JINさんの陽蜂農遠日記

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2022.03.25
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カテゴリ: 国内旅行
「修禅寺」を後にして「虎渓橋」を正面に見る。



県道18号線・修禅寺戸田線を桂川沿いに上流に向かって進む。



桂川の左下の岩場にある「独鈷の湯(とっこのゆ)」が姿を現した。



露天風呂からは湯気が。



「指月殿」の案内を確認する。



石段を下り、「独鈷の湯」を訪ねた。
修善寺温泉の中心を流れる、桂川河畔に湧く修善寺温泉発祥の湯。
大同2年(807)、修善寺を訪れた空海(弘法大師)は桂川で病気の父の身体を洗う少年の孝行の
心に打たれ、持っていた仏具(独鈷杵(とっこしょ))で川の岩を打ち霊泉を湧き出させた。

現在も自然石を使用しており、修善寺温泉の象徴的存在。
修善寺温泉は伊豆最古の温泉と言われている。
※現在、独鈷の湯は見学のみで、入浴は不可となっていた。足湯としても利用できないと。



湯面にカメラを向けて。



「修善寺 亀屋 甘泉楼」。



「甘泉楼 KANSENRO
新井旅館「甘泉楼」1924年(大正13年)築
登録有形文化財第22-0022号
伊豆最古の温泉街である修善寺温泉には多くの文人・墨客が訪れました。
当時の賑わい、溢れる才能と活気を、年月を経た今も感じられる
「墨客の小径」(ぼっかくのこみち)。
ぶらり散策と味めぐりをお楽しみください。」



「内裏雛」。



「女雛」。



「男雛」。



可愛らしい木彫りの仏様が2体。



「新井旅館」。

生まれた。芸術家の感性は建物や庭園にも生かされ、貴重な文化遺産となっている。



敷地内に建つ15棟の登録有形文化財の建物。館内に1歩足を踏み入れると、昔懐かしい時代に
タイムトリップしたかのような、ノスタルジックな空間が広がっている と。
一度、宿泊してみたい宿なのであった。



笹竹の生える桂川の小径を進む。




「河原湯」が左手に。



湯が足湯場に流れ込んで。



「河原湯(足湯) Kawara-yu (Foot Bath)
修善寺温泉にはその昔、河原沿いに7つの外湯があり、当時外湯として親しまれていた河原湯は、
この足湯の少し上流に佇んでいました。このため、平成22年4月3日に開湯したこの足湯が外湯
時代と同様に、皆様に楽しんでいただけることを願い、河原湯と命名しました。
足湯として開湯した河原湯を、皆様お気軽にご利用ください。」



「独鈷の湯」を振り返る。



前方に見えて来たのが「桂橋」。



「桂川」に沿った小径はここまでで、左折すると「桂橋」。



「桂橋(結ばれ橋)
桂川にかかる五つの橋其々に恋にまつわるご利益があると言われています。
願いをかけながら渡ると、その思いが、成就するとか・・・。」



「桂橋」を渡る。



「桂橋」の「橋紋」。
桂の葉とその下に「桂」の文字がデザインされていた。



上流の「楓橋(かえでばし)」別名:寄り添い橋 を見る。



横から瀧の如き流れが。



下流側は左に大きく蛇行。



そして右側に「竹林の小径」が。
平成6年(1994年)から3年間を費やして整備された温泉街の中央を流れる桂川沿いの散策道、
竹林の小径(ちくりんのこみち)。
竹林の小径を歩くと、茶処や火の見櫓が懐かしく、竹林中央にある大きな竹の円形ベンチに
座れば竹林を通る風を感じることが出来ます。
日没後はライトアップされ、幻想的な夜の散歩を楽しむことができます
(ライトアップは日没~23時まで) と。



竹林中央にある大きなベンチ。



竹製のベンチ。



「八重」のパネル。
義時の初恋の人にして、源頼朝の最初の妻。
伊東祐親の三女。



さらに奥へと進む。



様々な竹の種類が植えられていた。



そして右手にあったのが「楓橋」。



「楓橋(かえでばし) 寄り添い橋
桂川にかかる五つの橋其々に恋にまつわるご利益があると言われています。
願いをかけながら渡ると、その思いが成就するとか・・・」



「楓橋」の「橋紋」。
「楓」の葉と太鼓橋そして「楓」の文字のデザインが下部に。



上流を見る。



下流の「桂橋」を見る。



そして「竹林の小径」を引き返す。



多くの竹灯籠が。



若竹の林の中に。



夜になると。



円形の巨大ベンチはスクリーンに変身するようである。



そして「滝下橋」別名:安らぎ橋を渡る。
「桂川にかかる五つの橋其々に恋にまつわるご利益があると言われています。
願いをかけながら渡ると、その思いが成就するとか・・・」



「滝下橋(安らぎ橋)」の「橋紋」。
竹林の姿と、「滝」の文字のデザインが下部に。



「源範頼」の墓に向かい坂を上って行った。



「源範頼の墓」。
源範頼は、源頼朝の異母弟で、義経の異母兄。遠州池田宿の生まれで、幼少期を蒲の御厨で
過ごしたため、「蒲の冠者(がまのかじゃ)」とよばれていた。
源氏の総帥として平家討伐で大きな武功を立てたが、建久4年(1193年)、源頼朝討ち死にの
誤報が伝えられ、悲しむ北条政子に「範頼ある限りご安心を」と慰めたため幕府横領の疑いを
招き、範頼は百方陳弁に務めたが、ついに修禅寺八塔司(はったす)の一つ信功院に幽閉された。
その後、梶原景時の不意打ちに会い、防戦の末自刃したといわれている。
信功院は、現在の日枝神社の下あたりにあったと伝えられている。
修禅寺から西の小山地区の山腹にあり、源範頼の墓と伝わる祠があったが、明治12年に骨壺が
掘り出され、範頼の墓を裏付けるものとなった。
静岡県伊豆市修善寺1082。



現在のこの墓は昭和7年に、日本画家・安田靫彦のデザインにより建立されたものであると。



「源範頼の墓
範頼は鎌倉初期の武将。源義朝の第六子で蒲冠者(がまのかじゃ)と呼ばれた。
治承4年( 1180年)に兄頼朝と義仲が対立した時、弟義経と共に義仲を倒し、次いで一ノ谷の
合戦で平家を破り、功によって三河守に任じられた。その後頼朝と義経の仲が険悪化し、頼朝が
範頼に義経討伐を命じたが断ったため、頼朝から疑われるようになった。
建久4年( 1193年)の曽我兄弟仇討ちの際、頼朝討死の誤報が伝えられ、悲しむ政子を
「範頼あるかぎりご安心を」と慰めたため、幕府横領の疑いを招いた。範頼は百方陳弁に
努めたが、ついに修褝寺に幽閉され、さらに梶原景時に攻められ、日枝神社下の信功院で
自害したと伝えられている。」



「鎌倉殿の13人」に登場する「源範頼」、演じるのは「迫田 孝也(さこだ たかや)」さん。



                              ・・・​ もどる ​・・・


                  ・・・​ つづく ​・・・





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Last updated  2022.03.25 07:56:02
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