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新しい年に向かって ~風との対話~ 考えてみれば今年も良く生きたもんだ そうでしたね確かに 救急車で運ばれたのが4月 発作で苦しんだのが酷暑の8月 そして年の暮れには 3度目の不整脈手術を受けた 今年はたくさんの方が亡くなりました ああそうだったな 54歳の俳優今井さんの死には驚いたよ それに身近な人も何人か死んだ 妻の兄 職場の先輩 そして仲人をした彼の父上も それだけではない この地球上から たくさんの命が奪われた パリのテロ シリアの内戦 ウクライナ上空で撃墜された マレーシア航空機の乗客の命など 来年も生きられますかね いやそれは誰にも分からないよ 第一 神様に聞いても教えてくれないしね それでも人は生きようとするさ 俺達の先祖が何千回も月を仰ぎ 何万回も星を数えて来たようにね 今年は柚子の枝をバッサリ伐った 根っこが腐って病気になった柿の樹は 可哀想だが伐り倒した それでも新しく植えた無花果の樹は すくすく育ってたくさんの実をつけた この地球はどうなりますかね ああ 温暖化が叫ばれてパリで会議もあったが 「スターウォーズ」などと浮かれている前に 俺達の地球や この命を大事にしないとね 今は冬 空に風花が舞い 畑の白菜が凍える季節 悠久の時の流れは果てしないが それでも人は新しい朝を迎え 新しい年に向かって歩み続ける 今日は大晦日。今年もとうとう最後の一日になってしまいましたね。読者の皆様には、この一年私のブログを訪問してくださり、本当にありがとうございました。またブログ友の皆様には、大変お世話になりました。心から御礼申し上げます。どうぞ皆様にとって来るべき年が、佳い年になりますよう心から祈念し、御礼に代えさせていただきます。来年もどうぞよろしくお願いしますね~
2015.12.31
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<私の中のニュース> 「従軍慰安婦問題」に関する日韓両国の完全な合意が成立したと言う。日本は安倍総理が謝罪し、元慰安婦の厚生のために10億円の基金を提供し、韓国側は2度とこの問題を蒸し返さないと言うのがその内容。ソウルの日本大使館前などに建てられている「慰安婦」の少女像の撤去についても韓国側が努力すると約束した。だが、本当にこの問題は決着し、今後何ら騒動の基にならないのだろうか。私の胸の奥でくすぶっているあの国への深い疑心は、なかなか解けそうもない。 政権が危うくなる度に、韓国の大統領はこの問題を繰り返し持ち出した。朝日新聞の30年以上に及ぶ慰安婦問題に関する誤報も、韓国を始め世界に誤解を与える結果になった。朝日新聞の罪は非常に重い。反日教育を推進した韓国政府の方針も、日本人への誤解や憎しみを深めた。元慰安婦とその支援団体は、今回決着に不満だと早速表明した。韓国に対しては過去莫大な資金が日本政府側から提供されているが、そのことすら韓国政府は国民にきちんと説明していないのだ。 我が国に対する中国の態度にも、最近変化が現れたように感じる。経済活動がかなり減速しているのだ。それに加えて、南シナ海での岩礁埋立と軍事基地化の動きが、東南アジア諸国はじめ世界の各国から全く支持されなかったので、かなり慌てているのだろう。中国の反日教育も韓国以上に酷いものだ。映画の大半は旧日本軍の悪行をテーマにしたもので、それも事実に基づかないものが多い由。日本を叩くのが中国浮上に繋がると、あの国は考えているようだ。 だが、一党支配の矛盾が次々に出ている。貧富の差は大きく、歴史は歪められ、国民の異民族には漢民族化教育を推進して資源を奪い、国土は今汚染に苦しんでいる。間もなく中国のバブルが弾け、折角世界通貨となる「元」の信用が失墜する日が近いみたい。韓国を従え、アジアから世界一の経済大国を目指したその行方には、暗雲が漂っていると言えよう。拉致問題の進展もない北朝鮮は、今年も飢饉に苦しんでいる由。この3国は果たしてどこへ向かうのだろう。 パリでは今年テロによる大量の死者が出た。ロシアはウクライナからクリミア半島を奪い、ウクライナ領地深く侵入した。そのためマレーシア機が撃墜された。シリアでは政府、反政府、ISの三者が激しく戦い、多くの難民がヨーロッパへ脱出した。日本人も捕虜となり、2名が命を落とした。そのほかにも拘束されている日本人がいるようだ。世界遺産は無残に破壊され、イラクやシリアの国土は荒れ果てて行く。アフガニスタンの動乱も治まる気配がない。 普天間基地の辺野古移転を巡る沖縄県と日本政府の確執は、ついに行政問題から法廷闘争へと移行した。「あの腐れナイチャー」。沖縄のオバーが口汚く罵る相手は島尻沖縄・北方対策担当大臣。彼女は宮城県生まれで、沖縄出身の男性と結婚し、島尻姓を名乗っている。沖縄のために必死で頑張る大臣に対して、「あれは内地人で根性が腐っている」。それが沖縄の人の地元選出の大臣に対する見方なのだろうか。 私には最近の沖縄が韓国とオーバーラップして見える。つまり被害者意識ばかりが先行して、現実が見えなくなっていると言うことだ。我々は日本の犠牲者。その想いを、偏った沖縄のマスコミと内地の一部マスコミが煽って、自分達だけが正義だと勘違いしてしまうのだろう。この溝はかなり深く、お互いの理解をますます困難にしている。韓国もそうだが、遡って歴史を変えることは出来ない。出来るのは相互理解の努力だけなのだが。 その他、今年は国内でも様々なことが起きた。新国立競技場建設のやり直し問題、東京オリンピックエンブレムデザインのやり直し問題、杭打ちデータの不正問題、安保関連法案整備に関する民意の二分など政治的な問題もあった。そして苛めによる子供の自殺や、理由なき尊属殺人、靖国神社トイレの爆発事件など、楽しくない事件が多発した。気候変動に伴う様々な影響も出、火山の噴火、大雨による浸水、土砂崩れなどの事故もあった。 だが中には日本にとっての明るいニュースもあった。ラグビーのワールドカップでは、日本が世界の強豪と戦って3勝を挙げた。ノーベル賞では、今年も日本の科学者2名が物理学賞を受賞した。安倍総理の売り込みが効いて、インドの最初の高速鉄道を日本が受注する運びになった。そして理化学研究所が発見した113番目の元素が、近く認定される由。どうやら新しい元素の名は「ジャポニウム」に落ち着きそうとのこと。 そして異論は多いかも知れないが、私は「安保関連法案」の整備が今後の日本の安定を約束するように考えている。これで中国も易々と東シナ海の尖閣諸島や沖縄へ手出し出来なくなったはずだ。今回の韓国の変身の陰には、アメリカ政府の強力な要請があった由。つまり中国の動きを封じるためにも、同盟国同士の団結が欠かせないとの認識だ。さて来年の日本と世界は、果たしてどんな風に変わるのか注目している私だ。<完>
2015.12.30
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<趣味編> 今年読んだ本は少なかった。司馬遼太郎の「街道をゆく」シリーズなど5冊を読んだだけ。それも3月で終わった。体調や目の具合もあったが、一番の原因は根気が続かなかったのだ。その代わり年の半ば過ぎから、U-tubeを見始めた。日本史を中心に、東洋史、世界史などの映像にかなり興味深いものを発見した。ただ、この手の物は面白半分の内容も結構多く、真贋を見抜く力がないと「まがい物」に騙されることになる。 東北楽天の本拠地であるコボスタには一度も行かなかった。内野席が広くなり、これまでで一番観客席が増えたと言う球場。だが体調が悪いのに加え、試合内容が今一だと感じた。大久保新監督は苦労していたようだ。緒戦の3連戦はいずれも接戦だったが勝てなかった。あれを物に出来ないようでは、今年は危ないぞ。その危惧が現実になり、借金はみるみる増えて行った。 主力選手の怪我が大きいが、打てないのでは勝てない。その責任を取って、シーズン後半には1軍打撃コーチが辞任した。実際は三木谷オーナーが打順にまで口を出し、嫌気がさしての辞任が真相のようだ。夏頃まではラジオを聴いてまで応援していたのだが、最後はすっかり諦めた。来季は梨田新監督の下に心機一転して戦ってほしい。日本一になったチームが、その後2年連続の最下位では、悲し過ぎる。来年はこれまでの悔しさを試合にぶつけて欲しい。わがイヌワシ戦士達よ。 今年の野菜作りはまあまあだったかも知れない。体調が悪い時は、スコップで1回掘り返す毎に苦しんだ。今年作った野菜は、ニラ、三つ葉、アシタバ、シソ、花ワサビなど植えっ放しのものを除くと、ジャガイモ、トマト、ミニトマト、ナス、キュウリ、雲南百薬、ツルムラサキ、オクラ、モロッコインゲン、ヤーコン、パセリ、サトイモ、春菊、大根、白菜、聖護院大根、ブロッコリー、カリフラワー、タマネギなど。モロッコインゲンを除いて、全部豊作だった。 今年観た美術館、博物館などの催し物は以下の通り。 5月 河北美術展2015 F百貨店 6月 特別展「国宝吉祥天女が舞い降りた」 仙台市博物館 6月 特別展「デザイナー芹沢けい介の世界展」 東北福祉大学芹沢工芸美術館10月 「れきみん祭り」 仙台市歴史民俗資料館11月 特別展「宇和島伊達家の宝」 仙台市博物館11月 特別展「ピカソ展」 宮城県美術館 体調が良くなかったため、今年は自室に籠る時間が増えた。ほとんど走れなくなったため、趣味の第1位に躍り出たのがブログだった。これまでにも負けないほど、自分ではブログの充実に努めた積り。この1年のうちで、亡くなったブログ友が居られる。慎んでご冥福をお祈りしたい。去って行ったブログ友もいる一方で、新しいブログ友が何人か増えた。毎日コメントしてくれる友はとても貴重な存在で、心から感謝している。 今年もほとんど毎日早朝からブログを更新した。書けなかった日は、旅行中か入院中だった日のみ。搭載率は97.5%。まあ頑張った方ではないか。難しく微妙な政治の話にも果敢に挑戦した。中にはそのことで去って行った友もいたに違いない。それでも私は自分の信念を貫いた。たかがブログ、されどブログ。今やブログは私の心を支える大事な生き甲斐になっている。ここ2カ月ほど前から、急激にアクセス数が増えている。この場をお借りして、読者の方々に感謝したい。そしてブログ友の皆さん、これからもどうぞよろしくね~!!<続く>
2015.12.29
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<旅行、小旅行編> 今年も何度か旅へ出た。体調が悪くなるのが心配でさほど遠くへは行かれなかったが、やはり旅は楽しい。県内の歴史を訪ねる日帰り旅行へも何度か行った。郷土のことを知るのは、祖先の歩みを学ぶことでもある。今日はそんな旅のまとめをしたい。 奥入瀬渓流 6月初旬、妻と十和田湖温泉及び奥入瀬渓流を訪ねた。妻が駅まで迎えに来てくれる温泉を探していたので、いっそのこと、ついでに観光が出来るのはどこが良いかと私が考えて選んだ。十和田湖と奥入瀬渓流は、新婚の年にも訪ねたことがあった。あれから45年経ち、今は東北新幹線が走っているので便利。 十和田湖畔の乙女像を訪ねた時は北風が吹き荒れて寒かったが、高村光太郎作の彫刻を間近で観られて感激した。翌日はそこからバスで奥入瀬渓流まで行き、「雲井の流れ」から「焼山」までの9kmを渓流に沿って歩いた。国立公園でもあり、特別名勝に指定された奥入瀬渓流は、まるで宝石の翡翠のような流れだった。きっと死ぬまで忘れられない光景になるだろう。私はそんな風に感じている。 盛岡市志波城遺跡公園 6月下旬にはJRの「大人の休日倶楽部フリー切符」を利用して、北東北の歴史を訪ねる旅に出た。前年の晩秋、旅先の奈良で妻と大喧嘩になりほとほと苦労したため、この旅以降はずっと単独行動となった。第1日目の盛岡では、ブログ友ニッパさんの案内で、先ず志波城遺跡公園を訪ねた。ここは大和政権が築いた古代の城柵の最前線で、最も北にあって蝦夷と対峙した城。それを発掘調査に基づいて、一部復元したのだ。 ニッパさんにはその後も「盛岡市遺跡の学び館」、「盛岡歴史文化館」などを案内していただき、心から感謝している。盛岡城跡公園を訪ねた後JR花輪線で移動し、次の訪問地へ向かった。 大湯環状列石 向かった先は秋田県の鹿角市。十和田南駅で降り、タクシーで大湯温泉へ行った。ここのホテルで一泊し、翌日向かったのが有名なストーンサークルだ。縄文時代の貴重な遺跡で、ここには2つの巨大な環状列石などがあった。住居は離れた場所にあり、ここは石を積み上げた墓場で、あったのは十数棟の櫓跡。つまりストーンサークルは宗教施設なのだ。死者を悼み、子孫の繁栄を祈る神聖な場所。念願のその地に立てて、私は幸せだった。 五能線の風景 東能代から五能線に乗った。快速電車「リゾートしらかみ」は全席座席指定。その指定席券がないまま列車に乗り込み冷や冷やしたが、結果的には大丈夫だった。この沿線は世界遺産の「白神山地」を含めてリゾート地が多く、車両が限られているため指定席が取れないのだ。私は青森県の鰺ヶ沢で下車し、ここのリゾートホテルに宿泊。温泉は地下深くから噴出する「化石水温泉」で、これは数十万年前の海の名残。舐めると実に美味しい塩味だった。 第3日目に行ったのが津軽半島の付け根にある「十三湖」。この日は梅雨の大雨で、ずぶ濡れになりながら湖の中にある中島に渡り、資料館を見学した。ここは古代から中世にかけて活躍した安東(安藤)氏の本拠地。沖を流れる日本海流を利用し、蝦夷地や中国大陸との貿易で巨大な利益を上げたのが安東一族だった。 写真は左側が現在の十三湖。地震で日本海への出口が狭まったが、かつては湖の内側に港や屋敷町が並んでいた。右側は中国からもたらされた見事な青磁。これは翌日「青森県立郷土館」にあったもの。十三湖からの帰路途中でバスを降り、亀が岡遺跡付近の「縄文館」を訪れたが、国宝の土偶などは東京国立博物館にあって、めぼしい物は置いてなかった。共に大雨の中の探訪で、きっと忘れられない思い出になるだろう。 安東氏木像 最終日は早朝に弘前市のホテルを出て、青森市に向かった。駅から歩いて行ったのが「青森県立郷土館」。ここでたまたま北前船の写真展をやっていた。中世から昭和の初期まで日本海を航行し、蝦夷地(北海道)や東北各地の産品を大坂まで運んでいた船だ。その航路を「西廻り航路」と呼び、私が泊った鰺ヶ沢もその寄留地だったのだ。これによって上方の文化が東北にもたらされた。 その基礎となったのが、安東氏らが推進した外国貿易。そして驚いたことに、ここには十三湊発掘の遺物が数多くあるだけでなく、亀が岡遺跡の縄文館で観ることが出来なかった「遮光器土偶」をもここで発見した。偶然にしても何ともラッキーな出会い。やはり歴史はその舞台を訪ねると、より真実が見えて来るものだ。 朝焼けの筑波山 10月の末に茨城県の筑波山に行った。筑波勤務時代の悪友達との麻雀大会だった。体調不良などのため、私は3年ぶりの参加だった。この場で30年ぶりに2人の先輩とお会いすることが出来た。また別の先輩2人の死を知った。前日は筑波勤務時代に10年間住んだ宿舎を訪ねた。庭の樹木が大きく育ち、街並みはさらに整備されていた。何もなかったあの頃に比べたら昔日の感がある。懐かしい土地を訪ねることが出来て幸いだった。 6月志波城跡で 最後に宮城県内の小旅行だが、3月の初めに県南の丸森町を訪ねた。蔵が11もある斎理屋敷の見学だった。かつての地方財閥の栄華を知って驚いたものだ。3月下旬には県北の登米市を訪れた。ここには「みやぎ明治村」がある。旧登米県庁庁舎、旧登米尋常高等小学校、旧登米警察署など明治時代の建物が良く保存されていた。また休日ながら「森の舞台」も見学出来た。木造の見事な能舞台だった。 5月は12km走って「秋保工芸の里」のこけし工房などを訪ねた。6月は全国の走友達と、松島湾に浮かぶ3つの島を15kmほど歩いた。そして11月は大崎市の岩出山伊達家の学問所である有備館を訪ね、その帰路には古代の玉造郡の「郡が」跡である「名生遺跡」を訪ねることが出来た。県内の小旅行のほとんどが観光目的と言うよりは、郷土史を学ぶ旅。まあまあ充実した1年だったように思う。<続く>
2015.12.28
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<健康と運動> 口唇ヘルペスがようやく治って来た。だが胃の調子は依然として良くない。胃酸過多の薬を服用しているが、げっぷが出て苦しい。実はこれらの症状は、不整脈手術の後遺症の一つなのだ。不整脈を発症させる心筋の一部が高温で焼き切られた時、付近の臓器にも影響を及ぼすと聞いた。ほかにも10以上の後遺症が現れる可能性があるが、幸い私の場合はまだ出ていない。3度目の手術から2週間経ったが、私はいつになく慎重に行動している。 思えばこの1年も苦しみの連続だった。1月にはやる気になって、M公園内を結構走った。膝も痛くなり、もうかつてのスピードは出ず、まるで亀のような走りしか出来なかった。だが翌月から体調が思わしくなく、走る距離は極端に減った。4月の早朝、急に血圧が上がって下がらなくなり、救急車でK病院へ運ばれた。体調が良いと感じられるようになったのは7月。翌月の「薬莱山とお足」を目指して練習も出来たのだ。 だが現実はそう甘くはなかった。8月に入ってすぐ、明らかな不整脈の症状が現れた。激しい動悸、目まい、吐き気、息苦しさなどで、歩くのもやっとの状況。暫く我慢していたがM医院のドクターに手術を勧められた。そこで以前も手術を受けたK病院を受診。O先生もカルテを過去に遡ってじっくり見、かつ検査の結果から手術を口にした。だが手術予定者が多く、それから4カ月待つことになった。本当に手術で良くなるのだろうか。私はまだ疑っていた。 手術の結果を報告しにM病院へ行った。ドクターと色々話したが、3度目の手術後も再び不整脈が起きた患者がいた由。私は今回6時間もかけて5つの病巣を焼き切った。それでも不整脈は起きる可能性はあるのだ。何と言うしつこさだろう。それでも私は何とかまた走ろうとしている。かつてのようにレースに出ることは無理だが、健康のため早歩きくらいはしたいし、増え続ける体重を何とか抑えたいのだ。 今年歩いた距離は以下の通り。うちカッコ内は走った回数と距離。1月145km(6回86km) 2月103km(2回21km) 3月113km(4回41km) 4月104km(1回11km) 5月136km(5回42km) 6月143km(5回46km) 7月203km(16回139km) 8月89km(6回47km) 9月31km(0回0km) 10月89km(2回14km) 11月(3回24km) 12月50km(0回0km)。 12月は昨日までの記録。年間の合計は1282km(50回471km)となった。1回辺りの平均は9.4km。もうレースに出られるレベルではないが、毎月必死で運動しようとしていたことが分かる。これまでの累計は86412km。地球を2周と6分の1走った計算だ。 先日ある人のブログを見て、1人のウルトラランナーの死を知った。愛媛出身のSさん。年齢は多分40歳そこそこのはず。彼と初めて会ったのは平成19年の「第2回佐渡島一周」の150km地点付近。そこから10kmほど並走して、色々話した。偶然にも彼は私の小学校の30年後輩だった。スーパーで買った「いなり寿司」を上げたら、彼は美味しそうに食べた。私はそこからロングスパートし、40時間23分でゴールした。 次に会ったのは東京お台場の24時間走。私は膝を傷めて114km(20時間)で止めたが、彼はもちろん最後まで走り、すっかり強いランナーに変身していた。きっと30年も先輩のランナーに負けたのが悔しかったのかも知れない。その彼があるサイトに笑顔で写っていた。何とギリシャの有名レース「スパルタスロン」(距離250km:制限36時間)を完走していたのだ。死因はガンのようだ。若くして世を去った後輩の死を悼み、心から合掌したい。 「佐渡島一周」で出会ったランナーの思い出は他にもある。第1回、第2回で一緒に走ったHさんは60歳の若さで胃がんで亡くなった。まだ30代だったR子さんは卵巣がんで亡くなった。それを知った私は、2人の弔い合戦として第4回の「佐渡」へ出た。65歳の私にとって206kmものコースは厳しく、最後はゴール手前で3回行ったり来たりを繰り返した。激しい疲労で距離感がすっかり狂ったのだ。44時間11分35秒でのゴールだった。 もう2度とレースで走ることは無理だが、私には47都道府県全てを走った思い出がある。後どれくらい生きられるか分からないが、来年はまた早歩き出来るくらいの体力を取り戻したい。今はじっと我慢の時。馬鹿かも知れないが、私は私自身を信じたいのだ。<続く>
2015.12.27
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<映画・映像編> 12月見た3本の映画は、いずれも戦争に関係するテーマだった。最初が『母と暮せば』だが、これは長崎の原爆で亡くなった息子(二宮和也)の亡霊が産婆をしている母(吉永小百合)の元に時々現れ、2人で元恋人の娘(黒木華)の将来を心配する話だが、戦争の場面は全く出て来ない。それどころか原爆投下の場面すらない。それでも戦争に翻弄された市民の苦しみや、戦争の悲惨さが十分観客の胸を打つ秀作だった。監督及び脚本は山田洋次。 この映画は井上ひさしの遺志を継いだものとのこと。劇作家の井上は広島を舞台にした『父と暮らせば』を先に世に出した。次いで長崎、沖縄をテーマにした三部作を構想しながら実現せぬままこの世を去った。だから舞台が長崎となったことだけが井上の構想だっただけ。音楽の坂本龍一は、特に山田監督が熱望したものだった由。こうしてこの世にいないものの遺志が、1本の美しい映画になった。私は映画を観ながら、長崎のブログ友が撮った写真の風景を思い出していた。 次に観たのが『杉原千畝』。名前は「ちうね」と読む。戦前の外交官で、これは彼がリトアニア領事代理を勤めた頃の実話。ヒトラーが引き起こした第二次世界大戦の影響で、たくさんのユダヤ人がリトアニアに逃げて来る。だがソ連は自国を通過することを拒み、日本本国もビザの発給を禁止する。杉原は自分の責任で手書きのビザに署名し続け、6千人もの命を救ったのだ。実現の陰にはウラジオストック領事館勤務の後輩が、やはり外務省の意思に背いて、彼らを日本行きの船に乗せたことも大きかった。 戦後杉原は退職を勧告され、外務省を去った。彼はあのビザ発給を民族問題としてではなく、難民問題として捉えていたのだ。その後職を転々としながらも、彼はあのユダヤ人のその後を気にかけ続けた。外務省が杉原の名誉をようやく回復したのは、退職後53年経った平成12年になってからだった。だがその前に6千人もの命を救った杉原は、イスラエル、リトアニア、アメリカなどで顕彰を受けている。戦争の最中に人類愛に燃えた日本人がいたことを、私達は心から誇りに思う。 最後は『スターウォーズ フォースの覚醒』。話題作なので観に行ったが、実に詰らない映画だった。ジョージ・ルーカス監督がその前の6作を世に出して話題となった。この7作目はJ.J.エイブ監督作品。観る人が観たら面白いのかも知れないが、私はがっかり。人類の将来が異星人との戦いに終始すると思ったら、夢がないのは当然だ。 地球上でも戦い続け、広い宇宙に進出した後もまだ殺し合いを続ける人類。高速の宇宙船に乗って飛び、赤く光る「刀」や青く光る「刀」を握って戦う姿に、私は何の希望も感じなかった。あれが人類の末路とは思いたくもない。以下、今年観たその他の映画を列挙しておく。 2月『アゲイン~28年目の甲子園~』。『マエストロ!』。☆『エクソダス』。 3月『くちびるに歌を!』。『風に立つライオン』。☆『アメリカンスナイパー』。 4月『ジヌよさらば』。『龍三と七人の子分たち』。 5月『駆け込み女と駆け出し男』。 7月☆『アリスのままで』。『愛を積む人』。 8月『日本のいちばん長い日』。 11月『エベレスト』。 これに12月が3本で計16作品。☆は洋画。 私が良かったと思った作品は、『エクソダス』、『風に立つライオン』、『アリスのままで』、『日本のいちばん長い日』、『エベレスト』。それに今月観た『母と暮らせば』と『杉原千畝』。どうやら私はヒューマンな作品が好きなのだろう。そして歴史的に見て虚偽な作品は嫌い。人間の真実の姿が知りたいのだ。 テレビドラマについても少し触れておきたい。今年観た中で良かったのがNHKの大河ドラマ『花燃ゆ』。視聴率はさほど上がらなかったようだが、歴史が好きな私にはとても面白かった。舞台は幕末。あの我が国最大の混乱期に、日本人はどう行動し、どう生きたのかの姿があった。前年の『八重の桜』もそうだったが、特に時代に翻弄されながら健気に生きた女性の姿が印象的だった。あの先達の活躍が、今日の日本を支えていると言っても過言ではない。 そしてご存知朝ドラの『あさが来た』。こちらはまだ継続中だが、実に面白い。歴史的な内容で、それも幕末から明治にかけての実話を元にしたドラマ。そしてこれもまた女性がストーリーの中心になっている。あの時代、私達の祖先は圧倒的な外国の力に押しつぶされようとしていた。それから免れることが出来たのは、やはりその基礎となる国民性や知恵があったからだと思う。私が歴史に惹かれる所以でもある。歴史とは、そして映像とは実に面白いものだ。<続く>
2015.12.26
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<リースとおもちゃ> 昨夜のクリスマスイブはいかがお過ごしだったでしょうか。私は一人自室に閉じ籠って、ケルティック・ウーマンの美しいクリスマスソングを聴いておりました。さて、このシリーズも、いよいよ最終回になりました。今日は仙台の街で見かけたリースと、玩具をテーマにお送りしますね。 最初は松ぽっくりがたくさんついた、まるでドーナツみたいなリースです。 夕暮れの結婚式場の柵に飾られたリースです。 金の鐘がついたクリスマスらしいリースはいかが? これも松ぽっくりがいっぱい!! 真っ赤なリンゴの大収穫ですよ~♪ ここからは玩具。最初はクマのサンタさん登場。 たくさんのシロクマが可愛いな。 クマさんの兄と妹が仲良く。 ヘ~イ ミッキーカモーン!! こちらにも税揃い。ここはオフィシャルグッズのお店なんですよ。 ふふふ。クリスマスは楽しいな♪ 松ぽっくりと赤いリボンのリース。 結婚式場のリースも再登場。 こちらのリースは、リンゴと花と松ぽっくり。 アーケード街の天井にも巨大なリースが。 銀のリボンと小人さんのリースです。 こちらは金色の飾りと金の星が。 「仙台光のページェント2015」を含めて7回に亘ってお送りしたこのシリーズもこれで終了です。最後までお付き合いいただいて、どうもありがとうございます。では皆さんご機嫌よう!! <完>
2015.12.25
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クリスマスツリーとサンタさん メリークリスマス♪ 今日はクリスマスイブですね。夜中に目覚めてしまったので、一足早く、クリスマスムードに浸っています。ご存知の通りクリスマスはイエス・キリストの生誕日ですが、北欧ではそれ以前に冬至のお祭りをしていたそうですね。日が長くなる冬至を境にして、新しい年への期待や復活への期待が大きかったのでしょうね。今日はクリスマス・イブを祝って、クリスマスツリーとサンタクロースの特集にしました。どうぞお楽しみくださいね~。 あるデパートの入口にあるライオンにも、サンタの服が着せられていました。 仙台四郎のサンタです。裕福な家に生まれた仙台四郎は幼児のような知能しかありませんでしたが、いつもノコニコ笑い、彼が訪れた店はどこも繁盛したそうです。今でも仙台の商店では、彼を「福の神」として崇めているのです。 どうぞ皆様も素敵なクリスマスをお迎えくださいね。改めてメリークリスマス。 <続く>
2015.12.24
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<デコレーション> デコレーションと言ってもケーキの話ではありません。「装飾」です。12月の街は人々の購買意欲を煽るように、美しく飾られています。今日は私が仙台の繁華街で目にした「飾り」を幾つか、ご紹介しましょう。 ゲームショップの前にあった飾りに、金粉を吹きかけてみました。 中央通りのアーケードの飾りです。 ツーリストの飾りに、スプレーをかけました。 駅の隣りのビルの天井です。 あるビルに吊るされた巨大な旗です。 ゲーム店の外に立っていた「雪の女王」。 アーケードの天井の飾りつけです。 極めてシンプルな色の飾りです。 宝石や時計などを売る高級店の店頭です。 ショーウインドー1 ショーウインドー2 赤が鮮やかです。 ショーウインドー3 シックな色合いが素敵です。 とても素朴な飾り付けの窓です。 ここは色んなキャラクターグッズを売るお店。 背景の絵の方が素敵だったかも♪ 大きな赤いリボンはいかが? 電飾が輝く乳母車は、「仙台光のページェント」の風物詩です。 光り輝く乳母車は、遠くからでも良く目立ちます。 実はこの乳母車を押しているのは、あるお爺さんなんですよ。 最後はなんともエレガントなショーウインドーでした。いよいよ明日はクリスマスですね。<続く>
2015.12.23
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<灯りとポインセチア> 「仙台光のページェント」の点灯式が始まるまでの間、私は師走の街を歩きました。繁華街は年末商戦のためいつもより美しく、かつ賑やかな様相を見せていました。そんな街を撮るのも、絶好のチャンスなのかも知れません。たくさん撮った写真のうち、今回は街の灯りとポインセチアをテーマにお届けしたいと思います。 一番町商店街アーケードの入口です。 夕暮れが迫ると、街には灯りが点灯します。 どこかのビルから柔らかい光が漏れていました。 これは2階の照明を、外から見上げたものです。 とてもきれいな建物を発見して驚きました。 「このお店は一体なんの店ですか?」。たまたま外に出た女性の方に尋ねてみました。答えは「結婚式場」ですって。爺さんにはあまり縁がないみたいですねえ。 画面は一変して、ここはあるデパートの花売り場。美しいポインセチアの鉢が、たくさん並んでいました。 私は静かにポインセチアだけを撮らせてもらいました。 純白のポインセチア。とても清純な感じがしますね。 クリーム色のポインセチアは、ちょっと珍しいかもね。 この赤い葉は、師走の街にぴったりの色かも。 エレガントな色に魅了されますね。 この1枚だけは、街の花屋さんで撮らせてもらいました。 再び街の様子。これは定禅寺通りの彫刻ですが、間違ってカメラの設定を「水中モード」にしてしまいました。 こちらが彫刻の全体像。面白いので消さずに残しました。 こちらは通常のオートフォーカス仕様。明るさがまるで違いますね。 こちらは勾当台公園。中央に彫刻があるのが分かるでしょうか? コーヒーショップを撮ってみました。 これは一体何なのでしょうね。高貴な雰囲気に惹かれて、撮影した一枚です。<続く>
2015.12.22
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<仙台光のページェント2015 その3> 毎年12月になると、仙台では「光のページェント」が開かれます。定禅寺通りのケヤキ並木が、70万個のLEDで光り輝く様子は圧巻です。それに比べたら小規模ですが、宮城県庁前の勾当台公園では、定禅寺通りとは違ったイルミネーションが楽しめます。今回はその第2会場の様子を紹介しますね。 ハーイ、いらっしゃい。こちらが第2会場ですよ~。 「Love & Peace」と書かれたこのイルミの前で、恋人たちや若者は記念撮影をしています。 早速ですが、魔女の左手です。 そしてこちらが右手。(ウソだよ~ん) 青いLEDの光が幻想的ですねえ。 ちょっとしたスターウォーズの世界。 ちょうど今はこの会場で、全国のラーメンが屋台で食べられるんですってよ~。 誰です。「UFOに拉致されないか心配」なんて言うのは? 白い樹が遠くで光ってるよ。あそこまで行ってみようか。 何とまあ、2本の樹が踊っていましたよ~♪ 定禅寺通りのイルミも良いけど、こちらは若者向きかもね。 暗闇の先には、宮城県庁があるんだよね。 あれまあ。石垣まで飾られ、すっかりイメージチェンジしてますねえ。 ここは一方通行の「通り抜け」になっています。 ツリー形のイルミも素敵でしょ。後の光は、国の合同庁舎の灯りです。 まあ、樹の幹まで光ってファンタスティック!! ツリーとビルの灯りのコラボはいかが? 天辺でお星様が光ってますね。何か良いことがありますように~<続く>
2015.12.21
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<仙台光のページェント2015 その2> 「仙台光のページェント2015」の点灯式は12月6日(日)の午後5時30分から。今年でちょうど30回目のこの催しは、May Jさんの美しい歌声で始まりました。私は点灯式があった定禅寺通りのメディアテーク(仙台市図書館本館)前から、一番町方面に向かって歩き出しました。220本のケヤキの樹に飾られたLEDが、夜空に煌めいてとてもきれいです。 あるビルの前では、少年少女の合唱団が「もろびとこぞりて」を歌い始めました。その美しい歌声が、仙台の夜空に響き渡ります。 ビルのイルミネーション、樹々のLED、そして合唱団の子供達。美しいハーモニーにうっとりです。 ほら、こんな角度からの写真はいかがです。なかなか洒落てるでしょ。 合唱団の背面。暗がりがあると、より明るさが際立ちますね。 裸のケヤキの樹に70万個のLEDが点ると、それはそれは壮観な景色になります。 劇団四季の「美女と野獣」のポスターもパチリ。ちょうど今、仙台で公演中なんですよね。 ここが仙台の繁華街、1番町の北の入口に当たります。 そこから今歩いて来た定禅寺通りを振り返ると、ほら、こんな風景が目の前に広がっています。 左手前方に、青い氷の山が見え出しました。あの氷山まで行ってみましょう。 果たして「氷山」の正体は何なのでしょうね? 実はこれは市民広場の一角に植えられた、高さ20mほどのヒマラヤスギなんですよ。そこにブルーのLEDが飾られているんです。 ほらね。スカートの裾をちょっとめくると、太いのと細い2本のヒマラヤスギが見えるでしょ? 道路を渡って、向こう側から定禅寺通り方面を観ると・・・。 あれっ、モンスターの目と口が光ってますねえ。 第2会場の勾当台(こうとうだい)公園内から観ると、こんな感じ。 30年前までは、ここを市電(路面電車)が走ってたんですけどねえ。う~む、残念!!<続く>
2015.12.20
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<仙台光のページェント2015 その1> クリスマスまで後1週間となりました。師走の街はとても華やかで、美しいもので溢れています。仙台では地下鉄東西線の開通日に合わせて、今年は12月6日から「光のページェント」が始まっています。定禅寺通り、青葉通りのケヤキの樹に、大量の豆電球を飾るようになってから30年目。今年は地下鉄工事の影響で定禅寺通りだけにLEDの灯りが点っています。 長さ800mのこの通りに植えられたケヤキの樹は220本。そして飾られたLEDは合わせて70万球に及びます。新シリーズ第1回の今日は、その「仙台光のページェント2015」から始まります。 点灯式が開始されるのを、私はメディアテーク(仙台市図書館本館)の3階で待っていました。5時30分ちょうど。220本のケヤキが一斉に光を放ち始めました。どうやら無事に点灯式が開始されたようです。待っていた人々から、思わず感嘆の声が上がります。 これもメディアテーク3階からの眺めです。 この後、私は外へ出ました。ケヤキの高さは10m以上もありますが、その1本1本にLEDが取り付けられています。これは企業と個人からの寄付でまかなっているもの。「東日本大震災」のあった年は、全てのLEDが津波で流され、全国から電球をお借りして飾ったのです。なお定禅寺通りの灯りは全て温かみのあるこの色を、最初の年から使用し続けています。とても単純ですが、裸のケヤキにはぴったりの色合いですね。 点灯式のステージでは、歌手のMay Jさんがコート姿で歌っていました。近づいて撮ろうと思ったのですが、警察官に制止されてボケたのしか撮れませんでした。そこでネットから写真をお借りしました。彼女の父親は日本人ですが、母親はイランの方とか。それもロシアやイギリスの血も入っているみたいです。美人の彼女の美しい歌声が、仙台の夜空に響き渡っていました。それを聴きながら、私は1番町方向に歩いて行きました。 あるビルのガラス面に飾られたイルミネーションです。 とてもシンプルですが、それだけに美しいですね。 ビルのイルミネーションと樹々のLEDのコラボレーションです。 イルミネーションの下で、少年少女の合唱団が讃美歌の「もろびとこぞりて」を歌い始めました。 ガラスの壁面を背景にした、少年少女の合唱団です。 子供達の美しい歌声に癒されながら、私は写真を撮り続けていました。<続く>
2015.12.19
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<12月14日(月)退院の日> 夜中に3度トイレに起きた。起床は4時。やはり退院日を迎えて、気分が高ぶっているのだろう。セーターを羽織り、トイレ周辺で短歌を作る。5時洗顔と歯磨き。6時血圧測定。上は160と相変わらず高い。体内酸素97%、体温は35.6度の平熱だった。とうとう最後に残ったモニター心電図計を、看護師さんが胸から外してくれた。そして腕の点滴液注入口もきれいに取り外された。 6時30分から廊下を7往復して700mを歩く。前日も廊下を300m歩いた。退院となれば直ちに歩いて帰る必要がある。それにこれは、リハビリを兼ねての運動にもなる。 今朝までは患者なりけりこの我も 眠りし巷病棟より見る 街はまだ眠りてゐしか家々の 灯り乏しき師走早朝 最後まで残りしモニター心電図 外されし後無罪放免 心臓解剖図 7時トイレで排便。実はこれが手術後4日目にして最初のお通じだった。しっかり食べていたし、腹も苦しくはなかったので特に心配はしてなかったのだが、出るべきものが出ると安心だ。やはり廊下ウォークは効果があったようだ。おしっこの時の尿道痛もかなり薄れた。そして手術を受けた肝心の心臓が、こうして穏やかに機能しているのが何よりも嬉しい。 尿道の痛みも薄れ朗らかに 術後四日目朝の放尿 通常の色してそれは生まれ出づ 術後四日目待望の便 鼓動未だ弱きと言へどわがヘルツ* 新鮮血を隈なく送る *ドイツ語で心臓 退院のお祝いを兼ねて「ぜいたくミルクココア」を自販機で購入し、ゆっくり飲み干した。これからは体力の回復に努める必要がある。7時20分、最後の体重測定。これまでで一番減って68.75kgになっていた。7時40分、執刀医のO先生が病室に顔を出し、退院後の治療について指示してくれた。次は来年の2月に24時間心電図を装着して、心臓の調子を確認する由。念のために、手術の後遺症の注意事項を読んで再確認する。 8時食堂で朝食。今朝は珍しくパン食だった。メニューはベーグル、クロワッサン各1個。バター、ジャム。豆、ジャガイモ、ウインナーソーセージ片が入ったトマトスープ。水菜と大根のなます。バナナ1本。 頑張りし褒美はミルクココアなり 入院五日目退院直前 私が入院したK病院 8時30分。病室で看護師から次回の予約表を受け取る。既に帰り仕度を整え、セーター、トレパンに着替え済み。9時薬剤師から新しい薬の服用について説明。入院時に預けていた薬を返却してもらう。これで終了。後は入院費の支払いのみ。同室の皆さんに挨拶して食堂へ向かう。皆は驚いてきょとんとしていた。彼ら3人は循環器外科の患者で、いずれも大きな手術をしている。それに比べて循環器内科の私の手術は、体への負担がとても軽いのだろう。 廊下で医療介助のお嬢さんに出会った。手術日の夜、私に夕食を食べさせてくれた人だ。「良い人が早く見つかるように」。私がそう言うと、ペコちゃんは笑って去って行った。不二家のペコちゃんに似た愛嬌のあるお嬢さんだった。本当にありがとうね。 青と白、制服の色異なれど パラメディカルの笑顔優しき 食堂で事務の人から請求書を受け取る。1階の窓口にそれを提出し、ATMで現金を引き落とし。金額はわずか5万円足らず。あれだけの高度医療を受けてこの金額で済むのは、日本の保険制度のとても優れた点だろう。安かったのは私が70歳を超えていたからでもあるが、この病院の業務改善のお陰でもある。3年半前の入院時より、ずっと気持ち良く過ごせたし、改善の跡がはっきりと見て取れた。本当にありがたいことだ。 病院の外へ出ると、風が冷たかった。やはり12月、油断は出来ない。コンビニに寄って書類をコピー。それは生命保険会社へ提出するもの。書類は翌日保険会社に提出したが、私が支払った3倍以上の補償が出る由。風の中、最寄りの地下鉄の駅まで歩いた。朝のトレーニングが効いて、息が苦しくなることはなかった。帰宅して荷物を整理し、午後から早速入院の記録をブログに書き始めた。苦しい作業だったが、何とか書けた。 夕食時には薄い水割りの焼酎を1杯飲んだ。ささやかな退院祝いだ。お風呂に入るのも6日ぶり。ようやくこれで落ち着いた。翌日は2kmほど散歩し、久しぶりに体操をした。そのせいか、体の調子が良くなったみたい。ひょっとしてこれなら1カ月先には、ゆっくり走れるかも知れない。諦めていた健康が、ひょっとして取り戻せるかも知れない。これも勇気を持って3度目の手術に立ち向かったお陰だろう。 今日から仙台は少し寒さが厳しくなるみたい。体調には十分注意しないとね。最後まで応援して下さったブログ友の皆さん、本当にありがとうございました~!!<完>
2015.12.18
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<12月13日(日)入院4日目> 4時に目覚め、そのまま起床。病室内はまだ暗いまま。パジャマの上からセーターを羽織り、靴下を履いて廊下へ出る。それ以上は眠れないと考えて、短歌を詠もうと思ったのだ。トイレの前が明るいので、そこに椅子を置いて構想を練る。入院後の状況を思い出すままノートに記録するが、どうしても順不同になってしまう。通りかかった看護師さんが不審そうな顔。それを気にせず短歌作りに没頭。結局この日夜までに詠んだ歌は、70首ほどになった。だからこれまでブログに添えた歌は、すべて4日目以降の作だ。 眠られぬ夜は短歌を詠ひつつ 頭の中に言葉を刻む 柔らかきベッドは我に合はずして 四日四晩の背中の痛み 病得し老ひの身なれど手術後は 生への意欲ふつふつと沸く 白々と夜は明け初めて朝となる 明日はいよいよ退院の日ぞ 6時。体重69.15kg。6時30分。体温35.6度、体内酸素量98%。血圧は高めに現れた。8時。朝食をクリスマスツリーが飾られた食堂で摂る。メニューは焼き魚(鮭)、白菜のお浸し、大根の味噌汁などを完食。部屋に戻ってミカンを食べる。その後に薬を服用し、髭を剃る。病室から外の景色を眺めた。私のベッドは壁際なので、普段は外の景色が見えず、他の患者がカーテンを開けた時にしか見えないのだ。 血圧はやや上昇す短歌詠み 廊下を歩む四日目の朝 青葉山薄紫の朝の空 わが病室の十階の窓 銀色の車輌三輌橋の上 十階病棟地下鉄眺む 病室は温室なれど窓の外 師走の風は冷たきものを 入院はテレビパソコン打ち捨てて 読書短歌のアナログの日々 10時執刀医のO先生が病室に顔を出して挨拶。日曜日まで病院勤務とは、よほど忙しいのだろう。10時45分「12方向心電図」をベッドの上で撮る。その後ナースから退院後の生活について指導。O先生は何をしても良いと言うが、今後1カ月が重要なのはこれまでの経験で分かっている積り。午後1時からシャワーの希望を伝え、荷物の整理を始める。何度も立ったり座ったりを繰り返したせいか、急に気分が悪くなる。心電図に異常はないと、確認したナースが言う。 四日ぶりシャワーの準備その途中 体ふらつき手先冷へたり 12時食堂で昼食。メニューは白身魚のカレー風味、キュウリの酢の物、オレンジ、牛乳。またまた残さずに全ていただいた。今日は日曜日のせいか、たくさんの見舞客が病院を訪れた。だが妻は買い物があると言って、今日は来ない。 クリスマスツリー輝く食堂に 見舞ひの家族けふは日曜 13時。シャワーのため一時モニター心電図を看護師に外してもらう。浴室に行くと太った先客が1人体を洗っていた。そこへ若い看護師が来て、「酸素吸入の患者が入るが良いか」と聞かれる。もちろん断る理由はない。シャンプーを済ませ、タオルに石鹸をつけて体を洗う。若い看護師がいるので気が気でないが、これもまた勉強のうち。今日はシャワーだけ解禁で、入浴許可は明日帰宅してから。それでもさっぱりとした気分で浴室から病室へ戻った。再び心電図装着。 シャンプーと体を洗ふ十分間 手術の汚れ全て流して 酸素付き看護師付きの入浴に 「これは良いね」と老人笑ふ さっぱりと心と体のリフレッシュ 再び胸にモニター装着 14時血圧測定。150/92と高め。脈拍数49。30分後にもう一度測定したが、今度は160まで上昇。これまでの入院でも、術後3日目くらいから血圧が一時上昇することがあった。恐らくは心臓内の傷を必死に治そうとする防衛本能のように思うのだが。14時50分ヨーグルトとミルク煎餅2枚を食す。15時の測定で2度とも血圧は高いまま。それでも多分心配ないはず。 モニターの心臓波形見守りし ナースステーション頼もしきかな 六時間手術に耐へしわがヘルツ* けふは高めの血圧となる *ドイツ語で心臓の意味 血圧は変動せしも心臓の 波形は常に安定せりと 18時夕食。メニューはボリュームたっぷりの他人丼(豚肉、卵、タマネギ、ゴボウ)。レタス、キュウリ、ミニトマトの野菜サラダ。ヒジキと野菜の煮物。そして香草とシメジのお吸い物。退院前夜の晩餐に相応しい内容かもね。 セーターを羽織りて食す晩餐は 退院前夜心臓食の 仙台の煌めく夜景見降ろして 我は食さむ他人丼 病棟には男性の看護師がいることが分かった。他の患者には結構横柄な口調だったが、私に対しては常に謙虚な受け答えをした。私が時々ノートに何かを記しているのを見ていたのだ。私は短歌をメモしていたのだが、彼は院内の苦情でも書いてると誤解したのかも知れない。てきぱきした男性看護師も必要な時代だ。 ナースステーションの奥に、重症患者専用の病室があることを知った。19時の測定でも血圧は高めに出た。こうして入院4日目の夜も更けて行った。いよいよ明日は退院の日だ。<続く> 男性の看護師もゐててきぱきと 患者乗せたる車椅子軽し 十階のナースステーションその奥の 重症病室静まりてゐし 「生きるとは何?」入院し想ふこと 人は歳老ひ必ず死すを 一度たりもナースコールは押さざりき 最後の夜も穏やかに過ぐ
2015.12.17
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<12月12日(土)入院3日目> ずいぶん長い間ベッドに寝ていた。3日目の朝を迎えた。前日は雨だったのに、この日は晴れたようだ。7時20分、執刀医のO先生が病室に顔を出す。私の顔を見て安心したのか、直ぐに病室から出て行った。今日は土曜日で手術はないはず。先生もようやく帰宅出来るのだろう。透明な尿管カテーテルを通して、尿が流れて行くのが見えた。尿意は全くないのに、とても不思議な感じだ。 病癒へ眩しき朝を迎へたり あと幾許の命なれども 手術日は雨の朝なり翌日は 朝日輝き病室照らす アブレーション*病巣は五箇所そのうちの 二個は派生しものとドクター *心筋焼灼手術 つつつつと透明の管流れ行く 美しき液聖なるハルン* *ドイツ語で尿のこと 7時30分。若いドクターが来て、脚の付け根のカテーテルを挿入した箇所の回復具合を確認。点滴装置を押しながら、少し廊下を歩いて来いと言う。出血はなかったため、絆創膏で固定していた止血バンドをバリバリと外す。ベテラン看護師が来て測定。血圧は正常値。体温36.6度と1度高い。これは体内の傷を治すために戦っている証拠。体重69.25kgと過去最高値。点滴が原因だろう。 9時に遅めの朝食。今日も野菜が中心のおかずだ。今朝は自分で起きて食べ、完食。歯磨きし、紙タオルで洗顔。今朝から服薬再開。ただし脈拍抑制剤は飲まなくて良くなった。その後尿管カテーテル装置を外し、体を清拭。手術時の汚れが落ちてようやくサッパリした感じ。汚れた手術着からパジャマ方式の入院着に着替えて落ち着く。 手術着を脱ぎて点滴、止血措置 全てを外し体を拭ふ アブレーション手術概略図 その後ベッドに寝ながらレントゲン撮影。胸部は肺に穴が開く「気胸」などのチェック、そして腹部は胃拡張などになってないかのチェックのため。高熱のアブレーション手術は、心臓付近の臓器にも影響が出る場合があるのだ。つまり手術による後遺症が何%かの確率であると言うわけ。トイレで小便。最初の時は血が混じった尿がたった1滴出ただけ。2度目、3度目も尿道の傷が猛烈に痛む。 キリキリと尿道奥に痛みあり そを堪へつつ尿(いばり)を放つ 昼食は歩いて食堂へ行き、そこで摂った。おかずはヒレカツでいつもよりボリュームがあった。野菜サラダ、ご飯も全て完食。売店でヨーグルトを買い、病室でミカンと一緒に食べた。ささやかな手術成功のお祝いだ。 めでたさも中くらいなりおらが冬 手術成功ヨーグルト食ふ 13時40分。看護師が来室し測定。血圧は117/79、脈拍数61と安定。体温は35.6度の平熱に戻る。15時、点滴装置を外す。残ったのはモニター心電図だけ。これでかなり身軽になった。夕方近く妻が来院。初日は地下鉄の「北4番丁駅」まで歩き、昨日は雨の中を「国際センター駅」まで歩いてずぶ濡れになった由。野菜の買い置きが無いと言うので、畑の白菜やブロックリーを収穫したらと言う。今日も途中まで歩いて帰るらしい。 全身の装置外して身軽なり 明日はいよいよシャワー解禁 看護師の若き肢体の美しき 熱き情熱白衣に包み 美しき女性働く院内の 尊き姿朝な夕なに 18時夕食。おかずは例によって薄味の野菜の煮ものと煮魚(カレイ)など。今回も全て美味しくいただいた。18時50分看護師が病室に来て測定。血圧は137/90と上昇。脈拍数54。体温35.6度。体内酸素量98%。その後食堂で読書中に寒さを感じ、慌てて病室に戻り布団に入った。まだ手術の翌日。油断は出来ない。 この日もたくさんのことを見聞きした。運転中に脳血栓の一歩手前になり病院に担ぎ込まれた患者。運転中に失神した患者。危うく腹部の動脈瘤が破裂しそうになった患者。肺の機能を回復するために、必死で筒を吹いてる患者。リハビリのため廊下をゆっくり歩く患者。見舞客と競馬の話に夢中の患者。テレビを点けっ放しにして眠りこける患者。地方からやっとの思いで入院した患者。まさに世の中は様々だ。 痛みあり苦しみもあり悩みあり それらも全て己が人生 新聞を買ひてニュースに目を通す 入院三日の世界と日本 薄暗き廊下を歩む老人は リハビリらしき退院前の それに見舞いに来た家族の話も、聞くともなく聞いてしまった。まだ高校生や中学生の子供のいる患者の今後の人生が気がかりだ。私と同じ手術を受けた患者は明日退院の予定と聞いた。優しそうな奥さんが、いつも一緒に傍に付き添っていた。病院とはまさに人生の縮図。天国もあれば地獄ともなる。入院3日目の夜も更けて行った。<続く> 病院は社会の縮図様々の 病抱へて人集ひ来る 病室に個人情報飛び交ひぬ 患者と家族お見舞客の
2015.12.16
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<12月11日(金)入院2日目:手術当日> 深夜0時、ナースが点滴の生理食塩水を交換に来た。5時小便に起き、ついでに歯磨き。6時体重測定68.05kg。体調管理のため、病院の体重測定は50g単位まで細かくチェックしている。7時手術に備え、紙おむつに履き替え。以前はT字帯(ふんどし)だったのが、患者の経費負担を少しでも軽くするための改善みたい。7時40分執刀医のO先生が病室に来て挨拶。目が笑っていない。彼も今日は本気で手術に臨む気持ちのようだ。 三度目の手術となればまな板の 上の鯉なり性根を据へむ 8時指輪、時計など金属製のものを全て体から外す。不整脈のアブレーション(心筋焼灼術)は体の二か所(太股の付けてと首)からカテーテルを心臓内に送り、高周波の高熱で不整脈の病巣を焼き切る手術。このため金属は予め取り去る必要がある。8時20分睡眠薬2錠を服用。ナースは精神安定剤と言うが、そんなことはなく、直ぐに口の中で溶けた。ストレッチャー(寝台車)に乗ってオペ室へ移動。 手術担当のドクターとスタッフが数人「よろしく」と言う。こちらも「よろしくお願いします」と返す。シャウカステン(レントゲン写真読影装置)に前日撮った私の心臓と胸部腹部の血管の写真が張られている。きっと血管の形状や位置を確認しながらカテーテルを心臓に送るのだろう。そのうち急に意識が飛んだ。麻酔薬は打たれてないので、やはりあれが睡眠薬だったのだ。これから6時間の長い手術が始まる。今日手術を受ける患者は2人。もう1人は午後3時半からと聞いていたので、逆算すると6時間はかかる計算。O先生の目が笑ってなかったのは、そう言うことだ。 オペ室のシャウカステンに浮き出たる アンギオグラフィー*森林のごと *血管造影写真のこと 「よろしく」と挨拶をせし執刀医 眸の中の決意も固く 舌下錠二錠の薬たちまちに 溶けて眠りし手術の前に ドクターに挨拶返すそのうちに 記憶は飛びて眠りに入る オペ室へストレッチャーで行きしわれ 手術台より記憶失ふ 血管の中でも太き動脈を 二本辿りてオペ開始する 病室へ戻ったのは恐らく午後の3時過ぎだったはず。まだ意識は朦朧として良い気分。まるで静かな海に浮かぶ小舟のようだ。妻が来ていて言葉を交わす。無事手術は成功したようで、彼女もホッとした様子。タブレットで横たわる私の姿を撮った。高松の娘と孫、そして東京の息子達にラインで送る由。その後妻は雨の中を帰って行った。点滴が増えて生理食塩水と抗生物質の2袋になっていた。夕方まで眠る。 豊穣の海にたゆたふ小舟なり 術後の麻酔解けたる我は 18時、パラメディカルのお嬢さんが寝ている私に夕食を食べさせてくれた。24時間ぶりの食事は美味しい。メニューは小さなお握りが2個。沢庵、鳥肉のから揚げ、そしてポテトフライ。飲み込み難いため、ストローでお茶を吸いながらの食事。以前は看護師の仕事だったが、今はパラメディカルのお嬢さんがかなり増えている。そのお嬢さんが天使に見える。いや天使そのものだ。少なくとも寝たきりの私にとっては。 寝ながらに夕食を摂る傍にゐて 医療介助の女性優しき 看護師と変わらぬほどに働きし りりしき女性パラメディカルの 19時。執刀医のO先生が病室に現れた。やはり手術は6時間ほどかかり、その後もう1人の手術もした模様。顔色が青い。相当疲れているようだ。私の不整脈の病巣はかなり深い位置に5つあったようだ。そのうちの2つは派生的なものだった由。寝ながらお礼を言う。先生は安心したように頷き、退室して行った。ありがとうね寡黙なるO先生。 それにしても5つの病巣があったとは驚きだ。これまで2回の手術で既に2つの病巣を焼き尽くしたはず。それに昨年の9月にも電気ショックで1個退治したのも合わせると、合計で8つも不整脈の「巣」があった計算になる。道理で苦しかったわけだ。種類の違う不整脈が次々に現れ、それが発作を起こし私を苦しめたのだ。不整脈恐るべし。決して侮ってはならない。 合計で八つの深き病巣よ わが不整脈死滅したるか 実はこれからが苦しいのだ。麻酔が効いているうちは眠っていれば良いが、傷口を守るため寝返りが出来ないのだ。それに腕には点滴の管が付いていて不自由。おまけにベッドが柔らかくて、ますます腰が痛くなる。この苦しみとの戦いが一番の敵なのだ。 夜間の看護師がベテランの人に代わった。以前の入院時にもお世話になった方。「もうここへ来ちゃいけないと言ったんだけどねえ」。彼女は朗らかに笑い、夜中に「寝返り板」を添えてくれた。これで体を少しだけ右側に傾けることが出来る。それだけでも幾分楽なのだ。入院第2日目の夜も更けた。だが、きっとナースステーションではスタッフが患者を見守っているはずだ。安心して眠りに落ちる。<続く> 「もう二度と来ちゃいけない」と言はれたる ナースと三度病室で逢ふ 人声は止みても響く電子音 十階病棟夜は更け行く
2015.12.15
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<12月10日(木)入院1日目> 午後1時の入院に合わせてバスで向かう。この日は朝から服薬を中止した。翌日の手術への影響を防ぐためで、入院後の検査のため昼食も禁止となっていた。病院へは妻も同行した。窓口で入院手続きを済ませ、10階病棟に赴く。これでK病院へは3回目の入院。3年前循環器内科の病棟は5階だったのだが、その後院内を模様替えしたようだ。 ナースステーションに書類を提出し、食堂で担当者に手術時に敷くバスタオルなどを渡す。病室は6号室で4人部屋だった。食堂に戻ってガイダンスが始まる。妻はここで帰宅した。もう3度目の手術なので一連の流れは頭に入っている。病室に戻って他の患者に挨拶し、病院着に着替え。不整脈と診断されてから5年目。もう長い付き合いだ。 意気込みも望みも何もなきままに ドクター信じ入院したり 「不整脈」人は簡単に言ふけれど その苦しみをどれだけ知るか 入院着着替へたれども心まで 病人にならじと誓いは堅く 病室で体温と血圧を測定。引き続きナースステーション前で、体重と身長を測定。14時30分検査室へ移動し、造影剤を用いての心臓と血管のCT(断層写真)撮影。これは勿論翌日の手術で、どの血管からカテーテルを心臓に送るかを決定するためのもの。装置に入って動脈に造影剤が注入された途端、頭部から足の爪先まで全身が火のように熱くなった。吐き気が治まってから撮影開始し、15分ほどで終了。 造影剤動脈ははや龍のごと 炎と燃へて全身巡る 検査技師に尋ねたら、体が燃えるように感じるのは動脈に異物が入ったための防衛本能とのこと。再び病室に戻り、血液検査のための採血。その後右腕に点滴のための注入口を処置し、生理食塩水の点滴が開始。15時30分から経食道の心臓エコー撮影を行う。これは胃カメラに似ていてとても苦しい。予め喉に麻酔液を含ませてあるが、装置を飲み込むのが辛い。この後通常型の心電図撮影を行い、病室に戻る。 売店でコップ、ストロー、スポーツドリンクを購入。自室に戻って下半身の剃毛。これは脚の付け根から片方のカテーテルを動脈に挿入する際、感染源になるのを防止するための措置。この後も何度か下半身をナースの目に曝すことになる。両方の足首と足の甲に、動脈静脈の位置を示す×印がマジックペンで記される。これは手術後の脚のむくみをチェックするため。 下半身露わにしたるその様も 慣れざるを得ず病人なれば 胸にモニター用の心電図を装着。これは心臓の動きがリアルタイムでナースステーションに送られる装置。つまり入院中私の心臓は常にこの小さな機械で監視されている訳だ。18時50分血圧測定。120/73と非常に安定した数値。脈拍も53と良好。18時夕食。点滴装置があるため病室で摂る。心臓食は薄味だが美味しい。量も過不足なし。野菜中心のおかず。翌日は手術のため、これ以降24時間の絶食に入るため、貴重なエネルギー源だ。 薄味の心臓食は美味しかり 量もほど良く完食のわれ 夜勤担当はT市出身のナース。岩手県で資格を取った由。なまりがある目の大きな人だった。初日の夜は次第に更けて行った。遠くの病室からお婆さんの叫び声が聞こえる。宮城の方言で「痛いよ、痛いよ」を連発。相部屋の同僚も一人二人と眠りに就く。23時55分小便のためトイレへ。ナースステーションにはまだ半分ほど灯りが点っている。私達患者を見守る不夜城のように。<続く> 「いでや、いで」叫びし老婆病室の 声も止みたり深夜となりて 煌煌とナースステーションは不夜城のごと 眠らずに患者見守る 各々のいびき寝息を聴きながら 四人病室我も眠りし
2015.12.14
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12月6日日曜日。この日は仙台市地下鉄「東西線」が開通する日。私はこの日に合わせて、「一日フリー乗車券」(500円)を購入していた。 これが路線図。仙台市地下鉄は単純で、これまでにあったのが「縦の線」つまり南北線で、これは30年ほど前に開通している。ところが政令指定都市なのに路線が1本しかないのは「恥」とか言う理由で、新たな路線の計画が持ち上がった。それが「横の線」。つまり今回開通した東西線と言うわけ。 東の荒井駅から西の八木山動物公園駅までの13km余りだが、「八木山」の標高は140m近い。これは日本一標高の高い駅なのだそうだ。川内駅からは急勾配になって車輪が空回りするため、日本の地下鉄では初めて「リニアモーター方式」を採用している。また6か所の急角度地点を通過するため、車輪の間隔を変える機能を備えているのも特徴の一つだ。 これが「一日フリー乗車券」。東西線の建造には9年を要した。その間にマグニチュード9の「東日本大震災」があった。その日も地下では工事中だったが、崩壊することはなかった。ただし相次ぐ余震のために、工事は3ヶ月間中断された。その後工事を急ぎ、予定通り完成に漕ぎ着けたのだ。当初の一日の乗客予想は13万人。それを徐々に引き下げて最終的な予想は8万人になった。初日と2日目の平均乗客数は約5万人だったとか。まだ出足は良くないようだ。 この日はお寺で法事があった。それが終わると甥の車で、最寄りの「荒井駅」まで送ってもらい、そこから東西線に試乗した。ここは新興住宅地。あの東日本大震災では、2kmほど先まで津波が押し寄せて来ている。 真新しい駅が眩しい。駅前にはバス停が作られていた。ホームもピカピカ状態だ。私は予め「フリー乗車券」を買っていたので、並ばずに済んだ。 これが構内の標示板。我が家はこの路線の終点のほど近く。前日の試乗会では、システムがトラぶって急遽中止になっていた。その後、ソフトを入れ替えて復旧させた由。でも開通のこの日はスムースで、全く問題はなかったようだ。やれやれである。 暗闇の中から電車がやって来た。ほほう、あれがそうか。 これが車両の先頭部。運転席の前に細長い三日月が見える。これは仙台藩祖伊達政宗公の兜(かぶと)の前立(まえだち)の三日月を模したもの。 工事の経費を抑えるため、トンネルの幅はやや狭い。そのために車内のスペースもコンパクトになっている。また各車両には、車椅子を固定するためのスペースが確保されている。揺れがほとんどないのも特徴。そして八木山への急勾配の登りでも時速50km以上のスピードを出せる由。 車内の案内板は日本語、中国語、韓国語(ハングル)、そして英語での表示と変化する。 私が最初に降りた駅。ここで降りたのは旧陸奥国分寺跡を訪ねるため。現在は「薬師堂」と呼ばれる重要文化財のお寺になっている。江戸時代には芭蕉も訪れた場所。彼は弟子の曾良と松島へ旅立つ日、薬師堂の境内で句を詠んでいる。境内の様子などは、改めて紹介したい。 これが仙台市地下鉄の看板。夜空にくっきり光っている。 東西線と南北線は仙台駅で交差する。後で出来た東西線は、仙台駅では地下のかなり深い部分を通っている。この駅が一番乗降客が多い場所。JR各線ともここで連絡している。また「青葉通り一番町駅」は仙台で一番の繁華街で、ここも乗降客が多い駅だ。私は仙台駅で降り、師走の街を片っ端から撮影した。 実はこの日、12月6日は「仙台光のページェント」が始まる初日でもあった。今年は地下鉄東西線の開通日に合わせたのだ。裸のケヤキの樹に輝く無数の灯り。3時間以上も待ってこの点灯式を間近で見、それから夜の街を歩いた。それらの写真は、私が退院してからシリーズで紹介する予定でいる。さて、手術は無事成功するかな? 先を急ごう。再び地下鉄の話に戻る。ここは広瀬川に架かる地下鉄の橋の上からの眺めで、上流方向を観ている。東西線で地上の景色が見えるのは2か所だが、その1つがここなのだ。「川内駅」を過ぎるといよいよ急勾配の登りが始まるのだが、車内ではそんな風には全く感じずにとても静かだった。 そして地上の景色が見える2つ目の箇所が「青葉山駅」と終点の「八木山動物公園駅」の中間にある「竜の口渓谷」。青葉城(仙台城)付近では50mほどの断崖絶壁だが、かなり奥まったこの辺は深さが10mほどの谷だと思う。ここにも新しい地下鉄用の橋を架けた。窓の外に一瞬、冬の木立が見えた。 「八木山動物公園駅」の構内。ここは東西線の始発であり、終点でもある。各駅までの所要時間が記された標示板があった。 ここから私はバスに乗って帰宅した。東西線の開通によって、市内の路線バスはかなり編成を変えた。新たな路線が出来た一方で廃止された路線も多く、合計で800便以上のバスが無くなった。階段の多い地下鉄は、足の弱った年寄り達には極めて不評。その一方、地下鉄の新路線を利用して通勤、通学する人も増えた由。私達の暮らしも否応なしに変化せざるを得ない。さて今後どこまで私の脚が耐えられるのか、それが問題だねえ。 さて私は今日から入院します。明日は3度目の不整脈手術を受けます。退院は14日(月)の予定です。無事に帰宅したらまたブログを再開しますね。入院中はブログをお休みします。また皆様のところにお邪魔することも出来ません。どうぞよろしくお願いしますね。では、皆様も御機嫌よう。
2015.12.10
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沖縄県宜野湾市の普天間基地。着陸しようとする米軍のヘリコプターにレーザー光線を当てた疑いで、一人の男が逮捕された。沖縄在住の写真家(56歳)で、昨年から5回あった事件のうち3回はこの男が照射した疑いがあるらしい。最近はこの手の犯罪が世界の各地で横行しているそうだ。操縦席にレーザー光線を当てたら、最悪の場合はパイロットの目が損傷する恐れがある。逮捕された男は外国製の強烈なレーザー光線が出る装置を持っていた由。 もしも事故が起きたらどうなるのか。墜落の恐れがあるし、基地は混乱するだろう。男の狙いは何だったのかは分からないが、ひょっとして英雄気取りだった可能性もある。その勘違いが実は恐ろしいのだ。また名護市辺野古の米軍基地キャンプ・シューワープの前で、反対運動を行っていた男が逮捕されている。「捕まえられるものなら捕まえてみろ」。男は警備員を挑発して基地内に入り、逮捕された。世の中にはこんな無法者で「勘違い男」が、結構いるのだ。 翁長沖縄県知事は良く「沖縄の基地は、米軍に土地を奪われたものだ」と言う。だが辺野古の基地は、旧久志村議会が基地の招致を2度決議した結果ここへ来た経緯がある由。これは勘違いではなく、嘘を言ったことになる。また良く言われるのが「日本国内の米軍基地の面積の74%が沖縄にあり、沖縄は差別されている」こと。ところがこれは米軍専用基地の場合で、自衛隊やその他と共用している基地まで含めると24%に低下するそうだ。 全体の24%だって大きい比率だが、74%と比べたら50%も違う。これまで聞いた「事実」は何だったのだろう。日本のマスコミも、そんなことはなかなか報道しないしねえ。まさに「びっくりポン」の事実なのであった。 菅内閣官房長官は言う。「国道58号線拡張のために、米軍基地の一部を3か所近く返還してもらうことになった」と。朗報ではないか。そして彼は沖縄の海兵隊の一部がグァムの米軍基地内へ移転する計画についても再確認して来ている。普天間基地が辺野古へ移転すれば、さらにあの広大な基地が宜野湾市へ返還されるのだ。「日本一危険」だと言われる普天間が安全になるのに、翁長知事がなぜ反対するのか、その理由が全く分からないんだよねえ。 先日朝日新聞にこんな記事が出ていた。「沖縄県の土木業者が沖縄県選出の国会議員8名に、政治資金を提供していた」と。その業者は辺野古の土木工事を行う可能性があるとも書かれていた。そして記事の横には、「政治資金法」の抜粋がご丁寧に並んでいた。一見すると政治家や業者は法律に違反したのかと錯覚してしまう仕組み。だが1件当たり50万円の枠内であり、法律違反ではないようなのだ。朝日新聞は時々読者を「勘違いさせる技法」を使う。実に不愉快だ。それに工事は入札なので、その業者が落札するとは限らないのだ。 先日靖国神社に爆発物を仕掛けた疑いのある韓国人が、事件後韓国に逃げた。防犯カメラの映像から特定されたのは、今年の春に韓国空軍を除隊した27歳の男。日本の記者が取材したら、男は靖国神社に行ったことは認めたが、事件は知らないと言う。彼はひょっとして英雄になりたかったのだろうか。憎たらしい日本人が尊崇する寺社を傷つけることで、韓国人の愛国心を高揚させようとしたのだろうか。 韓国世宗大学教授の朴裕河さんが、つい最近在宅起訴された。彼女の著書が、韓国の従軍慰安婦達の尊厳を傷つけたと言う容疑だ。彼女は学問的な良心に基づいて、徹底して事実関係を調べて本を書いただけ。日本なら到底考えられないことだが、韓国の司法は立法や行政から独立しておらず、かなり大きな影響を受ける。産経新聞ソウル支局長が書いた記事のことで在宅起訴され、長期間日本に帰国出来なかったことは記憶に新しく、まだ裁判は続いている。 中国のpm2.5の汚染度が酷い。昨日はこれまでの最高に達して、とうとう「赤色警告」が出たそうだ。室内で5台の空気清浄機をフル稼働させている日本人に聞くと、しっかり「目張り」をしていてもフィルターが汚れてしまうそうだ。その汚染物質が偏西風に乗って、韓国や日本へも飛来する。原因は大量の石炭を家庭の燃料や工場の燃料として使っていること。そして猛烈に増えた車の排気ガスだ。世界2位の経済大国も、公害防止技術に関しては発展途上国なのだ。 パリで開催中のCOP21はいよいよ閣僚級の会談に入る。炭酸ガス排出量第1位の中国と第2位アメリカの責任は重く、両国も排出量の削減に努めることを明言した。第3位のインドは、排出量削減には先進国の技術協力が欠かせないと訴え、島嶼国キリバスは海水面上昇による島の消滅危機を訴えている。安倍総理は早速1兆3千億円の資金提供を申し出た。最近はニューヨーク付近でもオーロラが観測されるようだ。やはり世界の気象が変化しているのだろうか。 北極海の氷が解けて、シロクマが生息し難くなっている話は聞いた。この分では「北極海航路」が誕生する日も近いらしい。そして北極海の地下資源等の争奪戦の可能性もある。その一方、南極の氷は逆に厚くなって来ているのだそうだ。そして北極海の氷が解けても、比重の関係で地球の海水面は上がらないと言う説も聞く。これが「勘違い」なのかどうか素人には良く分からないが、子孫のためにかけがえのない地球をちゃんと残さないとね。 インドの高速鉄道計画の一部500kmの最重要路線を、近く日本が受注出来そうな運びになった。インドネシアでは最後の最後に中国の卑劣な手段で敗れたが、今回はモディ首相と安倍総理が近くこのことで最終協議をするようだ。高速鉄道は安全が第一。それに開発途上国の公害防止に関しては、日本の技術が大いに役立つはず。世界の安定のために、これからも日本が一役買って出ることを願っている。
2015.12.09
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11月23日。私は宮城県美術館を訪れました。『ピカソ展』を観るためでしたが、この時併設されている「佐藤忠良記念館」も訪れました。宮城県生まれの彫刻家の作品がたくさん収蔵されています。美術館や記念館の外部などには、たくさんの彫刻が並んでいます。私は雨の中でそれらの彫刻を撮影したのですが、残念ながら作者や作品名をメモすることは出来ませんでした。そのため、今日は作品を羅列するだけになったのが残念です。 作品1 美術館の外側にある作品です。 作品2 美術館の玄関先にある作品です。 *作品3 記念館の裏庭にある作品で、防人(さきもり)のような服装をしています。カンジさんの書き込みで調べた結果、舟越保武が制作した作品で、『原の城』1971年 と分かりました。 上記作品の部分です。少女のような悲しげな表情をしていることに驚きました。 作品4 ミロの絵を観るような、愉快な彫刻です。 上記作品の部分です。とてもひょうきんな表情をしてますね。 作品5 とてもふっくらしたネコです。 上記作品の部分です。愛嬌のある顔でしょ♪ *作品6 二羽のカラスのうちの一羽です。カンジさんの書き込みで、柳原義達の作品と思われます。 *もう一羽の方です。まるでロダンの彫刻のような力強さで、今にも飛び立つような勢いがありました。これも柳原義達の作品と思われます。 作品7 何だかとっても愉快なロボットでした。 作品8 ジャンプする巨大なウサギです。 上記作品の部分です。なんだか『不思議な国のアリス』にでも出て来そうなウサギでした。 *作品9 小品のハトですが、意外に存在感がありました。これも柳原義達の作品と思われます。 作品10 裸のおデブさんが馬に乗っています。正面像。 上記作品を横から観ました。 上記作品の部分。馬を横から観ています。 上記作品の部分。男の人が馬上でラッパを吹いています。 作品11 座っている少女像です。 作品12 マントを着た女性です。建物の中にありましたが、表情が忠良の作品とは異なると感じました。 上記作品の部分。顔が鋭角過ぎるのが、私が忠良作品ではないと判断した根拠なのですが。 童話『大きなカブ』の挿絵。同記念館では童話の挿絵も収集しています。 11月23日。氷雨が降りしきるこの日は、傘を差して8kmほど歩きました。またこの日撮った写真は、生活の記録として1回。歴史散歩シリーズとして4回、銅像の紹介が2回、仙台市博物館の常設展示と特別展で2回、宮城県美術館の『ピカソ展』で1回、そして「佐藤忠良記念館」内外の彫刻が2回。合計で12回に亘る長編となりました。これだけ一気に同じシリーズを続けるのは、私にしては珍しいことです。最後までお付き合いいただき、感謝しています。*なお、今日の彫刻に対して、神奈川県の画家であるカンジさんからコメントがありました。ネットで調査した結果、2人の彫刻家の名前が分かりました。カンジさん、どうもありがとうございま~す♪ ガラス壁を前に悪戦苦闘する私。(佐藤忠良記念館庭園にて) さて、私は今週の木曜日(10日)に入院し、翌日の金曜日(11日)に手術を受けます。退院は14日(月)になる予定です。入院当日の朝にもブログを更新し、退院予定日も簡単な報告を行う予定ですが、中の3日間(11~13日)はブログをお休みします。予めご報告しておきますね~。
2015.12.08
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宮城県美術館の一角に「佐藤忠良記念館」があります。2つの建物は続いていて、スムースに鑑賞することが可能です。 佐藤忠良(大正元年・1912年~平成23年・2011年)は宮城県大和町出身の彫刻家です。7歳の時父が死に、母の故郷である北海道へ渡り、そこで過ごしました。昭和9年(1934年)東京美術学校(現在の東京芸術大学)彫刻科入学、昭和35年(1960年)高村光太郎賞受賞。昭和41(1966年)年東京造形大学教授就任。なお、昭和40年代のドラマ『若者たち』などに出た女優の佐藤オリエは忠良の長女です。 記念館の入口にある小品。ガラス面に私の青いデジカメが写っています。 この記念館は宮城県美術館の一角に、平成2年(1990年)に建設されました。館内の作品は撮影が許可されておりません。でも展示場の外側にある作品や、建物の外に飾られている作品は、撮影が自由です。そこで私は出来る限りの作品を撮影することにしたのです。館外ではまだ雨が降っており、私は傘を差しながらの撮影でした。 帽子・夏 1972年 上記作品の一部 二歳 1972 上記作品の一部 道東の四季・夏 1977 上記作品の一部 若い女 1971 上記作品の一部 展示場の入口にあるレリーフ。恐らくは彼の作品だと思われます。 上記作品の一部 記念館の裏庭にあるこの作品も、彼の作のように思いました。 上記作品の一部 記念館の外庭にある作品で、作者は不明です。 これも外庭にある作品で、作者は不明です。 上記作品の一部 佐藤忠良の作品には気品と健康的な人体美が感じられて、私は大好きです。彼は文化勲章の受章候補にもなったようですが、「自分は一職人である」として、その都度受賞を断ったそうです。文字通り「忠」であり「良」でしたね。彼の人柄の良さが偲ばれる、微笑ましいエピソードです。なお、ウィキペディアの「佐藤忠良記念館」の項目は、まだ編集中なのが残念です。もし完成していれば、正式な作品名も分かるのですが。 明日は作者不明の彫刻群を紹介しますね。どうぞお楽しみに~!!<続く>
2015.12.07
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宮城県美術館 11月23日(月)私は氷雨の中を歩きました。最初に訪れたのが仙台市博物館。ここで特別展『宇和島伊達家の名宝』を観、次に宮城県美術館を訪れました。 美術館では特別展『ピカソ展』が開催されていたのです。ピカソ(1881-1973)はスペインに生まれ、フランスで製作活動を続けた芸術家です。 この特別展は世界的なピカソコレクションを誇る、ドイツ・ケルン市のルートヴィヒ美術館の所蔵品など80点を展示し、合わせてピカソの肖像写真40点を公開しています。会期は12月23日までで、現在もまだ開催中です。 マン・レイ撮影『パブロ・ピカソ1933年』 彼は幾つかの複合姓に続くとても長い名前を持っています。でもそれを省略し、パブロ・ピカソと名乗りました。生涯で制作した美術品は油絵とスケッチが13500点、版画10万点、挿絵3万4千点、彫刻と陶器300点で、世界で最も多作な芸術家としてギネスブックに記録されています。 館内は撮影禁止でした。そこで会場で配布された地元紙「河北新報」の号外に載っている作品を幾つか紹介することにします。新聞を撮影したため、色や質感があまり良くないことをお断りしておきます。なお、掲載順は制作の順番で、作品の大きさの単位はセンチメートルです。 『手を組んだアルルカン』1923 油彩 カンヴァス 130×97 ルートヴィヒ美術館(以下「同」と省略。注)アルルカンとはフランス語で道化師の意味。 『花の咲くジョウロ』 1943-44 ブロンズ 86×43×40 同 『頭部の描かれた長方形皿』 1948 ファイアンス 彫り込み及び浮き彫り装飾 化粧土による絵付 同 注)ファイアンスとは錫釉(すずゆう)を用いた色絵陶器のこと。 『頬杖をついている顔の水差し』 1952 ファイアンス 施釉 75×28×28 同 『読書する女の頭部』 1953 油彩 合板 45.8×38 同 『鳥の皿』 1963 ファイアンス、化粧土による絵付、部分的に施釉 直径25 同 『アトリエにて』 1964 油彩 カンバヴァス 162×130 同 『接吻』 1967 油彩 カンヴァス 146×114 同 宮城県美術館中庭俯瞰 ピカソは生涯に2度結婚しています。そして3人の女性との間に4人の子供をもうけています。彼は仕事以外に1人でいることはとても苦痛と感じ、いつも傍には誰かがいたそうです。彼の作品にはエロスが溢れています。それは91歳で没するまで変わりませんでした。自由奔放である一方、彼はフランス共産党にも入党していたようです。彼の作品はとてもたくさん残されていますが、今でも高額で取引されて、人気のほどが窺えます。 この後、私は隣接する「佐藤忠良館」を訪ねます。彼は宮城県生まれの彫刻家で、ここにはとても素敵な彼の作品がたくさん納められ、他の彫刻家の作品も室外、館外で観られます。どうぞお楽しみに。
2015.12.06
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<1枚のパンフレットから探る2つの藩の歴史> 11月23日。私は仙台市博物館で開催中の特別展「宇和島伊達家の名宝」を観ました。パンフレットには「政宗長男・秀宗からはじまる西国の伊達」と副題がついています。愛媛県宇和島市に、もう一つの伊達家があったのです。特別展の会場内は当然撮影禁止です。そこで今日はもらったパンフレットから写真を借用し、仙台、宇和島2つの伊達家の歴史を振り返ってみましょう。 <秀宗童体装束> 桃山時代の幼児用狩衣と袴。 秀宗は伊達政宗の長男として戦国時代に現在の宮城県村田町にあった村田城で生まれた。母は側室で飯坂氏の娘であった。 <伊達政宗甲冑椅像> 松島瑞巌寺所蔵 慶安5年(1652年)作 宮城県文化財指定。 父政宗は戦国時代の武将で、62万石の仙台藩祖。家来の支倉常長をヨーロッパに派遣するなど、江戸時代に入ってからも野望を持つ英雄だった。 <「青山」銘の琵琶> 桃山時代の作で政宗の正室だった愛姫愛用のものと伝わる。 愛(めご)姫は田村氏の出。2人の間には長らく子がなく、政宗35歳、愛姫34歳の時にようやく嫡男虎菊丸が誕生した。 <伏見御殿屏風(花鳥図)>の一部 桃山時代。 話は遡って、政宗の長男として生まれた秀宗は幼くして秀吉の人質となり、後に猶子となる。やがて誕生した秀頼の小姓として仕え「秀」の一字をもらった。 <上記屏風絵の一部> 秀吉亡き後、関ヶ原の戦いが勃発。この時秀宗は、西軍に加担した五大老の1人である宇喜多氏の人質となった。 <上記屏風絵の一部> 関ヶ原の戦いの後、秀宗は覇者となった徳川家康の人質として差し出された。これは当時の武将の子供の宿命でもあった。 <上記屏風絵の一部> 大坂冬の陣には父政宗と共に参陣。これが彼の初陣だった。 <豊臣秀吉画像> 慶長4年(1599年)狩野光信筆 重要文化財 やがてこの後、政宗に嫡男が誕生する。政宗は秀宗の扱いを家康に伺った。彼はかつて秀吉の猶子(養子のようなもの)であったためだ。家康は秀宗を、関ヶ原の戦いの報償として政宗に与えた宇和島10万石の城主とすることを許す。これが宇和島伊達家の誕生秘話であった。一方、嫡男の虎菊丸は元服後忠宗と名乗り、第二代仙台藩主となる。 <宇和島御城下絵図> 元禄16年(1703年)作 政宗は秀宗のお国入りに際し、自身の家臣を秀宗に与えた。1200人の家臣団のうち、2割が政宗の家臣だった由。さらに支度金として6万両を貸与した。宇和島城は海城で、濠は海水だった。現在は地続きとなり、小さな櫓が天守閣代わりに残っている。 <香木> 銘柴舟 政宗が秀宗に与えたもの だが、政宗が家老として帯同させた山家(やんべ)氏一家が、何者かによって暗殺される。秀宗はこのことを政宗に知らせなかった。政宗は激怒し、困り果てた秀宗は山家氏を祀る和霊神社を建立した。これが今でも和霊祭として続いている。また鹿踊りなど東北の祭が伝わっている。 <黒塗御紋散梅に竹文蒔絵香道具> 江戸時代中期 仙台藩と宇和島藩には、それ以降も幾つかの確執があった。6万両の貸与の件や、仙台藩の分家ではないとの主張も宇和島藩内で起きた。だが両藩両家の交流は続き、血筋が絶えた際は養子となって幕末まで継いだ。 <指面> 第3代仙台藩主綱宗作 江戸時代中期 仙台藩においてもお家騒動が起きた。3代藩主であった綱宗は若くして藩政を怠り、芸能などに溺れた文化人。藩の危機と感じた家臣は、綱宗の隠居を幕府に願い出た。これが許されて、幼い第4代の藩主が誕生する。この補佐役だった原田甲斐らがこの機に権力を延ばそうと画策する。これが世間を騒がせたお家騒動となって原田甲斐らは断罪される。いわゆる「千代萩」として戯曲化された事件がこれだった。 <花菱月丸扇紋散蒔絵三棚> 安政3年(1856年)佳姫婚礼時所用品 幕末には宇和島藩の血筋が絶えた。この時に第8代藩主となったのが旗本吉田家から入った宗城公。英明な彼は西洋文化を取り入れ、西洋医学を学んだ医者を藩内に置いたり、蒸気機関を製作させたりした。やがて戊辰戦争が勃発すると、宇和島藩は官軍に就いた。 一方の仙台藩は奥羽越列藩同盟の旗頭として幕府側に就いた。結果はご存知の通りで、朝敵となった東北各藩は、明治に入っても長らく冷や飯を食う立場に置かれたのだ。 <伏見御殿屏風図(唐人図)> 桃山時代 明治後期、明治維新の際に功労があった宇和島伊達家は侯爵となるが、仙台伊達家は伯爵のままに置かれた。爵位が逆転したのだ。かつての「本家」の土地と「分家」の土地が「和解」したのは昭和50年(1975年)。仙台市と宇和島市は「歴史姉妹都市」を締結した。今年は40周年に当たり、記念事業としてこの特別展が開催されたのである。
2015.12.05
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11月23日。私は氷雨の中、仙台城三の丸跡にある仙台市博物館に行きました。 これが仙台市博物館の正面玄関です。玄関の上に「特別展 宇和島伊達家の名宝」の看板が掲げられています。実は私が訪れたこの日が、最終日だったのです。65歳以上の仙台市民は半額で入れます。先ずは常設展をちらっと見ました。伊達政宗の家臣、片倉小十郎関係の資料が新たに展示されたと聞いたためです。 これが片倉小十郎景綱の肖像画。常設展の展示物はフラッシュを焚かなければ、撮影を許されています。伊達家の重臣である片倉家は初代の景綱以降、当主は代々「小十郎」を名乗ることになっています。 彼は神職の子として生まれましたが、両親は小十郎が幼い時に亡くなります。20歳年が離れた異父姉の喜多が彼を育て、姉が政宗の乳母になると小十郎も近習として取り立てられます。 片倉小十郎景綱に宛てた、徳川家康からの書状です。 白石城の図面です。「人取り橋の戦い」以降、景綱は小田原征伐、二度の朝鮮出兵、関ヶ原の戦いなどで何度も伊達家の危機を救いました。その活躍が評価され、仙台藩の南端を守る白石城主となるのです。これは「一国一城令」の特例として認められたもの。小十郎景綱の力量を、家康も認めていたのでしょうね。 片倉氏の旗指物で、「鐘」を意匠しています。戦いの時に誰が戦っているのか、この「標」で分かりました。 小十郎景綱の軍配です。これを馬上で振って、戦いを指揮したのです。大坂の陣では病床に伏していたため、嫡男の重綱(後に重長)が参陣しました。戦った相手は真田幸村親子。来年の大河ドラマの主人公がこの真田氏ですが、「冬の陣」、「夏の陣」で彼らは全滅します。実はこの時、重綱は密かに一人の男児を救って白石城で自分の子として育てます。その子がやがて成人し、仙台真田氏を継ぐのです。 以下は「プレーミュージアム」に展示してあった東北の玩具です。最初は仙台の「松川だるま」。青い色が特徴の縁起物で、毎年少しずつ大きめの物を揃えて神棚に飾るのが習わしです。 仙台市の「木下駒」です。 これも上に同じ。木彫りの馬です。 「仙台張子」の人形です。張子は紙を何重にも張って造ります。 こちらは仙台張子の飾り馬です。 山形県米沢市の「相良人形」です。とても素朴な味わいがありますね。 福島県三春町の「三春張子」の、とてもおめでたい人形です。町の名は、梅、桃、桜の3つが同時に咲くことから「三春」と名付けた由。中でも樹齢数百年の「滝桜」が有名です。 青森県八戸市の「八幡馬」です。南部は古来より馬の名産地でした。明日は「特別展」を紹介します。<続く>
2015.12.04
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昨日はかなり文章が長くなり、2回に分けて掲載することになった。今日も11月23日に出会った仙台市内の銅像を幾つか紹介したい。 1 支倉常長立像 1972年佐藤忠良制作 仙台城二の丸旧大手門跡の内側に設置 この銅像が立っているのは東北大学の構内で、旧大手門内側の向かって右側直ぐの場所。作者の佐藤忠良(1912~2011)は宮城県生まれの彫刻家で、付近の宮城県美術館の一角に彼の作品を集めた「佐藤忠良館」がある。 支倉常長は伊達政宗の家臣で、二度の朝鮮出兵にも従軍した強者。慶長18年(1613年)、政宗の命を受け、現石巻市で建造したサンファンバウティスタ号に乗り込み、現メキシコのアカプルコを経由してヨーロッパに向かった。いわゆる我が国最初の「遣欧使節」として、イスパニアとローマへ赴いた。目的は当時隆盛を誇っていたイスパニアと通商することだったが、首尾良く果たせず7年後に帰国した。 彼はローマ教皇に謁見した初めての日本人で、キリシタンとなりローマ市民証を得た。だが、帰国後の彼を待っていたのは、「キリシタン禁止令」。政宗は罰することこそしなかったが、郷里の現川崎町支倉集落(宮城県)に幽閉され、以後元和8年(1622年)に死去するまで失意の日々をここで過ごした。まさに天国から地獄へと突き落とされたのである。 2 伊達政宗騎馬像 小室達制作 1964年青葉城の天守台に設置 小室達((1899~1953)は宮城県出身の彫刻家で、東京美術学校(現東京芸術大学)を首席で卒業した秀才。政宗の騎馬像は現在地に戦前建てられたが、第二次世界大戦の際兵器を造るために供出された。2代目はコンクリート造りのもので、小室達制作の銅像の型を発見して復元したのが現在のもの。高さ8mほどの台座の上にある堂々とした銅像は見る者を圧倒する。 政宗は山形県の米沢城で永禄10年(1567年)に生まれた戦国武将。天正5年(1577年)10歳で元服し、同12年(1584年)17歳で伊達家の当主となる。一説によれば、実弟小次郎を自ら殺害したと言う。眉目秀麗の弟を母が溺愛し、家臣がその意思を汲んで当主に担ぐ動きがあったのが原因と言う。母義姫(夫輝宗の死後は保春院)は最上氏の出で、兄義光に内通していたこともあった。 憂いの源を絶った政宗はそれ以降領地を広げ、現在の福島県から岩手県に及ぶ広大な土地を我が物にした。後に秀吉の「奥州仕置」により米沢から岩出山(宮城)に移封され、さらに仙台に本拠地を移して仙台藩の藩祖となった。石高は62万石だったが領内を干拓開墾し、実質100万石に相当。内陸部に運河を造るなど物流を心がけ、余剰米を江戸に運んで莫大な利益を上げた名君。ヨーロッパへ使節を派遣するなど天下を狙ったが果たせず、寛永13年(1636年)68歳で没。陵墓は仙台市内の瑞鳳殿。 3 政宗元服姿の図 翁朝盛作 政宗騎馬像の台座に刻んであるレリーフの一つ。作者の翁朝盛は宮城県出身の美術家で、小室達の知人だった縁で、これを制作したようだが、至って稚拙な印象を受ける。 政宗の元服は10歳の時。幼名は梵天丸で、幼少時から虎哉禅師に厳しく指導され、この時に漢文などの素養を身に付けたと言われている。書も文も名筆名文なのは師の指導のお陰。後に白石城主となった片倉小十郎景綱は若い時から近習となり、一生をかけて政宗に仕えた。 4 政宗朝鮮出兵の図 翁朝盛作 政宗は秀吉の命により、二度とも朝鮮へ渡っている。これはその出兵時の様子。塩竃神社境内、陵墓である瑞鳳殿境内、隠居所となった若林城(現宮城刑務所)境内、及び大崎市岩出山の有備館庭園内の4か所に、政宗が朝鮮半島から持ち帰ったと言う「臥竜梅」があるが、伝説か事実かは不明。 5 権中納言を授けられた束帯姿の図 翁朝盛作 3、4と共に騎馬像の台座に刻まれたレリーフの一つで、政宗60歳の時の姿だが、平板で稚拙な印象。伊達家は鎌倉武士で本貫は常陸国(現在の茨城県)。戦国時代に入ると東北地方でその勢力を伸ばした。最終的には陸奥守(むつのかみ)に任じられ、死後従二位を贈られた。四国宇和島藩は政宗の長男秀宗が二代将軍秀忠から賜ったもの。石高は10万石。 6 土井晩翠胸像 青葉城天守台の一角に設置 土井晩翠は明治4年(1871年)に仙台で生まれた英文学者。第二高等中学、東北帝国大学英文科卒業。爾後郁文館中学教師、二高教授、東北帝国大学講師などを歴任。島崎藤村と並ぶ詩人としても有名。仙台市名誉市民。本来姓の読みは「つちい」だが、誤って「どい」と呼ぶ人が多いため、後に「どい」と呼び名を改めた。 さて、東京音楽学校(現東京芸術大学)の依頼で作詞したのが有名な唱歌「荒城の月」。作曲は別な城(大分県の竹田城)を想定しているが、土井晩翠は故郷仙台の青葉城の模様を詩に詠んだ。このため胸像は「荒城の月」誕生の舞台となったこの地に、記念として設置されている。<完>
2015.12.03
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11月23日月曜日。私は雨の中を歩いた。仙台市博物館と宮城県美術館で開催中の催し物を観るためだったが、その際いくつかの銅像やレリーフに出会った。今日はそれらの作品を紹介したいと思う。 1 「仙台キリシタン殉教碑」深沢守三神父作 大橋のたもとの西公園内に設置。 藩政時代、大橋の下には水牢があった。元和10年(1624年)キリシタン禁止令によって、9人のキリシタンがここで処刑された。1人はポルトガル人宣教師のカルバリオ神父で、他の8人は日本人。九州や北陸など、いずれも他国の出身者だった。 1)の部分で中央に立つカルバリオ神父。日本式の名は長崎五郎衛門。彼は長く長崎で布教活動を行っていたようだ。この銅像はカトリック教団が、神父らの殉教を偲んで1971年に製作設置したもの。 神父の向かって左に立つのが武士で、右側に立つのが農夫。彼らは殉教者のシンボルとして、このような形をとった。仙台藩において、当初キリシタンに対する弾圧はなかった。支倉常長を遣欧使節として派遣したほどだ。政宗の正室である愛(めご)姫や長女の五郎八(いろは)姫はキリシタンとの説もある。現に五郎八姫の霊廟である天麟院(松島町)の厨子の中には、バラの花と十字架のデザインが施されている。 規制の緩かった仙台藩へは、キリシタン達が大勢逃げ込んで来たようだ。だが、禁止令が幕府によって出されると、藩も彼らを捕え、処刑せざるを得なかった。こうして約400年前の2月、厳寒の中で9人のキリシタンは広瀬川に沈められたのだ。 2 魯迅像 仙台市博物館裏庭 魯迅は中国の小説家、翻訳家、思想家。(1881~1936)。明治37年(1904年)医者になるため仙台医学専門学校(東北大学医学部の前身)に留学するも、自国民を救うためには文学者になるべきと考え方を変え帰国。中国で西洋の技法で小説を書いた最初の人。代表作に「狂人日記」や「阿Q正伝」がある。仙台滞在中は特に解剖学の藤野教授から手厚い指導を受けた。この恩師の話は、彼の小説にも登場する。 この銅像は魯迅の故郷である紹興市から生誕120周年を記念して仙台市に贈られ、平成13年(2001年)に現在地に設置された。 3 林子平レリーフ 仙台市博物館裏庭 林子平(元文3年1738年~寛政5年1793年)は元仙台藩士。父は幕府の書物奉行を務めた岡村良通。事情により叔父がいた仙台藩に寄留。種々藩に進言したが聞き入れられず、兄の部屋住み(居候)となり全国を巡る。長崎、江戸で学び、「三国通覧図説」や「海国兵談」を自費で出版。これが禁書に当たるとして幕府に発禁処置をとられ、兄宅に蟄居処分となる。 彼は西洋諸国の脅威、中でもロシアの脅威を恐れ、日本も防備に努めるべしと説いたのだが、幕末の黒船到来より70年近く早く、世間に認められなかったのだ。自ら六無斎と名乗った。「親も無し、妻無し子無し版木無し。金も無ければ死にたくも無し」と嘆いたことによる。また「寛政の三奇人」の一人と呼ばれたが、実態は天才。人よりも時代の先を読む力があった。 このレリーフは昭和43年(1968年)小笠原諸島が日本へ返還された記念に建てられた。子平の著書に、小笠原諸島が日本人によって発見されたことが記されていたのだ。小笠原は捕鯨基地でアメリカ人が居留していたが、彼らはそのまま日本に帰化している。 4 伊達政宗胸像 小室達作 仙台市博物館裏庭 制作した小室達は宮城県出身の彫刻家で、東京美術学校(東京芸術大学の前身)を首席で卒業した人。(1899~1953)後で出て来る青葉城の「政宗騎馬像」も彼の作品である。 伊達政宗は仙台藩の藩祖で、独眼竜として名高い。幼少の頃に天然痘に罹り、片目を失った。父輝宗は伊達氏第17代当主。母義姫(保春院)は最上氏の出で、山形を治めた最上義光の妹。正室は三春城主田村清顕の娘愛(めご)姫。 5 三世代 仙台市博物館前庭 5)の部分 長い間この銅像を観て来たが、あまり関心はなかった。良く観ると、肩からかばんを下げた郵便局員が3人いる。どうやらこれが3世代の家族なのかも知れない。制作者の藤原吉志子(1942~2006)は東京都出身で、東京芸術大学大学院鋳金科を修了した彫刻家のようだ。 これが一番下のポストマン。きっと三世代の中で一番若く、孫に当たるのだろう。ここまで書くのに、既に2時間を要した。撮影した作品はまだあるのだが、続きは明日に載せたい。<続く>
2015.12.02
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木の葉の巣 先日、風呂に入っている時、家の裏で何か物音がした。そして「ピュー」と言う鳴き声も。ドブネズミがまたコンポスト容器に忍び込んだのだろうか。暫く来てなかったのだが。そこで扉をガンと叩いたら、それきり音は聞こえなくなった。翌朝裏庭に行ってみる。生ごみを入れて堆肥を作っているコンポスト容器に、穴が掘られた形跡はなかった。本当の所、あの山鳩に似た鳴き声の主は、一体誰なのだろう。 ワタシハ犯人ジャアリマセン 枯れた小菊を切ろうとして庭に行くと、どこからか強烈な異臭がする。まるで腐った堆肥みたいな臭いだ。周囲を見回しても原因になるようなものは見えない。そのうち芝生に何かが張りついているのを発見。これはネコのウンチ。きっとビーグル犬モモちゃんの家のネコの仕業だろう。犬はちゃんと飼い主が始末するから良いけど、気ままなネコはやりたい放題。これで3回目の被害。全く困ったものだ。シャベルで掬って捨て、土を被せておいた。やれやれ。 白いクリスマスローズ 異常気象のせいか、庭のオオテマリが小さな花を咲かせた。これは本来初夏に大きな白い花を咲かせる木。それが晩秋に咲くとは、植物も暖かさですっかり季節を間違えてしまったのだろう。毎年秋にも咲くツツジがM公園にあり、今年もオレンジ色の花を見た。ところが散歩中にある庭で、クリスマスローズの花を見つけた。仙台でこの花が咲くのは4月頃。へえ~っ、これは驚いた。こんなのは初めてのこと。やはり地球温暖化が進んでいるとしか思えないねえ。 曇る空 仙台はこのところ急に寒くなった。11月25日に初雪。これは私は見ていない。11月29日は最低気温が0.8度となり、初霜、初氷が確認された由。我が家のベランダも、この朝はガリガリ凍っていて、タオルでゴシゴシ擦って落とした。半袖の下着では風邪を引くので、ヒートティックの下着に替えた。これも用心のためだ。コタツは当然必要だし、PCに向かう時は指先を切った手袋が欠かせない。そして今日から12月。今年も冬がやって来た。 十月桜 昨日は久しぶりにM公園へ行ってみた。あれほど美しく染まっていた広葉樹の葉はほとんどが風で飛ばされ、木々は裸の姿を空に曝していた。下草は全て刈られ、寒々しい冬の風景だ。公園の直ぐ下に造成されていた宅地が、かなりはっきりと姿を見せている。公園の奥に行くと、先日までまったく無かった十月桜の花が幾つか淋しげに咲いていた。本来この桜は美しくまとまって咲くのだが、今年はきっと暖か過ぎたのだと思う。 可愛いツタ 公園の中を一人の老人が歩いていた。80代の男性だろうか。体が大きく横に傾いている。恐らく脊椎側湾症だろう。ゆっくりだが、懸命に前方に向かう老人。老化、そして病気。人間歳を取れば、いつかはそんな事態に遭遇する。長い間ブログを更新していない友、コメント欄を閉じて久しい友。彼らに一体何が起きたのだろう。皆私よりも先輩の方だ。そして中には、一日中ご主人の看病に当たっている友もいる。 ランニングダイアリー 雑誌「ランナーズ」の新年号を買った。記事を読むためではない。付録の日記が必要なのだ。毎年これに走った距離などをメモして来た。だが、最近ではほとんどがウォークの記録のみ。100円ショップのノートで十分代用出来るのだが、それでもこれは長年の習慣で重宝している。家庭菜園関係の出費、旅行、映画鑑賞、博物館や美術館での鑑賞記録などをメモするのにちょうど良いのだ。今回の入院にもメモ帳代わりに、多分持参することになるだろう。 残された柿一つ あるブログ友が書いていた。「その人を知るには、その友を見れば分かる」と。それは箴言だが確かにそう思う。私は元々友人が少ない。体調が悪く走れなくなって以来、走友会やウルトラマラソン仲間と会う機会がなくなってしまった。私のブログを今もまだ読んでくれている走友は少ないはず。それでもレースの模様や会合の様子を写真付きのメールでせっせと送ってくれる友がいる。「これからもずっと応援し続ける」。最新のメールにそうあった。有難いことだ。 ブログもまた然り。去った友もいれば、新たに加わった友もいる。こちらは走友と違って、顔も名前も知らないのだが、それもまた良し。残り少ないわが人生だが、実に愉快。残った友が真実の友だ。私はこれからもブログを書き続ける。そして出来たらまた走りたいものだ。今日から12月。季節は厳しい冬に向かう。人生も最終コーナーへ差しかかり、いよいよ正念場。どんな風に生きるのか。それが今後の勝負になる。
2015.12.01
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