・ 弘法大師の護摩修法による弁財天像他が奉安されている。宋国伝来の古碑・福石・白龍銭洗池・ 御神木の結びの樹等があり、八坂神社・秋葉稲荷社が境内社として鎮座する。●中津宮(上之宮)御祭神……市寸島比売命(いちきしまひめのみこと) 文徳天皇仁寿三年(八五三年)慈覚大師が創建。 現在の社殿は元禄二年(一六八九年)の 御造営で平成八年の御改修により格天井には花鳥画が施され彫刻等が復元された。 境内には歌舞伎界より奉納された石灯籠等がある●奥津宮(御旅所・本宮)御祭神……多紀理比売命(たぎりひめのみこと) 天保十三年(一八四二年)再建。源頼朝奉納石鳥居・酒井抱一画の八方睨みの亀・八十貫の 力石・鎌倉四名石の一つ亀甲石・御神木・山田流筝曲開祖 山田検校像等がある。●龍宮(たつのみや)・・・・龍神をまつる(例祭九月九日)●岩屋 波の侵食で出来たもので第一・第ニ霊窟からなり約一五〇メートル深奥が当神社発祥の 地である。欽明天皇十三年(五五ニ年)にこの地に鎮座された。春季大祭 初巳例大祭 四月初の巳の日秋季太祭 古式初亥祭 十月初の亥の日 一歳両度の祭祀として欽明天皇の御代より連綿と継承されている」弁財天の梵字が刻まれた石碑は瑞心門の横にあった。石碑の前から随神門を見上げて。「辺津宮」への石段に向かって進む。暗くなり石段横の燈籠も輝きを増して来た。近づいて。杉山検校和一(すぎやまけんぎょうわいち)の建てた江ノ島弁財天の道標とその後ろに『福石』と刻まれた比較的小さい石碑が。杉山検校は、江ノ島の弁財天で21日間の断食をし、祈願したところ、その満願の日、帰り道にこの石につまずいたと。その時、体を刺すものがあったので確かめてみると、松葉の入った竹の管だったいう。この出来事が、管鍼(かんしん)の技術を考案するきっかけとなったといわれていると。これが『福石』 ? つまずくには大きすぎる石であるが・・・・・・。さらに石段を上って行った。右手には「夏限定 切り絵 御朱印」案内板が青くライトアップされていた。燈籠をズームして。江の島の伝説「天女と五頭龍」、湘南の風景、江島神社の家紋(ミツウロコ)、湘南家紋など、江の島にちなんだ様々なデザインの灯籠は、江島神社(辺津宮、中津宮、奥津宮)、江の島サムエル・コッキング苑の他、江の島東町、弁財天仲見世通り、亀ヶ岡広場、 御岩屋通り、江の島岩屋など広範囲に設置されていたのであった。こちらには、江島神社の御札、御守が。正面に「手水舎」。龍の口から水が。「辺津宮」への最後の石段を上って行った。社殿前には白い貝殻で出来た風鈴の数々が来場者を迎えてくれた。貝は土産物などに使われる「カピス貝」という種類で、風が吹くとシャラシャラと涼やかな音を響かせる。周囲は夜になると青いライトで照らされ、拝殿のたたずまいと相まって幻想的な雰囲気になったのであった。右手には「絵図」。(ピンボケだったので以前の写真を)。辺津宮境内のインスタレーション(展示空間)「光の絵巻」波の姿であろうか。左手にあったのが「江島神社奉安殿」。「江島神社奉安殿」の前方にあったのが「銭洗白龍王」。「龍神と弁財天水辺に鎮まる龍神は古来より気象を司る国土安泰の神とされました。江ノ島では弁財天の夫神として財宝福徳の神としても信仰を集めています。」「銭洗白龍王」に近づいて。八角形の「江島神社奉安殿」。源頼朝が奥州の藤原秀衡調伏祈願のために文覚上人に命じてこの弁財天を勧請したとのこと。「奉安殿江の島弁財天への参詣の歴史は古く、広島 の宮島、滋賀県の竹生島と並び「日本三 大弁財天」として篤く信仰されて来ました。 弁財天は当初、武人守護の神として信仰を 集めていましたが、時代が進み泰平の世に なることで、次第に“芸能・音楽・知恵 ・ 福徳の神”として信仰されるようになりました。奉安殿では勝運祈願の神として信仰される八臂弁財天(国重要文化財)や音楽芸能の上達を願う人々の信仰を集めている妙音弁財天(市重要文化財)の御尊像をお祀りするほか、多くの宝物を収蔵しています。」奈良の法隆寺の夢殿をモデルとして建てられた。国指定重要文化財の八臂弁財天像、市指定重要文化財の妙音弁財天像のほか、十五童子像などが安置されているのだ(有料)。重文指定「八臂(はっぴ)弁財天像」。ネットから。同じく日本三大弁財天のひとつとして有名な妙音弁財天(みょうおんべんざいてん)。 「裸弁財天」ともいわれ、琵琶を抱えた全裸体の意外に小さい座像。女性の象徴をすべて備えられた大変珍しい真っ白な姿で、鎌倉時代中期以降の傑作。 ネットから。その先にあったのが「八坂神社(江ノ島天王社)」。御祭神は建速須佐之男命(たけはやすさのおのみこと)。稲荷社・秋葉社。八坂神社の隣にある小さな社。江島神社の末社だと。豊受気毘賣命(とようけひめのみこと)と火之迦具土神(ほのかぐつちのかみ)が祀られている。江の島随所にあった小祀(秋葉稲荷・与三郎稲荷・漁護稲荷など)を合祀した社とのこと。源実朝ゆかりの「宋の古碑」。1204年(元久元年)に源実朝の命を受けて宋に渡った良真が、宋の慶仁禅師より伝えられたという石碑。「大日本国江島霊迹建寺之記」と彫られているとのことだが読み取れなかった。安岡 正篤(やすおか まさひろ)の感載碑。「明神降鑒衆生福智」安岡正篤撰竝書と刻まれていた。昭和の名宰相とされる佐藤栄作首相から、中曽根康弘首相に至るまで、昭和歴代首相の指南役を務め、さらには三菱グループ、東京電力、住友グループ、近鉄グループ等々、昭和を代表する多くの財界人に師と仰がれた人物とのこと。「江島神社、御鎮座千四百年祭」の石碑。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.08.26
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片瀬漁港・「白灯台」の近くには多くのカメラマン・釣人の姿が。手前の赤灯台の左、その先に、茅ヶ崎沖の烏帽子岩の姿が見えたのであった。雲の色の変化を楽しむ。オレンジ色に輝いて。片瀬漁港の手前・東プロムナード、奥・西プロムナードを見る。西の空一面がオレンジ色に染まる。雲の間から太陽が姿を現した。海面に描かれる夕日による赤い帯は、まるで空の炎が水面に映り込んだかのような美しい光景。太陽が沈むにつれて、その光は濃密な赤からオレンジ、そして金色へと変わり、海の上に広がる色の帯が、波に揺られながら優雅に踊るのであった。その赤い帯は、水平線に向かって次第に薄れていき、最後には海と空が一体となるように溶け込み日が沈んだ後も、しばらくの間その名残を海面に留めたのであった。この一瞬の美しさは、まるで大自然が描いた壮大な絵画のようであったのだ。海面上の一筋の光の帯をカメラで追う。太陽の姿が雲に隠れて。こんな写真を撮りたかったのだが(ネットから)。片瀬漁港の西プロムナード先端にある「白燈台」をズームして。そしてこちらは、「湘南港灯台」。この白い灯台は1964年の東京オリンピックに建造されたもの。塗色および構造:白色・円形鉄造、等級および燈質:無等・明暗緑光・明2秒暗2秒・電灯、光度:870 カンデラ、光達距離:12.5 海里、明弧:全度、高さ:地上から構造物の頂部まで18 m・平均水面上から燈火まで19 m、記事:看守員を常置しない と。2016年(平成28年):湘南港の主要施設の1つとして土木学会選奨土木遺産に選ばれる。洋食レストラン「アイランドグリル」の屋根の上に「江の島シーキャンドル」の姿が。左の相輪(そうりん)のある寺のような建物は「中華飯店 吉祥楼」。そして、江島神社参道~えのすぱ別館通路~シーサイドデッキに至るまでの小路を訪ねた。カラフルな中国提灯の幻想的な光で彩られていたのであった。中華飯店 吉祥楼の営業日は中国風の門構えも光に包まれ、江の島を訪れる観光客を迎えるのであった。中国提灯、ハートのオブジェともに自由に出入りできる箇所にあるので、どなたでも撮影を楽しめるのであった。以前に訪ねたベトナム・ホイアンの美しいランタン祭り👈️リンク を想い出したのであった。そして青銅の鳥居の前に。江の島弁財天信仰の象徴であるこの青銅の鳥居は延亨4年(1747)に創建された。現在のものは文政4年(1821)に再建されたもので、約200年の間、潮風をうけながらその姿をとどめている。市指定重要文化財である。江の島道においては三の鳥居で、一の鳥居は遊行寺前に、二の鳥居は洲鼻通りにあったが、現存するのはこの三の鳥居のみとのこと。両柱には再建に協力した寄進者の名前が記され、信仰の厚さを物語っている。鳥居をくぐると江島神社へと続く参道は江の島弁財天仲見世通りとも呼ばれ、土産物屋がずらりと並んでるのであった。「青銅の鳥居江の島弁財天参拝の玄関口となる鳥居です。古くは木製の島居でしたが、1821年に青銅製で再建されました。鳥居の柱には再建に尽力した大勢の人々の名前が刻まれており信存の篤さを物語っています。正面の額には「江島大明神」と書かれていますが、特徴的な筆跡は弁財天のお使いである蛇をかたどっています。鎌倉時代、我が国にモンゴル軍が襲来した戦い(文永の役)で敵側が退散した事への神恩感謝として、第91の後宇多天皇が奉納したとされる勅額(天皇から賜った額)を写したものです。1997年に藤沢市の指定文化財に登録されました。」青銅鳥居の扁額。『青銅の鳥居』の足元に建てられた案内板によると、元は「木製の鳥居」だったとのこと。「江嶋大明神」と書かれた鳥居の扁額(後宇多天皇による直筆の複製)にある特徴的な筆跡は「弁財天のお使いである蛇をかたどったもの」とも書かれています。とても不思議な力を感じる筆跡で、『江島神社』の御朱印にも使われているとのこと。そして、扁額の額には昇り龍の姿が刻まれていた。なお、この勅額・扁額は蒙古軍退散の祈願に対する恩賞として、第91代後宇多天皇から授かったもので、こちらは写しであり、本物は【奉安殿】内で保管され【奉安殿】を訪問すれば鑑賞出来るとのこと。以前に頂いた『江島神社』の御朱印にも「蛇をかたどった文字」が中央に。青銅鳥居の柱の下部。鳥居の脚に成された「波形の装飾」。鳥居の柱の下に据える沓巻(沓石はない)。沓石とは礎石の上、柱や縁の束柱 (つかばしら) の下に据える石。 根石 (ねいし) 、礎盤 (そばん) のこと と。再建に協力した寄進者の名前、扇屋宗右衛門、大黒屋勘四郎、松葉屋半蔵、等の文字が。銅鳥居をくぐり江島神社へと続く参道を進む。「江の島灯籠2024」配置案内図。美味しそうな海鮮丼が並ぶ。江島屋 竹燈籠「創作ちりめん 布遊舎」。布遊舎は、日本伝統の優しく美しいちりめん生地を使用した四季折々の飾り物をはじめ、和小物・風呂敷・手拭い・はんかち・のれんなど布ものを中心とした和雑貨を扱う店舗。「江ノ島郵便局」。文字は「江の島」👈️リンク 郵便局ではない。「江ノ島郵便局 明治時代の郵便差出箱(ポスト)」。「江ノ島郵便局明治時代の郵便差出箱(ポスト)明治四年三月に郵便事業が創業し、明治五年、東京府下に郵便取扱所を開設するにあたり書状箱を設置したのが始まりです。この郵便差出箱は、明治ニ十年頃に使用していたものを復元したものです。皆さまから愛された、ご利用していただくことにより、「あなたの街の郵便局」のポストとして、江ノ島のふるさとづくりに役立ちたいと思います。」途中、右に曲がり海辺の砂浜・富士見浜に向かう。石段の上から。ここからも富士山の姿は雲の向こうに。こんな光景を期待していたが(ネットから)。江島神社へと続く参道に戻ると右側にあったのが「岩本楼」入口。「旧岩本院 岩本楼」と。岩本楼本館は、江島神社・奥津宮の別当寺「岩本院」に由緒を持つ宿。鎌倉時代より時の将軍・勅使・大名などの宿坊として栄え、今日まで小説や芝居、講談の舞台にも数多く取り上げられて来た。歌舞伎『白波五人男』の弁天小僧はここ「岩本院」の稚児がモデルとのこと。現在も「湘南・江の島の海と富士山の絶景を望む宿」として、人気の宿。昭和初期に誕生した「岩本楼ローマ風呂」と「弁天洞窟風呂」は、当館自慢の神秘の湯。きらめく波光の彼方には霊峰・富士がそびえ、旅の夕餉を彩る。そして「江島神社」と刻まれた石柱。江島神社」は、日本三大弁天のひとつ。滋賀県 竹生島の宝厳寺・竹生島神社、広島県厳島の大願寺・厳島神社、そして江島神社。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.08.25
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この日は、2024年8月2日(金)、2024.7.20(土)~2024.08.31(土)に開催されている「1,000基の灯籠で、江の島の名所一帯をライトアップする」の『江の島灯籠 2024』を見に行って来ました。『江の島灯籠 2024』は2023年11月に「関東三大夜灯」に認定された。関東最大級の夜灯りの世界、芸能、芸術の神様が見守る江の島でしか味わうことのできない美しく厳かな光祭りを演出していたのであった。そして入口の瑞心門では江の島誕生の伝承「江島縁起」を軸にした物語を光と音で演出していたのであった。17時過ぎに自宅を出て、小田急線で片瀬江ノ島駅に到着。構内にある江ノ島水族館のクラゲ水槽が迎えてくれた。水槽は駅舎正面中央に置かれ、開口部が直径二メートルの円形で、二・六五トンの海水が入っており、ゆっくり回転するように流れていた。十匹以上のミズクラゲがゆらゆら浮遊する様子は、同館で人気を集めている展示水槽そのまま。 ミズクラゲは水族館などでもよく見かける認知度の高いクラゲであり、青と白のコントラストで来場者を魅了する。飼育はなかなか難しいといわれるが、ペットとしても人気がある。しかし、自然界では大量に発生してしまっていたり、漁では網が揚げられないほど大量に入ってしまったりと、被害も出ている。ミズクラゲには刺胞があるため、海水浴中などに刺されることもあるため、注意が必要であるとのこと。体色は透明~白っぽく、半透明の色をした寒天質の傘を持つ。傘は扁平な皿状をしており大きさは平均で直径10cm~15cmほどである。最大では直径が50cmを超える個体もいる。傘の表面に4つの円のような口腕がある。これらに口腕にはヒダがあり、そのヒダの縁に短い触手が並んでいる。また、傘の縁には光の明暗とのバランスを取るための平衡器も8個ある。体長は15cm~30cmにまで成長する日本で一番認知度が高いクラゲである。鑑賞用として飼育されることも有るが、意外とデリケートなため飼育はなかなか難しいのであると。片瀬江ノ島駅構内にあった『江の島灯籠 2024』のポスター。18 : 00 ~ 20 : 30まで点灯(雨天・荒天中止)土日祝および8 / 12 (月・振休) ~ 16 (金)は18 : 00 ~ 21 : 00会場:江島神社(辺津宮・中津宮・奥津宮) /江の島サムエル・コッキング苑 江の島シーキャンドル/御岩屋道通ら/江の島岩屋他 と。まだ明るい小田急線片瀬江ノ島駅。新駅舎は従来の竜宮城のイメージを引き継ぎ、新たに各所に龍の像や天女の絵などがあしらわれ、日没後は毎日、ライトアップされるのだ。道路面のタイル。正面からズームして。屋根には鯱に替わってイルカの姿が。社寺に用いられる「竜宮造り」の技法を取入れて、江の島の「五頭龍と天女の伝説」に因んだ天女と龍の装飾を施し、品格と遊び心を共存させたデザインとなっているのであった。そして江の島に向かって境川に架かる「弁天橋」を渡りながら江の島を見る。手前の橋は国道134号に架かる「片瀬橋」。江の島をズームして。「弁天橋」を渡る。弁天橋にある「雲の形」の像。「江の島弁天橋」方向を見る。陸地寄りには椰子の木が並んでいて、南国感がある風景になっているのだ。国道134号下の地下道へと。ここから左右に、東浜、西浜への海岸に出る階段が伸びている。江の島案内図。現在位置はここ。作者 歌川広重(うたがわ ひろしげ)初代 寛政9年~安政5年(1797~1858)作品名 相州江之嶋之図制作年 天保年間後期(1842年頃)作者 歌川広重(2代)作品名 諸国名所百景 相州七里ケ浜作者 歌川広重(うたがわ ひろしげ)初代 寛政9年~安政5年(1797~1858)作品名 本朝名所 相州江ノ嶋岩屋之図制作年 天保3年(1832)板元 藤岡屋彦三郎「江の島弁天橋」に向かって進むと、巨大な石灯籠が現れた。江島神社御鎮座記念「龍燈籠」(右)江島神社御鎮座記念「龍燈籠」(左)龍をズームして。「龍燈建立之記「江島縁起」によれば欣明天皇十三年(五五二)四月に海底より塊砂を噴き出し天地が鳴動すること二十一日、忽ちに海上に一つの島が成せりとあり、これが島の起りとされる。この島上に天女が降居し湖水の五頭龍は天女の麗質を見て善行を施すに至り、 以降天女は江島明神として祀られることとなった。 役行者を始め弘法、慈覚等高僧が岩窟にて参籠修行をいたし、各々が神感を受け御神威を仰いだとされる。 鎌倉時代には源頼朝を始め鎌倉将軍家、北条氏歴代、更に秀吉、家康等その時代の名立たる武将の信仰は極めて篤く、 殊に江戸時代には江の島詣が盛んとなり、天下衆人の敬仰を集めるに至った。 又景勝の地江の島は紀行文、人情本、謡曲、長唄、常磐津、歌舞伎等に表現され、 北斎、広重等浮世絵師により秀れた錦絵が数多残され、 島内には社殿をはじめ多くの石碑が往時の信仰の深さを物語っている。然るに豊かな自然環境と歴史的文化遺産を持つ江の島が折しも江島神社御鎮座千四百五十年を迎えるに際し、当地永々の繁栄を祈念いたし、奉祝記念事業として関係各位の御高配と多くの御奉賛者の御浄財を以て、史蹟名勝地に相応しき石燈籠一対を建立いたす所以である。 平成十三年巳歳七月 江の島振興連絡協議会、江島神社」境川越しに夕日を。時間は18:03。片瀬漁港の先の空がオレンジ色に染まって来ていた。片瀬漁港鮮魚直売所(左)も見えた。岩屋洞窟への漁船・べんてん丸案内板。「行きはお楽な船で!歩くと登りで40分以上かかりますが、船なら7分程度で着きます。帰りは江の島を観光しながら、歩きで降りてお帰りいただけます。片道 大人400円 小人200円(5歳以下無料)」往路、帰路の推薦ルート図 と。地震=津波➡️避難すぐ高いところへあがってください と。江の島弁天橋の入口に到着。ピンボケであった為、これは以前訪ねた時の写真であるが。弁天橋入口にある石碑・「名勝及史蹟江ノ島」。葛飾北斎の浮世絵「富嶽三十六景」の「相州江の嶌」も紹介されていた。「この浮世絵の江の島は、神奈川県藤沢市に位置する、江戸時代も人気の観光名所である。神奈川県指定史跡・名勝、日本百景の地である。当時は干潮時に現れた砂州を歩いて江の島へ渡っていた。現在は橋が架かっている。干潮時の限られた時間の中で江の島の弁財天詣でに急ぐ人々の動きが伝わってくる。江ノ島弁天の江島神社上之宮の塔が顔を出している。渡った先には大きな石灯籠が見え、そこが参道の入口である。両岸の茶店や家並みが細かく描かれている。島の周囲の海面は波一つなく穏やかである。江の島は対象的に砂州の両側に寄せる波の点描表現が浮世絵として効果的である。建物の屋根、帆船、富士山の形と様々な三角形があふれている。現在の江ノ島は、1959年藤沢市は米国マイアミビーチ市と姉妹都市提携を結んだ。「東洋のマイアミビーチ」という触れ込みで江の島・片瀬・鵠沼地区の観光開発に力を入れる。この年、江ノ島鎌倉観光は日本初の野外エスカレータ「江の島エスカー」を建設した。1964年の東京オリンピックが観光客数のピークで、以後は減少する。この浮世絵は1830年から1832年頃の作品である。北斎の年齢が72歳頃になる。」と。現在地はここ。江の島まちづくり憲章1、前文江の島は、海と緑の美しい自然環境と豊かな歴史的遺産を持つ藤沢市の代表的なは地区であり、藤沢市民にとって印象深い場所の1つです。私達は、さらに豊かな江の島の魅力をつくりだしてゆくことを願い、すぐれた自然環境と歴史的遺産を生かして、江の島らしい、価値をもった活力と魅力あるまちづくり"島ぐるみ野外博物館"を目指します。また、旧島部も埋立地も1つの江の島としてまちづくりを進めるために、ここに「まちづくり憲章」を定めます。2、本文私達は、江の島に調和した魅力あるまちづくりを進めるために次のことに努めます。( 1 )緑の江の島を形成する自然環境を守り育てます。( 2 )江の島の海をきれいにし守り育てるよう努めます。( 3 )江の島の歴史的文化遺産を守り後世に伝えます。( 4 )海への眺望や、海辺・緑・歴史的文化遺産を生かした行楽地として活力あるまちづくりに 努めます。( 5 )江の島にふさわしいすぐれた街並と、健康でゆたかな生活の場を作り出すよう努めます。( 6 )お互いの友愛と連帯意識を高め、住民自治の精神でまちづくりを進めます。3.附文これらの目標を達成するには、地域住民・市・事業者等が、お互いに協調を図ってそれぞれの役割を果たす必要があります。( 1 )地域住民の役割市民が良い環境をつくり、良い環境が市民を育てます。すぐれた環境をつくるには、市民1人1人の環境に対する自覚と関心が必要です。地域住民相互の協力と合意のもとに豊かな江の島のまちづくりを目指します。( 2 )市等の役割市は、市民・事業者に対する指導・助勢・啓発の他、環境整備事業を推進し、江の島の骨格・顔となるすぐれた景観づくり、及び土地利用誘導・緑地保全維持などに先導的な役割を果たさねばなりません。また、公共建築物等の建設・計画に当たっては、江の島にふさわしい施設づくりに努めるものとします。また、国・県も、その事業や計画の展開に当たっては、広域的かつ基幹的な必要性だけでなく、江の島の自然・歴史の特性を十分配慮して行うよう努めるものとします。( 3 )事業者等の役割事業者は地域社会の一員として、その事業活動を通じて、地域住民との信頼関係を深め、魅力ある江の島のまちづくりを目指して、江の島の環境形成に努めるものとします。 [制定: S.63.4.7 江の島一丁目ニ丁目住民一同]」「江の島は、またの名を「絵の島」ともいわれ、昔から風光明媚と自然環境に恵まれた周囲約5Km、面積0.37km2の島です。島の頂上部にある展望燈台からは、東南に三浦半島、南に伊豆大島、西に富士山・箱根の山々、と湘南海岸を中心に360度の大パノラマを楽しむことが出来ます。また江の島は、地質上、第三紀凝灰質砂岩からなる島で、このため海浸洞窟や岩嘴が多く、奇異な形をなして、古くからその名勝をうたわれています。島の中央には江島神社があり、弁財天が祀られています。安芸(広島県)の宮島、近江(滋賀県)の竹生島にある弁財天とならんで、日本三大弁財天の一つにあげられています。江戸時代には平和の神・福の神・音楽技芸の神として、多くの人々から信仰され、大変にぎわいました。このため、島内には神奈川県および藤沢市指定の多くの文化財が遺され、自然美と併せて、全島が史跡・名勝に指定されています。来島いただきました皆様に、四季を通じた江の島の魅力をご満喫いただきたいと思います。」名所・史跡リスト。「潮音」「円弧型日時計」といい、日時計作家 小原輝子氏の作。長洲一二元神奈川県知事の揮毫になる「潮音」という文字が黒御影石に彫られていた。平成元年4月、藤沢のライオンズクラブが結成15年を記念して建てたものであるとのこと。「円弧型・日時計”時”には形がなく見えません。しかし、私達には確かに時が過ぎていくのが感じられます。人々は大昔、太陽の動きをつかまえて、とりとめもなく流れる時に区切りをつけました。それが日時計と時刻です三角形の石の指針(ノモン)の影を、円弧形の石の時刻目盛で読んでください。影を止めることなく刻々と動いています。それが宇宙における地球の雄大な回転なのです。午前は西側の影、午後は東側の影で真太陽時(ここの太陽による時刻)がわかります。日本標準時と真太陽時はちがいます。標準時が兵庫県明石市・東経一三五度できめてあるからです。いつも真太陽時が進んでいてその差は毎日ちがっています。左の時差表グラフを見て計算すると標準時がわかります。湘南海岸にたつ日時計に明るい風が吹きぬけていきます。太陽と地球と私達、すべてを大切にしたいと思います。」「時差表👈️リンクこの日時計が影で示す時刻は日本標準時より進んでいます。時差表の本日の分秒数を引いてください。日時計の位置は、東経139度29分11秒、北緯35度18分09秒」なかなか理解が難しいのであった。そして「江の島弁天橋」入口。「沿革この橋は、明治24年 満潮時砂浜であるところと島とを結んだ橋として、作られ、江の島棧橋と呼ばれていました。明治30年に至って橋を片瀬州鼻まで延ばし、大正11年に県営となるに及んで渡橋料金2銭也がとられました。しかし橋が長いので一度暴風に遭へば流失するような状態で、昭和24年には更に橋脚を鉄筋コンクリートパイル、上部は木橋として作り直され、その後、江の島弁天橋として親しまれてきました。昭和32年に至って湘南海岸公園施設の一翼を担ひ、この近代的な橋梁に生れ変わったものであります。昭和33年7月 神奈川県」片瀬漁港の「西プロムナード」の方向、夕日が雲の中に沈んで行ったのであった。オレンジ色に染まった雲をズームして。江の島・シーキャンドルを見る。「江の島大橋(えのしまおおはし)」越しに鎌倉、逗子、三浦半島方向を見る。「江の島大橋」は神奈川県藤沢市の江の島と本土とを結ぶ橋で、厳密には西側の歴史的な「江の島弁天橋」(人道橋)と東側の「江の島大橋」(車道、自転車も可)に分かれているが、一般には両橋を含めて江の島大橋、江ノ島大橋と呼ぶ。残念がら、富士山の姿は完全に隠れていた。ズームして。 ・・・つづく・・・
2024.08.24
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「紅谷パールロード」を大磯方向に進む。KICONAバトラーくんの姿が。(株)金子電気空調(株)金子電気空調反対側の絵。ジュエリーツツミ近づいてジュエリーツツミ反対側から龍の姿を。中国伝統工芸 「切り絵」であろうか。ホームウェア 千織・そば処 ともえ冨嶽三十六景 東海道金谷ノ不二 葛飾北斎 (1760-1849)富嶽三十六景 神奈川沖浪裏 葛飾北斎 (1760-1849)ホームウェア 千織・そば処 ともえ反対側の絵画。葛飾北斎「富嶽三十六景 相州仲原」現在の平塚市、相模平野の真中にあったのが仲原です。富士の手前に描かれた山は大山で、神仏習合の霊場であった大山詣は江戸時代に庶民の人気を集めたようです。描かれた人の中には大山詣でに向かう人も見られます。この辺りは、「風景良し、富士見える」と言われました。裾野まで見える優雅な富士と、そこに暮らす人の絆を暗示したような作品です。葛飾北斎『富嶽三十六景 凱風快晴』 通称「赤富士」浮世絵で富士山と言えば、すぐ頭に浮かぶのがこの図で、赤富士と呼ばれ有名です。鱗雲が浮かぶ快晴の空に、山肌が赤く染まった富士。大変シンプルな配色と大胆な構図が印象的です。無駄がなく彫り・摺りにとっても高度な技術を要する作品でもあります。色鮮やかな赤富士は、日本人の心象風景と言える北斎の最高傑作です。(株)谷地工務店(株)谷地工務店反対側平塚飲食店組合有志花鳥風月百人一首の世界が。平塚飲食店組合有志花鳥風月反対側絹衣・串カツ田中・和真絹衣・串カツ田中・和真の反対側湘南ゆるりミッキーマウス湘南ゆるり(反対側)(株)マツモトキヨシ勧進帳矢の根。景清押戻中村屋、播磨屋成駒屋・高麗屋反対側に回って成田屋・沢瀉屋松島屋・音羽屋モスバーガー源氏物語瀬戸内寂聴 作 源氏物語「巻七」横笛 の挿絵。瀬戸内寂聴と源氏物語 寂聴源氏・石踊達哉装画完結記念 表紙挿絵ズームして。そしてJR平塚駅に向かい帰路についたのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・完・・・
2024.08.23
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振り返って市内企業共同飾り左:湘南平塚モータースクール福澤自動車学校平安絵巻再び帰路にも「生活の道具 なべや」大谷翔平「日本歴代トップ 大谷176号ホームラン」現在:8月6日には通算205号ホームラン。大谷 4/21 176号ホームランそして8/22現在 210号ホームラン。「右に左にホームラン打ってもっともっと頑張る」近づいて。大谷翔平 ドジャーズ ボブルヘッド人形ですズームして。左:【入選】横浜ゴム平塚製造所【入選】横浜ゴム平塚製造所を振り返って。近づいて。さらに平塚駅側ゲート「第72回 湘南ひらつか七夕まつり」そして「紅谷パールロード」を進む。「紅谷パールロード」の入口ゲート「ようこそ!湘南ひらつか七夕まつりへ」紅谷パールロード商店街ここ「紅谷パールロード」の七夕飾り展示案内が下段に。メガネのマキノクロード・モネ の作品ズームして睡蓮(上段) ジヴェルニーの日本の橋と睡蓮の池(上)松屋・松のや慶応元年 陣幕久五郎 土俵入の圖大日本史略図会二 野見宿禰清涼殿の南庭に於て當麻の蹶速を蹴殺す 安達吟光画明治18年(1885)松屋・松のや反対側歌川国輝 相撲絵 國見山 玉の戸の取組 江戸両国回向院大相撲之図 桟敷・取組・地取図(下部分) 画:歌川国郷(株)タカラレーベン【準入選】四世岩井半四郎の乳人重の井東洲斎写楽・三代目大谷鬼次の奴江戸兵衛写楽 追善絵二世 市川門之助二代 市川高麗蔵5代目市川團十郎『恋女房染分手綱』の竹村定之進 写楽 二世 市川高麗蔵の篠塚五郎貞綱ハマケイ・ジュアール・ムネカタビル歌川広重「東海道五拾三次 戸塚 元町別道」早朝に日本橋をたった健脚が、戸塚に到着する頃の夕景が描かれています。「こめや」の看板が目立つ茶屋は、米で作った餅菓子で有名な店でした。軒下には伊勢参りをする一団(講)の名前を記した木札が掛けられ、彼らの定宿にもなっていたことが分かります。図の中央に描かれている灯篭脇の石柱には「左りかまくら道」と彫られ、鎌倉方面へ行く分かれ道を示しています。歌川広重「東海道五拾三次 岡崎 矢矧之橋」岡崎は、家康ゆかりの地であり、矢矧川水運の基地として、西三河地方の経済、文化、交通の中心都市として栄えました。矢矧川に架けられた370メートルもある街道一長い橋の上を、大名行列が進みます。画面中央を横切る橋を遠近法で強調し、遠くには、岡崎城をはじめ、多くの人家が連なる賑わった街を巧みに表現しています。歌川広重「東海道五拾三次大尾 京師 三条大橋」「京師(けいし)」とは、京の都、つまり京都のことです。賀茂川に掛かる三条大橋の上に立つと、約500キロの東海道の旅路もいよいよ終わりです。眼下には賀茂川がゆったり静かに流れ、江戸とは趣を異にする大原女や京女が行き交い、京の繁華が描かれています。遠くに東山を眺めると、長かった旅が終わった安堵感が伝わってきます。歌川広重「東海道五拾三次 平塚 縄手道」平塚は海沿いの単調な平原が続きます。縄手道はあぜ道のことです。そこを仕事を終え、ゆっくりと歩く駕籠かきと目的地へ疾走する飛脚。丸みを帯びた低い高麗山に直線的な右の山、そして遠望の富士山。遠近、動静、直曲、高低を組み合わせた力強い構成です。歌川広重「東海道五拾三次 日本橋 朝之景」江戸から京都へ向かう東海道の起点である日本橋。その東海道を描いたシリーズの巻頭を飾るにふさわしく、参勤交代の大名行列が朝早く江戸を出発する様子が描かれています。一方で、魚を天秤棒で担いだ一団が、向こう岸にあった魚河岸から仕入れを終え、行商に出かける様子も描かれており、江戸で一番賑わっている早朝の日本橋の活気が伝わってきます。画面上部の藍色のグラデーションは「一文字ぼかし」と呼ばれています。ぼかす色で、時間、季節そして気候などを表現しわけています。歌川広重「東海道五拾三次 箱根 湖水図」東海道最大の難所といわれた「箱根八里」。岩肌を露出した険しい二子山が間近に迫り、眼下には芦ノ湖が広がり、白い富士山が遠くかすかに望めます。列をなして山間を歩む大名行列、カラフルな色彩でそそり立つ山々の描写は、まるで抽象絵画のようでもあり、名所絵の枠組みを超えた広重の傑作の一図となっています。まもなく一行は、厳重な関所を通らなければなりません。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.08.22
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平塚商工会議所ここにも、新しい一万円札に肖像が描かれた渋沢栄一の竹飾り。左:湘南ひらつか飲食店有志の会 (株)くろがねや恒例の滝平二郎風?切り絵が。ズームして。【準特選】左:トキワヤ【入選】左:平塚八幡宮愛の母子像抱いた子を愛おしそうに見つめる、女性の姿。右:平塚商工会議所女性会左:ジアウトレット湘南平塚左:平塚・カナウス交流推進委員会左:平塚市子ども読書活動ネットワーク運営委員会左:sun sunマルシェ左:(公財)平塚市まちづくり財団そして前方に大磯側の入口の平塚プラザ前交差点が見えて来た。そして引き返す。「ようこそ!第72回湘南平塚七夕まつり」平塚青年会議所ナパサクラブ「ポケモン」近づいて。平塚市民プラザ前の案内板。ナパサクラブFM湘南ナパサ78.3MHz右:(公財)平塚市まちづくり財団サカエヤ仏具店左:(一社)栄寿庵SHIGETAハウス「私の推し飾り」をInstagramへ投稿しよう!左:割烹竹葉店頭のハートバルーン、バルーン人形。右:なでしこ幼稚園にじいろのさかなSozen International School左:病院スタッフ平塚競輪場左:(株)門倉組左:湘南ビューティーカレッジ右:くろがねや近づいて。平塚商工会議所青年部紅谷町まちかど広場横の交差点を渡る。右:片野屋ズームして。左:横浜銀行小林運輸(株)平塚ベルマーレ七夕の会ここにも巨大風船。さらに進む。平塚市都市提携委員会伊豆市、花巻市、高山市左:平塚市工業会連合会 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.08.21
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「座間市ひまわりまつり」を先にアップしましたが、この日は7月7日(日)、平塚駅近くでの、会社の7月度定例会を終了後、「第72回湘南平塚七夕まつり」👈️リンク 会場に立ち寄ったのであった。七夕まつりは、中国の牽牛織女の伝説に基づいて始まり、日本へは星まつりとして伝えられました。はじめ宮廷貴族を中心とする都の生活のうちに受け継がれ、書道の上達や恋愛の成就を祈る風習となりました。江戸幕府はこれを年中行事に取り上げ武家の風習となり、しだいに庶民へも普及するに至り、各地域によって特色のある七夕まつりとして今日に至りました。平塚の七夕まつりは、戦後商業振興策として始められたもので、活発な商業力に裏づけられた日本一といわれる七夕飾りの豪華さに特色があります。中心街には約500本、特にメーン会場である「湘南スターモール」は絢爛豪華な飾りが通りを埋め尽くします。中には、10mを超える大型飾りもあり、活躍中のスポーツ選手や人気の動物、キャラクターなどの流行り取り入れた飾りも大きな特徴です。期間中は七夕飾りのコンクールをはじめ、パレード等各種催物がくりひろげられ日本を代表する夏の風物詩として発展してきています。さらに、セレクションで選ばれた湘南ひらつか織り姫が七夕まつり期間中、パレードや市中訪問など様々な行事でまつりを一層盛り上げています と。開催日は令和6年7月5日(金) から7日(日) までの3日間 でこの日は最終日。七夕まつりの終了時間は、午後8時(最終日は午後7時)とのこと。今年の「第72回 湘南平塚 七夕まつり」ポスター。平塚駅構内にあった「東海道五拾三次之内 平塚 縄手道」。「東海道五拾三次之内 平塚 縄手道 絵師:歌川広重 制作年:天保4年(1833)頃 版元:竹内孫八 鶴屋喜右衛門 判型:大判錦絵 所蔵:斎藤文夫コレクション江戸時代には高麗寺山と呼ばれた高麗山の穏やかな山容、厳(いか)つくそびえる大山、そして白妙(しろたえ)の富士。人々の信仰する山々は、東海道を往来する彼らを見守っているようである。全速力で走る飛脚と、客を平塚宿まで運び大磯宿に帰る戻り駕籠の人足がすれ違おうとしている。田畑に囲まれた縄手道の先にかかる花水橋にも、旅人の往来が見える。どっしりと構えた山々を背景に、緩急のある人の動きが印象的である。」「みどりの窓口」前の七夕飾り。特殊学校の生徒たちの作品。そしてこの日のメイン会場に向かって進む。平塚駅ビルを振り返る。第72回湘南ひらつか七夕まつりのイメージアップを務める織り姫3人。選ばれたのは長原百愛さん(18)田中潤子さん(37)山本藍里さん(24)と。「中心会場 MAP」。メイン展示会場は「湘南スターモール」七夕飾りコンクール市内に掲出された優秀な七夕飾りを選出します。幻想性や豪華さ、涼感などが審査基準。結果は7月6日(土)以時に七夕まつり公式ホームページで発表されていたのであった。七夕飾り「湘南スターモール」展示配置案内図。右側が「湘南スターモール」入口。その先、大磯町方面に続く。湘南平塚七夕まつりの歴史第二次世界大戦中、平塚市には海軍火薬廠があったため、1945年7月の空襲で焼野原となり、終戦後の1950年7月に復興まつりが開催された。その後、平塚商工会議所、および、平塚市商店街連合会が中心となり、仙台市の仙台七夕まつりを模範とした第1回「平塚七夕まつり」が1951年7月に行われた。1952年と1953年には「平塚七夕音頭」が発表された。回数を重ねるごとに規模が拡大していき、1957年の第7回平塚七夕まつりからは、当時の市長である戸川貞雄の方針により平塚市の主催となった。1973年の第23回平塚七夕まつりでは、駅ビル建設問題などの諸問題から平塚市がいったん開催中止を宣言した。しかし、「伝統の火を消すな」と有志が立ち上がり、商工会議所が開催している。1993年の第43回から現在の「湘南ひらつか七夕まつり」との名称となった。平塚駅周辺の都市整備により、2005年より開催期間が5日から4日に縮小された。更に2011年以降は東日本大震災の影響等による安全対策優先のため開催期間が3日間となり、主催が湘南ひらつか七夕まつり実行委員会となっている。なお、七夕まつり実行委員会は平塚市と平塚商工会議所が合同で組織している。2020年4月2日、新型コロナウイルス感染症の拡大を受け、「湘南ひらつか七夕まつり実行委員会(会長は落合克宏平塚市長、実行委員長は福澤正人平塚市観光協会会長)」から、2020年の七夕まつりの中止が決定が発表された。同様の理由で2021年も中止となったが、2022年度は露店の出店の全面禁止や、パレードの規模を大幅に縮小するなどの新型コロナウイルス感染症対策を行った上で規模を縮小して開催。2023年は7月7日~7月9日に引き続き規模を縮小した上で、見附台公園の一部にキッチンカーなどを活用した露店を出店するなどして開催され、今年2024年の開催に至ったと ネットから。「湘南スターモール」入口の「湘南ひらつか七夕まつり」のゲート。右:相模石油株式会社「自らの魅力は毎日の仕事に宿るこうありたい、を追求し続け、ひたむきに今日の誓い。 2024相模石油株式会社発程式」と。「発程式」という言葉を初めて知ったのであった。会社における「発程式」(はっていしき)は、主に新しいプロジェクトや事業の開始に際して行われる儀式。この儀式の目的は、プロジェクトの成功と安全を祈願し、関係者が一丸となってスタートすることを象徴的に表すことである と。そして商店街道路の左右から七夕飾りが道路中央上部に斜めにと、太い孟宗竹に吊るされて。近づいて。右:横浜ゴム(株)平塚製造所「光る君へ」。さらに。【入選】右:市内企業共同飾り左:市内企業共同飾り左:生活の道具なべや。大谷翔平選手のホームランがテーマに。【入選】。左:平塚ロータリークラブ。「星に願いを」。右:スルガ銀行左:市内企業共同飾り右:平塚市都市提携委員会さらに大磯方面に進む。左:平塚信用金庫振り返って。「20年ぶりの新紙幣 発行」、新10,000円札の渋沢栄一の姿も。【入選】左:平塚ベルマーレ七夕の会左:大磯高校生徒会右:神奈川中央交通(株)。左:「日本昔話」(株)片野屋花咲爺さん、浦島太郎、一寸法師が並んでいた。ズームして。【特選】湘南ひらつか七夕まつり実行委員会第72回湘南ひらつか七夕まつりのイメージアップを務める織り姫3人。選ばれたのは長原百愛さん(18)田中潤子さん(37)山本藍里さん(24)。左:七夕飾り空いっぱいプロジェクト「平安華絵巻」【特選】紅谷町まちかど広場の飾り近づいて。 ・・・つづく・・・
2024.08.20
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さらに「座間市ひまわりまつり」の「座間地区」のひまわり畑を愛でにひたすら歩く。「幸福の鐘」か?正面から。近づいて。私もカランカラン〜と鐘の音♪を一人で遠慮気味に。ここにも展望台が。テント広場を見る。10時過ぎには賑わうのであろう。夏の朝の日差しが降り注ぐ中、広大なひまわり畑に足を踏み入れると、その光景に圧倒された。一面に広がる黄色い花々は、まるで黄金の絨毯を敷き詰めたようで、目の前に広がる風景はまさに圧巻。ひまわりの花は、太陽に向かって大きな顔を向け、空を見上げる姿がとても印象的。その鮮やかな黄色が、夏の青空と相まって、まるで自然が描いた絵画の如し。花のひとつひとつが、笑顔を振りまいているかのようで、見ているだけで心が晴れやかになるのであった。ひまわり畑の中を歩いていると、心が自然とリラックスしていくのを感じた。広大な景色に包まれることで、日々の喧騒やストレスが忘れられ、心が穏やかに。自然と一体になっている感覚は、普段の生活では味わえない特別な体験。皆、満面の笑みで。風が吹くと、ひまわりたちが一斉に揺れ、まるで波が押し寄せるかのような美しい動きが。この風のリズムに合わせて、花たちが一体となって踊っているかのような光景に、自然の神秘と力強さを感じたのであった。ひまわりの花言葉である「尊敬」や「あこがれ」を思い浮かべながら、その美しさと力強さに感銘を受けたのであった。花たちが力強く空を向いて咲いている姿は、私たちもまた困難に立ち向かう勇気を持たなければならないことを教えてくれていた。頑張ろう!!今日も!!仮設トイレも完備していた。私も利用させて頂きました。洋式トイレが。まだまだ、仮設トイレに和式便器が多い理由としては、掃除のしやすさや大小便を兼用しやすいこともありうるが、そもそも和式トイレが主流だった時代につくられた製品であることも大きな理由なのであろう。 また、かなり古いタイプの仮設トイレは「ボットン式」なのである。この仮設トイレはフットポンプ式であった。・手を使わないので衛生的!・足でポンプを踏むだけで水が流れた。テント広場の内部を散策。中央にはオブジェが。近づいて。周囲にはひまわりの花が。「座間市特産品認定 本格焼酎 ひまわり」と。これが販売されていたのであろうか?(写真はネットから)。「座間市国際交流協会本協会は、平成3年11月1日に米国スマーナ市と姉妹都市がむすばれたことを機に、平成4年に設立されました。この姉妹都市交流を中心として、私たち市民生活のなかに国際交流の輪が広がり、国際相互の理解が増進され、さらなる国際親善の促進と発展が図られていくものと考えます。地球社会における担い手が、私たち市民である以上、私たち市民が自らの知恵と努力によって、市民レベルの国際交流活動を幅広く推進していくことが必要と考えます」とネットから。全部で20店舗以上の模擬店の数であっただろうか?あゆ・塩焼と書かれた旗も。ここも「ハイブリッドサンフラワー」という品種で花径は20~30cm程度であろうか?・ハイブリッドサンフラワーは景観形成作物として開発された草丈150cm前後のF1ハイブリッド ひまわりです。花径30cmくらいの大輪花で、短棹で耐倒伏性が強い品種です。 また、バイオディーゼル燃料(BDF)としての栽培も増加しています。・リン酸吸収を促進する効果があります。緑肥作物としての活用も可能で、水稲のブロック ローテーションとして利用すると翌年の収量・品質が向上します。・小麦、馬鈴薯、タマネギ、テンサイなどの輪作としても導入されています とネットから。このひまわり畑は、単なる観光地を超えて、心に残る感動的な体験を提供してくれたのだ。自然の美しさとその力強さを実感できるこの場所。このひまわり小径にもアーチ状ゲートが。中心部には小さな花が密集しており、これが成熟すると種子になりるのだ。再び大山を背景にして。 葉は大きく、心形から楕円形で、縁に鋸歯状のわずかな切れ込みが。葉に近づいて。ここのひまわりの舌状花はやや細い別の品種か?近づいて。最後に、ミツバチを発見し、デジカメで追いかけました。花粉まみれのセイヨウミツバチ。最後に「顔出しパネル」を「ひまわり出しパネル」にして。隣の穴からも。そして帰路に。帰宅して、日本人がひまわりの花を好む理由は何であろうか?と。明るい色と元気な印象: ひまわりは鮮やかな黄色の花が特徴で、見ると元気が出るという感覚がある。その明るい色合いは、暑い夏の季節にぴったりで、元気をもらえると感じる人が多いのだ。54年前公開のイタリア映画「ひまわり」は。戦争で引き裂かれた男女の悲しみを描いた名作として映画史に刻まれているのだが、「日本人とひまわり」は戦争とは繋がらないのでは。夏の象徴: ひまわりは日本の夏を代表する花の一つ。夏の風物詩として、ひまわり畑の風景やひまわりの花束は、多くの人にとって楽しい思い出を作る要素。ポジティブな意味: ひまわりは「希望」や「前向きな気持ち」を象徴する花とされており、その意味も日本人にとって魅力的。ひまわりの花言葉には「尊敬」や「未来を見つめる」といったポジティブな意味もある。芸術や文化への影響: ひまわりは日本のアートや文化にも影響を与えている。例えば、歌や詩、アニメなどの中でひまわりが登場し、その美しさや象徴的な意味が広く親しまれている。写真はネットからフィンセント・ファン・ゴッホの『ひまわり』は、7枚の作品が知られています。そのうちの1点は太平洋戦争末期に米軍による空襲で消失しました。 残る6枚のうち1点は日本にあります。1987年に購入。東京新宿のSOMPO美術館(旧館名:東郷青児記念 損保ジャパン日本興亜美術館)に収蔵されているのです。約53億円(当時の為替換算)で落札。私が本物の「ひまわり」の絵画を見たのは、オランダ・アムステルダムにあった「ファン・ゴッホ美術館」の1枚のみ。以下2枚の写真(SOMPO美術館収蔵)はネットから。制作年 : 1888年寸法 : 100.5×76.5cm ・・・もどる・・・ ・・・END・・・
2024.08.19
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「座間地区」の大きな駐車場は相模川の河川敷にあったが、早朝のため会場内の手前の空き地に車を駐めさせて頂き、そこから徒歩で会場に向かう。「四ツ谷地区」と同様に大山を背景に。ひまわりの種類は「四ツ谷地区」と同じのようであった。ここにも、「四ツ谷地区」と同様な造りの展望台が数か所にあった。展望台から大山方向の眺め。右にカメラを移動して。早朝からバイクで来ている若者の姿も。車も増えて来た。ひまわりの最も特徴的な部分は、その明るい黄色の花びら。太陽のような色合いは、見るだけで元気をもらえると感じる人が多いはず。中心のブラウンやオレンジのディスクも、全体のデザインに豊かなコントラストを加えているのであった。ひまわりの花は、その大きな円形の花びらと中央の種を囲むような構造が特徴。このシンメトリーは、自然の美しさを象徴するものとして多くの芸術作品やデザインに取り入れられているのだ。ひまわりは、つぼみの状態から満開になるまでの過程も美しいのだ。つぼみが徐々に開き、花びらが一枚一枚広がっていく様子は、自然の変化の美しさを感じさせるのだ。ひまわりは太陽に向かって花を向ける特性がある(向日性)。そのため、太陽の光を浴びる姿は、明るく、活力に満ちた印象を与えるのでは。まるで太陽を追いかけるように花が動く様子は、自然界の不思議さを感じさせるのだ。一輪のひまわりも美しいのだが、広い畑に咲くひまわりの群生は圧巻。広がる黄色の花が早朝の風に揺れる様子は、壮観で心に残る光景なのであった。ひまわりにはさまざまな品種👈️リンクがあり、それぞれに独自の美しさがある。例えば、ミニチュアサイズのひまわりや、赤やオレンジ、クリーム色の花びらを持つ品種もある。これにより、庭やフラワーアレンジメントに多彩な表情を加えることができるのだ。ここが、開場時間の9:30になると利用可能となる駐車場であるが、入口には未だチェーンが。時間はまだ6:30前と3時間前。テント小屋も未だ完全に閉ざされて。「ようこそいさまの大地へ 55万本」 ここは手書きで日にちが12→13に。「いさま」の地名は「夷参」或いは「伊参」が、古来、「伊佐間=いさま」と読まれ、そのうち「い」が落ちて、「さま」になり、更にこれが「ざま」になったという説が最有力だとのこと。「夷参」も「伊参」も奈良時代からの官道であった東海道の「駅(うまや)」の名前である。これらの名は、『続日本記』『和名抄』『新編相模国風土記稿』に登場する。お隣の海老名には、相模国分寺跡があり、国府も当初この辺りにあったとされる。ここ一帯は大和政権の東国経営の拠点だったのである。ひまわりの小径。これぞ、ポジティブなエネルギーや希望を象徴する花。その明るい外見から、幸せや感謝の気持ちを伝えるために贈られることも多いのであろう。再び大山を背景にズームして。未だ静かな空間であった。「食用ヒマワリの種 一袋200円」と無人販売で。新聞紙で包まれて。「ゆりかご式木製ブランコ」?も置かれていた。「映え写真」用の木製ブランコ。カップルでの撮影用か?。再び展望台から。これ以上の美しさを表現する言葉は持ち合わせていない私。以下、しばし沈黙。白いベンチも。この先にも展望台が。そしてこの周辺は、倒れたひまわりの姿が。『ど根性ひまわり』と名付けたと。『ど根性ひまわり』一、過日の大風で根元から倒れてしまったひまわりニ、それでも倒れたままで大空に向かって見事に花を咲かせてくれたひまわり三、やっぱ、ひまわりは強い四、わたしはこんなひまわりが好きだ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~☆すくすくと育っていたひまわり畑に大風が襲って倒れたままのひまわり。 倒れても咲くひまわり。 荒れてしまったひまわり畑。 しかしこんな光景もちょっと見ていただければ・・・☆いつもきれいに咲かせたい。そんな思いもその時の気象によって左右される令和六年ハ月十日====ひまわりまつり実行委員会====」と熱い想いが感じられたのであった。『ど根性ひまわり』を追う。過日の大風で根元から倒れてしまったひまわりそれでも倒れたままで大空に向かって見事に花を咲かせてくれたひまわりやっぱ、ひまわりは強いわたしはこんなひまわりが好きだいつもきれいに咲かせたい。そんな思いもその時の気象によって左右される と。「ど根性ひまわり」に背中を向けたひまわりたち。背中を向けたひまわりに他意はないのです。別の展望台に上って。「ど根性ひまわり」を展望台から。「注意★10人以上同時に乗らないでください。★手すりにはよりかからないでください。」と。これは、「心理テスト」であると。「結果」👈️リンク はこれです。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.08.18
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さらに、「座間市ひまわりまつり」の「四ツ谷地区」のひまわり畑の散策を続ける。「大山」を背景に黄金の世界を。子供たちの笑顔のごとくにこちらを向くひまわりの花。大山、ひまわり畑に向かって立つ、早朝のアシナガジイサンの姿も。近づいて。ひまわりの花は舌状花(ぜつじょうか) と管状花(かんじょうか・筒状花とも言う)という2種類の花で構成されています。外側の花びらのように見える部分が舌状花(ぜつじょうか) 、中央の芯の部分に密集している小さな筒状の花を管状花(かんじょうか・筒状花とも言う)と言う 。中央の円盤部分が「管状花」で、小さな管状花がたくさん集まってできています。開花する順番は① 一番外側の黄色い舌状花から咲き始め、② 管状花は外側から中心へと順に咲く。開花した管状花はめしべが伸び盛り上がって見えるので、よく見ればわかるのだ。「ひまわり」の花の筒状花部分の拡大写真をネットから。外側から順に、受粉の終わった層、縦縞のストライプの入った柱頭が並ぶ「めしべ」の層、チョコレート色の葯の先端に黄色い花粉をつけた「おしべ」の層、そして最中央部に蕾の層が順番に並んでいます。大きなカメラを持ったオジサンが持参した脚立を借りて撮影する女性の姿を。かき氷屋さんの垂れ幕も置かれ、粋な演出が。さらに様々な場所からひまわり(向日葵)の花を追いかけたのであった。「四ツ谷ひまわりの会」と。再び「展望台」をズームして。ワンちゃんが「ようこそ座間へ」と書かれたアーチゲートの下に。争うように朝の陽光を浴びる向日葵の花たち。再び展望台に上って。「密です!!密です!!」。展望台から後ろ姿を。そして再び大山を背景に。大山の頂上からもこの黄色の絨毯が確認できるのであろうか。「逆さ向日葵」の演出を再び。太陽に向かって元気よく咲く「ひまわり」を見ると、なんだか元気をもらえたのであった。ミツバチの姿を発見。懸命に蜜と花粉を集めて。「ひまわり蜜」があることを知ったのは、フランスを旅した時に。この朝の如くに、日本でも夏になると大きな花を咲かせるヒマワリ。この大きな花に飛び込み、体にたくさんの花粉を付着させミツバチたちが集めたはちみつがヒマワリ蜂蜜。濃く鮮やかな山吹色は、まさにヒマワリのよう。山吹色で少々癖のある?濃厚な味わいでありながらも、食べやすいまろやかさが特徴の人気のあるはちみつなのです。そして「四ツ谷地区」のひまわりのうしろ姿に別れを告げて駐車場に。駐車場に戻り、次の目的地の「座間地区」のひまわり畑に向かったのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.08.17
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この日は一昨日・8月14日(水)、実家の盆参りに夫婦で行って来ました。といっても我が実家は我が家から徒歩にて数分の場所。お盆は地域によっても違いますが、我が実家では8月15日を中心として8月13日~16日の4日間、故人を偲び、ご先祖様や精霊が家族のもとに帰って来て一緒に過ごす日なのです。13日の日に夕方早めに迎え火で故人を招き、16日には夜遅くに送り火で見送りをします。お盆は仏教行事としての正式な呼び名は「盂蘭盆会(うらぼんえ)」と言い、「お盆」は盂蘭盆会から変化して現在では親しみやすくそう呼ばれる様になったようです。我が家の地域では、お盆の迎え火は、家の門の近くの屋敷内に小さな四角の土の盆塚(祭壇)を造り、その周囲にオガラを刺し、盆花を添えて準備をして、この土の盆塚・盆の土盛(祭壇)の近くで、藁とオガラを燃やし、お迎え火としています。私が子供の頃は、この盆塚・盆の土盛(祭壇)を作るのがこの時期の私の仕事でした。畑の土を持って来て、土を箱に詰めるのではなく、板を利用して四角く土を固め、ここに上る坂道階段も造った事を今、懐しく想い出しています。オガラとは麻の茎の皮をむいたもので、オガラの火に向かって煙に乗って先祖がやってくると言われています。8月13日のお盆の始まりの夕方に焚くことで、この世に帰ってくる時が来たよ、帰る場所はここだと知らせているのです。迷わず帰ってこれるようにと目印を出しているのです。併せて、この場所に、キュウリとナスで造った精霊馬(しょうりょううま)を置きます。ご先祖様は東から来ると言われているので、迎え火、送り火の時はキュウリは西向き、ナスは東向きに置くというのが我が実家のやり方です。ご先祖様がいち「早く」家にたどり着いてほしい願いを込めて、キュウリを足の速い馬・駿馬に見立てて作ります。我が家でゆっくりしていただいたあとは、あちらの世界にお戻りいただかなくてはいけません。名残り惜しい気持ちを込めて、「ゆっくり」と帰っていただくために、ナスを牛に見立ててご先祖様をお送りするのです。また、様々なお供え物をあちらの世界に持って行っていただくように、牛に荷物を持たせるという意味合いもあるとの事です。蓮の花の盆花です。蓮の花を供えると、祖先が花びらを舟にして帰ってくるのだと昔、祖母から。そして我が実家のこの日の祭壇です。私が子供の頃には、細い竹を門型に組み、そこに鬼灯(ホオズキ)や稲等を吊るしていました。鬼灯(ホオズキ)はふっくらした形と炎の様なオレンジ色から、お盆に帰ってくる、ご先祖様や精霊が迷わずに帰って来れるように、そして「鬼灯」の文字からもわかるように灯りとしての道しるべになる様に提灯(ちょうちん)に見立てられ、仏壇や盆棚、精霊棚に飾られたのです。我が実家は日蓮宗、南無妙法蓮華経、明治34年と記された掛け軸。以前に撮った掛け軸の写真です。これは明治27年のもの。左下の「勘左衛門」とは曾祖父の名前です。盆棚・精霊棚に近づいて。我が農園で採れた野菜類を、実家に運び、兄がお供えしてくれました。スイカ、カボチャ、そしてキュウリとナスで作った「精霊馬」です。手前には「精霊馬」の食事も。ナスを刻んで、里芋の葉の上に載せています。子供の頃は「水の子」と呼んでいた記憶があります。その隣には、清水の入ったお皿。透明で綺麗な水は「穢れのない浄土」を表すため、仏壇には必須のお供え物なのです。そして我が実家では、樒(しきび)の葉のついた枝を束ねて。参拝者はこの樒(しきび)の葉を水につけて「精霊馬」の食事の上に優しく触れて水をかけるのです。樒は、高さ10mほどの常緑高目で、マツブサ科シキミ属に分類されます。春になると薄い黄色の花を咲かせます。漢字では櫁、梻と表記されることもあります。シキビ、ハナノキ、ハナシバと呼ばれたり、独特の強い香りなので、香の葉(こうのは)、香の木(こうのき)、香の花(こうのはな)、香芝(こうしば)とも呼ばれたりします。香の葉はミソハギの代用品であると聞いた記憶も。ミソハギは別名には「精霊花」「盆花」「盆草」「霊の屋草」など、お盆に関係する名前があります。「精霊棚」、「水の子」に水をかけるために使う花であることから「水掛草」の別名もあるのだと。下記のミソハギの写真をネットから。キュウリとナスで作った「精霊馬(しょうりょううま)」です。「精霊馬」とは、お盆の時期に飾られる、ご先祖様を迎えたり、送るったりするための乗り物のことです。“馬”という名称が用いられていますが、キュウリは馬、ナスは牛をそれぞれ表現。「馬は、ご先祖様の霊が帰ってくるときは早く家に帰ってきてもらうため。牛は、帰るときにはお供え物をもって、ゆっくりと景色を楽しみつつ帰ってほしいため」という願いが込められています。よって馬用のキューリは長くて元気なものを、牛用のナスは土産物をたくさん運べるように太ったものを選ぶと聞いています。そしてご先祖様には、この日は赤飯と煮付けを奉納。今日は、オハギでしょうか?我が実家を守って下さっている仏像様です。手前には日蓮聖人像が。ズームして。我が実家では「念持仏」と呼ばれている仏像。昔からあるとのことですが、この歴史は知りません。「開運!なんでも鑑定団」に!?(笑笑)。◯◯家先祖代々の霊位。我が両親の位牌です。個人情報でしょうが!?毎年、この位牌を見て命日を再確認しています。76歳で亡くなりました。昭和から平成に変わった年、私は39歳でした。まだまだ話をしたかった、聴きたかった!!父の命日は中国で天安門事件(1989年)👈️リンクが起きた日なのです。そして今年は父が亡くなってから35年、母は31年経ったのです。両親に合掌そして感謝!!我が祖父母の位牌。祖父が亡くなったのは私が4歳、祖母は16歳の年齢の年でした。明治時代の先祖の位牌。「弘化」の文字の入った位牌。「弘化」とは1844年から1848年までの期間を指す。176年~180年前の位牌。「仁孝(にんこう)天皇、孝明(こうめい)天皇の代の元号。前元号は天保(てんぽう)。次元号は嘉永(かえい)。1844年(天保15)12月2日改元。江戸城大火などの凶事を断ち切るために行われた(災異改元)。弘化年間の江戸幕府の将軍は徳川家慶(いえよし)(12代)。1846年(弘化3)に仁孝天皇が崩御し、皇子の孝明天皇が即位した。」と。「文化十三年」の文字のある位牌。「文化十三年」は1816年、208年前の位牌。「文化」は享和の後、文政の前。1804年から1818年までの期間を指す。この時代の天皇は光格天皇、仁孝天皇。江戸幕府将軍は徳川家斉。町人文化が顕著に発展した時期であると。そして12時過ぎに我が実家の檀家寺の住職が盆供養に来てくださいました。木魚は持参されて。我が〇〇家は江戸時代・寛永年間の1630年代からスタートした事が解っているのです。亡き父が檀家寺に通い調べ上げたのです。よって現在までの「過去帳」もあるのです。それによると、私は初代から数えて18代目の次男坊なのです。約400年で18代ですので約22年/代という計算になります。久しぶりに兄妹4人が全員夫婦で元気に集まり、ご先祖に感謝しながら思い出話をご先祖の前でビールを飲みながらしばし語りあったのでした。お盆は祖先、故人だけでなく、身近な人とのかかわりを更に深める機会になっているのです。来年も、全員が元気でこの場所にと!!と語りながら実家を後にしたのでした。 ・・・完・・・
2024.08.16
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この日は8月13日(火)、早朝起床し座間市で開かれている「座間市ひまわりまつり」に車で行って来ました。【開催日時】 2024 年8月 10 日 ( 土 ) ~ 13 日 ( 火 ) 9:30 ~ 17:00 入場 無料(畑は終日開放)【催しもの】 ◆ 市内商店による模擬店の出店/展望台・写真撮影スポットの設置/ ひまわり切り花・農産物などの 販売/ アユのつかみ取り(10 日・11 日)9:30 ~ 15:30 /ひまわり写真コンテストこの日は、「座間市ひまわりまつり」の最終日とのこと。首都圏随一の55万本ものひまわりが見渡す限り 咲き誇ているのであった。会場には、フォトジェニックな写真撮影ができる展望台やフォトスポットが設置されていた。座間会場では、黄色一色に広がる見ごたえのあるひまわりが、四ツ谷会場では 数種類のひまわりが咲き大いに楽しめたのであった。花に関するブログは、タイミングがあると思っていますので、ブログアップは早めにと。今年・2024年の「座間市ひまわりまつり」ポスター。開催場所は相模川沿いの「四ツ谷エリア」と「座間エリア」の2箇所。自宅から車で50分弱で、まずは「四ツ谷エリア」に到着。快晴の下で、大山を背景にした一面のひまわり畑は、まるで黄金色の海が広がっているが如し。広大な畑には、無数のひまわりが早朝の青空の下で一斉に咲き誇り、早朝の陽光を浴びて輝いていたのであった。ひまわりの大きな花びらが風にわずかに揺れ、まるで黄色の小波が穏やかに揺れているかのように。少しずつズームして。今年のひまわりの品種は「ハイブリッドサンフラワー」と。倒れにくい品種と。手前に鏡を置き、「逆さひまわり」の写真を撮れる演出も準備されていた。「仮設展望台」も設置されていた。定員:10人と。展望台から黄色の海を見る。大山を背景とした景色が美しい。周辺は農地や相模川なので、建物がほとんど入らないのが良い。まるで北海道のような雰囲気があるのであった。風景写真の撮影だけなら、四ツ谷会場がベストだろう。首都圏でこの風景は貴重。四ツ谷会場のひまわりの植栽数は10万本で、座間会場45万本の4.5分の1のスケールだが、数種類の花が整然と咲きそろった風景は美しい。ちょうど人の背丈と同じくらい。展望台から見下ろしたひまわり畑は圧巻そのもの!!展望台からひまわりの花の後姿を逆光で。行儀よく、よそ見をせずに朝の陽光を正面からひたすら浴びているのであった。ひまわりはいつも太陽の方向を向いていることから「向日葵(ヒマワリ)」と呼ばれるようになった、という話は有名であるが、実はヒマワリが動くのは花を咲かせる前の伸長成長をしているときで、ちょうど花を咲かせる頃に動かなくなるのだ と。ひまわりは、日の出の前に東を向いてスタンバイし、太陽が上り始めるとその光の方向に合わせて東から西へ向きを変えます。そして、夜の間にまた、西から東の方へ向きを変え、日の出を待ちます。この動きをするのは、伸長成長をしている時期で、花を咲かせると、東に向きを固定しほとんど動かなくなるのだと。ひまわりは、花を咲かせる前の成長期に、若い葉が付く茎の先端部分を太陽の方に傾けます。この動きにより、より多くの光を葉に当てることができます。ひまわりを太陽の方向に向けないように固定すると、個体全体の乾燥重量が13%減少し、葉の面積も9.7%減少したという研究結果が得られています。つまり、ひまわりは、たくさんの太陽エネルギーを得て光合成をし大きく育つために、小さい頃から太陽を追いかけているのです。ひまわりの花を西向きにすると、東向きにした場合に比べて訪れる昆虫が減少するのだと。ひまわりの花は、東を向くことによって朝日を浴び、早朝から花の温度を上昇させることができます。花を訪れる昆虫は、気温が低い時には、暖かい花に好んで訪れる習性があることが報告されています。ひまわりを訪れる昆虫も、夜間に下がった体温を上げるために早朝は、暖かい花を好んでいると考えられます。西向きにしたひまわりをヒーターを用いて東向きのひまわりと同様の温度に熱すると、訪れる昆虫の数が増加しました。このため、花が東向きであるのは、朝日でひまわりの花を温め、多くの訪花昆虫を呼ぶということが理由の一つではないかと考えられています とネットから。なるほど!!所々にひまわり畑の中に入る小径もあった。花に近づいて。この場所のひまわりは、舌状花の部分がやや濃い別の種類のひまわりのようであった。花の小径の入口ゲート。先ほど上がった仮設展望台を振り返る。手前と奥では、黄色の色合いが異なる別の種類のようであった。「顔出しパネル」早朝のため、日付はまだ前日のままであった。舌状花の部分がやや濃いひまわりに近づいて。大山、ひまわり、サーフィンボードのコラボ。サーフィンボードの色も負けじと黄色に。迷路にはなっていないようであったが。若い御夫婦がひまわりを背景に愛犬を撮影されていた。許可をいただき、私もシャッターを。いや、犬の人形であったのか???それぞれのひまわりは、高さや向きが少しずつ微妙に異なり、まるで自然が描いた繊細な模様のように見えたのであった。後ろ姿を。花の中心部の茶色い部分が、周囲の鮮やかな黄色と対照的で、まるでアートのような美しさを醸し出しているのであった。畑の中を歩くと、ひまわりの香りがほんのりと漂い、自然の中にいることを実感。早朝の空気が清々しく、心が癒される瞬間であった。太陽がしだいに高く昇り、温かい光がひまわりの花を照らし出す中で、この風景はまるで夢の中にいるかのような、穏やかなひとときを提供してくれるのであった。まだまだ続きます。 ・・・つづく・・・
2024.08.16
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「赤富士ワインセラー」の見学を終えて、バスに向かう。「赤富士ワインセラー」の前にあったのが「ハーブ庭園 旅日記 富士河口湖庭園」。そしてこの日の全てのスケジュールを終了し帰路に。「富士河口湖富士線」の「東恋路」交差点を通過。富士山の姿は・・・・。「富士五湖道路」の「富士吉田料金所」を通過。「富士吉田忍野スマートI.C」を通過。「須走I.C」を通過。「道の駅 すばしり」が左手に見えた場所を通過。右手に「富士ざくらホテル」が見えた。「御殿場バイパス」の「富士見高架橋」を走る。橋の下には御殿場線の線路が。天気が良ければ、この橋の上からは(Googleマップから)。そして「御殿場I.C」から「東名高速道路」へ入る。「乙女峠」方向の山々を見る。「金時山」が姿を現した。右手に現れたのが「御殿場プレミアム・アウトレット」。御殿場プレミアム・アウトレット敷地内の温泉リゾートホテル『HOTEL CLAD(ホテル クラッド)』が確認できた。そして「足柄S.A上り線」・「EXPASA足柄」でトイレ休憩。「EXPASA」という名称は、「外へ」・「超越」という意味を持つ、「EXCEED」・「EXCELSIOR」の「EX」とパーキングエリアの略称「PA」、サービスエリアの略称「SA」を組み合わせて作られた造語であると。土産物屋を散策。「日本はちみつ」。「Doctor Heli」の姿が。東名高速道路上りで唯一のホテル・「レストイン時之栖(ときのすみか)」のあるサービスエリア。主な設備の下りは静岡県駿東郡小山町、この上りは御殿場市にあり、東名高速では、海老名に次ぐ広さを誇るサービスエリア。 ショッピングコーナーやフードコートは24時間営業で終日にぎやか。富士五湖、伊豆や箱根などの特産品が盛りだくさんなほか、地元の生鮮野菜も。施設内に「泊まれる」のも大きな特徴で入浴のみの利用も可能 とのこと。「酒匂川」に架かる「東名酒匂川橋」を渡る。橋脚の高さは建設当時は日本一の65mで、直径は7mもある鉄筋コンクリート製。上部構造は曲線連続鋼トラス橋で、橋長750mの長大橋。上下線が分離されている。竣工は昭和44年。日本一の高橋脚であるために、完成後に橋脚上にロケットを取り付けて振動実験が行われ、地震に対する安全性が確認された と。「皆瀬川」に架かる「東名皆瀬川橋」を渡る。足柄上郡山北町山北の街並みが下に見えた。そして綾瀬スマートICで東名高速道路を降りる。東名高速道路「綾瀬スマートIC」に隣接した「MFLP東名綾瀬」。MFLP:Mitsui Fudousan Logistics Park。三井不動産とIHIが共同開発した「MFLP東名綾瀬」近郊・首都圏への配送はもとより西日本への配送にも対応可能なマルチテナント型物流施設。施設外壁のデザインは、オーストラリアのJackson Teece社による建物デザインを採用した。南東面は綾瀬市の木に選定されている紅葉をモチーフとし、北西面は青空と一体感を醸成することで、綾瀬市を象徴するデザインを目指したとのこと。西側共用部には富士山を一望できる開放的なラウンジ空間を創出した と。そしてほぼ定刻に地元に到着し、この日の全ての行程を完了したのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・END・・・
2024.08.15
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再び五合目ロータリー広場まで戻り、「小御嶽神社」入口の左にあった「富士山みはらし」。「五合園レストハウス」を見上げる。「五号園レストハウス」は1階が土産売り場で2階がレストランになっていた。銅像「富士讃歌」。「ふじの山あたまを雲の 上に出し 四方の山を 見おろして かみなりさまを 下に聞く ふじは日本一の山」と下部の台座にあった銘板には。巨大な草鞋(わらじ)。「お客様へわらじは江戸時代に富士講の行者が履いて富士登山をしました。富士山は信仰のお山です。わらじ 金剛杖 すげ笠富士登山には必要なものでした。」と。金剛杖・登山杖も売られていた。「料金表」かなり高価なのであった。ここにも、ダイヤモンド富士の記念撮影ボードが。「人間讃歌 五十嵐貞一翁」碑。富士山五合目簡易郵便局の向かいに銅像が設置されていた。百五歳を超えて登頂した五十嵐貞一氏を記念する銅像 と。そして「富士山五合目簡易郵便局」。日本一の富士山からお便りを出したいとの富士登山者や富士山遊覧の来訪客のご要望に応えて、標高2305mの富士山五合目に平成3年4月に開局しました。富士山五合目簡易郵便局はスイスアルプスのユングフラウ・ヨッホ山頂局(3453m)と国際山岳郵便局提携していますと。入口には「富士山世界文化遺産」と。富士登山をする父子の姿が。ここにも「ふじの山あたまを雲の 上に出し 四方の山を 見おろして かみなりさまを 下に聞く ふじは日本一の山」と下部の台座にあった銘板には。「富士山北郵便局郵便夫顕彰記念像」。まるで飛脚風の小さな像で、五合園レストハウス前に設置されていた。「富士山五合目簡易郵便局」内部の受付窓口には多くの観光客の姿が。下の写真は、7月7日のニュースで五合目ロータリー広場の混雑ぶりをネットから。そしてバスに戻りながら富士山頂を追う。既にこの残雪もなくなっているのであろう。「五合目パノラマ」と。「五合目パノラマ」(左側)。「五合目パノラマ」(右側)。そしてバスに乗り込み、富士スバルラインを下る。ズームして。「富士山五合目バス停」。「奥庭自然公園 展望随一 入口」と。天気は良ければ(ネットから)。しかし残念がら雲が湧き出して・・・。「富士山大沢休憩所」横を通過。「標高 2020m 富士山 四合目 富士スバルライン 大沢駐車場」。右手に展望台。しかし山の姿は・・・。天気が良ければ。駿河湾の姿も左手に(ネットから)。ヘアピンカーブを通過。そして「富士スバルライン料金所」を通過。そして「富士吉田I.C西」交差点を左折。赤松林の間を通過。前方右に「ほうとう不動 東恋路店」。富士山にかかる雲が、ふわりと降りてきたような白を基調にした建物。この場所は、外国人の人気の場所になっていないのだろうか?そして右手にこの日の最後の目的地の「赤富士ワインセラー」の建物が見えて来た。「赤富士ワインセラー 入館無料 試飲できます」と。駐車場でバスを降り、富士山を追う。雲の間から山頂が束の間に。天気が良ければ「赤富士ワインセラー」の入り口から(Googleマップから)「赤富士ワインセラー」。赤富士ワインセラーは富士山の麓、富士河口湖町の中央にあった。「ワインをもっと多くの方に気軽に楽しんで頂きたい」というコンセプトのもと、山梨県内のワイナリー十数社が集まり「日本一のワイン産地」の美味しいワインを、全国の皆様へ発信していきたいという想いからスタートしたのだと。記念撮影スポットにはリラックスして居眠りしているオジサンの銅像が。ワイン樽を使った入口の装飾オブジェ。「Wine Celler(琉球漆喰)」。「Wine Celler(琉球漆喰)「ワインのゆりかご」であるセラーは、常に一定の温度と湿度を保つことが必要とされてあり、その環境を確立するためにこのセラーには、琉球サンゴと藁を練り合わせた「琉球漆喰」が使用されています。漆喰の壁は常に呼吸をくり返し、室内の空気を保湿、殺菌、浄化しています。古代ギリシや帝国で大発生したコレラの被害も、漆喰で空気が浄化された家に住んでいた者は難を逃れたといわれ、その後、この効果に着目した人々により神殿や教会をはじめ、多くの建築に用いられるようになりました。現在、シックハウス症候群など、環境の悪化により増加しているアトピー性皮膚炎や、ぜんそくの改善に利用しようと、再び脚光を浴びています。」店のパンフレット。「ワイン樽」が並ぶ。「ワイン 豆知識本日は、ご来館いただきまして誠に有難うございます。当施設は、より多くのお客様に山梨のワインを知っていただきたいというコンセプトのもと運営されています。しばし時間を忘れ 山梨のワインをお楽しみください。」クイズが続く。「ワイン 葡萄・甲州 甲州は世界的に注目を受けている日本固有のグリ系品種。山梨県の栽培面積が最も多く、 日本では食用ならびにワイン用として古くから嗜まれる馴染み深いブドウです。香りは控えめで ニュートラルですが、シトラスや丁子(クローヴ)のスパイス香が印象。近年ではただ すっきりと仕上がるのではなく、甲州特有の渋味をコクを与える成分と捉え、ワインに程よく 苦味や渋みが感じられるよう仕上げる生産者も増えてきています。・ソーヴィニヨン・ブラン 鮮烈なアロマとシャープで爽やかな酸に人気が集まっているブドウ品種。フランスのロワール 地方のサンセールやプイィ・フュメ、ボルドー産が有名ですが、近年ではニュージーランドや チリでも大成功を収めています。ステンレスタンクで醸造することでそのフレッシュな香りを 生かしたワインが多く、生き生きとした果実味を存分に味わうことができます。・リースリング ドイツやフランスのアルザスなどに代表されるブドウ品種。冷涼な地域を好み、伸びのある酸と ミネラルが特徴の上品な風味をもつことから「最も高貴なブドウ品種」と形容されることも あります。栽培される地域によって全く異なる風味を生み出し、銘柄によっては長期の 熟成能力も備えることから、白ワインにおけるカベルネ・ソーヴィニヨン的なブドウと評される こともあります。辛口タイプから、貴腐の極甘口まで幅広い表情を見せます。・マスカットベリーA マスカット・ベーリーAは、新潟県岩の原葡萄園の創業者である川上善兵衛氏が、アメリカ ブドウのラブルスカ種ベーリーにヨーロッパブドウのヴィニフェラ種マスカット・ハンブルグを 交配し誕生。食用としてはもちろんのこと、日本で赤ワイン用として一番多く仕込まれている 甲州と並ぶ日本代表品種の一つです。渋味が穏やかなものが多く、樽熟成させる長期熟成向きの ワインも誕生しています。なんといっても日本料理との相性に長け、味わいの評価が年々 高まっている品種です。・メルロー メルローはボルドー原産の赤ワイン用の黒ブドウで、フランスで最大の栽培面積を誇り、 世界中で栽培されています。神の象徴と賞されることもある世界最高峰のワイン「ペトリュス」 をはじめ、1本数十万円もする高級ワインから、1,000円台で手に入るデイリーワインまで 幅広く造られています。カベルネ・ソーヴィニヨンと比べて果粒が大きく皮が薄いためタンニン が比較的少なく、ふくよかで果実味豊かな味わいは世界中で高い人気を博しています。・カベルネソーヴィニヨン カベルネ・ソーヴィニヨンは、若いうちはパワフルなタンニンが特徴で、熟成させることで 他にはない優美で複雑な風味に変化する、赤ワインの代名詞的品種。ボルドーの五大シャトーも 全てカベルネ・ソーヴィニヨン主体で造られています。 晩熟のため温暖な気候で栽培され、 フランスのボルドー、アメリカのナパ・ヴァレー、オーストラリア、チリなど世界中で栽培され、 多くの産地でメルロなどをブレンドすることで強い酸味やタンニンを和らげ見事なバランスの ワインを生み出しています。 」ここにも「ワイン樽」。廻り込んで。社名でもある「赤富士」。近づいて。そして試飲コーナーへ。赤ワインを頂きました。様々なワインが並ぶ。富士の絶景の写真も並ぶ。お土産に1本購入しました。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.08.14
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そして「本殿」横の「摂社」・「日本武尊社」の裏にあった「展望台」へ。晴れた日には正面の山々や山中湖を一望することができます。もちろんいつの季節にも眺めは美しいのですが、夏の朝はここからさらにご来光が拝めます。(※一年中拝める位置なのですが、夏以外は「富士スバルライン」が夜間閉鎖となりますので、「富士スバルライン」の営業時間と日の出時刻との兼ね合いをご確認ください。また、夕日は境内の一角から拝せます)秋には、裾野の樹海を順に染めていく落葉松の黄葉と、手前のナナカマドの赤が雄大な眺めに彩りを添えます。秋の澄んだ空気と相まって、より広がりを感じる景色となります。富士山山頂を見る。「本殿」、「摂社」の屋根を見る。雲海が迫る中、ズームして。さらに。そして雲海が押し寄せて、真っ白な世界に。展望台からの秋の河口湖をネットから。「勝男木くぐり」。境内に2本の勝男木があってくぐるとご利益を頂けるのだと。右側が交通安全、縁結び、左側が家内安全、健康長寿であると。正面に「小御嶽茶屋」。天狗の「顔出しパネル」。そして参道沿いの土産物屋に立ち寄る。様々な赤富士の絵画が販売されていた。色鮮やかな赤富士を立体的に描いた工芸品「半立体の型盛り絵」色鮮やかな赤富士を立体的に描いた工芸品「半立体の型盛り絵」は、静岡県や山梨県などの観光地で土産品として人気だ。ただ一人の職人、百瀬善明さん(93)は、型盛り絵を作り始めて七十年以上。「手に取る人に喜んでほしい」という原動力で、今も試行錯誤を重ねる と。多くの日本酒コーナー。日本酒・「富士山」。富士山の描かれた暖簾。「あたまを雲の 上に出し・・・富士は日本一の山」と。抹茶ソフトクリームを楽しみました。「忠魂碑」他の石碑が並ぶ。「昭和五十年六月十七日竣成 〇〇」と。信仰者の寄進により神明社殿が竣成。再び「手水社」を正面から。棕櫚(しゅろ)の神紋。富士山本宮浅間神社の社紋にも「丸に棕櫚紋」が使われているが・・・。見事な蟇股の龍の彫刻。「本殿」の石鳥居方向を振り返って。別の土産物屋には小さな社が店内に。その下には日本酒「富士山」は並んでいた。富士山の描かれた小皿。外国人観光客の姿も。昨年秋に訪ねた「新倉富士浅間神社」👈️リンク が描かれていた。「富士山」Tシャツ。ポスター「Mt.Fuji 富士山 美しい富士山をいつまでも」。外に出て、雲海の消えた富士山頂を。移動して。「駐馬場」手前にあった案内板「富士山五合目のみどころ」。近づいて。さらに。「河口湖・富士吉田口 登山ルートマップ」をネットから。「駐馬場」。 5合目から馬に乗って、6合目まで行くことが出来まるようであった。6合目まで片道で15,000円と。「山梨県富士山五合目総合管理センター」。富士山の山梨県側の吉田口登山道がこの日の前日、7月1日(月)山開き👈️リンク したのだ。山頂付近の混雑などを防止するため、今シーズンから1日4000人の入山規制と1人2000円の通行料を導入。5合目に通じる有料道路が一時通行止めになるほどの強風が吹く中、入山手続きを行う総合管理センターには午前中から多くの登山客が集まり、仮設ゲートを通過するためのリストバンド交付窓口では一時混雑する様子も見られたのだと。インターネットで通行料支払いなどを事前に済ませる予約枠(3000人)と現地で支払う当日受付枠(1000人)がある。夜通しで山頂を目指す「弾丸登山」を防止するため、ゲートは午後4時から翌日午前3時までは閉鎖されるのだと。「安全登山案内板」。「富士山レンジャー 安全登山案内実施中富士登山の最終チェックをお願いします!下記に当てはまる方は、「臨時富士山登山案内所」で確認し、準備ください。ロ①富士登山は初めてです (五合目総合管理センターの掲示バネルを確認して登山しましよう。)ロ②今日明日の富士山の天気を知らない (五合目総合管理センターで現在の天気がわかります。)ロ③五合目到着後1時間経っていない (高山病のリスクが高まります。最低1時間は休態しましよう。)ロ④これから登る登山道名を知らない (富士山は4つの山道があります。五合目総理センターで現在地とルートを確認しましよう。)ロ⑤飲料水を1 L以上持っていない (体重60kgの人が8時間歩くには1.2L必要です。)ロ⑥小銭を持っていない (富士山のトイレ利用には1回200円~ 300円のチップが必要です。)ロ⑦ゴミ袋を持っていない。 (富士山にはゴミ箱はありません。)ロ⑧富士山を守るルール・マナーをよく知らない (自然公園法という法律で富士山は守られています。)ロ⑨登山計画書を出していない (簡単にスマートフォンで登録出来ます。)ロ⑩富士山が活火山だという事を知らない (万が一に備えて五合目総合管理センターの掲示パネルやパンフレットを確認しましょう)?登山準備は万全ですか?富士山は3776m、日本一の標高です。ここから山頂まで約1400mの標高差、登りに約6時間、下山に約4時間かかります。観光気分では危険です。富士登山に必要な装備・情報をチェック!・体調は万全ですか? (少しでも不安が残るなら登山は中止しましょう。中止する勇気も大切です。)・下山できる体力を残して! (富士山の下山は想像以上に体力、脚力が必要です。登りで100 %の体力を使いきらないで! )・富士登山に必要な装備、情報は十分ですか?多くの外国人が「山梨県富士山五合目総合管理センター」の前にいたが、「安全登山案内板」は日本語のみで。そしてこの日の翌日7月3日(水)のテレビニュースでは「富士山の山梨県側の5合目に観光に来ていたオーストラリアの女性が家族とはぐれてしまい、一夜明けた7月3日午前、精進口登山道の3合目で動けなくなっていたところを救助されました。救助されたのはオーストラリア国籍の女性(38)です。警察によりますと、女性は2日午後3時ごろ、山梨県鳴沢村の富士山5合目に家族と観光にきていたところ、家族とはぐれてしまい、家族が五合目総合管理センターの警察官に届け出ました。通報を受けた警察が捜索しましたが、一夜明けた3日午前、精進口登山道の3合目付近で動けなくなっていた女性が、通りかかった登山者に助けを求め登山者が110通報しました。」と。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.08.13
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「富士スバルライン」の終点は五合目2,305mであると。富士山 全登山ルート図。●吉田ルート:登山者が最も多く、シーズン中は混雑するルート。施設が充実しているので 初心者に最もおすすめ 1合目から登る古来の登山道・吉田口登山道もある。●須走ルート : 吉田ルートに次ぎ、登山者が多いルート。行程が最短で、施設が整備されている.●御殿場ルート : 八合目で吉田ルートに合流するまでは、比較的登山者が少ないが、樹林帯や 砂走など、登山経験を要するルート。●プリンスルート:富士宮五合目から、宝永火口を横切り、御殿場ルート六合目に合流するルート。●富士宮ルート : 吉田ルートに次ぎ、登山者が多いルート。行程が最短で、施設が整備されて いるので、こちらも初心者でも安心のルート。それぞれの下山道はかなりの範囲で登山道とは別のルートであることをこの図で知ったのであった。バスを降り、富士山五合目の散策開始。富士山五合目は、天地の境と呼ばれ、森林限界線に位置しているのだ。天気が良い日には山中湖・富士吉田市・河口湖を望むこともできる絶景スポッット。「富士スバルライン五合目案内図」。巨大な「五合園レストハウス」。天と地の境、富士山五合目。眼前に迫る富士山頂、標高2305m富士スバルラインの終点、そこに原木丸太をふんだんに使ったMt.Fujiスタイルの山小屋建物が。富士山を眼前に見ることのできる展望地並びに富士登山の拠点として知られている。館内ではご当地グルメや富士山にちなんだ創作料理の提供や、富士山グッズをはじめとしたお土産品の販売、富士山に関する資料👈️リンク の展示等を行っている。郵便局も併設しており、ここではがきを出すと限定の風景印を押してもらうことができる と。「富士火山学術資料館」のパンフレット火山である富士山の地質学的解説や、野生動物・野鳥・高山植物等の生態系に関する資料を収集・展示。広場は、多くの富士山登山者、五合目への観光客で賑わっていた。富士山頂下には残雪が曲線状に点々と残っているのであった。残雪の沿った所に、吉田ルート、須走ルートの合流ルートがあるのだろうか。手前のジグザグが吉田・須走ルート。(写真はネットから)。富士山頂部には「八葉」👈️リンクと呼ばれる8つの峰があると。古来、仏教でいう八葉蓮華(はちようれんげ:仏が坐(すわ)る八枚の弁をもつ蓮華座)にたとえられていたことに由来するもので、この八葉はこれまで様々な呼び名で呼ばれており、資料ごとでその名称が異なっています。明治時代の神仏分離令の影響を受け、富士山においても廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)運動が起こり、富士山中の仏教系地名が神道系の名称に変えられました。現在「お鉢巡り」と呼んでいる火口の周りを一周することも、この八葉の峰をめぐる「お八めぐり」が転化したものと考えられます と。私の撮影した山頂の写真では、大日岳(3,750m)と久須志岳(3,725m)が見えていたのであろうか?現地案内員のガイダンスを聴く。再び富士山頂を見上げて。交通整理員の指示に従い、横断歩道を渡る。五合目広場正面にあるいかにも山小屋や、ヒュッテ、という感じの建物。建物の中は一階に土産物、郵便局、スナックなどを扱っていて、混雑していた。 富士山土産、というのであれば、こちらをはじめとする五合目の各店がおすすめ。食事や飲み物は平地に比べるとやや高めであったが・・・こても「インバウンド」の影響。インバウンド(Inbound)とは、外国人が訪れてくる旅行のこと。日本へのインバウンドを訪日外国人旅行または訪日旅行という。これに対し、自国から外国へ出かける旅行をアウトバウンド(Outbound)または海外旅行という。多くの登山者の姿。記念撮影スポット。この場所で、参加者全員で記念撮影。そして「冨士山小御嶽神社」に向かって進む。富士山と冨士山の違いは何故あるのか?富士山はご存知のとおり、北半分は山梨で南半分は静岡。なので太陽のある静岡側が「富」、太陽のない山梨側が「冨」という話を聞いたことあるようなないような...。昔は偶数が縁起が悪く、奇数が良いとされていたので、神社の石碑などは一つ減らして奇数の11画にした、とネットから。「冨士山小御嶽神社」の朱の一の鳥居が正面に。扁額「冨士山大社」と。「冨士山小御嶽神社」と。ここにも、この日の記念撮影用の掲示板が。こちらは「富士山」。「冨士山小御嶽神社」の参道を進む。「冨士山小御嶽神社境内案内図」。【御祭神】 本社【長寿・安産・縁結び】 磐長姫命(いわながひめのみこと) 桜大刀自命(さくらおおとじのみこと・木花開耶姫命) 苔虫命(こけむしのみこと) 摂社【金運上昇・武運長久】 日本武尊(やまとたけるのみこと) 大国主命(おおくにのぬしのみこと) 事代主命(ことしろぬしのみこと) 末社【開運厄除・交通安全】 大天狗 (小御嶽太郎坊正真・こみたけろうぼうしょうしん) 小天狗【御山緒】小御岳は富士山より先に出現した山であります。小御岳と古富士という二つの山が土台となり、その間から噴火を繰り返し、形作られたのが現在の富士山の姿です。富士山小御嶽神社は承平七年(九三七)、地勢的にも有名な山岳信仰の霊地、小御岳の山頂(富士山五合目)に鎮座、創建されました。以降、幾度かの造営を繰り返し、現在の社殿は、昭和五十年、信仰者の寄進により竣成され、今に至っております。昔から当社は御中道巡りや山頂へと至る行程の拠点、さらには冨士の中宮とも称され、江戸八百八講と言われた富士講をはじめ、多くの信者に崇敬、参拝されてきました。今日では、関東地方はもちろん、全国より数百万人もの崇敬者及び参拝者で尊崇されております。【特殊神事】毎年七月一日の開山祭👈️リンクには、大天狗、小天狗が先立ち、鳥居に張られた注連縄切りを行い、女性が背負う富士型神興と明神型神興の渡御をし、登山者の安全と富士山の平穏を祈願しております。また、八月十七日の例大祭👈️リンクは本殿において壮麗な太々神楽の奉納があり、多くの参拝者で賑わいを見せております。」「境内案内図」に近づいて。「二の鳥居」。この扁額も「冨士山大社」と。さらに参道を進む。社号標石「冨士山大社 冨士山小御嶽神社」と。石鳥居(右)。石鳥居(左)。そして「冨士山小御嶽神社」の本殿。富士山五合目にある神社。937(承平7)年に、山岳信仰の聖地である小御岳山の山頂(富士山五合目)に鎮座、創建されました。小御岳は富士山より古い山で、小御岳と古富士が土台となって噴火を繰り返し、いまの富士山の姿に。毎年7月1日には開山祭が行われます。五合目周辺は「天狗の庭」と呼ばれ、天狗が支配していたという言い伝えがあり、小御嶽太郎坊正真という天狗様が道開きの神様として神社に祀られています。神社には天狗様にちなんだ宝物が多く、中庭の大斧はなんと重さ百貫(375kg)もあります と。一時的に陽射しが。斜めから。振り返ると、こちらが昔からの参道であっただろうか?「手水社」。「富士山五合目小御嶽」と。狛犬(右)。狛犬(左)。「三の鳥居」。「三の鳥居」の扁額も「冨士山大社」と。「末社」(右)。「末社」(左)。「由緒小御嶽は富士山より先に出現した山で、小御嶽と古富士の二つの山を土台に噴火を繰り返し、形作られたのが現在の富士山です。その小御嶽の山頂で山岳信仰の霊地である富士山五合目に承平7年(937)に鎮座、創建されたのが冨士山小御嶽神社です。祭神として磐長姫命を祀り、富士信仰の中心の大神として崇敬を集めます。後花園天皇康正2年(1465)に社殿を造営。富士山小御嶽石尊大権現、富士山中宮、富士天狗宮とも称され、富士登山者の守護神です。往古より、お中道巡り、富士山頂へ至る行程の拠点として富士行者が参籠して大行となしました。富士山の五合目周辺は「天狗の庭」と呼ばれ、道開きの神として7月1日の富士山開山祭では大天狗、小天狗が先立ち、鳥居に張られた鳥居に張られた注連縄切りを行い、道開をして、御輿の渡御をして登山の安全を祈願します。天狗は神社の御眷属とされ、小御嶽古太郎坊正真と呼ばれております。拝殿の天井には富士講の信者が奉納した額が敷き詰められ、境内の日本武尊社は日本武尊を祀り、寄進された恵比寿像、大黒像も祀られています。御神徳は関東地方並びに全国より多くの崇敬者を有し、富士登拝者の家運隆昌、交通安全、延命長寿、縁結びの守護神として崇敬されています。」内陣を見る。御祭神 ・磐長姫命(いわながひめのみこと) ・桜大刀自命(さくらおおとじのみこと) ・苔虫命(こけむしのみこと)本殿内の社務所。御朱印を頂きました。天狗の面が奉納されていた。天狗は神社の御眷属とされ、小御嶽古太郎坊正真と呼ばれている と。参集殿前の「大斧」。天狗様が祀られている小御嶽神社には、天狗様にまつわるものが多く置かれているが、中庭には天狗が振り回したとされる「大斧」があった。その重さは100貫(375kg)あると言われており力自慢の人達は動かそうと挑んでいる姿があると。天狗と同じぐらい「力」があると自信がある方はぜひ一度挑んでみては と。「参集殿」を見る。こちらが「摂社」・「日本武尊社」。御祭神は日本武尊・大国主命・事代主命。本社に付属し、その祭神と縁の深い神を祭った社(やしろ)。格式は末社より上位。「開運小槌」と「天狗下駄」(右)。「開運小槌」と「天狗下駄」。「摂社」・「日本武尊社」に近づいて。七福神の「大黒天」と「恵比寿天」のお姿が。「大黒天」は財福の神様、「恵比寿天」は農業・漁業・商業の神様。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.08.12
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バスを降り、昼食会場に向かう。河口湖遊覧船「天晴(あっぱれ)」を横から見る。白い旗には「武田菱」の紋が。「武田菱」紋とは、戦国大名「武田信玄」の家紋として有名で『割菱』に似ているが、菱と菱の間隔をより詰めて描くのだ と。天晴が航行する河口湖は、「影うつす 富士の高嶺に うもれて残る 水無き河口の海」と歌われ、逆さ富士の名勝地として知られています。 海抜839mは、箱根の芦ノ湖より110mも高く、周囲20km、湖の深さは最深部で25m、富士五湖の中では山中湖に続いて大きく、南国的な明るさに満ちた湖。 湖水には、コイ、フナ、ワカサギ、ブラックバスなどが生息しており、四季を通じて観光客で賑わいます。湖のなかほどには富士五湖で唯一の島「うの島」がある。気象条件が良いときにだけ見られる「逆さ富士」を楽しめるのだが、この日は???冬の「逆さ富士」をネットから。「河口湖大橋」を再び。この日の昼食会場「みはらし亭」に向かう。河口湖湖畔を走る「御坂みち」を渡る。店員の方が交通整理をして下さった。「歓迎 みはらし亭」。この日昼食、ビールを追加オーダー。ワカサギのフライは美味。そして昼食後は土産物売り場を散策。「サザエさん 富士山を観光してきました」と。国民的アニメ番組「サザエさん」のオープニング映像に富士山周辺の観光スポットが登場したようであった。富士山が描かれたTシャツ。「赤富士」暖簾。「凱風快晴」(がいふうかいせい)は、葛飾北斎の名所浮世絵揃物『富嶽三十六景』全46図中の1図で、「赤富士」(あかふじ)とも呼ばれる。大判錦絵。「神奈川沖浪裏」「山下白雨」と合わせて三大役物と呼ばれる。そして昼食を楽しんだ後はバスに戻る。再び眼前に広がる河口湖を。遊覧船は既に出港していた。料金900円/大人 30分毎に運行 と。そしてこの日の観光バスへ。見上げると「河口湖 富士山パノラマロープウェイ」👈️リンク の「富士見台駅」の姿が。標高856mの河口湖畔駅から1,075mの富士見台駅までロープウェイで上ることわずか3分。目の前には裾野まで見渡せる日本一の富士山と河口湖の大パノラマが広がります。ここ天上山は太宰治の名作「かちかち山」の舞台となった山といわれ、物語にちなんであちらこちらでキュートなタヌキとウサギがお出迎えしてくれます。小さなお子様から大人まで楽しめる絶景のフォトスポットです と。平成30年(2018)に富士急行株式会社(本社:山梨県富士吉田市)は、河口湖畔から富士山を」眺める絶景ビュースポット「河口湖天上山公園 カチカチ山ロープウェイ」の名称を変更し、「~河口湖~ 富士山パノラマロープウェイ」(英語表記:Mt. FUJI PANORAMIC ROPEWAY)としてリニューアルオープンしたのだと。富士急行線「河口湖駅」方向にバスは進む。左手に「河口湖駅」が姿を現した。そしてこれがテレビで噂の「LAWSON 河口湖駅前店」であるとガイドさんから。山梨県富士河口湖町のここローソン河口湖駅前店の道路に張られることになった黒幕。外国人観光客が写真を撮るために道路に飛び出すなど、危険行為やマナー違反をすることが多く、その対策として張られたのだ。5月21日にローソン河口湖駅前店の前の道路を挟んだ反対側の歩道に張られた黒幕は、長さ20メートル、高さ2・5メートル。かなりの圧迫感がある。2022年秋頃、海外のインフルエンサーがこのローソンの店舗越しに見える富士山を撮影してSNSに投稿して拡散したところ、瞬く間にこのローソンが撮影スポットとなり、外国人観光客が多数訪れることになったのだとテレビでしきりに放送していた場所がここと。この写真がこのローソンと富士山の雄姿のコラボ。(ネットから)。様々な写真がネットには。そして左折して「富士河口湖富士線」へ。天気が良ければ、この場所からこの絶景が・・・と、Googleマップのストリートビューから。「富士スバルライン」に向かって進む。山梨県道707号線・富士河口湖富士線を進む。「富士吉田I.C西」交差点を進む。そして「富士スバルライン料金所」を通過。富士山有料道路は、山梨県南都留郡富士河口湖町から富士山吉田口五合目付近に至る有料道路。開通時に富士スバルラインという愛称名が付けられた。 原動機付自転車・自転車も通行可能。「富士スバルライン」のルート図。白樺の山を進む。「富士スバルライン」は、中央道河口湖IC近くから、富士山五合目まで繋がる約30km、標高差1200mの山岳有料道路。スバルラインができたことで、富士登山は麓から歩いて登る伝統的な登拝から、自動車やバスで五合目まで登る観光登山へと転換している。開通は1964年と50年以上も前で、1964年の東京オリンピック開催に合わせて完成した。もともとの有料道路の起点は国道139号との交差点で、この交差点名は今でも「スバルライン入口」となっている。ここに料金所があった時代、混雑時には渋滞が高速出口まで伸びることもあった。料金は往復で普通車:2100円、バス特大車(30人以上):8040円 と高価。富士山吉田口五合目に繋ががるこの「富士スバルライン」では、富士山の自然保護と交通渋滞抑制のため、毎年登山客や観光客の増える夏シーズンにマイカー規制を実施。マイカー規制中は、原則一般車両の通行は禁止となるのだ。今年は、2024年7月5日(金)18時~2024年9月10日(火)18時まで と。マイカー規制の対象とならない車両バス(乗車定員11人以上のマイクロバスを含む)、ハイヤー、タクシー、軽車両(原動機付きのものは規制の対象)、電気自動車(EV)、燃料電池自動車(FCV)、指定車、許可車、身体障害者等乗車車両(身障者手帳、療育手帳または精神障害者保健福祉手帳が必要)。※ハイブリッド車は規制の対象となります。EV、FCVにつきましては富士北麓駐車場で確認証の交付が必要だ と。下からは全く富士山の姿が見えなかったの、この日は富士山の雄姿を楽しむのは無理と諦めていたが、富士山5合目・標高2400mに近づくに連れ、雲海が下に広がり見上げると、富士山の山頂が突然、姿を現したのであった。「残雪」が僅かに残った富士山山頂南斜面を車窓から見上げる。人の姿はもちろん確認できなかったが・・・。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.08.11
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この日は7月2日(火)、私の住む地域の老人会のバス旅行に補助員として参加。目的地は、河口湖周辺と富士スバルラインを利用して富士山5合目そしてその先にあった「冨士山小御嶽神社」。地元の集合場所を8時に大型バスで出発し、途中で随時参加者を拾い、東名綾瀬スマートICから東名高速道路に入り、海老名JCTから圏央道に入り厚木PAのて最初のトイレ休憩。売店には人の数は少なかった。そして八王子JCTから中央自動車道へ。前方に「笹子トンネル 上り線」の出口が見えた。そして中央自動車道・勝沼IC手前を走る。勝沼町にある徳岩院の墓地が右手に。勝沼町の街並みが右手奥に広がる。雪が残る南アルプスの山の山頂が見えた。明石山脈にある標高3190mの間ノ岳であっただろうか?生憎、甲府盆地の先のほとんどの山々が雲に隠れて。そして 一宮御坂IC で中央自動車道を降り、近くにあった「味の甲州わさび漬センター (地域物産・土産品販売店)」に立ち寄る。「歓迎」の看板もあった。最初のお土産店であったが、皆さん、既に帰りの気分で、わさび漬け等のお土産を買いまくるのであった。店内の小さな社にはタヌキ様が祀られていた。そして山梨で採掘された宝石類が並ぶ。左は「アメジストクォーツ(紫水晶)」であろう。「仏金砂 御線香立ての灰」。「仏金砂」は、ガラスの原料・硅砂(けいさ)で作られた金砂ですので、固くならず火気にも安心。水洗い可能ですので何度でもお使いになれます。風に飛ばないので、お仏壇まわりが汚れる心配もありません。仏壇のお線香立て用の灰として、墓前のお線香立て用としてにご活用ください。仏金砂とは、線香が立てやすい香炉用の砂です。再び「アメジストクォーツ(紫水晶)」。見事な花が。土産物を品定めする旅友。「笛吹川石和鵜飼」👈️リンク ポスター。7/20(土)~8/18(日)開催と。そして「御坂みち」を河口湖に向かって進む。「山梨リニア実験線」が前方に姿を現した。リニア中央新幹線の山梨県駅(甲府市)について、JR東海は4日、2024年度中に工事契約し、完成は31年となる見通しを明らかにした。 昨年12月、東京・品川―名古屋間の工事完了時期を「2027年」から「27年以降」に変更し、工事計画を見直した結果、想定よりも工期が長くかかる見通しになったという。河口湖に向かって南下する。右手に河口湖が姿を現した。御坂みちも河口湖湖畔に出る。「河口湖大橋」方向に進む。残念ながら富士山そして逆さ富士の姿は・・・。天気が良ければ・・・ネットから。そして河口湖湖畔の駐車場へ。前方には「河口湖大橋」の姿が。「河口湖大橋」は山梨県道707号富士河口湖富士線に指定されている橋梁であり、かつては河口湖大橋有料道路として利用されていた。旧有料区間の全長は1600 m、河口湖大橋自体の橋長は500 mである。富士五湖のなかで唯一の湖上に架かる橋梁で、橋上からの眺めはさえぎるものが無いことから富士山の展望もよく、1987年(昭和62年)に美観性と機動性を基準に「雄大な富士の道」として、富士スバルラインとともに旧建設省と「道の日」実行委員会により制定された「日本の道100選」にも選ばれている。そして「遊覧船」の姿も。河口湖遊覧船「天晴(あっぱれ)」は、河口湖駅より徒歩10分、河口湖畔船津浜に乗り場があります。戦国時代に甲斐武田軍に属していた「水軍」の安宅船がモチーフの純和風な遊覧船で、武田軍の代名詞である「武田菱」や「赤備え」をアクセントに、華やかさと勇ましさを兼ね備えたデザインとなっております。天気の良い日は展望デッキから、遮るもののない雄大な富士山の絶景や360°のパノラマビューをご堪能ください。”和”の象徴である畳の間をイメージした広々とした船内では、50インチの大型モニターを設置し、雨の日でも四季折々の美しい富士山や周辺地域の歴史や観光情報をお伝えいたします と。ネットから。「乗船券売場」。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.08.10
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そして「芝大神宮」の「拝殿」への「手水舎」。社紋は「三つ巴」。「手水には檜(ひのき)の芯材を使った「禊の湯」を入れてます。」芝大神宮で檜(ヒノキ)の芯材を使用した入浴剤として「禊の湯」が置かれていると。その「禊の湯」を手水に使用しているとのこと。「絵馬厄除招福 縁起 生姜 千木筥(ちぎばこ) だらだら祭り芝大神宮」と。「伊勢の神宮のご祭神である天照大御神、豊受大神を主祭神とし、平安時代・一条天皇の御代に創建されたと伝わる芝大神宮。江戸時代には徳川幕府の崇敬も篤く、「関東のお伊勢さま」として庶民からも親しまれ、多くの人々で賑わいました。鳶頭と角力取りの争いを描いた歌舞伎の演目『め組の喧嘩』の舞台でもあります。江戸時代から続く芝大神宮の縁起物として、また東京の郷土玩具としても知られるのが「千木筥」です。もともと神社の祭礼「だらだら祭り」で授与されていたもので、往時は境内に千木筥を扱う多くの店が出ましたが、戦後は神社の授与品となりました。色鮮やかな藤の花が描かれた曲げ物を三段重ね、荒縄でまとめた千木筥は、中に小豆が入っていて、振るとカラカラと音がします。その音も見た目も可愛らしく、心なごむものです。名前の由来は、「餅器を略した言葉である」とか、「社殿の屋根に置く千木から作ったから」など諸説あるようです。「千木」が「千着」に通じることから、衣服が増え、良縁に恵まれることを願って女性がタンスなどに納める習慣が広まり、女性の幸福守護とされています。」と。「千木筥(ちぎばこ)」というお守り。千木とは、神社の屋根の上の交差して突き出た梁の部分ことで、建築の時に余った木から作られたことから千木筥と呼ばれたのだと。この「千木筥」が縁結びの縁起物となったのはその呼び名でした。千木=千着に繋がるとし、千着の着物で着るものに困らない、着るものが増える、それは良い旦那が見つかる、ということわざ的な解釈で、千木筥=縁結びとなったのです と。「社務所」。「御朱印」を頂きました。「拝殿」を斜めから。拝殿を正面から。「内陣」。芝大神宮は、伊勢神宮の御祭神、天照大御神(内宮)、豊受大神(外宮)の二柱を主祭神としてお祀りしています。御鎮座は遠く平安時代、寛弘二年(1005年)一条天皇の御代に創建された由緒あるお社です。古くは、飯倉神明宮、芝神明宮と称され鎌倉時代においては、源頼朝公より篤い信仰の下、社地の寄贈を受け、江戸時代においては、徳川幕府の篤い保護の下に社頭はにぎわい大江戸の大産土神として関東一円の庶民信仰を集め、「関東のお伊勢さま」として数多くの人々の崇敬を戴きました。その当時の賑わいは、広重の錦絵に窺うことができます。その後の当宮の社史をみますと、明治、大正、昭和初期の関東大震災、太平洋戦争の激動期においても、数多くの苦難にも耐えて氏子並びに崇敬者に支えられ現在の御社殿に至りますとHPより。「江戸高名会亭尽 芝神明社内 絵師:広重」「芝神明宮祭礼生姜市之景 作者名 溪斎英泉」9月の祭礼で賑わう芝神明宮境内の様子。この時に催される生姜市の生姜は邪気を払い病厄を遠ざけるとされました。縁起物である「千木箱(筥)」の「千木」は「千着」に通じることから、衣裳持ちになれる、ひいては良縁に恵まれるお守りとして、今も女性に人気のある縁起物です。「百度石」。「百度石百度参りをする際に往復の目安として設置されていることがある石の柱。本堂から百度石まで引き返して1往復とする。」と。拝殿前から「茅の輪くぐり」👈️リンクを見る。そして「芝大神宮」を後にして、再び「芝大門通り」に戻り、JR浜松町駅方面に引き返す。途中、石のベンチのようなものに、歌舞伎の「隈取(くまどり)」?の如き模様が。「広げよう納税の輪」碑。正面は”ふれあいの道”と彫り込まれていた。駅前の通りが”ふれあいの道”というのを初めて知ったのであった。右側には”世界の願い交通安全”と彫り込まれていた。そしてJR浜松町駅から品川駅に向かう。JR浜松町駅構内にあった「歌舞伎座」のポスター。そして品川駅に到着し、中央自由通路へ。「高輪口」への階段の上にはステンドグラス風の作品が。「ステンドグラス「光の情景」 原画・監修:麻生秀穂」と。こちらは、以前に撮った写真。作品の中央。「天と地に繰り広げられる、四季折々の光の情景 ステンドグラスに明るく映し出された光と色彩のアラベスクは楽しげにハーモニーを奏でているかのようです。」とネットから。そして「港南口」に向かって進む。R品川駅中央改札を出て港南口方面に向かう自由通路の両サイドにあるデジタルサイネージ広告。75インチの大画面で44面のビジョンが連続して同じ素材放映されている様は圧巻の一言。「東京都知事選挙 投票日7月7日(日)」横断幕。「港南ふれあい広場」にあった東京都知事選選挙ポスター掲示板。今回の東京都知事選挙は過去最多の56人が立候補し、都の選挙管理委員会は都内1万4000か所余りに設けた選挙ポスターの掲示板の枠が足りなくなり、クリアファイルで外側に固定してもらうといった異例の対応をとったとのことであったが、ポスターが貼られている箇所は数えても10数枚。こうした中、一部の掲示場では候補者とは別の人物の写真やSNSなどのアカウントに誘導する内容の同一の選挙ポスターが複数、貼られていたとTVニュースで。複数の同一のポスターが掲示されている背景には、寄付金に応じて、ポスター掲載を許可するという趣旨の案内がある候補者の所属団体から事前に出され、それに応じた人が貼ったと見られると。今回の東京都知事選挙の掲示板には、同一の選挙ポスターが複数貼られ、全裸に近い女性の画像などを載せたポスターには警視庁が警告を行ったとも。こうした事態に識者は「政治や選挙に対する信頼感を引き下げてしまう可能性がある」と指摘し政界からも公職選挙法が想定していない問題だとしてルールの見直しを求める声が出ているのである。先日のニュースでは「公職選挙法の改正に向けて、自民党と公明党の実務者は、選挙ポスターについて、一定の品位を保つための規定を設ける方針を確認しました。一方で、選挙運動中の妨害行為については現行の法律で対応できるとして、必ずしも法改正は必要ないという認識を共有しました。」と。そしてJR品川駅に戻り、17時集合の場所に向かったのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・END・・・
2024.08.09
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「旧芝離宮恩賜公園」を後にして、次の目的地の「芝大神宮」へ向かう。「竹芝通り」の先の道・芝大門通りと「国道15号・第1京浜」の「大門」交差点を渡る。港区浜松町1丁目27−12。歩道の脇にあった「め組のけんか」案内板。月岡芳年《新撰東錦絵 神明相撲闘争之図》(1886)。「文化2年(1805)2月(一説)、芝神明の境内で、勧進相撲を興行していた力士と町火消 め組との間でけんかが起こった。これが、のちに江戸っ子気質の典型として評判になった芝居「神明恵和合取組」(かみのめぐみわごうのとりくみ)のモデルとなった。」と。「更科布屋」の店の角にあった「案内柱」。近づいて。「芝大門 割烹 寛政三年 更科布屋」と。創業寛政三年(1791年)、220年の伝統に培われた格式と技術がお届けする真の江戸そば。江戸より守り続ける更科伝統の重厚な甘ロの汁で味わう「二八そば」、「15種類の家伝変わりそば」ど「生粉打ちそば(そば粉10割)」が江戸の食文化を伝えます と。「更科布屋」と書かれた暖簾。歩道脇にはこの後訪ねた「芝神明江戸芝神明之図 歌川国丸 文化文政年間(1820ごろ)俗に芝神明と称された現在の芝大神宮は、江戸の有名な神社の一つである。往年の参拝の人びとや商人たちの生き生きした姿がえがかれている。」そして右折して進むと、路地の奥に石鳥居が見えて来た。ビジネス街の真っただ中にある神社なのであった。神明鳥居の先にあったのが「芝大神宮」。「芝」の地名は15世紀後半の文献に登場するほど古く、名の由来は明らかになっていません。海苔そだ※の柴の説、守護職「斯波(しば)」にちなんだ説と、芝草からの説などのほかに、近年では、河口のデルタ地形を示す説などがあります。芝は、漁業と後の海運によって発展しました。明治11年(1878)に芝区が誕生し、市制町村制改正により一旦、諸町の名前から「芝」の冠称が削除されますが、昭和22年(1947)に港区となり再び復活しました。昭和37年(1962)の「住居表示に関する法律」に則り、昭和39年(1964)に港区内ではじめて区画整理が実施され、それまでの芝金杉町、芝金杉海岸、芝新堀町、芝松本町、本芝、本芝入横町、芝田町、三田四国町(みたしこくまち)など17の旧町が合併して「芝」となりました とネットから。※海苔そだとは養殖する海苔を付着させるため、浅い海中に立てる木や竹の枝。 柴とは雑木の小枝。そだ。石鳥居の左には、提灯(大門振興会)、灯籠、社号標石が。「六月二十八日 午後五時半 夏越大祓形代」と「東京十社めぐり」案内板。大祓とは六月と十二月に半年間生活してきて生じました罪(つみ)と穢(けがれ)を祓い清める古来から日本民族に伝わる神事。罪とは包み隠される、穢とは気が枯れるという意味 と。「形代」とは祭りのとき、心霊の代わりとして置くもの。人形(ひとがた) 、身代わり。この銅板には・・・・。下記の石碑「芝大神宮」の奉納者の名前が刻まれているようであった。石碑「芝大神宮」。銅燈籠「御神燈」(左)。銅燈籠「御神燈」(右)。「芝大神宮の文化財社伝によれば平安時代の中頃(寛弘ニ年・一〇〇五年)に伊勢の内外両宮の御分霊をまつり鎮座されたといわれる区内有数の古社である。毎年九月中旬には「だらだら祭」とよばれる祭礼がおこなわれ、江戸時代より現在まで生姜、千木箱、甘酒などが境内で売られていることでも地元とのつながりが深い。所属する文化財として、絵画では江戸末期の建部巢兆の箱根詣図(紙本着色)などがある。古文書では建式四年(一三三七)正月七日の足利直義教書(勝利の祈祷を依頼したもの)、天正十六年(一五八八)七月ニ十四日の吉良氏朱印状がある。昭和五十三年◯月(平成二十五年十一月建替) 港区教育委員会」「貯金塚」。「根氣 根氣何事も根氣」と。関東大震災の際、唯一預金の全額払戻を断行した不動貯金銀行頭取・牧野元次郎の功績を称える碑であると。碑文は武者小路実篤の筆によるものだそうです。碑文は「根氣 根氣何事も根氣」と。要するに「金、銀、プラチナ、コツコツ…」ということでしょうが、どうしても私としては一攫千金狙ってしまいます。だから貯まらないのでしょうが…。ちなみに毎年10月17日には貯金祭として加護祈祷がおこなわれているそうです。台座には溶岩が使われていた。線刻でユーモラスな表情の大黒様が。「貯金と災厄(昭和丗二年正月不動会建之)災厄は忘れた頃来るという。関東の大震災も亦然り。當時の惨状は言語に絶し東京は焼野原と化し政府は直ちに支拂猶豫令を布いた。然るに其中にあってひとり預金の金額拂戻しを断行し大東京の復興に多大の貢献をした銀行がある。其名を不動貯金銀行という。即ち牧野元次郎翁が頭取であった、其不動貯金銀行本店の當時の焼跡から出た欄桿破片2個は(関東大震災記念石天沼雄吉寄贈)之である。倉は焼けても貯金は焼けぬ」そして拝殿への階段の途中には「茅の輪くぐり」👈️リンク が。「茅の輪くぐり」とは、茅で編んだ直径数メートルの輪をくぐり、心身を清めて厄災を払い、無病息災を祈願する夏越の祓を象徴する行事。スサノオノミコトの日本神話に起源があると。茅の輪くぐりのくぐり方茅の輪くぐりのくぐり方は、唱え詞を唱えながら、8の字に3度くぐり抜けるのが一般的です。もっとも基本的だと思われる茅の輪くぐりのくぐり方は、以下のようになります。1周目:正面でお辞儀、左足で茅の輪をまたぎ、左回りで正面に戻る2周目:正面でお辞儀、右足で茅の輪をまたぎ、右回りで正面に戻る3周目:正面でお辞儀、左足で茅の輪をまたぎ、左回りで正面に戻る正面でお辞儀、左足で茅の輪をまたぎ、参拝へ茅の輪くぐりのときには、神拝詞(となえことば)を声に出さずに唱えます。代表的なものは以下のようなものです。「祓い給へ 清め給へ 守り給へ 幸え給へ」(はらへたまへ きよめたまへ まもりたまへ さきはえたまへ)また、茅の輪くぐりの時の神拝詞(となえことば)は、地域や各神社で異なるようです。茅の輪くぐりをする際は、各神社でお尋ねるとよいでしょう。以下のように、1周目から3周目でそれぞれ、神拝詞(となえことば)が異なる場合もあるようです。1周目:水無月の 夏越の祓 するひとは 千歳の命 延ぶというなり2周目:思ふ事 皆つきねとて 麻の葉を きりにきりても 祓へつるかな3周目:宮川の 清き流れに 禊せば 折れることの 叶わぬはなし とネットから。狛犬(右)は笑顔の如くに!?。狛犬(左)は苦笑い!?。絵馬掛所。様々な絵が描かれた絵馬。安産祈願と。病気平癒と。「芝大神宮御造営奉賛氏子総代」碑。「力石」朱記で「五拾貫」=約187.5kgと。「東京都港区指定文化財有形民俗文化財 芝大神宮のカ石カ石は重い石を物ち上げて「カ競べ」や「曲持ち」を行った際に使用した石である。特に、江戸時代後期の文化・文政期には、職業的なカ持ち力士による興行が行われるようになった。芝大神宮のカ石は、「五十貫余」の切付とともに、「川口町 金杉藤吉」の名前がある。これは、明治時代に活躍した有名なカ持ち力士のひとり、芝金杉川口町の山口藤吉(慶応三年生)、通称「金杉の藤吉」のことである。芝大神宮でカ持ちの興行が行われた時、金杉の藤吉がこの石を片手で差し上げたと伝えられている港区内には、全部で十四点のカ石が確認されているが、こうしたカ持ち力士の伝承がともなっているのはこの芝大神宮のカ石のみであり、都市のカ石の民俗を知る資料として貴重なものである。平成七年九月ニ十六日 東京都港区教育委員会」「句碑星野立子、星椿、星高士、三代句碑」そよりとも 風はなけれど 夜涼かな 立子千年の 神燈絶えず 去年今年 椿界隈の たらだら祭 なる人出 高士」拝殿への脇の入口であっただろうか?「神明恵和合取組」👈️リンク 碑。「生姜塚」碑。境内の玉垣の前には、この神社らしい「生姜塚」があった。江戸時代までこの一帯は、多くの生姜畑があったと。芝大神宮で行われるお祭り「だらだら祭り」とは江戸時代以降についた名前で、それ以前の呼び名は「生姜市」と呼ばれていた。お祭の期間中、境内やその周辺で盛んに生姜が売られていたことから、どうやらその名が付いたようだ。ここで手に入れた生姜は「神明生姜(しんめいしょうが)」といい、食べれば風邪知らず!とのこと。昔からとても大事にされてきました。生姜は身体を温めてくれ、邪気を払うとも言われていると。お祭りの際は生姜飴や生姜湯なども購入できる と。 ・・・つづく・・・
2024.08.08
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更新工事中の「八つ橋」の現場越しに「中島(蓬莱山)」を見る。「旧芝離宮恩賜庭園施設改修工事のお知らせ」。小さな島の岩場に3匹の亀を発見。ズームして。2匹の亀は密に接近。1匹はマイペースで。再び「雪見灯籠」を見る。その奥の高架には新交通「ゆりかもめ」の姿が。正式名称は東京臨海新交通臨海線(とうきょうりんかいしんこうつうりんかいせん)。東京都港区の新橋駅から江東区の豊洲駅までを結ぶ、株式会社ゆりかもめが運営する自動案内軌条式旅客輸送システム(AGT)路線である。開通当初から愛称の「ゆりかもめ」もしくは「新交通ゆりかもめ」で呼ばれることが多く、また同じ東京臨海副都心地区を通る東京臨海高速鉄道りんかい線との紛らわしさもあり、正式な路線名は一般にはほとんど用いられていない。路線名の「東京臨海新交通臨海線」(「臨海線」ではなく「東京臨海新交通」を含めて路線名である)は、運営会社「株式会社ゆりかもめ」が「東京臨海新交通株式会社」だった当時からの名称であるが、社名が変更されてからも従来のままとなっている とウィキペディアより。「海水取入口跡」。「海水取入口跡貞享3 (1686)年当時の様子を記した「楽壽園記」に、「園内には潮入の池」の記録があり、本園の特徴的な要素でしたが、海面の埋め立て等の周辺整備がすすめられたことにより、海の遠景とともに潮入りの機能を失い、現在は海水取入口跡のみが残っています。水路の石垣や鋼鉄製の水門は、本園の池が海を取り入れた景観であったことを示す重要な遺構です。「芝離宮時代の庭園平面図「芝離宮全図」宮内公文害館所蔵」。再び無人運転システムを採用している「ゆりかもめ」を。「旧芝離宮恩賜庭園」の「大泉水」の周囲を1周して、再び「中島」、「浮島」を見る。水面に「逆さ東京ガスビルディング」が。再び「雪見灯籠」を。ここにも亀が。再び「西湖の堤」を見る。中国の浙江省杭州市に西湖という風光明媚な湖があります。この湖に北宋時代の詩人蘇東坡が築いた長堤を西湖堤と言います。この堤は西湖堤を模して造られたものです。当園のほか、小石川後楽園、広島の縮景園などにも見られます と再び。「西湖の堤」の「堤石橋」をズームして。廻り込んで「堤石橋」を。「雪見灯籠」の「宝珠」の上に野鳥を発見。ズームして。鳩のようであった。再び「旧芝離宮恩賜庭園」の池の縁に植えられていた黒松を。薄茶色の巨石の横に木札が立っていた。「しゃりんばい」と。「しゃりんばい」は大気汚染や暑さに強いうえ、潮風にも強い常緑性の花木。道路の緑地帯や公園などによく植えられています と。花が咲くと、ネットから。来園記念撮影場所か?この石の案内板。「離宮時代の西洋館跡明治の初めから外国貴賓の接客は、わが国初の石造りの西洋館といわれる浜離宮の延遼館で行われていましたが、老朽化で明治22年に取壊しとなり、これに代わるものとして、明治23年、芝離宮に木造2階建ての洋館建設が着工し、翌明治24年に竣工しました。離宮のみならず迎賓館の役割も担っておりましたが、大正12年の関東大震災で敷地内の建物すべてが灰燼に帰しました。現在では、その遺構である礎石と植物模様の彫刻が施された大理石の一部が往時を偲ばせます。写真は大正3年「今上陛下御即位式写真帖」に掲載されたもので、渡り廊下を挟み御殿(日本館)が併設されている様子がわかります」植物模様の彫刻が施された大理石の一部。「西洋館立面図(正面) 宮内庁宮内公文書館所蔵」。「迎賓館跡」👈️リンク 前から「旧芝離宮恩賜庭園 」の「西湖の堤」方向を。歴史を感じさせる石灯籠。ズームして。「大山」、「枯滝」方向を。水面も緑に染まって。「浮島」の黒松を。そして「旧芝離宮恩賜庭園 サービスセンター」。「オリジナルグッズ販売」と。「旧芝離宮恩賜庭園 見どころ帖」と書かれたオリジナル手拭い?「堤石橋」。「雪見灯籠」。そして「旧芝離宮恩賜庭園 」をのんびりと楽しんで、出口へ。出口には狭い扉が。押すと開きますと、一方通行の木製扉。そして最後に「舊芝離宮阯 昭和十年三月建設」碑を。 ・・・もどる・・・ ・・・END・・・
2024.08.07
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「石柱」を下り、池沿いの遊歩道を進む。左手に「大島」その後ろに「根府川山」の姿が見えた。池岸の紫陽花(アジサイ)の花。近づいて。紫色のガクアジサイの花。「インドハマユウ(印度浜木綿)」の花であろうか?花に近づいて。こちらは「ヒメキスゲ」。近づいて。北方向の「中島」そして工事中の「八つ橋」を見る。右手前が「根府川山」。「根府川山」。「根府川山」紀州家時代の図面に「ネブカハ山」「ヒイラギ山」と表示されており、両山は一体でつくられているようで、北面に根府川山の表示があった。岩肌の色も黒く、スパッと切ったような断面も直線で鋭い。大石を扱った築山の厳しい表情の石組。「根府川」というのは小田原の地名で、東海道線の駅の名前にもなっている。この根府川石は少し赤っぽく、縦にスパッと切れやすい、板状になりやすい石とのこと。根府川山の近く、鯛橋の辺りはこの赤く平らかな面を持つ根府川石と黒朴石(くろぼくいし)というゴツゴツした黒っぽい石とが組み合わされているそうです。よってこの「根府川山」の名をつけたと ネットから。根府川山の先には大島があり、島に渡るための橋は鯛の形をした根府川石で「鯛橋」と呼ばれているのだ。「鯛橋」。「鯛橋」を渡る。「大島」を囲む水の流れ。「大島」から「根府川山」を見る。「大島」。前方の「大島」を出る橋も石製の「八つ橋」。石製の「八つ橋」を渡る。振り返って。外周遊歩道に架かる石橋。外周遊歩道を振り返って。「大島」に架かる「八つ橋」を横から。「唐津山」。「唐津山」大久保忠朝が老中就任の際は唐津藩主であったので、それを懐かしみ「唐津山」と名付けたのでしょうか?「唐津山」の石組み。「唐津山」を過ぎると、こんもりした築山が2つ見えて来た。「スリバチ山」と石段の見えた「九尺台」。「西湖の堤」をズームして。「九尺台」のアジサイの花。明治八年(1875)、明治天皇がこの高台から海で漁をする様子や海の景色を楽しまれたと。「九尺台」を廻り込んで。「九尺台(九盈台(きゅうえいだい))「九尺」とは高さ、「盈」とは水や月が満ちるという意味です。海の波打ち際に造られたこの高台は、いつ造られたものか不明ですが明治天皇が明治八年にこの庭園に行幸された際、この台上から、海で漁民達が漁をする様子や海の眺望を楽しまれたところです。」この上から東側を見ると海が見えたのであろう。「首都高速都心環状線」の先が海であったのだろう。そして正面に「あずまや」。工事中の「八つ橋」手前から「石柱」をズームして。工事中の「八つ橋」の現場。さらに散策道を園の入口に向かって進む。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.08.06
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「旧芝離宮恩賜庭園」内の遊歩道を「大山」方向に向かって歩く。巨大な樹の切り株が岩のごとくに。先ほどの「雪見灯籠」を振り返る。前方左が草が生えているが「砂浜」と呼ばれる場所。そして右手に折れて「大山」に向かって進む。庭園内で最も高い標高9mの築山で、頂上からの眺めは見事であった。また、左右の築山と構成される稜線の変化は、池の対岸から見ると味わい深いものが感じられたのであった。「大山」と。「大山」の頂上から、「大泉山」を見る。「大泉山」は庭園の要となる約 9,000㎡の広さを持つ池。昔は海水を引き入れた潮入りの池でしたが、現在は淡水の池になっているとのこと。池は中島と浮島を配して海と湖を形どり、一画には小さな州浜が設けられているのであった。「大山」から手前に巨岩が並ぶ「枯滝」、そして「大泉水」の中央にある「中島」、その左に「浮島」、右手対岸には「四阿」が。ズームして。「大山」の石段を下り、「枯滝」に向かって進む。「枯滝」の先にある築山を見る。この築山には名前がないのか?「枯滝」を歩く。「枯滝」案内板。「枯滝岩を屏風のように立て、左右の岩が交互に出張って奥の岩を奥行き深いものに見せています。奥の岩は落下する滝を表していると思われます。この枯滝の面白いところは、河床の部分が園路になっており、通り抜けられる点です。この通路を通り抜ける途中、右手の大山と左手の築山を結んで「臥龍橋」といわれる橋が架けられていたそうです。」写真下部の基礎らしきものが「臥龍橋跡」であっただろうか?「臥龍橋跡枯滝をはさんで正面に見えるのは大山です。大山とこの築山を結んで、「臥龍橋」が架けられていました。石橋であったと推定されます。今はその橋はありませんが、実際に渡ったものと考えられています。奥方やお女中衆にとっては、大変スリルのある冒険だったことでしょう。」さらに右カーブの「枯滝」を進む。「大泉水」の岸から「雪見灯籠」方向を見る。「西湖の堤」の手前にあった案内板。「木橋の通行止めに関するお知らせ」。老朽化に伴う更新工事であるようだ。正面に「西湖の堤」中国の杭州(現在の浙江省)にある西湖の堤を模した石造りの堤。堤の先にある中島の石組は、楽壽園の頃からのものです と。当園のほか、小石川後楽園、広島の縮景園などにも見られるのだ と。「西湖の堤」の中央にある石製の太鼓橋状の「堤石橋」。鯉も悠々と。左手前方に浮かぶ「浮島」を見る。そして「中島」に渡る。園景の要となる箇所で、池の中央にある「中島」。中国で仙人が住み不老不死の地といわれる霊山を模した蓬莱石組となっているのだと。大小の築山の上に蓬莱石組と手入れの行き届いた松のコラボが見事であった。水面を覗き込むように見事な枝を伸ばした老松の姿を。ここも「枯滝」に似た光景であった。「浮島」には4本の老松の姿が。そして「中島」の先の「八つ橋」は架替え工事中であった。「木製の橋を建設しています。この工事は9月末に完成する予定です。」木製の「八つ橋」とのことだが、橋脚は鉄骨製のようだ。工事前の「八つ橋」をネットから。そして引き返して。「中島この島の石組は、蓬莱山を表しています。蓬莱山は、仙人が住み不老不死の地といわれる中国思想上の霊山のことです。」「大泉水」の南側を見る。「中島」の中央に立つ「蓬莱山」を表した「中島」の蓬莱石組と石塔。蓬莱石組は中国で仙人が住む不老不死の地とされる霊山を模している。軸部が無く、4つの笠を積んだだけとみられる四重塔風石塔。仏教では偶数の石塔(層塔)はないので、石塔の笠だけを集めて積み上げたものであろうか?「西湖の堤」を渡り、左に折れ池沿いを歩く。そして池畔に方形で立ち並ぶ4本の石柱。近づいて。石柱が4本あった。大久保忠朝が小田原藩主の頃、後北条氏に仕えた戦国武将・松田憲秀旧邸の門柱を運び入れたもの。茶室の柱として使われたと推定されると。「石柱この石柱は、小田原北条家に仕えた戦国武将の旧邸から運ばれた門柱です。ここが小田原藩(大久保家)の上屋敷であった当初、茶室に使われていたといわれています。」茶室に使われた柱と。4本の柱とその先に「汐留ビルディング」。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.08.05
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この日は6月25日(火)、都内・五反田の銀行に用事があり、立ち寄りたい場所があったので昼前に出発。自宅近くの民家のアルミサッシの塀には木苺?がたわわに。近づいて。そして、この日は浜松町で下車し、「旧芝離宮恩賜庭園 」を久しぶりに訪ねたのであった。小石川後楽園と共に、今東京に残る江戸初期の大名庭園の一つ。回遊式泉水庭園の特徴をよくあらわした庭園で、池を中心とした庭園の区画や石の配置は、非常に優れています。明暦(1655~1658年)の頃に海面を埋め立てた土地を、延宝6年(1678年)に老中・大久保忠朝が4代将軍家綱から拝領した。忠朝は屋敷を建てるにあたり、藩地の小田原から庭師を呼び庭園を造ったと言われている。庭園は「楽壽園」と呼ばれていました。庭園は、幾人かの所有者を経たのち、幕末頃は紀州徳川家の芝御屋敷となりました。明治4年には有栖川宮家の所有となり、同8年に宮内省が買上げ、翌9年に芝離宮となりました。離宮は、大正12年の関東大震災の際に建物や樹木に大変な被害を受けました。翌年の大正13年1月には、皇太子(昭和天皇)のご成婚記念として東京市に下賜され、園地の復旧と整備を施し、同年4月に一般公開しました。また、昭和54年6月には、文化財保護法による国の「名勝」に指定されました。東京都港区海岸1丁目4−3。「都立庭園のご案内 江戸・東京の庭園へ行こう」案内板。◆大名庭園 ① 浜離宮恩賜庭園(中央区浜離宮庭園) ② 旧芝離宮恩賜庭園(港区海岸一丁目) ③ 小石川後楽園(文京区後楽一丁目) ④ 六義園(文京区本駒込六丁目) ◆江戸町人の庭 ⑤ 向島百花園(墨田区東向島三丁目)◆明治大正の庭園 ⑥ 清澄庭園(江東区清澄) ⑦ 旧岩崎邸庭園(台東区池之端1丁目) ⑧ 殿ヶ谷戸庭園(国分寺市南町) ⑨ 旧古河庭園(北区西ヶ原一丁目)「MAP」。開園 9時~17時 入園料 150円/人(65歳以上 70円/人)「旧芝離宮恩賜庭園」案内板。「旧芝離宮恩賜庭園沿革「舊芝離宮阯」碑。入口通路脇には様々な見どころの案内板が。「名称◆旧芝離宮恩賜庭園庭園八景旧芝離宮恩賜庭園は、江戸初期の典型的な「回遊式」庭園です。園内を巡ると、風景が刻々と変化し目の前に展開します。代表的な景勝ポイントを紹介しますので、ぜひ、この魅力を体験してみてください。※上は大正13年一般公開当時のようす」「中島中国で仙人が住むとされる蓬葉山を表しており、作庭時の石組がそのまま残っています。池の中央に位置し、園景の要となっています。」先ほどの「江戸・東京の庭園へ行こう」の案内がここにも。MAP。「大山 眺望」の上に、東京都北区西ケ原にある「旧古河庭園」で開催されている「春のバラフェスティバル」のポスターが。「西湖の堤中国杭州(現在の浙江省)の景勝地を模したもので、小石川後楽園や縮景園にも同様の堤があります。ここを通り中島へ渡れます。」「石柱この由来は長い間謎でしたが、相模の戦国武将、松田憲秀旧邸の門柱と判明しました。茶室の柱に使うため運ばれてきたものです、」「TOKYO GREEN BLZ みどりと 生きる まちづくり」と。東京都では、100年先を見据えた新たな緑のプロジェクト「東京グリーンビズ」のもとで、東京の緑をまもり・育て・活かす取組の輪を広げ、都民や事業者の皆様とともに、‟みどりと生きるまちづくり”を進めています と。「東京・ミュージアム ぐるっとパス2024」ポスター。「東京・ミュージアム ぐるっとパス2024」は東京を中心とする103の美術館・博物館等の入場券や割引券がセットになったお得なQRコードチケットです。販売価格 2,500円(大人料金のみ)各施設指定の展示を1回ご利用いただけます。販売期間 2024年4月1日(月)~2025年1月31日(金)有効期間 最初に利用した日から2ヶ月間 ※最終有効期間は2025年3月31日(月)「旧芝離宮恩賜公園 弓道場」案内。「弓道場」の写真をネットから。弓道1級以上の実力者しか利用することができないようであった。「旧芝離宮恩賜公園 よくあるご質問」。ペットの入園は不可と。「入口門」はここ1箇所と。「東京都立旧芝離宮恩賜公園」と。「旧芝離宮恩賜庭園の由来」案内板。延宝6年(1678年)、4代将軍徳川家綱から埋立地であったこの地を拝領した老中大久保加賀守忠朝はここに屋敷を造り、作庭を始めました。庭は貞享3年(1686年)までに完成し、「楽寿園」と命名されました。これが本庭園の起源です。「楽寿園」は典型的な回遊式庭園で、園景の中心には江戸の水辺庭園特有の潮入りの池があり干満によって景色が変化するよう工夫されていました。池泉の中央部には中国杭州の西湖堤を模した堤や蓬莱山を表した中島など中国の趣を取り入れ築山のうえから白帆の行きかう沖合の海の展望にも意を注ぐつくりでした。その後、大久保氏により数氏経て、幕末には紀州徳川家の芝御屋敷となり、さらに有栖川宮家を経て宮内省の買い上げにより明治9年「芝離宮」となりました。明治24年には迎賓館としての役割を果たすために園内に洋館を新築し以来、多くの外国貴賓を迎えました。大正12年の関東大震災で洋館等が焼失したものの翌13年1月、昭和天皇の御成婚を記念して東京市に下賜され、市では震災復旧を行い同年4月に「旧芝離宮庭園」として一般に公開しました。現在は周囲の埋立、林立するビルにより潮入りの機能、海の展望は失われましたが、中島の蓬莱山をはじめとする石組の妙は昔日の面影を残しています。昭和54年、文化財保護法により国の「名勝」に指定されました。総面積は43,175.36m2です。」「旧芝離宮思賜庭園 庭園案内図」。「旧芝離宮恩賜庭園■利用案内開園時間 御前9時~午後5時まで (入園は午後4時30分まで) 休園日/年末年始(10/29から1/1) 入園料/一般 150円 65歳以上: 70円 (小学生は無料 都内在住・在学の中学生は無料)20名以上の団体体は入園料2割引」「入口 Entrance」。「こちらは旧芝離宮恩賜公園です 浜離宮恩賜公園ではありません」と。「旧芝離宮恩賜庭園施設改修工事のお知らせ」中島~八つ橋~アクセス道路が工事中であった。サービスセンター・発券場。「入園券発売窓口一般 ¥15065歳以上 ¥70」ここにも「旧芝離宮恩賜庭園案内図」。そして「旧芝離宮恩賜庭園」の散策開始。庭園の入口すぐには砂利が敷かれた広場があり、大きな「藤棚」があった。フジの花の見頃は4月下旬~5月初旬ごろと。藤棚の下は休憩スペースになっていた。樹齢200年ともいわれている と。廻りこんで。開花すると!!、ネットから。紫の桔梗の花。近づいて。「旧芝離宮恩賜庭園」の南側には高層ビル・「東京ガスビルディング」。高層ビルが手前の池に映り込んで。庭園の遊歩道を反時計廻りに進む。「世界貿易センタービルディング 南館」を見る。サービスセンター・発券場、藤棚を振り返って。池の周りには、見事に手入れされた松の樹が見事な配置で。この場所の地下には「横須賀線」が走っているのだ。池の水面に映り込んだ景色も楽しみながら。「ソフトバンク本社ビル」方向を見る。ズームして。中央左手奥に「四阿」、中央に「中島」右手に「西湖の堤」を見る。「中島」をズームして。飛び石の如き遊歩道を進むと前方に「雪見灯籠」が姿を現した。近づいて。「雪見灯籠」は、石灯籠の一つ。 形に特徴があり、笠が大きく、3~4本の脚を持っています。背が低いため、主に庭園で使用するために設計されたと言われています。お墓に置く雪見灯籠は、置灯籠あるいは墓前灯籠と言う言い方もします と。さらに。足は3本のものが主流で笠の丸い丸雪見と六角形の六角雪見がある と。これでもかと。宝珠・笠・火袋・中台(受)・足 の5つの部位で構成されるもの。古来より、池の近くで水面を照らしたり、庭石(台石)の上に据え、庭全体を照らす場所に据えられていたのだ と。廻り込んで。「雪見灯篭」という名前の由来は、実は1つではありません。主な意味としては「笠の部分に積もった雪を楽しむものだから」とされていますが、「笠の形が雪が積もったように見えるため」という説もあります。そのほか、近江八景の「浮見(うきみ)」が変化して「雪見(ゆきみ)」になったとも。「州浜州浜は、楽寿園時代(1678~1818年)からの地割であり、潮の干満を表現する上でも、重要な水景の要素です。現在は、水位の変化を楽しむことはできませんが、大泉水の岸辺の景観要素であるとともに、泉水を望む際の眺望ポイントとなっています。州浜の中心に立っている雪見灯籠は、離宮時代(1871~1924年)のものとされています。」 ・・・つづく・・・
2024.08.04
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そして右手にあったのが「小田原ガイド協会」の入る「二の丸観光案内所」。廻り込んで。「馬屋曲輪」案内板。「馬屋曲輪は、L字型を呈する独立した曲輪である。周囲に石垣を巡らせ、その上に土塁と塀を備え、土塁の上へと登る雁木(階段)は、ニ重櫓両側(写真1 )と側土塁(写真2)の位置にあった。この曲輪は、三の丸より東側は「馬出門」、南側は「南門」を経て「御茶壺曲輪」から二の丸表玄関である「銅門」へと至る重要な位置にある。曲輪の規模は、東西四十七間(約92.59m)、南北三十七間(約72.89m)であった。曲輪内には砂利が敷かれ、「馬屋」と「大腰掛」の二棟の建物を中心に番所、切石を配した井戸などがあり、南東隅には二重櫓があった(図1)。「馬屋」と「大腰掛」は「板塀」により繋がっており(円礫を用いた石列の位置)、発掘調査では、塀を境に表と裏では敷かれている石が異なっている様子が確認されている(写真3)。また、「住吉橋」の東に「住吉松」と呼ばれた名物のマツがあったが、幕末に失われた。なお、曲輪内にあるマツの内、4つ目垣のある老マツは古写真にも写る古木である(写真4)。」馬屋跡・大腰掛跡馬屋曲輪の名前の由来でもある主要建物。古文書や絵図類を見ると、稲葉氏の時代には存在することがわかり、元禄16年(1703) 11月22日の地震で発生した火災で焼失した。発掘調査でも、この時の火事の痕跡が明瞭に確認されている。西側の建物が「馬屋」、東側が「大腰掛」である。「馬屋」は、現存する彦根城の馬屋を参考にすると、およそ14頭の馬を繋ぐことができたと考えられる。「大腰掛」は、「大腰かけ御番所」とも呼ばれる登城者の待機所であり、江戸城の「百人番所」(東京都千代田区)、二条城の「二条在番」(京都府中京区) のように番所でもあった。いずれも、寛永11年(1634)の将軍徳川家光の上洛に際し、小田原城が宿所とされたために整えられた特別な施設と考えられ、小田原城の重要性がうかがわれる。なお、小田原藩の馬屋は二の丸の西側にあった。二重櫓櫓台寛永20年(1643) 12月26日付で、幕府より櫓新設の許可を経て作事が行われた建物である。絵図に描かれた二重櫓を見ると、雌雄の鯱瓦を乗せた上層の屋根は破風のない入母屋造り、下層は千鳥破風を伴う寄棟造りで、石落としを備えていたことがわかる。切石敷井戸円礫を積み上げた井戸で、表面は溶結凝灰岩の切石で装飾されていた。表面の切石は、内側は六角形を呈しており、外側は円形となっている。六角井戸は、大陸より伝えられた特別な井戸とも言われ、この井戸も徳川将軍家との関連性がうかがわれる。「宮内庁図(宮内庁書陵部所蔵)」。「小田原市観光アプリケーション ARポイント 馬屋曲輪江戸時代(1703年:元禄16年以前)の馬屋曲輸の様子を再現しています。小田原城の正規登城ルートに位置し、石垣と白亜の土塀で区画されていました。ここには、登城した武士が馬をつなぐための馬屋と、従者の控え所である大越掛がありました。」「馬屋跡登城する人が馬を繋ぐための建物で、この馬屋は徳川将軍家が来た時に使われる特別なものでした。絵図(「文久図」)の記載や発掘調査の結果から、長さ21間(約41.35m )、奥行3間半(約6.89m )の建物であったことがわかりました。元禄16年(1703)の元禄地震によって倒壊、焼失し、以後再建されませんでした。発掘調査では焼土や焼けただれた瓦が出土しています。現在は、建物の範囲を表面表示しています。」こちらが現在の「馬屋跡」。江戸時代の小田原城は徳川将軍家の上洛の際に宿所として使われたが、馬屋曲輪の馬屋は将軍家が使用したと考えられている。尚、小田原藩の馬屋は二の丸の西側にあった と。「雁木」。「雁木土塁上へ登るための階段。発掘調査で初めて確認され、凝灰岩(小田原石・水道石・風祭石とも言われる。)製。もともと斜めに設置されていた。」「切石敷井戸跡」。近づいて。「切石敷井戸跡安山岩の円礫を積み上げ、上面に箱根山の溶結凝灰岩(風祭石)の切石を敷き詰めた井戸です。外側は円形、内側は六角形に形作っており、六角形の井戸は特別な井戸であったと考えられています。徳川将軍用の馬屋で用いるための井戸であったと考えられます。」「切石敷井戸跡」に近づいて。「馬屋曲輪ニ重櫓」跡。「馬屋曲輪ニ重櫓」案内板「馬屋曲輪は、寛永10年(1633)に、馬をつなぐ「馬屋」が、設置され、寬永20年(1643)には、南東隅に2階建てのニ重櫓が建てられていました。この櫓は、元禄16年(1703)の元禄地震で倒壊・焼失し、その後再建されましたが、明治時代に取り壊され、櫓台石垣も埋め立てられました。平成21、22年(2009、2010)に石垣復元工事にあわせて発掘調査が行われ、理められた櫓台石垣が現れました。櫓台石垣の寸法は、南北約12.4m、東西約10.9mの長方形で、現存する石垣の高さは、約2.5mでした。また、櫓台には西側と北側にそれそれ石段が付けられていました。発掘調査では、元禄地震で焼けた瓦が大量に発見され、記録にあった地震時の火災を裏付けることができました。また、ここには、樹齢100年を超える黒松が生えており、これらの根が石垣や石段の隙間に入り込んでいる状況も見られました。櫓台石垣と石段は、一度解体して、新たに石を補填して積み直され、馬屋曲輪の土塁内法石垣とともに復元されました。」上左:文久図に描かれた江戸時代末期の馬屋曲輪二重櫓の馬出門上右:馬屋曲輸二重櫓櫓台石垣の調査風景中央:完成直後の馬屋曲輪ニ重櫓櫓台石垣(白い石が新たに補填された石垣石)下左:櫓台石垣角石の切り欠き下右:石段の上の松根の除去「馬屋曲輪ニ重櫓櫓台石垣」に近づいて。「大腰掛跡」を見る。「大腰掛跡 (おおこしかけあと)大腰掛とは、登城する人の待機所や番所として用いられた建物で、ここの大腰掛は、徳川将軍家が来た時に使われる特別なものでした。絵図(「文久図」)の記載や発掘調査の結果から、長さ12間(約23.63m)、奥行3間半(約6.89m)の建物であったことがわかりました。元禄16年(1703)の元禄地震によって倒壊、焼失し、以後再建されませんでした。発掘調査では焼土や焼けただれた瓦が出土しています。現在は、建物の範囲を表面表示しています。」。ネットから、鮮明な写真を。宮内庁図には【長拾弐間半】と記載され、幅についての記載はないが、調査によって出土した東西方向の礎石間の計測から5m前後と考えられる と。大腰掛は、元禄期に消失し、以後再建される事の無いまま現在に至っている と。そして「住吉堀」に架かる「住吉橋」を見る。「馬出門」を通過。「お堀端通り」から「学橋」を見る。「学橋」を渡る。前方に「小田原城 二の丸広場」。「小田原城案内図」。「現在地」はここ。小田原御用邸は、小田原城の、この二の丸御殿跡に明治34(1901)年、創設された。現在のここ「二の丸広場」にあたる。しかし、大正12(1923)年の関東大震災で大破し、昭和5年に廃止された。昭和天皇実録にも明治から大正にかけて、頻繁に記述が出てくる。最初の記載は明治35年1月13日だ。「午後、大磯停車場にお成りになり、小田原御用邸へ旅行途次の昌子内親王・房子内親王と御対顔になる」とある。昌子内親王と房子内親王はともに明治天皇の皇女子だ。明治43年7月8日には、「本日より、御避暑のため雍仁(やすひと)親王・宣仁親王と共に小田原御用邸に御滞在になる。(中略)小田原御用邸御滞在中の三親王の御日課は、概(おおむ)ね午前六時御起床、同三十分御朝餐(さん)、七時三十分より九時まで御運動、九時三十分より十時三十分まで御復習、正午御昼餐、午後四時より五時三十分まで御運動、その後御入浴を済まされて六時御夕餐、八時御就寝とされる」と記載されている。大正4年2月27日には、「午後一時五十分、小田原御用邸に御到着になる。雍仁親王・宣仁親王と御対顔後、御一緒に庭内の御散歩、双六(すごろく)遊びなどをされて過ごされる」とある。また、8年5月10日の夜には、「小田原大火」などと呼ばれる大きな火災があったが、同12日の報知新聞には、「小田原御用邸 閑院宮御別邸は風上とて全く御安全なりき」と記されており、難を逃れたことが分かる。しかし結局、関東大震災で大きな被害を受け、廃止となるのだが、その被災の様子は12年9月8日の大阪朝日新聞の記事にある。「小田原御用邸、裁判所、郡役所、警察署等も半壊した 地盤の亀裂は駅前から幸町通り 小田原御用邸の濠(ほり)端が最も凄(すご)く三尺以上割れている所、六尺位(くらい)埋没して崖をなしている所もある」との記述からは、御用邸周辺が受けた震災被害の大きさが見て取れる。こうして小田原御用邸は歴史的役割を終えたのだった。ここ「二の丸広場」にあった「城内小学校木造校舎」の写真をネットから。入口右に石碑が2基。近づいて。「明治天皇行幸所」碑。「明治天皇駐蹕趾」碑。当地は足柄県庁跡で、明治六年(1873)、明治天皇が滞在した。引き返して、再び朱の欄干の「学橋」を渡る。「学橋」から「めがね橋」方向を見る。大きな黒の鯉が餌を求めてうじゃうじゃと。再び「小田原城二の丸東堀」、「小田原城 二の丸隅櫓」と「めがね橋」を見る。そしてこの日の予定を終了し駐車場に戻り帰路に。「橘料金所」から「西湘バイパス」へ。二宮・吾妻山を左に見ながら西湘バイパスを進む。「西湘二宮IC」を通過。「相模川」に架かる「トラスコ湘南大橋」を渡る。「国道134号」の「柳島」交差点を左折して「茅ヶ崎海岸料金所」から「新湘南バイパス」へ。「湘南ベルブリッジ」下を通過し、ここから20分ほどで帰宅したのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・完・・・
2024.08.03
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再び「報徳二宮神社」の「両部鳥居」の「一の鳥居・表参道大鳥居」👈️リンクを振り返る。「両部鳥居」は、2本の本柱の前後にそれぞれ低い控え柱を設け、 貫ぬきで連結したもの。 厳島神社の大鳥居がその好例。「表参道大鳥居建立事業👈️リンク平成ニ十九年九月十七日竣工式平成ニ十九年八月ニ十日 御木曳・立柱祭」案内板が様々な写真入りで紹介されていた。「この烏居は多くの方々の御心が寄せられて建立されました。先人達の思いを知り、伝承されてきた文化や技術を継承し、一円融合の精神で地域の絆を育み、この思いを次の世代へ。」「小田原はかって戦国時代に北条氏が関東一円を治めていた町。江戸時代には東海道の宿場町として栄えるなど、豊かな自然のもと、長い歴史の中で様々な伝統文化や技術を育んできました。」「この大烏居は、かって小田原城主が植えたとされる辻村山林の樹齢三百年の大杉を御用材として、小田原の「木」に携わる職人達が力をあわせ、伐採~搬出運搬~製材~加工~建立までの作業を行い、約三年の歳月をかけて完成させた大烏居です。」「高さ三十五m・直径一m以上の巨木を伐採し、長さ十ニmの木材を搬出・運搬・製材することは、通常扱っている材木の大きさをはるかに超えるもので、たいへんな作業でありました。」そして「両部鳥居」の「一の鳥居・表参道大鳥居」の本柱の下から「小田原城 南堀(蓮池)」越しに「南曲輪」を見る。「小田原城 南堀(蓮池)」の「蓮」の開花はこれからか。ズームして。「小田原城南曲輪西南二重櫓」案内板。「小田原城南曲輪西南二重櫓近代以降の小田原城小田原城は、明治3年(1870)に廃城となり、明治34年(1901)には、二の丸内に御用邸が建設されました。しかし、大正12年(1923)の関東大震災では石垣が崩落し、壊滅的な被害を受けました。御用邸は廃止され、二の丸堀北側一帯や住吉堀などが埋め立てられました。昭和4年(1929)、銅門一帯には、小田原高等女学校 (小田原城内高等学校 )や町立第二尋常小学校 (城内小学校・三の丸小学校)が建設されました。昭和初期には、二の丸の石垣などが復旧されましたが、第二次大戦後は、本丸周辺には動物園や遊園地が、御用米曲輪には市営小田原球場が設置され、城跡としての景観は失われていました。小田原城の史跡整備小田原城は、明治13年(1938)に初めて国史跡に指定され、本丸・二の丸の大部分と八幡山古郭や三の丸外郭、総構の一部が国の史跡になっています。昭和35年(1960)に天守閣 、昭和46年(1971)に常盤木 門が復興されましたが、史跡内に多くの施設が残ったままでした。昭和51年より市庁舎をはじめとした施設移転が進められ、昭和58年(1983)からは、本格的に史跡整備に取り組み、二の丸住吉堀の発掘調査に着手した。平成2年(1990)には、住吉堀石垣と住吉橋が復元され、平成9年(1997)に銅門枡形が復元されました。そして、平成21年(2009)には、馬出門が復元され、近世小田原城の大手筋からの登城ルートの歴史的景観がよみがえってきました。小田原城は、北条氏 の中世城郭と江戸時代の近世城郭の複合的な城郭として知られていますが、本丸・二の丸の範囲は近世城郭としての整備が進められています。一方、丘陵部に展開する戦国時代の城郭遺構は、八幡山古郭東曲輪や三の丸外郭の清閑亭土塁 、新堀土塁など史跡指定が進められ、史跡公園 として公開されています。」史跡小田原城跡の主な整備事業一覧昭和28年( 1953 ) 天守台石垣復旧昭和年( 1960 ) 天守閣復興昭和年( 1971 ) 常盤木門復興昭和62年( 1987 ) 住吉堀復元工事開始平成2年( 1990 ) 住吉堀.・住吉橋復元工事完了平成9年( 1997 ) 銅門復元工事完成平成23年( 201 1 ) 馬屋曲輪修景整備事業完了平成21年( 2009 ) 馬出門枡形門・土塀整備工事完了平成18年( 2006 ) 馬出門枡形石垣復元整備工事完了平成1 1年( 1999 ) 本丸東堀遺構表面表示平成7年( 1995 ) 銅門枡形石垣復元整備工事完了江戸時代末期南曲輪一帯南曲輸には西南隅(図書館側)と東南隅(郷土文化館)に2棟の櫓が建っていました。この櫓は千鳥破風や石落しを備えた優美なニ層櫓でした。看板が立っている藤棚一帯は堀の一部を埋め立てた場所に位置します。「南曲輪西南二重櫓横浜の英字新聞「ザ・ファーイースト」明治4年(1871) 12月1号に掲載された南曲輪西南ニ重櫓の写真です。廃城時には、屋根瓦や白壁も崩落し、荒れ果てた姿でした。正面の石垣は、ニの丸南堀と南曲輪の石垣ですが、大正12年(1923)の関東大震災によって崩落し、昭和初期に復旧されたものです。馬出門と銅門小田原城への登城は、馬出門土橋を渡り馬出門を通って、馬屋曲輪から住吉橋を渡り、銅門を通りニの丸主部に至ります。昭和58年から本格的にスタートした史跡小田原城跡の史跡整備は、この大手筋の登城ルートの歴史的景観の復元を目指して進められてきました。小田原城天守閣小田原城天守閣は現存する天守ひな型模型や絵図などを基に昭和35年に鉄筋コンクリート造で外観復元されました。4階展望室からは担模湾が一望でき、天気の良い日には房総半島まで見ることができます。」その先にあった巨大な藤棚。「御感(ぎょかん)の藤 樹名 ノダフジ(マメ科)」と。廻り込んで。「御感の藤 樹名 ノダフジ(マメ科) 昭和三十二年三月三十日 小田原市天然記念物 指定 昭和五十九年十二月 かながわの名木百選 選定この藤は、小田原城二の丸御殿に鉢植えされていた藩主大久保公愛玩ののもので、明治維新後、市内板橋の森本氏の手に渡り、明治十六年に市内唐人町(浜町の西村氏が買い受けて育てられたと伝えられています。大正天皇が皇太子のとき、小田原御用邸に滞在中のある日、西村邸の前を通過した際、召馬が藤棚の下に駆け入ったために殿下の肩に花が散りかかってしまいました。周囲の人々が恐縮していると「見事な花に心なきことよ」と感嘆されたことから、「御感の藤と呼ばれるようになりました。大正十一年三月、小田原保勝会の人々により西村家からこの地に移植され、今日まで小田原の名物として私たちの目を楽しませています。樹齢は約二〇〇年と推定され、既に壮年期を過ぎた古木ですが、五月の開花期に藤棚いっぱいに花房が下がった様子は誠に壮観です。 小田原市教育委員会」開花時の2枚の写真をネットから。「藤棚」交差点の手前を左折。「小峯橋(御茶壺橋)」を渡る。「小峯橋(御茶壺橋)この橋は本来木橋で、正式名称は「小峯橋」と言います。現在では石橋に架け替えられ、「御茶壺橋」という名でも親しまれています。「御茶壺橋」という名前は、江戸時代に宇治(京都府)から将軍家にお茶を献上する際の御茶壺道中と呼ばれる行列に由来します。行列は、往路は江戸から宇治まで東海道を通り、空の茶壹と購入代金が運ばれました。そして、お茶を詰めた復路の道中は、お茶が湿気ないように河川の少ない中山道を通って江戸まで戻ったとされます。小田原城には、この橋を渡った「御茶壺曲輪」に空の茶壺を保管する蔵があったことから、この橋が「御茶壺橋」と呼ばれるようになったと言われています。」「小田原城 南堀(蓮池)」の蓮の花の蕾を追う。開花株も。「御茶壺曲輪」案内板。御茶壺曲輪は、三の丸南側から二の丸へ入る最初の曲輪で、敵に攻められた際に守り手を有利にするための「捨曲輪」として用いられていました。元禄期(1688~1704)には、徳川将軍家に宇治の茶を献上する「御茶壺道中」の際に、往路で空茶壺を納める「御茶壺蔵」が設けられていたことから、御茶壺曲輪と呼ばれるようになったとされます。「寬永年間小田原廓総図」部分(『小田原市史 別編 城郭』より)左下隅に「小峯橋(御茶壺橋)」が描かれていた。再び、「小田原城 南堀(蓮池)」を見る。美しく咲いているアジサイを。「国指定史跡 小田原城後 ・小峯御鐘ノ台大堀切 ・三の丸外郭新堀土塁戦国時代の小田原町戦国時代の小田原城は「難攻不落」と言われ、上杉謙信や武田信玄の城攻めを食い止め、豊臣秀吉も攻めあぐねた堅城でした。ここから徒歩20分ほどの場所に、北条氏による城郭づくりの知恵と特徴が見られる場所があります。「小田原総構マップ」をニの丸観光案内所でお配りしていますので、お気軽にお立ち奇りください。なお、新堀土塁は10時から15時までの開園。大堀切は街灯がありませんので、明るいうちの散策をおすすめします。」小田原城 名所案内。「常盤木橋」方向に進み住吉橋方向を見る。「小田原城案内図」。現在地はここ。「銅門」を見る。「御茶壺曲輪 番所跡江戸時代、徳川将軍家には宇治の茶が献上されており、御茶壺曲輪には、道中で茶壺を保管するための御茶壺蔵がありました。この場所には、御茶壺蔵などを警護する番人の詰所(番所)があったとされます。小田原城の最盛期の様子を描いた「寛永年間小田原城廓総図」(宮内庁宮内公文書館蔵)によれば、その規模は六間×二間(約10.9m×3.6m)ほどだったようです。」御茶壺曲輪から住吉堀越しに銅門の南側、そして住吉橋を見る。「アオサギ」の姿が。日本で繁殖する最大のサギ。 青みがかった灰色の羽毛で被われているから「アオサギ」。全長1m弱。体の上面、翼の上面はうすく黒味のある灰色で、翼の風切羽は青色がかった黒色。飛んだ時に風切羽と肩の灰色の対照がはっきりしています。下面は白っぽい。日本で繁殖するサギの仲間としては最大です。背が高く、脚も長い。飛行姿は長い首をZ字型に曲げ、後方へ脚を伸ばし、大きな翼をゆっくりはばたいて飛びます。「グワァー」と大きな声。飛行中には「グワッ」や「カァン」とか聞こえる。より短い声で鳴くこともよくあります。高い樹上に枝を組んで、やや皿形の大きな巣をつくって繁殖します。集まって繁殖することが普通です。食べ物は動物食で、魚類や水辺で捕れる両生類、爬虫類、甲殻類、それに小鳥のヒナなども食べています。日本では北海道から本州、佐渡、四国、九州、対馬などで繁殖しています。最近の30年で増加し、日本中で見ることができるようになりました とネットから。「御茶壺曲輪 御茶壺蔵跡」「御茶壺曲輪 御茶壺蔵跡江戸時代、徳川将軍家には宇治の茶が献上されており御茶壺曲輪のこの場所には、道中で茶壺を保管する御茶壺蔵がありました。小田原は、江戸から宇治に向かう往路に位置しており、小田原城に立ち寄る際に、空の茶壺がこの蔵に収められたと考えられます。小田原城の最盛期の様子を描いた「寛永年間小田原城廓総図」(宮内庁宮内公文書館蔵)によれば、その規模は六間×四間(約10.9m×7.2m)ほどで、入母屋の屋根をのせていたようです。」「銅門と住吉堀の発掘調査」案内板。「銅門と住吉堀の発掘調査銅門や住吉堀は、昭和58年から平成4年にかけて行われた発掘調査の成果や古絵図等の資料に基づいて復原されています。この発掘調査では、江戸時代の堀や石垣だけでなく、戦国時代の井戸や水路、障子堀と呼ばれる堀などが発見され、戦国時代から江戸時代にかけて、小田原城が何度も造り替えられていたことがわかりました。」「発掘調査された住吉堀。江戸時代の石垣の下から戦国時代の障子堀の跡が発見されました。」「発掘調査の出土品」。住吉橋をズームアップして。左手に「銅門」、右手に「住吉橋」、「銅門枡形内仕切門」。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.08.02
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「小田原城 天守閣」を後にして石段を降りる。次の目的地は「報徳二宮神社」。道路脇のガクアジサイの花を楽しむ。「小田原城址公園こども遊園地」のミニSLが子供たちを載せて。ここにもアジサイ・紫陽花の花が。近づいて。関東大震災により滑り落ちた「本丸石垣」跡が残っていた。「小田原城案内図」。現在地はここ。次の目的地の「 報徳二宮神社」の「境内配置図」をホームページから。「報徳二宮神社」の北側の入口。「小田原城内大日一尊種子板碑」。報徳二宮神社の北側にある鳥居の前にある板碑。後ろの石も関東大震災により滑り落ちた石垣の石であろうか?板碑の下側には字が刻まれているようだが判読できなかった。「小田原市指定文化財 (平成二十九年三月二十七日指定)小田原城内大日一尊種子板碑 地上高 百七cm 幅 七十七・五cm 最大厚 十七・一cm正面に金剛界大日如来をあらわす種子(バン)を刻み、下部には、結衆により供養が毎月十五日に行われた旨の願文がありますが、年号などは記されていません。石材は、箱根火山の安山岩質熔岩と推定されますが、相模西部で確認されている他の安山岩製板碑と比べると、自然石をあまり加工せずに作られており、特異な存在です。天蓋の形態などから、筑波山周辺の異色粘板岩で製作される「常総型」の影響が認められます。造塔された時期は、形態の特徴から、鎌倉時代末期から南北朝時代と考えられます。中世小田原周辺で製作された板碑の多様性を考える上でも重要な文化財です。 小田原市教育委員会」ネットで調べてみると、下記の文字が刻まれていると。報徳二宮神社の北側にある鳥居横にあった案内板。 ・杜のひろば ・きんじろうカフェ ・Cafe 小田原柑橘俱楽部 ・HOTOKU KAIKAN ・食楽庵 報徳 ・カフェ・ジンジャー 報徳博物館「報徳二宮神社」。入って右側の堀には水が溜まっていた。「小峯曲輪北堀」深い空堀が掘られているが石垣がなく、小田原城が石垣を用いない土塁と空堀だけの戦国時代の城郭であったことがよくわかると。報徳二宮神社の北側にある堀で、右上にはこども遊園地がある。「小田原城小峯曲輪北堀報徳二宮神社の境内は、戦国時代北条氏によって造成された古い曲輪にあたります。江戸時代の前期は雷曲輪、後期には小峯曲輪と呼ばれていました。雷曲輪は全国にも例のない面白い名称ですが、由来ははっきりしません。小峯は天守閣の裏手、西側一帯を指す古い地名なので、これにちなんだものでしょう。目の前の空堀は、左手の小峯曲輪を囲む堀の北側の部分です。石垣を用いない土塁と空堀だけの、戦国時代の城の原形をよく留めている貴重な遺構です。堀幅は神社境内の土塁から二一メートル、深さは現状で五メートル余りですが、実際の堀底はさらに二~三メートルは深くなるでしょう。また堀底には、堀障子と呼ばれる畝状の仕切が設けられていたと考えられています。正面右手急斜面の高台は、本丸の裏手を守る曲輪状地形の屏風岩(現在遊園地)です。小峯曲輪北堀は、今公園路となっている屏風岩と本丸との間の本丸西堀と、神社裏門出口の辺りで合流し、本丸の南麓、現在の市立図書館(南曲輪)前から、常盤木門下の九輪橋の方へ向っていました。 報徳二宮神社」雰囲気のある、社務所と本殿をつなぐ渡り廊下があった。この下を潜り境内に向かって進む。絵馬「二宮先生御肖像 相模國 報徳二宮神社」。「御社殿」。明治42年本殿・幣殿を新築、拝殿を改築し、神苑を拡張して現在の社地の景観を整えました。平成6年(1994)には創建百年記念奉告祭を斎行して今日に至っています。現在、神社本庁別表神社。社殿は神明造り(神社建築の一様式)。なお、拝殿礎石は天保の大飢饉の際、藩主大久保翁の命により尊徳翁が小田原城内の米蔵を開き、米が人々の手に渡ったことにより小田原11万石の領内から一人の餓死者も出さずにすんだという、その米蔵の礎石が用いられています。近づいて。「報徳二宮神社御祭神 二宮尊徳翁 幼名 金治郎 通名 金次郎例祭日 四月十五日神徳景仰祭 九月第三日曜日」さらに。「御社殿」の内陣をネットから。「授与所」◆授与時間 午前9時~午後4時神札・お守り・金次郎あめ・報徳文庫書籍を頒布 しております。お水とりの方もこちらにお申し出ください。◆朱印頒布時間 午前9時~午後4時ご朱印料は500円以上お気持ちでお納めいただいております。境内の八重咲きのガクアジサイ。「神池」。「神池」には多くの錦鯉が泳いでおり授与所で、鯉の餌の販売もしているのであった。「祈祷殿」。恒例祭典や結婚式などで御本殿が使えない時でも、祈祷殿にて御祈願を執り行います。元は、宝物殿として使われており、納められていた物は報徳博物館に展示されています。「祈祷殿」の「内陣」をネットから。「絵馬掛」。「二宮金次郎像」。「二宮金次郎像昭和三年 昭和天皇の即位御大礼記念として 神戸の中村直吉氏が寄進したもので制作者は三代目慶寺円長 材質はブロンズ その後これと同じ像は全国の小学校などに向けて約一千体制作されたが 戦時中すべて供出に遭い現在残っているのはこの一体だけである。なお、 この像は当時のメートル法普及の意図を反映して 丁度一メートルの高さに制作されている。」"薪を背負って歩きながら本を読む"金次郎の姿が初めて登場したのは明治24年(1891)に出版された幸田露伴の『二宮尊徳翁』という本の挿絵でした。当神社にある少年像は昭和3年、昭和天皇即位御大 礼記念として神戸の中村直吉氏より寄進されたブロンズ像。製作者は三代目慶寺丹長。廻り込んで。全国の小学校で、老朽化や学校立て直しなどに伴い、二宮金次郎像が撤去される現象が進んでいると。その背景には、「児童の教育方針にそぐわない」「子どもが働く姿を勧めることはできない」「戦時教育の名残という指摘」「『歩いて本を読むのは危険』という保護者の声」などもあると。最近の二宮金次郎像は、下のように薪を脇に置いた腰掛けスタイルが多いらしい 。この写真はネットから。歩きスマホの危険性などが問題視される中、学校でも生徒に『ながら行動』をしないように指導していると。こうした時流を考え、本を読みながら歩く金次郎の像よりも、座像の方が適切だと。たとえ座っていたとしても、金次郎の勤労・勤勉の精神は生徒に伝わる とも。「報徳二宮神社」の御社殿を振り返って。所在地:神奈川県小田原市城内8-10御社殿は神明造りで、明治42年に本殿・幣殿を新築、拝殿を改築し、神苑を拡張して現在の社地の景観を整えましたと。なお、拝殿礎石は天保の大飢饉の際、藩主大久保翁の命により尊徳翁が小田原城内の米蔵を開き、米が人々の手に渡ったことにより小田原11万石の領内から一人の餓死者も出さずにすんだという、その米蔵の礎石が用いられている。「祈祷殿」を背景に「二宮金次郎像」と「狛犬」を見る。反対側の「狛犬」。「社務所」をズームして。表参道の「三の鳥居・神明鳥居」越しに「御社殿」を振り返る。「石灯籠」。「手水舎」。表参道を逆行して進む。参道を進む。正面に「二の鳥居・神明鳥居」。「二宮尊徳 翁像」が右手前方に。後方には「きんじろうカフェ」「Cafe 小田原柑橘俱楽部」。「二宮尊徳 翁 【1787~1856】 経済なき道徳は戯言であり 道徳なき経済は犯罪である江戸時代後期の農政家・思想家。通称金次郎。尊徳は武士の名乗り。幼少時の逸話が一般に知られているが、後に「報徳仕法」と呼ばれる独自の方法と理念で、小田原藩や日光神領などを含む、多くの諸家諸領の復興に尽くした。直接・間接的に指導した農村は六百余りにものぼる。内村鑑三著「代表的日本人」の中でも、十九世紀末、欧米諸国に対して「日本人の中にも、これほど素晴らしい人物がいる」と苦難の時代を救った偉人として尊徳翁は紹介されるなど、明治時代以降の政財界人にも多くの影響を与えたのである。翁の教訓や訓言は、今の時代にも通じる、私達が手本とすべきものばかりである。」「二宮尊徳 翁像」に近づいて。「兵庫県西宮市報徳学園創立100周年記念として彫刻家 南部祥雲氏に依頼作成された「二宮尊徳翁立像」10体の内1体。平成21年11月23日に、前報徳学園理事長 故 大谷勇様より寄贈いただきました。平成22年5月31日に、入魂祭並びに除幕式を行い現在に至ります。」と。石碑には、「二宮尊徳翁之像 至誠と実行 大谷勇 贈」と刻まれていた。「佐々井信太郎歌碑「あらそいの なき世づくりを 話あいて 譲るは 神に通ふ道なり」生涯を報徳道の研究、実践、宣揚に努めた佐々井信太郎翁の遺徳を称え、神苑の一角に歌碑を建立し、後世に伝えています。」と。「福住正兄翁頌徳碑尊徳の門人(弟子)、神社創建の中心人物でもあった 福住正兄の功績を残す為の記念碑。福住正兄翁👈️リンクは御祭神の四高弟の一人で、当神社創建の中心人物であります。箱根湯本の老舗旅館「福住」の主人でもあった正兄は、尊徳翁の教えを忠実に実践し、報徳の思想を後世に伝えました。大正五年、功績を末永く伝えるために、ゆかり深い当神社神苑に記念碑を建立しました」と。最上部には「報徳克譲」と刻まれていると。「克譲」とはよく人に譲ること と。参道の石段を下る。振り返って。左手奥にあったのが、「報徳会館」。ここにもアジサイの花が。そして前方に「両部鳥居」の「一の鳥居・表参道大鳥居」。高さ三十五m、直径一m以上の巨木を伐採し、長さ十二mの木材を搬出・運搬・製材することは、通常扱っている材木の大きさをはるかに超えるもので、大変な作業でありましたと。両部鳥居(りょうぶとりい)本柱の前後に小柱を設けこれに貫を通します。また笠木の上には屋根板をはり棟木を置きます。四脚鳥居、権現鳥居とも呼ばれています。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.08.01
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