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8月の仙台の日照時間は例年の40%にも満たないものだったようだ。昨日も朝から雨が降り、最高気温は23度ほど。このところずっとこんな日が続いている。雨のお陰で体は少し楽だし、畑に蒔いた秋冬野菜の種が発芽したのは嬉しいのだが。 今季の東北楽天は不調続きだった。このところオリックスと最下位を争い、借金は目下17。監督1年目のデーブ大久保は、つい先ごろ責任を取って今季終了後辞任する旨表明した。相次ぐ主力選手の怪我で、十分戦えなかったことが原因だ。だが、先発メンバーの打順についてまで、三木谷オーナーが口出しするようではねえ。病癒えた星野前監督の復帰も取り沙汰されているが、果たしてどうなるか。ともあれ来季こそ、ファンが興奮するゲームを見たいものだ。 猛暑と熱帯夜が続いて苦しかった今年の夏は、甲子園の高校野球が私の慰めだった。地元の仙台育英が準優勝に終わったのが残念だが、最後の最後まで楽しく応援出来た。体調が悪化してからは、北京での世界陸上を観るのが最大の楽しみになった。日本選手はあまり活躍出来なかったが、さすがは世界でも有数のアスリート達。彼らのパフォーマンスの素晴らしさや、時々大写しになる表情の美しさにハッとさせられた。 それも昨日で終わった。これからの楽しみは目下千葉で開催されているU-18の世界野球大会。評判のスラッガー早実の清宮選手が1年生でありながら4番バッターに起用されている。目下A組1位で全勝中だが、これからの決勝リーグがどうなるか楽しみだ。 今日は8月31日。岩手のブログ友ニッパさんのブログが更新されなくなってから、今日で1カ月になる。6月の北東北の旅では、盛岡で彼と初めてお会いすることが出来た。その時は元気そうに案内してくれたのだが、怪我と病気で不調なのは分かっていた。大きな手術を受けたニッパさん。時折り指が痛んでブログの更新も辛いと書かれていたが、どうぞお元気でおられることを願っている。 長崎のブログ友神風スズキさんの痛風も心配だ。足首だけでなく痛みが膝にまで来ている中で、仕事もされているようだ。激痛で夜は3時間も眠れないと私のブログに書いてよこした。きっとそれだけ厳しい体調なのだろう。ブログの更新も深夜トイレに起きた際に行っている由。つい最近知り合ったばかりだが、何とか健康を取り戻し、必ず元気になって欲しいと願っている。自分も体調が悪いため、とても人ごととは思えない。 ブログ友には4人の「姉」がいる。北海道のたくちゃん、三重のよっちゃん、徳島のじゅんじゅんさん、そして長崎のローズコーンさんだ。幸にして皆さんお元気で活躍中だが、中には病気がちの高齢のご主人をお持ちの方がおられるのが心配。そして目下コメント欄を閉じている三重のマッカーサー先輩も少々気がかりだが、こちらは今のシリーズが終われば再びコメント欄は開けるはず。私のブログ友は結構先輩の方々が多いので、健康が一番の気がかりだ。 昨日鏡を覗き込んで驚いた。そこに青白い顔の自分が写っていたからだ。まだ体調が良かった頃はゆっくりとでも走れ、日に焼けて元気そうだった。それが不整脈による不調で3週間自室に閉じ籠り切りになり、体を動かすことも出来なくなった。昨日はそれでも体調が良い方で、妻の買い物に付き合う自信もあったのだ。だが実際に歩くと、苦しみがぶり返した。特に重いリュックを背負った帰路は、一歩ごとに呻きながら何とか帰宅した。 今年の正月早々、妻の兄ががんで亡くなった。私より1学年上の彼は、72歳の誕生日が目前だった。私はその時に心の中で誓った。「自分は絶対72歳の誕生日を迎えるぞ」と。そしてその数日後には、塩釜神社への25kmの参拝ランニングを実行したのだ。思えばあれが今年走った最長距離だった。その後何度かの体調不良があって、思うように走れなくなったのだ。だから7月下旬から2週間毎朝走れたのは、自分にとっては奇跡とも言える期間だったのだろう。 ここ数年、生命の危機を感じることが年に1、2度生じている。今年もそうだった。「不整脈が直接の原因で死ぬことはない」。かかりつけのMドクターはそう言うが、先日心電図を見てK病院での手術を勧めた時は、困惑した表情にも見えた。20年ほどウルトラマラソンをしていた私は我慢が出来る。苦しい体調でも、つい我慢してしまうのだ。だが、今回はそれが良くなかったのかも知れない。 さっさとK病院で診察を受け、さっさと入院して手術を受けるのが最善だったのかも知れない。だが、私は心の中のどこかで、また不調が去って走れる日が来ると、甘い期待をしていたのだろう。でもそれは全ては結果論。自分の判断で選んだ道なのだ。 今日はブログ友きっかい君の月命日。彼が亡くなってから今日で5カ月が経つ。半身不随の苦しい体調で、いつも明るい文章を書いていたきっかい君。最後は2種類の透析を受けながら、健気にコメントに返事をくれたきっかい君。とても彼のようには生きられないが、出来るだけ正直なブログでありたいと私は願っている。 幸いにして写真のストックは十分にあるし、文章を書くだけの体力も残されている。食欲もあり、排せつも自由に出来る。それだけでも十分有難いことだ。再び自分の足でゆっくりと走れる日が来るかどうか。それを楽しみに今後も治療を続け、ブログを公開したいと思う。こんなブログだが、大勢の読者が存在することに心から感謝している。ブログ友の皆さん、勝手に名前を上げてゴメンナサイね~!!
2015.08.31
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退屈しないよう「松島湾の島々」と交互に紹介しているこのシリーズですが、今日も2番目のお店の続きです。 工芸店にはこんな愉快な表情をしたこけしがありました。 これは可愛らしいお坊さんでしょうか。 立っているダルマさんのこけしとは珍しい。 こちらは伝統的なこけしに見えますね。 色んな表情が愉快です。 見事なお雛様のこけし。 どちらのこけしも、傘が独楽(こま)になっています。もちろん回りますよ。 これは秋保温泉からさらに山に入った山形県境の二口峠に住んでいたと言う盤次、盤三郎兄弟のこけしです。兄弟は山に隠れて旅人を襲う山賊でした。でもこの山で修行していた山伏に諭され、心を入れ替えます。二口峠には兄弟の名を採った大きな岩が連なり、秋の紅葉時には見事な風景が見られます。彼らの頭が、やはり「こま」になっていますね。 小さくて可愛いらしいサクランボ。これもこまで、実際に回ります。 これらは紛れもないこまばかり。そう、この店は本来独楽(こま)の専門店なのです。 店のご主人は、東京で「江戸独楽」(えどごま)の修業をされた工人です。 でもこまだけではなかなか売れないため、今では他の玩具も作っていると話してくれました。 一緒に修業した弟さんは、今でも東京で江戸独楽の工人として活躍されているそうです。 さて、ここからは3番目の店です。店の外には傷がつけられた木が立てられていました。これはどうやら漆(ウルシ)の木みたいですね。店に入ると、工房では職人の方が働いていました。ここでも最初に断って、写真を撮らせていただきました。さて、ここは一体何を作る店でしょうか。 ツヤツヤした木製品が見えますねえ。そう、ここは仙台箪笥(たんす)の店なのです。 「仙台箪笥」は江戸時代から伝わる伝統工芸品で、製作に手間がかかるため値段も高いのです。 仙台箪笥は重厚な鉄製の「飾り金具」が施されているのが特徴で、さらに漆が塗られています。 「竹に雀」の紋は、伊達家の家紋の一つです。重厚さが感じられますね。 黒々と光っているウルシには、伝統工芸品の美しさと使い良さが感じられます。 我が家の和室にも、このような仙台箪笥が置かれていますよ。そしてこのお店が開いている「漆塗り教室」が我が家の近所にあります。<続く>
2015.08.30
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このシリーズでは6月20日(土)に走友達と一緒に訪れた、松島湾に浮かぶ島々を紹介しています。ただし、写真の枚数の関係で、必ずしも順番通りではありません。今日紹介するのは最後に上陸した寒風沢島からの帰路、塩釜市営連絡船の船上から見た風景の一部です。 天橋立(京都府)、安芸の宮島(広島県)と並ぶ名勝で日本三景の一つである松島には、大小260以上の島々があります。これらの島は比較的もろい砂岩や礫岩で出来ています。松島湾の水深は10m以下。比較的浅い海です。湾内で獲れる主な魚はハゼとアナゴ。また水産物としてはアサリやカキの養殖を行っています。 仙台湾の一番奥にある小さな湾が松島湾で、ここに大小さまざまの島々が浮かんでいます。湾の下部(南)に七ヶ浜半島が見えます。また、湾の一番上(北)には一番大きな宮戸島があります。この内側が松島湾ですが、これらの島々がかつては陸地だったと聞いたら驚くでしょうね。平安時代は地続きで、七ヶ浜半島から宮戸島方面まで歩いて行けたことが記録に残っているそうです。 それがなぜ島になったのか。原因は地震と津波です。昔から東北地方の海岸部は、大きな地震のたびに津波に襲われて来ました。地質がもろかった松島では、たび重なる津波で「溺れ谷」となり、かつての小山が海に沈んで島々になったとの説があります。陸地と島の地質が一緒なのです。特に貞観11年(869年)の貞観(じょうがん)地震が、松島誕生の引き金になったようで、仙台平野にもこの時の津波の痕跡が残されています。 中にはこのように木が生えてない島もあります。松枯れ病や海鳥の糞害が主な原因です。 上の島の付近の様子です。 島と島との間。 小さな海峡ですね。 何だかクジラが泳いでいるみたい。 船からの眺めは飽きませんね。私はデッキに立ち続けて、そんな風景を撮っていました。 松島湾の海岸部はへどろで汚れていますが、湾の沖まで来ると海水が青々しています。 沖合から海岸部を見ています。遠浅の海に、カキの養殖棚がたくさん並んでいるのが見えます。「東日本大震災」の津波では、これらの棚が全て流され、大きな被害が出たのです。 ここは桂島の港。小さな漁船が漁から戻って来たみたいです。 似たような写真ばかりで、退屈したかな?明後日に続きます。<続く>
2015.08.29
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不整脈が再発して3週間が過ぎました。2つの病院に行き、目下薬で対処していますが、未だに目まいや動悸、胸苦しさ、胃のむかつきなどの症状に苦しみ、自室でじっと耐える毎日です。昨日ブログ友ローズコーンさんのブログを拝見しているうちに、下手な俳句を作りたくなり、急遽メモしたのが以下の句です。ご笑覧いただけたら幸いです。 百日紅空一面を緋に染めて 夾竹桃幼き夢と幻と この夏も花火を見ずに百合の花 命ありバラ一輪の猛暑過ぐ 野牡丹や小さき庭の夏の夕 白百合の花びら透かし朝日出づ 花眺む酷暑に耐へし命かな ひと月を無言で過ごす我が酷暑 花の名も知らずに残暑息を吐く 虫の音の幽かなりけり空白む わが目まひ旬日重ね秋立てり 弱き命映して今朝の秋の沼 沼の秋命映して風立ちぬ
2015.08.28
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今は8月27日(木)の未明1時55分過ぎ。トイレに起きたら眠れなくなってしまい、ブログを更新しています。3年前に68歳で仕事を辞めてから、ただ家にいるだけの私はたっぷり時間があります。眠たくなったら二度寝すれば良いし、日中に昼寝も出来るのも助かりますね。 さてこのシリーズは今日で3回目ですが、「秋保工芸の里」を訪れたのは5月5日のこと。その時は季節感に溢れる写真がたくさんあったため、目下もう一つのシリーズ「松島湾の島々」(6月20日訪問)と交互に紹介しています。似たような写真が続くと読者が飽きるためです。いずれも写真は初公開で、公開後は原則として捨てるのが私の流儀です。 ここは2番目のお店。工人は東京で「江戸独楽」(えどごま)を修業した方。そのため店内には、珍しい形のこまがたくさん並んでいます。若いお嬢さんが実際にこまを回して見せていました。たとえどんな形をしていても、必ず回るのが不思議です。初めにそんなこまを紹介しますね。 これはこけしの形をしたこま。 まるで団子のようだけど、これでも回るんだろうね。 これはこまが止まった位置で、何かゲームをするのかも。 バランスを取る「やじろべい」型のこま。 ダルマさん型のこまも可愛いね。 左はウサギさんのこま。右は子守をするお婆さんかな? 左は不思議な形をしたこまで、右は幽霊のこけしかな? 左はカメさんで、右は巫女(みこ)さんの占いごま。 可愛いこけし型のこま。 こちらはバランス型のこまでしょうか。 でもね、店内には独楽(こま)以外の作品もたくさんあるんだよ。ともかくお客さんの目について、買ってもらわなきゃね。で、これは招きネコ。 これって「笠地蔵」かな? こちらはまめタヌキ。 七福神の一部だね、きっと。 中国の童子かな、これは。 こちらは中国の童女みたい。 雪ウサギも可愛いな。ともあれ工人の涙ぐましい努力を感じた私でした。<1日おきに続く>
2015.08.27
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桂島の地図 このシリーズでは、6月20日(土)に訪れた松島湾の島々を紹介しています。塩釜観光港から船に乗って、松島湾に浮かぶ有人の島を仲間と一緒に歩く企画です。船は遊覧船ではなく、塩釜市が運営する連絡船。最初に向かったのがこの地図の桂島でした。 前方に桂島が見えて来ました。松島湾に浮かぶ島は「浦戸諸島」と呼ばれており、塩釜市に所属する島のうち4つに人が暮しています。桂島はその中で最も塩釜市に近い島で、大きさは0.76平方km。人口は400人と、最も多い島なのです。 この日集まった仲間は60名。早速島上陸して、島の中を探検します。先ず向かったのが島の神社でした。 こんな小さな島にも、どうやら展望台があるみたいです。 暗い建物の中に、小さな桂島神社が見えました。横に説明板が立っています。 そして神社の傍には鐘撞き堂。誰かが記念に鐘を撞いたようで、鐘の音がゴ~ンと周囲に広がりました。 これが展望台からの眺めです。標高は50mくらいですが、眼下に松島湾と、そこに浮かぶ島々が見えました。 島の中で見かけた植物です。左からグミの実、スイカズラ(忍冬)の花、そしてヤマグワ(山桑)の実です。 桂島の海岸と浜辺です。この桂島も4年前の「東日本大震災」の津波で被害を受けました。この浜辺も壊滅状態でしたが、ようやく整備を終えて、今年は海水浴場として復活することが出来ました。宮城県内には美しい海水浴場がたくさんあったのですが、復活したのはわずか4か所程度です。実は私がまだ子供だった頃この海水浴場に来ているのですが、全く記憶が残ってませんでした。 海岸に仲間達がいるのが見えますね。この浜辺でハマボウフウを見つけました。これは食べるとさっぱりして美味しい高級食材ですが、多分現在は絶滅危惧種として保護されているはずです。 島の山中にあった「雨降り石」とその標識です。水源の乏しい小島では、かつて日照りが続くと飲み水に困窮しました。そこで島民がこの場所に集まり、雨乞いの儀式を執り行ったのでしょうね。今は海底のパイプで塩釜市と水道が繋がっています。 縄文時代から人が住んだ痕跡があり、山の小道にはこのような石仏が立っています。 「ラッコ長者屋敷跡」の看板です。明治時代、白石某がこの地に屋敷を構え、遥かオホーツク海の島々でラッコを捕獲する事業を行っていたと、看板に書かれています。気宇壮大な男が、こんな小さな島に住んでいたことに驚きました。 島内の別の海岸です。4年前に津波被害を受けたため、新しい防波堤が築かれています。この後私達は無料の「渡し船」に乗って、隣の野々島(ののしま)へ渡りました。<1日おきに続く>
2015.08.26
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沖縄に大きな被害をもたらした台風15号が九州に上陸しようとしています。進路に当たる地方の皆様は、どうぞ十分ご注意くださいね。そして、被害が出ないことを祈っています。さて、私が住む仙台は、このところ急速に気温が下がっています。昨夜はタオルケット2枚と毛布1枚をかけて寝ましたが、朝方はそれでも寒くて目が覚めたほどです。日中も過ごし易くなり、体調があまり良くない私には大助かりです。 そんな体調の中、夏野菜の始末をしていました。そろそろ秋冬野菜の準備が必要な時期なのです。それで少しずつ、畝を片づけました。14本のトマトは全部処分。苗にはまだ青いトマトが20個以上ついていました。それを獲ってお盆の上に並べてあります。そのうち徐々に色づいて来ます。硬くて不味いトマトも、そうなると何とか食べられます。夏の終わり、我が家のトマトは毎年そんな風にして最後を迎えます。 3本のゴーヤも処分しました。もうかつての勢いはありません。南の畑の塀沿いに植えられたゴーヤは、日差しを遮ってしまいます。そのためにも抜く必要があるのです。少しずつ蔓を切り、ネットと支柱を外します。その作業の中で収穫したゴーヤは25個ほどありました。そのほとんどが小さなもの。それも全てゴーヤチャンプルーや佃煮の材料になります。この夏はゴーヤジュースもたくさん飲みました。抜いた野菜の残骸は裏のイチジクの根元に積み、堆肥になります。 これが我が家の庭の畑です。左は南側の畑。畝に残っているのは、健康野菜の雲南百薬、ツルムラサキ(両方とも粘り気のある葉を摘んで食べます)、そしてオクラです。右は東側の畑のヤーコンです。晩秋には掘り出して地中の芋を収穫します。あっさりとした甘みがあって生でも食べられ、血糖値を下げる効果があります。このほか、シシトウ2本が植えられ、裏庭にはサトイモ2本があります。庭のニラは随時切って利用し、シソは種取り用に3本ほど残しています。 7月下旬に蒔いた大根の葉が、こんなに大きくなりました。これは東の畑で第2弾も成長中です。今回は南の畑のゴーヤの後に、第3弾を蒔きました。南の畑には白菜の第1弾が育っていますが、既に青虫が葉を食べ始めているので、注意が必要です。今回は白菜とブロッコリーの第2弾、そして聖護院カブの種を蒔きました。今後はオクラの後に春菊、そして雲南百薬を抜いた(これは鉢に移植して冬越しさせます)後に、タマネギを予定しています。どの畝もフル回転です。 オクラの花 22日土曜日の「薬莱山とお足」の写真を、走友のT田さんがメールで送ってくれました。当日は雨が降って気温が下がり、とても走り易かったそうです。写真を見たら、例年より参加者数がかなり少ない感じ。雨を嫌ったのでしょうか。参加者の顔ぶれも少し老けましたね。懐かしい「三婆」の顔も見えました。私が送ったメールを、T田さんが懇親会で読み上げてくれたようです。ありがとうT田さん。いつも変わらぬ友情に感謝しています!! 12回連続で参加した記録がとうとう今回で途切れてしまいました。ランナーが走れなくなった時の淋しさや悲しさを味わう時が、必ずやって来るのですよね。でも会長のM仙人はじめ仲間の皆さんの元気そうな顔が、写真で見られて良かったです。来月の「秋田内陸ウルトラ100km」では、全員の完走を応援していますよ~!! この夏、部屋の気温を測定した温度計です。「第4回おらが村心臓破りフルマラソン」の参加賞で、立派な杉の木で作られています。「UMAJI」は高知県と徳島県の県境の山村、馬路村のことです。最大高低差は350mあり、コースの後半は高低差150mほどの坂を登ったり下ったりする過酷なフルマラソンです。私は同じ高知県の「四万十100km」の練習台として2度参加しました。いずれも松山勤務当時のことで20年以上前になりました。 この時は、松山から原付に乗って現地に行きました。途中の峠でバイクが故障し、麓まで惰性で降りて引き返し、バイク屋さんで中古の原付を買って、再び高知の馬路村に向かいました。片道180kmはあるでしょうか。翌日フルマラソンを完走後、再び原付で四国山脈を越えて松山に戻りました。これはそんな思い出のある温度計なんですよね。今夏の自室は最高34度もありました。夜も32度の日もありました。あの厳しかった夏が、今は夢のようです。 今朝はK病院へ行きます。過去2回不整脈の手術を受け、この春も救急車で運び込まれた専門病院です。昨日は止めました。月曜日は特に混み、7時間ほど待たされるためです。外来で通院してるM医院のドクターもここの出身。彼は3度目の手術を勧めてくれましたが、果たしてどんな結論になりますか。恐らくは24時間心電図を装着するはず。帰宅は遅くなり、コメントへの返事やブログへの訪問も遅れます。今日は急遽テーマを変更しました。では、皆様もご機嫌よう~!!
2015.08.25
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秋保(あきう)は仙台市太白区の郊外にある温泉地です。5月5日に私は自宅から12kmの距離にある秋保まで走り、その足で温泉から歩いて15分ほどの「秋保工芸の里」へ行きました。ここは6軒ほどの工芸店が集まって様々な工芸品を製作しています。早速見てみましょう。最初の店は主にこけしを作っています。 屏風を背にしたこけしは優雅ですね。 金屏風の前の金太郎さんです。 3人娘のラインアップ。 ネコちゃんと3つの童顔。 今日は、ちびちゃん達。 3匹の福招きねこ。背景に写っているのは工人のプロフィールです。 木の断面に描かれたこけしの絵が実に渋いですね。 福娘さんがそろったよ~!! 貫禄充分のダルマさん。 にこにこプンプン。 お店の中では男の子が1人、こけしの顔を描いていました。どうやら体験学習みたいです。きっと良い思い出になるでしょうね♪ これは2つ目の工芸店の外部に置かれた彫刻です。何だか不思議な雰囲気ですね。 2つ目の店の工房です。ここで工人が作品を製作しています。 工人のプロフィールです。本来は「江戸独楽」(えどこま)を作っていたそうです。 店内のディスプレーです。左は大きな算盤玉(そろばんだま)。右は凧(たこ)です。 どちらも独楽(こま)で、実際に回ります。 こちらも全てこま。なかなか面白いでしょ。一見楽しそうな製作現場ですが、どの工人も食べるために必死。なんとか売れそうなものを製作しています。この日も私のように、観て楽しむ客は結構多いのですが、実際に作品を買う客はそう多くはありません。厳しいですが、これが工芸の里の実態みたいですね。では、また明後日。<1日おきに続く>
2015.08.24
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6月20日土曜日。この日は松島湾に浮かぶ有人の島4つのうち3つを訪ねました。例年「みちのくラン」では、30kmほどのコースを走って来たのですが、仲間たちも歳を取って走れなくなったため、今回は初めてウォークになったのです。歩くのは5kmと聞いて参加したのですが、これは1か所5km×3か所で結果的には12kmほどだったでしょうか。あの時の写真がまだたくさん残っていましたので、改めてこの機会に披露したいと思います。 なお、昨日から始めた「秋保工芸の里へようこそ♪」も連日見ると飽きるので、この「松島湾の島々」と交互に公開したいと考えています。どちらも宮城県内のちょっとした観光気分を味わっていただけたら嬉しいです。 この船は塩釜市営の定期船です。スタッフ、走友合わせて60名がこの船に乗って松島湾に浮かぶ有人の島を訪ねます。 同じ船です。結構大きくて、私はデッキに立って、ずっと湾内の風景を撮っていました。 船の横にあるごく簡単な「航路」の一部です。 船が塩釜観光港から出航します。子供がデッキで餌をやると、たくさんのカモメが寄って来ます。本当は「餌やり」は禁止されています。カモメが増え過ぎて、その巣がある湾内の小島の松が糞で枯れてしまうためです。 ここからは松島湾に浮かぶ島々の写真が続きます。似たような風景で、飽きるかも知れませんが、どうぞよろしくお付き合いのほど。 松島海岸の遠望です。思い切りデジカメの望遠機能を使い、さらにPCの拡大機能を使っています。 この島は、最初に訪れた桂島です。「東日本大震災」の津波で被害に遭いましたが、美しい風景の島です。 桂島の海岸から見えた小島です。 再び船の上からデジカメで撮っています。 長年の浸食で削られた岩肌です。 沖に出ると、海水の色が濃くなって来ますね。 3番目に上陸した寒風沢島(さぶさわじま)の高台から見た風景です。 これも同じです。 これも同じ寒風沢島からの眺め。 湾内でカヌーを楽しむ人たちです。一日おきに松島湾の風景をお届けします。<続く>
2015.08.23
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秋保温泉遠景 5月5日「こどもの日」。私は自宅から仙台近郊の秋保(あきう)温泉まで12kmを走りに行きました。ゴールに近い磊々峡(らいらいきょう)では、素晴らしい峡谷美を楽しみ、ゴール後は共同温泉で汗を流しました。でも、それで終わりではなかったのです。着替えをしてさっぱりした私がテクテク歩いて向かった先は、「秋保工芸の里」でした。このシリーズでは、ここで撮ったたくさんの工芸品を紹介しますね。 工芸団地入口の看板です。秋保温泉から歩いて15分くらいの山中にあります。 団地の中に入ると、さらに「秋保石」の看板が。 向かって左側の工芸店です。 こちらは向かって右側の工芸店。この奥にも店があります。 ここからが最初の店です。こけしの看板(左)と暖簾(のれん)のこけし。 これも暖簾です。こけしのデザインに圧倒されますね。 こちらは本物のこけしがお出迎えです。 ここでは伝統的なものだけでなく、様々な表情のこけしを作っていました。 ほら、こんな表情も可愛いでしょ? どちらかと言えば、現代的な雰囲気のこけしですね。 観るだけでなく、買って行ってくださいね~、お客さん!! 大きな顔だけのこけしです。変わってますねえ。 可愛いこけしのトライアングル(三角形)。 こちらは小さなこけしのトリオです。 こけしにも色んなバリエーションがありますねえ。 今日は、のっぽのこけしさん。<続く> 今日8月22日(土)は、宮城UMCの仲間の合同練習会です。今頃みんなゴールの薬莱山目指して、雨の中を走っているだろうなあ。みんな頑張ってゴールしてね。応援してるよ~。
2015.08.22
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お盆休みが終わった翌日、いつもの循環器内科を訪ねた。血圧測定の結果を窓口に出すと、早めに処置室に呼ばれた。血圧も脈拍も明らかに異常値だった。「Aさん、手術を受けたらどうですか」。心電図を見たドクターが気の毒そうに言った。私は口ごもった。不整脈を止める手術はこれまで2度行ったが、いずれも術後1年以内に再発している。心電図をコピーしてくれた。いつでもこれを持ってK病院へ行って欲しいとのドクターの気持ちだ。 ここ2週間、私は一時服用を中止していた薬を飲むことで対応していた。その薬が無くなりかけて、このドクターを訪ねたのだった。だが彼によれば、この薬は不整脈を止めるものではなく、脈拍を遅くするためのものらしい。それでも私は苦しかった。ドクターは1日3回の薬を1か月分処方してくれた。これでまた薬が4種類に戻った。7月下旬から2週間ほどまあまあ快調に走れたのは、一体何だったのだろう。そう思いながら、家まで歩いて帰った。 終戦70周年を記念し、戦争の話をブログで取り上げた。自分の能力に余る重たいテーマ。それをあまり良くない体調の中で6回に亘って書くのは、実に苦しい作業だった。私にとっては真実であり、正義であると信じて書いたことが、他の人にはそうでないこともある。価値観は人や国によって異なるし、時代によっても異なる。ブログ友の皆さんには、「不快ならスルーし、無理にコメントしなくて良い」と書いたが、賛否の分かれるテーマに、最後まで良く着いて来てくれたと感謝している。 中には静かに去ったブログ友もいる。その方にとっては異論や違和感があったのだろう。そのテーマを取り上げる少し前から、パッタリと姿を見せなくなった。他のブログ友の所にはコメントしてるのに、私のブログには何の音沙汰もない。よほど苦しかったのだろう。そう思って感謝している。これまで長い間、どうもありがとうね♪ 甲子園での高校球児たちの戦いが、昨日で終わった。仙台育英は今回も優勝出来なかった。その前日、前評判の高かった早稲田実業に7対0と圧勝した時、エースの佐藤の表情に疲労の深い陰が見えた。きっとあれで全力を使い果たしなのだろう。私はそう感じた。だから決勝戦にはリリーフを先発させたらどうか。そう思っていたのだが、佐々木監督はその策は採らなかった。 一旦は東海大相模に追い付きながら、9回に相手のエース小笠原のホームランで力尽きた。でも、県大会の戦いぶから見たら、甲子園では良く頑張ったと思う。6月に肘を痛めて投げることが出来なかった彼がエースとして復活し、決勝戦の舞台に立てたのだから。間もなくUー18の世界大会が始まり、そのメンバーが発表された。佐藤投手もその中に選ばれていた。彼が味わった苦しみが、やがて生きる時が来るはず。私はそう信じている。 明日はウルトラマラソン仲間である「宮城UMC」の合同練習会だ。私は過去9回連続で55kmのコースを走った。不整脈が出てからは、往復110kmを3年連続マウンテンバイクで参加した。それだけ深い思い入れがあったこの練習会は、本来9月の100kmマラソンに向けての調整台だった。暑い夏の盛り、日陰のない田圃道を走るのは、体にとってはかなりきつい負担。それを乗り越えゴール後に入る温泉と、ビールが最高だったのだ。 7月下旬の練習も、そのためだった。レースに出られる体調でないことは、自分が一番良く分かっていた。だから最後の思い出として、ウルトラマラソン仲間と10kmでも良いから一緒に走りたかったのだ。だが不整脈が起き、その夢を叶えるのは不可能になった。ランニングを始めて37年目。そしてウルトラマラソンを始めてちょうど20年。いよいよ限界の時が近づいたようだ。 ここ2日ほど、畑で作業をしていた。収穫を終えた夏野菜を始末し、今はちょうど秋冬野菜の準備を始める時期。不整脈が起きて苦しい胸。一息毎に、ついうめき声が漏れる。そんな中での作業だった。あれほど豊作だったトマトも、ほとんど実が残っていない。一つも実のない苗数本を抜いた。ミニトマトの苗を1本。そしてモロッコインゲンの苗は全て引き抜いた。支柱を外し、雑草を抜き、何も無くなった畝をスコップで掘る。 厳しかったこの夏。ようやく猛暑は衰え、朝夕めっきり涼しくなった。だが、ボタンとカシワバアジサイが変色している。きっと猛暑で枯れてしまったのだろう。妻が植木を剪定したようだ。そのままになっている枝をひもで縛り、ゴミに出した。今日は午後から雨の予報。その前に出来たら肥料を撒いておきたいと思うのだが。 昨夜は久しぶりに夢を見た。何と自分がウルトラマラソンのレースに出て走っている夢だ。実はあまりの苦しさに、今日は朝からK病院に行く準備をしていた。そこは2度不整脈の手術を受けた専門の病院。診察を受けて、今後の指示を仰ぐ予定でいたのだ。だがレースの夢は、体調が少し良くなったために見たのかも知れない。今は少し動悸が治まっている。こんな風に体調がどう変化するのか、まるで見当がつかない体になってしまった。それも自分の運命として、受け入れようと思っている私だ。 筑波勤務時代の後輩からメールが届いた。麻雀大会の案内だ。昨年優勝した彼が今年の幹事。体調が悪かった私は3年間不参加だった。その間に妻を亡くした友、入院した友など、かつての悪友達にも色んな変化があったようだ。今年も病気で不参加の友がいると聞く。「後何年生きられるか分からないので、今回はぜひ参加して皆の顔が見たい」。私はそう返事を書いた。ホテルが取れず、開催は11月か12月になる由。その時の体調が果たしてどうかが問題だ。 中国の様子がおかしい。なり振り構わず人民元を切り下げしたり、株価を操作したりして世界の顰蹙を買っていると思ったら、今回は天津市で大規模な火災と爆発事故が起きた。どれだけの内容と量の危険物を倉庫に保管してるか、消防署も把握していないとは信じられない。これは先進国ではあり得ないし、真相も当局によって隠蔽された感がある。「中国経済は来年崩壊する」との識者の指摘が、ひょっとしたら現実になりそうな気もする昨今だ。
2015.08.21
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<写真特集> このシリーズも最終回になりました。今日は第二次世界大戦関係の写真特集にしてみました。当時の写真は、すべて仙台市歴史民俗資料館所蔵資料から借用させていただきました。 戦争のポスターです。右側の軍馬のポスターが逆向きになっていますね。 出征兵士(左)と竹槍の訓練(右)。竹槍では勝てるはずがありません。 満州における軍隊(左)と、満州鉄道の特急「亜細亜(アジア)号」(右)。 陸軍兵(左)と海軍兵(右) 飛行兵(左)と飛行機が載った当時の教科書(右) 勤労動員の婦人達(左)と「大日本婦人会」のポスター(右)。最後は大学生まで戦場に駆り出されました。 仙台上空から仙台市内に爆弾を投下する米軍機。これが「B29」でしょうか? 昭和20年8月15日。「玉音放送」を聞いて日本の敗戦を知る、国民の打ちひしがれた姿。 焼け跡と少女 焼け跡で炊事する婦人 おんぼろの満員電車。人々は電車に乗って「買い出し」に行ったのでしょうか。 仙台空襲で焼け残った旧陸軍第二師団の兵舎。 上の焼け残った建物が、現在「仙台市歴史民俗資料館」として、使用されています。 第二次世界大戦では、たくさんの尊い人命が失われました。悲惨な戦争は二度と行ってはいけませんが、国を守るための備えは不可欠です。慎んで戦争で亡くなった犠牲者の方々のご冥福を祈り、このシリーズを終わります。合掌。<完> 写真は仙台市歴史民俗資料館のトイレに飾られている「便所神」です。左が男の子の神様、右が女の子の神様です。実に可愛いですね。
2015.08.20
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<国を守ると言うこと> 8月13日。東京永田町の憲政会館において、安全保障関連法案に賛成し、早期成立を求める有識者の会見が行われた。メンバーは森本敏拓殖大学特任教授(元防衛大臣)、百地章日本大学教授(憲法学)、西修駒澤大学名誉教授(憲法学)、山田吉彦東海大学教授、西岡力東京基督教大学教授、桜井よし子(ジャーナリスト)の各氏である。百地教授は「憲法学者の立場から集団自衛権が国際法上の権利であり、法案は合憲であると説明したい」と話している。 日本で30年以上暮している国際弁護士のケント・ギルバート氏は言う。「国連憲章はすべての加盟国に個別的自衛権と共に、集団的自衛権を認めている」と。オーストラリアの首都キャンベラの「アンザス大通り」を思い出す。これはオーストラリアの「A」、ニュージーランドの「NZ」、それにユナイテッドステート(米国)の「US」の頭文字を取った軍事同盟の愛称。集団的自衛権の象徴だ。今世界は集団的自衛が常識。共同で防衛に当たるのはごく普通のことなのだ。 それに世界の各国では、憲法も必要に応じて改正するのが常識。法律が最優先ではなく、人間の暮らしや安全が優先されるためだ。イタリアの格言に「良き法律家は悪しき隣人」と言うのがある。法律だけを口やかましく言う人は、隣人としては好ましくないことを昔から知っていたのだ。法律は人のためにある。憲法も時代の要請に応じて改正するのが普通だが、日本では国会議員の3分の2以上の賛成が必要と、ハードルをかなり高くしている。 GHQの要請に応じて自衛隊を設立した時は憲法を改正せず、憲法の解釈を変えた。その時も論議になったが、憲法の解釈を変えるのも時代の要請とも言えよう。当然憲法の改正がベストで、解釈変更はベターだが、改正が困難である場合に解釈の変更を適用するとの考え方も現実にあったのだ。それを「戦争法案」と呼び、「徴兵制」に繋がるとか主張するのは論理の矛盾だ。 個別的自衛権だけしか保有しない国ほど徴兵制を敷くのが世界のすう勢。それは考えれば良く分かること。1国で守るのだからそうなるのが当然だ。だから集団的自衛権を認めたら徴兵制に繋がるという主張は、国際的には非常識になる。嘉悦大学の高橋洋一教授はそう話す。東京大学法学部の教授が「憲法違反」と言うと、一斉にそれに倣うのがこれまでの通例。それは日本の学閥の弊害でもあるのだが、マスコミはなかなかそれを指摘しない。 辺野古沖の工事を1ヶ月間中止して、沖縄県知事と政府との話し合いが始まった。私から見たら遅過ぎの感がある。もっと以前から沖縄県へは、防衛上の理由から米軍基地存続の必要性を何度でも説く必要があると考えていた。沖縄県知事は米国まで行って、辺野古移転反対を訴えた。だが、何の進展もなかった。当然のことだ。それはもう何年も前から国と国との約束として立案されたものだからだ。 辺野古移転は単純な計画ではない。老朽化して危険だとされる普天間基地の移転、嘉手納基地以南の米軍基地の返還、米軍海兵隊の一部グァム島への移転とも連動し、米国議会では予算措置も審議されたものなのだ。そのことは自民党沖縄県連幹事長を務めた翁長知事は良く知ってるはず。それを「米軍基地は抑止力にはならない」とする氏の発言はどう考えても不可思議でならない。 今回の法案整備を最も脅威に感じているのは中国。太平洋を2国で自由に使おうとする米国への働きかけは失敗に終わった。中国が太平洋に進出するには、沖縄の米軍基地が最大の邪魔者なのだ。だから抑止力にならない訳がない。戦後70年の間、日本が平和で繁栄したのは憲法9条のお陰ではなく、米軍が日本列島の安全を守ってくれていたからに相違ない。 沖縄の人は去る大戦で日本軍に見捨てられたと言う。いわゆる「沖縄捨て石論」だ。だが決してそのようなことはない。最後の官選知事は沖縄県民の安全を守るために獅子奮闘の努力をしたし、海軍沖縄方面司令官だった大田実少将は「後世沖縄県民には特別の高配を」と打電して自決した。 何よりも沖縄を救うために戦艦大和が出撃し、敵の襲撃を受けて東シナ海に撃沈した。また沖縄を敵艦の襲撃から守るため九州から飛び立って撃破された特攻隊機は1800機以上に及ぶ。だが、それでも沖縄県民は本土から見捨てられたと言う。沖縄のマスコミがことさら日本政府に批判的な記事を書くのは有名な話。狭い島内では、それが唯一の真実として伝わるのだ。 辺野古には普天間基地からの移転を歓迎する地元民が多い。だが、そのことはほとんど報道されない。1ヶ月間工事を中止しても、状況は何も変わらないと私は思う。防衛に対する意識がまるで違うのだ。沖縄には自ら守ると言う意識がない。きっと守る必要がないと言うのが本音だろう。だが、沖縄の奪還を狙う中国の野望は本物。中国共産党の機関紙とも言うべき「環球時報」にもそのことが明記してあるのだ。 外交上の理由で、安倍総理は「今度の法案整備は中国を相手に想定した」とは言えないようだ。ロシアは先日内務省の職員1万2千人を解雇した。ウクライナ問題でヨーロッパが天然ガスをロシアから買わなくなり、経済力が極端に低下したのだ。それでも日本の領土である島々を、ロシア国民に廉価で譲渡するプランを披露している。それも一つのポーズなのだろう。 北太平洋の公海では、中国、台湾、韓国の大型船が、サンマを根こそぎ網で掬っている。日本は列島沿岸に回帰するサンマを待つ漁法。これでは年々サンマが獲れなくなり、値段が高騰するのも当然だ。それらは全て国民が飢えるか食えるかの境目にあることを示している。領土も経済活動も全ては国民が安全に暮せるためにある。 論議のための論議、与党を追い詰めるだけで満足する国会であってはならない。法の整備も領土の保全も国民が安心して暮らせるためのもの。そして安全とは何かを、国民自らが考える必要があると私は思うのだ。<続く>
2015.08.19
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<戦争と欺瞞性> 進軍ラッパ 第二次世界大戦の引き金になった満州事変の発端は、日本軍の自作自演だったようだ。それ以来「大東亜共栄圏」を唱え、「八紘一宇」をスローガンにした。つまりは日本の主導の下にアジアは一つになり、欧米に対抗しようとしたのだ。完全な独立国は日本くらいしかなく、アジアの諸国は列強に支配されていた。日本が起こした戦争は、果たして西欧諸国の植民地政策とどれほど違っていたのだろう。 戦果は「大本営発表」として公示された。だが、その実態はどうだったのだろう。日本が勝った時は新聞も誇張して書き、負けた時は「転身」などのように表現した。戦線がアジア大陸から太平洋へと拡大して行く。真珠湾攻撃を発端とする日米開戦だ。 だが日本軍の暗号は全てアメリカに解読されていたそうだ。真珠湾攻撃も事前に知っていた。ルーズベルト大統領は、初めから日本の経済を封じ込めようとしていた。そのため、わざと日本に先制攻撃させ、戦争の口実を作ったようだ。日本の宣戦布告も、わざと受け取らなかったようだ。 物資の所蔵量が日米では大きな差があった。持っている情報量もアメリカが圧倒的に多かった。戦争が始まったばかりの時は日本軍が有利な局面もあったが、ミッドウエー海戦辺りからアメリカの優位は歴然となった。日本は陸軍と海軍がお互いの石油備蓄量を相手に教えずに戦争を始めたそうだ。輸送船団を攻撃されて補給路を断たれ、日本軍は次第に孤立して行く。沖縄戦でも敗れ、最後は爆撃機による本土空襲と、原爆投下で敗戦が決定的なものになる。 仙台空襲 昭和20年8月6日。広島に原子爆弾が投下された。その3日後には長崎も同じ運命を辿った。どちらも軍都として、軍の重要な機能を備えていた。だが被害に遭ったのは、軍人よりも一般市民の方が圧倒的に多かった。そして広島に投下されたのはウラン型であり、長崎はプルトニウム型の原子爆弾。タイプが異なるのがは、それぞれの威力を試したからだ。つまり広島と長崎は大量殺りくの実験台だったのだ。 原爆による広島の死者は、その後の後遺症によ死者も含めて約40万人。長崎は約20万人にも達した。これはまさに非人道的な殺戮だ。戦後広島にはアメリカが設立したABCCが置かれる。これは原爆の被害が人体にどう影響するか調査するもので、治療を目的とするものではなかった。自国への非難を恐れたアメリカは、その後で中国が唱え出した日本軍による「南京大虐殺」説に加担して行く。 「安らかに眠ってください。過ちは二度とくり返しませんから」。広島の爆心地には、そんな言葉が刻まれた石碑が今も立っている。原爆を落としたのはアメリカなのにだ。そして今も国内の原爆禁止運動は、「原水禁」と「原水協」とに分裂したまま。それが被爆国日本の実態だ。 「極東国際軍事法廷」それがいわゆる東京裁判の正式名だ。ここで旧日本軍の戦犯が裁かれた。人道に対する罪ではなく、「平和に対する罪」つまりA級戦犯として裁かれたのが東条英機以下の者。25名が有罪となり、そのうちの7名が絞首刑となった。国際判事のうち唯一無罪を主張したのがインドのパール判事。戦勝国の人間が敗戦国の人間を裁くのは公平ではないとの考えによるものだ。 一説によれば東条は昭和天皇の戦争責任の身代わりになることを覚悟していた由。インドには今も彼の銅像が建てられている。東条を始めとする日本軍の決起は、インド独立の基になったとの考えによる。インドネシア、フィリピン、中国などにも一部の日本兵が残り、彼の地の独立運動を援助した。「八紘一宇」が形を変えて実現したのだ。こうして第二次世界大戦が引き金になり、アジアの諸国のほとんどが西欧から独立した。 「南京大虐殺」は中国軍が外国人の新聞記者に書かせたものと言われている。日本軍の蛮行を世界に広めるためだ。最初は犠牲者数を20万人と言っていた。だが、日本政府が否定しないと見ると、次は30万人と言い出した。最近の主張ではこれが40万人に増えた由。元々南京市の人口は20万人。それを全員殺害するなど無理な話なのだ。彼らの主張によれば1日5千人以上殺した計算になるが、果たして死体をどうやって埋めたのだろう。 実態は市民の姿になったゲリラ兵を1万人ほど殺害した程度だろう。それがアメリカの「後押し」もあって、世界に事実として広まった。情報戦は人の良い日本がもっとも苦手とする分野の一つだ。 従軍慰安婦問題は吉田清治の著書で一気に広まった。それによれば旧日本軍が済州島で朝鮮人の若い女性200名を強制的に従軍慰安婦として連行したとのこと。それが朝日新聞の記事によって、一気に世界に広まった。朝日新聞は繰り返し連載して、これを事実として報道した。ところがその後で、吉田の著書が何の裏付けもないことが判明した。済州島でそんな事実がなかったことが、現地取材で判明したのだ。 ところが朝日新聞はその事実を伏せ、30年以上もそのまま放置した。その間に日本の人権団体などが国連の人権委員会に旧日本軍の蛮行を訴え、それが真実のこととして報告書にまとめられた。それを根拠に韓国はアメリカの地方都市などに韓国少女の従軍慰安婦像を建て始め、教科書にも載ることになった。 吉田清治氏は日本共産党の党員だった。そして朝日新聞の記事を書いた植村隆記者(現在私立大学所属)の妻は韓国人で、妻の母は韓国の従軍慰安婦問題の活動家の由。つい最近オーストラリアの地方都市でも、韓国人少女の従軍慰安婦像を建設する動きがあったが、住民の意識を分裂させるとして建設は否決された。その市は中国系と韓国系住民の合計が20数パーセント以上の由。そして韓国には、現在80歳の「元慰安婦」がいる。もしそれが真実なら、わずか8歳ほどの少女が毎日20名から30名の日本兵を相手にしたことになるのだ。 確か10年ほど前だと思うが、旧日本軍による人体実験の話が本になった。731部隊と言う名前の秘密部隊が、中国人を生きたまま医学実験の材料にしたとの内容だった。私もそのことを知って大変驚いたものだ。だが最近になって、その本に載った写真が全く事実ではなかったことが判明したそうだ。載った写真は明治時代に国内でペストが流行した時のもの。そして本の写真を提供したのが「赤旗」だったことも判明した由。 人間の世界にデマは付き物だ。まして戦争になったら、どんな手段でも使うのだろう。アメリカはベトナム戦争で大量の枯葉剤を空から撒いた。ジャングルに潜むゲリラ兵に手を焼いたためだ。だがその農薬のせいで、先天異常児がたくさん生まれた。日本で分離手術を受けたベトちゃん、ドクちゃんもその被害者だ。アメリカが日本の活発な捕鯨活動を批判し始めたのはその時からだ。自国への批判をそれによって逸らそうとしたのだ。大国による情報操作は、今日ますます盛んになっている。<続く>
2015.08.18
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<私が見た風景と戦争> 私は昭和19年の3月に生まれた。第2次世界大戦の最中である。従って戦争の記憶は全くない。私が見たのは戦後の風景だが、その風景を通じて戦争との関わりについて記そうと思う。なお、文中の写真はすべて、仙台市歴史民俗資料館の所蔵資料から借用したものである。 父は13人兄弟の三男だった。伯父の1人及び叔父の1人が戦死している。叔父の1人が満蒙開拓団に志願し、現地で開拓をしていたが戦後無事帰国。父はフィリピン方面に出征し、砲弾の破片で負傷。右足の膝から切断。いわゆる傷痍軍人として帰国した。私達兄弟には戦後生まれの弟を除いて、戦時に相応しい名前が付けられた。従姉の名は勝子。私と同学年だが、何年か前に亡くなっている。 母は父の出征中に知人にレイプされた。その後帰国した父との間に私と弟が生まれたが、戦時中の事件がわだかまりになり、弟が生まれて間もなく離婚した。私には幼い日に多分母だと思う人と手をつないだ、微かな記憶しか残っていない。 私の記憶に残る風景は、空襲後の焼け跡だ。母と別れて住んだ家の庭に畑を作り、そこにカボチャを植えてあった記憶がある。その後2度仙台市内を引越し、父は家を建てた。その近辺にも焼け跡があり、そこが私達の遊び場だった。現在の東北大学農学部のキャンパスだが、その構内の至る所に白いゴムが落ちていた。衛生サックつまり現在のコンドームだが、その時は何に使うものか知らなかった。道路は舗装されておらず、雨が降ると至る所に水溜りが出来た。 当然だが、防空壕に入った記憶はない。だが、戦後も仙台市内の崖のある所には、防空壕の穴が幾つも残っていた。だから防空壕の名前は聞いて知っていたが、現在はほとんど見かけない。空襲時にはきっとたくさんの人が逃げ込んで、生命の危機を免れたのだろう。先日の「ブラタモリ」で、頑丈な防空壕が今も残る家を見た。やはり広瀬川沿いの崖のある地区だった。 お祭りなどの行事があると、傷痍軍人が自分の負傷した体を「見世物」にして同情を買い、お金を恵んでもらっていた。彼らは傷痍軍人手帳を持ち、国から年金が支給されていたはず。父も傷痍軍人だったがこのようなことはせず、自分でお金を稼いだ。父は「闇屋」、お菓子屋、食堂、住宅経営などを手がけた。だが「もらい火」の結果多額の借金を作り、夜逃げした。浮沈の激しい人生で、私達子供もその影響を強く受けた。 浮浪児と言う言葉がある。戦争で身寄りを失い、自分達で自活していた子供たちだ。やがては孤児院に収容されたのだろうが、まだ路上生活者はいた。東京の地下道には、そんな人がたくさんいた。今で言うホームレスだ。戦争は家族を引き裂き、家庭を破壊する。私達兄弟も、それに近い経験をした。悲惨な時代だった。 子供の頃の記憶と言えば、空腹の記憶が強烈だ。ゴマ塩だけをかけたご飯。盗んだネギを刻み、醤油をかけただけのおかず。食糧は配給制で、数に限りがあった。サツマイモの茎に近い部分も食べた。そのサツマイモも農林○号と言う名の、とても不味い代物。そんな時代の救いが学校給食だった。ともかく小学校に行けば、給食で何かは食べられたのだ。脱脂粉乳だって私にはご馳走だった。それでも子供達はやせて、栄養失調寸前の体をしていた。 また学校では、頭からDDTをかけられた。これは「頭シラミ」を撲滅するため。現在の「枯葉剤」と同じ成分の毒薬だ。また学校では「虫下し」を飲まされた。野菜に付着した寄生虫の卵が体内で成長し、栄養を吸い取ってしまう病気だ。私は気持ち悪くて飲まなかった。父の体内から出た10匹ほどの回虫が、洗面器の中で死んだのを見ていたからだ。 桜の咲く校庭に整列して、山内校長先生の話を聞いた。「日本は独立した」。確かそのような内容だったと思う。昭和26年9月8日、日本はサンフランシスコ講和条約に署名した。これでようやく敗戦国日本が世界の仲間入りしたのだ。だが効力発生は翌年の4月28日から。きっと私の脳裏に残っているのはこの日の記憶。私は小学3年生だった。 この前、昭和25年の6月に朝鮮戦争が勃発した。ソ連と中国は北朝鮮を支援し、米国は韓国を支援した。日本に駐留していた米軍も朝鮮半島に駆け付けた。仙台市内でも軍事演習に向かうアメリカの戦車を、街中で良く見かけた。米兵は戦車の上から子供達に、チューインガムやコーヒーが入った袋を投げた。ガムは食べたが、「苦い粉」は捨てた。 GHQから日本が再軍備を求められたはこの時だ。自由主義諸国の仲間入りをした日本に再び軍隊を置き、何としても共産主義の拡大を防ぐ狙いがあったのだろう。平和主義を謳う憲法を強制された国に、再び30万人の軍隊を作ることを要請する大国。吉田総理は粘りに粘って3万人の規模の保安隊を置くことで妥協した。それ以上は日本の国力では無理と主張したのだ。それが現在の自衛隊の前身となった。 借金を作って夜逃げした父を追ったのは昭和29年の冬のこと。もう給食費すら払えないような状態だったのだ。中学2年の兄、小学5年の私、そして小学1年の弟の3人が、夜汽車と連絡船を乗り継いで四国へ渡った。数年ぶりに会った父が私達を見て驚く顔が今も忘れられない。その父も私が高校に入って間もなく脳溢血で死んだ。まだ40歳の若さだった。 父が作った財産の全てが3人目の母に奪われ、私達は再び故郷の仙台に戻った。優しい叔父の家に厄介になり、アルバイトをして何とか高校を卒業した。学校が休みの時は、複数のアルバイトをした。その後結婚した兄は35歳の時に脳出血で倒れ、その後も発作を繰り返したが今も存命だ。妻をがんで失った弟はその後転勤先の九州で出会った現在の妻と再婚し、そこで暮している。私は東日本大震災の年に不整脈を発症して2度手術を受けたが、今もその症状に苦しんでいる。 姉は35歳の時に事故死した。両親の離婚、そして父の夜逃げなど、最も多感な時期に家庭がなかった姉は、最大の犠牲者だったと思う。一人で高校や看護学校の入学手続きをし、学資をまかなった苦労は、並大抵のものではなかったはずだ。兄弟で一番頭脳が優れていた姉がたった一度だけ私の高校へ文化祭を見に来てくれたのが懐かしい。 父と別れた母は長く病院に入っていた。その母と最後に会ったのは、死の3日前だった。母の顔を見たのはそれが2回目。3回目は死後のことだ。もしも戦争がなかったら、父と母の人生、そして私達兄弟の人生も大きく違っていたはずだ。薄倖の人生を終えた母の顔が穏やかだったのが、せめてのも慰めだ。 今、父と母は同じ墓に眠っている。姉の遺骨も分骨して、父母と共に眠っている。それは兄の考えによるものだ。お墓は私達兄弟がお金を出して作った。私もいずれそこへ入る予定でいる。その時に父母や姉と何を話すか、今から楽しみにしている。<続く>
2015.08.17
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<日本と戦争> 人は生まれる国も、生きる時代も自分で選ぶことは出来ない。そして政治家でない者が政治を語り、歴史家でないものが歴史を語れば、齟齬が生じるのは当然だろう。それでも私達は過去の戦争について語り、記す必要があるように思う。人はなぜ戦うのか。日本はなぜ戦ったのか。過去の歴史を紐解くのは容易ではない。まして価値観は時代によって異なり、国や個人によっても異なる。難しいことだが、敢えて私の視点を記してみたい。 日本と外国の戦争は、奈良時代の新羅が最初だったと認識している。朝鮮半島に領土を持っていた日本は百済と友好関係にあった。だが、百済が新羅と戦争になり、日本軍も援軍を出して白村江などで戦って敗れた。新羅軍の侵攻を恐れた天智天皇は都を近江に移し、大宰府周辺の大野に水城と山城を築き、瀬戸内海沿岸にも朝鮮式の逃げ城(山城)を築いた。この時は幸いにも日本への侵攻はなかった。 次の戦争は鎌倉時代。モンゴル人が建国した元が、朝鮮半島の高句麗を従えて日本に侵攻して来た。日本が元の臣下になることを拒否したためだ。これがいわゆる元寇で、弘安の役など2回あった。博多周辺に防備のための土塁が築かれ、全国から武士が北九州に駆け付けた。対馬と壱岐の住民のほとんどが、この時殺戮された。仙台周辺からも武士が九州に赴き、このうちの何人かが死んでいる。 2回とも季節風(台風)が吹いて元と高句麗の船団は大破沈没して事なきを得たが、まさに日本の危機だった。日本は刀や槍で戦ったが、相手は火薬を使った火器を持ち、船も大きくて頑丈だったのだ。この時の季節風を「神風」と呼んだ気持ちが分からなくもない。 次の戦争は安土桃山時代。全国を統一して天下を治めた豊臣秀吉は、武将に与える恩賞の土地が国内に無くなり、朝鮮半島を侵攻した。元寇同様、相手にとっては迷惑な話だ。2度玄界灘を渡って朝鮮半島で戦ったが、地の利なく日本軍は破れた。この時かの地から陶工などの技術者を引き連れて帰国した。薩摩焼の祖、沈寿官氏の祖先などがそうだ。この時殺戮した朝鮮人から削いだ耳や鼻を祀った「耳塚」が、今も京都に残されている。老人の妄想から生まれた意味のない戦いだった。 鎖国していた日本にとって、幕末期の諸外国の黒船渡来は青天の霹靂ではなかったか。それ以前、大航海時代から西欧列強の世界進出が始まり、インドや東アジアはその手で支配されていた。中国も列強特にイギリスによって蚕食され属国化していた。わずかに開港していた長崎や平戸を通じて、その事実を知っていた日本も国内で攘夷論が盛んになった。長州藩や水戸藩では対立する派閥同士で殺し合いが始まった。わが国最大の危機を救ったのは、洋学の知識と下級武士の決起だったと思う。 フランスが幕府側に付き、イギリスが薩長側に付いたが、直接列強同士の奪い合いにはならなかった。多大の犠牲は払ったが、ともあれ日本は近代国家への仲間入りを果たし、アジアで唯一の先進国への道をひた走ることになる。この時に採られた政策が、いわゆる「富国強兵」策だ。 日清戦争で勝った日本は勢いに乗って、「南下政策」を採る大国ロシアを相手に戦争を始めた。近代国家日本を脅かすと考えたからだ。無謀な戦いだったが、ギリギリのところで勝った。この2つの戦争での勝利が、その後の日本軍を狂わせたのだろう。小国日本が大国を次々に破り、国民も先進国の国民となったことに酔いしれた。教育制度、軍の整備、科学技術の振興。明治以降次々に実行して来た近代化の勝利とも言えるが、奢りもあったのだろう。 第一次世界大戦で、日本は戦勝国の仲間入りをした。そのことがさらに国力の増強と、軍備拡張に繋がったと思う。紙数の関係で今日は第二次世界大戦のことについて書かない。70回目の終戦記念日を前に、この1週間私はテレビの特集番組で様々な映像を観た。そのほとんどが初めて観る内容だった。その感想だけを、以下に記しておきたい。 空襲による仙台市街の焼け跡1)戦争には原因と理由がある。2)戦争には相手がある。3)戦争には結果的に良い戦争も、悪い戦争もない。4)戦争はたとえ勝ったとしても、その犠牲が大きい。5)原爆投下や爆撃機による無差別的な爆弾投下は、人類への犯罪行為である。6)戦勝国による「東京裁判」は、決して公平な内容ではなかった。7)それでも戦争は絶対に起こしてならない。 戦争に美しいものなどない。第二次世界大戦で死んだわが国の軍属は約240万人。そして一般国民の数は約80万人。合わせて320万人の尊い命が失われた。これは人類史上過去最高の犠牲者数らしい。それにこの戦争で亡くなった外国の犠牲者数を加えたら、果たしてどのような数字になるのか恐ろしいほどだ。改めて戦争の愚かしさを思う。<続く>
2015.08.16
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本日第2弾。メインは下↓にあります。第70回目の終戦記念日の仙台の正午の空です。これからも平和な日本であることを祈ります。
2015.08.15
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<注意>このシリーズには政治的な内容が含まれています。人によっては不愉快と感じることもあるかも知れませんので、スルーしてください。またブログ友の皆さんも、無理にコメントする必要はありません。そのことを予め記しておきます。 体の異変に気付いたのは、確か8月6日の未明だったと思う。その時はまだ微細な症状しか出なかったが、翌日から胸が苦しくなった。久しぶりの不整脈の発生だ。動悸、目まい、胸のむかつき、そんな不快さに耐えながら取材し、ブログを書き続けて来た。「このままでは危ないな」。そんな風にも感じていた。ここ数年、年に何回かこんなことが起きる。こうなるととても運動するどころではない。ただじっと、苦しみに耐えているだけだ。 私の不整脈のパターンは3つほどある。強烈なもの、微細なもの、そして突然現れ、突然消えるもの。今度のものは、どうやら最後のタイプのもののように思う。2度の手術と1度の処置でも退治し切れなかった不整脈。暫く飲まないで保留してあった薬を、自分の判断で飲んでいる。お盆の今は病院が休み。来週になったらいつもの循環器内科を訪れ、相談したいと思う。恐らくは心臓にペースメーカーを埋めるしか手がないように思うのだが。 今日は8月15日。70周年目の終戦記念日だ。第二次世界大戦の敗戦国となった日本。そのことをどう捉えるべきか。そして、今後わが国が国際社会の中でどう進むべきか、そんなことをこのシリーズでは考えたいと思っている。自分の手に余るテーマだ。だがそれは後何年も生きられない世代として、当然の責務のようも思える。昭和19年の3月生まれの私は、戦争の記憶はない。だからこれから書くことは、自分なりの経験と考えに頼るしかなく、そのことを最初にお断りしておきたい。 昭和天皇を演じた本木雅弘 過日1本の映画を観た。タイトルは『日本のいちばん長い日』。太平洋戦争の最終局面で、どうしたら戦争を終結させられるか鈴木貫太郎内閣は苦慮していた。沖縄の地上戦も芳しくない状況。国内の主要都市はB29などによるアメリカの空襲で焼け野原になっていた。そして広島と長崎へは新型爆弾の投下があり、甚大な被害が出ていたのだ。これは大元帥である天皇陛下の聖断を仰ぐしかない。日本最高齢の首相はそう判断する。 鈴木貫太郎首相に扮した山崎努 阿南陸軍大臣に扮した役所広司 天皇は自分の名で始められた戦争を、自分の手で止めたいと希望を漏らす。当然軍部は反対だ。特に血気盛んな若い将校達は、最後まで本土決戦を貫こうとする。かつて天皇の侍従を勤めたことのある阿南陸軍大臣は板挟みになるが、天皇の意思は堅いと観て、陸軍を騙す。こうして皇居の一隅で密かに「玉音放送」の準備が行われる。それを何とか手に入れようと皇居に乱入する青年将校達。それを宮内省(当時)の職員が何とか誤魔化す。 戦争の終結に関してこんなドラマがあったことを、この映画で初めて知った。近現代史を授業で習ったことがない私は、戦争の実態すら自分で学ぶしかなかったのだ。第二次世界大戦に関するわが国の責任をどう見るか。それには様々な評価があり、様々な意見があると思う。だが、不幸なことに人類の歴史の中でも戦争がなかった期間はほんのわずかだけ。人間とは常に戦争をしたがる動物であることを、肝に銘じておく必要がある。 昨日の夕刻、安倍総理の談話が発表された。終戦50周年に際して発表された「村山談話」、そして60周年に際して発表された「小泉談話」に続くものだ。これにも色んな評価があると思うが、私の受けた印象ではとても好感が持てた。ゆっくりと記者席を見つめ、そして原稿にはほとんど目を落とすことなく、自分の言葉で語っていた。あれは自分で原稿を書いたからこそ出来た行動。私はそう確信した。 米国議会での演説にも感心し、感銘を受けたが、今回の談話にも私は感動した。一国の総理があれだけの世界観、国家観、政治観、そして戦争と平和に関して深い洞察を持っていることに、感じるものがあった。「有識者会議」の提言を基にした内容で、総理自身はもっと他に言いたいこともあっただろうが、内容は抑制が効いて適切だったと思う。今朝の新聞では酷評もあるかも知れないが、アジア諸国をはじめ国際社会に歓迎される内容であることを、私は確信した。 格調の高い演説。そして一つ一つの言葉の背後にある国際状況も、私にはとても良く理解出来た。本当は名指しして抗議したい国際問題も、総理自身にはあったと思う。それを抑えながら、有識者会議の見解を受け入れ、総理自身の言葉で今後のわが国の国際貢献と、積極的平和主義の推進とを世界に訴えた。過去の幾つかの「談話」を、遥かに凌駕した立派な内容だったと高く評価している私だ。<続く>
2015.08.15
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今日も最初は色別の吹き流しをお楽しみくださいね。 <オレンジ系統> <レインボーカラー> <変わり種その1ギャル飾り> こんなデザインの吹き流しはビックリしますよねえ。 <変わり種その2キュービック> これが全体像です。いや~っ、驚きました。まさに前衛芸術。こんな「吹き流し」が飾られたのは初めてのこと。前代未聞です。仙台七夕もいよいよ未来志向になったのでしょうか? さて、最後は人通りを中心にした写真を幾つか載せますね。 いかがです?楽しんでいただけたでしょうか。仙台七夕の画像は後1回分残っているのですが、それはいずれ紹介するとして、明日からは新しいシリーズを開始したいと思っています。引き続き、どうぞお楽しみに~!!<不定期に続く>
2015.08.14
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今日からお盆ですが、まだまだ暑い日が続いていますね。どうぞ皆様も暑さに負けず、何とかこの夏を乗り切ってくださいね。さてこのシリーズもいよいよ6回目。今日から系統別に分けた吹き流しをご紹介しますね。特段の説明はありませんので、楽しんで見ていただければ幸いです。 <白系統> 仙台七夕の吹き流しの色は、元々この真っ白いものから始まったようですよ。 吹き流しに和歌が書かれています。 こちらには「すずめ踊り」の写真が入っています。 白系統というよりも、青系統と言うべきか。 <黄色系統> <緑色系統> 私は緑と茶色が大好き。だからこんな配色は良い感じがします。 あるデパートの吹き流しです。普通のものは5本ですが、ここにはその倍近く飾られていますね。この色の組み合わせが、私は最も好きかも。 <青色系統> いかがでしたか。色別も案外楽しめるでしょ?でも、最近は単純な色ではなく、微妙に混じって変化した色合いが好まれているようですね。さて、明日はどんな七夕が観られるかな。どうぞお楽しみに~♪<続く>
2015.08.13
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さて、今日も吹き流しの細部から始まります。先ずはそれぞれのデザインをお楽しみくださいね。 「吹き流し」にはハートマーク、和服姿の女性、スイカ、花と蝶々、アルファベット、花火、「すずめ躍り」の少女などが見えますね。 次の仙台七夕の「7種類の飾り」を見てみましょう。 7種類の飾りに関する説明が書かれています。字が小さくて分かりにくいので、以下に個別に記します。 1)吹き流しは元々白い和紙で作られていました。七夕は機織り姫織女星のお話なので、糸を象って飾り、祝います。 2)折り鶴はその家で一番年長者の歳の数だけ折って、長生きして下さいとの願いを込めて飾ります。 3)短冊(左)は願い事を墨で書き、その願いが叶うよう、また字が上手になるよう祈って飾ります。4)打ち網(右)は魚を獲る網を象っています。豊年、豊作、大漁を祈って飾ります。 5)巾着(きんちゃく)はお金を蓄え、無駄遣いをしないよう祈って飾ります。 屑籠(上)と打ち網(下)6)屑籠(くずかご)は七夕飾りを作って余った紙屑を入れて吊るし、物の始末や整理整頓を教えます。 7)着物は自分達の身を守ってくれる着物にお礼をし、女の子の裁縫が上手になるよう祈って飾ります。 左から着物、打ち網、巾着、吹き流しの原型です。 左から着物、屑籠、打ち網、巾着、折り鶴の5種類が飾られています。 これは各家庭で飾られる七夕です(仙台市歴史民俗資料館にて撮影)。繁華街のような豪華さはありませんが、素朴で親しめる飾りです。このような飾りが、かつては街に溢れていました。今でも中心街から少し離れた商店街で、素朴な七夕を飾っている所が何箇所か残っています。<続く>
2015.08.12
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仙台七夕は毎年8月6日から8日までの3日間開催されるのが恒例です。そしてその3日間には必ず雨が降るのがこれまでのジンクスでした。でも今年は雨が降ったのでしょうか。私には降らずに、何の影響もなかったように思いました。猛暑の今年は観光客の出足も鈍かったようですが、7日からは少し涼しくなって出足が延び、最終的には217万7千人の人出だったようです。 さて今日は「吹き流し」のデザインの一部を載せようと思います。豪華な吹き流しの全体を観ても美しいのですが、実はその細部には色んな工夫が凝らされています。それをじっくり見ていただくのが今日の目的です。 最後の大きな写真は、「奥の細道」で東北を訪ねた松尾芭蕉と弟子の曾良の旅姿です。このように吹き流しの細部は見れば見るほど面白く、私は毎年写真を撮るようにしています。今はこのように豪華な吹き流しも、江戸時代に始まった仙台七夕では、ただの白い和紙だったそうです。それが今は化学繊維なども使用されて、とても色彩豊かで多彩なデザインに変わっています。これも時代の変遷でしょうか。<続く>
2015.08.11
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8月6日から8日までの間に開催された仙台七夕をお送りします。私は6日の午前中に取材に行きました。仙台七夕は毎年「月遅れ」での開催が恒例で、江戸時代から続く伝統行事です。仙台駅から始まって、中央通り、そして一番町を歩きました。今は一番町を北上中です。これぞと思ったものを撮っていますが、似たような写真が多くて済みません。 この辺はアーケードがない部分で、風が吹くと「吹き流し」が風にそよぎます。 アーケードのある部分には、こんな可愛らしい吹き流しが飾られています。 吹き流しの上の部分を拡大して見ました。涼しげなペンギンが飾られていますね。 こちらは吹き流しの上の部分が「こけし」になっています。 その部分のアップです。 風があると飾りにも動きが出ますね。 これはあるお茶屋さんの店の前にあった「仕掛け」の部です。人や機械の手で動かした「仕掛け」が50年ほど前までは街中の至る所で見られたものです。そして七夕飾りとは別の種目として、入賞の審査が行われていました。それだけ庶民の娯楽が乏しい時代だったのですね。 浴衣姿のTV局のアナウンサーが七夕の様子を伝えています。(左)外国人の彼と日本人の彼女。(右) 東北楽天の巨大なユニフォームがアーケードの天井に。(左)取材中の私です。不味い顔で済みません(右)明日からはぐっと趣向が変わります。どうぞお楽しみに~♪<続く>
2015.08.10
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東北の夏を彩る仙台七夕が今年も8月6日から8日にかけての3日間開催されました。私は初日の6日(木)の午前中に取材に行きました。まだ人通りが少ないため比較的自由に歩け、しかも飾りが新しいため写真写りが良いためです。市内で飾られる七夕の本数は3千本。3日間の人出は合計で210万人と予想されていたのですが、果たしてどうだったのでしょうね。私は仙台駅から中央通りを西に向かいながら、目についた飾りの写真を撮っています。今日もその続きです。 仙台七夕は江戸時代から続く伝統行事です。昔は各家々で手作りの七夕飾りを飾ったものでした。素朴でそれなりに素敵な雰囲気があって、私は好きでした。現在は中心街での観光用の豪華な飾りが有名で、飾りは専門業者への外注がほとんどです。その中で、昔ながらの手作りの素朴な七夕飾りを出している商店街もわずかながら残っています。でもそれを楽しんでいるのは地元の方ばかりのようです。 「吹き流し」は5本で1セットです。素材はかつては和紙が中心で、雨が降ると壊れるため慌てて取り込む風景が見られたものです。その後、吹き流し全体をビニールで覆ったり、雨で濡れても壊れにくい化学繊維の使用も目立つようになりました。雨に濡れる心配のないアーケード街では、昔ながらの和紙を用いる飾りもまだ多いと思いますが、素材やデザインは年々変化していることを強く感じます。その分経費は高くなっているでしょうね。 赤い折りヅルが良く目立っていました。 良く見ると、吹き流しの頭がこけしの形をしています。 中央通りから右折して1番町に入りました。ここから北上して市役所方面に向かって歩きます。 アーケードのある中央通りでは、高さの関係で七夕飾りが平行に飾られていましたが、一番町のアーケードのない(高い)部分では竹が斜めに立てられています。この方がやはり迫力がありますね。そして風が出ると吹き流しも揺れて、なかなかの風情が味わえます。 アーケードがある部分には、このような可愛らしい吹き流しが飾られています。これはこれで楽しいですね。さて、残念ながら今日はこれで写真を載せる容量に達したようです。続きはまた明日。明日からは少し変化をつける予定でいます。どうぞお楽しみに~!!<続く>
2015.08.09
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猛暑である。熱帯夜である。連日の炎熱地獄が寝不足をもたらし、再び男の不整脈を蘇らせてしまったようだ。8月6日木曜日。この日から仙台七夕が始まった。前夜は恒例の花火大会なのだが、男の家からは山が邪魔になって、時々それらしき音しか聞こえないのである。さて、それはともかく熱心なブロガーでもある男は、読者サービスのためにも街へ取材へ行こう。そう考えた。何せ豪華な七夕飾りは中心街の目抜き通りが中心なのだ。 そこで男はバスと地下鉄を乗り継いで、先ず仙台駅へと向かった。何故ならそこはたくさんの観光客が集まる場所であり、かつ駅の構内には仙台藩祖である伊達政宗公の巨大なステンドグラスがあるからだ。先ず政宗公に敬意を表するのが仙台市民としてのエチケットであろう。どうやら男はそんな風に思ったようだ。(馬に乗った政宗公は一番上の左側に居るんだよ。そしてその下に丸く見えるのが、七夕の吹き流しみたいだね。) それに駅の構内には、結構豪華な吹き流しがあることを、男は経験上知っていたのだ。 今年はどんな飾りが出ているか。それを自分の目で確かめるのだ。 駅には全部で4つの吹き流しがあった。 それらは全て企業の提供によるもの。きっと提供企業にとっても社名をアピールする良い機会なのだろう。 駅から一番近い「中央通り」へと歩いて行く。ここからが仙台の中心街で、豪華な七夕飾りが観られる。だが初日の午前中なので、まだそれほどの混雑はない。それが男の狙い目だった。飾り付けが済んだばかりの吹き流しは、まだ新しくて写真写りも良いんだよね。男は思わずほくそ笑む。 人間の目には良く見えるのだが、アーケード街では若干暗く写る。そのため逆光にならないようここからスタートした訳だ。 七夕飾りはこれぞと思ったものを対象に、どんどん撮って行く。それは男の長年の勘のようなものだ。 仙台市内の飾り竹は、全部で3千本とかニュースで言っていた。そして3日間の人出は合計で210万人に達するらしい。 男は次々にシャッターを切る。少し暗いようだが、ちゃんと見えるかな。そんな心配をしながら。 たまには横でなく、縦方向にも撮ってみる。出来るだけきれいに見えた方が良いもんね。 さ~て、写真は何枚載るだろうね。今日は限界ギリギリまで載せるつもり。 この中央通り商店街では飾り竹を平行にしているためあまり躍動感はないが、その代わり豪華には感じるかも。 これはプロサッカーチームJ1の「ベガルタ仙台」を応援する飾りのようだ。 ほら、選手やサポーターの顔写真があるでしょ♪ ここかは何も書かないから自由に観てね。さて、後いくつ載るだろうね? やあ残念。ここで容量が尽きたみたいだねえ。明日はこの続きだよ。どうぞお楽しみに。 <続く>
2015.08.08
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「雲井の流れ」から歩き始めた奥入瀬渓流も、とうとう今日でゴールになります。8回シリーズでお届けした「十和田湖と奥入瀬川の旅」、そしてそれとは別に「奥入瀬の涼風をあなたに」が今日で4回。読者の皆様には長い間、良くお付き合いいただいたことに感謝しています。 今日本列島は猛烈な熱風に曝されていますが、日本が誇る国立公園であり、天然記念物でもある奥入瀬渓流の素晴らしい風景をご覧になって、少しでも涼風を感じていただけたら幸いです。 奥入瀬には、手つかずの森が大事に残されています。これらの樹が、美しい渓流の源とも言えるでしょう。なぜなら、ブナなどの樹木は幹の中に多くの水分を保有するだけでなく、大量の落葉が森に降った雨を蓄え、やがて年月をかけて清流として注ぎこむからです。 国立公園内では、生えている一本の樹まで大事に扱われています。この小さな木の橋を架けるに際しても、適当な大きさの穴を開けて、樹木の成長を阻害しないように工夫されています。 国立公園の中では、全てのものがその構成要素です。岩や樹木もその例外ではありません。 私達が昼食を摂った涼しい木陰です。 誰もいない小さな木の橋に座り、奥入瀬の渓流を観ながらの昼食は、まさに至福の一時でした。 良く見ると、中にはこんな面白い形をした樹がありますよ。 ひっそりと隠れるように置かれていた遊歩道のベンチ。これも風景にマッチした木製のものでした。 奥入瀬の流れがかなり緩やかになって来ました。きっと平地が近くなったのでしょう。 いやいや、まだ白波が立つ瀬がありましたよ。 森で咲いていたフタリシズカ(左)とホウ(朴)の花(右)です。 標識が立っています。焼山まで残り1.4km。ゴールは近そうです。 川の周囲が少し開けて来たように感じます。 美しい奥入瀬渓流よ、ありがとうね。約9kmほども歩いた遊歩道とも、そろそろお別れの時が近づきました。 さようなら奥入瀬。ありがとう奥入瀬。おまえの美しい景色、これからもずっと忘れないからね~!! 奥入瀬の森を抜けると、6月初旬の里ではエゴの花(右)が静かに咲いていたのでした。これで十和田湖と奥入瀬渓流の旅の話はお終いで、明日からは「仙台七夕」の特集が始まります。どうぞお楽しみに~♪そして読者の皆さまも暑さに負けず、どうぞお元気でお過ごしくださいね~!!<完>
2015.08.07
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昨日の仙台の最高気温は36.6度だった。相変わらずの猛暑続きで、私の部屋の室温は34度まで上がった。これもこれまでの最高記録。ありがたくない記録ではある。暑さに強いはずのゴーヤは生彩を欠き、実も柔らかくなっている。普段は水を嫌うトマトも、葉が萎れて元気がない。そんな訳で、畑への散水が毎日の日課になっている。 今は7月6日の深夜0時52分過ぎ。あまりの暑苦しさに目が覚めてしまった。仕方なく起きてブログを更新しようとしている。現在の室温は29度。これでも日中より5度下がっている。 さて、今年も8月に入って、いよいよ東北の夏祭りが始まった。青森の「ねぶた」、盛岡の「さんさ踊り」、秋田の「竿灯まつり」、山形の「花笠おどり」、福島の「わらじ祭」そしてわが仙台では「七夕」が今日から開催される。そんな訳で、今日は6月下旬に旅した青森のねぶたを紹介したい。 さて名称だが、青森では「ねぶた」(Nebuta)、弘前では「ねぷた」(Neputa)、五所川原では「立ちねぷた」(Tachi-Neputa)と呼ばれている。 ねぶたの起源については、最近では宗教的な行事である禊祓い(みそぎはらい)に由来するとの説が有力。除災行事としての「眠り流し」、星祭としての「七夕」、そして「盆行事」の影響などを受けて、今日の姿になったようだ。 掛け声は「ヤーレ、ヤーレ、ヤーレヤ」。「ラッセ、ラッセ」、「ラッセラー、ラッセラー」、「ヤーヤドー、ヤーヤドー」など多様。 これらは五所川原市の「立ちねぷた」。 JR五所川原駅構内に、これまでの主な作品が展示してあった。 この時期になると、きっと青森県人の血が騒ぐのだろう。街には乱舞の列が続く。 照明が入ると、暗さの中で一層ねぶたの豪華さが増す。ねぶたは青森県人の魂の祭典だ。 今は豪華なねぶたも、本来はこのような素朴な祭だったのかも知れない。 これは青森県立郷土館で観たねぶた。JR青森駅傍のねぶたの家「ワ・ラッセ」では、常時数台のねぶたを観賞することが出来る。 「ラッセラー、ラッセラー」。どこからかあの掛け声が聞こえて来そうだ。 青森県内の各市町村では、合計で43種類もの「ねぶた」が行われている由。今の時期の青森は、まさに「ねぶた」一色に染まり、熱狂に包まれる。 さて、今日8月6日から8日までの3日間は、「仙台七夕」が開催される。これから二度寝して、今日は取材に行くつもり。写真掲載は整理後の8日(土)からになる予定だ。乞うご期待!!<完>
2015.08.06
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あまり言いたくはないのですが、連日の猛暑、凄いですねえ。仙台は昨日35度を超えたようです。今日も猛暑日で、明日は36度超えの予報です。昨日部屋の温度を測ったら33度もありました。その部屋で私はほぼ一日過ごしています。今朝の室温は28度。これでは熱帯夜ですよねえ。それでも何とか眠れているので、助かっているのでしょう。 きっと今は日本中がそんな状態なのでしょうね。少しでも涼風を味わっていただくために、今日も6月初旬に旅した、奥入瀬渓流を特集しますね~♪ ここは「石ケ戸」と言う名所です。昔この岩屋に山賊が住みつき、旅人を襲ったとの伝説があるのですが・・。 ほらね。ちゃんと「案内板」があるでしょ♪ 清冽な奥入瀬渓流、やっぱり良いですね。でもひょっとして、最後の写真で一気に涼しくなったかもねえ♪<続く>
2015.08.05
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暑中お見舞い申し上げます。 昨日の朝、目が覚めたら頭痛が酷い。どうやら寝ているうちに軽い熱中症に罹ったようだ。とりあえず濡れタオルを頭に結んで、朝の作業をしていた。庭掃除、布団干し、洗濯物干しなどだ。そのうちいつも首に巻いてるタオルがないことに気付いた。慌てて探したが、どこにもない。変だなあ。どこへ忘れたのだろう。そう思って、そう言えばさっき頭に巻いたのを思い出した。その時には、すっかり頭痛が治まっていた。 私の部屋は2階の南側。ベランダが風の通りの邪魔をする。西の端でもあるので、午後は西日も当たる。そうやって一日中太陽に照らされた熱気が、夜も冷めてくれないのだ。それにパソコンの熱気と、大型テレビから発する熱気も重なって、室内でも30度にはなっている。勿論出来るだけ涼しい恰好をし、水分も摂ってはいるのだが、このところの猛暑が相当体には堪えているようだ。 少し前に発表された気象庁のデータによれば、7月の仙台の気温の平均値は29度台だった由。東京よりは少しだけ低かった。だが、例年の平均気温に比べると、東京が少し低いだけだったのに対し、仙台はほぼ4度ほど高かった由。いつもはもっと涼しい仙台が、今夏は猛暑に曝されていることが分かる。最近はしょっちゅう救急車がサイレンを鳴らして通り過ぎる。病院に搬送される人の数も、東京より多いのだとか。 この暑さで、畑のキュウリが枯れてしまった。せっせと水やりをしていたのだが、とうとう命が尽きたようだ。岳父の形見のボタンも枯れてしまったように見える。暑くて苦しくなったスズメが畑に来て、トマトを突き出した。キュウリもトマトもこの夏は大豊作だったが、今は貴重な存在。それを突かれては堪らないので、最近では赤みが差して来たら直ぐに獲るようにしている。 最近好調なのは、ミニトマトとゴーヤだ。それにバナナと牛乳を入れて、ジュースを作って飲んでいる。栄養もあるし、食物繊維も十分に摂れる。お茶漬けには自家製の梅干し、それにキュウリの古漬けにミョウガを刻んだものを混ぜて食べる。これが食欲増進に良い。酸っぱ味があり、適度の塩分があるもの。夏はこれに限る。大量の発汗で失った体内のミネラル分を、これで補えると思うのだが。 7月下旬から目下13日連続で走っている。距離は7kmから11km程度と短く、ほとんどはまだ涼しい朝のうちのことだ。走って帰宅すると、体重が1kg以上落ちている。その分だけ汗をかいた訳だ。だが、直ぐに水分を補うために、また体重は元に戻る。先日はコース途中の写真を撮りながら走ったので、いずれブログにも載せたいと思う。昨日の朝の頭痛は、ひょっとしてランニングの疲れが出た可能性もわずかだがあるかも知れない。 先日は古いランニングシューズを洗って干した。これはもう十分に使いこなして、底が減っている。長年の酷使に耐えてくれたお礼の意味もあった。最近薬局でサプリメントと消炎剤を買った。これも猛暑の中で体を酷使することへの償いの意味もある。頑張ってくれている体へのお礼とも言えよう。もう決して若くはない私の体は、所々に痛みも感じる。それをこれまでの経験で、出来るだけ無理のない形で長持ちさせている。つまりはゆっくりランだ。 体調が悪くてほとんど走れなかった昨年の夏に比べたら、今年の夏はまだ調子が良い方だろう。だが、無理は禁物。慎重に判断し、秋に疲れを持ち越さないようにしないとね。それに今月下旬には、是非とも挑戦したいことがあるのだ。今はそれに向かって準備中。そんな訳で、昨日も夕方からM公園に早歩きをしに行った。大好きなクサギの花が、猛暑の中で、元気に咲いていたのが嬉しい。どうぞ読者の皆様もお体をご自愛のうえ、猛暑を乗り切ってくださいね~!! 今日は急遽ブログの進行を変更しましたが、悪しからず。
2015.08.04
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十和田湖・奥入瀬渓流への旅とは別に、6月末に北東北の3県を訪れました。今日はその時目についた青森らしい写真を紹介します。ただし私が旅したのは主に青森県西部のため、津軽地方の写真が多くなります。 弘前駅に陳列してあった、「旧弘前市立図書館」の模型です。明治時代の建物でしょうか。 青森県が生んだ天才的な彫刻家、棟方志功の作品(左)と肖像(右)。特に奔放な裸婦像が有名ですね。 青森市内で見かけた看板。津軽物産と「つがる塗り」と書いてあります。 秋田犬ですが、津軽地方の深浦(五能線沿線)で飼われている「ぶさ可愛い」わさおです。青森県ではとても有名で、色んな所に写真や張り子の像が飾られていました。 神社に奉納された絵馬です。かつて蝦夷地(北海道)から大坂まで航行していた「北前船」が嵐の中で難儀している様子です。この北前船で各地からもたらされた文化が、津軽地方に現在でも色濃く残っています。 このお祭りも北前船が運んで来たもののようです。(青森県立郷土館にて) このお祭りも同じで、日本のどこかから伝わったものみたいですね。(青森県立郷土館) これは「こぎん」と呼ばれる津軽地方の刺繍です。野良着を強化するため、白い木綿糸で布地をくくったのです。布地は藍で染めた麻。元々は「小布」や「小巾」と書いたようで、これが「こぎん」に変化したようです。模様の種類は300種以上あるそうですよ。非常に手間がかかるため、現在では高級品になっています。 世界遺産に登録された「白神山地」の青池です。これも五能線の沿線にあります。 青森県立郷土館に展示されていた幕藩時代(江戸時代)の藩境図です。旧津軽藩(弘前藩)は元々南部藩の所領でしたが、家老職が実力で奪ったのです。それ以降仲が悪く、江戸城内では決して同座しなかったそうです。岩手県にあったと感じられる南部藩が、青森県の東部下北半島の先端まで所領にしていたことを、今回初めて知りました。また秋田県の鹿角地方も南部藩の支配下にありましたが、そこでは金銀その他の重要な金属が産出していました。 青森県立郷土館にあった南部曲がり屋の模型です。南部藩の重要な産業の一つが馬でした。馬は大事にされて、人間と一緒に住んでいました。右側の飛び出した部分が厩(うまや)です。大切な馬の様子をしょっちゅう観察するために、家の構造がこんな風になったのです。東北の良馬は日本の各地で羨望の対象となり、高値で取引されていました。<続く>
2015.08.03
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6月の初めに旅した青森県の奥入瀬渓流(国立公園&天然記念物)と6月末の青森の一人旅の写真を交互に届けています。今日は奥入瀬の順番。存分に美しい川の流れと森の風景を味わい、涼風を感じていただけたら幸いです。 親子で遊びに来たのでしょうか。一体何をしてたのかなあ? 遊歩道のところどころに、熱心に絵を描いている方がおりましたよ~♪ そろそろゴールの「焼山」に近づいています。朝から歩き始めて、お腹も空いて来ましたよ~。でも、奥入瀬は良いですねえ。碧の流れ、最高です。静かな森も良いなあ。<続く>
2015.08.02
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奥入瀬渓流の写真ばかりが続くのは何なので、合間に6月末に旅した青森関係の写真を入れようと思います。この時は主に津軽地方(青森県の西部で旧津軽藩)を訪れたため、そちらの写真が多くなることをお断りしておきますね。 左側は車窓から見えた弘前周辺のリンゴ園です。6月の末なのに、もうほんのり赤くリンゴが色づいていましたよ。右は弘前市の街中で見かけたリンゴが載ったポストです。さすがはリンゴの本場だけありますね。 左側は岩木山(1625m)の絵です。津軽平野に独立して聳えるこの山は「津軽富士」とも呼ばれ、古来より津軽地方の人々から慕われて来ました。右側は太宰治の小説『津軽』。津軽が生んだ天才的な小説家だった彼の作品の表紙にも、やはり岩木山が描かれていました。 ホテルの一角に飾ってあった、青森のこけしです。東北はこけしの故郷ですが、各県でこけしの表情が違いますね。 私が泊ったホテルや最終日に訪れた青森県立郷土館にあった「津軽凧」です。柄が独特で、郷土の祭である「ねぶた」にも通じるものがありますね。(以下同様) 津軽地方の港にも、かつては北前船が停泊していました。西廻り航路で伝えられた日本各地の文化が、津軽の祭礼など多くのものに影響を与えたようです。ひょっとしたら、これらの津軽凧にも、西国のものが混じっているのかも知れません。 私が泊った鰺ヶ沢(五能線沿線)のホテルでは、ロビーで津軽三味線の生演奏がありました。躍るような高音部からズッシリと心に響く低音部まで、津軽三味線の音色は、旅人の心を捉えて離しませんでした。<続く>
2015.08.01
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