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<きのうから続く>こちらの記事からの転載は以下。 XXXXXX2年に一度の改正期を迎え、今季からフィギュアスケートのルールが大きく変わる。浅田真央(中京大)得意のトリプルアクセル(3回転半ジャンプ)が女子のショートプログラム(SP)でも単発で跳べるようになり、「浅田真ら日本選手に有利?」との声も聞こえるが、実際はどうなのか。改正点のポイントを記し、そのポイントごとにISU(国際スケート連盟)の平松純子理事に解説してもらった。 ジャンプの回転不足などの減点軽減 日本では女子SPでトリプルアクセルが跳べるようになったことに注目が集まるが、男子SPでもバンクーバー五輪で銀メダルに終わったエフゲニー・プルシェンコ(ロシア)が「評価が低い」と話して論議を巻き起こしていた4回転ジャンプの跳べる数が、1度から2度に増えた。また、跳びやすい割に得点が高いダブルアクセル(2回転半ジャンプ)はフリーでは3度跳べたが、2回しか跳べなくなった。 そして今回の変更で最大の注目点は回転不足やミスの減点が軽減されたことだろう。これまではジャンプの回転が4分の1回転以上足りないと、回転不足と判定されていた。例えば4回転ジャンプを回転不足の上に転倒すると、3回転ジャンプ分の基礎点しかもらえず、しかも転倒による減点などで、1回転ジャンプ程度の得点になってしまっていた。 今回の改正で「4分の1回転以上2分の1回転未満の回転不足」は、基礎点の70%がもらえる。昨季の高橋大輔(関大大学院)の4回転や、浅田のトリプルアクセルの回転不足は「2分の1回転未満」なのでメリットは大きい。難しいジャンプについては基礎点も上がり、減点幅も縮まった(別表参照)。トリプルアクセルは基礎点が8.2点から8.5点になり、回転不足でも70%がもらえるため6点の基礎点が残る。減点幅も1.4~4.2点から、1~3点の範囲に縮まった。 「難度の高い技に挑戦を」 平松理事 「もっと早く変えたかったが、バンクーバー五輪前に大きな変更をすることには抵抗もあり、このタイミングでの改正になった。4回転をミスすると1回転と変わらない得点になってしまうのはおかしいという認識は以前からあった。難度の高い技に挑戦する人が減って、技の発展がないスポーツというのもね......。伸び盛りであるノービス(10歳から13歳のクラス)の選手たちがミスで順位を落とすのを恐れて、無難にまとめる傾向が出ていて憂慮していた」 「6点満点時代は難しいジャンプを跳ぶ選手が大勢いたけれど、質には疑問がつくものも少なくなかった。だから、04ー05年シーズンに導入した新採点システムでは『質を追求しよう』ということになった。そうしたら、難しいものに挑戦してミスをした場合のリスクが大きくなって、難度を落としても全体をまとめて完ぺきに滑ろうという方向が出てきた」 「改正で高難度の技に挑戦する人が増えてほしいが、一方で質にこだわる点は変わらない。全体的にミスの減点幅は小さくなったが、両足着氷などの減点は大きくなった。またジャンプの比重ばかりが高くなると、ほかの要素とのバランスが崩れるので、6種類の3回転ジャンプ中(ダブルアクセルも3回転のカテゴリーに含む)3種類の基礎点は下がったし、減点幅だけでなく、加点幅も小さくなった」 女子SPではスパイラルなくなる ジャンプ以外の要素は「レベル1~4」で判定される。ルールブックに書かれた要素のうち、2つを満たせばレベル2、4つならレベル4......と、レベルごとに基礎点がある。より高いレベルをとるためにみんなが同じ技になりがちで「フィギュアの面白みがなくなった」という声が出ていた。 今回、選手の負担を減らすためにSP、フリーともに必須要素を減らした。男女SPはジャンプ、ステップ、スピンなど8要素で構成されるが、SPの要素が7になり、男子はステップ2種類が1種類へ、女子は「時間がかかる」という声が多かったスパイラルがなくなった。 フリーも男子は2種類のステップのうち1種類は決められた動きをこなし、女子はスパイラルが3秒×2姿勢か、6秒×1姿勢に短縮された。スピンの構成要素が変わり、体に及ぼす影響を考慮して、背中を後ろにそらすビールマン姿勢も制限された。 「もっと自由に曲を表現して」 平松理事 「6点時代には『スピンは休める』という選手もいたが、04-05年シーズンの新採点システム導入によってスピンとステップにかかるエネルギーは膨大になった。より高いレベルを取るのに精いっぱいで、演技で表現する余裕のある選手は限られてしまう。ジャンプもありますしね。6点時代を知る人たちから『演技に個性がない』という意見が根強くあった。今から見ればレベルは低くても、質が高く、歴史に名を残す演技はありましたから」 「集客を考えても試合の長時間化は避けたいので、演技時間は延ばせない。そこでSPで男子はステップ、女子はスパイラルをなくした。その代わりに演技構成点の『トラジション(技のつなぎ)』で評価する」 「フリーはあらかじめやることを決めてしまい、演技上での余裕を作った。体力の負担が軽減された分、自由に曲を表現して独創的な演技を見せてほしいというメッセージ。6点時代の02年ソルトレークシティー五輪金メダルのアレクセイ・ヤグディン(ロシア)の『ウインター』、98年長野五輪銅メダルのフィリップ・キャンデロロ(フランス)の『三銃士』、ちょっと古くなるが、76年インスブルック五輪3位のトーラー・クランストン(カナダ)......等々のようにね」 誰が得をする? 難度の高いジャンプに挑戦しやすくなり、女子の浅田真、男子の高橋、小塚崇彦(トヨタ自動車)のように、ミスにもめげずに挑戦し続けてきた選手には追い風だろう。無理せずまとめてきた選手は、高難度のジャンプを試合で組み込むまでに多少時間がかかるかもしれない。 「質重視」は変わらないので、技の出来栄え点(GOE)が高い金妍児(キム・ヨナ、韓国)にとって必ずしも不利ではないが、過去3年以上ほぼ同じだったジャンプ構成を変えなければならないので、少してこずる可能性はある。 ジャンプはそれほど得意でないが、線がきれいでいつも評価が高い女子のラウラ・レピスト(フィンランド)のような選手もより注目されるだろう。また、高橋や金妍児のように技術もあって踊れる選手から、昨季以上の名プログラムが誕生するかもしれない。 一方、質や表現力重視は審判の裁量が採点を左右することを意味する。昨季まで9人の審判から無作為選出の2人を削除した7人の審判の得点(そこから最高・最低得点をカットした5人分)で採点していたが、今季からは9人の審判の得点(同7人分)で採点される。 「選手は自分の個性を見極めることが大切」 平松理事 「審判はますます大変ですよ。新採点システムに変更直後は、無理やりでもジャンプを着氷し、ギリギリでもレベル4がとれていれば、GOE、演技構成点とも高評価が出がちだった。しかし『いいと思ったものに点を出すように』と言い続け、そのためのDVDを作って指導してきた結果、最近はレベルは低くても質が良ければGOEは出るし、技でミスしても、それを演技構成点と切り離して得点を出すようになってきている」 「選手はまず自分の個性、セールスポイントを見極めることが大切。演技があまり得意でなくても、質のいいジャンプやステップでGOEや演技構成点の実施点を確実にとる。ジャンプが苦手だけれど、柔軟性や質、表現力で勝負する。全体でバランス良く得点をとる選手もいるでしょう」 「万全を期したつもりでも新ルールがどうなるか、やってみなければ分からない。でも、バンクーバー五輪もそうだったが、ルールを良く知り、その中で勝つために自分はどんな戦略で行くかを見極めることが、勝負のポイントになると思う」 ルールはISUの4人の技術委員とコーチ、選手代表各1人ずつの計6人で検討する。元五輪選手の平松理事は40年近く国際審判を務め、2002年から10年6月までISU技術委員。6点満点から新採点システムへの移行、今季のルール改正にも携わった。 XXX転載終わりXXXXルールとジャッジング、そして選手の格付けにいたるまで、ISUの立場を実によく代弁している。このこと自体は悪いことではない。取材対象の意見・見解をまず忠実に伝えるのは、新聞の基本的な役割だ。平松氏の発言を引用した部分(「 」部)以外の地の文も、見事なまでに、ISU方針の要約になっている。また、キム選手のジャンプ構成が、「過去3年以上ほぼ同じだった」点を明確に指摘するなど、ずいぶんと詳しくて驚く。したがって、この記事に関しては、地の文も記者の知識に基づくものではなく、ほぼ平松氏の意見に沿ったもので、平松氏から聞いた話を記者がまとめたのだろうという印象が強い。第三者機関としての批判精神がまったくないのは、これがルール改正のポイントを聞くためのインタビュー記事だということもあるだろうが、ジャッジングに関して記者がさほど疑問をもっていないからかもしれないし、あるいは日経がメディアとして何らかの意図があって、あえて掘り下げないようにしているのかもしれない。そのあたりは外野にはわからないが、とりあえず、ISUの指針や考え方を素直に伝えている記事であることは確かだ。個人的には、平松氏の発言には首を傾げたくなる部分も多いのだが、それについて今の段階で全部触れてもあまり意味がないので、とりあえず、今回の一連のエントリー内容の主旨にかかわる部分だけを赤にした。<明日に続く>
2010.07.31
<きのうから続く>こんな点を基準にするから、トリノではもう点のおかしさが隠せなくなっただけの話だ。このデタラメ採点がはっきりと暴走を始めたのもロスの世界選手権。これまでと同じ演技をしているだけなのに、キム選手の「スケートの技術」を含めた演技構成点がいきなりハネ上がった。この「発狂」採点に、表立って識者からの批判がなかったことが、翌シーズンのあちこちであがる発狂花火採点につながった。さらに悪いのは、こうした結果に対するジャッジの責任感があまりに薄いことだ。ジャッジは自分のつけた細かな点についてだけ正当化する。1つ1つは後付けでなんとでも辻褄合わせができるから、いくらでも正当化できるのだ。順位が妥当なら、フィギュアスケート関係者は文句を言わない。むしろ、素晴らしい演技に対して「歴代最高得点」、あるいはそれに近い高得点が出ると、旧採点時代の「6.0」点が出たときのように、観客が盛り上がると勘違いしているようだ。ルールをまったく知らないニワカなファンなら単純に、「凄いね~」「そんなに凄い演技だったんだ~」と感動してくれるかもしれない。だが、ルールを知っているファンは、盛り上がるどころかドッチラケだ。総合的に見て順位がおかしくなっても、審判のほうは、自分たちは規定どおり採点しただけで、順位を付けたわけではないという態度だ。「この加点は妥当ですか?」と聞かれると、「妥当です」と答える。「DG判定が厳しくありませんか?」と聞かれると、「他の試合と比べて厳しかったかどうかはわからない」と答える。「控えめに言っても、恥ずかしい採点」とまでビアンケッティ氏に言われた採点だが、実際に採点に携わった当のジャッジにその自覚が何もないというのも、ある意味で驚かされる。現行の採点は、もともと「木を見て山を見ず」の傾向のある採点だった。トリノでキム選手と浅田選手のフリーの採点に起こった本末転倒の現象は、目立つ枯れ木があちこちにあって全体の山が美しくないのに、数本の木が優れているといって過剰な点を与えてしまい、別のほぼ完璧に美しい山(しかも、その山の木のもつ欠点はほとんど誰にも見えないにもかかわらず、信じれらないほどの低評価を与えられた)より評価が高くなってしまったということなのだ。そして、その採点に携わった当のスペシャリストは、自分たちが行った「木」の判定は間違っていないという傲慢な前提で、「点が低くなるのはルールの問題で、ISUが考えるべきこと」と責任逃れをしている。これは見方によっては、仕方ない面もある。スペシャリストを含む技術審判は判定を行うだけ。演技審判はエレメンツとコンポーネンツの点をそれぞれつけるだけだから、誰が張本人で明らかに不適切な順位になったのかと言われても、誰にも明確な責任はない。ビアンケッティ氏は今のジャッジを「スーパーのレジ係」に譬えたが、Mizumizuは、今のジャッジは派遣社員に近いと思う。「この国でフィギュアなんて、一体何人がやってるの?」というような国のジャッジも格式の高い国際大会の採点に入ってくる。彼らにどれほど「質」を正しく評価できる眼があるのだろう。昔のジャッジは少なくとも、今よりは権威があった。しかも、演技審判の出す点は匿名になっている(これは今回のルール改正でも変わらなかった)。こうした採点手法は、そもそも社会常識に照らしておかしくないだろか? 正しい順位が出ないのは、点のつけ方がどこかでおかしいからだ。多くのファンは今のメチャクチャな採点に大いにストレスを感じている。トリノでは観客からブーイングの嵐が吹き荒れた。だが、ISU組織の内部、それも上に行けば行くほど、普通の社会常識は通用しないようだ。こうした傾向は何もフィギュアに限らない。1つのスポーツ競技、その狭い世界の中ではありがちなこと。現行ルールにおいても多くのフィギュア関係者が、順位点として採点を見ている。だとすれば、各ジャッジが責任をもって順位点をつけていた旧採点法のほうが優れているのではないだろうか? 質の評価や演技構成点のような主観点に重きを置くとなればなおさらだ。「木を見て山を見ず」になりがちな、細かな点の積み重ねによる採点よりも、全体の山を見て総合的に順位を出していた旧採点法のほうが、少なくともジャッジが正しいと考える順位で点を出すことができる。なぜ旧採点に戻さないのか? 実際には、戻したがっている関係者も多い。ビアンケッティ氏もその1人だ。旧採点法は長く続いた歴史がある。100年ごしのルールだ。新採点システムは、この短い期間でどんどんボロが出て、ボロを繕うためにさらにボロを当てている状況だ。なぜ旧採点に戻せないのか。今となってはISUの思惑もあるだろうが、もともとは新採点システムは、IOCの強い意向を受けて構築されたものだからというのがその理由だ。ソルトレイクの採点スキャンダルのあと、IOCはISUに対して、明確な客観的基準のない旧採点システムが不正を招く元凶だとして、「客観的基準」を作るよう要請した。そうでなければフィギュアは、オリンピック競技としては認められない。これはある意味で、当然の要請だったと言える。そのために設けられたのがジャンプの基礎点や、スピンやスパイラルやステップのレベル認定だ。これぞまさに客観的基準。これに基づいて採点すれば、誰もが納得できるわかりやすい採点になるはずだった。トリノオリンピックまでは、この「客観的基準」はある程度機能していたと思う。皮肉なことに、平松純子氏は、トリノオリンピック後のインタビュー(こちら)で、新採点システムでフィギュアは、「よりスポーツ的になった」と言っているのだ。「(これまでは)失敗したのにどうしてあんな点が出るのとか、過去の成績や評判が影響しなかったとは言えないものがあった(のが新採点システムでよい方向に変わった)」「ショートで8位とか10位でもフリーで頑張って得点を稼げば、点差さえ少なければ1位になることがあるというほど下からも上を狙えるようになった」と言っている。そうした平松氏の発言に対して、ファンからの大きな反発はなかった。ところがバンクーバーを控えたシーズン、ここ2シーズンの結果はどうだっただろう? 徐々に、「これはスポーツではなくリサイタル」(ストイコ)と呼ばれるような操作感アリアリの結果になり、ショートでメダル候補がくっきりと「仕分け」され、(8位から1位へなどという)大逆転などまったく見なくなった。ショートで驚くような点差をつけられ、フリーで下位の選手が頑張ってもメダル仕分けの選手と演技構成点で差をつけられて、下からは逆転できない。「失敗したのにどうしてあんな点が出るのか」「過去の成績や評判が影響したのではないか」――これぞまさに、トリノワールドのキム選手の点に対する外部の人間の感想ではないか。「過去の成績や評判が影響しない採点」を自ら謳っていたくせに、今やフィギュア関係者自ら、「フィギュアというのはやはり、過去の実績がモノを言うから」と実際の演技の出来を反映していない得点について、後付けで苦しい言い訳をしている。だが、わずかながら、トリノワールドの女子採点について批判的なコメントをした「組織内部の日本人」もいる。ISUジャッジの藤森美恵子氏だ。「これだけ失敗しているのに、なぜそこにいられるの?」「もっと高くてもいいんじゃないの?」といった多くの批判があったことを認めたうえで、ジャッジの感性でつけている点の妥当性に疑問を投げかけている。当たり前といえば当たり前の話だが、その当たり前の感覚を、自分たちの理屈だけの世界の中で見失っているジャッジが多すぎる。このごくごく常識的な感覚をISU理事に就任した平松純子氏が失っていないことを祈るばかりだ。最近のインタビューを読むと、藤森氏のもっている常識的な感覚を平松氏も共有しているのか、やや疑念を抱かずにはいられない。これはかなり重要なインタビューだと思う。日経新聞のフィギュア記事は日本の新聞のなかではレベルが高い。ある程度ルールとジャッジングの傾向を勉強している記者が書いているようだ。個人的な思い出話だが、ルー・チェン(陳露)がNHK杯で2連覇したときに、日経は、「NHK杯初優勝」と間違った記事を出したことがある。Mizumizuがすぐに電話で指摘したところ、「調べます」と言って、翌日にはちゃんと訂正記事を出した。一読者からの電話一本に素早く対応したのは、当時は当然とも思ったが、誤認記事をホッタラカシにしているメディアがのさばっている現在の状況を考えると、「まっとうな仕事をする」メディアの存在は今後ますます貴重になるかもしれない。インタビューをもとに構成した記事全文は、こちら。<明日に続く>
2010.07.30
トリノの世界選手権で非難の的となったキム・ヨナ選手の(主に)フリーの点数。この採点について、オリンピックでのジャッジ経験もあるソニア・ビアンケッティ氏は厳しく批判している(全文はこちら)。 女子の採点についてビアンケッティ氏は、「控えめに言っても、恥ずかしい採点」と一刀両断にしている。キム選手の演技に対する所感を取り出すと、ショートから「キム・ヨナには心底落胆させられた」とし、ジャンプの失敗のあとミスを重ねたにもかかわらず、「演技構成点がかなり高かった」と指摘している。フリーに関しては、「公平な立場から言わせてもらえれば、本来の出来には遠く、1位を取るには値しない演技」だったと言っている。ビアンケッティ氏によればあの日、キム選手は非常に疲れているように見え、魂がどこにもない演技だったと。にもかかわらず、キム選手に対する「(演技構成点の)『パフォーマンス』と『音楽の解釈』は、それをまったく反映していなかった」。念のために言っておくが、ビアンケッティ氏はキム・ヨナ嫌いではない。それどころか、昨シーズンのキム選手の「死の舞踏」は、カタリナ・ビットの「カルメン」やカート・ブラウニングの「カサブランカ」に匹敵する名プログラムだと絶賛している。「カルメン」や「カサブランカ」を挙げるということは、ビアンケッティ氏はかなり演技性の高いプログラムが好みなのだろうと思うし、カナダのチャン選手を高く評価しているところから見て、スケート技術におけるストロークの伸び、つまりひと漕ぎでトップスピードに乗せてくるテクニックに優れた選手を特に好むのだろう。キム選手やコストナー選手もこのタイプだ。優れた選手なら、どんな専門家も一様に評価するというものでもない。必ずそこには嗜好が入る。嗜好と言って不適切なら、好みと言ってもいい。単に速いとか強いとかを競う競技ではないフィギュアスケートの場合、技術や表現力のどこを特に評価するかに、個人的な「好み」は必ず入るものなのだ。ちなみにビアンケッティ氏は、ストイコやブラウニングといったトップ選手からスケート技術を高く評価されている小塚選手に対して何も言及していない。特に目が留まる選手ではないようだ。チェコのミハル・ブジェジナ(ブレジナ)選手のことは手放しで褒め、フリーは高橋選手に次いで「2番の出来」だったとしている。トリノでブジェジナ(ブレジナ)選手のフリーの点数が出たときは、低すぎる点に会場からブーイングが起き、例によって選手自身が、「まあまあ、おさえて」と手振りする始末だった。日本ではキム選手の高得点ばかり槍玉にあがるが、大きな国際大会でMizumizuにとってもっとも腹立たしいのは、チェコの素晴らしい選手に対してしばしばなされる「あっと驚く低得点」だ。ブジェジナ(ブレジナ)選手だけではない。トマシュ・ベルネル選手も彼のもっているスケート技術に対して、与えられる点が不可思議なほど低いと感じることがある。ヨーロッパ王者として君臨したランビエール選手に対抗するために、ベルネル選手は雰囲気のある表現にも心を砕き、数年かけて独特の世界を作り上げてきた。オリンピックシーズンに用意した「ゴッドファーザー」は、彼のもつ技術の高さ、成熟した男性のもつ甘美な雰囲気を存分に味わうことのできる、ベルネル選手の集大成・・・になるハズだった。あそこまでジャンプがガタガタにならなければ。ビアンケッティさんも「ゴッドファーザー」を非常に褒めていた。ベルネル選手の超高難度ジャンプ構成にかなり無理があるということは、客観的には明らかだったと思う。4回転を入れることで、他のジャンプが乱れる。最悪の場合は4回転も自爆、他のジャンプも連鎖自爆。それでも彼は高難度ジャンプを手放さなかった。これは4回転が自分の持ち味という自負もあっただろうけれど、ジャンプのレベルを落としてしまうと、たとえそれで無難にまとめても、もっと金持ち国の選手が同様のことをやったら勝たせてもらえないという、ジャッジへの不信感があったためだとMizumizuは思っている。だから、文句なく勝つためには、高難度のジャンプを決めるしかベルネルにはなかったのだ。少なくとも、ベルネル陣営はそう考えていたと思う。事実ベルネルは、オリンピック前のインタビューで、プルシェンコが復帰することで、「採点がもっと公平になってくれれば」と言っていた。つまり、「トータルパッケージ」というご都合主義の印象点ではなく、ジャンプという客観的でごまかしのきかないエレメンツが採点の柱になれば、「より難しいことをした選手が勝つ」という、スポーツなら当たり前の採点手法に戻ってくれるのではないかとう期待があったのだろう。ベルネルはプルシェンコについて、「ぼくは自分が彼に勝てると思ったことは1度もない」と言っている。世界王者でもあったジュベールやランビエールを破ってヨーロッパ王者になったほどの選手が、何年もかけてトライしても、プルシェンコ並みのジャンプ構成のプログラムをミスなく滑ることはできなかった。「4回転を入れる」というのはそれほど過酷なことなのだ。ISUに金銭的貢献をしている国の選手には点が出て、貢献をしてない国の選手には点がでにくい。バンクーバーオリンピックの会場にキム選手のスポンサー企業の広告が溢れていたことと、キム選手に対する信じがたい高得点の間に何も関係がないと思える人は、大昔のアマチュアリズムの純粋主義にまどろんでいる間に、完全に時代に取り残されたタイプだ。トリノのキム選手のフリーは出来が悪かったから、点の高さが「明らかに異常」に一般の人にも見えた。だが、バンクーバーでのキム選手のフリーの点は150点だったのだ。こんな点が出るなど、そもそも誰も想像していなかった。それに対してトリノでは20点「も」下がったのだ。サルコウの転倒とダブルアクセルのスッポ抜けが目立ったミスなのだから、150点がキム選手に「用意された点」だと考えれば、そこから引き算して130点になるのは別におかしくはない。だが、それはほとんどの世界中の女子選手のパーフェクトな演技に与えられる自己ベストを上回ってしまう点だ。もっとも配点の大きいジャンプを2つ跳ばなくても、こんな点が出る。つまりキム選手だけ、「なぜか」基準が別なのだ。キム選手の得点についてバンクーバーの点は批判せず、トリノの点だけ批判するというのは、片落ちだとMizumizuは思う。バンクーバーがあの点だったから、トリノでああなった。もっと言えば、ロスの世界選手権で、ああも発狂インフレ点が出て、それが「キム選手の基準」になってしまったから、バンクーバーでああなった。では、なぜビアンケッティ氏は、「バンクーバーの高得点が非常識だった」ことには言及しないのだろう?この裏には、「フィギュアの採点は実際には順位点。順位が正しければよしとする」という風潮があると思う。旧採点時代の意識だが、同様の意識から、トリノのキム選手のフリーに対して、「転んだ人を1位にしてはいけない」と言った識者がいる。ジャッジが1位にした、という言い方だ。ビアンケッティ氏も「1位に値しない演技」と言っている。だが、よくよく考えれば、現行の採点システムは順位をつけるのではない。エレメンツやコンポーネンツのもつ「絶対的価値」を数字で評価するのだ。ジャッジがキム選手のフリーの総合順位を1位としたわけではない。今の採点システムは分業だから、技術審判はエレメンツのレベル認定をし、演技審判はGOEと演技構成点をつける。キム選手に対して審判たちのつけた点がもっとも高くなったというだけであって、ジャッジは順位そのものを出したわけではないのだ。だが、これは多分にタテマエなのだ。実際にはフィギュアの、特に演技構成点は主観点だから、順位点にならざるをえない。フィギュア関係者は十分にそれを知っている。そして、点数が何点ということより、順位が妥当だったかどうかを見ている。だから、順位が明らかにおかしいときは今回のビアンケッティさんのように批判する人もいるが、「異常に高い点」が出たことに対しては、一般のファンほどには反応しない。現行システムでの「点数」や「点差」がさほどの意味をもたないことを知っているからだ。基礎点もGOEのつけかたもクルクル変わるシステムだから、「歴代最高点」も「自己ベスト」も枕詞みたいなものだし、こんなに試合によってジャッジが勝手に点を出すのでは、「シーズンベスト」さえ意味がない。実際、浅田選手のフリーの出来はどう見てもトリノワールドのほうがよかったのに、点数はバンクーバーオリンピックのほうが高かった。特に「バンクーバー特製フランケンシュタインルール」では、点差が極端に出てくるようになったから、まったく実力差を反映しなくなった。オリンピックで金メダルを獲ったのはライザチェック選手だったが、その前の全米でアボット選手は圧倒的な大差でライザチェックを破っている。この点差が2人の実力差なら、オリンピックでライザチェックがアボットに勝てるわけがない。「点にはあまり意味がない。順位を見よう」――こんな言い方がネット上で飛び交うようになったのも、ここ最近のことだ。だが、これもまた矛盾しているのだ。細かい点の積み重ねで順位を出すのが今のルール。だからその点がおかしければ順位が正しくなるわけがない。これまでは単に、「キム選手は1位にふさわしい素晴らしい演技をしたから、(点は高いと思うけど)順位は妥当だということにしよう」という話だったのだ。それが1つの試合だけだったら、まあかまわないかもしれない。ところが、キム選手に限っては、ベストを出すと、それが「基準」になり、次の試合ではエレメンツを無難にこなせば、なぜか「さらに」基準を上回る点が出る。つまり、「完成度」が高まったということらしい。韓国紙は、キム選手は「あらゆる要素があまりにも完璧」だと褒め称えた。「完璧なジャンプ」「完璧なステップ」「完璧なスピン」「完璧なスパイラル」という言い方は多分に感覚的なものだ。実際には、誰もそれを見たことはない。にもかかわらず、世界中でキム選手だけが、完成度をどんどん高めた・・・つまり、完璧にぐいぐい近づいていったということだ。スピンで軸が流れても、スパイラルで脚がぐらついても、ステップの途中でフリーレッグがタッチダウンしても、ポジションがどう見ても美しくなくても、キム選手のエレメンツの質は誰よりも高い加点をもらうに値するほど完成度が高いのだそうだ。キム選手の場合は、別に難しいジャンプを跳ばなくても、どんどん自己ベストがつりあがる。明らかな失敗をすると、つりあがった基準から引き算したような点が出る。試合によって「上げ」「下げ」されてしまう安藤選手とは対照的だ。バンクーバーで浅田選手がキム選手に負けた理由について、読売新聞は加点の違いを取り上げ、「浅田より8.58点も高い加点を得た」と書いたが、キム選手と浅田選手の加点だけを比べるのは近視眼的だ。バンクーバーでのフリーの加点を見ると、キム 17.4点、浅田 8.82点、ロシェット 4.42点ライザチェック 9.64点、プルシェンコ 7.68点、ランビエール 2.58点、チャン 4.6点、高橋 3.2点だった。浅田選手だって、男子の金・銀メダリスト並みの加点を得ている。キム選手1人だけが異常なほど突出しているのだ。この異様な加点を、キム選手がルールに適応した結果だと断言できる思考のほうが、Mizumizuには分からない。むしろ、加点のほうがキム選手に適応してくれたかのようだ。<続く>
2010.07.29
文部科学省が指定する「マルチ・サポート事業」にフィギュアスケートが入ったという報道を読んだ。陸上、フィギュアなどを新指定=マルチサポート事業で文科省 文部科学省は21日、五輪などで活躍が期待される競技・種目を重点支援する「マルチ・サポート事業」の対象に、陸上やフィギュアスケートなど7競技・種目を新規に指定したと発表した。 夏季競技・種目の新規指定は、陸上のほか水泳のシンクロナイズドスイミング、セーリング、自転車、アーチェリー。冬季ではスケート競技のフィギュアとスピードが加わった。既に指定されている柔道、体操などと合わせ、対象は15競技・種目に拡大された。陸上は北京五輪で銅メダルを獲得した男子400メートルリレー、選手層が厚い女子マラソン、ハンマー投げの室伏広治(ミズノ)や、やり投げの村上幸史(スズキ浜松AC)らを想定した男子投てき種目に特化して支援する。 マルチ・サポート事業は2010年度予算で前年度比約6倍の約19億円を投じ、日本オリンピック委員会(JOC)の強化担当者らの意見を踏まえて指定競技・種目を選定。12年ロンドン、14年ソチの両五輪でメダル量産を狙う。 (2010/07/21-16:27)有望選手の多い競技を選抜して資金を投入し、オリンピックでのメダル量産を狙おうということだ。この方向性は正しいと思う。財政状況のよくないなかで、国民生活に直接何も関係ないスポーツ選手強化への予算を増やすなら、「勝てる」見込みのある選手に特化する。当然の話だ。そして、そのなかにフィギュアスケートが入ったことも喜ばしいことだ。「メダルの獲れそうな競技を集中的に強化する」という指針は、マイナースポーツ競技の選手にとっては何もメリットがなく、逆にこうやって差別化されることで、強い競技はより強くなる可能性をもつが、弱い競技はもっと弱くなってしまうという懸念も当然あると思う。思うが、どんな競技にも万遍なく豊富な資金を投入できるわけもない。誰かにお金を出してもらって高みを目指すなら、人より遥かに優れていなくてはならない。「他の人より優れている」では足りない。「遥かに」優れていなければいけないのだ。これはスポーツに限らず、どんな世界でも言えることだ。フィギュアだって、さんざんマイナースポーツで、選手の親は子どもに競技生活を続けさせるために、身銭を切って苦労してきた。伊藤みどりの母は、西武の支援を受けて競技を続けることができた娘を事実上、手放している。アルベールビル・オリンピックでメダルを獲った娘に対面しようとして、あまりにたくさんの人が出迎えたためにそばにもいけない状態になったとき、「あの子はもう、私だけの子ではないから」と言って、遠くから多くの人の祝福を受けている伊藤みどりを見ている姿は印象的だった。よほど卓越した才能がなければ、フィギュア競技を続けることなどできなかったのだ。日本フィギュア界の隆盛は、過去の優れた選手の苦難の集積の上にようやく花咲いたもの。今の日本は世界ジュニアチャンピオンが次々に出るので、日本トップならそれが当たり前のように錯覚してしまいそうになるが、こんな時代が来るなんて、ひと昔前までは信じられなかった。だが、今のフィギュアスケートの状況を見ているファンは、「お金だけつぎ込んでも・・・」という懸念をもつのではないか。Mizumizuもその一人だ。現在の日本のフィギュアスケートの隆盛は、選手やコーチの努力に加えて、優れた才能を早くから発掘しようとする日本スケート連盟の強化策が功を奏した結果であることは間違いない。だが、それはあくまで国内での話だ。話が世界レベル、つまり多分に政治的な意味合いをもつルール策定や運用になってくると、また話は変わってくる。ISU内での「強い勢力」に巻かれて、不公平――というのが言いすぎなら――不合理なルールとジャッジングが暴走するのを止めもせず、あまつさえ後押しをする役割を演じてしまったのが日本スケート連盟ではないか。そうした疑念は、常に、ここ数年のルールとジャッジングを詳しく「監視」してきたファンの間にくすぶっている。ざっと思いつくところから挙げてみても、「ダウングレードによる二重減点」。これが猛威を振るって安藤選手や浅田選手がどんどん点数を落としたとき、日本のスケート関係者の中で、はっきりと異を唱えたのは、日本人ではなく、ベラルーシ出身のニコライ・モロゾフだけだったではないか。「ほんの少しの回転不足が、(多くの場合)転倒より低い点になるのはおかしい」(ソニア・ビアンケッティ)という、ごくごく常識的なことさえ、ほとんど批判する人間はおらず、逆に、「ルールはルール。誰に対しても公平に適用されるのだから、選手のほうが対応するのが当然。それがイヤなら競技を去るべき」などと、このアホらしいルールの肩をもつ人間が出る始末。権力をもつ上層部から言われたことには唯々諾々と従う。従っている自分、さらに批判が起こったら「火消し役」になる自分の姿を、ことさら見せることで、お偉方からの点数を稼ごうとする。これではまるっきり、植民地の小役人だ。選手がルールに対応するように努力するのは当然だ。日本選手は常に文句も言わずにそうしている。だが、非常識な話は、誰が考えたった非常識なのだ。だから、「二重減点」はあちこちから批判され、緩和されたではないか。「ダウングレード判定したあとに、必ずGOEはマイナスにしなければいけない」という二重減点ルールは、「GOEは各ジャッジの自由裁量にまかせる」という曖昧な形で批判をかわそうとした。この曖昧なルール変更は、さらに不合理なジャッジングに拍車をかけることになったのだが。さらに言えば、ダングレード判定が「公平に」適用されていないことも、徐々に明らかになっていった。人間のやることに絶対はない。サッカーのW杯でも、今回ずいぶんと誤審が問題になったが、それはカメラを多数導入し、より客観的・多角的にジャッジングシーンを分析できるようになったことで、人間の目(たとえそれが高度な訓練を受けた人間の目であったとしても)にいかに間違いが多いかを隠せなくなってきたという事情もある。では、フィギュアスケートのダウングレード判定(今季からは回転不足判定と名前が変わったが)は? 楕円形のリンクの上で、あちこちで跳ぶジャンプが「4分の1以上(あるいは以下)回転不足」かどうかなんてことを、たった3人のテクニカルパネルが正確に判定するなんてことが、物理的に可能だろうか? ある程度は可能だろう。回転不足のランディングというのは特徴的で、氷の上に降りてからブレードが「グリッ」と回った感じになるからだ。だが今は、そう見えないジャンプまでダウングレード判定されている。あるいは、明らかに回転不足に見えるジャンプがちゃんと認定されている(それも、ほとんど特定の選手だけだが)。360度のうち何度の回転不足なんてことは、よほど高性能のカメラをリンクのあちこちに配置して分析でもしないかぎり、答えは出せない。誰もが「きれいに降りた」と思う浅田選手の3Aを、やたらとダウングレードされる今の現状は、まったくもって不合理きわまりないが、3Aを跳ぶ女子が彼女だけである以上、他の選手との比較もできないし、仮にミスジャッジングだとしても、「4分の1以下の回転不足だった」と証明する術もない(逆にジャッジングが正しいと証明する術もないのだ)。永遠の水掛け論。こうしたことはたとえば、野球の「ストライクか、ボールか」と言った判断でもあることだが、フィギュアの、それも女子で3回転以上のジャンプが認定されるか、回転不足判定されるかは、野球のストライク/ボール判定の比ではない重さがある。<続く>
2010.07.24
<続く>にもかかわらず、判定に対する客観的・多角的な検証は行われることがないまま、スケート関係者は、「今回は厳しいジャッジでした」などといった言葉でお茶を濁している。実際にDG判定(回転不足判定)を行うスペシャリストのほうは、自分は規定にしたがって自分の判断をするだけで、「前の試合に比べて厳しかったかどうかはわからない」などと言っている。実にお気楽な人たちだ。その判断が選手の一生を左右するかもしれないというのに。女子の3回転ジャンプはそもそも回転不足になりやすい。微妙な不足ジャンプをダウングレードするかしないか。そうやって女子では順位の操作にダウングレードを使うことができる。実際にやっているかどうか客観的に証明することは不可能だが、少なくとも「できる」ことは事実だ。落としたい選手には厳しく取る。勝たせたい選手には甘くする。オリンピックのフリーとトリノワールドで、見た目きれいなフラット選手の3Fがダングレードされたのなどは、その疑いをますます強くさせた。そうやってメダルは配分される。オリンピックではアメリカ男子が価値ある金を獲ったので女子に配分はない。ヨーロッパで行われる選手権女子では、日本・韓国それに欧州選手に1人は花を持たせるために、アメリカ女子にはやはりメダルは来ない。こうした仮説が妙に説得力をもつ結果に、ちゃんと終わるのだ。フラット選手は表立って抗議をしていないが、それはジャン選手のようになってしまうことを恐れているのかもしれない。ヨーロッパの某女子選手が、「私のジャンプは問題なかったのに、ダウングレードされた」という発言をした(個人的にはそのジャンプはやはり回転不足気味で、以前の試合でDGを取られなかったほうが意図的なものを感じるのだが)が、つまり世界トップで競っている女子選手は、順位操作にダウングレード(今季から回転不足判定)が使われているということを「内心ではわかっている」と言って言いすぎなら、「大いに疑っている」ということだろう。ダウングレード判定の問題点は、こうした判定のあやふやさに加えて、点が落ちすぎるということだった。これに対して抗議の声が大きくなると、今度は慌てて、「ダウングレード判定は2分の1回転不足以上」とし、かわりに「4分の1~2分の1不足の場合は回転不足判定で70%の基礎点を与える」という、またまた筋のとおらない細かな規定を作ってきた。70%基礎点というのは、事実上の「中間点」だ。何度も言うが、少しだけ回転の足りない3回転ジャンプというのは、「質の悪い3回転ジャンプ」なのだ。それを2回転ジャンプの点にしてしまうのは、どう考えたって非常識だ。それをさんざんゴリ押ししたあげく、オリンピックが終わるとあっさり引っ込めた。だが、やや回転不足の3回転ジャンプは、あくまで3回転ジャンプであって、「3回転ジャンプの70%の価値をもつジャンプ」ではない。かりにそうした概念を作ってしまったら、そのジャンプに対する質(出来栄え)を評価するGOEがどんな意味をもつのか。ますますねじくれて理屈が通らなくなる。ジャンプの基礎点、および加点・減点の反映割合についてもそうだ。今回の改定で、Mizumizuが過去に提言したとおりに改定された。つまりこれまでの基礎点やGOEの反映割合に問題があったことをISUは認めたことになる。問題がなければ変える必要はない。だが、改定されたとは言え、3Aの基礎点アップはわずかで、これでは演技構成点を少しいじれば意味がなくなってしまう。ルッツに比べてフリップの基礎点が下がり、女子ではルッツの重要性が増した。きれいなルッツがトリプルアクセルの点を上回るという本末転倒な現象が横行することも、3Aの基礎点アップとGOEの反映割合の抑制によってかなりなくなったと言えるが、それでも3Aが不完全とジャッジに判断されれば、ルッツ以下の価値になってしまうという理不尽は払拭できていない。つまり運用次第で、トリプルアクセルの価値はかなり操作できてしまうのだ。4回転のほうはずいぶんと価値が上がった。これは「女子の3Aに対する過小評価」よりも、「4回転に対する過小評価」に対する抗議の声が大きかったせいかもしれない。これはプルシェンコの功績が大きいだろう。ストイコのような名選手が、外野から声をあげたことも後押しになったかもしれない。では、日本は? わずかに本田武史が個人的見解として、女子のトリプルアクセルの価値はもっと高くあるべきだと言った程度。4回転に関しては、挑戦をあおる風潮はあったが、そのリスク(少しでも失敗したときのGOEの減点の苛烈さ)について、言及した人はほとんどいない。これも過去に本田武史が非公式の場で、「4回転を跳ぶというのは、それだけでリスク(転倒および怪我のリスクという意味)を負っているのに・・・」と、挑戦してもわずかに失敗すると意味がなくなってしまうような現行の採点システムを暗に批判しただけだ。今回のルール改正で、ダブルアクセルのフリーでの回数が3回から2回に制限された。基礎点も下がった。これも、Mizumizuがとっくに言ってきたことだ。ダブルアクセルへの加点で、その3段階も上のトリプルループに匹敵するような点が出るのは、明らかに非常識だ。3回転に近い基礎点で、3回転と同じようにGOEがそのまま反映され、3回転以上の回数を入れることができるなど、そこまでダブルアクセルをお得なジャンプにしておくのは、筋が通らない。今回のルール改正は、非常識な部分がやや常識的になっただけだ。国際的な組織のなかで、個人のプレゼンスを高めるため、あるいは何かしらの利益を得るために、自国を貶めるようなことをするのはもってのほかだが、実際には政治の世界ではこうしたことはよくあるのだ。歴史的に見れば、国益などそっちのけで外国勢力と手を結び、私腹を肥やすことにのみ奔走した清朝末期の高級官僚がその例としてよく挙げられる。日本という国は今どこか、清朝末期に似てはいないだろうか。政治も、メディアも。スポーツの世界までそうなってほしくないが、政治やメディアと無関係でいられない、現在の商業主義的スポーツ競技のなかから、清朝末期の官僚の亡霊がこの日本で跋扈しても、残念ながらまったく不思議ではない。バンクーバーオリンピックでも、メダルを多く獲得した韓国と比較して、「選手より関係者の数が多い日本」などと揶揄された。こうした「関係者」は、本当に「選手のために」働いているのだろうか? 自分たちはそのつもりだろう。だが、自分たちで自負するだけでは意味がない。本当に選手を勝たせるためには何が必要か。記録競技と採点競技ではアプローチが違ってくるはずだ。にもかかわらず、日本は採点競技も記録競技と同じように考えている。それは完全に間違っている。採点がからむ競技は、ルールで強い選手を作ることも、強い選手を弱くすることもできるのだ。日本スケート連盟の関係者は、フィギュア競技で選手が「正当な結果」を出し、選手やファンからも、「選手のために働いた」と認めてもらう努力をすべきではないか。連盟が身内にそもそも甘い内部の人間や、彼らにおもねる外部の身内の理屈で動いている限り、ソチでもまた日本選手が理不尽なルールの包囲網に泣くことになる。投入する資金を、本当に選手のために使うこと。ルール策定の裏にある思惑を見抜き、自国選手の不利にならないように働きかけ、ジャッジが常に公平にジャッジングしているかを、自国の立場で監視すること。W杯で日本人審判は、おおむね公平だと評価が高かったと思うが、こちらの記事によれば、ブラジルチームの監督は、試合中常に審判にプレッシャーを与え続けたという。ただ試合中は別。相楽副審はブラジル戦の前半、ドゥンガ監督から日本語で「間違っている!」と言われ続けた。どのベンチ、選手も気迫十分で「押しつぶされそうだった」と振り返った。表向きは、不公平なジャッジングへの抗議だが、こうした行為は、はっきり言えば、「自分たちに有利なジャッジングをしろ」あるいは少なくとも「自分たちの不利なジャッジングはするな」という働きかけなのだ。実に当然の行為だ。審判も人間、機械でも神でもない。人間が判断というのは、さまざまな周囲の状況に左右される。フィギュアでそれをやったのが韓国だ。プレOPシーズンからすでに、キム選手への不利な判定(エッジ違反や回転不足)が出ると、メディアをあげていっせいにジャッジを非難した。オリンピックシーズンには、スケート連盟会長が、「キム選手に不利な採点がなされないよう、スポーツ外交に最善を尽くす」と明言した。オリンピックでは直前まで、メディアが審判の公平性に疑いの目を向け続けた。日本は? そのどれもやらなかったのだ。あの呆れたトリノワールドのキム選手へのフリーの採点についてさえ、プロトコルを解説して、ジャッジの判断を後付で説明しただけだ。あの演技でどうしてあんな点が出てしまうのか。そこに疑念をもつまっとうな批判精神が日本のメディアには欠如している。Mizumizuのフィギュア関連のブログは、もともとはプロトコルを分析して、そこから選手の課題を見つけ出す作業をしていた。それが意味を失ったのは、何度も言うがロスでの世界選手権だ。GOE(加点・減点)と演技構成点の恣意的操作。これができてしまうのが最大の問題点だった。だから、今回のルール改定では、その点が多少改善されたのだ。それなのに、とっくに意味を失ったプロトコル、さらに言えばルールがすぐに改定されてしまうことがわかっている試合でのプロトコルの見方をやっと覚え、紙の上でのキム選手の高得点を納得しても意味はない。韓国のメディアはとっくに、「浅田真央の(エッジ矯正後の)ルッツジャンプに加点がつくのはおかしいという意見があった」などと、ジャッジの判断そのものを批判していた。ジャンプVS表現力で勝負を説明するような、時代遅れの感覚しかもっていない日本のメディアよりよほどルールを知っている。韓国メディアの狡猾なところは、ルールを知った上で、そこに主観(というより虚偽に近い。それが無知からくる誤解なのか、承知の上での確信犯なのかはよくわからないのだが)を混ぜ、日本選手への採点を常に批判することだ。今回のルール改正も、「浅田1人のためのルール改正」などと非難している。実際には、浅田選手に有利な部分というのはそれほどない(例のショートでの単独3A導入については過去に書いたように、必ずしも浅田選手にとって「有利」にはならないと思う。せいぜいこれまでの不利な部分が是正された、程度の話だ)にもかかわらず、あたかも日本が政治的に暗躍し、ルールをゆがめたような書き方だ。実際にルールをゆがめたのはキム・ヨナ選手だ。ダブルアクセルへの過剰評価も、GOEでバカげた点を稼ぎ出すのも、キム選手特有の話だ。それがあまりに暴走した結果が、トリノのフリーの点であり、いいかげん手を打たざるを得なくなったのだ。だが、韓国のメディアにそうした視点はまったくない。こうした韓国の態度が好ましいとも正しいとも思わないが、少なくとも日本人も、「ルールは絶対、ジャッジは公平」などというむなしい神話からは、目を覚ますべきだ。
2010.07.24

日常レベルのウマイもの屋が目白押しの西荻窪。個人で小さく経営し、コアなファンが通って支えている・・・そういう店が多い街。だが、喫茶店「ソレイユ」は、ちょっと違うかもしれない。いつ通りかかっても混んでいる。客層もバラバラで、みな食べたり飲んだり新聞や雑誌を読んだり、勝手にくつろいでいる。西荻といえば、「坂本屋」のカツどんとか(残念ながら現在、長期休養中)、「ぷあん」のカオソイとか、客のほとんどが「それ」を頼むといった一品名店が多いが、ソレイユはそういった店ではない。レトロな内装で、飲み物も出すが、カレーやサンドイッチやスパゲッティも食べられる。つまりは、昔よくあった典型的な喫茶店なのだ。とにかくここは、メニューが豊富。日本人ならたいてい好きな軽食類に加え、ケーキもケースにずらりと並んでいる。すべて昔風のジャンボサイズ。コーヒーは水出し。店内のあちこちに螺旋状のガラス管を備えた丸いフラスコが置いてある。カレー星人Mizumizuがここでよく頼むのが、「チーズカレー」。容器といい、チーズのとろけ具合といい、グラタンのよう。下にややオシャレながら、「ふきん」が敷いてあるところなど、実に家庭的。味も家庭的で、近所の料理上手なお母さんが作ってくれた、ひとひねりあるカレーという感じ。下にぎっしりライスが敷いてあり、ボリュームも満点。どちらかというと若者向けの料理かもしれない。糸を引くチーズをカレーソースと一緒に食べるのが幸せ。最後に皿の上のあたりについたチーズをこそげ取って食べるのも幸せ。オーブンで焼かれてコクを増したチーズ君が、量はちょっぴりながら皿にへばりついて、「ボクはここにいるよ。忘れないで食べて。美味しいから」と言っている(←あ~あ、ここのところの暑さで、ついに・・・)。水出しのコーヒーを使ったコーヒーゼリー。ガラスの器の下に重ねて敷いた透けた和紙のセンスがまた、家庭的でかわいい。味だけだったら、山の上ホテルの喫茶店の水出しコーヒーゼリーのほうがだんぜん上だと思うが、あちらはクルマで行かなければいけない。こちらは、自転車ですぐ。その気安さがいい。豪華(笑)アイス付きコーヒーゼリーロワイヤルもある。手書きのこういったメニューにもセンスを感じる。街全体に手作り感溢れる西荻らしい喫茶店。西荻窪は、吉祥寺から一駅なのに、若者のおのぼりさんでゴッタ返すあの街とは空気が全然違っている。ゆるゆるとした時間が流れる、どこか東南アジアちっくな西荻を、Mizumizu+Mizumizu連れ合いは偏愛している。
2010.07.21

最近デパートでは地下の食品売り場しか賑わっていないように見える。洋服や宝飾品売り場はいつもガラガラ。大丈夫なのかと心配になる。かく言うMizumizuもデパートで一番よく買う場所は、地下の食品売り場。日本中のみならず世界中から集まった「美味しいもの達」は、見て歩くだけで楽しい。惣菜や弁当の類もたまに買うが、その中でもチャンピオンの座を与えたいのがこちら。やはり和牛の美味しさは格別。甘辛く味付けした薄い牛肉とタレが少ししみ込んだご飯を一緒に食べる幸せは、日本人にしかわからないのかもしれない。今年起こった口蹄疫問題で、「種牛」がどれほど貴重か、自らを「牛飼い」と呼ぶ畜産業者の皆さん(しかも、その多くは小規模な個人経営だ)が、どれほど手塩にかけて優秀な種牛を育て、美味しい和牛を提供してくれていたのかが一般に深く認知されることになったと思う。単に、「国家的危機だから、早く殺せ」で割り切れる話ではない。農業国フランスでも感じたが、美味しい食材は、長い年月をかけてノウハウを積み重ねて世に出てくるもの。しかもその多くは少量生産、つまり小規模農家が作っているのだ。美味しいものは大量には作れないし、1度その伝統が断ち切られると、将来の被害は想像以上に甚大で、取り返しのつかない結果になりかねない。常に「他人へ迷惑をかけないこと」を最優先させる日本という国だから、「すべて一律に強制的に殺処分」という結果を一般人も農家の方々も受け入れたが、ふとフランスだったら別の視点を優先させたかもしれないとMizumizuは思った。これでもかと入っている肉、肉、肉・・・ お世辞にも健康的とは言えない弁当だが、炒めた玉葱ばっかり目立つエセ「牛めし」とは一線を画す、どこまでも贅沢な逸品。冷えていても美味しいのが不思議。1度は食べてみる価値あり。東京の有名デパートの地下にはたいてい入っている(ように思う)。
2010.07.19

東京に進出するフランスの有名ブーランジェリーは、たいてい数年で賞味期限切れになる。最初はめいっぱい力を入れて、本店以上のものを提供するのだが、そのうちに、ナッツ類をねりこんだパンならナッツをケチるようになり、チーズをかけたパンならチーズをケチるようになる。天然酵母の保存もいい加減になるのか、パン生地そのものの味も落ちてくる。焼き具合も適当になり、いかにも大量に作って大量に売らんかなの態度に。さらに、パリではおよそ見ないような日本人好みのふにゃっと柔らかいパンが増える。だいたいこのルートをたどることになるのだが、赤坂サカスの「ドミニク・サブロン」はまだ、フランス人の定義する「高級ブーランジェリー」の味を保っている。まずはクロワッサン。パターの上質感が明確にわかる味。バターはたっぷりなのだが、決してアブラっぽくなく、噛み締めると甘い風味が広がる。これぞクロワッサンでしょう。近所にあれば、できたてが食べられてなおいいのだが、残念ながらその贅沢は赤坂近辺に住んでいる人たちの特権だろう。プティパン・ビオ・オ・ノア・エ・レザン。長ったらしい名前だが、要はクルミと干し葡萄を練りこんだパン。クルミもレーズンもこれでもかというくらい入っている。この状態、何年続くことやら? そのうちナッツも干し果物も量がガタ減りにならないといいのだが。ナッツと干し果物が大好物のMizumizu連れ合いは、このパンの大ファン。「果物はやっぱり、干したものがウマイよね」などと言う日本人、Mizumizu連れ合い以外では会ったことがない。この台詞を聞くたびに、横で「果物は生が一番ウマイでしょ」と思うMizumizu。ちなみに、Mizumizuには2人弟がいるのだが、下の弟(つまり末っ子)は、干し葡萄が大嫌いだった。子どものころ、干し葡萄の入っているお菓子が出ると、葡萄だけほじくり出して食べているのを見て、ガクゼンとしたことがある。レーズンだけバクバク食べる気にはならないが、アクセントとしてはいい味だと思うし、レーズン出しちゃったら、味が平板になると思うのだが・・・ そこまで嫌う理由がわからなかった。Mizumizuファミリーであそこまで干し葡萄を嫌っていたのは末っ子のみ。同じ家系で、同じ物を食べて育つのに、どうしてこういう差ができるのか。食べ物の好き嫌いは、まったく理屈では説明できない。ルヴァン種の天然酵母を使ったバゲット。非常に酸味が強く、Mizumizuは大好きな味。日持ちがするので、翌日はより深みのある味が楽しめる。歯ごたえもよく、噛んでいると顎が疲れるほど。噛めば噛むほど味が出る。こういうのがフランスのパンだと思う。年を追うごとに「エセ」になりさがっていく、東京進出した他の多くのパリの名ブーランジェリーの轍を踏むことなく、正統なフランスのパンの味を提供しつづけてほしいもの。ちなみに、例によって東京進出直後は長蛇の列が出来ていたようだが、今は休日でも並ばずに買える。本当に、日本人は飽きるのが速いなあ・・・
2010.07.18

以前は吉祥寺にあったインドカレーのMOTI(モティ)。ここのバターチキンをランチでオトクに食べるのが好きだったのだが・・・ずいぶん前に吉祥寺から撤退してしまい、今MOTIを食べるなら赤坂まで行かなければならない。しかもバターチキンはオトクなランチセットメニューから外れてしまい、単品で注文しなければいけなくなった。バターチキンは恐らく一番人気だっただろうから、お店としてもランチで提供するのはもったいないと思ったのか。赤坂近辺はMizumizuにとっては行きにくい場所。赤坂といえばTBSだが、あのあたりは、駐車場が高いのだ。しかも、週末になると、タレント目当てなのか、おのぼりさんでごった返し、赤坂サカスが銀座のような人出になることも。赤坂は基本的に飲食店街なので、銀座ほど多種多様な店があるわけでもなく、昼間歩いて楽しめる街でもないと思うのだが・・・クルマ移動が基本なMizumizu+Mizumizu連れ合いにとっては、距離的に遠くても、日本橋三越で2000円買えば5時間置ける、太っ腹な日本橋本町駐車場のほうが使い勝手がいい。しかも、この駐車場、週末だろうと祝日だろうと、時間帯がいつだろうと、必ず並ばずに駐車できる。デパートの駐車場に停めるために1時間待ち・・・などというのは、Mizumizuには面倒すぎる。そんなこんなで、MOTIからは足がすっかり遠のいた。それでも赤坂に用事があるときなどは、寄ってみたくなる。しかし、赤坂というところは、美味しい店が多いエリアでもあり、赤坂に来たら、じゃMOTIというわけにもいかないのだが・・・久々に食べたバターチキン。AMAにキングの座を明け渡したとはいえ、クイーンの座には留めておいてもいい味。バターの濃厚で重厚な味わいと、ほのかな酸味。それから、食べ終わることになると塩を強く感じる。しかし、量が多い・・・(最近、こればっかり)。重いカレーソースなので、最初は美味しいのだが、食べ進むにつれて、味に飽きがくる。ちょうどフランス料理のバターこってりのソースのよう。適量なら感動できるのだが、大量には食べられない。カレーの奥に鎮座してる犬の落し物(笑)みたいなのは、シークカバブー。肉の臭みと強烈なスパイスのハーモニーは、Mizumizu連れ合いの大好物(実は、Mizumizuには、ちょっとキツすぎて、ダメなのだが)。MOTIは、 東京ではインドカレーの老舗的存在だと思う・・・のだが、最近はもうどこにでもこの手の店ができてしまって、差別化しにくくなったのが、気の毒なところ。場所は赤坂見附と赤坂のTBSの前、それに六本木にもある。バターチキンの味は・・・実は、味には多少ムラがあるように思う。店によって、というより日によって。塩の量が多かったり、少なかったり。 インドレストラン モティ 東京都港区六本木6-2-35 ハマビル3F - 03-3479-1939 インドレストラン モティ 赤坂TBS前店東京都港区赤坂2-14-31 金波ビル3F 03-3584-6649 インドレストラン モティ東京都港区赤坂3-8-8 赤坂フローラルプラザ2F 03-3582-3620
2010.07.17

妙に気に入って、何度もリピートしてしまうモノがある。Mizumizu+Mizumizu連れ合いにとっては、サンドイッチハウス「メルヘン」の甘夏クリームサンドがその典型。首都圏各地の有名デパートに入っていて、近くを通りかかるとついつい買ってしまう。クリームに果物をはさんだものは、ほかにも定番の苺やブルーベリーなど種類も豊富なのだが、酸っぱいなかに苦味のある甘夏とクリームの、一見ミスマッチな組み合わせが妙に気に入ってしまった。パンが素晴らしく美味だとか、クリームが上質だとか、特別な甘夏を使っているとか、そういった面倒な話は一切なし。ただ、薄切りの柔らかいパンに、噛み締めると苦味がじわっと広がるな甘夏と、そのフレッシュな酸っぱさを和らげてくれるクリームが挟んであるだけだ。シンプルだが、ほかのサンドイッチ屋ではあまり見ない組み合わせ。この商品を開発してくれた人に感謝したいくらい。
2010.07.16

地下鉄・神保町駅A6出口から徒歩1分。岩波ホールの裏の路地にある古ぼけた建物、神田古書センタービルの2階。およそ人が集いそうもない場所にあるのが、欧風カレーの店「ボンディ」。行くのはいつも週末なのだが、いつ行っても混んでいる。時には行列ができていて驚くこともある。建物の外はがらんとしている日曜日でも、やっぱりここだけは人がいる。いったい、なんでこんなに人気なのか?こちらはビーフカレー。とけこんだ野菜の甘みに、フルーツの酸味の活きたカレーソース。エスニックが苦手な日本人にも嫌われないであろう、上品なスパイス使い。複雑で深い味だが、個人的には、「フルーツ系のカレー」と言いたいくらい、フルーツの爽やかさを特に強く感じる。確かに個性的で手をかけたカレーだが、正直に言うと、「絶品」というほどでもないと思うのだ。衝撃的な絶品カレーを期待して行くと裏切られるだろう。だが、よく混んでいる。客層もなにも学生だけではなく、おじさんだけではなく(近所のキッチン南海は完全におじさんの園)、女性も男性も、若者もシニアも、ありとあらゆる世代が来ている。値段はというと、カレー1人前で1350円と、学生の街にしては、決して安くはないのだ。昔からやっているカレー屋のせいか、カレーソースはさほど辛くない。「中辛」だとご飯があまるくらい。なにしろ、ここはご飯の量が多い。気取ったところだと、「いくらなんでもご飯が少なくないですか?」と文句を言いたくなるような店も多い最近の日本だが、ここは、「こんなによそっていいんですか?」と、少し驚くほどの量。このご飯を食べつくすために、Mizumizuは必ず「辛口」にしてもらう。うう~ん、ということは、辛さは自分で選べて、しかも基本的に辛すぎず、ご飯のボリュームが凄いことが人気の秘密なのか?しかも、ここは、カレーを注文すると、バターつきのジャガイモが出てくるのだ。写真は2人分。つまり1人に2個!ご飯もぎっしりで、そのうえジャガイモまるまる2個食べるって・・・・(苦笑)。炭水化物地獄じゃありませんか?このジャガイモは余計だと思うのだが、どうやらそう思っているのは、Mizumizuと、Mizumizuの比でなく炭水化物攻めが苦手なMizumizu連れ合いだけのよう。若い女の子も、簡単に(そう見えるだけか?)完食している。ジャガイモだけコソコソお持ち帰りするのは、Mizumizu+Mizumizu連れ合いだけのよう。だって、残すのはもったいないし。うう~ん、握り飯でお腹をいっぱにする国民性ゆえなのだろうか。ご飯+ジャガイモ2個という炭水化物系の多さが気にならないとは?ちなみに、ジャガイモの味は悪くはないです、もちろん。でも、ジャガイモはジャガイモだし・・・ベースになるカレーソースは一種で、辛さを変えているだけだと思うが、定番のビーフやポークやチキンに加えて、エビとかアサリとか、チーズとかミックスとか、メニューが豊富なのも、ここの特長。うう~ん、このメニューの豊富さが幅広い層にアピールするのか?ちなみにこちらは野菜カレー。なすやらオクラやらプチトマト、いろいろな野菜がこれでもかと入っている。非常にヘルシーなのだが・・・実はオクラが苦手なMizumizuには、ソレが邪魔で・・・ 苦手な野菜の多い人は避けたほうが無難か。というわけで、個人的にはここまで大人気になる理由がいまいちわからないのだが、そう言いながら、しばらくすると不思議とまた食べたくなる。これぞ「秘伝のスパイス」の妙技なのだろうか。切れると禁断症状を起こすヒミツのスパイスを入れてるのかもしれない(まさか!)。「ボンディ」千代田区神田神保町2-3神田古書センタービル2FTEL : 03(3234)2080【送料無料】初めてのお客様限定!伊達鶏キーマカレーお試し大特価セットギフトにどうぞ!【プレミアムシリーズ】4種類セットにしき屋のプレミアムセット(各1食ずつ)【ギフト】期間限定セール☆【新】にしき屋の牛たんカレーセット6食入り(無添加)送料無料で、お買い得☆伊達鶏キーマカレー4食入
2010.07.16

カレーの激戦区、西荻。インド風、マレーシア風、欧風(という名の和風?)・・・とあらゆるジャンルのカレーが凌ぎを削っている、カレー星人の聖地(←意味わからん)。人気店はいろいろあれど、気がつくと同じ店に何度も通っている。カレー専門店でMizumizuが一番よく行くのは、ネパールカレーの店「AMA」。インドカレーより甘みが深く、どこか優しい味のするネパールカレー。「AMA」を知って以来、いつの間にかインドカレーの店から足が遠のいた。中でもMizumizuがよく注文するのが、バターチキンカレー(中辛)とチーズンナン。かなり生っぽいラッシーも、インパクトがある。見た目はシンプルだが、実はかなりヘビーな組み合わせ。チーズナンがずっしりと胃に来る。4つ切りのナンが4枚並んでいるのだが、2枚以上食べられたことがない。当然余ったナンはお持ち帰りに。冷えてしまうと・・・まあ食べられないことはないのだが、当然ながらナンが湿気てしまい、風味はかなり落ちる。カレーも全部食べられないことがしばしばで、同じくお持ち帰りにしてもらう。こちらは温め直せば、さほど悪くない。食べきれないなら普通のナンにすればいい・・・と理性(?)ではわかっているのだが、お餅めいた食感のチーズナンは、はまってしまうとなかなか抜け出せない。チーズの風味自体はさほどないのだが、とろけたチーズとふわりとしたナンの食感のハーモニーがなんともいえない。バターチキンカレーのほうは、ほとんど偏愛していると言っていい。以前好きだったのは、吉祥寺・モティのバターチキン。ところがモティが吉祥寺から撤退してからは、なかなかストライクゾーンにばしっと入ってくるバターチキンに巡り合えなかった。AMAのバターチキンは、モティ撤退で空いた玉座に見事に鎮座してくれた。バターの深い香り、トマトの酸味、スパイスの妙・・・ それらを邪魔しない、鶏肉の淡白な風味。こちらはお得感のあるセットメニュー。Mizumizu連れ合いが必ず注文するのは、マトンカレー。Mizumizuはマトンを好まないので、感想はなし。Mizumizu連れ合いは大いに気に入っているよう。 AMA杉並区善福寺1-1-2103-3397-1344
2010.07.15
「財源はあるんです」と空手形を切って政権を奪取した民主党。実際に政権運営に当たってみたら、「ある」と言い張っていた財源はやはりなかった。ないにもかかわらず、子ども手当てなんていうバラマキを、借金してまでまだ続けている。このまま行ったら財政破綻、だから消費税アップ。思ったとおりだ。ないものを「ある」と言い張り、次の世代が払うことになる借金を積み重ねてバラマキを続けたら、それ以外道がなくなるのは、とっくに見えていたはずだ。5%という税率は、食料のような日常必需品にかかる税金としたらもともとすでに高いのだ。一方で贅沢品にかかる5%という税率がヨーロッパの先進国に比べて安いのは、確かなこと。日本の所得税も、高福祉を掲げるヨーロッパの先進国に比べたら安い。それは認めよう。所得税も贅沢品にかかる消費税も安いのに、ヨーロッパの福祉先進国なみのサービスを提供しようとしたって、無理な話だ。それもわかる。しかし・・・消費税ばかり言われるが、自分個人にかかっているいろいろな税金を考えると、それだけでかなりアタマに来る。家を買えば・・・固定資産税、都市計画税車を買えば・・・自動車税、重量税(かかってくるのは2年に1度だが、毎年払ってるのとどう違うというのか?)会社を作れば・・・法人税(会社が赤字でも取ります)、消費税(これはクライアントが負担してるものと言えばそうだが、そのために発生する事務経費はこっちもちだ。消費税のプラスマイナス計算は、ハッキリ言って税務の素人には無理)それとは別に個人に・・・所得税、都民税さらに何かというとかかってくる印紙代。あれだって租税公課だ。個人=会社のような小さな組織の場合は、法人税と所得税を別々に納めるのは、ある意味で、「2重取り」されているような気分になるのだ。これは、経験者なら頷くだろうと思う。ある程度稼げていれば、法人税と所得税を払うことに違和感はないかもしれないが、商売が傾いてくると、非常につらい。さらに個人の能力に依っている事業というのは、たいてい「いいとき」が長続きしない。元競輪選手の中野 浩一氏が、「あのころ(競輪選手として無敵の強さを誇り、稼ぎまくっていたころ)に納めた税金を返してほしい」と言っているのをテレビで聞いたが、本当に気持ちはよくわかる。スポーツ選手はその典型だが、スポーツに留まらず、個人の才能で稼ぐ仕事は、うまくいったらいったで、いつ「売れっ子時代」の幕が下りるのか、常に不安につきまとわれる。人間の能力というのは、一生を通じて均等に発揮されるわけではないのだ。また、Mizumizuの会社は資金調達のために社債を発行した。暴利をむさぼる銀行に借りるのがイヤ(まあ、向こうだって貸したがらないだろうが、こっちだってはなっから願い下げだ)なので、そうしたのだ。社債を発行して資金を出してもらったのは親族だが、そのために利子をつけるのは、相手が親族だし、銀行の利子より低めに設定したのでいいとしても、利子課税が20%って、何ですか?20%ですよ、国民の皆さん。今、銀行の預貯金の利息なんて二束三文だと思うが、そこから20%も取られている。天引きだから意識していないだけで、せめてその利子が10%だったら、まだ利息として受け取れる現金が増えるじゃありませんか。さらに言えば、サラリーマンは所得税を勝手に天引きされている。なのに、年末調整でお金が戻ってくると嬉しがったりする。おかしーでしょ。もともと自分が払うべき税金だ。なんで勝手に天引きされてることに疑問をもたず、取りすぎた分を返してもらって喜ぶのか?さらに愚かしいのは、借金をしなければ家を買えない貧乏人が、「ローン審査が通った。貸してもらえるのは、私(夫)の信用が高いから」などと、誇らしく思っている姿だ。お金を貸してもらえたことが何で自慢になるのかわからない。ローンを組んで家や車を買う庶民など、金貸しにとってはただのいいカモだ。もともとの価格以上のお金を自分で払うことになるのがローンというものではないか。払えなくなったら取られてしまう。それじゃ、自分のものじゃないでしょう。「ローン審査」などと仰々しく言い、それに通ったらひとかどの人間のような錯覚をさせる。本当はお金がないから、欲しいものを手に入れるためには借金をしなければいけない。それだけの話から目を背けさせるための金貸しのペテンだ。そして、何年も利息を払い続ける貧者は、借金があるゆえに、いつまでも貧者に留まる。そのうえ、「家を持っている」「車を持っている」と言って、そこから国にさらに税金を取られるのだ。これじゃ死ぬまで貧者だ。もともと1人で始めた仕事が増えてしまって、今ではMizumizuはフリーランスの方に仕事をお願いすることも多々ある。というか、仕事が増えるにしたがって、税金にからむ事務が増えてしまい、本業ができなくなったのだ。おかげで個人としてのスキルは落ちる一方。「経営」と言えば聞こえはいいが、小さい会社の経営なんて、要は事務屋。外注費を支払う際に義務付けられている源泉預かりなんてものも、事務手続きをやってるこっちにすれば、まったくもって時間と労力の無駄以外のなにものでもない。他人の税金を預かり、半年ごとに計算し、いちいち税務署に納めに行く。バカにしてませんか? 取りすぎた分は申告にしたがって後から還付。こうやって毎年毎年、非効率な儀式が繰り返される。天引きなんてやめて、申告ベースで個人に納めさせれば、1度で済む話じゃないのか?「消費税をプールしておくことのウマミ」については過去にも書いたが、もう1度言うと、何かを売上げ、消費税を顧客に払ってもらったら、会社はそれをいったん金融機関にプールすることになる。そして所定の時期に経費計算したうえで必要額を払う。右から左へ納めるわけではない。すると、どういうことが起こるか? プールしている消費税は金融機関に置いておくわけだから、それに対して金利がつくのだ。Mizumizuみたいな小さな会社にはほとんど関係ないほどの微々たるものだが、これがトヨタのような大会社になったらどうだろう? 間違いなく、消費税をプールしている期間に、相当金利で儲かるはずだ(たとえ20%国に取られても・笑)。財界がさかんに消費税アップを求めるのは、大きな会社にとって消費税は、目に見えにくいウマミがたくさんある税制だからだとMizumizuは思っている。表向きは「国の社会保障がもたなくなるから」だが、そう言いながら「国際競争力の観点から見て、法人税は下げるべき」などと主張する。結局自分たちの生き残りが大事で、全然国民のことなんて考えてないじゃん(苦笑)。家や車は持ってるから税金がかかるのであって、持てない人間よりいい・・・と言う人もいるだろう。それは基本的に「持てない者」の理屈で、「持っている者」は、それに対する税負担に常に不満で、不公平だと思っているものだ。キャッシュを生まないアセットに課税されることは誰にとってもキツイ。だから、資産家になればなるほど、脱税に興味をもつ。国のほうは、「持てない者」が「持っている者」に対して抱く敵愾心を必ず煽ろうとする。「XX(有名人や資産家)が脱税」というニュースが、実際には税法の解釈の相違から生じたことであっても、おかまいなしに大々的に報道されてしまうのは、そうした裏があるとMizumizuは思う。「脱税」のレッテルを貼られると、社会的信用が一挙に失墜する。こうやって国民は分断され、「持てない者」と「持っている者」が共闘して国家による合法的追いはぎ行為を抑制することは不可能になる。実にうまく出来ている。
2010.07.14

銀座の松屋デパートの地下で、なにげなく入ったコーヒーショップは意外にも相当のアタリだった。「ギンザキャフェ」というレトロなネーミング。場所はうっかりすると通り過ぎてしまうようなデパ地下の隅。豆を売る店の奥にあり、カウンターだけでテーブル席はない。カウンターの向こうの壁際に、なんとかスペースを見つけて置いた・・・というふうな水出しコーヒーの器具を見て、頼んでみた。苦いのにさっぱりした水出しコーヒーは、Mizumizu+Mizumizu連れ合いの好物。水出しコーヒーを売り物にしているカフェは、東京ならわりあいどこにでもあるが、水出しならすべからく一定に美味しいというわけではもちろんなく、好みに合うものと合わないものがやはり明確に分かれる。ギンザ・キャフェの水出しコーヒーはMizumizu+Mizumizu連れ合いの嗜好にピタリ。おのぼりさん相手で、高いばかりでダメダメなカフェも多い銀座だが、ここは意外にも本格派だ。さらに驚いたのは、コーヒー風味のソフトクリームが、相当の高レベルだったこと。札幌に長期滞在したことのある身からすると、東京のソフトクリームのレベルは絶望的だ。どうしてどこもここも、ああもアメっぽく、しつこい甘さのべっとりしたソフトクリームしか出さないのか。札幌近郊なら、江別の「まちむら農場」のソフトクリームが最高だった。ところが、この「まちむら」、千歳空港にも東京の新丸ビルにも店を構えてソフトクリームを出しているのに、味ときたら、江別の農場の牛舎のそばで出すソフトクリームとは雲泥の差。同じ農場が作ってるソフトクリームなのに、なんでこんなに違うのか、理由を教えてほしいくらいだ。江別の「まちむら」のソフトクリームは一言で言うと、「水っぽい」。水っぽいというのは普通は褒め言葉ではないと思うが、ソフトクリームに関しては、それだけフレッシュでみずみずしいという意味。不純な甘さが舌の上にまとわりつくことなく、さっぱりと爽やか。その味は、まさにフレッシュミルクの恵みそのものだ。その分、非常に溶けやすいのが難点。風にちょっと当たると、もうスルスルと溶けていく。あの「もち」の悪さが、まちむらのソフトクリームの美味しさを江別限定にしているのかもしれない。ギンザキャフェのコーヒー風味のソフトクリーム(店での正式名称は、ブルーマウンテンブレンドソフトというらしい)は、あの江別の「まちむら」のソフトに一番近いのではないか。新丸ビルの「まちむら」のソフト以上に(苦笑)。非常に溶けやすく、水っぽい。立って食べることを前提としたスタンドショップでは提供しにくいかもしれない。味がブルーマウンテンかどうかはよくわかないのだが、コーヒーショップの出すソフトらしく、コーヒー風味が邪魔にならず、非常によく甘さと調和している。これは、ヒットだ。ヒットと言えば、同じ松屋・銀座に入っている「タントマリー」。湯島にある小さなお菓子工房だ。こちらの記事ですでに紹介したが、ノルマンディのAOCカマンベールを贅沢に使った、「カマンベールチーズケーキ」が最大のヒット商品で、松屋でも売られている。まったく甘くないチーズケーキ。ホールで買うと、1日目は確かにチーズ臭く(チーズの香り、ではなくチーズの臭いが確かにあるのだ)、2日目には少し落ち着く。その変化もチーズ好きにはたまらない。タントマリーはやはりこれが最高だが、他のケーキも素材のよさが光る。こちらのケーキは、フランボワーズ・レッドとホワイトチョコレートの色彩のコントラストが鮮やか。販売書籍のご案内南イタリア旅行記:「イタリア・プーリア州二人旅」(1,500円、消費税・送料込み)紹介されている名所:アルベロベッロ、マテーラ、カステル・デル・モンテ、グロッテ・デ・カステラーナ、レッチェ詳しくは、こちらのエントリー参照。 修士論文・博士論文 卒業論文の書き方(800円、消費税・送料込み)詳しくは、こちらのエントリー参照。
2010.07.13
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韓国で行われた「メダリストオンアイス」をテレビで見た。「日本でやってください」と心から叫びたくなるような豪華メンバーがずらり。新旧の世界王者が勢ぞろいした感があった。懐かしい顔を見たせいか、ジェフリー・バトルが相変わらずラインのきれいな素晴らしい演技を披露しているとき、ふとその場にいないスケーターのことが気になった。先日「バレエ的演技」をご紹介したエマニュエル・サンデュ選手。カナダのシングルスケーターで、バトルとはライバル関係にあったといっていい。2種類の4回転ジャンプを(試合での確率は高いとはいえなかったかもしれないが)もち、バレエを基礎にしたダンサブルな演技で芸術面での評価も高かった。バトルは3度カナダの国内選手権を制しているが、回数だったらサンデュも同じだ。世界選手権ではジャンプが不安定で5位が最高位とあまりパッとしないのだが、グランプリファイナルでは、あのプルシェンコを退けて(と言っても、それはプルシェンコがザヤックルールにひっかかり、連続ジャンプが1つキックアウトになってしまったためなのだが)優勝をした経験もある。なにより、「面白いことをしてくれる」選手だった。ダンサーとしての身体能力が高いので、ポーズもびしっと決まり、動作にも無駄がない。難しいジャンプも跳べる。「踊れる」「難しいジャンプが跳べる」という見地で言えば、まちがいなくバトルより能力は上だろう。バトルの「音楽表現」が、なぜかフィギュア界で絶賛されるのには、少しばかり違和感がある。これは北米の選手に顕著な傾向なのだが、クリーンでシャープな滑りに加えて、旋律のちょっとした部分を捉えて動作を入れると、ほとんどそれだけで「音楽をよく表現している」ということになる。こうした北米流の表現力が昨今のフィギュアでやたらと過剰評価され、もっと本質的な意味で、非常に軽やかに、動的に、旋律にのって「踊れる」選手が必ずしも評価されない傾向があるように思うのだ。鈴木明子選手などはその例だ。彼女は非常にダンサブルなスケーターで、かつ滑りや動作にも品がある。見ていて飽きない。「氷の上でのはつらつとした踊りを見たな」という気持ちにさせてくれるスケーターだ。バトルやライザチェック、あるいはヴァーチュ&モイア組の音楽表現は、フィギュアスケートの「表現力」としては評価できるのかもしれないが、Mizumizuにはかなり物足りない。「身体をつかった表現芸術」として見ていると、ハッキリ言うとあまりに淡白すぎて途中で飽きる。北米にはこのタイプの選手が多いのだが、サンデュはそのなかでは異色で、個性的なダンス表現のできる選手だった。だが、世界選手権やオリンピックで結果が出なかったのは、なんといってもジャンプの自爆グセを克服できなかったためだろう。大技を入れる選手のはまる、「大技がなかなか決まらない」「決まっても別のジャンプを失敗する」というパターンから抜け出せないまま世界の舞台からいなくなった。パーツはそれぞれ素晴らしいのに、それを統合しようとすると必ずどこかで穴があき、実績を作れなかったのだ。バトルが4回転を回避してすべてのジャンプをまとめ、ついに世界王者になったのに対し、サンデュは大技をほとんど常に入れつづけ、どこかで失敗しつづけ、世界選手権では台にものぼれなかった。それは、ジャンプが要求される時代だったから、ということももちろんある。最後に出た世界選手権で惨敗したあと、サンデュはこんなことをしていたようだ。http://www.youtube.com/watch?v=bu_-VkFBsMEこちら↓になるとダンスはさらに進化。女性的な仕草を批判されたので、今度は最初から最後まで見事に男性的なイメージで踊りを統一している。http://www.youtube.com/watch?v=VI7bIwQuM7w&feature=related時折入るフィギュアスケート的なステップやクラシックバレエダンサー的なポーズが興味深い。本当に面白い人だなあ、エマニュエル・サンデュ・・・この動画を見ると、サンデュがいかにダンサーとして基礎がしっかりできているかわかる。「氷上のダンサー」「氷上のアクター(アクトレス)」と言っても、それはほとんど常に、あくまで氷上でのことだ。陸にあがってこれだけの踊りを披露できるフィギュアスケーターは、決して多くない。というか・・・これだけのダンスはバレエの基礎がなければ不可能で、現役スケーターでここまできっちりそれを叩き込んだ人は、世界中探しても多分いない・・・と思う。だが、それで・・・? フィギュアスケーターとして見たら、卓越した舞踏能力かもしれないが、「踊れる」人なら世の中にゴマンといる。氷の上では世界トップ5に入ったことのあるサンデュだが、27歳になって再び舞台ダンサーに戻ろうとしても、世界レベルというのは無理な話だろう。サンデュのように才能があるのに、選手としてもプロとしてももうひとつ花開かない人を見ていると、なんともいえない気分になる。実際には、こういう人が世の中に多いだけになおさらだ。Mizumizuはゲイ大だったから、才能と社会的成功がかならずしも一致しないことは身近な例でいくらでも知っている。だが、ゲイ大のいいところは(今の学生はどうか知らないが)、社会的・経済的成功を世間一般の人ほど過剰に仰ぎ見ないことだ。だいたいみな、自分が一番で、自分を評価しない世間なんて、そっちのほうがバカだと思っている。こういう自惚れが、Mizumizuは大好きだ。サンデュはアイスショーでダンサブルで個性的なプログラムを滑ったら、バトル以上のものを表現できる気がするのだが、フィギュアスケーターは現役時代の成績がものを言うし、それこそ人気は必ずしも才能に比例しない場合もある。日本にサンデュを呼んでくれる人もいなさそうだ。現役時代は、「サンデュは練習をあまりしない」などと解説者に言われていたし、人間関係を作るのもうまくないのかもしれない(それは往々にして幼いころエリート教育を受けた人に顕著な傾向だ)。一方で、ジェフリー・バトルは日本でも人気がある。ジェフリー・バトル アーティスト・ブック浅田選手との縁も深いし、明るく礼儀正しく、品行方正な態度は、誰からも好かれる。演技も手を抜かず、いつもきちっとこなす。自国以外のアイスショーにもよく呼ばれる。だが、Mizumizuは氷上の表現者としては、サンデュのほうがずっと面白い素材だと思っている。彼の名前は、日本ではすっかり忘れ去られてしまったようだ。カナダでは今は舞台ダンサーとして活躍しているのだろうか? ならいいのだが・・・サンデュが少し後に生まれて、バンクーバーに向けての逸材としてカナダが国をあげて強化していたら、どんなだっただろうと思わなくもない。とにかく、パーツパーツの質は素晴らしかったのだから。だが、これも人生かな、と思う。あちらとこちらの世界は、近いように見えて果てしなく遠い。
2010.07.12
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<続き>選手本人の努力だけではどうにもならない部分が採点競技にはある。フィギュアではその歪みが頂点に達している。そろそろ「ルールは絶対」「ジャッジは公平」などという「ゆえなき神話」からは解放されるべきだ。サルコウで回転不足のまま転倒し、ダブルアクセルはすっぽ抜けてしまったのに、それでも全世界ほとんどすべての選手の自己ベストを上回るような高得点が出る。こんな採点をされて、どう勝てというのだろう?トリノワールドの女子シングルの採点について、批判したのは日本以外のメディアだった。日本のメディアからほとんど批判は出なかった。それどころか、後付けの理屈でプロトコルをもとに採点を正当化した。プロトコルを見れば、一応筋は通っている。問題はGOEや演技構成点は恣意的な操作が大いにできる仕組みになったことなのに、多くのメディアはそこに気づかないか、気づかないフリをしている。そして、日本人の根底にある美意識――「(負けたのを)ルールやジャッジのせいにしてはいけない」「真に強い者は必ず勝つ。それを目指せ」。こうしたきれいごとで選手側にあらゆる責任を負わせているようでは、いかに日本からいい選手が出ようと、ソチではまたバンクーバーやトリノワールドのような、人をバカにした採点がなされることになるだろう。パンドラの箱は開いてしまった。採点の恣意的操作、順位のコントロールは多くの国にとって都合のいい話なのだ。今回のルール改正でも、結局運用次第でどうにでもできるカラクリにはメスは入らなかった。こんな状況を放置したままで、何もかもを自力のみで打破できるような万能の大天才の出現を待つのだろうか? だが、実際、日本のフィギュア界の現状はそうなのだ。もしかしたらMizumizuが知らないだけで、ほかのスポーツ競技も似たような状況にあるのかもしれない。フィギュアスケートバンクーバー五輪完全ガイドこういう本はいくらでもある。みな本当に商売には熱心だ。写真で魅せるフィギュアスケート2009ー2010総集編こちらは浅田選手と高橋選手を同等に扱い、市松模様に配置したもの。日本フィギュアスケートキャラクターブック(2010)だが、たいがいはこうしたレイアウト。この写真配置を見れば、人気のほどがよくわかる。やはりなんといっても浅田真央。それから高橋大輔。フィギュアスケートmemorial bookこの2冊は、なぜにこんなにもソックリなのか・・・? フィギュアスケートを100倍楽しく見る方法このタイトル。昔どこかで見たような・・・?(苦笑)【送料無料】スケーティング・ミュージック 2010/オムニバス(クラシック)[CD]【返品種別A】プログラムに使われた音楽も、こんなふうな商品になるとは・・・一昔前は考えられなかった。フィギュアスケートミュージック・ガイドブックこの表紙の配置もまさに選手の人気度を物語る。音楽に解説を加えたおもしろい企画の商品。フィギュアスケートに懸ける人々素晴らしい選手を出すとうい意味では、確かに大いに成功している日本のフィギュアスケート界。だが、それが返って偏向採点を助長することになってはいないだろうか?
2010.07.11
浅田真央と高橋大輔は、日本フィギュア史上最高の才能であるだけに留まらず、世界のフィギュアスケートの歴史にその名を刻むべき存在だ。日本にはほかにも素晴らしい選手がいるが、この2人はやはり別格だろう。だが、だからといって、トリノの高橋選手の「道」の演技を評して、いや、ほんとうはこう言ってしまいたい。「高橋大輔は史上最高のスケーターであり、今夜の『道』こそが史上最高のフィギュアスケートだ」、と。などとオーバーに書くフリーライター(記事はこちら)の姿勢はいかがなものか。いくら日本男子初の世界王者が出て舞い上がったにせよ、それはあまりに過去のチャンピオンに対して失礼ではないか。Mizumizuも高橋選手の才能は、フィギュア史上でも屈指だと思っている。だが、トリノワールドでの高橋選手は4回転は決まらず(というか、シーズン通して一度も決めることができなかった)、3回転+3回転のセカンドも完璧ではなかった。世界王者になったのも、年齢的に決して早いとは言えないし、しかもまだたった一度だけだ。すでに二度世界を制覇した浅田選手のほうが実績では上なのだ。「道」は確かにエポックメイキングな作品で、トリノワールドでの出来は、今季一番まとまっていたと言えるかもしれない。だが、完成度と言う意味では、女子では他に誰も跳ぶことの出来ないトリプルアクセルを二度決め(1つは「なぜか」DGされたが、高橋選手の誰が見ても両足着氷になった4Fに比べれば完成度の高さは疑いようがない)、ほぼノーミスだった浅田選手の「鐘」には及ばない。なんといっても、ジャンプを全部クリーンに決められなかったのは痛い。プログラムの良し悪しについては、個人的な嗜好が入るから、どちらが上などと安易に結論づけられない。過去の名男子フィギュアスケーターについていえば、オリンピックのメダルこそないものの、世界選手権で史上初めて4回転を成功させ、世界選手権を4度も制覇したカート・ブラウニング。10年以上の長きにわたって4回転を驚異的な確率で決め、3度の世界王者、金1つ銀2つの3つのオリンピックメダルをもつエフゲニー・プルシェンコ。そして、この2人をオリンピックの大舞台でしりぞけたペトレンコ選手やヤグディン選手。もしジャンプのことを言わないなら、華麗なスケーティングで世界を魅了し、フィギュアスケートを最初にメジャーにした選手と言っていいロビン・カズンズ。あまたの名スケーターがいるというのに、トリノワールドの演技をもって、「高橋大輔は史上最高のスケーターと言ってしまいたい」など、身びいきもいいところだ。高橋選手の世界選手権(やオリンピック)での4回転の確率は悪すぎる。ここ一番でああやって失敗しつづける限り、いくら世界王者になろうと、「史上最高のスケーター」などとは、おこがましくて言えない。それが公平な見方というもではないだろうか。的外れな批判で選手を傷つけるのも問題だが、身びいき以外の何ものでもない的外れな賞賛で選手を必要以上に持ち上げるのも、決して選手自身のためにならない。そもそもトリノワールドでの金メダルについては、高橋選手自身が、「4回転フリップは無謀だった」「金メダルは獲れちゃった、という感じ」と語っている。選手のほうがよほど冷静に的確に自分を見ているではないか。フィギュアスケートの人気が高まること自体は非常に結構なことなのだが、フィギュアスケートの真の魅力や採点競技ゆえの問題点などを客観的に伝える力量のないフリーライターが、あたかもフィギュアを専門とするスポーツジャーナリストのような扱いで、さかんにあちこちに寄稿しているのを見ると、大いなる危惧を抱かざるを得ない。同ライターのコラムでは、「バンクーバーでの高橋大輔の優勝」という誤りがいまだに訂正さえされていない(こちらの記事)。間違うことは誰しもある。だが、4ヶ月もホッタラカシという神経は理解できないし、ニュースサイトの劣化もここまできたか、と見ていて情けなくなる。選手の活躍――その最大の立役者は、やはり高橋大輔ではなく浅田真央だと思うが――で仕事の場が増えたのに、そうした人に限って、特定のお好み選手ばかりチヤホヤし、自分の主観があたかもフィギュアスケート界全体の総意であるかのような印象を読者に与える書き方をする。一方で、もう一般のニワカファンにもわかってきてしまった採点の問題点については、注視するどころが、ファンの批判をそらすことに躍起になっている。これでは本末転倒ではないだろうか。日本人選手は非常に強い。だが、そのわりにはグランプリファイナルや世界選手権といった大きな試合で、台にのれるのが「お一人様限定」になっているのは不自然ではないだろうか? バンクーバーオリンピックが日本にとって「最強」の選手を揃えた、「史上最大の挑戦」だったとして、その結果が銀1つ銅1つでは、少々お寒くないだろうか? いや日本は一人は台にのせてもらえるからまだマシかもしれない。選手がいい演技をしても点が出ないことになっている国というのも、あるように思う。かつてロシアやアメリカが強かったころは、同じ国の選手が台に複数のっているという光景も珍しいものではなかった。ここ一番で日本選手は自爆が多い。それは事実だ。だが、どうして自爆するのか。選手にどんな精神的なプレッシャーがかかっているのか、ルールや採点の傾向から掘り下げる人はほとんどいない。<続く>
2010.07.10
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何度でも見たいのが高橋大輔の(若干)意味不明「アメリ」なら、いつまでも見ていたいのが浅田真央「バラード第一番ト短調」。http://www.nicovideo.jp/watch/sm11203143高橋大輔+ランビーエルのコラボレーションは、若手のアーチストが、「なにか新しいことやろうぜ」と言って一緒に作品を作り上げる過程に立ち会っているような、たとえて言うなら、才能があり、前衛的で、かつ野心的でもある若手の役者集団の舞台劇を見るような期待感がある。それとは対照的に、「バラード第一番ト短調」は、ベテランの一流振付師が、若く才能あふれるパフォーマーを選んで、心血を注いで作り上げた新作を見る喜びをもたらしてくれるもの。この新EXには、浅田真央の最大の武器である「うつくしさ」が、動作1つ1つ、仕草1つ1つに溢れている。最初から最後まで、言葉を忘れて見つめてしまう。浅田真央という人はダイヤモンドなのだ。ダイヤモンドはそこにあるだけで、人を魅了する。ダイヤモンドが自ら、「自分を素敵に見せたい!」などと思うだろうか? 派手な彩色をして人目を惹こうとする平凡なガラス玉と、磨かれることで多くの人を虜にする高貴で稀有な天然石との違いもわからない人に、何を言っても仕方のない話だが、本来、日本で生まれたダイヤモンドの真の輝きを広く世にアピールできる立場にある人間が、「発狂」採点が正しいという前提で、浅田真央の欠点を未熟で曇った視線であげつらい、そうすることが公平であり、あまつさえ浅田真央のためになるかのように思い込んでいるのには、見ていて怒りさえ感じる。プルシェンコをなんとか「サゲ」ようと工作した、ローリー・ニコルの親友のジャッジが、天敵ロシアのタラソワの振付を褒めるわけがないではないか。現在、ISUで彼らが力を持っているのは明らかだが、なぜ、なんとか最強日本女子を貶めようとするこうした勢力に迎合するのか。おかしいものをおかしいと言わず、おかしいものをなんとかおかしくないことにしようとするから、あちこちで論理破綻をきたすのだ。フィギュアスケートにはわかりやすく感情移入しやすい北米流の振付、現実とはまったく違う1つの完結した世界を現出させてみせるロシア流の振付、重厚なロシアとは違った成熟度で斬新さも追求する西ヨーロッパ流の振付というように、多様な潮流がある。好き嫌いはあるにせよ、1つのトレンドを規範として、その範疇にない表現世界は、即座に否定してまったく理解しようとしない今のフィギュアスケートの演技構成点のつけ方は、ひどくいびつで傲慢に見える。普通の女の子の感情を演じるときは普通の女の子になる。だが、翼あるものを演じるなら翼あるものになる。孤高の存在を演じるなら孤高の魂をもつものになる。それが身体芸術の表現者に必要とされるものだ。うつくしい人はそこにいるだけでうつくしい。凡庸な女の子がなんとか自分を「素敵に」見せようと、繰り返す厚化粧や見え透いたアピールなど、真にうつくしい人は必要としない。浅田真央が世界選手権で2度目のタイトルを獲ったとき、日本のメディアはそれがいかに大変なことかを伝えただろうか?http://www.youtube.com/watch?v=9HbZ19Z8-Eoこちらを見てもわかるとおり、海外メディアは伝えている。1990年以降20年間に、2度世界女王のタイトルを手にした女子選手はたったの4人しかいない。20年間でたったの4人なのだ。絶頂期のあまりに短い女子フィギュアスケーターにとって、複数回の世界タイトルというのがいかに困難かということだ。英語の解説者は振付も絶賛している。日本人解説者でここまで振付を理解し、褒めてくれた人がいただろうかと思うくらいだ(苦笑)。重厚でドラマティックな「鐘」のあとに、このセンセーショナルな舞踏。花の香りに汗の匂いが混じる熱気に満ちた夜会に浅田真央の「カプリース」が連れて行ってくれる。そして、今年の「バラード第一番ト短調」。私たちは一人で練習しているバレリーナの稽古場をひそやかに覗いている。見てはいけないものを見ているような胸の高鳴りを覚える。そっと、いつまでも見ていたい。ピアノの旋律は浅田真央の踊りにぴったり合っているのだが、それでいてどこかBGMの雰囲気もある。これはもともと「バレエ曲」ではないのだから。もしかしたら外は雨で、ピアノの音色は、窓ガラスをうつ雨音なのかもしれない。バレリーナのイメージで、バレエ的なポジションを多く取り入れているが、やはりこれはフィギュアスケートなのだ。フィギュアのテクニックを存分に取り入れて、それをバレエ的な解釈の中でエレガントに展開させていく。浅田真央のすらりと天を指す脚、小首をかしげるような可憐な仕草、華麗で超絶技巧の回転動作、ふわりとひろがる腕。すべては一瞬で通りすぎ、次々と白い花が咲き、散っていくような刹那の華やかさが連鎖する。繊細なようでいて力強い、力強いようでいて繊細なバレリーナ。うつくしい、としか言いようがない。稽古場には鏡があるかもしれない。鏡に映る自分を見つめているのかいないのか、バレリーナはなんと、「鐘」のパートを練習し始めたではないか! ここで時間がふいに戻ったような不思議な錯乱が観る者の心をとらえ、昨シーズン浅田真央を見つめた幾億の瞳が経験したであろう、さまざまな感情がその脳裏に蘇るはずだ。こちらの想像力を限りなく刺激してくれる、タラソワの巧みな演出。フィギュアのテクニックにバレエ的に解釈し、それを浅田真央という「うつくしい人」が演じることで、こちらのイマジネーションも泉のように湧いてくる。それでいて、いやだからこそ、衣装は何色にも染まっていない純白なのだ。シンプルでオーソドックスなデザインゆえに、腰の後ろ(完全に中央ではない位置のように見え、それがまたいい)に見えるリボンがいかにも可愛らしく、効果的なアクセントになっている。バレエの基礎を徹底的に叩き込んで、その後フィギュアスケートに専念した選手も過去にいた。たとえばエマニュエル・サンデュ選手の「バレエ的」エキシビション(動画はこちら。まさにバレエそのものの「バーレッスン」から始まる)は、あまりにもバレエで、バレエのテクニックの確かさでは恐らく今の現役選手でかなう人はいないだろう(サンデュほど本格的に踊れる人も少なかったと思うが、なぜか彼が試合で戦っているころはその表現力があまり評価されなかった。考えてみれば不思議な話だ)。だが、浅田真央の演じるバレリーナはあくまでフィギュアスケーターの演じる1つのイメージなのだ。あくまでもフィギュアでありながら、タラソワ+浅田真央の芸術性は、フィギュアという狭い枠を楽々と超えていく。思えば「鐘」も、フィギュア関係者には「理解が難しい」と言われたが、その他の分野で活躍する芸術家の多くに深い感銘を与え、「鐘」からインスピレーションを得たさまざま分野の芸術家が、感動という名の個人的体験をあらゆる機会をとらえて文章にした。そして、それを読んだ浅田真央というフィギュアスケーターのファンが、感動をまた新たにしたのだ。フィギュアの芸術性を一番よく理解できるのは、フィギュア経験者だけだというのは完全に間違っている。むしろ、昨今の演技構成点のデタラメぶりを見ると、権威と権力をもつ勢力から1つのトレンドだけを評価するようしむけられ、ジャッジはすっかりメクラになっていると言っていい。その集大成が、世界中を呆れさせたトリノの世界選手権での採点だ。旧採点時代には、ジャッジにここまで不信感を持ったことは一度もないMizumizuが、こう書かざるをえない現状にどれほど落胆しているか、内部の思惑と外部からの批判に右往左往しているISU幹部には想像もつかないだろう。もちろん、「習い事」としてのフィギュアスケートなら、スケート経験者が一番正しく理解できるだろう。だがフィギュアのもつ芸術的側面は、ときにフィギュアスケートという枠の外にいる優れた感性が鋭く反応するのだ。「鐘」はそうした影響力とパワーをもつ作品だった。経験というものがいかに大切か。北米流の若さばかりをチヤホヤして、私たちは長い間をかけて経験を積み重ねてきた一流の人間の感性を、あまりにないがしろにしている。熟成したワインだけがもつ深く複雑な味わい。その味は一朝一夕では出せないのだ。タラソワという巨星は、もう落ちようとしている。彼女の健康状態を見ても、それは否定しようがない。だが、タラソワが浅田真央を選び、浅田真央がタラソワを選んだ幸運を、日本人はいつまでも感謝すべきだ。そして、「浅田真央はトリプルアクセルだけの選手」だとか「表現力はキム・ヨナより下」などという「妄言」を、目の肥えた日本のファンに信じ込ませようとしても、それはまったく無駄だということを、一部の偏向メディア関係者も知るべきだろう。この空前のフィギュアスケート人気の立役者は、なんといっても浅田真央。浅田真央関連書籍の多さを見ても、ダイヤモンドがいかに人々を惹きつけてやまないかがよくわかる。フィギュアスケートdays(vol.12)浅田真央と言えばスパイラル。多くの雑誌や書籍が、このポジションをこぞって表紙の写真に採用する。ホントウニ、キレイデスネ~(←ヘンなガイジンオヤジみたい)
2010.07.06

オリンピック本番を控えて、「明日トリプルアクセルが決まるか決まらないか。それで自分の人生が決まると思うと眠れなかった」と言ったのはフランスのフィリップ・キャンデロロ選手。フィギュアスケート選手がオリンピックでメダルを獲ることがいかに大きな意味をもつのか、オリンピック後の、特に高橋選手に対するメディアや世間の「扱い」を見ると、あらためてまざまざと思い知らされる。フィギュア選手の人生を分けるのは、往々にして1つのジャンプ。高橋選手については「世界一のステップ」がとかく注目されがちだが、競技者としての彼の強さはトリプルアクセルにあると思う。あの素晴らしい質のトリプルアクセルがあるからこそ、シーズン通して4回転を失敗しつづけても、世界の頂点に立つことができた。本田武史選手が世界トップと戦うことができたのに、同年代の田村岳斗選手が世界に羽ばたけなかったのも、本田選手には素晴らしいトリプルアクセルがあったのに対し、田村選手は(4回転以上に)トリプルアクセルが苦手だったからだ。人生の「明」と「暗」を分けるのは、本当のところちょっとした違いでしかない。一般人の多くが通り過ぎる「受験」という関門もそうだ。当落線上にいる受験生の結果を分けるのは、難しい問題が解けるか解けないかではない。基本的な問題を1つ落とすか落とさないか。ほんの少しの違いで、その後の人生が大きく変わる。時には、そこでもうほとんどすべてが決まってしまう。わずかの差で望むものを得られなかった人には残酷な話だが、世の中は常にそうしたものだ。高橋選手がオリンピックで「もう一歩の4位」だったら、今ごろこれほど注目されることはなかっただろう。本当にメダルが獲れてよかった。もちろん浅田選手も。国民的人気を誇るスター選手であるがゆえに、バンクーバーで万が一メダルを逃したらどうなっていたか、想像もしたくない。1億総評論家になって、コーチや選手を大バッシングしただろう。金メダルでなかったのは、いかにも残念だが、ああした偏向採点の中で、トリプルアクセルを3度という、これまで誰もなしえなかった快挙を達成し、銀メダルを獲ったのは立派の一言だ。トリノの世界選手権で浅田選手がいい演技をしなければ、まだ世間はこの採点の異常さに気づかずにいたかもしれない。銀座を歩いていて見かけたポスター。真っ白な大地に伸びた影が、不思議なほど長い。透明な空気感も伝わってくる。よく「風景写真は日の出・日の入り前の2時間が勝負」と言われるが、その定石を踏襲した時間帯に撮影したのかもしれない。「オリンピックのメダリスト」という称号を手に入れれば、同シーズン途中まで試合で強かったのは、実は後輩の織田選手のほうだったことなど、世間は忘れてしまう。フィギュアスケーターの選手生命は短い。今のうちにどんどん稼いでください。高橋大輔はそれに値する才能を持った人だ。ゆうパックの宣伝ポスターに比べると、この本の表紙の写真はずいぶんリキが入っていない・・・ これじゃ、ただのスナップでは?200daysジョニー・ウィアー金メダリストのライザチェックがさっぱり日本で注目されないのとは対照的に、最高の演技をしながらメダルを与えられなかったことで、逆に株を上げたウィアー選手。ウィアー選手にああいう採点をしながら、日本人のお偉いさんは、「選手はまず自分の個性、セールスポイントを見極めることが大切」などと言っている。そうすれば正当に評価されて、公平な点が与えられるとでも? ふざけないでほしい。誰にも真似できない個性を生かしたプログラムを作り、最小限のミスで演技をまとめたバンクーバーでのウィアー選手の結果を見れば、そんなおためごかしは今さらむなしいだけだ。日本では金メダリスト以上にファンから愛されているウィアー選手。ショーでどんどん人気を見せ付けてください。日本で、「ジョニー・ウィアーは家族的でないからショーにふさわしくない」とか「他に才能のある選手がたくさんいるから、ウィアーを呼ぶ余裕がない」などと、見え透いた意地悪を言う人はいません。浅田真央POWER & BEAUTYこちらの浅田選手の写真はまた、非常に美しい。浅田真央の明るさ、華やかさ、躍動感がよくでている。短いスカートのなびき方もチャーミングだ。ワールド・フィギュアスケート(43)こちらは在庫わずかとか? しかし、この雑誌は、チャンピオンになって表紙に載る選手のポーズがいつも同じ・・・バンクーバーオリンピック2010日本代表選手写真集Mizumizuが非常に好きな写真はこれ。モーターマガジン社はクルマを主に扱う出版社だと思うが、メカに強い出版社らしく、クールで金属的なグレーの背景色に、カッコいいポーズを決めた日本人選手がほぼV字に配置されている。縦の白抜きは、下に来るにしたがってスポットライトのように変化し、ライトの光が後ろから選手に当たって影ができているような印象を作っている。選手も含めて全体がメカニックでシャープなイメージに統一されていることに、卓越したセンスを感じる。
2010.07.05
テレビでDOI 2010を見た。いまや日本のフィギュアスケートファンは、モダンバレエやコンテンポラリーダンスの新作発表を待ち受けるような期待感をもって、選手の新しいプログラムのお披露目を待っている。こうした傾向は、おそらくフィギュアスケート業界関係者の予想を超えた流れではないだろうか。エキシビションなどというのは、かつては競技会のオマケに過ぎなかった。いまやEXはりっぱなショー。競技会以上に人気があるほどで、選手もそれぞれ趣向を凝らしたナンバーを用意する。日本人選手のEX用プログラムは本当に面白い。フィギュアスケートの舞踏芸術としての可能性、それに最も早く気づき、最も高く評価しているのは日本人ファンかもしれない。逆に昔のマイナースポーツ時代のアマチュアリズムが抜けきらない連盟やISUのお偉方のほうが、見せる芸術としてフィギュアのもっている可能性をわざわざ狭めるようなルールを作り、いたずらにファン離れを加速させている。その冴えたる例が、アイスダンスだろう。Mizumizuは長くアイスダンスのファンだった。それは一言で言えば、「新シーズンの新プログラムを見るときに、モダンバレエの新作発表を見るような期待感があったから」だ。トービル&ディーンの功績についてはよく聞くが、残念ながらリアルタイムで見たことはない。斬新な舞踏芸術として最初にMizumizuに強い印象を残したのは、フランスのデュシネ組の「シクリアダス」(楽曲はこのサイトの3番目)だった。オリンピックでのライバルは正統派のクリモア&ポノマレンコ組。モダンで画期的な振付のフランスと格調高い王道をいくロシアの振付は、アイスダンス芸術の2つの大きな潮流で、彼らの対決は常に見ごたえがあった。舞踏芸術としてのアイスダンスが1つの頂点に達したとMizumizuが思うのは、長野五輪でのグリシュク&プラトフ組。もちろんコーチはタラソワ。彼らの「メモリアルレクイエム」はまるで上質のワインのように年を経るごとに熟成していく。こちらが年齢を重ねれば重ねるほど良さがわかる。まさに競技スポーツの枠を超えた芸術作品だ。それからもう1組、忘れられない鮮烈な印象を残したのが、ロシア人女性とフランス人男性によるアニシナ&ペーゼラ組。かつて2つの対立軸を形成していたアイスダンス強国の2つの才能が、決して1つに融合しないままに大きな花を咲かせたと言っていい。ところが、Mizumizuにとって、舞踏作品としてエキサイティングだと思えるものを見せてくれたのは、アニシナ&ペーゼラが最後になってしまった。ルール改正にともない、アイスダンスはかつての魅力を確かに失った。これについて危機感をもっているフィギュアスケート業界関係者は、Mizumizuの知るところではソニア・ビアンケッティさん。それに「唾を吐きたくなるほど細かい規定がある。アイスダンスは試合をやる前から勝ち負けは決まっているのに」と、ルールとジャッジングを激しく批判しているタラソワだけだ(ちなみに、アイスダンスの順位が最初から決まっていると言っているのは、タラソワだけでない。元ジャッジも証言している)。今、世界で勝っているアイスダンスの演技は、Mizumizuには劣化社交ダンスに見える。もともとアイスダンスは氷上の社交ダンスとして始まったし、アイスダンスという枠のなかでの滑りの技術などはきれいに見せているのだが、こちらの想像力を刺激してくれるほどの作品は、ぱったりとなくなった。だから、Mizumizuは今はもう、アイスダンスをほとんど見ない。だが、アイスダンスで失われてしまった、フィギュアのもつ舞踏芸術としての新しい可能性を模索する動きは、別のところで受け継がれていると思う。かつてアイスダンスの選手だった人たちが、今は振付師として活躍している。彼らの作る、それも日本選手に対して作る、特にEX用のプログラムは、エレメンツ要件の縛りから解き放たれ、選手の良さや振付師の世界観を表現する場として、実に見ごたえがあり、こちらの想像力を刺激し、自由な解釈を加える楽しみを与えてくれる。そしてもう1人、フィギュアスケートの芸術としての側面を何より大切にする振付師の作品を、私たちはDOI 2010で見たと思う。ステファン・ランビエール――彼の「ポエタ」は、まさにフィギュアスケートの芸術としての可能性を新たに開拓しようとする野心的な試みだった。だが、皮肉なことに、「フィギュアはアート。それを観客に伝えたい」と、自身の明確なビジョンを口にするほど精神的に成熟したときには、ランビエールはシングルの競技者としてはピークを過ぎてしまった。彼はむしろ4回転を確実に跳べて、スピンがうまい選手だったころのほうが試合では強かったのだ。難度の高いジャンプを跳ぶ選手の宿命でもある怪我が、ランビエールからもともと不得意だったトリプルアクセルを奪った。オリンピックでメダルが獲れなかったのは、トリプルアクセルを成功させることが極度に難しくなったランビエールが、さらに難度の高い4回転に頼らざるをえなくなった結果だ。「ジャンプこそ男子フィギュアの命」という考えもある。それはそれで、恐らくは正しい。だが、ランビエールはそれよりも「アート」としての側面に重きを置く。恵まれた容姿も含めて、ランビエールは表現芸術としてのフィギュアの魅力をもっともよく氷上で体現できるパフォーマーの1人だ。そのランビールが今回、高橋大輔と組んだ。かつてモロゾフと高橋大輔の組み合わせを、「天上で結ばれた2人」と評した記者がいたが、どっこい高橋大輔という人は、宮本賢ニともパスカーレ・カメレンゴとも天上で結ばれてみせた。その彼とランビエールとのケミストリー(人と人とのもたらす化学反応)がどうなるのか、ファンは期待と不安をもって新プログラムの発表を見守っただろう。今回の「アメリ」を見て、Mizumizuは個人的には、「とても面白い」と思った。最初の感想は、「なんだこりゃ?」。つまり、何かを表現しているのはよくわかるのだが、それが何を表現しているのか、明確にわからないのだ。わからないが、想像することはできる。Mizumizuの想像では、「アメリ」の音楽にのせて切なく舞っているのは、透明な羽をもった、今にも消えてしまいそうな精霊。場所は誰かの部屋の窓の外。精霊は中にに入りたくても入れない。部屋にいるのは精霊が想う相手。彼(あるいは彼女)が知らないところで、羽をもった精霊は彼(あるいは彼女)への想いを情熱を込めて表現する。精霊が舞っているがいるのは氷上ではない。暗い夜の空と大地の間だ。そして、最後に、精霊は誰も知らないところで、1人はかなく息絶えてしまう。これがMizumizuの描いたストーリーだが、振付師ランビエールの描いたイメージと重なっているのか、まったく離れているのか、それはわからない。重なっていたとしても、まったく離れていたとしても、それは問題ではない。重要なのは、このランビエール振付の高橋大輔の「アメリ」は、そうやって観る者の想像力を刺激し、「創造的誤解釈」を誘うものだということだ。「創造的誤解釈」を誘う芸術作品というのは、詩や音楽に多い。作者が必ずしも意図しなかったメッセージを読者が受け取り、自分のなかで拡大解釈(もしくは誤解といってもいい)し、作品に独自の意味を与えていく。考えてみれば、これが芸術のもつ自由さなのだ。「意味不明だけど、なんとなく惹き付けられる」芸術というのは、かつては映画にも多くあった。だが、最近は明快でわかりやすいメッセージ性ばかりが重要視され、何もかもが説明的になりすぎている。ある意味これは、観客をバカにしているのではないだろうか? 作り手が受け手の感性を信頼していないから、なんでもかんでもわかりやすくしてしまう。一度見るなら楽しめるが、何度も繰り返し見ようと思えない。巷にはびこる大衆芸術は、そんなものばかりだ。「アメリ」には、何度も見たくなる魅力がある。シンプルな衣装もいい。先シーズン後半あたりから、高橋選手の「eye」の衣装に、意識的にフェミニンな要素が加えられるようになった。最初「eye」は、黒のすっきりしたシルエットにきらきらしたスパンコールの目立つ、男性的な衣装だったが、オリンピックでは、オープンワークで花びらの輪郭を強調したディテールが多用された、見方によっては非常にフェミニンな衣装になり、華やかな雰囲気が高橋選手によく似合っていた。「アメリ」の衣装は黒のシャツに黒味がかったグレーのスボンで、一見限りなくシンプルだが、よく見ると上着はかなり凝っている。胸元はスクエアカットに見えるが、本当はラウンドカットの襟元に当て布をして、重ね着の雰囲気を出している。後ろにはさりげなくV字のカットが入っている。Mizumizuが一番気になるのは腰のあたりのカッティング。ジャンプやスピンで回転したとき、ここに2重のフリルがあるように見える。「フリル」というのが正確かどうかわからないが、少しイレギュラーにカットして、回転したときにフリル風に広がるようにしたディテールには違いない。フリルになった部分の布は透け素材に見えるのだが、どうだろう(世界のアクオス亀山モデル、フルスペックハイビジョン液晶52型テレビをもってしても、これ以上はわからない)。透け素材のせいか、この2重のフリルが重くなく、非常に軽く見える。このウエストの2重のフリルが、ウエストのラインをやや女性的に見せている。こうしたフェミニンなディテールは、小柄なアジア系の男性によく似合う。飾り気がないようでいて、さりげなくとてもお洒落だ。フィギュアスケートの振付師に要求されるのが、「その選手のもっている長所をできる限り引き出し、短所をできるだけ目立たないものにする」ことだとすれば、ランビエールの振付にはそうした努力が足りないかもしれない。ついこの間まで選手だったランビエールが、高橋大輔を深く理解するには時間がなさすぎる。高橋選手自身も、そういった面での振付師のフォローをランビエールに求めているとは思えない。だが、たとえばバレエの振付では、振付師は基本的に、自分の世界観を表現することをまず第一に考え、個々のダンサーの欠点を補って・・・といったことは、二次的な問題、あるいはダンサー自身が克服すべき問題になるはずだ。だったら、フィギュアの世界でそうした作品を作るのもいいではないか。フィギュアスケートの世界で、振付師の地位はまだまだ低い。作品はあくまで選手個人のためのものであって、振付師の作品として他のフィギュアスケーターが同じ振付で滑るということは、基本的にはない。だが、作品そのものが主役で、それをさまざまなスケーターが独自の解釈で滑るという日が来てもおかしくはない。競技会では無理でも、アイスショーで、そういった「アート」としてのフィギュアスケートの可能性を追求するのも面白いと思う。批判されるたびに場当たり的な改正を行い、ネコの目のようにくるくる変わるルール。点数を恣意的に操作して、メダル配分しているのがいよいよ露骨になってきた理念なきジャッジング。自国の優れた選手をバックアップすることより、自分たちの利益を図ることをまず重要視する組織の人間。「上」のほうで、こうした愚行が行われているのも事実だが、フィギュアスケートのもつ可能性の裾野を広げていこうとする優れた才能もまた、まだまだ健在なのだ。
2010.07.04

6月のタイで食べたマンゴーは最高だった。日本にもマンゴーはあるが、あそこまでのものはなかなかない。だが、銀座をブラブラしているある日、きちんとした店舗ではなく、ちょっとした物産展の雰囲気をかもしている農産物販売所で売ってるマンゴーを試食したら、タイで食べた味そのもの・・・いや、もしかすると凌いでいると言ってもいいレベルで、驚いた。OTENTOというブランド名。聞けば日本の資本で、現地の農場で生産したものを直接販売しているのだという。マンゴスチンもあったのだが、残念ながらこちらは少しフレッシュさがない気がした。現地の味とはだいぶ差がある。だが、マンゴーは文句なし。値段は現地の市場の・・・何倍だろう? 10倍?チェンマイのワロロット市場で、こぼれんばかりに積み上げられて売られていたマンゴー。あの熱帯の豊かさと大都会銀座の臨時直売所では比べるべくもないが、マンゴーに関してだけ言えば、見かけはタイの市場のものよりぐっといい。サイズも大きいし、色つやもいかにも美味しそう。日本に来て急に高級な希少品になった感がある。いずれにせよ、政情不安で足が遠のいたタイへの郷愁をまたかきたてられる味だった。次はやっぱり、南のプーケットかな。「いつフランスから帰って来たんだっけ?」(←Mizumizu連れ合いの台詞)
2010.07.02

こちらのエントリーで紹介した絶品ジュレ。さすがにDomaine de Peyremaleのジュレのレシピについて知っている方はいなかったようだが、泡立ちと苦味について寄せられた意見の中で一番多かったのが、「シードルを使っているのでは?」というもの。理由は、以下の2つ。1)発泡性2)甘口と辛口があり、辛口を使えば苦味も出るのでは?個人的にもその意見が一番納得できたので、ちょいと実験・・・辛口のシードルを買い、苺は「コンポート」と言って売られている、ジャムより少しゆるいイタリア製の苺加工食品を買い、とりあえず、お皿でふつーに混ぜてみた。苺のコンポート8に対して、シードル2ぐらいの割合。見た目はあまり似ていなかったのだが、一口食べて、Mizumizu+Mizumizu連れ合い「うん、これだ、これだ」味の傾向は確かに同じだった。ただ、絶品でもなんでもないが・・・(苦笑)苺のフルーツソースとしても、かなりいい。苺ジャム(コンポートと言って売られていたが、ふつうの果物のコンポートではなく、むしろDomaine de Peyremaleのジュレに似て、全体がゆるく、アルコールと混ぜやすい)とは別モノになる。しかも、シードルは栓をあけて置いておくと、炭酸がぬけていくのだが、苦味は逆に強く感じるようになった。Domaine de Peyremaleのジュレの、徐々に強くなった苦味の正体はこれだったのかもしれない。コンポート(ジャム)をぐっと少なくして、シードルを多めに入れ(2対8ぐらいの割合)、空き瓶に入れてフタを閉め、シェイクしてみたら、こんなふうに泡立った。シェイクしている間に、フタがちょっと持ち上がったようになり、開けるときに、「ポンッ!」と音がしたのは、Domaine de Peyremaleを開けたときの感覚に同じ。見た目はちょい悪いが、これはこれでアルコールの強いフルーツソースという感じで味は悪くないのだった。シードル ブリュット(辛口)250ml
2010.07.01
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