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史跡 備中松山城跡 (岡山県中世城館跡総合調査報告2020はこちら) 北側の尾根筋にある雲海展望台用バス回転場から入って、石垣で囲われた大池、鎌倉時代の砦の大松山城跡、近世の神社跡、番所跡、近世の城郭の小松山城と巡れた。1240年から幕末まで都合6百年の痕跡。馬の背ならぬ、牛の背をたどる山城一式だった。雲海展望台前の駐車場は数台分なので、奥の北側の路肩のみ縦列駐車は可と高梁市。雲海の季節はこれから。山中の水利の最大施設。元禄時代1694年に城を受け取った大石内蔵助は、大池について屋根がけと清掃用の船のある様子を手紙に記したと。慶応年間(1604-1616)、備中国奉行の残した絵図では、谷部を堰き止めた池として描かれていると。大松山城跡。1240年、有漢の地頭、秋葉三郎重信が築いたと。北からこの地に進出したのだろうか。底に水がみえる井戸の遺構。他には、本丸、二の丸などのいくつかの平坦地と堀切が残る。臥牛山の最高点。近世に建てられた神社、天神の丸跡。番所跡にある橋、土橋。谷が深い。二重櫓。現存建物。岩盤上に建ち、天守からの避難経路であった可能性もあると。二の丸から。山城で唯一現存の天守と。殿様は、いつもは麓の館、御根小屋で就寝と。備中松山城・小松山城跡はこちら。三の丸、二の丸、本丸。2019.8にほんブログ村
Sep 30, 2020
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吉備高原は、広島県東部から兵庫県西部まで続く台地だそうだが、ほぼ中頃の阿哲台とよばれるカルスト台地を大平山展望台からのぞけた。西方に緩やかな台地が続いていた。北には、大山の頂もみえるらしいが、生憎、雲に隠れていた。24吋別窓表示 眼下にあるのは、有漢と言う街で、岡山高速道が南北に縦貫している。変わった街の名なので調べてみると案の定、古い地名だった。 10世紀前半に編纂された倭名類聚鈔20巻の國郡部の備中國に賀夜郡の郷の記載があった。931年から938年に編纂された辞書で17世紀の写しが国会図書館でデジタル開示されていた。 賀夜郡には、江戸時代、北政所の実家の木下家が治めた足守も表記がある。 街の名自体も、残してゆかねばいけない文化遺産らしい。賀夜郡とあるが、市町村合併前までは、賀陽町だったらしい。夜を賀すのと、陽を賀すのとでは、大分違うように思うが、音の当て字は案外に面白い。有漢は、うまとよんでいたようだが、馬でもいたのだろうか。にほんブログ村
Sep 22, 2020
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史跡 鬼城山 一年振りの再訪。今回は、東の麓から北に血吸川にそって廻り、北門から入った。標高差、350mほど。巨岩が覆い被さるような隘路もあり、深山気分であったが、北門の登り口に入るところは、岩屋への車路分岐となっていた。血吸川の渓流は、温羅伝説に赤にそまるとあるようで、茶で覆われていた。鉄分らしい。 古代の山城の原型が残っているそうで、急峻な斜面で守られ、山頂部はなだらかにひろがり、適地に築城したことがよくわかる。都と太宰府の中間地にあり、海運と国防の要衝と。諸元 標高:鬼城山397m 城壁:8から9合目に2.8km、高さ6m、版築土塁、一部に高石垣、内外両側に敷石 城門:4ヶ所、西、南は堅固、北、東は小型 水門:城壁が谷をまたぐ箇所に排水用水門6ヶ所、下部石積み、上部版築土塁 角楼:横からの攻撃防御施設 建物:7棟の礎石 築城:史書に記載のある大野城と同時期、前、後の諸説。近年は出土物から7世紀後半説西門 24吋別窓表示手前から、血吸川、足守川、その次の丘の向こうの田の中に点にみえる緑が備中高松城址 24吋別窓表示東側斜面の登山路のアプライト。垂直に節理。山頂の岩体にも10センチ間隔の垂直の節理があるらしい。これを敷石にしたと推定されると。アプライトとは、黒雲母花崗岩の急冷層で表面が細粒な優白色岩と。24吋別窓表示北門。アプライトの利用はなく、周辺の花崗岩を利用したものと。24吋別窓表示南門 24吋別窓表示東門。眼下に血吸川。対馬の金田城、太宰府の大野城と似ている古代山城らしい。両城もいつか巡ってみたい。24吋別窓表示
Sep 20, 2020
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今年もみずみずしくてあまい。甘さは、しばらく消えない感じ。吉備高原の乳酸菌栽培のシャインマスカット。稲刈りの傍らで、どこの農場も出荷の真っ最中。ちなみにこの一房900円税込
Sep 17, 2020
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足守川の深奥にあるロックフィルダム。干ばつに苦しんだ村が、谷に池を設けてしのいでいた後に、より確かな洪水・灌漑対策として平成に入って竣工できたそうだ。 洪水吐の深く大きな流路をみると、人と生業を守り、田を潤す勇姿のようで頼もしく思えた。産業・社会を支える電源開発の巨大ダムとは趣が異なり、地域の生活を守る石堤であった。直下の村には田が広がり、下流には、武家屋敷の残る足守、さらにその先には、備中高松が続く。 備中高松では、秀吉が三キロ近い堤を設けて、足守川の梅雨時の増水を取り込み、高松城を水攻めしたのだが、このダムはその足守川の水を制し、流域の村々の田と生活を守っている。水を御する人間の永い営みが感じられた。24吋別窓表示このダムの近くに吉備高原街道が通っている谷が東側にあり、その谷の入り口に福谷チーズ工房(別窓表示)がある。工房では、地域の牧場の生乳と瀬戸内の自然塩を原材料にしたナチュラルチーズが作られている。足守川流域は豊かで穏やかな印象。
Sep 13, 2020
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史跡 高松城跡 附 水攻築堤跡 (岡山県中世城館総合調査報告2020はこちら)豊かな田園の広がる扇状地にたって、東と北を取り囲む丘のような山を確認しながら、東西南北に布陣を追って、三万の兵と旗指物がひしめく姿を想像してみた。 東にある低い石井山に秀吉の本陣跡の白いのぼりが見えた。平原と川と囲む山の位置関係を確認すると、足守川から水を引き入れる水攻めを可能にした地形が理解できた。 三万の軍勢があるとしても、土木工事の短い工期、堤の規模、投入費用の大きさに驚く。今、実感するのは難しいが、さぞかし羽柴方は、勢いづいていたのだろう。 清水宗治の首塚や自刃の地にたつ五輪塔を見ると、本領安堵と家臣の助命を自身の首と引き換えにして切腹する清水宗治の義を思った。 ここから足守川を5キロほど遡ると、江戸期の足守藩の陣屋跡がある。1601年に姫路城から所領替で木下家定が足守藩主となり、明治まで続いたそうだが、家定は、北政所の実家杉原家の兄で、木下、豊臣を名乗ることを許されたそうだ。足守川の秀吉との関係は深い。 穏やかな水田地帯の真ん中に、秀吉の天下取りの起点が静かにあった。24吋別窓表示24吋別窓表示24吋別窓表示にほんブログ村
Sep 10, 2020
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