JINさんの陽蜂農遠日記

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2022.02.10
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カテゴリ: JINさんの農園
「吉田松陰先生 御墓所」案内板。



社殿前には石灯籠が並ぶ(右)。



社殿前の石燈籠(左)。



近づいて。



「石燈籠
境内に立ち並ぶ32基の石燈籠は、毛利元昭公をはじめ先生門下の伊藤博文、山縣有朋などの
縁故者より明治41年(1908)に奉献されたものです。
その燈籠に刻まれた文字は書家高田竹山による八分隷書体によるものです。」



右手には小さな祠も。



「吉田松陰先生 御墓所」に向かって進む。



「吉田松陰先生 御墓所」案内。



石鳥居。



松陰先生墓域の入口に建てられている鳥居は松蔭先生墓所の修復の際、
木戸孝允によって寄進された。「大政一新之歳、木戸大江孝允」と刻まれてる。






吉田松陰先生他烈士墓所
文久3年(1863)正月、高杉晋作、伊藤博文、山尾庸三、白井小助、赤根武人等は、松陰先生の
亡骸を千住小塚原回向院よりこの世田谷若林大夫山の楓の木の下に改葬し、先生の御魂の安住の
所とした。同時に小林民部、頼三樹三郎も同じく小塚原回向院より改葬。その数日後、来原良蔵の
墓を芝青松寺から改葬。同11年、福原乙之進を埋葬した。 禁門の変後の、長州征伐の際に幕府に
よって墓は破壊されたが、木戸孝允等の手により明治元年(1868)に松陰先生以下の墓を修復し、
更に綿貫冶良助を埋葬、中谷正亮を芝清岸院より改葬、長州藩邸没収事件関係者の慰霊碑
(井上新一郎建立)を建てた。その後、墓所修復の挙を聞いた徳川氏から先生墓所前の石燈籠と墓域内の水盤が、謝罪の意を込め寄進された。
明治8年、来原良蔵妻和田春子を埋葬。明治37年、桂太郎が長州藩第四大隊招魂碑を建立。
明治42年、遺言により野村靖を埋葬。明治44年、野村靖夫人野村花子を埋葬。昭和33年
松陰先生100年祭にあたり松陰先生墓域の柵を修復した。」



「松陰先生墓域案内図」。



それぞれの墓の説明。



ネットから。



左手に
子爵野村靖 墓 天保13年(1842) ~明治42年(1909)(右)
1 6歳の時松陰に師事、尊攘の事に奔走する。明治になり特命全権大使岩倉具
視に随行して欧米各国を視察、帰朝して外務省に出仕。神奈川県令、逓信次宮、
枢密顧問官、フランス外交公使等を歴任し、第ニ次伊藤内閣内務大臣、第ニ次
松方内閣逓信大臣を勤める。遺言により松陰先生墓域内に埋葬。享年68歳。
野村靖夫人 野村花子墓(左)
明治44年埋葬。



松陰先生他烈士墓所 」。



近づいて。



中央に 
「松蔭先生墓」(吉田寅次郎藤原矩方墓)

天保元年(1830) ~安政6年(1859)
長州藩士、号は松蔭。年少より大義を唱え、松下村塾を主宰、明治維新の原動力となる
有為の青年を多数輩出した。安政の大獄により刑死。小塚原回向院より改葬。享年3 0歳。
松陰が眠る正真正銘の吉田松陰の墓。
松陰の墓は全国に4か所存在 する。斬首された遺骸を弟子たちが取り戻し葬った。
●小塚原回向院の墓(現在は墓石のみ)。
●後に小塚原回向院から改葬し、遺骸が眠る東京・松陰神社内のこの墓。
●山口県萩の松陰誕生地付近にある墓(遺髪が納められた遺髪墓)。
●山口県下関にある桜山神社の招魂墓(高杉晋作の発議によって創建された幕末志士達の
 招魂場)。



右に
小林民部少輔 墓 文化5年(1808) ~安政6年(1859)
諱は良典(よしすけ)。民部權大輔。鷹司家々士。尊王攘夷の志深く、安政の大獄に連座して獄死。
小塚原回向院より改葬。享年52歳。



左に
来原良蔵多々良盛功 墓 文政1 2年(1829) ~文久2年(1862)
長州藩士。尊王攘夷を唱え横浜の外人襲撃を謀ったが、藩世子に過激を戒められ切腹。
芝青松寺より改葬。享年34歳。



頼三樹三郎某姓醇 墓 文政8年(1825) ~安政6年(1859)
儒者、本姓は橘、頼山陽の三男。尊王の大義を唱え安政の大獄により刑死。
小塚原回向院より改葬。享年35歳。



福原乙之進大江信冬 墓 天保8年(1837) ~文久3年(1863)
長州藩士。討幕を策し、江戸刈谷藩邸にて古河藩兵に襲われ自刃。此の地に埋葬。享年27歳。



来原良蔵妻和田春子墓
没後松陰先生墓域に埋葬。明治8年。



中谷正亮源實之 墓 文政11年(1828) ~文久2年(1862)
長州藩士。松陰なきあと松下村塾を監し、義挙を画策したが、江戸にて病死。
芝清岸院より改葬。享年35歳。



長藩第四大隊戦死者招魂碑
長州藩第四大隊の戦士者招魂碑。明治37年桂太郎によって建立。
桂太郎は慶応4年に長州藩第四大隊ニ番隊司令を命ぜられている。



綿貫治良助 墓 天保7年(1836) ~元治元年(1864)
諱は直秀、長州藩士。禁門の変により江戸長州藩邸没収の際幕吏と争い自刃。
此の地に埋葬。享年29歳。



徳川家康奉納燈籠(内側の左右一対)
禁門の変の後、長州征伐の際、幕府によって破壊された松陰の墓を明治元年、木戸孝允等が
修復したという経緯があると。その墓所前の葵紋のついた石燈籠と水盤は修復を聞いた徳川が

一対の 右の燈籠(写真左)



一対の 左の燈籠。



徳川家奉納水盤。



「徳川家奉納水盤」。



「おみくじ掛け」。




再び「社殿」を見る。



そして「松陰神社」を後にすると右手にあったのが「広沢公神道碑」。



参道の左手、若林公園に続く敷地に、「広沢公神道碑」の大きな銅碑があった。
敷地は広沢家の墓域になっているようで、コンクリー トブロックに囲まれ入ることは
出来なかった。ブロック越しに碑の正面半分ほどが見えた。
篆額は伏見宮依仁親王で「 故参議贈正三位廣澤公神道碑」とある。撰文は、当初落合済三に
下命されたが没したため、高島張輔が受け継ぎ明治45年(1912)に完成させた。
書は、杉山令吉で大正11年(1922)に揮毫している。



左碑側、碑陰の文字は鮮明で塀の外側からもよく見えた。
整斉とした楷書が清々しいのであったが内容は・・・???。



その先にあったのが「桂太郎墓所」。



近づいて。



さらに
「公爵桂太郎之墓」と刻まれていた。



「桂 太郎墓
弘化四年(1847)十一月二十八日、長門国阿武郡萩町(ながとのくにあぶぐんはぎまち)
(現 山口県萩市)に生まれる。長州簿士として第二次長州征伐や戊辰戦争に参加、維新後の
明治三年(1870)には近代的な軍事制度を学ぶためドイツに留学した。帰国後、山県有朋に
参謀本部の独立を建言、鎮台を師団に改編するなど明治陸軍の軍制改革に大きな役割を果たす。
台湾総督などを歴任し、明治三十一年(1898)伊藤博文内開で陸軍大臣となった。
明治三十四年(1901)には首相に指名され第一次桂内閣を組織し、三年後に勃発した日露戦争に
際しては開戦を決定、首相として戦争を主導した。明治三十九(一1906)年に総辞職し、
西園寺公望(きんもち)に首相の座を譲るが、第三次桂内閣の大正二年(1913)までは
「桂園(けいえん)時代」と呼ばれ、安定した政治体制が築かれた。
明治四十一年(1908)には韓国併合の条約が調印されている。
吉田松陰を散愛し、自らも明治三十三年(1900)台湾協会学校(現拓殖大学)を創立して初代校長に
就任、基礎作りに 尽力した。
大正元年(1912)末、三度首相に指名されたが、幾ばくもなく総辞職し、翌二年十月十日急逝した。
享年六十六。「平素業拝する松陰神社隣接地に葬るべし」との遺言により、当所に葬られた。」



そして最後に2018年に「​ 萩の松蔭神社 ​」👈リンク を訪ねた際のブログを
紹介させていただきます。





                  ・・・つづく・・・





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Last updated  2022.02.10 09:24:09
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