全50件 (50件中 1-50件目)
1
この頃、兄一家は北海道に住んでいて、まだ小さい子供を連れて帰省の際には叔母の家にも立ち寄っていた。 父は、初孫が可愛くて可愛くて仕方なかったのだろう。 よく大量の高価な服などを買って北海道に送っていた。 横浜のアウトレットでよく買っていて、その帰りには叔母の家に立ち寄っていたので叔母も父が兄の子供のために大量に服を買い込んでお金を使っているのを見ていた。 そして、それが何度も何度も続いた後におばあちゃんのお金を使い込んでいた事が発覚した。 叔母の中で全てが繋がったらしい。 おばあちゃんのお金を横領して、そのお金で孫にあれこれ注ぎ込んでいたんだなと。 叔母は言っていた。 「おかしいと思ったわよ!あんなに大量に買い込んで北海道に送って、それが一度や二度じゃない!本当にしょっちゅうやっていたからね!!どこにそんなお金があるの!?と思ってた!! 蓋を開けてみればおばあちゃんのお金使い込んでたんでしょ!!それがタケん所に流れてたと思ったら本当に腹がたつ!! あやいいの!?このままじゃあんたや下のきょうだいが子供産む頃にはパパにはお金なくなって同じようにはしてもらえないよ!!!そんなの不公平でしょ!! タケは何も知らないからね!貰うものはもらって、あんた達には何も回ってこなくてもどうせ知らん顔よ!!」 この頃、兄一家も(特に嫁である義理姉)が、なんでも買ってくれる父に何かとお金を出させようとしているところは私も見ていた。 「お義父さん、一緒に買い物でも行きますか?♪」 一緒にアウトレットへ行ったら好きなものを好きなだけカゴに入れて、時には義理姉の服まで父に買わせていた。 そしてそれはどんどんエスカレートして、しまいにはアウトレットで父に散々お金を使わせて、その後コストコに寄ったら今度は大量の食料品やら日用品をカゴに入れて、それをおばあちゃんに払わせる。 会計の前にはおばあちゃんが近くにいるかを確認していた。 誰がどう見ても確信犯だった。 それがパターン化していた。 叔母はそれが面白くなかった。 「またやってるよ・・・年金暮らしのおばあちゃんに出させて、何にも感じないのかね?」 兄の奥さんは横浜にくると毎回決まって 「今日はどうしますかお父さん♪アウトレットでも行きますか?」と意気揚々と言っていた。 父を誘えばおばあちゃんも必ずついてくる。 それが何度も続いたある時。 またアウトレット⇨コストコの定例コースを迎え、その日は叔母も一緒だった。 車二台で行っていて、アウトレットを出ようとした時、兄一家はひと足先にコストコへ向かっていた。おばあちゃんと父と含む他の人たちは後からいくと言ってその場を別れたけど、 兄一家が先にに出たのを見届けて叔母は言った。 「よく考えたらさ〜私たちはコストコで買うものないし先に帰っててもいいんじゃない?」 叔母は電話で兄一家に「私たち買うもの特にないからこのまま先に帰ってるわ!ゆっくり買い物しておいで〜」と言って先に帰った。 叔母は「仕掛けた」のだと思う。 コストコから帰った兄一家は、何も買ってこなかった。 いつもは1〜2万平気でおばあちゃんに使わせてるくせに、この日は何も買ってこなかった。 叔母の勝ちだ。 やっぱりね。という顔をしている叔母。 「あら〜今日は何も買ってこなかったの?」と嫌味まで言っている。 普段、おばあちゃんにお金を出してもらうのも、 本来自分たちでお金を出すつもりでカゴに入れたものを、たまたまおばあちゃんが出してくれていただけなのか、 それとも最初からおばあちゃんが出してくれるからと大量に買い込んでいたのか、 それが明らかになってしまった。 今までおばあちゃん付きでコストコに行って、兄一家が何も買ってこなかったことなど一度もない。 いつもカゴいっぱいに大量の食料や日用品を買い込んで来る。 それが今回は何も買ってこなかった。 普段おばあちゃんと同居して養っているのは叔母一家。 それなのに、同居していない父におばあちゃんのお金を取られ、そのお金は兄一家に流れ、その上兄一家におばあちゃんのお金まであてにされる。 普段同居しているいとこは大してお小遣いなんてもらえていないのに、遠くに住んでいるというだけで兄一家が来るとおばあちゃんは必ずお小遣いを渡していて、 それがまた叔母のカンに触っていたらしい。 面白いわけがない。 叔母は悔しさのあまり、目に涙を溜めながら私に愚痴っていた。 そんな叔母の姿を見て、叔母の意図は分かっていた。 「私からお兄ちゃんに言おうか?あんまりパパやおばあちゃんにお金を使わせないでって言った方がいい?」 叔母はすんなりと了承した。 誰かに言わせたかったのだと思う。 我慢できなかったのだと思う。 また私は、操り人形のように「恨まれ役」を買って出なければならなかった。 「親の不祥事」を背負った私は、「後ろめたさ」から叔母の操り人形になるしかなかった。 逃げるという選択肢はない。 家族がうまく行くため。 みんなが幸せに暮らすため。 頭の中はそれだけだった。
2020.05.04
大学生の時。 私は叔母の家に週一くらいで通っていた。いとこに国語の家庭教師を頼まれ、教えに行っていたから。 この頃、叔母と同居するおばあちゃんは認知症を発症していて、叔母が苦労する姿をよく見ていた。 そして、この頃、父もよく横浜の家に来ていた。 おばあちゃんを連れて近場に出かける事が良くあって、私も都合がつけば同行していた。 ある時父がおばあちゃんに「お金おろして来てやるよ」と言って銀行前に車を止め、 認知症のおばあちゃんに代わっておばあちゃんのキャッシュカードを持って銀行の中へと歩いて行った。 おばあちゃんは認知症が進んでいたので、父の行動自体に疑問は持たなかった。 でも、父は帰ってくるなり、「ダメだ、下ろせなかった!」と言っておばあちゃんにキャッシュカードをかえした。 私はてっきり、おばあちゃんが認知症で暗証番号を忘れてしまったのだと思い、後日叔母に、 「おばあちゃん、キャッシュカードの番号忘れちゃったみたいでこの間現金おろせなかったみたいだけど大丈夫?」 と言った。 すると叔母が気まづい顔をして、しばらく黙ったのちに私にこう言った。 「お兄ちゃんがかなり使い込んでたから番号変えたの」 私には理解が出来なかった。 事実を飲み込むまでに、かなりの時間がかかった。 叔母の話によると、 「最近しょっちゅう横浜に来てはおばあちゃんを連れ出して出掛けているなと思っていた。 で、ある日おばあちゃんの預金口座を見てびっくりした。お兄ちゃんが来るたびに数十万単位で現金が降ろされてた。 本人にも問い詰めて認めている。だから、おばあちゃんがお兄ちゃんにかけてた保険も解約させた。 毎月少しずつお金を返していくと本人は言ったけど、数回だけ数万渡して来たっきりもう返してこない。 本当に頭に来る。早く死んじゃえって思ったわ。こんな事、パパ(叔母の夫)には口が裂けても言えないわよ!!」 私には、返す言葉がなかった。 「パパが迷惑かけてごめんね」 それしか言えなかった。 父が人のお金を使い込んだ。 いつか来ると思っていたこんな日が、思いがけず早く来てしまった。 「ママはその話知ってるの?」叔母にそう聞いたら 「今は言わないよ。だって今言ったら2人は離婚まっしぐらでしょ!だから、お兄ちゃんが死んだらあんたのママにも言おうと思ってる。」そう言っていた。 父が、やってはいけない事をしたというショックと、 そんな父を恨んでいる人がいるという事実に対するショック。 矛盾しているけれど正反対のショックに、また私は自分を責めた。 今言ったら離婚になるんだな・・・ きょうだいが多いせいで、家にお金の余裕がなくなったからこうなった。 子供が多いせいで、こうなった。 実はうちは私たちが思うよりずっとずっと経済的に苦しいんだ。 自分がなんとかしなければならない。 きょうだいも、母も知らないこの事実を私がなんとかしなければ。 その事実を知った日から、どこかで私は、自分を犠牲にしてでも叔母に尽くしていかなければならないと思うようになり、 叔母の機嫌を取り続けて関わって来たと思う。 いとこにもバイト代であれこれ買ってあげ、父の日母の日には叔父叔母に高価な贈り物をした。 父の犯した不祥事を、自分が一緒に償っていく。 きょうだいの誰も知らないなら、自分1人で背負っていく。 そう心に決めて、この10年近い年月を過ごしてきた。 でもこの事実はまだ大人になりきれていない、子供だった私には重たすぎた。 誰にも共有できない辛さ。 父と母、そしてきょうだいの前では何も知らぬ顔をしていなければならない。 そして、このことをきっかけに、叔母は私を「姪」としてではなく、その境界線を越えてどんどん利用するようになる。
2020.05.04
思春期くらいから、母はよく私に父のお金遣いの荒さについて愚痴愚痴文句を言うようになった。「パパは湯水のようにお金を使う」「会社は借金まみれ」「パパは勝手に借金を作って来て、ママに怒鳴り散らせばお金が出てくると思ってる」そして一番衝撃だったのは「おばあちゃん(母方の)を利用して保険金詐欺まで考えてる」まだ無知な子供にこんなことを吹き込んで、一体何がしたいのだろうか。私は全てを信じ切って、いつもいつも不安でいっぱいだった。母の話を疑わなかったのは、父の行動にも気になるところがあったから。昔から父は、私がお風呂に入る時にポケットから小銭や千円札を出してアクセサリーボックスの上に置いておくと勝手にとってしまう事がよくあった。母は用心深い人なのでそんなところには現金をおかないし、私のアクセサリーボックスに置いていた現金で、誰が見ても私が置いた事は明白だったので、きょうだいも誰もそのお金を取ることはなかった。私もとりあえずのつもりで置いて翌日にはすぐ使うつもりで置きっ放しにしていたもので、でも翌朝見ると、その現金はなくなっていた。「ねえ、ここに置いてあった千円知らない?!」父にそう聞くと、「あぁ、ごめんアヤのだったのか。」と言って出てくる事が多い。何故、大の大人が、子供が置いたたった千円をとってしまうのか。私には理解ができなかった。そんな事が何度もあったから、私は、母の話も信じ切っていた。だけど、思春期の子供は、ある程度の「社会」と言うものは分かるようになっていて、反面まだまだ無知な部分もある。毎日、いつかこの家庭は崩壊するんじゃないかと不安で一杯だった。いつか父が捕まるんじゃないか?会社が潰れるんじゃないか?借金取りが夜中に押し寄せてくるんじゃないか?母は父のお金に関する愚痴を言うとき、必ずセットで言っていた。「パパは生活費も一銭も入れてくれないのよ。全部ギャンブルに使っちゃうから」私は全部を受け止めて、父を軽蔑していた。「よくご飯毎日作ってあげられるよね。私だったらできないわ〜」と、母に「共感」を示す。この頃は、実際に思春期ということもあり、父のことは好きではなかった。毎日のように母から聞かされる「お金の愚痴」にうんざりだった。こう言った類の愚痴を受け止めるのは長女である私しかいない。弟と妹はまだ小さい。兄は家にいない。私ばかりが、本来子供が背負うべきではない大人の不祥事を背負わなければならない。これはまだまだ序章に過ぎず、この先も、何年も私は、「親の不祥事」に頭を悩ませることになる。
2020.05.04
県内トップの進学校に入った兄と私。ちょっとランクを下げた弟。そもそも受験から逃げて私立に単願で入った妹。母は弟が受験校のランクを下げると言い出した時、気が狂ったように怒っていた。「一体何のために塾に入れてお金出して来たと思っているの!?」「送り迎えがどれだけ大変だったと思っているの!?」私は母の愚痴を永遠と聞いては、「ママ頑張ってたもんね。」と寄り添い、機嫌をとっていた。そして一方、この時ばかりは自分の意見を変えずに頑なになる弟、夕飯すら食べないというので母が仕事に行った後にこっそりおにぎりを作って部屋に持って行った。でも、そもそも弟は、兄と同じ進学校に行きたいから塾にいかせてくれと、そう頼み込んだだろうか?大抵は中学生が塾に通うのなんて親が入れているわけで、子供が上昇志向を持って親に頼み込んで行かせてもらっているケースは少ないように思う。それを、塾に行かせている=県トップの進学校に行ってくれると勝手に期待を持ち、それに子供の選択がついてこないと怒り狂う。いつ、誰が、その高校に行きたいと言った?その高校に行きたいから塾に行かせてくれと、弟がそう言ったのなら弟にも言葉に責任が生まれるけれど、弟がそんなことを言うとも思えない。母が、我が子の受験に躍起になる理由は明白だった。母がやっている英語塾の「宣伝」になるから。その証拠に、きょうだい全員の受験が終わった後に、母は私だけにこっそり言った。「上2人の受験のあとは塾の生徒が増えたけど、下二人の受験の後はむしろ減ったわ・・・」やっぱりこの人にとって一番大事なのは子供ではない。薄々感じてはいたけど、それが証明されてしまった。母の本音は、他のきょうだいも全員気付いていて、横浜のおばにそれぞれが別々のタイミングで愚痴っていたらしい。「お母さんにとって子供の受験は塾の宣伝材料でしかないからね」4人とも受験が終わると口を揃えてそう言うと、叔母がいつだか言っていた。子供の受験は、親の広告材料ではないし、塾に行くのもその先でどんな決断をするのかは子供次第です。聞きたくなかった母の本音。聞いてしまった母の本音。やはりここでも「無条件の愛情」は手に入らないと、心の何処かでショックを受けた。
2020.05.02
昔から父も母も「条件付きの愛情」だった。母は子供に「優秀な子」でいることを求め、父は「言うことを聞く良い子」であることを強いてきた。父はよく、子供がいうことを聞かない時言っていた。「いう事聞かないならもう◯◯買ってあげない。」「悪い子はもうどこも連れて行ってやんない」「弟と妹の面倒見るならこれ買ってやる。」そして今だに息子にも言っている。「良い子にしていないと鬼に連れて行かれるよ」「悪い事する子はもう〜〜には連れていけないよ」純粋な4歳児はすっかり騙され言うことを聞く。これ、「ダブルバインド」と言って、子供が成長して思春期に入った時、大人を信用できない子供になってしまうらしい。良い子にしていないと鬼に連れて行かれるなんて嘘だし、「良い子」にしていなくちゃいけないのは大抵大人の都合。思春期ですごく荒れる子や反抗期が激しい子、非行に走る子の多くは、親がダブルバインドを使って言うことを聞かせてきた子供たち。子供の純粋さを利用して、ある意味「脅し」でいうことを聞かせることは大人にとってはとても手っ取り早くて簡単だけど、子供はいつかその「理不尽さ」と「非整合性」に気付きます。その時に、今まで「脅し」を使って楽をしてきた大人を信用しなくなり、むしろ敵視すらするようになって、そしてその鬱憤が、「他人」や「社会」へと向いてしまう。私も父の「脅し文句」は中学生くらいの時から心の中で軽蔑するようになったし、今だに息子にこの言い方をすることがすごく嫌で、それを聞くたびに、何にも変わっていないし何もわかっていないと内心がっかりする。「脅し」や「交換条件」でいうことを聞かせることは簡単だけど、それって楽をしたい大人の都合で、本当に子供のことを考えるなら、わかるまで何度でも話をしてあげたらいい。ダメなことな何故ダメなのか?周りに、自分に、どんな影響があるのか。逆に、きょうだいの面倒を見て欲しい時は、何故見て欲しいのか?見てくれたら子供にとって、親にとって、きょうだいにとってどんな良いことがあるのか?危ないことをした時は、それをしているとどうなってしまうのか。そうなると周りはどんな気持ちになるのか?わかるまで、何度でも何度でも、懇々と言って聞かせることが「子育て」というものではないだろうか。暴力や暴言に頼らず、子供は、ちゃんと落ち着いて話をすれば理解します。脅し文句なんて使わずとも、目を見て、何度も話せばわかります。もうすぐ我が家には第二子の赤ちゃんが生まれるので、息子も最近はとても楽しみにしてくれているけれど、決して、「お兄ちゃんになるんだからしっかりしないとダメだよ」とか「赤ちゃんの面倒みてね」とは言わないようにしています。だって、きょうだいが出来るのは大人の都合で、本人の意思ではないから。そして、子供が増えても、育てるのは親の義務だから。兄弟の面倒を見ることは、子供の「義務」ではないし、親のキャパ不足に、子供の手を当てにするのはお門違い。便利な「猫の手」ではないのです。息子には、「赤ちゃんが生まれてもあなたのことが一番大好きだし、あなたのことはいつでもお父さんとお母さんが守ってあげる。でも、もし赤ちゃんが助けを必要としているときにお母さんのパワーが足りなかったら、その時はあなたのパワーを分けて欲しい。あなたが力を貸してくれたら赤ちゃんも嬉しいし、お母さんもとっても助かるよ。赤ちゃんは、あなたのことが大好きでこのお家に来てくれたみたいだよ♪」そう伝えています。兄弟の面倒を見るにも、それが「愛されるための条件」なのか、「誰かの支えになり感謝されるのか」で、子供の気持ちって全然違う。決して、兄弟の存在をマイナスにしないこと。兄弟がいても自分が愛されていることに変わりはないと、そう思わせてあげることが親としての役目だと思っています。
2020.05.02
おばあちゃんの家がある横浜へ年に何度か帰省する時。 母は自宅待機で来ないこともあった。 車の中には父と私と弟と妹。兄は歳が離れていたので一緒には来なくなっていた。 相変わらず私は助手席に座って父に話しかける。 すると、急にゴーーーーー!!!っというごう音が鳴って、びっくりして後ろを確認すると、後部座席のスライドドアがゆっくりとあいてしまっていた。 どうやら妹がスライドドアの鍵をいじっていたら開けてしまったようで、風圧でドアがスライドしてしまいあいてしまったようだった。 びっくりした父は路肩に車を止めて、後部座席にものすごい剣幕で移動し、妹を何度も何度も平手打ちした。 「後ろみてみろ!!!あぶねーだろ!!!!」 普段、弟が殴られることはあっても、女の子が殴られることはなかったので、妹も私もとてもショックだった。 でも、大人になって親になった今思うことがある。 それって子供が悪いの? だって、いくら今より規制が緩かったとはいえ、あれこれ触りたい盛りの2〜3歳の子供をチャイルドシートにも乗せず自由に動き回れるような状況を作っていたのは大人。 万が一の時のために「チャイルドロック」をかけていなかったのは大人。 そして何より、ロックを解除しただけで風圧でドアがあいてしまうくらいスピードを出していたのは運転者なのです。 昔は父は高速道路で140〜150キロ平気で出す人で、時には前の車が遅いと煽るようなこともやっていて、母に「危ない!!やめて!!」と言われていたので 私はいつしか父の隣にいながらスピードメーターを確認することも癖になっていたのでよく覚えている。 父との長距離移動は、心が休まらなかった。 子供を危険から守るように気を配ることは「親の義務」です。 それを怠って子供を危険な目にあわせたのなら、責めるべきは子供ではなく「自分」。 あの時の光景を思い出しては それって妹が悪かったの? と、ぐるぐると自問自答している自分がいます。
2020.05.02
父は今でもよく、「あやは昔から車に乗るときはいつもパパの隣に座って絶対に寝なかった。それで話し相手をしてくれた」と言う。きっと父にとっては父親思いの「優しい娘」に映っていただろう。でも、私が「寝ない理由」は父への思いやりなんかじゃなかった。父は車の運転中にもすぐ機嫌が悪くなり怒鳴りちらすことがよくあった。母がその場にいればよく言い合いもしていた。母が運転に関して口を出すとそれだけで「口出すんじゃねぇよ!!!」と大声で怒鳴る。私はそれがすごく嫌で嫌で、いつも長距離の移動の時は渋滞状況や父の疲労度に気を配り、機嫌が悪くならないようにひたすら話しかける。家族でディズニーランドへ行った時。行きの道中で父と母が激しく言い合いになったことがある。理由は、あいにくの雨で「パーク内で傘を買えばいい」と言い出した父に対して母が「高いから勿体無い」と言ったことだった。いつもいつもお金にうるさい母。いつもいつもお金遣いの荒い父。楽しみにしていたディズニーランドへの道中、「傘」ごときで大げんかになり、しまいには母がワンワンと声をあげて泣き始めた。あぁ・・・気を抜いた私がバカだった。車内は静まり返る。緊張感を持って「調整」しなくてはならないのは帰りだと思って気を抜いて、行きの車内ではひたすらディズニーランドを楽しみにしてしまっていた。今日はこの時点で「不合格」家の中なら弟と妹の手を引いて外に逃げたり別室に連れて行くことができるけど、車内という密閉空間では逃げ場なんてどこにもなかった。逃げることを許されないその状況で、ただひたすら耐えるしかない。心を無にして時間が過ぎるのを待つしかない。父と母が、仲直りしてくれるのを待つしかない。ただ純粋に、ディズニーランドを楽しみに道中を楽しむなんてことは、私にとっては贅沢なことだった。今だに私は、夫と息子の三人での長距離移動の時も、車で安心して眠れたことはない。夫はいつも「寝てていいよ」と言う。ここにはもう、「イライラする人」はいない。「怒鳴る人」もいない。喧嘩に怯えることもない。それでも体に染み付いた癖はそう簡単には抜けなくて、どんなに疲れていようとも起きていることに必死になってしまう。ただ、一つだけ変わったことは、結婚して自分の家族とのみディズニーランドへ行くようになってから、純粋にディズニーを楽しいと思えるようになったことだった。誰にも怯えることなく、自分の好きなようにパーク内を回ることができる。それがこんなにも「自由」で楽しいことだと気付き、ディズニーランドを純粋に満喫できるようになったのは、私が30歳を超えてからだった。
2020.05.02
実は去年の春に、大好きだった叔母がガンになった。 そして同時に、叔母の不倫が発覚した。 すごくショックだったし、叔母はいろんな人を振り回し傷つけたと思う。 だけど、ずっと叔母の家庭を間近で見て来た私には、その不倫の根底には同居していたおばあちゃんが深く関わっていることに気付いていた。 叔母一家と同居していたおばあちゃんは、いつも叔母一家にべったりだった。 外食に行くにも旅行に行くにも、自分だけ待っているという選択肢はない人で、ハワイ旅行にまで付いて行っていた。 本当に、常に、べったり一緒。 叔母と叔父といとこの三人で家族旅行に行けたことなんて一度もない。叔母がそう言っていた。 そしてもちろんおばあちゃんがべったり一緒だと、叔父の居場所がなくなる。 子育てに手出しできなくなる。 それが叔母にとっては「パパは子育ても介護も私に丸投げで何にも協力してくれなかった」となってしまい、それが長年の不満として蓄積されていったように思う。 休日もいつも叔父だけ「蚊帳の外」だった。 おばあちゃんが同居してなかったら。 同居しても「境界線」を守ってくれていたら。 叔父はもっと子育てに関わることが出来て、叔母との関係性も違っていたのではないかと思えてしまう。 おばあちゃんは同居を始めてすぐの頃に叔父の実家をけなすようなことを言ったこともあるらしく、それでいていつもいつも叔母一家にべったりつきまとうので、 本当に叔父には自分の居場所がなく、仕事も忙しいのであまり家庭に早く帰ろうという気にもならなかったのだと思う。 おばあちゃんは、認知症が進むと叔父と叔母の夫婦の部屋を覗き見したり、光熱費の支払いを叔母になすりつけたり、スーパーに行くと自分は払いもしないのに食べたいものをポンポンとかごに入れて行く。 叔母はいつもうんざりしていた。 叔父にもおばあちゃんにも、うんざりしていた。 「境界線」を守らない親子の末路が、我が子の家庭を壊す。 そんなことは絶対にあってはならない。 ずっと叔母の家庭を見てきて羨ましく思ってきたけど、最後の最後で悲しい結末だった。
2020.04.28
夫は、本当に文句を言わない人で、私の家族ともうまくやってくれてると思う。 一緒に帰省することにも文句言わないし、私の両親と一緒に行動することにも全く嫌な顔一つしない。 でも、私も親も、夫のそんな優しさに甘えすぎていたと思う。 だんだんと距離感が近付き過ぎて、気付けば、実家に帰った時の「私たちの(夫と私と息子の)家族の時間」がなくなって行った。 私たちが群馬にいるとべったり一緒の父。 仕事に行ったかと思えばまた顔を見に帰って来たり、私たちが出かけていると電話がかかって来てどこにいるのかを聞かれ、合流してお昼を一緒に食べる。 常に「今日の予定は?」と聞かれ、 暇さえあれば常に一緒に行動するのが当たり前で、以前プールに行くと言った時にはそれも一緒についてくる。 夫が先に関西に帰る時でも駅まで一緒に送る。 そのうち夫が、関西へ先に帰るときは「最寄りの駅から1人で帰るから大丈夫だよ」という様になった。 一つも文句は言わないし、真意はどうか分からない。特に深い意味はないかもしれない。 でももし逆の立場だったら、私だったらきっと義理の家族とべったり一緒に過ごすことは間違いなく疲れるだろう。 去年の1月に息子がディズニーランドデビューをしたが、その時も父は一緒に行きたいと言って、私が夫の仕事のスケジュールで勝手に日程を決めたら「なんで勝手に決めたの!?」と少し不満げだった。 結果的に夫が仕事の急用で初日は来れなくなったから初日は親と、二日目は家族でパークに行くことが出来たが、 「旅行も一緒が当たり前」になっていることに少しの違和感を感じていることに私はこの時まだ気付いていなかった。
2020.04.28
父はスマホでしょっちゅう孫たちの写真をバシャバシャ撮る様になった。 時には私が寝起きでまだパジャマなのに、私の膝の上に座る息子の写真を撮る。 これも1人の女性として良い気はしないけど、やっぱり言えなかった。 実は思春期の頃、休日に自分の部屋で寝ていると、寝起きの父が私の部屋をそーっと開けて、寝ていることを確認するとまたそーっと扉を閉めることがよくあった。 これは妹にも同じことをやっていて、ただ寝ていることを確認したかっただけかもしれないが、思春期の女の子がそんなことされて良い気がするわけない。 「境界線」がないから平気でそういうことをする。 そして私も妹も父に「支配」されているからそれを嫌だとは言えないし、妹に至ってはおそらく自分がそれを嫌だと思っていることすら気付いていない。(自己防衛のために気づかないふりをする) 父はいつだか「うちの子たちはみんな反抗期もなかったしパパと仲良しだった」と言っていたが、 それは違う。 反抗期に「反抗する」選択肢を与えなかっただけ。 恐怖で支配していたから。 嫌なものは嫌。 そして、父は私と妹が学生時代の時から、必ずバイト先や職場に来たがる。 私のビールの売り子のバイト、 居酒屋のバイト、 妹のうどん屋、 なぜか男兄弟の職場には全く興味を示さないのに、女の子の職場には来たがる。 飲食系のバイトだと、「客」として来たら拒む理由がない。 妹も私も嫌だと言ったことはないけれど、普通の親は成人した子供の持つ世界にそう簡単には踏み込まないということに気付いたのは、 つい最近だった。 妹は、今年もう26歳。 親が職場に挨拶をする年齢ではないし、 たとえ我が子であっても、子供には子供の持つ「世界」があって、そこは親が勝手に踏み込んでいいところではない。 父の会社で働く若い女の子の親がしょっちゅう仕事ぶりを覗きにくるだろうか? 私は、バイトであれなんであれ「職場に親が来る」ことになんの違和感も持っていなかったけど、最近になってようやくそれがおかしいことに気付いた。 そういえば、周りにそんな人はいなかった。 だって子供はもう成人したいい大人だから。 親の挨拶なんて必要ないし、そこでの居場所は子供が自分で作るものです。 せめて行っても一回だけ。それも知り合いなら一度だけ挨拶したらあとは子供に任せる。 そうして立ち入らずに見守ることも親の大事な務めではないだろうか。
2020.04.28
息子がどんどん大きくなって、関西に引っ越してからも頻繁に群馬へ帰っていることもあって、父はとても息子を可愛がってくれている。 だけど、ここ数年は父も歳を取ってきたからか、どんどん私たち家庭(夫と私と息子)との「距離感」を取ってくれなくなってきた。 スマホを買ってテレビ電話ができるようになり、しょっちゅうテレビ電話をかけてくるようになった。 たまになら別に良いけど、多いときには毎日のようにかけて来て、数日連日で出れないことがあると、繋がったときに「なんで出なかったの?」と聞いて来る。 そして時には、土日でも平気でかけてくるようになった。 土日は夫も在宅だけど、急用かなと思って電話に出ると「ただ息子の顔を見たかっただけ」と。 土日までかけてくるのが嫌で、私は、平日に電話に出なきゃと必死になっていった。 だいたい今日は何時に帰るよとメールで伝えておいて、たとえ友達と遊んでいようともその時間には家に帰れるよう必死になる。 息子にも「じーじからお電話くるから早く帰ろう」といって公園を後にする。 電話がくれば、息子がお腹がすいていても眠そうにしていても、父の相手をする。 だけど息子ももう4歳。 じーじから電話がかかってくるとお母さんは自分の相手をしてくれなくなると気付き始めて、電話をしていると「もうバイバイする」とか「お電話終わりにしよ?」と言い出すようになった。 しまいには夕方の中途半端な時間に、私が父との電話をしている間に気づけば息子が寝てしまっていることもあり、そうなると今度は夜寝ない。。。 正直、父からの電話に生活を振り回されていた。 だけど、精神的に支配されている人間に、これを振り払うことなどできない。 嫌な顔一つせず相手をしてしまう。 電話に出てしまう。 そして息子がお腹すいたと言っても私は父の電話を優先して、ときには夕飯前なのに息子を黙らせるためにお菓子を与えていた。 グズグズわーわー言っていたら「うるさい!!静かにして!!」と怒鳴りつけた。 本当ならこの時間は、息子にチャチャっとご飯を食べさせてお風呂に入れて、夫の夕飯を準備したい。 だけど私は、それを父には言えず、自分と息子の生活を犠牲にしていつも父の相手を優先する。 正直、重かった。
2020.04.28
結婚してから、どこかでずっと感じていた違和感。言葉にできないその違和感の正体が、最近やっとわかってきた。私は、夫と築き上げた「自分の家庭」に、実家の家族が立ち入ることが実のところ嫌だった。親はもちろん、きょうだいでも。長く居られるのは嫌なのです。それは、ここが今の私にとって一番の「安心できる場所」だから。そこに実家の家族が立ち入るということは、やっと手に入れた「安全基地」を侵されるような気がして、それがとてつもなく怖い。だって、もともと何かで「支配」してきて境界線がない人たちだから。「境界線」とは、物理的距離も心理的距離も含めて。娘といえど、結婚したら「よその家庭の人間」であって、娘の家庭は「他の家庭」に過ぎないのです。母と父、それから叔母との「境界線」について少しずつ整理して行きたいと思います。
2020.04.28
息子を産んでから、いわゆる「ママ友」が増えた。同時期に産んでいるので、初節句が近付くとみんなどうやら母親と兜飾りについて話し合っている。世間一般的には、妻側の親が兜を買ってあげるらしい。みんな「うちの母親が張り切っちゃって〜♪」と笑みをこぼしながら言っていた。一方うちは、そんな話はもちろんなかった。でも、こればかりは夫の親に対する体裁もあるし、何もしてくれなかったとなるとどう思われるか分からない。勇気を出して母に連絡をしてみた。「もうすぐ初節句だけど兜って買ってくれるのかな?」すると母から電話がかかって来た。「兜なんて邪魔なだけだから、旅行とかにしたら〜?」兜なんて邪魔・・・・兜なんて邪魔・・・・息子の初節句を全く喜んでくれる気配もなく、兜なんて邪魔なだけだという母。カチンと来た。「みんな周りは親が楽しみに兜を選んでくれているのに!!なんでそんなこというの!?』私がそう言うと、母は「だったらママが、わぁ〜楽しみ〜!とか言って兜選べばいいわけ!?」もう、何を言ってもこの人には通じない。泣きながら父に電話をして、ことの経緯を話した。父はもちろん怒り狂って、母にきつく言ったのだろう。なぜ祝い事でそんな思いを娘にさせてるんだよ!!もっともな意見だと思った。結局は父と祖母とで選びに行ってくれて、立派な兜が届いた。夫の両親にも写真を送ったところ、「立派な兜買ってもらってよかったね〜!!」と言ってもらえた。どんなに小さな兜でもいい。やっぱり第一子の初節句くらい、ちゃんとみんなに祝福して欲しかった。周りの人がそうしてもらっているように。妊娠出産に関してもそう。特別なことをしてくれと頼んでいるわけではない。普通の人が普通に親にしてもらっていることをしてもらいたかった。ただそれだけのことなのに。大人になってもなお、毎回期待しては裏切られ、また期待しては裏切られる。親が子供のために「何かしてあげたい」と、そう思ってくれることはそんなにも私の高望みなのだろうか。ここでもまた、「みんなと同じ」が経験出来ず、悔しくて悔しくて、ワンワンと泣いた。息子を抱えて、ひたすら泣いた。
2020.04.28
周りにも何人か友達で同時期に妊娠をした人や、すでに出産している人がいた。ブログでも、同時期に妊娠している人のブログを読んだ。みんな、つわりでしんどい時はお母さんが手伝いに来てくれていたり、手作りの栄養あるご飯を送ってくれたりしている。一方うちの母は、心配する電話一つよこさなかった。「そのうち終わるよ」たったそれだけ電話で言っただけ。周りの人が普通に親に心配してもらえて、親が何か娘のためにできることはないかと必死になってサポートしてくれているその光景が、私には眩しかった。そして迎えた出産の時。退院日に、夫は仕事だった。12時過ぎには退院しなければならず、荷物の量を考えると付き添いが必要だった。その日母が、朝群馬を出て病院まできてくれることになっていたので、「12時に退院になってるんだけど・・・」と伝えたら、「そんなに早くは行けないから午後に着くように行く」と返事が返ってきた。「なんか用事でもあるの?」と聞いたら「朝早すぎるから」母は、午前中に何があったわけでもない。ただ「そんなに早くは起きられない」それだけのことだった。朝7時に出れば間に合う距離なのに。出産という人生の一大イベントの時でさえ、母は何を差し置いても協力する姿勢はなかった。その日、結局夫が午後仕事を休んで迎えにきてくれた。でも、午前中に仕事をしてから来たので12時には微妙に間に合わず・・・私は荷物と息子を抱えて1人で病棟をあとにした。最後にお世話になった病棟の看護師さんに挨拶を済ませ、入院タグを切ってもらい、息子を撫でてもらった。看護師さんが、私の周りに誰もいないことを察知して「お迎えは?誰かいる?荷物大丈夫?」と聞いてくれた。私は「すぐそこまで来てます♪では、おせわになりました」と嘘をついてその場を去った。同時に出産した人もこの日退院だったので、その人は、両親と旦那さん、たくさんの人に囲まれて荷物も持ってもらって退院していた。なんだか自分の置かれた状況との差に、その人と一緒のエレベーターに乗ることは出来なかった。「夫が今くるのでお先にどうぞ♪」と、ここでもまた嘘をついてエレベーター前で見送った。ベンチでしばらく座って待っていたら、夫からそろそろ着くよと連絡が入って、1人エレベーターに乗って一階で夫と合流した。家について程なくして、母が到着。あとたった1時間。どうして早く家を出れなかったのだろう。出産の時でさえ、母は自分が優先だった。でも、この人にはもう何を言っても仕方ない。諦めよう。母は自分も入院を経験しているので、退院の時には誰かにお迎えに来てもらっているはずなのに、1人で退院する私の気持ちは理解できない。いつもいつも、「自分が優先」で子供のためなら自己犠牲も厭わないという人ではなかった。それがまた、同じ母親になった身として一層理解できなくて、この先私を苦しめることになる。
2020.04.28
過食の頻度は変わらなかったけど、だんだんと、一度の過食で食べる量が減ってきた。もしかしたら治るんじゃないか?私は初めて、精神科に行ってみた。しばらく通って、睡眠薬や精神安定剤を出してもらったけど、やっぱり完治はしなかった。でも今思うと、「治したい」と思って精神科に自ら行き始めたこの頃から、自分の病気の根本的な原因が育った「家庭」にあることに気づき始めたのだと思う。自分も新たに家庭を持ったことで、育った家庭に「違和感」を持つようになっていた。そしてだらだらと精神科に通っていた矢先に、妊娠がわかった。この頃から私は、母のことがだんだんと嫌いになっていった。今までの人生を思い出して、やはり母のことが理解できなかったのだと思う。そして同時に、私も母のような母親になってしまうのではないかと不安でいっぱいになった。大嫌いな母親。あんな母親にだけはなりたくない。でも果たしてそれができるだろうか?「普通の母親」を知らない私に、それができるだろうか?妊娠期間中、私はお腹の我が子を一度も愛おしいと思えたことはなかった。
2020.04.28
仕事を辞めて、夫の赴任地について行き、新しい生活をスタートした。自分には無縁だと思っていた「専業主婦」いつもいつも「頑張ること」を強いられ生きてきた私にとって、この生活は人生が一変した。人生で初めて、何も「頑張ること」がない生活。ただただボーッとして、特別強いられる仕事もない。専業主婦なのに、ご飯作りをサボることもあったし、家事をしないのに自分の好きなことだけに時間を使う日もあった。それでも夫は何も言わなかった。「頑張る」ことを何一つ求めなかった。生まれて初めて、「ただ、そこで生きていればいい」とそう言われた気がした。いつもいつも「条件付き」の愛情だった実家と違う。母は自分の思い通りに子供が生きてくれることを条件とし、父は暴力で心を「支配」することで、「言うことを聞く良い子」であることが条件だった。新しく手に入れたこの家では、私は何に怯える必要もない。誰かの機嫌をとる必要もない。「調整役」である必要もない。こんな世界があったのかと、自分でも衝撃を受けた。そして同時に、過食もだんだんと落ち着いてきた。完全に治ったわけではないし、またいつ出てくるかも分からない。初めて摂食障害を「治したい」と思った。
2020.04.28
それからは、会社に行こうとすると最寄りの駅から動けなくなって電車に乗れなかったり、会社に行っても涙が止まらず早退してきたりと、かろうじて生きてる状態だったと思う。叔母が近くに住んでいたので、叔母はことの重大さに気付いてくれていた。何度も駅まで迎えに来てくれて、遠方に住む親を呼び寄せて、私が話をする機会を作ってくれた。親2人が揃う食卓の席で、私は初めて、「仕事が辛い。もうやめたい」そう言った。言ってるうちに涙が止まらなくなった。とめどなく溢れる涙を抑え切れず、わんわん泣いた。そんな姿を見て、父と叔母は慰めてくれた。だけど隣にいた母はずっと黙ったままだった。そして横でついてるテレビを見てひとこと言った。「この女優、老けたよねえ〜」私は、泣きじゃくる娘を目の前にして、このひと言を言い放った母への憎しみを今でも忘れない。どんな気持ちで、こんなことが言えたのだろう。なぜこの状況で、「目の前の我が子」ではなく他のことに気を取られているのだろう。この人は、やっぱり我が子への愛情がない。きっとこの人にとって、我が子はロボットと同じ。母の中に、「子供の姿」は映っていない。昔、父の弟への暴力を母に言っても何もしてくれなかった「分裂」の瞬間と全く同じ感覚が、私の中を占めていった。2度目の「分裂」の時だった。
2020.04.28
働いてた2年間、過食はおさ丸ことはなかった。勤務時間中でも「過食スイッチ」が入ってしまうと、どうしても止められない。仕事を抜けてコンビニに駆け込み、大量の食料を買って別のフロアでひたすら食べる。会議中にもチョコレートを貪るように食べる。普通の社会人が、会議中にものを食べるなんて、非常識もいいところだ。それでもやめられないのがこの病気の恐ろしいところ。身も心もどんどんボロボロになって行って、仕事に行くのが苦痛だった。そしてある時から、私は小さなミスを繰り返すようになる。取引先との約束時間を間違える。打ち合わせの場所の変更をメールでやりとりしたのにすっかり忘れて、それを上司にも言い忘れて打ち合わせに遅刻してしまう。上司の話が頭に入ってこない。理解ができない。まるで自分だけ水の中で溺れていて、水面での会話を眺めているような不思議な感覚だった。そんなことが繰り返されたある日。私はとてつもなく大きなミスをした。そのミスは、周りの人に迷惑をかけるだけでなく、何万人の現場の人やお客様にも影響が及んでしまうかもしれない絶対にやってはいけないミス。何かが崩落した。もう限界だった。そのミスで周りがバタバタと動いてる中、1人で家に帰った。
2020.04.27
小康状態で迎えた入社式。研修期間はホテル暮らしとなった。小康状態を保っていた大学生後半の生活は、朝ごはんをなるべく遅くに食べるようにして、昼ごはんと一緒にしていた。そうすることで、昼時にお腹がすかないので摂取カロリーをセーブできた。でも、入社してからはそうはいかない。朝6時台に起きて、朝ごはんを7時には食べて出社する。そうなると、12時には空腹だった。でも、もう長いこと昼ご飯を食べる習慣自体がなかったので何をどれくらい食べていいのか見当がつかなかった。おにぎりを一個、または野菜のサンドイッチを買ってお昼休みに食べてみた。そうなると今度は夕方お腹が空いて仕方ない。そして入社後は強制参加の飲み会が立て続けにあり、人と食事をすること自体を避けていた私にはこれほどストレス負荷がかかる生活はなかった。逃げたい。でも逃げれない。飲み会の帰りに、お土産にと上司がケーキを買ってくれた。何個か入っているケーキを片手にホテルへ帰った。部屋に着いた瞬間、言いようのない、身に覚えのある感覚が自分を襲った。さーーーっと胃袋の底が抜けていく感覚。気づいたら、持ち帰ったケーキを貪るように食べていた。そして手当たり次第、お菓子や菓子パンなど抱え込んで食べていた。小康状態だったマグマが再び噴火した。就職という今までとはまた違ったストレスとプレッシャー、そして社会人としてのお付き合いの「飲み」が私を縛り付けた。就職してものの2ヶ月で、あっという間に10キロ太った。周りからも「どうしたの?激太りしたよね?」と言われることもあったし、遠回しに「最近ダイエット始めてさー、あやってダイエットしたこととかあるの?」なんて聞いてくる人もいた。言いたいことは分かってる。あまりにも短期間で急増した体重に、自分の心もついてゆけてなかった。
2020.04.19
このルールで私は、いろんなものを失った。でも、中にはつべこべ聞かずに「振り回されてくれる人」もいた。旅行に行って、コースディナーを予約していたのに、それを当日私が「やっぱりやめない?」と言っても「いいよー!」と言ってくれて、旅行プランに入っていた豪華なコースディナーを捨ててくれる友達がいた。でも、大抵の人は約束をしてもドタキャン率の高い私とは約束自体を避けるようになる。食事をしても全く食事に手をつけないこともある私に、軽蔑の目を向けていた。普通の大学生らしく、普通に飲み会を楽しんだり、人との関わりを満喫したい。でも、それがどうしてもうまくいかない。その満たされない思いを何かで埋めたくて、また過食をする。もう何年も、1日3度の食事を普通に食べれていない。1日3食、普通に白米をおかずと一緒に食べることに憧れた。いつか私も、あんな風に1日3回も炭水化物を食べれる日がくるのだろうか。一体どこで私の人生間違えたんだろう。人生をやり直せたら、この苦しみを背負わずに済む生き方を選びたい。そんなことを考えながら日々淡々と学校に通っていたけど、無事に編入試験も合格して編入が叶ってから、二年ほど過食が少し落ち着いていた時期があった。おそらく、「編入」と言う最後の受験が終わってプレッシャーから解放されたことと、当時付き合っていた彼が私の「安全基地」となってくれたからだと思う。ずっとずっと「条件付きの愛情」しかなかった私にとって、初めて頑張らなくても愛されることを知った。言いたいことを言いたい時に好きなだけ言える。それを聞いてもらえる。そして何より、機嫌を伺わなくて済む。これが私にとっても本当に本当に大きかった。何も考えずに自分らしく生きれる場所を初めて知った。「条件付き」の条件達成に必死になることもなく、もしかしたら相手が離れていくんじゃないかと不安になることもなく、ただただ「ありのまま」を好きでいてもらえる。それがこんなにもホッとする。安心して毎日を送ることができる。気づいたら、「過食」をする日が少なくなっていった。1日3食きっちり食べることは出来なくても、外食が出来なくても、朝ごはんだけはしっかりと食べて、チョコレートやアイスを食べて「適度」で終わらせると言うことも出来流ようになった。過食のサイクルの時は、一度食べ始めるとやめられなくて、とめどなく食べ続けていたのに。チョコレートを2〜3粒。アイスを一つ。それで満足できた。「安全基地」を与えてくれる人が現れたことで、一時的に満たされ、根本的な治療にはならないにしても、不思議な感覚だった。そして過食がなくなったことで、少しずつ体重が減っていった。たまにであれば人と食事も出来るようになった。綺麗になったねと言われるようになって嬉しかった。大学生の後半は、少しは「大学生」らしく毎日を過ごせるようにもなって、楽しかった。就職活動もうまくいって、社会人になるのを楽しみに待ち、もしかしたら「摂食障害」は治ったんじゃないか。そう思っていた。でもこれは、単なる「小康状態」に過ぎなかった。
2020.04.19
過食と絶食のサイクルはずっと続き、居酒屋のバイトも走り込みをしてから出ないと行けなかった。みんなが17時の開店と同時にシフト入りしているのに対して、私は19時からしか入れず、お店が一番忙しい時間になってからのシフト入りを迷惑がられているのに気付いていた。みんな23時か24時でシフトが終わるので、その後バイト仲間で飲んで帰ることはしょっちゅうだったけど、それに参加すると過食を招いてしまいそうでいつも参加できずにいた。「いつ誘っても断られる。」「付き合いが悪い。」先輩たちにそう言われるようになった。私だって参加できるなら参加したい。大学生らしく、普通に飲んで、適度につまんで、楽しい時間を過ごしたい。だけど、「過食と絶食」このルールがそれを拒む。だんだん誘ってくれる人さえいなくなって行った。このルールのせいで失うものはそれだけではなかった。叔母の家に行った時。叔母が焼きそばを作ってくれた。一人前こんもりと盛られた焼きそば。こんな炭水化物の塊、食べられるわけがなかった。夕飯で出された焼きそばを私は手を付けられず、あした食べるねと行って残した。でも、その「明日」も食べられるわけがない。翌日のお昼になっても手を付けない姿を見て、叔母は何度も「食べないの?せっかく作ったのに!!」と聞いて、その度に濁す私にしびれを切らしたのか、最後は明らかに怒った態度でその焼きそばを捨てた。隣にいたおばあちゃんが「あら捨てちゃうの?」と言うと、叔母は「せっかく作ったのにアヤは食べないんだって!!勿体無い!!!」叔母はとても怒っていた。私だって食べれるなら食べたい。でも、病気だと言うこともできない。他にも、この歳の女の子によくある「バースデーサプライズ」一緒にカフェでお茶をしていると、いきなりハッピーバースデーの歌とともにケーキが出てくる。これが私はすごく苦手だった。この頃、ランチだと一人前食べれないからあえて2時過ぎのお茶の時間に会うようにしていた。紅茶一杯だけ頼んでも不自然じゃないから。なのに、ケーキが出てきたら、そしてそれが自分に向けたものだったら断ることなどできない。友達からの好意を心から憎む。余計なことしないでよ。。。心の中で何度も言いながら、食べたくもないケーキを泣きながら食べた。他にも、友達と前々から約束してコースディナーを食べる約束をしていた日。その日にたっぷり美味しくご飯を食べられるように、その前5日間を絶食してディナーの日は「過食の日」とするつもりだったのに集合3時間前に、「過食スイッチ」が入ってしまったことがあった。あと3時間だったのに。その3時間を待つことができず、死に物狂いで食べて、食べて、無心で食べ続けてしまった。そうなると、ここからさらにディナーを食べることなんて出来ない。過食をしてしまった「罪悪感」と「後悔」で、人に会うことなんて出来ない。消えたい、消えたい、どこか遠くへ逃げたい、、、コースディナーを当日キャンセルしたら当然キャンセル料がかかる。でも当時の私はそんなことに気が回らなかった。約束していた2時間前。私はその約束をドタキャンした。友達は怒っていた。叔母と同じように、怒っていた。また1人、友達を失った。
2020.04.19
大学なんて、どこでもよかった。とりあえず家を出たかった。短大に入った私は、一人暮らしを始め、「環境の変化」は摂食障害にさらに拍車をかける。誰にも食事を干渉されない食事。自由に使えるバイト代。そして相変わらず1時間半の走り込みを続けて、自由に使えるお金で過食をした。環境の変化でストレスがたまり、人と食事をする機会も増え、食欲をコントロール出来なくなった私は、一週間になんども過食をした。時には3日連続で。とにかくお金が過食に消えて行った。稼いでも稼いでも、過食に吸い取られて行くお金。そしてコントロール出来なくなった過食のサイクルでどんどん太って行った。やっぱりここでも、「普通の女の子」としての毎日は送れない。お金も時間も、全て過食に奪われていく。普通の大学生みたいに、友達とランチをしたり飲み会に行ったりカフェでお茶したり、夜はゆっくりテレビを見て休みたい。みんなが自分で稼いだバイト代をオシャレや遊びに使って楽しんでいるのに、私は稼いでも稼いでも湯水のように過食に消えて行った。本当にお金が底を尽きた時、万引きしかけたことがある。それくらい「過食」というものは理性や世の中のルールなんて凌駕するほど自分の意思ではコントロールができない。「編入する」という表向きの目的もあったので、そのプレッシャーと、何もかもを過食に奪われていく不安。人と食事をすることが出来ないので、人間関係が長続きしない。何のために生きているのか分からないまま、毎日淡々と学校へ通っていた。
2020.04.17
高校三年生になって、進路を考える時期が来た。全く勉強をしていなかった私には、行ける大学なんてない。母は、学年最下位争いをしている私のことを「恥ずかしい」といつも言っていた。PTAか何かで保護者が集まる場でも「うちの子はバカでバカでどうしようもない」と豪語していて、それを話のネタにしていたほど。私にも、「娘がこんなに勉強ができなくてママがどれだけ恥ずかしい思いをしているかわかってる?」と言ったことがあった。母にとって子供は、「所有物」でしかない。思い通りに育ってくれないと不満が出る。この時期、3歳下の弟も高校受験を控えていて、弟が受験校のランクを下げたことに母は激昂していた。「何のために塾の送り迎えをして、高いお金を払って来たと思っているの!?」弟がいない間に私にも愚痴をこぼしていた。私は、家庭の中で「調整役」でいなければならないと思い、必死で母に共感を示し慰めた。だけど、内心は心の底から軽蔑していた。昔から母は、子供が自分の「思い通り」に育たないと気が済まない。バレエをやらせたいと思ったらやらせて、そろそろ辞めてほしいと母が思い始めたらやめろという。M高校に行ってほしいと思ったら、そこに行けるだけの学力がついてなければ責め立てる。高校でも優秀でいてほしいのに、最下位争いをしていたら存在自体を否定する。「何のためにM高校に入ったの?」「何も勉強してないんだから、あなたの学力は中3の時のままよ。」もう、うんざりだった。子供は「所有物」ではない。私は母の思い通りには生きれない。一刻も早くこの家を出よう。そう決めた、高3の秋だった。
2020.04.17
高校に入学すると、新しい環境に張り詰めた緊張感を感じ、そのストレスのはけ口は全部過食に向かった。 この高校に入ることを小さいうちから強いられてきて、ここに入ることこそが人生の全てと思っていた私は、 入学後、勉強ができなくなった。 正確に言うと、燃え尽きた。 なんのために勉強するのか、次の目標がない中でこれ以上頑張ることなど出来なかった。 あとは、過食のサイクルに時間を狂わされ、過活動に時間を奪われ、 時間的にも勉強や高校生らしい遊びに時間を割く余裕がなかった。 ソフトボール部に入部した私は、部活が終わるとすぐに家に帰って、少しの夕飯を食べ、毎日欠かさず走りに出かけた。 過食の日以外の食事は野菜のみ。 魚はたまに食べても肉は一切食べない。 白米は、一度茶碗によそって食事の中盤以降にみんなが見てないすきに炊飯器に戻す。これでさも食べたかのような顔をしていた。 自分で野菜炒めを作ることもあったが、油はもちろん一滴も使わない。 たいして子供のことを見ていない両親の目をすり抜けることなんて簡単だった。 夕飯後はすぐに走り込みに出かけて1時間半走る。 走り終えて帰宅するのは夜の10時。 たいして食事も取らずに部活のあとこれだけ走れば体は疲れてクタクタになる。 お風呂に入ったらベッドに倒れこむように寝た。 勉強する時間なんて全くなかった。 私は県一の進学校で、あっという間に「落ちこぼれ」になった。 それでも、定期的な過食と、絶食、過活動はやめられなかった。 それはもう脅迫的なもので、自分でも一体いつまでこんなことを続ければ良いのか将来を考えては絶望的になることがしょっちゅうあった。 一度始まったこの「とらわれ」は、やめると言う選択肢がない。 だから、日常の当たり前の生活、当たり前の人間関係をどんどん蝕んで行く。 ただひたすらに、過食、絶食を繰り返し、走りまくった。 どんなに疲れていてもやめられないその行動は、日々エスカレートする。 夏休みには、午前中10キロ走り、そのあと自転車に乗り換え片道10キロこいで学校に行き午後は部活で三時間の活動、終わるとまた10キロの道のりを自転車で帰ってきて、夜はまた10キロの走り込み。 また休日の遠征の日は、4時起きで遠征に行き4試合フル出場したあと、夜の9時頃帰宅しそこからまた10キロの走り込み。 1日の大半を運動で占めていたこの時期、もう体はクタクタで、本当にしんどかった。 そして足が疲労骨折寸前になった。 医者から、運動を少し控えた方が良いと言われたがそれでもやめるという選択肢はなかった。 運動量を減らすという選択肢もない。 くるぶしの付近が真っ赤に腫れあがり激痛を抱えながらも、足を引きずって走った。 普通の高校生みたいに、帰ってきたら普通に食事を食べてそのあとゆっくりテレビを見てグダグダする。そういう生活を、いつか私も送れるようになるのだろうか。 一生死ぬまでこんなことを続けなくてはならないのか。 自分の未来が見えなくて、苦しかった。
2020.04.15
卒業式の過食の後、言いようのない罪悪感に襲われた。 やってしまった。 やってしまった。 私はなんてことをしたのだろう。 まるで殺人でも犯したかのような感覚だった。 なかったことにしないと。 何とかこれをなかったことに。 吐いたら楽になることは分かっていたが、一度やったら癖になり抜け出せなくなることは容易に想像できた。 だから、そのあと何日間も絶食をすることにした。 一度の過食で取ったカロリー何万kcal分を何日もかけて絶食すればなかったことにできる。 五日間、ほぼ野菜とゼロカロリーのゼリーだけで過ごした。 それに加えて、走り込みをするようになった。 夕食後に1時間半、ひたすら走る。 これを何日も続けた。 すると5日後には体重は過食前のベスト体重に戻っていた。 それがまた快感だった。 達成感でいっぱいだった。 でも頭は、過食の快感もしっかり覚えている。 五日間の絶食期間を経ると、またこみ上げる過食欲求に襲われた。 コンビニに行き、カゴいっぱいに食べ物を買い込んだ。しめて5000円ほど。 それを一気に食べた。 そのあとはまた絶食と走り込み。 私は、いわゆる摂食障害の典型例「過食嘔吐」型ではなく、「過食絶食」タイプだった。 だからテレビでよく見るような摂食障害の人のガリガリに痩せた骸骨のような体にはならなかった。 食べたものを「帳消しにする」手段が違うだけで、同じこと。 ただ、この過食絶食タイプは、ストレス度合いやイベントごとが重なるとペースが乱れることが多かった。 五日間絶食しなければいけないところ、3日目に大きなイベントが入ったり人と食事をしなければならない状況に見舞われた時、どうしても我慢できなかった。 五日間の絶食というルールを守れなかった自分を責める。 食べる量を、絶食と過活動だけでは帳消しに出来なくなってきて、 高校入学後、数ヶ月で10キロ以上は増えた。
2020.04.15
やっとの思いで合格したMJ高校。 壮絶すぎたその受験は、それは私にとって人生の「ひとつの通過点」ではなく、 例えていうなら、生きるか死ぬかの長い長い命懸けの戦いをやっとやっと生き延びた、人生の「ゴール」だった。 本当は、受験が終わったらしっかりご飯を食べることにしようと思っていた。 それまでは崩せない。 受験が終わったら。 MJに受かったら。 なにもかもなかったことにできる。幸せな未来が待っている。 そう思っていた。 受験の合格発表があって間もなくして卒業式を迎えた。 その日、私は心底開放感に溢れていた。 とてつもない高揚感。 一通りの式を終えて、友達とバイバイして、玄関で親が待ってる前で最後の写真撮影。 そこには部活の後輩も来てくれていて、最後の別れを惜しんだ。 卒業式というのもあって、周りの友達がお菓子を配り歩いていた。 ハロウィンのお菓子交換のように、少しのお菓子をみんなで交換しあった。 もらったお菓子が、少しずつ制服のポケットにたまっていく。 半年以上も決まりきった最低限の食事しかしていなかった私にとって、お菓子なんて久しく食べていない。 卒業式ならではの開放感と高揚感が、自分に迷いを与える。 今日くらい食べてもいいんじゃないのか? 頑張ったご褒美に。 今日くらい…。 スイッチが入ったような気がした。 家に帰ってから、ビスコをひとつ食べてみた。 美味しい。 そう思った途端、もう手が止まらなかった。 次々ともらったお菓子をたいらげ、家にあるお菓子やパンも貪るように食べた。 ただ何も考えず、ひたすらひたすら食べ続けた。 「時限爆弾」が、ついに爆発した。 過食の始まりだった。
2020.04.14
徐々に、徐々に、食べる量を減らしていった。 すると、するする体重が落ちて快感だった。 体重だけは私を認めてくれる、そう思った。 そんなある日、母が倒れた。 急病でしはらく入院することになり、命の危険があった。 それでも不思議と、焦りや悲しみはなく、 それよりも食事を自分の自由に出来ることと、勉強に関してうるさく言う人がいなくなりそれが楽だとすら思えた。 だが、急に母親不在の家になり、まだ幼い弟と妹がいた我が家はとても混乱した。 J高校に入るという、ある意味生きるためのサバイバル。 それに加えて、炊事洗濯掃除に弟妹が運動会や塾の時にはお弁当を作った。 まだ若干15歳の中学生に、この荷物は重すぎた。 しんどい。 眠い。疲れた。休みたい。 でも、学校に行って帰ってきたら家事をして、そのあとは勉強もしなくてはならない。 少しでも勉強時間を確保するため、学校での給食の時間も勉強した。 この頃、しんどい気持ちに比例して食事のコントロールは一層厳しくなった。 決まった内容、ご飯は1グラム単位で計る。 油は一切使わないで野菜炒めを作る。 炭水化物を食べるのは朝だけ。ご飯なら100グラム。パンなら8枚切り食パンを一枚。 空腹との戦いだったが、それでも痩せてく体重を見ると我慢できた。 その我慢が、次第に我慢ではなくなり、普通になった。 低栄養で、生理は止まり、肌はボロボロ。クラスの男子に「お前、肌どうしたの?やばくね?」と言われたほどだった。 それでも、「食べない」ことを止めることはできなかった。 夏休みが明けると、食事制限に加えて運動をするようになった。 体を動かしたいからではない。 食事制限だけでは限界が見えてきたので、少しでも体重を減らすためには運動するしかなかった。 はじめは歩いての散歩30分。 すると体重がまた少し減った。 もっと、もっとという思いが強くなった。 今度は散歩を40分、60分。 一度増やした運動量をまた減らすことなど出来なかった。 ある意味強迫観念のようなもので、足を止めることは死ぬことと同じくらい怖いものだった。 結果的に、この脅迫的な運動は受験が終わるまで1日の休みもなく続けた。 受験勉強をしながら、運動の時間を確保する。 低栄養で頭が回らない。それでもJ高校に受からなければならない。運動もやめられない。 いつ糸がプツンと切れるか、ギリギリの状態で私はJ高校の合格を勝ち取った。 本当にギリギリだった。
2020.04.14
中学3年生になると、受験という壁がちらつき始める。 私の育った県では、一番の進学校はT高校という男子校と、J高校という女子校だった。 父は県外の出身者だったため群馬の高校を出てないが、母そして祖母はJ高校の出身であり、兄もT高校を出た。 当然のごとく私は幼い頃からJ高校に入ることが前提のように育てられた。 それ以外の選択肢なんて与えられていなかった。 中学一年生の初めての定期テスト。 200人ほどの学年の中で20位台を取った。 女子だけでは10位だった。 その結果を見た母は満足そうに言った。 「女子で10位以内をキープすればJ高校に入れるよ。」 だが、その成績は最初だけで、みるみる落ちていった。 中三になっても勉強に本腰を入れない私に突然母が怒鳴り込んできた。 「一体このままでどうするつもり⁈いつまでこんな成績でいて良いと思ってるの⁈」 母が「このままではいけない」と思ってるのはJ高校に入ることが絶対だったからだろう。 でなければ、「このまま」で良かったじゃないか。 勉強するかどうか、Jを目指すかどうかは自分が決めれば良いんじゃないのか? 自問自答を繰り返した。 でも、Jに入らなければきっと自分の居場所はなくなる。 誰からも愛されないし認めてもらえない。 その恐怖に、私は勝てなかった。 とにかくJ高校に入ることがこの家にいられる絶対条件のように感じていた。 この家で生き残るためには、J高校に行くしかないんだ。本気でそう思っていた。 夏を目前に、勉強を始めた。
2020.04.14
生きづらさを感じながら育ち思春期を迎えた私は、 中学一年の夏休みに食事をないがしろにしていたら新学期には5キロほど体重が落ちていたことに気付いた。 嬉しかった。 みんなに「痩せた?痩せた?」と聞かれるたびに、優越感でいっぱいになった。 だけど、育ち盛りの中学生。 夏が終われば食欲も普通に戻り、あっという間に体重は元通り。それどころか、以前にも増して食欲が増えた。 頭のどこかで「夏休みの栄光」が忘れられないけど、それでも食欲には勝てなかった。 それからというもの、頭の中は「食」のことでいっぱいだった。 どうしたら痩せられるか?そればかりを考えて。 中学2年生になった春。 身体測定があり、背が高く成長が早かった私は体重がそこらの成長期前の男子より重たかった。 54キロ。今でも忘れない。 165センチの長身には適度な数字でしょう、一般的には。 ただ、体重が記入された用紙を隣の男子に見られてしまった。 「え!お前54キロもあるの⁈やばくない⁈俺なんて48キロだよ!」 それを言われた瞬間、さーっと血の気が引いたのを覚えている。 言いようのない恥ずかしさと、絶望感。 今思えば、思春期の男子によくあるからかいの一つだったのかもしれない。 でも当時の私にはその言葉は重く重く、のしかかった。 この日から、少しずつ食事の量を減らすようになった。 学校にもやしを茹でたものを持っていき、給食に手をつけずもやしで腹を満たした。 この頃から、頭の中は痩せる事でいっぱいになった。 友達との会話もどうしたら痩せられるか?そればかりを1人喋り続けた。 友達に「痩せる事以外に会話ないの?」と言われたが、それ以外のことを考える余裕などない。 少しずつ、何かが崩壊していった。
2020.04.14
過去の話を書くのがしんどくなってきたので現在の話を書きます。昨日は心理療法の日でした。このコロナ騒ぎで外出自粛要請が出ていますが、カウンセリングは不要不急の外出には当たらないらしく、来る来ないはクライアントに委ねられていたので、とても迷ったけど、現在メンタル面でとてもしんどい状況だったのでやはり行くことにしました。ここ二週間ほどしんどかった理由の一つは、コロナ騒ぎで外出自粛が続き、1人になれる時間が全くないから。そして、もう一つの大きな要因は、最近あえて距離を置いていた親族から立て続けに連絡が来て、「身内間トラブル」を聞いてしまったから。最近、心理療法をやっていて、いまは距離をおくことが必要だと判断し敢えて自分の耳には入らないようにしていたのに、少し連絡を取れば容赦なく入って来るその情報に、私はまた翻弄されるのです。まず叔母からの電話で、つい先日兄一家が来て、また兄一家が叔母を憤慨させるような行動があったことを聞きました。前から兄一家は周囲を「利用する」ような行動が見受けられ、それに気分を悪くしているのは叔母だけではありません。毎回兄一家に対して憤慨する周囲の声を聞くたびに、私はどうにかしなきゃと内心慌てふためくのです。(これは完全に「自動思考」と言って、自分の思考の癖なので心理療法で少しずつ取り除く訓練をしています)そして叔母はその話を私だけではなく妹にも言っていたので、妹からも連絡が来ました。その時に、妹から兄一家の話だけではなく、父の話も聞きました。父が急に妹に連絡をして来て、私が急に連絡を取りたくないと言って来たことについて父が文句を言っていたこと、「荷物を送っても迷惑みたいなことをいうからもう電話もしない」と言っていたこと、妹に「身の振り方を考えるならそろそろ交際相手を紹介しろ」と言って来たこと。妹にそろそろ連絡が行くだろうことは容易に想像ができていました。父はずっと私に「依存」していたから依存対象がいなくなってさみしさと不安から耐えられなかったのだと思う。私は、自分の家族のあり方に昔から違和感を感じていました。いつも親が、互いの悪口を私に言っていてそれが当たり前だったし、子供の4人のうち、誰かとうまくいかないとまた別の誰かにそれを愚痴を言います。でも、私も親になったから思うことですが、子供は、親にとって「都合の良い友達」ではないのです。子供の悪口をまた別の子供に聞かせるなんて、親のすることじゃない。親子の信頼を失うだけです。「子供の友達化」精神的に支配された子供を親が都合の良い友達として利用してしまい、親子の「境界線」がない。その夜、自分の精神バランスが乱れて行くのが分かり、明け方まで眠れませんでした。翌日もその翌日も、頭の中を「家族問題」がいっぱいに占めて、重くのしかかる。一日そのことばかりを考えてぼーっと過ごし、息子にも辛く当たってしまう。今私が望んでいることは、「境界線」を守ってほしい。子供を「友達」として利用しないでほしい。うちの親を見ていると、肝心なところで子供とちゃんと「向き合う」ことができない。心理療法に通い始めて、家族に起きていた数々の問題が、全て結びついていて関連性があったことにも気付けたので、少しずつそれらも紐解きながら記録していきたいと思います。
2020.04.12
母は、この状況をなんとかしたくて、私の知らぬ間にトラブル相手の2人のお友達の自宅へ訪問して話を聞いてきていた。 そこで相手の2人の子の本音を聞いてきたのだろう。 私が帰ると、すごい剣幕で私を座らせ、私に言った。 「ママね、◯◯ちゃんと△△ちゃんに話を聞いてきたの。2人のお友達は、あんたのことを好きだと思う?!」 母も、担任の先生と同じ目をしている。 2人の友達が私のことを好きではないと言っていることは母の言い方から容易に想像できた。 母が、私の話を聞くより先に、友達の話を聞きに行っていたことがとてもショックだった。 私の痛みに寄り添うことなく、母が寄り添ったのは友達の方だった。 私が求めていたのは、「問題児の証明書」ではない。 絶対的な味方と「心の安全地帯」 安心して過ごせる「家庭」だったのに。 話を聞いてくれることもなければ、私の辛い状況を助けてくれることもない。 なのに、「あなたは嫌われてるのよ」とストレートに追い込んでくる。 学校では先生に嫌われ恨まれ、 友達にも嫌われ、 家庭の中にも居場所はなくて。 この頃私は、父の暴力と、母から友達関係のことで追い詰められること。 二つの恐怖を抱えて家庭内で過ごしていた。 親のどちらといても落ち着かない。 信用ができない。 本当は、母に絶対的な味方でいて欲しかった。 友達より先に、私の話を聞いて欲しかった。 家庭の中にその要因があることを、気づいて欲しかった。 たくさん泣いて、虚無感でいっぱいの毎日を過ごして、自尊心をたくさん失った一年だった。
2020.04.12
小学四年生になった時。 担任の先生が変わり、もちろん友達関係のトラブルは引き継ぎがなされていた。 家庭訪問で親にも事実が伝えられた。 母はもちろん衝撃を受けて、すぐに私に怒りの目を向けた。 「なんでそんなことするの?」 そう聞かれても、当時の幼い私にはその因果関係が分かっていなかったし、説明能力もなかった。 でも担任の先生に呼び出されて「お家で何か辛いことでもあるの?」と聞かれた時。 とっさに毎晩続いていた「地獄の時間」が思い浮かんだ。 でも、父のことを言うことは出来なかった。 虐待を受けていた子供が保護されたときに親をかばうようなことを言ったり、お父さん(お母さん)は優しいなどと嘘をいうことが良くあるが、その気持ちが私には痛いほどよく分かる。 私も、ここで家庭内のことを口にしてしまうことは、「親を売る」ような、そんな気がして言えなかった。 先生は、理由もなくトラブルを起こす私のことを「問題児」として認識していたと思う。 態度で私のことが嫌いなのは感じていた。 呼び出され、先生が目に涙をいっぱい溜めながら「なんでやめられないの・・・?」と言っている。 その涙は、「私に対する同情」の涙ではなく、先生のクラスで唯一の問題を起こす私に対する「憎しみの涙」だった。 あの時の先生の目を私は今でも忘れない。 憎しみに満ちた目で私を睨み、その日から、先生の私に対する当たりがきつくなっていった。 当時「自由勉強ノート」というものがあって、自分の好きな勉強をして翌日先生に提出するというもので、内容はなんでも良い。 計算でも漢字でも、何ページやってきても良い。 子供の自主性を促すのが目的だったのだと思うが、やればやっただけ「認めてもらえる」その仕組みに私はしがみついた。 誰よりも多く。 昨日より多く。 クラスで一番になれるように1ページでも多くの自由勉強をやって毎日先生に提出した。 正解不正解ではなく、「やってきたこと」を評価してもらえるものだったので、大抵の内容に先生は花丸をつけていた。私のノートを除いては。 私のノートには、いつも二重丸か△マーク。 コメントには「もうちょっと頑張りましょう」 「この内容は事実ではありません」 先生は私のことが嫌いだった。 問題を起こす私が憎かった。 家庭内での状況をだれかに助けてほしいのに、また可能性のある人間が1人、去っていった。 誰も助けてはくれない。 気付いてはくれない。 私はただの「困った子」になり、「困っている」ことに気づいてくれる人は誰もいなかった。
2020.04.12
家庭内で親に支配され居場所を失っている子供が、友達関係でトラブルを起こすことは必然の原理です。 家庭内で「支配」されている子は、友達関係でも「支配される」か、逆に「支配する」かのどちらかの行動特性が見られるようになる。 学校で「困った子」と言われる子供は、家庭内で「困っている子」でもあり、子供のSOSでもあるのです。 家庭内で「支配」されるストレスを今度は外で発散する。 外での「加害者」は家庭内での「被害者」なのかもしれない。 私はそう思って息子の周りのお友達親子をいつも観察しています。 本当に不思議なことに、やっぱり家庭が安定していて子供にとっての「安全基地」となっている子は心が安定していて他人に対してとても優しくできている。 逆に子供に問題行動がある場合は、親をみれば必ずその理由が分かります。 発達上の「特性」(昔でいう発達障がい)を除いては、 この法則は絶対的なものなのです。 一番辛かった時の記憶で書いてきたことが起きていたのが私が小学3年生〜4年生の期間。 ちょうどその頃、私は学校で友達とのトラブルを抱えていた。 父の暴力がエスカレートするのに比例して、私は友達を「支配」するようになった。 集団いじめとかそういう類のものではなく、ただ自分の言うことをなんでも聞いて欲しかった。 友達が私の言うことを聞いてくれるだけで、そこに自分の「居場所」が出来たような気がした。 まるで小さな子供が母親にあれしてこれしてとダダをこねるように、友達に対して色々と要求することが増えていった。 そんな風に友達を支配してしまう自分が嫌で嫌で仕方なかったけど、どうしてもやめられなかった。 家でのストレスを友達にぶつけるようになった、小学三年生の冬。 本当はこの部分は一番思い出したくないこと。 今まで、口に出したこともないパンドラの箱を、私は初めて心理士の先生にお話しました。 涙が止まらず、本当に苦しい。 一番辛かった時の記憶とともに掘り起こされる数々の記憶が、また私を苦しめる。 当時は毎日のように、 こんな自分は生まれなければよかった。 こんな自分は存在しなければよかった。 こんな自分は交通事故にでも遭ってある日突然死んでしまえばいい。 そんなことばかり考えていた。
2020.04.12
父の弟に対する暴力はどんどんエスカレートして行ったけど、それがある時止まった。そのきっかけは、弟が「耳が聞こえない」と言い出したから。母もギョッとしたような顔をしていた。すぐに察しがついたのだろう。横から平手打ちをされた時に、鼓膜を傷めたのだと。親2人とも、とても青ざめた顔をしていたのを覚えている。母が耳鼻科に連れて行って診察してもらったところ、どうやら鼓膜が破れたわけではなさそうだった。でも、きっと病院で、なぜそうなったかは真実を話していなかったんじゃないかと思う。もしかしたら弟は、「父によって聴力を失った子」になっていたかもしれない。それ以来、パタリと父の暴力は止まった。このことは、弟はもちろん覚えていないし、誰も覚えていないと思う。でも、私はしっかりとその流れを見ていたし、心の何処かで「ほらね、こうなった」と憎しみの気持ちさえ持っていたかもしれない。そして、父が捕まってでも誰かに止めてほしいと思っていた地獄の日々が、やっと終わることに内心ホッとしていた。
2020.04.12
父は午前中に子供を連れ出し午後は出かけて行く。じゃあ母は?母は、家にはいたけど食事を作る以外子供の相手はしない人だった。それは休日だけではなく、盆暮れ正月などの長期休暇で仕事がない期間も同じ。大抵我が家は、盆暮れ正月、ゴールデンウィークなどはおばあちゃんの家に遊びに行っていた。そこでは叔母家族が同居していて、男の子のいとこもいたので、一緒に遊んで楽しい時を過ごした。叔母とおばあちゃんはいつも私たち家族がくるのを歓迎してくれてご飯や滞在中の洗濯、お風呂、すべて何不自由なくやってくれていた。つまり、母はそこでは女中のように働かせられることもなかったし、家事を手伝うことも強要されず、仕事もやすみ。完全なる「フリーの時間」だった。叔母やおばあちゃんなりの配慮だったのだと思う。いつも働きづめで休む時間なんてないだろうからと、母に変わって子供達の相手までしてくれた。でも一方で叔母は、家事仕事全てから解放されるときなんてこういうときくらいしかないのに、こういうときに子供の相手してあげてなくていいの?それでこの子たちはちゃんと育つんだろうか?と心の中では心配していたらしい。叔母の記憶の中でも、母は帰省してきても夫婦の部屋にこもってひたすら本を読んでいた。私の記憶の中でも、休日の午後は母はいつも1人で本を読んでいるかパソコンをいじっていた。休日に子供のために時間を使うのは「食事づくり」だけ。今私は子供を持って思うけど、子供ってたった1〜2時間連れ出しただけで半日放置していたら、その時間を子供だけで健全に過ごすことなどできない。おばあちゃんの家に行くと、叔母といとこの関わり合いが羨ましくて仕方なかった。大人の都合ではなく「子供ファースト」で、子供が何をしたら喜ぶか?楽しいか?を第一に考えて休日の1日が構成されている。子供の話をじっくり聞いてくれる叔母と話をするのが私も大好きで、会うといつも張り付いてずっと叔母に話を聞いてもらっていた。夕食を食べ終わってから寝るまでの時間に、いとことおばで触れ合いの時間が当たり前にある。そしていとこは誰にも怯えることなく、家庭の中を「安全基地」としてくつろいで過ごしている。私が欲しい「日常」がそこには当たり前にあった。
2020.04.10
父が子供をどこかに連れ出すのは決まって休日の午前中だった。その理由は、午後から必ず「ギャンブル」に行くから。父にとっての最優先は「子供」ではない。ギャンブル。なので、休日の午後は何が何でも子供との予定を入れない。午前中に子供を買い物に連れ出して、何か好きなものを買ってあげて、「休日に子供の相手をした事実」を残したら出かけてゆく。その週に弟への暴力があったときは、弟には特別に大きなおもちゃを買ってあげることもあった。そして、子供がお店で買ってもらうものを選ぶのに時間がかかっていたり、外食をしてお昼ご飯を食べるのに時間がかかっていたりすると、ギャンブルの時間が近づくにつれて父はイライラした。そして最後にはまた怒鳴り散らす。「早くしろよ!!!ったくおせーんだよ!!!」私たちは、常に父の「大人の都合」に合わせて行動しなければならない。いつもいつも、父の機嫌だけを伺っていた。この行動サイクルは今でも変わっていない。私たちがはるばる帰省しても、一緒に買い物に行ったり出かけるのは決まって休日の午前中か平日仕事が入っていない時間。父にとって「ギャンブル」が何よりも大事な最優先事項であり、子供との時間は二の次。その限られた「午前中の時間」も、私にとっては楽しい時間というより、緊張感でいっぱいの時間だった。それでも一緒に出かけるのをやめられなかった理由は、もしも出先でまた父が激昂したら、その恐怖を弟と妹の2人だけに背負わせることは出来ないと思ったから。三人一緒にいれば、少しでもその恐怖感が軽減される。私が守ってあげられる。実際のところ、父が激昂したときは何もできない。口を出すことはおろか、「パパやめて」その一言すら、私には言えなかった。唯一私にできることは、父が激昂しそうな局面を常にアンテナを高く張って事前に察知し、弟や妹が逆鱗に触れそうな行動をする前に耳元でそっと囁きそれを止めることだった。勘が良い方だったので、「危険な局面」はすぐに察知し特に弟の行動には口うるさく注意をした。「パパが怒るから早く決めな。」「パパが怒るから早く歩いて。」「パパが怒るから・・・」「パパが怒るから・・・」常に常にそのアンテナを張って、無事に父を怒らせずに帰れた時は合格。失敗してどこかで父を怒らせてしまったときは不合格。私は、いつもいつも自分に「ジャッジ」を下していた。「休まる休日」を過ごしたことは一度もなかった。
2020.04.10
私は今親になっているけれど、夫の「父としての姿」を見て、子供を持つということがどういうことなのかを日々学んでいる。夫は基本、「大人の都合」で子供を振り回さない。平日休日問わず、朝はどんなに疲れていても、6時に起きる息子に合わせて一緒に起床する。休日に見たいテレビの録画を見ていても、息子が「お父さん遊ぼう?」と言ったときには番組がどんなにいいところでも一旦止めて息子の遊びに付き合う。外食の時は、「自分が食べたいもの」ではなく「子供が食べられるもの」を選ぶ。子育てって、子供に癒される部分もあるけれど、子供に合わせなくてはいけない局面の方がその何倍もあると思うのです。「子供ファースト」で考えなければならない。父はある日テレビで流れる虐待のニュースを見て、「よく自分の子にこんなひどいことができるよな〜」と言っていた。私は耳を疑った。自分も同じことやってたじゃん。きっと、父の中ではすっかり忘れている過去の出来事なんだと思う。だけど見ていた人間は決して忘れない。テレビの前を横切っただけで子供を殴っていたこと。卵を落としただけで殴っていたこと。宿題ができないというだけで1時間怒鳴り続け、殴っていたこと。朝早くから子供達がわーきゃー騒いで遊んでいたら、急に父がむくっと起きて兄の頭をものすごい勢いで蹴り飛ばしたこと。(これはほかのきょうだいも今だに鮮明に覚えています)子育てってそんな都合の良いものではない。子供は、たくさん失敗もするし、失敗しながらいろんなことを覚えていく。そして子供は、大人がどんなに楽しみにしていたテレビを見ているときでも構わず動くし静かになんて出来ない。子供は、大人がどんなに疲れていて朝ゆっくり寝たくても、決まった時間に起きて元気よく遊ぶ。それが「子供」ってもの。父が兄を蹴り飛ばした「その朝」も、兄はただ妹と仲良くじゃれあって遊んでいただけだった。兄は10歳離れた妹と遊んであげていただけだった。真夜中に遊んでいたわけではない。朝、適正な時間に起きた子供が、子供らしく仲良く遊んでいただけなのに。急にむくっと起きた父が兄の元に駆け寄り、無言で頭を蹴り飛ばした。時が止まったように静かな時間になり、父はまた眠りについた。この時のことも、何年経っても忘れられず、今だに思うことがある。ゆっくり寝たいのは「大人の都合」子供が4人もいたら、ゆっくり寝ることなんで出来なくて当たり前。4人も子供を持つということはそういうことなのです。父の子育ては「自分の都合」が中心で、子供がそれに合わせるのが当たり前。それに父自身も気づいていなかった。きっと、休日に少し買い物に連れて行ったり遊園地に連れて行った記憶にフォーカスして、自分はちゃんと子供に関わり、子育てをしてきたと思っている。だけど、休日の午前中しか関わりを持てなかったのは何故なのか?その理由に私は子供の頃から気づいていた。
2020.04.10
母のたった一言が、私の心に摂食障害という、重く恐ろしい病気の時限爆弾をもたらした。 父はその爆弾を作った人。 母は仕掛けた人。 精神疾患は必ず家庭内で作られる。 無意識の夫婦共同作業で。 母の、たった一言が、自分の頭をハンマーで叩くように響いて、思考停止するくらいショックだったのを今だに覚えている。 何で。 何で。 何で見ていられるの。 何で助けてくれないの。 「虐待」のニュースを見ていると、子供が死んでしまうようなケースの多くは家庭内でDV加害者となる人間と、それを「傍観」している人間とがいる。 DV加害者の、我が子への暴力を止められず、母親ですら「自己防衛」に走る。 または、「傍観者」を経て、加害者の仲間入りをするケースもある。 千葉県野田市の虐待死、目黒の虐待死、そのどちらも最後は母親まで虐待に加担している。 どちらのニュースも、私は目を当てられなかった。 まだ幼くて声を上げられなかった5歳の女の子。 勇気を振り絞って担任の先生や児童相談所でも父親からの虐待を告発したのに、周りの大人が皆「自己防衛」に走って助けてもらえなかった9歳の女の子。 そのどちらの子の堪え難い辛さがわかるから。 奇しくも想像できてしまうから。 どんなに怖かっただろう。 どんなに辛かっただろう。 そして何度、周りの大人に絶望したのだろう。 あのニュースを見るたびに私は、死んでいった子たちの辛さを思い、関わりなんてないはずなのに胸を痛めるのです。
2020.04.10
摂食障害は例外なく100%、「親との関係」に起因する。 つまり、「親がもたらす病気」です。 そしてその要因には必ず、「親との分裂」という重要なポイントが存在する。 つまり、ある時親に対して、修復不可能な「信頼関係の崩壊」が起きる事件的な出来事が起きていて、それが何年後かに確実に摂食障害となって現れる、いわば「時限爆弾」である。 心理療法をやっていて、私にとっての「時限爆弾(親との分裂)」は何だったのか?それが明確になった。 父の暴力のピークはおよそ一年は続いたと思う。 その間、母親は何をしていたのか? 私は、終わりの見えない「地獄」をどうにか終わらせたくて、何度も何度も、「母がいない時間」に起きていることを話そうと思った。 でも、何度言おうと思っても言えなかった。 その理由の一つは、言って家庭が崩壊するのが怖かったから。 もう一つは、一つ目よりも恐れていたこと。 言っても何も変わらないことだった。 声をあげて、誰も助けてくれなかったらそれはいろんな意味での「終わり」を意味する。 だから、友達にも学校の先生にも言えずにいた。 そうこうしていくうちに何ヶ月も時が過ぎてゆく。 辛い状況は変わらない。 言ってみようかな、やっぱり言えないな、 何か変わるかな、もしかしたら助けてくれるかな。 何ヶ月も何ヶ月も悩んで、私は母に言うことに決めた。 緊張感でいっぱいの中、勇気を出して言った。 「パパが弟を叩いたりする。宿題ができないから、いつもママがいない時間に叩いてる。」 ものすごい勇気が必要だった。 何年ぶんの勇気をかき集めて言っただろうか。 きっと母は、ものすごくびっくりして、守ってくれると思っていた。 「怖かったね、ごめんね気付かなくて。もう大丈夫だよ」と、そう言ってくれると信じていた。 母から帰ってきた言葉は、 「それもアキにとっては必要なことなんじゃない?」 たった一言。 たったそれだけ。 私の中で何かが崩壊した。 「分裂」の瞬間だった。
2020.04.10
父が早くに帰って来た日は、夕食を食べ終わった頃から私の緊張感はピークになる。 もうすぐ母が仕事に行ってしまう。 「地獄の時間」が始まってしまう。 お願い、行かないで。 お願い、助けて。 言葉に出来ないその思いが、日中学校にいるときも自分の心を占める。 学校にいる時から、今日は弟にどんな宿題が出てるのかが気になって仕方ない。 簡単な宿題だったらいいのにな。 そうしたら弟は間違えることもなく、父に叩かれずに済む。 母が仕事に行った後、テレビを見てゲラゲラと笑っている姿を見ながら、どうかそのままテレビに夢中になっていてと心の中で切に願っていた。 弟の「宿題」から気を外らせようと、私は必死に父に話しかけ、盛り上げようとした。 父がテレビに夢中になって、そのまま弟の「宿題」に気付かず寝てくれたら今日はハッピーな1日。 その日1日が天国となるか地獄となるか、夜の1時間半で決まる。 しかしどんなに願っても、その思いは一瞬で砕け散った。 毎日毎日、父が弟を殴るその音を聞きながら、長い長い時間を過ごした。 誰にも言えない。 誰も助けてくれない。 逃げる場所もない。 自分だけ逃げることもできない。 まるで「家庭」という牢獄に置かれた冤罪被害者のように、 私の心は、日に日にすり減って行った。
2020.04.10
父の暴力による「地獄の時間」にはある法則性があった。 それは、 ・母が夜仕事でいないときに始まり、母が帰ってくる前に終わること ・激しい暴力を振るった後は、必ず弟に「ご褒美」を買ってあげること 典型的な「DV」の法則である。 最初はただ宿題を見てあげるつもりで始まったんだと思う。 それが思わぬ暴力につながった。 そして、父は父なりにその後我に返って「次は優しく教えてあげよう」「あしたこそは」と思って翌日また「宿題見てやるよ」と声をかける。 でもやはり高ぶる気持ちを抑えきれずまた手をあげてしまう。 自分でもコントロールできないその衝動を後から後悔し、自己嫌悪でいっぱいになり、週末になると大きなおもちゃを弟に買い与える。 「地獄の時間」を耐え抜いたご褒美に。 小学4年生で私は、父の行動で次に起こり得ることを予想して、「やっぱりまた・・・」と冷静に、そして冷めた目で見ていた。 そして恐怖でいっぱいながらも心の何処かで許せない気持ちでいっぱいにもなった。 この時期、私がしきりに母に聞いてたことがある。 「今日はパパ早くに帰ってくる?」 父は帰りが遅い日が週1くらいであり、そんな時はベビーシッターさんが来てくれていた。 ベビーシッターさんが来てくれる日は、「地獄の時間」は始まらない。 「ゴング」に怯えなくて済む。 父が帰ってこない日は私の「心の休息日」だった。 来る日も来る日も「今日はパパ早い?」と聞く私に、母は言った。 「何でそんなに毎日聞くの?パパのことがそんなに好きなの?♪」 何も答えることは出来なかった。
2020.04.10
いまだに夢に見るとうなされて目をさます。 一番辛かった時の記憶。 それは私が小学4年生、弟が小学1年生に上がったくらいの時のこと。 父が不意に弟に「宿題見てやるよ」と言い出した。 弟も素直に従う。 でも、弟は勉強ができるタイプではなかったので、小学校の宿題ですらわからないことが多かった。 問題を間違えるたびに、父は弟を殴った。 「何でこんな問題もわからないんだよ!?」 ダイニングテーブルで宿題をやっている父と弟。 私と妹は隣のテレビの部屋でテレビを見ているふりをしていたけど、テレビの内容なんて全く頭に入らず、まるで時が止まったかのような感覚の中、 静かな私の世界の中で父が弟を何度も何度も叩くその音だけが響き渡る。 妹はまだ小さくて事態をあまりよく分かっていないのでテレビを見て笑っている。 それでいい。どうか妹が傷つかないで。どうか気付かないでと願いながら、私は1人で涙を流していた。 早く終わって。お願いアキ、問題を間違えないで。お願いパパが帰ってくる前に宿題やって。 毎日毎日張り詰めるような緊張感で恐怖の「その時間」を迎えていた。 自分の願いとは裏腹に、毎日それは続き、その度に私は震えながら涙を流す。 誰か助けて。 誰か助けて。 それでも、来る日も来る日も「宿題見てやるよ」 これが始まりの合図。 今日も「地獄のゴング」が鳴る。
2020.04.09
今日は、自分が生きて来て一番辛かった時の記憶を書いてみようと思います。 おそらく私の摂食障害の大きな要因となり、これが自分の中でとてつもなく辛い出来事として残っているけれど、口に出すことはもちろん、思い出すのも辛くて誰にも言えなかった時のこと。 思い出すとあまりに辛いので、ここに書くのもずっとためらっていました。 でも、いつかは向き合わなければならないし、ここを通らずに先には進めないので勇気を出して書いて見たいと思う。 私にはきょうだいが自分を含めて4人いる。 その中でも弟はちょっと鈍臭いタイプというか、ドラえもんでいう「のび太くん」みたいな子供だった。 間が悪いと言うか、容量が悪いと言うか、早生れで成長が遅いこともあったと思うけれど、ちょっと抜けてるところが父をイライラさせることが良くあり、 男の子でもあったので、父からの当たりが昔からキツかった。 男には手を出すタイプの父だったので、弟が言うことを聞かないことがあろうもんなら出先でもどこでもすごい剣幕で殴ることがあった。 よく覚えているのはいとこの家に遊びに行った時。 2家族で温泉施設で行き、みんなで1人1つアイスを買うことになった。 そこでみんなシングルのアイスクリームを一つずつ買ってもらっているのに弟は2個乗ってるやつがいいと言った。 弟は手がつけられないほどに泣き叫んだ。 すると、父が人目も憚らず、すごい勢いで弟を殴った。 何度も何度も。まるで袋叩き状態だった。 それを見たいとこは、それ以来、父のことを「世界一怖い人」と認識するようになって、常にビクビクしていたほど。 そのくらいの時から、父の弟に対する暴力は少しずつ、でも着実に、エスカレートして行った。 これが私が小学校三年生、弟が年長くらいの時だったと思う。 それからと言うもの、父はやたらと弟に対して厳しくなり、少しのことでも激昂することが増えた。 その理由も、 父が大河ドラマを見ているときにテレビの前を横切ったとか、 買い物に一緒に行って、買ったものを子供達に持たせ、弟が卵が入った袋をあまりの重さに落としてしまい卵が割れたとか、 そんなことで手を挙げることがどんどん増えた。 弟が卵を割って殴られたショッピングセンターには、私は今も行けずにいる。 まるで交通事故を目撃したかのような衝撃が忘られず、その場所まで鮮明に覚えている。 そして弟が小学生に上がって私が小学4年生になった時。 人生で一番辛い暗黒の時代を迎えることになる。
2020.04.09
緊急事態宣言を受けて、こちらは毎日ひっ迫した状態が続いています。夫も在宅勤務になったものの、子供がいる家の中では電話一つ出来ないのでずっと車の中で仕事をしていて昼に帰って来たらご飯を食べてまた仕事に戻るので頼れない状態。息子の幼稚園は5月12日まで休園が決定し、お店や子供が遊ぶ施設はどこも閉まっているので本当に行動が制限されていて、この状態で迎える出産をどう乗り越えるか、毎日夫と議論を重ねています。息子の預け先もない、頼れる人もいない、夫も息子も産院の中に入ることすら許されない。今日も産院の入り口で、これから出産になる産婦さんを旦那さんが入り口で見送り別れる光景を目にしました。生まれても退院まで会うことは出来ないので、立ち会うことも、生まれたての我が子に会うこともできないのです。唯一の救いは、遊んでくれるお友達がいること。毎日日替わりで午後からお友達と遊んで、みんな旦那さんが在宅勤務になっていたりするけれど、午後からは出かけている人やまだ在宅にはなっていない人もいるので、それぞれのスケジュールに合わせて協力しあってだれかのおうちに身を寄せ合っています。まさかこんなことになるとは思いもせず、まさかこんな事態に陥った時に、この土地に居合わせてしまったことを嘆く毎日。状況が変わらないことはわかっているのに何度もカレンダーを見てはため息をつく。5月12日の幼稚園が始まるその日まで、なんとか乗り越えたいと思います。
2020.04.09
父と母は自営業なので、景気によって浮き沈みが激しいのも分かる。 だけど私の中の記憶では、母はいつもいつも「お金がないお金がない」と言っていた。 「うちは子供が4人もいるからお金がないの!」これがいつも子供を黙らせる魔法の言葉。 これを言われると、子供は「うちにお金がないのは自分のせいだ」と思いこむ。 そして、自分の存在を否定する。 私はバレエをやっていたが、始めたきっかけは母だった。と、言うか未就学児がやってる習い事なんて親が「やらせた」習い事であることは明確である。 小さい頃はバレエが嫌で嫌で仕方なかった。 泣きながら行ったこともあったし、祖父が送り迎えの時はこっそり休んだこともあった。 でも、何度母に辞めたいと言ってもその時は辞めさせてくれなかった。 いやいやながらも続けて行くうちに、先生に褒められるようになって、バレエが好きになって行った。 ここにいたら認めてもらえる。それが希望であり、自分の大切な「居場所」になった。 だけど、中学生になると母にバレエをいつ辞めるのかと追求されることが増えた。 勉強にシフトして欲しかったのだろう。あとは、お金がかかるから。 親子喧嘩をするたびに、トドメの言葉は「あんたのバレエにいくらかけてると思ってるの!?」 そして最後に必ず言う。「うちは子供が4人もいるからお金がない」 これを言えば子供が何も言えなくなることを母はよく分かっていた。 私はこの言葉が大嫌いだった。言われるたび、憎しみの気持ちでいっぱいになった。 だって、子供を4人産んだのは「親」であり、産んだからにはご飯を食べさせ、そのためにお金を稼ぐことは当たり前のことだから。 今、私が同じ親の立場になったからこそ言わせてもらうと、これは絶対に子供に言ってはいけない言葉です。 産んだからには子供のためのお金を稼ぐことは保護責任と言う法律で決められた「義務」だから。 習い事だって、始めるきっかけを作ったのなら子供が自らの意思で辞めると言い出すまで、親にそれを一方的に取り上げる権利はないと思っています。 もしも、本当に生活がひっ迫していて、明日食べるご飯もない状況なら、それが本当の現実なら、 その時はちゃんと子供にその状況を説明すればいい。 現実的に本当に明日を生き延びるのにやっとやっとな状況なら、子供はそれを理解する。 だけど、私の記憶ではそうではなかったと思っている。だって、そんなことを言いながら親は海外旅行に行っていたから。 塾に通う費用は簡単に出てきてたから。 矛盾している。 一度だけ、母に言ったことがある。 「そんなに言うなら子供4人も産まなきゃよかったじゃん。誰も産んでくれなんて頼んでないよ」 そうしたら、帰って来た言葉は 「だってあの時は景気が良かったんだもん」 いつだって母とは血の通った会話ができない。 この言葉は、私の脳内で「景気が悪かったら四人も作らなかった。こんなことになるなら4人もいらなかった」そう聞こえた。 子供に過剰に経済的な不安を与えることは、子供の自尊心を容赦無く奪う。 どんな状況になったとしても、子供には「あなたを産んで良かった」と、その気持ちを持たなければならないと私は思う。 そしてもう一つ、思い出すのも嫌なこと。 それは、母がよく「ママはパパに生活費もらってないのよ!」と言っていたこと。 夫婦の問題に子供を巻き込むことは、毒親の特徴です。 生活費をもらっていないのは、「夫婦の問題」であって、子供は関係ないし、言ったところでどうにもできない。 これを言われるたびに私は言葉を失った。 経済的な不安を煽られるだけではなく、父の悪口を子供に言うことで、二重の心理的虐待に当たるから。 言いようのないショックを毎回感じていた。それだけ子供には荷が重いし、自分を否定するしか方法がない。 私たち子供のせいで。 私の習い事のせいで。 私が生まれて来たせいで。 私は、自分のお小遣いや、時には祖母の家から小銭をもらって来て母の財布にこっそり入れたりしていた。母が喜ぶと思って。助かると思って。自分の居場所が安定する気がして。 それくらい、母の言うことを全身で受け止めて、なんとか自分の居場所を作ろうと必死だったのだと思う。 でも、子供にそんなことをさせてはいけないのです。 私は毎日、息子が寝る時に「大好きだよ。生まれて来てくれてありがとう」と伝えることを日課にしている。 息子は必ず「うん♡お母さん大好きだよ」と返してくれて、にっこり笑って眠りにつく。 あなたは望まれて生まれて来ました。 あなたを守ることはお父さんとお母さんの「義務」であり「希望」です。 快適な環境で愛されて育つことは、あなたの揺るがない「権利」です。 それを息子にも伝えていきたいし、常に念頭に置いておかなければならないと思っている。 決してお金のことで不安を与えないように、 夫婦の問題に息子を巻き込まないように、 今日も私は自問自答しながら子育てをする。
2020.04.06
内閣府が公表している児童虐待の定義の代表例を挙げると、【身体的虐待】殴る蹴る叩くなどの暴力や外に締め出す等の行為【心理的虐待】大声で怒鳴る、無視をする、物を投げたり壊したりする、言葉による脅し、子供の前で妻やまた別のきょうだいに身体的暴力を振るったり怒鳴り散らす(面前DV)、きょうだい間での差別をする、金銭的な面で過度な不安を与えるなど【ネグレクト】家に閉じ込める、食事を与えない、病気になっても放置する、ひどく不潔にする、子供に関心を持たないうちは、これらの定義に全てが当てはまるわけではないけど、「黒」といえばはっきり「黒」であったところもあるし、「黒寄りのグレー」の部分もたくさんあったと思う。食事を与えられないということはなかったし、外に締め出されることもなかったけど、面前DVや金銭面で過度な不安を煽られたりなど、「心理的虐待」はたくさんあった。そのうちの一つ。私は、病気になっても母に心配してもらったことは一度もなく、「大丈夫?何なら食べれる?」と母が懸命に看病してくれたことなど記憶にない。事務的に病院へ連れて行って、学校を休んでるのに普通に仕事に行ってスーパーのお弁当を買って帰ってくる。そしてそれを置いたらまた出かける。熱が39度あって呼吸が苦しくても「寝てれば治るよ」とだけ言って、寄り添うこともなく、おかゆを作ってくれたこともない。ただの一度だって、母が必死に心配をして、少しでも食べれるものをと買い物に走ってくれた記憶などない。小学生になったくらいから、そんな母の態度に違和感を覚えるようになった。なぜこんなに子供が苦しんでいるのに心配してくれないんだろう。たった一言「大丈夫?」の一言が出ないんだろう。何も食べれないと言ってる子供のために食べれそうなものを用意しようとしてくれないんだろう。何も食べれないといえば、本当に何も出さない。そう言う人だった。風邪を引くたびに私は、「大丈夫?」と言って母が「人並みの心配と看病」をしてくれるのを待っていた。でも、期待しては裏切られ、また期待してはまた裏切られ。それが積み重なるうちに、だんだんと諦めの境地に入り、それは「期待」ではなく「憎しみ」になっていった。そしていつだか、心に決めた。母がどんなに具合を悪くしても、たとえそれが死に際だとしても、絶対に心配なんかしてやらない。同じことをしてやろう。目の前でどんなに苦しんでいても、「大丈夫?」の声もかけずにコンビニの弁当一つ買ってそれを置いたらその場を去る。食べれるものを作ろうともせず、買ってくることもせず、1人孤独に苦しめばいい。母は子供にはそんな態度のくせに自分が体調を崩したときにはこれでもかと言うくらい体調悪いアピールをしてくるので、いまだに母が体調が悪いと言い出すとイラっとする。だから何?と言いたくなる。意地でも「大丈夫?」とは言いたくなくて、帰省前にそれを言われたら私は「じゃあ帰るのやめるよ」と言う。誰だって子供は、体調が悪い時は、親が必死で心配してくれたり看病してくれる姿をみて愛情を感じるはずだし、それを求めてる。その証拠に、弟は、大学生になって東京に住んでいた時、体調を崩すたびに横浜の叔母の家まで「看病されに」行っていた。叔母は私たち姪甥でも体調不良の時は必死で心配してくれる人だった。1時間おきに様子を見にきてくれては「何なら食べれる?おかゆ作ろうか?いちご買ってこようか?ゼリー?それともアイス?」そう言ってはスーパーに走って、お金に糸目もつけず大量に食べ物を買ってきてくれた。私も何度か看病してもらったことがあり、初めてその温かみを知った。弟もたまたま一度叔母の家で体調を崩したことがあって、そのときに「看病される温かみ」を知ったのだろう。それからは定期的に、体調を崩すたびにわざわざ1時間半かけて横浜へ看病してもらいに行っていた。大学生にもなろう成人の男の子が、ただの風邪程度で叔母の家に毎回駆け込むなんて、世間一般的に見たらおかしな光景だろう。でも私には、それをする弟の気持ちも痛いほどに分かっていた。看病されたことがないことで言いようのないさみしさと悔しさと無念さを抱えていたのは私だけじゃなかった。この経験があるので私は、息子が体調を崩したら嘘でも「大丈夫?とっても心配だよ」と伝えるようにしている。何が食べたい?と聞いてアイスやゼリーを買ってくる。治ったら「よかったね〜あなたが元気になってくれてお母さんとっても嬉しい!」と伝える。最近は息子も私が具合悪そうにしていると、「お母さん、大丈夫?とっても心配だよ。」と声をかけてくれるようになった。子供は、親や周りから愛情を受け取ることで、その愛情をまた別のだれかに与えられるようになるのだと思う。今でも私は、自分が体調を崩したり息子が風邪を引いたりすると、自分が幼少期に高熱で苦しんでいた頃のことを思い出しては虚無感でいっぱいになるのです。
2020.04.05
1回目の心理療法は過去の生い立ちで辛かったことなどを書き出すことでほとんどの時間が終わったのですが、先生から一つ宿題を出してもらいました。 それは、「安心できる場所」と逆に「安心できない場所」、「安心できる人のタイプ」と「安心できない人のタイプ」について書き出してくるというワークです。 安心できる場所について私が書いた一例は ・自分の家 ・人があまりいないところ ・接客がいいお店 安心できない場所については ・ファミリーレストラン ・接客が良くないお店 ・自力で脱出できない場所 安心できる人のタイプは ・穏やかな人 ・怒鳴らない人 ・人のことを否定しない人 安心できない人のタイプは ・怒鳴る人 ・距離感を保ってくれない人 ・人との境界線を超えてパーソナルスペースに踏み込んでくる人 全部はあえて書きませんが、大体こんな感じでした。 これをもとに先生と話をします。 話をしていてわかったことは、自分で思っている以上にトラウマとなり大きな「傷」の原因となっていたのは「父」の存在でした。 父は、カッとなると怒鳴り散らすし手も出るタイプで、いつも私はそれに怯えていました。 よく記憶に残っているのはファミレスやコンビニで店員の接客態度が気に入らないととにかく罵倒していたこと。 時には店員さんが泣くまでひたすら罵倒。 それが起きる頻度が高かったのが「ファミレス」です。 ファミレスって、学生や主婦のバイトで成り立っていて、接客がイマイチなんて良くあること。 なのに、注文を間違えたらたちまち「これは頼んでねぇよ!!金取ってんだからちゃんと仕事しろ!!」と怒鳴り散らすのは日常茶飯事。 いまだに、ハンディ(注文を受ける電子機械)の操作に必死になっている新人店員などに当たると「機械に操られてんじゃないよ!!」と怒ります。 父と食事をすると、店員の態度や接客スキルに私は目を凝らして、父の怒りバロメーターを探り、怒りに触れているなと判断した時はその怒りが爆発する前に先行して対処することが癖になっています。 小さい頃は自分の注文と違うものが届いてしまったら、父が気づいていなければ何も言わずに自分はさもそれを食べたかったかのように振る舞い食べていたし、 今だったら、ちょっと鈍臭い店員がいたら父が怒り出す前に「あの人使えないね」と代弁したり、時には自分が先に怒ります。 混雑している時間帯の外食は店員もバタバタしていてミスが起きる確率が高くなるので、今だに混雑している店や時間帯が苦手です。 父がいてもいなくても。 自分の家族だけで外食するにしても、多少高くても接客が良いお店を選んで行くし、初めて行く場所は徹底的に口コミを調べて混雑している時間帯を避けて行きます。(なので我が家の外食は17時台に入って18時前には退散することがほとんどです) 今でも初めての場所に外食に行くのは苦手で、接客が悪かったらどうしよう、頼んだものと違うものが来てしまったらどうしようと、予期不安でいっぱいになり、幼少期の辛かった記憶が蘇ります。 小さい頃、お店で父が罵倒して店員さんが泣いている姿を見るのは辛かったし、そのたびに自分を責めていました。 ここに来てしまってごめんなさい。 このメニューを頼んでしまってごめんなさい。 父が怒るのを止められなくてごめんなさい。 もう二度と来ないのでどうかあなたも今日1日のことは忘れてください。 そう心で唱えながら、その状況を誰も助けてくれないことに毎回絶望する。 周りの人が私たちに注目して、いつもいつも恥ずかしい気持ちと、申し訳ない気持ちでいっぱいだった。 家族との外食で心底安心してご飯が食べれることなんてなかったので、外食=楽しいと思ったことはありません。 今回の心理カウンセリングでは、これらを書き出して、一つひとつ原因を探っていってトラウマと向き合う作業をするけど、これが本当にしんどい・・・ 辛かったことを思い出すのはとてもしんどいですが、これから先、自分の人生を変えて行くには必要なこと。 やっぱり今逃げずにちゃんと向き合いたいなと思います。
2020.04.03
今年に入って通い始めた心理療法について記録をしていきます。 今までも、漠然と抱える「生きづらさ」から逃れたくて、精神科に通ったこともあったしカウンセリングやセミナーなどそういった類のものには多額のお金をつぎ込んで来たけど、何も変わらなかった。 どうせ今回も意味のないものだと思っていたけど、 担当になった心理士の先生は、まさに私と同じような境遇で育った方で、過去に摂食障害も経験している人。 私は初めて、同じ摂食障害を経験した人と、その辛さを共有出来たと思う。 精神科の医師でも理解できなかったこの辛さを、初めて分かってくれる人に出会えた。 摂食障害やリストカットはほぼ100%親子関係に起因する。 だから、それを克服するためには、親に言えなかったことを伝えることが有効らしい。 ただ、それには親の協力や理解が必要不可欠だから成立しない場合もある。 でもこれが出来たら、劇的に良くなる。 それは自分でも想像ができる。 まずは、心理士の先生に言いたい事を全て吐き出して、 吐き出しながら自分の身に起きていたことを整理して、親に伝えたいことを明確にしていく。 あくまでも自分の力で。 過去の一番辛かった話をするのは、とてもしんどい作業でパワーを使う。 カウンセリングが終わった後はぐったりと疲れるし、帰宅後がっつり昼寝もしてしまい、一晩ゆっくり寝てもまだなんとなく体が重い。 でも、これが回復に向けて必要な過程であることは自分でも分かっているので逃げずに向き合いたい。 自分の人生は苦しいままだと何度も諦めたけど、最後の望みを懸けて前に進みたいと思っている。
2020.04.01
私には、きょうだいが4人いる。 5歳年上の兄、そして私、3歳年下の弟、5歳年下の妹 の4人。 両親は自営で、母方の祖父が立ち上げた会社を私の父が継ぐ形で家族経営をしていた。 そして母はそれに加えて英語の塾を自宅で開いていた。 母は、日中、会社で事務の仕事をして、夕方から夜遅くまで塾。 終わって帰ってくるのは子供が帰ってきてからだったので、夕方からはベビーシッターさんが来て、色々と子供達の面倒を見てくれた。 こんな生活をしてしているので、母と子供がゆっくりと関わりあう時間などない。 一番頼りたい人に、一番頼れない環境で私たちは育った。 それでも子供達が小さいうちは、私たちにとってはそれが「当たり前」で、何の違和感も持たなかった。 自分自身の寂しいという感情に気づくこともなかった。 もちろん、両親も「うちの子供達はみんな良い子」と思い、順調に育ってくれている。そう信じて疑っていなかっただろう。 それが後に親子関係を揺るがし、子供の人生をも左右することに繋がろうとは、誰も予想していなかったのだ。 今、私は大人になって、そして親という立場になって、確かに感じることがある。 「子供は、育てたようにしか育たない」 岡田先生も著書の中で言っているが、(以下抜粋) 愛着は、手をかけ、暇をかけ、関わる中でしか築かれない。要領よくなどという方法はないのだ。ごまかしがきかない。関わったぶんがそのままあらわれる。」 両親は、仕事で忙しいけど、兄弟が多いぶん、寂しくないだろう。兄弟同士で埋め合わせてくれると思っていたのだろう。 だが、愛着は兄弟間では埋め合わせがきかない。 むしろ、親からの愛情に満たされなずに育った兄弟同士は、大人になってもその満たされない心を何かで満たそうと、代償の何かを奪い合うことすらある。 兄弟は本来素晴らしい存在だと思うが、それぞれが愛情に満たされずに育った時、 本来あるべき兄弟の存在とは違った関係となりうることもある。 親からの愛情に飢えて育った私は、常に、「兄弟さえいなければ」という思いが拭えない。 だけど、これは私が育った環境に起因するもので、偏見にすぎないことはわかっている。 このブログを書き進めるにつれて、そう言った自分の偏った考え方も正せるように、一つ一つを整理していきたい。
2020.03.31
私には、幼少期に母に遊んでもらった記憶がない。 公園で遊んでもらったことも、ショッピングセンターを一緒に楽しく買い物した記憶も、お絵かきに付き合ってもらった記憶もない。 父は、とても短気で気性の激しいところがあったが、休日には一緒に買い物に行ったり、欲しいものを買ってもらった記憶はある。でも、怒り出すと止められない人で、私達子供はいつも父の暴力と怒鳴り声に怯えながら育った。 母は、いつも自分の理想どおりに子供を支配する人だった。 それに逆らえば、子供を黙らせるために、打撃の強い言葉をわざわざ選んで投げつけるのが得意で、「見捨てられる怖さ」から子供は言うことを聞く。 または、逆らうことを諦める。 まともな話が通じないところは母の父、つまりおじいちゃんにそっくりだった。 私は常に、親のために一生懸命頑張って、頑張って、生きてきたように思う。 だけど、大人になるにつれて、自分が育ってきた環境に違和感を覚えるようになった。 言いようのない「生きづらさ」と「空虚感」を感じるようになった。 そして、その原因が、自分の育った環境にあるのではないかと、「親」にあるのではないかと感じるようになって行った。 愛情に飢えて育った子供は、自分が親となった時、少なからず子育てに行き詰まる。 子どもとどう接して良いかわからない。 自分が親になって初めて、「育った環境と精神発達についての因果関係」について考えるようになった。 我が子には自分と同じつらい思いをさせたくなくて、日々試行錯誤しながら子育てに奮闘していた折、一冊の本に出会った。 岡田尊司先生の、「母という病」という本だ。 あまりにも自分の育ってきた過程で辛かったことを包み隠さず文章として書かれていて、読み進めるのが苦しいくらいだった。 その中で、岡田先生は 自分に何が起きていたのか、そこに違和感を感じて見つめ直すことが治療の一歩であると書き記していた。 私は、この数年間、自分の頭の中で今まで自分に起きたことを並べ直して行く作業を繰り返してきたが、一度、文字にしてきちんと見つめ直すことが必要なのではないかと思った。 過去に遡り、事実と向き合うことで、この先がどう変わって行くのか。 それを客観的に見つめられるように、ここに記していきたいと思う。
2020.03.31
全50件 (50件中 1-50件目)
1