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午前中の空き時間を利用して赤穂城跡を訪ねました。
大石神社。
明治33年に神社創立が正式に許された後、大正元年11月、四十七義士を祀る神社に。
ご祭神は大石内蔵助良雄以下四十七義士と萱野三平を主神とし、浅野長直・長友・長矩
の三代の城主と、その後の藩主森家の先祖で本能寺の変で亡くなった森蘭丸ら七代の
武将を合わせて祀っているのです。 
参道の両側に、中国産黒大理石で作られた、大石内蔵助以下討入り表門隊と、
大石主税以下裏門隊の石像が両側にずらっと並んで建っていた。製作は兵馬傭工芸技術伝承者と記されてあった。

大石内蔵助が吉良邸に討ち入る際に、山鹿流の陣太鼓を打ち鳴らす、印象的な場面を
再現した像。ちなみに、内蔵助は赤穂藩国家老が代々受け継ぐ通称で、実名は、
大石良雄(よしたか)と。

大石神社 本宮。

振り返ると 山門が。

巨大絵馬。

境内

二の丸外堀。


赤穂城の本丸門へとたどり着く。

国史跡に指定されている本丸門。平成の復元で再建されたと。
明治時代の古写真をもとに再現されたとのこと。

枡形の本丸門内

本丸には御殿が建っていた当時の間取りがわかるように平面再現されていた。
赤穂城は5万石の浅野氏には過度に広壮で、これがために財政難に陥った。5層天守の
造営も計画されていたが幕府への遠慮か財政難の為か造営されず、天守台のみが
今日に残っているのである。
12月中旬に行われる赤穂義士祭に向けて天守閣を足場パイプで組んで、
夜、イルミネーションで飾るの為の天守閣が昨年完成したとのこと
題して 「 光の天守閣 」。

厩口門(うまやぐちもん)は森家時代、台所門と呼ばれ、平成8年の発掘調査で高麗門と
判明。平成13年に門や橋を復元したと。

水手門跡。
二の丸の南端に位置し海又は干潟に面し、物資の搬入門としての役割を果たしていたと。
門の周囲は船の出入りの為に城壁を内側に大きく引き込んだ設計となり その城壁は
緩やかな曲線が特徴で南沖櫓台につながっているのだ。
門の前面には船着きの雁木が設けられ、波よけの突堤が 城壁から突出していた。

石垣に生えた雑草を清掃する作業員の姿も。

歴史博物館。

武家屋敷公園。
浅野藩時代は坂田左近右衛門の屋敷であったと。
昭和58年に門と土塀を復元されたと。

大石邸 長屋門。
浅野赤穂藩の家老、大石家3代の屋敷の長屋門で、屋敷は畳数にして308畳の広大な
邸宅であったと。浅野内匠頭の人情事件の際、その知らせを持って早かごで駆けつけた
早水籐佐衛門、萱野三平が実際に叩いたのがこの門。享保14年(1729)、建物の大半が
火災に遭ったがが、長屋門だけが焼失をまぬがれ、その後建て替え等を経て数少ない
江戸時代建築として現在も城内に残っているのです。
近藤源八宅跡長屋門。
大石邸長屋門の向かいにあり、赤穂浅野家軍学指南近藤家の屋敷のあったところで、
長屋門は江戸時代後期になって改築された。近藤家2代目の通称を採って「源八長屋」と
呼ばれているのです。

大手門と大手隅櫓 。
赤穂城の玄関口、大手門は東面する高麗門と南面する櫓門で構成された城門で、
大手隅櫓は二重櫓で東西四間半、南北三間半の基底部を持ち、大手門を監視する役割を
担っていたとのこと。明治初期に失われたものを昭和30年に高麗門のみが隅櫓と共に
復元された。

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