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オリエンタル・バンコクで最も優雅な時間が過ごせる場所、それは断じて、宣伝先行のオーサーズ・ラウンジ(ここで「泊まれない人」相手に、割高でたいしておいしくないアフタヌーン・ティーを出して儲けている)なんかではなく、ゲスト・オンリーのファシリティである「プール」だと思う。プールサイドには常に複数のボーイが控えていて、ゲストのさまざまな要望に答えている。プールは2つあるのだが、外部の人間の目にさらされないメイン・プールの美しさはまた格別。プールに敷き詰めたタイルは、10センチx10センチの安っぽい浴用タイルなんぞではなく、わずか縦横1センチほどの細かなモザイクなのだ。色調はブルーとゴールド。泳いでいると水を通した太陽の光を受けて、プールの底に敷き詰められた深い藍色の色彩の中の黄金のモザイク片が燦然と煌く。プールはとても深く、ほとんど足がつかない。だから子供は浅いサブ・プールのほうに行く。プールサイドはゲストでいっぱいでも、プールのほうはあまり混まない。だから極めて静かな、他人の気配のほとんどない、孤独ですらある時間が身体をつつみこみ、水の中の思考を深い思索へと解き放ってくれる。ここにはなぜか日本人は滅多に来ない。プールサイドでゴロゴロというのは、よっぽど日本人の体質に合わないようだ。日本人観光客の「名所・旧跡至上主義」はいつまで続くのだろう? ツアーだと体力を無視したようなスケジュールで、あちこち引っ張りまわす。ああいう旅行でみんな満足なんだろうか。疲れるだけじゃん。一方、白人は長々と、本当に長々と長椅子に横たわっている。よく退屈しないなあ、ってぐらいノンビリしてる。直射日光に肌をもろに晒して焼いている人も多い。大丈夫なんでしょうか。皮膚がん、怖くないの? 背中が日焼けでズル剥けになってる人も多い。あんまり気にしてないみたい。痛くないのかな。どうやら「日焼け」というステータスは彼らにとって何モノにもまさるらしい。一度だけ日本人と思しき男性に会った。彼はゴーグルになんと水泳キャップまでかぶり、ガンガンに真剣に泳いでいた。ホテルのプールまで来てあんなにマジメに泳ぐのは日本人しかいないだろう。律儀にキャップまでかぶっているのを見たのは、あとにも先にもこの1回だけだった、当然ながら(ちなみに、ゴーグルは必携)。Mizumizuのお気に入りは、パラソル付きの寝椅子よりも、この天蓋付きスペース。海辺のリゾートではないので、澄んだ青い海はないけれど、この植物に囲まれた天蓋付きの台に寝転んでいると、都会ではなく自然豊かな島に来ているような気分になれる。木々をわたる風の音はワイルドですらある。軽い食事もできる。この日はランチをプールサイドですませた。メニューはポメロ・サラダとトムヤムクン。ポメロというのはブンタンの一種らしい。果肉はグレープフルーツに似ているのだが、味はずっと淡白。少し苦味もあり、朝はこれのツブツブの果肉入りの生ジュースが出て、たいそう気に入ってしまった。そのポメロを使ったサラダというのが、また絶品。ポメロの果肉と一緒に、海老やフライドガーリックやアーモンドや、さまざまなものが入っている。全体的に上品で淡白な味なのだけれど、材料の取り合わせが絶妙。外部の人でも「ザ・ヴェランダ」で食べられるので、機会があればお試しあれ。トムヤムクンやサラダを頼むとライスも自動的についてくるのがタイ風(らしい)。
2008.06.30

ホテル「オリエンタル・バンコク」の夜のロビーは一種幻想的な雰囲気。弦楽四重奏の調べ、睡蓮を浮かべた噴水の涼やかな水の流れ、人々のざわめき。そして、時にはこんな幻想的な人も登場する。一体この、ヴェネチア風に仮装した人々は何だったんだろう。最初はてっきりホテルの出し物かと思っていたのだが、噴水にダラッ~と腰を落としてさっぱり動かなかった。ということはゲスト? よくわからない。たまたま入ってきた日本人の宿泊客がギョッとして足をとめていたっけ。ロビーから川に面したテラスに向かう。見あげれば庭のヤシの木がライトアップされている。テラスを通り抜けて、ホテル内の船着場へ。「レストランへ」そう言えば事足りる。向こう岸のテラス・リム・ナームへ運んでくれる船を待つ。チャオプラヤー川を渡る。湿った熱帯の空気に、川面をわたる風がいつも心地よい。レストランに着くと、建物内でタイ舞踊を見ながらのセットメニューか、テラス席でのアラカルトかと聞かれる。いつもテラスを選んでいた。川沿いの席が一番開放感があるのだが、奥のベランダ席もしっとりと落ち着く。エキゾチックな植物に囲まれた暗めの庭を見ながらくつろぐ。木々の向こうに見えている、屋根をかたどったネオンは渡し船。席に着くと、ほとんどMizumizuたち専属になったイケメンの若いウエイター君が、「Welcome back. Thank you」と満面の笑顔で椅子を引いてくれる。彼は、アルコールを好まないMizumizuたちの嗜好をすぐに飲み込んでくれた。「スパークリング・ウォーター?」指を鳴らしながらカッコつける。まるで「ここはボクがウエイター役を演じている舞台」とでも言っているよう。日本のウエイターもこのぐらい楽しげに、そして少しナルシスティックに仕事できないものかな(できないだろうな・笑)。必ず出てくるタロイモのチップス。芋の種類はときどき変わる。これにつける辛いソースがすでに、タイ料理の奥深さを教えてくれるお食事はカレー(Mizumizuの好み)と海老が入った一品(連れ合いの好み)が中心になった。最高に気に入ったグリーンカレー。甘くて辛くて酸っぱい。複雑な味のハーモニー。日本では味わったことのない洗練された味だった。具材の多さにも驚き。タイ料理って、本当に一皿に驚くほどたくさんの材料を使う。タイの宮廷料理の長く華やかな伝統を垣間見る気がした。こちらは海老を使ったヌードル。スープの深い味わいにこれまたノックアウト。海老はぷりぷりで新鮮そのもの。また別の日のメニューはレッドカレーとスリッパロブスター(セミエビ)。右の筒はモチ米。タイ米がさらさらしているせいか、もちもちのモチ米とタイカレーを合わせるのが案外好きだったりする。でも、タイではカレーとモチ米は一緒に食べないそう(日本人って変な食べ方をするな~、と思われただろう・笑)。カレーには普通のタイ米が自動的についてくるので、この日はご飯づくしになってしまった。セミエビってこんなに甘くておいしかったっけ。日本で食べる大味のロブスターとは大違い。レッドカレーは思ったほど辛くなく、上品な味わい。またある日のメニュー。イエローカレーと鶏肉入りココナッツスープ。イエローカレーはまったりとした食感で非常に甘かった。ウエイターによると子供向けだとか。ココナッツスープは見た目は白いけれど、基本的にトムヤムクン。ココナッツで少し口当たりがやわらかくなっている。辛みと酸味の幸福なマリアージュ。そこにほんの少し甘味が隠れている。まったくタイ料理ってのは、すごい。ヨーロッパの料理にはこんな大胆に、対極的な味わいを融合させるテクニックはないんじゃないか。朝のブッフェからデザートが山のように出るので、1日の甘味許容量を朝食ですでに超えてしまい、夕食ではほとんどデザートまで行き着けなかった。一度だけ頼んだモチ米で作ったお団子入りココナッツ。タピオカココナッツを上等にしたようなもの…… なのだが、強烈に甘く、しかもなぜか塩味も感じる。さらっとしたココナッツの汁ともちもちしたお団子の食感も新鮮。タイ風の冷やし汁粉といったところか。ゆったりと食事し、また屋形船に乗って帰ってくると、夜遅いロビーは、すでに人影もまばら。エレベーターボーイの流麗な所作に導かれて、部屋のある階へ。注:外部から食べに来るなら、ロビーのコンシェルジェで「テラス・リム・ナーム」と言って予約してもらえばいいと思う。行きかたは、ロビーからテラスに抜けていく。途中で「どちらへ?」聞かれたら「ボート?」と言えば広いテラスのレストラン(ここも)を横切って船着き場へ案内してくれる。「テラス・リム・ナーム」が予約でいっぱいのときは「ザ・ヴェランダ」でも、また味の違うタイ料理(と各国料理)が味わえる。「ザ・ヴェランダ」はロビーからテラスに抜けるとすぐ。船に乗る必要もない。ちなみに、グリーンカレーの味は、「ザ・ヴェランダ」より「テラス・リム・ナーム」のが上。
2008.06.29

「バーン・カニタ」というタイ料理のレストランには期待していた。ガイドブックにも「タイで何度もベストレストランに選ばれている」と書いてあったし、テレビでも紹介されているのを見たことがある。それで、わざわざ観光客にとっては不便なスクンヴィットまで足を伸ばした。スクンヴィット駅からも相当離れたところにある。道を歩きながら不思議な感覚にとらわれた。周囲に日本語が増えてくる。スクンヴィットには日本人が多いと聞いていたが、日本人学校ならぬ日本人幼稚園まである。かなり不便なところにある「バーン・カニタ」だが、中に入ってまた驚くことになる。お客がほとんど日本人なのだ。オリエンタル・ホテル内レストランのディナーの席では、ほとんど日本人に会わないから、なおさら奇妙に感じた。そして、ホテルのレストランのウエイターの徹底したサービスのよさに比べると、ずいぶん愛想が悪い。なんだか場違いのところに迷い込んだような当惑を覚え、オーダーする前から、もうあの素晴らしく居心地のよいホテルに帰りたくなった。海外のレストランで日本人だらけのところとアメリカ人だらけのところは、まず間違いなく高いわりにはおいしくない。日本やアメリカでの宣伝に力を入れていて、味のほうはおろそかになる。さては「バーン・カニタ」もそのテのレストランだったのか?結論からすると、そう悪くはなかった。頼んだのはグリーンカレーと魚のカレーがけ。どちらも美味しく食べたが、オリエンタル・ホテルのタイ料理ほどの洗練と深みと味の広がりはなかった。値段は「バーン・カニタ」のほうが若干安いかもしれないが、観光客にとっては不便な場所だし、わざわざ「バーン・カニタ」に行くなら、個人的には断然オリエンタル・ホテルのタイ料理レストラン(川向こうにあって渡し舟で行く)をお奨めする。むしろ、聞きたいぐらいなのだ。情報に敏く、味にうるさいハズの日本人が、なんで全然たいしたことない、割高なだけのオリエンタル・ホテルのアフタヌーン・ティーなんぞには大挙してやって来て、東京に比べれば良心的な価格で最高級のタイ料理を出してくれる川向こうのレストランに来ないのだろう? これも宣伝の力かもしれない。アフタヌーン・ティーはやたらとガイドブックでも紹介されている。あるいは英語力に不安があって、オリエンタルはなじめないと思っている人が多いのかもしれない。タイ料理のレストランは川向こうだから、外部の人間にはわかりにくいのかもしれない。何にせよ、白人に席捲されたオリエンタル・ホテルのタイ料理のディナーの席で、艶めいた熱帯の夜風に吹かれながら、暗いチャオプラヤーの川面を行きかうネオン付き(笑)屋形船を眺め、イケメンのウエイター君に最大級の笑顔でかしずかれながら、「もっと日本人来ればいいのに、もったいない」と思うMizumizuだった。「バーン・カニタ」もそんなに感じが悪いわけではない。食事を終えて、「タクシーを呼んで」と言ったら、快く呼んでくれた。しかし、「どちらまで?」と聞かれて「オリエンタル・ホテル」と答えたら、心なしかそれ以後妙に笑顔が増えて、腰が低く、扱いが丁寧になったような気がする。遅いよ、まったく(苦笑)。日本だとタクシーを呼ぶと、来てもらうまでの料金を払うことになると思うのだが、タイでは、呼ばれたタクシーは、客を乗せた時点でメーターを押す。おまけにウエイターがトラぶったときの連絡先を書いたメモを乗車時にこちらに渡してくれる。こういうのも助かる。
2008.06.27

オリエンタル・バンコクには自称アジア屈指のフレンチ・レストラン「ル・ノルマンディー」がある。アジア全体での位置づけはともかく、タイでは最高級であることは間違いない。というワケで一度行ってみることにする。メニューを部屋に持ってきてもらって、どんな料理があるのかチェックした。デギュスタシオン(その店のスペシャリテを少量ずつ出すコースメニュー)が中心のようだが、Mizumizuはこれは頼まない。単純に、食いきれないからだ。といってアラカルトはもっと量が多い。なので、パターンとしては2人で行ったら前菜を2皿頼み、メインを1皿撮って2人分に分けてもらう(それでもすごい量なのだ)。もうこの2皿でお腹はパンパンになる。アラカルトを見ると、ミルク飼育の仔牛があった。日本では成牛があまりにウマすぎるためか、仔牛にはほとんど誰も見向きもしない。だが、ヨーロッパでは間違いなく仔牛のほうが親牛より高級なのだ。パリの2ツ星(当時)レストラン「ギー・サヴォア」で食べた仔牛の美味しさは忘れられない。夢よもう一度、ということでメインは仔牛にした。メインがヘビーなので前菜はスープにしようと思っていたのだが、いざ店に行ったら、フォアグラのラビオリを強く薦められてそちらにしてしまった。デザートはあまり充実していない。タイではチョコレートモノはダメだと分かっていたのでフルーツ系にする。「クレープシュゼット」と「パイナップルのフランベ」が目を惹いた。でもシュゼットはオレンジで別にタイは産地じゃないし、日本でも食べられる。わざわざ食べ比べするより、あまり日本にはないパイナップルのフランベにしてみよう。午後7時半の予約で、時間キッチリに行ったら、なんとダイニングでウエイターが輪になって朝礼(朝じゃないけど)状態だった。なんだか、素人っぽいな~と思ったのだが、案の定(?)、ウエイターの面々は研修生レベル。とても緊張していて、英語もままならず、見ていて気の毒なほど。とにかく一生懸命なのはよく伝わった。ミシュランの格付けは、星がつけば何でもかんでもビックリするほど美味しいというわけではないが、サービスの評価は確かだ。星つきレストランで一番感動するなのは、魔法のようにワインのコルクをあけるソムリエだったり、影絵のように音もなく歩くウエイターの優雅な動きだったりする。あの洗練だけは、日本は絶対にかなわない。日本人は味にお金を払うことには慣れているが、ウエイターの職人技には無頓着だ。水をついでいて、あっこぼした、なんてことは(日本ではしばしばあるが)パリの星つきレストランではありえない。レストランからの眺め。チャオプラヤー川に浮かぶ屋形船。向こう岸の威圧感のある建物はオリエンタルと評価を二分しているペニンシュラ。アミューズブーシュは卵の殻を上だけ破って中に詰め物をした、よくあるパターン。ツナのなんとかだって説明だったけど、シーチキンとどう違うのだ? とチラっと思う味だった。アミューズブーシュは感動的においしい小品が出てくることが多いので、ちょっと期待はずれ。連れ合いがアルコールがダメな人なので、ワインはいつもグラス。1000バーツ(3300円)もする最高の赤ワインをチョイスしたのに、あまり美味しくなかった。ちょっと酸化したようなすっぱさがあった。酸味とは違うような気がした。どこかで熱にあたってしまったのではないかと思ったのだが、何をやるのもいっぱいいっぱいの感じの、素人っぽいウエイターさん相手に文句を言うのも弱い者イジメみたいで気が引けて、そのまま飲んだ。赤ワインの渋みや深みが感じられず残念。このレストラン、ペリエが全部タダだった。このサービスを考えるとワインのハズレも許せる。パンは美味しかった。アフタヌーンティーを試したときは、「タイには美味しいバターがない」なんて書いてしまったが、前言撤回。パンについてくるバターは間違いなくフランスの最高級バターでした。Mizumizuの前菜はフォアグラのラヴィオリ、黒トリュフ風味。トリュフはあまり風味がなかった。まあ、季節柄仕方ないわな。フォアグラ味のラビオリというのはユニークだと思った。とても美味しい。ソースはゴルゴンゾーラの香りがした。…って、イタリアンじゃないの? これ(苦笑)。連れ合いのザリガニを使った一品。ペンネ仕立てなのが、やっぱりイタリアンしてませんか?メインの仔牛。……ギー・サヴォアほどではなかったが、まあまあ。肉質はみずみずしくジューシーなのだが、ちょっと豚肉のようでもあり(笑)。そもそも量が多いわ。これで半人前ですからね。やっぱりラヴィオリじゃなくてスープにすべきだったかも。ソースもオーソドックスすぎて、古い。それと付け合せがフェットチーネだというのも、「なぜ?」という感じ。正統派のフレンチというより、イタリアンとのフュージョンになっている。フランス料理もイタリア料理も愛する者としては、肉とパスタが1つのお皿で共演というのには違和感がある。付け合せはジャガイモのピューレにしてほしかった、せめて。こちらはコースを選らんだ方用のワゴンデザート。個人的にはワゴンデザートから何種類か取ってもらうスタイルは嫌いなので、頼まないのだが、脇から見てる分には美味しそうで、目を楽しませてもらった。ドームのようなケーキはどうやって切るのだろう?Mizumizuデザートはパイナップルのフランベなので、ウエイターが眼の前で作ってくれる。やっぱりデザートはこれでなくちゃ。このレストランにいる唯一プロといえるウエイター(?)の白人さんが腕を振るう。けど、火をつけるのに100円ライターはいけませんね。火力もちょっと弱くありませんか。ホテル・オークラの迫力あるクレープ・シュゼットのフランベに比べると、とってもこじんまりしていた。やっぱり、えらいぞ! ホテル・オークラ。出来上がった焼きパイナップル。芯が少し硬く、周りはしっとりと火が入っている。バニラ風味のソース(他にアニス風味、黒コショウ風味とあって、選ぶのだが、バニラにしてみた)も香り高い。酸味と甘味が渾然一体となった素晴らしい食感と味わい。アイスはダメでした。「どう?」とお兄さんが聞いてきたので、「完璧、素晴らしい」と褒めちぎった。デザートを食べると、もうコーヒーも紅茶も入らない。支払いをすませて帰ろうと思っていたのだが、ミニャルディーズを出してくれた。それがなんと、ドライアイスの煙が下から出てくるという、よくわからない(苦笑)演出。写真左がチョイ煙ってるでしょ? これが下のドライアイスの煙。のっているのはプティフールとショコラ。しかし、どうにもお菓子自体がダサい。それにあまり美味しくない。タイの焼き菓子ってどうしてダメなんだろう。朝食にもどっさり焼き菓子が出るのだが、どれも味がイマイチ。日本が美味しすぎるのかもしれないが。帰りにチョコレートのお土産までくれた。もういいっちゅーの(笑)。帰りは白人のウエイターさんと女性のフロント係がエレベータまでエスコート。感じよく頑張っていた。けど……結論:タイではやっぱり、タイ料理を食べよう。前日に予約をしたのだが、席は入り口から2番目。奥の落ち着いた席はすべて白人。入り口に一番近い最悪の席には中国人かタイ人のおじさんとその愛人風の女性。つまり日本人ではないアジア人。予約の順番で、偶然だったのかもしれないが(経験的カンから言えば、偶然ではない。有色人種を末席に固めてるのだ)、人種で序列をつけているようで、こういうのもちょっと気に入らない。ヨーロッパでは返って、こういう経験はない。だが人気は確からしく、レストランは平日というのにお客でいっぱいだった。味やサービスが傑出して優れているというより、あまり競争相手がいないんだな、という印象。おわり
2008.06.26

川に囲まれたアユタヤ市内の遺跡を一通り見終わって時計を見たら午後3時少し前。微妙な時間だ。バンコクへ帰る次の電車が4時。それを逃すと午後6時台までない(実はホテルでもらった時刻表に載っていなかっただけで、実際には間に何本かあったようなのだが)。日本人町は公園があるだけだというので、あまり興味がなかった。だが、同じく駅から見て南方向にあるワット・ヤイ・チャンモンコンは巨大な涅槃仏があるということで、行ってみたかった。「どうする?」と連れ合いと相談。「ダッシュで見てくるか」1時間で見て帰ってくることにする。ワット・マハータートを出発し、例の高架大橋に向かった。駅に行くなら渡し船だが、チャンモンコンは場所から見て、どう考えても橋をわたったほうが早そうだ。車がびゅんびゅん行き過ぎる、自転車で渡るのにはおよそふさわしくない橋をまたビクビクしながら渡り、そのまま古都アユタヤのイメージにはさっぱりそぐわない幹線道路(東京でいえば環八)を排気ガスを吸いながら走る。川を渡ったあとは道の左側を車と併走。地図上では、しばらく直進したあと、ロータリーを右折…… シンプルに見えた。ところが目指すロータリーに出てみると、そこは片道3車線の広い車道が三方から交わっていて、横断歩道も何もない。右折というより、環八をまんま横断するイメージ。一応信号はあるので、車の流れが止まったところで決死の覚悟(?)で自転車をこぎだす。ちょうど右手の道からバイクが左折してきて、こっちがのろのろ渡り出したのを見たのだろう、前を横切って行こうとした。こちらはスピードを出してバイクを後ろにやり過ごそうとした。それであわやぶつかりそうになった。バイクは慌てて弧を描いてMizumizuの自転車の前を間一髪すべり抜けた。バイカーが驚いたようにこっちを見る。どうも、スイマセンでした。結論:ワット・ヤイ・チャンモンコン(それより先にある日本人町跡の公園も当然)は、慣れない旅行者が自転車で行くのは危険。チャイモンコンは14世紀に建立された寺院。16世紀にビルマの侵攻を退けた戦勝祈念の塔もある。着いてみると、たくさんの観光客で賑わっていた。「環八」を自転車で走ってるアホな観光客は1人も見なかったのだが(笑)。さすが巨大な涅槃仏で有名な寺院。チケット売り場で涅槃猫が出迎えてくれた。涅槃犬はたくさん見たが、涅槃猫はここが初めて。そっくり……そして、奥でも……この涅槃仏も中はレンガのスタッコ仕上げ。熱心に拝んでいる市民も多かった。これが戦勝記念塔? 実は何も知らないで来てるordinaryなツーリスト、Mizumizu。黄色い布は何を意味してるのだろう??周囲にはずらりと仏像が。やはり黄色い布を巻いている。帰りは同じ道を戻るのだが、今度は駅を目指すので高架大橋を渡らずにすむ。気分的にラクだったが、それでも、「ここは自転車が走る道路じゃないよな~」と思いつつ走ったことには変わりなかった。駅に着いたのは午後3時40分ぐらいだった。頑張って自転車をこいだおかげで思ったより早かった。駅前で自転車を返し、ついでに30バーツ(100円)でシンハービールを買って、バンコクまでの切符を買い(今度は20バーツだった)、駅のホームのベンチで列車を待ちながら飲んだ。しかし、アユタヤを取り囲む道があんな幹線道路だとは思わなかった。地図でイメージした古都アユタヤは、駅から遺跡までシンプルにストレートに鄙びた田舎道がのびていたのだが、実際に来てみたら大違いだった。行きの列車内で会った日本人カップルが来た。挨拶すると、女性のほうが、「ホームはどこですか?」とさっそく確認してくる。こういうときは女性のほうが気軽に人に聞くもの。男性はなるたけ人に頼らず自分で案内表示を探そうとする。「向こう側みたいですよ。でもまだ時間あるから」そう、「向こう側」はプラットホームらしきものもなく、したがってベンチもなく、太陽をマトモに浴びることになってつらそうな場所なのだ。気の早い人々は立って待っているが、Mizumizuはギリギリまで「こちら側(まともなプラットホーム)」にいた。だいたい時間通りに来た、と思ったのだが、乗ってみると時刻表に書いてある停車駅で停まらない。実はその前の列車(ホテルでもらった時刻表には載っていなかったが)が遅れてきたようなのだ。どうもよくわからない。相変わらす満員で、立っている人もいる。Mizumizuたちの前に座っていたのは、若い男女のカップル…… に最初は見えたのだが、男性のほうがちょっと丸みを帯びた身体。どうやら女性らしいことに気づく。ことさら隣の女の子の髪をくしゃくしゃにしたり、腕を撫でたり、「オマエのこと好きだゼ」風のジェスチャーが明らかにソッチ系。若い天然の男の子は逆にそういうことはしないものだ。目が合ったので、もちろんこちらからニッコリ。向こうもニッコリ。バンコクの手前で、大きな荷物をいくつも座席の下から出し(こっちの座席の下まで彼らの荷物でいっぱいだった)、ズルズル引きずりながらドアまで。その力のなさも明らかに女性。降りたあとどうやって運ぶのやら。大変そうだ。夕方のバンコク駅でタクシーを拾おうとしたら、思わぬ事態になった。駅とホテルが近すぎるせいか(40バーツぐらい)、タクシーの運ちゃんが次々と乗車拒否をしてくる。「100バーツ」なんて吹っかけて、「メーターで」というと、「ノー、ノー」だって。遠距離からの列車が着く時間で稼ぎどきなのだろうか。金額から言えばたいしたことはないのだが、こういう吹っかけをしてくる運ちゃんを儲けさせるのは大嫌いなので、道に出て流しのタクシーを拾う。1台目はやはり吹っかけてきた。2台目で普通にメーターで行ってくれる運ちゃんに会った。どうも、乗る前に「オリエンタル・ホテル、わかりますか?」と言ったのが悪かったよう。乗ってしまえば、たいていメーターを押してくれる。乗ってから「知らない」と言われたら、そこで降りればいい。乗る前に行き先を言うと、妙な商売っ気を出す運転手が多いようだ。といって、わざと遠回りする運転手には会わなかった(と思う)のだが。オリエンタルは有名なホテルなのだが、知らない運転手もいる。あるいは現地の人は「オリエンテン・ホテン」と発音するから通じてないのかもしれないが、駅のタクシー乗り場では、ホテルのネームカードを見せても、「知らない」と言った運転手もいた。近すぎるので乗車拒否したのかもしれない。これまた、どうもよくわからない。注:愚かにも王宮跡の道の向こう(西側)にある「ワット・ロカヤスタ(25メートルの涅槃仏)」をワット・ヤイ・チャンモンコンの涅槃仏と混同してしまい、ワット・ロカヤスタを見逃しました。ワット・ロカヤスタのほうが有名なようなので、ご注意を。
2008.06.25

ワット・プラ・ラーム→モンコン・ボピット&ワット・プラ・シー・サンペットと回ってしまったが、実際には、ワット・マハータート&ワット・ラーチャブラナのほうが駅には近い。池を挟んでボピット&サンペットとマハータート&ラーチャブラナが固まっていると考えるとわかりやすい。Mizumizuと連れ合いは、ボピット&サンペットを見学したあと、駅のほうへ戻りながら、まず15世紀に建立され、塔の保存状態がよいというワット・ラーチャブラナを見て、それから、ワット・マハータートに入った。入場料は30バーツ。ここには、あまりに有名な「樹木と一体化した仏頭」がある。これは必見。今回のタイ旅行で最も強い印象を受けた。マハータートが建立されたのは14世紀末。ビルマ軍によって破壊されたのが18世紀後半。このときに、仏像はほとんど頭部が切断され、腕がもぎ取られた。累々と並ぶ胴体だけの仏像。250年前の狂気の現場に立つ。こうして胴体から切り離された仏頭の1つが樹木(菩提樹だというが、未確認)の根元もしくは幹のどこかに置かれ、長い年月をかけて木と一体化していったと考えるのが一番合理的な筋書きだが、この戦慄すべき神秘の前には、合理的思考などまったく無力に色あせる。まるで樹木がひそやかな、だが強い意思に突き動かされて仏頭に手を差し伸べ、自分の内に取り込んでいったかのよう。そうに違いないと信じたくなる。胴体から切り離されて、「彼」は死んでしまったようでもあり、不思議なやすらぎに包まれてまどろんでいるようでもある。ことに奇妙なのは、「彼」と幹の質感がほとんど、いやまったく、同じにしか見えないこと。「彼」が樹木に取り込まれているのには違いないのだが、むしろ樹木のほうが「彼」に同化していると言ったほうが正しい気がする。頬のあたりの木肌は特にふんわりと柔らかそうで、「彼」をやさしく包み込んでいる。そうして樹木は自らが失われた彼の胴体になろうと身もだえている。あまりに不気味で、あまりに神々しい情景。そして、そこに隣り合わせているのが仏像の処刑場。この無残な仏像のどれかが「彼」の以前の身体だったのか。仏頭は、そのほとんどが紛失してしまった。樹木はこの悲劇を見据える場所に立っている。あまりに凄惨な出来事を哀しんだ神秘の力が、永遠に「彼」をここに遺留させることに決めたのかもしれない。レンガ構造にスタッコの華麗な装飾が施されていた寺院だったことがしのばれる。ローマ時代の遺跡に立っているような錯覚を覚えるのだが、破壊されたのが1767年というから、わりあいに新しいのだ。観光客がワサワサするマハータートで熟睡する涅槃犬。さすがReclining Buddha(涅槃仏)の国だ。ところで、この樹木と一体化した仏頭。一緒に写真を撮るときは必ずしゃがんで、仏頭より上に自分の頭がこないようにするよう日本語と英語で注意書きが書いてあるのだが、ほとんどの日本人観光客(だいたい見に来ているのは8割方日本人だった)は読まずに立ったまま写真に写ろうとして、現地の見張りのおじさんに怒られていた。世界一評判のよい観光客である日本人の皆さん、くれぐれも失礼のないよう気をつけてください。
2008.06.24

アユタヤといえばこの3基の塔、ワット・プラ・シー・サンペット。この名前、何度聞いても覚えられない(笑)。巨大な黄金仏のあるモンコン・ボピットの隣にある。15世紀に完成した王家の守護寺院。納められているのは、アユタヤ王朝の国王の遺灰の一部だそう。印象的だったのは、大きな木に今が盛りと咲き乱れていた白い花。この花、ロウソクのデザインに使われているのを街中やマーケットで頻繁に見た。タイではポピュラーな花に違いないのだが、名前がわからない。首からボトッと地面に落ちる。ツバキ科だろうか。追記:タイ在住のsrachaiさんからの情報でキョウチクトウ科の「プルメリア(タイ語ではレー ラー ワッ ディー )」だと判明。ありがとうございました! タイに暮らす日本人から情報が届く。しかもすぐに。素晴らしきかなインターネット!ビルマ軍によって破壊されたアユタヤの都。塔は基本的にレンガを積んで漆喰で固めた構造のよう。大きな仏像も中はレンガのものが多いらしい。ほとんどの仏像は無残にも頭を切り離され、腕をもがれている。この仏像の首の部分に自分の頭をのぞかせて写真を撮る日本人が多かったらしく、あちこちに日本語で注意書きがある。無知な日本人が大変ご迷惑をおかけいたしました、タイの皆様。塔の周辺は、まさに「廃墟」。しかし、本当に日本人が多い。日本の観光地みたいだった。
2008.06.23

アユタヤ駅には客引きがウロウロしている。連れ合いがトイレに行っている間、ホームで立っていたら、目つきの鋭い男性がじっとこっちを見ていて目が合う。習慣でニコッとしたら、近寄ってきてナントカナントカと言っていた。わからないので首をかしげてやりすごす。連れ合いが戻ってきたら、また同じ男が近寄ってきて、すれ違いざまに何か言った。何だったんだろう? ま、何かの客引きだろう。とにかく言葉がわからなかった。アユタヤ駅のトイレはバンコク駅より高く3バーツ。バンコク駅と同じく「高床式和式」ともいえるスタイル。まあ、一般的にはトルコ式と言っている。洋式ではなくしゃがむタイプなのだが、水洗ではなく、桶がおいてあって、手杓子で流すという原始的なもの。トイレットペーパーのそなえつけはなし。トイレの入り口でポケットティッシュを売っていた。アユタヤは自転車で回るつもりだったので、駅を出て貸し自転車屋へ。道の向こうにあるのだが、そこに着く前にまたトゥクトゥク親父が声をかけてくるし、客引きのオバさんが、「自転車ダメ。雨降るよ」なんてつたない英語で話しかけてくる。余計なお世話ですッ!自転車は1日50バーツで、午後6時までに返せと言われた。自転車屋では地図をくれるのだが、信じられないぐらいテキトーな地図(苦笑)。個人でまわるなら地図ののったガイドブックは必携。自転車屋ではパスポート番号を台帳に記入。乗ろうとして、カギがないことに気づく! 店のオバちゃんに言うとチェーン式のキーをくれた。言わなきゃカギなしで出かけるところだった危ない危ない。チェーン式のキーは必ずもらおう。日本人の若者4人グループが先に同じ自転車屋で借りていた。「きっとどこかで会うな」と思ったのだが、結局どこでも会わなかった! 見所は限られているのに不思議だ。鉄道で一緒だったカップルにも、街中では結局一度も会わず、帰りの駅でまた出くわした。同じ列車でバンコクに戻ったということだ。さて、アユタヤの遺跡は駅からだと川をわたってまっすぐ行けばすぐ。渡し舟で自転車を載せて行くこともできるのだが、橋が南にあるので、橋を渡って行くことにした。ところがこれが大失敗! 川自体はそんなに幅も広くないから、てっきり「川にかかった普通の橋」だと思っていたら、なんと自動車が複車線でバンバン行きかう高架の大橋だった! 自転車ではどうやって高架道路に入っていいか一瞬とまどうほどだ。タイにはなぜかあまり「普通の橋」がない。だから渡し舟が現役なのだろうけど、日本とはずいぶん感覚が違う。びゅんびゅん行き過ぎる車と一緒に、高架の大橋をビクビクしながら自転車でわたった。川のだいぶ手前から上って、川のだいぶ先で下りることになるので、えらく長く感じた。素直に渡し舟で行けば、そのまままっすぐ遺跡に通じる道に出るというのに、バカなことをしてしまった。橋は遺跡のある場所からはずいぶん南にずれるので、橋を渡り終わったあとは、「古都アユタヤ」のイメージにはふさわしからぬ広い道路を自動車と一緒に西に一直線に走ることになった。そして地図を見ながら、遺跡に行けそうな場所で右折し、今度は北上。そなんこんなで時間をロスしてしまったので、眼の前に突然「ワット・プラ・ラーム」が現れたときは、列車を降りてから小一時間たってしまっていた。これを読んだ方、橋をわたって遺跡群に行こうなどとは決して考えず、川の渡し舟を渡りましょう。そのほうが絶対にラクだし、わかりやすいし、早い。クメール様式の塔の残るプラ・ラーム。残念ながら中に入ることはできない。写真を撮っていたら、子供をのせたトゥクトゥクが通り過ぎた。と思ったら、わざわざバックしてきて、こんな邪魔な場所に駐車。微妙なスマイルでこちらをジロジロ見ている。何なんだ!? 自転車だってことわかると思うんだが。あたりに人影もないし、嫌なムードなのでさっさと立ち去った。ここまで来れば遺跡群はほぼ固まっている。しばらくいくとアユタヤの中心寺院である「ウィハーン・プラ・モンコン・ボピット」が正面から見えた。ここにはタイ最大級の黄金の仏像がある。のだが、どうも自転車では近くまで行けないよう。しかし、自転車置き場もない。路上に放置するのも気が引けて、ウロウロしていたら、観光客を象にのせてるオジサンが近寄ってきた。「象、どう?」と声をかけるので、「いくら?」と聞いたら、「10分で400バーツ」だそう。タイの物価からすると法外。まあ、象の世話もあるしね。特に興味がないので、乗らなかった。地図を見ると、道をいったん北上して、大きな車道を西に行き、再度南下すれば王宮跡のすぐ近くを道がとおっている。「王宮跡」がどういうものが知らないまま、近くに行けそうだということで行ってみることにして、いったんウィハーン・プラ・モンコン・ボピットを離れて北上した。これがまたまた大失敗!(笑) 遺跡群から離れてタダの大きな車道に出て、王宮跡の外を走ることになったのだが、王宮跡はまさしく「跡」であって、何もない野原に近いことがわかった。車の排気ガスを吸いながら、結局コの字を描いてウィハーン・プラ・モンコン・ボピットの裏手に出ただけ。まさしく骨折り損のくたびれ儲けになった。時間もかなりかかった。素直にウィハーン・プラ・モンコン・ボピットが正面から見えたところで、どこかに自転車を停めて歩くべきだった。高さ13メートルの仏像は、荘厳で見ごたえ十分。実はこれは修復されたもので、もとは……ビルマ軍の侵攻によって破壊され、こんな状態だったよう。仏像は右腕と頭部が破壊されていた。正面の壁だけが残り、屋根や周囲の壁はすっかりなくなった廃墟に巨大な仏像。この古い写真はインパクトがあった。巨大な黄金仏の周囲に置かれた像の1つ。細長く先の尖った独特の被り物。金と赤の不思議なハーモニー。
2008.06.22

平日はホテルで仕事をしていて遠出ができない。最終日の前日の土曜日は1日オフになったので、山田長政ゆかりのアユタヤへ行ってみることにした。鉄道・バス・船で行けるらしいが、一番分かりやすいのはやはり鉄道かな、と思いつつ、ホテルのコンシェルジュに情報をもらうことにした。ザ・オリエンタル・バンコクのコンシェルジュ(男性)はとっても頭がよく、本当に助かる。「明日アユタヤに行きたいのだけれど」「個人ででございますか?」「ええ。バスと鉄道と船の時刻表をいただけますか?」「個人でなら、鉄道をお奨めします。船は不便で時間がかかりますし、バスの停留所はここから遠すぎます。鉄道が一番わかりやすいです」と言って、時刻表をコピーし、蛍光ペンで行き先をマークしてくれた。行きは…バンコク → アユタヤ7:00 → 8:358:30 → 9:429:25 → 11:25 (ORD) ORDはいわゆる各駅停車で所要時間が長くなる10:50 → 12:14帰りは…アユタヤ → バンコク13:26 → 15:0516:01 → 17:5018:52 → 20:2519:12 → 21:10 (最終)のどれかを使えばいいとアタリをつける。コンシェルジュに、「だいたい、いくらぐらいですか? 一等だと? たとえば100バーツとか60バーツとか」と聞くと、「いやいや、そんなにかからない」と首をふり、どこやらに電話をかけて確認してくれている。受話器を置いて、「20バーツです。距離が短いので一等はありません」とのこと。20バーツ!?市内交通より下手したら安い。たしか地下鉄の初乗りが15バーツでは? どうなってるんだタイの物価って……安すぎる鉄道料金に逆に不安が募る。もしかして、車両はめちゃくちゃボロですか? 冷房は当然ないよね。で、ものすごく混んでるとか? ぎゅうぎゅう詰めで蒸し風呂状態?? 駅で切符は無事買えるのかな? 英語は通じる?一瞬、「タクシーをチャーターしちゃったほうがラクじゃない?」という誘惑がよぎる。しかし、タクシーの運転手もイマイチ信用できない。それに、タイごときで鉄道で行ける街に行くのにタクシーに頼るなんて、元祖(?)バックパッカーのMizumizuのプライドにかかわる。列車が快適でないにしろ、たった1時間半とか2時間だけだ。切符なんて、時刻表を指し示せば英語がわからなくたって大丈夫でしょ。やっぱり鉄道で行こう!ホテルの朝食は素晴らしいので、アレをおろそかにしたくない。ゆっくり食べて間に合う時間ということで、乗る電車は9:26発と決める。駅まではタクシーで。40バーツだった。バンコクの中央駅はミラノ駅みたい? 列車は古くてボロいっす。確かに。平気で人が線路を横切っている。ユルいな~。駅に着いて切符売り場をさがす。すぐに見つかったのだが、急行と普通と窓口が違うよう。9:26発の列車は普通なので、向かって右側の普通列車専用窓口へ行く。アユタヤまで15バーツだった(急行が20バーツのよう)。りっぱな(?)切符をもらって、ホームへ行く前にトイレに寄った。トイレはトイレットペーパーも置いていないくせに、2バーツかかる(苦笑)。ホテルのしゃれた便器に大理石の洗面台に慣れてしまったので、駅のトイレの汚さにショックを受ける。やはり日本の公衆トイレはレベル高い(笑)。ホームへ。インフォメーションに立っているおじいさんに何番ホームが聞くのだが、全然わからない(苦笑)。「あっち」と指差す。あっちにはいっぱいホームがあるんですが…… 「セブン? エイト?」と英語で数字を聞いてみると、無言のまま指を立てる。のだが、2本になったり3本になったりしてる。よーするに、わかってない!?一般人が「エイト」と助けてくれる。確かに8番線だった。時刻表に書いてある行き先と合っている。バーリからアルベロベッロやマテーラに行ったときの南イタリアの私鉄のボロさも相当だったっけ。でも、この列車には負けるかも。車両によって木の硬いシートだったり、ちょっとクッションのついたシートだったりする。途中で旅行者らしきカップルに、「アユタヤに行きますか?」と英語で聞いたら、「はい」とお返事。現地の人はみな、なぜか左側に座っている。たぶん右側は太陽が差し込んで暑いのだろう。それでクッションのあるシートの車両の左側に座ろうとウロウロする。そんなに混んでいないのだが、まったく人が座っていないシートというのもあまりない。ようやくそこそこの席を見つけて、もう一度現地の人に、「アユタヤ?」と聞くと、頷いている。席に座っていると、さっき英語で話しかけたカップルの女性のほうがやってきた。日本人だったらしく、日本語で、「席、決まってるんでしょうか?」と聞いてきた。ウロウロしているMizumizuたちを見て、指定席? と不安になったよう。「いえいえ、指定じゃないですよ」と言って安心させる。さすがに日本人は律儀だ。列車にもやはりお坊さん専用席がある。いきなり定刻より遅れて出発。バンコクの街は大きい。なかなか大都会から出ない。しかも、どんどん人が乗ってきて、降りる人はほとんどいない。みんな、どこへ行くのだろう?車両はまもなくいっぱいになった。立っている人もいる。思ったほど蒸し風呂状態ではなかった。全開の窓から風がくるし、天井では扇風機も回っている。しかし、線路沿いのバラック地帯の貧困ぶりは、目を疑うほどだ。快適すぎるホテル暮らしをしていると、よけいにその格差と落差に愕然となる。トタンを並べただけのいまにも壊れそうな小屋が延々と続き、ろくろくお風呂にも入っていないことが遠目にも明らかな子供や老人が野外の木陰で暑さをしのいでいる。一体彼らは、病気になったらどうするのだろう? 仕事は? あの子供たちの教育は? 日本にもかつてはこういうバラックがあったかもしれない。ごくごく幼いころどこかで見たような気もするし、もしかしたらそれは昔の日本の映像を見た記憶なのかもしれない。日本は一応、こうした極貧層をほぼなくしたといっていいはずだ。タイの貧困層の生活を見ると、日本は信じられないぐらい豊かな国。旅行中、フリーターだという日本人にも会ったが、アルバイト生活で海外旅行できるなんて、日本人以外にはそうそういない。本人はそのことに気づいているのだろうか?日本もかつて、ほんの60年ほど前までは、子供に食べさせるために母親が餓死したり、口減らしのために子供を奉公に出したりといったことをしていた国だった。日本人は努力に努力を重ねて、他国もうらやむ豊かな国になったはず。インフラ面で見れば、国土の均衡ある発展という目標もかなりの程度で達成した。日本は世界的に見たって、相当に成功した国家と言っていい。なのに、その実感をもてない層が特に若い世代に広がっているのは何故なのだろう。軽々に結論づけることはできないにせよ、タイで貧しさの中に生きる人々、恐らくは虐げられ、明らかに社会から見捨てられている人々にも確かにある「たくましさ」が、昨今の日本の若者にはほとんど感じられないことが気にかかってしかたない。日本では「こんな社会はおかしい(でも、自分は何もしない。文句は言うけど)」「誰かに理解してほしい(でも、自分は他人を理解しようとはしない。重荷を背負うのはまっぴらだから)」と周囲を責める人ばかり。肥大した自我意識とは裏腹に、ちっぽけな自分の存在を受諾できない。そもそも人一人の命や存在なんて、ごくごくちっぽけなものなのに。社会を変えるより自分が変わるほうが容易なのに。バンコクを出ると、ひたすら田舎。やはり同じアジア、水田の風景は日本と大差ない。多少草の勢いが強く、そしてヤシの木があるのが違うくらい。駅には犬がよくうろついている。物乞いをしている犬は、とても卑屈になる。人間と同じだ。アユタヤ駅に到着。ここで大勢降りる。あちらからもこちらからも日本語が聞えてくる。どうやら旅行者の大半は日本人らしい。
2008.06.20

Mizumizuが暑気あたりでホテルで休んでいた午後、1人でカオサン通りをうろついてきた連れ合いが、なかなかステキなプルオーバーの長袖ブラウスをお土産に買って来てくれた。王宮付近の露天で長袖の綿ブラウスを買ったのだが、それよりもずっと着心地がよい。黒の綿ガーゼなのだが、まるでゴッサマーのように薄く、風をよく通す。丈も少し長めで胸元と脇に刺繍が入っている。「いくらだった?」と聞くと200バーツ(660円)だという。王宮近くで買ったブラウスと値段も同じ! それならこっちの黒の長袖綿ガーゼのほうがずっといい。日本でもよく自転車に乗るので、半袖のTシャツだと腕の日焼けが気になることがある。これなら日本でも重宝しそうだ。「黒のほうが陽を通さないって、売り子のお兄さんが言ってたし」洋服に関しては完全オンチの彼にしては、上手に選んだものだと思ったら、売り子のお兄さんが見立ててくれたのだという。「でも、彼は絶対ソッチ系だった」なるほど。洋服に興味&センスゼロの我が連れ合いにブラウス売るとは、なかなかのやり手と見た。帰国する前にもう1着ゲットしたい。そこで、最終日に国立博物館に行ったあと、カオサン通りに寄ることにした。距離的には非常に近いのだ。ただ、道路を横切るのが大変。なんでバンコクってのは、歩道橋がないのだろう。「この道を横切ればすぐ向こう」なのに、到底不可能な複数車線に中央分離帯。ぐるっと回って、なんとか横断できそうな道を渡った。途中でトゥクトゥク親父が声をかけてきた。「カオサン通り、20バーツなら乗る」と言ったのだが、「カオサン通りは閉まってる」などと意味不明なことを言う。トゥクトゥク親父はすぐ「そこは閉まっている」と言って、自分の知人の店に連れ行こうとするのだ。めんどくさいうえに腹が立ったので、「Go away!」と犬のように追い払って、立ち去った。チャクラポン通りのほうからカオサン通りに入る。「右側のどっかの路地の奥だったんだけどな~」彼もあまりよく憶えていないよう。右側には何本か路地があり、小さな店が並んでいる。3本目か4本目かの路地に入ってみる。「あ!」と連れ合い。お兄さんを見つけたらしい。でも、相手は彼と目が合ってもキョトンとした感じ。「彼はあなたから買い物したんだけど、忘れた?」Mizumizuが聞くと、「憶えてますよ」と、小さい声。そして、目を伏せてすぐに店の奥へひっこんでしまった。なんだか、とっても内気な雰囲気。とりあえず、路地の奥まで歩いて、タイシルクのクッションカバーなど購入。これまで見たのは全部紐飾りが付いていて、それがちょっと邪魔だった。路地の奥の店で、目指す飾りなしのシンプルなカバーを見つけた。4枚買ったらちょっと値引いてくれた。この店の売り子のお姉さんもずいぶん若かった。カオサン通りは平均年齢が低い。そして、引き返したところで、お兄さんの洋服屋をのぞくと、こちらに気づいて今度は彼のほうから寄ってきた。「先日彼が買った黒のブラウス、とってもよかったんだけど、同じようなのある?」と、Mizumizu。「よかったでしょう? でもあれが最後」「じゃ、別なの見せて」「えーと、じゃ、こんなのどう?」上に吊るしたブラウスを竹竿で器用に降ろす青年。オリエンタル・ホテルの朝食時にかいがいしく世話してくれる「シスター」ほど「女性」ではないけれど、たしかに仕草がとても中性的。「これ、ちょっと汚れてない?」「そう? じゃ、こっちは?」と、いろいろ見せてくれる。「これにしようかな」白の綿ガーゼのブラウスを選ぶMizumizu。店の中央あたりに山積みになったTシャツの上においてしげしげ眺める。「あなたの旦那さん、とってもハンサム」と、売り物のTシャツの上で頬づえをついて、いきなり青年。「いやいや、若いころは確かにハンサムだったけど」遠く過ぎ去った日々を思い浮かべるMizumizu(苦笑)。「彼、若く見えるけど?」「若くないって」すでに完全に、女同士の会話(笑)。山積みTシャツの向こうに立って、青年から微妙に距離を取ってる連れ合いが、「アイ・アム・オールド」なんて、変な英語を口走る。オールドってことはないだろ(苦笑)。「でも、ボクは年上が好きだな」と青年。「若い男って、頭カラッポでしょ」「年食ったって、男なんて、たいがい頭カラッポのままでしょ」思わず日ごろの本音を述べるMizumizu。青年は笑い出す。調子にのってついつい、「彼もね、若いころはオトコにモテモテだったんだけどね、今は全然よ」なんて言ってしまった。告白するが、かなり冗談のつもりだったのだ。もちろんウソではない。電車で男性から痴漢されたり、バイト先で男性からお食事に誘われたり、過去の人生にほんのわずかな期間、栄光の日々(本人にとっては悪夢のような思い出)が連れ合いにあったのは事実なのだ。ウけて笑ってくれるかと思いきや、青年はいきなり顔が真剣モードに。「前に、すごくハンサムな日本人が店に来てさ」とスクールガールの告白のような調子で語り出す。「24歳だった。キョウドウに住んでるって言ってた」「キョウドウ? 東京の?」「うん」東京の経堂? 世田谷区の? ずいぶん限定してるなあ。「経堂なら知ってる。近いもの」「うん。彼、有名なエリアだって」有名? 経堂がぁ? 確かにオシャレっぽい街ではあるが、別に有名じゃないと思う。もしや、京都(キョウト)の間違い? でも「東京の?」と聞いて、「うん」と言ってるし……「で、彼がボクに聞いたんだ。『ユー・ラブ・メン・オア・ウーメン?』って」ハア?よ、洋服屋でいきなりそんなこと聞いたのか? その24歳の経堂から来たベリー・ハンサム・ジャパニーズは?「だからボクは答えた。『アイ・ラブ・メン』って」いきなりの急展開に唖然とするMizumizu。彼にふざけた様子はまったくない。目はフォール・イン・ラブそのもの。とっても大切な思い出のようだ。つ、続きを聞くのがコワイ。なので、「オンリー・メ~ン?」などと無意味に突っ込んでみた。「うん」と、きっぱり。そ、そうですか。いえ、別にいいんですが。しかし、奥でこっちをジトーンと見てる中国系のオバさん店員の視線が気になる小心者のジャパニーズは、「私たちは知り合ってまだ20分。個人的な話をするのは、ちょっと早くない?」と言ってみる。すると、「じゃ、あとで?」ときた。アフターありですか? 洋服屋なのに??「どこに泊まってるの?」ホテルの名前を聞いてくるので、「オリエンタル」と言うと、がっかりしたように、「知らない」知らない? オリエンタルでもらったロゴと英語のホテル名の入った袋を見せてみる。「遠くのホテル? ボクはこのあたりしか知らないから」どうやら本当に知らないよう。英語も、話すけれど読めるかどうかよくわからない反応。カオサンしか知らないってどういうことだ? と思って聞いてみたら、なんと彼、タイ人ではなく、ミャンマー人で、家族はみなミャンマーにいるのだという。あの、ロクでもない軍事政権のミャンマーに? サイクロンで家族に被害はなかったのだろうか? そもそも家族とは連絡を取り合っているのだろうか?「この店のオーナーは中国人。ときどき口うるさいけどね」が~ん!ミャンマー→タイって、有名な人身売買&不法入国ルートではないか。おまけにその彼を使っているのが、中国人とは…… 思わず虐待の兆候はないか? と青年の身体をしげしげと見てしまった。袖なしのシャツで後ろは肩甲骨が見えるぐらい露出度が高い。肌はよく焼けて健康そのもの。「カオサンで何年働いてるの?」「3年。もうこの店はやめるつもりだけどね」とさらさら答える。暗さはまったくない口調。なんとなく――だが、自分の意思で軍事体制国家から出てきたような気がする。「アイ・ラブ・メン」と言っている、隠しようもなく中性的な仕草を見ても。きっとこの店でも、ものすごく安く使われているんだろう。中国人が商売し、ミャンマー人が使われ、お客は日本人。まさしくこれが、アジアの現実。守ってくれる国家も家族もない、とても弱い立場。ホテルの名前を聞くわけがわかった気がした。カオサン通り周辺はバックパッカーの聖地。近くにはホテルやゲストハウスがたくさんある。だから、なおさらベリー・ハンサム・ジャパニーズとの話は聞けなくなった。アフターがあったにせよ、なかったにせよ、今も連絡を取り合っているにせよ、いないにせよ、ハッピーエンドはありえない物語。「今夜日本に帰るんだ」連れ合いが言うと、心なしか寂しそう。「今度はいつ来るの?」「わからない」「今度来たときは、ボクはもうこの店にはいないけど」と、また言うので、「次はどこに行くの?」と聞いたのだが、ハッキリ言わない。とにかく、この店に嫌気が差しているのは明らかのよう。そして、彼は必死に誰かと「出会おう」としている。自分に幸運をもたらしくれる誰かと。卑屈さのない大きな眼には、明らかにその意思がある。どうやら我々2人に、彼は「親しくなって損はない」何かを直感的に感じたのだろう。こちらも彼に好感をもっている。そうやって誰かと出会おうと努力する若者を偏見の目で見る人間は多い。だけど、若者というのはそもそも、そうして自分の道を切り拓いていくものではないだろうか。カオサン通りの路地裏には、こんなふうに1人でたくましく日々を生きる青年がいる。家族にも法律にも守られているはずの日本国の日本人の若者が、「希望がもてない」「出会いがない」なんて甘えたことを言っていていいんだろうか。白い綿ガーゼのブラウスを170バーツで買って、外へ出た。お見送りをしてくれる青年。とっても残念。この出会いが昨日なら、アフターで3人で夕食を取ってもよかったのに。いつバンコクにまた来るかわからないし(実はすぐにでもまた来たいぐらい気に入ったのだが)、本人もそう言っているから、次回ここに来ても会えないのだろう。そうは言っても、連れ合いとMizumizuの出会いも旅先のノルウェーだった。彼はスウェーデンから来たところで、こちらはスウェーデンへ抜けるところだった。1日一緒にナルビクという街を観光して歩き、もう会うこともないかな、と思って別れたのが、今は一緒にいる。だからこのミャンマー人のイケメン君とも、縁があればどこかでまた会うかもしれない。
2008.06.19

国立博物館へはチャイナタウンからタクシーで行ったのだが、案外苦労した。タクシー運転手にNational Museumと言っても、通じないのだ。1人目はあっさり「知らない」と言うので、乗らずにやりすごし、2人目には地図を見せて説明。わかったような顔をして、走り出した最初の信号で、「やっぱりわからない」と言われて(苦笑)途中下車(料金は払わず)。ちょい途方に暮れた。どうも日本語の地図を見せてもよくわからないようだ。文字は外国語かもしれないが、道の交わり方などでわかると思うのだが。ドライバーのくせに、地図もロクに読めないのか、とちょっと暗澹となる。だんだんわかってきたのだが、バンコクのタクシーの運転手は非常に当たり外れが大きい。マトモな人も多いが、明らかにおかしい人間もいる。急に欲を出してふっかけるヤツもいる。ホテルやしっかりしたレストランで呼んでもらって乗るときは、ホテルやレストランのボーイが、トラブルが起こったときのためにタクシー運転手の情報をメモした紙を乗車時にわたしてくれるのだが、街中ではそうはいかない。女性旅行者は1人で拾わないほうがいいかもしれない。地図を見せて説明するより、タイ語で「国立博物館」と書いてある文字を見せたほうがいいのじゃないかと思いつき、『地球の歩き方』を見たら、ちゃんとタイ語で書いてある。3人目のドライバーは、ややお年のいった実直な感じの運転手だった。『地球の歩き方』をわたして、「国立博物館」のタイ語の流麗な文字を指し示す。一生懸命見ている。しばらくたって…まだ見ている。明るい窓のほうに本をもっていって、一生懸命見ている。そ、そんなに見えないの!? 運転は大丈夫なのか?? 本を斜めに動かしながら必死に読もうとする運転手。「降りたほうがいい?」と一瞬よぎるが、とてもマジメそうで真剣な態度に、もうちょっと待ってみようと決心する。やがて、「あ~!」と言って、走り出した。わかってくれたよう! 地図を見ながら方向を確かめたが、ちゃんと行っている! もともとチャイナタウンから国立博物館への道はそんなに複雑ではないのだ。走り出したらスイスイと国立博物館に到着。72バーツだったので、いつものように80バーツを出すと、すぐに5バーツおつりをよこそうとする! こんな人は初めて。だいたいみんな、ゆっくり数えるフリをして、我々が降りていってしまうのを待っているのに。もちろん、受け取らずに、外に出て、窓越しに合掌してお礼。こういう心がけのタクシー運転手ばかりだと助かるのだが、そうはいかない。博物館にも「小悪党」がてぐすねひいて待っている。門の外で、「チケット?」と言って別の場所に誘導しようとするのだ。博物館のチケットを野外で売るわけがない。もちろん無視して門の中へ。チケット売り場で40バーツ(132円)を払い、リュックのような大きな荷物は預けて見学開始。上がチケット、下が博物館の地図。かなり広くて見て回るのが大変。建物内は冷房が入っている部屋もあるが、広いのであまり効いておらず、暑さで体力を奪われる。展示物は多いので、ある程度見るポイントを絞っておかないと疲れるだけかもしれない。もちろん何に興味があるかは人によって違うだろうけれど、個人的には中央の建物を囲むように配置されたL字型の棟にある仏像がお勧め。この仏像を見る体力は是非残しておこう。写真は石仏。もちろん、木像もあればブロンズ像もある。中でも必見なのは、スコターイ王朝時代の仏像。面長で優美な造形は特筆もの。場所としては地図の左上の棟にある。仏像には大きく分けて、Reclining Buddha、Seated Buddha、Standing Buddha、Walking Buddhaがある。日本の仏陀像はほとんどSeated Buddha(観音様はよく立ってるが)で、Reclining Buddha(涅槃仏)は法隆寺の涅槃像土(8世紀)などがあることはあるが、あまり馴染みがない気がする。Walking Buddha(遊行する仏)となると、まったく見たことない。なぜ日本にないのだろう? タイ国立博物館の白眉は、やはりこの日本にはないWalking Buddhaだろう。StandingとWalkingの違いは、足の位置。そろっていればそれはStanding(立像)。前後に開いていればそれがWalking(遊行像)。しかし、そんなことより、ピタリと身体にはりついた衣の透けようが異様に肉感的…… などと思うのは仏様に対する冒涜でしょうか? でもハッキリ言って、仏像好きは、こういう衣の流れや手や顔の優雅な表情に惹かれるのだと思う。スプーンのように曲がった右腕がイイ。そしてこの妖しげな腰のくねり方。う~ん、ホテルのバトラー君のクネった歩き方はモンロー・ウォークではなく、ブッダ・ウォークだったのかもしれない。だが、しかし、造形的にもっとも優美な仏像が多く作られたスコターイ王朝ですら13世紀。アユタヤ王朝となると14世紀。あまり古くないのだ。そのわりには、全体的に、日本の仏像で言えば鞍作止利(7世紀)のような素朴で大らかな造形が多いような気がする。そして、かなり様式化されていて、日本の仏像のような個性には乏しい。いや、もちろん顔はつぶさに見れば一体一体違うのだが、それは「違い」であって、人の情念にまで迫る個性というふうには思えないのだ。日本の仏師は西ヨーロッパのルネサンス期の彫刻家に匹敵するような個性と力量を備えた者もいる。「その作品」だけにみなぎる仏師個人の情念を強く感じる忘れがたい造形美。そういったものがタイの仏像にはあまり感じられない。こちらの無知が深い観察を阻んでいるのかもしれないが、たとえば、興福寺の阿修羅像のような、ハッとするような作品には出会えなかった。タイでは、信仰心の篤さが逆に仏師の制作上の自由を許さなかったのかもしれない。様式化された仏像は、東ヨーロッパの正教会のイコンを思わせる。日本人だから日本のほうが優れていると思いたい気持ちがあるのかもしれない。国立博物館に日本人がとても少ないのも、そう思っている人が多いからかもしれない。美術的な価値の優劣はともかく、スコターイ王朝の仏像には日本にないものがある、それは事実だ。間違いなく一度見る価値はある。同様に長い仏教美術の歴史をもつ、同じアジアの同胞として。で、タイの仏像の本買いました。1200バーツ(4000円弱)。写真も美しく、説明も英語でわかりやすい。オマケ博物館のカフェで飲んだココナッツ飲料。一見おいしそうでしょう? 実はゲキまず。ほとんど飲めなかった。何を飲んでもおいしいホテルとは大違い。
2008.06.18

回廊に黒と金の微笑仏が座る祈りの空間、ワットスタット。正門の近くに聳える、スリムで長身の鳥居が目印。この周辺は仏具街。こんな巨大な黄金仏、どこに置くのだろう? でもけっこうたくさん売っているのだから、需要はあるんだろう。道に出しっぱなしの大きな黄金のSeated Buddha。かなりシュールな風景だ。夜はシャッターの外に置きっぱなし。誰も盗まないってこと?シュールといえば、極めつけはコレ。なんと店先に、お坊さんが!? と思ったら人形。リアルだ。ショーウィンドウの中にも小さなお坊さんがたくさん。う~、こういうの買うの? 一般のタイ人は。黄金仏を買うなら、観光スポットの土産屋やショッピングセンターより、このワットスタット周辺の仏具街が絶対に安いし、種類も豊富。足で稼いだ情報なので、間違いなし! と自信タップリに言ってはみたものの、黄金仏に「萌え」る人もあまりいないだろうし、ほとんどの人には役立ちそうもないな、あはは。3体ゲットしました。Reclining BuddhaとSeated Buddha。モチロン全部安物です、ハイ。ブロンズ製のものは、街中の一匹狼的お土産屋で選んだもの。お土産品とはいえ、それぞれ顔が違う。けっこう細かく見ていると面白い。タイではお坊さんはとても尊敬されている(つーか、一般人があまりにダラダラしすぎ?)。渡し舟で固まっているお坊さん。なぜかというと……お坊さん専用の場所でした。渡し舟には必ずこの表示があるので、うっかりここに立たないようによい子の日本人の皆さんは気をつけよう。しかし、お年を召されたお坊様が、Mizumizuにこの場所を譲ってくれようとした! 恐縮して辞退したことは言うまでもない。偉いな~、タイのお坊様。
2008.06.17
週末はネットにつなぐのをやめて(ホテルからだと1日2000円以上かかるのだ)、アユタヤに個人日帰り旅行を試み(これについては後日)、最終日曜日はバンコクの国立博物館をじっくり見てまわったあと、最後の買い物をしに近くのカオサン通りへもう一度行った。そして、ホテルでディナーをしたあとで空港へ。今は月曜日の午後。もう日本の自宅にいる。東京って空気がきれい!(爆笑)。バンコクの街中の大気汚染は本当に酷い。あれじゃ一般市民は、みんな最後は肺がんだよ。東京の排ガス規制は偉いぞ、と感動した(我ながら信じられない。日ごろは空気悪いと文句ばかり言ってるのに)。一応先週のブログはライブだったので、「このホテル」とぼやかして書いたが、今回1週間以上宿泊したのは「ザ・オリエンタル・バンコク」。もちろん「バンコクの老舗ホテル」「世界一とも言われている」「日本でいえばオークラ」と言えば、ほとんど名指ししてるようなもの(笑)。スイートは豪華なのだろうけれど、通常のツインに関しては、建物の古さは隠せないホテルだった。天井は低いし、廊下は暗め。シャワールームのガラス戸やクローゼットの扉は若干たてつけが悪く、完全にぴったりとは閉まらない。だが、居心地は最高だった。最初タオル類の古さが少しだけ気になったけれど、どんどん変えてくれるし、吸水性や清潔さも問題なし。ベッドサイドとバスルームで聴けるBOSEサウンドシステムは、スピーカーが小さなわりには非常に音がよく、ベッドに横になると、両脇から、バスタブに身を沈めると天井から、心地よい音楽が降ってくる。部屋におかれたCDはIL DIVOやモーツァルト、クラシックや映画音楽から名曲を集めたピアノ独奏など、こちらの趣味にピッタリで楽しめた。Mizumizu「ウチのバスルームで音楽って聴けたっけ~」連れ合い「小型の携帯AMラジオがあるから、あれを置ければ聴けるよ~」嗚呼、なんという庶民!ザ・オリエンタル・バンコクで最も身なりがよく、所作が洗練されているのは、明らかにホテル従業員(笑)。たとえば、エレベーターの前に立っているボーイはゲストが近づくと、ボタンを押し、タイ式に合掌して挨拶の言葉を述べ、エレベーターのドアが開くと、まるで舞踊のようなしぐさで両手を脇下に流して、ドアを押さえる。一連の動きが非常にたおやかで美しい。ゲストの欧米人の身なりのテキトーさときたらない。半袖のいい加減なシャツに短パン、サンダルに素足をつっこんで、ガニ股でどかどか歩いている。たまにキチンとした身なりの白人を見たと思ったら、やっぱり彼らもホテルの外国人客のためのコンシェルジュだった(笑)。女性従業員はみなタイシルクの上下を着ている。スリットが深く入ったタイトなロングスカートはことにエレガントでセクシー。デザインや色も一様でなく、いろいろあるのが見ていて楽しく美しい。このホテルは、特に欧米人に大人気。週末のホテルのレストランの混み方は尋常ではない。日本人は比較的少ない。その理由としては、やはり英語ができないとサービスの良さがわからないから、というのがあると思う。しかし、日本人のオッサン(仕事で来てるらしい人々)の、「単語しゃべり」はどうにかならないものか。「トイレット」「メニュー」「OK?」などなど、三つ子じゃあるまいし、いい大人が日本で日本語の単語だけでしゃべっていたら、失礼に感じるよね? 英語だって同じことだ。"Excuse me..." "Where is..." "Could you please..."ぐらいをくっつけることがそれほど難しいのだろうか? 中学出てるよね? みんな。日本の中学では確か、全員英語を学んでいるんだよね。などと書くと、なぜか自分の不勉強や傲慢さは棚に上げて、「日本の英語教育が悪い」「こっちは客なんだから」ということになるのだから、信じられない。難しい会話をするワケじゃないのに、ちょっとしたことを聞くにも、いちいち棒でも投げつけるような失礼な物の言い方をして、しかも、けっこう相手の受け答えの態度に対してはキビシイのだから嫌になる。さらに、ぶっきら棒な言い方をするのは日本男児がシャイだからだと、自分たちだけで悦に入っていたりする。立場が逆だったらどうだろう? いくらお客様だからって、笑顔もなく、相手の顔見ていきなり単語でしかしゃべらないような客を尊敬できるだろうか?しかし、白人のケチくささもなかなかたいしたものだ。廊下でたった今チェックインしたばかりと見える白人4人連れ(2人+2人)に会った。その中のリーダー風の中年の男性が、バトラー君に、「シャンパングラスを4つもってきて」と言っている。で、バトラー君、「はい。シャンパンとグラスをお持ちします」と答えた。当然そう思うよね。ところが、その白人の中年男性、キッパリと、「ノー、ノー! グラスだけ」と言い放ったのだ! さてはシャンパンは持ち込んだな~。ホテルでシャンパンをオーダーしたら、いくら取られるかわからない。でもゴージャスに部屋でシャンパンは楽しみたい。だから、タダのシャンパングラスだけ持ってこさせて、もちこんだ安シャンパンで仲間と乾杯しようって魂胆なワケだ。も~、貧乏なんだからぁ!(笑)。ここまで厚かましいリクエストをすることの是非はともかく、英語のコミュニケーションに自信がなく、かつ短期の滞在だったら、もっと近代的な設備のホテルに泊まったほうがよいと思う。このホテルは連泊すればするほど、濃密になってくるサービスが魅力なのだ。値段は高いけれど、気前はいいホテル。それがザ・オリエンタル・バンコクだ。カクテルパーティに招待してくれたり、毎朝フルーツを部屋に置いていってくれたり、夕方ディナーの前のちょっとした一品として、部屋にこじゃれておいしいアミューズをもってきてくれたりする。そして、レストランの食事が極上。東京で人気のタイ料理レストランに行って、それなりに満足していた自分はナンだったのだろうと思った。ザ・オリエンタル・バンコクで供されるタイ料理の洗練された奥深さや複雑さには、東京でときどき感じるエスニックの泥臭さがまったくない。ここのタイ料理のシェフは天才かもしれない。シーフードを食べても臭みがカケラもないのは、日本と同レベルと言っていいかもしれない。あれだけ濃い味付けにするのに、素材の新鮮さも決して犠牲にしていないというのが素晴らしい。ゲストに外国人が多いせいか、辛さ自体もたいしたことはなかった。スパイシーさを求めるなら、そうリクエストしたほうがいいかもしれない、というぐらい。今回は外でタイ料理を食べたのはナイトマーケットの屋台ともう1軒、何度も賞を取った有名(だという)タイ料理店に行ってみた(そこは日本人御用達だった)が、質的にはザ・オリエンタル・バンコクのほうが明らかに上。シェフの腕が違う。値段は若干ホテルのほうが高いかもしれないが。ナイトマーケットの屋台は、値段からすれば、予想以上のレベルだったのだが、といって、もう一度最高級のタイ料理を食べさせてくれるホテルから出て、屋台に行こうとは思わなかった。住むのならともかく、1週間しかいないのだから、多少値段が張っても独創的な凝った料理が食べたかったから。料理に独自の長い伝統をもち、美味と評判の高い国であっても、その国の中産階級に「高くてもおいしいものにお金を出す」くらいの裕福さがないと、レストラン文化は育ちにくい。だから、タイのような国はまだまだ一流ホテルのレストランが一番味がいいというのは筋の通った話なのだ。これが東京やパリとなると、ホテルのレストランに食べに行く人はむしろ少数派になる。街のレストランが百花繚乱、それぞれの腕とサービスを競い、そのお客になってくれる地元の「それなりに裕福な層」も厚い。バンコクはその意味では、まだまだなのだ。実際に貧しい人の貧しさは凄まじい。線路ぎわに延々と続く不潔なバラック地帯はショッキングですらあった。日本の「格差社会」「ワーキングプア」なんて、タイ(タイに限らないだろうけれど)に比べたら甘っちょろいものだ。
2008.06.16

ホテルではあまり日本人を見ない。ひところ、どこに行っても日本人だらけだった時代があった。ずいぶん様変わりしたなぁ、などと思っていたのだが、ワット・アルン(暁の寺)は例外。ここはなんだが、とても日本人に人気があるようだ。聞こえてくるのはほとんど日本語。こんなに日本人観光客来てたんだ、と変なところで納得する。ここに日本人が来るのは三島由紀夫ゆかりのスポットだからかもしれない。外から見たワット・アルン。この入り口付近には、日本の観光地でよく見る「顔抜き板人形」がある。日本では無料だが、ここでは有料。30バーツとか40バーツとか、板人形の下のあたりに書いてあるので注意。近くで見ると、案外粗い作り。ごてごてしとります。バロック建築の装飾みたい。やっぱ、重いですか?どうやら、この像は猿神らしい(要確認)。急な階段を必死にのぼる少年僧たち。上からの眺め。川の対岸に、かたまっている甍の群れは王宮&エメラルド寺院。向こう岸からは渡し舟が3.5バーツ。奇妙な意匠の陶板。何なのかは、知らない。
2008.06.14

さて、今日は庶民的なバンコクの街中エリアのご紹介。まずは、チャイナタウン。世界中のどのチャイナタウンにも共通して言えることだが、とても活気があり、とても汚い。チャイナタウンのご本尊様といえる存在が、ワットトライミットの時価120億円超というふれこみの黄金仏。純度の高い金製らしい。ただ、個人的には寺の雰囲気も仏像の姿も、ワットスタットのほうが素晴らしかったように思う。追記;なんと、あとで本屋の仏像集で確認したところ、上の写真はソレではないことが判明。そういえば、拝観料を取られなかった! 何を見ていたんだろう、まったく。個人旅行はこれが怖い。後日リベンジ拝観に行くこと、決定。追記:リベンジ拝観については7月2日のエントリー参照。ワットトライミット付近の通りには燕の巣やフカヒレを看板メニューにした店がずらり。ガイドブックに「外観はともかく、味はいい」と紹介されていた店に入ってみたのだが、見事にハズレました。案外安くないのが、バックパッカーのメッカ、カオサン通り。王宮付近の露天のがモノによっては安かったりする。値段交渉を前提としているせいかも。チェ・ゲバラTシャツなどという、年甲斐もないものを思わず買ってしまった。Mizumizu的にとってもお勧めなのが、名高いスアン・ルム・ナイトバザール。王宮付近からタクシーで行って70バーツぐらいだった。タクシーの運ちゃんに行き先が通じないこともあるので、地図を指し示してしっかり確認しよう。スアン・ルム・ナイトバザールに行けば、タイらしいお土産は一通りそろうんじゃないかな。もちろんマーケットなので、高級品はなし。値段は、迷っていれば120バーツだったら100バーツに、というようにほとんど自動的にちょっとだけ下げてくれる。交渉に自信がある方は、たくさん買ってたくさん値引いてもらおう。しかし、ここでも中国人パワーはすごい。気がつけば中国人経営の店でばかり買っている。明らかに純タイ人とは「押し」の強さが違う。顔立ちもやはり土地の人と少し違う。だいたいは2世で、生まれはタイだが両親は中国人、と言っている人が多かった。スアン・ルム・ナイトバザールでは天蓋つき(笑)屋台村がある。街中の屋台はほんとうに簡単なパラソルだけの露天で、雨が降れば鍋のなかに雨がスパイスとして注がれることになってる。だから衛生状態に不安がつきまとうが、スアン・ルム・ナイトバザールはそこへいくと、まぁまぁ(単に暗いせいかも??)。グリーンカレーがライスつきで80バーツ、センミーナムが50バーツ、マンゴージュースが40バーツと格安。値段からすれば味もイケると言っていい。そりゃ、ホテルのタイ料理店のようにはいかないが、なんといっても値段が4分の1、いや5分の1かな?。安くてそこそこウマいので、十分にお勧めできる場所。帰りはもちろんタクシーを利用。80バーツでホテルまで着いた(本当は71バーツだったのだけど、細かいのがなかったので、切り上げて払った。75バーツ以下だとしたら、75バーツわたしておつりをもらわないのが、相場のよう)。ナイトスポットはバザール以外は興味ないので、歓楽街には行かなかった。シーロム通りの歓楽街に近いパッポン・ナイトバザールには行ったけれど、ここはお勧めしない。一杯ひっかけたオヤジ相手にボるのが目的と見えて、めちゃくちゃ値段をふっかけてくる。そして、しつこい。物も少ない。スアン・ルム・ナイトバザールのほうがずっと買いやすい。昼間の歓楽街はこんなカンジ。夜になれば賑やかなネオンの通りになるんだろう。この白人のガタイのよいにーさんは、夜のための下見に来たとみた。根拠はないけど。ちなみににーさんの視線の先にある店の名前は「Long gun」。なんだかなーー。こちらは部屋からみた夜景。100万ドルとはいきませんが……
2008.06.13

このホテルは部屋に専属のバトラーがつく。我々のバトラー君は、あきらかにソッチ系の物腰ちょー柔らか青年。口調も「んふっ」ってカンジで、歩き方はマリリン・モンローが少し入ってる! 最初はそういうふうに柔らかな物腰にするよう訓練されているのかと思ったのだが、明らかにそれは違うとわかった。ボート乗り場で力仕事をしてる青年にこのタイプはいない。明らかに彼らは「天然」なのだ。日本でいえば、オークラにあたるようなホテルなので、「老舗ホテルで、アリですか?」とほんの一瞬とまどったが、タイでは大いにアリらしい。というのは、朝食をサービスしてくれるウェイターさんの中にもあきらかに、天然ソッチ系の方がいて、ある黒服クンなどは、白人男性には特に大ウケなのだ(彼もハンサムな白人男性と見ると、積極的なアプローチを怠らない)。みな彼らのファニーなトークに大爆笑している。Mizumizuも大いに親切にしてもらっている。ある朝、遠くからそのソッチ系黒服さんがニッコリ微笑みかけたので、こちらもニッコリすると、さっそくやってきて、腰をくねらせながら、「んま~、素敵な笑顔、ありがと。アタシもハッピーになっちゃったわ。だから今日はフォーをサービスしちゃうからぁ」もちろん、全部英語なのだが、あえて恣意的に訳してみた。黒服クンには「シスター」がいて、彼もとってもキュート。なにかとMizumizuのところにやってきては、「XXXはいかがぁ?」「XXXお持ちしましょうか?」と細い腰をくねくね。お目目はパッチリで、とてもスリム(大丈夫かって、ぐらい痩せてる)。なんか、彼らの愛想のよさにくらべると、女性スタッフがとてもそっけなく見える(嫌われているのだろうか??)。気がつくとなぜかニューハーフ系に取り巻かれている自分がいる…… なんでだろう、まあいいけど。連れ合いに、「ニューハーフバーって行ってみたい?」と聞いたら、「ここで事足りてるから、いいんじゃないか」とのお答え。たしかに!もち、明らかに天然ソッチ系の部屋づきのバトラー君も同様にとてもフェミニンでまめまめしい(いったい誰だ? 彼らを積極的に登用したのは??)。今日は午後部屋で仕事をしてると、ピンポーンとやってきて、「ハウスキーパーからのプレゼント」と花をもってきてくれた。うーん、さすがにお寺で一般の人々もまめに花を買ってお供えしてる国だけある。コンシェルジュにフレンチレストランのメニューをもってきてくれるようたのんでも、やっぱり運んでくるのはこのバトラー君。サービスのワインをあけに来てくれるのもやっぱりこのバトラー君。さて、そんなバトラー君をビビらせることをしてしまったので、それについて。道をぶらぶらしていたら、ドリアンの屋台を見つけた。ドリアンはごついので、自分で割るのは大変。だから遠慮していたのだが、その屋台では切って、中身だけ売ってくれる。キロで70バーツだというので、小さなのを選んで切ってもらった。110バーツ。切ったばかりのときはにおわなかったのだけれど、タクシーに乗り込んだら、運ちゃんが、「ドリアン?」と思いっきりイヤな顔して、窓を開けるではないか!聞けばドリアンは嫌いだという。バンコクなんて街中だって相当臭い(失礼!)のに、そんなに気になるかな~? と思いつつホテルに着いて、部屋に入って後悔した。ホントに臭い!密閉空間では無理だわ、これ。外で食べてくるんだったと後悔したもののすでに遅し。食べてみたけど、ねっとりしたトロのような舌触りはあまり好みのフルーツではないとわかった。選んでもらったのが小さかったので、おいしくなかっただけかもしれない。で、始末はどうしよう? 一晩置いておいたら、絶対部屋が悲惨なことになりそう。なので、さっそくハウスキーパーに電話。「ちょっと誰かに来てもらえますか?」「お部屋のお掃除でしょうか?」「い、いえ、ちょっと… 捨ててもらいたいものがあるので」さっそくバトラー君がやってくる。ドアを開けたとたん、腰が引けてる!「ど、ドリアン?」とおそろしそーな声。「捨てて欲しいもの」という電話の話とドアをあけたとたんの臭気でわかったらしい。「そう。捨ててもらえる?」と言って、新聞紙でぐるぐるにしたドリアンを渡す。「ん、ん~」と女性的に頷いて、去っていくバトラー君。早めに処理したおかげで、翌朝にはもう部屋から臭気は抜けていた。あな、おそろし、ドリアンの香り。食べるなら屋台にすべき。個人的には、もう2度と食べないとは思うが。さてさて、バンコクの街歩きは非常に疲れる。暑いし、空気は悪いし。そんなときに案外お勧めだと思ったのが、タイ式マッサージ。全身もんでくれて1時間で250から300バーツ。つまり1000円前後なのだ。なんだか、こういうサービスはすごく安いと思う。食べ物(ただし屋台は確かに安い!)や着る物は店で値段を見ても、そんなに安いとも思わないのだが…… 建物内は冷房が効いてるし、マッサージのときは着替えるから、汗だくで行っても大丈夫。スクンヴィット通りではたくさん見かけた。写真は日がくれてから公共のボートで行った、対岸から見た暁の寺(ワットアルン)。不思議なことに、バンコクの地下鉄と市内を走る高架鉄道はそんなに安くない。下手したら2人だとタクシーより割高になる(ちょっと遠くへ行くと1人25バーツとかね)! そのくせアユタヤまで1時間半の列車の切符がたったの20バーツ、つまり市内交通より安いぐらいだという。タクシーは非常に安く、市内では100バーツいったことがない(つまり300円しないということ)。そんな料金でガソリン代は出るのだろうか? 2人で乗れば公共交通機関より下手したら安いという感覚はさっぱりわからない。こちらは夜の王宮。せっかくライトアップされているのだけれど、壁がめぐらされていてよく見えなかった。夜は立ち入り禁止。むしろ遠くからのほうが見えるかも。
2008.06.12

部屋の窓から見えるバンコクの「隅田川」は、なぜか草がバンバン流れてくる。点々と緑の中洲が続いているようにも見えるが、全部浮き草。雨のあとはことに多い。さて、設備や部屋自体はそんなにたいしたことないホテルだが、連泊するうちに、ジワジワと「世界一のホテル」と称された理由がわかってくる。とにかくスタッフの質がよい。こうしたきめ細かくやさしさに満ちたサービスはヨーロッパのホテルではまったく期待できない。日本人のサービスだって、もちろん素晴らしいと思う。よく気が利くし、常に相手の気持ちに配慮する。その点ではタイと日本は共通しているのだが、決定的に違う部分があるように思う。タイの人々のほうがゲストに「尽くす」気持ちが強い。日本人のサービスのよさは、ちょっと人間的でないと感じることがある。個性がないし、失敗もしないけれど、「それ以上のこと」もしない。「申し訳ありません」といいながら心を閉ざしてしまうのが日本人。バンコクのこの老舗ホテルでは、こちらが要求することに一生懸命耳を傾けて精一杯尽くそうとしてくれている。だから、逆になんでも自動的に思い通り進まないと気がすまない日本人には向かないかもしれない。日本人スタッフもいるけれど、英語で意思疎通ができないとたぶん、このホテルの楽しさはわからない。語学力のことを言っているのではない。自分の気持ちを「伝えよう」と思うか思わないか。たとえば、こちらの言ったことを相手が1度で理解しなかったとき、「あれ? 通じない」と心理的にビビって遠慮してしまう(怒るような奴は論外ね。日本のオヤジにはいそうだけど)のではなく、「もう1度わかってもらえるように説明しよう」と思えるかどうか。コミュニケーションを楽しめるかどうかの気質はそのへんの違いにあるように思う。人材のよさに加え、モノのサービスもとてもよい。部屋においてある水はタダ(冷蔵庫にある炭酸水は別)だし、毎晩テーブルにフルーツやワインなどのサービス品が置いてある。フルーツはすでにマンゴー、マンゴスティン、バナナ、ライチが置かれた。マンゴスティンを冷やしておこうと冷蔵庫に入れたら、「もう食べちゃった」と思われたらしく、翌日……こんなに山盛りにサービスしてくれた!(笑)。よっぽど好きと思われたらしい。バナナはあまり食べずにいたら、2度と出てこなかった。好きかそうでもないか、手の付け方で判断してるらしい。一方で、期待はずれだったのが、名高いアフタヌーンティー。このホテルのアフタヌーンティーは、創業当時の面影を残す建物のラウンジで供される。とても有名で、ガイドブックにはだいたい載っている。バンコクのホテルでも一番高い値段がついている。日本円だと3500円ぐらいかな。野趣あふれる開放的な空間での午後のお茶。熱帯の植物に囲まれて雰囲気はそれなりなのだが、しかし、完全に観光スポットと化していて、落ち着かないことこのうえなかった。最初に出てきたシャーベットはそこそこだったのだけれど……焼き菓子は残らず、胸につかえるしつこさ。バターをスコーンにぬってみてわかった。要するに上質のバターがないのね、タイは。少なくとも世界一の美食の街、東京から来たゲストを満足させられるレベルのスイーツではない。あえて、無理やりほめるなら、スコーンはとてもキメが細かく、ばさばさ感がなくていい具合だった。東京にたくさんあるホテルのアフタヌーンティーのほうが絶対にレベルが高いし、値段も変わらないと思う。東京でなくても、沖縄のブセナ・テラスのアフタヌーンティーのが、眺めや味も含めてずっといい。憧れのホテルに泊まれない人々相手の割高の商売であることは明らか。泊まればこの程度の焼き菓子は、朝のブッフェで好きなだけ食べられる。ホテル対岸のタイ料理のレストランでは、もっと安い値段で、極上のタイ料理を出している。レストランには宿泊ゲスト以外はあまり来ない。無料の送迎ボートに乗っていくだけなのだけれど、部外者にはわかりにくい。このレストランの川沿いのテラスで、アラカルトのランチでも取ったほうがよっぽどいいと思う。コストパフォーマンスの面でも、味のユニークさで考えても。クッキーやオペラは、どうにも食べられないので、「お持ち帰り」にしてもらった。アンリ・ルソー的紙袋?ラウンジにただ1つだけある、エマニュエル夫人風の椅子。なんか、妙な雰囲気なので、撮ってみた(笑)。
2008.06.11

バンコクの街中でわりとポピュラーに見る風景がこれ。しかしキミ、そこはエレベータの前では? すごいな~、ここまで大胆に道端で寝てる犬は、イタリアのパレルモ駅(シチリアね)で見た犬以来。パレルモの犬も駅前の雑踏の中で何の心配もなさげに寝ていた。お犬様まで微笑んでいるよう。さすが「微笑みの国、タイ」だけのことはある。日本の犬より幸せそうに見えるのは気のせい?王宮のすぐそばのワットポーにあるのは、もちろんこの巨大仏。なんか、だらけているようにしか見えないんですが……足のほうから撮ってみる。とにかく、デカい。ほかになんともいいようがない。すっかりボキャブラリーを失うMizumizu。ワットポーからトゥクトゥクに乗って50バーツでちょい離れたワットスタットに向かう。値段から考えれば絶対に公共のメータータクシーのが安かったと思う。ワットスタットに近づいたところで、「待ってましょう」などとトゥクトゥク親父が言うので、間髪入れず、「必要ない。高いもの」と言い捨てる。あはは…… と気弱そうに笑う親父。いまさらいい人に思ってもらおうったって無理さ、でも基本的に根性曲がったスレッカラシではないよう。シチリアのタクシー運ちゃんよりは素朴だね、さすがアジア人。ワットスタットで50バーツきっちりわたし、「ありがとう。よい一日を」と言ってさっさと降りる。観光客に占領されたエメラルド寺院やワットポーと違って、ワットスタットは地元民のための祈りの空間だった。タイの人々の信仰の篤さは感動的。一応日本も仏教国だとは思うけれど、すでに一般人はほとんど信仰を放棄している。それで日本人は幸せなのか不幸なのか? タイ人には地理的にはより近い中国人や韓国人にはない日本人との共通点があると思うだけに、複雑な気分になる。しかし、この仏陀の並んだ回廊で、ごろごろ寝てる人がいるのには驚く。多くは浮浪者のようだが、旅人もいる。これはアリみたいだ。お坊さんも不快そうな顔をするでもなく通りすぎていく。寛大だなぁ。これまで見たタイの仏陀の中では、ワットスタットのご本尊様の「姿」が一番よかった。つまり使ってる材料が高価ということではなく、仏師の腕というのか、造形美に目を惹くものがあったということ。日本人にとっては、素材そのものよりも、仏像の「姿」の美しさが非常に重要だと思うのだが、タイでは素材が仏像の価値のなかで大きな位置を占めているように思った。考えてみれば、日本のたとえば、正倉院の宝物なんて、紙だとか木だとかガラスだとか貝だとかでできていて、素材そのものの価値なんてたかがしれている。だがそれらの造形の美しさ、つまりは職人の技術の確かさ、そして保存状態のよさで「宝物」としての価値を保ち続けている。どうして保存状態がよいかといえば、それはひとえに天皇へ献上されたものだから。だが、こういう意識はむしろ例外であって、普通ある国のある権力の権威を示す「宝物」といったら、世にも珍しい巨大な宝石を使った冠だとか指輪だとか、素材そのものの珍しさと高価さに重きをおいているものが多い。だから、仏陀の価値は仏師の腕より素材にあると考えても何も不思議ではない。エメラルド仏にそれほどありがたみを感じない日本人のほうが例外的なのかもしれない。追記:ワットポーのその他の仏像については2008年8月5日のエントリー参照。
2008.06.10

バンコク最大の観光名所といえば、王宮&エメラルド寺院。さっそくホテル裏手から出る公共の渡し舟で出かけてみた。渡し舟は1人15バーツ(50円)。天気は晴れ、気温35度。すぐ近くなのだが、少し歩いただけで日差しの強さにクラクラ。半そでのTシャツだと腕が焼けて痛くなりそう。なので、近くの露天で200バーツ(660円)の長袖の木綿シャツを買う。プルオーバータイプで胸元にちょっと刺繍がある。これが非常に現地の気候に合っていた。入場券はなにやらセットになったものがあったので、250バーツ(825円)で購入。でも遠くのウィマーンメーク宮殿までセットになっていることにあとから気づく。セット券にする必要もなかったかも。とにかく、キンキラ。タイの歴史はさっぱりわからないので、ひたすら「スンゲー」と言いながらキョロキョロ見て歩く。派手なお立ち台の上で瞑想する仏陀。そんなところじゃ、落ち着かないのでは?ずいぶん関節が柔軟でいらっしゃる…… ところで、あなたはどなたで??ぐるぐる歩いてるうちに、すっかり暑さで参ってしまった。少し太陽が雲に隠れただけで、ずっと過ごしやすい感じになる。王宮とエメラルド寺院、その他の付属建造物を見終わったときには疲労困憊。すぐ近くのワットポーまでは歩けそうもない。なので、王宮出たところでトゥクトゥクに声をかける。いきなり、「100バーツ」と来た。「50バーツ(それでも高いよ)」というと、「70バーツ」と目つきが悪い。なんとか50でねばって、「憧れ」だったトゥクトゥクについに初めて乗った!とっても乗り心地が悪い(笑)。三輪で、後ろの座席は屋根だけで窓はなし。だからクルマの排気ガスをもろに吸い込むことになる。イスはとても低くて、足を投げ出さないといけない。長い距離を乗るのは不可能とみた。そして、王宮&ワットポーの周辺のトゥクトゥク親父たちはカルテットを結んでいる! 50バーツを譲らない。けどね、この値段はとっても高いのだ。タクシーの初乗りが35バーツでかなりの距離を行ける。だからこの超観光名所ではトゥクトゥクではなく、メータータクシーに乗ったほうが絶対安いし、快適。メータータクシーは本当に安い。冷房も効いているし、寺院周辺からホテルまで、相当乗っても65バーツで来た。ちょこっと乗って50バーツを請求するトゥクトゥク親父は困ったものだ。トゥクトゥクも場所と時間を変えればいきなり値段も変わる。ワットスタットの周辺では20バーツで寺院めぐりを全部やってくれると話しかけられた。ま、50バーツと20バーツの違いなんで、100円程度だから、そんなに目くじらを立てることもないんだけど。トゥクトゥクも話の種に乗ったけど、もういいです、ハイ(苦笑)。女性の1人旅では、乗らないほうがベターかも。とにかく、目つきの卑しい奴が多すぎ。一般のタイ人はとっても素敵におだやかなのに。
2008.06.09

ホテルはガーデンビューのほうが設定レートが高い。来てみて納得。濁った川ビューと違って、ホテルのガーデンはまさに熱帯の美そのもの。珍しい緑が生い茂り、花が咲き乱れ、静寂の中で鳥のさえずりが心地よく聞こえてくる。エントランスもまさに「オリエンタル」。夕方にはカルテットの生演奏。吹き抜けのウィンドウからは緑の熱帯植物が目を楽しませてくれ、座っているだけでとてもくつろげる。このシャンデリア、どこかお寺風?部屋からの川ビュー。隅田川よりエキゾチックだった(笑)。朝目覚めたときは、「おお! バンコク!」と異国情緒に浸れてハッピー。渡し舟。隅田川(どうも東京にいると隅田川が基準なもんで・笑)と違って、えらくスピードが速くてびっくり。川に面した、広々としたテラスを発見! もちろん、座るしかないでしょう。ということで、さっそくマンゴーカクテルをいただく。う~ん、バカンスらしくなってきた!
2008.06.08
今日は朝早く、成田へ。閑散とした空港で、おいしくない朝食をとって、10時の飛行機でバンコクへ。所要時間6時間半弱。ゆうべ寝ていなかったので、飛行機の中でしっかり寝た。バンコクの国際空港は天井がヨットの帆のようで、開放的な雰囲気。えらく長く歩かされて入国審査を終え、荷物を受け取り、両替。成田ではレートが1バーツ=3.7円だったのが、こちらでは3.3円。タイバーツが現地両替のほうがいいというのは本当のよう。ホテルまでは公共のタクシーを利用してみることに。空港のリムジンタクシーだと800バーツぐらいとのことだったが、公共のタクシーでは300バーツ(高速代65バーツ、手数料50バーツ、チップこみ)。しかし、公共のタクシーはぼろかった! 一応トヨタのカローラ(空港のリムジンタクシーだと新しいカムリだった)なのだけど、いったいいつの型なのだろう? エアコンも入っているのだが、ほとんど効いてるカンジはなし。シートのヘタリは芸術的。日本ではもはやおめにかかれないカローラだった。ホテルに着くと日本人スタッフがお部屋でチェックインをしてくれる。部屋は…… たいしたことなかった!(笑) 一説によれば、ここは世界一のホテルだそうで? きっと世界一の雰囲気を味わうにはスイートでないと駄目なんでしょ。ふつうのツインは、老舗の格式は感じるものの、部屋自体はそれほどでもない。イタリアの高級ホテルに慣れてしまった身には、どうもタオルの微妙な「使い古し」感が気になったりして。一応リバービュー。で、川は…? 汚かった!(笑)。隅田川のがきれいかも、あはは。サービスはよいようで。しかし、入れ替わり立ち代り、ウエルカムドリンクだなんだってもってくるから、チップ用の小さい紙幣がどんどんなくなる。フロントでくずしてもらわねば。四苦八苦してネットに接続。無線LANは不安定このうえないので、有線に替えた。メールのやりとりもできるよう。しかし、家より快適かというと???バンコクは今午後5時半。日本より2時間遅れ。さてさてどうなりますやら。
2008.06.07
もうすいぶんバカンスを取っていない。それまで個人事業主だったのが2004年に法人化して以来、仕事はますます増え、まとまった長期休暇を取るはほぼ不可能な状況になった。株式会社といえど、基本的には個人事業なので、誰かにまかせて自分は休む、ということができないのだ。だが、基本的に旅行好きの身としては、完全に限界に来てしまった。仕事が休めないなら、海外で仕事ができる環境にして出かけよう。そういう気持ちがもはや抑えられない。仕事に必要なものは、パソコンとプリンター。あとは資料・辞典類が少し。現地ではネットとメールのやりとりができるのが必須条件。土日の間に移動できて、PC環境を整えられる場所。あとはもちろん、「行ってみたい」国であることも大事だ。たいして比較検討したわけではないが、すぐに行き先は「タイ」とひらめく。タイ料理が好きだし、キンキラの仏像も見てみたい。アジアの喧騒や雑踏も体験してみたい。時差もそれほどないし、移動時間も(行きなれた)ヨーロッパほど長くない。毎日毎日パソコンに向かって仕事するだけの日々にはもううんざり。家から一歩も出ないことも多く、精神的にも肉体的にも不健康そのもの。このままでは、本当に長くないような気がしてきた(笑)。タイ国内を旅行して歩くのは無理にしても、バンコクのそれなりのホテルならネット環境も問題ないだろうし、そこを拠点にちょっと観光して回るだけでも楽しそうだ。ありがたいことに5月末から仕事のほうも余裕ができてきた。さっそく家電量販店に出向き、携帯用プリンター、その周辺機器、海外用プラグなどを買い揃える。次はもちろん、飛行機。いつも手配をお願いしてる吉祥寺の小さな旅行代理店へメールする。女性2人だけでやっている会社なのだけれど、代表の女性の対応がとても早く、こちらの希望をすぐにのみこんでくれるのがいい。もう10年以上の、ほとんど個人的なお付合い。最初会社に行ったときは、化粧っけもなく、ジーパンで働いている若い彼女の姿に驚いたのだが、言葉遣いだけ丁寧な大手の旅行会社の社員よりずっと頼りになるし、話してみると本人も相当旅が好きだとわかった。旅好きは旅好きがわかる。たかだか航空機のチケットなのだが、ネットで容易に情報が入手できる今、料金自体はもうそれほど会社間に差がなくなっているから、こういった「ちょっとした人材の付加価値」は重要。「今回は日程重視なので、土日に移動ができる直行便。諸費用をいれたエコノミーとビジネスの料金を教えて」とメールしたら、さっそくシンガポール航空とタイ航空のフライト情報と料金がメールで送られてきた。シンガポール航空にしたいと思ったのだが、数日ぐずぐずしているうちにエコノミー、ビジネスともに満席キャンセル待ちになってしまう。そこでタイ航空を予約してもらい、カード番号を伝えると、「決済ができましたので、メールで航空券をお送りします。ご来店の必要はありません」と返事が来た。――はあ? 航空券をメールで送るってどういうこと?理解できずにメールで再度問い合わせると、チケットレスなので、メールで送られた書面を印刷して空港にもっていき、そこでチェックインすればいいらしい。なるほど…… と言いながら、実はよく仕組みはわかっていない(苦笑)のだが、とにかく、旅行代理店に一度も足を運ぶことなく手配は完了した。次は、ホテル。あまりホテルの比較をしてるひまもないので、バンコクの知ってるホテルの料金を日本の海外ホテル予約サイトとホテルのホームページで比較してみた。部屋代だけだと直接予約のが安いのだが、現地での直接予約は税金が別にかかることもある。これは要チェックだな。1つ心配なのはネット環境。そこでホテルにメールで問い合わせると光ファイバー回線が無線LANで利用可能だとのこと。フムフム、これなら問題なし。ただ、メールのやり取りが日本と同様にできるのだろうか? それが一番不安。迷惑メール関連のセキュリティ強化のため、送受信に制限を設けている場合もある。添付メールのやりとりができないと、Mizumizuの仕事はアウト。なので、さらにホテルに問い合わせる。「制限はないが、ときどき送信で問題があるというお客様がいる。そのときは設定をXXXX(←詳しい設定方法)に変えれば問題ない。もし問題が起こったらヘルプできます」と心強いメールが来た。フムフム、さすがに一流ホテル。対応バッチリ。それでもやっぱり不安。というのは、Mizumizuの場合、フリーメールやWEBメールなどではなく、会社でドメインを取っていて、メールのやりとりはドメインサーバを介して行っているからだ。そっちに問い合わせると、やはり設定を変えればいいはずだが、現地の状況によって問題が起こる場合もあるとの返事。まあ、そりゃそうだ。そこで、ITに詳しい友人兼顧問税理士に相談してみる。なんで税理士にかというと、ウチの顧問税理士は昔SEだったという変わりダネなのだ。すると、すぐに適切なアドバイスが来た。Gメール経由でメールを見に行くことができるという。出張の多い本人も裏ではGメールを使ってるらしい。フムフム、な~んて、実は仕組みはわからなかった(自爆)のだが、さっそく言われたとおりにGメールに登録して、いわれたとおりにログインしてみると、本当にちゃんとメールが見れる! これなら通常の使ってるOUTLOOK EXPRESSが使えなくてもなんとかなるのは間違いない。最大の懸案であったメール問題もこれで解決。なので、ホテルの宿泊予約をすることに。いちおーー、メールで「通常料金だとXXXUSDとあるけれど、1週間以上泊まるので、通常料金の割引や部屋のアップグレードができますか?」と聞いてみた。すると非常に丁寧に「XXXXUSDは部屋代。これにXXX%の税金が加算されますので、計算をやりなおします」と料金の間違いを指定され、割引の話は無視された(笑)。朝食はついているという。さらに「BMWの7シリーズでの空港送迎は必要でしょうか?」と書いてある。送迎なんてどうでもいいから「不要」と書いて送り、日本のサイトと比較する。税込みだと料金は大差なくなって、レートによっては日本で予約したほうが数百円(苦笑)安くなるかもしれない。ただ、日本予約だと朝食がつかないということなので、朝食つきになる直接ホテル予約に決める。で、WEB上でカード番号と日程を書き入れると、予約確認のメールが来て、また「BMWの7シリーズでの空港送迎は必要でしょうか?」と同じ文面。しつこいって!(笑) タイに行ったからにはトゥクトゥクには乗ってみたいと思うけど、別に東京のどこにでもあるBMWの7シリーズに乗りたいとは思わんのよ。どうせなら、マイバッハかオールド・ロールスロイスにしてよ。それなら、間違いなく考える。ちなみに、この送迎は日本円で9000円弱だった。2人ぐらいなら高くはないような気もするが、「地球の歩き方」で空港から市内への交通機関の料金を調べたら、リムジンタクシーで2500円ぐらい。メーター式タクシーで1000円弱。エアポートバスで350円(350円!?)程度だった。どうもタイの物価がピンとこない。飛行機の中で現地の相場を少し頭に入れなければ。あとは、海外で使える携帯電話も借りよう。ネットで調べると価格比較のできるサイトがあった。1つ傑出して安い会社があったのだが、電話して確かめたら、何のことはない。レンタル料金とミニマムシャージを別々に書いて安くみせかけていただけのことだった。結局どこもそんなにサービスや料金に差がないとわかったので、適当に選び、WEBで申し込み。出発2日前には携帯の電話番号が送られてきた。ボイスワープで電話を転送しようとしたら、なぜか設定できない。なんでよ? と思い、請求書を見てNTTのフリー番号へ電話。するとボイスワープは116にかけてくれと言われる。かけてみるが、これがなかなか通じない。さんざん待たされたあげく、「のちほどおかけ直しください」と切れてしまった。頭にくる。再度かける。ガイダンスにしたがってまたボタンを押し、さんざん待たされてオペレータがやっと出る。用件を伝えたら、「かしこまりました。お調べいたします」との返事、と思ったらガチャンと切れる。どうやら、今度はオペレータが間違って切ってしまったらしい。イライラは頂点に。一応電話番号は伝えたので、気を利かせてかけ直してくれるかもしれないと思い、別の電話器で再度116へ。またもさんざん待たされた。さっきのオペレータからも結局かかってこなかった。「海外へもっていくレンタルの携帯電話への転送はできますか?」と聞く。返事は「できません」だった!! なぜだ? 納得できない。以前は電話機に転送機能がついていた。それがなくなってしぶしぶボイスワープに入ったのに。以前の電話機からの転送だったら、番号さえあれば問題なくできたんじゃないだろうか。仕方ないので、留守電にメッセージを入れて、急ぎの場合はレンタル携帯のほうへかけてもらうよう番号を吹き込むことに。しかし、マニュアルがない! 電話機のマニュアルなんてずっと見ていなかったのでどこかへ行ってしまった。あ~、どうしよう。そうだ、ネット上にあるかも。ネットでマニュアルを探す。あった、あった。ホント、ネットは便利だ。手順をプリントアウトして、四苦八苦しながら、メッセージを吹き込んだ。もともと仕事はメールでのやりとりがほとんどで、電話はあまりかかってこないので、まぁ、そんなに問題もなかろう(ということにする)。ファックスはメールに転送できるようになっているので、これはボタン1つ。このサービスも非常に苦労してできるようにしたものだ。もう一度設定しろと言われても、今はできない。ファクスもめったに来ないのだが、まあ念のためというところ。あとはガイドブック。好きなガイドブックは買うとしても、図書館にあるなら行く前に借りて見ておきたい。さっそくネットでチェック。最新のものはかなり借りられていて、予約も入っている。だが、少し古いものなら近所の南荻窪図書館にあるとわかる。さっそく借りにいく。ああ、本当にネットは便利。気がつけば、レンタル携帯の手配、ホテル予約、航空機のチケット購入、すべて一歩も動かずにパソコンと電話だけで済ませることができた。カード決済だから、お金を払っている自覚もあまりない。うーん、恐ろしい。うまいこと仕事がないといいな~、などとご都合主義のことを考えていたが、残念ながらそうはうまくいくハズもなく、滞在先で納品しなければいけないスケジュールの仕事が来た。結構な量だ。まあ、しょうがないなぁ。ホテルに相当缶詰になるとしても、プールぐらいには行けるだろうし、なにより気分は変わるだろうと期待している。出発は明日。荷造りはこれから。パソコン2台(1台は連れ合い用)、携帯用プリンター、カメラ、各機器のバッテリーと充電器…… これらだけでかなり気を使う荷物になった。でも、この仕事のスタイルがうまく行けば、少なくとも転地もかねて海外で仕事ができるようにはなるだろう。無事タイでネットにアクセスできたら、現地から更新します。請うご期待!
2008.06.06
<きのうから続く>マレーが演出・装置を担当した『ブリタニキュス』にはまた紆余曲折があったが、それは後日に譲るとして、結果からすると大成功に終わった。ジャン・マレーはこれによって、古典劇における悲劇俳優としての評価を確立する。そして、それが仕事の面でもマレーとコクトーの距離をますます離れさせることになる。私生活でも彼の演劇の詩神(ミューズ)に去られたコクトーは戯曲の執筆から離れ、南仏でデルミットとともに絵画制作に力を入れ始める。だが、『バッカス』はもともとマレーのために書いた作品だった。マレーに演じてほしい――コクトーはその後もずっと、何年にもわたって手紙でマレーに切々と訴えている。「1952年9月 デュッセルドルフとベルリンで『バッカス』が上演されます。ジャン・ルイ・バローのところがあの芝居をくすねるような真似をするなら、台本をひきあげて、ぼくたちで上演できるまで取っておきましょう」「1952年10月 ぼくの夢は、君が『地獄の機械』と『バッカス』をもって一大公演旅行に出るのを見ること」「1953年6月 『バッカス』の再演はどうしても実現したい。衣装はジャン・ルイのものですが、すべてをぼくたちに譲るそうです」「1955年12月 再演のこと、君に考えてもらいたいのですが、お願いできるでしょうか。新たな雰囲気作りや、モーリヤックとガブリエル・マルセルの説得は、ぼくが約束します」「1956年7月 ぼくの夢は、君が『バッカス』を再演してくれることですが、残念なことに、君はもうあの作品に関心がない。あれはぼくにとって、『機械』とともに、もっとも重要な作品なのです」「1957年1月 君はぼくの夢がわかっています。『バッカス』の本当の初演です。いつの日か、この芝居が君のものとなる喜びを味わえる日が来たら、バッカスをうんと若くしてみたらおもしろいのではないでしょうか。そして君が枢機卿をやるのです。枢機卿こそ、あの作品の主人公です(万一君がハンスを演じるのに不安があるようなら)。ハンスは君のことを考えて書いた役です。その事実が、ぼくの精神にヴェールをかけていたのでした。素晴らしい優雅さをそなえた若い枢機卿、それがいいと思いました」「1957年8月 どうしてぼくは『バッカス』を机の中にしまっておけなかったのでしょう。愚かでした。あの役が君に若すぎるなら、枢機卿をやってもらえばよかったのです」(『ジャン・マレーへの手紙』より)だが、マレーは役の年齢だけでなく、どうも『バッカス』は作品自体に「のれない」ものを感じていたようでもある。『地獄の機械』(1934年)はもともとはジャン・ピエール・オーモンが初演した作品で、コクトーと知り合う前にマレーが観て、「コクトーの作品に出演できるなんて、この俳優たちはなんて運がいいんだろう」と憧れた、いわば初恋の戯曲だった。マレーはこれを何度も自発的に再演している。1950年代のコクトー自身は、「今の客は『機械』などわけのわからない謎々のように思っていて見に来ない」などと言っていたのだが、なんのなんの。そう観客も捨てたものではなかったらしく、『地獄の機械』は現在に至るまで、さまざまな演出で繰り返し再演されている。作者の思い入れとは別に『バッカス』のほうが人気がない。しかし、『機械』も『オルフェ』も、もともとはオーモンのための作品だったのに、マレーが横取りしてしまった感がある…… ジャン・コクトーの愛と一緒に。ともあれ、『バッカス』がマレーにやんわりと拒否されてからは、コクトーはマレーをキャスティングしたオリジナルの戯曲を書いていない。詩神(ミューズ)は明らかに、詩人の世界から出て行ってしまったのだ。それでもコクトーは、常に精一杯マレーに寄り添おうとしている。マレーにつらい出来事が起こるとすぐさま、全力で慰めるのもコクトーだった。1951年の9月にマレーの愛犬ムールークがとうとう死んでしまう。マレーは健康状態が思わしくなかったムールークのために庭付きの家を建てるべく土地を取得するのだが、間に合わなかった。ムールークが死んだ日、マレーは丸一日かけてチーク材の棺桶を作り、埋葬した。コクトーが昼食に来たが、ムールークのことを尋ねなかったので、マレーも「死んだ」と言い出せなかった。1週間後にコクトーがまた昼食に来た。今度は、「ムールークは?」と聞いた。先週にはすでに死んでいたことを打ち明けると、コクトーは、「どうして黙っていたの」と悲しそうに言う。「言い出せなくて……」とマレー。マレーはコクトーにムールークの死を世間に隠してくれるよう頼む。「ムールークのことでインタビューされるのが怖い。たかが犬一匹って、みんな思うだろ? でもきっとインタビューされたら、泣かずにすませる自信がない。まるで人間が死んだみたいに、ムールークの話をするなんて、変なことだよね」「ジャノ、変じゃないさ」「おまけに、『ああ、犬ね! 犬は人間の最良の友達ですよね』なんて、決まり文句を言われたら、『いいえ、ぼくにとっての最良の友はジャン・コクトーです』なんて答えてしまいそうだ。バカみたいだろ。ぼくは変わり者なんだな。もし、人を救うためにムールークを犠牲にしろと言われたら、相手が誰でもきっとそうする。でもそのあとで、きっとそいつを憎むよ」脈略のないことを言いながら泣き出すマレーを、コクトーは黙って抱きしめた。日をおかずにコクトーは南仏へ。飛行機の中で傷心のマレーへ手紙を書いている。「人にせよ、動物にせよ、友人たちのさまざまな死が、ぼくを打ちひしいできました。死は当然のこととわかっています。でも、みんなして一緒に死ねたら、愛するものが船端を越えて海に消えるのを見ずにすんだら、どんなにかいいでしょう。これでもうムールークはぼくのもとを離れません。あの子のことを強く強く思うあまり、あの子が今もここにいて、君をあちこち捜しまわっていると、そう思えるようになりました。ぼくは悲しんでいます。君を愛しています」(『マレーへの手紙』より)また、1952年になると、マレーはほとんど休暇や旅行をジョルジュと共に過ごすようになった。マレーの足が遠のき、ごくたまにしか会えなくなると、コクトーの手紙は悲しみに満ちたものになる。「1952年7月 君のそばで数日を過ごせたぼくの幸せ、君には想像もできないでしょう。(君の乗った)飛行機が山々の彼方へ消えていくのを胸ふさぐ思いで見送りました。そのあと、車中で泣きたくなりました」そのあとすぐの手紙。「1952年7月 君がサント・ソスピールにいてくれたら天国なのですが。相変わらず、君のいない穴がぽっかり、どうやっても埋めることはかないません」ちょうど、このときマレーには映画でのイタリアロケが入った。コクトーのあまりの寂しげな文面に、イタリアへ行く途中でマレーはまたサン・ジャンに立ち寄っている。ロケ先へ発ったマレーへあてたコクトーの手紙。「1952年8月 映画のほうはどこまで進みましたか。詳しいことが知りたいものです。君がどこにいるのか、どこで仕事しているのか、それがわからないのはいやです」「どれほど君と一緒にヴェネチアに行きたかったことか。ぼくたちのルイ・ブラスのときと同じですか」そして、コクトーはマレーが、そして自分が、他の誰といようと、常に2人が「誰も知らない2人だけの場所」でつながっていることを強調している。「1952年10月 孤独なのは、君もぼくも同じこと。これもまた、ぼくたちが精神的な血族であり、慣習的モラルなど気にかけることがないからです。ぼくたちの愛は無人島にある。そのことがぼくたちの愛の力になっているのです」(すべて『ジャン・マレーへの手紙』より)この「無人島」こそ、コクトーもマレーも一切公けにすることのなかった、2人だけの思い出の場所だった。<7月8日のエントリーに続く>
2008.06.05
<きのうから続く>すでに書いたように、コクトーが『バッカス』を構想したのは、1930年代の半ば。つまり、ジャン・マレーに出会ったころだ。そして、1946年のマレーへの手紙には、「『バッカス』を撮る力が、このぼくに与えられますように。それ以上のことは望みません」とある。つまり、作品がまだできていないころから、すでに映画化を目指していたということだ。マレーの自伝によれば、コクトーが戯曲『バッカス』の執筆に入ったのはマレーが36歳のときだったという。ということは、1950年。初演が1951年なので、その前年ぐらいに書き始めたということだろう。構想から実際の執筆までずいぶん時間がたってしまっているようでもあるが、コクトーの場合は、そのこと自体はさほど珍しくはない。ただ、マレーは執筆前にテーマを聞かされて、気になることがあった。「ジャン、ぼくは36歳だよ。ぼくがやるには、主人公の感じが若すぎると思うんだけど」「ハンスは29歳だよ」「29歳か……。舞台の上でなら、29歳に見えるかもしれないな」ところが、コクトーから戯曲を朗読してもらったとき、マレーは、「この役柄は、まるで19歳ぐらいの青春期にふさわしい」と感じた。ハンス役に求められているのは、若々しい理想的な肉体美だった。36歳のマレーは、すでに自分にそれがないことをよく知っていた。しかも、コクトーは例によってデルミットを「乙女の兄」役にと考えていた。このままデルミットと共演すれば、いずれ自分が「ドゥードゥー(=デルミット)は芝居に向かない」と言わなければいけないときがくる。マレーとしては、避けたい事態だった。だが、マレーはその2つのどちらも、コクトーに直接言うことはできなかった。ちょうど、コメディ・フランセーズにもう一度入らないかという話が来ていたところだったので、コクトーと『バッカス』について話し合うのを避け、コメディ・フランセーズ入団をどう思うか、アドバイスを求めた。「悲劇役者であると同時に、英雄も演じられる俳優はほとんどいない。でも、君はこの2つの資質を兼ね備えている。君は古典劇が好きだし、役の人物を自分のほうにひきつけてしまう力もある。入団すべきだよ」そこで、マレーはコメディ・フランセーズに入団し、『バッカス』のことはコクトーの判断に委ねることにした。コクトーがコメディ・フランセーズに戯曲をわたすなら、自分が演じよう。コメディならデルミットとの共演も避けることができる。わたさなければ、コクトーがマレー以外の人間に演じさせてもいいと思ったということだ。自分から「コメディ・フランセーズにわたしてほしい」といえばコクトーはそうするだろう。だが、それでは自分とデルミットを天秤にかけさせることにもなりかねない。マレーはそんな選択をコクトーに迫りたくなかった。だが、鋭敏なコクトーは、マレーの態度で、戯曲が何かしらマレーの意にそわなかったことを感じてしまった。『オルフェ』のときのような「脇役でもいいから出たい」という情熱は、明らかにマレーにはなかった。コクトーは、表向きマレーには、「コメディ・フランセーズは脚本料が安すぎるから」と言って、マリニイ座に戯曲をわたす。演出はジャン・ルイ・バロー、主演はジャン・ドサイユと決まった。コクトーはマレーが主演できないなら、ジェラール・フィリップをと考えていたのだが、実現しなかった。1週間稽古したのち、案の定のことが起こる。バローがデルミットを役から降ろしたのだ。コクトーはこれに傷つけられた。バローに抗議したが、メルヴィルと違って経験豊富なバローは譲らなかった。「ジャン、デルミットは到底舞台で演じられる役者じゃない。能力以上のことを無理強いするのは、本人のためにも、共演者のためにも、客のためにもよくない。わかってくれ」デルミットが了承したことで、コクトーもそれ以上は口を出さなかった。マレーのほうはコメディ・フランセーズの総支配人トゥシャールと入団の交渉をした。マレーは占領時代に演出も手がけた『ブリタニキュス』のネロ役でデビューを飾りたいと思っていた。さらに、演出と装置もマレー自身が手がけるという条件を出した。伝統と格式にがんじがらめで、客足が遠のきがちだった演劇の殿堂には新しい血が必要だと考えていたトゥシャールは、マレーの条件をすべて受け入れた。こうしてコクトーがマレーのために書いた『バッカス』は、マレー抜きで1951年12月21日、マレー演出の古典劇『ブリタニキュス』は1952年1月14日に初日と決まった。初日があまりに近いことに、マレーはまた何かしら運命的なものを感じた。マリニイ座での『バッカス』の総稽古をマレーはコクトーに頼んで見に行っている。そのときの印象をマレーは自伝で次のように書いている。「ジャン・コクトーの衣装、装置は素晴らしかった。バローの演出は完璧だった。ジャン・ドサイユは私同様、バッカスの役には老けすぎていた。役のもとめる理想的肉体は、もはや彼にはないものの、あふれる才能に満ちていた――もとよりそれが重要なのだ。配役の隅々まで、非の打ちどころがなかった」(マレー自伝より)ところが、『バッカス』の初日には、スキャンダルが待っていた。フランソワ・モーリヤックが信仰と教会の扱いが冒涜的だとして芝居が終わる前に立ち上がり、罵声を浴びせながら出て行ったのだ。マレーはまた、傷ついたコクトーの姿を見なければいけなかった。モーリヤックがコクトー批判の論評を発表するという情報がサルトルから入る。サルトルは反論をあらかじめ用意しておくようコクトーに進言した。29日『フィガロ・リテレール』紙にモーリヤックの公開状が発表されると、コクトーはすぐさま翌日『フランス・スワール』紙上で、ゾラの「我、告発す」に倣って「我、抗議す」と題した反論を掲載した。これが世に言う「バッカス事件」。信仰のあり方に関して、文壇を巻き込む論戦に発展した。コクトーが心配したのは、マレーの行動だった。「ねえ、ジャノ」「ん?」「今度のモーリヤックのことだけど」「ああ、あの記事? ハンスを永遠に救うという枢機卿の意思が、いかがわしいっていうんだろう? そんなの先入観をもって見た証拠だよ。枢機卿の信仰は、議論の余地がないぐらい強固なものだったし、舞台はとても格調高かったよ。ぼくはそう思う」「ぼくはね、モーリヤックをもう許しているよ。彼が何を言おうとね。だから、君もモーリヤックがどう書こうと、ゆめゆめ懲らしめようなんて思わないでほしいんだ」「ロブローのこと言ってるのか?」(注・ロブロー殴打事件については、4月1日のエントリー参照)「あのときは、ぼくらは幸運だった。パリが解放されなければ、ぼくらの運命はどうなっていたかわからない。だけど今は違う。君がぼくのために何かすれば、奴らはドゥードゥーやジョルジュにも攻撃をしかけてくる」「大丈夫だよ、ジャン。ぼくだって多少分別はついた――」「そうか」「――かもしれない」2人は笑い合った。眼に見えない「奴ら」の攻撃が自分にも向けられようとは、このときのマレーは想像もしていなかった。マレーのほうは、コメディ・フランセーズとのちょっとしたトラブルに見舞われた。マレーの演出方針は、国家の秘密や愛をこれまでの古典劇のように高らかに朗誦しないことだった。ところが、これがコメディ・フランセーズの生え抜き役者との間に軋轢を生んだ。総稽古を1週間前に控えて、マレーは総支配人の部屋に呼ばれる。支配人と一緒にいたのは、演出家2人だった。「君の芝居は、コメディ・フランセーズらしくないと言う意見があってね。それで、君には総監督としてベルトーかメイエルのうちのどちらかを総監督として選んでもらう」このいきなりの方針転換に怒ったマレーは、「そんなら、ぼくが降ります」と捨て台詞を残して帰ってしまった。困ったときにマレーが相談するのは、やはりコクトー。そのときコクトーは南仏の例の別荘にいた。マレーはさっそく電話をかけ、コクトーを呼び出す。話を聞いたコクトーは驚き、「君が正しい」とマレーの肩を持った。ほっとして、電話をおくマレー。だが、30分後に今度はコクトーから電話がかかってみた。「あれから、じっくり考えてみたんだ。もし『ブリタニキュス』が上演されないとなると、それは芝居がつまらないからだと噂される。それでは君は単なる悪者だ。まずは演じるべきじゃないかな。1週間で総監督に何ができる? 何もできやしないさ」「そうかな」「そうとも。まずは芝居をやることだよ」コクトーに言われ、どうやってコメディ・フランセーズに話そうか思案しているところに、総支配人から電話が来た。「私も困っているんだ」と、支配人のトゥシャール。「この決定を下したのは、実は私でも演出家でもない。委員会なんだよ。私たちの顔を立てると思って、のんでもらえないか」マレーは簡単には承服しない「ふり」をした。トゥシャールは誠心誠意マレーを説得しようとしていた。「また出演しないで、コメディ・フランセーズを去ったら、新聞が何と書き立てるか考えてみたまえ。君にとっても決していいことじゃない」しばらく強情をはる「ふり」をしたあと、マレーは承諾した。指名したのは、かつての自分の『ブリタニキュス』を「成功だ」と評価していた演出家ベルトー。コクトーの予想は正しかった。ベルトーはマレーの演出には基本的に口をはさまなかった。それどころか、照明のあて方などで長年の経験を生かしたアドバイスをしてくれ、トチリの多い役者には対しては、真摯に指導を行ってマレーを助けた。こうして、マレー演出の『ブリタニキュス』の初日が来た。伝統あるコメディ・フランセーズで演出家兼俳優としてデビューするのは前例がなかった。そのことにマレーは感無量だった。<明日へ続く>
2008.06.04

<きのうから続く>ジャン・マレーの自伝は、出版されたのが1975年。ジャン・コクトーはすでに亡くなっていたが、マレーと関わった人々はまだ当然ながら、ほとんど生きていた。そのせいか、プライベートで交際のあった人については最大限の配慮がなされている。たとえば、ミッシェル・モルガン。1948年公開の『思い出の瞳』で初共演した女優だが、自伝では、わざわざ「私が本当に恋することのできた唯一の女性(って、じゃあミラ・パレリイの立場は??)だった。しかし、私は不運だった。彼女は未来の夫アンリ・ヴィダルに出会ったばかりである。彼女は彼にまったく心を奪われていた」と自分の一方的な片思いであることを強調している。なんでわざわざ片思いを告白してるのか、非常に不思議だった。その秘密は、いみじくも、自伝から遅れること12年たって出版された、『ジャン・コクトー ジャン・マレーへの手紙』で明らかになってしまった。モルガンとマレーは1950年の『ガラスの城』で再共演している。だが、2人がまったく一緒に仕事をしていなかったハズの1953年のコクトーの手紙に、モルガンがマレーと親しかったことをうかがわせる記述があるのだ。マレーは筆不精で、コクトーにしばしば「葉書に2~3行でいいから何か書いて」「電話がほしい」とせっつかれている。そんな文脈で書かれた手紙。「1953年9月3日 頼りは着きません。でも、昨日、ミッシェル・モルガンが、君はちゃんと家にいると言っていました。短い手紙なりと書くようにしてください」(お、脅し??)どうやら、モルガンといるときは、マレーはコクトーのことはほったらかしになったらしい(笑)。「短い手紙なりと書くようにしてください」という文言の苛立ちを含んだような強さは、コクトーのマレーへの手紙では珍しい。1950年の『ガラスの城』撮影時には、マレーに「今度の映画にはさぞや熱くなっているでしょうね」と書いてるから、コクトーはモルガンに対するマレーの気持ちを知っていたと推察できる(とにかく「ぼくのために別の人への愛を抑制しないで」「秘密にしないで」とマレーに懇願しまくるコクトーだし)。マレーにしても、自伝では大切な人のことを書かないわけにもいかない。といってスキャンダルになるような暴露話はしたくない。だから、「一方的な片思い」というふうにさらりと書いてモルガンにメッセージを送ったのだろう。同様に、なぜか突然マレーの人生から消えてしまった友人もいる。彼らは必ずファミリーネームをイニシャルで示される。たとえば、アンドレ・Gという青年。彼はマレーより10歳年上で、コクトーと会う前に、マレーに大変に尽くしてくれた友人だった。そのアンドレ・Gについては、「彼は私にすべてを提供してくれたが、それに報いるほど、多くのものを私は提供できなかった。彼は私に与え、教え、導いた。その返礼に悲しみと後悔だけを与えてしまった」と、まるで謝罪のようなことを書いている。そして、コクトーと出会ったマレーは、コクトーに頼んで彼を秘書として雇ってもらっている。そこまでははっきりしているのだが、その後、ポールという別の友人にマレーが出会って深い友情を感じ、ポールがコクトーの秘書になった。アンドレ・Gはどこへ行ったのだろう? それがまったく書かれていないのだ。コクトー(そしてマレー)のもとを去ったのは確かだが、それがいつなのか、なぜ秘書をやめたのかわからない。可能性が高いのは戦争だろう。アンドレ・Gも出征したと考えられるし、戦争中はコクトーとマレーは破産状態になる。秘書どころではなかったはずだ。もう1人、マレーがジョルジュと急速に親しくなっていった時期に、マレーのハウスボートのある川の土手に突然現れ、マレーと会話を交わして、そのままマレーの人生から忽然と去ってしまった友人がいる。彼はシャルル・Rと書かれている。ある晩、ジョルジュをリドまで送って、家に戻ったマレーは、ベッドに横になったところで、土手から自分を呼ぶ声を聞く。それがシャルル・Rという男性。彼がマレーの自伝に登場するのは、後にも先にもこの一回だけだ。何をしていた友人なのかも謎のまま。マレーはシャルル・Rを家に招きいれ、2人は会話を交わす。その会話は非常に秘密めいていて、自伝を読んでも要領をえないのだが、要はマレーとジョルジュが親しく交際していることを知ったシャルル・Rがそれをマレーに確かめに来たのだ。そして、マレーは自分の気持ちをシャルル・Rに打ち明け(どう打ち明けたのかは書かれていない)たうえで、「今後はジョルジュには会わないようにするから」と言っている。するとシャルル・Rが、「なぜ? 君たち2人はよく似ている。2人一緒のところを見たら、きっと素晴らしいぜ」と言ってくれたという。「そこで私は、またジョルジュと会った」 (マレー自伝)。当事者にはわかる話なのだろうが、読んでいるほうは行間を推察するしかない。これは恐らく、ジョルジュ以前にマレーと親しかった男友達がいたということだろう。その彼に遠慮して、「もうジョルジュとは会わない」とマレーが言ったところ、「よく似た2人が一緒にいるのを見るのは素晴らしい」と言われて、またジョルジュと会ったということだと読める。そして、そのすぐあと、ハウスボートで食事をしていた夜に、ジョルジュが突然筋肉の激しい痛みを訴え、倒れてしまう(すんげー、ベタな展開…… ジョルジュ君、わざと?)。マレーがドクターを呼ぶと、「おそらくは、ただの神経的筋肉痙攣。ただもっと別の重い病気かもしれない」と診断され、外出が禁じられた。しばらくは舞台には立てそうになかった。そこで、ジョルジュはその晩マレーの家に泊まり、「彼の滞在はそれから10年にも及ぶ」(マレー自伝)。ちなみに、「滞在」と往生際の悪い微妙な表現を使ったのはマレー自身。パリに来たばかりの自分によく似た青年の仕事をマレーが支援するのは、ごく自然な成り行きだった。まして、彼の歳が自分がコクトーと出会った歳と同じとあっては、マレーにとってそれはほとんど義務のように思えた。マレーはコクトーにも相談し、「もちろん、ぼくをあてにしてくれていいです」とコクトーから返事をもらっている。マレーとコクトーの人脈で、ジョルジュは仕事の幅を広げ、マレーの映画に端役で出たり、ローラン・プティ振り付けのバレエに出演したりして、売れっ子になっていく。これは雑誌の表紙になったジョルジュ(左奥)とマレー(右)。これは、ジョルジュと同じ年頃のマレー。黒髪に染めて『ブリタニキュス』のネロに扮した写真。ピカソも写真がほしいとマレーに頼んでいる。似てるか? う~ん。正直、よくわからない(苦笑)。ジョルジュが端整な美男子であることは確か。1952年にマレーとジョルジュはバルセロナでオペラコミック『ドリアン・グレイ』(作曲はネッド・ローレム)を共に演じている。マレーが額縁に入った「良心の肖像」の役で、その周りをジョルジュが踊るという演出。これについて、マレーがコクトーに意見を求めたところ、コクトーは次のように書いている。「1952年5月24日 ジョルジュが結構な姿であらわれるのに、君のほうはひどい姿で、しかも、さしてジョルジュの助けにならない。ぼくとしてはどうにもうなずけないところです。彼だって嫌がると思いますよ。彼のこととなると、君の謙虚さ、公正さが、かえって不公正になりかねない」「ぼくの善良な天使、昼となく、夜となく、ぼくは君のことを思っています。君の人生によかれとばかり願っています。君とジョルジュにくちづけを送ります」どうやらマレーは、ドリアン・グレイ的美貌のアメリカ人にとことん弱いらしい(詳しくは、3月29日のエントリー参照)<続く>
2008.06.03

<きのうから続く>オルフェの撮影前後から、私生活でのコクトーとマレーの距離は次第に離れていく。コクトーに黙ってガールフレンドと海に行ってしまったマレーへあてたコクトーの手紙。「1949年6月18日 ミリィ・ラ・フォレ 君の居所が知りたくてポール(=コクトーのマネージャー)に電話しました。ここでのぼくの慰めは、1人で君の部屋へ入ったり、人を案内したりすること」うんぬんかんぬんと書いて、最後に「君の母上と、美しい娘さんによろしく。しっかり泳いできてください」。さらにエドゥアール・デルミットからのメッセージも添えている。「ぼくのジャノ、素敵なバカンスを送っておられると思います。すぐに会えますね。キスを送ります。ドゥードゥー」このあと『オルフェ』の撮影をはさんで、12月に『恐るべき子供たち』(監督はメルヴィル)の撮影が行われる。撮影現場でコクトーは、この映画で主役を演じたニコル・ステファーヌの親戚で裕福なフランシーヌ・ヴェスベレール夫人と出会い、親しく交流するようになる。フランシーヌは南仏のサン・ジャン・カップ・フェラに広い別荘(サント・ソスピール荘)を有しており、1950年5月にコクトーはデルミットとともにこの別荘に招待されて滞在。ここで離れて暮らすマレーへの贈り物として、『ジャン・マレー論』を執筆した。これ以後最晩年まで、サント・ソスピール荘はコクトーの南仏での「わが家」になった。サント・ソスピール荘でもコクトーはフランシーヌに頼んで、マレーの部屋を用意していたのが、マレーは最後まで、コクトーが期待したほどには足を向けてくれなかった。『恐るべき子供たち』の撮影が行われているころ、マレーはコレット作『シェリ』の舞台に出演し、大成功。そしてこのころ、『悲恋(永劫回帰)』でもかわいらしい演技(?)を見せたマレーの飼い犬ムールークが病気になっている。心臓が悪く喘息だという獣医の診断だった。そこでマレーは、ムールークと外出するときは、カンフル剤、注射器、エーテル液、脱脂綿を必ず持ち歩き、ムールークの発作がおきると場所をえらばずに注射するようになった、ムールークはだんだん散歩ができなるなる。マレーは乳母車にのせて散歩することも考えたが、新聞や雑誌に書かれるのが嫌で諦めた。ハウスボートでの生活はムールークにはよくない。庭付きの家が欲しい。マレーはコクトーに相談する。フランシーヌの別荘にいるコクトーからの返事。「1950年8月26日 サント・ソスピール なんとしてもアパルトマンを1軒探すべきです。一緒に使いましょう。2人でカフェオレを飲むべきです。お願いです。ぜひ一軒、家を探してください。ドゥードゥーともかなり前からその話はしているのです」2人でカフェオレを飲むというのは、朝食を一緒にとろうということ。つまり、コクトーはハウスボートを出て、マレーにもう一度一緒に暮らすアパルトマン(家)を探してほしいと言っているのだ。ところが、余計な一言が…… それは、ドゥードゥー(=デルミット)。コクトーは、マレーにもデルミットにもそばにいてほしかったのは明らかだ。だが、マレーは行動でそれを拒否している。結局、マレーはコクトー(自動的にデルミット付き)との「家を探す」のではなく、1人で「家を建てる」ことに決めてしまう。そしてパリに近いマルヌ・ラ・コケットに土地を見つけた。結局ムールークは、家が建つ前に死んでしまうのだが。そして、コクトーが南仏でフランシーヌ、デルミットという擬似家族とゆったりしながら著作活動や絵画制作に没頭している間、マレーは友人と誘われていったパリのリドで、幕間の舞台裏で1人のアメリカ人青年に会う。その年(1950年)の3月までブロードウェイで公演していたバレエダンサーで、フランスには来たばかり。名前はジョルジュ・ライヒ(英語読みではレーク)。マレーよりずいぶん年下だったが、マレーはその黒髪のダンサーが、「若いころの自分に似ている」と思う。ショーが終わると友人はすぐに帰ってしまった。マレーのほうはジョルジュに会いたくなり、また舞台裏へ。ところがこのアメリカ人はとても素っ気なく、マレーが奢ろうとした酒すら断わるのだった(かなり警戒されてるよ、マレー君)。「私は何であれ、人から拒絶されることに慣れていなかった。どこからあの執拗な強引さが私に生まれたのだろう。結局、ジョルジュは私への挨拶として、翌週、私の夕食招待を承知した」(マレー自伝より)ジョルジュはマレーの贅沢なハウスボートにやってきた。フランス語がまだできないジョルジュと、マレーは下手くそな英語で話した。その気取らない態度に、すぐにジョルジュの表情もやわらぎ、饒舌になった。「君はアメリカのどこ出身?」「パチョグです。ニューヨーク州の」「わらかないなあ」「田舎ですよ。マンハッタンからだと60マイルぐらいかな」「マイルじゃさっぱりわからない。ニューヨークの北? 南?」「北」「ぼくも北の出身なんだ。シェルブール。田舎だよ」「知ってますよ」「知ってる?」「ええ、知ってます。あなたの誕生日もね」「冗談だろう」「言ってみましょうか? 12月11日」「そのとおりだ。なんで?」「ぼくの誕生日と近いから」「いつなの」「12月15日」唖然とするマレーに、ジョルジュは打ち明けた。「アメリカであなたの映画を見たんです。仲間に誘われて。最初の映画は『カルメン』だった。20歳ぐらいのときです。そのとき、あなたは黒髪だったでしょう? でね、仲間に言われたんです。『ドン・ホセ役の俳優はお前の親類じゃないの』って。で、興味をもってあなたのプロフィールを調べた。ぼくはドイツ系なんです、オッフェンブルクには遠縁がいるって聞いてました。だから、もしかしたらシェルブールはドイツ寄りなのかと思って地図まで引っ張り出したんです。おかしいでしょう? 全然近くなかったけど」「生まれはシェルブールだけど、ぼくの祖母はアルザス出身なんだ。もとはドイツ領だよ。オッフェンブルクにもすごく近い」「えっ」2人はあまりの偶然に黙り込んだ。「信じられない……」とジョルジュ。「あなたはフランス人。ぼくはアメリカ人。なのになんとなく似ていて、しかも祖先の出身が近くて、それでたまたまリドで会うなんて。おまけに誕生日もすごく近い。だから、親近感を覚えたのかな」「親近感って態度じゃなかったぜ、リドでは」「あれは…… 緊張していただけですよ。大スターのジャン・マレーが突然楽屋に来たんだもの。誰だって驚くでしょ。それにあなた、いきなりずいぶん強引だったし」マホガニーと銅の部屋に2人の笑い声が響いた。「12月生まれはわかったけど、歳は? いつの生まれなの?」「1926年。この12月で24です」――ぼくがジャンと会ったのと同じ年だ。マレーは戦慄にも似た感覚を覚えた。「実はぼくも君を見たとき、思ったんだ。若いころの自分に似てるって」「ぼくは、あなたみたいなextremely good lookingじゃないですよ」「何?」「ものすごくハンサムだってこと」「また見かけだけってことか」「見かけだけ? あなたが? とんでもない。『美女と野獣』の最後で、グレタ・ガルボが何ていったか知ってるでしょう?」「いや?」「知らないんですか?」「知らない」「驚いたなぁ、本人が知らないなんて。アメリカでは有名な話ですよ。王子になったあなたを見て、『まあ! 私の野獣を返して!』って叫んだんです。つまり野獣のあなたが素晴らしかったってことですよ」「君はどう思った?」「ごめんなさい。見てないんです」「見てない?」がっくりするマレー。「『悲恋(永劫回帰)』は見たけど。あのときからあなたはブロンドになって、ずいぶん遠くなってしまったような気がして。もともと黒髪じゃなかったんですね」「それが本当の理由?」「こないだ『オルフェ』は見ましたよ。でも好きじゃない」「好きじゃないって?」またもがっくりするマレー。「ええ、だって、パリじゃ英語の字幕が出ないんだもの。さっぱり意味がわからなかったんです」爆笑する2人。最初のぎくしゃくは、すっかり溶けてなくなった。「踊っている君も、素晴らしかったよ。端整で、優雅で」「どうもありがとう。でも、ぼくなんて、たいしたダンサーじゃないですよ。あなたはいわば、バレエ界ではニジンスキーのような人。ぼくなんかそこらのエキストラです」「23歳で、パリにまで踊りに来るなんてすごいじゃないか。23歳のぼくがどんなだったか知ってる? 1日10フランの出演料で、役を降ろされまいと必死」「10フラン? ホントですか。そりゃ安いや」「だろ? 親からは、『まともな仕事を探せ』ってせっつかれてた。『あと1年待って』ってなんとか頼んでさ、芝居を続けていたんだ。で、ジャンに会って奇跡が起こった」「ジャンって、ジャン・コクトー?」一瞬、ジョルジュの表情がこわばった。「うん」「あなたとジャン・コクトー……」眼を伏せ、口ごもるジョルジュ。「ぼくとジャンが、何?」「一緒に暮らしているんですか? ここで?」「いや。よく食事には来るけどね」「一緒に暮らしてるって聞いたけど」「今は南仏にいる。でもここもジャンの家だって、ぼくは思っているけど」「そう……」その後も2人は何度も食事をともにした。そして、ホテル暮らしのジョルジュをマレーがリドまで車で送っていくようになる。<明日へ続く>
2008.06.02

『オルフェ』といえば、鏡。公開から60年近くたった今でも、人々の好奇心を刺激し続けているシーンがある。映画を見る前は、いったい何をやっているのか、非常に気になった。これがどういう場面なのか知りたくて映画を見たと言ってもいいかもしれない。あまりにミステリアスでエロティックなためか、このスチールをDVDのカバー写真に使っているものもある。これを見て感じざるをえないのは、やはり自己愛。物語上は重要とは言えないのに、視覚的には最高に鮮烈に訴えかけてくる場面だ。そしてその「原型」は、やはり『白書』にある(『白書』については3月26日のエントリー参照)。『白書』では、そこは公衆浴場。12ある浴室のうち1つだけに、鏡に特別な仕掛けが施されている。浴室に隣接した暗いボックスに入り、内扉をあけると向こうが透けて見渡せる。そこは浴室のほうからはただの鏡。ボックスに入れるのは特別に金を払った客だけ。浴室では若い労働者が服を脱ぐところから始め、裸になって「ある行為」を行い、自分からは見えない客の見世物となる。「ある時、自惚れたナルキッソスが鏡に口を寄せて押し当て、自分自身とのアバンチュールを最後まで推し進めたことがあった。ギリシアの神々のように姿の見えぬ私は、唇を彼の唇に重ね、彼の動作に倣った。彼が知ることは決してなかったが、この鏡は映していたのではなく、行動を起こしていたのである。鏡は生き物だった、そして彼を愛したのだ」(ジャン・コクトー『白書』山上昌子訳)文章は詩的な幻想美にあふれているが、やってることはとっても即物的(笑)。『オルフェ』は、もちろん『白書』のようなお下劣(再笑)な筋書きではない。だが上のカットはまさしく、『白書』のこのくだりから滑り出てきたようだ。言うまでもなく、ナルキッソスとは、ナルシストの語源。そして、この『オルフェ』から影響を受けたと思える場面が、『太陽がいっぱい』にもある。「口を寄せて押し当て」ているアラン・ドロンのほうがむしろ、『白書』のイメージに近いかもしれない。もちろんそれは視覚的イメージのことであって、映画でのこの場面に『白書』との物語上の類似点はない。そして、もう1つ、似て非なるカット。ここでは鏡のような水溜りの水面が、空に浮かぶ雲とオルフェを映している。誰とも絡まないで、これほど妖しい雰囲気を出せるジャン・マレーや、恐るべし。いや、この人の場合は、1人で自己陶酔しているときが最高に妖しい瞬間なのかもしれない。ますます恐るべし。『オルフェ』では、2人の男性が黄泉の世界を進んでいく場面も非常に美しいのだが、個人的に気に入っているのは、パリの街中でオルフェが死神を見かけるシーン。なぜか突然街から人影が消え、少女が1人縄跳びをしながら通り過ぎる。この視覚的イメージは、明らかにシュールレアリズムの画家キリコのイメージだ。上の写真の場面のあと、キリコの絵に描かれた回廊そっくりの場所で、オルフェが死神を追いかけるシーンが来る。ヴィスコンティの『ベニスに死す』でアッシェンバッハが美少年タージオを追い回すシーンともイメージがダブる。追いかけているのが「死」だという点でも。そして、もう1つ、『オルフェ』での鏡の重要な意味。それは、その向こうが「死の世界」だということだ。鏡を抜けると別の世界…… というのは『鏡の国のアリス』にすでにあるが、コクトー・ワールドではアリスの世界と違って別世界というのは明確に、黄泉の国を指す。「鏡を通り抜ける=死」というのは、ジャン・マレーが『オルフェ』以降、非常に意識して使っているタームでもある。たとえば、1975年に出版した自伝では、1963年にコクトーが亡くなったときの絶望感をこんなふうに書いている。「私の生は停止した。どうやってミリィ(注:コクトーはマレーと購入したここの館で亡くなり、その当時ミリィではエドゥアール・デルミットがコクトーの面倒を見ていた。パリのマレーにコクトーの死を連絡したのもデルミット)まで車を運転したのか、思い出せない」「彼(=コクトー)の演出で、ユリディースを探しに鏡の中に入ったことを思い出さすにはいられない。死神が私の手を取り、この鏡の背後に旅立ったジャンの魂を追い、本当に鏡を通過してあの世に渡らせてくれればどんなによいことか!」つまり、「後を追ってしまいたい」と思っているということだ。そのコクトーの演出による『オルフェ』の鏡通過の場面はこれ。↓さらにマレーは、1993年、つまり自身の死の5年前に執筆した、『私のジャン・コクトー』でも、コクトーの死の衝撃を次のように書いている。「1963年10月11日。ジャン・コクトーは鏡を通り抜けた」「私はおよそ考えられないものを眼の前にしていた。幸運も、あれほど謳歌された幸福も崩れ去っていた」(ジャン・マレー『私のジャン・コクトー』岩崎力訳 東京創元社)このように、マレーにとって死とは鏡を通過することだった。しかも、マレーが鏡を通り抜けた『オルフェ』で、コクトー監督+マレー主演の映画は最後になる。実はコクトーは少なくとももう1本、マレー主演でオリジナル脚本の映画を撮りたいと思っていた。それは『バッカス』といい、すでに1930年代の半ばには構想があった。コクトーはまだ本も書かないうちから、『バッカス』はカラーで撮りたいと言っていた。『バッカス』は『オルフェ』のあと、マレー主役を念頭に、まずは戯曲として完成するが、皮肉にもマレーが演じることはなかった。これ以降は、コクトーはマレーとドラノワのために、『クレーヴの奥方』を脚色したり、自分の過去の作品『山師トマ』でマレーにナレーションを依頼したり、『オルフェの遺言』でオイディプス役(撮影日はわずか1日)を依頼したりしてはいるが、詩人コクトーに詩神(ミューズ)マレーがぴったり寄り添い、「君は次はどんな役がやりたい?」と聞いては、オリジナルの戯曲を次々執筆したあの蜜月時代が戻ることはない。2人の演劇でのコラボレーションは『オルフェ』で終焉を迎えたのだ。さらに言えば、オルフェとは詩人。そして、その詩人とはコクトーでもある。コクトーが自身最後の映画に『オルフェの遺言』とタイトルをつけたことからもそれは明らかだ。つまりマレー=オルフェ=詩人=コクトーとなったことで、2人の世界は完結し、それ以上どこへも行きようがなくなったのかもしれない。実際2人は、とくに『オルフェ』以降、コクトーはマレーに、マレーはコクトーに一体化しようとしているような行動を取っていく。しかも、この『オルフェ』の撮影直前、コクトーの映画には欠かせない存在だった美術家クリスチャン・ベラールが突然亡くなっている。ベラールは『オルフェ』のためにさまざまな装置を考案してくれていた。コクトーがベラールをどれほど頼っていたかは、オルフェの台本執筆と前後してマレーにあてた手紙を読めば明らかだ。「なにしろ、『オルフェ』はぼくの仕事でいちばん難しいもので、ベベ(=ベラール)さえいてくれたら、まだ漠然としたままのものに具体的な形が与えられると思うのです」「ドシャルムのばかときたら、ぼくにはどうしてもベベが必要だということがわかりません。なんとか引き止めておかないと、アメリカにとられてしまいます」ベラールの死を受けて、コクトーは映画『オルフェ』の冒頭にベラールへの献辞を自筆で入れている。このあまりに「死」のイメージが色濃い『オルフェ』。マレーも『私のジャン・コクトー』でオルフェを演じていた役者が突然鏡の前で死んでしまった話を出している。しかも、今年になって奇妙すぎる符合が起こった。それはこの記事↓http://ncr2.net/2008016267.php2008年1月22日に急死したヒース・レジャー(1月のエントリー参照)の遺作となる『The Imaginarium of Doctor Parnassus』。最後まで撮ることなくヒースが亡くなったことで、テリー・ギリアム監督は、彼の代役にジョニー・デップを起用して撮影を続行させることを決心したというのだが……「ヒースが魔法の鏡を通り抜けるシーンがあるんだ。彼はそこで別の人物に変化することができる。そこでジョニーが登場するわけだ。奇妙で幻想的なタイムトラベル作品だから、ヒースが演じていた役の見た目が変わることに問題はない。心に焼き付く瞬間になるだろうね」つまり、鏡を通り抜けるところが、俳優ヒース・レジャーの映画での最後の姿になるということだ。ジャン・マレーが繰り返し言っていた「鏡の通過=死」にあまりにピッタリではないか。オルフェは当然ギリシア神話に由来するが、「パルナッソス博士(Doctor Parnassus)」のパルナッソスもギリシア神話では、太陽の神アポロンを祭った山とされている。言うまでもなく、ヒースの代表作は20年におよぶ男同士の秘められた関係を演じた『ブロークバック・マウンテン』。ジャン・マレーもジャン・コクトーの死から24年たって、生前コクトーから25年にわたって送られつづけた愛の書簡を公開して、2人の秘められた関係を明らかにし、世間に衝撃を与えた。コクトーはしだいにマレーとの関係を公けに口にしなくなるが、それは人気俳優として世界的な名声を確立したマレーにとっては、同性愛者である自分の存在がむしろ害になると考えたためでもある。マレーがフランス一の人気俳優になったころの『占領下日記』には、すでにその苦悩が綴られている。「ぼくにでっちあげられる醜悪な混乱、ぼくの真の生の代役を果たしている愚劣な風評。だから恐らくぼくはジャノのためには、役に立つどころか害をなしている」(『占領下日記』筑摩書房)晩年のコクトーは、マレーを愛し続けながら、「ぼくたちが一緒にいるだけで、犯罪行為と見なすような連中」(マレーへの手紙)からの攻撃がマレーに及ぶのをできるだけ避けようとした。『オルフェ』の映像美は、どこよりもハリウッドの映画界に強い影響を与えたと思う。特殊撮影による鏡通過(この技術はどんどん進歩した)、バイクに乗った死の国の使者(=悪者)、スーツを着た場違いな裁判官。ハリウッドの映画やプロモーションビデオには、『オルフェ』から借りた、あるは『オルフェ』から発展させたイメージが、延々と繰り返し使われている。そんなハリウッドでもっとも将来を嘱望されていた若手俳優の突然の死が、映画の中では「鏡通過」で暗示されるとなると、心穏やかではいられない。
2008.06.01
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