PR
Keyword Search
Comments
New!
隠居人はせじぃさん
Gママさん
noahnoahnoahさんCalendar
西の丸畝堀。

西の丸と西櫓(角馬出)の間は、障子のように区画した畝掘が見られた。
すなわち格子状になった「障子堀」。

掘立柱建物跡。
南西の区画で発見されたもので、何の用途の建物であったかは不明とのこと。

同じく障子堀。障子の桟のような形状。

西櫓付近の障子堀。
山中城の空堀にはこれでもかというくらいあちこちに畝が復元されていたが、
この西櫓付近の障子堀は別格。

西櫓堀と石碑。

三島市眺望地点。

ここにも何気なく畝堀が復元されていたが、この規模の畝堀は他所では見られない規模。

西の丸堀。
山中城の最大の特徴である障子堀は、物見台の高い位置から見るのもいいが、
このように横から見てもなかなかの圧巻。

西の丸の北条流の「障子堀」。

元西櫓と二の丸虎口にかかる架橋が右に。

元西櫓から西の丸方面の眺め。

下の山中城跡入口まで戻り、続いて国道1号線(東海道)を挟んで反対側へ。
御馬場曲輪。
すり鉢曲輪、御馬場跡方面への案内板が前方に。

出丸御馬場跡。
この山中城の出丸は通称:岱崎出丸(たいざきでまる)と呼ばれ、標高547~557m、
面積20400m2におよぶ広大な曲輪であり、天正17(1588)年、秀吉の小田原征伐に
備え、急ぎ増築された曲輪。

出丸御馬場跡の石碑

岱崎出丸。
間宮康俊らが守り、壮絶な戦死を遂げたと。

岱崎出丸と遠くに三島・沼津方面、駿河湾が眼下に。

すり鉢曲輪見張り台。

岱崎出丸の一の堀。
出丸全域を鉢巻のように廻るのではなく、先端のすり鉢曲輪から西側の中腹を
箱根旧街道の空堀まで続くもの。
この様に畝を設けることで攻撃側の左右の移動を妨げたのです。

すり鉢曲輪。
山中城出丸の最先端を防備する重要な位置にある曲輪。
そのためか、曲輪の構築方法も本丸側の曲輪とは全く異なり、中央部を凹ませて低くし
中心から緩やかな傾斜で土塁までたちあがり、中途から傾斜を強め土塁の頂部に達している。
上方から見た様子が、すり鉢に良く似ているところから通称「すり鉢曲輪」とよんでいる。
この曲輪への虎口は南に作られているが、さらに東側に接続し、幅八mの長方形の曲輪が
つくられており、防備のための『武者たまり』と推定されている。

構築途中の曲輪跡。
出丸を増築すべく完成することなく豊臣軍との戦いに挑むことになった場所。

出丸御馬場堀。
御馬場曲輪と岱崎出丸の間の空堀、高さは8~9mほど。
堀内に畝が検出されたことから、西櫓堀・西ノ丸堀と同様畝堀であったと考えられると。

400年前の遺構がそのまま復元されている石を使わない土だけの山城は
全国的にも非常に珍しいもの。
堀や土塁が良く残っており、尾根を区切る曲輪の造成法、架橋や土橋の配置など
箱根山の自然の地形を巧みにとり入れた山城の作り方など、目を見張るものが。
見学を終え、車に戻ると、長崎から徒歩にて東京に向かうグループに遭遇。
そして車で日本一周し最後の日を迎えるオジサンにも。
これぞ一期一会。
牛久大仏へ(その4) 2025.11.20
牛久大仏へ(その3) 2025.11.19 コメント(1)
牛久大仏へ(その2) 2025.11.18