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実は、太陽暦の1月、新月の日近くに義父が逝った。正月に会った後、あと数日だろうと、医師から言われていた。月のみちかけをカレンダー表示してくれるソフトがある。妻にそのみちかけを指差して言った。「この日あたりは覚悟しておいたほうがいいかもね。」人が死ぬと告げる猫は重宝されているらしい。しかし、月はあきらかに猫よりも正確だった。まさしく、その日、義父は干潮の時刻に去った。驚くべきことに彼と最も親友であった人もほぼ同時刻に逝った。*日程が定まらず、火葬場の順番を待つ日々は長い。ドライアイスを変えてまつほどに、人体は蝋化していく。その数日、人々はいれかわりたちかわり白い布の置かれた顔に別れの挨拶をしていく。義母と妻はその顔を誰にも見せなかった。そして、納棺の日が来た。健康で体力があったからこそ、長い長い苦痛の日々だった。両手は縛られ、腕には無数の針の跡がある。このようにしてまでも生かされ続ける。命の日々は。しかし、すべては硬く透き通り、目は薄く開いたままにごってはいなかった。*聖書の末尾にある黙示録のテキストが死者を前にして現れ消える。そして、なぜ、黙示録をルターが置いた意味が次第に明らかになってくる。ルターも気づくことなく仕掛けは動き始める。恐怖のかなたにある地平。。。エターナル・ライフという世界。テキストは音読すれば固有の人格が現れる。黙読は近世のものだ。試験問題には限界がある。*しかし、黙示録のテキストはきわめて数理的でもあり、ルカのように流麗な音律を持っていない。くどいようだが、音読すればわかる。12の12倍おこる災いと艱難。父よ、すべては過ぎた。転生するか涅槃にいくのかそれとも最後の審判でよみがえり、永遠の命にあずかるのか、わからない。ただ、あなたは、いなくなった。
2008年03月28日
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犯罪者リストに、精神障害や知的障害者がカウントされてるって?それだけじゃない。メタボなんて言葉をリサイクルして金儲けと利権をたくらむ集団がいる。ドストエフスキーが成功者でいつづけることができるのはここにある。マスコミは恐怖を販売し、おびえた人々は自己納得のシナリオを作る。キーワードは化粧だ。シナリオができなかった人たちは、「はめこまれて」いく。どこへって、軍事時代の言葉があったでそ。「役たたず。」*進化の時代は終焉に向かっている。いや、おぃらがかつて書いた「エクスタシー」の概念によれば「ニッチもさっちもない」状態に向かってこの時代は加速しつつある。パンドラの箱が開けられて何年たっただろう。北京オリンピックは理性によってはじめられた政治の打ち上げ花火になるのだろう。欲望に根ざした中国のニッチは大きいがそれを埋める人類の経験は豊かだ。おぃらは李白の山中問答を唱しつつ、同時にチベットの「カッコウの詩」を歌う。現象は現れ続ける。生命現象に「予定」は無い。結果として「バランス」の海に浮かぶのみだ。お金なんてはじめから無かった。誰かがあるものを交換できるものにしてお金は生まれた。だからお金は生まれてきたところに天下を回って帰っていく。人は裸で一人で生まれて裸になって死んでいく。システムを作ること参加すること。その人の最高を生み出すこと。おぃらがかかわった社会福祉法人設立は厚生労働省の認可と国県協議と施設設備計画と規定規約の整備とで、ピラミッドのような紙の山を築き終わった。しかし、NPO法人として新たに生まれることになった。*知的障害者は生まれ続ける。そこにインテグレーションという概念はあるものの、ノーマライゼーションとエデュケーションとリハビリテーションを堅固に連結する組織団体はまだ無い。ユネスコは概念にたどりついても実行するためには基本的なものが必要だ。それこそが「エクスタシー」だ。知的障害者を犯罪者にするシステムには検証が必要だ。その検証が成功すれば、新たな径路が生まれ続けることになるだろう。地球幼年期の終わりは遠い。そしてキャッシュを制御できぬほど、我等は未熟なんだ。
2008年03月27日
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ツールナイフで逮捕されたな。(笑)おぃらは、秋葉原の治安が新宿に次ぐ悪さで、その根拠は逮捕者であると知って納得した。包丁は100均でも買える。カッターはペンケースに入れておけばよい。しかし、ビクトリーノックスをそのままかばんに入れておいたら即逮捕だ。ただし、刃渡りに制限はあるからぐぐってね。銃刀法が改正させる前は、おぃらもライヨールのナイフはいつも持ち歩いていた。理由は、簡単。ナイフとフォークで食う料理ではナイフで肉を切ったときに、切り口が七色に光るぐらい切れるナイフでないと肉の味が落ちるから。店においてあるノコギリみたいなナイフだと、食感も香りもダメダメになる。で、フォークは店においてあるのにナイフはどうしてダメなんだ?マリーアントワネットがせっかくフランスに持ち込んだのにその文化を日本でダメにするのかぃ?*ま。いいか。なんても言ってられない。今、カネのことは年金の管理のずさんさに話題は流れているが、もっとずさんな予感がするのは警察の裏領収書の裏金だね。おぃら、やたら感情的でキャンキャンほえる都市の理論のカタマリみたいで、さすが信頼できないと読売に読者信頼度を渡した、スピッツみたいな朝日新聞は好きではない。しかし、今日は警察の内部告発の記事があってそーだよなっ。と思った。前の宮城県知事が警察に予算をわたさなかったでそ。納税者である県民に納得できる説明ができなかったら支出しないのはヒガシコクバルさんでもあたりまえ。更に、超小型でハードディスクに録画できるのがあたりまえになったのだから、取調べはあとですべて裁判資料として保管できるようにしておいてあたりまえ。もっとあたりまえなのは、高速道路に膨大な維持管理費用が必要なあんなでかい取締り用構造物はいらない。おぃらが民主党はなにやってんだか・・と思うのはこんなずさんでいいかげんな組織のことも問題のまな板に乗せないで、「牛歩戦術」みたいなことをしてるから。*たぶん小沢さんが思うほどよりも時代は早く動いている。だからこそ、姑息な取締りで秋葉原の治安報告なんかしている奴は、ミヒェエル・エンデの時間泥棒をたどって「時が生まれる場所」までつれていかなければならないのだろう。哲学があれば、手段を弄する楼閣は砂の如し。警察の裏口論理は憲法の理念ではないもんなぁ。→シルクロードの楼閣は永遠ではなかったよな。。にクリックよろしくっ!!
2008年03月24日
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願わくば花の下にて春死なむそのきさらぎのもちずきの頃ブッシュは替え歌を歌ったらしいけど、良い歌は替え歌がしやすい。日展の書にこんなのがあった。「やまあひに咲ける桜をただ一日(ひとひ)君に見せては・」こんな短歌は「下に何をかおもはむ」をつけて替え歌がしやすい。粋だ。そして、ブッシュのように下品な結論を出したら嘲笑されてしまう。それほど、枕のおりたたみ屏風の書は選びに選びぬいた言葉をしるすから、笑いを想定しなくちゃいけない。願わくば・・の次にくる「花」という言葉。おそらくは梅だろうと思うのだ。桜は江戸の中期から末期になる。歌をよむとき、「梅」と想定させずに「花」とすると、そこには布団からわきあがるちっとセクシーな香りがしはじめる。願わくば・・やわらかな若草のようなぬしのやわはだがよい そのとき空にしるしがあり、そのしるしとは丸だ・・と。そんなふうに国語の先生が教えるかって?教えないだろう。なぜならそれは「ゾーン」に違反しているからだ。*「ゾーン」は都市計画や環境整備事業で使われているけど、なぜかアタマのいい人たちが「ゾーン」を作るとその都市は魅力がなくて心の砂漠のような世界になっていく。市街化区域で商業地域、工業地域、居住地域と「ゾーン」をしていくと、なぜか人の心の活力は失われ、通勤地獄を生み、カンダタたちは蜘蛛の糸のような「お金マジック」を待ってスクラッチをはじめる。変だ。*種は100円で買える。キャベツも白菜もヒマワリも大豆も。そして種をまけば、鳥や蟲たちという悪魔に食われない限り、成長の結果はきわめて美しい。「美」とは生まれつづけ生き続けるための「死」という破壊の前提に成立している。ミケランジェロのあらゆる作品の中で、最後のピエタが最も美しい。彼は、破壊して破壊しつくしてその中からあきらかに「生きる姿」を拾っている。おぃらが知的障害者の法人設立にかかわったとき、あの家、この家から知的障害者が次々と現れた。人口の1/10は知的障害者だからだろう。しかし、健常者を前提とした社会組織に、彼らの「ゾーン」はない。よりよい都市とは、ゾーンされない市場が住居に点在するのがのぞましい。実は数時間前、駅の周辺にあるマンションをあれこれ見ながら思った。・・・なぜ、マンションの中にブテックがないんだ?。一階にコンビニがある所はあった。しかし、コンビニの存在は、おぃらのように半失明した者にとつて、脂肪も少なくておでんみたいに味気なくなくて・・という欲望から求めると「絶望」が口を開いて待っている。それが、ミヒャエル・エンデの「モモ」にある時間泥棒の正体だ。人々はコンビニエンスになると対話がまにゅある化されて希望を見失う。今のコンビニエンス・ストアは、役場以上にゾーンの世界にある。おぃらも人々のようにコンビニで迷子になる。そして、スーパーでも迷子になる。そういう仕掛けにいるからだ。マイバスケットにいれたもを入れては出しを繰り替えし、なぜ、自分はこんなものをバスケットに入れたのか・・レジにという「死」に向かいながら思うのだ。*レジにはアクションの死の宣告がある。おぃらが買ったもの、買ってしまったものが、最後の審判でカウントされる。これもまた「ゾーン」の結果だ。よりよいゾーンは単一目的では成立しない。般若心経が示すスワロフスキーのカットのように多面的な世界化がそこにはある。如月のもちずきは明日だ。月は輝き、美しい。でぁ。→人気blogランキングはこっちをクリック!!
2008年03月21日
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袖がボロボロになったマウンテンパーカーを土手に敷いてごろんと横になると、太陽はぽかぽか。あたたかく、いろいろな気配を感じながらうとうとする。そうしていると、地面の中から音がする。もぐらが地面の下を動き回っている音を聞いたことがあるかぃ?彼らはおぃらがここで聞いていることも関係なく動き回っているのだろう。そんなときに物語を思い出す。鯨とミジンコの出会いについてだ。相互に互いを認識できる出会いだろうかってこと。人は多くの事柄にかく乱されてしまうと見失うこともあるだろう。でも、小さな蜘蛛は決して見失わない。それは、長い年月をかけて内奥に蓄積した「声」が語りかけてくるからだ。小さな蜘蛛は、リズムとテンポに従い、踊りながら糸をはりめぐらす。だから幾何学的なのだ。しかも、乱雑そうであって結果はまとまっている。人々はそれを「マシンのようだ」とも言い「知恵」だとも言うだろう。違う。それは認知がまだ未熟でしかないから現象をもたらす原因がわかってないからそうなってしまうのだ。*ユリ科の植物という分類がある。ネギやノビルもユリ科だ。そしてヤマユリも、カタクリも。ところが遺伝子の解析が進むほどにユリ科という世界はとてもとても広い距離の間に種が分散していることがわかりつつある。それさえもまだ、ミジンコが鯨を認識したはじまりにすぎないだろう。植物たちが対話しているとこなど古代人は既に知っていた。そして鯨も対話しているし、蜘蛛も昆虫もみんな対話している。結果として現れる物の中で最も未知の分野は「匂い物質」だろう。おそらくバイオインフォマティクスはその重要な解決手段の一つになるだろうが、ヒントは必要だ。結果としての現象を良く見てみよう。なぜ植物たちはヘリコイド構造をしているのか。数学的に均整のとれた構造である。コケも海草も数理的に安定している。そしてツル植物さえも数理的な構造に結果としてまとまっていく。乱雑ではない。動物たちを見てみよう。彼らの本質は植物と同様に数理的な行動をする。鯨もミジンコも「踊る」生物だ。逆に「踊らない動物」を数えてみよう。そうしてみると動物はその生命の重要な局面において必ず踊る。そして匂い物質と音などで必ず「歌う」のだ。*蜘蛛ははじめの糸をはったと同時に踊りはじめる。そしてダンスによって巣は完成する。自らが雨風から隠れ、餌をからめとる、そして子孫を残すゆりかごのため。その生涯はダンス・ダンス・ダンスなんだ。美的価値は相対的なもので絶対性はないという議論には、もしかすると間違いが含まれている。あらゆる可能性を示すには有益であったとしてもだ。おぃらはこう言っておこう。芸術とは生命の本質を継承したときにこそ様々な出発地点からの目的を体現できるのだと。→意味不明でも、早春の蜘蛛の巣がうつくしいと思ったら人気blogランキングにクリックお願い汁!!
2008年03月17日
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「まずは伝統に根ざすべきである。」ダライ・ラマは、般若心経の解説の冒頭近くで様々な宗教から仏教に関心を持ち、知恵を得ようとしている人たちに、そう語りかけている。おぃらはクリスチャンだが都市の根無し草クリスチャンの伝統の系列にある。それは、バプテストであるからだ。バプテストの誕生については、西南大学のセンセイたちがちびちび小出しにしていて全体を俯瞰できる論文はまだ出ていない。イギリスがヘンリー八世によって国教会となり、カトリックの人たちがほそぼそと礼拝を守っている中、信仰の自由を求めた彼らはなんとオランダに渡り、倉庫で自分たちの礼拝を始めた。それだけではなく、アルミニウス主義を取り入れカトリックの一部にあった再洗礼を主張するヨーロッパの人たちとも連絡と議論を繰り返す中で「信仰告白」をつくり、そして一部の人たちは迫害を受けると承知の上でイギリスに帰り、清教徒革命へとつながっていく。また一部の人たちは、アメリカをめざして現代がある。簡単に書いたが、歴史はそう簡単なことではなかったんだ。そして、ダライ・ラマが般若心経の解説の中で「宗教とは本来よきものでなければならない。伝統をはそれを現している。」という言葉を再度検証してみるとなるほど、そうなのだ。都市と地方とでこのことを一元的に論じることはできないだろう。都市は破壊と創造が伝統であり、地方は人材も素材も都市という花のためにあるかのようでもある。逆に都市から地方を見るとカネに縛られず伝統に根ざして生きているものはきわめて幸いにすごしているのを見るだろう。価値観は多元的である。しかし、それは人類の歴史の中で都市が生まれてからそのまま継承されてきたものでもある。肝心なのは「ステージ」の維持なのではなかろうか。*ダライ・ラマの般若心経解説は、途中からとたんに難しくなる。様々な心の現象がキーワードで羅列されていく。そのときおぃらは眺めているうちに、あ! と思ったのだ。彼は、曼荼羅を見ながら解説を書いている。システムを自然界と心世界から拾い集めつなげて構築し、等分に現象ごとに配列していく。その図像があり俯瞰しながら彼は書いている。だから、空海は現象を単純化せず現象のままシステムに展開できたのではなかろうか。展開できたらもはや、曼荼羅はいらない。ところが、「伝統に根ざす」ところで曼荼羅のシステムのある空間で語られると現象はより深く意味をなしてくる。それを「仏像」というアイコンに置換してみよう。バプテストの宣教師は仏像を「偶像」と言うかも知れない。しかし、本質は違うのだ。現象は金の牛のようなツールではないのだから。自分がいるその地域にある疎水や石碑、歴史から継承されたものを教科書からではなく自ら解説すること。クリスチャンにもムスリムにもアボリジニにも。解説をするためには学ばねばならない。そしてはじめて、われらは地球人の中の日本人になれるのだ。おぃらが山の中で水晶を含んでいる石や金の鉱石をやすやすと見つけられるのも伝統に根ざしているからだ。なにせ、伊達政宗がしっかりと地質調査をしてカネを生み出したところにおぃらの山もあるのだから。*カネは毒薬でもある。道路特定財源は一時しのぎのものだった筈だ。それにニューディール政策の真似をしたダムの建設もだ。本質は薬であるから毒である。もし、それがないと生きられないとすれば「中毒」である。国県協議の書類を書いたことがある経験から言わせてもらえば、国庫請求をした時点で地方の自己負担が要求される形式になっている。地方単立事業はどうしても規模が小さくなり、利権は薄くなる。国が50%を持つ事業のうまみはそこいらにあるのだね。中毒からは脱しなければならない。どのようにして?そこで「伝統に根ざす」ということをもう一度反芻してみる。時代にあわせてだよ。そうすると、幼稚園と保育園がなぜ一貫できないのかというなぞや、福祉のなぞがなだれのように出てくる。なんで、私立の幼稚園のセンセイの給料はあんなに安いんだ?エジソン少年のように質問してみよう。なんで、福祉をめざす彼らが人材派遣に搾取されているんだ?ハードウエアはそろそろもう飽和してるんだ。次は福祉と教育なんだよ。そして、競争はもういらない。伝統によって選択されるんだ。おそらくそれが中毒からの出口なんだろうけど。悪魔の胃袋に棲んでいると、わかんねぇだろうなぁ。(爆)→人気blogランキングはこっちをクリック!!
2008年03月16日
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免許更新の時には「入りません」と言うことにしている。理由は決算書を見たこともないし帳簿を閲覧したこともないから。電子化して公開すれば「入ろうかな・・」という気にもなるが。もちろん印刷代とか「かかしの制服代」はチェックさせてもらうよ。爆。自動車運転免許は法によるものなのになんで交通安全協会の勧誘をするのかねぇ。道路特定財源が目玉だけどあんなもん氷山の一角でしかないでそ。それだけじゃない。SDカードってなんなんだあれは。ちっと前には行政処分をSDカードを所有することによって軽減されるみたいなこと言ってたでそ。聞いたことあるでそ。なんでまたこんなことに怒っているかというと、実は小学校からの同級生が先日倒れたの。本来、朝の交通違反とか自転車の安全運転を指導するのは行政でそ。同級生は腕のいい自転車だったんだが、倒れた理由は本来行政がすべき交通安全指導を毎朝していたの。雪の降る日も雨の日も。警察の隠語で「かかし」の服を着てだ。血圧が高かったのだろう。しかし、彼はマジメだから毎朝、子供たちと時間規制がある道路で交通指導をしてた。*交通安全協会は膨大な印刷物を学校に配布する。おぃらはそれだけではないと思っている。なぜなら、高速道路にあるあのスピード違反の取締りカメラと電波。それを作っている会社はおーもーけしていて、なおかつ、その電波を感知するものを運転者にDIY店で売って儲けている。そんな構図を眺めると、更に大きな利権があるだろうことは容易に想像がつく。旧MOF担なら知ってるでそ。ノーパンしゃぶしゃぶの店とその裏手にある特殊なホテル。だから、やめられないんだろうね。「棲んでいる世界が違う」と勘違いして。だからおぃらは、次回の免許更新のときも拒否する。「交通安全協会には入りません!」マスコミはこの問題を追及するかって?しないだろぅ。広告収入源だから。そして国会議員もしないだろ。しゃぶしゃぶを食ったあとの楽しみがなくなるからねっ。(笑)おぃらも昔は道を作ったんだ。木を伐採して杭をつくり腐らないように焼いて。その道を今息子たちは歩いている。だから利権のネタにしてはいけない。道路とはおぃらたちが作ったおぃらたちのものだから。だから、こう考えて散歩しよう。誰かが作ったからこの道はあると。そして道は特定の誰かのためにあるのでもないし利権のためにあるものではないのだと。→そーだと思ったら、人気blogランキングのこっちをクリック!!
2008年03月14日
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みなさんおひさしっ。突然休止してからいろいろあったし、皆さんの人生にもいろいろあったろうねっ。右目が半分失明してからまた徐々に見えるようにはなってきたが、元にはもどらない。ギザギザの直線が見えるんだが、まぁ、昔はめがねなんてなかったから、両目とも0.1の視力もないおぃらにとっては見えること自体、拾い物だとちっとは諦念したかっ。?しないしなぃ。昔むかし、江戸のむかし、遊女が隠居したおじ玉に手紙をしたためるときは、ねっとりと濃厚にという指南をNHKの番組で見た記憶があるが、視力は衰えるほどに黒い瞳の輝きをもとめるだろうし、爪は輝きを失うほどに白いもち肌を求めるだろう。この世の男性に生物学的な減数分裂のある限りだ。坊さんにも神父にも。見たいから見えるのではない。目に飛び込んでくることがある。吉祥の雲。よい知らせを伝えるといわれている。彩雲とも言われている。Wikipedia ではありふれた現象と書かれているが、見たことあるかぃ?見たことがないなら、高い山に登り、数日を過ごしてごらん。この季節には必ず現れる。11月が虹の季節であるように、春に黄砂が来る頃は山では地からわきあがる風に雲が浮かび、そして輝く。ありふれたことが誰にでも見えるわけではない。そして求めたとしても得られるものではない。鼻を空にむけて匂いをかぎわけ、季節のうつろいを感じる者が示された場所に行くことによって、ありふれた現象を確実に信念をもって見ることになるだろう。イースターは太陽暦ではないと、以前に話したね。そして如月の望月は毎年ちがう。今年は、3月22日が如月の望月だ。願わくば・・・というのなら、その足をもって意思を明らかにして立ち上がらねばならないだろう。もう、この時代は如月の望月は、捜し求めないと見出せないのだから。そして、桃の節句がやってくる。もう終わったのではない。まだ来ていないのだ。中国はまだ堂々と旧暦と太陽暦の二つを用いて捨ててはいない。節句をもう一度思い出してみよう。3月3日、5月5日、7月7日、8月15日、11月15日、1月15日。すべて命の形は、月の形なくしては語れず、祭りも十五夜の月明かりがあってこそ成立する。節句という文化を世界に発信してはどうだろう。海洋イスラムの人々とも、きっと共感を分かち合えると思うんだ。なぜなら、その口から語られる言葉の音色は、「虹色」だから・・→久々の人気blogランキングはこっちをクリック!!
2008年03月10日
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