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<自宅の花> 今日は連休の谷間。4月も最後の一日になりました。このところ高温の日が続き、例年は春が遅い東北でもたくさんの花が次々に咲き出しています。春と言うよりはもう初夏と言った方が適切かも知れませんね。そこで最近撮り貯めた写真を一気に公開しようと、このシリーズを開始します。最初は我が家の花々を紹介しましょう。 4月17日 白いイカリソウ 上と同じ。上は枯草が邪魔になっていたため、撮り直しました。 4月17日 シバザクラ ピンクの方の根を間違って抜いたため、少なくなってしまいました。 4月17日 真っ白なスイセン 清楚な感じがして好きな花です。 4月17日 こちらは一回り小ぶりなスイセンです。 4月17日 ハナニラの花は結構長く咲いてますねえ。 4月17日 これはマーガレットの仲間でしょうか。 4月17日 植木鉢の花を植え替えたのですが、この後白いベコニアが遅霜で枯れてしまいました。 4月17日 花屋さんで買った苗を植えましたが、名前は忘れました。 4月25日 ドウダンツツジも今年は咲くのが早いですねえ。 4月25日 白いハナズオウ 日当たりが悪く色がくすんでいますが、実物はきれいです。 4月27日 ワスレナグサ(勿忘草) アプローチの敷石の脇に移植しました。 4月27日 花屋で買ったこの花の名前もメモしてませんでした。 4月27日 玄関脇の花壇の一部です。 4月29日 チューリップとアイリスをもう一度。 4月29日 オオテマリ 今後緑色から白に変化し、花もさらに大きくなります。 4月29日 オダマキ ピンクの色がいかにも頼りない感じですねえ。 4月29日 ツツジ このところの暖かさで、急に咲き出しました。 4月29日 ツリガネズイセン 小さいけどなかなか存在感のある花です。 4月29日 ノースポール 冬よりも今の方が元気に咲いています。 4月29日 ボタン(牡丹) 昨年は枯れた枝を除去しました。 4月29日 岳父(妻の父親)の形見のボタンが今年も咲いてくれました。 庭の花はこれからも次々に咲き始めるでしょう。とりあえず次に咲きそうなのは黄色いモッコウバラです。これが入口の塀際で咲き出すと豪華な感じがして良いものです。<続く>
2015.04.30
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<武家屋敷=鈴木家住宅=春蘭亭2> 3月25日に行った宮城県北部の登米市。そこはかつての城下町で、「みやぎ明治村」があった。その旅日記を昨日まで10回に亘って紹介して来たが、いよいよ今日が最終回になった。昨日に続いて武家屋敷鈴木家住宅の紹介である。 春蘭亭の模型 これは旧登米高等尋常小学校跡の教育資料館にあった、春蘭亭の模型である。今から400年以上も前に建てられた鈴木家住宅は、屋敷内に自生するシュンランから名前を取って、「春蘭亭」と呼ばれている。60石取りだった鈴木家には、領主である登米伊達氏がお忍びで訪れることもあったようだ。 鴨居には槍や長刀が架かっていた。いかにも武家屋敷に相応しい光景だ。 遊びの全くない無骨な欄間。これも武家屋敷らしくて好感が持てる。 薄暗い室内が、当時の雰囲気を良く伝えている。 障子を通して外部から自然光が入る。 当時の照明は蝋燭や菜種油によった。あまり明るくはないため、夜は早く寝たのだろう。 室内の展示品の一つで、金属製の香炉である。 こちらは手鏡。「加茂」の銘が入っている。 べっ甲製のかんざしである。当時としては高価なもののように思うのだが。 こちらは櫛(くし)。これもべっ甲製。下級武士にも買えたようだ。 部屋の片隅に立てかけてあった大きめの日傘が不思議な雰囲気だ。 台所の隣の板の間には、囲炉裏が切ってあった。なんだかとても懐かしい気がした。 囲炉裏の鈎に挿してあった焼き魚。どうやらヘラブナのようだ。 これは「釜神さま」と呼ばれる台所の守り神。岩手県南部から宮城県北部にかけて分布する風習だ。 薄暗い台所の様子。これも当時の面影を良く残している。 寺池城址がある岡 旧登米町は意外にもたくさんの見所があった。私は4時間ほど滞在し、町の文化財をずっと見続けたが、決して飽きることはなかった。それどころか、美術館や蔵の資料館など、まだ見ていない個所もあったほどだ。 城址公園の紅梅 登米ではかなり前の登米町時代から「かっぱマラソン」と言うのがあり、登米市になった現在では別に「風土マラソン」と言う名のフルマラソンも開催されている。もし自分が元気であれば参加出来たのに。そう思うと少々残念な気もする。ともあれ今回の小旅行は、自分にとってとても有意義なものだったことは間違いない。<完>
2015.04.29
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<武家屋敷=鈴木家住宅=春蘭亭1> さて、城下町登米と「みやぎ明治村」を訪ねる旅も、いよいよ最後の訪問地となった。今日紹介するのは武家屋敷の鈴木家住宅。祖先は紀州(現在の和歌山県)出身で、登米伊達氏2万石に仕えた。俸禄は60石取りだった由。登米市では今から約400年以上も前に建てられたこの住宅を、無料の休憩所として観光客に開放している。 鈴木家住宅の前に立てられた説明板。 屋敷に向かう通路にも清潔感が漂っている。 縁側から見た風景。 軒下の佇まい 東側から眺めた鈴木家住宅。 軒下に積まれた薪。台所で燃料用に燃やされたのだろう。 無造作に置かれた臼と杵。恐らく吉事の度に餅が搗かれたはず。 屋敷の裏側。領主の伊達氏は時々この裏側から鈴木家を訪ねて来たようだ。 石灯籠のある庭の木漏れ日。 60石取りの士族に相応しい庭の様子。 井戸の周囲に自生している春蘭。亭の名前はこれから採った。 床の間の掛け軸も春蘭の図。 室内の照明。むろん電気で当時のままではないが、その雰囲気は残っている。 私が外で写真を撮ってる音を聞きつけ、職員の方が屋敷の中へ招いてくれた。ここでも受けた親切心が嬉しい。 中二階の納戸(なんど)。現在で言えば収容スペースに当たる。実に無駄のない空間利用と言えよう。<続く>
2015.04.28
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<旧登米警察署庁舎> さて、読者の中には既に大型連休に入った方もおられるだろう。その中でわざわざこのブログを訪れていただいたことに、心から感謝したい。なお何の仕事にも就いていない私は、常に大型連休みたいなものだ。さて、今日は旧警察署の建物を訪問する。と言ってもここは宮城県北部の登米市にある、旧登米警察署。現在は「警察資料館」になっているので、捕まることはなく安心して見ていただきたい。 これが庁舎である。明治22年(1889年)に建築され、昭和43年(1968年)まで現役の警察署として使用された建物。宮城県の重要文化財に指定され、「みやぎ明治村」の目玉の一つになっている。 ライトアップされた庁舎 洋風を取り入れた木造2階建てで、2階に吹き抜けのバルコニーがある。屋根は寄せ棟造りの桟瓦ぶきで、外壁は板張りのペンキ塗り仕上げ。明治中期の擬洋風建築として貴重な存在。設計は旧登米高等尋常小学校と同様、宮城県の技師だった故山脇喜三郎であった。 いきなりだが、留置場である。皆さんあまり入ったことはないだろう。これも良い経験のはずだ。 留置場の外側(左)と内側(右)である。そのどちらかによって、人は天国と地獄を味わうことになる。 私も経験のため留置場の中に入ってみた。狭い室内は淋しく、寒々しい空間。高い位置にある窓は手が届かず、シャバの青空は遥かに遠い存在であった。 参考までに、これが「鞭打ちの刑」。頭には髷があるが服装は洋風なので、明治初期もまだこの刑が残っていたのだろう。皆さんも悪いことしちゃいけませんよ~!! 洒落た階段を上ると2階で、廊下もなかなか素敵。ここにたくさんの資料が展示されていた。 絵(左)と版画(右)は、共に旧登米高等尋常小学校校舎の「教育資料館」で撮影したもの。 明治初期の「取締組」。これは丸きり官軍の軍装だねえ。 制服を着用した巡査など。禄を失った旧士族の多くが明治新政府の巡査になったように思う。 警察官任免の辞令。国家公務員だった私も、辞令一枚で2、3年おきに国内を転勤したものだ。 旧登米警察署庁舎の前でも、記念撮影のために何人かの警察官が起立している。 建物の外にあった説明板。 展示場にはなぜか半鐘と纏(まとい)があった。ひょっとしたら当初警察は消防署を兼ねていたのだろうか。 展示室の一角にあった歴代の制服の一部。持ち去られないよう、厳重に保管されていた。 <続く>
2015.04.27
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<登米の暮らしと産業など> 3月25日に訪れた宮城県北部の登米市。その一角にある旧登米町の「みやぎ明治村」シリーズを久しぶりに再開したい。 旧水沢県庁庁舎 明治の初期のごく短い期間、旧登米町には「水沢県」と言う名の聞き慣れない県の庁舎が置かれていた。現在の岩手県南部と宮城県北部を分割して一緒にした地域。江戸時代所領2万石の小さな城下町には、この他にも当時の高等尋常小学校や警察署など、明治期の古い建物が残され、市の観光の目玉になっている。 旧登米町の産業の一つに「玄昌石」の採掘があった。旧登米警察署の直ぐ隣に「玄昌石の館」があり、自由に見ることが出来た。右は屋根の看板。この石が玄昌石で出来ている。 右は建物内部の骨組み。左は建物の入口にあった石の見本。 かつての玄昌石の切り出し作業風景。 写真は東京駅の旧駅舎。この屋根のスレート瓦が玄昌石。同じ宮城県内の雄勝石も同じ成分の粘板岩で、東京駅旧駅舎のスレート瓦として使用されていた。 登米の名産品の一つ「油麩」(あぶらふ)。これを素材にした「油麩丼」も市内の食堂で食べられ、好評。 「遠山之里」(とよま観光物産センター)には、町の産業として染色が上げられ、このタオルが棚に並んでいた。 旧登米高等尋常小学校校舎 一方、旧登米高等尋常小学校校舎(明治21年=1888年建設)の「教育資料館」には、町の歴史や民俗に関する古い資料がたくさん展示されていたが、その中から古い時代の生活品を幾つか紹介したい。 左は当時の人々の服装で和服の見本。右は古い雛人形が写ったポスター。 独楽(こま)などのおもちゃ 剣玉などのおもちゃ 女の子たちが遊んだお手玉 色がきれいなガラスのビー玉 昭和37年に発行された手塚治虫原作の漫画「鉄腕アトム」。この年は私が就職した年でもある。 映画「エクレール お菓子放浪記」のポスター。 同じく「エクレール お菓子放浪記」のポスター。この映画は旧登米高等尋常小学校校舎など、この町内の何箇所かで撮影されている。 旅の最後に訪れたのがこの霊廟。ここには登米伊達氏(2万石)の領主が眠っている。 霊廟の拡大図。扉などに微かな金箔の痕跡が見られる。<続く>
2015.04.26
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昨日の早朝ブログを書き終え、いただいたコメントへの返事を書き終えた頃から体調の異変を感じた。慌てて妻のいる台所へ行き、そのことを妻に告げた。「今日は金曜日だから病院へ行ってみたら」。妻の一言でその気になり、久しぶりに血圧を測った。上が206で下が119.これは尋常ではない。おまけに左腕に痺れが広がるような感覚があった。慌てて現在の症状をメモする。 病院に行くため早めに朝食を摂ろうとしたがなかなか進まず、体調も一段と悪化したようだ。妻に救急車の手配を頼み、診察券や保険証など最低の準備をする。ひょっとしたらそのまま入院になるかも。そんな気がしていた。予兆は前日からあった。妻が誘ってくれた散歩の途中に倒れそうな感覚になった。目まいやふらつき、視覚の異常は前からあるのだが、言いようもない不快感は昨年の9月以来。あの時は心臓に電気ショックを与えて事なきを得た。新たな不整脈の勃発だった。 あれは9日ほど前のこと。福島の花見山へ行くため駅に「ワイド切符」を買いに行った帰り道。信号のある交差点で、新一年生の下校の列にぶつかった。「あれっ、お爺ちゃん自転車に乗るの?」女の子が私に言った。「へえ~っ、マウンテンバイク?」。今度は男の子。マウンテンバイクに乗る老人が、子供達には珍しく見えたのだろうか。 だが私は今年の「薬莱山マラニック」をこの自転車で参加するのはもう無理だろうとの思いがあった。片道55km、往復110km。この体調でのマウンテンバイクは途中で何が起きるか分からない。ここ3年間は走れなくなったためマウンテンバイクでの参加だったが、今年はそれすら危険な状態。自分ではそう判断していた。 先日愛川欽也さんが亡くなった。確か享年は80歳だったはず。死因は肺がん。最近は不調のため煙草を止めていたが、かつては相当のヘビースモーカーで、スタジオでもスパスパ煙草を吸っていたとか。日本人男性の平均寿命は79歳代。一応彼はそれを超えてはいる。ここ数年の不整脈による体調不良は、自身の老化を感じさせるには十分だった。そしていつか自分にも最後の日が来ることを、覚悟する気持ちが芽生えたことも確かだ。 最近はブログ仲間の健康状態がとても気になる。K君のブログはもう1カ月近く更新されてない。彼の知人に3回同じ質問をしたが、その返事はなくK君とのリンクも消えた。Nさんは忘れた頃のブログ更新。私より年齢が高い彼も病気と怪我の影響がまだ残っているようだ。2人は指1本でPCのキーを叩いていると聞いた。その頑張りを知ってるだけに、何とか無事でいて欲しいと願っているのだが。 一番長いブログ友のYさんは最近ブログを休むことが増えた。親戚のご不幸もあるが、腰痛に苦しんでいるようだ。私よりお姉さんの彼女。何とか頑張って欲しいが無理は禁物だろう。Rさんがブログを休んでいる理由は分かっている。白内障の手術で入院中だからだ。間もなく復帰するだろうが、こちらも無理は禁物。そしてTさんはご主人が入院中だが、頑張ってブログを更新されている。この3人は私より先輩だが、いずれも勉強熱心な女性たちだ。 先日の日曜日は走友会のお花見の出欠確認の最終日だった。いつもなら直ぐにメールで返事を送るのだが、今回は躊躇した。お花見が問題ではなく、自分の体調のことだ。健康に不安があってほとんど走れない状態が長く続いている。走友会の行事にも参加出来ずにいる。元々自分は何の役にも立ってないが、これ以上在籍しても迷惑を掛けるだけ。そう判断して事務局のKさん宛てに退会のメールを送った。悲しいがこれも人生の宿命だ。 ピーポーピーポー。例の音を鳴らしながら救急車が我が家にやって来た。私は3人の隊員に担がれてストレッチャーに乗せられ、救急車に乗り込んだ。既に症状は妻から説明しているが、車中でも幾つかの問診があった。心電図と血圧を測りながら、それにゆっくりと答える。傍で心配そうな妻の顔。朝の洗濯や食事の準備中で、何の心構えをしてなかった彼女は事態の急変に驚いたのだろう。バスで病院に行ければ良かったのだが、途中で倒れそうな予感が私にはあったのだ。 私の意識ははっきりしていた。救急隊員のきびきびした措置、私の手を握り体調を確認しながら病院と連絡する隊員たち。街中をサイレンを鳴らしながら走る救急車。交差点ではマイクを使って赤信号でも進んでくれた。病院の救急部から入るのはこれで2度目。ここは2度の不整脈手術と1度の電気ショック処置で3回入院した病院だ。循環器内科の若い医師が迎えてくれ、直ちに治療開始。 心電図に血圧測定に胸部レントゲン撮影。その間に血圧を下げるスプレーを行ったようだ。不整脈は起きておらず、急激な血圧上昇が今回の症状を惹起したようだ。自分では全く無理をしていない日々だった。不調で走れないし、そのために走友会も退会することになった。それがなぜ?ドクター曰く。これが老化のなせる業らしい。念のために頭部のCTスキャンを撮った。その画面を見せてもらったが、脳も海馬も実にきれいで脳梗塞の痕跡もなかった。 頓服の血圧降下剤を処方してもらい、会計を済ませてバスで帰宅した。途中のバス停で降り、家まで歩いて帰った。「何かあったら至急病院に来てください」。若いドクターの声が、まるで神様の声のように聞こえた。最近は寝ている時でも体の異常を感じることが増えた。必要以上に恐れることはないが、普段から万が一の時のために準備をして置く必要がありそうだ。 それにしても自分では決して無理はしていない積りなのに、今度のような体調の急変が起きる。果たしてどんな注意が必要なのだろう。私の不整脈はそれが直接死の原因に繋がることはないと言うが、体調の変化だけは防ぎようがない気もする。それでもこうしてまだブログを書けることに感謝。生きており、生かされていることに感謝だ。
2015.04.25
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4月16日土曜日。私は福島市の花見山へ妻と花見に行った。ここは1人の花卉農家が昭和の初めから自分の持ち山に花木を植え続け、第二次世界大戦が終了した後さらに山を整備し、無料で開放した花見の名所である。冬のロウバイから始まり、春は桜など10種類以上の花木が一斉に開花する様は圧巻。写真家の故秋山庄太郎氏が「まさに桃源郷」と称えたのも無理はない。今では10軒近い花卉農家の協力で、全山が花の山と化している。 元々の花見山だった阿部さんの山の頂上から里へ降りて来る。青空を背にしたシモクレンが美しい。 ピンクのハナモモ。 ソメイヨシノは盛りを過ぎたけど、ハナモモはちょうど今が満開。 優しい色合いが春にはぴったりですね。 ボランティアの方が沖縄の寒緋桜だと言ってましたが、北限は関東辺りのようです。 ツバキも東北じゃ春の花なんですよね。 再びカエデの新芽の場所まで降りて来ました。 私達が歩いて登った花見山を見上げると、こんな感じです。 裏道を通ってバスの駐車場まで歩く途中にも、見事な枝垂れ桜が。 パステルカラーのハナモモが可愛い。 ユスラウメの小さな花弁が密集しています。 里ではすっかり芽吹いた柳が風に揺れて。 一面の菜の花畑が見事ですね。 沿道には地元の方が開いた花や花木の苗を売る店。そしてバス停付近には食べ物を売る店が。 農家の庭先のチューリップです。 中にはこんな変わり種も。 花を愛する気持ちは誰も一緒かな。 青空に映える源平咲き分けのハナモモ。 これで今年の花見山は見納めですよ~。私達にはとても楽しかったお花見でしたが、皆さんも楽しんでいただけましたか~?ではまたね~!!<完>
2015.04.24
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4月18日土曜日。私は妻と福島市の花見山に行った。ここは8軒ほどの花卉農家が協力して山に花木を植え、無料で観光客に開放している。今年は桜の花が咲き出すのが早く、お花見には遅かった感があるが、お天気とスケジュールの関係で、この日にしたのだ。JR福島駅東口から臨時のバスが出ていて、私達はそれに乗って花見山に来た。バスの駐車場から花見山までは約1km。そこまで歩くうちにも、色んな花が見られる。今の時期は10種類以上もの花が咲いていて、その色合いがとても美しい。 ここは昭和の初めから1人で山に花木を植えた阿部さんの持ち山。戦後間もなく花木の植栽を再開し、トイレなどを整備して開放して花見山と名付けた最初の地。高さは100mほどだが、元々の標高が100mはあると思う。園内には様々な花が咲き乱れている。 中にはこんな形の小さな樹もあった。秋には紅葉しそうな木。 かなり上まで登って来た。徐々に視界が開け、木々の間から遠くの景色が見え出す。 ここが元々の花見山の頂上。遠くには福島市街と吾妻連峰が望める。 この素晴らしい景色を見ながら、私達は持参したお弁当を食べました。山頂では結構風が吹いていましたね。 頂上から見える安達太良連峰(左)と吾妻連峰(右)の雄姿。 ここからが帰路の写真。混雑を防ぐため一方通行となっており、帰路は別な道を下ります。 付近の里山も春爛漫の風景。 これはトサミズキの花が咲き終わったところかな?緑の色がとてもきれいです。 青空を背にしたピンク色のハナモモ。 ハナモモのアップです。 左側は緋桜系の桜。ボランティアの方は沖縄の緋寒桜と言ってましたが、どうなのでしょうね。右側はカイドウの花です。 ほとんど散ってしまったソメイヨシノのぼんやりした色。 こんな花を見ながらどんどん山を下ります。 ボケとハナモモと遠くに桜。かなり里へ降りて来ました。 素敵な春の色でしょ? 遠くには福島の街が。ここは福島駅の南東4kmほどの渡利地区です。 黄色いレンギョウで縁取ってみました。 福島市街を望むこんな風景はいかがです? 雪を戴いた吾妻連峰も素敵ですね♪ お隣の里山が見える位置まで降りて来ましたよ~。<続く>
2015.04.23
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これはJR福島駅構内にあった花見山の写真。しかるべき時期に、しかるべきカメラで、技術のある人が撮るとこんな写真になると言う見本だ。だが、あまりにも鮮やかな色は補正してのかも知れない。 だがデジカメの私は、こんなフツーの写真を撮る。急いでシャッターを押すため手ぶれの物も多いが、このぼんやりした色の感じが「桃源郷」に相応しいのだろう。 ボケとコブシと新緑はいかが? こちらはボケとソメイヨシノ。 花見山の花を撮りに、この日も大勢のアマチュアカメラマンがやって来ていた。 春の里山ののどかな風景。 ソメイヨシノも最後の頑張りだ。 淡い色彩は、まるで日本画みたい。 色彩のグラデーションがなんとも素敵!! 一面の菜の花畑と桜の図。 こちらは菜の花畑をメインに♪ 里山に佇むソメイヨシノはまるで亡霊のよう。う~む。 ここから阿部さん宅の花見山(元々ここから始まった)。早速見事な枝垂れ桜がお出迎えだ。 遠くから見えた、あのオレンジ色の正体が分かりましたよ~♪ 地元の小父さんが話していた通り、これはカエデの新芽だったんですねえ。ビックリ!! ほらね。まるで秋の紅葉みたい♪ ユキヤナギと枝垂れ桜のコラボレーション。 徐々に標高も上がります。 赤い色のハナモモがきれい。 花見山は花卉農園でもあり、切り花を全国に発送しています。<続く>
2015.04.22
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花見山の位置 花見山はJR福島駅から向かって南東方向に4kmほどの渡利地区にあり、丘陵の中腹に位置する花卉(かき)園芸農家の私有地です。お花見の時期、駅前から現地まで臨時バスが運行されています。 花見山マップ この花見山は阿部さんと言う1軒の花卉園芸農家が自分の持ち山に花木を植えたことから始まります。それが昭和5年(1930年)頃の話です。その後景気の変動や第二次世界大戦の混乱期を迎えて、一時苦しんだ時期がありましたが、戦後再び山に花木を植え、昭和30年代には山が一面の花で埋まるようになったそうです。 阿部さんは昭和34年(1959年)約500万円をかけて公衆トイレ、東屋、展望台、石灯籠などを整備し、ここを花見山と名付けて無料開放したのです。昭和50年(1975年)ここを訪れた写真家の秋山庄太郎氏が「福島に桃源郷あり」と絶賛したことから有名になり、建設省(当時)事業での遊歩道整備を経て、環境整備協議会が結成され、現在では8軒ほどの花卉園芸農家が協力して、周囲の山に花木を植えています。 駐車場には関東や東北の観光バスがたくさん停まっていました。有名なお花見の場所で、冬のロウバイから始まり、春は東海桜、梅、桃、ソメイヨシノ、レンギョウ、ボケ、サンシュユ、モクレン、ツバキ、ハナモモなど各種の花が咲き乱れています。駐車場からその花見山に向かって歩き始めます。 一面の菜の花がきれいです。今年は春が早く来て、遠くの山のソメイヨシノは、既に散り始めています。 えんじ色のハナズオウを至近距離から。 遊歩道を行くと、徐々に花見山が近づいて来ます。 ソメイヨシノとボケのコラボレーションです。 こちらはハナモモとレンギョウの組み合わせ。 土手の桜はこんな感じで、満開の時期は過ぎていました。 山のオレンジ色が気になって、地元の方に尋ねると意外な答えが・・。 ボケをこんな風に切り取ってみました。 実に見事な白いハナモモでした。 こちらは源平咲き分けのハナモモです。 またまたレンギョウとハナモモのコラボ。 菜の花とボケとユキヤナギのスリーショット。 菜の花の向こうの山には、仄かなソメイヨシノが。 小川に沿った桜並木。 青空を背にした花々。写真家故秋山庄太郎氏が愛したのも、こんな風景だったようです。<続く>
2015.04.21
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先週の土曜日に妻とお花見に出かけた。まだ「登米の城下町とみやぎ明治村」は終わっていないが、歴史は逃げない。そう考えて季節性のあるテーマを優先することにした。さて、行き先は福島市の花見山。今年はソメイヨシノの開花宣言が早かったため、桜は散っている可能性が高いが、そのほかの花は今が盛りだろう。そう考え、さほど焦りはなかった。週末用の安い「ワイド切符」を予め買い、JRの普通列車で福島へ向かった。 JR東北本線船岡駅と大河原駅との間に、桜の名所「一目千本桜」がある。阿武隈川の支流白石川の堤防沿いに、ソメイヨシノの古木がずらりと並び、花見客は桜のトンネルを潜りながら歩くのだ。そしてJRも乗客へのサービスで、桜の時期だけこの区間、電車のスピードを落としてくれる。 確かに花の盛りは終わっているようだ。青空に映える蔵王の山々と、それを背にした桜並木と白石川。それがここの売り。電車の中からは残念ながらその一部しか見えないが、それでもお花見気分は味わえる。 朝早いのでまだ人出は少ないようだ。それでも三々五々堤防を散歩する姿が車窓からちらりと見えた。 黄色い花はレンギョウかな?桜のピンクと相まって、いかにものどかな春の風景だ。 こんな風にトリミングすると、長い桜並木に見えるね。 ここまで来るとこの蔵王の雪景色も撮りたくなるんだよねえ。我が家から見える姿とはかなり違うねえ。 車窓から撮った南蔵王山系。屏風岳を中心に前烏帽子岳と後烏帽子岳が見える。 花見山から見える福島市街。 福島駅から花見山までは臨時のバスが出ている。往復で500円。距離は約4kmで、乗車時間は15分程度。そのバスの車中から吾妻連峰が見えたので、夢中でシャッターを切った。 福島市の市民にとって、この吾妻連峰が故郷の山なのだろう。吾妻山、一切経山、吾妻小富士などの山が見える。 花見山から吾妻連峰を望む。 山の上からは福島の街と、その向こうに聳える吾妻連峰がくっきりと。 花見山は花も美しいのだが、この雪を戴いた山々の美しい姿も魅力。 こちらは安達太良(あだたら)連峰。右から鬼面山、箕輪山、鉄山、安達太良山。「東京には本当の空がない」と言った智恵子。高村光太郎の妻智恵子の故郷は福島県の二本松市。そして彼女の故郷の山が安達太良山だ。 帰路、福島駅前で見た「花時計」。 ホームに停まっていた「ジパング号」。 午後の白石川は少し曇って来た。 宮城県白石市と蔵王町との境に聳える青麻(あおそ)山にも、新緑が芽吹き出した。 夕方の一目千本桜。さすがに鮮やかさはないが、それなりに美しい。 散り加減のソメイヨシノにも風情はあるねえ。 夕紛れの桜には妖精でも潜んでいるのかな。 この日は、「一目千本桜」と「福島花見山」の2か所でお花見でした。えっ、これでお終い?いえいえ、花見山の美しい花達の姿は、明日からが本番なんですよ。どうぞお楽しみにね~!!<続く>
2015.04.20
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ブログにも確かに「旬」がある。特に今頃は季節の変化が激しいので、撮った写真も使わないでいるとたちまち時を失ってしまう。そんな訳で、今日は一旦掲載中のシリーズをお休みし、公園の新緑と桜の写真を載せることにした。 沼のあるA公園である。先日約2カ月ぶりに近所の歯医者さんに行ったら、奥様から言われた。「ブログに載っていたのはA公園ですか」と。沼の様子で分かったようだ。お子さんも一緒に観て、子供の頃に遊んだことを懐かしく思い起こしたようだ。私のブログがこんな風に観てもらえるとは嬉しいね。奥さまは待合室で「トトロ」の曲に合わせた人形の踊りを披露してくれた。近く神社のお祭りでも人形の踊りを披露する予定とか。 新緑の小道って良いですよね。昨日は妻と電車に乗って、隣県までお花見に行って来たのですが、最寄駅に行くまでの間に街路樹のケヤキが美しく芽吹いていました。ケヤキは県木でもあり、仙台市内でも目抜き通りの街路樹などに植えられています。「杜の都仙台」の一番美しい季節かも知れません。 水温む季節。沼の畔の小道は、散歩する人で賑わって来ました。 A沼と白いコブシ(左)。今ではコブシも散ってしまいました。右は山桜系かな? 1週間前、左のケヤキはまだ芽吹いてなかったですね。右のカツラはもう新緑が。 こちらは桜の名所のM公園。芝生の広場を中心にたくさんの桜が植えられており、花見客で賑わっています。 左はソメイヨシノかな?右は枝垂れ桜。この公園には30種類上の桜があり、緑色の桜である御衣黄や黄桜、ピンクの色が濃い八重桜などはこれから咲いて、しばらく市民の目を楽しませてくれるのです。 桜の下ではお花見ですよ~ ふふふ。こちらでも大盛り上がり。 枝垂れ桜の下で、家族連れがこじんまりと。ピンクの鮮やかな花房が美しいですね。 あっちでも、こっちでもお花見中。 あらまあ。お婆ちゃんは1人でお花見ですか~? グループでは賑やかに。 時には音楽も聞こえて来るよ~。 芝生の広場では、子供達が大はしゃぎ。広々して嬉しいんだろうね、きっと。 さて、撮った写真はまだあるけど、どうしたものか。
2015.04.19
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<旧登米高等尋常小学校 その3> さて、今日も旧登米高等尋常小学校のお話である。この小学校は明治21年(1888年)に創建され、2階建てのバルコニーを持つ近代的な建築物であった。その後何度か名前を変えて昭和50年代まで現役の学校として使用され、昭和56年(1981年)に国の重要文化財に指定された後は、現在博物館としての機能を果たしている。この古い校舎は明治、大正、昭和の三代に亘り約100年もの間、子供たちの成長を暖かく見守って来たのだ。 アジアの中でいち早く日本が先進国の仲間入りを出来たのは、恐らく教育の力による所が大きい。それ以前、江戸時代から武士以外でも寺子屋で学ぶことが出来、「読み、書き、算盤」がかなり行き渡り、識字率が高かった日本。富国強兵を急ぐあまり、一時国の施策で教育も軍国主義の影響を受けた時期はあったが、教育がやはり近代化への礎になったことは疑いない。この瀟洒な校舎は、きっと郷土の誇りであったことだろう。いや、今でも誇りであるに違いない。 校舎の先端には昇降口があり、今では「教育資料館」の玄関になっている。 こちらは東側校舎の昇降口。つまり建物は「コの字型」になっている。 校庭の東側から見た校舎。 東側校舎の1階からバルコニー方向を見る。 屋根は寄席棟の瓦ぶき、廊下は吹き抜けの片廊下方式。和洋折衷の建築物は良く工夫されている。 東側校舎のアップ。こうして見ると、なかなか壮観な風景だ。 廊下にこんな表札が出ていた。ある時期の校長室だって。 校長先生、今日は~!!あらまあ、どこか夏目漱石か野口英世に似てますねえ。そうかねえ、ワハハ。 校長室には、こんな豪華な応接室もついてるんだよ。エヘン! こちらは職員室なのかなあ?これだってなかなか立派な椅子だよねえ。 ある教室では、こんな授業風景が再現されていた。映画「二十四の瞳」を思い出すなあ。私は小豆島で「オリーブマラソン」(ハーフ)を走った時に、映画のロケに使われた「岬の分教場」を見たことがあった。 大石先生は小柄だったため、島の子供たちからは「小石先生」と呼ばれていたんだよね。まあ映画の話だけど。 足踏み式のオルガンは、きっと優しい音がしたんだろうなあ。 校舎の中には、畳敷きの裁縫室があって驚いた。一時期は女子教育の施設が併設されていたんだね。 部屋にはこんな古い形のアイロンが。これはきっと電気ではなく、炭火で温めたんだろうね。 ミシンも当然足踏み式。ところでミシンは英語の「マシーン」から来たって、知ってた~? 寺池城址公園の梅林 古い小学校の建物や中にあった資料館は面白くて、ついつい1時間半ほど見学していました。この日は北風が吹く寒い日だったのですっかり体が冷え切ったけど、心はなぜか暖かいもので満たされていた私でした。 さて、今日は妻と2人電車に乗って出かけて来ます。コメントへの返事は遅くなるかもよ~。 <不定期に続く>
2015.04.18
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<旧登米高等尋常小学校 その2> 今日は国の重要文化財である校舎を、そして次回はその設備を紹介しようと思ったのだが、予定を変更することにした。校舎ばっかり見ても、あまり面白くないだろうと思うのだ。そこで両方を適当に混ぜ、2回に亘って紹介することにした。では早速ご覧あれ。 校門付近から見た校舎の全景。明治21年(1888年)に建てられた洋風の木造建築だ。館内には明治以降の教育史や各時代の教科書類、再現教室などが展示されている。 設計者である山脇喜三郎氏の肖像。 正面バルコニー付近を中心に。屋根は寄棟造りの瓦ぶきで、校舎の中心に2階建てのバルコニーがシンボル的な役割を果たしている。 東側校舎から見たバルコニー。きっとここで学んだ子供達は、この白くて美しいバルコニーを自慢に思っていたに違いない。 西側校舎2階から見たバルコニー。 東側校舎の2階から。 付近から見たバルコニー。 校舎のシンボルであるバルコニーを至近距離から。 教室の中に赤いランドセルが。 今はひっそりと静まり返った教室だが、かつては元気な子供の声が聞こえたのだ。 この教室には、古びたオルガンが1台。 そしてこちらの教室には、教授用の大きな算盤(そろばん)が。 もちろんストーブに火の気はなく、私は寒さに震えながら1時間半ほど各教室を巡っていた。たくさんの珍しい物や写真があり、私は夢中になってデジカメを向けていたのだ。右は半鐘。もちろん火事の場合は鳴らすが、授業の始まりや終業時にも合図のために鳴らしたのだろう。 東西の教室の先端は昇降口だが、そこに6角形を半分に切った「六方」と呼ばれる吹き抜けがある。規則的に組まれた梁の形が実に美しい。 2か所の階段を並べてみた。これも機能的で美しい。かつてはここを大勢の子供達が元気に上り降りしていたのだ。 校庭の松ごしに見る東側校舎。廊下は1、2階とも吹き抜けの片廊下になっている。<続く>
2015.04.17
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<旧登米高等尋常小学校その1> 3月の末に、私は宮城県北部の登米市を訪ねた。平成の大合併で9つの町が合併して出来た新しい市。私が訪ねたのはこのうちの旧登米町。ここはかつて城下町だったところで、明治初頭の一時期「水沢県」が置かれた。その県庁庁舎をはじめ、当時の古い建物が町の中に幾つか残っている。登米市ではこれを「みやぎ明治村」と呼んで、観光の目玉にしている。 今回はその中の主要な建物である「旧登米高等尋常小学校」を紹介したい。ここで撮ったたくさんの写真は便宜上「歴史資料」、「校舎」、「設備」に分類した。今日はそのうち学校の歴史的資料を載せる。なお、旧校舎は「教育資料館」を兼ね、旧登米町の古い写真や民俗資料がたくさん保存されており、私もブログ用に撮らせてもらった。 旧校舎の版画。校舎は明治21年(1888年)に建築された。当時の洋風学校建築を代表する建物で、国の重要文化財に指定されている。特徴は校舎の中央にあるバルコニー。バルコニーがある明治期の学校建築では長野県の開智学校が有名だが、登米の校舎も堂々たるものだ。 純木造の2階建てで、屋根は寄せ棟造りの瓦ぶき。正面に向かって「コの字」型に造られている。廊下は1階2階とも吹き抜けの片廊下式。両端には六角形を半分に切った形の昇降口がある。(上の版画参照) 左側は現在校門に掲げられた表札で、右側は当時の表札。 校舎が建つまでの間、仮校舎として使用された養雲寺の仮校舎。「水沢県」当時の明治6年(1873年)に開校。 校舎の古い写真。撮影の時期は記載されてない。 こちらの写真も撮影時期は不明のようだ。 昭和8年(1933年)、創立60周年を記念した同窓会時のもの。 創建当時の屋根瓦 一時期併設された女子教育施設の授業風景。 第二次世界大戦中に都会から疎開した児童が炭俵を背負って運ぶ姿。昭和19年は私が生まれた年だ。 教室の壁に張られていた「教育勅語」。現代で言えば「教育基本法」だろうか。 国に「忠」、親に「孝」は論語の教えで、教育勅語や修身教育の基本理念だったのだろう。 左は額に刻まれていた「皇紀二千六百年」の文字。右は当時発売された記念切手2種。 明治期に入ると明治天皇を中心とした立憲君主制が敷かれ、やがて日本書紀に記された神武天皇即位の年(西暦で紀元前660年に相当)を元年として起算した「皇紀」を用いるようになった。皇紀2600年は1940年(昭和15年)に当たり、数々の記念行事が挙行された。 教育勅語は学校教育にも大きく影響し、各学校には明治天皇の肖像(御真影)の安置場所があり、その前を通過する際はお辞儀をするなどの決まりがあった。修身教育(現在の道徳教育)もその一環である。 教室に張られていた絵図。明治以降急速に西洋の水準に達する必要性から、西洋の生活を紹介したのだろうか。 教育資料館に残る同校の校章。 <続く>
2015.04.16
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<登米の祭と芸能> さて、2日間お休みしたこのシリーズを再開しよう。第4回の今日は、「登米の祭と芸能」がテーマ。祭と言っても「旧登米高等尋常小学校」の校舎にある教育資料館に展示されていた写真や品物を、デジカメで撮らせてもらったものだ。では早速ご覧あれ。 中途半端に画面が欠けているが、登米の「秋祭り」のポスター。まあ何と言う芸術的で格調高い写真だろうね。 この山車(だし)が教室の中に飾られていたんだよね。 これが山車の側面だよ。確かに秋祭りの雰囲気があるよね。 こっちはその反対側。こんなのを担ぐんだね。ワッショイワッショイ!! 祭太鼓だよ。ドンドンドコドコ勇ましい音だね。 祭の半纏が傍に吊るしてありました。これで少しは祭の雰囲気が味わえたかな? いなせな祭半纏のデザイン。日本人の美のセンスを感じるねえ。 登米の祭の写真が額縁に。これはいつ頃のものだろうね。 これには「平成21年」と書かれていた。バックは旧登米警察署庁舎かな? たとえ故郷を離れても、きっと祭の風景は忘れられないんだろうね。 最後に祭の様子を彫った版画を載せておきますね。 ここからはがらりと変わって、2番目に訪れた町の伝統芸能伝承館「森舞台」の紹介。ここは冬季期間中(~3月末)までは土曜、日曜、祝日)しか開いてなかったんだけど、私が共通観覧券を購入して「観たい」と希望したため、職員の方が車で連れて行ってくれ、施設を開けて見せてくれたんだよ。実に親切な町ですね。 この能舞台では、江戸時代から登米町に伝わる「登米能」をはじめ、「岡谷地南部神楽」、「とよま囃子」などの郷土芸能が演じられている。 こちらは創建当初の森舞台。総桧造りでまだピカピカに新しい舞台だね。チケットの写真をお借りした。 左側は舞台の松の絵。右側は舞台の縁の下に置かれた音響効果を高めるための壺。普通の能舞台ではこれは隠して見せないのだとか。珍しい光景だねえ。 どちらも優雅な能衣装。 左側は舞扇で、右側は小鼓。共に能で使用する大切な道具。 これらの面は市民の方が趣味で彫られたものばかりとか。高度な技術には驚きですね。 とよま能を国立能楽堂(東京都渋谷区)で公演した際のポスター。ただ、町の伝統芸能も、現在では伝承者の高齢化と後継者不足に苦しんでいるとのこと。どこも大変なようですね。 なお、国立劇場にはほかに、国立劇場(東京都千代田区)、新国立劇場(東京都渋谷区)、国立文楽劇場(大阪市中央区:人形浄瑠璃が中心)、国立劇場おきなわ(沖縄県浦添市:組踊と琉球舞踊が中心)がある。<続く>
2015.04.15
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日曜日は久しぶりに晴れた。最近は全く走れなくなったが、せめて散歩くらいはしたい。そう思って近所の公園へ行った。沼のある公園と桜の名所の公園。ソメイヨシノの開花宣言が出てから8日目。きっと桜は満開のはずだ。 A公園の新緑がきれい。若葉が萌え出す美しさは譬えようがないほど。 沼の畔の柳も芽吹いて来た。まさにこれぞ春の風景だ。 コブシ咲く北国の春。あれっ、どこかで聞いたことあるぞ~ 公園の傍の桜も満開。きっとソメイヨシノだね。 桜とコブシのコラボはいかが? これはソメイヨシノかなあ? 青空を背にしたチューリップの蕾。 暖かい春の日差し。間もなく公園に子供の姿が戻るだろう。 再び青空とコブシ。待ちに待った春ですよ~!! ヒュウガミズキもそろそろ終わりかけだけど、春めいた沼の風情がたまらないねえ。 どうってことのない景色だけど、これがまた良いんだよね。 M公園ではフユザクラがお出迎え。ここには30種類くらいの桜が植えられていて、1カ月以上色んな桜を楽しむことが出来るんだよね。 こちらは山吹と桜の競演。 山吹と言えば、太田道灌の故事を思い出す。少女が差し出した山吹の花の意味を理解出来ず、後で知って恥じたと言うのだが、彼は有名な歌人。知らない訳はないんだけどねえ。 枝垂れ桜も素敵でしょ? 濃いピンクは寒桜系統かな? 私のランニングコースを花見の季節は大勢の人が歩いている。 再び枝垂れ桜の登場。 白い花はオオシマザクラ(大島桜)系統かな? 最後にお花見の風景も載せておこう。この公園では5月初旬までお花見が続くんだよ。 あっそうそう、昨日は冬の間家の中に取り込んでいた植木鉢を全部外へ出したよ。もう遅霜の心配はないと判断してね。そして蕾菜を食べていた白菜の株を全部処分。畝を耕し、発酵鶏糞と石灰を撒く。これで夏野菜の苗がいつ売り出されても準備はOK。冬越しさせたパセリと雲南百薬は5ケ月ぶりに地植えにした。いよいよ家庭菜園の季節の到来だねえ。<不定期に続く>
2015.04.14
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歴史のお話が3回続いたので少しお休みをしようと思う。「登米の城下町とみやぎ明治村」はこの先もまだ続く。時々こうして休憩するのも悪くない。実はまた花の写真が貯まってしまったのだ。今日はそれを1枚のタペストリーに織り込もうと思う。さて、どんな具合に仕上がるか楽しみだ。 どうやらここまでは織れたが、この先はもう無理かも知れない。さて、今日のタペストリーの出来栄えはどうだろうね?
2015.04.13
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3月25日、私はバスに乗って宮城県北部の登米市登米町を訪れた。そこは岩手県と接する城下町で、「みやぎ明治村」と言う観光地がある。この閑静な町では江戸時代の武家屋敷や、明治時代の貴重な建物が残る珍しい風景が見られるのだ。さて今日はたくさん見たうちの何を紹介しようか。やはりこれから始めるべきだろう。<水沢県庁記念館> これが「水沢県庁」旧庁舎の入り口である。私は東北生まれでしかも歴史好きなので、その名前は幽かに聞いた覚えがあるが、大抵の人はそんな名前の県がかつて日本にあったことを知らないだろう。しかし、なぜその「水沢県」がこんな片田舎の登米に置かれたのか不思議だ。 これが「水沢県」の範囲。つまり現在の岩手県南部と宮城県北部を分割して1つの県を作った感じ。明治4年(1871年)7月、明治新政府が集権国家を目指すためにそれまでの藩を解体して新たに県を置いた。全国で3府72県だった由。幕末、東北と新潟の各藩は「奥羽越列藩同盟」を興して官軍と戦った。つまり最後まで薩長に抵抗したのが東北だったのだ。 この地図に含まれる水沢、一関などの地域は今でこそ岩手県に含まれているが、江戸時代は伊達領であった。それを分割したのは、新政府が反乱を恐れたためと私は感じたのだ。「水沢県」が置かれたのは明治4年1月から明治8年11月までの間。その前には明治元年から「登米県」、明治4年の2カ月だけ「一関県」が置かれ、明治8年11月以降は「磐井県」となった。目まぐるしい変化であるが、やがて分割され、南半分は「仙台県」と合わされて現在の宮城県に落ち着いた。 東北蔑視が見直されたのは、伊達政宗がイスパニアとローマに使者を派遣したことを、新政府の中心人物である大久保利通が知ったため。彼は明治11年(1878年)に不満士族によって暗殺されるが、新政府は同年現在の宮城県東松島市野蒜に新港を築き(その後の嵐で破壊され計画は断念された)、明治20年(1887年)に旧制第二高等学校、翌年に第二師団が共に仙台に置かれ、ようやく東北蔑視政策が修正されたのだ。 庁舎の玄関先。ここは土足厳禁で、履物を脱いで建物に入る。現在は登米市の重要文化財に指定されている。 旧庁舎の古い写真だがいつ頃のものかは分からない。県庁としての役割を終えた後は、裁判所や小学校校舎としても使用されたようだ。 県庁時代に登記事務のために使用されたデスク。 裁判所として使用された時代の法廷。 旧庁舎備品の装飾1 旧庁舎備品の装飾2 旧庁舎大会議室で使用されたランプ。名前だけは知っていた「幻の県」の実態が、今回の旅でおぼろげながら見えた感じがした。<登米懐古館> 行った順番は違うが、写真の枚数の関係で次に登米懐古館を紹介したい。これは寺池城址公園の中にある歴史博物館で、旧登米町の名誉町民であった故渡辺政人氏(日本鋼管取締役)の寄贈による。中には城主登米伊達氏ゆかりの武具、絵画、美術工芸品などが展示されている。 寺池城址公園の紅梅 城址がある岡 「寺池城址公園」の表示(左)と登米伊達氏の家紋「竹に雀」紋(右)。 城址の一角とそこに咲いていたヤブツバキの花。 寺池城の古地図(左)と登米伊達氏の系譜(右) 登米伊達氏は仙台藩主の伊達氏の親戚筋で石高は2万石。仙台藩の家臣団は「一門」11家(その他廃絶4家)最高亘理伊達氏24343石。「一家」17家(廃絶5家)最高1万8千石。「準一家」8家、最高2700石。「一族」22家、最高1万3千石。「宿老」3家、最高2700石。「着坐」30家、最高7042石。「太刀上」(一族から降格した家など)、「召出」一番座、二番座。と言う厳然たる格付けがなされていた。登米伊達氏は最高位「一門」で、藩主の家系が絶える恐れがある場合は、子を譲って家を継がせた。系譜は小さくて字が読めないが、参考までに載せた。 寺池城(通称臥牛城)は元々葛西氏の居城。戦国時代の「葛西大崎一揆」の際に伊達政宗が攻め滅ぼし、葛西氏大崎氏の旧領を秀吉から拝領した。江戸時代は「登米要害」と呼ばれた。このような要害が伊達藩には10か所以上もあった。実際は城だが、仙台藩は徳川幕府から特に許されて「一国一城令」を免れていた。 歴代城主の武具類など 兜(かぶと) 旧登米高等尋常小学校跡の「教育資料館」に掲示されていた甲冑の写真。どうやら城主が着用したもののようで、上の写真と一致している。 読者の中には歴史が不得意な方もおられ、あまり興味がないテーマかも知れないが、私にとってこの町はまるで宝物のように感じた。歴史的な遺産を直接見るだけでなく、ネットなどで調べることで郷土の歴史をさらに理解することが出来るからだ。明治は遠くなった。まして幕末や江戸時代はなおさらだ。<不定期に続く>
2015.04.12
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<登米の街並み> くどいようだが、今回私が訪ねた登米市の位置をもう一度確認して置こう。地図の上部で、黒く塗りつぶした場所が登米市。岩手県南部と接する県境の市は近隣の9つの町が合併して平成17年(2005年)に誕生したばかり。その中の赤い部分が旧登米町で、私は仙台からバスに乗ってここへ行ったのだ。今日はこの登米の町を、順不同でざっと紹介することにしよう。 「みやぎ明治村」前でバスを降りると、目の前に広い駐車場があった。その駐車場を取り囲むように立っていたのがこの塀。これにはビックリ。こんな長い塀は滅多にない。不思議に感じたのだが、恐らくは武家屋敷ゾーンの雰囲気を壊さぬよう、駐車場を目立たなくするためにこんな塀を建てたのではないだろうか。 登米の街並みの古い写真。旧登米高等尋常小学校校舎の歴史資料館にあったもの。道路はまだ未舗装のままで、電信柱と自転車に乗る人が見える。恐らくは昭和の初めよりも以前のものだろう。 これも上と同様で、登米のメインストリート。 なんだか不安定そうな船橋で、橋の名は「来神橋」となっている。流れる川は北上川だろう。開通したばかりで「渡り初め」でもやっているように見える。 比較のために載せた現在の登米大橋。上の橋と同じ場所かは分からない。 これも旧尋常小学校の歴史博物館にあった写真。戦前の馬市の様子。恐らく当時の馬は、農作業用に飼育されていたのだろう。 「仙北鉄道」の車両。仙北鉄道登米線は国鉄東北本線の瀬峰駅から登米駅まで結ぶ軽便鉄道で、米などの農産物を東北本線を経由して運ぶために、大正10年(1821年)に敷かれ、旅客も乗せた。昭和43年(1968年)に営業成績が上がらないため廃線となった。写真は廃止された時のもののようだ。 仙北鉄道機関車の模型。 蔵風の建物(製薬会社) 醸造会社の蔵 醸造業の店と蔵 城下町にふさわしい蔵のたたずまい 上と同じ場所を逆の方向から 美術館も街の雰囲気を壊さないよう蔵のイメージで 登米は仙台藩伊達氏の一門が城主として治めた2万石の城下町。今でも町中にこのような武家屋敷が幾つか残されている。 立派な門構え 中には門しか残ってない家もあるようだ。 たとえ門しか残っていなくても歴史は感じられ、観光の目玉にはなるだろう。 武家屋敷の塀。道路がこんな風に鈎型に曲がっているのは敵の侵入を防ぐためで、城下町の特徴の一つだ。 古民家を改造した団子屋さん。これもなかなかの風情だ。<続く>
2015.04.11
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<小さな旅へ> 北上川 北上川は岩手県と宮城県を流域とする大河で一級河川。流域延長は249km。流域面積10150平米は東北最大で、国内では第4位に当たる。 北上川 一しきり諍ひをせし妻と別れ 北の町へと我は向かひぬ 妻は温泉我は歴史の旅に出づ 弥生三月風の冷たき 風強き街よりバスを乗り継ぎて 我は向かひぬ歴史の旅へ 陽はうららなれども風は冷たかり 七十過ぎし老残の身に ひたすらにバス北上す三陸道 車窓の景色春浅くして 3月25日。私は宮城県北部の登米市(とめし)に向かった。登米は登米郡の8つの町と本吉郡の1つの町が平成の大合併で新しく誕生した人口8万4千人の市である。地図の赤い部分は登米市の登米町に相当する。元の読みは「とめ郡とよま町」。同じ字を用いても郡と町で読み方が違う変な町。東北の大河北上川に沿うこの町は、江戸時代は仙台藩の城下町でもあった。伊達と蜂須賀だけは一国一城の例外だったのだ。 今年の旅は3月上旬の斎理屋敷、3月下旬の瑞鳳殿(伊達政宗公の霊廟)など、専ら宮城県内を訪れた。いずれも歴史に深く関わる小さな旅だった。3回目の今回も同様の目的で、訪問先として登米市を選んだ。市町村別の地図で、何やら面白そうな施設を発見したからだ。事前にネットでも調べて見たのだが、興味がさらに増した。幸いにして妻は友人と温泉に1泊するようだ。それなら私は1人で歴史の旅に出かけよう。そうしてバスに乗り、北の町へと向かったのだ。 これが旧登米町の中心街。町の東側を北上川が流れている。それが冒頭の2枚の写真だ。菱形のマークに1から5までの数字が入っている。そこが共通観覧券で観られる場所。△印がついた「遠山之里」は物産館で、観光案内所を兼ねている。 「遠山(とおやま)」は奈良時代の村の名で、「とよま」の起源になった地名なのだとか。○印がついた春蘭亭は元の武家屋敷鈴木家住宅で、無料で拝観出来た。以上の7か所が今回訪れた場所。このほか時間切れで行けなかった施設もまだあり、意外に見所の多い町だった。以下に私が訪れた場所の写真を、観光パンフレットから借用して載せておきたい。 これらが番号1番の「旧登米高等尋常小学校校舎」で、国の重要文化財に指定されている。現在は「教育資料館」となっていて、博物館の機能を持っている。私はここで1時間半ほど過ごし、じっくりと見学したが寒かった。暖房は事務室にしかなかったのだ。 これが番号2番の懐古館。旧登米町の名誉町民である故渡辺政人氏(日本鋼管取締役)の寄贈により、旧寺池城址に建てられた歴史博物館だ。登米伊達一門縁の武具、絵画、彫刻、歴史史料などが展示されていた。私はここで昼食を摂らせてもらった。 これが番号3番の「水沢県庁記念館」。明治初期、廃藩置県によって藩が廃止され、藩に代わって県が置かれた。ここ登米に短期間置かれたのが水沢県。登米県と呼ばれた時期もあった。これとは別に仙台を中心とした仙台県もあった。明治新政府が伊達藩の反乱を抑えるために、仙台領を2つに分割してそれぞれ県を置いたのだと思う。 私が最初に訪れたのがここ。バス停から一番近い場所だったからだ。登米市の重要文化財指定建造物。ここで話を聞き、共通観覧券を買った。料金は800円。5か所がこれで観られるのだから安いもの。事務所の方が連絡してくれて、閉まっていた伝統芸能伝承館をも観ることが出来た。 ここが番号4番の警察資料館で、旧登米警察署庁舎。宮城県重要文化財指定建造物。中には独房などの施設が残されており、古い資料や制服の見本などもあった。警察には滅多にお世話になることはないが、ここは博物館なので安心して見学出来た。 ここが番号5番の伝統芸能伝承館「森舞台」。写真は建築当時のものでまだ新しい。総桧造りの能舞台では、藩政時代から伝わる登米能をはじめ、町に残る神楽や囃子などが上演されている。私が訪れたのは冬季で閉館中だったが、職員の方がわざわざ車で案内してくれ、見学することが出来た。 ○印の春蘭亭。旧武家屋敷の鈴木家住宅。春蘭亭の名は、屋敷内に自生する春蘭から採ったもの。入館は無料で、しかも職員の方が、丁寧に案内してくれた。町内ではこのような武家屋敷を5戸ほど目にした。 △印の物産館「遠山之里」で観光案内所兼用の建物。目の前がバス停なので便利。中は広くて町内の物産が所狭しと並んでおり、観光資料も揃っている。レストランもあり、休憩も可能。 寺池城址公園の紅梅 そうそう、この他に警察資料館の隣にあった「玄昌石の館」(無料)も見学した。これはかつてこの町から切り出した玄昌石(硬度のある粘板岩)産業の展示館だった。また城主である登米伊達氏の霊廟にも足を延ばした。 このほか町内には美術館や民営の「蔵の資料館」、アンティーク資料館などもあるようだが、残念ながら時間切れで訪れることが出来なかった。明日からは今回の訪問先を一つ一つ紹介して行きたい。なお、シリーズの合間には、休憩の意味で他のテーマを挿入する場合がある。<続く>
2015.04.10
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「粛々とは上から目線の言葉」。翁長沖縄県知事はそう語ったそうだ。相手は菅官房長官。先日米軍基地の一部返還事業で、官房長官が沖縄を訪れた際に、ようやく沖縄県と官房長官の会談が実現した。「粛々」とは、「静かに」とか「厳かに」のことであり、上から目線の言葉などと言うことは当てはまらないと私は思う。それにそんな「言葉づかい」に八つ当たりをしても仕方がないと思うのだが。 もうお分かりであろう。この会談は名護市辺野古への米軍普天間基地移転工事に関してのもの。昨年仲井眞前沖縄県知事の許可を受けて始めた海底のボーリング調査を翁長新知事が差し止めたことで、工事は法律の解釈論に変わった。今は県の判断を、農林水産省が一時停止させることで工事が進捗している。「粛々」とはそう言う事態を指したのだろう。それに官房長官には「国防は地方自治体の思惑とは無関係」との思いがあったことは確かだ。 それに私には官房長官には、無念な思いがあったように思えた。それは県知事が以前、自民党の沖縄県幹事長を務めていたこと。同じ党に所属していながら、「内地」と沖縄とでは国防を始めとする国の施策に関する思惑が全く異なることを悲しんでいたのではないかと。だが本件に関して、「粛々」と言う言葉は使わないことを、その後官房長官は表明したそうだ。「粛々」には本来沖縄県知事が誤解するような意味は含まれていないが、彼にとって政府の態度は理解出来なかったのだろう。 しかし、なぜここまで事態がこう着したのだろう。国防は国の専権事項。だからその整備に関しては、地方公共団体の思惑には囚われない。それはその通りだと思う。だが、米軍基地に関する沖縄県民の思いは複雑だ。亡くなった橋本竜太郎元総理はなぜ沖縄に米軍基地が必要なのか、現地に6回ほど赴き沖縄の市町村長を相手に滾々と話したそうだ。それに感動した彼らは、基地の維持に協力するようになったと聞く。 以前から私もそう思って来た。たとえ相手に怒鳴られようと、日本の為政者は沖縄における米軍基地の必要性を説き続ける必要があると。その一方で、沖縄にはまだまだ被害者意識が強いことも感じる。島津藩の侵攻と侵犯。明治期に日本に帰属したこと。第2次世界大戦における地上戦と戦後の米軍統治。そして日本への返還。その今さら変えようのない歴史を、彼らは未だに引きずっているのだ。 「政府の沖縄来訪は常に押しつけ」。「辺野古移設は絶対出来ない」。知事の言葉は私には駄々っ子の言葉に聞こえる。基地があるための沖縄振興策がどれほどのものか、知事は体感出来ていないのではないか。「普天間基地は世界一危険」。その沖縄の言葉は嘘だったのか。沖縄国際大学のキャンパスに米軍のヘリコプターが墜落した時の県民の怒りは何だったのだろう。危険で古くなった普天間基地は、もう要らないと言うだけで済むのだろうか。 沖縄の歴史は変えられないのだ。そして沖縄のある位置も同じこと。沖縄の平和は憲法第9条で守られているのではなく、駐留する米軍のお陰で他国が手を出さないだけのこと。その米軍がいなくなったら誰が沖縄を護るのか。数千億円で済んでいる米軍への「思いやり予算」から、自衛隊の増強を図るには莫大な予算と途方もない時間が必要だろう。それとも国防は不要で、沖縄は毎日のように侵犯を繰り返すあの国の属領になってしまった方が良いと言うのか。 人生に覚悟が伴うように、物事にも覚悟が要る。一国がその領土を守るのはごく当たり前の行為。どんなことにも犠牲は伴う。まして平和を守るには、ただ「平和が欲しい」と叫ぶだけでは済まないのだ。政府と知事の会談は今後も継続されるようだ。だが覚悟を決めない限りそれは不毛な作業に終わるだろう。沖縄の歴史を被害者意識だけで見ず、その地政的な意義に気づかない限り、そしてそれをマスコミが正しく捉え、報道しない限りは。
2015.04.09
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アジサイ 3月のある日、K病院でホルター心電図計を胸に装着した。病院を出て間もなく、私に声をかけた人がいた。同じ走友会のXさんだった。なぜこんな時間にこんな場所でと訝った私に彼は、「これから入院して手術を受けるんですよ」と言った。不整脈を止めるためのアブレーション手術。「それは俺と同じだよ。頑張ってね」と言って別れたが、私より20歳近く若い彼なら、きっと成功すると思うのだ。 ベニカナメモチ 私は3年前にその手術を受けた。だが最初の手術では治らず、2ヶ月後にもう一度手術を受けた。それでも治らず、薬による治療を続けている。昨年は家族旅行前に胸が苦しくなり、急遽入院して処置を受けた。心臓に電気ショックを与えるもの。それで不整脈を止めるのだが、一週間後に不整脈は再び蘇った。 Xさんのことは走友会のHPで知っていた。昨年の駅伝大会でブレーキになったようだ。スピードランナーの彼がなぜ失速したのか不思議だったが、きっとその原因が不整脈だったのだろう。彼のその後は知らない。私が全く走友会に出てないためだが、きっと手術は成功し、回復してると信じている。 ハナズオウ 先日太白山の麓で花の写真を撮った日の帰り道で、1人のランナーに出会った。気になって少し話をすると、彼は私に「何歳に見えますか。私は70歳。17km走るんですよ」と言った。きっと歳の割には若いと言いたかったのだろうし、その歳で17kmもの距離を練習で走れることが自慢だったのだろう。言下にそのような響きが籠められているのを私は察した。 だが私は全く驚かなかった。私はランニングを始めてから35年になり、そのうちウルトラマラソンを20年走って来た。「俺は100kmとか200km走ったんだよ」と言うと、月間の練習記録と勘違いしたようだ。「私は月間350kmほど走っています」と彼。4年前から走り始め、自己最高記録は3時間15分とのこと。年齢別ランキングの20位以内に入っている由。それは確かに凄いことだ。わずか4年でそこまで達するには、かなり研究してるはず。 ボケ あまり走り過ぎて故障しないよう例を上げて話し、私はその場を去った。彼はスピードを追い求めて専らフルマラソンを走っている。だが現役の頃の私はフルマラソンは100kmや200km超級のレースの練習にしか過ぎなかった。だから練習では時々30kmから40kmを走り、たまにリュックを背負って峠越えて隣県まで走った。自宅から福島までの80kmや、標高1600mの蔵王エコーラインを越えての77kmなどを何度か行った。 オオテマリ だが4年前の不整脈発見以来体調不良は年ごとに増し、あれほど楽しかったレースは苦しいものに変わった。200km超級のレースを最後に完走したのは66歳の時。100kmは67歳。50kmとフルマラソンは昨年の70歳。35年間で地球を2周と5千kmあまり走破し、47都道府県を全て走った。それを彼に話しても仕方ない。彼とは「種目」が違うのだ。それにそれはかつての栄光で、今はもう全く走れない普通の爺さんに過ぎない。 バラ 3月は8日間で4度病院に行った。かかりつけのM医院では、いつもの診察と2カ月分の薬の処方。Mドクターが気の毒そうに、「手術が受けられると良いんだけどねえ」と話してくれた。その心配だけでも私は十分に嬉しかった。 K病院では術後の定期検診を1年ごとに受ける。今回は24時間心電図と普通の心電図で、結果は異常なかった由。だが担当医師はまた変わり、今回で4人目となった。ドクターの名前もすっかり忘れた。 ユリ 若い医師は言う。「もう定期検診の必要はありません。何かあったら、いつでも来て処置を受けてください」。これが全快ならどれだけ嬉しいか。だが実態は、昨年と同じような発作が起きたら即入院と言う意味なのだ。最近は全く走れていない。目まい、ふらつき、物の二重視、胸苦しさ、膝の痛みなどがずっと続いている。 この状態で走るのは危険。先ず第一に足元が良く見えないのだ。こんな人間が果たして走友会に所属している意味があるのか。そうさえ思う。きっとランナーとしての限界が近づいているのだろう。今は苦しみの中で、生きているのがやっと。それも長い間ウルトラをやって来たからこそ耐えられているのだろう。長時間の苦しみに耐えてゴールするのがウルトラマラソンの真髄。結局その辛抱と60過ぎての肉体労働が、きっと私の体を蝕んだのだろうが。 カシワバアジサイ 2年前からは死の予感さえし出した。一日の中でも体調が急変する事態が生じたからだ。66kmレースの前日、そして70kmレースの途中に突然体調が悪化したこともあった。不整脈の発生だ。そして昨年夏の発作。あの時はひょっとして死ぬかと思った。それが薬のお陰でまだ生きている。後どれだけ、どんな生き方が出来るかは分からないが、そんな状態で生きるのも実験のうち。私にはもう十分にやり尽くした感がある。後は有難く、その日を生かしてもらうだけ。 この私に今年出来ることはなんだろう。その時々の体調を冷静に観察しながら、やれることをやるしかない。1つだけエントリーした50kmレースへの出場は無理そうだ。大会主催者に迷惑をかけられないしねえ。こんな現状でも私は十分楽しいし、十分満足している。有難やわが人生。有難やわがブログ。もし今後、ランニングの経験談や自慢話をしたとしても、ぜひそれだけは許してほしいと願う爺だ。
2015.04.08
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このシリーズも今日が最終回になった。散歩の途中に撮った近所の春の花々を、雪を戴いた蔵王山系と共に載せるという何気ない思いつきは、案外成功したようにも思う。時にはスイセンの特集、クリスマスローズの特集、そして昨日は桜の特集を組んだ。最終回の今日は山野草の粋を紹介したいと思う。 4月2日に太白山の山麓にある自然観察園の敷地内で撮ったアズマイチゲ(東一華)。名前は知っていたが、自分の目で見たのは今回が初めて。先行していたカメラマンの方が教えてくれたその場所は、昨年ニリンソウが咲いていた所。わずか2株だけだが、奇跡的な出会いだった。 こちらがもう1つの株。折角の春の妖精が、少しピンボケになったのが残念。 こちらはキクザキイチゲ(菊咲一華)。キクザキイチリンソウとも呼ばれる春の使者だ。咲いてる場所を、昨年偶然見つけた。2つ目の場所を、先ほどのカメラマンが教えてくれた。 1つ目の場所も意外だが、2つ目の場所も意外だった。これは2つ目の場所に咲いていたもの。 花を良く見せるために、トリミング(カット)し過ぎたようで、どれも似たような写真になってしまった。 森の中でひっそりと咲くキクザキイチゲの花は、とても幻想的。 我が家からそんなに遠くない場所に、代表的な春の山野草が咲いているとは信じがたい思いだ。 まさに奇跡的とも言える、このような豊かな自然が残っていることに感謝だ。 今日の最後はこの花カタクリだ。これは3月30日にM公園で桜を撮影した日に発見。花も葉もまだ小さく、昨年よりも3週間ほど早い咲き始めだと思う。 ひょっとしたら太白山の麓でもカタクリが咲き出しているかも知れない。そう思って太白山の麓にある自然観察園に行ったのが4月2日のこと。その時に撮ったのが先日の山野草(ネコノメソウ、ヤマエンゴサク、セリバオウレンなど)と上のアズマイチゲやキクザキイチゲだった。目当てのカタクリも見事な群落を見せていた。ここは観察園の職員によって保護されている区域で、訪れる市民もルールを守る。だからこそ、素晴らしい光景を目にすることが出来るのだ。 森の中の素晴らしいカタクリの群落。わざわざここまで写真を撮りに来た甲斐があったと思う瞬間だ。 ありがとうね、春の妖精たち♪ 最後の花は、我が家の裏庭に咲くハナワサビ。小さいけど葉も花もピリリと辛い。夏はこれを刻んでヒヤムギの薬味にすると美味しい。これで7回に亘ってお届けした本シリーズを閉じたい。桜や春の花は、これからもまだ撮る機会があると思うので、適宜紹介したいと考えている。最後に、連日たくさんの方々が見に来て下さったことに心から感謝したい。<完>
2015.04.07
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春と言えば桜。それが日本人の感性なのだろう。暖かい日が続いた今年の春は、例年よりもかなり早く色んな花が咲き出した。桜も例外ではなく3月末にM公園に行った時、今年の最初の桜を見た。さて、今日は桜の特集。数は少ないが楽しんでもらえたら嬉しい。<冬桜系統> 3月30日 M公園 冬桜 3月30日 M公園 十月桜 4月1日 街中の植木鉢で咲いていた冬桜 十月桜も冬桜も共に年に何度か薄い色の花を咲かせる。 3月30日 M公園 十月桜系 共に3月30日 M公園 十月桜系 <大寒桜> 3月31日。夕方の地方ニュースで、S学園高校のMキャンパスで大寒桜(だいかんさくら)が咲いていることを知った。昨年も妻と崖を登って観に行ったあのピンク色の桜だ。これは撮る必要があるだろう。そう思って翌日歩いて取材に行った。大寒桜は確か大島桜と寒桜の交配種だとか聞いた。そうであればあの有名な「河津桜」と似ていることになる。以下は全て4月1日にS学園高校Mキャンパスで撮った大寒桜である。 <雨の中の桜たち> 仙台のソメイヨシノの開花宣言は4月3日に出た。私が最後に桜の花を撮影したのはそれ以前。このシリーズで桜の特集を組むことを予定して写真の順番まで考えていたのだが、昨日4月5日の朝になって急きょ桜の種類を増やすことにした。だがこの日はあいにくの雨。以下、同じ日に撮った近所の桜ばかり。天気が悪いため花の色が冴えないのが残念だが、ずぶ濡れになって撮った力作を見てほしい。 小さな公園の枝垂れ桜 K八幡神社のソメイヨシノ 個人宅の枝垂れ桜 神社裏の公園の大島桜系 上と同じ大島桜系 農家の枝垂れ桜 あるアパートの庭に咲く桜 ソメイヨシノではなさそうだが種類は分からない。 今日は桜の華やかさが出せただろうか。さて、我が家のお花見はこれから。桜を撮る機会はまだたくさんあると思うので、改めて紹介することにしたい。明日はいよいよ最終回だ。<続く>
2015.04.06
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いやはや、今朝は少し寝坊してしまった。昨夜の月食のせいにしておくのが良いかもしれない。そのついでに、今日はいつもと違った手で行こうと思う。真ん中の真っ暗なのが皆既月食。目を凝らしても見えるかどうか? 出だしはツクシとオドリコソウ。どちらも雑草である。 次は白菜のつぼみ菜(左)と芽キャベツの若葉(右)。どちらもわが家庭菜園の収穫物だ。白菜は結球した17株はこの冬に全部食べ尽くし、今はその蕾をありがたくいただいている。芽キャベツもシチューに入れるなどして美味しく食べ、最後に若葉を摘んで役目を終えた。大根は20本ほど埋めた最後の2本を昨日地中から掘り出し、ポットなどに野菜の種を蒔いた。 今日のトップバッターは花の寄せ植え。これもよそ様のものを撮らせてもらった。 こちらの花の名前は知らないが、美しいと思って撮らせてもらった。 今日は南蔵王、屏風岳の写真を半分に切って並べた。さて、いつもと違ってみえるかな? あるお宅で咲いていたスミレ。色が鮮やかだし、植木鉢にあるので園芸種かも知れないが、見事ではある。 どちらも街中で見たスミレ。左側は多分タチツボスミレだと思う。スミレの仲間は40種類以上あって、見分けるのがとても難しいそうだ。 こちらのスミレは自然のもの。名前は知らないがとても見事な群落。太白山の麓で見つけた。 4月2日。家から歩いて太白山へ行った。標高321mのオムスビ型のこの山は遠くからも良く目立つ。目的は山登りではなく、花を撮ること。麓には仙台市の自然観察園があり、今は春の山野草の花々が長い眠りから目覚めるころ。右側の木の橋を渡ると園内に入るが、私はそのまま真っ直ぐに林道を進んだ。 左側はスゲの仲間。そして右側はセリバオウレン。花の名は先着のカメラマンが親切に教えてくれた。 左がヤマエンゴサク。同じく先着のカメラマンから教えてもらった。名前を忘れないよう、まるで呪文のように花の名前を口にして、帰途に就いた私だった。右側はネコノメソウ。とても小さい花だった。たまたま外にいた自然観察園の研究員に尋ねて分かった。名前は聞いたことがあるが、まさかこれがそうだったとは。家に帰ってPCに保存し、拡大してようやくその姿に見覚えがあった。これも不思議な出会いではある。 これだけでは淋しいので、最後にニリンソウを載せておこう。これも私のようなど素人には、イチリンソウとの見分けがつかないのだが。この日に撮った山野草の花はこれが全てではない。また本当の目的も別な所にあった。それは明後日の最終回まで秘密にしておこう。どうぞ、お楽しみに~!! 雪を戴いた蔵王山系。この山の名前が雁戸山(がんとさん:1484m)であることを、昨日知ったばかり。こんな風にして花の名前や山の名前を偶然の機会に知ることも、人生の大いなる楽しみかも知れない。<続く>
2015.04.05
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相変わらず同じような山の写真だが、お許しあれ。同じ場所から同じ方向を撮っているので、どうしても似たような構図になるのだ。そこで今日のは円形にして見たのだが、あまり変わり映えしないかも。 さて、今日はクリスマスローズの特集である。この花を初めて見たのは近所の花壇。もう10年近く前になるだろうか。私はその姿に衝撃を受けた。微妙な色合いの花がうつむき加減に咲いている。そのエレガントさは譬えようがないほど。世の中にこれほど気品に満ちた花があったのか。 そうだ、自分の家の庭にもクリスマスローズを植えよう。そう思いついたのはその何年か後のこと。安い種類のしかないが、少なくても3種類の色は楽しめる。そしてその株が年ごとに増え、年ごとに大きな株となって私達夫婦の目を楽しませてくれている。よその家のクリスマスローズを見るのも楽しい。今日の写真はすべて散歩中に撮らせてもらったものだ。 花の姿初めて見たるその日より 恋焦れたりわが魂は 貴婦人の佇むごとき汝の名は 愛してやまぬクリスマスローズ 二年はか弱き花でありし汝 今は華麗な姿で立てり クリスマスローズ咲きたり北国に 春の訪れ告ぐるごとくに ある日、近所でクリスマスローズの花を撮影させてもらっていた時のこと。突然ガラス戸がガラリと開いて「何をしてるんですか」。大きな声で私をにらむ女の人がいた。私は立ち上がって「悪いんですか、写真を撮るのも」と言った。首には愛用のデジカメがぶら下がっている。若い女性は黙って家の中に消えた。 私は道路にいた。花はその道路の植木鉢で咲いていた。うつむき加減のこの花を撮るにはしゃがむ必要がある。その姿が家の中から見えたのだろう。そして彼女は怪しい花泥棒だと思ったのかも知れない。時にはこんなことも起きるが、私はいつも正々堂々と「ただ」の花を撮り続けている。いや、撮らせてもらっていると言った方が適切だろうか。 この花を撮るためなら、たとえ花泥棒と間違えられても構わない。そして本当は「クリロ」などと省略して呼んで欲しくないほどファンの私だ。こうして私は今日も怪しげな風体で近所を徘徊し続けている。<続く>
2015.04.04
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昨日は家から4kmほど離れた里山へ行きました。花の撮影のためです。それで本シリーズのための取材は完了。全ての写真を整理し、既に各回の写真の割り付けまで済んでいます。暇人と笑われるでしょうが、本人にとってはいたって楽しい作業。ああでもない、こうでもないと頭をひねるのも、ボケ防止には良いと思っています。では、早速今日もたくさんの春の花を紹介しますね~!! 良い香りがする沈丁花。我が家にもあったのに、枯れてしまいました。 色が可愛いヴィオラの花。 こちらのヴィオラも色合いが素敵!! 華やかなアザレアの花。 ハクモクレンです。今年は例年よりも早く咲き出しました。 コブシも咲き出すのが早かったですねえ。 花弁が紫色のコブシも見つけました。珍しいですね。なお、この花はシデコブシ(四手辛夷)であることをたくちゃんさんが教えてくれました。たくちゃんさん、どうもありがとうございます。 ここからはスイセンの特集です。似たような種類が多いけど、お楽しみくださいね~!! さて、今日の出来栄えはどうかな。皆さんも楽しめましたか~? なお、昨日載せたスノードロップの右側は、スノーフレークだとHuちゃんが教えてくれました。Huちゃんさん、どうもありがとうございま~す♪<続く>
2015.04.03
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花と山のコラボレーションは案外好評なようですね。もちろんこのタイトルは天気予報の「曇り時々晴れ」のニュアンスをもじったもの。今日もさっそくたくさんの春の花を届けましょう。 南蔵王屏風岳 満開のサンシュユ(左)とミツマタ(右) 金色に輝くミツマタの花 夕暮れ時のハナノキ(街路樹)の花 ムスカリ(左)とレンギョウ(右) 満開のレンギョウ 左側はスノードロップ、右はスノーフレークです。Huちゃんが教えてくれました。 ヒヤシンス ヒヤシンス 変わり種の白いヒヤシンス 我が家のヒヤシンス どちらも我が家のチオノドクサ。名前はyuriさんのブログで知りました。 花弁が大きく開いたチューリップ これはヤシオツツジでしょうか。 こんな寄せ植えも可愛いですね。 昨日の甲子園での熱戦、凄かったですね。敦賀気比の松本選手(背番号17)には驚きました。彼の甲子園3本目のホームランで、福井県勢初の優勝を果たしたのですから。一方敗れた東海大四高も立派。冬が厳しい北海道なのに、最後まで良く善戦したと思います。両校に大きな拍手を送りたいですね。<続く>
2015.04.02
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この時期、晴れて空気が澄み切った日には雪をいただいた蔵王連峰が見える。時々その姿を撮影したくなる時がある。だが手前の家や山が邪魔して、どこからでも見える訳ではない。わざわざ広い国道の歩道橋の上や、山の上にあるお墓まで登ると、遥か彼方にようやく山が見える。それをデジカメの望遠機能を利用して何とか撮るのだが、春霞がかかったり、黄砂が飛んで来たりしたら見えなくなってしまう。 このところの急激な暖かさで、仙台では春の花々が一斉に咲き始めた。これが本当にあれよあれよと言う間。そんな訳で、最近は散歩がてらせっせとそれらの花々をデジカメで撮る忙しい日が続いた。今回は初めての試みで、花と雪山を組み合わせることを思いついた。ただし山の写真の方が圧倒的に少ないため、タイトルは「花ときどき山」と相成った次第。ど素人の撮った春の花と蔵王連峰の雄姿を楽しんでいただけたら嬉しい。なお、花の名前が間違っていたらお許しを~♪ ムラサキハナナ ハナニラ トサミズキ ヒュウガミズキ ヒュウガミズキの植え込み 私はこんな山が大好き。30年以上全国を転勤していたが、故郷の山々が恋しくなることがあった。 白い梅にピンクの梅。仙台でも梅は春の花の中でも早く咲く方なのだが、梅が咲き出すとあっと言う間に他の花々も一斉に花を開く。だからこの時期はとても忙しい。 左側は我が家の豊後梅なのだが、公園で撮った右側の八重咲きの花は、ひょっとして桜のようにも思える。 梅の木(白) 紅梅 歩道橋の上から見た蔵王山系 オトメツバキ 我が家のヤブツバキ 変わり種のピンクのツバキ 茎が伸び切った葉牡丹が可愛い。(左)右は白いクロッカス 青いアネモネの花。妹も好きだけど姉もね♪ 今日は4月1日。新年度も引き続きよろしくお願いしますね~!!<続く>
2015.04.01
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