JINさんの陽蜂農遠日記

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2022.02.03
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カテゴリ: JINさんの農園
「豪徳寺」境内の散策を続ける。
右手にあったのが「招福殿」。
「井伊家2代藩主直孝が鷹狩の折、住職の愛猫「たま」の招きで落雷の難を逃れたという伝説が
あり、幸運を招く「招き猫」の元祖とされる。家内安全、商売繁盛、心願成就を願う参詣者が
絶えない。
堂内には招福観音菩薩立像が安置されている。」
この日は工事中で立入禁止に。



「招福猫児(まねきねこ)」。
「豪徳寺の招福猫児は小判を持っておらず、右手をあげています。
招福猫児は、人を招いて「縁」をもたらしてくれますが、福そのものを与えてくれるわけでは
ありません。
人との大切な「縁」を生かせるかどうかは、その人次第。報恩感謝の気持ちがあれば、自然と
その人のもとに福が訪れる、という教えから、小判を持たず、右手だけをあげています。」と。



「招福猫児の由来

名高く寺域広く老樹鬱蒼として堂宇荘厳を極め賓者日に多く誠に東京西郊の名刹なり、されど
昔時は至って貧寺にして二三の雲水修行して漸く暮しを立つる計りなりき、時の和尚殊に猫を
愛しよく飼いならし自分の食を割て猫に与へ吾子のように愛育せしが、ある日和尚猫に向かい、
「汝我が愛育の恩を知らば何か果報を招来せよ」と言い聞かせたるが其後幾月日が過ぎし
夏の日の午さがり俄に門のあたり騒がしければ和尚何事ならんと出て見れば、鷹狩の帰りと
覚しき武士五六騎、門前に馬乗捨てゝ入り来り和尚に向かい謂えるよう「我等今当寺の前を
通行せんとするに門前に猫一疋うずくまり居て我等を見て手をあげ頻りに招くさまのあまりに
不審ければ訪ね入るなり暫く休息致させよ」とありければ和尚いそぎ奥へ招じ渋茶など
差出しける内天忽ち曇り夕立降り出し雷鳴り加りしが和尚は心静かに三世因果の説法したり
しかば武士は大喜びいよいよ帰依の念発起しけむやがて、「我こそは江州彦根の城主
井伊掃部頭直孝なり猫に招き入れられ雨をしのぎ貴僧の法談に預かることは是れ偏に仏の因果

やがて井伊家御菩提所となり田畑多く寄進せられ一大伽藍となりしも全く猫の恩に報い福を招き
寄篤の霊験によるものにして此等一に猫寺とも呼ぶに至れり。和尚後にこの猫の墓を建ていと懇に
其冥福を祈り後世この猫の姿形をつくり招福猫児と称えて崇め祀れば吉運立ち所に来り家内安全、
営業繁昌、心願成就すとて其の霊験を祈念する事は世に知らぬ人はなかりけり。」



改修工事中の「招福殿」。







一層目の四面には、干支(十二支)の彫刻が順番に施されているのだが、
なんとネズミの部分に猫が彫られているのであった。
しかも、子(ねずみ)と一緒。



設定を変えてズームして。
子(ねずみ)は、天敵であるはずの猫に小判を口に咥えて渡そうとしているようにも
見えるのであった。



こちらはイノシシ。



至る所に招猫の姿が。



「無名戦士慰霊記念碑」。
太平洋戦争における戦歿者の慰霊顕彰・平和祈願碑であると。



「碑歌」(表面)
いくさの旅に さまよい果てたる はらからよ ここにかえりて やすらい たまえよ
                             日本大学教授 山田孝雄」
「碑文」(裏面)
燕が一羽とんできたからといって春がきたのではない。この記念碑が人々の情で生まれたからと
いって、永遠に平和がきたのだともいえない。けれども深く憂と悲しみの中にたおれた不幸な
同胞の御霊の冥福と祖国が再び過ちを犯さないことを私どもは祈りつゞけたい。
区内戦没者五千三百余柱の御霊並に九十三柱の御遺骨の供養のために有志相はかり、区民多数の
心からなる浄財を集めて慰霊記念碑を建立した次第である。
  昭和29年5月3日
   平和紀念無名戦士慰霊記念碑建設会 建立」



「鳴鶴先生碑銘」。
日下部 鳴鶴(くさかべ めいかく、天保9年8月18日(1838年10月6日) - 大正11年(1922年)
1月27日)は日本の書家である。
本名は東作。字は子暘。別号に東嶼、翠雨、野鶴、老鶴、鶴叟などがある。
「鳴鶴先生碑銘は、 昭和8年に建てられ、鳴鶴の楷書碑から比田井天来が苦心して
集字したもの。綺羅星のごとく居並ぶ門弟の中で、なかなか書き手が決まらずに、 月日が経ち
結局集字することになったのだという。碑文は、47字33行、1429字に及び、 若干の文字の
不揃いは見えるものの全体としてみれば整然とした楷書が連ねられていて天来の労苦が
しのばれる。撰文は、内藤湖南。 篆額は、西園寺公望。篆額を、城所湖舟氏は、
「天来書と見ました」と雑誌「凌雲」で述べている」 とネットから。



墓門の前に明治34年に建てられた「遠城謙道( おんじょうけんどう) 師遺蹟碑」。
遠城謙道は、旧彦根藩士で文政6年(1823年)に彦根で生まれた。
15歳で鉄砲隊に入るが、藩医・堀田道策に医術を学んだのを始め、儒学や画を学ぶなどして、
特に禅の修行を積んだことで武士の魂を磨いた。
桜田門外の変における井伊直弼の死後、悲憤のあまり主君の旧恩に報じようと同志と老中に
抗弁するも果たすことができなかった。その後、僧となり墓守を勤める決心をし、井伊家菩提寺の
清凉寺の元で仏門に入り、名を謙道と改める。
慶応元年(1865年)、妻と6人の子どもを残した謙道は、江戸における井伊家の菩提寺の豪徳寺に
移り、井伊直弼の墓側に庵を建て、読経をして霊を慰めたといわれている。
(彦根観光協会HP「石碑 遠城謙道師の碑」より)
揮毫は、従二位勲二等伯爵井伊直憲卿。



「高橋瑞子彰功之碑」
高橋 瑞子(たかはし みずこ、1852年12月5日〈嘉永5年10月24日〉 - 1927年〈昭和2年〉
2月28日)は、日本の医師。荻野吟子、生沢クノに次ぐ、日本で第3の公許女医である。
当時の唯一の私立医学校でありながら、女子の入学を許可していなかった済生学舎に、
女性である自身の入学を認めさせることで、女性の医学への門戸を開かせた。



左手にあったのが「日下部家墓」。



その先の隣に「日下部鳴鶴(くさかべ めいかく)」夫妻の墓、題字は呉昌碩。
日本の書家である。本名は東作。字は子暘。別号に東嶼、翠雨、野鶴、老鶴、鶴叟などがある。
中国、特に六朝書の影響を受けた力強い筆跡が特徴であり、それまでの和様から唐様に日本の
書法の基準を作り変えた。加えて数多くの弟子を育成、彼の流派を受け継ぐ書道家は極めて多い。
芸術家としても教育者としても多大な功績をあげたことを称えて「日本近代書道の父」と評される
こともある。
鳴鶴の流派は鶴門と呼ばれ、その門下生は3000人を数えたと言われる。また生涯で1000基の石碑を
書いたとも言われ、現在も全国に300基以上の碑が残されている。
中でも大久保公神道碑は鳴鶴の最高傑作といわれる と。
墓の背面には、「清閑院殿鳴鶴徳音居士/大正十一年一月廿七日歿 享年八十五」と記されていた。



正面に「彦根藩主井伊家墓所」の入口が現れた。
豪徳寺にある「彦根藩主井伊家墓所」は広大な敷地に大型の墓石が整然と並ぶ、都内でも屈指の
大名墓。2代藩主直孝をはじめとして、13代藩主直弼など6人の藩主に加え、江戸で暮らした
正室や側室、子息子女らが埋葬されているのだと。また、北側の一角には藩士の墓石も置かれ、
合計で303基にのぼると。
井伊家墓所は国元である滋賀県彦根市の清凉寺、4代藩主が眠る同県東近江市の永源寺にもあり、
豪徳寺 とあわせて3か所の墓所が同時に国の史跡になったのだ と。



「彦根藩主井伊家墓所」の入口左側にあったが「六地蔵尊」。



「国指定史跡 彦根藩主井伊家墓所 豪徳寺井伊家墓所」案内板。
井伊家は、遠江国井伊谷を中心に勢力を持った武士で、戦国期には今川氏の配下にあった。
井伊家二十四世とされる直政は天正三年(一五七五)、十五歳で徳川家康に仕え、慶長五年
(一六〇〇)の関ヶ原合戦においては、自ら先鋒を務め東軍の勝利に貢献した。
合戦後、直政は近江国などに十八万石を与えられ、初代藩主として彦根藩の礎を築いた。
続く二代直孝も大坂夏の陣で功績をあげ、近江国、下野国、武蔵国世田谷にあわせて三十万石を
有する譜代大名の筆頭格となった。以後、幕末までこの家格は堅持され、藩主は江戸城溜間に
控えて将軍に近侍し、時には大老職に就き幕府政治に参与した。
寛永十年(一六三三)頃、世田谷が井伊家所領となったのを機に、領内の弘徳院が普提寺に取り
立てられた。直孝の没後には、その法号「久昌院殿豪徳天英大居士」にちなみ豪徳寺と寺号を
改め、以後、井伊家墓所として、江戸で亡くなった藩主や家族がここに葬られた。
墓所の北西角には、豪徳寺中興開基の直孝墓が位置し、そこから南西に直進したところに
幕末の大老、十三代直弼(宗観院殿)墓がある。直弼墓に至る参道沿いには、藩主や藩主正室らの
墓石が整然と並び、豪徳寺の伽藍造営に貢献した亀姫(掃雲院般・直孝長女)墓がその中央西側に
位置している。墓所内で最も古い墓は、直時(広度院殿・直孝四男)のもので、万治元年
(一六五八)に建てられた。直孝が没したのは万冶二年で、どちらの墓石も唐破風笠付位牌型で
造られている。以降、豪徳寺に所在する藩主、正室、世子、側室の墓石は、いずれもこの形式で
建造された。また、幕所の北側の一角には、早世した井伊家子息子女らの墓石に混じって、江戸で
亡くなった藩士とその家族の墓石も据えられている。これらを合わせると、墓所に所在する墓石の
総数は三百基余になる。
彦根藩主井伊家墓所は、豪徳寺、清涼寺(滋賀県彦根市)、永源寺(滋賀県東近江市)の三ケ寺に
あり、歴代藩主とその一族の墓が網羅される。各墓所は、将軍家側近でもあった井伊家の姿を
物語り、江戸時代の幕藩体制と大名文化を考える上で欠くことのできない貴重な遺産であるため、
一括で「彦根藩主井伊家墓所」として、平成二十年三月二十八日、国史跡に指定された。」



「豪徳寺 井伊家墓所全体図」。



「彦根藩主井伊家墓所」入口門から墓所に入り石畳の路を奥に進んで行った。



更にに奥に向かって進む。



理解のために「井伊家 略系図」を。
下図の代数は1代ズレているが、以下の表記は「豪徳寺 井伊家墓所全体図」に従う。


    【https://www.ii-museum.jp/blank-51】より

右手奥にあったのが 8代直定世子・直賢(霊松院殿)の墓
「世子」とは「跡継ぎ」のこと。
直定にはこの直賢という嫡男がいたのだが、彼はまだ幼かったため家督を継ぐことが
認められなかった。そこで直定が次代として白羽の矢を立てたのが自分にとって甥にあたる
直禔である。これも井伊家の血統を彦根で守らなければならないという幕府の計らいであった。
直定は「直禔なら健康であるし、城主として申し分ないだろう」と判断したのだ。
養子として迎え入れられてからすぐに直定は隠居。叔父の跡を継いで直禔が城主となった と。



これも右手に 6代井伊直恒(円成院殿)の墓



最も西側突き当りに江戸で亡くなった歴代彦根藩主や室(正室 や 側室 や 継室)の墓が
並んでいた。
正面に、2代井伊直孝(久昌院殿)の墓。
豪徳寺中興開基で、法号は「久昌院殿豪徳天英大居士」。



その右側に、 9代井伊直禔(いい なおよし)(見性院殿)の墓



井伊直孝(久昌院殿)の墓の左側に 10代井伊直幸世子・直富(龍泉院殿)の墓



2代井伊直孝・側室・春光院殿の墓。



2代井伊直孝・長女亀姫(掃雲院殿)の墓。
直孝死後側室の春光院とともに遺志を継いでこの豪徳寺伽藍造営の整備に
寄進などをして尽力した。



亀姫(掃雲院殿)の墓の先に5基の墓石が並ぶ。







10代井伊直幸・正室(梅暁院殿)の墓



9代井伊直禔・継室(清蓮院殿)の墓。
継室は、最初の正室との死別や離婚を受けての当主の正式な再婚により迎えられた後妻を指す。



そして 13代井伊直弼(いいなおすけ)(宗観院殿)の墓



井伊直弼の墓石に近づいて。
井伊直弼は井伊直中の子で、兄を継ぎ藩主となり、ついで寛永3年(1850)4月大老になる。
勅許を待たず日米修好通商条約など安政五ケ国条約に調印。また紀伊藩主徳川慶福(十四代将軍
徳川家茂)に決定し、反対派の一橋慶喜(のちの十五代将軍徳川慶喜)らを抑えるという強い政策を
実施。さらに安政の大獄を断行するに及んで、常に暗殺の危険にさらされ、遂に万延元年
(1860)3月、江戸城外桜田門外において、水戸・薩摩の浪士らに暗殺された。
石碑には「 宗観院殿正四位上前羽林中郎将柳暁覚翁大居士 」の文字。
因みに以前、世田谷区と東京工業大学が墓の下3 mまで調査したところ石室がないことが判明した
とのこと。遺骨は何処に?



「彦根城十三代藩主 直弼公募所」。



「井伊直弼墓
井伊直弼は、文化十ニ年(一八一五)、彦根十一代藩主・直中の第十四子として生まれた。青年期は
部屋住みとして城外の埋木舎(うもれぎのや)に閑居したが、兄・直元の死去により十ニ代藩主・
直亮(なおあき)の跡継ぎとなり、嘉永三年(一八五〇)に十三代藩主となった。
安政五年(一八五八)四月、大老職に就いた直弼は、天皇の許可を待たず日米修好通商条約に調印し、
ついで、十三代将軍・家定の後継者を紀伊の徳川慶福(よしとみ)(後の家茂)とすることで決着を
つけた。
こうした直弼の強い政策に異を唱える者たちを処罰し安政の大獄をはかったが、遂に水戸浪士らの
襲撃をうけ、安政七年(万延元・一八六〇)三月三日、桜田門外で暗殺された。享年四十六。」



11代井伊直中 正室(観光院殿)の墓。



12代井伊直亮・正室(龍華院殿)の墓



10代井伊直幸・側室(本覚院殿)の墓



桂光院殿玉顔幻露禪童子 」と刻まれた墓石。
誰の子供なのであろうか。



5代井伊直通・正室(本光院殿)の墓。



早世 華蕚春了禪童女 霊位 」と刻まれた墓石。



井伊直興(いいなおおき)・側室青松院殿(直惟母)の墓



7代井伊直惟・正室(蓮光院殿)の墓



早世 全現未兆孩亡 霊位 」と刻まれた墓。



蓉顔素秋童女 」と刻まれた墓。



??? 」の墓。



2代井伊直孝・四男直時(広度院殿)の墓。



廓心院殿閑山獨坐大居士 」と刻まれた墓。



三條轉法輪 前右大臣實治公 御息女 忠姫君 」と刻まれた墓。



來屋秋本孩亡 」と刻まれた墓。



2代藩主・井伊直孝の四男、井伊直時側室(圓臺院殿)の墓



                              ・・・もどる・・・


                  ・・・つづく・・・





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Last updated  2022.02.04 10:25:06
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