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BreakTime (一休み)今回はローマの休日にあやかりましょう・・。王女と新聞記者との切ない1日の恋を描いたロマンティックな映画である。トレヴィの泉や真実の口、スペイン広場と言ったローマの観光スポットをベスパに乗って巡るアン王女の初デートのコースです。トレヴイの泉は前回紹介しているので、今回は真実の口とスペイン階段にGOしましょう。真実の口(Bocca della Verita)はローマのサンタ・マリア・イン・コスメディン教会の外壁に飾られています。直径1メートル以上厚さ15センチ以上ある1枚の円形石に2本の角を持った(恐らく)ネプチューンの顔が掘られている。元々はローマ時代の大きな建造物の床に取り付けられていた排水溝の蓋だという。その排水溝の口の部分に手を入れると、偽りの心がある者はその手首を切り落とされると言う伝説がいつの頃が生まれた。映画ローマの休日では、グレゴリー・ペック扮するジョー(新聞記者)が真実の口に手を入れてオードリー・ヘップバーン扮するアン王女をおびえさせる・・。壁の後ろ側が教会です。この教会はローマ時代に小麦の供給を司っていた役所の建物を利用して造られたもので、堂内のあちこちの石柱は古代遺跡すら移してきたもので床は大理石モザイクで飾られている。シンプルな古い地元の教会といった雰囲気の教会で元々ギリシャ居留民の為に建てられていたと言う事で、ギリシャ正教の方式による礼拝が行われているそうです。(写真はありますが、容量の関係で今日はupできまん。)次はスペイン広場(Piazza di Spagna)です。17世紀中期にスペインの教皇庁付き大使館が建てられた事でこう呼ばれるようになった。(現在はバティカン市国駐在スペイン大使館)でもこれは外国人の呼び名で、イタリア人は山々の三位一体教会(トリニタ・ディ・モンティ)の大階段(スカリナータ・デッラ)と呼ぶそうです。18世紀になるとこの大使館周辺一帯がスペインの治外法権下に置かれ、教皇庁さえも権威が及べない場所となったそうです。それにより自由奔放な気風が残り、ボヘミアン的で、外国人のたまり場のようになっている。映画の中でアン王女は階段にすわりアイスクリームを食べていたが、これを真似する人々で階段が汚されたのが原因か? 今は階段はアイスクリーム含む全ての飲食は禁止とされている。昔は階段横に花壇が置かれて花の季節は絵になってきれいだったが、今はそれも取りやめられた。いつも暇な人達が座り込んでいるので、人のいない写真をとるなら朝一番で撮影に来なければ無理のようだ。階段頂上にみえるのがトリニタ・ディ・モンティ(山々の三位一体)教会とオベリスクである。階段下手前には広場とバルカッチヤの噴水がある。トリニタ・ディ・モンティ(山々の三位一体)教会とオベリスク教会(フランス)がお金を出してこの階段を造らせたようです。1728年完成。階段がより高く、より壮大に見えるように階段の配置も計算され、美しく描く曲線の手すりの付いたテラスはバロックの流れを受けた都市景観作造りの好例だそうです。(本当は階段途中のテラスにルイ14世の騎馬像を置く予定だったそうです。もしそうなっていたらフランス階段とかルイの階段とか呼ばれていたのでしようね。)15世紀にフランス王がフランス人の為に造らせた教会と言われていますが、正確な年代はわかりません。2本の塔を持つ教会はフランスのゴシック建築だそうです。オベリスクは18世紀の模造品でエジプトの本物ではない。(なぜ?オベリスかわからないが、オベリスク礼賛の傾向が色々な国にあるな・・・。)下は教会側から見たスペイン階段下のスペイン広場とバルカッチャの噴水周辺の街並みである。階段下のスペイン広場にあるバルカッチャの噴水を紹介したがったが、写真がもう今日はUPできないのであきらめた。
2009年05月31日
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ローマ水道の水で、浴場を建築! 古代ローマの都には必ず浴場があった!古代ローマの街 2 (公衆浴場)古代ローマの公衆浴場皇帝の浴場(カラカラ浴場)カラカラ浴場(Terme di Caracara)ローマの浴場(ポンペイ)ローマでは水道が発達していた為に古代ローマの街(属州にも)には必ず公共の浴場施設があったそうです。そこには冷水浴室、暖気室、温湯室などの入浴施設の他にプールや運動場、劇場があり、今で言うレクリェーションセンター的な所だったようです。また、そこでは政治の重要な談義(会議)もなされたり、ローマ市民社交の場として在った。そんな浴場はBC2世紀頃から現れたと言われています。人口増加に比例して浴場も増加しているが、さらに驚くのは男性用浴場と女性用浴場があった事。特に浴場建設は市民からの評判がよく名を残す為に皇帝が建設を進めている。下は古代ローマの地図 (写真はウィキメディアから借りた地図に書き込み記を入れました)ブルーで囲ったのが浴場です。旧城壁内だけでも4カ所。一番下のがカラカラ帝の浴場です。皇帝の浴場(カラカラ浴場)ローマの街に最大規模にして、最も豪奢な浴場を建てたのが、通称カラカラ帝です。※ 規模の記録は100年後にディオクレティアヌスで帝に破れるが豪華さでは勝った。通称カラカラ帝、マルクス・アウレリウス・セウェルス・アントニヌス(186年~217年)は、古代ローマ皇帝の一人であり、193年、父セプティミウス・セウェルス皇帝が亡くなると弟ゲタと共同皇帝として帝位に就いた。※ 実はカラカラ帝の名前は長い。一部をとって呼ばれたりする。だから通称カラカラ(Caracalla)なのである。※ 在位期間は211年~217年と短い。(弟とは不仲になり自ら弟を暗殺。)カラカラの治世の業績は3つあり、212年にアントニヌス勅令を発布属州の全自由民にローマ市民権を与えた事。銀貨の改鋳を行った事。カラカラ浴場として今日も知られる大浴場を建設した事。非常に民主主義的な皇帝と思われそうだが、実はアントニヌス勅令はもともと税収の拡大を狙ったものであったとされている。しかしこれは結果、逆に税収不足を招き(属州民税が無くなった為)、臨時税の乱発が常態化して初代皇帝アウグストゥス以来の税制は崩壊してしまったそうだ。(カラカラ浴場も税金で造ったのだろうし・・。)しかも、在位期間中に大量虐殺を行った為に市民からの評判は悪い。しかし、兵士と共に徒歩で行軍し、土木作業にも汗を流し、兵士の給与を上げる(父の遺言)などしたため、軍内部では人気があったようで、政治家としては駄目であったが、軍采は合った? しかし、彼もまた部下に暗殺されて最後を終える。カラカラ浴場(Terme di Caracara) 建設は212年~216年。1600人が収容可能な規模で、庭園を含めると16万m²、浴場だけで3万m²近く。この時代にはすでに数百の浴場があったと言う。また浴場は豪奢なのに入場料は安く、兵士や従者は無料だったらしい。浴場は将兵に休養と休息の場を与える。市民にとっては娯楽と社交の場となる。それらを皇帝が提供する事により皇帝の人気の支持率を上げる事ができる。浴場建設は皇帝の支持率に直結する人気のパロメーターになる場所であった。下はカラカラ浴場の宮殿見取り図を本から見つけました。カラカラ浴場はさながらシンメトリーでできた宮殿のようである。一番上が古代の正面入り口。そして古代の浴場入り口が4カ所。外側の入口は玄関ホールと体育館につながっている。内側の入り口を入るとフリギダリウムと呼ばれる冷水浴室があり、この左右に脱衣室。その下にテピダリウムと呼ばれる温湯浴室。その下の丸いのがカルダリウムと呼ばれる高温浴室。テビダリウムとカルダリウムの間にスタドリウムと呼ばれる発汗室。カルダリウムの左右には別室ホール。広大な庭に出ると競技場があり、その左右に図書館。一番手前下は貯水槽。左右の半円の所に泉と神殿を備えていて、床はモザイクで覆われている。建物は「ハイポカウスト」というシステムによって加熱されて暖かく、地下で石炭を燃焼し、水を沸騰させるシステムである。このシステムは19世紀まで使用されていたようだ。最古のローマ水道と言われるアッピア水道からの取水である。浴場は水の集積と分岐点になる貯水槽の近くに建てられたのだろう。カラカラ浴場はアッピア街道からの延長線上に位置している。(そこだけカラカラ浴場通りと呼ばれている。)そもそもアッピア水道はBC312年アッピア街道の建設者としても知られる、アッピウス・クラウディウス・カエクス(古代ローマのケンソル(監察官))の要請によりおそらく街道と同時進行で建設されているようだ。(制作年が一緒)以前「二度と行きたくない所」の章でアッピア街道の説明をしたと思うが、もともとあったローマとアルバーノ丘陵を結んでいた街道を軍事目的で改修、拡大し敷設した古代ローマの国道一号線である。ローマの浴場(ポンペイ)カラカラの写真がなかったので、代わりにカラカラより300年古いがポンペイの浴場を紹介。ポンペイは1世紀までナポリ近郊にあった都市国家だが、一夜にしてヴェスヴィオ火山の大噴火(79年)で壊滅した街である。(18世紀に発掘)それ故、他のローマの都市と違い、異民族による破壊や略奪が後年なかった為に比較的きれいに街は保存されている。ポンペイには3つの公共浴場がありそれぞれ異なる時代に建てられている。画、浴室の造りに関しては、どの時代も、どこの場所もほぼ同じような造りである。下は公共浴場入り口近くにある湯浴み用の円形水槽です。下は暖気室で、下に火鉢とイスが置かれている、壁のくぼみは荷物置きで、浴場入り口近くには同じくぼみを持つ脱衣所がある。下が、冷水浴室。(足だけ冷やす)へこみの部分には大理石像が飾られていたとか・・。縁に座って語り会える場所でもある。下も、水風呂の浴槽? 少し深め。下は浴室の床下の構造です。レンガで積み上げて床下暖房の効果? セントラル・ヒーティングのようなもの?下は浴場の釜土? 火炊き口である。ここで熱風を床下に送り込むのだろう。(ポンペイも冬は寒いし・・。)これが、先ほどの説明の「ハイポカウスト」というシステムだろう。燃料は石炭だろう。こんな所がとりあえずローマの公共浴場と言う物である。いわゆるトルコ風呂もこれと同じ造り(今は燃料など近代化されていると思うが)である。ローマ水道前に簡単に浴場にふれようと思ってカラカラを書いていたら大変な事に・・。写真も見つからないし、しかも情報が少なくて、集めてまとめるのに苦労した。実はローマ水道も資料が意外とないので、ジグソーのようにあちこちから集めてきてパズルする事になりそうである。
2009年05月30日
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古代ローマ帝国の街(フォロ・ロマーノ)古代ローマの歴史から(古代ローマの歴史は、政治体制別に三期に分けて考えると判りやすいと思います。)古代ローマ(Roma antiqua)は、もともとイタリア半島中部あたりの多部族からなる都市国家から始まったと言われています。BC753年に初代ローマ王ロムルスが現イタリア、ローマのテヴェレ川域の七つの丘の上に街を築いたといいます。(最初に集落を構えたのはパラテイーノの丘)当初は王政ローマ時代として、王国は第7代目の王が追放されるまでのBC509年まで続きます。(王はエトルリアに逃げたそうです。)BC509年の王政打倒から、BC27年の帝政の開始までの期間を共和制ローマ時代と呼び、2名の執政官がローマの政治を司ることになります。(元老院、政務官、民会の三者によって成り立っていたとする考えが一般的であるとされる。)この時期のローマは、イタリア中部の一都市国家から、地中海の全域に属州を持つ帝国へと成長。戦いの時代である。(ポエニ戦争は第1次から大3次まで行われる。)BC272年、南イタリアのギリシアの植民市タレントゥムを陥落させ、イタリア半島の統一。BC264年(第1次ポエニ戦争)カルタゴとの百年以上に渡る戦争へ突入してシチリア島を獲得(最初の属州に)。BC218(第2次ポエニ戦争)では、当初カルタゴの将軍ハンニバルに敗れるもののカルタゴに勝利し、カルタゴ・ノヴァ(現在のカルタヘナ)などイベリア半島南部におけるカルタゴの拠点を奪い、西地中海を制覇。BC146年カルタゴの脅威がなくなるとイタリア半島外へ勢力を拡大。コリントスを征服、マケドニア王国、アテナイを征服しバルカン半島に進出。BC149年~BC146年(第3次ポエニ戦争)3年間の攻囲戦で、カルタゴの町は完全に破壊消滅。残されたカルタゴの全領土はローマに併合。(カルタゴの全住民は戦死か奴隷になる。)文化的に高い水準を維持していた南イタリアやバルカン半島の征服と略奪は、ローマに多くのギリシア芸術をもたらします。BC27年からローマ帝国が東西に分裂した395年までが帝政ローマ時代と呼ばれ、最後のローマ皇帝はテオドシウス1世である。(ローマ帝国の滅亡と言う観点から見れば、西ローマ帝国が滅亡した476年とする説もある。)ポエニ戦争の前後から、イタリア半島では貧富の格差は拡大。元老院や民会では汚職や暴力が横行。(内乱の一世紀)武力を用いて政争の解決を図るようになる等民政も荒廃。その中大頭してきたガイウス・ユリウス・カエサル(ジュリアス・シーザー)が終身独裁官に就任し、元老院中心の共和政は崩壊へ・・。BC44年、カエサルが暗殺された後、共和主義者の打倒で協力したオクタウィアヌスとマルクス・アントニウスが覇権を争い、勝利したオクタヴィアヌスがBC27年に元老院よりアウグストゥス(尊厳なる者)の称号を受けてより帝政ローマの時代は始まった。下は初代ロムルス王が開いたローマ発祥の地、現在のフォロ・ロマーノ遺跡とその周辺図を参考の為にup。地図の中心地、パラテイーノの丘が初代ロムルス王が最初に城を築いた丘です。左上の緑の部分が最初に神殿を築いたとされるカンピドリーノの丘です。地図には見えないですが、左にテヴェレ川が流れており、右の端には円形競技場のコロッセオがありますが、これは(BC72~)ローマとしては新しいものです。パラティーノの丘の上側にフォロ・ロマーノの遺跡があります。もとは6つの丘の間の盆地で、神殿が数多く建てられた跡が発掘されて現在公開されている。(開拓されるまでは墓地だったようだ。)下が古代ローマ遺跡のフォロ・ロマーノです。カンピドリーノの丘の上にある市庁舎から撮影。フォロ・ロマーノは、東西約300m、南北約100mに渡って存在する古代ローマの中心部(フォルム・ロマヌム)の遺跡である。東西南北に、それぞれ「妹の梁の門」、「呪われた門」、「ローマ門」、「ヤヌス門」と呼ばれる古い四つの門があったとされ、都市としてのローマの最初の輪郭であったと考えられるそうだ。BC575年ほぼ沼地だったこの地を下水道工事して水抜きをし、利用できる土地に変えて以来ローマ帝国がテトラルキア(4人の統治)を採用する293年まで国家の政治・経済の中心地となった場所である。(今はボロボロだが、最高の文化水準の帝国の中心地がここだったわけである。)左3本の柱がサトゥルヌスの神殿跡、中心8本の柱がヴェスパシアヌスの神殿跡。神殿の間に見える門が、セプティミウス・セヴェルスの凱旋門だ。(これはとんでもない皇帝で、完成時にはすでにお飾りだったようだ。跡を継いだ息子がカラカラ浴場の建築者である。)古代ローマでは、たいていの都市に政治・宗教の中心としてフォルム(広場)が置かれていたが、このフォロ・ロマーノは首都に開設された最初のフォルムであるそうだ。上写真中右がジュリアのバシリカはBC46年カエサル(ジュリアス・シーザー)によって建設が始められた裁判所である。左、凱旋門右奥(神殿柱の間に見えるグリーンのあたり)にエミリアのバシリカ(BC179年)は遺跡の中で最古のもので、410年までは「世界で最も壮麗な建物」(by大プリニウス)であったが、ゴート族により焼かれ、ルネッサンス期に略奪されて破壊。金融の商取引所があったらしい。写真右奥の三本の柱がヴェスタの円形神殿で、かまどの神を祭っていて共和国の安全を守る共和国の守護神である。今このように荒廃しているのはローマ帝国が東西に分裂し、首都がラヴェンナに移されると異民族の略奪にされ、又西ローマ帝国滅亡後は忘れ去られて土砂の下に埋もれてしまったからだそうです。下は先ほどと反対側のコロッセオの上から撮影。左奥の緑の部分がパラティーノの丘(ロムルス王が最初に城を気づいた丘)共和制時代は名門貴族や有力者達の豪邸or宮殿が建ち並んだそうだ。(現在の遺跡は帝政時代の物)写真中央が考古学博物館とサン・フランチェスカ・ロマーナ教会である。フォロ・ロマーノが現在の輪郭になったのは、カエサル(ジュリアス・シーザー)による西側の大改装の結果である。その計画は彼の暗殺によって、初代ローマ皇帝アウグストゥスへと引き継がれる。現在の遺跡はほとんどがその計画の後に建設されたものとなっている。
2009年05月29日
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予告 紀元前からあったローマの水道と橋!!メドゥーサの次に古代ローマの水道橋を取り上げようと、毎晩コツコツとフォトの空きスペースに写真を登録して備えてきた。でも、ローマ水道への道は遠く写真はたまって来たがなかなか辿り着けないのである・・。ローマ水道は古代ローマ人が造り上げた水道溝によって新鮮な水を街に供給するシステムである。古代ローマの建築史の中でも偉大なる公共事業の一つであった。そして、何んと今も当時のものが利用されている所も残っていると言う。凄いぞ!! ローマ水道!!まずローマ水道に入る前に簡単なローマの歴史から入ります。よってローマ水道橋はまだ先です。で、今回予告だけでは何なんで古代ローマ水道のヴェルジネ水道を利用して造られたローマの有名な建築物を一つ紹介しておきます。下は誰でもご存知のトレヴィの泉です。1453年教皇ニコラウス5世は1000年ぶりにローマ水道を蘇らせようと考え、ベルニーニに泉の建築を依頼した。が、異民族の侵略で挫折し、ニコラ・サルヴイが再び着工するも泉の完成は1762年、ジュゼッペ・パンニーニによってであった。元は古代ローマの皇帝アウグストゥスが作らせたヴェルジネ水道(ウィルゴ水道、乙女の水道の意)の終端施設としての泉であったが、場所を替えた後、今の位置になったそうです。ポーリ宮殿(バロツク建築)の壁と一体となったデザインで、中央に水を司さどるネプチューン(ポセイドン)が立ち、左に豊饒の女神ケレス(デメテル)、右に健康の女神サルス(ヒュギエイア)が配置されている。これらはニコラ・サルヴィの原案でブラッチが制作したそうです。ここへ来ると観光客はまるで神社でお賽銭でも投げるように小銭を出します。泉には言い伝えがあり、後ろ向きにコインを泉へ投げ入れると願いが叶うという言われているのです。投げるコインの枚数で願いが異なるとも・・。コインが1枚だと再びローマに来ることができる。コインが2枚だと大切な人と永遠に一緒にいることができる。コインが3枚になると恋人や夫・妻と別れることができる。 と言われているそうです。(3枚の願いはキリスト教が離婚を禁止していたという歴史の名残りではないか?とも言われてます。)このコイン(世界各国のコイン)は毎日回収され、カトリック系チャリティ団体に寄付されていると言う事です。
2009年05月29日
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BreakTime (一休み)セレブなランチ ?ハワイのホノルル、アラモアナ・ショッピングセンターに、ニーマン・マーカスと言うアメリカでも高級なデパートがある。1907年にテキサス州ダラスで創業以来、優雅な雰囲気と上質な商品、他に類を見ないレベルの高い顧客サービスで全米に展開、世界中のセレブに愛されています。(宣伝文句より)要するにセレブ御用達の最高にスペシャル(高額)な品しか置いていないデパートである。(特にインテリアは他では見ないような品ばかりである意味面白い。)その3階にレストラン、マリポサ(Mariposa)があります。店名はスペイン語で「蝶々」の意味。目の前にアラモアナ公園と海が見渡せるテラス付きのレストランである。店内は意外に地味だが明るく、ランチ、ディナー、アフターヌーン・ティーが楽しめ、ローカル(地元)の方々のアニバーサリーに良く利用されています。料理はハワイならではの「パシフィック・リージョナル・キュイジーヌ」とうたっていますが、良くわかりません・・。ランチ時には青く広がるハワイの海を眺めながら(外は暑いげど)夕方にはサンセットを眺めながら軽食をいただくのもありだと思います。下はお奨めのランチです。まず、注文より先にオリジナルのパンがサーブされてきます。これが、シュークリームの生地のようにやわらかく、中はもちっとネットリしていて軽く。とても美味しいです。(お代わりができます。)下はお奨めのサンドイッチです。ここはサラダがとても素敵です。しかも盛りだくさん。これはロブスターのサンドイッチだったかも? (何種類もあります。)サンドイッチはもう一切れあったのを忘れていました。下はお奨めのアイスティーですが、名前は忘れました。何かトロピカルで割っていたのかも? 量がとても多くてうれしいです。パンのお代わりして、何品かを何人かでシェアして食べれば、正直ランチだけでお腹が一杯です。2012年10月「マリポサ(Mariposa)」でメニューなどもう少し載せてます。リンク マリポサ(Mariposa)
2009年05月29日
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キングサリ(Golden Chain)の花を紹介マメ科 キングサリ属の落葉中高木で、ゴールデンチェーン とか、キバナフジと呼ばれています。日本へは明治初期に渡来したと言われ、東京の環境では5月の連休明けくらいが咲頃です。ヨーロッパ中南部原産で、家よりも大きくなった木に黄色い藤に似た花が満開になる様はとても見事です。残念ながら樹皮と種にアルカロイド系の毒性が強く、危険です。私はベランダの花の実が雀に食べられないように刈り取っていました。(今は枯れてないです。)大きな園芸屋さんで春先に苗木をたまに見つけますが、日本で大きくなることはあまりないのでは?下は今が見頃のカナダ、バンクーバーにあるバン・デューセン植物園のキングサリです。バンクーバー市内最大の植物園です。高級住宅街の中のゴルフコースを植物園に造り直したもので54エーカーあるそうです。目の不自由な人の為に直接植物に触って感じたり、香りを楽しむハーブ・ガーデン等のコーナーがあるのも特徴です。房状の花は本当に藤の花を黄色にした、だけのようで、同属に思えますが、ブドウのように横に伸びて棚状にしつらえる藤の幹とは全然違います。ステンドグラスをしていた時に、私の前のおばさま三人姉妹が、キングサリのランプ造りに挑戦していました。1800~2000ピースはあったと思います。最初キングサリとは知らずになぜ黄色で造るのか疑問でした。その後キングサリと言う花が存在する事を知り園芸屋を探し回り入手しました。このランプのモールド(型)と型紙だけで4万以上したと思います。モールドを貸して下さると言われたのですが、私は最終的に藤のランプを造る予定だったので、このランプはあきらめました。(ピースが多いので、根性がないと完成できません。)My作品の藤のランプ(2000ピース越え)はいづれティファニーの特集の時に紹介します。下は、ニューヨークで手に入れた「ティファニー・コレクションの写真集」より参考の為にデジ撮りしました。ランプシェードもスタンドもアンティックの本物です。これらデザインは、現在「オデッセイ」と言う会社からモールド(型)と型紙を買う事ができます。恐らく特許使用のデザイン料が含まれていると思われます。モールドとガラスとその他の材料の代金に加えてそれなりのスタンド台を購入すると安く見積もっても諸制作費は20万円は軽く越えると思います。完成作品の購入となるとガラスの質と台座の値段(高級度)もありますが、これと全く同じ品として150万円してもおかしくないですね。(かなりシェードは大きいです。直径60~70センチくらいはあったかも?)もっともアンティックの本物の場合は2000万円以上するのかな? 壊れやすいので完全な形で残っている物も少ないです。メトロポリタン美術館にさえ超ボロ作品しかありませんでした。だからこの写真集もかなりお高かったです。
2009年05月28日
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BreakTime(一休み)今回は砲撃されて破壊されたパルテノン神殿にあった装飾品のアテナと思われる壁画(確定)と女神像を紹介します。下はアテナ(アテーナ)女神のレリーフで神殿の一部になっていたものです。アクロポリスのパルテノン神殿の美術館所蔵です。ヘシオドスの神統記によれば、「アテナ神はゼウス神の頭頂部より武装して鎧を纏った姿で出現した。」とされています。アテナ神は昨日も紹介しましたが、知恵、芸術、工芸、戦略を司るギリシア神話(オリンポス12神)の女神です。もともとギリシアの地の土着の女神であったのを古代ギリシア人は、この神をギリシア人の征服と共に自分たちの神に組み込んだものとされています。(メドゥーサ信仰とやはり似ていますね。)都市の守護女神としての崇拝の歴史は、ミノア文明(BC2000年)まで遡るとされて、女神は多くのポリスで、都市守護者(ポリウーコス)の称号で呼ばれていたようです。(あくまで、都市の自治と平和を守るための女神です。)下もパルテノン神殿の美術館からの出土品です。説明もパンフもないですが、右手にオリーブの小枝でも持っていたのかな? と想像です。昨日説明したポセイドンとの伝説の勝負しかり、女神にとってオリーブは平和の象徴とされていますから・・。下も同じ美術館です。(上は風化が進んでいるので古くみえますが、下は地下に長らく埋まっていたのかな? 表情が綺麗ですね。)下はパルテノン神殿にあった女神のフクロウです。アテナイ神は「フクロウを自己の聖なる動物として持っている。」とされています。フクロウが知恵の象徴とされるのはここから来ているようですね。ローマ神話ではミネルヴァ(ラテン語:Minerva)がアテナ神に対応する女神として崇拝されています。ミネルウァの神殿も都市の中心の丘の上にあり都市守護者であり、ローマ神話における知恵と工芸を司る女神であるのも同じでようです。また、ミネルヴァの聖なる鳥は、やはりフクロウです。
2009年05月28日
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写真1枚追加Break Time (一休み) になりませんでした・・。せっかくなのでアクロポリスにあるパルテノン神殿(主殿)以外の建造物も紹介。アクロポリスは「高いところ、城市」を意味し、古代ギリシアのポリスのシンボルとなった小高い丘に防壁で固めらた神殿や砦が築かれたものだそうです。(標高は156m。市街地からは70m高い。)ミケーネ時代のアクロポリスはまさに王城(城塞)で、諸王の居城であったと伝えられています。ポリス成立後は、神殿としての宗教行事以外に、裁判など、集会所として使われたりと民主主義的公共の場となっていったようですが、それも古代ギリシャの話です。ローマ期にはキリスト教の神殿となり、トルコ支配のもとではイスラム教会、兵舎、ハーレムになった事もあったとか・・。今のような廃墟になったのは1687年と言われています。なぜ年代がはっきりしているかと言えば、原因は当時トルコがここを火薬庫として使用していた事と、ベネチアの砲弾がパルテノン神殿に直撃して大爆発を起こして屋根や壁が吹き飛び壊滅的被害を受けたからです。(2000年の歴史が一夜で吹き飛んでしまったんですね・・。もったいない・・。)下はエレクティオン。パルテノン神殿の一部の宮で、北側に位置(BC406~)ラコニア地方のカリアの女性と言われ、カリアティデスと呼ばれているイオニア風の6人の少女像の柱がある。(手前中央神殿角)この像はオリジナルはアクロポリス博物館に5体。1体はイギリス人に盗まれて現在は大英博物館にある。下中央に見えるオリーブの木はアテナイとポセイドンがアテネの守護神の座を競って争そったと言われる伝説の木だ。ポセイドン神は「三又の鉾」で岩に穴をあけたて塩水を噴き出させて見せる。アテナイ神は同じ鉾で大地を刺してオリーブの木を生やした。軍配はアテナイ神に上がり、彼女がアテナイの守護神となったとされる逸話に基づく。神殿の中は撮影禁止である。近づく事も文化財保護の為に禁止。今やかろうじて残っている神殿維持は常に工事期間のまま進んでいない。神殿前も荒廃していて、結局カメラを向ける位置も限られてくる。ずるしない限り中は写せない。下はアクロポリスから南を見下ろした所にあるディオニソス劇場である。半円型をしたBC6世紀頃の古代劇場である。毎年、アテナイの国家的神事として、酒と演劇の神であるディオニソスの祭礼が行われたと言われ、劇場には15000人の市民が集まったそうです。アイスキュロス、ソフォクレス、エウリピデス、等の著名な劇作家も、ここで競演し、名声を得たとされています。BC5世紀はアテナイが最も輝いていた時代だったそうです。(現在の姿はBC1に改築された物だそうです。今はこんなですけど・・。)パルテノンの南西側にはもう一つ劇場があります。イロド・アティコス音楽堂です。ローマ期の161年に建造されています。アッティカの大富豪イロド・アティコスがアテネ市に寄贈したものです。6000程ある客席は最近修復されたそうですが、現在も現役の音楽堂です。毎年夏には演劇、コンサート、オペラ、ギリシャ古典劇のイペントが催されるようです。(素敵ですね、ここで演じる人もロマンを感じる事でしょう。)ギリシャの遺跡は歴史があるだけに野山に神殿の柱が転がっていたりと(何本かは建っている)想像していた神殿の跡はほとんどなく、まとめて神殿見物をしてカメラで撮っていると、どこだかわからなくなる事もしばしば。ディオニソス劇場のような劇場もあちこちの神殿に付随してあるので、「ここは、もういいや・・。」と言う気持ちについなってしまいます。せめてもう少し形があれば想像力で妄想できるのでしょうが、何も無い原っぱの石柱を元に頭の中で神殿を構築するのは幾ら想像力豊かな私でも無理でした。遺跡をupする時は復元図でも載せる事にします。
2009年05月27日
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イスタンブール、地下宮殿のメドゥーサの柱から(一昨日のブログ)メドゥーサ信仰の衰退と神殿破壊の事をずっと考えていました。そしてメドゥーサ信仰は消えたのにナザール・ボンジュウ(Nazar boncuğu)は今も広範囲で利用されている。メドゥーサの蛇眼を護符にしたナザール・ボンジュウを調べていて、ふとギリシャ神話との関連に思うところがあり、自分なりに仮説を立ててみました。メドゥーサの目玉とメドゥーサ信仰 2 パルテノンアテナイ信仰vsメドゥーサ信仰(ギリシャvsペルシャ)ペルセウス=アレクサンダー大王 そしてアテナイ神のサジェストナザールボンジュウの遠征アテナイ信仰vsメドゥーサ信仰一つは、メドゥーサが首を落とされアテナイの楯になったと言うギリシャ神話ですが、それらは、案外元になる史実があったのではないかと思ったのです。メドゥーサの首は最終的にアテナイの盾アイギスにはめ込まれる。ギリシャ神話では当然ギリシャ側が正義で、対する怪物は悪です。信仰で置き換えると、アテナイ信仰が勝利者で、メドゥーサ信仰は負け組。でも、実際はアテナイ信仰が勝ったわけではなく、メドゥーサ信仰のあったトルコがギリシャの手に落ちた事をさしている。と思われるのだ。※ トルコ(当時はアケメネス朝ペルシャの時代)、ギリシャ(都市国家アテナイをさす。)当時、地に落ちていたギリシャ諸都市、とりわけアテナイの衰退。マケドニアの王アレクサンダー大王のおかげで、バルカン半島(現トルコ)の一部の征服権利を勝ち得て奇しくもアテナイは復活できた。一時ないがしろにされ、ギリシャ神域が破壊された報復を今度はペルシャ側にしたのではないか?「アテナイ(アテナイ神)が゜ペルシャ(メドゥーサ神)に勝った!! その史実をギリシャ神話に刻んだのかもしれない。BC5世紀アテナイはギリシャ諸都市の中でもトップにいた。ところが、ペロポネソス戦争でスパルタに大敗(BC404)してからギリシャでの主導権も失う。アテナイは領地もどんどん失い地に落ちていた。一方ペルシャ王アルタクセルク2世の勢力はすごく、黒海沿いのエフェソス、ミレトス、プリエネなどの多くの都市がペルシャの支配下に置かれていった。、アテナイの雄弁家イソクラテスはアテナイのふがいなさを激怒して「ギリシャの危機の書」の中でこう言い放っています。「ペルシャの押し付けた屈辱に終止符を! ギリシャの神域の破壊に復讐を! 王の王(ペルシャ王)のくびきの下につながれた小アジアの姉妹都市を解放に行こう!」ではどこがそのイニシャチブを握るのか? アテナイに失望していたイソクラテスはマケドニアのフィリポス2世(アレクサンダー大王の父王)をたきつけるのですが、あっさり王は暗殺され、まだ20になったばかりのアレクサンダーが王位と後を引き継ぎ、あの大遠征につながります。結果イソクラテスの望みはアレクサンダー大王により叶えられた。アレクサンダー大王はギリシャの北部のマケドニア王国の出身(現在のマケドニアは関係ない。)で、むしろギリシャを征服した側の国であるが、王はバルカン半島をあっさり落とすと処理をギリシャ諸都市に委ね(一部)自らは、アジア遠征に向かってしまいます。つまり大王は取り返した土地を自分のものとせず、ギリシャに返したのである。(小アジアの姉妹都市はペシャから解放された。)こうした中で、「マケドニアに批判的だったアテナイがアレクサンダー大王に勝利の祝辞を贈っている。」想定外な事が起きた? ギリシャ諸都市の歓喜とアレクサンター大王への感謝がそこに見えます。何しろ自分らは何もせず、バルカン半島をギリシャの手に戻せたのですから・・。ペルセウス=アレクサンダー大王 そしてアテナイ神のサジェストギリシャ神話の中のペルセウスの冒険のメドゥーサ退治ですが、これはある意味アレクサンダー大王の遠征の成功に繋がる気がします。ペルセウスがアレクサンダー大王だったと考えてみると解り安いです。ペルセウスの成功の鍵はアテナイ神の存在です。神話では、アテナイがその力を見せる為にペルセウスの物語の要所要所でサジェストする。それはアテナイ神の存在をアピールしているかのよう。ペルセウス物語は、もしかしたらアレクサンダー大王への祝辞であったのかもしれません。でも執拗な物語の中のアテナイの存在。それは、現実に重ねて・・。アレクサンダーの活躍は「アテナイ神のおかげですよ」と暗に語っている風にも読めます。いや。そう語っているのかもしれない。最古の歴史書と言われるヘロドトス(BC485~BC426)の「歴史」は、現在はかなり信憑性がなくなってきているらしい。「ヘロドトスの悪意」として、歴史的事実がかなり歪められて語られている事がわかって来たからだそうだ。ギリシャの歴史は、ギリシャ側でない角度からも見ないと真実にたどり着けないようですね。ナザールボンジュウの遠征もう一つ。ナザールボンジュウのメドゥーサの蛇眼がなぜイランまで渡っているのか? それはいつ頃広まったか? です。確信は持てていませんが、アレクサンダー大王の遠征にともなって広がったのでは? と考えてみました。ひょっとするとそれ以前のアケメネス朝ペルシャの可能性もありますが、アレクサンダー大王の遠征、征服後の各国諸都市にとった彼の行動から考えると彼以後は考えられないからです。彼の没後の帝国解体からヘレニズム文化が始まります。その時はすでにメドゥーサ信仰は途絶えていたと思われる事もあります。アレクサンダー大王は征服後も各諸都市にほとんど変わらない自由を与えています。言語も文字も宗教さえも、ペルシャを押しつける事はせず、各諸都市の文化伝統を非常に重んじて慎重に取り扱っています。彼の遠征が成功したのはそうした文化尊重があり、とりわけ地方のエリート層の協力? 見方につけたからだとも考えられます。(そうすることでこそ安定した政権が望めると言う教育を受けていたからかもしれませんね。)彼の治世はとても短いので、「短期間」と考えるとやはり無理があるように思われますが、遠征に加わった者の中にメドゥーサのお守りを持っていた者いたかも?それが友好的な征服と遠征の過程で広がって行ったかも?アレクサンダー大王の遠征は、異文化交流の橋渡しになったと考えられるからだ。下はギリシャ、アテネのアクロポリスの丘に建つパルテノン神殿パルテノン神殿はアテナイ神を祭る神殿です。(BC438~)現在残る神殿はペルシャ戦争(BC492~BC449)後に建築されたもの。破壊などにあい、修復、増築などを繰り返している。※ 現在も修復工事中ですし、外から眺めるだけです。長さ68.7m、幅30.6mの周ドーリア式神殿。 ユネスコの世界遺産文化遺産)に登録。アテナイ神は知恵、芸術、工芸、戦略を司るギリシア神話の女神で、オリュンポス十二神の一人で、アルテミスと並んで処女女神として有名。起源的には、ギリシア民族がペロポネソス半島を南下して勢力を伸張させる以前より、多数存在した城塞都市の守護女神であったと考えられている。女神を都市の守護者とする崇拝は、ギリシア全土に及び、有力な都市でも中心となる丘上には必ず女神の神殿があったとされる。(女神アテナイの話は次回に)下はアクロポリスの向かいにあるフィロパポスの丘より撮影。アレクサンダー大王は私が好きなキャラです。彼の話は、いつか特集をするつもりで温めていたので、こんな所でサブ的に登場では不本意です。良い関連写真が見つかったらきちんと主役で取り上げる予定です。
2009年05月26日
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実は昨日に引き続きメドゥーサ関連です。メドゥーサの目玉とメドゥーサ信仰 1ナザール・ボンジュウ(Nazar boncuğu) Evil eyeトルコ語でナザール・ボンジュウ(Nazar boncuğu)。ナザールは「目」、ボンジュは「ガラス玉」。イランではチェシェ・ナザール、ギリシャではバスカニアと呼ばれ、青いガラスの目玉型をしており、目的はいずれも同じ魔除けとしてのお守りである。ナザール・ボンジュウ(Nazar boncuğu)はメドゥーサ(Medousa)の目玉なのである。つまり人を石に変えたと言うメドゥーサの邪眼(じやがん)。すなわちEvil eyeを模したもの。上はトルコ土産でもらったもの。左3つは、布製のバックのチャームになっていたもの。右上はギリシャの土産。下はトルコの土産物屋で売られているブレスレット。こっちが欲しかったです。もともとトルコでは、紀元前から存在していると言われ国民に愛されているお守りで、メドゥーサ信仰の頃からの発祥と思う。妬み深い人から出る視線(邪視)や悪霊が人にとりつき災いが降りかかると信じられ、その嫉妬や妬みなどの悪意ある邪視から身を守り、災難を払う為に持つお守りとされている。メデゥーサの蛇眼が人を石に変える所から来ているのか? 視線(邪視)を跳ね返すだけでなく、割れた時やヒビの入った時は、自分の身代わりとして災いや嫉妬を受け止めてくれる身代わり護符でもあります。「凶眼の魔力」として、悪いもの全てを、目の威力により打ち砕き、青いガラスによってはじき飛ばすと言う事らしい。ギリシャではバスカニアと呼ばれ、トルコと全く同じです。ギリシャ中どこでもたくさん売られています。(目玉付きのキーホルダーを車のハンドルに下げたり、玄関先に飾ったり。)(ギリシャやイランではトルコが起源である事や、目玉がメドゥーサの目であることを知らないようです。が、いづれも古くからあるお守りとして国民に知られています。)イランでは「チェシェ・ナザール」チェシェ・ハザド(恨みの目)とも呼ばれ他人やその人の持ち物に対して向けられる羨望、嫉妬、悪意の感情を持ったまなざしを差し、それを跳ね返す力があるとされます。車や部屋のドアに飾られたり、服のポケットに入れて持ち歩く人もいると言う事です。土産物屋で売られるネックレス、タイプです。下はブレスレットのカラー・バリエーションです。ナザールボンジュウ(Nazar boncuğu)は、大小、デザイン別にいろいろな種類がある。守るものの対象に合わせて目玉の大きさを選ぶのが良いとされています。また、デザインも多様にあり、ブレスレットやネックレス、キーホルダー等どこで使うか考えて選ぶ事もできます。唯一日本のお守りと違う事は、お土産屋で簡単に買える品だと言う事です。(日本は寺院仏閣、神社、教会でないと買えない。御利益が得られないから・・。)ところでお守りの普及を調べていて疑問に思った事は、イランまで浸透しているなら、恐らくシリアやイラクにもひろがっているのではないか? と思い調べてみました。やはり、予想通りイスラムの世界の中でもそれはアッラーと合体して存在していました。(シリア旅行の方のブログで確認。)イスラム教徒限定商品 イマームアリーの剣が付いているイスラム仕様です。これはネットで日本で売られているものです。アッラーの教えの書いてある帯付きの物もあります。(イスラム教徒はイーブル・アイは自分たちのものだと信じているようです。何しろ一神教ですから。)メドゥーサ信仰の話は・・つづく・・。2017年12月「メドゥーサ(Medousa)の首」でメドゥーサ(Medousa)についてはより詳しく書いています。ナザール・ボンジュウについてもまた触れていますリンク メドゥーサ(Medousa)の首
2009年05月26日
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Break Time (一休み)ラクダ(Camelus) ふたたび・・・。哺乳類ウシ目(偶蹄目)・ラクダ科・ラクダ属でその種類は3種いるのだそうです。西アジア原産で背中に1つのこぶをもつヒトコブラクダ Camelus Dromedarius 中央アジア原産で2つのこぶをもつフタコブラクダ Camelus ferus(野生種) 絶滅危惧種 Camelus bactrianus(家畜種) が、います。背中のこぶには脂肪が入っており、エネルギーの備蓄と断熱材効果(汗をほとんどかかないラクダの体温が日射で上昇するのを防ぐ)がある。(皮下脂肪のほとんどが背中に集中した体らしい。)背中から受ける熱射を防ぎつつ、背中以外の体表からの放熱を促すようにできた素晴らしい構造である。こぶの中に水が入っているというのは、長期間乾燥に耐えることから誤って伝えられた迷信で、実際は水を一度に大量摂取(80リットル程)する事が可能なのだそうです。(砂漠環境に適して進化、完成したのでしょう。)ラクダ=砂漠のイメージ通りラクダは砂漠のような乾燥地に適しており、一度大量摂取すれば水を飲まずに数日間は耐えることができると言われています。下はチュニジアで見た隊商? と思いきや・・・。これもまた観光用の隊商のコスプレ付き(ベルベル人の衣装)記念撮影のツアーです。(ドゥーズの郊外より)確かにマスクすれば中身が日本人だなんてわかりませんよね・・。 ただ、マスクも使い回しで汚い、臭いのだそうです。ラクダは私もピラミッド前で乗りましたが、乗るのも女性にはちょっとつらいですし、立ち上がるときの前後の揺れと衝撃は結構怖いです。目線も馬よりも高いので不安もありました。何より怖かったのは手綱を引くおじさんがお金をもっともらおうとラクダを走らせたり、引き回して脅した事です。砂塵を避けるため、鼻孔を閉じることができ、まつげが長いのも砂塵からの保護なのだそうです。また、塩分濃度の非常に高い水でも飲むことができるような進化もあるようです。キャラバンの「砂漠の舟」と称され、何千年も前から人の足として活躍してくれました。それは近年自転車が普及するまでアラブ世界では重要な移動手段だったそうです。さて、私がブログを書き始めて一ヶ月半ですが、プリントしてみたら厚さ3センチになりました。もはや自分でもどこに何のページがあるか判らなくなってきました。探したい言葉があって、ページをめくっても判りません。My検索機能があったら良いのになと思います。今回ラクダは差し込みです。本当は先にのせる予定のがあったのですが、マニアックな血が騒ぎ、もう少し調べて整理しようと思っています。本当に凝り性で自分でも困ります。
2009年05月26日
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ラストにメドゥーサ関連のリンク先追加しました。トルコのイスタンブールの地下にとても面白いものがあります。古代ローマの時代に造られた上水道の地下貯水槽が幾つかあるのだ。特にイェレバタン通りの地下貯水槽は非常に興味深く美しい存在である。地下宮殿とメドゥーサ (Medousa)呼称が幾つかある。地元では「地下宮殿」 イェレバタン・サラユ (Yerebatan Sarayı)がポピュラーなのかも。それは宮殿ように列柱が並ぶ事から呼ばれる。実際は昔の貯水槽で、「地下貯水槽」 イェレバタン・サライ(Yerebatan Sarnici)である。そして英語表記では、「聖堂の貯水槽」バシリカ・シスタン(Basilica Cistern)である。東ローマ帝国の皇帝ユスティニアヌス1世(在位、518年~527年)の時代に、もとはパティオを有する集会所に使われていたローマ建築物を解体して、内部を掘り下げて水を張り貯水槽に作り替えられたとされています。その為に神殿跡のような、でも奇妙な不思議な空間がそこに演出されています。下はイェレバタン・サラユ (Yerebatan Sarayı)の地上入り口です。地下に広がる貯水槽は長さ138m・幅65mの空間で、天井高さは9m、1列12本で28列の計336本の円柱でささえられている。(現在は246本しか確認できていない。)下はその内部。湿度が高く天井から水が滴り落ちるので、柱は緑苔でグリーンに見える。特筆すべきは、円柱のデザインに一貫性が無いことである。円柱のうち、98本は5世紀に流行したコリント式柱頭を備えたもので、おそらく流行遅れの在庫処分品か、どこかで解体してきた建築物の寄せ集めか? その他にも、目玉のような模様で覆われた焼き物のような柱身や、大理石でできたメドゥーサの顔が彫られた古代の石塊が土台にされているなど、(しかも置かれ方が雑)半端な材料の寄せ集めのような構成である。でも内部はとても幻想的な空間である。(ライトアップされているし・・)もちろん今は使われていないので見物の観光客が見に来るだけである。音響が良いので、時々コンサートにも使われるそうです。下は渡り橋が作り付けられて一部歩くコースがある。水は演出の為に少しだけ入れられているのでは? と思う。円柱は広い空間を柱の数を少なく支える為に煉瓦造の交差ヴォールトを支えられ、壁は、水を通さない特殊なモルタルでおおわれた厚さ4mの耐火レンガの壁に囲まれているということです。メドゥーサの顔が台座にされた柱です。なぜか正位置に置かれていません。(なぜ横向き? ちょっと気の毒)下は逆さのメドゥーサの柱です。(写真が反転ではありません)「なぜ? 逆さ? 」どこにもその事について書かれていませんが、私が思うに、単純に高さ調節(寸法)の為ではないでしょうか? 顔が横パターンは 高さが欲しいから横に。顔が逆さパターンは、高さは正位置で良いが、頭が上では上部の面積が小さく、上に乗る四角い柱がのらないので、逆さにしたのでは? と分析しました。逆さのメドーサの絵ですが、お菓子の「ペッツ」ぽいです。ギリシャ神話 メドゥーサギリシャ語で女支配者とよばれるメドゥーサはゴルゴン三姉妹の一人で、もとはポセイドンに愛された美女だったうです。(二人の息子はペガサス)それが「自分の髪はアテナイの髪より美しい」と自慢した為に彼女の怒りをかい美しい髪ですら、一本一本を蛇に変えられおぞましい姿の怪物ににされてしまいます。(女の嫉妬です。)おぞましい姿だけでも問題ですが、彼女の顔を見ると石になるとされ恐れられ、やがてペルセウスによって退治されます。(首を切り落とされて・・・。)その後アテナイはその首をペルセウスから受け取り自分の山羊皮の楯アイギスにはめ込んでメドゥーサの力(見たものを石に変える力)を取り込むのです。私達が通常知っている話はこれだけですが・・。地母神信仰によればギリシャ神話以前のメドゥーサが豊穣の神としてあがめられていたと言う事がわかりました。この東地中海からエーゲ海ではメデューサは豊穣の女神として、頭に蛇を持っていたのだそうです。そして地母神の頃は、畏敬の対象でメドゥーサは美しく神殿に飾られていたのに、いつしかギリシャの神々によって地母神は怪物扱いされるようになり、追い払われていなくなるのです。こういった土着の神々を排除する新しい宗教の発生は日本にもあります。例えば八百万の神々も日本神話の中では退治されるべき存在です。インドでは土着の神様は仏教にうまく融合され、例えば梵天は、もともと土着の信仰の創造神ブラフマー神の事で、(他にヴィシュヌ神、シヴァ神とともに三大神の1人)一番偉い神様が仏の守護者になるという扱いです。メドゥーサはアテナイ神信仰によって格下げされたのが真実なのでしょう。地下宮殿のメドゥーサはどこか古い神殿で飾られていたものが壊されて運ばれてきたのでしょう。ユスティニアヌス1世はメドゥーサを地下に閉じ込めたと表現する向きもありますが、メドゥーサにとっては酷い話ですね。以下でも取り扱っています。リンク ルーベンス作メドゥーサ(Medousa)の首
2009年05月25日
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Break Time (一休み)死者の書が朝までかかり、(写真を探していた・・) 起きたら1時半!! 今日が半分消えてしまった!!ところでエジプトで文字が使われるようになったのはBC3000年頃ではないかと言われ統一王朝の頃には文法体系もほぼできていたらしいです。エジプトより少しさかのぼり、メソポタミアのシュメールではすでに象形文字が存在していた事から、ひょっとすると象形文字の概念はシュメールから伝わったのかもしれません。(文字そのものはエジプト独自)しかし、エジプト文字は発展過程がないまま(発見されていない)、突然エジプト文明史に出現(文字文化が)している為、エジプト文字の成立そのものが、エジプト文明史の中でも謎なのだそうです。下にヒエログリフをのせましたから自分の名前でも拾って書いてみて下さい。ヒエログリフを読むルールは、動物の顔が向いている方向から読むのが正しく、右から書くとか左から書くとかのルールは存在しません。上にupしているものは左を向いていますが、右から左に書くときはその絵文字を反転してかきます。また、見た目が重視されるので、美しさを優先して、文字の順番が変更される事もあるそうです。かなり、自由になっています。
2009年05月25日
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ラストに関連のBack numberを追加しました。早くから天文観測が発達していた古代エジプトでは、正確な東西南北の方角を知っていた。太陽の沈む方角であるナイル川の西に死者は埋葬され、東から登る太陽と共に再生復活する事を願い、決して沈む事のない星(北斗)の輝く北の方角は永遠の命を得られる所で、またそれを願う方角だった。※ テーベの東に神殿が造営されているのに対して西岸は葬祭殿と墓所になっています。)「死者の書」とカノプスオシリス神の神話古代エジプトの死生観とミイラ造り来世によみがえる為のテキスト(古王国時代、中王国時大、新王国時代)古王国時代(ピラミッド・テキスト)中王国時代(コフィン・テキスト)新王国時代(死者の書)カノプス壺(canopic jar)ネコのミイラオシリス神の神話(概略)古代エジプト、ヘリオポリス(Heliopolis)(太陽の街)の創世神話からヘリオポリス創世の9柱(ちゅう)の一人であるラー (Ra)(太陽) は、そのまま太陽神であり、ヘリオポリスでも重要な神様の一人。その太陽神ラーの後を継承したのが、その子であるオシリス(Osiris)。オシリスは世界を統治しますが、妬んだ弟(セト)によってオシリスは二度殺害される。最初の時は、妻のイシスが亡くなったオシリス見つけて彼を蘇らせ事無きを得るが、二度目は体をバラバラに刻まれて殺され、かつナイル川に投げ込まれたのである。その為に2度目はイシスの力でも、オシリスの体を完全な形で蘇えりさせる事ができなかった。※ 生殖器が既に魚に食べられてしまっていたらしい。よって、セトに殺害されたオシリスは現世に現われることが出来なくなり、神々の審判により、現世はホルス(オシリスの息子)が統治し、冥界をオシリスが支配する事になったと言う。古代エジプトの死生観とミイラ造り再生復活とは冥界で蘇ることで、蘇る時に身体が完全な事が再生復活に重要となる。それがミイラ作りの理念らしい。※ ギザの大ピラミッドが建設される頃まで、現世の王がホルスの化身or代理人とする神王理念はこの神話からきているようです。エジプト神話においては、人間は肉体と魂(バー)と魂魄(カー)の3つの要素から成り立っていたとされ、人が死ぬと魂(バー)は肉体から離れ冥界へ行くが、肉体が存在していれば魂魄(カー)が、魂(バー)を肉体へ戻し、蘇る事ができると信じられていた。その為、肉体の保存は絶対に必要となり、ミイラ造りが行われたらしい。最も、時代時代でその考え方も違ったらしいし、やり方もかなり違ったのは確からしい。何しろエジプト史は3000年ですから・・来世によみがえる為のテキスト(古王国時代、中王国時大、新王国時代)古王国時代、中王国時大、新王国時代とかなり違いがあるのでちょっと面白いです古王国時代(ピラミッド・テキスト)死者(王や王族)が来世に無事な旅ができるようにと祈る文書(来世で復活)orそのまじないの文書(お経に相当するもの)が埋葬室の壁に書かれた物。それが古王国時代のピラミッド・テキストと呼ばれるもの。中王国時代(コフィン・テキスト)飢えや渇きから死者を守る。来世に何者にも変身ができる。来世への旅の途中の危険な事態を避けてくれる(旅の安全祈願)のようなもの。つまり中王国時代(コフィン・テキスト)は来世の生活が豊かで幸福なものになる事を保証する内容らしい。ちょっと古王国時代より欲張りに・・。文書は、壁ではなく、木製の棺やその蓋に記されたので、コフィン(棺)、テキストと呼ばれる。その風習は、王や王族だけでなく、貴族や神官などへも広がっている。下はルーブル美術館所蔵のコフイン・テキスト?新王国時代(死者の書)新王国時代になると、王を神聖視する風潮は薄れる。復活再生(来世=冥界)は王だけに限らなかった。現世で行いが正しく、手続きさえ間違わなければ誰でも(復活)できると考えられた。つまり、この時代には財力さえあれば誰でもok? 王族や神官に限られず金持ちにも広まった。かくして、王以外の場合の葬儀は、神聖さを装いながらも予算に合わせて行われ.BSになる。例えば、墓に描く絵もあらかじめパターンが幾つかあり、その中で選び、復活に必要なミイラさえ、予算で手抜きがされたらしい。まるで現代の日本の葬儀事情に似ていますね。墓に納めるヒエログリフの呪文も限られ、神官から買い求める事もできるようになっていたらしいから日本で言う、神社のお守りとか、般若心経のコピーのようなものに近い。葬儀で唱えられる「死者の書」は本来は200章に近い経文のようなものがパピルスに書かれているものですが、予算方式になれば、自分の欲しい章のみ書いてもらう方式となるので、実際、全章コンプリートされたものの発見はなされていないらしい。簡単に言えば「死者の書」は冥界へ手引き書。死後の冥界での審判と、死後の冥界での暮らしの手引き書と言える。そしてそれは予算次第で差が付く時代となった。それにしてもお金主義がこの時代の特徴。パピルスの中に描かれる絵も、人気作家であれば高価になる。よって安くすませたい人の為に、あらかじめ名前の箇所だけ空欄になっていると言う出来合いの既製品もあったらしい。また、その死者の書は直接ミイラの脇に添えられる場合もあれば神像のついた豪華な木箱に入れられる場合と何のへんてつもないただの木箱の場合に入れられると言うランク違いもあった。本当に日本の葬儀社とのやりとりみたいです墓には、自分の買ったお気に入りの章の挿絵が一つor東西南北に描かれ、冥界への旅の安全が祈願される。少しでもお金をかけて無事に来世にたどり着きたいと願ったわけですね。下はお土産屋の品ですが、おそらく「死者の書」を真似たものだと思います。天秤で秤られ、審判を受けている図のようです。恐らく実際のものより綺麗に描かれていると思います。お土産用ですから・・。カノプス壺(canopic jar)カノプス壺の紹介がまだだったので少し乗せます。ミイラの章で説明しましたが、ミイラを作る時、心臓を体に残し、4つの臓器(肝臓、肺、胃、腸)は「カノプス壺」と呼ばれる壷に入れられ大切に保管されました。(残りは捨てられる。)肝臓を入れる 人頭のカノプスはイムセティ・・イシス(オシリスの妻)説が多いです。肺を入れる ヒヒ頭のカノプスはハピ・・・・ネフティス(イシス妹)説も強いです。胃を入れる ジャッカルのカノポスはドゥアムトエフorドゥアムテフ・・ネイト腸を入れる ハヤブサのカノポスはケベフセヌエフorケベフセヌフ・・・セルケト※ 蓋にはお守りとしてホルス神の4人の子供たちの顔がかたどられているとする説もありますが、ホルス自体のラーの息子とオシリスとイシスの息子説がありはっきりしていない。下はカイロ考古学博物館所蔵のカノポスですが、カルトナージュで作ったか、簡単な素焼きの焼き物のようです。いずれにしろ安っぽいです。下はカイロ考古学博物館所蔵のツタンカーメン王のアラバスターのカノプスです。頭が人間になっているので、時代や考えで異なるのかもしれません。ネコのミイラもう一つミイラでupし忘れたネコのミイラ「ミュウ」です。死者の書の17章ではネコのミイラには聖樹を汚そうとする大蛇を斬り殺す役割があったとされる。末期王朝ではネコは下エジプトのブバスティス(タニス~メンフィスの間)で、バステト女神として信仰がさかんになった。多くのネコの像やミイラがバステト女神の神殿に奉納されたらしい。Back numberリンク 古代エジプトのミイラと棺 1リンク 古代エジプトのミイラと棺 2 (容器)リンク 古代エジプトのミイラと棺 3 (カルトナージュ) 「死者の書」とカノプス
2009年05月24日
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Break Time (一休み)ホワイト・アスパラガス今、ホワイトアスパラガスの旬です。(日本もそうですが・・。)一年のほんの短い時期にしか収穫ができないホワイトアスパラは、欧州の各国では季節の野菜としてこの時期珍重されています。(日本の竹の子のような感じで・・)上はアムステルダムで売られているホワイトアスパラです。手前は専門店の品で10本で9ユーロ、(1200円相当)上の袋はスーパーの品で500グラムパックで3.5ユーロ(480円相当)で値段も違いますが、質も違うようです。日本のホワイトアスパラの2倍以上の太さがあります。日本でも本州中部では4月下旬頃から6月にかけて若芽が成長。長さが25cmくらいに伸びたら食べ頃ですが、グリーンアスパラと違いホワイトアスパラは土を被せ遮光栽培したり、土を被せず鉄道などの廃トンネルを利用して栽培が行われているそうです。世界中から季節を問わず食材が届く昨今ですが、それは(旬がない)日本くらいな事で、たいがいの国々のマーケットではやはり旬の食材が市場を飾っているようです。上はオランダ、アムステルダムのCornelis Schuyt 通りの野菜専門店の店先で売られているホワイトアスパラです。値段は店によって違います。スペインではナバラ地方がホワイトアスパラの産地で有名で、そこの水煮のホワイトアスパラの缶詰は茎も太くて柔らかく絶品です。季節を問わず購入できるのが利点ですし、缶詰は缶詰の味の良さがあるので、時々買ってきてもらいますが、とても高級品です。エルコルテ・イングレセ・デパート(スペイン唯一のデパート)のブランド品です。(16×8.5×4.5センチ) 1缶10ユーロ(1350円相当)。太さで異なりますが、5本入りですから一本2ユーロです。すごく太い茎のホワイトアスパラだと1本で5ユーロ以上する品もあります。生より高いです。(生も高いけど・・。)下は5、6月限定の小田原のクロヤナギのホワイトアスパラのスープです。1本1000円(2~3人分)です。前にもクロヤナギ紹介しましたが、これも私のお気に入りです。(お取り寄せ)調理画像を入れたかったのですが、今日の画像は限界なので、欧州の一般的食べ方だけを紹介します。アスパラガスのフランダース風材料(3~4人分)ホワイトアスパラ500グラムゆで卵 2個バター60グラムレモン汁、塩、胡椒 少々刻みパセリ 少々1. ホワイトアスパラは皮をむいて、普通にゆでます。(一本切らずに茎から)2. バターを鍋で溶かして、泡立て器でよく混ぜながらレモン汁、みじん切りにしたゆで卵 を加えて塩、胡椒を少々。(こつは鍋に水を大4くらい入れておくと水の沸騰で拡販 しなくても泡立ちます。)3. 皿にホワイトアスパラを並べて2のソースを添え、刻みパセリを散らします。 (バターソースをアスパラにさらにかける所もあります。)へたをするとバターがギトギトです。バター・ソテーやマヨネーズなどを付ける一般的な食べ方も良いですが、「たまご豆腐」と「カニ缶」と「ホワイトアスパラ缶」の組み合わせにマヨネーズをかけて食べる相性も良いと思います。ただ、メインにならない割に高価になりますが・・。
2009年05月24日
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大きく、編集。ミイラから離れるのですが、棺桶素材のレバノン杉。その「レバノン杉不足の問題」事情を入れました。紀元前4世紀頃、プトレマイオス朝の前章はアレクサンドロスの遠征でエジプトがその支配下に入った事。要するにギリシャ人の支配者が来たので、以降でエジプトの王朝は激変する事になる。アレクサンドロスはこの遠征でシリア沿岸のフェニキア人の都市を傘下に納めペルシャに入るが、この時フェニキア人最大の都市テュロスを壊滅させている。この事は地中海の交易事情を激変させた。会社で言えばテュロスは地中海の貿易商人であるフェニキア人の本社である。それを街ごと破壊してほとんどを虐殺。のがれたわずかの者がカルタゴに渡った。※ 以降フェニキア人はカルタゴを拠点に活動するが、アレクサンドロスの破壊により途切れた文化や産業は多かったのではないか? と予想される。レバノン杉はまさにテュロス含むシリアの木材であり、フェニキア人の大きな交易品の一つであったのだ。確かにレバノン杉は伐採のしすぎで枯渇し始めていた。今のシリア沿岸地帯は森がどんどん消滅して砂漠化をすすめていた。これに加えてアレクサンドロスによるテュロスの壊滅。レバノン杉を大きく輸入に頼っていたエジプトではかなり困ったはずだ。※ 不足した物はレバノン杉だけではなかったはず。古代エジプトのミイラと棺 3 (カルトナージュ)木造の人型棺からカルトナージュ(Cartonnage)へプトレマイオス王朝以降新王国時代以降、ミイラ造りは増え数は増加して行く一方、その棺の質は著しく低下していったようです。王侯や神官などの限られた人達だけのミイラ保存がもっと下層の者にまで広がった? のかも。ウイーン美術史美術館のエジプト展示コーナー木造の人型棺からカルトナージュ(Cartonnage)へ第22王朝には、容器の材質も変わって行く。ミイラを木造りの人型棺だけでなく、カルトナージュで造られた棺も現れます。その理由は恐らく棺を造る為の木材不足かと思われます。エジプトでは木材がほとんどとれないので木材は輸入に頼っていた。それがレバノン杉です。これらはフェニキア人らによって地中海を経て運ばれますが、高級品ですし、レバノン杉じたいが伐採のしすぎで枯渇してしまうのです。簡単に言えば、カルトナージュはクラフト仕立ての容器です。凹凸が表現できるカルトナージュはミイラを包み、亜麻布やパピルスを漆喰で固めたものに彩色を施したもの。変化自在のマスクの制作には特に向いており、安価で迅速に作れるといったいくつかの利点があったようです。おそらく、エジプトで豊富にとれるパピルスをベースに作られたのでしょう。しかし、外側の棺自体の装飾は簡素なものになってしまったようです。プトレマイオス朝の棺はこのタイプが多いように思います。カルトナージュのミイラは作成された時代により個性もある。衣装、網目状のビーズ細工、仮面、装飾が施された木板、などで覆われ様々なパーツをのせて飾られていったようです。因みに、グレコ・ローマン時代と言われるプトレマイオス朝後半or以降の古代ローマ帝国時代にはミイラには包帯が巧妙に巻かれた見事なものが多く見られるようになったといいます。プトレマイオス王朝以降古代ローマ人とエジプト人では死生観も全く違いますが・・。古代ローマの埋葬はそもそもギリシャ由来でした。「霊魂は地下において生活を続ける。」(遺体を墓所に葬ると同時に、魂も同じように葬る。)と考えられ、霊魂の埋葬を重要な儀式としていた。葬儀そのものに重点が置かれていたのです。何よりそして火葬が多かったようです。人間の体を火に帰す? 飛翔させて天に帰す? ※ ローマで暗殺されたジュリアス・シーザーは広場で火葬でした。しかし、エジプトでもプトレマイオス王朝はもともとはアレクサンドロスのディアドゴイであったプトレマイオスが継承したのでギリシャ文化が融合されている。エジプト古来の王朝とは全く違うので、その葬儀や埋葬方法も大きく転換していると考えられ考慮しなければならない。※ プトレマイオス朝の首都アレキサンドリアのローマ人の場合。遺体の葬り方はエジプト流にしているようです。また、ギリシア人から火葬の習慣を早くに採用していたローマ人ですが、キリスト教の浸透とともに火葬が減っていく。遺骸を残すエジプト式の方がキリスト教に近い事もある。が、キリスト教自体が中東で生まれているのでエジプトの影響があったのかもしれない。下はカルトナージュ技法の棺のようです。とても雑ですが・・。右はエジプト人とわかりますが、左は神官か豪商? でしょうか。サラセン人ぽい顔です。美的にはゼロですが、カルトナージュされたものが他になかったので参考まで・・。下はミイラの上に付けるマスクです。ルーブル美術館所蔵です。上もルーブル美術館です。リアルですね。下はひょっとしたらカルトナージュでできているかも? のマスクです。かつて、エジプト考古学博物館、ルーブル美術館、大英博物館、メトロポリタン美術館、ボーデ博物館でミイラと棺を見る事ができました。量と美しさで感動したのはボーデ博物館だったと記憶しています。ボーデ博物館は旧東ドイツのベルリン(東ベルリン)の博物館島の中にある美術館の1つです。プトレマイオス王朝と思われる時代のエジプトとローマ帝国の彩色豊かで美しい棺の数々が、「閉ざされていた東の壁の向こうに眠っていた。」と当時思ったのを記憶しています。(行ったのは壁崩壊後ですが・・。)1つ1つが美術的にずば抜けていて、コレクションのセンスが伺えて感激したような気が・・。あのコレクションはゲーリング空相? orヒットラー? が集めたのでしょうか?(ボーデ博物館には有名なネフェルティティの胸像もあります。)もちろんルーブルの棺やイギリスの棺は時代の古い木棺など考古学的にも価値の高い棺が多く、とても素晴らしいです。ミイラはともかく、遺跡発掘の金銭的オーナーになった人達が、自分の取り分としてかなりの量の遺跡の出土品を本国に持ち帰り、個人コレクションにしています。デンマーク、コペンハーゲンにあるニュー・カールスベア美術館(ビール会社社長)は、そういった意味で個人にしてはかなり膨大な彫刻コレクションを持っていました。まったく余談ですが、「ゲーリング空相が集めたコレクションはどうなったんですか?」 と、ドイツ人で、戦争当時国防軍側だった方(独の大学教授)に質問した事があります。彼は「アメリカに持って行かれた!」と冷たく答えてくれました。恐らく絵画などの良い物だけ持って行かれたのでしょう。それが今メトロポリタン美術館にあるかは判りませんが・・。Back numberリンク 古代エジプトのミイラと棺 1リンク 古代エジプトのミイラと棺 2 (容器) 古代エジプトのミイラと棺 3 (カルトナージュ)リンク 「死者の書」とカノプス
2009年05月23日
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ラストにback numberを追加しました。ミイラの容器(棺)の紹介です。古代エジプトのミイラと棺 2 (容器)サルコファガス(sarcophagus)ウイーン美術史美術館のエジプト展示コーナーから御影石の石棺サルコファガス(sarcophagus)ミイラの話は前回しましたが・・。ミイラの収められていた容器がサルコファガス(sarcophagus)です。石棺全般をさして使用されます。古初期のミイラは、樹脂に浸した包帯で遺体を巻いただけのものであったようですが、そのミイラには生前の姿(顔)のマスクがとりつけられ、棺に入れられていました。中王国以降その棺は、人型棺と呼ばれ、通常は2重で構成されていたそうです。※ 特に一番目の人型の棺(ひつぎ)がコフィンと呼ばれたらしい。コフィンには死者の書が描かれている事も。※ ツタンカーメン王の場合は4重の木製金張りの逗子と珪岩製の石棺、3重の人型棺で特別多く、身分で例外はあるのでしょう・・最初の一つの棺は埋葬者の日常着ていた服装で描かれ、外側の棺は華やかに彩色された「ミイラ型」と呼ばれる独特な表現で、多数の象徴的な図で装飾された屍衣に包まれていたようです。各美術館に眠っているそれらは、絵画的に見ても非常に芸術性が高く素晴らしい物? 芸術作品? 棺と言えど、もはや貴重な美術品として存在しています。※ 死者の書、コフィンテキストについては以下にリンク 「死者の書」とカノプス下はルーブル美術館と大英博物館の所蔵の棺ですが、時代はわかりません。とりあえずその芸術性を見てください。木棺と金貼り棺なので、ぎりぎり末期王朝以前だと思います。ルーブル美術館所蔵の木棺上は全てフランス、ルーブル美術館所蔵の木棺人型でないのもある下はホルス(Horus)神古代エジプトでホルスは王。ファラオはホルスの化身ととらえられていたらしい。黄金の棺大法官イメネミネットのサルコファージュBC7(木棺) ロンドンの大英博物館Fロンドンの大英博物館G木棺つづく・・リンク 古代エジプトのミイラと棺 3 (カルトナージュ)Back numberリンク 古代エジプトのミイラと棺 1 古代エジプトのミイラと棺 2 (容器)リンク 古代エジプトのミイラと棺 3 (カルトナージュ)リンク 「死者の書」とカノプス
2009年05月23日
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ラストにback numberを追加しました。古代エジプトのミイラと棺 1ミイラ造りミイラ(mirra)とミルラ(Myrrh)不老不死の薬となったミイラ古代エジプトでは、霊魂は不滅だと信じられ、死後も霊を生かしておくには肉体をそのままの形に保たねばならないと考えられていました。だから死体を腐敗させないで保つ為にミイラは考案されたのです。紀元にしてBC2600年から紀元前後のキリスト教時代にいたるまでミイラは作られたと言います。初期のミイラは、「樹脂に浸した包帯で遺体を巻いただけのもの。」だったそうですが、その後、手法は飛躍的に進歩し新王国時代に完成したと言う事です。下はフランス、パリのルーブル美術館所蔵のプトレマイオス朝時代のミイラとされています。(BC300~BC200)エジプト史としては最後に近いタイプですね。手前にあるのがカノプス壺で、四つの臓器(肝臓、肺、胃、腸)の入れ物です。ミイラ造り心臓以外の内臓を摘出したあとの死体を70昼夜にわたって天然炭酸ナトリウムに浸け込み、それから取り出すと、あとは布(亜麻「リネン」)を幾重にも巻き上げて完成。その上で生前の姿をマスクとしてミイラにつけて埋葬されました。(この事が「包帯=ミイラ」ミイラの象徴? に思われた?)ベルギー、ブリュッセルにあるネサンカントネール美術館からミイラ造りに使用された亜麻布。内臓の摘出には開腹手術で取り出し、脳の場合には鼻から鉤状の器具を挿入して(頭蓋骨を開かない)取り出していた。脳は捨てられたが、心臓は(理性の場と考えらていた為)体に残された。他の4つの臓器(肝臓、肺、胃、腸)は「カノプス壺」と呼ばれる壷に入れられ大切に保管された。カノプスの蓋にはお守りとしてホルス神の4人の息子たちの顔がかたどられた装飾がほどこされている。下はベルギー、ブリュッセルにあるネサンカントネール美術館から下はイギリス、ロンドンの大英博物館所蔵のミイラです。時代がわかりませんが、ルーブルのミイラより古いようです。カルトナージュの容器ぽいですね。中王国以後プトレマイオス以前ではないでしょうか?ミイラ(mirra)とミルラ(Myrrh)ミイラ(mirra)の語源は防腐処理に使われた樹脂ミルラ(Myrrh)(没薬・もつやく)からきている。ラテン語myrrhorペルシア語mumiaiの両説あり、「木乃伊」は、オランダ語のmummieの音訳と言われている。ミルラは現代も香油(Essential Oil)としてアロマ・テラピーの中で生きています。カンラン科の樹木で、生息地はインドから南アラビア、東アフリカ、マダガスカルに分布。殺菌作用があり、鎮静薬、鎮痛薬、花粉症、他、インフルエンザの症状にも良いとされています。(症状に効くと言うだけで治りませんよ・・)古代エジプト時代からエジプト含む中近東では欠かせない薬として扱われ、貴重な交易品です。不老不死の薬となったミイラ死後の再生を願って造られたミイラですが、なぜかミイラを食すと不老不死になれる? ミイラには漢方薬として不老不死の薬効があると信じられ珍重された過去があります。江戸時代? 以前から? 日本にも輸入され薬種問屋で売られていました。その為にかなりのミイラが掘りおこされて売られて、破壊されたようです。下は、センネジェムの墓の壁画の本を写真撮影しました。ミイラを祝福するアヌビス神。アヌビス神はミイラ作りの神様です。上のミイラに敬意を表してupしました。古代エジプトでは誰もがミイラにされたのではありません。多くの民は砂漠に掘られた単なる穴に埋められ、質素な供物が置かれるだけでした。(遺体はジャッカルによって掘り返され食われる事も・・)王族貴族などの一部の権力者が遺体を保存することによって、来世生きる事を約束されたわけです。つづく Back numberリンク 古代エジプトのミイラと棺 2 (容器)リンク 古代エジプトのミイラと棺 3 (カルトナージュ)リンク 「死者の書」とカノプス
2009年05月23日
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神殿など追加しました。有名な王や墓の名を知っていても、時代がわかりにくいので、ポピュラーな所のみ抜粋してみました。(次回からの参考にして下さい。次回ミイラの予定です。)参考の為の古代エジプト史BC3000~ 初期王朝(第1~第2王朝)BC2650~ 古王国時代(第3~6王朝) ピラミッド時代 ピラミッド・テキスト 階段ピラミッド(サッカラ) 屈折ピラミッド(ダハシュール) 真正ピラミッド(ギザの3大ピラミッド) ジェセル王(3) 階段ピラミッド(サッカラ) スネフル王(4-21)屈折ピラミッド(ダハシュール) クフ王の父 クフ王(4-22) 真正ピラミッド(ギザ最大規模の墓?) カフラー王 メンカフラー王BC2180~ 第1中間期(第7~第10王朝) BC2040~ 中王国時代(第11~12王朝) ピラミッド時代 カルナック神殿建設始まる~(テーベ東岸) ルクソール神殿~(テーベ東岸)BC1785~ 第2中間期(第13~第17王朝)BC1565~ 新王国時代(第18~20王朝) 王家の谷・墓所(テーベ西岸18~20) 葬祭殿(テーベ西岸18~20) カルナック神殿増築(大規模)な巨像.列柱) ルクソール神殿増築(オベリスク) アブシンベル神殿(ヌビア) 何層にも包まれた棺、死者の書 トトメス1世(18-3) ネフエルティティ(18) アンエンアテンの王妃でツタンカーメン王の義母 ハトシェプスト女王(18-5) ハトシェプスト女王葬祭殿 モーセを拾って育てた義母? ツタンカーメン王(18) 黄金のマスクと棺 ラムセス2世(19) アブ・シンベル神殿、ラムセス2世葬祭殿BC1070~ 第三中間期(第21~第26王朝) 大司祭国家 棺にカルトナージュが使われるBC700~ 末期王朝(第27~第31王朝)BC305~BC30プトレマイオス朝 プトレマイオス5世 ロゼッタストーンの碑文の王 クレオパトラ7世 王朝最後の女王 王家存続の為にローマのカエサル (ジュリアス・シーザー)とマルクス・アントニウスを たぶらかしたと言われている美女。下はイギリス、ロンドンの大英博物館のラムセス2世の巨像です。テーベ・アブシンベル葬祭殿から出土し、右胸の穴はナポレオン軍が持ち帰る時に開けたと言われる? (新王国の時代)第19代王、(1314頃~1224頃)24歳で即位、66年間統治、90歳で没。第1王妃ネフェルタリ。治世の前半期はヒッタイトとパレスチナで勢力を争う。(長年戦争を続けたのち、エジプトとヒッタイトは平和条約を結んで休戦(ヒッタイト王女を王妃に迎える。)彼の治世に、エジプトはリビア、ヌビア、パレスチナに勢力を伸ばし繁栄。アブ・シンベル神殿を造営すると同時に記念モニュメントも多い王である。ミイラは1881年に発見され、現在カイロの考古学博物館に収蔵。因みに、旧約聖書「出エジプト記」で、「ユダヤ人を奴隷から解放するよう」モーセが要求したファラオとがラムセス2世ではないかとされている。
2009年05月22日
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キュ-ケンホフ(Keukenhof) 国立公園(1949年~)タイムリーな話題なので紹介です。キューケンホフ公園は今が見所です。開演は大体3月末から5月中旬。花の咲き具合で毎年異なるそうです。もともとチュ-リップ等の春の花々を楽しんでもらおうと造られたのが、花の公園「キュ-ケンホフ」公園なのだそうです。チュ-リップをはじめヒヤシンス、ムスカリなどおよそ4000種の球根花で総数700万株に及ぶと言うことです。(日本では見たこともない種類、の花も多い)32ヘクタールの園は庭園家の作品で、白鳥など水鳥の泳ぐ池や川、林、小径、多くの彩りの花壇があり、風車もある癒しの庭園です。(5月中旬になるとチュ-リップの刈り取りがあるので9月まで閉鎖。)キュ-ケンホフの名の由来は台所(KictchenK)はオランダ語でキュ-ケン(Keuken)、庭はホフ(Hof)と言う意味から来ています。15世紀頃の所有者、ヤコバ・ファン・バイエルン城の領地の一部(狩の館)であり、城のキッチン・ガーデンでは野菜やハ-ブが栽培され調理に使われたそうです。1857年頃、ゾッハーというランドスケープ・デザイナー(庭の景観デザイナー)が庭園の設計を任されました。英国風のランドスケープに着目したゾッハーは現在のキューケンホフ公園の原型を作り上げたと言う事です。(当時ランドスケープ・デザイナーは貴族に人気だった。多くの絵画にそのアルカディア的デザインの庭が描かれている。)オランダ政府観光局のコメントより「キューケンホフのあるリッセの町の市長、球根花の生産業者と輸出業者が発起人となり、オランダの球根のショールームとして、屋外の花の展示会が1949年に初めて開催されました。その後、毎年開催されるようになり、オランダで一番人気のある観光地として、既に4500万人以上の来場者を迎えています。93もの権威のある一流の専門業者が、最高の品質、世界一美しい球根を提供しています。世界最大規模のこの球根花の公園は、2009年、開園60年を迎えます。」園内はゆっくり回ると90分。売店も所々にあります。今すぐ飛行機に乗れば間に合うかも・・。
2009年05月22日
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キュ-ケンホフ(Keukenhof) 国立公園春のオランダと言えばチュ-リップ畑。北海に面した海岸の砂地地帯は一帯一面はチュ-リップ畑となり、チュ-リップのカーペットです。このキューケンホフ周辺は球根業者の栽培地です。下は、キューケンホフ近郊のチューリップ農園です。球根栽培は、16世紀以来「古い」砂丘周辺で発展。このあたりは土壌が石灰質で、砂の多い地域であり、球根栽培に適しているからのようです。しかし畑では球根を育てるために咲いた花はすぐに摘み取ってしまいます。開花の直後に花を摘めば土中の球根は養分を保存できるので、球根は痩せないですむからです。(本来花の為に蓄えられた養分をキープするのが目的)花を刈った後、2ヶ月~3ヶ月でトラクタ-により花の伐採、球根の収穫が行われるそうです。園芸農家は、冬期は温室で花を栽培する等して、この国の園芸に携わる人口は7万人と言われています。世界の花市場の70パーセントを供給している為、「オランダはヨ-ロッパの花屋」とまで言われているそうです。チューリップバブルオランダでは,ネーデルランドの時代にチューリップ・バブルorチューリップ狂時代と言われたチューリップ・マニアの時代がありました。(ヨーロッパの3大バブルに数えられる事件です。)16~17世紀当時、オスマン・トルコから輸入されたチューリップは投機の対象になっていました。(商品先物市場ですね。)そのバブル期、球根1個が1000万円? になった時もあったといいますが、バブルがはじけて100分の1以下にまで下がり、オランダ諸都市は大混乱に陥ったといいます。(画家のル-ベンスも手を出していたらしい。)原因ははっきりしていないようですが、オランダが八十年戦争(1568~1648年)に勝利しネーデルラント連邦共和国として独立すると、(ポルトガルから香料貿易の利権も奪う)海上帝国として急速に発展します。中部ヨーロッパで起きていた三十年戦争(1618~1648年プロテスタントvsカトリックの宗教戦争)の影響もあり、アムステルダムに商取引が集中した事。オランダ東インド会社がバタヴィア(インドネシア、ジャカルタのオランダ植民地)の経営が利益をあげていた事なども背景にあるとされます。(現在の株式のもとは、このチューリップマニア(投機)に由来していると言われています。)チューリップの発祥はもともとは天山山脈と伝えられ、オスマン・トルコが勢力を広げるなかでチューリップをコンスタンチノープルに持ち帰ったと言われています。映画「黒いチューリップ」フランスの小説家アレクサンドル・デュマ・ペールによる小説を映画化したもので、17世紀のオランダで起きたチューリップ・バブルの中で起きた悲哀とロマンスの話です。アラン・ドロンが主演だったので覚えていました。チューリップだけでも語れますね・・。次はキューケンホフです。
2009年05月22日
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ベルギーのチョコレートの歴史を調べていたら、結局チョコレートの歴史をさかのぼる事になりました・・。結構長いです。ベルギーのチョコレートとチョコの歴史チョコレートの起源チョコ飲料のヨーロッパ上陸チョコ飲料が飲みやすくなるチョコ飲料からチョコレートに、そして庶民に・・ベルギーのチョコレートベルギー王室御用達ブランドチョコレートの起源メソアメリカ(オルメカ、マヤ、アステカ)と呼ばれる中南米地域一帯の文明社会において、カカオをすりつぶしたものを薬として飲用していたのがファーストチョコらしい。※ 中米のクエリョ遺跡やマヤ文明の地層から、カカオ豆や外皮などが発見されて判明。熱帯雨林に自生するカカオの木を最初に発見したのは、マヤインディオだったそうだ。探検家で、商人のクリストファー・コロンブス(1451頃~1506)が1502年、最後の航海中にマヤ人と会い、彼らの荷物の中にカカオ豆を見付けて手にしているらしいが、残念な事に彼は興味がなかったらしい。だから? 1519年 アステカでカカオ飲料に会い欧州にカカオをもたらしたのはスペインの、コンキスタドール(探検家にして、征服者)のエルナン・コルテス(1485~1547)となった。チョコ飲料のヨーロッパ上陸1528年コルテスがアステカを征服して、、さまざまな略奪品やカカオ豆をカルロス1世(カール5世)に献上。カカオは、ヨーロッパに知れ渡って行く。※ コルテスはこれにより、爵位をもらっています。1606年、スペイン宮廷に出入りしていたイタリア商人カルロッティによりカカオは国外に持ち出され、イタリアへ渡る。1615年、オーストリア皇女アンヌ・ド・オートリッシュがフランスのルイ13世に嫁ぐ時、チョコレートコックを連れて嫁入りしたらしい。これにより、チョコレートはフランスの貴族の中でも大流行。1650年頃になるとイギリスには「チョコレートハウス」なる飲料店もオープン。貴族ばかりでなく庶民へも広がる。100年遅れて1765年カカオはアメリカに渡る。初のチョコレート工場が創業。チョコ飲料が飲みやすくなる1828年オランダのコンラート・ヴァン・ホーテンが、カカオから脂肪分を分離させるココア搾り機を発明。チョコレートを飲みやすくしたそうだ。(日本でもおなじみのヴァン・ホーテンですね。)チョコ飲料からチョコレートに、そして庶民に・・1847年ヴァン・ホーテンの技術を用いてイギリスのフライ社が型に流し込み成型したチョコレートを発明。現在のチョコレートの原型が始めて誕生。 1876年、スイスのダニエル・ピーターが、粉末にしたカカオペースト・砂糖・ミルクにココアバターを加える製法を開発。それまで強かった苦味をおさえた「ミルクチョコレート」が誕生。※ 明治になると、日本にもチョコレートが上陸。大変高価な贅沢品でした。1900年、ミルトン・S・ハーシーがチョコレート製造を開始。板チョコの代名詞ともいわれる"ハーシーバー"を発売。多くのチョコレート工場がつくられた時代です。※ ハーシーズのキスチョコは有名ですね、庶民的なチョコですが、とても美味しいチョコです。(ロイスのチョコレートの歴史参考)ベルギーのチョコレートベルギーには王室御用達のチョコレート屋がけっこうあります。ベルギーのブリュッセルは、古くからチョコレート作りの中心地としてヨーロッパに知られていたらしい。当初、チョコレートの原料であるカカオは、薬と同様 薬剤師にその扱いが任されており、薬剤師のいる店に置かれていたそうだ。一般の菓子店とは区別されていたからノイハウスの創業者は薬剤師だったんですね。なるほど・・ところでベルギーでは「ショコラ(chocolate)」とは言わず、「プラリネ(Praline)」と呼びます。プラリネはベルギーが発祥だからですかね。ベルギー王室御用達ブランドNeuhaus ノイハウス(1857年創業) ブリュッセルで薬と菓子を商う店として誕生。 スイス人の薬剤師であったジャン・ノイハウスは、チョコレートを販売する だけでなく、意欲的に新しいレシピを研究し、チョコレートの美味しさを 極めることに。1912年、3代目のジャン・ノイハウスがナッツ類に飴を からませ、ペースト状にしたものをチョコレートに閉じ込めた「プラリネ」を 誕生させます。今のプラリネの祖です。Cote d'Or コート・ドール(1883年創業) 理想のカカオ豆を追い求め、出会ったのが西アフリカのゴールドコースト (現ガーナ)、フランス語で「Cote D'Or」。この地名をブランド名に、 そしてアフリカの象徴である白像をシンボルにした。 Wittamer ヴィッタメール(1910年創業) 美味しいものを一番良い状態で味わってもらいたいという創業者 アンリ・ヴィタメールの強い信念。また創業以来ブリュッセルの グラン・サブロン広場にある1店だけで作り続けてきたこだわり。 今はたくさん出店していますけど・・。Godiva ゴディバ(1926年創業) 日本でおなじみなので書きませんが、アメリカではゴダイバと呼ばれ、 日本のようにチョコレート屋さんが多くないので、高級チョコの代名詞的 なとこがあります。Galler ガレー(1976年創業)1994年 異例のスピードでベルギー王室御用達に認定されたチョコレートブランドMarry マリー (1919年創業)日本のマリーとは違うようです。ブリュッセルの国会議事堂 近くのロワイヤル通りにあるようです。 ベルギーには御用達以外にもたくさんのおいしいチョコレー(ブラリネ)屋さんがあります。どこも自信を持って作っているので、甘みなどの味は好みの部分も大きいと思います。まずは試して見ることかもしれません。私の今のブームはこの中ではヴィッタメールです。特にここのケーキも絶品です。(池袋西武デパートに入っている。)ても今回紹介するのはJean Philippe Darcis ジャン・フィリップ・ダルシーベルギーの新しいチョコレートのお店です。今回はグランプラスから60mにある店の写真をupしました。2001年ベルギーチョコレート大会優勝。2002年のラスベガスでの世界菓子職人権で銅賞。ダルシー氏は、ショコラ・ベルジュの終身称号を持っているそうで。日本でも一度紹介され、すでに人気のようです。グランブラス店、日本人もいるので言葉が通じますよ。値段が見えますか? 今1ユーロ131円くらいです。この間これをいただきました。上段のプラリネは2層になっていて、見た目よりもたくさん入っています。ただ、ラベンダー味とか、アールグレイ味とかの香料系のチョコクリームのプラリネは、私は苦手です。でもそれは他にはあまりないかもしれない。全部ほとんど一人で食べきるのは珍しかったです。(ここの所疲れてるからかな?)このチョコを紹介しようとずいぶん長くなってしまいました。そして、疲れも倍増です。
2009年05月21日
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Break Time (一休み)今日は一日ぐったりです。昨日? いえ一昨日からあまり寝ていなくて・・今朝寝るときは思いっきり金縛りになり、寝かせてもらえなくなりました。何とか寝て1時頃携帯メールで起こされましたが、まだ力が出ません。昨日買ったマカロンが残っていたので食べて少しエネルギー補給。甘い物は偉大です。(マカロンは結構いけました。小さいけど・・。)実はメールがこの2日受信できなくて・・パスワードを聞かれる事がなかったのですっかり忘れてしまい(思いもしないナンバーだった)やっと今朝方何んとかしたところです。恐ろしいメールの量を見てまたゲンナリですよ・・・。下はマダガスカルのカエルさんです。トマトガエルとか言うらしいです。何となくカワイイのでupしてみましたが、毒がありそうな色ですよね、ヒキガエルぽいですね。大きさも。私はカエルは触れませんが、食べた事はあります。(足の唐揚げで)お肉は鶏肉のようでやわらかく、あっさりしていて美味しかったです。中国料理に良くある素材で、たまにフランス料理でも見かけます。「カエルの足のスープ」とか言うのが以前ありましたが私は遠慮しました。
2009年05月21日
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倒れそうで倒れない、斜めにかしいだ塔で有名なピサです。ピサはイタリアのトスカーナ州でも西のリグーリア海に面した街である。教会自体のある広場は市内から少しはずれていて、アルノ川河口から10キロ程さか登った所に位置しているので、海に近いと言う感覚はありません。アクセスは、フィレンツェから電車で50分くらいで、斜塔へは駅からさらにバスで10分弱? フィレンツェからの日帰り旅行で行けます。ピサと言えばロマネスク建築の斜塔のイメージから中世の街に思われがちですが、歴史は古く、古代ギリシャの植民都市として開かれたのが起源ではないかと言われる海洋国家だったそうです。以来海港として、ローマ時代には海軍基地となり、中世にはジェノバやベネチアと並んで地中海に勢力を伸ばし、パレルモ沖の海戦(サラセン帝国との戦)で勝利すると、1162年に神聖ローマ皇帝より広大な領地と特権を与えられ、ピサの最盛期を迎えます。(その12~13世紀に街のモニュメントのほとんとが作られたと言われています。)その後ジェノバとのリグリア海の利権争いで敗北し、サルディニア島、コルシカ島の利権を失ったのをかわきりに衰退し、1405年フィレンツェの支配に落ちると歴史から消えていきます。ピサの街は大聖堂(ドゥオモ)、鐘塔、洗礼堂、共同墓地(カンポサント)の複合体を一体とみて、「カンポ・デ・ミラーコリ(奇跡の広場)」と呼ぶそうです。(生まれて、洗礼し、教会に通い、死んだら墓に・・と言う一連の流れがそこにある都市計画は、古代ローマの典型だと言うことです。)世界遺産に登録されています。写真左大聖堂(ドゥオモ)で右に鐘楼が配置され、写真手前左に洗礼堂があります。大聖堂の建築はパレルモ海戦の勝利を記念して建設されます。(1063年に着工1118年に献堂)建築家ブスケートの作で、ロマネスク・ピサ様式の代表作です。装飾的なファサード部分(正面)は40年後にライナルドによって増築されています。聖堂内部は、5身廊式で古代ローマのバシリカを思わせます。写真中央に下がっているのがガリレオ・ガリレイが、振り子の法則を発見したと言われているブロンズ・ランプです。下が洗礼堂。3つの層からなり。上部と中間がゴシク様式で、下部がロマネスク様式、高さ55m。どこにも書いていないが、ガリレオもここで洗礼を受けたのではないかと思われる。下がピサの斜塔。本当ならただ美しいだけの鐘塔である。斜めになったからこそ世界にその名が知れた・。大聖堂の鐘塔として建てられた6層の回廊を持つ塔(1173~1350)は、ボナンノ・ピサーノの設計。3層まで建築したところから地盤が沈下し、(このあたりはアルノ川の運んだ砂地らしい)4層目から角度の修正を加えて建築を続行し地上55m、階段は297段あり、重量は14,453t、。着工から180年近くかかり、ズレは4.5mとか・・。今は、これ以上倒れないようにされていると言う事です。(昔、熊谷組が工事していたような・・)上に登る程、傾斜がきつく、落ちそうで端には寄れません。ちょっと危険でしたね。ぜったい今まで誰か落ちていると思います。さて、ここは、ガリレオ・ガリレイが小さな鉄の玉と大きな鉄の玉を、斜塔の上から落として実験した事で有名でもあります。ここ、ピサを出身に持つ素晴らしい学者が二人います。ガリレオ・ガリレイ(Galileo Galilei)(1564~1642)は、イタリアの物理学者、天文学者、哲学者です。もともとガリレイ家はフィレンツェ出身の小貴族でしたが、父の仕事で彼はピサで生まれます。17才(1581年)の時にビサ大学に入学し、医学を志しますが、在学中にピサ大聖堂のランプの揺れを見て「振り子の等時性」を発見。その後に数学・物理学に転向します。25才頃ピサの斜塔から「鉄球落下の実験」を行っています。(これは当時の物理学で最高権威のアリストテレスの著作に反していたため認められなかった。)28才から46才までの18年間、パドヴァ大学の数学の教授となりますが、趣味か? オランダで発明された望遠鏡を改良して惑星の自転を見ていて「木星の4つの衛星」「金星の公転と満ち欠け」「太陽の黒点」「月面の凹凸」などを発見してしまいます。(コペルニクスの地動説を証明したわけです。)天動説(神主体の・・)を主張する教会とは正反対であるので、ローマの異端審問所の宗教裁判にかけられる事2度。判決の際「それでも地球は動く」と言った言葉は有名ですね。彼のそんな業績から天文学の父と呼ばれていますが、一方カトリック教会の敵と見なされた事で、カトリックとしてのお葬式も墓にも当初入れさせてもらえなかったそうです。現在墓はフィレンツェのサンタ・クローチェ教会に多くの偉人達と並んで置かれています。(正式な許可に基づく埋葬は1737年3月12日に行われたそうです。)裁判の誤りを認めた。法王によりガリレオの破門がとかれたのはなんと、その死から350年もたった1992年のことです。 (ニュースで見て、今頃? と思った。)下はガリレオの眠るフィレンツェのサンタ・クローチェ教会です。この聖堂は、ガリレオだけでなくミケランジェロ、マキャベリ、ジョヴアンニ・ジェンティーレ、ロッシーニといった著名なイタリア人の埋葬場所でもあり、そのことから(イタリアの栄光のパンテオン)としても知られているそうです。ピサにはもう一人の偉人がいます。レオナルド・フィリオ・ボナッチ(1170頃~1250頃)またはレオナルド・フィボナッチ(ボナッチの息子レオナルドの意)「インドの方法」(modus Indorum)としてアラビア数字(私達が現在使っている算用数字)を紹介し、ヨーロッパに導入したイタリアの数学者です。(まだローマ数字を使っていた。)彼の「算盤の書」は簿記にもてきしていて、知識人に広く受け入れられたと言う事です。同時にもたらした「フイボナッチ数列」は有名です。 フィボナッチ数列の各項を一辺とする正方形彼の名だったんですね・・。(インドの数学書にはもともとあったらしい。)彼もピサで生まれた人です。すごい発見ですが、一般にはあまりかかわりがないので知られていないのかも・・。ビサは学者を生む素養があった街だったようですね。ピサ大学は1343年に創設された歴史の古い大学です。(今ももちろんあります。)それも地中海貿易で繁栄して、財力があったからなのでしょうか・・。
2009年05月20日
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今日はプチっと良いことがあった。病院の再検査でパスしたのだ。正直パスだったのが信じられないのだが・・。病院帰りにエチカ池袋でこの間から気になっていたチョコレート屋さんで喜び記念のチョコを買ってきた。(後々見れば、この間のシュークリングとおなじグローバル・ダイニング社の系統だった。)Decadence Chocolat(デカダンス・チョコ)と言う新しいチョコレート屋さんだ。手前バレンシアと名がついているが、オレンジピールである。2枚で450円左マカロン包装がせこいので家で見たら潰れていた。1個160円で、一番人気が潰れていたフランボワーズだそうだ。マッシュ・ストロベリーはイチゴの周りをマシュマロで包み、チョコでコーティングし、フリーズドライのイチゴをトッピングしている1本120円。ワン・カップ・チョコと名付けられたこのスティックは暖めたミルクを注いでホットミルクチョコになるようだ。1つ350円。ステファン・ヴューと言うフランス人がエグゼクティブ・プロデューサーと言う事で、日本とフランスの融合をはかったとか、産地、品種にこだわったとかいろいろうたい文句があるようだが・・。確かにギフトのチョコでできたボックスにドライフルーツやナッツのトッピング・ブーケがしてあるものは、センスの良さを感じるし、マッシュ・ストロベリーはカワイイと思った。見かけがオシャレでカワイクて、華やかで目に付くが、別にこんな程度のはどこでもあるさ・・程度の味だった。特にかわいかったマッシュ・ストロベリーは全然駄目、イチゴ・フォンデューでその場で食べるならまだしも、冷やして持ち帰ってもね・・。イチゴ大福のが上を行く。撮影の為に2本も買ってしまった・・。バレンシアと名が付いているオシンジピールは、うーん、そこそこ? でも次は買わない。実は私オレンジピールが大好物です。海外のチョコレート屋さんでオレンジピールを見れば必ず買って試食しています。一般に皮だけをスティックにした品が多いですが(日本のはもの凄く細い)オレンジの質で8割方決まります。(身の厚さや甘さ、しっとり加減)オレンジの甘さに準じたチョコの甘さも大事ですが、チョコはそこそこ良い物であれば大丈夫です。身とチョコのバランスはシェフの好みでしょうから、その好みとマッチすればいけるのではないでしょうか?私が食べた中で最高のは地中海のシチリア島のお土産でいただいたオレンジピールです。(地元の小さなお店で量り売りされていた。)オレンジの皮が厚くて、一本が親指より太いスティックタイプでした。(シチリアのオレンジは最高!)今回のは私の中では5番手以下かな? 良いものを食べ過ぎているので・・。ゴメンナサイ。カップ・チョコはまだ飲んでいませんが、美味しければ今度絶賛します。でも、ラ・メゾン・ド・ショコラで似たようなのがでていますが、(形は違う。)チョコレートがすぐ溶けるのかな?せっかくなのでupしました。一番左がメゾン・ド・ショコラの素材です。昔はドリンクでボトルに入って売られていました。日本では青山の森ハナエビル1Fに入っています。パリが本店です。真ん中と右は、私があまりにオレンジ・チョコが好きなので、「自分で作って食べなさい! 」と姉にもらったものです。(でも、めんどくさくてねー。)
2009年05月20日
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今日はバラの話です。バラの歴史は私達が知っているよりかなり昔にさかのぼるようです。イングリシュローズとバラの話バラの歴史イングリッシュ・ローズ.古代バビロニアの「ギルガメッシュ叙事詩」(BC2600年頃)の中にバラの棘について触れた箇所があるそうですし、同じ頃栄えたクレタ島には、(クレタ文明orミノア文明)世界最古のバラの絵が見つかっているそうです。何よりもバビロン第1王朝(古代バビロニア)の宮殿にはバラ園があり、観賞用ばかりでなく、すでに香料や薬用にも利用されていたと伝えられている事は非常に興味深いです。ルーブル美術館所蔵上はBC8世紀のバビロン10王朝あたりのアッシリアの「有翼の牡牛」のレリーフと人です。こんな時代にはすでにバラが愛好されていたわけです。バラはギリシャ・ローマの神話の中では重要な役割を持ち愛の女神アプロディーテ(ビーナス)と関連づけられ、やがてはキリスト教とも深いかかわりを持つようになりますが、エジプト、プトレマイオス王朝最後の女王となったクレオパトラ(BC69~BC30)は特にバラとその香油を愛好し、ガイウス・ユリウス・カエサル(ジュリアス・シーザー)(BC100~BC44)を香油で歓待したとも言われています。(香油から香水は作られます。)古代ローマでも、もちろん愛好され、北アフリカや中近東で栽培され、第5代ローマ皇帝のネロ(暴君ネロ)(AC37~AC68)は特にバラを愛し、庭園の池にバラを浮かべ、バラ水が噴き出す噴水があり、部屋はバラで飾られ、天井からバラが舞い、料理にも使われたと言う話は有名です。7世紀のイスラム帝国(サラセン帝国)時代には領土は東は唐(中国)に北アフリカのほとんどとイベリア半島(スペイン、ポルトガル)を手中にします。バラもそれとともに拡大し、アジア原産のバラもヨーロッパに入りだし、それにより品種改良がなされ、多くの品種ができはじめました。でも、これはまだ序章です。1759年中国のコウシンバラがヨーロッパに入ると四季咲きのバラに注目され、品種改良が加速されます。現代のバラは主にヨーロッパで作り出されたものですが、そのバラの母とも言うべき人が、昨日紹介したナポレオン・ボナパルトの妻、皇妃ジョセフィーヌ(1763~1814)なのです。バラ好きのジョセフィーヌはナポレオンの庇護の元、莫大な財力にものいわせ世界中から250種ものバラを収集。広大なマルメゾン宮殿の庭園の庭に3万本ものバラを植え、品種改良をさせたと言います。専門の交配家(アンドレ・デュポン)までいました。バラ展のバラ(異種混合にいけられたバラ)マルメゾンのバラ園はジョセフィーヌ亡き後にも降盛がつづき1850年には4800種以上のバラが発表されたそうです。ちょっと見にくいですが、ブルーの部分がバラの原産地別原種です。中国。日本、イラン、イラク、アフガニスタンあたりが元々のバラの生息地です。イエローの部分が、オールドローズと言われ、初期ヨーロッパに起源にもつバラの総称です。ガリカローズと言う、イラン、イラクあたりを起源に持つバラが先祖で、ギリシャ、ローマで愛好された庭バラの中では古い種のバラです。(クレオパトラやネロが愛したバラです。)夏の一季咲きで丈夫で寿命も長く、芳香性にもすぐれているバラで、現在もオールドローズ愛好家がいます。イングリッシュ・ローズピンクの部分が現代の四季咲きのバラですが、イエローのオールドローズを改良して四季咲きにした新品種のバラ類で、イエローとピンクの部分を合わせてイングリッシュローズとよばれています。新品種のイングリツシュローズは1970年代になって登場した本当に新しい品種です。デビッド・オースチン(David Austin)によって開発されデイビッド・オースチン・ローゼズ社(英)が、特許のほとんどを持っています。オールドローズとモダン・ハイブリッド・ティおよびフロリパンダとの交雑種で、オールドローズのデリケートな魅力と芳香に加えて、モダンローズの多彩な色と夏季咲き性をもった品種です。今の異常なバラ人気はこのバラの誕生がきっかけです。上は、左がモダン・ハイブリッドの種です。(マリリンモンロー)。日本の花屋のバラはたいていこのバラです。シンプルで美しいですが、一枝一輪向きで、切り花向きです。それに対して右はイングリッシュローズですが、(キャスリン・モーレイ)花弁が多く、ボンボン状で、庭植えにはとても華やかさがまします。コルテスのローブリッターです。これだけのバラの垣根はハイブリッドでは無理です。ローローズーガーデンはイングリッシュローズであってこそ完成されたんですね。コルテスのポンポネッラです。チャールズ・レニー・マッキントッシュ四季咲き中輪のカップ咲き。ライラック色のバラはめずらしいです。フロリパンダ系のCLアイスバーグ(白雪姫?と呼ばれているとか・。)人気の白バラです。つる性なので、垣根やアーチなどに這わせると素晴らしいです。私も持っていますが、ベランダなので株を大きくできません。常にたくさん咲いて、5月から11月まで咲いてくれます。アブラハム・ダービー 深いカップ咲きですが、これはまだ開きかけです。いろいろなカップ咲きもあるし、多種な色があるので、集めるときりがないようです。私はベランダなので増やせませんが、毎年高い入場料を払ってバラを買いにいっているようなものです。今年は、グラミス・キャスルを買ってきました。ベランダの寄せ植えから始まって、結局バラに行き着きました。奥は深いですが、奥までは行けないです。(ベランダでは農薬がまけないので・・。)
2009年05月19日
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Break Time (一休み)昨日行って来たバラ展のガーデン(庭)の写真と、合間に寺山修司の詩人についての言葉を入れて見ました。本当にBreak Timeです。魔法使い、忍術使いと言うことばがあるように、言葉使いという不思議な術師もいます。それが詩人というものです。建築家が、石で城を造るように詩人はことばで城を作る。(愛さないの愛せないの)より詩人は、ことばで人を酔わせる酒みたいなもんです。時には、ことばで人を傷つけたりすることもできる。ようくみがいた言葉で、相手の心臓をぐさり、とやる。(毛皮のマリー)より詩人にとって重要なことは自らを葬るということだけではなく、葬ってしまった自らの死体をどのように処理するか、ということにまで及んでいる。(黄金時代)より人は一生のうちで一度だけ、誰でも詩人になるものである。だが、やがて「歌のわかれ」をして詩をすてる。そして、詩を捨て損なったものだけが取り残されて詩人のままで年老いてゆくのである。(青春の名言)より寺山修司の「両手いっぱいの言葉」から抜粋した。このあとがきで寺山修司はさらにすばらしい事を言っている。「ことば友達」気の利いた「言葉」は、しばしば良質のブランデーを思わせる。1人でしみじみと味わうのもいいし、2、3人で語りあいながら、酔うのもたのしい。気の利いた「言葉」は、それ自身で、友人になることもある。途方にくれている時、いいアドバイスをしてくれるからである。(以下略)写真の中に何か詩をのせてみようかとあれこれ探してみた。最終的にゲーテも候補にあったが、詩人の作品を比べて見ると、寺山修司の言葉はだんとつ重かった。後で知ったが、言葉の錬金術師の異名をもっているそうだ。寺山修司はすごい人だとは聞いたことはあったが、あいにく彼を崇拝していた世代より若いので、詳しくはない。詩人、歌人、俳人、エッセイスト、小説家、作詞家、評論家、俳優、映画監督、劇作家、演出家、写真家と幅の広い芸術活動家だったそうだ。本業を問われると「僕の職業は寺山修司です」とかえす、お茶目な性格でもあったようだ。私は学生時代よりもっぱら海外のアーティストに目がいっていた。その為に聖書の勉強もしてきたが、気がつけば国内に凄い人間がたくさんいたのだ・・。ああ、彼に会ってみたかった・・。寺山修司(てらやま しゅうじ) 1935年12月10日~1983年5月4日
2009年05月19日
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「エジプト」と言えばナポレオンのエジプト遠征が浮かびます。ナポレオンのエジプト遠征は大失敗だったようですが、ナポレオン隊が発見したロゼッタ・ストーンは世界で最も有名な碑文の一つだからです。それなのに・・私は不思議でした「なぜフランスにないのだ?」と・・。ロゼッタ・ストーンとナポレオンロゼッタストーン(Rosetta Stone)なぜルーブル美術館にないのか? ナポレオンとエジブト遠征と学術調査団の活躍ロゼッタストーン(Rosetta Stone)下はイギリス、ロンドンの大英博物館に所蔵されているロゼッタストーンです。1799年7月、ナポレオンがエジプト遠征した折にフランス軍のピエール・フランソワ・ブシャール大尉によってエジプトの港町ロゼッタで発見された碑文の刻まれた石です。※ 1799年8月にはナポレオンはエジプトを脱出している。縦114.4cm、横72.3cm、厚さ27.9cm、重量760kg。素材は花崗閃緑岩です。エジプト語とギリシャ語の2種類の言語、3種類の文字で記されていました。1. エジプト語の神聖文字(ヒエログリフ)2. 民衆文字(デモティック)3. ギリシャ文字下は拡大版、上段中段下段と三部になっているのが写真でも解りますね。1822年ジャン=フランソワ・シャンポリオンによって(ギリシャ語をもとに)ヒエログリフは解読された。4世紀以降、解読のできなくなっていたエジプトの古文書。ロゼッタストーンに刻まれた三部の訳を読み比べる事で古代エジプトの象形文字の解釈が可能となったわけです。要塞の石材の一部にされていた一見ただの文字の書いてある壁板は、実は非常に意義のある大発見だったわけです。それもナポレオンのエジプト遠征が、ただの侵略的遠征だけでなく、学者を同行しての調査を踏まえた上陸だった事にこの発見があったのは否定できない。※ シャンポリオンも兄と同行していた為に回読者になれた?ロゼッタストーン自体に書かれていた内容は、プトレマイオス5世の戴冠記念祭に関する布告文で、プトレマイオス5世の徳をたたえた文章? らしい。さて、ナポレオンの部隊が発見したのになぜルーブル美術館にないのか? ロゼッタ・ストーンは1802年以降から現在まで英国のロンドンにある大英博物館で展示されている。1798年、ナポレオンがエジプトを脱出。パリに戻り、クーデター後にマレンゴの闘いで勝利するも、1801年、エジプトでは残されたフランス軍が英国とオスマン帝国の連合軍に敗退。アレキサンダー条約により英国王ジョージ3世のものとされ、せっかく手に入れた碑文は英国に接収されてしまった。それが現在に至り、英国の所有となっている理由である。ナポレオンが率いるフランス軍が欧州で活躍している頃、エジプトでは大きな宝を失ってしまった事になる。上はルーブル美術館に所蔵されている描きかけのナポレオンです。作者はわかりませんが、ダヴィッドかな? と思います。ナポレオンとエジブト遠征と学術調査団の活躍イタリア遠征に勝利したナポレオン人気は凄く、1798年にナポレオンは軍を引き連れてエジプト遠征を行います。※ ぶっちゃけ、当時のフランス軍の幹部はナポレオンがエジプトに行ってくれてせいせいしていたはずだ。「これ程、デタラメな遠征はなかった。」と、現在のフランスでは酷評されているようですがナポレオンのエジプト遠征の目的は英国の経済封鎖である。英国とインドとの交易に欠かせない北アフリカ。オスマン帝国の領域に侵略をしかけた理由は本来そこにあった。だからナポレオンが去った後、残されたフランス軍は英国とオスマン軍の連合に負けたのである。下は参考の為に美術書をデジ撮影したものです。ルーブル美術館所蔵ジャック・ルイ・ダウィッド作の「サン・ベルナール峠を越えるボナパルト」と題がついていますが、これが有名なアルプス越えの絵です。あのセントバーナードの名になったサン・ベルナール修道院のある峠だったんですね。でも実際は馬でなく悪路に強いラバだったと言います。この作品は執政時代に描かせたもので、ダヴィッドにたびたび肖像画を描かせ、フランス皇帝の地位に付いたあかつきにはダヴィッドを皇帝の主席画家に任命しています。※ ダヴィッドには「皇帝ナポレオン1世と皇妃ジョセフィーヌの戴冠式」の巨大な絵も描かせています。(ルーブル美術館所蔵)ナポレオンは科学者や数学者、建築技術者からなる学術調査団167名を同行。彼らはエジプトの地勢や物産の調査のほか、古代遺跡の調査にあたった。 ロゼッタ・ストーンの発見はその最たる物であるが、上エジプトに赴いた一団はルクソールのカルナック神殿や王家の谷を世界で初めて学術的に記録し、それらは世界に公表されエジプト学の成立と同時に発掘ブームの元になる。大勢の学者を同行してのエジプト遠征だったと言う事は評価ですが、実はこれはナポレオンが崇拝していた? アレクサンドロス王の行動を真似したもの。アレクサンドロス大王はかの大遠征の際に多くの学者らを同伴して進軍していたのです。ところで、遺跡がすべて取り上げられたわけではありません。フランスにはエジプトの神殿から略奪してきた品が結構残ってっています。下はルーブル美術館所蔵のスフィンクスです。下はどこかの神殿のファラオの座像です。ミイラが結構たくさんありました。それはまたの機会に・・。
2009年05月18日
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Break Time (一休み?) じゃないな・・。私はだれでしょう? 「後ろの正面だーれだ? 」Aエジプト、カイロの考古学博物館所蔵Bツタンカーメン王 (Tutankhamun) トゥトアンクアメン(Tut-ankh-amen)古代エジプト第18王朝のファラオ(BC1333~BC1324頃)です。そして、もちろんこれはツタンカーメン王のミイラが着けていた黄金のマスクです。Aは後ろ側ですが、表だけでなくちゃんと後ろもあり、かぶるタイプのマスクですね。手抜かり無しのお金のかかったマスクです。ルクソールのナイル川西岸にある王家の谷にあるツタンカーメン王の墓は1922年11月26日考古学者ハワード・カーターが、(英のカーナヴィン卿がスポンサー)発見、発掘しました。ほとんど盗掘されていない王墓で、副葬品も王のミイラにかぶせられていた黄金のマスクもほぼ完全な形で見つかりました。ミイラと一番外側の人型棺と石棺はこの王家の谷で展示され、黄金のマスク他の副葬品はカイロの考古学博物館に展示されています。(考古学博物館の目玉となっていますが、これが100年前だったら絶対エジプトにはなかったと思います・・。)2005年にCTスキャン撮影によってミイラ調査がされ、死亡推定年齢が19歳、身長165cmで華奢な体格(当時の平均らしい)と判りましたが、事故死説か他殺説かの論争の決着はつかなかったそうです。保存状態はきわめて悪いと言う事で、プレクシグラス製ケース内で保存されています。下はカイロ考古学博物館にある第3人型棺です。墓は通路と四つの部屋からなり、王のミイラは玄室いっぱいに置かれた四重の木製金張りの逗子と珪岩製の石棺、三重の人型棺におさめられ、黄金のマスクを着けた状態で発見されたそうです。下がカイロ考古学博物館にある逗子の一つ。下がエジプト、ルクソールの王家の谷のツタンカーメン王墓の入り口です。王家の谷メイン・ビューです。ここは。新王国時代の王達の墓所です。王家のものがたくさん見つかっていますが、貴族や王族の墓もたくさんあります。18王朝から20王朝までのほとんどの王がここだそうです。今日は出かけていたので、Break Timeで短くと思ったらやはり長くなってしまいました。
2009年05月18日
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マタイによる福音書17章「神殿税を納める」の中で、キリストがペテロにこう言います。「湖に行って釣りをしなさい。最初に釣れた魚を取って口を開けると。銀貨が1枚見つかるはずだ。それを取って私とあなたの分として納めなさい。」聖ペテロの魚(St. Peter's fish)と聖ペトロ聖ペテロの魚(St. Peter's fish)聖ペトロ下の魚がその魚です。聖ペテロの魚と呼ばれるセント・ピーター・フィッシュ(St. Peter's fish)です。今やガリラヤ湖の名物だそうです。ガリラヤ湖は、イスラエル7北部に位置する国内最大の湖。周囲53km、南北に21km、東西に13km。面積166平方kmの。最大深度は43m。海抜マイナス213m。「ガリラヤの海」など「海」と呼ばれることもあったが、純粋な淡水湖である。だから魚も淡水魚で、ティラピアではないか? と思われる。ティラピア(Tilapia)はスズキ目シクリッド科に属す魚だそうだ。ナイルティラピアかも ? 日本では外来生物に入るカワスズメ(モザンビークティラピア)が近種。鯛類とは全くの別種で、生息環境も異なる。※ 2019年8月「アジアと欧州を結ぶ交易路 4 シナイ半島と聖書のパレスチナ」の中「ガリラヤ湖、ゲネサレト湖畔と使徒ペトロ」でガリラ湖についてもっと詳しく書いています。リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 4 シナイ半島と聖書のパレスチナ聖ペトロペテロ(シモン・ペトロ)はキリストの最初の弟子の1人、12使徒のリーダーとなる存在である。彼はもともとガリラヤ湖で弟と漁師をしていた。マタイによる福音書4章「4人の漁師を弟子にする」でキリストがペテロ兄弟に言います。「私について来なさい。人間をとる漁師にしよう。」と言われた。2人はすぐに網を捨てて従った。下はバチカンのサンピエトロ大聖堂の中にある聖ペテロの座像です。13世紀アルノルフォ・ディ・カンビオ作皆がペテロの右足をキスしたり、なでて行くので摩滅しています。バチカンのサンピエトロ寺院はペテロの亡骸の上に建てられた教会です。64年、神聖ローマ皇帝の迫害の為に殉教したキリストの弟子ペテロはバチカンの丘に葬られます。349年になって、その後にペテロの墓と聖ピエトロ聖堂が建築されました。カトリックではペテロを初代のローマ教皇とみなしています。これは「天の国の鍵」をペテロがキリストから受け取った事で、その権威を与えられ、それをローマ司教としてのローマ教皇が継承したとみなすからだそうです。上のペテロが左手に握っている2本の鍵が天国の鍵です。ペテロを表す物として、天国の2本の鍵と逆さ十字(聖ペテロ十字)が用いられます。(ペテロは逆さ磔刑で殉教した。)聖名祝日はカトリックでは6月27日、正教会では7月12日です。
2009年05月17日
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Break Time (一休み)最近昼と夜が逆転している。夜の方が集中力も増すから勉強するのには向いているし、自分の時間も作りやすいので、普段でも遅めの就寝だったが、夜中のブログの書き上げ時間で朝まで押す事が増えたからだ。(何かカーソルを押してしまう? のか? 書いた文章を途中で消してしまい、一からやり直しが多々ある。)途中で止めるのは嫌いなので、書き上げるまで止めない性格が仇となる。そのせいで外出もおっくうになってしまい遠出に躊躇している。困ったものである。下はエジプト ギザのピラミッド前で撮影。観光客を乗せて撮影するモデルのラクダ君である。「あれ ? どこかで聞いた? 」そう、ゴルナグラート鉄道のセントバーナード達と一緒です。「この場所に来たらこれと一緒に撮影しなきゃ・・。」と言うアイテムになってしまっています。下は観光客がなかなか来なくて暇をもてあまし、ついついあくびをしていたラクダ君です。この写真は私の撮影ではありませんが、私の初めての海外旅行がこのエジプトでした。(エジプトとギリシャのツアー)飛行機も今はダイレクトで16時間で行きますが、昔は22時間(3カ所降りた)もかかっていました。それでも行きたくて思いきって1人でツアーに乗ったのは20才の時です。今、若者があまり旅行に行かなくなったと言われていますが、若いうちでないとできない事って沢山ありますし、若いうちに多くの事を見聞する事はとても大切な事だと思います。(自分の人生にとっての宝にもなる。)小さなコミュニティーの中でウロウロしているだけでは世間は解らない。一度外に出て客観的に見直す事こそ必要だと思います。若いうちなら貧乏旅行も出来るしね・・。最初の話に戻って:私は夜の暗闇と静寂が結構好きだ。孤独は感じない。夜は私だけの時間。夜が明け始めると魔法が解けてしまったかのように何だかガッカリしてしまう。
2009年05月17日
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スウェーデン、ストックホルムの市庁舎 Part 2です。ノーベル賞受賞の晩餐会で、ダンスパーティーの会場となる黄金の間を紹介。ビザンチン様式? 黄金のモザイクで装飾された内装が必見です。下写真。1900万枚の金箔のモザイクがはめ込まれていると言う事です。まぶしくてクラクラです。写真奥の壁の中央の絵が下の写真です。メーラレンの女王と言われているモザイク壁画です。メーラレン湖に因んで想像されたのでしょう。この部屋は1000年に渡るスウェーデンの歴史が描かれていると言う事ですが、どこを探しても作者の名がでてきません。なぜ? 名の無いタイル職人の作品なのでしょうか? 女神は古代ローマ人の衣装を着ていますが、なぜか私には曼荼羅の釈迦とかぶります。それは台座下(蓮華座に見える)と雲の描き方(唐絵に出てくる瑞雲みたい)のせいだと思います。台座下は湖の水ですね、よく見れば・・。(ステンドグラスをしていた時、先生に頼まれて長崎県県庁の建物のステンドグラスの下絵のデザインをした事があります。(制作も手伝ったが・・)「椿の花」と「おしどり」ですが、県庁では誰が制作したか知らないと思います。)下も黄金の間のモザイク画です。ローマ時代の戦いの女神にも見えます。右手には契約書でも持っているのでしようか? 以前特集したモザイクから見るとこれはやはりネオ・モザイクですね。ちょっと未来的な感も受けますね。ラグナル・エストベリ(この建物の建築家)はこの市庁舎の建築において、いろいろな形で空間に光の魔術を施したようです。光を大切にする北欧だからなのかもしれません。ところで、ここが「黄金の間」なのは言わずと判りますが、ブルーホール(青の間)は青くないのに? と思いませんか? エストベリ自身が語った所によれば、当初はストックホルムのイメージである水の印象を与えようと小さな貝殻が散りばめ光の乱反射を予定していたようです。その為に青い漆喰を赤いレンガの上に塗り一つの幻想世界を作り出そうとしたと言う事です。でも、実際にはそうしなかった。それはレンガの実在感に心が動いたからのようです。それが青の間が、赤の間になった理由だそうです。
2009年05月16日
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ノーベル賞の晩餐会が開かれるスウェーデン、ストックホルムの市庁舎は、ナショナル・ロマンティシズム(ナショナル・ロマン様式)の傑作と言われている。スウェーデン建築家、ラグナル・エストベリの設計で、1909-1923年にかけて建設された。建物はロマネスクやゴシック様式の要素が入りつつ、ヴェネチアのドゥカーレ宮殿(元首宮)を意識しているようなルネッサンス様式の要素が入りつつ、室内はビザンティン様式のきらびやかなモザイクがありつつ、北欧独特の伝統技法も盛り込まれていて、民族主義もかいま見られる。(民族的ロマン主義とか、国民的ロマン主義)ヨーロッパ各地の名建築からインスピレーションを受けた折衷的なネオ・デザイン? である。でもそれが、ある意味「北欧的だな。」と私は思った。下はストツクホルム市庁舎の外装で、メーラレン湖側の庭からの撮影(全景は二つ前のプログにあり。)下は中庭の階段モダンなルネッサンス様式といった感じである。下は内部ブルーホール。ノーベル賞のディナーの部屋?中世イタリアの広場を思わせる広間であるが、もはや何時代かわからない様式のパラレルワールド。下は、ストックホルム市議会の議事場。近く固まっていて、マイクなしでも声が届く議事場ですね。厳粛な作りではありますが・・あの天外は何 ? なぜ ?下は会議室天井。この天井が、ヴァイキング・ルネッサンス様式とか言う、この建物のナショナルの部分(北欧的な部分)の一つです。ここは必見です。ロマンティシズム(Romanticism)は、ヨーロッパの18.9世紀に流行した芸術運動の根幹にある思想? である。文学、美術や音楽、建築など広範囲の芸術領域に波及した。(簡単に言えば、古代ギリシャ・ローマがベースにあるが、幻想的な夢やおとぎ話等のロマンチックなものを好む考え方。)それに対して、ナショナル・ロマンティシズム(National Romanticism)は、ヨーロッパ主体のロマンティシズムではなく、民族や文化、国家をも含むアイデンティティを主張したロマン主義である。(簡単に言うとヨーロッパ芸術の根幹は借りているが、これはウチの国のオリジナルだ! 的主張。)だから、ヨーロッパ文化の中心をなす国よりも、北欧・東欧・南欧などの周辺地域の国にに多いらしい。唯我独尊的なヨーロッパ人(イギリス・フランス・イタリア等)に対抗して自国のアイデンティティを主張するあたりは、日本人も真似をするべきだと思うが・・。次に晩餐の黄金の間を紹介。
2009年05月15日
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ノーベル賞受賞パーティーのディナー2002年バージョン Part 2主菜 子鹿のロースト、苔桃・シナモン風味ソース、根菜ソテー、ラロッテジヤガイモ添えデザート 洋梨とシャンパンのシャーベット、洋梨をのせたチョコレート・バニラ風味のババロア、洋梨キャラメルソース添えメニュー表の下には、「あなたが何人目の注文者ですよ。」と言うシリアルNoが手書きで入っています。おまけ・・下はノーベル賞記念チョコレートです。上の3枚は旧市街にあるノーベル博物館でお土産に売られているチョコ(本物表柄)です。下の2枚は、晩餐会をする市役所内にあるレストラン、スタッズヒュース・シェラレンでディナーを注文すると出されるチョコレート(市役所絵柄)です。このチョコもディナーで出るのかもしれません。因みに裏側は柄無しです。毎年「受賞者が大量に買い込みお土産に持ち帰る。」と聞くチョコレートです。でも、もらった人も決して食べる気にはならないでしょうね。(私も飾ったきりで味もわかりません。)本物は、メダルの表は全賞統一でノーベル氏の横向きの上半身の肖像(チョコ上3枚に同じ)ですが、裏は各賞で違うデザインになっているそうです。ノーベル賞の授賞式は、ノーベルの命日である12月10日に、平和賞を除く5部門はストックホルムのコンサートホール(晩餐会は市庁舎)、平和賞はノルウェーのオスロの市庁舎で行われ、受賞者には賞金の小切手、賞状、メダルがそれぞれ贈られ、受賞後にノーベル・レクチャーと呼ばれる記念講演を行うのが通例になっているそうです。アルフレッド・ベルンハルド・ノーベル(Alfred Bernhard Mobel)1833.10.21~1896.12.10 持病の心臓病が悪化し、最後は脳溢血で倒れ亡くなったと言う事です。生涯独身で子供はいなかったそうです。。
2009年05月15日
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スウェーデンのストックホルムと言えばノーベル賞の授賞式の行われる北欧の街である。もともと、ダイナマイトの発明者として知られるアルフレッド・ノーベルの遺言で、1901年から始まり、1年に1回行われる世界的な賞である。物理学賞、化学賞、医学・生理学賞、文学賞、平和賞、アルフレッド・ノーベル記念経済学スウェーデン銀行賞(経済学賞)、の6部門からなる。10月の受賞者発表時点で生存していることが条件であるが、発表から12月10日の授賞式までに死亡したとしても賞が取り消されることはないそうです。下はノーベル賞の授賞の公式晩餐会の行われるストックホルム市役所です。ストクフォルム中央駅の近く、メーラレン湖畔に市役所はあります。今回はその授賞式公式晩餐会の会場となるストックホルムの市役所で、授賞式に出されたディナーを体験できるのでご紹介です。ノーベル賞の食事は市役所地下にあるレストラン「スタッズヒュース・シェラレン」で作られています。そこで、事前予約で希望の年のメニューを再現して出してくれるのです。Stadshus Kallarenは高級店です。今回f2002年のメニューです。下はテーブルセッテイングです。下は前菜 ヤギノチーズのタルト・赤カブのソース、ホタテ貝と海老のサラダつづく
2009年05月15日
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Break Time (一休み)スフィンクスの定義は、頭は人間、胴体はライオン(場合によって有翼)の神話的存在。下はエジプト ギザにある大スフィンクスである。古代エジプト古王国時代に作られたと言われている。全長73.5m、全高20m、全幅6m。一枚岩からの彫り出しとしては世界最大の像である。話は変わるが、古代ギリシャの詩人ソフォクレス(BC496~BC406)の戯曲の中にギリシャ悲劇の最高傑作と言われる「オディプス王」の話がある。エディプス・コンプレックスの語源になった王様の話である。ストーリー:テーバイ王ラーイオス(エディプスの実父)はデルフォイの神託により、「我が子によって殺される。」とお告げを受ける。恐れたラーイオスは我が子を捨てた。実父(テーバイ王)に捨てられたエディプスは、コリント王に拾われ、幸せに暮らしていたが、ある日彼もデルフォイの神託を受ける事になる。神託は彼が「父を殺し母と結婚する。」と告げるのだ。彼はコリント王を本当の両親と信じていたし、愛していたのでその神託にショックを受け、両親の前から消える覚悟をして旅立つ。その旅の最中彼はそれとは知らず偶然にテーバイ王(彼の実父)を予言通り殺してしまう事になる。その頃テーバイ郊外のビキオン山では怪物が市民を苦しめていた。彼は怪物に謎かけをされる。「朝は4本、昼は2本、夕べには3本で歩く生き物は?」答えは「人」である。謎を解けなかった者は怪物に食われたが、オディプスは謎を解き明かし、勝利する。その怪物が女神ヘラによって送られたスピンクスであった。(スピンクスは負けたショツクで崖から身を投げる。)皮肉な事にエディプスはこれで英雄となり、王不在のテーバイの王として迎えられ実母と知らずに結婚させられるのである。(ストーリーはエディプスが神託により死ぬまでつづく)スピンクスの名は古代ギリシャのヘロドトス(BC485~BC420)がギザのこの像を表現するのに使った名前らしい。名だけが逆輸入され、英語読みでスフィンクスと呼ばれるようになった。(本来の名は不明)エジプトのスフィンクスは王家のシンボルで、王の偉大さを現す神聖な聖獣であるが、ギリシャやメソポタミアのスピンクスは怪物とされた。下はギリシャのアテネの考古学博物館の所蔵のスピンクス?どこからの出土品かわからないが、多分スピンクス?と思われる。顔からしてアルカイック期のものかな? アルカイック・スマイルだもの・・。
2009年05月15日
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Part 6 マッターホルン最終章です。マッターホルンはアルプスの3大北壁(困難度の高い3大ルート)の一つです。アイガー(標高3975m)は高さ1800mの巨大な岩壁。グランドジョラス(標高4208m)はロック・クライミングの難易度の高さ。マッターホルン(標高4478m)は標高の高さと自然条件の厳しさ。が、特徴と言われています。マッターホルンの標高はアイガーよりも高く、高い分、気温も低く、風や氷風などの自然条件がより厳しくなり、心臓への負担も大きくなると言います。標高1100mの巨大な岩壁にはテラス(岩壁)はなく、ビバーク(露営)できる場所がないそうです。下はマッターホルンをローテンボーデンあたりから望遠で撮影したものです。ツェルマットからは東壁と、北壁がみえます。影になっている部分が北壁の厳しいルートになります。マッターホルン北壁を制するにはロック・クライミングの技術よりもアイスクライミングの技術が必要だと言うくらい、夏でも岩の間は凍り付いて鉄板のようだそうです。ロッククライミングでは、1日で登頂出来ない時には途中ビバークするのですが、北壁では当然1日での登頂は無理なので、クライマーはテラスのない所でのビバークを余儀なくされるそうです。垂直に金具を打ち込みハンモックを吊して眠るか、ザイルで体を岩場に固定して眠るかしなければならないそうです。足を垂直に置く所もほとんどない上、氷や雪(降雪が多い)、時には岩が落ちてくる中のかなりつらい姿勢をメンバーがそれぞれ別々の位置でビバークせざるおえないと言う事です。(登山のプロから見ても「考えていた以上に難しかしかった。」と言う場所だったそうです。)あるパーテイーは、夜中の2時にヘルンリ小屋を出発して、翌日の10時(32時間目)に登頂(ビバーク1回)、下山して小屋に着いたのが夕刻4時(38時間目)で行って帰って来ています。(夏場ですが、それは早いほうなのでは? と思いつつ、そんなにかかるのか・・と驚きました。冬場ならどれだけかかるのでしょう・・。)あるクライマーは20年越しの思いを遂げて、山頂を見て泣いたそうです。なぜそんなにつらいコースに挑むのでしょうか? でも、凄い人だと思います。何かを成し遂げる為に思い続けると言う事でさえ、なかなかできないのに、完結させてしまうと言う事はその根性が凄いです!! 賞賛です!!(マッターホルン登頂はもともと生半可な気持ちではとうてい無理な構想ですが・・。)マッターホルンは下山での滑落事故が多いといいます。北壁から滑落したクライマーが山麓のツムット氷河に今も眠っていると言う事です。(氷河に落ちたら回収不可能です。)下は朝焼けのマッターホルンです。北壁が光っていますね。下はもっと変わり種の朝焼けです。まるで、炉の中で鉱石が焼けているような色ですね。これは時間と共に下に広がって行きます。(周りが明るくなるまで)デジカメ画像ですが何も調整はしていません。ナチュラルです。モンブランとマッターホルンで、まるで登ってきたかのように疲れてしまいました。何しろ写真が1000枚を越えていたので、そこからベストをセレクトするのに時間をとられました。(ユングフラウは当分先にします。)行った気になれるように構成してみました。
2009年05月14日
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Break Time (一休み)スイス、アルプスの山で仕事するセントバナード犬ですが、山岳救助に行くのではありません。この子達はモデルの仕事に行くのです。ツェルマットから出発するゴルナグラート鉄道に途中から乗り込み毎朝山頂のゴルナグラートを目指す犬2匹と飼い主。本当は撮影禁止です。この子達には肖像権があるので・・。ゴルナグラートの展望台のお立ち台でお客様を待っています。写真はこの子達の飼い主が撮影して、ツェルマットの街で受け取ります。(これも密かに撮影・・・)首にかけている樽にはブランデーが入っていると言う事ですがこれは空でしょうね。そもそもセントーバーナード犬はアルプスの山岳救助犬としてその名が知られています。古代ローマ時代のモロシア犬が先祖ではないか? と言うスイス原産の犬種で、体重50~90キロにもなる大型犬です。1660~1670年よりグラン・サン・ベルナール峠にある修道院で雪中遭難救助犬として使役され、(もとは労働力で・・)多くの人命救助をしてきたと言います。グラン・サン・ベルナールの修道院にちなみ、サン・ベルナール(Saint Bernard)と名付けられました。(セント・バーナードは英語読みです。)近親交配が続き一時絶滅危機に瀕しましたが、ニューファウンドランド犬と交配して危機をのりきったそうです。(長毛種と短毛種ができた。)大型にもかかわらず、温和な性格のセントバーナードはファミリー犬としても人気ですが、高温多湿を嫌い、静かな所を好むようです。(広さもいる。)そう言えば、この子達が途中のフィンデルバッハ(ツェルマット次)の駅から乗り込んで山頂まで通っているのも環境の為だったのですね。つい近年、サン・ベルナール修道院からセントバーナード救助犬を売却すると言うニュースがスイス国内で話題になりました。修道院の縮小化と老齢化が原因らしいです。もちろんスイス国内から寄付の申し出が殺到し、「バリー基金」なるものが設立され犬たちは救われました。バリーは1815年救出に向かった遭難者に撃たれて亡くなった犬ですが、生涯40人の人命救助をした事で、スイスで最も有名なセントバーナード犬です。この子達はモデルですが、現在もスイス国内ではセントバーナード犬は山岳救助犬として活躍しています。
2009年05月14日
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Part 5になってしまいました・・。(短く終わらせたかったのですが、絞り込めなくて・・。)ゴルナグラート展望台からのアルプスの山と氷河のパノラマ展望と、ローテンボーデンからのハイキングコースです。4000m越えのアルプスの山々と氷河群です。左奥からモンテ・ローザ(Monte Rosa)標高4634mグレンツ氷河リスカム(Liskamm)標高4527m手前ゴルナー氷河中央よの少し左に池のようなのがあるが、その右手岩山あたりにモンテローザ・ヒュッテがある。ゴルナグラートからヒュッテまで氷河をトレッキングして行くコースがあるようだ。もちろん一般観光客は簡単には行けない。防寒具を着て、食料、水、アイゼン、ザイル、ストツク等の装備をしっかりして、ガイドに先導してもらわないと駄目だろう。氷河の上は危険地帯。クレパスをまたいだりと危険がたくさんだからだ。左奥からリスカム(Lyskamm)標高4527m中央奥 カストール(Castor)標高4226m、ポリュックス(Pollux)標高4091m中央大岩の後ろツヴィリングス氷河中央大岩前ゴルナー氷河中央大岩右ツヴェルツェ氷河中央奥ポリュックス右隣ロッキア・ネーラ(Roccia Nera)標高4075m右端ブライトホルン氷河奥左ポリュックス(Pollux)標高4091mポリュツクスから下にツヴェルツェ氷河ツヴェルツェ氷河右の氷河がブライトホルン氷河ブライトホルン氷河の右上小高い山がブライトホルン(Breithorn)標高4159mブライトホルンより下がって小高い山がクライン・マッターホルン(Kl.Matterhorn)標高3834mゴルナグラート鉄道をローテンボーデンで下車し、次の駅リッフェルベルクまでのハイキングコースがあります。下はその景色です。リッフェルゼー逆さマッターホルンもコースです。ブライトホルンを見ながらハイキング。景色が良いので写真撮りまくりです。次回まとめの最終章・・。
2009年05月13日
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写真追加今回はゴルナグラート鉄道からのアルプス紹介です。ゴルナグラート鉄道はツェルマットからの観光の目玉です。(ロープウエイで、シュバルツゼー方面に行かなくても、こちらには行った方が良い。)ツェルマットの駅から終点ゴルナグラート駅まで走るゴルナグラート鉄道は、33分程で走り切ってしまう登山電車です。途中下車しながらマッターホルンの絶景を撮影したり、氷河を見たり、ハイキングも楽しめる盛りだくさんコースです。もちろんマッターホルンの絶景をも堪能できます。下は出発駅ツェルマットのゴルナグラート鉄道の駅です。駅には見えませんね。何かのショップみたい・・。ゴルナグラート鉄道の車両車窓から撮影。見える車両は引き込み線内にある古い車両です。動力の関係で、普通2両編成で1セット。乗客の多いときは2~3セット同時に出ます。途中の駅、ローテンボーデン駅(標高2815m)で下車し、一つ前のディッフェルベルグ駅(標高2582m)まで歩く途中にリッフェル・ゼーと言う湖があります。(「ゼー」は、湖と言う意味ですが、せこい池か水たまりのようなものです。)でも、そこのスポットに観光客は必ず立ち寄ります。なぜなら下の写真をご覧下さい。有名な逆さマッターホルンが撮影できるスポットだからです。いつも撮影できるわけではありません。マッターホルンに雲がかかっていたり、池の水が少なかったり、池に藻が発生して綺麗に写らない事もしばしばだからです。下はゴルナグラード鉄道の終点ゴルナグラート駅(標高3090m)と駅上のホテルです。並んでいるのは、駅の改札口です。(これは出口専用です。)下はゴルナグラート駅上にある「クルム・ホテル・ゴルナグラート」(標高3135m)と展望テラスです。次回ここからの氷河の絶景をUPします。
2009年05月13日
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マッターホルン・シリーズ書き換え中です。初期の初期の作で・・。写真も入れ替えられるものは徐々に行います。そんな訳で、Back numberもまだ未完です。アルプス山脈 マッターホルン 3 シュルーマッテン・リフトシュルーマッテン・リフト(Schlumatten Lift)シュバルツゼー(Schwarzsee)からツェルマットの街からマッターホルンの山麓に向かうコースの紹介です。その前に動物映像です。ツェルマットの街でヤギのパレード? 移動を目撃しました。気になるのはヤギの種類です。判りません・・でも変わったヤギですね。なぜ半分だけ色が違うのでしょう? 意味があるからこんな進化をとげたのだと思うのですが・・・。ちょっとケンタウロスっぽいですシュルーマッテン・リフト(Schlumatten Lift)ツェルマットの北にロープウエイがあります。シュルーマッテン・リフト(Schlumatten Lift)です。駅から歩いて20分くらい? の所です。上はツェルマットから出発した所です。途中フーリ(Furi)で左右方面別に乗り換えがあり、左コース方面はスキー場で右コース方面がマッターホルン・ヒュッテ(Matterhorn Hutte)となります。左コース方面はスキー場方面途中トロッケナー・シュテークでさらに乗り換えてマッターホルン・グレンシャー・パラダイス(Matterhorn Glacier Paradice)にたどり着くとそこはスキー場です。ゲレンデリフトがさらにあちらこちらに出ていると言う事です。(行ってないので写真はありません。)右コース方面がマッターホルン・ヒュッテ(Matterhorn Hutte)前回紹介しましたが、ロープウエイはシュバルツゼー(Schwarzsee)までしか行きません。あとは歩きでヒュッテまで行くのです。下はシュバルツゼーに到着まぎわの写真です。眼下に見えるのはツェルマット(Zermatt)の街です。ツェルマットが高峰に囲まれているのが良く判りますね。シュバルツゼー(Schwarzsee)からさて、シュバルツゼー(Schwarzsee)からマッターホルン(Matterhorn)へアタックする人達は歩いて? 軽く登山して(子供や年配の方にはちょっと無理)。ヘルンリヒュッテ(Hornlihutte)のあるマッターホルン・ヒュッテ(Matterhorn Hutte)まで向かいます。所用時間は行き2.5時間くらいで、帰り1.5時間くらいだそうです。(足下が大小の石ころの道なので厳しい感じ?)下は写真プリントをスキャナーで読み込み、色調調整したヒュッテからの眺望。(デジ画像が無く、写真は古く焼けて色が変色していたので・・)標高3360mのマッターホルン・ヒュテ(Matterhorn Hutte)界隈は「美しい眺め」と言う意味で、ベルベデーレ(Belvedere)と名が付いています。ヒュッテではマッターホルンにアタックするアルピニスト達の簡易宿泊所やレストランがあります。(写真はありません。)マッターホルン・ヒュッテまで往復4時間以上かかるので、時間のない観光ツアーの場合は、マッターホルン・ヒュッテには行かず、シュバルツゼーから何本かあるハイキングコースに向かうのが一般です。下はシュバルツゼーからツムット(Zmutt)へ降りるコースのツムットの集落です。ツムット(Zmutt)はスイスのヴァレー州ツェルマット市にある小さな村。ツェルマット(Zermatt)の西、標高1936mのツムート渓谷(Zmutt Valley)にあります。ツェルマットへ戻るのにはさらにハイキングする事になります。所用時間はツムットから1時間くらいかかるのでしょうか?次回はゴルナグラート鉄道です。back numberリンク アルプス山脈 マッターホルン 1 テーシュ(Tasch)駅リンク アルプス山脈 マッターホルン 2 マッターホルン アルプス山脈 マッターホルン 3 シュルーマッテン・リフトリンク
2009年05月13日
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マッターホルン・シリーズ書き換え中です。初期の初期の作で・・。写真も入れ替えられるものは徐々に行います。そんな訳で、Back numberもまだ未完です。アルプス山脈 マッターホルン 2 マッターホルンツェルマットからマッターホルン・ヒュッテへ他のマッターホルンの楽しみ方ツェルマット(Zermatt)の街アレキサンダー・ザイラー(Alexander Seiler)マッターホルン(Matterhorn)へのアクセスはツェルマット(Zermatt)の街(標高1620m)から始まります。ツェルネマット周辺とマッターホルンへの位置関係を例によって地図で紹介。m&mチョコを印に置いてあります。黄 テーシュ(Tasch)橙 ツェルマット(Zermatt)赤 シュバルツゼー(Schwarzsee)(ツェルマツトから来るロープウエイの終点)緑 マッターホルン(Matterhorn)・ヒュッテ(マッターホルンをアタックする人達の登頂口)青 ゴルナグラート(Gornergrat)(ゴルナグラート鉄道の終点の氷河地帯)ツェルマットからマッターホルン・ヒュッテへ前回(黄)のテーシュから(橙)のツェルマットまで乗車するマッターホルン・ゴッタルド鉄道を紹介しましたが、マッターホルンへ行くには、まだたくさん行程があります。1.ツェルマット(Zermatt)の北シュルーマッテン (Schlumatten)からロープウエイに乗車。※ シュルーマッテン・リフト(Schlumatten Lift)2.さらに途中フーリ(Furi)でロープウエイを乗り換え、(赤)シュバルツゼー(Schwarzsee)で下車。3.そこから登山。つまり、シュバルツゼー(Schwarzsee)からマッターホルンの麓(緑)マッターホルン・ヒュッテまで自力で登るのです。※ 観光客は、マッターホルン・ヒュッテが終点。ここで折り返します。4.さらに登頂する登山客は、ヒュッテに宿泊。ここからマッターホルンの頂上を目指す事になります。他のマッターホルンの楽しみ方他にツェルマットの街からゴルナグラート鉄道(Gornergratbah)で、(青)の 標高3089mのゴルナグラード(Gornergrat)終点駅まで行くと、違う角度のマッターホルンの絶景が楽しめます。そこでは、氷河のトレッキング・ツアーもあります。あるいは先ほどのシュルー・マッテン・リフト(Schlumatten Lift)というロープウエイをフーリで降りた時に、左コースをとると、夏場でもスキーのできるマッターホルン・グレーシャー・バラダイス(Matterhorn Glacier Paradice)に行きます。(赤)左上の氷河のさらに左。ツェルマット(Zermatt)の街地理を簡単に紹介したところで、ツェルマットの街の紹介から行きます。ツェルマット(Zermatt)は世界でも有数な山岳リゾートのメッカ。アルピニストの聖地です。アルプスの谷奥にあるこの街がこんなに有名になれたのは、ヴァリス州には4,000m越えの山々、モンテロ-ザ(4634m)、ドーム( 4545m)、ヴァイスホルン(4505m)、マッターホルン(4478m)等の高峰が30を越える程あるからだそうです。(それが街を取り囲んでいる。)近年では、峰のアタックはもとより、夏スキー、氷上トレッキング、ハイキング等、この街を拠点に老若男女が楽しめるリゾート地となり、小さい街なのに世界中から観光客が集まる街になっています。写真下は駅前広場です。中央下は、ツェルマットの駅。駅前は、送迎用電気自動車と送迎用馬車が待機しています。前回も触れましたが、街はガソリン車の乗り入れが禁じられているので、街で見かけるのは電車、電気自動車、馬車、ロープウエイくらいです。街のメインストリートのバーンホフ通りです。(マクドナルドもあります。)この街からでもマッターホルンは良く見える。朝焼けのマッターホルンは凄い。(後で紹介)アレキサンダー・ザイラー(Alexander Seiler)19世紀、ヴァリスの山々の初登頂をめざした人の多くはイギリス人だった。彼らアルピニストはこの谷の屈強な山男達を案内人やポーターとして雇った事からこの街に人が集まり始め、アルピニストを迎える民宿ができはじめたと言う。特に1855年アレキサンダー・ザイラー(Alexander Seiler)(1819年~1891年)が6つのベッドで始めた宿はモンテ・ローザ・ホテル(Monte Rosa Hotel)となり、毎年夏にイギリスの登山家達が集合し、英国山岳会クラブと化したようです。back numberリンク アルプス山脈 マッターホルン 1 テーシュ(Tasch)駅 アルプス山脈 マッターホルン 2 マッターホルンリンク アルプス山脈 マッターホルン 3 シュルーマッテン・リフトリンク
2009年05月12日
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マッターホルン・シリーズ書き換え中です。初期の初期の作で・・。写真も入れ替えられるものは徐々に行います。そんな訳で、Back numberもまだ未完です。アルプス山脈 マッターホルン 1 テーシュ(Tasch)駅マッターホルン(Matterhorn)マッターホルンへの行き方マッターホルン(Matterhorn)マッターホルン(標高4478m)はアルプス山脈のスイスとイタリアにまたがる山。ドイツではマッターホルン(Matterhorn)。イタリアではチェルビーノ(Cervino)。フランスではセルヴァン(Cervin)。欧州の3大名峰の一つにして3大北壁の一つに含まれる。3大名峰、マッターホルン(Matterhorn)、モンブラン(Mont Blanc)、ユングフラウ(Jungfrau)3大北壁 マッターホルン(Matterhorn)、アイガー(Eiger)、グランド・ジョラス(Grandes jorasses)霊峰とあがめられ、登山家が遠慮していた為に、1865年が人による初登頂。イタリア側の登山路は険しく、岩壁を攻略できずに失敗した隊は多かった。ヘルンリ尾根を通る登山路を開拓し、登山に成功した4人+2人のパーティーでも下山中に3人とガイド1人が滑落して亡くなっているらしい。現在マッターホルン(Matterhorn)の全ての斜面と尾根は全ての季節に於いて制覇されているそうですが、北壁ルートは熟練者であっても困難なルートだと言う事です。確かに制覇できたらもの凄い爽快感と充実感が味わえるでしょうね。登る体力など微塵もない私ですが、アタックしたくなる気持ち解ります・・。下の写真はツェルマットの街から撮影したマッターホルン(Matterhorn)です。モンブラン(Mont Blanc)と違ってこの山は周りに邪魔な山脈がないので、単一で色々な所からその全景が撮影できます。麓のマッターホルン・ヒュッテまではそこそこの装備をした観光客でも行く事ができる山。大抵はその近辺でのトレッキングを楽しむ程度ですが・・。マッターホルンへの行き方スイス側のツェルマットから入るのが一般的観光コースですが、このツェルマットまでのアクセスが大変なのです。スイスのジュネーブ空港から車で3時間位かかり直行バスは出ていないかも? 鉄道で3時間30分。チューリッヒからでも車で4時間、電車で3時間30分かかります。サンモリッツからツェルマットまで氷河急行(Glacier Express )グレイシャーエクスプレスが走っているが・・。氷河急行は時速30km。世界一遅い急行なのである。※ そもそもサンモリッツに行くのも大変ですが・・。観光で行くなら、日本からの観光ツアーに乗るのが一番楽。個人では大変。さて、このツェルマットの街ですが、ここにも問題が・・。ガソリン車乗り入れ禁止の(エコ)街です。故に街への乗り入れは電車でなければなりません。つまり、観光バスでアクセスする場合、ツェルマットのひとつ前の駅、テーシュ(Tasch)でバスから降りマッターホルン・ゴッタルド鉄道に乗り換えて街に入るのが一般的です。およそ、所要時間20分。荷物だけ車で送る場合もありますが、たいてい自分で荷物を持って乗り込みます。下はテーシュ(Tasch)駅に戻ってきたマッターホルン・ゴッタルド鉄道のシャトルです。テーシュ(Tasch)駅荷物を置くための車両です。乗客はその前の車両に席があります。下は電車が異なりますが、荷台の見本写真です。接続は差し込むだけ下も見本です。つづく・・。リンクback number アルプス山脈 マッターホルン 1 テーシュ(Tasch)駅リンク アルプス山脈 マッターホルン 2 マッターホルンリンク アルプス山脈 マッターホルン 3 シュルーマッテン・リフトリンク
2009年05月12日
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Break Time (一休み)2番人気を食べてしまった後に「写真をとればよかった!」と思いつきました。・・・残念。左のイチゴが1番人気! お値段550円!!右のアップルパイが3番人気! お値段280円です。食べてしまった2番人気は苺の代わりにフルーツ(イチゴ、メロン、ブドウ、グレープフルーツ、黄桃、洋なし、等)がトッピンクされていて、お値段450円でした。新宿高野は新宿東口に本店を置く、創業明治18年(1885年)の老舗のフルーツパーラーです。果物の販売と、レストラン、パーラー(スイーツ専門)の他、デパートなどの店舗でケーキ販売しています。1900年から果実問屋として高野商店を経営し、1920年には高級フルーツのマスクメロンの販売を始めます。桐箱梱包されているマスクメロンはTAKANOブランドを代表するフルーツだそうです。理念は、「フルーツのプロが選んだフルーツを」、「フルーツのプロが確かな技術で造り上げた商品を」、「フルーツのプロがお客様の求める情報を添えてご提供する。」だそうです。普通のケーキ屋さんではないことが、品揃えからもうかがえます。新宿高野本店にあるパーラーは、いつも行列で待ち時間が長いですが、デパートのテイクアウトも3~4人待ちはざらです。さっぱりしたケーキが食べたいときは良いですね。基本がフルーツケーキですから・・。
2009年05月12日
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モン・ブラン最終章です。シャモニーよりロープウエイでエギーユ・デュ・ミディ(ミディ針峰の北壁)に到着。そこの展望台から望遠で撮影した写真を紹介。エギーユはフランス語で「針」、デュ・ミディは「お昼」。岩でとがった山頂がシャモニーから見て正午に太陽が来る事から名付けられたそうです。1911年に工事が始まり、第一次大戦で中断。1923年に再び工事再開し、1924年の第一回冬期オリンピック開催より運行し、1954年まで営業。駅の位置が移動して同年今の場所で運行再開し、エギーユ・デュ・ミディ山頂まで開通。1990~1991年に大幅改修して、最新設備に新調されたと言う事です。シャモニーからエギーユ・デュ・ミディ山頂駅までのロープウエイの料金は往復40ユーロ(140円として5600円位)片道36ユーロ(5040円位)。シャモニーからエルプロネ(イタリア側の展望台)まで、往復60ユーロ(8400円位)片道50ユーロ(7000円位)。遠く乗るほどお得ですが、イタリア側まで乗ると一日がかりになる可能性があります。この山脈下に走るモン・ブラン・トンネルも、もちろん有料です。下は、エギーユ・デュ・ミディのテラス・シャモニーから望遠で撮影。グランド・ジョラスを登る一行。天気が良いので、思った以上の登山隊が見えます。右の山は石のダン・デュ・ジュアン(巨人の歯)あちこちに氷河が見えます。下はバレ・ブランシュを登る一行。上は、シャモニ針峰群を登る一行。先頭の山岳ガイドがザイルを引いているのが見えます。山岳パーティの場合、一人に一人のガイドが必要だそうです。客が落ちた時、ささえて助ける為には一人以上は無理だから・・。こんな所だから落ちる人だって結構いるのでは? ガイド料は命がかかっているのでかなり高いそうです。スイスとイタリアでも違うそうです。モン・ブランを望む。右からモン・ブラン(標高4807m)モン・モーデイ(標高4465m)モン・ブラン・デュ・タキュール(標高4248m)お菓子のモン・ブランとはかなり違いますね。
2009年05月11日
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デジタル・カメラが安易に買えるようになったのはこの数年だと思います。10年程前? に買ったソニーのデジタル・カメラは15万円程した高価なカメラ(高解像度のデジタルカメラはまだ高かった)は、メモリも少なく(メモリも高価)電池の容量も少なく(充電の限界)、あまり旅行の役には立ちませんでした。フィルム・カメラから完全に切り替えたのはこの数年です。悩んでいたのは昔のフィルム撮影したネガやスライドをどうするかと言う事です。普通なら取り直せば良いのですが、美術館や教会内部の撮影が禁止されている昨今(昔は何でも撮影できた。)昔撮影したフィルム・ネガやスライドが案外貴重に思えたからです。(かなり良い映像や、おそらく二度と行けない貴重な映像があります。)家のスキャナーではスライドの読み込みが出来ないので(店に出すのもお金がかかるので・・)新たに購入を考えたのですが、需要がないのか製造中止(ニコンの製品にあった)で、日本の市場(ネット)にはありませんでした。結局アメリカのサイトで見つけ日本に逆輸入する事にしたのですが、海外からの取り寄せだと運賃も高いけど、通関税や通関手数料等、商品の値段に加えると、恐ろしく高く付いてしまいます。さらに壊れていた時は返品が難しく(過去にあった)泣き寝入りになります。そんなリスクも嫌なので、ハワイの姉に頼んでハワイのカメラ屋で取り寄せて(日本に一時帰国する10月)持って来てもらおうと考えたのですが、「取りにおいで!」と言われました。「そんな簡単に行けないよ!!」 でも、商品の発注はすでに終っています。それはいつ手元に届くのでしょうか・・。ビデオやカセットテープもそうですし、パソコンのフロッピーやMD等、過去になってしまったメディア媒体を皆さんはどう処理しているのでしょう。 (時間がたつ程にどうにも出来ない状態に陥っているような・・。捨てなきゃならない状態に陥っているような・・。事、に気づきました)
2009年05月11日
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今回はフランス側の展望デッキからの紹介です。シャモニー(フランス側)から到着したエギーユ・デュ・ミディ駅(標高3812m)の展望台です。ラジオアンテナのある頂上テラスより撮影。A今見えている建物の下にロープウエイの駅があります。眼下にシャモニーの街も見えますがあそこの街からここまで20分程で上がって来たとは考えられない距離ですね。観光客の大半は、ここで折り返しをします。ゴンドラの定員人数が第1区間と第2区間で異なる為にここでの滞在時間を含めて、通常は最低1時間30分程かかります。(ハイシーズンには人でごった返しさらに時間がかかる。)行きのシャモニーの駅で整理券が配られ順番に乗りますが、日本人ツアーの場合はあらかじめ予約がされているので整理券の融通がきくらしいです。(時間通りにツアーを進める為に・・)一般客の予約は基本できないそうです。とにかく急激に登山する為に高山病になる人が多いそうです。(頭痛、発熱、他、)地図です。位置関係を把握してもらうと判りやすいです。B右の岩山にロープウエイが到着して(1)、橋を渡りイタリア方面に行くロープウエイの乗り場(左端15)とラジオ塔の頂上テラス(有料10)に行けます。(二つは別々の巨大な岩山です。)下は岩山をつなぐ橋です。下は深い谷です。こんな所に橋を架ける事を考えた人と工事をした人偉いですね。Cまさに絶景!! 高所恐怖症の人は無理ですね。(そもそもここまで来れないですね。)橋を渡って行く人は、右の岩山の中のギャラリー(11.12)に行くか、岩山の上のラジオ塔のある展望デッキに出るか、イタリア方面に向かう別のロープウエイ乗り場(15)に向かうかのいずれかです。岩山の上の展望デッキに行くのは有料で、この岩山の中にあるエレベーター(8)に乗って向かいます。(Bの地図を見てね) Aはそこ(10)からの撮影です。イタリア方面のローブウエイに乗るのはスキー客の他、シャモニーに戻らないでイタリアに抜けるコースを取る観光客です。(この山脈下に掘られているモン・ブラン・トンネルを抜けてイタリア側にバスを回しているツアー)下は、折り返す人は乗らないイタリア方面行きのロープウエイで、パノラミック・モンブラン小さなゴンドラ3基が一緒に動くテレ・キャビンと言われています。ルビュッファの歩道橋(18)より撮影。岩から出てくるようです。建設大変だったでしょうね。ポワント・エルプロネの空中散歩いきなり谷底です。眺めは超絶景ですね。下はモンブラン観光のロープウエイの地図をデジ撮りしました。綺麗ではないですが、参考にして下さい。右の青いラインがシャモニーからのロープウエイです。赤のライン右がフランス側の展望デッキで、左がイタリア側の展望デッキです。左の緑のラインはイタリアのラ・パルド(クール・マイユ方面に行く人)に向かうロープウエイですが、あちらはイタリア経営でロープウエイの会社も違います。Part 4でここから見える景色の写真をupさせるつもりですが、フォトの上限にひっかかりそうなので、一度にのせられるかどうか・・。
2009年05月10日
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モンブラン観光に向かうロープウエイを紹介。第1区間のシャモニー駅(標高1036m)からプラン・ド・エギーユ駅(標高2317m)行きのロープウエイは鉄製の骨組み3本の柱のみでささえられているようです。(大丈夫?なの?)この乗っていても凄いと思うロープウエイの建設は、まさしく人と自然との闘いだったそうです。シャモニーのガイド達により、直径14ミリ、長さ1700mのケーブルを分割せずに山頂までかついで引き上げたと言います。1人30キロのリュックを背負い30人の山男の一隊が2日かけて・・・。(下りも石や氷の落ちる北の岩壁を降りるのに命がけ。)いざ、ケーブルを張る時になると、今度はケーブルが岩壁の間に挟まったり、動かなくなったりし、それをガイド達が大変な離れ業ではずし、引っ張り上げたそうです。Part 1の最後の写真を見るといかに急斜面(絶壁に近い)なのかわかると思います。極地の気象条件の中、2人の死者を出し、ロープウエイが完成。現在そのロープウエイはスキー客や登山客、観光客にはなくてはならない交通手段になっています。下は中間地点プラン・ド・エギーユを出発したロープウエイです。シャモニー駅(標高1036m)よりプラン・ド・エギーユ(標高2317m)まで、一気に1281mを8分で登った後は乗り換えて、プラン・ド・エギーユ駅より山頂のエギーユ・デュ・ミディ駅(標高3812m)までの1495mをまた8分で登りきります。(本当に凄いぞ・・。)下の左が駅の下の骨組みで、かすかに見える糸みたいなのがケーブル。ゴンドラは山で見えにくくなっていますが、右の山の山頂の駅に向かって進んでいます。柱は全くないようです。(日本じゃ考えられないと思う・・。)写真ロープウエイの下にみえるのがペルラン氷河。ロープウエイより右手にボストン氷河とクレパスが見える。水が下に下るように雪の固まりが落ちて行っているように見えますね。写真は水平で撮影しています。傾斜角は45度以上ありそうです。さて、次はいよいよモンブランの見える展望デッキのあるエギーユ・デュ・ミディ駅(標高3812m)に到着です。
2009年05月10日
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スイスがらみで、今回はアルプス3大名峰を紹介します。欧州のアルプス山脈は主にスイスを中心にまたがっています。その中でもマッターホルン、ユングフラウ、モンブランは3大名峰として、世界に名の知れた山です。(スイスの山の観光ツアーには(スイスだけのツアー)たいてい組み込まれているツアーです。)地理を把握してもらう為に今回も地図を読み込みました。参考まで・・。下から a モンブラン (フランスとイタリアにまたがる) b マッターホルン (スイスとイタリアにまたがる) c ユングフラウ (スイス)今回はモンブラン(Mont Blanc)から紹介です。中央上のちょこっと出た白いのがモンブランです。手前はモンブランにつながる山脈で、マッターホルンのように単独で撮影できる山ではありません。(周りの山がじゃまになる。)スイーツのモンブラン(栗のペーストから作るケーキ)の語源ともなっているこの山は、標高4810.9m西欧州では一番高い山で、モン「山」、ブラン「白」から「白い山」or「白い婦人」と呼ばれています。フランスとイタリアにまたがっている為に、山頂がどちらの国に属するか常に論議され、国境線は山頂を通る(半々)で合意したようです。(仏の地図では自国の領土になっている事も・・)フランス側ではオート=サヴォワ県のシャモニーイタリア側ではヴァッレ・ダオスタ州のクール・マイユが近いとされていますが、実際にツアーはスイスのジュネーブの空港(クワントラン)からバスで75分、国境越えしてシャモニーの街に入るコースが取られています。(一番早い)(注: 国境越えなので、パスポート検査があります。)シャモニーの街からはロープウエイに乗り、途中プラン・ド・エギーユで乗り換えてエギーユ・デュ・ミデイ駅に到着(標高3842m)。駅の上の展望レストランのデッキからモンブランの絶景を堪能します。下はロープウエイの途中駅プラン・ド・エギーユからのシャモニーの街です。左にローブウエイがかすかに見えますが、シャモニー(標高1036m)よりプラン・ド・エギーユ(標高2317m)まで、一気に1281mを8分で登ります。(当然具合も悪くなります。)それにしても柱がほとんどありません。驚異ですね。通称シャモニー(Chamonix)の正式名は、シャモニー・モンブラン(Chamonix mont Blanc)です。モンブランの山麓の渓谷の街で、標高1036mに位置する登山とスキーヤーで賑わう街です。(世界でも有数のスキーリゾート地)下はプラン・ド・エギーユ駅とそこから見える山々です。スイスのイメージに合う景色ですね。素敵な所ですが、ここは通過するだけの駅です。
2009年05月10日
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マルテッリのパスタミラノの高級食材店イル・サルマイヨで購入してきたパスタに美味しいのがありました。そのパスタはイルマイヨ特製に作らせた品のようですが、イタリアのトスカーナ州に店を持つマルテッリの会社で作られたパスタだと判りました。このパスタなら日本でも安く手に入るようですが、店頭で売られているのを見たことは一度もありません。(ネットにあったけどアフェリエイトはなかったから自分で探して・・)下は通常版のマルテッリのパスタです。パスタは、U字型したロングパスタです。(ほとんど折れちゃってるけど・・)マルテッリは1926年イタリアのトスカーナ州のラーリと言う小さな街で創業された会社で、乾燥パスタの中では「最高の品質を誇る」と専門家太鼓判の店だそうです。(イル・サルマイヨが目をつけたのも当然なんですね・・)「最高のセモリナ挽き硬質小麦粉を原料とし、近代的な機械乾燥によらない昔ながらの伝統的なアルティザンの製法をいまだに守りつづけている事が特徴」だそうです。ディーノとマリオのマルテッリ兄弟はあえて伝統と品質を選び、他のパスタメーカーが機械化する中にあっても50時間以上かけて自然乾燥させる昔のままの製法にこだわり続けているそうです。確かに食感が普通のパスタとは違います。本当に美味しいです。乾燥パスタの良い所はモチモチとた食感で、これは絶対生パスタではでません。パスタは乾燥に限る理由が良くわかります。下はイル・サルマイヨ用の特製マルテッリのパスタです。味比べはしていませんが、袋にイルマイヨを着けるのですから、中身もさらに良いものなのでしょうか? イタリア物は色々試したけど今までで一番おいしいパスタでした袋が違うでしょ・・。左は今日の昼のカルボナーラの食材です。ベーコンがまたこだわりで、小田原の肉のクロヤナギからのお取り寄せです。(ネットはなくて電話オーダーです。)小田原の友人が盆暮れに贈ってくれる店の物で、自分で時々電話注文して取り寄せます。これは、「美味しいベーコンが出来たのでいかがですか?」と手紙がきたので注文した品です。発色は今一ですが、味は最高だからと言う本人の薦めで購入。ソーセージ等、全てドイツで修行してきた大ちゃんの手作りです。私はここのローストビーフとコンビーフは世界一だと思いますが、それはまたの機会に紹介します。(できれば小田原に行って店の写真も大ちゃんも紹介したいです。)いちおう今日の昼食を紹介。見た目微妙ですし、取り分けたのでソースも見えませんが、素材が良いので味は良かったです。パスタはもちろん最高。ベーコンも従来のベーコンと違って目立ちたがる事のない、肉本来の味を感じるものでした。(一般のベーコンの概念とは少し違う)今日のプチ贅沢でした
2009年05月10日
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