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「NOTHING ナッシング」 Nothing 2003年 カナダ映画監督 ヴィンチェンゾ・ナタリ出演 デヴィッド・ヒューレット アンドリュー・ミラー また、変な作品を見つけてしまいました。 「CUBE」の監督が、「CUBE」に出ていた俳優を2人使って、ふとした思いつきの映像を作ってみた、シチュエーション・コメディです。 自己中のデイブ(デヴィッド・ヒューレット)と引きこもりのアンドリュー(アンドリュー・ミラー)は、20年来の親友で、高速道路の高架の間にある、アンドリューの小さな家で暮らしていました。 ある日、デイヴはアンドリューに彼女のサラと暮らすので、家を出ていくと告げて会社に向かいます。見捨てられたとい思ったアンドリューは不安でたまりません。ゴミを捨てに行こうと家を出ますが、一歩家を出たところで、足がすくんで動けなくなります。ドアは弾みでしまってしまい、家に入れなくなってしまいます。(オートロック?) デイヴは会社でボスに呼び出されます。横領をしていたのでクビだと言われますが、デイヴには全く心当たりがありません。 アンドリューの家に、ガールスカウトの子がやってきて、入り口の横で震えている彼を見つけ、窓から侵入して家を空けてあげます。彼女が同情して何か作ってあげましょうかと言っても、アンドリューは追い返してしまいます。 デイヴがサラの元に行き、横領の疑いでクビになったことを告げると、彼女は横領は自分がやったと告白し、荷物をまとめ始めます。 アンドリューの呼び鈴が鳴ります。来たのは中年の女性、ガールスカウトの子の母親でした。娘にキスをした、覚悟しておきなさい、と告げ帰っていきます。 絶望したアンドリューが首をくくろうとしたところ、デイヴが帰ってきます。そして、この家を売って旅に出ようと提案し、ふたりで“FOR SALE”の看板を家の前に掲げました。 翌日、渋るアンドリューをなだめながら荷造りをしていると、家の呼び鈴が鳴ります。やってきたのは市の職員でした。法律で高速道路から90m以内に住居は建っていてはならないことになっているので、取り壊すから、すぐに立ち退いてくれ、と言われます。時を空けず、今度は警察がやってきて、デイヴを横領の疑いで逮捕する、といいます。 何事かと野次馬も集まってきて、大騒ぎになります。その中には、あのガールスカウトの母親の姿も見えました。 立て籠もってしまったデイヴとアンドリューが、もう駄目だと思ったとき、ふと家の周りが静かになります。 恐る恐る、ドアを開けてみると、家の周りには何もなく、ただただ、真っ白い空間があるだけでした。 いつものレンタルビデオ店で、DVDのパッケージにある解説を見て、何にもない真っ白な空間の映像化、というのに興味を持ち、観てみたわけです。いったい、どういう風に話を持っていくのだろうと、非常に興味ひかれたわけです。やられました。確かに、2人の家以外全く何もない真っ白な空間、その映像は非常にシュールでした。でも、それだけでした。 人を全く何もない空間に置いたらどうなるだろう、ただただそのアイデアだけの映画でした。2人は突然何もない空間に置かれ、戸惑ったり、調査したり、開き直ったりと、普通に考えられる普通のリアクションを見せ、そして、どういうことなのか、その空間は何なのか、2人はこの後どうなるのか、そういった観客が当然感じるであろう疑問を、何も解決しないまま、つまり結末のないまま、終わってしまいました。 なんと、題名の“NOTHING”というのは、結末が“NOTHING”ということだったのです。ただただ、設定のアイデアだけでした。まるで、シュールな扮装をして、全く面白い話ができず、出オチだけで終わる、悲しい芸人のような映画でした。 人生のいろいろな困難なことから逃げようとする2人の姿を描き、人生の教訓のようなことをテーマに考えていたのかもしれませんが、結局、困難な結末から逃げているのが、監督自身という、お粗末な映画でした。真っ白な空間というアイデアだけがあり、ナイスな結末が全く思いつかないまま、作ってしまったのでしょうか。こんなことなら、安易な夢オチの方が、説得力があったと思ったのは僕だけでしょうか。
2013.02.18
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「スターシップ・トゥルーパーズ」 Starship Troopers 1997年 アメリカ映画監督 ポール・バーホーベン 未来(?)の軍事国家の地球と、昆虫型宇宙生物(バグズ)の戦争を描いたSF戦争映画です。やたらと人が死にます。死体もたくさん映ります。相手のバグズもやたら死にます。人によっては、気持ち悪くなるかもしれません。 実はこの映画観るのは2回目でして、何年か前に見たとき、「何だ、このアメリカ的軍国主義プロパガンダ映画は???」と思い、思いっきり嫌悪感を持ったのでした。今回、思いっきり突っ込んでやろうと思い、あらためて観てみました。そして、思いました。「あれ、これって、実は反戦映画なのでは。」と。 最初と最後、そして要所要所で挿入される、まるで大本営発表のようなプロパガンダニュース映像も、思いっきりベタな青春白書のような主人公たちの高校生活の描写も、高校の授業で小型のバグズを解剖する気持ち悪い描写も、軍国主義国家なのに、高校卒業と同時に入隊する主人公ジョニーに、反対する両親も、高校の先生や入隊受付の親父など、手足のない人が目立つことも、高校の成績で、階級や所属がしっかりと決まってくることも、ジョニーとカルメンのカップルを脅かす、ベタなライバルの登場も、「フルメタル・ジャケット」を思わせる歩兵の訓練の描写も、訓練中のミスで同僚を死なせたことで落ち込み、除隊して出て行くジョニーが、バグズによる小惑星爆撃での故郷全滅と、宣戦布告のニュースに奮い立ち、わざとらしく復帰してくるところも、小惑星爆撃や、プラズマ放射という凄い攻撃ができるのに、人海戦術で武器を持たない肉弾戦で戦うバグズの無能さも、戦艦のパイロットのカルメンがプラズマ放射の攻撃で、炎につつまれてやられたように見えたのに、次の場面でこめかみに少し傷があるだけの無傷で登場しても、巨大戦艦や爆撃機がありながら、あえて、歩兵隊の肉弾戦で応戦する地球側のおかしな作戦も、ニューク弾という大型バグズも一発で倒せる武器がありながら、機動歩兵隊の標準装備が、小型バグズが一発では倒せない機関銃で、次々と歩兵がやられていっても、戦場の真っただ中でニュースのレポートを撮っていて、レポーターがバグズにやられるという愚行があっても、最初の攻撃で30万人の犠牲者が出た後なのに、相変わらず歩兵の装備が機関銃でも、高校の片腕の先生が義手をつけて新隊長として都合よく再登場しても、元先生の隊長が、新入りなのに教え子のジョニーをエコひいきして、軍曹代理に指名しても、かつての同級生で、今は軍隊の高官になっているカールに、あからさまに歩兵は捨石的な発言をされた後に、部下にゲキを飛ばす隊長となったジョニーの描写があっても、結構親しい人が亡くなった後、一時は悲しんでいる描写があるが、すぐにけろっとして戦っていても、指導者的存在の知的バグズに、針状の口で脳みそを吸われるというグロテスクな描写が、思いきりアップで出てきても、高校の授業で、テレパシーの訓練の描写があり、途中全く出てこず、最後の最後に、捕まえた知的バグズの心をカールがテレパシーで読み、至極当たり前な「怖がっています。」という答えを得るという描写にずっこけさせられても、落胆したり、突っ込んだり、ご都合主義だと思ったりしてはいけないのです。 すべての描写が、確信犯的なもので、戦争ってこんなに悲惨で、馬鹿らしいものなんだよ、という監督のメッセージなのではないだろうか、と思ってしまったわけです。「ロボ・コップ」や「氷の微笑」や「ショーガール」でラジー賞の常連のバーホーベン監督もやるなあ、と思った次第です。 ところで、この記事を書くために、ネットでこの映画の感想をいろいろ見てみましたが、「かっこいい」とか、「いいSF映画だ」とか、「スカッとしました」とか、戦闘描写に肯定的な感想がけっこうあり、がっかりしました。
2011.09.09
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「借りぐらしのアリエッティ」 2010年 日本映画 企画・脚本 宮崎駿監督 米林宏昌声の出演 志田未来 神木隆之介 大竹しのぶ 三浦友和 竹下景子 樹木希林 藤原竜也 皆さんご存知、スタジオジブリのアニメです。 「もののけ姫」が空前のヒットを飛ばし、「千と千尋の神隠し」が米アカデミー長編アニメ賞を取って以来、とにかくジブリアニメは、作品の出来不出来にかかわりなくヒットするという状態が続いておりまして困ったものです。僕は、「ゲド戦記」を劇場で見て、がっかりして以来、いくらジブリといえども、内容をよく考えてみなければと思って、よく考えて観るようにしています。(なので、最新作「コクリコ坂から」は観ていません。) ということで、この映画も、そこそこヒットした映画です。はたしてそのヒットに値する映画なのでしょうか、と思い、観てみました。 母親の海外出張と、持病の心臓病の治療・手術のため、12歳の翔(神木隆之介)は、田舎の大叔母・貞子(竹下景子)の家に引っ越してきました。 その家の床下には、14歳のアリエッティ(志田未来)とその両親(三浦友和・大竹しのぶ)の、小人の家族が暮らしていました。彼らは、「借り」と称し、人間の物を拝借し生活に役立てていましたが、人間に見つかることを非常に恐れていました。 ある夜、アリエッティは14歳になったお祝いで、父に連れられ、初めて「借り」に出かけました。ところが、アリエッティは翔に見つかってしまいます。 全編94分のお話、あらすじはここまでで、すでに、40分ほどです。 非常に絵が丁寧に描かれていて、この田舎の貞子の家の内部の様子、庭の描写、アリエッティたち小人の家の描写など、細部にわたって心くばりがされ、非常に細かく美しく描写されています。そんな描写を丁寧に見せていくためか、非常にスローテンポでお話が進んで行き、実は内容がほとんどありません。 事件としても、この後、アリエッティの母親がお手伝いのハルさん(樹木希林)につかまってしまうくらいで、その事件も、アリエッティが翔の手助けで、あっさりと見つけてしまったほどで、結構簡単に解決してしまいます。 そして、その後、アリエッティ一家は同じ小人のスピラー(藤原竜也)という少年の手引きで、引っ越すこととなり、アリエッティは翔に別れを告げて去って行っておしまいです。(でも、小人たちのサイズを考えると、せいぜい3軒ぐらい離れた家に引っ越すのが精いっぱいでしょうから、翔はアリエッティに会おうと思えば、結構簡単に会えると思いますが。) しかし、僕は思いました。この後の引越しの旅こそ、見ごたえのある大冒険になるのではないか、ということです。 かつて、「ミクロキッズ」というアメリカ映画がありました。ある科学者のへんな発明で、子どもたち(と言っても小学校高学年から中学生ぐらいですが、)が、肉眼では見ることが難しいぐらい小さくなってしまい、自宅の庭(彼らにとっては広大なジャングル)で昆虫と戦い、大洪水(実はスプリンクラーの水)に苦しみ、家の中にいる変な科学者(子どもたちの中の何人かの父親)の元までたどり着くという、大冒険をするお話です。 アリエッティたち小人にとっては、ネズミやスズメなどの小動物が戦うべき敵になり、猫や犬に至っては、即逃げなければならない怪物です。人間にとっては、ほんのお散歩程度の道のりが、彼らにとっては、何日もかかる大冒険になるはずです。 そんな大冒険を前にして、“はい、おしまいです。”では、そりゃあ、“内容がないよう”というお話になってしまうでしょう。非常に残念でした。 後、この映画を見て気になったことが2点あるので、述べさせていただきます。 まずひとつ目は、アリエッティの母親を捕まえてしまう、お手伝いのハルさんについてです。 彼女は、お手伝いとしてこの家で長年暮らしているうち、何度か小人を目撃しており、いつか捕まえてやろうと思っていたようです。 ということで、その後どうするかということは深く考えず、母親を捕まえて、ビンに入れ、ラップでふたをしてしまいます。一応窒息して死なない様に、ラップにいくつか穴をあけて。 どうやら彼女は、小人を捕まえて、見世物にしたり、博物館に売ったりして、ひと儲けしようとまでは考えていないようで、とりあえず、人に見せて自慢したいという程度のことかと思います。 こういうことって、実は我々よくやりますよね。なんかわからないけど、あまり見ない虫を捕まえたので、とりあえずビンなどに入れておき、数日後見たら死んでいた、ということ。その虫の生育環境や、エサ、生態などがわからないが故に、結局死なせてしまうということ。 こういう行為が、実は、地球の歴史上かつてないほどのハイスピードで、現在起こっている、生物の大量絶滅につながっているということを、我々は肝に銘じなければならないでしょう。 人類が地球上に大増殖を始めて1万年余り、地球の歴史上、例がないほどのハイスピードで、大量の生物が絶滅していっているという事実をご存知でしょうか。(皆さんよく知っている古生代末、6,500万年前の大絶滅でさえ、何十万年、何百万年という時間がかかっています。) 食料のためであったり、好奇心のためであったり、娯楽のためであったり、間違った知識の為であったり、その理由は様々ですが、人類はかつてない勢いで、生態をよく知らない生物を狩り、開発という名のもとにその住処を奪い、絶滅させてきているのです。 もちろん、宮崎駿さんをはじめとするスタッフの皆さんは、そんなところまで考えて、作品を作ってはいないでしょう。はっきり言って、僕の考えが飛躍しすぎているのかもしれませんが、そんなことを思ってしまいました。 もうひとつ思ったのは、アリエッティたち小人が、「借り」と称している行為についてです。 小人たちは、クリップ(予告編を見ている限りでは洗濯バサミかと思いましたが、サイズを見るともっと小さいクリップですね。)を髪止めにしたり、待ち針を剣のように使ったり、定規を使って壁の中に通路を作ったり、砂糖やティッシュなどの消耗品を拝借したり、と「借り」と称して、人間のいろいろな小物をいただいて生活しています。つまり題名にある「借りぐらし」ということです。 しかし、これは「借り」でしょうか。「盗み」なのではないでしょうか?「借り」というのは、その後「返す」ことを前提に成立する行為です。後で、「返す」という意思がなければ、それは「借り」ではなく「盗み」です。実際、引越ししようとしているアリエッティ一家は、「借り」たいろいろなものを、家を替えるにあたって、返そうとはしていません。どう考えても、アリエッティ一家は、いろいろな小物を、人間の家から「盗ん」で生活していたのです。 物が小物ならば、「借り」ても、返さなくてもいいものでしょうか。 こんな「盗み」を「借り」と称して、平気で行っている物語、子どもたちに見せていいのでしょうか。 友だちの本や文房具やゲームなどを借りて返さない、文房具屋や本屋やコンビニで平気で万引きをする、図書館の本やレンタルビデオを返さずに平気でいる、駅前の自転車を平気で盗む、公民館などにある傘を借りて返さない、そういう行為につながる考え方ではないでしょうか。 頭が固いと言われるかもしれませんが、いつも環境問題や道徳的なところをテーマに掲げているジブリ作品としては、いかがなものかと思ってしまいました。 カラスの羽ばたきの風圧でアリエッティが飛ばされそうになったり、普通サイズではあり得ないくらい少量のため表面張力が強くなるという水やお茶の描写など、非常に細かいところの描写にも気を配っているスタッフなので、もっと考えてほしかったなあ、と思っています。 また、毎回ジブリ作品の時には語っていることですが、今回登場人物が少ないということもありますが、プロの声優さんが0で、すべて、実写の役者さんたちが声の出演をされています。 たまたま今回は、上手な方々ばかりでしたので、「トトロ」のお父さんのような違和感はありませんでした。しかし、どうにかならんものですかね。 以上、ジブリ作品でも、いまいちなものもあるよ、というお話でした。
2012.05.28
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「宇宙戦争」 War of the Worlds 2005年 アメリカ映画原作 H・G・ウェルズ監督 スティーヴン・スピルバーグ出演 トム・クルーズ ダコタ・ファニング スピルバーグ監督が、トム・クルーズの主演で、H・G・ウェルズ原作の歴史的古典SFを映画化という、公開当時、非常に話題になった映画です。実は僕もその話題性につられ、その気になって、劇場に観に行きました。そして、がっかりした思い出があります。 先日、TVの地上波で放映していたので、録画し、あらためて観てみました。そして、やっぱりがっかりしました。今回は、どうがっかりしたのかを中心に、書かせていただきます。 まず最初に断わっておきますが、この映画、「宇宙戦争」という題名ですが、はっきり言って、内容は“宇宙戦争”ではありません。舞台は全て地球です。地球に宇宙人が攻めてくるというお話です。 原作は1898年にイギリスで出版されたH・G・ウェルズの“The War of the Worlds”です。直訳すると“世界間の戦争”となります。つまり、地球という世界に、火星という世界の住人が戦争を仕掛けてきた、ということです。(原作では、はっきり火星人となっているようですが、この映画では、どこの星人なのかは全く出てきません。そりゃあそうだ、今や火星に探査機が行っている時代ですから、火星人というのは恥ずかしいでしょう。火星人が攻めてきたというお話では、コメディにしかなりません。だからティム・バートン監督は、あえて「マーズ・アタック」としたわけですよ。) ところが、日本の翻訳家が、「宇宙戦争」という邦題をつけてしまい、それが広く認知されてしまったのです。だから、「宇宙戦争」と言えば、H・G・ウェルズの小説を原作にしているものという事になってしまい、本来の“宇宙戦争”そのものである、「スターウォーズ」という映画には、“宇宙戦争”という邦題が付けられなかったのです。(でも、実際のところ、「スターウォーズ」は、日本で公開される前に、アメリカで非常に話題になっており、日本でも「スターウォーズ」という名前で、すでに話題でしたので、あえて邦題はつけられなかったのですが。) だから、H・G・ウェルズの原作であるということを語るために、“宇宙戦争”ではありませんが、「宇宙戦争」という題名でなければならないのです。したがって、この映画を観て、「ちっとも“宇宙戦争”じゃないじゃん。」という突っ込みを入れるのは、自分の無知をひけらかすことになるのでやめた方がいいです。 ちょっと、余談が長くなってしまいました。本題に戻ります。 がっかりポイントその1は、主演のトム・クルーズです。 この物語の主人公は、ニュージャージーの港でクレーンを操作して働く男です。そして、妻とは離婚しており、今回たまたま2人の子ども、高校生のロビンと10歳の妹レイチェル(ダコタ・ファニング)を預かったところに、災難に見舞われます。 ところが、このレイ・フェリエという男が、散々なダメおやじでした。 冒頭では、そのオヤジのダメダメぶりが丁寧に語られています。 子どもたちを預かることは前々から言われていたようですが、家は散らかり放題で、食料も全く用意できていません。反抗期の息子からは“パパ”とは呼んでもらえず、娘にもバカにされています。息子と無理やりキャッチボールをしようとして相手にされていませんし、娘のピーナッツアレルギーも知りません。 惨事が始まり、逃げ出そうとするのですが、自分だけエイリアンが地中から出てきて人間の惨殺を始めたところを見ているのですが、子どもたちは見ていないので、全く何が起こっているのかわからないのに、口で説明しようとはしません。 娘は、わけがわからず、異様な雰囲気だけはキャッチして泣き出しますが、抱きしめてあげようとはしません。息子もわけわからず、冷蔵庫に入っていた調味料類を持たされ、ちょっとキレ気味です。(レイ本人はとりあえずの食糧の意味で持たせたと思いますが、腹の足しになるようなものは、はなから冷蔵庫に入っていなかったようで、気が動転しているレイは気付いていません。) また、大勢の歩いて逃げている人たちの中を、自分たちだけ車で行こうとしているのは、非常に鼻に付きましたし、拳銃を使ってまで、周りの人々を遠ざけようとしているのも、嫌悪感を持ちました。 どうも、一緒に暮らしていたころから、全く育児や家事にはタッチしていなかったようで、自分のことしか考えていない、自己中男の様です。離婚の原因もその辺にありそうです。というか、子どもたちを預けに来た母親を見るに、結構知的な感じのする女性でしたので、なぜ、この2人が結婚したのかが非常に疑問です。兄妹の歳の差を考えると、少なくとも6.7年は結婚生活をしていたはずですので、はなはだ疑問です。 こんなダメおやじが、トム・クルーズなのです。はっきり言って、全く似合っていません。これまで、嫌味なほどのほどのハンサムボーイを散々演じてきたトム・クルーズです。違和感バリバリでした。 こんなダメおやじが、ひたすら攻撃してくるエイリアンから子どもを守って奮闘するわけですが、目ぎらぎらでかっこいいトム・クルーズがやっているので、なかなか感動するまでには至らないのです。 「早くやっつけてしまえよ、イーサン・ハント。」と、何べん思ったことでしょうか。 トム自身は、かっこいいハンサムのイメージを脱却したいがために挑んだダメおやじなのかもしれませんが、はっきり言って、そのイメージを払しょくすることはできなかったようです。 がっかりポイントその2は、オチです。(どんなオチかは、あえて書かないでおきます、一応。) このオチ、いろいろなところで、散々言われているようですが、以前、「マーズ・アタック」の紹介で、僕も書いているように、非常に科学的だと思います。さすがH・G・ウェルズです。100年以上前にこれを考えたのはさすがです。 そう、このオチは、原作通りなんですね。だから、このオチについて、散々に言う時は、気をつけなければなりません。そうです。前述の「宇宙戦争」という題名の場合と同じように、下手に突っ込むと自分の無知をひけらかすことになるからです。 H・G・ウェルズの「宇宙戦争」が原作ということは、このオチであるのが当たり前です。SFファン・SF映画ファンを自負している人は少なくとも、それくらいは知っていなければ恥ずかしいです。なにしろ、H・G・ウェルズなのですから。 だから、僕も気をつけて、このオチについて突っ込みたいと思います。 はっきり言って、H・G・ウェルズがこの原作の小説を書いた19世紀末ならいざ知らず、例のオーソン・ウェルズのラジオドラマで、人々が恐れおののいた戦前ならいざ知らず、科学が飛躍的に発達し、この地球のあらゆるところには、ばい菌やウイルスなど、生物に害を及ぼす肉眼では見えない微生物がウジャウジャいるということは、現代では、子どもでも知っている、周知の事実です。そんな時代に、このオチでいいのかということです。 宇宙空間を旅して、他の天体にやって来る科学技術を有しているほどの、知的生命体であるエイリアンが、そんなことに気付かないわけがないということを、突っ込みたいのです。 というか、結局、21世紀に入った今、なぜ100年以上前の小説の映画を作るのか、ということが突っ込みたいのです。なぜ、今さら、H・G・ウェルズなんだ、ということです。 H・G・ウェルズに対して、リスペクトし、オマージュをささげるのはいいでしょう。それは、僕もささげたいです。しかし、はっきり言って、19世紀末と、21世紀初頭の現在では、科学の発達はあまりにも違います。 なのに、100年以上前の小説を、今さら大真面目に映画化することが、無理があるのではないのか、と思ってしまったのです。どこかのおふざけ大好きでブラック・ユーモア大好きな、某ティム・バートン監督(ちっとも某じゃない!!)のように、コメディ映画にして、パロるのならともかく、大真面目に作るのは無理があるのではないか、ということです。(「マーズ・アタック」は、明らかに、「宇宙戦争」のパロディとして作られています。) そのほか、長いこと地中に埋まっていたトライポットが錆びたり傷んだりしていないのは何故、とか、あんなのが地中に埋まっていたのに誰も気づかなかったのは何故、とか、あの非常に足が長く不安定そうなトライポットをロープやワイヤーで足をすくって攻撃しようとしないのは何故(すでに「スターウォーズ」でやっていたからやりたくなかったのか?)、とか、あの地下室での首長偵察機との攻防が「ジュラシック・パーク」のキッチンでのラプトルとの攻防にそっくりなのは何故、とか、ティム・ロビンスが演じていたあのひとり張り切りゲリラおじさんはどんな意味があったの?とか、なぜ名優ティム・ロビンス?(はっきり言って、もったいないと思ってしまった。)とか、あのフェリーの上を雷雲(トライポットが潜んでいる)に向かって飛んでいく鳥の群れは何故、とか、エイリアンたちが宇宙服を着ていないのは何故、とか、ロビンはどうやって助かったの、とか、母親やその旦那・祖父母たちが全く無事なのはなぜ、とか、突っ込みどころは満載です。 しかし、さすがはスピルバーグ監督です。アスファルトの地面を割って、トライポットが地中から現れる場面や、トライポットが人々を襲う場面など、特撮部分は見事な迫力です。さすが、日本で始めはまともだったけど最後はオチャラケギャグアニメになってしまったSFアニメを、大迫力SFX映画にリメークして、大ヒットさせた監督だね。 ということで、あんまり古い話は、映画化しない方がいいと、というお話でした。特にSF物は。 あと、ダコタ・ファニングちゃんは、すごいね。
2012.06.07
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「告白」 2010年 日本映画監督 中島哲也出演 松たか子 木村佳乃 岡田将生 「私の娘が死にました。このクラスの生徒に殺されたのです。」という、松たか子の端正な真剣な顔の告白で始まるTVCM、かなりのインパクトでした。 小説などほとんど読まない僕にとって、湊かなえさんの原作小説など、もちろん読んだことが無く、いったいどういう意味だろうと、非常に興味を惹かれました。 見たところ中学生らしき、彼女の生徒たち、当然、直接手を下したとは考えにくく、なにかの比喩なのか、それとも、彼女が生徒たちのために時間を取られ、自分の娘の世話がおろそかになって、死なせてしまったことを言っているのか、その真意がわからず、非常に興味をひかれていたわけです。 ということで、例のごとく、レンタルDVDが旧作100円になるのを待って、借りてきたわけです。 とある中学校、1年B組の終業式後のホームルームで担任・森口悠子(松たか子)が数ヶ月前、学校のプールで彼女の一人娘が死亡した事件の真相を話し始めます。 「私の娘が死にました。警察は事故死と判断しましたが、娘は事故で死んだのではありません。このクラスの生徒に殺されたのです」 悠子は犯人である少年「A」と「B」を匿名ではあるものの、クラスメイトには分かる形で告発し、警察に言うつもりはないが、少年法で守られた犯人達に、ある想像を絶する方法で処罰を与えると宣言します。 それは告白の前に配られた犯人2人の牛乳にHIV感染者で、愛美の父親でもある、桜宮正義の血を混ぜたというものでした。 悠子は学校を辞め、生徒たちは2年生に進級します。 少年Aである渡辺修哉はとくに変わった様子もなく以前と同じように学校に来ていましたが、いじめの標的とされ、新担任の寺田良輝ことウェルテル(岡田将生)がクラスのいじめを摘発するも、いじめが助長されてしまいます。 一方、少年Bこと下村直樹は、自宅の自室に引きこもり、風呂も入らず髪も伸び放題となっていました。わが子を溺愛するあまり無実を盲信する母親(木村佳乃)は、その変わり果てた姿に心が引き裂かれる思いでした。 そして、ウェルテルの家庭訪問が下村を追い込むこととなってしまいます。 いやあ、とにかくすごい作品でした。 まずやっぱり1番の衝撃は、中学生が本当に先生の娘(まだスターになる前の芦田愛菜ちゃんです。)を、本当に殺しているということです。 犯人の少年Aこと、渡辺修哉は、第一線の研究者だった母親に厳しく仕込まれ、特に理科系に強い賢い少年に育ちますが、結局、母親は研究の道が捨てきれず、家を出て行ってしまったため、母親の愛情を求め、陰にこもってしまい、ひねくれた少年になってしまいます。 もうひとりの少年Bこと、下村直樹は、モンスターペアレンツ的な母親に溺愛され、非常に過保護に育てられたようで、おとなしく自分からは何もできない少年に育ってきているようです。 実際、子育てというものは、全く放かっておいてもいけないし、手を出しすぎてもいけないし、叱るべきところは叱り、褒めるべきところは褒め、突き放すべきところは突き放して考えさせ、かわいがるところはかわいがり、とメリハリをつけていかなければ、うまくいかないものです。 この全く正反対の母親の影響で、ゆがんで育ってきてしまった少年2人が、少年Aのリードにより、殺人を犯してしまうのです。 この辺の2人の心理的な部分は、同じ場面を繰り返し観せられ、それぞれの思いを告白されることにより、非常にリアリティがあり、手に取るようにわかります。 一人娘を自分の受け持ちの生徒に殺されたことで情熱を無くしたためか、元々彼女に力量が無かったためかわかりませんが、明らかに学級崩壊している終業式の1年B組の様子、自分のことを”ウェルテル”なんてダサいあだ名で呼べと言い、教師というよりは兄貴分であるかのようなふるまいで、ノリだけで生徒たちを躍らせるが、結局は生徒たちの内面など全く分かっていない若いダメ教師、秘密を共有しているストレスからか、いじめに走らざるを得ない2年B組の生徒たち、一見優等生に見えるが、実は闇を抱える少女など、現代の教育現場が抱える様々な問題を、実に見事に織り込んで構成されているお話は見事です。 そのそれぞれの問題は、それぞれにリアリティがあり、深刻な問題ばかりで、ショッキングな描写を次々と観せられて行くわけですが、どうも僕は、映画を観ている間、何かしらの違和感をずーと持っていました。 何か地に足がついていないというか、ひとつひとつの現象にはリアリティがあるのですが、全体として、リアリティがない絵空事のような感じがずーと付きまとっているのです。 その原因が何かしばらく考えて、やっとひとつの仮説に行きつきました。 それは、原作者の湊かなえさんが、学校現場を知らないのではないかということです。(このお話、ほぼ原作通りだということなので、監督や脚本家というよりは原作者でしょう。) 例えば、1年B組から2年B組へクラス替えすることなくそのまま持ち上がっているということ。 現在の小中学校では、いじめ・非行・登校拒否など、様々な問題を抱えているため、良くない交友関係を断ち切る一助となるために、学年が変わるたびに、クラス替えをしているはずです。それはクジ引きなど偶然に頼るやり方ではなく、学年の教師が一堂に会し、それぞれのクラスの問題をどうするかということを真剣に考え、どう組むのがベストなのかを話し合い、いい意味に意図的に学級編成を作っているはずです。 例えば、小さな子が1人で学校のプールに入れてしまったこと。 プールというのは、学校の中で唯一、死が非常に近い場所です。毎年のように、学校のプールでの事故で、亡くなってしまった子のニュースが流れています。また、プールを使わない冬場などでは水を抜いてしまえば、危険性が減っていいとお考えの皆様もいると思いますが、多くの公立学校のプールは、地域の防火水槽の役目も担っているので、簡単に、水を抜くわけにはいかないのですよ。 だから、すべての学校のプールは高い金網に囲まれており、必ず厳重に施錠されているはずです。頻繁に授業などで使う夏場でも、必ず使うたびに鍵を持って行くようになっていたはずです。簡単に小さな子が1人で入れる場所ではないはずです。 そして何より、全編を通じて、校長や教頭、それからほかの教師たちが、ほぼ全く登場しないということです。(1年B組担任の森口と、2年B組担任の“ウェルテル”こと寺田の他は、たぶん生徒指導担当であろう教師が1人登場するだけです。) 学級崩壊やいじめ、登校拒否など、それらはひとつの学級、ひとりの教師が解決できる問題ではありません。必ずどの学校でも、校長が考えた方針の下、学校単位、学年単位で、教育活動というものは行われているはずです。 問題を抱えているクラスや生徒があったとしたら、学年主任が援助するとか、対策を学年会や職員会で考えるとか、校長や教頭やベテラン教師や生徒指導担当などが助言するとか、必ず学校全体で解決するための活動がなされるはずです。 若いバカ教師“ウェルテル”が、登校拒否に陥っている下村直樹を立ち直らせるために相談に行ったのは、前担任の森口の所だけのようで、彼女の言葉を鵜呑みにして、罠にはまっています。彼が、校長や学年主任やベテラン教師に相談したり、一緒に問題を考えたりしている風は全く見えません。 実際の教育現場では、そんなことは全くないはずなのです。 ということで、非常にショッキングな、重いテーマの作品ですが、なんとなく、ダーク・ファンタジーなにおいを醸し出している感じがしてしまった作品でした。 松たか子さんの演技には、寒気がしましたけどね。顔が整っているだけに、よけい怖かったです。
2012.10.20
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「20世紀少年」 日本映画第1章終わりの始まり2008年 第2章最後の希望・最終章ぼくらの旗2009年監督 堤幸彦出演 唐沢寿明 豊川悦司 常盤貴子 平愛梨 香川照之 石塚英彦 佐々木蔵之介 皆さんご存知、浦沢直樹の本格科学冒険漫画「20世紀少年」及び「21世紀少年」の実写映画化作品です。ぼくも思いっきりはまった作品なので、映画化は非常に楽しみでした。結論から言いますと、残念の一言です。 それは、原作を描き切れていないということです。そもそも原作は、単行本にして22+2巻あります。それを3本の映画、合計時間約7時間で納めるというところに無理があるのです。しかも、大ゴマの連続で単行本1冊を5分ぐらいで読めてしまうような、どこかの死神の漫画(でも好きです)とは違い、内容がしっかり詰まっていて、1巻読むのにたっぷり30分から1時間くらいかかるものなのです。 確かに、話は3つに分けることが可能です、ひとつめは、2000年「血の大みそか」まで、ふたつめは2015年の西暦の終わりまで、そして、ともだち歴3年(2017年)です。そこから3部作という計画が生まれたのだと思いますが、はっきりいって、無理ありすぎです。2本目なんて、単行本にして、10巻分ぐらいありますから。 案の定、第1章、第2章は切りまくりで、内容的には半分以下になっています。そのため、最終章の話を変えなければならなかったほどです。 第1章では、まず、ケロヨンの結婚式と関連する思い出の忍者部隊ごっこ、ロックに夢中になっているケンヂ(中学、大学)、ドンキーとの思い出のジャリ穴のこと、田村マサオ(13番)の描写と草野球、ともだちコンサートに出ていて大阪でウィルスをまく漫才コンビ、万丈目と市原弁護士の絡み、同窓会でのスプーン曲げの思い出とフクベエの家でのケンちゃんライス、オッチョのタイでのことのほぼ全部、敷島教授と万丈目たちのロボット会議、洞穴の思い出とカラのロボット格納庫で見つけた“ともだち”のメッセージ(実は、あの有名なセリフ「ケ~ンジくん、あーそーびーまーしょ」はここにある。)、などの場面が省かれています。敷島リカの彼氏(実は彼は、“ともだち”一派の最も初期から参加しており、キリコの彼を殺し、敷島リカをたぶらかすという重要な仕事をし、物語の最後まで出ていながら、名前が出ていないのです。)に至っては、存在そのものを消されています。彼のやったことはすべて、万丈目がやったことになっています。 そして、クライマックスの「血の大みそか」(2000年の大みそか、つまり20世紀最後の日)のたたかいにおいては、友民党内部の描写(人が死んでいく映像を見て笑っている人たち)と、フクベエと仮面の男とのやり取りなどが省略され、戦い全体が非常に簡略化されています。 第1章は単行本にして6巻分くらいなので、カット分も少なく(でも、書き挙げてみたら、意外とたくさんあってびっくり)、物語の大筋は変えることなくすんでいるのですが、第2章はかなり大幅に切られ、物語が変わっています。 まず、ともだちランドの描写が、極端に少なくなって、カンナと小泉が同時に入ることになっています。原作では、まず小泉だけが行き、カンナは後から過去のことを探るために、ヨシツネと一緒にバーチャルアトラクションに入るのです。また、万丈目や“ともだち”本人も入っています。そのため、過去の描写が極端に少なくなっています。 また、カンナとマフィアたちの絡みが、少なくなっており、カジノの場面に至っては全面削除です。そのため、赤ん坊のカンナがお菓子の入っている手を当てる場面(第1章)と、スプーンを簡単に曲げる描写、つまり、超能力を発揮する場面が、まったく無駄になっています。これは、第1章でスプーン曲げの思い出をカットしたため、“ともだち”が超能力者ではなくなってしまったことも関係あるでしょう。 サダキヨの出番も少なくなっていて、特に、彼が恩師に会いに行き、貴重な素顔の写真をもらう場面は全面カットです。そのため、どうしてバーチャルアトラクションの中でサダキヨの顔だけ大人なのか、どうして彼が“ともだち”を裏切るのかよくわかりません。(最終章公開前の第2章のTV放映では、その上にサダキヨの出演場面がすべてカットされていました。ユースケさん怒ったでしょうね。ひどいもんです。) 春波夫さんの過去の描写はすべてなくなり、どうしてマルオがマネージャーをやっていて、“ともだち”お抱えの国民的演歌歌手の彼がケンヂたちの味方なのかわかりません。 法王がらみのエピソードもすべてカットです。(法王は“ともだち”と会談をしたというTV報道が出るだけ)これでは、仁谷神父がどうしてケンヂたちの味方なのか分からず、ただたんにカンナとマフィアたちの行きつけの教会の神父に成り下がっています。 そして、何といっても、“ともだち”が死んだ時(死に方も変わっていますが)と前後して、みんなが“ともだち”の正体にいろいろな方向から気づくところが全くなくなり、その正体がわからないまま、すぐに万博開会式での復活になり、そのまま、終わってしまうのです。 もちろん、他にもカットされている場面は膨大にあり、書き挙げていると大変なので、重要と思われるところだけ書かせていただきました。 最終章は、第2章で“ともだち”の正体が明らかにならなかったため、原作で第2の“ともだち”となる人物が真の“ともだち”となり、大阪万博関連の描写、「1970年のウソ」が、大変縮小され、“ともだち”がなぜ新しい万博に固執するのかわからなくなりましたが、おかげで、内容は大変減りました。 また、ともだち歴となった、日本の人々の悲惨な生活の描写が、ほとんどなくなり、最後の戦いと音楽祭の様子だけが印象に残り、内容がほとんどないものになっています。(それでも上映時間は一番長く2時間半あります。) 最後に「21世紀少年」の部分のケンヂが最後の後始末に行く場面はありましたが、カンナがお母さんに会う場面がなくて、かわいそうでした。 意外なことに、一番カットが多い第2章のみ、原作者の浦沢直樹が脚本を書いています。思うに、第2章は一番たくさんカットしなければならないので、ほかの人ではどう切ったらいいか分からず、原作者に依頼したのではないでしょうか。そして、第1章でフクベエに関する場面が切られていることもあり、大幅カットのついでに、原作者の権限で、話を変えてしまったのでは、と僕は勝手に推測します。 漫画の映画化というのは、ほんとに難しいですね。1本の映画にうまくまとめられるのは、せいぜい、単行本3巻くらいでしょうか。でも、映画化の企画が持ち上がるほどの人気作はたいてい何十巻もあるものですが。 ところで、この映画、キャスティングは見事でした。豪華キャストで、イメージぴったりの皆さんを配置しています。とりわけケンヂの仲間たちはアラフォーで、ぴったりの人を見事に配置しています。ただ、2017年は彼らは57歳のはずで、少し無理がある人がいますね。特に僕がぴったりと思ったのは、小泉役の小南晴夏さんと高須役の小池栄子さんと、仁谷神父役の六平直政さんです。 しかし、カメオ出演でしょうか、名の知れた人がチョイ役でたくさん出ているのは参りました。藤井フミヤさんとか、徳光和夫さんとか、タカトシとか、オリエンタルラジオとか、竹中直人さんとか、高嶋政伸さんとか、ロンブー淳さんとか。意味ないじゃんと思いました。
2011.08.10
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「ツーリスト」 The Tourist 2010年 アメリカ映画監督 フロリアン・ヘンケル・フォン・ドナースマルク出演 ジョニー・デップ アンジェリーナ・ジョリー 昨夜は、つい「インセプション」を観てしまいました。もう、DVD持ってるのに、もう2回も見てるのに。ふとTVをつけたらやっていたので、つい夢中になって最後まで観てしまいました。面白い映画って、こういうものですよね。 今回は、ジョニー・デップとアンジェリーナ・ジョリー、2大スター初共演ということで話題になったこのサスペンス映画です。さて、この映画は夢中になってしまうのでしょうか。 謎の美女エリーズ(アンジェリーナ・ジョリー)は、朝のカフェで、彼氏からの手紙を受け取ります。「リヨン駅8時22分発に乗り、僕と背恰好の似た男を探して声をかけろ。」と書いてありました。 手紙はすぐに燃やされましたが、彼女をマークしていたインターポールの捜査官は、燃えカスを手に入れ、内容を知り、彼女を追います。 エリーズは、アメリカ人のフランク(ジョニー・デップ)に声をかけます。 インターポールは、フランクのことをすぐに調べますが、ただの数学教師の旅行者(Tourist)ということがわかり、列車に乗り込んで拘束することをあきらめます。彼らは、マフィアから金を盗んだ罪と脱税の罪で国際指名手配されているエリーズの彼氏、アレキサンダー・ピアーズを追っているのです。 列車は終点のベネチアに着き、フランクはここでお別れかと思っていたエリーズに、ホテルに誘われ、最高級のホテルに二人でチェックインします。 楽しい夜を過ごせるかと喜んだフランクでしたが、エリーズに拒まれ、リビングのソファーで悶々とした夜を過ごし、翌朝目覚めると、謎の2人組に命を狙われ、屋根伝いに逃げ出すしかできませんでした。 マフィアの金を持ち逃げし、多大な脱税をして、マフィアとインターポールの両方から追われているピアーズ、その彼と1年間一緒に隠遁生活を過ごしたエリ-ズは、もちろん、その両方からマークされています。そして、その追跡劇にたまたま巻き込まれてしまったフランク、これは面白いお話になるなあ思いました。 最初こそ、エリーズが目をつけたフランクがピアーズかと、駅のホームにずらっと並び、今にも乗り込んで身柄確保をしようとしたインターポールのみなさんが、フランクの身元をすばやく調べ、ただの旅行者だとわかり、間一髪のところで乗りこまなかった、という危機一髪の場面があり、なかなか面白いのかな、と思わせてくれました。 しかし、その後、エリーズとフランクはゆっくりと食堂車で話しながら列車の旅を楽しみ、結局、列車の中では何も起こりません。 そして、高級ホテルへチェックインし、ここは大人のお楽しみ時間かなと思いきや、肩透かしを食らい、じゃあ夜の内に追手が来るのかなと思いきや、朝まで何も起こらず、エリーズが出かけた後で、マフィアの殺し屋がやってくる始末です。「暗殺したいのなら、夜の内にやってこいよ。」と思ってしまいました。 全くハラハラドキドキすることなく、非常にぬるいテンポで話が進んでいきます。いったいこの映画を作っている方々は、サスペンスというものがわかっているのだろうか、と思ってしまいました。 そしてその後も、非常にぬるいテンポのボートチェイス(舞台がベネチアですからカーチェイスではありません。)、全く緊迫感の無いパーティ場面と続き、そして、最後のどんでん返しに向かいます。 サスペンスですから、「最後にあっと驚く事実がわかり、心憎い終わり方で終わるはずだ。」と思っていました。だから、実は、という事実が何かなと、全くゆっくりテンポで進むお話なので、観ながら考えていました。 もちろん、そのあっと驚く事実は、「きっとフランクの正体辺りに絡んでくるに違いない、でも、実はフランクが○○ということはないよな、ここまでぬるい展開できているんだから、だれでも考えつくような簡単なもののわけないし。」と思っていました。 「全く素人のフランクの大奮闘で、事件が解決し、エリーズは終盤に現れたピアーズを振って、フランクとくっついて、めでたしめでたしぐらいかな。」と思っていました。 ところがなんと、そのどんでん返しは、「フランクの正体が○○」という、だれでも考えつきそうなものだったのです。 なんということでしょう。 ここで、僕は思いつきました。これは、最近の畳み掛けるようなサスペンスに対抗して、わざとぬるいテンポのサスペンス風に仕上げ、だれもが考えつくようなどんでん返しを用意する、という新しい形のコメディなのではないかと。 そういえば、フランクがパジャマ姿で屋根を走って逃げるところなど、まるでキャプテン・ジャック・スパロウと同じ、オカマっぽい走り方だったぞ、と思い出しました。 なるほど、この話はコメディだったんだ。 そういえば、この映画、ゴールデングローブ賞のミュージカル・コメディ部門でノミネート(作品賞・主演男優賞・主演女優賞)されていたなあ、と思い出しました。 そうかそうか、コメディだったんだ。そう考えると、最初の駅のホームで、ずらっと並んでいるインターポールの皆さんの場面もコミカルに感じられるし、「トゥームレイダー」や「ソルト」や「ウォンテッド」や「Mr,&Mrs.スミス」などで魅せてくれたような、アンジーの見事なアクションが全くなかったのも納得だし、フランクがエリーズに拒まれて、ひとりさみしくリビングのソファーに寝て、いやらしい夢を見てしまうという描写もコミカルだし、コミカルなオカマ走りで屋根の上を逃げ、挙句の果ては警官にぶつかって川に落としてしまうジョニーも面白いし、フランクが招待状もないのにパーティに潜り込んでしまったり、ドンピシャのタイミングで主任警部が入ってきたりするご都合主義も許せます。 しかし、コメディだったら、先程僕が述べた「全くの素人のフランクの大奮闘」で、ドタバタさせた方が面白いと思うんだけど、違うかなあ。賞にノミネートされるほどの出来のいいコメディとは思えないんだけど……。 一説には、ジョニーとアンジー(もれなくブラピがついてきます。)という大スターを授賞式に呼びたいがために、ドラマ部門では全くノミネートに値する作品ではないので、「あまりにもサスペンスというには面白くないので、コメディかと思った。」という言い訳を用意してノミネートした、といううわさがありますが、真偽のほどは分かりません。(でも、ジョニーは「アリス・イン・ワンダーランド」でもノミネートされているので、黙っていても出席したと思うけど。) ということで、サスペンスだと思って、多くの方々が酷評していましたが、実はコメディだったので、考え直さなきゃいけないよ、という、2大スターを主演に持ってきたのに全く興業的には振るわなかった映画を紹介しました。
2012.06.11
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「シンドラーのリスト」 Schindler’s List 1993年 アメリカ映画監督 スティーヴン・スピルバーグ出演 リーアム・ニーソン ベン・キングズレー レイフ・ファインズ 終戦記念日の今日にふさわしい映画は何かな、と考えたら、この第2次世界大戦でのナチスのホロコーストをリアルに描き、米アカデミー賞作品賞を当然のごとく受賞したこの大名作のことを、まだ書いていなかったことを思い出しました。 ということで、自身もユダヤ人であるスピルバーグ監督が、10年近くも構想を練り、満を持して映画化した大作、自らの私財を投げ打って、1000人以上のユダヤ人を救ったドイツ人、オスカー・シンドラーの実話を描いた感動作を、今回はお送りします。 1939年9月、ドイツ軍によりポーランドが占領され、ポーランドの都市クラクフもドイツ軍の占領下に置かれました。ユダヤ人を激しく蔑視するナチス党独裁下のドイツ軍はクラクフ在住のユダヤ人に移住を強制し、彼らをクラクフ・ゲットーの中へ追放していていました。 そんな中、ナチス党の党員でもあるドイツ人実業家オスカー・シンドラー(リーアム・ニーソン)は、クラクフの町で戦争を利用してひと儲けすることを目論み、潰れた工場を買い取ってホーロー容器工場の経営を始めます。 シンドラーは、有能なユダヤ人会計士イザック・シュターン(ベン・キングスレー)に工場の経営を任せ、安価な労働力としてゲットーのユダヤ人を雇い入れ、また持ち前の社交性でSSの将校に取り入って自らの事業を拡大させていきます。 しかし、やがて残虐なSS将校アーモン・ゲート少尉(レイフ・ファインズ)がクラクフ・プワシュフ強制収容所の所長としてクラクフに赴任してきます。ゲートとその部下のSS隊員達は、ゲットーや収容所においてユダヤ人を次々と殺戮していきます。シュターン初め、シンドラーの工場で働くユダヤ人たちにも危機が迫る中、金儲けにしか関心がなかったシンドラーの心境に変化が生じ、そして彼はあるリストの作成を決意するのです。 はじめ、戦争という金もうけのチャンスに乗じ、安い労働力として、ナチス・ドイツから虐げられているユダヤ人を雇い、持ち前の社交力(経済力?)でナチスの将校たちに取り入り、金儲けばかりを考えていたオスカー・シンドラーは、ゲットーの閉鎖により、強制的に駆り立てられるユダヤ人たちの姿を目の当たりにし、気持ちが変わっていきます。 初めて観たときには、最初ナチスの将校たちのご機嫌をとりながら、事業を始めようとしているシンドラーの姿が非常にお調子者に見え、それがどう心変わりし、最後の場面で、「この車を売ればもう10人助けられた、このバッジであと2人助けられた。」と嘆くところまで、どう気持ちが変わっていくのかが、よくわかりませんでした。 しかし、今回このブログ記事を書くために、また観返してみましたが、ゲットーの閉鎖により、捕まえられたり、抵抗したために殺されたりといった悲惨なユダヤ人たちの描写と平行して、少し離れた丘の上からその様子から目が離せないシンドラーの姿が映し出されます。 いつしかシンドラーの目は、当時の雰囲気を出したいがための白黒映像の中に、パートカラーで色づけられた、ユダヤ人たちを追いたてるナチス兵から逃げ惑う小さな少女の赤いコートを追っていることに気がつきました。というか、シンドラーの視線であることに気がつくためのパートカラーだったんですね。 その後、シンドラーの工場で働くユダヤ人たちは、ゲットーから収容所に移り、そこに赴任してきたアーモン・ゲート所長の、まるでどこかの悪の魔法使い“名前を言えないあの人”のような(笑)、気まぐれでユダヤ人を虐殺していくという所業と、酒と女を用意してパーティを催したり、贈り物をしたりながら、それをなだめるシンドラーという図式で話は進んでいきます。 そして、収容所が閉鎖されることになり、ユダヤ人のすべての死体を焼却するように命令が下り、わざわざ土葬した死体までも掘り返し燃やすという意味が分からない描写の中、シンドラーは、運ばれてきた死体の中に、あの真っ赤なコートを見つけ、呆然とするのです。 それからのシンドラーの行動は積極的でした。収容所が閉鎖されるため、あの悪名高きアウシュヴィッツに送られるというユダヤ人の中から、自分の新しい工場で働く人員を確保するため、というか、できるだけ多くのユダヤ人を救うため、ひとりいくらで彼らを買うという形で、ゲート所長に大金を払い、あの“シンドラーのリスト”を作るのです。 専用列車で移動してきた自分のユダヤ人たちを出迎え、リストに名があるにもかかわらず間違ってアウシュヴィッツに行ってしまった女性たちを、えらい人になけなしの宝石を贈って(やはり最後まで使うのは金の力です。伝説のジェダイだからといって、“フォース”を使う場面はありません。)取り戻し、新しい工場では、ナチス兵たちは立ち入り禁止にし、わざと検査に合格しない爆弾のケースなどを作り続けるのです。 そして、最後の場面につながっていくのです。 今回、あらためて観直してみて、最後のシンドラーの演説、そして工場のユダヤ人たちがシンドラーへのお礼ということで、仲間の金歯から指輪を作る場面で、思わずウルウルしてきてしまいました。 やっぱりアカデミー賞作品賞にふさわしい、素晴らしい映画です。 上映時間が長いですし、重い内容ですし、人が死ぬ場面や死体が大量に転がっている場面もありますので、観るのにはたいへんな覚悟がいるかと思いますが、やっぱり歴史に残る名画ですので、人生1度は見るべき映画です。
2012.08.15
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「メン・イン・ブラック」 Men in Black 1997年 アメリカ映画製作総指揮 スティーヴン・スピルバーグ監督 バリー・ソネンフェルド出演 ウィル・スミス トミー・リー・ジョーンズ 今、日食の真っ最中ですね。 まあ、最近のTVの騒ぎ様と言ったら半端ないですね。先週の昼間、ほぼ毎日のように、散々騒いでおきながら、夕べもハイテンションで報道していましたよ、宮根さん。 この1カ月ぐらい、様々なところで、日食のメカニズムなど、さんざん説明されて、本番前にはっきり言ってお腹いっぱいです。しかし、日食のメカニズムなんて、中学校ぐらいで習っているはずなのに、いまさら説明されないとわからないものですかね。 まあ、TV関係者というのは、文系人間が多い業界だと思いますから、わからない人が多いのかな。自分たちがよくわからないものだから、きっと世の中の人もよくわかっていないんだと思い込んでいる節がありますよね。(だいたいが、日食なんてものは、ごく普通の自然現象で、毎年のように地球のどこかで見られるもので、今回日本が非常に条件がいいというだけです。きっと、2012年ということで、例の「マヤの人類滅亡説」と結びつけるアホな輩がどこかにいそうですけど。) ちょうど、去年から今年にかけて、「はやぶさ」関係の映画が3本も作られ、みな見事にこけたのと同じようなものですかね。やっぱり映画関係者の方々は、文系の人が多いんですよね、「『はやぶさ』というのは何だかよくわからないけどすごいらしいぞ。」「なんか途中で見失ったけど、奇跡的に見つかって帰還したらしいぞ。」というノリで、勢いで作ってしまった感があって、はっきり言ってとっくにブームは去っているのに映画だけ公開される、という、あまりにもの先見の明の無さで、思いっきりこけたということですかね。 たしかに、今までに人類が到達したことのない、火星よりも遠いところから、物質(ほんの少しの砂ですが)を持ち帰ってきたという、「はやぶさ」の偉業は素晴らしいのですが、はっきり言って、僕のような一部の理系男子(オタクっぽい)が、ネットや新聞のスミにある記事を見つけて、密かに喜び、「Newton」などで特集されるのを見て喜ぶ、といったたぐいのニュースです。はっきり言って、騒ぎすぎ、と思います。 ということで、前置きが長くなってしまいましたが、今回は金環日食という天体ショーとともにアップした記事ということで、宇宙的SF映画を取り上げてみました。(というか、近々「MIB3」が公開されるということを盛んにTVCMでやっているので、思い立ったというのが正直なところです。) ニューヨーク市警のジェームズ・エドワーズ(ウィル・スミス)は、異様な脚力で逃亡する犯人を追いつめ、捕まえますが、そいつがエイリアンであると気付いてしまいます。そこへ、全身黒ずくめの男“K”(トミー・リー・ジョーンズ)が現れ、彼の記憶を消しつつ、彼のエイリアンを追いつめた脚力と根性に感心し、名刺を置いていきます。 ジェームズが名刺の住所に行ってみると、何か怪しい雰囲気の建物があり、中に入ると、軍や警察関係者の若者とともに、試験を受けさせられます。 試験が終わると、“K”が現れ、合格したことを告げられ、建物の奥に案内されます。 そこには、異様な姿をしたエイリアンが多数たむろしていました。 “K”は、自分たちは、実はすでに地球に多数おり、暗躍しているエイリアンたちの監視と、トラブルの解決をする、極秘エージェント“メン・イン・ブラック(MIB)”であると告げ、仲間にならないかと勧誘します。 こうして、記憶と指紋を消されたジェームズは、MIBのエージェント“J” として、生まれ変わり、“K”とコンビを組むことになるのです。 この映画は、実は、UFOやエイリアンを目撃すると、どこかからか黒ずくめの男たちが現れ、「他言無用!」と言って、彼らの監視下に置かれるようになる、という「Men in Black」と呼ばれるアメリカの「都市伝説」を映画化した作品です。 さすが製作総指揮スティーヴン・スピルバーグ、一流のエンターテイメントで、痛快で単純な物語に作られております。大ヒットし、「MIB2」も作られ、この度「MIB3」も公開されるという映画なので、ご存知の方も多いでしょう。 お得意のマシンガントークと演技過剰気味なハイテンションのウィル・スミスと、渋い顔をしながら、ひょうひょうとコミカルな演技を見せてくれる、あの“宇宙人ジョーンズ”が、ノリノリで楽しませてくれるのはもちろんですし、いざとなると変形し、爆発的なスピードで、トンネルの壁や天井も走れるスーパーな車や、成りは小さいがすさまじいパワーの光線を発射する銃など、ものすごい武器なども登場し、超一流の娯楽作品に出来上がっています。 僕的には、以前このブログで、チラッと行ったことがありますが、様々な異形のエイリアンが、秘密の宇宙空港を闊歩するところや、人間に成りすまして、実は街中で密かに生活しているのを、正体をあばいているところなど、おもしろくてたまりません。 また、エルビス・プレスリーは死んだのではなくて自分の星に帰っただけだとか、あのNBAのシカゴ・ブルズの黄金期にマイケル・ジョーダンとともに、名リバウンダー(身長は2mそこそこだけど、超人的反射神経で、リバウンド王に輝いた)として活躍し、俳優としてB級アクション映画などに出演しているデニス・ロッドマンと同じ星のエイリアンに、NBAファイナルのチケットをもらったとか、MIBの基地のモニターにシルベスター・スタローンが映し出されているとか、そういう楽屋落ち的逸話がツボにはまってしまいます。(マイケル・ジャクソンは「MIB2」でしたかね。) メインストーリーは、昆虫型の悪質エイリアンが、他のエイリアンが持ち込んだ“宝”を狙ってやってきたのを、“K”と“J”が活躍してやっつけるお話なのですが、はっきり言って、非常に単純で、謎解き(“宝”の正体と在り処)も簡単ですので、だれもが楽しめるお話です。 ただ、相手が昆虫型エイリアン(その正体は、はっきり言って巨大ゴキブリです。)なだけに、はっきり言って、苦手な方は全くダメかもしれません。 ということで、多くの方に観てほしい(昆虫が苦手な方は我慢して)、非常に楽しい、超1級のエンターテイメント作品を、今回は紹介しました。もちろん「MIB3」も、絶対観ます。そのうち。(映画館に観に行けるといいな。) さて、日食見に行こう、と。なんやあ、くもっとるやんけ!!
2012.05.21
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「サイン」 Signs 2002年 アメリカ映画監督 M・ナイト・シャマラン主演 メル・ギブソン M・ナイト・シャマラン監督のSFサスペンス映画です。 事故で妻を亡くしたことにより信仰を捨てた牧師グラハム(メル・ギブソン)が、宇宙人の襲撃を撃退することを通して、信仰と家族のきずなを取り戻すという映画です。 結論から言いますと、シャマラン監督はSF映画をつくらない方がいい、ということです。SF関係で突っ込みどころが満載だからです。 まず、ミステリーサークルについてです。ミステリーサークルとは、1980年代イギリスを中心に、穀物畑などで、円形を中心とした幾何学模様を、穂を倒して描いたもので、突然現れることから、UFOの着陸跡とか、宇宙人のメッセージとか、いろいろと憶測され、話題になったものです。1990年代になって、製作者が自ら名乗りを上げ、意外と簡単に作れることがわかり、急速にブームが去っていきました。そのミステリーサークルを21世紀になってから、あらためて宇宙人の「サイン」として取り上げる神経がわかりません。 また、このミステリーサークルは、だれが作ったのでしょうか。宇宙人の宇宙船(確認できているのでUFOではない)が、このミステリーサークルを目印にやってくるということになっていましたが、ということは、作ったのは宇宙人ではないということでしょうか。宇宙人の味方の地球人がいるのでしょうか。それとも宇宙人の先発隊が作ったのでしょうか。結構世界中にできていたように思われますが、先発隊はいったいどれくらいの数、来ていたのでしょうか。世界中にたくさんの宇宙人がやって来られているのに、なお目印としてミステリーサークルを作る意味は何でしょうか。この宇宙人の目的が何かはいまひとつ分からないのですが、わざわざ、目立つことをするよりも、こっそりと活動する方が都合よいのではないでしょうか。 次に、宇宙人の弱点についてです。水に弱いということでしたが、では、どうして、この水のたくさんある地球に来たのでしょうか。地球は、その表面の70%が水で覆われています。また、大気中にも、雲あるいは水蒸気という形で、かなり大量の水が含まれています。宇宙空間から、電波などで調べれば、地球に水がたくさんあることを知るのは容易です。おそらくは太陽系外から、宇宙船でやってくることができるほど、技術の発達している知的生命体なら、簡単にできるはずです。わざわざ、自分の弱点の物質が大量にあるこの地球に、やってきたこの宇宙人の目的は何でしょうか。 ほんの短い時間しか出てきませんが、宇宙人の造形、どうにかならなかったのでしょうか。怖い印象を与えるためにグロテスクなのはいいですが、どう見ても、高度な科学技術を持っている知的生命体には見えません。しかも、水がついて苦しんでいる様子から察するに、裸のようです。ふつう、よその天体に行くとしたら、宇宙服を着ているでしょう。その星の空気が自分たちに合っているかどうかわからないから。たまたま、地球の空気に含まれる酸素や窒素、二酸化炭素などで呼吸をする生物だとしても、空気中には、様々な目に見えないウィルスがたくさんいます。そして、彼らの苦手な水も水蒸気の形で、たくさん含まれています。宇宙空間を渡ってきた知的生命体ならきちんと分析してから、やってくるはずです。あのパロディ映画「マーズ・アタック」でも、火星人たちは頭に透明なヘルメットかぶっていました。 あのボーが赤ちゃんの時使っていたという、おもちゃのトランシーバーのような電波を受ける器械は何でしょう。宇宙人が近づくと電波を受信するようですが、なぜ、宇宙人が発する電波と、そのおもちゃの受ける電波が合っているのでしょうか。たまたま偶然、周波数が合ったということでしょうか。それとも合わせたのでしょうか。後述の本に宇宙人の発する電波の周波数でも書いてあったのでしょうか。そもそも、宇宙人は裸なのに、電波を発するのでしょうか。不思議です。 グラハムの息子モーガンが、街で買ってきた本、宇宙人に関する情報を集めた本、つまり、ビリーバーの妄想を集めた本のようです。その本を読んで、すっかり内容を信じきったモーガンと妹のボーが、宇宙人のテレパシーから頭を守るため、アルミ箔で作った帽子(ヘルメット?)をかぶっています。2人は子どもだからしょうがないですが、その後、TVで宇宙人の映っている映像を見てしまった伯父のメリル(グラハムの弟)も同じものをかぶっている場面(上記の写真)には、笑ってしまいました。コメディですか。 以上、長々と書いてしまいましたが、まだまだ突っ込みきれません。とにかく、科学的に無知なことが多すぎです。 物語の本筋としては、事故で死ぬ間際の妻の、意識が混濁する中で発した最後の意味不明の言葉(サイン)の通りに行動したら、危機を脱することができたことから、それを神の啓示と信じ、グラハムが信仰を取り戻すところがオチだと思われます。だったら、事件は宇宙人の襲来でなくてもいいと思います。強盗でもいいし、事故でもいいし、殺人鬼でもいいでしょう。わざわざ、不慣れなSFにする必要はないと思います。そこが、今回の敗因でしょう。 しかし、主役にメル・ギブソンを起用した意味は何でしょうか。メル・ギブソンって「マッド・マックス」のイメージが強すぎて、やっぱりアクションを期待してしまいます。宇宙人やっつけるのも弟まかせだったし、意味わかりません。元牧師のくせに、元野球選手の弟より体格いいんだから。
2011.09.01
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「ザ・マジックアワー」 2008年 日本映画監督・脚本 三谷幸喜出演 佐藤浩市 妻夫木聡 深津絵里 西田敏行 伊吹五郎谷原章介 鈴木京香 唐沢寿明 中井貴一 天海祐希 香取慎吾 三谷幸喜さんの作品は、基本的に好きです。 「古畑任三郎」は、基本的にTVドラマを観ない僕としては珍しくはまったドラマですし、今となっては懐かしいコメディタッチ(なんといっても、史実の近藤勇と同じように、こぶしが口の中に入るという理由で香取慎吾を主役にするぐらいですから。)の大河ドラマ「新選組!」も好きでした。(大河ドラマファンから言わせると雰囲気が違いすぎるので、不評の様ですが。) 以前も、このブログで三谷幸喜第1回監督作品「ラヂオの時間」を紹介させていただきました。この「ザ・マジックアワー」は、監督作品としては、4作目に当たります。 港町守加護(すかご)で町を牛耳る「天塩商会」のボス(西田敏行)の愛人マリ(深津絵里)に手を出してしまった備後登(妻夫木聡)は、2人で逃げようとして捕まってしまいます。 口から出まかせで、伝説の殺し屋”デラ富樫”と知り合いだと言ってしまった備後は、“デラ富樫”を連れてくれば見逃してやる、とボスに言われ、探しに行きます。 どうしても“デラ富樫”を見つけられない備後は、売れない役者村田大樹(佐藤浩市)を、自分は映画監督で、マフィア映画の主役にしてやるとだまし、“デラ富樫”を演じさせます。 ということで、伝説の殺し屋を手に入れたと思っている本物のマフィアと、映画を撮っていると思って、殺し屋役を演じ続ける役者とのギャップが非常に面白いお話です。 特に、“デラ富樫”を名乗る村田が、初めて「天塩商会」にやってきた場面、村田が、脅してやろうと思い、ナイフをなめて不気味な雰囲気を出しているつもり(あくまでもつもり)のアドリブで、自己紹介する場面は、爆笑でした。 村田のあまりにもリアリティの無い演技(だから売れない役者なんですね。本当は演技力のある佐藤浩市さんが、わざと大根に演じているのが秀逸です。)に、思わず、映画監督として、「カット!!!」と叫んでしまった備後が、マフィアたちに、「彼は“カット”という愛称なんです。」と言い訳するところや、打合せ後、取り直しと思って、村田が同じ演技(もちろんナイフをなめます。)を繰り返し、ボスたちが呆気にとられるところが、非常に面白かったのです。 この場面は、かなり多くの方々に受けているようで、この映画の紹介や批評を見ると、この場面に言及している人がほとんどです。この間、とんねるずの番組に、ゲストで佐藤浩市さんが出てきて、石橋貴明に、「ナイフをなめる人です。」と紹介されていました。 ほかにも、深津絵里さんが歌い踊る姿が見られたり、映画の特殊効果を利用して、敵のマフィアを撤退させたり、いつも渋い侍や刑事などを演じていることが多い伊吹五郎さん(かつての格さん)が、コミカルな演技を見せたりと、いろいろと見どころがある作品に仕上がっています。 しかし、全体に、今ひとつの感があるのは何故でしょう。どうにも、僕はただ単に手放しに爆笑して、すっきりするということができませんでした。何かしらもやもや感が残ってしまいました。それは何故でしょう。 考えるにそれは、題名「ザ・マジックアワー」にかかわることではないでしょうか。 “マジックアワー”とは、日没後の太陽は沈み切っていながら、まだ辺りが残光に照らされているほんのわずかな、しかし最も美しい時間帯を指す写真・映画用語で、転じて本作では「誰にでもある『人生で最も輝く瞬間』」を意味しています。 売れない役者村田が、大好きな昔のモノクロ映画「暗黒街の用心棒」(劇中、谷原章介、鈴木京香が演じているこの映画を村田が見ている場面があります。)の主役を演じており、今は一介のエキストラとして、偶然この守加護でのCMロケに参加していた高瀬という老人と出会い、この“マジックアワー”について語り合う場面がありますが、それだけです。 話し全体の流れ、そして、なんとなく読めてしまった“オチ”、は、“マジックアワー”とは、全く関係ないのです。 そこらへんで、違和感があったのですね。題名と内容の違いに違和感を持ってしまい、もやもやした気持ちになってしまったのですね。もっと、村田の生き方というか、今後の進む道というか、そこらへんに話がつながっていけば、題名とストーリーがうまくリンクしたのではないでしょうか。 また、前述の谷原章介、鈴木京香、はじめ、唐沢寿明、中井貴一、天海祐希、香取慎吾など、主役級の役者の方々が友情出演なのか、カメオ出演なのか、チョイ役で出演していたのが気になりました。 いったい出演料などはどうなっているのでしょうか、もちろん、主役の場合と同じ出演料は出していないとは思いますが、交通費に毛の生えたぐらいではすまないでしょう。 なんか意味わかりません。 それから、この守加護という町のセットが、全くリアリティの無い、舞台セットのような外観なのにも、違和感をもってしまいました。 たぶん、わざとそういう作りにしてあると思いますが、舞台を中心に脚本・演出をしている三谷監督としては、そういうセットのほうがやりやすいのでしょうか、違和感ありありで、非常に気になりました。 舞台のセットで、映画を作る意味って何でしょう。 このお話の中の守加護という街は架空の街です。舞台セットのようなリアリティの全くないセットを使って、作り物感を過剰に出したかったのでしょうか。 でもそれはどうして?全く分かりません。 ということで、少し違和感を抱きつつも、楽しい時間が過ごせる作品を、今回は紹介しました。
2012.07.14
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「となりのトトロ」 1988年 日本映画監督 宮崎駿 今更説明の必要はないでしょう。スタジオジブリの、大大大ヒットアニメです。 もう、はまりまくりまして、いや、ぼくじゃなくて、うちの子が。 家にビデオ(DVDではない)がありまして、小学校に上がる前だと思いますが、大好きで、毎日毎日見ていました。もちろん僕も付き合わされて、毎日毎日見ていました。 おかげで、ストーリーはもちろん、せりふも、かなりの部分覚えてしまいました。「マックロクロスケ出ておいで。」とか、「やーい、おまえんち、おっばけ屋敷。」とか、「おじゃまたくし。」とか、「お父さん、お花屋さんね。」とか、「メーイちゃーん!!」とか、使って、子どもと遊んでいました。 メイちゃんが、チビトトロを追いかけて、穴の中に落っこちて、初めてトトロに出会うシ-ンとか、夜のバス停で、サツキが初めてトトロと出会うシーンとか、ネコバスが田んぼの中をすっとばして、人の横を通ったのをその人がまったく気がつかないシーンとか、大好きです。 自分自身、田舎の生まれで、この映画で描かれている田舎の風景に、ノスタルジーを感じる世代でもあるわけで、(実は、この映画の舞台は昭和30年代初頭なので、まだ僕は生れていないのですが。)実に大好きな映画です。 ただ、ひとつだけ、大嫌いなところがあります。それは、お父さん役の声優、糸井重里さんです。演技しているとはほど遠い、抑揚のない棒読みのせりふ、落ち着いているというほめ方しかできない、感情のなさに、がっかりでした。とりわけ、トトロに初めて会ったメイちゃんが戻ってきた後、神社の御神木にお礼を言う場面、お父さんのいいセリフが、あまりにも棒読みなため、いい場面が台無しです。確かに、声の質的には、このお父さんにぴったりかもしれませんが、本職はコピーライターで、声優はおろか、実写での演技もろくに経験がない彼をなぜ起用したのか、大いに疑問が残ります。 ジブリアニメは、細部にまでこだわった見事な映像を作り、その完成度も高く、公開するたびに、大ヒットしていますが、こと声優に関しては、こだわりがないようです。 最近のアニメ映画は、話題作りのためか、主役級の声優までも、タレントや実写の俳優さんを使っているものが多くあります。中には、なかなかの演技を見せる人もいますが、時に、全然だめだという人もいます。お笑い芸人など日頃ドラマや映画に出ていない人ならしょうがないのですが、時には、実写の演技では、非常に達者なところを見せている人なのに、声だけだとどうしてこうなっちゃうのだろうという人もいます。そんな人が主役だったりした場合、映画全体が台無しです。それは、ジブリアニメも例外ではありません。 こういった状況は、声優を本業にしている人たちは、どう思っているのでしょうか。 この間、バラエティ番組で、長年アニメの主役級の役でがんばっている、「タッチ」の上杉達也役で有名な三ツ矢雄二さんが、MCの爆笑問題にこの辺を聞かれ、返事に困り言葉を濁しているところを見てしまいました。肯定的に思っているのなら、素直にそう答えればいいわけで、何か不満を持っているからこそ、答えに困ったということでしょうか。 かなりのベテランで、シリアスな役からコミカルな役をこなし、バラエティ番組で、顔を出しての出演も多く、結構ペラペラとしゃべりそうな三ツ矢さんですが、非常に、返事に困っているようでした。何か大人の事情的なことがありそうです。残念です。 というわけで、お父さんの声以外は、大好きで、とてもよくできている「となりのトトロ」でした。
2011.10.15
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「プレデターズ」 Predators 2010年 アメリカ映画監督 ニムロッド・アーントル出演 エイドリアン・ブロディ ローレンス・フィッシュバーン 姿を消すことができ、赤外線で物を見、戦闘能力の非常に高い宇宙人“プレデター”のシリーズ、第3弾です。第1弾はジャングル、第2弾は都会、と舞台は変わり、今回は地球ではないどこかの星です。 8人の殺しのプロがパラシュートで落とされたところは、未知のジャングルでした。互いに面識のない8人は、ここがどこか、なぜここにいるのか誰もわかりません。傭兵としての経験が長く、他の組織にも詳しいロイズ(エイドリアン・ブロディ)が、自然とリーダーになり、彼らはあてもなく歩きだします。 姿の見えない敵と戦い、犬のような怪物の群れに襲われ、2人の仲間を失いながら、見晴らしの良いところに出た一行は、ここが地球じゃないことを知ります。 殺し屋たちを拉致し、どこかに閉じ込めて戦わせるというのは、以前記事を書いた「監獄島」と似ていますが、マッチョ率の高かった「監獄島」とは違い、こちらは各国の兵士たちが主ですが、中には、日本人のやくざ、何人も殺している凶悪犯、女性スナイパー、優男だが毒物に詳しい医者など、人選に多少、工夫が見られます。 途中まで、プレデターは、全く姿を見せず、まず現れたのは、犬のような狼のような怪物で、そのスピードと凶暴さで、一行は危機一髪に追い込まれますが、どこからか聞こえてきた笛の音のような音で、怪物たちは引き上げていき、助かります。ここまでは、思わせぶりな展開で、ハラハラドキドキ観ていられますが、ここからががっかりでした。 “プレデターズ”という題名から、この後大量のプレデターに襲われるのかなと思いきや、出てきたのは、プレデターの姿を消す機能の付いた仮面をかぶった人間でした。しかもそれが、ブクブクに太ったモーフィアス(ローレンス・フィッシュバーン、もちろん役名は違います。)。どうやら、地球から強そうな人間を連れてきて、狩りを楽しむことを、プレデターたちは何度もやっているようで、彼は以前の兵士たちの生き残りのようです。 意外な展開で、驚いていましたが、しぶとく生き残ってきたはずの彼は、結構あっけなくやられ、プレデターの集団が襲ってくることはなく、一度に出てきたプレデターは2体までで、見せ場は、日本刀を手に入れた日本人やくざがプレデターと一騎打ちするところぐらいでした。(日本人が、みんな刀を使えると思ってんじゃねえよ。やくざだって、みんな使えないからね、今では。江戸時代じゃあるまいし。) とにかく、全然“プレデターズ”じゃない展開にがっかりしつつ、最後は予想通り、ロイズとイザベラ(女性スナイパー)は生き残り、やっぱりがっかりでした。(もっと、予想を裏切るどんでん返しとかは、考えつかなかったのかよ。) ということで、期待が大きかった分、余計がっかりした映画でした。 しかし、エイドリアン・ブロディが、とてもたくましく、しっかり経験豊富な傭兵に見えたのはびっくりしました。あの、線の細い優男のピアニスト(「戦場のピアニスト」)や、頼りなげな新米兵士(「シン・レッド・ライン」)や、知能障害があり優しいお姉さんに世話されている男(「ヴィレッジ」)とは、同一人物とは思えませんでした。彼の演技力のふり幅の大きさにびっくりしました。
2011.11.06
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「A.I.」 A.I. Artificial Intelligence 2001年 アメリカ映画監督 スティーヴン・スピルバーグ出演 ハーレー・ジョエル・オスメント ジュード・ロウ 僕が敬愛するスタンリー・キューブリック監督が映画化権を手にし、企画を進めていた矢先、亡くなってしまったことで、スピルバーグ監督がその遺志を継ぎ、作られたSF作品です。 公開当時、非常に話題になり、TVCMも盛んにやっていたため、僕も観たかったのですが、劇場公開の機会は逃したため、DVDが発売されたら即座に購入し、満を持して観賞しました。 地球温暖化が進んで一部の海に近い土地が沈み、妊娠・出産に厳しい許可制度がしかれ、人間の代わりに多くの資源を必要としないロボットが活躍する未来の物語です。 その時代に、人間と同じ愛情を持つ少年型ロボットとして開発されたデイビッド(ハーレー・ジョエル・オスメント)は、彼を製作したロボット製造会社の社員、ヘンリーとその妻モニカの元へ試験的に送られます。夫妻には不治の病を持つ息子のマーティンが居ましたが、現在は冷凍保存で眠っていて目覚める保証はなく、実質的に子供がいないのと同じでした。 起動させたモニカを永遠に愛するよう、元々変更がきかないようにプログラムされたデイビッドでしたが、マーティンが奇跡的に病を克服して目を覚まし、退院して家に戻ってくることになり、それからモニカはデイビッドよりもマーティンの方に特に愛情を注ぐようになってしまい、困惑します。 ある日、マーティンとデイビッドが遊んでいる最中、マーティンの生命に関わる事故が発生し、デイビッドは森に捨てられてしまいます。 デイビッドは、再び母に愛されることを目的に、友達の玩具型ロボットのテディ、森で出会ったセックス・ロボットのジゴロ・ジョー(ジュード・ロウ)とともに旅をします。 途中でロボットを破壊して楽しむショーの見世物にされかけるなど様々なトラブルに遭いながらも、デイビッドはただひたすらにモニカの愛を求めて旅を続け、最後は海に落ちてしまうのですが、それでも彼は意識を失うその瞬間まで「僕を愛して」と望み続けるのでした。 それから、2000年後……。 ぼくは、SF大好きなので、非常に高性能な子ども型ロボットのお話ということで、ワクワクして観始めたわけですが、はっきり言って、非常に気持ち悪かったです。人間型のロボットが壊される場面などあって、非常にグロテスクな描写もあったわけですが、別に吐き気をもよおしたということではありません。 何か得体のしれない嫌悪感を持ってしまったのです。やりきれない気持ちというのでしょうか、いたたまれない気持ちというのでしょうか、とにかく、納得できないもやもや感が、自分の気持ちを支配してしまったのです。 それは、結局最後まで救われなかったデイビッドが、かわいそうだとか、哀れだとかいう気持ちとも違うものでした。いや、確かに客観的に見れば、デイビッドは救われなかったのかもしれませんが、あのラストは、彼なりに納得したものであり、ある意味満足した結果なので、デイビッドの自己満足的には、成就できたものだと思います。 そう思っているので、デイビッドがかわいそうで、いたたまれない気持ちになっているのではありません。 映画を観終わった直後は、このもやもやした気持ちが一体なんなのか、全く見当がつきませんでした。しばらくして、落ち着いて考えてみて、やっとそれがなんなのかわかりました。 それは、非常にリアルな子どものロボットに対する違和感だったのです。 そもそもロボットとはなんでしょう。それは、人間にできないこと、危険なこと、大変なことを、人間に変わってやってくれる存在として、考えられてきました。 鉄腕アトムや鉄人28号の昔から、マジンガーZ、キカイダー、ライディーン、ガンダム(ロボットじゃなくてモビルスーツだというマニアックな意見はあえて却下します。)、ドラえもん、C3-POにR2D2、などなど、多くのSF作品に登場するロボットたちは、人に変わって戦ったり、分析したり、危険に立ち向かって行ったり、変な道具を出してくれたり、人間のために何かをやってくれる存在です。 現在、多くの工場などで働いている産業ロボットなどは、危険な作業や、非常に細かい作業、非常に正確性の問われる作業など、人間ができないことを、非常に早く正確に行ってくれる存在として、人間の役に立っています。 一方、子どもとはなんでしょうか。 子どもは、いろいろなことができない存在として、この世に生まれます。始めは、話すことも歩くこともできませんが、成長するにしたがって、様々なことを学習し、できるようになってきます。両親や先生など周りの多くの大人たちや、同じような子どもたちに囲まれ、助けられながら、自分の体を動かすこと、考えること、話すこと、知識を得ること、他人の気持ちを考えること、などなど、様々なことを学習し、体も大きくなると同時に、心も大きくなって、成長していく存在です。 デイビッドは、子どものロボットとして、人工知能にあえて知識を多く植え込まずに作られているようです。そして、人間の子どもと同じように、いろいろなことを学習し、成長していくように作られているようです。(もちろん、体の方は成長しないはずですが。) 本来、人よりも優れた能力(それはある特定の分野に関してということが多いですが、)を発揮するはずのロボットが、明らかに人よりも少ない知識量と能力しか与えられず、これから学習していくのだという、矛盾した存在、そして、本来人のために働く存在であるはずのロボットが、子どもとして、人間の庇護下に置かれるという矛盾。それが、デイビッドこと、子どものロボットなのです。 そんな矛盾に、違和感を覚え、気持ち悪さを感じていたのではないでしょうか。 この映画、スピルバーグ監督の手腕により、一見、感動を受けるファンタジーな作品として作られています。しかし、その下に流れる、ダークな雰囲気は隠しようがなく、異様な独特な空気を持った作品として完成し、公開されました。 難解で、シビアで、考えさせられる作品を作るキューブリック監督だったら、というのは考えてはいけないのかもしれませんが、でも考えてしまいます。キューブリック監督だったら、ダークなイメージと、ロボットであり子どもであるという矛盾を前面に出した作品を作ることができたのではないでしょうか。 まあ、商業的なことを考えれば、スピルバーグが作って、正解だったのかもしれませんが。 ということで、この映画のDVDは、最初の観た時以来、僕は見ていません。
2012.09.01
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「硫黄島からの手紙」 Letters from Iwo Jima 2006年 アメリカ映画監督 クリント・イーストウッド出演 渡辺謙 二宮和也 伊原剛志 加瀬亮 中村獅童 前回に引き続き、今回はこの映画を取り上げねばならないでしょう。巨匠クリント・イーストウッド監督による硫黄島プロジェクトの第2弾、日本側から硫黄島の戦いを描いた作品です。 アメリカ初といわれる、全編ほぼ日本語で、主要キャストはすべて日本人(一部日系人、中国系)の作品ですが、米アカデミー賞では、外国語映画賞ではなく、作品賞にノミネートされました。(惜しくも受賞はならず。ノミネートされた4部門のうち受賞は音響効果賞のみ。前評判では、渡辺健の主演男優賞、二宮和也の助演男優賞のノミネートがありうるという話でしたが、残念ながら、ありませんでした。) 西郷一等兵(二宮和也)は、硫黄島の海岸で、塹壕となる穴を掘っていました。ふと見上げると、一機の輸送機がやって来るのが見えました。この硫黄島基地の新しい司令官となる栗林中将(渡辺謙)を乗せた輸送機でした。 着任早々、栗林中将は、1000名あまりいる島民を島外へ避難させ、従来の水際防衛線となる海岸の塹壕掘り、体罰による制裁をやめさせます。 サイパンやレイテ島などの日本軍の前線基地が次々と陥落し、この硫黄島が最終防衛ラインであり、ここを失えば日本本土や沖縄などへ、米軍の直接攻撃ができるようになることは分かっていました。そして、連合艦隊は壊滅状態にあり、栗林は、いかにこの硫黄島で、最後の抵抗を見せるかを考え、島の地形を調べていました。 栗林中将は、島中に洞窟を掘り、地中の基地を建設することを、兵士たちに命じます。かつてのオリンピック馬術競技の金メダリストで、栗林と同じくアメリカで暮らしたことがある西中佐(伊原剛志)は、彼の進歩的な作戦を理解しましたが、伊藤中尉(中村獅童)ら、以前からこの基地で指揮をとっている士官たちには理解することができませんでした。 一方、西郷たちは、突然内地の憲兵隊から移動してきた、清水上等兵(加瀬亮)を、自分たちの監視に来たのではないかと警戒しながらも、毎日洞窟を掘る作業を続けていました。そんな中、サイパンを米軍の艦隊が出立したとの知らせが届きます。 栗林は、洞窟の基地全体に通じる放送を使って、すべての兵士に告げます。「二度と生きて祖国の土を踏めぬものと、覚悟せよ。」 1945年2月、1カ月余りにも及ぶ“硫黄島の戦い”が始まりました。 この時、硫黄島には、約22,000名の日本兵がおり、約20,000名が戦死し、1,000名が負傷したそうです。米軍は、約6,800名が戦死、約22,000名が負傷しています。当時の勢い、そして軍備の違いなどを考えると、いかに日本軍の硫黄島部隊の抵抗が大きかったかがわかります。 渡辺謙の演じた栗林忠道中将は、実在の人物で、アメリカ駐在経験があり、非常にアメリカ的な合理的思考ができる人でした。連合艦隊は壊滅し、戦闘機も全くないという絶望的な状態の中、1カ月余もの間、抵抗を続けることができたのは、彼の指揮あってのものと言われています。 しかし、この映画は、その栗林中将の英雄的活躍を描いているわけではありません。確かに、体罰を受けている西郷たちを助けたり、画期的作戦を指示したり、戦意を奮い立たせるような演説をしたりと、そのカリスマ性を高める描写もありますが、それよりも、副官と2人で島の中を見て回るなど、どう作戦を立てるべきか、考えている姿のほうが印象に残ります。そして、夜ひとりになると、遠く本土で暮らす子どもたちに向けて、手紙を書く姿がたびたび描かれています。 その手紙の内容は、どう考えても、八方ふさがりの硫黄島基地の状況ではなく、軍のエリートとして行った、アメリカ駐在時代の楽しかった思い出を回想し、イラスト付きで、ひとことひとこと子どもに語りかけるような文体で語られていきます。 そうです、このお話は、題名にもある通り、手紙が1つのキーポイントとして、作られているのです。 冒頭、現代の硫黄島の洞窟から、1つの袋が掘り出されるところから始まり、先程の栗林の描写をはじめ、西郷や清水が手紙を書いたり、読んだりしている描写が、たびたび出てきます。それは、もちろん、本土で暮らす家族との手紙です。実は届かないであろう、その手紙は、1つにまとめられ、洞窟の中に大切に埋められたのです。 また、西中佐が捕まえて話をする負傷米兵は、翌朝、母親からの手紙を手に、息絶えていました。その手紙を訳して読む西。その内容は、日本人と同じように、わが子の無事を祈る母のものでした。それを聞いた兵士たちは、子どものころから鬼畜米英と教えられてきたことと違い、彼らも同じ人間なんだと思います。 彼らの手紙を通して、ひとりひとりの兵士たちの生活や命を思い起こさせ、双方の兵士たちが、バタバタと死んでいく(中にはもうだめだと追い詰められ、手榴弾で自決する日本兵の描写もあり)、生々しい戦闘シーンとの対比により、戦争と個人の命について考えさせるのが、テーマなのではないでしょうか。 そう考えると、前回の「父親たちの星条旗」との2部作の意味が分かってきます。 国家の目的のためには、個人個人の命など、二の次にされてしまう、戦争という行為の恐ろしさ、愚かさを、日本・アメリカ双方の視点から描きだしたイーストウッド監督の、見事な作品です。 ところで、この映画、西郷役の二宮和也、ジャニーズのアイドルグループ「嵐」のニノですが、いいですよ。前々から、彼の演技力には定評がありましたが、初めてのハリウッド映画の出演に臆することなく、存分に実力を発揮しています。特に、最後のほうの、表情の無い真顔のアップですが、目から一筋の涙が流れるところなど秀逸です。やっぱり、アカデミー賞にノミネートしてほしかったですね。そうすれば、菊池凛子さんとのダブル受賞の夢が見れたのに。
2012.02.28
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「ボーン・アイデンティティ」 The Bourne Identity 2002年 アメリカ映画監督 ダグ・リーマン主演 マット・デイモン 記憶をなくしたスパイの逃亡を描いた、マット・デイモン主演のサスペンス・アクションの人気シリーズの第1弾です。先日、地上波のTV放送でやっていましたね。 銃で撃たれて負傷した男(マット・デイモン)が、マルセイユ沖で漁船に救助されます。男は記憶を失っており、手がかりは皮膚の下に埋め込まれていたスイス・チューリッヒの銀行口座を示すマイクロカプセルのみです。男は自らの正体を探るべく、スイスへ向かいます。 CIAの“トレッド・ストーン(踏み石)計画”による工作員が某国の政治家ウォンボシ暗殺に失敗し連絡が途絶えます。ウォンボシがマスコミにCIAの暴露本を発表すると発言したことで、CIAは証拠隠滅に動きだしたのです。 記憶喪失の男はスイスへ到着しましたが、夜の町で警官二人から職務質問を受けてしまいます。男は自分でも気付かないうちにドイツ語で受け答えし、警棒を突きつけた警官たちを反射的に叩きのめしてしまい、そのまま逃走します。 その後、マイクロカプセルが示した銀行の貸し金庫を引き出しますが、その中身は、パリ在住の“ジェイソン・ボーン”という名前が記されたアメリカ合衆国パスポートをはじめとして、彼の写真が貼り付けられた多数の偽造パスポート、複数の通貨からなる大量の札束、そして拳銃でした。 ボーンは自分の正体を確かめる為に、まずパスポートに記載されていた自分の住所であるフランスのパリへ向かおうとしますが、警官を叩きのめした事で手配されており、警官に追跡されてしまいます。 辛うじてアメリカ領事館に逃げ込みますが、現地警察に追われていた彼を、改めて確保しようとした領事館員と争いになり、また格闘となってしまいます。 領事館詰めの海兵隊員の追跡をかわし、どうにか領事館から逃げ出した彼は、たまたま居合わせたマリーに金を払い、彼女の車に乗って自分が住んでいたアパートのあるパリに向かいます。 「グッド・ウィル・ハンティング」や「プライベート・ライアン」などで、知的な好青年を演じてきたマット・デイモンが、アクション映画に初めて挑んだ作品です。しかも、その役は、CIAが極秘プロジェクトとして進めてきた超人的な戦闘能力を持った工作員を作り出す“トレッド・ストーン計画”で、超工作員となったが、任務の失敗から遭難し、記憶喪失になった男です。つまり、戦闘能力に限らず、スパイとしてのあらゆる能力を高めるための訓練を、ひとり3000万ドルかけて訓練されているのです。 だから、射撃の腕はもちろん、素手で戦っても非常に強いですし、その場にあるいろいろなものをうまく使い、窮地に陥っても、見事に敵を倒してしまいます。また、状況判断や情報収集能力も研ぎ澄まされています。 例えば、記憶を失っているはずのボーンが、マリーとの逃避行の最中、食事をしに店に入った時、彼は自然と店全体や入り口が見える席を選び、その時店にいる客・店員の数と特徴・位置、駐車場に止まっていた車のナンバーまで、瞬時に観察し、覚えていました。 記憶を失って自分が何者かもわからないにもかかわらず、自然とそういう行動をとった自分に驚き、自分自身に恐怖すら覚えるのです。 おそらく、“トレッド・ストーン計画”というのは、非常に高度な戦闘能力はもちろんですが、そういった判断能力とか情報収集能力といったことも、体に染みつくほど、訓練をされているのです。考えたら非常に恐ろしい計画です。 だから、このシリーズは、ただ単にアクションを楽しむだけでなく、ボーンがいかに様々な能力を駆使して、敵の襲撃から身を守ったり、戦ったりするか、という知的な部分も楽しむ映画なのです。 パリの自宅を敵に襲われた時、彼はいち早く敵の襲撃を察知し、台所で包丁を1本とり、ドアの陰に刺しておきました。その場で戦いになった時、武器として使えるための準備です。 かくまってもらったマリーの元彼の家に敵が来た時も、背の高いアシが茂る湿地帯の中で、敵の位置を知るため、わざと鳥の群れを撃ったりしています。 そのように、ただ単に戦闘能力が高いだけでなく、知的なところも見せなきゃならないので、知的な青年が似合うマット・デイモンがキャスティングされたのではないでしょうか。 アクションが派手じゃないとか(爆破シーンは1回だけです。)、カーチェイスが短いとか(でも、ミニクーパーの小ささをうまく活かしています。)、そういう批判は、はっきり言ってお門違いであり、この映画のツボを理解していない、おバカな発言なので、慎んだ方がよいでしょう。 やたらと無意味な爆破シーンや、撃ちまくっているのに主人公には全く当たらない銃撃戦など、見た目に派手に見えるシーンが無いけれども、そういった知的な部分で楽しめる映画です。 ところで、ヒロインが今ひとつきれいでないといった批判をしている人も見受けられるようですが、そうそう通りすがりに絶世の美女に遭遇するなんて、出来すぎで、あまりにもリアリズムに欠けるでしょう。たまたま逃げ出した領事館の前で遭遇したのですから、あのくらいの子の方がリアルですよ。まあ、終始割れているアゴが気になったのは事実ですが。 ということで、単純なアクションだけではなく、知的な楽しみ方のできるアクション映画シリーズの第1弾を今回は紹介しました。
2012.09.22
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「ジョゼと虎と魚たち」 2003年 日本映画原作 田辺聖子監督 犬童一心出演 池脇千鶴 妻夫木聡 上野樹里 前々から、いい映画だとは聞いていたのですが、なかなか手が出ず、興味を持っていながら見ていなかった作品です。この年末に地上波で放映していたので、録画しておきました。 大学生の恒夫(妻夫木聡)は、バイト先の雀荘で、妙な噂を耳にします。それは、夜明けに乳母車を押して歩く奇妙な老婆の話でした。 ある日の明け方、店の用事で出かけた恒夫は、乳母車を押す老婆に出合います。 恒夫が恐る恐る乳母車を覗くと中には、年頃の女の子がいました。 恒夫は興味をひかれ、2人についていきます。女の子は、自らをサガンの詩の登場人物になぞらえ、ジョゼ(本名はくみ子、池脇千鶴)と名乗る、足の不自由な子でした。 恒夫は、適当にSEXさせてくれる女友達もおり、お嬢様然とした美人の彼女・香苗(上野樹里)もおり、バイトに精を出し、そろそろ就活でもするか、といった感じのごく普通の大学生です。 ジョゼは、原因不明だが、生まれつき足が動かない子で、両親に疎まれたため施設で育ち、祖母に引き取られてからは、“コワレモノ”と言われ、世間の目に触れないように育てられてきており、楽しみといえば、祖母が時々拾ってきてくれる本を読む事と、人目の少ない夜明けに行く、乳母車に乗せられての散歩だけでした。 そんな2人の恋愛物語です。 いやあ、いい映画でした。恋愛ものは苦手なのですが、この映画は純粋にいいと思ってしまいました。 以下、何がよかったか触れていきますが、過分にネタバレも含んでおりますので、結末を知りたくない人は読まないようにね。 何がいいって、やっぱりまず脚本でしょう。 文字通り箱入り娘で、半ば軟禁状態で育てられたため、人との接し方がわからず、口のきき方もわからない、ジョゼのぶっきらぼうなしゃべり方、世間知らずで、わがままで、実はさみしがり屋だけど、強がっている、そんな彼女のキャラクターを如実に表しています。 しかも、全編を通して同じようにぶっきらぼうなのですが、恒夫とジョゼ、2人の関係が変化するにしたがって、微妙に変化していくところ絶妙です。 最初は、警戒心から、言葉足らずな感じだったのが、親密になって来るにつれて、だんだん親しみが籠ってきて、男女の関係になってからは、わがままいっぱいだけど愛情が籠っており、別れを意識し始めてからは、なんとなく感慨深げになってきます。 もちろん、それは池脇千鶴の演技力のなせる技かもしれませんが、脚本のうまさがそれを引き出しているのは否定できないでしょう。 また、意味の深い、印象に残るセリフの数々があるということ。 例えば、「お前は“コワレモノ”だから、その分をわきまえなきゃいけないんだ。」と言うおばあさんとか、「あんたのその武器が憎い」と言った香苗に対し、「だったら、その足切ればいいじゃないか。」と返すジョゼとか、「世界で一番Hなことしていいよ。」とか、「私はその暗い海の底にいたんよ。」とか。 それから、原作の短編を1本の映画に作り上げるために、つけ足したところの見事さ。 恒夫の彼女だった見るからにお嬢様な香苗の存在、ラストに2人を別れさせたところなど、テーマをより深くえぐり出しているような感じがします。 次に、出演者の皆さんの巧みな演技。 妻夫木は、初めは興味本位で、そして同情から純粋な恋愛へ発展し、結局は現実を考えて、その重みに耐えかねて身を引く、という、まさに現代の若者そのものを、全くの自然体で演じています。こういう自然な感じというのが実はすごく難しかったりするんですよね。 上野樹里は、相談したいことがあると言いながらしっかりモーションを掛けてきて、大した覚悟もないのに格好だけで福祉を勉強したいという、いかにもで、その存在が鼻に付くお嬢様を好演しています。 このときなんと17歳だそうで驚きですが、「スイングガールズ」でブレイクする前の年です。もちろん、「のだめ」の大ブレイクはもっと後になります。 しかし、「のだめ」のイメージと、インタビューやバラエティで、時々見られる素の彼女の天然イメージからすると信じられないほどのお嬢様ぶりです。 実はとってもきれいな子だったんですね。どうも僕の中では、「のだめ」のイメージが抜け切れません。大河は見ていないので。 そして、なんといっても、ジョゼ役の池脇千鶴です。 とにかく、いちいちのセリフ、仕草が、憎たらしいほどすごいです。 煮物のレンコンを味見させた後の箸を、しばらくそのまま出したままにするところとか、唐突に手を握られ、思わず力を込めてしまうところとか、長らくの軟禁生活のため、仮面のように張り付いてしまった無表情なのに、微妙に目つきが違ったり、口の端で笑ったりとか、「帰れって言われて帰る奴は本当に帰れ!!。」と言いながら、背中をたたく仕草とか、もう、TVの前で、「惚れてまうやろー!!」と何度叫んでしまったことでしょうか。 まだ、20歳そこそこのはずですが、自らブラウスとブラジャーを取るベッドシーンも含めて、なんとすごい子だろうと思ってしまいました。 身障者と暮らすということ、対等な人間であろうとすること、そういうことを、どう考えたらいいのか、しっかりと考えさせられる作品でした。 しかし、ラスト、ジョゼと別れた後で、「障害者に彼氏取られた」発言をした香苗と共に去っていく恒夫、というのはちょっといかがなものか、と思ってしまったのは、私だけではないはずです。そこまで恒夫の株を下げなくてもいいだろう、と思ってしまいました。素晴らしい映画ですが、そこだけはいただけませんでした。
2013.01.16
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「プライベート・ライアン」 Saving Private Ryan 1998年 アメリカ映画監督 スティーヴン・スピルバーグ出演 トム・ハンクス マット・デイモン 今日は終戦の日、ぴったりの映画を紹介します。 スピルバーグ監督の、唯一の戦闘シーンたっぷりな戦争映画です。たったひとりの二等兵を8人で救出に向かう部隊の苦悩と戦闘を描いた作品です。 第二次世界大戦、ノルマンディー上陸作戦のオマハ・ビーチでの死闘を、多くの部下を亡くしながら生き残ったミラー大尉(トム・ハンクス)は、特別な任務を与えられます。 それは、ほぼ同時に3人の兄を亡くしたライアン二等兵(マット・デイモン)を発見し、帰還させることでした。ライアンは第101空挺師団パラシュート部隊に属しており、部隊は、降下目標地を大きくそれ、バラバラに降下していたため、ドイツ軍が点々といる中、探さなければならなかったのです。 ミラーは7人の部下を連れ、理不尽な任務に疑問を感じつつ出発しました。途中情報を集めながら、2名の仲間を亡くし、ある破壊された市街地にたどり着き、ライアンを発見しました。 発見した後もひと波乱あり、結果的には、悲しい展開になるのですが、語るのはやめておきましょう。 この映画、まず目につくのは戦闘シーンの悲惨さです。冒頭で30分近く続く、ノルマンディー上陸作戦で最も激戦地だったといわれるオマハビーチでの戦闘の描写はすごいです。 事前に予定していた空挺部隊の作戦がうまくいかず、海岸のトーチカの機関銃座が生きている中、さえぎるものが何もない海岸を上陸していく歩兵部隊、もちろん次から次へと倒れていきます。ヘルメットではじかれて助かったと思っているところを撃たれる兵士、落とされた自分の腕を探す兵士、腹から内臓を出し「ママーっ」と叫んでいる兵士、飛び散る血や肉片、非常にリアルで悲惨です。 劇中でミラー大尉が上官に聞かれます。「こっちの死傷者は。」「35人だ、負傷者はその倍。」ミラーは中隊長だったので、調べてみたら、だいたい一個中隊で百数十人、そのほとんどを戦闘不能にさせられた戦いだったわけです。実際、オマハビーチの作戦は失敗だったといわれているそうです。 後半の市街戦でも、爆弾で飛び散る兵士、火炎ビンを投げられ燃える車から火ダルマで出てくる兵士、60ミリ機関銃で撃たれ飛び散る兵士、もみ合いになりナイフでゆっくり刺される兵士など、思わず目を覆いたくなるような描写がたっぷりです。スピルバーグ監督は戦闘の悲惨さを表現するために、いろいろな技術を駆使し、わざわざ悲惨な映像を作ったということです。 そして、何より気になるのが、ひとりの二等兵を8人の兵士が命をかけて救出に行くという任務の理不尽さです。 戦死報告を作成するところで、たまたま発見された3枚の同じ家あての戦死報告から、上層部の話し合いにより、残った一人を守るという作戦が企画された感じで描かれています。この場面から、偶然なのか、期間が開いていたらどうしたんだ、全く別方面で(例えばアジア戦線)死んでいたらどうなんだ、とか思ってしまいましたが、調べてみると、実際、兄弟が戦死し、残った一人を除隊帰国させたり、後方に回したりということはあったみたいです。でも、この映画のように救援部隊を出すということはなかったみたいです。 出発した時から兵士たちは任務に疑問を持っているようです。「どういう計算だ?8人が命をかけて1人を助ける?」「息子を亡くしたお袋のためだ。」「おれにもお袋はいるぜ。」という会話をしています。また、仲間を一人失ったとき、思わず「ライアンめ」とつぶやいています。 ミラー大尉も実は心が揺れているようで、部下をひとり亡くした晩、「部下が死ぬと、それは10人の部下を救うためだったんだ、と割り切る。」「今度はひとりの兵士のために。」「その価値があるやつかな?難病の特効薬とか切れない電球を発明するやつ、カパーゾ(死んだ兵士)10人分に値するやつでなきゃ。」と会話しています。 2人目の犠牲者が出てしまった後、とうとうケンカになってしまい、一人が命令違反を承知で、帰ろうとし、もうひとりが拳銃を構えて止めるという騒動になってしまうのです。ミラー大尉が間に入り、何とか最悪の事態は免れましたが、それは任務に納得したのではなく、大尉の人望で収まったというのが正しいところでしょう。 人と人が殺しあう戦争、そんな非人道的な行為の極みの中に、人道的な行動を持ち込むことに無理があるのです。理不尽を感じて当然でしょう。 戦争の悲惨さ、理不尽さを表現するため、話が組み立てられ、よりリアルな映像が製作された映画だと思います。疑問や、嫌悪感を持って、観る映画だと思います。
2011.08.15
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「アマデウス」 Amadeus 1984年 アメリカ映画監督 ミロス・フォアマン主演 F・マーリー・エイブラハム トム・ハルス ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト(トム・ハルス)の生涯を、宮廷音楽家アント二オ・サリエリ(F・マーリー・エイブラハム)の目を通して描いた物語です。 米アカデミー賞作品賞をはじめ、数々の賞を受賞している傑作です。 ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトは、誰もが知っている、天才音楽家ですが、その生涯は波乱に満ちており、晩年は貧困にあえぎ、最期は35歳という若さで、不遇のうちに亡くなっています。妻に毒殺されたとか、サリエリに毒殺されたとか、うわさがあり、共同墓地に埋葬され、今では墓がどこにあるのか分からないそうです。 オーストリア皇帝ヨーゼフ2世(マリア・テレジアの長男で、マリー・アントワネットの兄)に仕える宮廷作曲家サリエリは、宮廷で女性と戯れ、下品な冗談で甲高く笑う、非常識な若者を見かけます。それがモーツァルトでした。 モーツァルトは神童と呼ばれ、7歳の頃から作曲し、音楽家である父親に連れられ、ヨーロッパ中を演奏して回っていました。その頃には、かなりの有名人で、サリエリも1度会いたいと思っていたのです。 ヨーゼフ2世がモーツァルトにオペラを製作させるため、招待したいと言い出し、サリエリは彼を歓迎するため、歓送曲を作ります。その曲を1度だけ聞いたモーツァルトは、その場で即興で編曲し、よりいい感じの曲に仕上げます。 その様子に驚愕したサリエリは、彼のあふれ出る才能に驚き、憧れ、そして嫉妬します。神を深く信じるサリエリは、いい曲ができた時にはいつも神に感謝してきましたが、今度ばかりは、神の与えた不公平を呪いました。なぜ、この下品で礼儀知らずの若者に、神はあふれんばかりの才能を与え、自分には平凡な才能しか与えてくださらなかったのか。 サリエリは、モーツァルトの音楽を愛していました。その斬新さ、美しさに魅せられ、誰よりも理解していました。だからこそ、嫉妬するのです。 この最初の出会いが、この後のサリエリの行動につながっていきます。 映画の冒頭、年老いたサリエリが、精神病院に面会にやってきた神父に「私がモーツァルトを殺した。」と語る、サリエリの行動に。(どんな行動かは書かないでおきましょう。) 一方、モーツァルトは、現在、クラシックの天才的作曲家として知られているのですが、この映画では、どちらかというと、音楽だけでなく、歌、演技を含めた総合芸術としてのオペラを創ることを熱望しています。 当時、優れたオペラを作り上げることが、音楽家としてのひとつのステイタスであったこと、交響曲などを作るよりも、手っ取り早くお金になることなど、いろいろとその理由は考えられますが、やはり、芸術家として、総合的な芸術を作り上げることに喜びを見出していたのではないでしょうか。 そして、彼の斬新的芸術家魂は、当時の神話や伝説を題材にしていた宮廷オペラの常識を打ち破り、トルコのハーレムを題材とした「後宮からの誘拐」や、皇帝から禁止されていたバレエを取り入れたオペラ「フィガロの結婚」や、舞台装置をラストにぶち壊してしまう大胆な演出を取り入れた「ドン・ジョバンニ」など、斬新なオペラを作り続け、皇帝を中心とした観客の貴族たちには不評だったのです。 しかし、芸術家のモーツァルトは、自分自身の創るものに自信があり、こだわりを持っています。それは、「後宮からの誘拐」の上演後、皇帝ヨーゼフ2世から「音が多すぎる。」と言われた彼の返事「ちょうどいいです、陛下。」という言葉に、表れています。 ことごとく上演するオペラが不評だった彼は、仕事がなく、どんどん貧困に陥っていき、当時、貴族社会だけでなく、民衆の間にも広がりつつあった、“大衆オペラ”に、光明を見出していくのですが、それが、非常に悲劇的な結末につながっていくのです。 モーツァルトは、神童と呼ばれもてはやされた幼少期から音楽漬けの毎日を送ってきました。そのため、普通の人なら成長とともに獲得してくる常識や生活力を、ほぼ獲得しないまま、大きくなってきたのではないでしょうか。それなのに、結婚し、子どもをもうけ、唯一のよりどころであった父親を亡くし、一家の大黒柱として、収入を得なければならなかったのです。そこに悲劇の根本があったのではないでしょうか。 そんな先進的な芸術家にありがちな悲劇的なモーツァルトの人生を描いた、感動作です。もちろん、劇中に流れる音楽は、オペラの場面はもちろんのこと、全編モーツァルト作曲のものばかりです。 今回、ずいぶん久しぶりの更新になってしまいました。なかなか仕事が忙しく、平日の更新が難しくなってしまいました。 今後も、週末中心の更新になってしまうと思いますが、よろしくお願いします。
2012.02.11
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「キャプティビティ」 Captivity 2007年 アメリカ・ロシア映画監督 ローランド・ジョフィ主演 エリシャ・カスバート レンタルビデオ屋のサスペンスコーナーで、面白そうだな、と選んだこの映画、観てみて、やられたと思いました。 売れっ子モデルのジェニファー(エリシャ・カスバート)が、誘拐監禁され、ひどい仕打ちを受けるという、最近ありがちなシチュエーションスリラーというやつかと思いきや、隣に、もうひとり監禁されている男がいて、という「おっ新展開か」と思いきや、オチばればれの残念な展開で、がっかり、といった内容です。 前半、酸のシャワーを生きたまま顔に浴びせられて殺される女性の映像を見せられたり、人間の目玉や耳、内臓などを血でシェイクしたジュースを、漏斗をくわえさせられて無理やり飲まされたり、その筋の方が喜びそうな、えげつない映像が続き、なかなかやるなあと思いましたが、そこまででした。 監禁部屋と隣の部屋との境目がなんと透明ガラスに塗料を塗ったもので、塗料の剥がれたところから光が漏れ、隣に、もうひとり監禁されていることがわかります。それがなんと、イチロー似の若いイケメン、聞くところによると、3日前からいるといいます。ガラス1枚隔たれているだけで、会話もできるほどなのに、今までまったく気がつかなかったという、思いっきり怪しい登場ですが、彼女は、100%信じてしまいます。監禁状態で、追い詰められているから、という考え方もできますが、彼女は五体満足で、拘束もされていません。彼女がダイコンなのもありますが、全く追い詰められた感じではないのです。 ぼくも、このゲリーという男、ご覧になった多くの方が気づいたように、登場した瞬間に、「あ、こいつ犯人だ。」と思ってしまいました。まだ、映画の中ほどのことです。 その後、彼女が箱に入れられ、砂を流しこまれるという責めを受けているとき、もう少しでスペースがなくなるというグッドタイミングで、彼が天井を破って登場します。あれ、監禁させられてたんじゃないのと思っていると、2人で逃げ出し、ガレージで車に乗り込み、扉をぶち破って走り出したとたん、もうひとつ部屋があって、止まらされ、ガスを流しこまれて、逃亡は失敗です。 そして、彼女は、再びベッドに縛り付けられて、愛犬を目の前で爆死させられ、その血を浴びさせたりします。彼が罰を受けたのかはわかりません。ここは、彼女をより怖がらせるために彼が責められるところを見せておくべきでしょう。 次は、2人並べて、ベッドに縛り付けられます。ここで、フードをかぶった犯人登場です。あれ、ゲリーは犯人じゃないのかと、思わせたいんでしょうが、僕は、ああ、もうひとりいるんだと思っただけでした。この時、ゲリーは初めて責められ、奥歯を無理やり抜かれたりするわけですが、流れる血の量が異様に多い、責めが非常に手ぬるいなど、不信感は思いっきり残ったままです。 その後、あろうことか、2人一緒に、ひとつの部屋に戻すではありませんか。なんやそれ、って思っていると、またまた、あろうことか、2人はHを始めるではありませんか。そうか、そういうことか、彼女への責めが、どうも精神的なものばかりだと思っていたら、やりたかったんだ、きれいな体のまま。同じ監禁されている身として登場したのも、そういうことだったんだ、と納得しました。 そして、なんとこの後、早くも種明かしです。もう、観ているみんなにばれているので、開き直ったのか、と思うほど、あっさりと種明かししてくれます。 Hの後、眠っている彼女を残し、ひとりで自ら鍵をあけ、部屋から出て行くゲリー。この時、ベッドを後ろにして、彼の顔がアップになるところがあるのですが、全然だめです。猟奇的犯罪の犯人が分かる大事な場面です。ここは、彼のいっちゃてる顔をアップにすべきでしょう。彼の顔は真剣な冷たい顔をしていますが、猟奇的嗜好を持った、常軌を逸した、いわゆる”いってしまった顔”ではありません。きっと、彼の演技力ではできなかったのでしょう。残念です。 ゲリーが上の階に上がっていくと、大男がいました。彼はゲリーの兄ベン。2人の共謀の犯行でした。2人は、これまでにも犯行を繰り返していたようで、しかも、ただの兄弟ではなく、怪しい関係のようです。 しかし、ゲリーは、早く女を殺せ、と言われ、ベンをナイフで刺してしまいます。ゲリーはジェイミーに惚れてしまっていました。しかし、「この後どうするつもりだ、ゲリー。」と思っていると、その時、あまりにも唐突に現れる、ジェイミーを捜索する2人の刑事も殺してしまいます。ますます「どうするつもりだ、ゲリー、お前ちゃんと考えて行動しているんだろうなあ。」と思っていると、なんと彼は、ジェイミーを助け出し、地下の監禁部屋から、上へ連れてきます。一応、死んでいる2人の刑事が犯人と思うように、2人の犯人を殺したと言ってはいますが、やはり彼は、ちゃんと考えていませんでした。 そして、あろうことか、リビングに彼女をひとり残し、逃げ出した後、自分が犯人とは分からないように、証拠になるものを始末しに行ってしまいます。地下室でごそごそしている姿はTVに映っていますし、今までの犯行(彼らの思い出)アルバムは目につくところに残したままです。そのおかげで、ジェイミーは気付いてしまいます。この後、ちょっとハラハラさせる2人の対決がありますが、ゲリーは結局、ジェイミーに殺されてしまいます。 やっぱり、ゲリーは何も考えていませんでした。今まで、冷静に犯行を繰り返して、うまくやってきたのに、ひとりのきれいな姉ちゃんに惚れてしまったおかげで、何もかもぶち壊しです。どうやら、猟奇的な嗜好で犯行をリードしてきたのは、兄ちゃんのベンの方のようです。いったい彼は、この後どうするつもりだったんでしょうか、うまくジェイミーに正体がばれなかったとして、2人で逃げたとしても、こんな一時の感情で生まれた恋愛関係なんて、直に破たんすることは、目に見えています。でも、ゲリーは家を捨てて逃げてきてしまったわけですから、帰るわけにはいきません。結局、彼女に捨てられた後は、別のところで、また似た様な犯行を繰り返すのでしょう、今度は、今までリードしてくれた兄ちゃんはいないのですが。 事件の解決した後、ジェイミーが連続殺人犯になってしまう後日談が、最後に挿入されています。そのターゲットは、性犯罪を疑われたが、証拠不十分などの理由で罪に問われなかった男、つまり、いわゆる女の敵、と言われる男たちのようです。 しかし、彼女、今回の事件で、そんな猟奇的犯行を続けるほど、追い詰められていたのでしょうか。確かに、それとは知らず、犯人とHをしてしまっていますが、そのやり方は、いたってノーマルなものです。やはり、猟奇的な犯罪を行う人というのは、いわゆる、”いってしまっている人”です。そこまで、追い詰められていたようには、見えませんでしたが。それとも彼女の演技力の問題ですか。 脚本もいまいちで、演出もいまいちで、中心の2人の演技力もいまいちで、できあがったものが、残酷描写がいまいちで、謎説きもいまいちで、Hな描写もいまいち(もっと見せろよ、せっかくきれいな姉ちゃんの主演なんだから)で、何もかも中途半端な映画でした。 もっと、「羊たちの沈黙」とか、「セブン」とか、「シャイニング」とか観て勉強してください。 ところで、主演のきれいな姉ちゃん、ジャック・バウアーの娘だって、ちっとも知りませんでした。
2011.10.09
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「アウェイク」 Awake 2007年 アメリカ映画監督 ジョビー・ハロルド出演 ヘイデン・クリステンセン ジェシカ・アルバ テレンス・ハワード レナ・オリン CATVで放映していました。以前、ちらっと解説を聞いて、気になっていた映画です。 亡き父から大会社を継いだクレイトン(ヘイデン・クリステンセン)は、秘書サム(ジェシカ・アルバ)との身分違いの恋を、母リリス(レナ・オリン)に打ち明けられず、サムからは結婚を懇願されるという板挟みの状態でした。その上、すぐにも移植手術が必要な心臓疾患を抱えていました。 友人の心臓専門医ジャック(テレンス・ハワード)は、クレイトンの珍しい血液型に適合するドナーを探すために奔走していたのです。 ジャックを信頼しているクレイトンは、恋の悩みも打ち明けていました。クレイトンはジャックに背中を押され、母に2人のことを告白したが反対された夜、サムと2人だけで結婚式を挙げます。 奇しくもその夜、ドナーが見つかったとジャックから連絡が入ります。クレイトンがサムに付き添われ病院へ行くと、リリスが心臓医療の権威ナイヤー医師を連れて待っていました。医療ミス疑惑でいくつかの訴訟を抱えているジャックに、一人息子の手術を任せられないとリリスは訴えますが、クレイトンは強引にジャックの腕に委ねることにし、手術室へ運ばれていきます。 手術が始まり、全身麻酔が施され、クレイトンの感覚は鈍っていくが、なぜか意識だけは目覚めたままで、体は動かせないが、手術スタッフの会話が聞こえるままだったのです。 冒頭、“年間200万人が全身麻酔を受け、約3万人が術中覚醒という状態に陥る。”といった内容のテロップが流れ、この映画は始まります。 公開当時の宣伝でも、この“術中覚醒”を思いっきり前面に出して宣伝をしていた覚えがあります。 手術が始まり、クレイトンがこの“術中覚醒”の状態に陥ると、ジャックたち手術スタッフが、クレイトンの生死にかかわる、とんでもない会話を始めるのです。クレイトンはその会話を聞きたくなくても聞いてしまいます。彼らは、クレイトンにとっては大変不利益なことになってしまう、ある陰謀を考えていたのです。(もちろん、どんな陰謀なのかは、秘密にしておきますね。) この手術スタッフが企んでいた陰謀の会話を、患者本人が聞いてしまう、というところが、この映画のミソなのですが、クレイトンは意識はありますが、一応麻酔が効いているので、体は動かず何もできないんですね。誰かに知らせることも、自ら行動して阻止することもできないのです。 そこで、実はクレイトンとは違う人が、手術室の外から、この陰謀に気づき、行動し阻止します。ということで、陰謀は阻止され、クレイトンは無事生還し、悪い奴らは逮捕され、めでたしめでたしな結末になります。 はい、勘が鋭い人は気が付きましたね。 この映画のミソである“術中覚醒”で、手術中の会話を患者本人が聞いてしまう、というアイデアは、この陰謀を解決するために、まったく役に立っていないということです。つまり、この物語の本筋と、クレイトンの“術中覚醒”は、まったく無関係ということです。 映画の1番ミソであるアイデアが、物語の展開と全く関係ないという、あまりにも悲しい出来事に気づいた僕は、面白いアイデアに期待していたこともあり、非常にがっかりしたのはもちろんですが、面白いアイデアの無駄遣いに怒りさえ覚えてしまいました。 ということで、非常にがっかりした映画を今回は紹介しました。 ちなみに、この映画、この年の第28回ゴールデンラズベリー賞(略してラジー賞)に、ジェシカ・アルバが最低主演女優賞に、ジェシカとヘイデン・クリステンセンが最低スクリーンカップル賞にノミネートされています。しかし、この回、「I Know Who Killed Me」という日本未公開作が、8部門という当時の最多部門受賞記録を作っていたため、この映画は受賞していません。(参考までに、現在の最多記録は、第32回の「ジャックとジル」の全10部門受賞です。)
2013.05.20
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「ホーンテッドマンション」 The Haunted Mansion 2003年 アメリカ映画監督 ロブ・ミンコフ出演 エディ・マーフィ テレンス・スタンプ マーシャ・トマソン ディズニーランドの人気アトラクションの実写映画化ということで、話題になった映画です。でも、単純なホラーではなく、主演がエディ・マーフィということでもわかる通り、ホラー風コメディ映画です。(まあ、アトラクションの「ホーンテッドマンション」も、あんまり怖くないしね。) ジム・エヴァース(エディ・マーフィ)は妻のサラ(マーシャ・トマソン)と不動産業を営んでいました。 ある日、サラの元にエドワード・グレイシー邸の執事ラムズリー(テレンス・スタンプ)から突然「屋敷を売りたい」という電話が入ります。しかし、指定された当日は湖に家族旅行に出かける予定だったのです。 旅行を優先させたいサラの反対を押し切り、ジムは旅行のついでにその屋敷へ向かうことにします。クモ嫌いで臆病者の息子・マイケルと強気な性格の娘・メーガンも連れて、すぐに済むからという約束で、湖に向かう前にグレイシー邸に立ち寄ります。 ジムたちは、旅行に向かおうと屋敷を早々に屋敷を後にしようとしますが、突然の大雨で足止めを食らってしまい、屋敷で一夜を過ごすことになってしまうのです。 で、はっきり言って、面白くなかったです。 ホラー映画としても、コメディ映画としても、恋愛映画としても、ファミリー映画としても、すべて中途半端な感じがして、面白くなかったです。 ジムが仕事ばかり優先して、家族を顧みない仕事人間だったのが、今回の騒動を通して家族の大切さを見直し、家族の絆を取り戻すという感動(するはずだった)の展開や、グレイシーが婚約者のエリザベスを失って悲しんでいた心が癒される恋愛映画(的)な展開は、はっきり言って、いらなかったなあと思います。 もっとホラー・コメディに徹底して、エヴァース一家の4人が、いろいろな趣向で襲ってくる999体の幽霊(アトラクションはそういう設定だったはずです。)に、いちいち脅かされながら、命からがら屋敷から脱出してくる様子を面白おかしく描く、という単純な作りでよかったのではないでしょうか。 旅行のついでに屋敷を見に行くのを非常に嫌がっていたサラですが、初めに話を受けたのはあんたでしょう、とか、あの水晶玉の魔女のような人は誰?とか、カギを持って棺に入っていたのは誰?とか、どうしてあんな離れた(というか庭広すぎ!!)小屋の地下に眠っていたの?とか、外に締め出されたジム、あきらめモードの時、頑張ったと主張してたけど、はっきり言って全然頑張ってないじゃん、とか、突っ込みどころもけっこうありますし、あの最後の悪い奴のやられ方もなんかすごいおかしいよね。(誰が悪い奴で、どのようにやられたのかは、一応秘密にしておきましょう。) ということで、やっぱり最近のエディ・マーフィは面白くないということを、再認識した映画でした。まあ、屋敷の雰囲気とか、執事のラムズリーの不気味さは、とっても良かったけどね。(エディ・マーフィは、コメディはそろそろ見切りをつけて、思い切って、「ドリームガールズ」で見せたようなシリアスな演技をもっと追究してみたらどうでしょう。) ところで、ラムズリー役のテレンス・スタンプ、ずいぶん昔、「スーパーマン」(クリストファー・リーヴ版)の悪役で、すごい存在感を出していたのですが、今回も不気味さ満点の執事で、存在感抜群でしたね。さすがです。 あと、「パイレーツ・オブ・カリビアン 呪われた海賊たち」と、この映画が、同じ年に公開されたということで、同じくディズニーの実写映画、「穴」(以前紹介しました。)が、傑作にもかかわらず、日本公開を見送られたことを思うと、この映画の出来が良くないのは、非常に口惜しいです。 業務連絡です。CPがぶっ壊れました。HDがおかしいようです。修理のため、しばらく更新できませんので、ご了承ください。
2013.05.03
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「ディア・ハンター」 The Deer Hunter 1978年 アメリカ映画監督 マイケル・チミノ出演 ロバート・デ・ニーロ クリストファー・ウォーケン ジョン・サヴェージ メリル・ストリープ アメリカの片田舎で、青春を謳歌していた若者たちが、ベトナム戦争で傷ついていく様を描いた、米アカデミー作品賞受賞の、名作です。 確か、僕がまだ十代のころ観て、怖くて、夜中にふと思い出して、震えていた思い出があります。何が怖かったって、クリストファー・ウォーケンの目が怖かったんです。今でも時々思い出してしまいます。はっきり言って、トラウマです。 アメリカ・ペンシルバニア州のロシア系移民の町クレイトンの製鉄所で働く若者たちの物語です。 マイケル(ロバート・デ・ニーロ)・ニック(クリストファー・ウォーケン)・スティーブン(ジョン・サヴェージ)のベトナムへの壮行会と、スティーブンとアンジェラの結婚式を兼ねたパーティの模様から始まります。 みんな羽目を外して騒ぐ中、ニックはリンダ(メリル・ストリープ)にプロポーズをします。そんな2人を見て、リンダに密かに思いを抱いていたマイケルは、その思いを心の奥底にしまいこみます。 翌日は朝から鹿狩りです。マイケル・ニック・スティーブン・スタン・アクセルの5人は、まだ雪の残る山へ出かけていきました。マイケルが見事なオス鹿を仕留めて帰ってきました。そんな中でニックは、マイケルに、「どんなことがあっても、連れて帰って来てくれ。」と頼むのでした。 ベトナムのジャングルの中の川の上のベトコンの小屋で、3人は再会します。捕虜として。その小屋では、捕虜たちにロシアンルーレットを強要してベトコンたちが楽しんでいました。 6連発の銃に1発だけ弾を入れ、向かい合わせに座った捕虜2人に、順番に自分の頭を打たせるのです。それを見たスティーブンはもう発狂寸前です。 マイケルとニックがやらされる番になり、マイケルは覚悟を決め、引き金を引きますが、ニックはなかなか引くことができません。ベトコンに怒鳴られ、マイケルに励まされ、死ぬ思いで、引き金を引くニック。次はマイケルの番ですが、彼は何を思ったか、ベトコンに弾を3発にするように提案します。弾が3発入った銃を渡されたマイケルは、自分の頭を打つふりをして、スキを見て、ベトコンたちを撃ち倒しました。 そんなマイケルの機転で脱出できた3人ですが、救出される中で、またバラバラになってしまいました。 2年後、マイケルはひとりでクレイトンに帰ってきました。2人の消息を聞いてみると、ニックは行方不明、スティーブンは帰還したが、どこにいるかわからないということでした。ベトナムで地獄を見たマイケルは、帰郷の喜びを素直に受け取れませんでした。スタン・アクセルと3人で鹿狩りにも出かけますが、大きな鹿を目の前にして、どうしても引き金を引くことができませんでした。 スティーブンが復員兵専門の病院にいるということを伝え聞いたマイケルは、彼のもとに向かいました。スティーブンは両足を失い、心も病んでいました。 何とかスティーブンを説得して連れ帰ることに成功したマイケルは、スティーブンの元にサイゴンから差出人不明の送金があることを聞き、ニックに違いないと思い、彼を探しに、再びベトナムへ向かいました。 この後、マイケルはニックと再会することに成功しますが、何があったのかは、はっきり言って、怖すぎて書くことができません。とにかく、悲劇的な結末に終わります。 この映画、ベトナム人について、あまりにも描き方が一方的で、ひどすぎるという批判がされています。確かに、捕虜を相手にロシアンルーレットで遊んでいるというのは、あまりにも現実的ではありませんし、実際にあったということは確認されていません。 しかし、あまりにも悲惨を極めた戦争で、実際、ベトナムで精神を病んで帰ってきた若者たちはたくさんいたようです。それに近いようなことはあったはずです。 とにかく監督は、ベトナム戦争により、人生を狂わされてしまった若者たちの悲惨さを描きたかったわけで、その内容は何でもよかったのです。 ニックもスティーブンも、そして無事に帰ってきたマイケルも、ベトナム戦争によって人生が大きく変わってしまいました。同じくベトナム帰還兵を描いている「ランボー」や「タクシードライバー」「7月4日に生まれて」と同様でしょう。 前半ののどかな田舎町クレイトンの描写や結婚式の様子、雄大な山の中で優雅に鹿狩りする様子など、戦争がテーマの作品にしては長すぎるという批判もありますが、彼らの普段の生活の様子がこうして描かれているからこそ、後半の悲劇がまた浮き立ってくるので、よりテーマがわかりやすいのではないでしょうか。よく考えられた作品だと思います。 この映画、主役のマイケル役のロバート・デ・ニーロや、リンダ役のメリル・ストリープもいいですが、やっぱり1番存在感あるのは、ニック役のクリストファー・ウォーケンです。 見た目はクールな感じのイケメンですが、実は気が弱く心優しい青年で、ベトコンの前ではロシアンルーレットを強要されて泣き叫んでいた男が、サイゴン陥落の直前の裏町で、異様な光を放つ狂気の目を見せるようになるまでを、見事に演じています。そう、十代の気の弱い少年のトラウマになるくらい。米アカデミー賞の助演男優賞受賞は当然です。 クリストファー・ウォーケンは、出演作はあまり選ばない方のようで、本当に多くの作品に、主に脇役として出演しています。(珍しく主演を張った、この映画と同じくマイケル・チミノ監督の「天国の門」は、歴史的な大コケをしていますが、彼のせいではありません。) 最近では、レオナルド・ディカプリオが有名な詐欺師の役をやり、トム・ハンクスの刑事と対決する「キャッチ・ミー・イフ・ユウ・キャン」で、主人公の、ちょっと変わった父親を好演し、再び米アカデミー助演男優賞にノミネートされています。(受賞はせず。) また、「007美しき獲物たち」では、初めて007シリーズの悪役を演じたアカデミー賞俳優となっています。 そんな若者たちの青春を奪ったベトナム戦争を批判する反戦映画として、題材はあまりにもショッキングですが、映画史に残る1本であることは間違いありません。少なくとも、ベトナムに全く関係のない日本人のトラウマになっているぐらいですから。
2012.03.12
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「ナショナルトレジャー/リンカーン暗殺者の日記」 National Treasure:Book of Secrets 2007年 アメリカ映画監督 ジョン・タートルトーブ出演 ニコラス・ケイジ ダイアン・クルーガー ジョン・ヴォイト ヘレン・ミレン エド・ハリス ハーヴェイ・カイテル ディズニーとブラッカイマーが手を組んだ、ニコラス・ケイジ主演の宝探し映画の第2弾です。今回の悪役は、僕が敬愛する演技派エド・ハリスです。 アメリカ南北戦争終結後のリンカーン暗殺にかかわる、ご先祖の話を講演していた歴史学者ベン・ゲイツ(ニコラス・ケイジ)のもとに、そのご先祖トーマス・ゲイツの名が書かれている、リンカーン暗殺犯ブースの日記の切れ端を自分は持っている、ゲイツはリンカーン暗殺犯の仲間ではないかと主張する男、ミッチ・ウィルキンソン(エド・ハリス)が現れます。 先祖の汚名を晴らすべく、ベンは立ち上がります。 手始めに、関係が微妙になってきている恋人のアビゲイル(ダイアン・クルーガー)と、友人の凄腕ハッカー・ライリー(ジャスティン・バーサ)とともに、ミッチが持って来た日記の切れ端を、解析していると、裏面に暗号らしき文字の羅列を発見します。 どうやら暗号解読には、五文字のキーワードが必要だと気付いたベンは、ご先祖のトーマスの遺言か何かないかと、父親のパトリック(ジョン・ヴォイト)に助言を求めます。すると、トーマスは、“誰もが払うべき代償”という言葉を残していたことがわかります。 キーワードは“DEATH”だとひらめいたベンは、暗号から、“ラブレ”“レディー”という言葉を導き出します。 “ラブレ”とは、アメリカの建国100年記念に自由の女神を贈ろうと発案した、フランスの法律学者エドゥアール・ラブレであることに気付いたベンは、“レディー”とはまさしく自由の女神のことであると見当をつけ、ライリーとともに、パリのリバティ島にある自由の女神像を調べに行きます。 パリの自由の女神像から、“レゾリュート”“双子”というキーワードを発見したベンは、イギリスのビクトリア妃時代の軍艦レゾリュート号の木材から作られた1対の机のことだとひらめきます。 レゾリュート・デスクの一体は、バッキンガム宮殿にあります。彼らはロンドンへ跳び、パトリックから話を聞いたアビゲイルも合流して、ライリーのハッカーの腕をフル活用して警備システムを混乱させ、見事バッキンガム宮殿へ忍び込むことに成功し、机のからくりの中から、古い象形文字が刻まれている木片を発見します。 ところがそこへ、ミッチの一味が現れます。ミッチは、パトリックの家へ忍び込み、パトリックの携帯のデータをコピーしており、ベンとパトリックの会話を盗聴し、情報を得ていたのです。 ベン一行とミッチ一味は、ロンドン市内でカーチェイスを繰り広げ、その途中、街中のオービスに木片を撮影させ、ライリーにスコットランドヤードのCPにハッキングさせ、写真をゲットしたことにより、木片の実物はミッチ一味に渡してしまい、その場を収束させました。 本国に戻ったベン一行は、木片の象形文字の解読のため、アメリカ先住民の研究家であり、パトリックの元妻(つまりベンの母親)エミリー・アップルトン博士(ヘレン・ミレン)の元へ、32年ぶりに元妻に会うことを渋るパトリックも伴い、向ったのでした。 即座に象形文字を解読したエミリーですが、この木片は半分しかないと言います。ということは、残りの半分は、もうひとつのレゾリューット・デスクの中に、ということで、その机のあるホワイトハウスの大統領執務室へ行かなければなりません。 アビゲイルに下心満載の大統領補佐官を色仕掛けでたぶらかし、執務室の机を調べるベンでしたが、目的の物はそこに無く、歴代大統領が引き継いで隠し持っているという、アメリカのあらゆる秘密が書かれた“大統領の秘密の本”(Book of Secrets)を示す紋章が押されているだけでした。 この映画の原題の副題が“Book of Secrets”(邦題の副題とはちがいます。)ということで、“Book of Secrets“が登場するまで、あらすじを書いてしまいました。でも、ご安心ください、ここまででまだ半分くらいですから。まだまだ見どころはたっぷりです。 ということで、前半は暗号に次ぐ暗号で、例によって、いや、前作にも増して、ベンが恐るべき速さで暗号を解き続け、極めつけは、大陸の先住民のアステカ文字(?)を、資料とかを全く見ずに、瞬時に読んでいく、なんとご都合よく登場する、古代言語学の教授、ベンの母親エミリーです。(なるほど、ベンのこの能力は、母親譲りであったか。) かくして、古代アメリカ先住民のお宝は、見事に発見されることとなるのです。 しかも、今回は、アメリカ合衆国のみならず、フランスのパリ、イギリスのロンドンにまで足を延ばし、あろうことか、ロンドンでは、迫力ある(?)カーチェイスまで披露しています。そして、トイレにこもって、ハッカーの力を思う存分発揮するライリーくん(もちろん、相変わらずの、お笑い担当ですが。)や、色仕掛けで大統領補佐官を引き付けるアビゲイルなど、ベンだけでなく、他の主要メンバーも見どころが用意されています。 しかし、なんで、あの日記の切れ端に名前があるとリンカーン暗殺犯の共犯になっちゃうのとか、なんでお宝を見つけるとご先祖の名誉が回復できるのとか、ロンドンの街であんなに傍若無人にいろいろとぶっこわして何もおとがめなかったのとか、思いっきりいやな奴然として初登場し、場合によっては手を汚すこともいとわないという感じだった悪役ミッチ・ウィルキンソン、なんで途中で性格変わっちゃうのとか、ベンの暗号の解き方って、ずいぶん確信をもって断定しているけど、他の解釈も十二分にできるんじゃないのとか、なんで大統領はあんなに物わかりがいいのとか、突っ込みどころが満載というか、非常に無理やり感が強くなってしまっている点が少し気になってしまいます。 また、今回の1番の見どころは、やっぱり初登場の、ベンの母親エミリーでしょうか。見た目は小っちゃくてかわいいおばあちゃんですが、思いっきり気が強く、怖い女を、存在感たっぷりにオスカー女優ヘレン・ミレンが演じてくれています。 しかし、あんなに気の強い女性、どうしてあののんきな父さんと一緒になったのでしょうか。そうか、やっぱりテキーラのせいなのね。(笑) このヘレン・ミレンという人、どんな女性を演じさせても常に目立ちまくって場の空気をすぐに自分のものにしてしまう、恐るべき方です。 前作に引き続き登場する、FBI捜査官セダスキー(ハーヴェイ・カイテル)、出番も少なく、いいところが全くなく、せっかくのベテラン・オスカー俳優が、もったいないなあと思ってしまいました。 でも、やっぱり勢いというか、テンポが非常によく、ついつい画面に引き込まれてしまい、あっという間の2時間余でした。まあ、細かいところは気にせずに、純粋に娯楽作品を楽しむ姿勢で臨むのがいいのかなと思います。
2012.12.15
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「ハリウッドランド」 Hollywoodland 2006年 アメリカ映画監督 アレン・コールター出演 エイドリアン・ブロディ ベン・アフレック ダイアン・レイン 「スーパーマン」と言えば、世界で1番有名なアメコミヒーローではないでしょうか。あの青いタイツに赤いパンツとブーツマント、そして胸には大きな「S」のマーク、「空を見ろ、鳥だ、飛行機だ、いや、スーパーマンだ!」というフレーズはあまりにも有名です。何度も何度もアニメやTVシリーズや映画になっています。 しかし、皆さんは、アメリカのショービズ界には“スーパーマンの呪い”という伝説があることをご存知でしょうか。 70年代から80年代にかけて「スーパーマン」4部作に主演したクリストファー・リーヴが、不幸な事故で首を骨折し、半身不随になり、不遇のまま亡くなったのは、有名ですが、その他、「スーパーマン」の映画・TVシリーズにかかわった監督・スタッフや俳優が様々な不幸にあっています。 その中でも最大のミステリーは、50年代に映画とTVシリーズでスーパーマンを演じたジョージ・リーヴスが、自宅でパーティ中に2階で自殺したという事件です。確かに、スーパーマンのイメージが強すぎて、他の役ができず悩んでいたという事実はあったようですが、現場の状況など、あまりにも不審な点が多く、ハリウッド最大のミステリーと言われている事件です。 その事件を探る探偵(架空)を主人公に、そのミステリーに挑んだ意欲作です。 1959年6月16日、人気テレビシリーズ「アドベンチャーズ・オブ・スーパーマン」の主演俳優であったジョージ・リーヴス(ベン・アフレック)がハリウッドの自宅で遺体で発見されます。彼の頭部には弾痕が残されており、ロサンゼルス市警は銃による自殺と断定し、捜査を打ち切っていました。 リーヴスの母ヘレンは愛する息子の死を“自殺”だと信じられず、私立探偵ルイス・シモ(エイドリアン・ブロディ)を雇って独自の調査を依頼します。妻とは別居状態で、最愛の息子とはほとんど会えず、仕事は小さな浮気調査だけという冴えない日々に嫌気のさしていたシモは、1日50ドルの“スーパーマン俳優の死亡調査”という派手な仕事が舞い込んだことに、大きなやりがいを感じていました。 シモはまずリーヴスの遺体が安置される場所に赴き、検死担当者を買収して遺体と遺品を確認します。身体に残された複数の打撲痕と、“あなたに夢中 T.M”と記された腕時計を発見します。 その腕時計にヒントがあると考えたシモは時計屋を調査し、その時計が大手映画会社MGMの重役エディ・マニックスの妻トニー(ダイアン・レイン)から贈られたものだということを調べあげます。リーヴスはパーティで知り合ったトニーと不倫関係となり、彼女を通じて、新しい家を手に入れ、新しい仕事として「アドベンチャーズ・オブ・スーパーマン」の主役の座を手に入れていたのでした。 しかし、驚異的な人気番組のスーパーヒーローに祭り上げられたリーヴスは、次第にフラストレーションやコンプレックスを感じるようになります。また、トニーとは別に婚約していた女性、レオノア・レモンとの関係も狂いはじめてしまったのです。 私立探偵ルイス・シモが事件を捜査する様子と、ジョージ・リーヴスがトニー・マニックスとの不倫をきっかけにスターになっていく様子が、交互に映し出されていきます。 シモは、妻と最愛の息子とは別居状態にあり、探偵事務所を兼ねたアパートで若い彼女と暮らしています。仕事はほとんどなく、この元いた大手の探偵事務所から無理やり回してもらった、大スターの事件の調査を起死回生のチャンスと思っています。マスコミを巧みに利用し、警察や元の大手探偵事務所などからの嫌がらせにも負けず、真実を求め、捜査を進めていきます。 その表情は、常に悲哀に満ちており、ブロディお得意(?)の、への字眉毛です。よく考えたら、「戦場のピアニスト」「ジャケット」「プレデターズ」など、彼の主演作はよく観ていますが、いつもいつも彼はへの字眉毛をしているような気がします。悲哀がよく似合う俳優さんです。 リーヴスは、多少自信過剰気味ですが、野心にあふれ、利用するものは何でも利用して、スターになろうとしています。トニーとの最初の出会いこそ偶然ですが、彼女を利用して、スーパーマンの役を手に入れ、スターの座に就くことに成功します。 しかし、あまりにもスーパーマンとして有名になり過ぎたため、常にそのイメージが付きまとい、他の仕事をすることができません。 不倫関係にあるトニーと若い婚約者レオノアとの狭間にいたこともあり、彼は非常に悩んでいたようです。 そんな悩める男を、ベン・アフレックが好演しています。彼はこの演技で、ヴェネツィア国際映画祭男優賞を受賞し、ゴールデングローブ賞にノミネートされました。確かに、「アルマゲドン」などと比べるとはるかにいい演技を見せていますが、賞をもらうほどかなあ、とちょっと疑問に思ってしまいました。 不倫である自分の立場を差し置いて、若い婚約者との関係を攻めるトニー、感情の起伏が激しく情熱的な婚約者レオノア、大手映画会社MGMの重役でありながら、常に苦労うわさが付きまとう、トニーの夫エディ・マニックス、など、疑わしい人物は目白押しですし、階下でレオノアたちが騒いでいる中、2階の寝室での死、ベッドに倒れた死体の下から発見された薬莢、自分を撃った後投げたのかと思われるほど死体から離れていた凶器の拳銃、床に開いた謎の2つの弾痕、などなど謎がたくさんあるのに、早々と自殺と断定し捜査を打ち切った警察の言動も不自然です。 非常に謎が多く、興味をひかれる事件だけに、正直結末には満足していません。(どんな結末かはネタばれになってしまうので、書かないでおきます。)しかし、実在の事件で、実際も自殺で処理されているし、関係者が多く存命していることもあり、フィクションとはいえ、この結末は仕方のないところかもしれません。 でも、脚本など、非常によく考えてあり、なかなか楽しめる物語になっていることは間違いありません。ミステリーが好きな人も楽しめるのではないでしょうか。 最近、「スーパーマン・リターンズ」という映画が作られましたが、名だたる大物俳優たちが、前述の“スーパーマンの呪い”のためか、出演を断り、無名の若い俳優が演じたようですが、彼の身に何も起こらないことを、ただひたすら祈っています。
2012.09.09
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「カーテンコール」 2005年 日本映画監督 佐々部清出演 伊藤歩 藤井隆 鶴田真由 奥貫薫 井上尭之 夏八木勲 またまた、レンタルビデオ屋で、見つけてしまいました。 日本映画のほのぼのとした小品を楽しみたいと思い、レンタルビデオ屋で探していました。出演者の中に、藤井隆という名を見つけ、そして、映画館の幕間芸人の映画と書いてあるので、ちょっとしたコメディかと思い、借りてみたわけです。 ところが意外や意外、思わずウルウルしてしまう、感動作でした。 雑誌編集のアルバイト、橋本香織(伊藤歩)は、スクープ写真を撮った女優が自殺未遂を起こしたことにより、職を失い、編集長の好意で、出身地下関に近い福岡のタウン誌の編集の職を得ます。 香織は、読者の投稿により、下関の古い映画館にかつていたという幕間芸人の取材に出かけます。 昭和33年からこの映画館に勤めるもぎりのおばさん、宮部さんによると、その安川修平(藤井隆)という人は、最初は雑用などをする従業員として勤めていたが、幕間に騒ぐ観客をなだめるために、成り行きで舞台に上がったことから、歌や物まねで客を楽しませるようになっていったということでした。 やがて修平はファンだった女性、良江(奥貫薫)と結婚し、ひとり娘をもうけたということですが、高度成長期で国民の生活が豊かになり、TVなど、娯楽が多様化し、映画界の斜陽からくる経営不振のため、リストラされ、今はどこにいるか分からないということでした。 どうしても修平本人を取材したい香織は、長らくご無沙汰していた実家に泊まり、取材を続け、修平が在日朝鮮人であることを突き止め、そちらの関係からその娘、美里(鶴田真由)を見つけます。 美里の話によると、修平が映画館をクビになった後、間もなく母親は亡くなり、修平は市内のキャバレーなどで、芸をしていたが受けず、次第に仕事も少なくなり、美里が小学校6年生の時、「必ず迎えに来るから」と言い残し去って行き、それきり会っていないということでした。 美里は父を恨んでいるようでしたが、香織は親子が再会を果たすまでは、この取材を続けたいと思い始めます。 かつては、どんな地方都市にも、わが街の映画館というものがありました。その多くは個人経営で、家族と、数人の従業員で経営しているところがほとんどでした。 2本立ての上映が基本で、安い料金で、1回ごとの入れ替えもなく、観ようと思えば、何度でも観放題でした。だから、幕間に移動しない客も多く、幕間芸人と呼ばれる方々の仕事もあったのでしょう。 昭和30~40年代のことですから、僕が子どもの頃、親に連れられて、近くの地方都市の映画館で、「東宝チャンピオンまつり」(「ゴジラ」の映画を中心に短編のアニメなど数本を上映していました。)や「東映まんがまつり」(「長靴をはいた猫」などの東映動画を中心に同じく数本の短編アニメを上映していました。)などを観ていたころには、すでにいなくなっており、僕自身は、幕間芸人という方々は見たことはありません。 僕は、高校時代、そんな地方都市の小さな映画館では満足せず、休みになると、わざわざ名古屋(電車を乗り継ぎ、2時間ぐらいかかります。)の大きな映画館へ出かけて行き、大きなスクリーンで、単独上映(まだまだ2本立てが多かったのですが、洋画の大作などは1本で上映していました。)の洋画を見ることを楽しみにしていました。ちょうど「スターウォーズ」などのSF映画を中心に、洋画が幅を利かせるようになってきた時代です。このブログの第1回の記事で語っている、「2001年宇宙の旅」のリバイバル上映(すでにリバイバルでした。)を続けて2回観たのもその頃です。(1回ごとの入れ替えはもちろんなかった。) この映画で出てくるような、吉永小百合の青春映画や、高倉健のヤクザ映画、勝新の「座頭市」、「男はつらいよ」の初期作品など、日本映画が元気だったころ、つまり、人々の娯楽が映画ぐらいしかなく、この映画に出てくるような地方都市の小さな映画館が元気だったころのことは、実は僕は知らないのです。(だから、僕自身洋画の方が馴染み深く、このブログの記事が洋画、しかもハリウッド映画に偏っています。) だから、幕間芸人という存在を、僕は知りませんでした。日本の映画業界が斜陽化していったこの時代、日本全国でこの映画で描かれているような状況に置かれた幕間芸人がたくさんいたことは想像できます。 特に、この映画の修平は、実は素人で、成り行きで芸人を始めたという存在ですから、その後、芸人を続けようとしても難しかったのでしょう。 しかも、修平は在日ということもあり、まだまだ偏見が根深く残る中、他の就職も難しかったのでしょう。決して人種差別を肯定するわけではないですが、というかむしろ憤りを感じてはいますが、そういう偏見があるのが現状でした。 斜陽化する映画界、理不尽な偏見による人種差別、修平は打ちのめされ、そして離れ離れになる親子、そんな時代にほんろうされ、負けてしまった親子を、香織は何とか再会させてあげたかったのです。それは、自分のわがままからうまくいっていなかった、父親(夏八木勲)との関係を修復することにもなっていきます。 そんな2組の親子のドラマに思わず、目がうるんできてしまいました。こんなに泣ける話とは思っていなかったこともあり、はっきり言って油断していました。でもだからこそ、純粋にドラマに感動していました。 ところで、藤井隆という人、僕が最初にTVで観たのは、吉本新喜劇で、オカマっぽいキャラで変な歌と踊りで笑いをとる芸人でした。そして、東京へ進出してもやはり、変な言動で笑いをとる芸人でした。いつの間に、こんないい演技をする役者になったのでしょう。とりわけ、舞台の上で、素人っぽくギター片手に芸をする姿、映画館のロビーのソファーで親子3人仲むつまじくお弁当を食べる姿が、いい味わいを出していました。それから、意外と歌が上手だったんですね。特に「いつでも夢を」の歌声が、心に残っています。 また、現代の安川修平を演じていた井上尭之さんも、いい味を出していましたね。 思いがけず、いい話に出会い、ちょっと幸せでした。そんなお話です。
2012.06.17
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「エイリアン4」 Airen:Resurrection 1997年 アメリカ映画監督 ジャン=ピエール・ジュネ出演 シガニー・ウィーバー ウィノナ・ライダー ロン・パールマン では、お待ちかねの「4」です。 前作の「3」の最後で、「1」から一貫してエイリアンと戦い続けてきた、エレン・リプリー(シガニー・ウィーバー)は、お腹の中の幼生エイリアンとともに溶鉱炉に自ら飛び込んで、命を落としました。人気シリーズもこれで終わりかと思っていたら、なんと「4」を作るというではありませんか、しかも公開当時のTVCMなどでは、しっかりとシガニー・ウィーバーが出ているではありませんか。 本人のわけはないから、クローンか、子孫か、と気になっていました。これはいっぺん観てみなければ、と思っていたのですが、なかなか機会ができず、やっと今回観ることができました。 前作、フューリー宇宙刑務所で、リプリーが、エイリアン・クイーンを体内に宿したまま溶鉱炉に身を投じてから200年後、彼女は軍の実験宇宙船「オーリガ」で、フューリーに残されていた血液から科学者らの手によりクローンとして再生されます。 その目的は、リプリーの体内に残されたエイリアン・クイーンの摘出で、エイリアンを繁殖させ軍事兵器として利用する事でした。リプリーの存在はあくまで副産物だったが、クローン化の過程で彼女の遺伝子はエイリアンの遺伝子と融合しており、科学者らにとって興味深い実験材料だったのです。 そんな人間たちの意図を嘲笑うかの様に復活した無数のエイリアンは巧妙な手口で逃亡し、研究者や軍人たちを虐殺していきます。 リプリーは本能的にエイリアンを「敵」と見なし、それとは知らず、エイリアンを植えつける苗床である生きた人間を冷凍状態のまま拉致し、輸送してきた宇宙貨物船「ベティ」のクルーと共に、オーリガ脱出を試みるのです。 リプリーは、クローンでよみがえっていました。「あれっ、リプリーの体ってどこかに残ってったっけ?」と思いましたが、劇中で、「血液が残っていた」と言っていたので、そういえば、囚人惑星で拾われてすぐ、医者に血液を採取されていたかも、と思いだし、納得しました。だから、それはいいんです。今までのお約束として、“エイリアン”を倒すのは、リプリーでなければならない、とスタッフが考えているのはわかりますので、とにかく「4」を作るんだったら、無理やりにでも、リプリーを復活(Resurrection)させなければならないというのは、理解できます。 しかし、その後がいけません、そのリプリー復活の理由が。 それは、軍用として利用するため、“エイリアン”を復活させるため。 ここで、僕は「あれっ?」と思いました。「なんでリプリーの血液からクローンをつくると、“エイリアン”もクローンされるの?」という疑問です。確かに「3」の冒頭、リプリーは“エイリアン”に寄生されました。「3」の劇中、ずーっと“エイリアン”をお腹に抱えながら、彼女は戦っていました。 だからといって、リプリーのクローンができると、そのお腹の中にはちゃんと“エイリアン”も宿っているって何???? “エイリアン”が宿ると、その“繭”となった生物は、DNAから変化するという、いかにも思いっきり後付けとなる、非常に都合のいい設定って、何???? そんなことを序盤で思ってしまったので、この映画観るのが非常に苦痛でした。 しかも、その後、非常にグロテスクな、クローン・リプリーの失敗作(実は登場するリプリーは8号でして、その前に7体の失敗作があり、その人の形をしていないクローン失敗作が、研究船の一室に研究のため保存してあるのが、物語の終盤登場するのです。)は出てくるは、ということで、非常に嫌悪感を持ってしまいました。 だから、ベティの新米クルー、コール(ウィノナ・ライダー)が非常にかわいかろうが、同じくベティのクルー、不細工だけど非常に強いジョーナー(ロン・パールマン、「ヘル・ボーイ」の中の人)が、勇ましくてかっこよかろうが、“エイリアン”がなかなか賢いところを見せようが、“エイリアン”が水中を泳ぐ姿が見れようが、リプリーがいつにも増して勇ましかろうが、全く楽しめませんでした。 リプリーから生まれた、新エイリアン・クイーンが、卵をたくさん産んでいたのに、最後になっていきなり、リプリーのDNAの影響で胎生に変化するとか、そこから生まれてきた人類と“エイリアン”のハーフのようなやつがすごいグロテスクだとか、相変わらず舞台となる研究船の構造がよくわからないとか、突っ込みどころは、やっぱり満載なのですが、1番根本的なところで、疑問を持ってしまったので、どうでもいいと思ってしまいました。 ということで、いくらSFで、何でも有りだとはいっても、生物としての一線を、思いきっりご都合主義の後付け設定で、超えてはいけないのではないのでしょうか。と思ってしまった作品でした。
2012.12.02
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「博士の異常な愛情、または私は如何にして心配するのを止めて水爆を”愛する”ようになったか」Dr.Strangelove Or:How I Learned To Stop Worrying And Love The Bomb 1964年 アメリカ・イギリス映画監督 スタンリー・キューブリック出演 ピーター・セラーズ ジョージ・C・スコット コメディです。とびっきりブラックなコメディです。ブラックすぎて怖くなるくらいのブラックコメディです。キューブリック監督が「2001年宇宙の旅」の前に撮った作品です。 冒頭、「この映画に描かれているような事故は絶対に起こりえないと合衆国空軍は保証する」という字幕が流れます。 アメリカ戦略空軍基地のリッパー将軍は、配下の飛行部隊にR作戦実施の命令を出します。それはただちに、50メガトンの核を搭載して、ペルシャ湾から北極海にかけて飛んでいる、戦略爆撃機B52の全34機に伝えられます。また、基地の全員に、この基地に近づくものは、たとえわが軍の制服を着ていようが、敵だから、攻撃せよと命令を出します。そして、英国空軍から出向してきているマンドレイク大佐(ピーター・セラーズ1役め)を道づれに、指令室に立てこもります。 爆撃機の機長キング・コング少佐は、R作戦の内容を確認し、部下に通信装置にCRM装置を接続するように指示します。CRM装置は、敵からの通信妨害を防止するために、通信を全く受け付けなくする装置で、リッパー将軍の知っている暗号でしか解除することができないものです。攻撃目標はソ連国内のICBM基地です。 ペンタゴンでは、会議室に、マフリー大統領(ピーター・セラーズ2役め)や、タージドソン将軍(ジョージ・C・スコット)ら、合衆国首脳が集合しています。大統領の問いかけに、タージドソン将軍は、爆撃機を呼び戻すことがいかに不可能なことか説明します。大統領はリッパー将軍の基地へ攻撃するよう指示を出し、ソ連大使を呼び、ソ連首相に電話します。大統領は、状況を説明し、米軍機の撃墜をお願いしますが、ソ連首相から、「皆殺し装置」の存在を聞きます。それは、攻撃を受けると自動的に爆発し、世界中に死の灰を撒き散らし、放射能は93年消えないものだとソ連大使は説明します。 リッパー将軍の基地では戦闘が始まっています。マンドレイク大佐は、なんとか将軍から暗号を聞き出そうとするが、敗色濃厚になってきたことを知った将軍は、捕虜になることを恐れ、自殺してしまいます。 一方、コング少佐の爆撃機は、ミサイル攻撃され、一部破損しますが、何とか持ち直し、飛び続けています。通信装置は破損、燃料は漏れ、低空飛行を余儀なくされます。 リッパー将軍の机上のメモから、暗号を推測したマンドレイク大佐は、侵入してきた兵士に脅されながら、公衆電話で、大統領に連絡することができました。爆撃機は、撃墜された4機を除き、全機引き返すことに成功したと連絡を受け、歓声が挙がるペンタゴンですが、ソ連首相から連絡が入り、撃墜は3機で、まだ1機飛んでいるとのことでした。大統領は攻撃目標を知らせ、防御するように要請します。 残っている1機はコング少佐の機でした。燃料不足から、攻撃目標を変更していました。命令解除を知らないコング少佐らは、着々と爆撃準備を進めますが、爆弾投下口が故障で開きません。少佐が修理に向かいます。修理完了したちょうどその時、目標に到達し、馬乗りになったコング少佐ともども、爆弾を投下します。 ペンタゴンでは、兵器開発局長官で科学顧問で、元ナチスの科学者ストレンジラブ博士(ピーター・セラーズ3役め)が、国民を選抜し、選ばれた優秀な人々を地下に避難させ100年頑張ればいいと大統領らを説いています。 ラストシーンは、きのこ雲の連続映像です。 勢いに乗って、あらすじを最後まで書いてしまいましたが、これに、登場人物のおかしな言動が乗っかって、見事なブラックコメディが出来上がっています。とにかく、出てくる人々が、ことごとく変なのです。 まず、爆撃機の司令官ジャック・D・リッパー将軍。物語の元凶ですが、どうやら、共産主義を恐れるあまり、あらぬ妄想にとらわれています。共産主義者がアメリカに侵入してきており、水道水にフッ素化合物を混入させているというのです。なぜ、それに気づいたかというと、最愛の奥さんとの夜の営みの時、大事な物が役に立たなかったからそうです。(単なる年のせいだと思いますが)そして、基地の部下たちが降伏し、敗色濃厚になった時、捕虜になるのを恐れ、自殺してしまいます。 次に、タージドソン将軍、思いっきりタカ派で、反共、自軍の戦力に異常に自信を持っており、その無敵さを大統領に熱弁します。「皆殺し装置」のことを聞いた時には、そんな爆弾がほしかった、と思わずつぶやいています。この事件の連絡を受けたとき、下着姿の美人秘書と、まさしくベッドインするところで、会議中も、その愛人からの電話を受けています。 爆撃機の機長、キング・コング少佐、結構任務にまじめな兵士ですが、終始カウボーイハットをかぶっており、爆弾にまたがって、雄叫びをあげながら落ちていきます。 英国空軍から出向している、リッパー将軍の副官マンドレイク大佐、一見まじめな軍人ですが、銃を撃ったことがないそうで、片足は義足で、第2次大戦では、日本軍の捕虜になり、ラングーン鉄道の橋を作らされていたそうです。(このギャグが分かる人は昔からの映画ファンです。)実は、リッパー将軍の命令でR作戦の指令を出したのは、この人です。可哀そうに、作戦の内容は知らされていなかったんですね。 ソ連大使は、アメリカに異常に反感を持っており、ペンタゴンに入るときに、すでにひと悶着起こしており、何かと挑発的な発言を繰り返します。また、この期に及んで、すきを見ては、隠しカメラでペンタゴンの内部を写真に撮っています。 マフリー大統領は、一見、この中で1番しっかりしてまともそうですが、実は体面にこだわっており、何とか丸く収まらないかと考えている、ことなかれ主義者のようです。 そして、何といっても、兵器開発局長官で科学顧問で、元ナチスの科学者ストレンジラブ博士です。もう、見るからに変な人です。いろいろと体が不自由なようで、車いすでサングラスをかけています。右手も不自由なようで、常に左手で押さえてないと、上にあがってしまい、“ハイル、ヒトラー“の姿勢になってしまうようです。そして、その表情は、常にニヤけていて、爆弾の話をするときは、とてもうれしそうに、熱弁します。最後には、明らかにナチスばりの選民思想的発言で、長年の主張を発揮できてうれしそうです。つい興奮しすぎて、立ち上がり、歩き出すほどです。 この映画の公開当時、米ソは、全くの冷戦状態で、軍拡競争真っただ中でした。そんな状況を思いっきり皮肉った、痛快なブラックユーモアにあふれる怪作でした。何といっても、3役を怪演して、本領発揮したピ-ター・セラーズは、見事です。 この作品、米アカデミー賞で、作品・監督・主演男優(もちろんピーター・セラーズ)・脚色と4部門にノミネートされましたが、もちろん例の如く無視されています。
2011.10.04
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「ジュラシック・パーク3」 Jurassic Park 3 2001年 アメリカ映画製作総指揮 スティーヴン・スピルバーグ監督 ジョー・ジョンストン主演 サム・ニール さて、「3」です。 スピルバーグ監督は、今回は製作総指揮という立場に退き、「ミクロ・キッズ」「ジュマンジ」の監督、ジョー・ジョンストンがメガホンを取っています。 そのためか、「ミクロ・キッズ」や「ジュマンジ」のように、次から次へと危機が訪れ、ハラハラドキドキしっぱなしの、なかなかのジェットコースタームービーに出来上がっています。 環境保護とか、動物愛護とか、「1」「2」で訴えられていたテーマは身を潜め、どちらかというとアクション映画のような印象が残ります。 上映時間が94分と短めなこともあり、一気に最後まで楽しめてしまいます。そういう意味では、いい映画ということになるのでしょうが、僕は、いろいろと気になったところがあるので、述べさせていただきます。 まずは、今回新登場して、存在感を発揮しているスピノサウルスとプテラノドンについてです。 スピノサウルスは、ティラノサウルスに匹敵する大きさの大型獣脚類ですが、そのワニに似た平たい頭部の形状から、魚食に特化した恐竜ではないかと言われている恐竜です。 ところが、その体長の割には華奢な体つきのスピノサウルスに、最強の肉食恐竜ティラノサウルスとのバトルをさせ、しかも勝たせてしまうという、少しでも恐竜について知っているものにとって、あまりにもリアリティのない場面を見せられてしまったのです。 おそらくは、ティラノサウルスは「1」「2」で散々見せているので、新しく工夫したところを見せなければならないということで、それに代わる新しいスター恐竜を探していたところ、スタッフの誰かが、図鑑で、体長14~17mという体長だけならティラノサウルスに負けていないスピノサウルスを見つけ、目を輝かせたのではないでしょうか。 安直です。あまりにも安直です。 しかも、その後で、水中から攻撃してくるスピノサウルスという、その生態を意識した場面を作っていることから、スピノサウルスの生態に関する定説を理解していないわけではないのです。 これは、恐竜に詳しい者からの突っ込みは覚悟の上で、一般の方々をだませればいいや、という確信犯ではないでしょうか。 プテラノドンは、恐竜時代の最も後期に現れた、空を飛ぶために最も適応し、世界中の人が真っ先に思い浮かべるほど有名な、もっとも代表格の翼竜です。 誤解のないように書いておきますが、空を飛ぶために、前足の指を長く伸ばし、その間に皮膚の幕を張った翼を進化させ、中生代の空を支配した爬虫類は、翼竜と呼ばれ、恐竜と最も近縁な種でありながら、恐竜とは一線を画している存在です。だから、もっともなことを書きながらも、プテラノドンやランフォリンクスなどの翼竜を“空飛ぶ恐竜”などと称している文章などは、信用しない方がいいですよ。 翼開長7~8m(今のところ翼竜類の中ではケツァルコアトルスに次いで2番目の大きさです。)、体の大きさはほぼ人間と同じくらいですが、空を飛ぶための徹底した軽量化により、その体重は15~20kgと推定されています。 はい、ここで察しのいい人は気が付きましたね。 そうです。彼らは人間のような大きな生物を後ろ脚でぶら下げたまま、空を飛ぶなどということができるわけがないのです。ましてや、人間を餌として捕まえ、崖の上の自らの巣へ運び、雛たちに与えるという芸当ができるはずがないのです。一説には、翼竜の翼では、はばたいて上昇することは不可能で、高いところから滑空するのが精いっぱいであったとする学者もいるほどで、自分の体重の倍以上ある生物を抱えて、重力に逆らって上昇するなどということはどう考えても不可能です。 定説では、プテラノドンは、海の魚を主食にしていたと言われています。多くの野生動物がそうであるように、自らと同じぐらいの大きさの生物を食料として捕まえようとするわけがありません。縄張りを荒らされたとか、危険を感じてとかの理由で攻撃してくることはあるかもしれませんが。 これについては、多くの方々が気がついているようで、おかしいと指摘している意見がNETの中に多く見られます。 また、「1」で、“ジュラシック・パーク”が崩壊して以来、その研究施設も閉鎖されたはずで、ましてや「2」で、新社長が会社の経営難から“ジュラシック・パーク”の再建を画策したが、あまりにもアホな計画なため、そのために雇った多くの人々の命を失わせる結果となり、劇中では描かれてはいませんが、遺族への賠償などで、インジェン社どころか、その母体であるハモンド財団まで崩壊しているはずで、「1」の時以来、新しい恐竜は作られてはいないはずです。 それなのに、「1」や「2」に出てこなかった新種の恐竜が出てくるということはどういうことでしょうか。 スピノサウルス、コリトサウルス、アンキロサウルス、ケラトサウルスが、「1」「2」では姿はおろか、話にも出てこないのに、今回姿を見せている恐竜です。「2」で、インジェン社のアホな新社長が自らの軍団を連れてきて、大騒ぎしているときには、ジャングルの奥深くでおとなしくしていたのでしょうか。 ところで、多くの方が、NET上の感想や批評で言及している、ヴェロキラプトルのコミュニケーション能力と、化石から共鳴孔の形態を立体コピー(しかし、なぜ貧乏研究者の助手にすぎない彼が、あんな最新鋭の機械を持っていたのかは謎ですが。)して作ったヴェロキラプトルの声を出せる笛、非常に科学的興味をそそる描写で、「なかなかやるなあ。」、と思ってしまいました。 実際にあの笛を吹くことにより、恐竜と同じような声を出せるかどうか、という点には甚だ疑問を感じつつも、ヴェロキラプトルなど小型獣脚類が、群れで獲物を狩っており、そのためには、何らかのコミュニケーション能力を持っていたであろうことは、十二分に有り得ることで、非常に科学的です。 実際に、群れで獲物を狩る現存の生物、ライオンやオオカミなどは、お互いに鳴き声などでコミュニケーションを取っています。それらと同程度か、それ以上の知能を持っていたであろう小型獣脚類に、同じようなコミュニケーション能力があったことは十二分に考えられることなのです。 だから、僕は、この点については突っ込みをいれません、というか、グラント博士の学説を全面的に支持します。 それから、同じくNET上で多くの方々が言及している、サイドBで遭難した子ども、推定中学生のエリックが、多くの恐竜が闊歩する島で、2ヵ月間も生き延びていたのは有り得ないという意見に、思い切り反対したいと思います。 彼は子どもだからこそ、生き残ることができたと、僕は思っています。 その理由として、まず、体が小さいということが第1に考えられます。 6,500万年前、謎の大量絶滅によって恐竜がいなくなった後の新生代は、今まで恐竜が占めていたあらゆる地位に哺乳類が進化していきます。しかし、哺乳類は実は、恐竜の時代の前の三畳紀に一時期地球上を支配していた哺乳類型爬虫類から進化してきたというのが今は定説になっています。つまり、三畳紀後半からジュラ紀・白亜紀と続く恐竜時代、哺乳類はすでに地球上に存在していたのです。恐竜が地球を支配していた2億年近くの間、ネズミのような姿でほとんど進化することなく、夜のジャングルの地面をこそこそと活動しながら、その生命を細々とつないでいたのです。 だから、多くの恐竜たちに比べ、体が小さいということは、生き残る可能性が高くなるための必要条件なのです。 また、子どもは大人のように世の常識にとらわれない柔軟な考え方ができるということ、そして、エリックはグラント博士を一目見て、その正体に気がついたように、恐竜が大好きで、博士の本などをよく読んでおり、恐竜の生態などに非常に詳しかったということが、彼が生き残っていたおおきな要因のひとつです。 エリックは、どのようにして手に入れたかは疑問ですが、ティラノサウルスのおしっこを持っていました。そのおしっこを体につけ、ティラノサウルスのにおいをぷんぷんさせながら、ジャングルの中で活動していたのでしょう。それだけで、植物食恐竜や、小型の獣脚類は、寄って来ることをためらったはずです。 こういう世の常識にとらわれた大人なら思わずためらってしまうような行動を取れるエリックが、2ヵ月間生き残ってこれたことは全く不思議ではありません。 もちろん、インジェン社が残して行った食料が大量にあったという幸運もあったのですが、以上の理由で、エリックが生き残っていたことは全く不思議ではないと思っています。 というか、むしろ、あの非常に身勝手な両親のもとに、あんなに賢く、柔軟な考えができる聡明な子どもが育ってきたことは不思議に思っていますけど。 ということで、いろいろと疑問を感じつつも、次々とたたみかける危機のため、非常にハラハラドキドキして楽しめる、上質の娯楽作品を、今回は紹介しました。 あっ、誤解のないように書いておきますが、僕はこのシリーズ、いろいろと突っ込みを入れていますが、大好きです。3本とも、もう何度も何度も観ています。
2012.07.29
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「インタビュー・ウィズ・ヴァンパイア」Interview with the Vampire 1994年 アメリカ映画監督 ニール・ジョーダン出演 トム・クルーズ ブラッド・ピット キルスティン・ダンスト アン・ライスという女流作家の「夜明けのヴァンパイア」(原題は映画と同じ)という小説の映画化作品です。若かりしトム・クルーズとブラッド・ピットの美しき共演が話題になった映画です。お正月の深夜にTV放映をしていたので、録画しておき、やっと時間ができたので見ることができました。 サンフランシスコのとある建物の一室、野心的な若きライターのインタヴューにより、自らヴァンパイアと名乗る青年ルイ(ブラッド・ピット)の独白が始まります。 18世紀末、建国間もないアメリカのニューオリンズ、農場主のルイは、最愛の妻と娘を失い、自暴自棄になっていました。そこへひとりの男が現れます。 その男レスタト(トム・クルーズ)は永遠の命を持つヴァンパイアでした。 レスタトの手によりヴァンパイアとなったルイは、次々に欲望のままに人を襲い続けるレスタトとは対照的に、人としての良心が残っており、人を襲って生き血を吸うことをためらっていました。 ある日、ルイはペストの流行で親を失った美しい少女クローディア(キルスティン・ダンスト)に出会います。泣きじゃくる少女を抱きしめたルイは、のどの渇きに耐えられず、思わずのど元にかみついてしまいます。 その一部始終を陰で見ていたレスタトは、クローディアをヴァンパイアとして蘇生し、仲間とします。 子どもらしい貪欲さで、欲求のままに血を求め、クローディアはレスタトとともに人を襲い続けますが、ルイは今だ良心の呵責に悩まされ続けていました。 数十年後、不老不死の3人は同じ姿です。大人の女性にあこがれ、全く成長しない自分に不満を持つクローディアは、「私は大人になれないの?」「こんな姿にしたのは誰?」と怒りを爆発させます。「永遠の命を与えられて何が不満なの?」と言い返すレスタトに、クローディアの憎しみの矛先は向けられます。 原作はヴァンパイア・レスタトのシリーズの第1弾ということなので、主演はレスタト役のトム・クルーズですが、ルイの独白という形で物語が進んでいくので、実質的にはブラピが主演です。 トムは、「トップ・ガン」の大ヒットで、アイドル的な人気を獲得したわけですが、「レインマン」「7月4日に生まれて」などで、演技派としてのキャリアも積んできており、この映画でも、ダイエットでもしたのか、ほおがこけ、ヴァンパイアとしての怪しい美しさを放っており、熱演しています。 一方、ブラピは、まだまだ駆け出しで、「テルマ&ルイーズ」の好演で注目され始めたばかりなので、はっきり言って、抜擢の部類になります。自ら望んでヴァンパイアになったのだが、人間としての良心を捨てきれない、という難しい役どころだからなのでしょうか、いまひとつ演じきれていないという印象でした。まあ、美しかったですけどね。 そんな中、主役2人を完全に喰ってしまい、抜群の存在感を見せていたのは、クローディア役のキルスティン・ダンストです。 1982年生まれですので、この映画の公開時12歳、撮影時は10歳ぐらいでしょうか、親を亡くした悲しさから、ヴァンパイアとなって貪欲に血を求め次から次へと人を襲う様、大人になれずに感情を爆発する姿まで、はっきり言って、トムとブラピは彼女に対する対応にあたふたしているという印象で、自分のかわいさをしっかりと意識し、わがままいっぱいの永遠の少女を見事好演し、完全に主役でした。 彼女はこの後、「ジュマンジ」などに出演し、子役としてのキャリアを積み重ね、「スパイダーマン」のヒロインや「マリーアントワネット」(この映画と同じわがままぶりが見事でした。)の主演へと、確実にステップアップし、今や演技ができる若手女優へと見事に進化しています。 ですから、中盤の山、クローディアが、感情を爆発させて、レスタトを○○した(とりあえず秘密ね。)あとは、、何となく物語がトーンダウンした印象を持ってしまいました。 最後のクライマックスに持っていくために、ルイとクローディアの愛をもっと見せる描写があっても良かったかなと思っているのは、私だけでしょうか。 まあ、確かに、物語上は、少女の姿ですが実は何十年も生きているわけで、精神的にはしっかりと成熟しているというお話なのですが、実際には年端もいかない少女なのですから、あまりやばい場面は作れなかったのでしょう。 彼女の演技力があまりにも巧みなので、そのあやしい魅力に魅せられてしまいました。いかんいかん、犯罪をあおる発言でした、失言です。 ところで、この映画を見て、初めから気になってしまったことがあります。 それは、我が国の萩尾望都先生の「ポーの一族」という名作マンガに、物語の設定とテーマがあまりにも似ているということです。 「ポーの一族」は、1972年から1976年にかけて、断続的に「少女コミック」に発表された作品で、エドガーとアランという2人の少年のヴァンパネラ(ヴァンパイアと同じ意味です。フランス語かドイツ語読み?)と、エドガーの妹メリーベルの3人を中心にしたシリーズです。 男2人(青年と少年という違いはありますが。)と少女の吸血鬼を主人公とした作品で、永遠の命を持ち、何十年何百年と生きていく中で、生きるためには人間を襲わなければならないということ、年をとらないということに苦悩する姿を描いています。 もちろん、描かれているエピソードなどは全く違うので、盗作とかを疑っているわけではなく、つい、比べてしまうということが言いたいのです。 媒体が映画と漫画と違うので、一概に比べるのはいけないとは思いつつ、「ポーの一族」の方が心理描写がより深くなっており、主役が少年ということで、永遠の時を生きていく苦悩など、テーマがより明確に伝わってきているなあと、思ってしまいました。 ということで、映画の出来としては、いまいちの感が否めない映画ですが、トムとブラピの美しさは、十二分に堪能できる作品です。ただ、美しい男が見たいと思っている女性のみなさん、殺人や血の描写もたっぷりですので、ご注意を。
2012.04.08
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「インビジブル2」 Hollow Man 2 2000年 アメリカ映画製作総指揮 ポール・バーホーベン監督 クラウディオ・ファエ 先日紹介した透明人間映画「インビジブル」の5年後を描いた映画です。前作の監督ポール・バーホーベンが、製作総指揮に回り、アメリカ本国では、オリジナルビデオとして非常に低予算で作られたため、劇場未公開ですが、日本では、劇場公開されました。 前作、政府の極秘研究所という設定でしたが、本作では完全に米軍の新兵器の研究ということで、思いっきり軍が関与している様子です。透明人間になるのは特殊な訓練を受けている兵士で、完全に人間兵器のプロトタイプとして研究されているのです。 ところが、5年前の研究所が、前作の最後に描写されているように、完全に破壊されてしまったからでしょうか、低予算での製作ということで前作の生き残りの2人に出演を断られたためなのか、5年前の研究成果が生かされていないようで、透明になる薬が不完全で、透明になった後、徐々に体がむしばまれていき、姿が見えるようになるだけでなく、全身の組織が徐々に死んで行き、やがて死に至るようなのです。 この映画で登場する透明人間は、プロトタイプの3人目で、前任の2名は既にダメになっていました。(1人目はすぐに死亡し、2人目は失敗して生きたまま捨てられていました。)その3人目の被験者グリフィンは、かなり優秀な兵士(つまり優秀な殺人者)だったようで、上官の命令により、透明人間研究に反対する勢力の人物を次々に殺害し、殺人がくせになってしまったのか、犯人の目星がつかない捜査陣をかく乱するためなのか、無差別的に一般人もかなり殺している様子でした。 そして、グリフィンは、自分の体が徐々に薬にむしばまれていることに気付き、自身の透明化を維持するためにか、透明化薬を持ち出し、その毒性を緩和する薬“解毒剤”を求めて、軍を脱走し、その研究者を襲ってきたのです。 その“解毒剤”を作ることができる、元研究者の美女マギー・ダルトン博士と、成り行きとはいえ下心アリアリで、軍や上司の命令に逆らい、彼女を助ける刑事フランク・ターナーが、透明な暗殺者グリフィンと戦う物語です。 以上が、物語が進んでいく中で、徐々に明らかになってくる物語の基本設定です。これだけ聞いていると、とても面白い物語のようですが、はっきり言って、実はそうではありません。 前作のように、透明化していく過程をCGを駆使して見事に描いていくとか、有名どころの俳優を出演させるとかは、低予算のためどうしようもないので、求めてはいけないので、つっこみませんが、目に見えない殺人者の恐怖を描くところが、非常に中途半端に感じて、正直、楽しめませんでした。 脚本がダメなのか、演出がダメなのか、カメラワークがダメなのか、編集がダメなのか、それともそのすべてがダメなのか、透明人間が、いるのか、いないのか、ドキドキするところが、もっとあってもよかったのではないでしょうか、その辺、アメリカ映画で考えると、全く考えられない低予算で、非常にドキドキする怖い映画を作る、ジャパニーズ・ホラーなどを見て、もっと勉強してほしいなと思いました。 また、脱走した透明人間を追う軍隊が、あまりにもアホなので興ざめでした。 前作、姿が見えない透明人間の居場所を確かめるために、赤外線を感知するメガネを使ったり、水や塗料、粉などを浴びせるという技があったと思うのですが、なぜ、マギーをおとりにして、グリフィンを誘い出した軍隊は、そういう技を使わなかったのでしょうか。 しかも、グリフィンは、特殊な訓練を受けている兵士で、その動きは尋常ではありません。案の定、まんまと逃げられ、はっきり言って、アホです。 まあ、結構序盤のそのシーンで捕まってしまっては、話が続かないので、逃げられて当たり前なのですが、そういう透明人間の姿を見るための技を駆使した上で、とらえることができず逃げられたとした方が、グリフィンの能力が尋常ではないことがよくわかり、そのあとの恐怖も倍増するとか、考えなかったのでしょうか。 この映画を見る人は、前作を見ている人がほとんどであることを考えると、前作で駆使されている技は、出てきて当たり前であり、観客は、それを踏まえた上で、新しい技を期待する、という当たり前のことが分からないのでしょうか。 ということで、前作よりも劣化しているであろうことは当然予想された続編ですが、スタッフの低予算でも工夫して面白いものを作ってやるぞ、という気概が全く見られなくて、あまりにも劣化がひどく、がっかりした映画を紹介させていただきました。
2012.03.24
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「グレムリン」 Gremlins 1984年 アメリカ映画製作総指揮 スティーヴン・スピルバーグ監督 ジョー・ダンテ 脚本 クリス・コロンバス出演 ザック・ギャリバン フィービー・ケイツ メリークリスマス!! クリスマスイヴの今日にふさわしい、クリスマス映画を今日は紹介します。 もう30年近く前の映画ですが、当時映画は大ヒットで、主役(?)のギズモのかわいさなどが非常に話題になり、一大ブームになった映画ですが、最近ではすっかり忘れ去られています。 製作総指揮はスピルバーグ、監督はSFやホラーを得意としているジョー・ダンテ、脚本は後に「ハリポタ」や「ホームアローン」などファミリー向け映画を監督し、ヒットさせているクリス・コロンバスです。2人とも、スピルバーグの弟子のような存在です。 発明家のランダル・ペルツァーは、クリスマスを控え、セールスで訪れた都会のチャイナタウンで、骨董品屋に入りました。 埃っぽい店の中を物色するランダルは、かすかに聞こえる歌声を頼りに、かごに入った不思議な可愛い生き物を見つけます。 「“モグワイ”は売り物ではない」と、見るからに怪しい、店の主人は売ってくれません。店の小僧を手なずけたランダルは、手間賃を与え、その“モグワイ”を手に入れます。その時、小僧は3つの禁止事項を伝えます。それは、「光に弱い」「水につけてはいけない」「午前0時以降に食物を与えてはいけない」というものでした。 家に帰ったランダルは、クリスマスプレゼントとして、3つの禁止事項とともに、“モグワイ”を、息子のビリー(ザック・ギャリバン)に贈りました。 そのかわいさと利発さがすっかり気に入ったビリーは、“ギズモ”と名付け、歌を歌わせたり、TVを見せたりしてかわいがっていました。 ある時、ビリーが“ギズモ”を友達に自慢していた時、誤って水のしぶきが“ギズモ”にかかってしまいました。 すると“ギズモ”が苦しみだし、丸い毛の塊をポンポンと5つ産み出しました。しばらくすると、毛の塊は成長し、5匹の“モグワイ”になりました。産まれた“モグワイ”はそろいもそろって、いたずら好きでした。特に頭の真ん中に立っている白い毛が特徴的な“ストライプ”と呼ばれるヤツは気性も荒く乱暴者で、他の4匹を指揮して、ビリーが仕事に行っている昼間の間、おとなしい“ギズモ”をいじめたりしているのでした。 ビリーは、“モグワイ”のことを調べてもらおうと、学校の生物の先生のところへ“ギズモ”を連れて行きます。先生に説明するために、“ギズモ”に水を一滴垂らすと、もう1匹の“モグワイ”が生まれたので、その1匹を先生の研究室に置いていきました。 ある夜、後から生まれた5匹があまりにも空腹を訴えるので、ビリーは時計でまだ12時前なのを確かめ、チキンを与えました。翌朝、ビリーは5匹がグロテスクな色の繭になっているのを発見します。ビリーが見ていた時計は時間が止まっており、実は12時を回っていたのです。 その頃、先生の研究室でも、繭がひとつできていました。その繭はやがてかえり、何者かが生まれました。電話で知らせを受けたビリーは、学校へ駆けつけますが、倒れている先生を見つけ、非常に素早い乱暴な生き物を襲われ逃がしてしまいます。 その頃ペンツァー家では、不気味な音に気付いた母親が、5匹の“グレムリン”と戦っていました。駆けつけてきたビリーの手助けもあり、4匹は倒すことはできましたが、リーダーの“ストライプ”だけは家の外に逃がしてしまいました。 “ストライプ”の後をつけたビリーは、体育館のプールで増殖する彼(?)を目撃します。 ということで、この後、無数の“グレムリン”が出現し、町は大混乱に陥ります。主人公のビリーが、ガールフレンドのケイト(フィービー・ケイツ)とともに、“グレムリン”たちを退治し、一件落着ということになるわけです。まあ、突っ込みどころも多大にあるわけですが、ちょっとホラーで、ちょっとグロテスクで、ちょっとロマンスがあり(もちろんビリーとケイトのことです。まあ、お約束だわね。)、コミカルで、とても楽しいファミリー向け娯楽作品に出来上がっています。 “グレムリン”というモンスターは、この映画だけのオリジナルではなくて、欧米で、機械に悪戯する小悪魔として、なんと20世紀になってから言われ始めてきた伝説(?)の生き物だそうです。原因不明の故障などで、機械が言うことを聞かなくなったときに、“グレムリン”の仕業だ、とかいうわけです。(変身前の“モグワイ”はオリジナルだと思います。) そういえば、「トワイライト・ゾーン」の中に、飛行機の翼の上にいる“グレムリン”を目撃して、恐怖に震えるという話がありましたね。 映画の中でも、除雪車を運転しているおじさんが、どうも外国産の製品が大嫌いなようで(戦争後遺症?太平洋戦争で、日本と戦ったらしい。)、外国産(日本産?)の機械は、壊れるようにわざわざ“グレムリン”を機械の中に仕込んでいる、というようなことを言っています。 あくまでも噂ですが、この映画の“グレムリン”は、日本人のことを風刺しているという話があります。“エコノミック・アニマル”という言葉は聞かれなくなって久しいですが、戦後の混乱から立ち直り、高度経済成長期を経て、ちょうどこの映画の公開されたころ、SONYやTOYOTAやHONDAの製品が、全世界を席巻し始めたころに重なります。 そういえば、1985年公開の「バック・トゥ・ザ・フューチャー」でも、1955年に行ったマーティが、ドク(1955年の)だったかなあ、「日本製なんてダメだろう。」というようなことを言われ、「何言ってんだよ、日本製は最高だぜ。」と30年のギャップで笑わせる場面が出てきましたね。今だと、それが、韓国製や中国製になるのでしょうか。 ケイト役のフィービー・ケイツ、当時大人気だったアイドル女優ですが、1963年生まれということですから、この映画の撮影時はまだ20歳そこそこですね。やっぱりとてもかわいいです。(演技は??) でも、“グレムリン”が大量にやってきたバイト先のバーで、ビールを継いだりして、孤軍奮闘で律儀に接客しているのは、なかなか頼もしかったです。でも実はイヤイヤだったようで、彼らが光に弱いとわかると、ポラロイドカメラのフラッシュで、撃退していました。 この人、若い頃はまだまだ映画などに出ていましたが、結婚してからは完全に引退してしまったようで、最近は全くです。きっとかわいいおばさん(僕と同世代です。)になっているんだろうなあと思うと、惜しい人を亡くしたなあ、と思う今日この頃です。(死んでないって!!!) おばさんといえば、ビリーのお母さん、強かったですね。突然現れた“グレムリン”をあっという間に3匹やっつけてしまいました。(4匹目は、とってもグッドタイミングで帰ってきたビリーがやっつけました。)やっぱり母は強しということですね。 お父さんなんて、自分の発明を売り込みに出かけていて、騒動が終わってから帰ってきて、「何かあったのか。」なんて、「だいたい、あんたがあんなもの買って来るからいけないんでしょう。」とTVの前で突っ込んでいました。 そうそう、いけないっていえば、最初の“モグワイ”の“ギズモ”から5匹が産まれた後、ビリーは、“ギズモ”だけ、一緒に寝たりしてかわいがっているのに、後の“ストライプ”たち5匹は、箱に入れたままだったりして、はっきり言って、非常にひいきしていますね。そうか、この騒動の原因は、ビリーが“ギズモ”だけひいきしたから、あとの5匹がひがんだからなんだ、なるほどなるほど。 まあ、ビリーは騒動を終息するために奮闘しているわけだから、あとは、“グレムリン”たちが壊してしまったものの弁償するだけで、許してやるわい。寛大な処置だろ。(大変だぞー!!!) ということで、クリスマス娯楽映画の傑作を今回は紹介しました。また「2」をいつか紹介しますね。 ところで、最近「3」を作るという噂がありますが、どうでしょう、今作るとしたら、“モグワイ”や“グレムリン”はCGで作ることになるんでしょうね。この映画のぬいぐるみのような“モグワイ”(実際ぬいぐるみです。)が非常にかわいくて、それが受けたのだから、CGに頼らず、ぬいぐるみで作ってほしいですね。(でも、本音は、「3」はいらないと思っています。)
2012.12.24
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「Mr.&Mrs.スミス」 Mr.&Mrs.Smith 2005年 アメリカ映画監督 ダグ・リーマン主演 ブラッド・ピット アンジェリーナ・ジョリー 今現在、ハリウッドで1番の大スター同士のカップルといえば、このブラピ&アンジーのカップルですね。その2人が出会った映画がこの映画です。この間「日曜洋画劇場」で放映していましたので、以前見たことがある本作ですが、この記事を書くために、再び観賞しました。 しかし、最近のTVの洋画劇場は、続編や関連作が劇場公開するので、宣伝を兼ねてというパターンが多いのですが、本作は別に関連の劇場公開作がないのですが、まさか、最近アンジーが別のことで非常に話題になっているので、ということですかね? 結婚して"5、6年"たった夫婦(ブラッド・ピット&アンジェリーナ・ジョリー)が、2人でカウンセリングに訪れました。セックスの頻度は10段階評価で何点か、という問いははぐらかし、この間の週末は一緒に過ごしましたか、という質問には黙ってしまいます。 2人の馴れ初めについて問われると、5、6年前、二人はコロンビアのボゴタで出会い、ジョンは建築設計事務所を経営し、ジェーンはコンピュータのサーバーの管理会社を経営しているということで、2人はすぐに恋におち、数か月後に結婚したと言いますが、5、6年たった今、2人の間は空虚で、お互いに隠している事があるのだと説明します。 カウンセラーはどのカップルにもあることだと言いましたが、実は2人は別々の組織で、暗殺を請け負うプロであり、お互いに知られないようにしていたのです。 ある時2人は、別々にベンジャミン・ダンツという男の暗殺を依頼されます。 メキシコとの国境近くの砂漠の中で、ジェーンは道に爆弾を仕掛けダンツの到来を待ち受けていました。そこへ1人でバギーでやってくる男がいます。ジェーンはそれがジョンだとは知らず、彼が対戦車ロケット砲を構えるのを見て狙撃します。防弾チョッキのおかげで助かったジョンも、ジェーンと知らずに彼女に向けてロケット砲を放ちます。ジェーンもまた逃げ出すことに成功しましたが、肝心のダンツ暗殺はどちらも果たすことができませんでした。 ニューヨークに帰った2人は、それぞれ誰が仕事を邪魔したのか探し始めますが、すぐに相手が自分の結婚相手であることに気づいてしまいます。 結局は、えらいお金かけて、ド迫力な夫婦ゲンカをやってしまったという映画ですよね。 家はぶっ壊すは、超高層ビルの最上階にある組織の基地はぶっ壊すは、BMB3台ぶっ壊すは、挙句の果ては、巨大ホームセンターを瓦礫の山にして死体の山を積み上げる、金かかかってるなあ、という感じですよね。 まあ、今を時めく2大スターのかっこいい姿を見られるだけで、いいのかな。とりわけ、今やハリウッド1のアクション女優アンジーのかっこよさはすごいですよね。今、マシンガンを持たせたら一番似合う女優さんです、アンジーは。(ちなみに、ショットガンが一番似合うのはシュワちゃんです。もちろん、ハーレーにまたがったまま、片手でグルっと回して連発です。) ブラピの方は、まあ、かっこいいんですが、やっぱり見慣れてないせいでしょうか、今いち銃をぶっ放すところが似合っていないと思ってしまったのは私だけでしょうか。彼は、「イングロリアス。バスターズ」で見せてくれた、ごついナイフを握っている姿の方が似合っていますよね。(いっちゃった目でニヤッと笑って、ゆっくり刃をなめるところなんて最高です。今、ナイフをなめさせるなら、ブラピか佐藤浩市ですよね。) で、オチとしては、「アイズ・ワイド・シャット」と同じということでいいんですかね。そりゃあ、Hの前戯に殺し合いすれば燃えますよね。(そういえば、「アイズ・ワイド・シャット」の主演2人も当時夫婦でした。トムとニコールは主演映画のテーマがいまいち腹に落ちていなかったのでしょうか。ブラピとアンジーは、この映画以降、ずーっとラブラブですよね。) ということで、余計なことは考えず、頭の中を空っぽにして、単純に楽しめばいい映画です。壮大な夫婦ゲンカ、非常に楽しかったです。 ところで、アンジーの女王様って、似合いすぎていませんか?
2013.06.19
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「デイ・アフター・トゥモロー」The Day After Tomorrow 2004年 アメリカ映画監督 ローランド・エメリッヒ出演 デニス・クエイド ジェイク・ギレンホール すいません、またエメリッヒ監督です。この人、CG満載SF系パニック映画が得意なものですから、よく見ているんですよね。またいつか「インデペンデンスデイ」も書きますのでよろしく。 この映画、不覚にも、DVDを買ってしまったのです。実は監督名を確認してなくて、地球温暖化の話だから、きっと現実的な映画だろうと思ってしまったのです。題名の意味も考えずに。でも、観てみてやっぱり最初の原因が現実的だからでしょうか、案外いいなあと思ってしまいました。決して、宇宙人や怪獣が襲ってきたり、わけのわからん予言通り唐突に世界的地殻変動が起こるわけではなく、地球温暖化が原因なのですから。 実は、地球温暖化によって、極地の氷が解け、海流が変わって、氷河期になるという異変、現実に起こりうることなのです。科学的に分析して、そう主張している学者がいるのです。確かに、ヨーロッパなどは、緯度的に温帯なのはおかしいのだけれど、大西洋に流れる暖流のおかげで暖かいのだ、というのを昔学生時代に習った覚えがあります。また、実はまだ氷河期のうちで、最後の氷期が1万年ほど前までだから、今は間氷期で、そろそろ氷期になる頃だという説も聞いたことがあります。 だから、現実的には、起こりうることだとしても、実際には兆候が現れてから何年もかかって徐々に氷が増えてというように、十分対応できるペースで変わっていくはずですが、それでは監督の好きなパニックにならないので、あっという間(地球的には2,3日でというのはあっという間です。)に、変化するという話にしてしまったのです。だから、題名になっているように、地球的規模の異変があっという間に起きてしまうというのがこの映画のみそなのです。 映画の中では、主人公の気象学者ジャック・ホール(デニス・クエイド)が、言い出してから、明後日(day after tomorrow)に、異変が始まるので、TVなどで世間に警告を与える間もなく、政府など関係機関を説得する間もなく、人々が避難する間もなく、家族が再会する間もなく、大騒ぎになってしまうわけです。そして、香港のような東京でこぶし大のヒョウが降り、ロサンゼルスが竜巻で壊滅し、イギリスでヘリコプターが墜落し、ニューヨークが大高潮(原因が地震ではないので津波ではない)で水浸しになり、超低温で超大型の低気圧が地球上に3つも現れ、北半球の大部分が氷で覆われ、勇敢に避難した人々が凍死し、図書館の本が燃やされたのです。しかし、これらの被害は頭の固い副大統領が、ジャックの言葉に耳を貸さなかったせいではありません。すべてが、まさに想定外だったからです。これは決してお役所のいいわけではありません。誰が明後日から氷河期になるなんて予想ができますか。専門家のジャックだって分かっていなかったのだから。 ということで、エメリッヒ監督好みの展開になるわけですが、意外と早くアメリカが氷におおわれてしまうので、後半は大異変が起こらず、静かに危機が起こります。超低温超大型低気圧の中、息子を助けに旅立つジャックと、図書館にこもって助かっていたのに、惚れた女の子の危機を救うために薬を探しに吹雪と狼の群れの中へ出ていく息子のサム(ジェイク・ギレンホール)の、超低気圧の超低温の目をギリギリ避けるという離れ業で、ドキドキさせられます。とにかくドキドキハラハラが作りたい監督です。 しかし、息子が心配でたまらないからといって、超低気圧の中、助けに行きますかね。いくら観測のため南極とか行っていて慣れているとはいえ、無謀もいいところですよね。しかも、これから政府の中枢で働かなければならない立場になることがわかりきっているのに。結果として、見事たどり着けていますが、仲間の一人が命を落としているじゃないですか。本人は覚悟の上のことですが、サムがそのことを知ったら、どう思うでしょう。父親の助手だから、顔見知りだと思われ、その人が、自分を助けるために命を落としているという事実、高校生には荷が重い事実ではないでしょうか。もう少し冷静に行動してほしいものです。 それから、気になるのは、世界のほかの場所がどうなっているかということです。異変が起こり始めて最初の方で、東京とイギリスはちらっと出てきますが、後半はニューヨークとその近辺(ジャックのいるところのこと、何度見てもジャックがどこから息子を助けに行くのかがわかりません。足かけ2日で歩いてニューヨークに行けるところですから、あまり遠くのわけがないんですが。)と、アメリカの臨時政府が置かれているメキシコと思われるところしか出てこないのでわからないのです。確か、超大型低気圧は、3つ発生していて、アメリカとアジアとヨーロッパ方面でしたが、あとの2つの被害はどうなっているのでしょうか、日本人としては、アジア方面が気になるところですが。それから、寒くなってない南の方の国の状況も気になるところです。実際、昔の氷期の時も、赤道に近い方は凍ってなかったわけですし、東南アジアや中近東や、アフリカやアマゾンはどうなっているのでしょうか。(意外と、全く異変に気付いてなくて、日々の生活を送っていたりして)世界的な配給を考えているなら少しは描写しておかなくては、と思うのは僕だけでしょうか。 もう一つ、細かいことですが、狼たちはどこから来たのでしょうか、アメリカって、ニューヨークという大都会のすぐ近くに狼の生息地があるのでしょうか。ニューヨークが氷に覆われてから、何日もたってないはずですし、船の中に始めからいたわけないですし、どう考えてもわかりません。もしかして、セントラルパークに住んでたりして。 しかし、アメリカのパニック・SF映画って、自由の女神好きですよね。ニューヨークが被害にあうと必ず、自由の女神が象徴的に壊されてます。この映画でも、凍った海の中で、寒そうに凍っている自由の女神が見られます。
2011.08.12
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「相棒 -劇場版- 絶体絶命! 42.195km 東京ビッグシティマラソン」2008年 日本映画監督 和泉聖治出演 水谷豊 寺脇康文 川原和久 山西惇 六角精児 岸部一徳 鈴木砂羽 益戸育江 西田敏行 木村佳乃 本仮屋ユイカ 松下由樹 津川雅彦 平幹二朗 さて、みなさんの予想通り、前回の「相棒-劇場版II-」に続きまして、今回は「 I 」です。TV放送を録画しておいたものをやっと観ることができました。 人気ニュースキャスターの死体が電波塔に吊るされた事件が発生、現場に“f6”という謎の記号が残されていたことを“特命係”の杉下右京(水谷豊)は見逃しませんでした。 右京と相棒の亀山薫(寺脇康文)はこの謎の猟奇殺人を捜査したがっていましたが、左翼過激派“赤いカナリア”から手紙爆弾を送りつけられた衆議院議員片山雛子(木村佳乃)の警護を命ぜられます。 警護中、片山雛子の乗る車が突如襲撃を受け、右京と薫はそれを間一髪で阻止します。しかし、そこにはニュースキャスター殺人事件同様に、謎の記号が残されていたのです。 2つの事件を結びつけた特命係の2人は、一連の事件がインターネット上のSNSサイト内で行われる擬似裁判で死刑判決を受けた著名人を狙った連続殺人事件であることを突きとめ、同時に連続殺人事件の被害者達を訪ねまわる女性の存在を知ります。 現場に残された記号がチェスの棋譜であることを知った右京は、犯人が薫の妻・美和子(鈴木砂羽)や右京の元妻で“花の里”のママ・たまき(益戸育江)も参加する、東京ビッグシティマラソンをターゲットにしていることを掴みます。 そして被害者達を訪ねまわっていた女性・やよい(本仮屋ユイカ)が武藤弁護士(松下由樹)に保護されたことを機に事件の犯人とその犯行の目的が明らかになります。 そして、一連の犯行の背景には、5年前、一人の青年がエルドビアで反米勢力に拉致されるが、国に見殺しにされた事件があることが明らかになってきます。 水谷豊、寺脇康文、川原和久、山西惇、六角精児、岸部一徳、鈴木砂羽、益戸育江らレギュラー陣はもちろんのこと、西田敏行、木村佳乃、本仮屋ユイカ、松下由樹、津川雅彦、平幹二朗ら、(ドラマシリーズですでに出演していた人も含め、)ゲスト俳優陣も豪華で、紛争地帯へ潜入するNPOと自己責任問題、大都市を舞台にした一大イベントと爆破テロ、ネット上に暗躍するブラックサイト問題など、非常にタイムリーな時事ネタを盛り込み、TVの人気番組の初映画化ということで、非常に力が入っていることがわかります。 右京さんの見事な推理と薫の体を張ったアクション、やっぱり1代目の息の合った“相棒”ぶりもたっぷり堪能できますし、“花の里”のシーンや、どうしても皿を戻してしまう小野田官房長(岸部一徳)と右京さんの回転寿しでの名物シーン、そして、“ミスター捜一”伊丹刑事(川原和久)の薫もびっくりなアクションシーン(いつもの「特命係の亀山ぁ~~」という叫びがなかったのはちょっと寂しかったけどね。)、「相棒」ファンが喜びそうなシーンもしっかり盛り込んで、なかなか楽しめる作品でした。そうそう、珍しく右京さんが体を張るシーンもありますよ。 しかし、力が入り過ぎているせいなのか、いろいろと盛り込み過ぎているせいなのか、ストーリー的におかしなところ、ご都合主義なところなど、いろいろと気になってしまいました。 ツッコミどころはたくさんあるのですが、1つ1つ挙げていったらキリがないので、大きく3点について突っ込ませていただきます。 まずひとつは、チェスのくだりについてです。 電波塔につるされた元ニュースキャスターの死体が発見されたことから始まる連続殺人に残された“f6”などの謎の記号、右京さんがチェスの棋譜だと気付き、メールで犯人とコンタクトをとって対局したゲームの最終形が、東京ビッグシティマラソンのコース図になっていることから、犯人が東京ビッグシティマラソンをターゲットにしていると気付くくだりのことです。 これって、警察側にチェスがわかる人、しかも右京さんのようなかなりの腕前(双方がかなりの腕前でなければ、最終形を思った通りの形にすることが不可能なため)な人がいなければ、どうしようもないことですよね。もし、警察にチェスがわかる人間がいなくて、謎の記号の意味が分からないまま、東京ビッグシティマラソンの日が来てしまっていたらどうなっていたのでしょうか。 2つめに、犯人のターゲットが東京ビッグシティマラソンだと分かったというのに、なぜ中止あるいは延期せずに、すんなりとスタートさせたかということです。 犯人のターゲットは、30,000人のランナーと150,000人の観客なんですよ、その目的を果たすために、最も効果的なのは、競技場に全ランナーと満員の観客が集まるスタート時ではないでしょうか。 なぜ、右京さんをはじめ警察の方々はそんなことに気付かないのでしょうか。 なぜ、大会を中止あるいは延期して、スタジアムを徹底的に調べたり、スタジアムに入ってくる観客や選手の持ち物チェックなどをしたり、捜査員を大量に配置して警備させたり、といった策を講じることなくマラソンをすんなりスタートさせたのでしょうか。理解に苦しみます。 3つめに、ネタバレになるので、詳しいことは書かないでおきますが、結末についてです。 ラスト、犯人にも同情の余地があるような形でお涙ちょうだいのような結論に持っていっていますが、なんか、物語の序盤で、3人の人間が殺されている(片山議員については特命係の2人の活躍で未遂に終わっているので、実は狙われたのは4人です。)ことが、すっかり忘れられているということです。 そうです、この犯人、最後に自ら捕まるような形で恭順しているのですが、はっきり言って3人の人間をすでに殺しているのですよね。かつての事件の復讐を果たすために狙った5人のうちの3人を殺しているのです。 しかも、詳しいことは書けませんが、実行犯への直接的な復讐ではなく、はっきり言って逆恨み的な部類の復讐ですよね。 絶対的正義の追及を身上とする右京さんでなくても、許すことはできないのではないでしょうか。 ということで、結局、「絶体絶命! 42.195km 東京ビッグシティマラソン」という副題が付いていますが、東京ビッグシティマラソンに関しては全く危なげなかったということも含め、ストーリー的におかしなところだらけという、推理ドラマとしてはあるまじき作品だったというお話でした。 ところで、伊丹刑事役の川原和久さんは、今回のアクションをこなすために、モーターボートの操縦をわざわざ習いに行ったということです。さすが“ミスター捜一”ですね。
2013.11.21
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「アドルフの画集」 Max 2002年 ハンガリー・カナダ・イギリス映画監督 メノ・メイエス主演 ジョン・キューザック ノア・テイラー 若き日の画家を目指していたアドルフ・ヒトラーと、画商の交流を描いた作品です。今回は、結末にかかわるところについて語りたいので、あらすじをすべて書かせていただきます。 1918年、第一次世界大戦で右腕を無くし、画家をやめざるを得なかったユダヤ人画商のマックス・ロスマン(ジョン・キューザック)は、同じく従軍していた貧しい画家のアドルフ・ヒトラーと出会います。ロスマンは、ヒトラーのスケッチを見、その技術の確かさに興味を持ち、作品を持ってくるように言います。 敗戦後の今も軍の世話になっているヒトラーは、上官に、演説のうまさを見出され、軍の勢力回復のため、期待されています。作品がうまく作れないヒトラーは、演説の快感に、心を動かされていきます。 ヒトラーの才能に期待するロスマンは、ヒトラーにお金を渡したり、女を紹介したりします。 しかし、作品を作ることに挫折し、政治は芸術だとうそぶくヒトラーに、不安を感じたロスマンは、ヒトラーのアトリエを訪れ、彼の考えた未来の建築や軍服のデザインなどのスケッチを見、新しい芸術性を感じ、作品にして持ってくるように言います。 上官に勧められ、演説会で、ヒトラーは反ユダヤ思想について熱く語ります。その演説で反ユダヤ思想に興奮した若い兵士たちは、帰り道、目についたユダヤ人を暴行します。それは、ヒトラーとの待ち合わせ場所に向かうロスマンでした。 待ちぼうけするヒトラーは、あきらめて帰るしかありませんでした。 若き日のヒトラーを描き、その芸術家としての挫折と、政治家への道を明らかにするという試みは、非常に面白いと思いますが、残念ながら、その心の動きなど、描ききることができていません。以下、僕の自分勝手な解釈ですが、思いつくところを語っていきたいと思います。 まず、ヒトラーが、なぜ画家の夢に挫折するのか、という点です。この映画で見る限り、彼は、非常に本物そっくりな写実的な絵を描くことができるようです。しかし、この時代、美術界では、既存の写実的表現は影を潜め、野獣派や立体派、未来派やダダイズムなど、新しい表現を模索している時代でした。 ロスマンの店にも、そういう作品が並んでいましたし、一瞬出てくるロスマンの作品も、ブラックのような立体派の作品でした。ですから、ロスマンがヒトラーに要求していたのも、そういう作品だったはずです。 美術をよく知らない人がよく誤解していますが、この、20世紀から始まる新しい表現の美術(一見、何が描いてあるか分からない作品と言えばわかりやすいですかね。)も、基本は、写実的表現です。 あのパブロ・ピカソも、非常に若いころの作品(10代~20代前半ぐらい、青の時代とかバラ色の時代とか言われる頃です。)は、とても写実的な表現で、その上手さは、誰もが驚くほどです。 ところが、ヒトラーはそういった新しい表現が、全くできませんでした。見たものをそっくりに写実的に描くことはできても、そこから自分なりの考えで、自分なりの表現を創り出すことができなかったのです。 しかし、彼が、政治の方に興味が移り、いずれ打ち立てようと考えていた“第三世界”の現代建築を思わせるような斬新的な建物や、後のナチスの制服(マニアに間ではカッコいいと高評価です。)や、鷲のマークなどのスケッチを見たロスマンは、そこに、いわゆる未来派のような新しい表現を見たのです。 こういった美術史的背景が説明不足のため、ヒトラーが画家の夢をあきらめる心の動きがわかりにくくなっているのではないでしょうか。 また、ヒトラーが、街角や演説会で、反ユダヤ主義の思想を、非常に熱く語っているのに、ユダヤ人であるロスマンを頼って、付き合っているのが、非常に理解できません。 ロスマンは、その演説を聞いていますが、そんなことはやめて芸術家の道にいそしんでほしいと思っているようですが、ヒトラーの方は、どう思っているのでしょうか、それが全くわかりません。心情的には気に食わないが、芸術家になるためにはしょうがない、と割り切っているのでしょうか。全くわかりません。 一方、ロスマンですが、裕福な家庭に育ち、美しいバレリーナの妻と、2人の子どもにも恵まれ、愛人もひとりいて、非常にぜいたくな暮らしをしているようです。 しかし、戦争で右腕を失ったため、自分自身では、作品を作ることができなくなり、仕方なく、芸術家を見出すことに情熱を注いでいるようですが、その辺の心の動きが、説明不足と言いますか、不十分な感じです。もっと、踏み込んで語ってもいいのではと思いました。 実は、アドルフ・ヒトラーが、芸術家を目指していたことは史実ですが、それは非常に若いころで、1905年ころのことです。そのころ、ウィーンの美術学校を受験して失敗しているそうです。その後、浮浪者のようになり、自筆の絵ハガキを売って生計を立てていたことがあるそうですが、第一次世界大戦の頃には、その夢はすっかり諦めていたようです。 若い頃からドイツ民族主義に傾倒しており、大戦前から、反ユダヤ主義も、持っていたようです。第一次世界大戦も、志願して従軍しており、その後は、軍の仕事から、政治活動にひた走っていくことになるのです。 ロスマンは完全に架空の人物ですし、この映画で描かれていることは、全くの架空のお話です。ヒトラーが、芸術家を目指していたという、たったひとつの事実から、創作された物語でした。 108分という短い映画です。もう30分ぐらい長くなっても全然問題ないので、もっともっと、描きこんでほしかった作品です。発想は面白いので、非常に残念です。 ちなみに、ヒトラー役のノア・テイラーという人、どこかで見たことあるなあ、と思っていたら、チョコレート工場をもらうチャーリーのお父さんでした。非常に貧乏が似合う人です。
2011.10.16
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「小さいおうち」 2014年 日本映画監督 山田洋次出演 黒木華 松たか子 吉岡秀隆 倍賞千恵子 妻夫木聡 片岡孝太郎 4代目相棒、決まりましたね。反町隆史さんで、役名は冠城亘(かぶらぎわたる)だそうですね。だから言ったでしょ、仲間由紀恵(社美弥子)さんじゃあないって。まあ、彼女が、河北満(かわきたみちる)とか柏原春(かしわばらはる)とかって名の別人役で、っていうことなら話は別ですが。 ところで今回は、中島京子の直木賞受賞作を、山田洋次監督が映画化した作品です。 主演の黒木華(くろきはると読みます、はなではないんですね。)が、ベルリン国際映画祭最優秀女優賞(銀熊賞)を受賞し、話題になった作品です。 大学生の健史(妻夫木聡)の大叔母のタキ(倍賞千恵子)が亡くなりました。遺品の中に、健史宛てと書かれた四角い缶が見つかります。開けてみるとタキが健史にうながされて大学ノートに書き記していた自叙伝でした。 昭和11年、タキ(黒木華)は山形から上京し小説家の女中を経て、おもちゃ会社の常務をしている平井家へ奉公に上がります。平井家は東京郊外にあり、昭和10年に建てられたばかりの少しモダンな赤い瓦屋根の小さいおうちでした。 平井(片岡孝太郎)とその妻・時子(松たか子)、かわいらしいが小児まひになった息子・恭一らとの穏やかな暮らしでしたが、おもちゃ会社に新しく入った芸大卒の青年・板倉(吉岡秀隆)の出現で状況が変わってくるのです。 大叔母の自叙伝を現代の青年(健史はタキの孫ではありません。タキは生涯独身だったようですから。)が読むという形で、戦時中の内地の中流家庭の生活を描くというお話かと思ったら、青年・板倉の登場で話は意外な方向へ向かい、ちょっとびっくりしました。でも、そのおかげで、とてもドキドキして楽しく観賞できました。松たか子の妖艶さ、見事です。どういう展開かは、まあ、秘密にしておきましょう。 ところで、僕としては、ネットでいろいろと話題になっている吉岡秀隆ミスキャスト説について、一言申し上げたいと思います。 まず、大前提として、この板倉という青年は、徴兵検査で丙種(甲・乙・丙の丙です。)ということになり、戦時中であるにもかかわらずに徴兵されていない存在だということです。つまり、いかにも女性にもてそうな健康的なイケメンはすべて徴兵されて内地には残っていないということなのです。 だから、この板倉という青年はどう考えても兵隊としては不向きな、軟弱な青年でなければならないということで、しかも、どう考えても、微妙な表情など、難しい演技が不可欠なんですよ。 結局、この板倉という青年を演じられる若い俳優は、彼ぐらいしかいないということですよ、今の日本の映画界には。確かに、実年齢的に(実は、今年45歳)無理があると言えばそうなんですが、はっきり言って、本当に他にいないということですね。あまりにもブサイクな男だと物語が破綻してしまいますし、ジャニーズ系の子たちじゃあ、どう見ても丙種じゃないからね。 だから、批判されるべきなのは、吉岡秀隆を板倉役にキャストしたスタッフではなく、この役を見事に演じられる俳優が彼ぐらいしかいない、今の日本映画界の現状ではないでしょうか。 ということで、実は137分というちょっと長めの映画ですが、まったく退屈せず、のめりこんで見入ってしまった名作を紹介しました。 あっ、そうでした。松たか子さんの妖艶な奥様もいいですが、黒木華さんの控えめだけど実は芯の強そうな女中の演技が最高です。彼女の地味目な容貌(ごめんね。)も、役にぴったりです。
2015.08.25
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「スター・ウォーズ エピソード2/クローンの攻撃」STAR WARS EPISODE II:ATTACK OF THE CLONES 2002年 アメリカ映画監督 ジョージ・ルーカス出演 ヘイデン・クリステンセン ユアン・マクレガー ナタリー・ポートマン クリストファー・リー サミュエル・L・ジャクソン お待たせしました、「エピソード2」です。 遠い昔、はるか彼方の銀河系で…。 10年後、腐敗による機能低下が進む銀河共和国を見限り数千の星系が離脱を表明し、元ジェダイのドゥークー伯爵(クリストファー・リー)を中心に分離主義勢力を形成して共和国との間に緊張状態を生じていました。この事態に対して、共和国の軍隊保有の是非を問う投票のため惑星コルサントを訪れていたパドメ・アミダラ元老院議員(ナタリー・ポートマン)は爆破テロに遭遇し、侍従らに犠牲者を出してしまいます。 ジェダイ・マスターのオビ=ワン・ケノービ(ユアン・マクレガー)と若きアナキン・スカイウォーカー(ヘイデン・クリステンセン)がボディーガードをし、刺客から彼女を守る事に成功しますが、捕らえようとしたところ、別の刺客によって、殺されてしまいます。 オビ=ワンは凶器から手掛かりを得て、惑星カミーノへ向かい、アナキンは初の単独任務として、パドメを護衛し、惑星ナブーに向かいます。 オビ=ワンは惑星カミーノで、亡きジェダイ・マスター、サイフォ=ディアスが10年前に極秘裏に生産を依頼していたクローン・トルーパーの大軍隊を視察します。そのクローン・トルーパーの遺伝子ホストであるジャンゴ・フェットこそが追っていた刺客であると判断したオビ=ワンは、捕獲を試みるも反撃にあい、取り逃がしてしまいます。 一方、以前から母に関する悪夢に悩まされていたアナキンは、パドメと共に故郷タトゥイーンを訪れ、母が盗賊タスケン・レイダーに誘拐されているという事実を知ります。アナキンは必死の捜索で母を発見しますが、時遅く彼女は息子の腕の中で絶命してしまいます。アナキンは怒りのままにタスケンを皆殺しにしてしまいます。 ジャンゴを追って、惑星ジオノーシスに到着したオビ=ワンは、そこで分離主義勢力陣営のドロイド工場を発見しますが、ドゥークー伯爵に捕らえられてしまいます。 アナキンとパドメはオビ=ワンの救出に向かいますが、結局捕らえられ、3人揃って闘技場で怪物に処刑されそうになります。 メイス・ウィンドゥ(サミュエル・L・ジャクソン)率いるジェダイ軍団が救援に現れますが、ドロイド軍の圧倒的な物量の前に追い詰められてしまいます。そこへヨーダ率いるクローン・トルーパー部隊が乗り込んできます。 この作品、実はこの年のゴールデンラズベリー賞(略称ラジー賞、毎年アカデミー賞の前日、この年アメリカで公開された最低な映画に贈られる賞です。)に、7部門(最低作品賞、最低監督賞、最低脚本賞、最低助演男優賞、最低助演女優賞、最低リメイク・続編賞、最低スクリーンカップル賞)ノミネートされ、最低脚本賞と最低助演男優賞(ヘイデン・クリステンセン)を受賞しています。 確かに、場面転換が唐突なところがあったり、説明不足な場面がある中で、ナブーでのアナキンとパドメのイチャイチャ場面がやたら長かったり、パドメの心の動きがよくわからなかったり、明らかに敵側の刺客のジャンゴ・フェットのクローンの兵士たちを共和国側の軍団としてヨーダが指揮していたり、いろいろと不可解な点があり、脚本的に問題があるのは非常に感じました。 しかし、ヘイデン・クリステンセンの最低助演男優賞については、ちょっとかわいそうだなと思ってしまいました。確かに、この映画の実質主人公のアナキン・スカイウォーカーという青年(実際何歳かはわかりません。何しろ「1」の記事にあるように彼らは宇宙人ですから。)は、自信過剰でわがままで自己中で、イケメンで才能あふれる、そして非常に美しいお姫様の心を射止める、はっきり言って鼻持ちならない非常に嫌な奴です。 でも、忘れないでください、彼は、世紀の大悪役、あのダース・ベイダーになる男なんですよ。最初の「スター・ウォーズ」、のちにシリーズ化されてから「新たなる希望」という副題がつけられた「エピソード4」を観た時から、その絶大なる悪役ぶりに圧倒された、あのダース・ベイダーなんですよ。 そんな憎むべき男が悪に染まっていくきっかけが描かれているこの映画、いかに彼が嫌な奴かが描かれていて当然でしょう。 そういう視点で観ていくと、ジョージ・ルーカスが「ダークな雰囲気を持っている」と彼を抜擢した理由で語っている通りの容姿にも助けられてはいますが、結構頑張っているのではないでしょうか。まあ、この彼のラジー賞受賞は、演技が下手というよりは、多くの人が嫌な奴と思える奴をいかに頑張って演じたかという点で選ばれたと思いますね。 ということで、シリーズ中一番出来の良くない作品という評価を受けながらも、やっぱり大人気シリーズのお話をつなぐために非常に大事な作品として、アナキンが悪に染まっていく道筋が分かりやすい、という点では評価できる作品を今回は紹介しました。 この映画ですっきりしなかった点は、次の「エピソード3」でいろいろとはっきりするので、まあ、良しとしておきましょう。 ところで、今年のラジー賞発表されましたね。新しいメンバーでリメイクされた「ファンタスティック・フォー」が最低作品賞や最低監督賞などを受賞したようですね。昔のアニメ「宇宙忍者ゴームズ」(邦題)、好きだったけどね。 さあ、明日はアカデミー賞だ。
2016.02.28
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「クヒオ大佐」 2009年 日本映画 監督 吉田大八 出演 堺雅人 松雪泰子 満島ひかり 新井浩文 中村優子 児島一哉 内野聖陽 今を時めく堺雅人主演の、実在の結婚詐欺師をコメディタッチに描いた映画です。ちょっと前に夜中に地上波で放映されていたものを録画しておきました。 米軍特殊部隊のパイロット、ジョナサン・エリザベス・クヒオ大佐(堺雅人)は、父はカメハメハ大王の末裔、母はエリザベス女王の遠い親戚という華麗なる経歴の持ち主です。常に軍服を着ており、片言の日本語を話しますが、実は経歴はデタラメで、生粋の日本人の結婚詐欺師です。 弁当屋を切り盛りする、永野しのぶ(松雪泰子)もクヒオ大佐にすっかり騙され、献身的に大佐に尽くし、結婚を夢見ています。 自然科学館の学芸員として働く、浅岡春(満島ひかり)の前にもクヒオ大佐が現れます。クヒオ大佐は言葉巧みに近づき、春もクヒオ大佐のことが気になり始めます。 高級ホステスの須藤未知子(中村優子)にも近づいたクヒオ大佐は、お金持ちのような素振りをし、クラブに出入りするようになりました。 ある日、クヒオ大佐はしのぶに電話をしますが、電話に出たのは、弟の達也(新井浩文)でした。彼は、クヒオ大佐が詐欺師であることを見破り、貢いだお金を自分に渡すように脅します。 なんでしょうねえ、非常に中途半端な作品ですね。 コメディタッチで淡々と進んでいく話なんですが、クヒオと達也のやり取りはちょっと面白かったですが、松雪泰子・満島ひかりという日本映画界が誇る薄幸な女が異様に似合う五大演技派女優(クロサウルス選、あと3人は深津絵里・木村多江・池脇千鶴)の内の2人をターゲットの女性役に選んでいる時点で、コメディになり得ないはずだし、政府の高官役の内野聖陽(家康はまさにはまり役でしたね。)の存在意義が全く分からなかったし、春の同僚で元カレ役の児島一哉(アンジャッシュ)は笑わすのが本業のはずなのに、ただただ気持ち悪いだけだし(あんな男と付き合っている女の気が知れん。)、終盤クヒオのかわいそうな生い立ちが挿入されますが、気持ちを動かされるまでには至らないし、いったい、何が描きたかったのか全く分からない作品でしたね。 結局、わかったのは、堺雅人の常にほほえみを浮かべているかのように見える(アルカイック・スマイル?)優男ぶりが、結婚詐欺師役にはぴったりだということと、やっぱり、堺雅人(真田源二郎信繁)は、新井浩文(加藤清正)が苦手なんだなということぐらいですかね。 ということで、今を時めく堺雅人主演の映画、まあ、期待外れもあるんだなあ、というお話でした。 さあ、僕も「沈黙の艦隊」読んで、世界情勢を勉強しようっと。
2017.02.21
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「ミラージュ」 MIRAGEMAN 2007年 チリ映画 監督 エルネスト・ディアス=エスピノーサ 主演 マルコ・ザロール ネットのおすすめ動画で観ました。なんとなくヒーローものなんだなと思い、予備知識ゼロで、まあ、暇つぶしになればという感じで観始めたんですが、中身の意外な重さに、思わず見入ってしまいました。 クラブの用心棒マルコ(マルコ・ザロール)は、強盗に襲われ、両親を惨殺された過去をもつ男でした。彼の唯一の家族、弟のチトはそのショックで心を閉ざし、現在入院療養中です。弟の治療費と生活費を稼ぐため、クラブのオーナーからの嫌がらせに耐えながら、毎日1人黙々とトレーニングを続けるマルコでした。 ある日、マルコは、日課のジョギング中に強盗団が押し入る現場に遭遇します。とっさに強盗のマスクを奪って顔を覆い、強盗団を撃退し、襲われていた女性を救い、そのまま顔を見せずにその場を立ち去ったのです。 次の日、ワイドショーでは『覆面ヒーロー、強盗を退治!』のニュースで大騒ぎでした。マルコが助けた女性は人気美人TVレポーター、マリアだったのです。 チトもニュースを見て大喜びし、覆面ヒーローのマネをして少しずつ心を開いていきます。その様子を見たマルコは、弟のために一大決断をするのです。 お手製の覆面をかぶり、“ミラージュマン”と名乗り、街に巣食う悪者たちと戦うことを決意するのです。 強盗に両親を殺され、精神を病んでしまった弟を抱えたマルコは、クラブの用心棒の仕事の傍ら、自宅で自作の器具を使い、黙々と体を鍛える日々を送っていました。そして、偶然強盗団を撃退し、そのニュース(それが兄だとはわかってはいませんが、)に弟が喜び、回復の兆しが見えてきたことから、正義のヒーローとして戦うことを志します。 しかし、彼は世紀の大富豪や、巨大軍事企業のオーナーではなく、手首から糸が出たり、傷がすぐに治ったり、金属を自在に操ったり、といった超能力があるわけでもありません。ただ単に独学で体を鍛えているだけのごく普通の一般人です。というか、どっちかというと、日々の生活にいっぱいいっぱいの、はっきり言って貧乏人です。 そして、その戦う相手も、超能力や超兵器を駆使したり、常識はずれの超犯罪を行うぶっちぎれた極悪人ではなく、普通の強盗やひったくり犯です。 だから、この物語は、ほかのヒーローもののような夢物語ではなく、非常に生活感にあふれ、地に足がついたリアルな物語なのです。 マルコは、へたくそな絵で、覆面をデザインし、ホームセンターで材料を探し、情報を集めるのに苦労(なんとあろうことかネットに電話番号を公開し、困った人からの情報を求めます。なんという無謀なことをと思ったのは私だけでしょうか。)し、上から目線で手助けしようとする金持ち女に騙されて落ち込んだりします。 しかし、彼がヒーローとして戦う目的は、金を儲けたいとか、有名になってちやほやされたいとか、女にもてたいとか、とってつけたような正義感に目覚めたとか、そんなものではありません。彼は、心を病んでしまっている弟に元気になってもらいたい、ただそれだけなのです。 ということで、そのリアル感、ドラマ感に、思わず感動してしまう、全く無名なチリ映画に、思わず出会ってしまった、というお話でした。 ところで、マルコ役のマルコ・ザロールという人、もちろんチリ人の俳優さんなので全く知らなかったわけですが、格闘家としても活躍している、チリでは有名なアクションスターのようですね。彼の身のこなし、なかなか半端ねえですよ。すごいです。
2016.12.23
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