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「田沼武能 人間賛歌」展
東京都写真美術館 学芸員 関次 和子
ヒューマニズムを追い求めて70年
戦後日本を代表する写真家としての大きな業績を残し、昨年 6 月に 93 歳で逝去した田沼武能。東京都写真美術館では、田沼の 70 年を超える作家活動の軌跡を、代表作と未発表最新作で振り返る写真展「田沼武能 人間賛歌」を 30 日まで開催している。
田沼武能は 1929 年、東京・浅草で写真館を営む家に生まれた。東京写真工業専門学校(現・東京工芸大学)卒業後は、『週刊サンニューズ』を出版するサン出版社に入社、写真家・木村伊兵衛と出会い、彼の助手となった。言葉では決して写真のことを教えない木村であったが、休日の浅草や銀座のスナップ撮影に付きあうことで、田沼は写真を撮る際の被写体との距離や接し方など、その後の写真かとしての必要な多くのことを学んだ。初期の代表作「戦後の子どもたち」は、この時代に撮影されたシリーズである。
1951 年には『芸術新潮』の嘱託写真家となり、出版メディアの勃興を迎えるこの時期、田沼は人物からドキュメンタリー、スポーツなど、ありとあらゆるジャンルの撮影をこなす売れっ子写真家として多忙な日々が続いた。仕事に忙殺される中、独自のテーマを見いだすことを模索し始めた田沼に、ある転機が訪れた。
1966 年に初めて訪れたプロ―ニュの森(パリ)で、一心に遊ぶ子どもたちに心を奪われた田沼は、気がつくと、その様子を夢中になってカメラで撮っていた。この経験から子どもの写真をライフワークすることを決意。 1974 年からは黒柳徹子・ユニセフ親善大使の各国訪問に慈悲で同行取材を行い、新型コロナの感染拡大で海外渡航が制限される前の 2019 年まで、 35 年間続いた。これらの取材では、地域社会の状況に強く左右された社会の縮図として写し出される子どもたちの姿をとおして、その国の現実を浮かび上がらせてきたのである。
一方で田沼は、 1964 年の春から、現代文明に蝕まれていく武蔵野を惜しみ、その面影を求めて四季や風土を撮るシリーズを開始した。自然とはあまり縁のない東京の下町に育った田沼にとって、雑木林や野鳥の遊ぶ池、寺社など素朴な武蔵野の姿は、心の中に描いてきた心象風景としての『ふるさと』のイメージそのものだった。古くは江戸の台所として人々の生活を支えた自然豊かなこの地は、戦後の高度経済成長の陰で急速に姿を変えようとしていた。武蔵野羽田沼の心をとらえ続け、あらゆる季節に、広範囲にわたる撮影が生涯続けられたのである。本展では、「ふるさと武蔵野」から未発表の最新作も紹介する。
田沼の写真かとしての活動を支えてきたものは、「人間」へのあくなき興味と、同時代に生きる人間がおりなすさまざまなドラマを写真で表現し、伝える喜びにほかならなかった。戦争や災害など人々の暮らしに暗い影を落とす時代にあっても、田沼は生涯人間の営みを追い求めて、表現し続けてきた。その理由を次のように語った。
「社会の事情や文化、風土が異なっても人間は生きることへの希望を決して忘れることはない。だからこそ人間はすばらしいのだ」
(せきじ・かずこ)
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