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ミッシェルの母です。皆さん、こんにちわ! 娘が、フロリダにてピアノ調律の仕事を始めて、お陰様で4年目に入りました。少しづつですがお客様も増え、娘も仕事に精を出しています。 私も、20代半ばの娘に向かって、相変わらず、コーチのごとく口うるさくアドバイスをしがちですが、その数もずっと減ってきて、親子してストレスを貯めることも減りつつあります。 こちらにウェブサイトがありますので、是非、覗いて見てくださいね。 www.michellepianotuning.com 次回は仕事の様子を、お知らせします。
2014年09月11日
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この日記に最後に投稿してから、ずいぶんと長い月日がたちました。ひょっとして、無眼球のミッシェルは今頃、どうしているかな、、?とふと思われる方もいるかと思い、この場で、近況をご報告させていただきたく思います。娘は無事にフロリダ州立盲学校を卒業し、その後、2年間、アメリカは西海岸のワシントン州にある、The School of Piano Technology for the Blind という学校でピアノ調律と修理の勉強をしました。昨年の6月末に、優秀な成績で卒業。夏の間は、アラバマ州のピアノ店で荒修行をさせていただき、去年の9月からは、地元フロリダでピアノ・テクニシャン(アメリカでの、ピアノ調律師の名称です。)としてビジネスを始めました。ドライバー兼アシスタントを務める母としては、毎日が、さまざまな発見・驚き・冷や汗の日々ですが、ピアノ調律という情熱を見つけた娘に、「良くここまで頑張ったね。これからも、自分の信じた、好きな道をまっすぐに進んでいきなさい。」と心から祝福の気持ちで一杯です。いつも感じることは、、、人生、本当に山あり、谷あり。しかし、どんな環境におかれようとも、努力を続けることの大切さを、私は娘に教えてもらった気がします。彼女の人生、これからが新たなスタートです。 本当に自立できる日が来るまで、2-3歩後ろから、これからも、応援していきたいと思います。娘のビジネスのサイトがあります。ピアノ調律している画面なども入っていますので、一度、覗いてみてくださいね。Michelle's Melody Fine Piano Tuning, LLC.www.michellepianotuning.comありがとうございます。
2012年05月08日
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2月も最後の日となりました。 春のような陽気が続いたフロリダの冬も、そろそろ終わりに近づいている様子。木々も新緑をつけ始め、新しい生命の誕生の時です。昨日は、娘の義眼の調整に地元の義眼師のデボラさんに会いに行きました。デボラさんは、元々、歯科のアシスタントを長年続け40歳にして、義眼師の道を歩もうと、いとこの義眼師さんに指導をあおぎ、その道に入ったそうです。確か、6-7年前にこの町に引越し、開業されています。さて、去年の2度のハイドロジェル・ティシュー・エクスパンダーの手術で 上まぶたと下まぶたの皮膚が伸び、効果はみられたものの、義眼をつけると、どうしても、下まぶたの鼻側半分は、皮膚がつられてか、内側に入ってしまいます。ドクターとも相談して、次のステップとして義眼師に義眼の形を変えてもらい、下まぶたを内側から押して、まつげが外にでるような方法がないか、相談することなっていました。余談ですが、ドクターからは、娘の目の整形の面では、長期的な計画として将来的に次の3つの手術の可能性を示していただいています。1.やや閉じたように見える目の開きを大きくし、より自然な目にする方法: 上まぶたの筋肉を、まゆげの筋肉につなげる。それにより、まゆげの筋肉を使って、瞬きをしたり、目を開いたりする事ができる。2.目と目の距離が離れている事への対策。鼻の側から目の幅を広げる方法: 鼻の筋に目じりの皮膚を縫い付けて、鼻のほうに皮膚を引っ張る。(うまく日本語で表現できないのですが、目と目の間を指でつまんだような感じ。)3.下まぶたを外側に出す方法: 義眼の形を変えても、下まぶたが外側に出ない場合は、下まぶたの内側に、内の中の粘膜をとり移植して、外側に押し出す方法。勿論、これらは、本人が希望すればの話です。今までは、「自分は見えないし、義眼も不快感無く入っているし、痛い手術はしたくない。」というのが、本人の正直な気持ちであったようですが、年頃になり、最近はおしゃれも始めたので、本人が希望するようであれば、親としては、手術をしてやりたいと考えています。さて、義眼師のデボラさん、娘の緑色の義眼を取り出し、ちょうど、下まぶたに当たっている義眼の表の部分に、ワックスで厚みをつけまじめました。試しに目に入れるたびに、「アウチ!(痛い)。ざらざらしている。」といつものように、素直に気持ちを発すして笑う娘に、デボラさんも、「ワックスだから、ちょっと我慢してね。」と優しく声をかけます。娘は小さい頃から、痛い、怖い、寒いと言った状況になると大声で文句を言いながらも、同時にけらけら笑いはじめるという、、、考えようによっては、とても明るい性格をしているのが幸いです。何度かワックスをつけても、「フーム、、、。」と険しい表情のデボラさん。「ダメだわ、、どうしても内側に入ってしまう、、。」でも、諦めずに、ワックスの料を変えたり、つける位置を変えたり、何度か繰りす彼女。事がうまく進まない場に起こりがちな、なんともいえない、やるせない雰囲気が立ち込める診察室で、緊張した空気をほぐすべく、私達は、たわいもない世間話を始めるのでした。そんな時、娘がデボラさんにぽつりと話し始めました。「私は目があったら、どんなに良いかと思うの、、。義眼もしなくて良いし、、。それに、目が見えたらとも思う。だって、見えたら何をするにももっと楽だと思うから。いつか目が見える技術が開発されたら、私は絶対に見て見たい。でもね、、人は、それぞれ魂なんだけど、生まれる前に、皆、自分で人生の計画をしてくるんだって。だから、私は目が見えない体で、この世で修行をしようってそう決めて来たらしいの。ママがそう教えてくれたのよ、、。だから、私は目が見えなくても、頑張る!」娘の横顔を見つめながら、私はふと、、こんなに我慢して頑張って生きている娘の横顔、なんて美しいんだろう、、、。もし、下まぶたが外に出なくたって、いいじゃない、、逞しく、美しい娘がそこにいる。もう、いいよ。娘に辛い思いはさせたくない、、。」と、、何故か、娘の下まぶたに対する執着のようなものがすーと薄らいで消えていく、、そんな暖かいやらわかい気持ちになって来たのでした。「デボラさん、もし、難しかったら、無理せずに、やれるだけやってみて、とにかく、その厚くする義眼を2-3ヶ月入れてみましょうよ。」と感謝の気持ちで、彼女に声をかけました。 と、、話している瞬間。「お!左の目は、まぶたが外に押し出されてる。これはいけるわ!」と、右の義眼にも同じような感じで、ワックスを付け足すデボラさん。確かに、左目も右目も、まぶたが外に押し出される形でまつげが外を向いているのです。瞬きをするたびに、入ったり出たりはしていますが、これは試してみる価値、大いにあり。女性3人、心の底からの笑顔が沸き、キャッキャと話をして、「では、今日は義眼を預かって形を付け足しておくから、明日の午後、また来てね。」といわれて、デボラさんのオフィスを後にしました。さて、、何をかくそう、、今週は月曜日からフロリダ州の共通試験の真っ只中。この共通試験に合格しないと、高校の卒業単位がもらえません。で、、デボラさんの都合で、予約が延び延びになっていたので、これ以上、予約は伸ばしたくなかった母は、学校を早退になるけれども、デボラさんの都合が良いという昨日と今日に予約をいれたのでした。去年のテストの事など、あまり記憶に残っていない私達は、 予約をする前に、学校の教頭先生に聞くと、「あ、、試験は午前中だけだから、午後からの予約なら、問題ないですよ。」と許可もいただいたのですが、、、、。昨日は娘を迎えに行くと、なんと、午後だと言うのに、皆、必死でテストを受けている最中。クラスに入り、先生に白い目でみられながらも、、土壇場で予約をキャンセルするわけにもいかず、事情を説明して、残り時間1時間半という時に、娘には申し訳ないと思いながら、、娘を連れ去るようにして予約に向かった私でした。視覚障害者の場合、テスト時間は晴眼者の3倍は使ってよい事にはなっているそうで、娘の場合も、今週一杯はテストに使えるそうです。しかし、朝の8時から午後の3時半まで、昼食の休みは40分ぐらいあるにしても、毎日テストを受け続ける子供達は大変です。「あ~、テストにはホトホト疲れた、、」とつぶやく娘に、「よかったね、ママがレスキューに来て、早退できたから。今日はテストも1時間半早く終われてね。」なんて、、、予約をいれてしまったから仕方がない、、何事も前向きに考える事にしています。(笑)追伸: 改行のやり方が変わったのでしょうか、、文章の間にが全部つまってしまい、読みずらい点、お許しください。だれか、改行のやり方、スペースのいれ方、教えてくださいませ。
2007年02月28日
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こんな時の娘は強いもので、決してあせったり、泣いたりしません。「目が無く生まれて、いやだ、、。」と愚痴はこぼれるものの、後は全て母の私に任せて、本人はじっと我慢をしています。クリニックには前日に電話をいれ、月曜日になったら、ドクターに見てもらうことになっていましたが、それまで待っている場合ではありません。すぐにボルスターを止めている糸を切り、すでにまぶたの皮膚にうまりこんでいる糸を、そっと取り出して、皮膚を傷つけないようにボルスターを取りました。3週間が経ち、大きく膨らんだエクスパンダーは眼球のごとく、まぶたが半分かぶさる形になって、目の中にとどまっていますが、裂けた部分は、痛そうにひっぱられています。下まぶたはいまでも、外側にでているものの、こうなると、エクスパンダーは効果を果たすよりも、裂けた場所をさらに広げるという逆効果に働いているように見えて仕方がありません。金魚の目のようになった娘も、まだ痛いと言っています。そうこう迷っている内に、勤務を終えて帰ってきた消防士の夫は、「じゃあ、エクスパンダーも外そうよ。」私の迷いを断ち切って、結論を出してくれました。エクスパンダーを縫い付けている糸も今回は夫が外してくれ、縫い付けた後は、白っぽくなっているものの、まぶたはひっぱられる事もなく、赤みや腫れも、その日の夜には大分ひいてくれました。主治医の診察は、早くて1週間後との事。それまでは、無理に義眼を入れず、裂けた場所には薬を塗っておくことにしました。下まぶたも、内側に入り込むことが無く、外側にでています。上まぶたは大分広がったようで、義眼をいれない目は、うっすらと二重になっています。痛みもあまり無いという娘の姿に、私もまた、元の平静心にもどることが出来ました。一週間後のドクターの診察では、まぶたの小さな裂け目は、また、ちゃんと閉じるからとドクターは全然、気にする様子も無く、私を安心させてくれました。「大分広がって良かったね。」とのドクターのコメントに、娘も笑顔を見せています。前回の「まぶたが裂けた!」の日記を読んで、ご心配をおかけしたかもしれませんが、治療を終えて一ヶ月半が過ぎた今、裂けた部分は、心持赤い点が残るぐらいで、殆ど解りません。現在は、今まで使っていた義眼を着用しており、下まぶたの目じり側の半分は、外側に出ていますが、鼻側は、鼻の方に皮膚がひっぱられる為か内側に入りこみがちです。後は、義眼師の先生の方で、義眼の下の方に厚みを少しつけて下まぶたが外側に出てくるように試してみることになりました。娘との約束どおり、2度の手術でハイドロジェル・ティッシュー・エクスパンダーの治療はおしまいです。ここまで読まれた皆さんの質問のひとつは、多分、「手間とお金と時間をかけてやった甲斐があったかどうか」だと思います。私達はやって良かったと思っています。この治療は、赤ちゃんや小さなお子さんに効果が多いと聞いていますが、高校生の娘のまぶたにも、それなりの効果が見られました。無眼球の治療方法は、様々です。医学の技術が急速に進歩する現代、これから、どのような治療方法や技術がでてくるか解りませんが、「いつか、見える技術が開発されたら、私は見えるようになってみたい。」と本音をもらす娘にも、「見ることの選択」が出来る時代がくるのかもしれません。でも、今は、見えても、見えなくても、自らが与えられた環境の中で、自分らしく輝いて生きて行く事に、人生の大きな意味があるでしょう。手術への質問は、私書箱にお送りください。(終わり)
2007年01月10日
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ハイドロジェル・ティシュー・エクスパンダーを使ってのまぶたの治療は、まぶたが急に拡張する為の痛みと多分、手術で縫い合わせたところの痛みとで、娘の場合、最初の2-3日は痛みが大きく、鎮痛剤を服用します。そして、朝晩と、まぶたを縫い付けてある部分には、抗生物質の軟膏をうすく塗ります。4-5日すると、もう痛みは大分治まり、1週間目ぐらいからは、今度はかゆみに変わるようです。ところで、このカタカナ英語の意味ですが、ハイドロジェルとは、エクスパンダーに使われている素材のことで、ティシューとはTisue、つまり生物の組織の意味で、それをエクスパンド、Expand、広げる、ハイドロジェルを使って、組織を拡張させる治療、そのような意味になります。さて、半日がかりで病院に行き、解けた糸を結びなおしてもらったものの、翌朝、眠っている娘の顔を覗き込むと、なんと!糸は、また、ほどけてしまっていました。「こんなにあっさりと解けてしまうのに、毎朝、授業を休んで病院まで結びなおしに行くわけにもいかないわ、、。それに、まぶたはしっかりと縫い合わせてあるし、補強のボルスターの糸がほどけたのだから、、、このまま、様子をみて、1週間後の、主治医の先生の診察まで待とう~。」と母はごちゃごちゃとひとり思いをめぐらせながら、結論をだしたのです。結論が出てしまえば、後は、気持ちも楽で、かなりパンパンに膨れてきた娘のまぶたを「とっても広がってて、良いみたいだよ~。」と励まし、学校に送り出しました。翌週の主治医の診察では、さらに短くなってしまい、ピンセットではさむのがやっとの様な片方の糸に、新しく糸を結んでつけたし、その長くなった糸で輪をつくり、5ミリ程になった、もう片方の糸を輪の中を通して、再度、結びなおしてくれました。まぶたの方は、特に赤みも無く、みやにもなく、拡張は順調に行っていますが、残念ながら、この糸は、また、翌朝にはほどけてしまいました。左目の糸の方は、しっかりとプラスチックのボルスターの上で、結び目のまま、とどまっていてくれます。抗生物質の軟膏も、ドクターの指示で、9日目には使用を止めました。その後の1週間は、まぶたもかなり拡張し、特に内側に入り込んでいる下まぶたが、エクスパンダーのお陰で、しっかりと外側に出てきており、効果が見られるのは、その苦労が報われ、嬉しさがこみ上げてきます。サングラスをかけて登校する娘にも、毎朝「とっても良いよ~。今日も頑張ろうね」と声をかけ励ましました。治療が順調であることに、彼女も嬉しそうに、スクールバスに乗り込む後姿も、さっそうとしています。さて、2週間半が過ぎたころから、急に娘のまぶたが赤みを帯びてきました。心持ち、腫れてきているようです。その週は、感謝祭の週間で学校は一週間お休み、感謝祭当日の木曜日は、クリニックもお休みだし、まだ、治療は3週間にも達していないので、抗生剤の軟膏をつけながら、そのまま、様子を見ることにしました。私はといえば、木曜日の夜から体調を壊し、娘の赤みを帯びたまぶたが気になりながらも、翌日の金曜日は、一日寝てる羽目になりました。ここ3-4年、風邪もひかず、病気で寝込んだことも無かったのですが、まあ、「心配しないで、ゆっくり休め。」というサインかもしれません。こういうとき、性格がとっても似ている夫と長女は(何事もあまり心配をしない、とっても良い性格)ミッシェルの目の腫れのことにも、これも治療の一部だろう、、と殆ど気にかける事もなく、私が寝ている間も、彼らは彼らで1日読書をしたり、テレビを見たりと、楽しく楽しく過ごしたようです。さて、そうこうしいている内に、金曜日の夜、私が起き上がって来た頃には娘のまぶたはさらに腫れあがり、目やにも出て、痛い、痛いと訴えていました。プラスチックのボルスターはまだ、くっついていますが、その下から、まぶたを縫い付けた糸が、だんだんと外れて来て、まぶたが開きかけて来ています。週末はクリニックも休みだし、さて、赤くはれ上がった目を見ながら、「私が起きていたら、昼間のうちにクリニックに連れて行ってドクターに相談できたのに、」と自分を責めずにはいられないのが、私の悪い性格。素人の私には、その赤い炎症がどの程度、悪いものかの判断はできません。しかし、悩んでいても仕方が無いので、気をとりなおし、糸がとれているボルスターの半分を切り取りました。手術直後に、私は疑問に思っていることを主治医に質問しました。それは、「エクスパンダーが膨れて、まぶたが拡張されてきたら、このボルスターの糸はひっぱられすぎて、、まぶたに問題はありませんか?」それに対して、ドクターは「これはまぶたが開かない為の2重の補強で、大丈夫。」との返事。でも、糸に引っ張られて、万が一、まぶたが裂けたりすることはないのだろうか、、、と不安に思いながらも、とにかく、もうすこし、エクスパンダーに目の中にとどまってもらうことにしました。いっそのこと、エクスパンダーを取り出して、娘を楽にしてあげたい思いと、少しでも長く入れておいて、最大の効果を出したいという思いに、母の心も揺れるのでした。そして翌朝の土曜日。いやな予感は的中。ボルスターを止めている糸がひっぱられて、まぶたの端が、1-2ミリほど、両目とも3箇所ほど裂けてしまっているです。ご想像の通り、私は「昨晩、ボルスターを取ってあげるべきだった!」とさらなる後悔の念に襲われたのでした。大体、こんな時の私は、自責の念にかられて、結構、怒りに心を支配されているので、娘のまぶたを見つめながら、「あ~、裂けてるよ~!」などという痛みを我慢している当事者の娘をさらに心配させるような言葉を口走っていたに違いありません。(続く)
2007年01月09日
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2007年が始まり、2週間ちょっとのホリデーを楽しんだ後、今日から、立盲学校は後期の授業が始まりました。相変わらず、前日までは、長い休みの後の登校に気が重い様子でした。しかし、今朝は気持ちも軽やかそうに、スクールバスに乗り込んで行きました。この冬休みのゆとりの時間の中で、娘も、またエネルギーと勇気の充電が出来たようです。さて、今日は昨年の末に受けた、ハイドロジェル・ティシュー・エクスパンダーの2度目の治療のご報告です。夏の手術で、特に下まぶたに効果が見られたので、再度、さらに大きなサイズのエクスパンダーをまぶたの中に入れ、上まぶたと下まぶたの拡張を試みました。夏の手術では1.5CCの半球のエクスパンダーを使いましたが、今回は、このドイツ製のエクスパンダーのアメリカでの代理店をしているIOP Incの社長さんにお願いして、娘用にと2.0ccを特注してもらいました。(ご参考までに、この治療はアメリカでは認可を受けているので、普通の手術同様、私達が使っている健康保険では大半をカバーしてもらえます。)2度目の手術でもあり、娘も私達も手術前・手術後の手順にも慣れ、ドクターも、今回はすぐにエクスパンダーが飛び出さないようにと、目じりを縫いつけた上から、さらに、ボルスターという、細いストローのような1.5cmぐらいのプラスチックを両方のまぶたのはじに乗せ、その中を糸を通して、上まぶたと下まぶたを縫い合わせるという手法をとってくれました。手術は月曜日の朝だったので、エクスパンダーがかなり膨張して痛む2日間は学校を休み家で休養することにしました。さて、人間の気持ちはこうもジェットコースターのようにあがりさがりするものかと思うほど、手術の翌日から、私の心配・苦しみがまた、始まったのです。人間、頭では「毎日、心を静かに、平和な気持ちで暮らしたいものだ。」と思ってはいても、実際に、自分や愛する者の身に災難がふりかかったり、また、計画通りに事が運ばないと、どうしても、心が乱れるものですね。今回は、手術の翌日には、右目のボルスターを止めていた糸が、きれいに解けて、びよ~んと垂れ下がっているではありませんか。元々、こういう事態にあわてる性格の私は、「長い準備をした末に、受けた手術。大きなエクスパンダーを入れた事で、まぶたがひっぱられすぎて、すぐにエクスパンダーが出てきたら、元も子もないわ!」と病院にすぐに電話をいれました。こんな時素人の考える事は、、、(こんなことを考えるのは、私ぐらいかもしれませんが、、)「遠い病院までドライブしていくよりも、いっそのこと、家にあるスーパーグルーで糸をプラスチックにくっつけてしまおうか、、。」その事を正直に看護婦さんに相談すると、「オー!ノー!そんなことしちゃ、だめよ。他のドクターに見てもらえるから、明日の朝、いらっしゃい。」とあっさりと否定されてしまいました。素人目にはどうみても、結びなおす事など不可能としか思えない程のほどけた短い糸を見つめ、「あ、、また、手術をして縫い直しなんていわれたら、どうしようか、、」と娘の気持ちを考えると意気消沈、翌朝、学校へ行くのを遅らせて、渋滞の中、病院へとハイウェーを飛ばしました。さて、病院に着くと、別なドクターがすぐに診てくれ、「フム、フム、大丈夫、糸を結びなおしましょう。」と手術用の先のとがった、ピンセットとはさみを取り出し、短い糸を上手に操って、糸の結びなおしに取り掛かりました。両方の糸を持って、普通に結ぶ事が不可能な短い糸です。私はそのドクターの糸の結び方に、非常に感心しました。まずは、長めの糸をピンセットでつかみ、ピンセットを上手にこなして、輪をつくります。これが、本当に2ミリぐらいしかない小さな輪。次に、片方のピンセットでその輪をつかみ、反対側の手で持った、別の細いピンセットをその輪の中をくぐらせて、もう一方の短い糸をつかみ、ひっこぬき、輪をくぐらせて、、、つまり、結べちゃうわけです。最初に輪を作ってくぐらせる所が難関ですが、その後は、いたって簡単に同じ事を3度ぐらい繰り返し、はい出来上がり。と言っても、痛がってまぶたが動いてしまうミッシェルを相手に、何度も何度もやり直して、結ぶ作業は20分ぐらいかかりましたが、スーパーグルーも使うことなく、また、再手術をすることもなく、糸は元通りに結ばれ、やれやれ、ほっとしたのです。こんな時、多くの親は、「いいよ、いいよ、今日も学校やすんじゃえ。」というかもしれませんが、休めば休むほど、宿題がたまり、夜中の1時過ぎまで起きて宿題をこなす娘の姿を思うと、「さあ、よかった、よかった。学校へ行こう!」病院から学校へ向かいました。こんな時、一番つらいのは、遠くまでとライブする母の私では無く、痛い治療を受けながらも、「目が無いこと」を多少はうらみながらも、あまり好きではない学校へ行き、授業を受ける本人であります。車の後ろの席に座る、その彼女の口から出る言葉は、愚痴ばかり、、、。彼女の気持ちを考えながらも、励ます方の私も、なかなか止まらない愚痴にだんだんとイライラしてくるのでした。気がつくと、道の遥か前方を信号も無いのに黒い人影が横断しようとしているのです。ふと我に返り、「あ、危ないわね、あの人、信号でも無いのに、のろのろ歩いて渡ろうとして。渡るなら走って渡って~。」と思うや否や、、一瞬にして、通り過ぎたスピード制限の標識と自分が運転している車のスピードメーターに目をやると、その人影が、実は私の車を止めにかかる、スピード違反を取り締まるポリスの姿であることに気がついたのです。時すでに遅し、、私は道端に誘導され、おまわりさんからしっかりとスピード違反のチケットを、生まれて初めて、うけとる羽目になりました。なにか、大きなミスをとがめられたようで、いやなものでした。それは、娘の心にいらついた私の心をとがめられているようでもありました。話はそれましたが、母親はついつい子供のことで頭が一杯になり、注意散漫になるものです。皆さんも、ハンドルを握っている時は、くれぐれも、心配事に心をとらわれすぎないように、ご注意ください。私も事故にいたらずに、幸いでした。続く。
2007年01月08日
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大分、朝晩涼しく、秋の気配を感じつつあるフロリダです。でも、まだまだ、冷房しています。さて、今年の夏休みに受けた、ハイドロジェル・ティシュー・エクスパンダーを使った治療の話を、「次女の歩み」のページで「16歳の夏の手術1,2,3」として紹介させていただきました。私も素人ですから、あまり、技術的な詳しい事には触れていませんが、特に無眼球の赤ちゃんには効果がると言われている治療ですので、日本ではまだ、無認可だそうですが、なにか参考にと思い、紹介させていただきます。確かに、全身麻酔の手術と何度かに渡る手術、そして、長い治療の間のケアーと勿論、経済的な負担もと子供や家族への負担も大きいかとは思いますが、娘が生まれた頃と比べても、これだけ、技術も進歩して、治療のやり方でも、より効果的な方法が生まれ、選択枠が増えた事、嬉しい限りです。
2006年10月17日
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8月上旬に始まった新学期も、一ヶ月半が過ぎ、生徒達もそれぞれのペースが出来てきた様子。娘の新学期は、新しいクラスの授業に慣れることと水泳部の活動で、毎年忙しい。さらには、毎年、様々な団体・個人から寄せられる寄付金でここ3-4年にわたり、フロリダ盲学校では視覚障害者用の最新のコンピューター技術の導入に力を入れてくれるのがおってもありがたい。そこで、娘も学校から、スクリーンリーダーの付いたノートブックコンピューターとBraille&Speakという、点字入力でノートが取れる大変便利な機械、そして、新たにCDにコピーされた分厚い教科書を読み上げてくれるテレックスと言うCDプレーヤーを新学期になるおt貸し出してもらい、社会の一員となって活躍するべく、効率良く情報を得て、勉強する方法を訓練中なので、なかなかややこしく、全てにおいて、習慣ずけるまでが見ていても大変そうだ。だから、2ヶ月半ののんびりとした夏休みにくらべ、新学期は、親子ともども、180度回転の多忙な生活ペースに戻るのにちょっと時間がかかる。フロリダの一般的な家庭の親から見たら、我が家はかなり、子供に対して、あれこれと干渉も多く、彼女の生活態度に対しても、かなり厳しいかもしれない。でも、後、3年か4年で高校を卒業する時には、自立できるようにしてやりたいと思う、これも親心である。高校の間に、なるべく多くの経験をさせてやりたいし、そして、それと同時に、親が支えてきた多くのつっかえ棒を、一本ずつ、外していけたらと思っている。今までは、あれをやったらどう?これをやったどう?と親が選んでやらせていたことも多かったが、今は、親としては、弱気になる彼女を勇気づけるぐらいで、後は、自分に選択させるようにしている。考えてみたら、もう、16歳である。目が見えないこと、末っ子であること、ついつい、親が手を出してしまうので要注意。失敗しようが、遠回りをしようが、目が見えないと言っても、いずれは自分の足と白杖で進んでいかねばならないと親も本人も解っている。あまり先の事を心配して、あせっても仕方が無い。だから、今日出来る事、今やるべき事、それをひとつひとつクリヤーしていくそんな習慣がついてくれたらと、水泳部の練習に疲れて、朝起きるとボーとしている娘に「貴方なら、出来る!」と気合をいれて、今日も送り出し、感謝の1日を始めた。
2006年09月21日
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前回の日記を書いてから、本格的な猛暑が始まり、今日は8月15日。こころフロリダでは先週から新学期が始まり、まだまだ続く暑さの中、子供達もだるい体をひきずりながら登校しています。この夏も色々な学びがありました。大きな収穫は、親も子供も、娘の自立へと焦点をしぼり、あえて、心を鬼にして、一人でやる、ひとりでやらせるモードに切り替えたことだと思います。そのきっかけは、5月末に参加したNational Federation for the Blind会議で、スピーカーとして講演をしてくださったニュージャージー州に住む、お母さんと全盲の娘さんとの出会いでした。この娘さんは未熟児網膜症で多少、光は感じるようですが、生まれつきの全盲だそうです。幼稚園の時から普通の公立に通い、現在は大学に進学しルームメートと二人の寮生活をしながら福祉のカウンセラーになる為の勉強しているそうです。そのお母さんからのメッセージは、「まず、自分の子供の障碍が何かをいち早く見つけ、そして、ではそこから何がその子にベストな訓練・教育かを探していく事。」また、育てていく過程でも、「もし、その子の目が見えたとしたら、その子の障碍が無いとしたら、その子は一体、何をやりたいか、何が好きか、その子の性格も考えてあげ、そちらの方面からも、可能性を見つけてあげること。」そして、社会の中で、(この場合、メインストリームをさしていた)成功していくには、「なるべく、自立させること。なるべく、何でも自分で出来るように親も学校も、子供を指導していくこと。小学校ぐらいまでは、補助の先生についてもらっていても、中学になったら、補助の先生を放していくこと。中学・高校になって、クラスメートに頼ることが少なければ少ないほど、つまりクラスメートが助けてくれなくても、ひとりで学校生活を送ることができれば、クラスメートのお荷物にもならずに、良い友達関係も作れる。現在の多忙な日々のなかで、親がやってあげた方が、周りの人間がやってあげた方が、よほど早い事が多く親にとっても、スムーズで楽だけど、でも、そこでじっと我慢。忍耐です。時間がかかっても、一人でやらせなさい。そして、毎朝、毎朝、今日もなにか少しでも一人で出来る事を増やしてあげようと、親は自分に言い聞かせ、努力する事です。」この3点が、私の心に大きく響いた言葉です。確かにこの娘さんは、利発で優秀な生徒さんだと思うのですが、子供それぞれ、障碍も違い、出来る範囲に個人差は沢山あっても、以上の3点は、資格障碍児を育てる親として、学ぶ点が大きいと思いました。私が狭い会議室から、娘が椅子にぶつからないようにと彼女の手を引いて、ドアの方へと導こうとすると、すかさず、そのお母さんが「そうやって、何でも、手を貸さないことよ」と注意し、ニコッと笑ってくれました。そうなんですよね、、知らず、知らずの内に、家の外では彼女の手を引くのがあたりまえ。特に、車社会のフロリダの町で、駐車場からショッピングセンターの中へ、または、レストランの入り口へ、、建物の中でも、目的の場所へ、そして椅子が並んだ部屋の中でと、、。とくに早歩きでせっかちな私は、いつも彼女のサイト・ガイドとなり、娘は娘で、私に頼り切っていたのです。その娘さんを見いていると、ホテルの周辺の移動でも、白杖を片手にどんどん進んで行きます。確かに、人に頼らずに自分で歩く事で、体の五感、六感が磨かれるのではないでしょうか、、。「失敗したな、、、。もっと、早くから、心して、手を貸さずに一人で出来るように育てるべきだったな、、。」と後悔の念にかられている私の話を聞きながら、「いいのよ、いいのよ。今日からがまた、新しいスタートでしょ?」と笑顔で励ましてくれたお母さん。高校生になった娘と母。そう、今日からまた、スタートです。* * *その会議の会場となったホテルでは、あちらでも、こちらでも、多くの視覚障害者の方々が、サイト・ガイドに頼ることなく、、、白杖を片手に、また、盲導犬と一緒に、行き止まりの壁にぶつかりながらも、人にぶつかりそうになりながらも、わが道をしっかりと進んでいました。盲学校という安全で、設備も整った天国のような環境にいると、盲児にとって良い環境が当たり前の生活になりがちですが、いずれ巣立って行く社会でも親元を放れてやっていけるように、この夏から心して、自分でやれること、やることを増やそう!と心に誓った親子です。「どうでも良くなる瞬間」という表現は、あまり好きではないのですが、、いつかは子供に家を出て、自立してもらいたいと願う親心、その自立の道へは、障碍があろうがなかろうが、親の方にも、この「どうでも良くなる気持ち」が多少なりとも必要ではあると思うのです。前学期、チェスクラブに入って毎朝のように授業が始まる前の練習に参加していた我が娘。チェスの日は、私が送っていったので、いつものスクールバス降り場ではなく、高校の校舎の近くの駐車場に車を止め、そこから、150メートルぐらいを最初は左に曲がり、次でまた、ちょっと左に曲がり、そしてT字路に来たら、右に曲がると、最初のドアが、チェスクラブの集まりのある建物。と何度も何度も、来る日も来る日も一緒に歩いて練習を重ね、、正直なところ、私の忍耐にも限界が来た頃に、、「もう、ひとりで行ってごらん、何度も練習したんだから、大丈夫だよ。」と励ましたような、、「これから、ひとりで行ってごらん。もう、このぐらい出来てあたりまえだよ、難しくないんだから。」と冷たく言い放ってしまったか、、記憶にないのですが、、、ある朝、私は、彼女を降ろして、一人で行かせたのです。いくらなんでも、もう覚えて当然、と勝手に決めた私は、後ろ姿を暫く見送ってから、車でその場を走り去ったのですが、、さて、裏門を出る前に、遠くに見えた娘は、最後のT字路で躊躇したあげく、右へ行く所を、左の方へとさっそうと歩いていってしまったのです。以前の私だったら、「あ、間違った、教えなきゃ、迷子になる。クラブに遅刻しちゃ悪い。」と多分、車をユーターンさせて、汗をかきながら走っていとしい娘をつかまえて、ちゃんと、部屋の前まで送り届けていたでしょうが、、「もう、いい加減にせい!私のやるべき事はやった。自分で、間違ったと気がついたら、誰かに聞いて、もどるだろうし、広い校舎と行っても、フェンスで囲まれているから、迷子になったって、キャンパスポリスに探してもらえる。」と、正直、もうどうにでもなれ、迷子になって遅れたら、それも自分の責任。何度も練習しても、親が一緒だからこそ、知らず知らずのうちに頼りにして、自分の体で覚えないのかもしれません。自分の力で考えようとしないのかもしれない。後で、盲学校の先生に、その時の気持ちをこぼすと、「お母さん、そうだよ、そうだよ。もういい加減にしろって親が思って子供を突き放すから、子供は自立の道を勧めるんだよ。」と、、子供を置き去りにしてちょっと後ろめたい気持ちでいた私は、その先生の一言に、なぜか、すがすがしい気持ちになれたのでした。そして、娘も何事も無かったかのように、「今日は楽しかったよ~」と帰って来ました。
2006年08月15日
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ゆうさん、書き込みありがとうございます。と、お返事を書いてアップしたのですが、書き込み欄に出てきませんね~~。どうした訳か、、。まあ、いいか。と年とともに、何事にも、段々と執着心が消えて行く昨今です。この執着心が消えていく感じ、、楽ですね。「え?言葉を返せば、めんどうくさいんじゃないの?」という誰からの声が聞こえてきそう、、。先日、上の娘の話を書きましたが、下の娘の頑張りもなかなかのもの。しかし、頑張りすぎて、毎年5月ごろになると、フロリダ流5月病らしき症状が出てくるのです。私の言うフロリダ式5月病は、気候も段々と暑くなり、長い長い夏休みを目前として、いわゆる、あと、一息のところで、もう、ぷっつんしそうなぐらい心身ともに疲れてくる状態です。そうなると、毎日出てくる言葉が、「夏休みが待てない、、。」「学校の先生はどうしてこんなに宿題を出すんだろう、、。」「宿題を出す先生は嫌いだ、、。」と否定的な言葉が増えて来て、親はそれを毎日、聞かされるようになる次第。でも、今年は大分成長した精か、フロリダ流5月病らしき症状も殆どみられず、本人、毎日、家に帰り夕食をすませると、もくもくと一人で宿題をこなしています。この弱音をはかずに、もくもくと頑張る姿には、ここまで、良く大きくなってくれたものだと、本当に、後ろから抱きかかえてあげたいぐらい胸を打たれるのですが、(また、親ばかですね~~)しかし、もくもく一人でが、気がつくと夜中の12時を回ったりして、そうすると翌朝起きるのが、もう大変。そこで母は、ついつい「宿題やるのに、何時間かけてるの、、。早くしなさい!」ともくもく頑張り続ける娘に叫んでいたりと、、ひょっとして、フロリダ流5月病に火をつけているのは、なんて事無い、この私だったのかもしれません、、、、。ごめんね、、我が娘よ。「どうでも良くなる瞬間」のお話は、この次。
2006年05月11日
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風が涼しく、すがすがしい春もあっという間に走りすぎ、フロリダには、日中気温が30度に上る日々がやってきました。日本にいる頃は、春と言えば、「暖かい風の吹く春」、と言うの一番の表現だと思っていましたが、蒸し暑い夏が半年以上も続くフロリダに住み慣れると、春は、「涼しく、すがすがしい季節」と言うのがぴったりだと感じるのは、私だけではないようです。日本では新学期を向かえ、新緑の美しい、そして五月晴れの5月。こちらは、長い夏休みが目前と言ったところです。娘の盲学校も今月末から、2ヶ月半の夏休み。昨年の8月に、州立大学に進学した長女も、めでたくフレッシュマン・イヤーを優秀な成績で終え、(すみませんね、、。アメリカ人から学んだ事。他人の前で、自分の子供の良い点を沢山誉めてあげる。、、、しかし、日本の人には親ばか、自慢話に聞こえてしまう事もある、、)大学の寮から戻って来ました。長女が高校生の時は、ほんの少しの事で、よく親子の言い争いをしたものです。よくある話でしょ?何かにつけて、娘の行動が気になり、ついつい、親として意見を言いたくなる母。親離れの過程で、まだ、自立は出来ていないのだけど、親からうるさく意見される事を非常にいやがるティーンエージャーの娘。主人にいわせると、私と長女の会話は、姉妹喧嘩のようだったそうです。そんな娘も、家を離れ、大学での寮生活を始め、一回りも、二回りも大きくなって帰って来ました。なかなかこ離れ出来ずに苦しかった私も、程よい距離を置いた1年を経て、娘の行動があまりきにならなくなり、一回り大きな愛で、見守れるようになったのかもしれません。決して娘を信じていなかった訳ではないのですが、、なんていうかな、、まだまだ、潜在意識の中に、娘は自分の所有物という気持ちがあり、「貴方をこんなに愛してる、それも人生経験も貴方より遥かに多いママがこんなに貴方のことを考えてのことなのだから、親の意見を聞きなさい!」まるで、娘を自分の思い通りに動かそうと、あがいていた自分がいました。家族を自分の価値観にしたがって、自分の思い通りにしたいって、これは、「奪う愛」と言うのだそうです。久しぶりに我が家に帰って来た娘。大好きな読書にふけったり、妹の宿題を観てやったり、、こんな素敵なママがいて、家族がいて、家庭があって、とても幸せ!と先月の私の誕生日にくれたカードのメッセージ。あれあれ、また、親ばかが始まりそう。これから、もっともっと大きな愛の思いで、娘を見守って行こうと思いました。
2006年05月09日
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今日は、娘が高校生になって始めたチェスのお話です。娘の通う、盲学校では、7割が寮生であることもあり、生徒の為の課外活動は結構充実していて、生徒がその気にさえなれば、毎日のように、何かしらのクラブ活動が行われており、参加できます。娘が参加したチェスクラブは点字のインストラクターの先生がボランティアで始めたクラブで月・木・金曜日の朝、集まり、授業の始まる前の30分間、小学生から高校生までの子供たちがチェスを楽しむクラブです。視覚障害者用のチェスというのもちゃんとあり、子供たちが使っているのものは、30ドルと、比較的手に入りやすい、プラスチック製のチェスです。チェス盤の白い部分が黒い部分より浮き上がっていて、各、升目の真ん中に穴があいています。チェスの駒の底にはペグがついており、そのペグを升目の穴に差むことで、視覚障害者が駒に触れても倒れない仕組みです。最初にチェスの練習を見に行ったときに、全盲の生徒が二人でチェスの駒を並べていたのですが、「はい、これは白、君の。」「これは、君のだよ。」と手際よく白と黒の駒を分けているので、私はすかさず、「どうして解るの?」と聞くと、子供たちは得意になって、「ほら、白い駒はてっぺんが削られていて、平らでしょ?」と見せてくれました。良く見ると、確かにキングもクイーンも頭のてっぺんがちょこっと削られていて、平らです。「フム、フム、これを触りながら全体の駒を動かすんだもの、、大したものだな、、、」と盲児を育てて16年の私でも、深く関心。チェス初体験の子供に、どうやってチェスを教えるのかと興味津々の私。先生は、まず、それぞれの駒の形と名前を教え、その次に、動きを教え、そして、まずは、ポーンという、前進だけできる駒だけを使って、同じようなレベルの生徒と練習をさせ始めました。ポーンだけを使って他の生徒と練習を何週間か続けた娘は、今度はナイトを加えても良いとの許可をもらい、ポーンとナイトを使ってのチェスを始めました。その為か、娘は曲がって進むナイトが今でも大好きで、ナイトで良く勝負をかけてきます。この練習がまた、暫く続き、本人は「早く他の駒も使いたいよ~~」と待ちきれない様子でしたが、クラブの大半は弱視の生徒で、ポーンとナイトだけを使っても、殆ど負け続けていたようです。しかし、そのぐらいではへこたれないのが娘のとりえ。負けても負けても、「もう、負けるのに疲れたよ~~」と言いながらも、結構楽しそうにチェスクラブのミーティングに通い続ける娘です。冬休みの前に、先生から全部の駒を使って良いといわれると家では主人や私を相手に練習です。実は私もチェスはやった事がなかったので、全盲の娘に教えてもらう始末。私は、見えて無い娘の指導にいらいらしたり、娘は娘で、ルールを知らない私との練習にいらいらしたり、ちょっとルールがあやふやになると、「まあいいか、、」と自己流にしちゃったり。そんな中、ちょっとはチェスを知っている主人が家にいる晩など、宿題が終わるやいなや「ダディー、チェスやろう!」「よし、手ごわいぞ~~」なんていいながら、楽しそうにチェスを持ってでてきます。主人も、たまには負けてあげれば良いのに、ついつい勝負にのめりこんで、あっという間に、娘を負かすんですが、何故か、母親よりもそんな父親とするチェスの方が楽しいらしい。盲人にとってのチェスも、かなりのチャレンジだと思うのです。だって、チェス盤の上のひとつひとつの駒を触って、全体の位置を把握し、さらに誰のどの駒が、どの駒を狙えて、どの駒はどの駒に守られている、、そこまで考えなければなりません。気が遠くなりそうですが、それでも、すこしづつであっても、着実に上達していく娘をみながら、これまた、忍耐と努力を持ってしてできない事は無いな、、と関心させられます。盲児にとって、立体を想像する事は、とても困難な事ですがチェスは、その感覚を身に着ける練習にもなり、また、問題処理の力をつける意味で、とてもよいゲームだと思います。ちなみに、昨晩は、さいさき良く自分のクイーンで主人のクイーンを取った娘。ダディーに対して快勝をおさめ、とても満足そうでした。日本の盲学校でも、チェスクラブなどはやっていますか?
2006年03月30日
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盲児の子育てを16年もやっていると、先輩お母さんとして、相談を受ける事があります。先日は、あるご家族からの相談メールを受け取りました。なんでも、眼球が育たないので、目のまわりが陥没してきた為、透明なコンフォーマーを入れることになったそうです。話を聞くと、義眼師さんは、初めてコンフォーマーの体験をする家族にあまり詳しい説明をせずに、「もし、炎症がおきるようなことがあったら、家で外していいですよ。」とだけ指示をして、旅行に出かけたそうです。家に帰ったこの家族。土曜日の朝になると、子供の目の周りは真っ赤に腫れ、涙もぼろぼろ止まらない。コンフォーマーを外そうにも、ぎっちり入りすぎてどうあがいても、家では外れない。あわてて病院のエマージェンシールームに駆け込んだそうで、ドクターもなかなか外れないコンフォーマーに手を焼き、結局、コンフォーマーを取り出して、病院を出たのは夕方になってしまったとそのメールにはありました。その上、やっと外してもらったコンフォーマーにはピンク色の粘膜がついていたそうす。初めて行った義眼師さんのところで、とんでもない治療になってしまったと本当に、お気の毒に思うとともに、うちの娘は透明のコンフォーマーをいれた経験の殆どないので、とにかく、信頼のできる、納得のいく義眼師さんを探してはどうかとアドバイスをしました。それにしても、取り出せないぐらい大きなコンフォーマーをいれるとは、、同じような体験のあるかた、できたらお話を聞かせてください。この新しいご家族の為に、参考になるお話があったら、コメントなり、私書箱に送ってください。
2006年03月27日
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前回の日記で、「のほほんと平和に暮らしている」と書いたのですが、現実には、あちらこちらで、悩みらしきものは、次から次えと沸いてくるもの、、。(と書いて、やっぱり貴方も人間だわ、とほっとしている方も多いかな、、苦笑)要は、ひとつ消えては次に沸いてくるその悩み・苦しみをどう受けとめて、どう対処していくか。そこが幸せに生きるか、不幸せに生きるかを分けているのだと私は、やっと腑に落ちつつあるのかもしれません。さて、いよいよこの日が来てしまいました。娘が7年続けたバイオリンを「もう、止める」と宣言しているのであります。なんだ、、そんな事か、、と人は思うかもしれません。そう、確かに、人生の大河の中でみると、ちっぽけな出来事かもしれません。でも、7年間、全盲の娘の為にと、鈴木メソッド・ママとなってかなり力を入れてサポートしてきたつもりの私にとっては、やはり、大きなショックであります。下手なら、下手なりにあきらめも早いのですが、どんどん上達する娘の演奏を、私たち夫婦も、バイオリンの先生も、心から楽しみ、応援して来たのです。「もう、弾きたくない。全然、パッションが沸かない。ストレスがたまるから、練習はいやだ。」とバイオリンに触ろうともしない、高校生になった娘を前に、今回ばかりは、もう説得の余地なしと私も、彼女の「強い意志」を尊重しようと、決心しました。私は全盲と言うハンディを持った娘に、何かひとつでも良いから、パッションというか、人生を通じての楽しみを持ってもらいたかったのです。音楽に秀でた彼女にとって、楽器を通して、心の平安をもってほしかったのです。それに、目が見えないハンディを持っているのだから、その分、得意分野を伸ばして、生活の糧になればという、親の自分勝手なあせりもあったかもしれません。ところが、それがストレスになるという彼女。それは、言い換えれば、「バイオリンを続けてほしい、もっと、上達してほしい、そして、バイオリンの演奏を通して、いつも、人から助けてもらうだけではなく、人に何かを与えてあげられる人になってほしい。」その私の彼女を私の理想の娘に育てたいという執念に対して、彼女はきっと、ストレスをためていたのだと思うのです。娘も16歳になりました。彼女の幸せは、私が見つけてやるのではなく、彼女が自分で見つけていくものなのだと、彼女の「強い意志」を見ながら私にはやっと腑に落ちたのかもしれません。これも、自分が蒔いた種なのかもしれません。そんな娘は、「今度は好きな美術をやりたい。彫刻をやってみたい。」と新たなる意欲に燃えている様子。子育てを通じて、いくつになっても、親も一緒に成長させてもらっていますね。それにしいても、暫くは、我が家から娘のバイオリンの演奏の音は消えてしまいそうなのが、残念、残念。
2006年03月26日
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3月19日、アメリカのカレンダーには"First Day of Spring"と記されており、私の住む町でも、日に日に新緑が鮮やかさを増しています。前回の日記を書いてから、すでに年は明け、、春も到来、、日記を書こうと思いつつも、段々と自立していく娘を見ながら、とても平和な気持ちで、ただただ、毎日が過ぎて行きました。そして、なんて事は無い、ふと自分の欠点に気がついたのです。「意志の力の弱さ~~~」最近読んだ本、「希望の法」大川隆法著にこう書かれています。「追い風であろうと、逆風であろうと、風の止まった凪であろうと、しかれども、わが使命を果たす」という気持ちが大切です。そこで、私は、ふとこの淡々と流れていく自分の毎日を考えてみたのです。「私はどうして心の目・ネットワークを始めたんだろう、、?」--私は、無眼球の娘を産んで、育てていく過程で、とても苦しかった。 でも、その苦しい中にも希望はある。 希望を抱いて、努力を続ければ、 その人にあった形で、 希望は実現していく。 それを、後に続くお母さん、お父さんに伝えたい。 大丈夫だと、希望を抱いて、勇気を持って、前進しましょう と伝えたいと思った。これが、私の使命感。「では、今の私に何ができる?」--できる事のひとつには、このホームページを通じて、 希望の光を広げていく事。 怠慢さに負けないで、書くこと。「じゃあ、そうするには、何が必要?」--なんてことは無い、強い意志の力、ではないかな、、。人間はついつい自分に甘くなるものです。逆風の時は、けっこう頑張れる、追い風の時は、なんだかわくわく何でもできそう、それが人間かもしれません。だから、風の無い時こそ、意志の力を強く持って、いつまでも、同じところにとどまっていないで、心の中に巻いた、理想という種を、育てていかねばと思います。という事で、早い話、又、日記を再開しようと思います。今日、読んでくださったかた、これも何かのご縁ですね。ありがとう。日本全国の無眼球・小眼球、また、なんらかの理由で、義眼を装着しているお子さんたちのお母さん、お父さん。これからも、ともに頑張りましょうね。
2006年03月22日
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今日は無眼球・小眼球の子供のファミリーにとって、とても嬉しいメールのご紹介です。現在、アメリカに滞在中の帝京大学の金子博行先生からです。細かい専門分野に分かれて研究・治療をされているドクターが多いアメリカに比べて、日本では、一人のドクターがあらゆる症状の患者さんを治療なさっている中、症例も少ない無眼球・小眼球の子供達の治療に焦点をあてることはそう簡単な事ではないかもしれませんし、又、無眼球・小眼球の子供の治療に力をいれていらっしゃるドクターは本当に少ないと思います。 そんな現状を踏まえて、金子先生のメールを拝見して、金子先生のような方の登場を心待ちにしていた私たち家族にとって、そして子供達にとっても、日本の無眼球・小眼球の子供達の未来は明るいと思いました。金子先生、これからのご活躍を心よりお祈りしています。是非、このホームページにもちょくちょく登場してくだいね。ありがとうございます。そして、金子先生のような方が、日本各地に登場される事を祈ります。* * *はじめまして、帝京大学眼科の金子です。無眼球、小眼球で検索していたらここに当たりました。(中略)情報に載せていただきありがとうございます。今、Children hospital of PhiladelphiaのKatowitz先生のところで見学させてもらっております。来月から外来に復帰します。 無眼球・小眼球に対する私の所感を少しだけ書かせていただきますと、視覚障害がある以上なるべく外見は左右差の少ないようにしたいと思っております。彼(彼女)らにとっては一生の問題なので、少なくとも私が生きている間だけでも一緒にがんばりたいとKatowitz先生の所を見学して思っている次第です。協力できることがあれば可能な限り協力させていただきます。今後もよろしくお願いいたします。帝京大学眼科 金子博行
2005年11月16日
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「心の目ネットワーク」のお母さん、お父さん達で作っている、メーリングリストへ、Iさんから以下の情報を投稿していただきましたので、ここに掲載させていただきますね。 1、視覚障害者親の会:東京に本部があります。最近、幼児会員の交流目的で 名簿が作成されました。無眼球の方は残念ながら我が子のみ。2、地域の学校で学ぶ視覚障害児の点字教科書等の保障を求める会: こちらは全盲の方が多数を占める会のようで、なかには地域の学校に行 かれている方もたくさんおられるとのことです。本部は大阪です。11 月に会員以外も参加できる例会があるとのことです。いただいた情報は、このホームページでもお知らせします。 ありがとうございます。
2005年10月25日
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またまた、すっかり筆不精になってしまいました。フリーページに、現在、ネットワークの無眼球・小眼球のお子さん達が通っている、眼科の先生達のお名前を載せさせていただきました。日記の更新不精ではありますが私書箱宛てに、「心の目・ネットワーク」へのお問い合わせのメールには、多少遅れても、必ずお返事をさしあげていますので、どうぞ、お気軽にメールをください。この一月の間に、4家族の方から連絡をいただき、同時に、日本での、「無眼球・小眼球の家族の会」の必要性を強く希望される声もあがっています。その会の専用のホームページを作ったり、また、無眼球・小眼球の子供の治療の経験のあるドクターの情報、また、義眼の情報、そして、しいては各地域の視覚障害児の教育の情報、等、情報提供の場所にできたらと何人かのお母さん達から意見もいただいています。そして、これから生まれてくるお子さんのご家族が一番大変な最初の1年を、手探りの中、孤独と戦わずに済むように、ネットワークのご家族の紹介や、また、1年に一度ぐらいは集まって話ができたりする、そんな会が出来たらときっと、皆さんも考えていらっしゃると思います。『自分の人生は 自分の考え方が作る』この言葉を聞いて、15年前の私なら、「そんな事いったって、、思い通りにいかない事だって沢山あるわ、、。」と考えていたと思うのですが、今の私は、「多分、8割ぐらいは、この考えは当っている。」と思うのであります。「100%言えてる、言えてる!」と本当は言い切りたいのだけど、、、でも、やっぱり自分の潜在意識の中に、やっぱり無理だろうな、、という自分がいる。つまり、自分を信頼しきっていないですね、、。でも、良いんです。これが日々努力。少しでも、「100%言えてる」と言える自分になろうと思っていると、きっと、「その通りの私になる。」でしょう。先ずは、夢を見ることから人生は始まる。夢を見つづける人がいるから、その夢が現実化される。現実化されないのは、やっぱり、どこかで夢をあきらめちゃうから、、。3年、5年、そして10年とかかるかもしれないけど、さあ、皆さんも、小さな夢から大きな夢まで、最初からそんなの無理だわ~なんて諦めないで、夢を持ちましょう。そして、少しづつでも良いから、その夢に向けて近づく努力を続けて行きましょう。
2005年10月19日
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すでに、7月の半ばとなり、すでにハリケーンがやって来ました。ふと、気がつくと、日記の記入率が12%という数字が目に入りました。ここまで来ると、日記と呼ぶにはあまりにもお粗末、、、せめて、一週間に一度は投稿したいと、又、気持ちを新にしています。そんな訳で、私書箱に投書してくださった方々のメールもやっと目を通した始末で、すぐにお返事も書かずに、メッセージをくださった方々には申し訳ないと思っています。アドレスを入れてくださった方にはお返事が書けますが、片眼が小眼球の娘さんのお母さん、Kさんには、アドレスが解らないので、この場を使って、メッセージを送らせていただきます。とても苦しいお気持ち、痛いほど伝わります。でもね、貴女は決して一人ではありませんよ。それにね、娘さんが小眼球で生まれた事、それはお母さんの貴女の精でもない、お父さんの精でもない、そして、何よりも娘さんの精でも無いと私は強く信じています。それはね、娘さんが、こういう状況でこの人生を精一杯頑張って生きてみたいです、、そこから、大きな学びを得たいし、多くの人に、勇気と愛を与えてあげたいんです、、と、自分でね、神様と決めて来たことなんですって。そして、その大切な人生を生きるために、貴女をお母さんに選んで一緒に頑張ろうねって約束してきたんですって。だから、娘さんの笑顔は、本当に彼女の魂の喜びなんだと思います。だから、ご自分を責めないでね。片目が小さくたって、例え、娘の様に、両眼がきれいに欠損していたって、それが人間として、何の欠陥があるというのでしょう。そう言う厳しい状況を覚悟で選んで生まれて来た、彼女、彼らこそ、本当に素晴らしい魂だと、本当に大きな心の器を持って生まれて来た、立派な人間なんだって、私は、心から信じて疑いません。だから、お母さん、大丈夫よ。娘さんは、きっと幸せな人生を歩んで行くよ。無眼球・小眼球はとてもまれな症状かもしれないけど、でも、日本のあちこちに、そして世界のあちこちに、家族に暖かく見守られて育っている子供達が沢山いますよ。どうか、元気を出してくださいね。今は、辛い事の方が多いかもしれないけど、朝になれば、又、太陽が輝くように、眠れぬ辛い夜は、長くは続きません。トンネルの向うに出口は、必ずあるからね。そして、無眼球・小眼球のおかあさん、おとうさん、決して、ご自分のお子さんが他のお子さんより劣っているなんて、思わないで下さいね。きっとね、お子さんを育てて行く過程で、彼らの、彼女らの、素晴らしさが沢山、見えて来て、頭が下がりますよ、、。道のりは長いかもしれないけど、貴女はひとりじゃない。お互いに、一歩づつ、少しでもいいから、勇気を絞り出して、前進しましょうね。又、メールお待ちしています。
2005年07月12日
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玲子さん、投稿ありがとう。テレマーケティングの女性のお話、晴眼の私から見ると、「すごい、、特技だな、、。」と思います。でも、人間は、やる気になれば、大抵の事は出来るという事ですよね。視覚が無くても、他の特技を生かせば良いのです。その、やる気があるかないかですね。今、ふと思い思い出したのですが、日本では、過去3年間、年間3万人を超える自殺者が出たと聞きました。戦争が起きている国でも、1年間に3万人の死者はでませんよね、、。自殺者は10-20代の若い人と、そして、50-60代の壮年者に多いそうです。意外な事に、、若い人の自殺の原因の第一は失恋。そして、進学や学業の失敗。また、壮年者の自殺の理由の第一は病気、そして、事業の失敗や失業などの経済的困難と続くそうです。人生、苦しい事は沢山あるかもしれません、、、でも、それは長くは続かないんじゃないでしょうか、、3年、5年と我慢して、粘って、そしてその時に自分に出来る努力を続けていれば、いつかは、トンネルの向うに光が見えてくるのではないでしょうか、、なにか、問題を解決する方法が、あるのではないでしょうか、、人生、これでおしまいだと悲しんでいる人がいたら、、一度、盲学校や福祉施設を訪問してみて、与えられた体で、一生懸命生きている人たちを見てみてください。近くの病院に行って、病気と闘う人たち、また、その病人の為に一生懸命働く医師や看護婦さんたちを見てみてください。そしたら、きっと苦労しているのは、あなただけでは無いと知るでしょう、、。きっと、自分にもまだ、残された大切な時間があることに、感謝するでしょう、、、。どうか、自分ひとりで生きていると思わないで、活かされている事に、感謝してください。
2005年05月31日
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今日は、ハワイ在住のマッサージセラピストでいらっしゃる、全盲のShiragyさんのサイトのご紹介です。Shiragyさんのサイトへは、、え~と、私のサイトの掲示板にある彼のコメントから、Shiragyをクリックすると、簡単に行かれます。去年の1月から、ハワイで様様なマッサージの技術やヒーリング法を勉強されているそうですよ。盲児を持つ親としては、全盲の彼のハワイでの生活はとても興味のある内容です。 私も、ゆっくり読ませていただきますね、Shiragyさん。いつか娘も、彼の様に、バスや電車に乗って、仕事に向か日が来るんだろうな、、。楽しみ、楽しみ。その前に、公共の交通機関のある都市に、引っ越す事が最初ですが、、。
2005年05月26日
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カノンさん、書き込みありがとうございます。カノンさんの食事の順序も、娘と同じですか。ひょっとして、その理由に関しては、私の勘も当っていたりして、、。先週から家の外壁のペンキ塗りに精をだしていました。白いペンキが塗られた、築25年のコンクリートブロックの家は、燦々と太陽を受けて、いつも眩しいい程に光を反射していましたが、、今回はバニラと言う、あのバニラ・アイスクリームのような色を選びました。去年のハリケーンではがれた屋根もやっと張替えを終え、(こちらは、流石に主人と二人でやるのは難しく、業者さんを雇いました。)1年中、殆ど緑が絶えないフロリダで、淡い黄色の家は、まるで新しい家の様にです。去年から始めた、二つあるバスルームの改造もやっと終え、とりあえずは次のプロジェクトまで一休みです。とは、言っても、雨の多いフロリダの夏は、芝生も延び方も普通じゃない。これからは、週に一度の庭の手入れが始まり、なんだかんだと、家のメンテナンスに忙しい日々は続きます。どうりで、年配になると、家を売って、コンドミニアムに移る夫婦が多いのも、解る気がします。* * *先週の金曜日は上の娘の高校の卒業式でした。アメリカでは、12年生を卒業するまで、卒業式らしきものは殆ど行われないので、12年生を終える事は、子供から大人への成長の意味もあり、盛大に祝福されます。この町の高校では、毎年、隣町の大学のアリーナを借りて卒業式が行われます。 高校4年間を通じて、成績がトップ5%の生徒は、教育委員会主催のディナーに招待されたり、新聞に紹介されたりと、その努力を評価されます。母親の私からは、「なんでも一人でできるお姉ちゃんだから、、」とか、さらには、「(目が見えるんだから、、) 出来て当たり前、、」と、ついつい、あまり誉められずに、育った上の娘ですが、(母親が誉めない分、父親が、何でも誉めてあげたので、バランスはとれていたかもしれません、、。 冷や汗、、。)娘の影になりながらも、こつこつと頑張った彼女は、350名あまりの卒業生の中で、トップ9の成績で卒業となりました。この夏には家を出て、大学の寮に入る娘。今回は、私も「本当に良く頑張ったね! おめでとう!」と心から誉めてあげられました。手のかかる子供についつい心も時間も捕らわれて、もう一人の我が子はついついほったらかしてしまう、、。手のかかる子供が出来た事は、おおげさな程、誉めてあげられるのに、何でもできる我が子には、「そのぐらい出来て当たり前。今度は、もっと頑張るのよ。」なんて、心にぐさっと来る言葉を気がつかないうちに、投げかけてしまう、、。こんな不完全な母親でありましたが、本当に、良くここまで娘は成長してくれたと思います。いや、待てよ。完璧な母親なんて、この世にいるわけが無い。娘がここまで成長してくれたのは、母としての私の努力も、大いに働いているのかもしれないな、、。と、私も自分の不備を許し、娘と一緒に、自分の母業も誉めてあげる事にしました。今週の金曜日は、娘の中学部の卒業式。お姉ちゃんの卒業式に参加して、自分も、待ちきれずにいる娘です。母として、父として、長女として、次女として、それぞれの成功を祝福しあいながら、又、明日から大きな、新しい一歩が始まります。
2005年05月22日
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2回前の記事の題名に、「ワークショップ」と書いて、全然、違う話をして満足して、それで終わってしまっていた事に、今、ふと気がつきました。こんな事も、良くある、私です。さて、多分その時に書きたかった事は、娘の盲学校で親の為に行われた、ワークショップ(勉強会)の話だったと思います。盲学校では、毎月1回程、土曜日の午前中を利用して、親の為に、色々な勉強会を開いてくれます。ある時は、音声ソフトの使い方、ある時は、思春期の視覚障害児の性教育の事、また、どの親もとても喜ぶのが、視覚障害児の生活全般の智慧とでも言うか、いかに身の回りの事を、自分でできるようにするかと言うデイリー・リビングスキルのクラスであります。先日は、町の本屋さんの広いスペースを利用して、親たちが目隠しをして、買い物に挑戦する企画でした。その日は、さらに近くのレストランに移動して、そこで、目隠しをしたまま、昼食をとるというもの。以前に、学校内で開かれた勉強会で、目隠しをして校内を少し歩いた事がありますが、学校の外で、実際に娘の様に視覚に頼らずに、買い物をしたり、レストランで食事をするのは、初めての事でした。他の親たちもいるし、今回は勇気を出して、私も目隠しに挑戦する事にしました。店内を先生が私のガイドとなり、買い物リストに載っている商品の場所に連れて行ってくれるのですが、知っている本屋さんでありながらも、やはり足がすくんで、ついつい、ガイドとなってくれている先生の腕をひっぱっては、歩くスピードを緩めようとしてしまう私。いつもの母なら、もっとスピードをあげてミッシェルをあちこち、引き回しているであろうに、、。いや~~、娘に「早く歩きなさい!」なんて、もう決して言えない!リストの最後には、トイレに行って手を拭くティッシューを一枚とって来ること。不思議と、いつもは気にもつかないトイレの清掃のにおいが、あ、、トイレに近づくとにおってくる事。こうして、娘は、私たちが気のつかない音や、匂いや、ちょっとした床の段差を、敏感に感じているのだな、、。さて、レストランでの体験はなかなかのもの。まず、点字のメニューがないと、晴眼者に頼るしかない。皆がわいわいと話していても、誰に向かって話しているのか、よく解らないから、もっぱら黙って聞く一方。ウェイトレスさんが来ても、一体今の質問は私に対してか、テーブルの隣に座っている人に対してか、自分の名前でも呼ばれない事には解らない。ここで、先生から良いアドバイス。レストランではよくウェイターやウェートレスの人が、自分の名前を名乗って自己紹介をするけど、その時に、視覚障害者の人も、自分の名前を名乗って、自己紹介する。 そうすると、相手は、質問をする時にちゃんと名前を呼んでくれるので、自分に対する質問だと解りやすい。これって、娘が良くレストランでやっている事、はは~~、彼女にとっての生活の智慧でありました。さて、いつもは見えてる私にとっては、読まれたメニューを想像する事はそれ程難しくない。でも、詳しい説明が乗っていないと、娘のような全盲の人には、食事を想像する事は難しいだろう、、。その日は、チキンのシーザーサラダ・ラップと言うサンドイッチを注文した。横にはあったかいフレンチ・フライ(ポテトフライ)が着いて来た。なにやら、ラップはお皿に寝かされていないで、ステンレスのようなスタンドにきちんと挟まってだされたようだ。空腹だったので、さっそくラップを両手でとって口にほうばるが、いつものミッシェルがごとく、横から、チキンがポロリ、、と落ち、、シーザーサラダもぼろぼろとお皿にこぼれるのが解る。こうなったら、フレンチ・フライに手を出す余裕もなく、一度にぎったら、チキンが落ちる前に、最後までサンドイッチを食べてしまう方が、、無難。そこで、ふと思った。娘は食事の時に、一つのお皿、一つの食べ物、を一つ、一つ、全部食べて行くのが好きだ。どうせなら、こっちのお皿、あっちのお皿、そしてこのフレンチ・フライとあちこち少し筒食べた方が、食事も楽しいのでは、、と思っていたし、親心で、そうした方がいいのよ、なんて娘にもアドバイスしていた。勿論、そんな私のアドバイスにはお構いなしに、今でも、一つづつ片付けて行くのが彼女の食べ方。しかし、実際に自分が目隠しをして食べるとなると、どう考えても、あちこち手を出すよりは、一つのお皿からきれいにして行く方が、確実かつ、食べこぼしも少なく、安全である。あ~~、これも娘にとっては生活の智慧であったか、、。最後には、目隠しをしている為か、ついつい、うたた寝を始めそうになって隣にすわる友だちに起こされる私。皆さんも、是非、目隠しに挑戦してみる事、お勧めします。我が子の気持ちが良く解った1日でした。
2005年05月07日
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すでに知っている人もいるかもしれませんが、今朝、ニュースでちらっと聞いた話。難病の為、視覚・聴覚をいずれ失う事になったイギリス人の12歳ぐらいの男の子の話で、彼のお父さんは息子が視覚・聴覚を失う前に、是非、世界を見せてあげたいと思い、自分の事業を売り払って、息子と一緒に世界旅行をしているという話でした。カメラを片手に写真を撮る息子とお父さん、、、。毎日の安全かつ安定した生活を守るのも、優しいことではありませんが、こうして息子の為に、多くのものを手放す情熱に胸があつくなりました。なかなか出来そうで出来ないけど、私はとても考えさせられました。この親子にとって、二人で体験した海の向こうの世界は一生の思い出となり、そして息子さんにとっても何ものにも変えられない宝になるでしょう。親の愛って、深いですね。 * * *アメリカにはThe Nathinal Federationof the Blind という機関があり、年に何回かフーチャー・レフレクションと言う雑誌をだしています。これは、視覚障害児を持つ親や視覚障害児教育に携わる先生向けの情報誌です。ついつい、後で読もうと思っているうちに、すっかり2年分も貯めてしまい、昨日は本棚の整理もしながら、一冊づつ目を通しました。わ~、結構、為になり、親としても奮起したくなるような記事が載っています。オハイオ州に住んでいる友達の全盲の娘さんの記事も、写真入りで紹介されていました。又、フィラデルフィアのICANミーティングにも来ていた、無眼球のパトリック君の記事も載っていました。彼は、ICANミーティングのティーンのパネルディスカッションでも在席した親たちをうならせた程、とてもしっかりした大人びた(?)子供で、何しろそのエネルギーと笑顔が皆の心を魅了します。雑誌の記事は、お父さんが書いた、パトリック君が全米放送のテレビの取材を1日受ける事になった時の話でした。パトリック君は、普通の小学校に通い、放課後はピアノのレッスンやら、ゴルフの練習、又、スイミングもするそうで、とにかく毎日多忙なスケジュールをこなしています。このお父さんの話でとても印象的だったのが、1日の取材の最後に受けたインタービューの事でした。テレビ局の人がパトリック君に聞きます。 「今まで、全盲と言う事でフラストレーションを感じた事や、 目が見える人に出来るて、自分が出来なくてがっかりした事はありますか?」そこで、少し考えてから返事をするパトリック。 「エリック・ウェイヘンメイヤーって知ってる?」 「いいえ、知らないわ、、。誰?その人?」とインタビューアー。パトリック君は答えます。 「僕ね、エリックに会いに行ったんだよ。 彼はね、全盲だけどエベレスト山に登ったんだ。 目が見えたってエベレスト山に登れない人は、沢山いるよ。 だから、僕は全盲の人だって、やリたいと思えば、大抵のことはできるって思っている。」と、その答えに、鳥肌が立ち、思わずこぶしを握って 「イェス!!!!」 と心の中でお父さんは叫ばずにはいられなかったそうです。お父さんが最後に書いています。「私たちは皆、忙しい毎日を送っていて、庭の芝ものびれば刈らなければならないし、日々の雑用も山のよう。 でも、私たち障害児を持つ親にとっては、さて、そうした雑用を放り出してでも、車に荷物を積み込んで、エリックに会いに行った時の様に、とにかく価値あるイベントに出かけていく事は今日のパトリックの発言を聞いても、とても大切な事だと思いました。」こんなニュースを続けて聞いて、さて、6月から始まる2ヶ月とちょっとの夏休み今年は子供達を連れて、どんな探検をしようか、、と胸がワクワクしてくるのは、私だけでしょうか、、。 :)
2005年05月06日
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先日、太陽の眩しい、ちょっと風の強い日に、表紙のページの写真にある、海辺へ行って来ました。凧揚げが大好きな娘にとっては、絶好の風!案の定、大きな凧は風にのって、空高くどんどんと登って行き、空の彼方で小さな点の様。何が楽しいかって、この風を受けての抵抗感が楽しいそうで、娘はその後40分程、一人凧揚げに熱中、、。とにかく、何かに熱中すると、40分でも1時間でも、ひたすら続けるのが娘。主人は、ビーチが大好きな(末息子?)愛犬のマックスのお相手。マックスは、主人が波に向けて投げる木切れを、泳いで拾ってくる遊びが大好き。以前は、テニスボールを投げていましたが、今は、大きめな木切れの方が、目に止まりやすく、つかみやすく、マックスも気に入っています。マックスこそ、40分続けても、「まだ、足りないよ~~、もっと、もっと」と言わんばかりに、この遊びに熱中します。私は老犬スノーイーを連れて、ビーチを散歩する事にしました。細長い、レイザー・シェルを拾いながら、暫く歩いて、インレットと言う、外海から内海に通じている場所に近づくと、、、何と、その日は、風の強さも手伝ってか、すでに、3台の車が、砂に埋まって動けずにいたのです。一台はすでに、車の前方が海水の中、、子供連れの家族は、その車の周りに張り付いて、途方にくれています。その車のすぐ近くには、どうやら彼等を助けようとした、小型トラックが、自分も同じように、後ろのタイヤが水にすっぽりはまっています。荷台にのったままのゴールデンリトリーバーも不安げ。その少し先では、あの高級車ハマーが、やはり砂にはまり、すでにタイヤの上の方まで海水が押し寄せていました。砂にはまったぐらいならば、、ロープを結んでトラックでひっぱれば、何とか引き上げられるのですが、、すでに海水の中となっては、専門業者を読んで、クレーンでひっぱりあげないとどうにもなりそうにありません。そう思っていると、クレーン付きのトラックが砂埃を上げて、走って来ました。砂にはまって動けない、観光客の車、、春に良く見かける、、ビーチでのお気の毒な光景です。最後にお知らせ。無眼球・小眼球の家族のみで作る、情報交換の場、フリーメール(メーリングリスト)・ココロノ目・ネットワークを始めました。無眼球・小眼球のご家族をお持ちの方、又、ご本人で参加ご希望の方は私書箱までご連絡ください。
2005年04月22日
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バンケット・ホールには100人以上の大人や子供達が集まっていたでしょうか、、ビュッフェスタイルの食事を、それぞれ自分のお皿に取り分け、丸テーブルに座って、あちらでも、こちらでも、笑顔がこぼれ、記念写真をとったりと会話がはずみます。皆が大体食べ終わった頃、ディスク・ジョッキーの声で、娘の名前が紹介されました。今晩は、日ごろのバイオリンの練習の成果の見せ所です。小さい子供達も、興味津々、ステージとなったダンスフロア-の前に皆、ちょこんと座って娘を見上げていました。今回弾いた曲は、ドボルザークのユーモレスク、ベラチーニのジーグ、そして、アンコールにちょっとつっかえながらのヘンデルのバイオリン・ソナタイ長調、第二楽章。演奏前は緊張していましたが、満足げに演奏を終えた娘です。ディスクジョッキーの人が子供達に聞きました。「さて今のバイオリンの演奏を聴いて、習って見たくなった人?」何人かの子供達が元気良く手をあげました。次回のミーティングでは、きっと、娘と一緒に、ちいさな子供達のバイオリンが聴けるかもしれません。 娘に何が楽しかったかと聞くと、、 みんなの為にバイオリンを弾けたことと、 ディスコのダンス!バイオリンの後は、子供達のカラオケにダンスと、子供達にとって、楽しい思い出の時となったようです。* * * ミーティングもあっという間に最終日の朝となりました。最終日の予定は、朝食と遺伝子研究の為の、採血です。今回のミーティングの為に、準備を手伝ってくれたアインシュタイン・メディカル・センターの遺伝子研究チームは今後も無眼球・小眼球の子供達のDNAを集めて、その原因解明の為に研究を続けて行きます。無眼球・小眼球を持って生まれた子供達の目を治す事はできないけれど、この子供達が大人になって子供を産む時や、また、これから生まれて来る無眼球・小眼球の子供達の為に、役に立ちたいと言うシュナイダー先生たち。無眼球・小眼球の子供達のDNAサンプルは、沢山集まれば、それだけ研究に役立ちます。このホームページを読んで、協力していただける方は、私書箱にご連絡ください。シュナイダー先生の方から、採血キットを送っていただくように手配させていただきます。又、簡単なご報告ではありましたが、このアイキャン・ミーティングレポートが一人でも多くの日本の患者さん、無眼球・小眼球の治療にかかわるスタッフの皆さん、そして義眼師の方々に読んでいただけ、治療の為の調査と研究にさらなる情熱を傾けていただけたら光栄です。毎年生まれて来る、無眼球・小眼球の子供達の幸せを心からお祈りいたします。
2005年04月03日
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さて、おしゃべりに花が咲いた昼食もあっという間に終り、皆の緊張も一気にほぐれ、カフェインの入ったコーラを片手に、午後のセッションの始まりです。午後の一番バッターはフィラデルフィア子供病院の眼科の、カトウィッズ先生です。 先生には96年アメリカに引っ越した当時、娘も一度診察を受け、その時は、でん部の脂肪を目の中に移植して、骨を刺激してスペースを広げる手術をすすめられました。 (娘はこの手術は受けていません。)8年前に診察室でお会いした難しい表情のカトウィッズ先生の印象とは違って、ステージに立った、背広姿の体格の良いカトウィッズ先生は、親たちを前に、終始笑顔を絶やさず、とても優しい印象を受けました。以下、カトウィッズ先生の説明で私の印象に残った事を、書きたいと思います。先生の講演のノートを入手した訳では無いし、私は医学用語の翻訳者でもないので、かなりあいまいな表現もありますが、アメリカではこのような事が行われていると言う一例として、読んでいただけたらと思い、あえて書く事にしました。カトウィッズ先生の説明によると、義眼を入れるため、又、より自然な目にする為の方法は、瞼の幅や瞼自体を広げる処置と、回りの骨を刺激して骨の成長を促し、、そのスペースを広げると共に、顔全体をバランス良く、つまり目の位置だけ顔の幅が狭くなったり、目がくぼんだようにないようにする処置と言う、両面をカバーした治療が大切だとのお話でした。 瞼を広げる方法は、義眼師の先生の話でも、コンフォーマーを使う方法が主流のようで、この他に最新技術のハイドロジェル・ソケット・エクスパンダーを使う方法があるそうです。又、眼球があるところのスペースを広げるとともに、骨の発育を促する方法には、コンフォーマーの他、でん部の脂肪を移植する方法、プラスチックやサンゴを加工した材料などで作ったボールを埋め込む方法、先述の、ハイドロジェル・オービット・エクスパンダーと言うものを埋め込む方法、その他、があると話していました。先生が現在一番画期的な方法として注目しているのが、このハイドロジェルと言う素材を使ったエクスパンダーだそうです。これは、ドイツのルドルフ先生が開発された方法で、簡単に説明すると、ハイドロジェルで出来たコンフォーマーをある期間、目の中に埋め込むと、その素材が体液を吸収して、目の中で膨張し、スペースを広げてくれるというものだそうです。カトウィッズ先生は3-4年前にドイツで開かれた会議に参加した時に、このルドルフ先生とハイドロジェル・エクスパンダーに出合い、この方法に注目し、ルドルフ先生から学んで、現在はアメリカの無眼球・小眼球の子供の治療を施しているそうです。 アメリカでは2003年の秋に、政府の認可が降りたばかりの新しい技術で、まだ、国内のドクターの間でもそれ程は広がってはいない様子です。しかし、この方法によると、埋め込んで1週間もするとはっきりとした効果が見られ、実際に、この治療を1年ほど受けている2歳になる小眼球のお子さんの場合、眼球のある2歳児の子供と同じぐらいの目の幅が出来たとの事例もあるようです。この方法の画期的な点は、短い期間で目のスペースを広げられる事の他に、球状のエクスパンダーhttp://www.iopinc.com/surgeons_and_medical_professionals/osmed/tech_data_orbit.aspを入れることで、骨の発育を促し目のスペースを作ると同時に、その上に半球型のエクスパンダー http://www.iopinc.com/surgeons_and_medical_professionals/osmed をおいて瞼を縫い付けておく事で、瞼や目の幅を広げる両方の治療が可能な点だそうです。カトウィッズ先生の説明の中では、将来的に子供が成長した時に瞼の機能などに問題が起こるかどうかといった点は、ふれていませんでしたが、実証例を聞く限りでは、無眼球・小眼球の子供にとっては、将に奇跡のような効果的な治療方法だという印象をうけました。カトウィッズ先生の講演の後は、視覚障害児用のいくつかのワークショップが開かれ、それぞれ、親たちは、自分の子供の年齢の応じて、興味深いワークショップに参加していました。5時になり、興味深い話題で一杯のワークショップも終了。それぞれ、ホテルの部屋に戻り、夕方7時からの夕食会の前に、ちょっと一休みです。続く、、、。
2005年04月02日
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30分ほど休憩をはさんで、アイキャン・ミーティングです。ボランティで役員をしてくださっているお母さん達が前にでて、これからの活動の予定、また、会の運営の為に重要な寄付金集めのアイデアなどを、皆から求めます。シュナイダー先生からは、2年後の2007年のミーティングを娘の通う立盲学校のある、我が町で開催されるとアナウンスがありました。Lちゃんのお母さんと私が、2007年のミーティングのお手伝いを買って出る事にしました。これから、忙しくなりそうです。ミーティングに続いて、ティーンエージャーによるパネルディスカッションが開かれました。9歳から15歳までの4人の子供達が前に出て、親たちの質問に答えます。娘にとっても、パネルディスカッションは初体験。親にしてみると、 「ちゃんと答えられるかな、、」と心配せずにはいられないのですが、そこは本人に任せ、私たちも視聴者となって楽しむ事にしました。どうした訳か、、娘の姿だけ現れません。シュナイダー先生の説明によると、娘が行方不明。「????」どうやら、娘のグループは博物館の見学へと出掛けてしまったようでした。パネルディスカッションも後半になり、後ろの方から、娘が急いでステージにやって来ました。「ありゃ、、この分じゃ、心の準備が出来てるかな、、」とついつい手に汗を握る私ですが、その心配はよそに、結構落ち着いていつもの、太いつやのある声で質問に答える彼女。娘はちょっと間を置きながらも、正直な発言に、思わず、会場から笑いがこぼれました。「まずい!あの子の嫌いなパターン、、。」と思ったのもつかのま、、必死に質問に取り組んできた娘は、すかさず、マイクに向かって、「、、、こうやって、人に笑われるのは、好きじゃないありません。!」不快感を表していました。場内は一瞬にして、沈黙に包まれました。シュナイダー先生が娘に向かって、「大人は、子供達の可愛い様子を見て、ついつい笑ってしまうので、決して、貴方が変だとかおかしい事をいったから笑った訳ではないのですよ。」と優しく説明してくれました。本人が納得したかどうかは別として、、晴眼社の中で生きていく娘にも、学んで行くところはまだまだ、沢山ありますが、こうやって胸の内を垣間見せてくれる子供達の発言にも、彼等が請願者の中で、いつもどう感じているか、親にとってもとても勉強になったセッションでありました。午前部が終り、息抜きのランチの時間が来ました。朝から、子供用のプログラムに参加していた子供達も、ランチの時間には親元に戻って来て、皆で、賑やかな昼食です。このミーティングには、日本からいらした水島先生の他に、もう一人、アメリカにお住まいの日本人で、小眼球をお持ちのお子さんのお父さんが参加されていました。初対面とは思えないほど、話は弾み、どの親も、同じ障碍を持った子供の親同士の心の絆を感じていたに違いありません。久しぶりに日本人に囲まれて、主人の日本語にも力が入ります。どの親たちも、とても明るくて子供の障碍に対して、前向きな姿勢を持っていると言う印象を受けました。娘やLちゃんの様に、大きく成長した子供達を見て、生まれたばかりの無眼球の赤ちゃんを抱いたお母さんは、胸が一杯になったようで、目を赤くはらしていました。5-6歳の女の子で、小さい時に受けた手術の経過が思うように進まずに、いまだに、義眼が入らない子もいました。近くに義眼師さんがいないので、なかなか頻繁につれて行く事ができないとの話でした。そんな親たちにも、子供の目の様子を診察して、「こんな形のコンフォーマーにしたら、うまく行くはず。」とご自身の経験と知識から、的確なアドバイスを与える水島二三郎先生。皆、わらにもすがる思いで、少しでも子供の為になる情報をと、真剣なまなざしで、メモをとっていました。そんな親たちの姿に、自分の姿を見るような思いでした。続く、、、。
2005年04月01日
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娘がフィラデルフィアを気に入った点は、どこに行くにも車に乗せられての移動の私達が住む町と違って、白杖を使いながら、バスに載ったり、自分の足でと街の中を散策できる事だったようです。色々な音、におい、そして感触を歩きながら楽しめるのは、視覚障害者にとって、都会の魅力のひとつでもあります。ダウンタウンではアメリカ独立記念の象徴でもある、「自由の鐘」にも特別に触らせてもらいました。とにかく、大自然が魅力に溢れた私達が住む地方の町には無い刺激が、都会には沢山あるものです。夕食をチャイナ・タウンで済ませた頃には、観光用のトロリーバスもすでに止まっていたので、夕暮れの街を、ホテルまで歩いて帰ることにしました。交差点では歩行者用の信号が青に変わるものの、すぐに黄色に変ってしまい、大急ぎで走り渡る、そんな行動にもケラケラと楽しそうに笑うミッシェルです。夕方から、ホテルでミーティングの受け付け及び、茶話会が始まりました。4年前にシカゴで開かれたミーティング以来の懐かしいシュナイダー先生やその時に知り合った家族との再会に話が弾みます。今回も100名以上の参加者があったようです。土曜日は、ホテルから徒歩で10分程のフランクリン・インスチチュート科学博物館でワークショップが行われました。7時半からの朝食の後、9時からのスピーカーは遺伝学者のシュナイダー先生と遺伝子カウンセラーのタニヤさんに寄る、研究の発表がありました。遺伝子カウンセラーと言う仕事の大事な点は、無眼球・小眼球の赤ちゃんが生まれた家族に対しての精神面でのケア-や医療機関、訓練機関の紹介、また遺伝子検査を勧める事などで、先ずは、戸惑う家族の為に、話を聞いてあげ、アドバイスを与える、そう言う仕事だと話していました。無眼球・小眼球の子供が生まれる原因も、複雑な遺伝子の組み合わせによるようです。例え、2-3代前の家族に、同じ障碍が無くても、7代、8代、又はそれ以上前の祖先に、障碍があったかもしれません。また、夫婦が、たまたま同じ劣性の遺伝子を持って居た場合、子供が優性の遺伝子を持ち、無眼球・小眼球を持って生まれ場合もあるようです。遺伝子の研究により、無眼球・小眼球の子供に起こりやすい、他の病状も明らかになって来ました。その為、眼の状態の検査の他にも、以下の検査を進めているそうです。 遺伝子 両親の眼の検査、 歯の検査、 染色体の検査、 腎臓の検査、 心雑音がある場合は、心臓の検査、 聴覚の検査、等娘の場合も、心臓に心室中隔欠損を持っていました。ここで、親から、「どうして歯の検査が必要なのか、、?」との質問。実は、娘の場合も、左下の前の乳歯が2本くっついて生えて来たのです。永久歯に生え変わった時に、その場所にはちゃんと別々に2本の歯が生えて来ましたが、、今度は、左上の犬歯が生え変わる時期になっても、生えて来ません。レントゲンの結果、彼女の左上の犬歯は、陰も形も無かったのです。これからも、時間はかかるものの、無眼球・小眼球をつくる遺伝子が新に解明されて行く事でしょう。研究発表の後には、オレゴン州の大学から来たホルガー先生が、子供の睡眠障害についての研究の話をされました。彼は、過去2年間の間に、全盲を含む子供の睡眠のパターンについて研究をして来たそうです。睡眠障害の原因は解明された訳では無いそうですが、人間の体にはボディー・クロック(体内時計)があり、暗くなれば眠くなり、朝になると目が覚めるというパターンを繰り返しますが、そのボティー・クロックは毎日15-20分ほど早くなって行くそうです。請願者の場合、夕方暗くなってくると、脳が刺激されてメラトニンが体内で作られ、また、夜が明けてくるとメラトニンほ発生が終り、その為、早くなるボティークロックは修正されて、夜になると眠くなり朝になると目が覚める仕組みらしいとの事。しかし、全盲の子供の場合は、光を感じないので、メラトニンが殆ど作られないか、又は、作られてもごく少量の場合が多く、毎日早くなるボティークロックを修正する事が出来ずに、昼夜が逆転してしまう状態が出てくるらしいとの事。この場合、毎日少量のメラトニンを与える事により、ボティークロックが修正され、昼夜の逆転が無くなったそうです。少量のメラトニンの場合、副作用も無いそうで、夜寝ずにいる子供には試してみる事を勧めていました。続く、、
2005年03月31日
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さくみ69さん、Pachelbel/canonさん、素敵なコメントをありがとうございました。与えた愛情以上の幸せを与えてもらえる。将に、子育ての素晴らしさはそこにありますね。 お互いに頑張りましょう~。 さて、3月はいつもにも無く毎週、旅行の予定がつまった忙しい月となりました。バイオリンのワークショップの興奮もさめやらまに、翌週末はペンシルベニア州・フィラデルフィア市で開かれたアイキャンの会議に家族4人で参加して来ました。アイキャンとはアメリカを本拠地とする無眼球・小眼球の子供を持つ家族のサポートグループで、言わば、インターナショナル・無眼球小眼球の会。(詳しくは、サポートグループのページをご覧ください。)アイキャンの結成は1993年。フィラデルフィア市に時を同じくして生まれた無眼球の子供達3人の家族達と、アインシュタイン・メディカル・センターで遺伝子の研究をしているシュナイダー先生が毎週の様に集まって、この子供達の為に出来ないかとサポートグループが出来上がったのでした。ボードメンバーは現在も親のボランティアで、シュナイダー先生の下につのるスタッフが協力してくれています。2年に一度、春休みの前後に開かれる会議には、今年も西はカリフォルニア州、北はカナダ、そして海外からはスペインからも無眼球・小眼球の子供を持つ家族が参加していました。さて、娘にとっても待ちに待ったアイキャンのミーティング。同じ盲学校のLちゃんの家族と一緒におちあって、明け方4時に町を出発。ハイウェーを飛ばして1時間の飛行場へと向かいました。温暖な気候のフロリダに来てから、分厚いコートなど殆ど必要としない生活に、「フィラデルフィアは寒いから、厚手のコートを忘れないように。」とのシュナイダー先生のアドバイスに、「さて、どうしたものか、、」と出発の前日に、いつもの様に、一家でばたばたと荷造りが始まりました。寒いといけないからと、あれもこれもと思った以上にふくらんだ荷物を目の前に、あわてて、ショッピングセンターに車を飛ばして小型のスーツケースまで買いに行く始末。我家の定番はもっぱら車での旅。主人の大型トラックに、テント用品やら衣料に食料と、なにからなにまで詰め込んで出発と言うわけには行かないのが、飛行機の旅であります。無事に飛行場に着いて、チェックインカウンターに並んで、びっくり。クレジットカードを差し込むだけで身分証明が出来、チケットを発行してくれる機械が並んでいるではありませんか。随分と便利になったものだと、思わず関心する私と主人。お父さんがパイロットという職業柄、とても旅なれているLちゃん一家とは対照的に、私たちの出で立ちは、どう見ても笑えてしまうのでありました。 上の娘は、とりあえずギャップ黒のダウンジャケットに身をつつみ、なかなかのおしゃれさんでありましたが、、、私はと言えば、足腰が寒いといけないと、、xx年前のゴールドのトレンチコートに身をつつみ、夫を見れば、軍服用の、裏地のついた黒のトレンチコートに首にはマフラー、ファイヤーファイターのロゴの入った紺色のニットのキャップに黒のサングラスと言うどう見ても、テロリストに間違えられそうな出で立ちであります。寒がりの次女は、我が家で一番センスのある長女の提案で、私が昔来ていた、ほわほわの襟のついた、つぎはぎデザインの毛皮のコートを着て、背中にはバイオリンのケースを背負って、片手には白杖と言う姿です。実は、この毛皮のコート。背負ったりおろしたりを繰り返したバイオリンケースの肩紐にひっぱられて、フィラデルフィアの空港に着いた時には、片そでがバリッとはがれてしまい、帰り道では余計なお荷物になってしまったのであります。流行は繰り返すと言えども、やっぱり古着は古着でしかありません。風の冷たいフィラデルフィアに着いて、先ずは次女のコート探しとなったのは、言うまでもありません。フィラデルフィア空港から、ミーティング会場で、宿泊先でもあるホテルまではタクシーで約20分。ホテルはかの有名な彫刻家ロダンの作品を集めたロダン美術館の真裏にあり、ジェファーソン通りの外れには、フィラデルフィア国際美術館がその美しいたたずまいを見せていました。ホテルのロビーに入ると、そこには懐かしい水島ニ三郎先生(義眼工房・みずしま)の笑顔が待ち受けていました。私たちの参加を知って、日本から急遽、予定返上で参加されたのでした。 水島ニ三郎先生の無眼球・小眼球の子供達の治療に対する情熱とその行動力には頭がさがります。今回も、自分の行っている無眼球の子供達の義眼治療がベストであるかどうか、又何かあらたに改良できる点が無いかどうか、アメリカの義眼師さんのやり方や、他の子供達の治療方法を見て、学びたいとのお話でした。午前中は、水島先生のお供で、フィラデルフィア市でお父さんの代から義眼を作っていらっしゃる、ルグラン氏ご兄弟の診療所を見学させていただきました。ルグランさんと水島先生は、アメリカ義眼師協会の会員同士、以前からのお知り会いで、今回も水島先生はご自分の使っている子供用コンフォーマーや器具を持参され、ルグランさんと熱心に技術交換をされました。器用な水島先生の手作りのコンフォーマーや器具に「これはいい、これは便利だ。」とニコニコのルグランさん。アメリカでは透明なコンフォーマーを使っていますが、特に水島先生が見せた、黒い玉の(黒目に見える)コンファオーマーに注目。又、乾燥眼の用の薬は何か良いものが無いかとの水島先生の質問に、「アメリカではこれを使っているよ。」とサンプルを渡すルグランさん。言葉のハンディがあっても、こと義眼の事になると私がどう通訳したものかと考えている間に、身振り手振りを入れて、お互いの意思の疎通をはかるお二人に、「ああ、こうやって、海を越えて、無眼球・小眼球の子供達の為に、技術交換をする姿って、ありがたいな、、、」と心が熱くなりました。「日本のドクターは、入る患者さんには、一ヶ月で直径13ミリぐらいのコンフォーマーをいれて広げます。」と言う水島先生の説明。「アメリカではどのようにしていますか?」との質問に、ルグランさんは答えます。「僕のところでは、大体1年で13ミリぐらいのコンフォーマーです。大体、1歳ぐらいまでには、義眼にします。 子供によって様様ですが、、生まれてから最初の2ヶ月ぐらいの間は、2週間ごとに診察して、徐々にコンフォーマーを大きくして行きますね。それから診察の間隔を開けて行きます。ダラスのドクターと義眼師さんが開発した方法です。内部の粘膜を無理に広げた場合、内部の粘膜が正常に育てば問題は無いのですが、子供が4-5歳になった時に、まぶたや粘膜がうまく機能しない事があるといけないので、ゆっくりと無理なく広げる方法が、現在の所、私は良いと思うのです。」「眼球はとてもやわらかいソフトなもので、その眼球が成長する事で、眼の回りの骨も成長する。その力は、本当にわずかなものだと思いますよ。だから、無理やりに大きめなコンフォーマーを押し込んで広げるとよりも、無理の無い大きさを入れて、骨を刺激してあげる、それが私たちのやり方です。だから、粘膜から出血する事もないから、ドクターがやるのでは無く、義眼師が入れます。」というルグランさんの説明に、なるほど、とうなずく水島先生。確かに、こういった情報交換は大切です。翌日、無眼球・小眼球の子供の治療を手がけているフィラデルフィア子供病院のドクターカトウィッズが発表していましたが、「これがベストと言う治療法はありません。その子供によって同じ治療でも反応の仕方は様様です。だから、その子供にあった方法を見つけ、そして、家族ができる事を、やっていくことです。大切な事は、ご家族の皆さん、ああしてあげれば良かった、、こうしていれば、、と決して過ぎた事を悔やんだりしてはいけまんよ。自分を責めてはいけません。これから先、何ができるかを考えて行きましょう。」午後からは、ルグランさんと一緒に、子供病院での無眼球・小眼球の子供達の診察に向かう水島先生と分かれて、私たちはLちゃん一家と一緒に、トロリーバスに乗り込んで、ダウンタウンの観光へと出掛けました。丁度、アメリカ史を勉強している娘にとって、独立記念の土地、フィラデルフィアは将に絶好な訪問地です。 続く。
2005年03月29日
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先週の金曜日・土曜日のバイオリン・ワークショップも、今年はバイオリンを落とすなどの事故も無く、無事に終えて、去年以上に、大満足のミッシェルでありました。 本人の感想は、「オーケストラが良かった。」と苦労して、4曲暗譜していった甲斐が大いにあり、時間の関係で、オーケストラクラスでは3曲しか練習ができなかったものの、コンサートでは、バイオリンの弓を引く手にも、一段と力が入るミッシェルでした。毎年、先生も含め、皆が驚いて質問することが、「どうやって、短時間でオーケストラの曲を丸暗譜するのですか?」答えはいつも、「楽譜を読むことが出来ないから、頑張って暗譜するしか方法が無いのです。」ミッシェルは、一度曲を聴いたら、すぐにその場で弾けるような、音楽の天才児ではないから、やはり、そこには何度も何度も聴いては弾く練習という、人並み以上の努力があるのです。ふと思うのですが、全員が楽譜を暗譜したら、それこそ、指揮者を見ながら演奏が出来て、さぞかし指揮もやりやすくなるだろうな、、。今年は一つ嬉しいコメントを、あるお母さんからいただきました。「お宅の娘さんは、全然、全盲だという事を意識していないみたいですね。 それが当たり前の事で、他のお子さん達と同じように、ここにバイオリンを楽しみに来たという、楽しんでバイオリンを弾く姿がとてもすがすがしいです。」そのお母さんは、こんな事も言っていました。「娘の学校に、全盲の女の子がいたのだけど、その子は、自分は全盲だから、他の人が助けてくれて当たり前という態度でした。だから、いつもクラスの誰が、交代で彼女の面倒をみていたのですよ。」ふむ、ふむ、と私もミッシェルが4-5年生の頃を思い出す、、。「いや、、今だからこそ、ミッシェルはあれだけ自立してますが、 いつも人に助けてもらうのが、当たり前のようになっていた時もあり、先生から随分注意されました。」盲学校でも、弱視の子供達は、ついつい全盲の子供に手を貸してくれたりするし、また、まだ、視覚障害児に慣れていない、先生のアシスタントやバスのスタップの人たちは、必要以上に子供達に手を差し伸べてしまうのです。 子供にしても、助けてもらう事に慣れると、それが当然となってしまいます。「今では、先生からも、どこまで助けが必要で、どの助けはいらないかを、自分の意志で相手に伝える事の大切さを、注意されます。」とかく、視覚障害の人を見ると、なんでも助けてあげたくなるものですが、時には、それが余計な助けとなる事もあります。 そんな時は、視覚障害者も自分で助けはいりませんとはっきり答える事が大切だそうです。人間は、どんな小さな事でも、自分で出来る事に喜びを感じます。そして、人を助けてあげられる事に、さらに喜びを感じます。だから、視覚障害の人だって、同じように、自分でやれることは自分でやりたいだろうし、とかく、人の助けを借りる事の方が多い毎日だから、自分の出来る事で、他の人を助けてあげられたら、それはとても幸せだと思います。 今年もまた、月明かりの美しい、夜道を、延々と5時間半ドライブして帰って来ました。また、来年も、行こうね、ミッシェル。
2005年03月16日
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アイキャンの会議も待ち遠しいミッシェルですが、今週末は、恒例となりましたジョージア州・アガスタ市で、鈴木メソッドのバイオリン・チェロのワークショップが開かれます。去年のワークショップに参加した時は、バイオリンの首が折れた惨事にもめげず、楽しい思い出を沢山持って帰った娘は、今年も参加すると張り切っています。教本7番になったミッシェルは、一番上のクラス。鈴木メソッドの曲はマスターしているから良いものの、オーケストラのクラスでは第一バイオリン担当で4曲程、娘のなじみの無い曲がファックスで送られて来ました。 プリントの楽譜が読めない娘は、、(実は、点字の楽譜が手に入りにくいし、、、音楽の全盲の先生が厳しいからいやだ、、と何だかんだと親子で理由をつけては、娘は点字の楽譜読みを殆ど練習をしていないのが現実であります。)今でも先生のレコーディングをや発売されているCD聴いて、暗譜しています。時には、下手ながらも私がキーボードを弾いて、手伝ったりもしています。とにかく、曲をマスターするまでが、ちょっとしんどい娘です。ワークショップまで10日ちょっと。先生が早速届いた4曲をバイオリンで録音してくれました。それを一度に全部、聴いて、、 「こんなに沢山、ワークショップまでに、覚えられない~~~」と、毎日、学校の宿題に追われる彼女は、少々、弱音を吐いていましたが、、でも、ワークショップに行っても聴いてるだけで、弾けない事にはつまらない事も、良く知っている彼女。オーケストラで練習する曲の順番を教えてもらい、一つづつ、覚えられるところまで覚える事にしました。 「じゃあ、1曲か2曲でも覚えられるだけやってみるか。」と、オーケストラの曲の特訓です。先々週の日曜日に何とか2曲をマスター出来た彼女。 「じゃあ、もう1曲頑張ってみるか、、」と3曲目の一番長いモーツアルトを弾き始めて、それも先週の土曜日に何とか覚え、 「3曲覚えた、頑張ったね。 もういいね、、。」と娘がちょっと可愛そうになって来た事に加え、練習に付き合って、横でキーボードで音をとったり、手をたたいてビートをとったり、アップ・ボーだの、ダウン・ボーだの、スラーだのと声を張り上げながら、弦の方向を教えてあげたり、声をからして一緒に曲を歌う、バイオリンが弾けない母にしてみると、、、、娘と一緒に、3曲をマスターしたところで正直、、、 「もういいよ、、。」だったのです。 しかし、 「最後の曲もやりたい。」と根をあげない本人。 「一人でできるから、大丈夫よ。」と先生のテープをかけては止め、それを真似てバイオリンで弾いては、また、テープをかけしている娘を見て、私もやっぱり、横から手をたたきながら、声をからしてアップ・ボーだ、スラーだと言いながら一緒に歌う事にしました。日曜日と月曜日の晩にとちりながら、何度も練習して、どうにか、こうにか、、4曲全て、マスターしたようです。パチ! パチ! パチ!一度に全部を覚えようと思うから、ため息も出ますが、1曲づつ、やれるところまでやってみるか、と思えば、なんとか出来るものだと、、忍耐力と努力に関しては、数段上の娘に今回も、私は、色々と教えられました。娘の顔にも、満足げな笑顔が湧いています。きっと、楽しいオーケストラとなるでしょう。それにしても、去年、出会ったアンドリュー君一家は、今年も参加するかな、、と心ひそかに期待する母であります。
2005年03月09日
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3月に入りました。寒さ、暑さを繰り返しながら、、こちらは少しずつ春を迎えつつあります。さて、ネットワークのお母さんから、関西地方に住む方への情報をいただきましたので、ここで紹介させていただきます。 視覚障害者と請願者がつくる舞台だそうです。* * *「見えるひと、見えないひと、見えにくいひと、見えすぎるひと」日時 : 3月26日土曜日 午後3時開演 舞台空間体験タイム 午後2時ー2時30分場所 : 尼崎ピッコロシアター 中ホール (Jr宝塚線、または、阪急神戸線「塚口駅」それぞれ徒歩。)料金 :1000円、 介助者・ガイドの方 500円* * *それから、今月18日、19日はアメリカの無眼球・小眼球のサポートの会「アイキャン/ ICAN」の2年に一度の会議が、フィラデルフィア市で開けれます。 我家も、4年ぶりに参加する事に致しました。 会議のスケジュールはICANのウェブサイトをご覧ください。最近、とても社交的になって来たミッシェルも、先月からフィラデルフィア行きを楽しみにしています。中学生ぐらいの無眼球・小眼球の子供達の結構参加するそうで、子供達のパネル・ディスカッションなども計画されているとの事。 夜のバンケットでは、楽器や歌が得意な子供達が、演奏するそうで、ミッシェルもバイオリン持参で行く事になりました。会議の様子は、帰ってからご報告したいと思います。
2005年03月08日
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スーパーボールへの出演も無事に終り、盲学校の学校生活も、また、元のペースに戻りました。当日は、ミッシェルも興奮さめやらずで、帰って来ました。「最初から最後まですっごく楽しかったよ~! ランチに食べた、ピーナッツ・バターサンドイッチ以外はね。」と、いつもの様に、気に入らなかった事もしっかりと述べる彼女。夕方6時頃の出演に備えて、150名の生徒達は、朝の10時半には学校でお揃いのユニフォームに着替え、学校のカフェテリアでチキンサンドイッチとチョコレートケーキで腹ごしらえをし、25人の先生達と一緒にスクールバスに乗り込んで出かけて行きました。ミッシェルの為にと、お姉さんのステファニーは珍しく朝から早起き、ミッシェルの髪方も素敵にまとめてくれ、ついでにちょっとお化粧などもしたりして、一緒に、この大イベントを楽しんでいました。さて、ミッシェルの話では、会場に到着してからは、出番になるまで、どうやら寒さの中、スタジアムの外に仮設されたテントの中で、延々と待機していたようです。小学生の頃は、私もボランティアで盲学校の行事に良く参加していましたが、中学生ともなると、あまり手助けも必要なく、私も引率をする必要が殆どなくなりました。そこで、最近では帰って来た娘に「どうだった?」と様子を聞くのが楽しみ。しかし、全盲の娘から様子を聞きだすのが、結構難しい。楽しかった~!と満足げな娘から、もっと話を聞きたい私は、、「そう?それで、スタジアムの中の待合室に入ったの?」「中には入らなかった。」「じゃあ、外?」「多分、パーキングのところのテントの中。」「へ~、そこにずっといたの? 全員で?」「そうだと思うよ。クラスのxx君と話をしたんだ。 楽しかったよ。」と解説はいたってシンプル。「それで、アリーシャ・キーズには会えたの?」「? ? ?」「会えたって、つまり、アリーシャ・キーズの話し声とか、近くで聞こえた?」「聞こえなかったよ、、。」こんな時は、回りが見えていたら、「あ!あそこに、xxがいる!」と遠くに見える有名人の姿に、思わず歓声をあげそうなものですが、、娘の意識に存在するのは、手の届く範囲にいて話の出来る相手なのですね。彼女にしてみたら、私たちが「有名人」と呼ぶ人たちと話をするよりも、普段、なかなかゆっくりと話が出来ないクラスの友達とのおしゃべりの方が、当然、楽しいに違いありません。「本当に、楽しくて良かったね!」「うん!」テレビに映った子供達は、とっても活き活きと輝いていました。「歌い終わって拍手が聞こえたら、大きく手を振ってね。」との指示のとおりに、ミッシェルも笑顔でスタンドに向かって両手を振っていました。盲学校のなじみの子供達の顔がテレビに映し出される度に、自宅のテレビの前にいたステファニーと私も、歓声をあげていたのは、言うまでもありません。私たちにとって「注目してもらえる。 努力を認めてもらえる。」という事が人生の中で、とっても大切なのだ、、と感じました。
2005年02月16日
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授業がつぶれると言えば、(やはり、授業があまりにもつぶれる事が気になって仕方がない私。)今日の午前中は、盲学校の立派な音楽ホールでスーパーボールの放映ように、歌のレコーディングが行われました。ミッシェルは午前中に歯医者さんの予約が入っていたのですが、音楽の先生から 「ミッシェルは声が大きくて上手だから、マイクのすぐ近くで歌うグループに入っているんですよ。お母さん、何とか歯医者さんの予約を変更してレコーディングに参加できないでしょうか?」と嬉しいような、でも、苦労して入れた歯医者さんの予約を無駄にしろというのも、迷惑な話だな、、と思いながらも、「いや、これは盲学校のチームプレーだし、何とかせねば、、。」と予約変更の問い合わせをすると、幸運な事に、午後に空きがあるとの事。すんなりと、予約が変更できミッシェルは、その大きな地声をお役に立てることが出来ました。思えば、小さい頃に、自己表現が下手なミッシェルは、手探りの状況の中で、自分の思いどおりにいかない時に、「ぎゃ~~~!!」と大声をあげて、良く泣いておりました。その叫び声に心を痛めながら、、、「なんとかならないかな、、人前でも平気で出す、この叫び声。 のどにポリープでも出来ないか、、心配だわ。それにしても、ミッシェルはこんなにお腹の底から出る太い、いい声してるのだから、いつかは神様も彼女のこの声を何かのお役に立ててくれるといいな、、。」などど、切ない願いを持っていたものでした。だから、音楽の先生に誉められた時は、私は昔の事を思い出して、正直、本当に嬉しかったのです。さて、今回のレコーディングのディレクターはフロリダ州立盲学校出身のレイ・チャールズさんのレコーディングも手がけたと言う、カリフォルニアから来た人でした。子供達をマイクの回りに円にして立たせ、スタンバイが終わると、彼が言いました。「今日はね、スーパーボールの日の為に、皆の歌をレコーディングします。今日も歌ってね、それで、スーパーボールの日も、勿論皆で歌うんだよ。 じゃあ、楽しんで歌うんだよ~!」とここまで来ると、どの子供達の笑顔もキラキラ輝いています。大きなフットボールスタジアムに向かって歌うのに、きっと、上を向いて歌いなさいと指示されたのでしょう、普段は下を向く癖のあるミッシェルも、指示に従って、今日ばかりは、頭を上に向けて、大きな口を開けて歌っています。歌う時間はほんのわずかですが、それでも、大人たちもびっくりするほどかなりゆっくりとしたテンポの伴奏を聞きながら、子供達の歌声は、伴奏を無視して、どんどん早くなっていくのでした。それしきの事には全然めげないディレクター。素人の合唱のテンポが外れる事はよくある事。「ハイ、ちょっとストップ!とっても良かったよ!じゃあ、今度は伴奏の音をもっと上げてみて、もう一度、伴奏に合わせて歌ってみようね!」と言って、子供達の歌が、走り始めると、自分もマイクに向かって一緒に大声で歌い始めました。「ベリー・グッド!!じゃあ、もう一回練習してみよう~!」と子供達は5-6回歌わされて、かなりのスローテンポにも慣れて来るのでした。「じゃあ、ここでちょっと休憩だ!」ちょっと疲れて来た子供達も、ほっと一息。レコーディング・メンバーの話を聞いていると、どうやら伴奏抜きで、子供達の声だけを録音したいようで、休憩の後には、「じゃあ、今度は伴奏なしだぞ~。 スタート!」しかし、伴奏が無いと、やっぱりどんどん早くなる子が、どうしても出てくるのです。「ハイ~、ちょっとストップ!」とディレクターの声。やれやれ、短い合唱の録音と言っても、大変な事です。「何か、クリックの音を入れてテンポをとれないかな?」とディレクター。「マイクの性能がいいから、クリックの音が入って、まずいですよ、、。」と音響の担当者。「じゃあ、やっぱり伴奏を小さく流す事ことにするか、、。」と言った具合に、1時間半かけてのレコーディングもどうやらうまく行った様子。盲学校の校庭には、子供達が立つのと同じステージもシュミレーション様に作られ、子供達は、その階段のあがりおりを、何度もしっかりと練習したそうです。目が不自由で無ければ、スーパーボールで歌うと言う大役は子供達には来なかったかもしれません。本人や家族にとっては、目が不自由な事は、もう生活の一部になっていて、特別な注目される事でも無いのだけれど、、でも、目が不自由だからこそ、テレビでは見れない事を体験させてもらえて、やっぱり親としても、祝福したいと思いました。
2005年02月03日
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私たちの住むセント・オーガスチンは小さな観光地ですが、その北にあるジャクソン・ビル市で、今年のスーパーボールが開催されます。スーパーボールとは、1年に一度開かれるプロフットボールの勝者を決める大きな試合です。その為か、北フロリダの開発は目を見張るものがあり、ここからジャクソンビルに真っ直ぐ走る、ハイウェーのUS1、そして95号線沿いも、あちこちで伐採が行われ、ちょっと見ない内に、ビルやコンドミニアムが建ち始めました。さて、そのスーパーボールの試合の前に行われるプリゲームショーでフロリダ州立聾盲学校の生徒達150名が 「アメリカ・ザ・ビューティフル」を合唱する事になりました。2週間前ぐらいから、8時間目の歴史の授業は、すでに合唱の練習で何度もつぶれ、どうも、歴史の授業はスーパーボールが終わるまで、おあずけの様子。これまた、気楽なアメリカらしい点だと、滞る授業は、親としては大変気になるものの、8年もフロリダに住むと、こういった事態にも、私はいたって肝要になり(?)まあ、スーパーボールに参加する事は人生に一度の体験かもしれないな、、とあまりイライラしなくなりました。 「練習、どう? さぞや熱が入っているでしょうね?」と聞くと、「アリーシャ・キーズと一緒に歌うんだって!」と得意そう。とは言われても、私は、最近のヒット・ソングは誰が歌っているやら、あまり気にせず聞き流している為、誰の事だかさっぱり解りません。「へ~、有名なひとなの?」「そうだよ、ママ。」と、最近の人気歌手の名前を殆ど知らない母に、娘はあきれたように答えます。そう言えば、私も学生時代に当時の人気歌手の名前をさっぱり覚えられない母を見ながら、「どうして、中年になると人気歌手の名前も覚えられないのかしら、信じられない。私はああいう叔母さんにならないわ。」と、しかと思った事を思い出しながら、しかし、しっかりとその一員になった自分におかしくなりました。でも、これは良い機会だと、早速インターネットの検索でアリーシャ・キーズと入れてみると、出てきました、、。インターネットも便利なもので、ついでにCDの曲のさわりも聴いてみると、「あ、ママもこの歌なら知ってるよ。」世界衛星中継だそうで、フロリダの裏側の日本では、多分、2月7日月曜日の朝に放送されるようです。残念ながら、歌を歌った後は、そのままスクールバスに乗り帰ってくるそうですが、なにはともあれ、テレビの音でしかしらないプロ・フットボールの試合の雰囲気をそのスタンドで体験できる事、きっと子供達には一生の思い出になるでしょう。
2005年01月31日
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年末から、ぽかぽかと小春日和の陽気で、恒例に無く、とても冬とは思えないフロリダの新年でした。今年は、お日様の暖かい日を沢山浴びている精か、クリスマスの後の、あの気の抜けた感覚がどこかへ飛んで行ってしまったのが、なによりも私にとってはありがたい事です。多分、クリスマスの前に、子供達にもゆったりとした1週間の休みがあり、そしてクリスマスが終わって新年が始まったとたんに、気が抜ける間も無く、新学期が3日から始まった事もよかったのかもしれません。などと自己分析してますが、とにかく、新年から心も穏やか、幸せな1年の予感がする事は良いものです。今回は、大晦日の晩に、主人の提案で打ち上げ花火をやりました。 大体、大晦日は家にいて、いつもと変わりなくのんびりと家族で過ごすし、タイムズスクエアーのカウントダウンと一緒にシャンペンで乾杯程度が好きな私ですが、今年は打ち上げ花火好きな友達と意気投合した主人は、川べりに建つ友達宅で、花火を上げて年明けを祝おうという事になりました。思えば、日本に住んでいた頃、多摩川の夏の打ち上げ花火を見に行って、あの爆発音にすっかりおびえて、建物の中に隠れていた幼いミッシェルでした。いつの頃からか、線香花火などを楽しむようになり、今では、これは何? あれは何と、主人と一緒になって、花火に火をつけてはあの騒音を楽しむようになりました。打ち上げの時のスポ~ンと言う音、空高く上がっていく、ヒョロヒョロと言う音、そして遥か頭上で砕ける花火の音、その場に居る人たちの拍手と歓声、そして後に残る火薬の匂い、デッキにしゃがみこんで、霧のかかった静かな川を見つめるように、じっと回りの音に聞き入るミッシェルの心にも打ち上げ花火はドカーンと響いて、きっと大きな花を咲かせてくれたことでしょう。うん、うん、今年も1年、又、楽しみだ。山あり、谷あり、何でも来い~!皆様にとっても、素晴らしい学びの年となりますように。
2005年01月16日
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玲子さん、さくみ69さん、コメントありがとう。Akiko0314さん、リンクいただいてありがとうございます。日本はこれからお正月に向けて、とっても賑やかな時でしょう。アメリカではクリスマスも終わって、恒例どおり、気が抜けた感じです。2005年の元旦は土曜日。ハリケーンで休みが多かった地元の学校では、振り替え登校で1月3日から授業が始まります。今週は一週間冬休みが残っているので、「雪を見にただひたすら北へ向けてドライブする?」などの意見もでましたが、多分ハイウェーを最低600-700キロは北上しなければ、雪山にはお目にかかれないだろうし、それにはやはりちゃんとした計画も必要だし、、、、と、この突発的な提案は実現すること無く、多分、家でボーとして終わりそうです。冬休みではありますが、フロリダ州の職員さんで、視覚障害者の自立についての指導をしてくれる方が、2度ほどミッシェルに会いに来てくれました。何でも、新しく予算が組め、視覚障害を持つ高校生を対象に、高校を卒業してから自立する為に必要な生活全般の知識などを指導をしてくれるとの事。まずは、インタビューをして、ミッシェルにはどのようなサービスが必要か、プログラムを組んでくれることになりました。盲学校でも、色々な指導は受けてはいるものの、学校以外での生活に関しては、案外知らない事がまだまだあります。慣れぬインタビューに、ついつい体を前後にゆさぶり、緊張を隠せぬミッシェルでしたが、これから自立に向けて、何でも学びたいという意欲満々の様子がうかがえました。毎日接していると、親も子も、助け合うペースが出来上がっているので、ついついミッシェルの手助けをしてしまいがちな主人と私。ミッシェルもできなくても誰かがやってくれると、当たり前になっていることが結構多いのです。職員さん:近所の家まで一人でいけますか? ミッシェルと母:いや~、まわりは年配の方が多くて、あまり娘が一人で歩いていくことはありませんね、、。職員さん:洗濯機や乾燥機は自分で操作できますか? 母:洗濯機のノブが空回りするタイプで、、目印のテープをつけたのですが、全然役に立たず、洗濯機はまだ一人では使えません。乾燥機ですが、、大体洗濯物は外に乾すようにしているので、こちらも一人では使った事がないですね、、。職員さん:自分で病院の予約など、電話でしますか、、。 母:あ、、それも、私がまだやっています。(考えてみたら、17歳になるお姉ちゃんだって、自分でドクターの予約などしませんわ、、。)と、、自分がやった方が手っ取り早いからと、ミッシェルに教えていない事が多いことに気づく私でした。ミッシェルからも、積極的に質問がでました。「馬鹿な質問なんどないんだから、解らない事は恥ずかしがらずに聞くように。」と学校で教えられているミッシェル。ミッシェル:銀行の口座を開いたのですが、残高等をどうやってノートにつけたらいいですか?(ちなみに、アメリカには個人の通帳なるものは無く、銀行でくれる小さな帳面に自分で書き込み、月末に銀行から一ヶ月分の金額の出し入れの記録が届きます。) 職員さん:最近ではコンピューターのとても良いソフトが出来たので、それで、大人は管理しているけど、ミッシェルの場合は家族の人にノートの書いてもらうようにしたら?ミッシェル:盲人はクレジットカードってどうやって使って買い物をしていますか? 職員さん:皆さん、クレジットカードを使う時は、信頼できる晴眼者に一緒に買い物行ってもらうようですよ。後は、オートチェッカーがあるお店は、商品をスキャンする時に金額も読み上げてくれるから、それを使うと良いかもね。現金で買い物をするか、クレジットカードを使うかは、人それぞれの好みですね。ミッシェル:歯磨き粉を沢山出しすぎてしまって、洗面所にこぼしてしまうんですけど、、。 (普段、母親から、出しすぎた歯磨き粉が洗面所に飛び散っているよ!!と注意されいるのであります。) 例えば、すこし指に出して、それを歯ブラシにつけるとか、後は、自分用の歯磨き粉を用意して、歯に直接つけたりしてみたら?ミッシェル:食器洗いをする時に、洗剤もスポンジに沢山でちゃうんですが、、。 母:いや~、必要以上出すと、洗剤のボトルもすぐに空になるから、出し過ぎないように節約しなさいと話しているんですけど、、(かなり赤面!!そうか、そうか、ミッシェルはそんなに苦労して、スポンジに洗剤を出していたのか、、と反省する私。) 職員さん:ボトルの先にスポンジがついていて、強く押すと少しづつ洗剤がでるタイプがあるから、それを使ったら?歓声を上げて「それにする!!!」と喜ぶミッシェル。他にも、ごちゃごちゃした我が家のキッチンではミッシェル様のキャビネットを決めて、そこには、いつも同じ場所に、彼女が簡単な料理に使える材料を置いておくようにする。等、今日も盲児にとっての便利な生活の智慧を教えていただいた。1時間半が過ぎ、ミッシェルの緊張度は限界に来ていたので、残りの質問は次回の面接時にする事にした。職員さんが来るたびに、自立に向けての姿勢が、さらにしっかりするミッシェル。いつの日か、彼女が自立する時には、 へ~、本当にこんな日が来たんだな、、。と私は、又、過去の日々を懐かしむのでしょう、、。
2004年12月27日
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8月にハリケーン騒動と共に新学期が始まり、中学の最高学年である8年生をスタートしたミッシェルも、明日で1学期が終わり、待望の冬休みに突入です。7年生の中盤に起きた、とある事件をきっかけに、ミッシェルは馬力がかかった車の様に、この1年で大きく成長しました。人生においてあちこちで遭遇してしまういやな事件。 その時は苦しいけれども、後になって振り返ってみると、それがきっかけとなり、それが肥やしとなり、それがバネとなり、大きく育つ事があることに気がつきます。ミッシェルの場合も、いやな事件にへこたれずに、強風をうけながらも少しつづでも前進しつづけた事が、彼女の成長へと繋がったようです。この子には、本当に友達が出来るのだろうか、、私はずっと心配でした。 友達の家に遊びに行っても、「つまらなかった。もう行かない!」と不満をぶつけていた娘。心の成長と共に、遅ればせながらも、社会性を身にけ始めて、今では自分から友達を作ろうと積極的な娘。 所構わず、相手構わず、自分の気持ちを正直に発散させては、人の心を傷つけた事もあったっけ、、。 本人にしてみれば、悪気があったわけではなく、限りなく自分の心に正直に生きて来た、、そんな娘。 もし、誰もが自分の思いを映し出せるテレビを首からぶらさげて生きていたら、きっとミッシェルのようだろうな、、、。 そんな自分の思いも、大分コントロールできるようになった娘。彼女の目となり、少しでも助けてやりたい一心で、あれこれと指示を出しては助けて来たことが、度を過ぎていたようで裏目に出てしまい、自分では考えずに、人の指示をいつも待つ癖がついてしまったミッシェル。 それが、今では、段々と私を必要としなくなる彼女。12月恒例のマイアミでのオレンジ・ボール(障害者の為のスポーツ大会)では、15個の金メダルと立派なトロフィーまでただいて、それも文句も無く、「楽しかった!」と笑顔で帰宅した娘。へ~、こんな日が、本当に来たんだ。 と、疑って申し訳なかったような、、、でも、今の私の正直な気持ちです。多分、それは、、ミッシェルの変化でもあり、しかし、その一部には、母である私の心の変化があったようにも思うのです。子供のことを愛するが為に、心配が為に、頭では解っていても、どうしても自分の価値観を押し付けようとしてしまう私。自分の理想の子供に育てようと、娘の気持ちよりも自分の気持ちを大切にしてきた私。これではいけないと反省して、娘の気持ちを、本当の気持ちを聞くように心がけて来た私の思いが、娘の心に届いたのかもしれません。先ずは、子供の話を黙って聞こう!簡単なようで、この基本がなかなか出来ていなかった私でした。 それは、つきつめてみると、自分の心を静かに聞けない、そんな自分がいたことにも気がつきました。 そして、ミッシェルも友達の話を、興味を持って黙って聞けるようになったのかもしれません。
2004年12月16日
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ぽかぽかと、、暑すぎも無く、寒くも無い、気持ちの良い秋の気候が続いていた北フロリダでしたが、先週は冷房をいれる蒸し暑さが少しぶり返し、、そして週末からは急に冷え込んで、暖房をいれる寒さとなりました。今晩は今季初めての霜が降りるとの予報。我が家でも庭に咲く植木の花々を軒下に入れたり、凍結防止にと外に出ている水道管にタオルを巻いたりと、恒例の冬支度が始まりました。あっという間に、今年も残り少なくなりましたが、今年は無眼球・小眼球の治療に、新たな光が差した年でもありました。その名も、Hydrogel Tissue Expander、 そして、Hydrogel Orgit Expander。 ドイツで開発された技術で、この手術を受けたアメリカ在住のお子さんのお母さんの話によると、目のスペースに入れることにより、体液を吸って大きくなるエクスパンダ-だそうで、今年始めにこの手術を受けられ、現在1歳半になる小眼球のお子さんの目のスペースは、すでに同年代のお子さんと殆ど変わらない画期的な進歩を遂げたそうです。この治療法はドイツで開発され、アメリカでは昨年の秋に認可が降りたこの技術。私も、ミッシェルの義眼が入るまでの2年間は、目のスペースがなかなか思った様に広がらずに、苦労しました。是非、日本の医療関係の方々にも、検討していただけたらと祈念しています。
2004年12月15日
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大それたタイトルがついていますが、今日は、娘の数学の宿題を手伝いながら感じる事を書きたいと思います。娘は現在、8年生。アメリカでは9年生から4年間の高校が始まるので、今年は中学の最終学年となりました。あの、チョリコ・ミッシェルも来年からいっぱしの高校生です。それに従い、学校の勉強も難しくなって来ました。やはり視覚障害児が苦労する科目は、数学に理科ではないでしょうか?どちらも、かなり視覚的情報が多く、又、理科などは実験をするなり、実物に触るなりしないかぎり、教科書に描かれた絵を文字で理解するのは、不可能に近いことであります。そんな訳で、ミッシェルも数学と理科には苦労をしていますが、先週もらってきた成績表は、本人が思っていたよりも遥かに良く、本人もニコニコ。 一番の心配の種は、数学。なぜならば、新学期に入ってから受けた最初の数学のテストの点が10点、20点、そして38点など、かなりお粗末なものだったから、本人はひょっとしてFをもらうのではないかと恐れていたようでした。その数学が79点。後半のテストで盛り返したのと、きちんと宿題を提出したのが良かったのだと思います。フロリダ州での成績のつけ方は、A、B、C、D、そして落第のF。 ミッシェルはBにちょいかけのC、つまり平均点でありました。 現在ミッシェルが学んでいるのは、小数点の掛け算、割り算。盲学校では、子供の実力に合わせてた国語・数学のカリキュラムを組んでいるので、彼女の使っている教科書は多分、こちらの6・7年生レベルの教科書のようです。反面、数学が得意な子供は、飛び級をして、高校の数学を勉強する事も可能です。盲児にとっての数学は、先ずは掛け算、割り算の計算の仕方を、点字で覚えなければなりません。 私たちの様に、紙にちょちょっと書いて、間違ったら消しゴムで消してすぐに書き直すという訳には行かないわけです。私たちにとっての、数式は一目瞭然の数字と記号ですが、盲児にとっては、数字は、先ず数字を表示すると言う意味の点字が最初に来ます。 その次に実際に数字の点字が来るのですが、数字の記号がなければ、それらは、全てアルファベットなのです。そこに小数点が入ろうものなら、少数点を意味する記号が入ります。 私たちが目で見るような、簡単な数式ではなく、それは暗号読解のような、複雑な点字の数式なのでありました。いつも、プリントの資料を見ながらミッシェルの宿題を手伝う私は、ついついこの暗号読解の事を忘れてしまい、目の前にある簡単な数字の配列と掛け算やら、割り算やら、そして小数点などを見ながら、、「ミッシェル、どこ見てるの?(触っているの?の意味。)そこに小数点があるでしょ!」とじれったくなって、声を高めてしまうのですが、、彼女の点字の教科書を覗いてみると、それはそれは長々とした点字の数式が並んでいるのであります。一生懸命指で追いながら、小数点の記号を探すのであります。さて、小数点の掛け算の話にもどると、縦書きにして計算をする時に、やっかいな事は、プリントの様に上下がきれいに並ばないのであります。なぜならば、数字の間に小数点記号が入ってくるからです。それでも、本人は口をへの字に曲げながら、一生懸命、指で点字を読みながら、上下が決して同じ桁数には並ばない数字を計算して、小数点を右から数えた正しい位置に入れながら、右端から逆に答えを点字で打って行きます。見えている人なら、1分で終わる所、点字を打つものにとっては、倍はかかります。こうして、でも、数学の世界が広がって行くのでありましょう。数学の進んでいる日本でも、同じような作業をしているのかな、、とふと考える昨今ですが、どなたか良かったら、教えてくださいませ。
2004年11月10日
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またまた、ご無沙汰してしまいました。ハリケーン騒動も終わり、主人も2ヶ月の留守から10月中旬に無事に戻り、又、一家4人、犬2匹、それに新しいメンバーの猫ちゃんが加わって、元のペースに戻ることが出来、ほっとしています。やっぱり、家族は一緒に住める事が理想であります。夫が帰宅して、ハリケーンでダメージを受けた家の修理を、すこしずつ始めました。屋根の張替え、壊れたフェンスの修理や後片付けなどリストを作るとざっと15項目にもなり、せめてクリスマスまでには何とか作業を終えたいと願っていますが、どうなりますやら、、。10月に私書箱にメールをくださったお母さん、ありがとうございました。 返事が遅くなりましてごめんなさい。 もし、届いていなかったら、又、私書箱宛にメールください。ところで、我が家に新しく来たメスの猫ちゃん。3年前に近所に捨てられていた所、我が家の一員となったジャーマンシェパードのマックスに、2度も追いかけられながらも、けなげに我が家の回りに戻ってくる猫ちゃん。毛はモヘアのようにふわふわのグレーがかった白で、抱いてみると、なんと体はコリコリにやせており、かわいそうになって、ドックフードを与えると、ペチャペチャと平らげてしまいました。その晩、ミヤ~とまん丸の目で見つめられてから、猫ちゃんは我が家の大事なマスコットとなりました。私は今まで猫には殆ど興味がなかったのですが、この猫には運命的な(?)出会いを感じております。ついつい、家族を自分の思い通りに動かしたくて、でも、家族には家族の考えもペースもあって、それで、自分の思い通りに事が進まずに、イライラしがちな主婦の私にとって、買主の思いどおりは決して動いてくれない、この猫ちゃんは、色々な事を教えてくれる存在となりそうです。それにしても、年々、1年が過ぎる速さが早くなりと感じるのは、私だけでしょうか、、?
2004年11月09日
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フロリダ北東部でのハリケーン騒動は、週末に流れた全家庭に電気が戻ったとの朗報で、ひとまず落ち着いた。我が家と隣のおじさんの間に倒れた樫の大木は、さっそく専門業者の人に頼んで、電気のこぎりで小さく切ってもらい、全て道端に運び出してもらった。 こうして庭にあったジャングルは場所を変え、表通りに山積みにされた。隣のおじさんの裏庭の木2本も含めて、全部で大木3本分。こんなに沢山の木を持って行ってくれるのか心配になったが、収集日の今日、ちゃんと清掃局の人が来てくれた。と言っても、一度にトラックに積んで運べる量ではない。積めるだけ積んで、トラックは走り去って行った。もう一度帰って来てくれることに期待をしたが、、、とうとうトラックは戻ってこなかった。 我が家の手前までの道路に並べられた枝はきれいに無くなったが、我が家から先の道路の枝は、無残にも残ったまま。 近所の人に申し訳ない気もするが、、、天災だもの仕方が無い。来週の水曜日まで、収集はお預けなんて無いことを祈る。ウェスト・パーム・ビーチで救援活動に参加している主人も、電話の先で、今週末には帰宅できそうだとの話しだった。 それでも、直撃されたウェスト・パーム・ビーチではまだ停電の所も多いようだし、シェルターで生活を続ける人もかなりいるようだ。10連休となった地元の学校も、12連休となった盲学校も、また授業が始まり、子供達も元気に通学を始めた。今年高校のシニアとなったステファニー。どうも大学進学を来年に控えて、なにかとプレッシャーが多いのだろう、ちょっと元気が無い。彼女の属しているクロスカントリーチームで、最高学年の彼女は、女子のチームキャプテンになった。過酷なスポーツのクロスカントリーな為か、学年の女子はステファニーが一人だから、チームキャプテンになるのは覚悟していたようだが、、ハリケーンだなんだで思ったように練習が進まず、コーチは笑いながらも 「とにかく早い集団についていけ! そしてチームを引っ張っていくんだ!」とプレッシャーをかけられ、、。本人にしてみれば、、 「そんな事言ったって、苦しいぐらい、頑張って走ってるんだけど、、。」なんだか、思うようにプレーが出来ずに、プレッシャーに苦しんでいた、吾が高校生の頃のバスケット・ボールの試合を思い出す。こうやって、ステファニーもこれから色々なプレッシャーを克服しながら、成長していくんだな。それに引き換え、長い休みの後の登校をひどく嫌がっていたミッシェルは、高校進学を来年に控え、どうもやる気を出している。 まるで、ハリケーンのエネルギーのおこぼれをもらって充電したかのような元気さだ。水泳シーズンが始まり、今日から又、水泳部の練習が始まった。明日は、初めての競技会だ。練習の後のミーティングで、何の種目に出たいかと聞かれたミッシェルは、自信ありげに、 「自由形と背泳ぎに出たい。」コーチが笑顔で 「オーケー」すかさずミッシェルが続ける。 「それから、明日は飛び込み台から飛び込んで見る。だって、まだやった事無いから、どんな感じになるか試してみたいの。」あの、、普通、、飛び込みって、、練習して自信がついてから、、、競技会で試すんじゃないのかな、、、。 と横から口をはさもうとする母であったが、、、「OK,じゃあ、試合の前のウォームアップの時に、ちょっと飛び込んで練習してみよう。」を全然あわてる様子もないコーチ。さすが、盲学校の先生は、度胸がすわっていらっしゃる。 明日の競技会の楽しみが、又ひとつ増えた。
2004年09月15日
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今年のフロリダはハリケーンの嵐!8月13日の金曜日にフロリダ西海岸に上陸して、かなりの勢いでオーランド、デートナビーチそしてわが町、セント・オーガスチン沖を通り過ぎていったチャーリーに、ホット胸をなでおろす暇もなく、、今度はハリケーン・フランシスが東南部の町、ウェスト・パーム・ビーチに上陸して、西へと駆け抜けて行った。娘達の学校も、先週の金曜日からお休み。 フロリダの盲学校に至っては、次のハリケーン・アイバンが接近しており、フロリダ南部の自宅に帰っている寮の生徒を迎えに行けないからと、今週も月・火曜日はすでに休みとの発表。 最初は学校が休みだと喜んでいたミッシェルも、8日間も休みとなると、来年の夏休みが削られて補習授業にでなければならないのではと心配し始めた。フロリダの予備軍に属している主人は、チャーリーの被害を受けた地域の救援活動に2週間ほど留守をして、帰って来たと思ったら、1週間もしないうちに、次のハリケーン・フランシスの救援活動へと又出動していった。被災地のウェスト・パーム・ビーチに到着した日の主人の話では、屋根や壁が飛ばされた家々があちこちにあり、夜も電気が無くて真っ暗。ハリケーン・フランシスはテキサス州ぐらいの大きさのハリケーンで、速度も遅く、上陸地域の推測も難しかった為、主人もベニヤ板を15枚も買い込み、出動前に窓にしっかりと貼り付けて行ってくれた。 お蔭で、ハリケーンが一番接近した時も、電気は切れてしまったものの、風の音もあまり響かずに静かなものだった。フランシスの場合も、幸いにわが町はそれ程の被害は無かったものの、殆どの家庭が停電や電話が不通になり、1週間たった今でも停電をしている家もかなりありるそうだ。我が家では、雨漏りが始まり、天井が落ちるのではないかとちょっと心配になったが、その前にハリケーンは通り過ぎてくれ、近所の人が屋根に上がって、修理をしてくれた。そして一番の被害は、隣家との間に立つ、3階建ての高さもありそうな樫の大木が、見事に真っ二つに割れて倒れてしまった事だ。見る人、見る人、「奇跡だ~~。」と声をあげるほど、見事に我が家と隣の家をさけて、片方は裏庭に、そして片方は、隣家との間の庭に倒れてくれた。隣家では、さらに2本の大木が倒れ、庭は歩けない程のジャングルと化した。 体の不自由な一人暮らしのご老人のジャックさんは「家がつぶれなかっただけでも、本当にラッキーだ。」とすぐに庭師の人を呼んで、木の解体が始まった。3本の大木を、電気のこぎりで切り運べる大きさに切り、道端に並べる作業に丸1日。 料金は1250ドルだったそうで、目の飛び出しそうな値段だ。でも、本当に家がつぶれていたらと思うと、1250ドルの被害で住んで幸いであったと思う。しかし、道端に山積みになった大木の残骸、、、。庭師の人曰く、市の清掃の人が収集してくれるとの話だが、、、本当にこれだけの山を持って行ってくれるのか、、ちょっと心配である。現在進行中のハリケーン・アイバンよ~。どうか、勢力を弱めて、できたら海の藻屑となってください。
2004年09月13日
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8月21日の書き込みをしてくださった方、ありがとうございます。 ハリケーン騒動で暫くメールをチェックしていませんで、お返事が遅くなりました。お友達に無眼球の赤ちゃんが生まれたそうで、回りがどう接したら良いかというご質問でした。やはり、どのような言葉をかけてあげたらいいか、迷いますよね。私の体験からですが、最初は、お母さんもショックでしょうね。思ってもみなかった現実が、突然目の前に急に現れたのですから、、。 でも、我が子って本当に可愛いもの。 きっとね、そのお母さんも時間と共に、そのままのお子さんを受け入れて、心からいとおしく思えて、育児の一歩を力強く踏み出されると思います。障碍があったって、無くたって、人間、皆同じ。喜びも悲しみも、ちゃんと感情のある貴方と同じ人間なんです。何か深い理由があって、自分でね、「障碍を持って頑張るぞ!」って生まれて来た、すごい魂だと私は思うのです。 娘を見ていても、私なんて全然かなわないな、、と思うぐらい、素晴らし心の持ち主だと思います。だから、そのお母さんやお子さんを特別視しないことかな、、。 今までどおり、仲間としてサポートしていくことかな、、。お母さんの話を、そして気持ちを黙って聞いてあげることかな、、。そして、無眼球である事が不便ではあるかもしれないけれど、決して不憫だなんて、回りの人も思わないことかな、、。そして出来たら、その子供の、外見よりも、心を見つめてあげることでしょうか。きっとね、その赤ちゃんは、これから出会う人達に、沢山の愛と勇気を与えてくれると信じています。 すでに、存在するだけで、皆に愛を与えてくれていると思います。そして、お母さんも、きっとね、心から幸せだって感じる時が絶対にくると信じています。
2004年09月12日
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何ヶ月もさぼっておりました。私のコンピューターは、ウィールスと相性が良いのではと心配になり、この日記も閉じようかと思ったものの、無眼球のお子さんを授かった方からメールをいただき、「そうだ、やっぱり残しておきたい。」と、これからも、ちょびちょびと、たまには日記を書くことにしました。 * * *すごい勢力とスピードでフロリダを横切って行ったチャーリー。ハリケーンシーズンが始まったと思った途端に、あれよ、あれよと西から東へとおお暴れ。 フロリダ半島の西にいるから、我が家は大丈夫だろうと思いきや、、夕方には、何とここから80キロぐらい皆にも町、デイトナ・ビーチに向かっているというではないか!フロリダに8年も住むと、日本での地震対策同様、ハリケーンやトルネード(竜巻)への準備も慣れたもの。飛びそうなものはガレージや物置にしまい、裏庭にあるミッシェルの大好きな大型トランポリンも、ひっくり返した上に、大きなピクニック・テーブルを乗せ、後は、バスタブに非常用の水をはって、テレビでオリンピックの開会式の模様ととハリケーン情報のチャネルと行ったり来たりした後に、早めに寝ることにした。夜中の12時半に停電の音で目が覚める。 (??)暗い外を見ると、庭の大木が大揺れに揺れていた。ラジオのニュースを聞くと、すぐ近くの海上をチャーリーが通過中のようだ。ハリケーンの中心が通過してしまえば、風もパタッとおさまる。うとうと寝込むと夜中の3時半に電気がもどる音で目が覚める。(?)風がおさまるやいなや、電力会社の人たちは全力投球で電線の修理に取り掛かっていたのだろう。 ありがたい。 朝、目が覚めると、外は何事もなかったように静かだが、あちこちに大きな枝が転がっていた。ファイヤーファイターであり、フロリダ州軍の救援部隊にも属する夫にも、被害地への救援物資の供給の任務の為、2週間の予定で軍から召集命令がで、被害の大きかったフロリダ南部へと出発した。なんでも、飛行場の近くの新築の大きなビルの一部屋に皆で泊まりこみで、救援活動に忙しい毎日が始まったようだ。被害に遭われた方々が一日も早く、心身ともに立ち直られる事を、お祈りする。
2004年08月15日
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8日程風邪の症状で寝込んだミッシェルが、今朝、やっと学校へ復帰した。小さい頃は、心室中隔欠損もあったので、良く高熱を出したので、その度にずいぶん心配したものだが、大きくなって8日も寝込んだのは初めて。丁度、4月上旬の春休みの最終日から、鼻水が出始めた。そういえば、夏休み明けも、冬休み明けも、体調を崩して学校を2-3日休んだな、、、。休みが明けて張り切って登校したが、学校から、「ミッシェルが具合が悪いと、保健室で寝てますから、すぐに迎えに来てください。」と連絡が入る。熱も無いし、食欲もあったので、疲れも出たのだろうと、1-2日薬を飲んでゆっくりと休ませる事にした。4日目に入り、家では調子が良いのでスクールバスに乗せて学校へ行かせる。 でも、鼻水の出ている本人はあまり乗り気ではなかった、、。始業のベルがなった頃、学校から電話。「ミッシェルの鼻水がひどくて、本人も具合が悪いと言うので、すぐに迎えにきてください。」家では、調子が良さそうだったのにな、、。「すみません、ちょっとミッシェルと話させてください。」と風邪が移ると困るんから、本当は近くによってほしくないのだけど、、と言いながらも、秘書の人はミッシェルに電話を渡してくれた。この辺、アメリカ人ははっきりと自分の意見を言う。 確かに、風邪の子供を学校へ送るのは、親が悪い。 子供から病気を移る先生も多いから、用心するのも当たり前だ。電話口に出たミッシェル。「先生から、鼻水がひどいし、これは人に移るから、家に帰りなさいって言われた!」と、母が無理やり学校へ送り出したと言わんばかりに、先生から言われた事を、学校の事務所で正直に話す娘。「家族は誰も移ってないし、、もう鼻水も大分納まっているから、移らないと思うけどね、、。 でも、調子がまだ悪いのに、無理に行かせて、マミーが悪かったね。 ごめんね。」と娘が哀れになって、素直に謝る母であった。さて、それから、土日と家でグーグーと寝ていた娘。今回の鼻風邪はかなり長引く。ひょっとして、学校の勉強にストレスを貯めてしまったのでは、、と余計な心配が芽を出す。翌、月曜日。 まだ、本調子では無いけど、今日は大丈夫だと思うと張り切ってでかけた娘だが、、又、学校から電話が入る。「ミッシェルが、スクールバスの中でもどしました。お母さん、すぐに迎えに来てください。」3度目ともなると、娘がかわいそうだと思う半面、親としてもはずかしい。学校へ着くなり、女性の主任先生には「ま~、病気の子供を、何度学校へ送り返すの~?」と冗談半分にからかわれる。 「本当にね~。迎えに呼ばれるのは、これで最後にしますわ。」と私も笑って答える。ミッシェルは、鼻をつまらせながらも「びっくりした~。 早く家に帰ろう。」とバスでの騒動を細かく説明してくれた。さらに2日家で寝て、今日は、もう大丈夫かな、、と登校した娘。「暫く休んだから、今日はマミーが送って行くからね。」と娘を学校まで送った。 又、迎えに来るようにいわれるといけないから、念の為でもあった。そして、無事に1日終えて、帰宅した娘であった。私は、彼女が休み明けに体調を崩す原因は、ストレスではないかと思い始めていた。何しろ、学校が嫌いと公言する彼女。ところが、昨晩、何気なく聞いてみると、、「学校へ行くのはいやではないし、授業だって、もう、前みたいに緊張しないし、ストレスなんて貯まってない。」と言う彼女。「ただ、体の具合が悪かっただけよ。 早く元にもどりたい~。」いや、、彼女の言葉に、ちょっとホッとするやら、逆に元気づけられるやら、、。本当の所は、学校が決して嫌いではないらしい。何はともあれ、病気をすると、健康である事に対する感謝の気持ちが、ぐ~んと湧いてくる。 感謝の気持ちを忘れない為にも、神様は、時々病気を与えてくださるのかもしれない。
2004年04月21日
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このページを見て、ある方が連絡をくれました。ご家族に、無眼球の赤ちゃんが生まれたそうです。このページにも、義眼の事、子育ての事、色々と情報を加えて行きたいと思いました。 そこで、義眼のページを設けました。ご家族の愛に包まれて、赤ちゃんがすくすくと成長されます事、お祈りします。
2004年04月19日
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又しても、ワームにやられてしまい、しばらく使えなかったコンピューター。今回はノートンを使っても、一向にワームを削除出来ずに、とうとうコンピューターをフォーマットする羽目になった。* * *さて、先日行ったリハビリセンターで印象的だった事は、全盲の先生が活躍している事だった。家庭科の先生は全盲の女性で、とても手際よくクラスであるキッチンの様子をミッシェルや私たちに教えてくださった。全盲の先生とミッシェルのやり取りを見ながら、キッチンの様子が良くわかる私は、思わず、先生がキッチン用品を取りに行こうとする度に、「これですか~?」とついつい手を出しそうになったが、まずは、黙ってクラスに参加する事にした。クラスの途中で、晴眼者のスタッフが、買い物袋を沢山さげて入って来た。クッキングのクラス用の食材を、買って来るそうだ。出来ない所は、出来るものがカバーするが、全盲だからこそ、生徒の気持ちになって指導できる先生だ。ビジネス・コンピューターの先生は、ペンシルベニア州の出身の全盲の女性。 50歳になる彼女は、ペンシルベニア州で試験的に初めて普通の小学校へ通い始めた、全盲の生徒だったそうだ。小さい頃から、読書が大好きだったと言う彼女はとにかくキーボードに打ち込む速度が早い。 点字では無く、普通のキーボードにだ。コンピューターも点字入力よりも、普通のキーボードを好む彼女。 どうしてだろうと不思議に思って話を聞くと、彼女の最初の就職先は、弁護士事務所で、そこで速記ならぬ、弁護士さんの話しをタイプライターでノートに取る仕事をしていたそうだ。コンピューターなど無い当時、見えないのに、どうして間違いを正せるのだろうか、、?と不思議に思ったが、彼女のタイプの腕は並大抵ではないようだ。そして、請願者がタイプした文章を読んで、間違いを見つけてくれたと話していた。その後、仕事をしながら大学の授業を受け始めたそうだ。丁度ウィンドウズが出始めた86年頃、彼女は、いつものようにタイプライターで授業のレポートを打っていた。夜も遅くなり、疲れもでたのであろう。やっと打ち上げたレポートをご主人に読んでもらったところ、2枚目の最後の方にタイプミスが見つかったそうだ。そこだけ、消したら、空間が空いてしまっておかしい。結局、2枚目を全部打ち直す羽目になった。がっかりした彼女。そこで、奮起して、絶対にコンピューターを習うと決心。 それが彼女とコンピューターの付き合いの始まりだそうだ。現在は、センターに来る視覚障害者にスクリーンリーダーを使いながら、コンピューターの上級クラスを教えている。とにかく、笑顔の素敵な、明るい先生だった。もう一人、点字の先生はカリフォルニア出身の男性。彼も又、いくつかのノートテーカーを親切にミッシェルに見せてくれた。 (つまり、あれこれと好きなだけ触らせて、使わせてくれたの意味。)ミッシェルはコンピューターと点字のクラスが一番楽しかったと言っている。パーソナル・マネージメントと言う、生活一般の指導をする先生も、大変おおらかな全盲の男性の先生。「コカ・コーラのスカッとした感じがたまらないね~」と手を休めては、コーラを飲みのみ、あれこれとミッシェルに教えてくれた。視覚障害の先生は、ご自分の体験を生かして、同じ障害を持つ生徒にわかりやすく指導が出来る。 「成る程な、、」と晴眼者の私では気がつかない点も、色々発見することが出来た。センターに見学に来た最初の晩は、「私、高校生になっても、6週間のトレーニングには来ないからね。」と断言していたミッシェルだったが、、、色々な先生に会い、帰る頃には、「2-3年したら、来ますね~。」と気が変わったようだ。* * *今はね、来たいと思わなくてもいいのよ、、ミッシェルが高校を卒業する頃になったら、もっともっと自立したいと思うようになるから、、。それにね、頑張り屋のミッシェルの事だから、盲導犬と一緒にさっそうと一人歩きできるようになってると、ママも思う!
2004年04月16日
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今週は春休み。新緑が眩しく、風もさわやかで、まだ、蚊やブヨもあまり見かけないし、フロリダでは一番過ごしやすい、そしてとっても短い春を楽しむ毎日。今週の始めに、娘と二人で、デイトナ・ビーチ市にある、フロリダ州立の視覚障害者リハビリ・センターに見学へ行った。名前は良く聞いていたが、実際にどのようなプログラムが行われているのか、知らなかった。そこで、ティーンエージャーとなった娘と一緒に、ファミリー・トレーニングと言う二泊三日の研修に参加した。このリハビリセンターの寮や校舎となっている建物は、その昔、軍の施設だったそうだ。リハビリ・センターでは、主に、事故や病気などの理由で、中途失明した人や、視力が低下して視覚障害者に認定された大人への訓練が行われている。 また、夏休みの間は、高校卒業生や在学生の視覚障害者を対象に、独り立ちする為の、6週間の生活全般の指導プログラムがあるそうだ。新しくリハビリ・センターに来る人たちは、先ず、2週間の間、様々なクラスに参加して、各担任の先生方からそれぞれの能力を査定してもらう。2週間後には、生徒一人一人が先生方とミーティングを開き、各自にあった訓練プログラムをつくりあげていく仕組みだ。各自の必要性に応じて、訓練の期間もばらばらだそうで、個人の需要にあわせたプログラムと言う点が、ありがたい。クラスは、クッキング、掃除、洗濯などを学ぶ、いわゆる家庭科。スクリーン・リーダーや拡大スクリーンのソフトを使ったコンピューターのクラス。手先を使う訓練には最適の、工芸・美術のクラス。携帯用の点字ノートテーカー等の指導が入る、点字のクラス。お金の使い方、銀行の口座の管理、電話のかけ方など、生活一般の指導のリビング・スキル・クラス。これら、一般クラスの他にも、職業訓練としてのコンピュータークラス、ビジネス・クラス等、各視覚障害者が社会で独り立ちする為にクラスが組まれている。そこで、私と娘は、寮の隣に、訓練用に造られたアパートに泊めてもらった。 一般のクラスを一通り終了した生徒達は、このアパートで2週間、一人で生活をするそうだ。勿論、何かの時は、インストラクターがすぐに指導に来てくれるから、実社会に出る前の練習には持ってこいの場所である。私達が行った日は、8人の新入生がいた。すでに、クラスが始まっている人たちを入れると、生徒は約25人ぐらいだったと思う。
2004年04月10日
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