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今年も早10月が終わりです。アメリカではハリケーンが猛威をもたらしました。アメリカ大統領の選挙のゆくへがきがかりです。 臨済宗の寺院は、京都に世界文化遺産17箇所の内、 金閣寺・銀閣寺・天龍寺・龍安寺・西芳寺と5箇所含まれるほどに、文化的に高く評価されている傾向にあります。大徳寺シリーズも今回まで、此処だけでもこころが和みます。11月2日には、非公開寺院特別公開の真珠庵(一休禅師)と聚光院(千利休墓所)を取材して気体と思っています。 大徳寺では、多くの塔頭が有りますが、特別公開以外には4箇所の常時拝観できる塔頭(たつちゅう)が有ります。【大仙院】【高桐院】【瑞峰院】そして【竜源院】です。 【竜源院】大徳寺塔頭能登の畠山氏、豊後の大友氏、周防の大内氏が建立しました。 参道本堂は、室町時代最古の応仁の乱以前に建てられた禅宗方丈建築で 本堂庭園は土塀を背景にした飾り気のない枯山水の竜吟庭と苔庭と一枝坦(いっしたん)そして小さい壷庭があります。 竜吟庭 苔庭 一枝坦の庭園 壷庭 部屋には豊臣秀吉と徳川家康が対局したと伝える碁盤があります。 秀吉と家康が対戦したという豪華な碁盤臨済宗禅宗の寺院では、龍の絵画を大切に表現しています。庭園の清掃は行き届き、観る人の心に清浄感を与えます。
2012.10.31
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京都では、秋空が続きます。タクシーを利用するエムケイタクシーを無線室に登録していますが、現在空車の呼び出しに苦慮していて、話中か、配車遅れが目立ちます。乗務員に聞くところでは、「修学旅行生観光貸切」に大量回され、一般のお客様に迷惑掛けていて申し訳ないとのこと。観光シーズンに入ったことを感じました。 本日も、キリスト教禁令の中での大友宗麟の菩提寺をご紹介します。枯山水の庭園で、荒波をあしらった表現は珍しく印象に深く残ります。 【瑞峰院】(ずいほういん)公開。キリシタン大名【大友宗麟】(おおともそうりん)が菩提寺として建てました。豊後の戦国武将大分出身霊名 ドン・フランシスコ瑞峯院は禅宗の戒名から名付けられています。玄関入り口 禅宗の入り口に【韋駄天】峨祀られ守護されています。 坪庭庭園の一箇所に、十字架の庭がわかり易く、鑑賞出来ます。 十字架の庭石組みが斜めに十字架と組まれていますが隠れた形で信仰を保っています。何と云っても【方丈庭園】は、枯山水で、荒波が岬に。怒涛の如く押し寄せる風景に、砂をするどく、深めに形作っています。外に類例が無い、豪壮な姿を表現しています。 方丈庭園・枯山水の怒涛逆巻く豪壮な砂の彫り方は他に類例ありません。信仰を貫く精神が垣間見られて、私の最も好みの枯山水です。茶室で国宝は3箇所その一つ、大山崎に有る【待庵】(たいあん)のモデルが新装なり、特別に申し込まれましたならば観られると思います。【聚光院】(じゅこういん)非公開 千利休・三千家の墓有り菩提寺。 11月2日秋の特別拝観で取材予定しています。【龍光院】黒田長政が父如水の菩提のために建てました。日本国宝三茶室【蜜庵】 (みつたん)が有ります。外に愛知県犬山市【如庵】(じょあん)そして京都府大山崎の【待庵】(たいあん)です。【三玄院】非公開 石田三成の墓があります。【芳春院】非公開 前田利家夫人芳春院の創建です。【呑湖閣】(どんこかく)小堀遠州作といわれ、前田家は、上洛の際「琵琶湖」に関係有り、金閣・銀閣・飛雲閣(西本願寺)と京都の四閣にあたります。特別拝観時観られます。 塔頭が外にもあり、何れも織田信長・豊臣秀吉に関係した武将達の菩提寺で、「茶室」もあり、京都では、【茶面】(ちゃづら)とも云われています。明日に続きます。
2012.10.30
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今朝も秋晴れの良い天気になりました。臨時国会のゆくへはどのように展開するのでしょうか。民意不在の政治の駆け引きに、日本の国難をどう考えているのでしょうか。 豊臣秀吉と千利休、本日の大仙院でお茶をかわしたとされる部屋がありました。美しい枯山水の庭園を眺めながら、然し秀吉には自分より秀でる者をもうとみました。離宮の弟子が「金毛閣」の二階に師匠を崇める木像を安置、その門を秀吉に潜らしたと難癖を付け怒って切腹を命じてしまいました。利休が誤ってくれると信じてのたわごと、でも理は通らず、「お前が頭さえ下げてくれればそれで済むのじゃ。頼む」としても利休は切腹を選びました。 【大徳寺2】【大仙院】塔頭で公開している中で最も大きく、見所も多いです。入り口の隣に一休禅師の住持された【真珠庵】が有ります。非公開で特別公開の時は、七五三の石組みの庭園などが観られます。この11月2日から11日まで特別公開がありますので、取材してきます。 大仙院 臨済宗(禅宗)の寺院を訪問するときに、掃除の行き届いている姿に、驚き且つ気持ちよく拝観が出来ることに、幸せを感じます。禅宗では、座禅を主としますが、日常の「作務」(さむ)として特に掃除する事を大切にされます。「大仙院」の入り口を入ると、お釈迦さんに関係する樹が植わっています。一つは「菩提樹」で、お釈迦さんが、こ樹の下でよくお説教なさったそうで、他の一つは「沙羅双樹」で、お釈迦さんが、亡くなられたときに回りに有った樹とされています。「涅槃図」(ねはんず)に良く出てきます。更に門をくぐると、十二支に因んだ石が、各方向に並べて有ります。庫裏の入り口に【何妨】(かほう)の額が掛っていました。禅宗では来訪者は、どなたでもさまたげないの意味だそうです。 受付を済ますと、直ぐに【庭園】に遭遇します。【特別名勝・史跡】ですから国宝級です。院内庭園も含め撮影禁止でみなさまにご紹介できず残念です。渡り廊下の【花頭窓】から【透渡殿】(すいわたどの)が庭園の中心にあり、それを通して、枯山水の絵が美しく、瀧の滔々と流れる姿を想像させます。そして下流には、船石が有り、何れは、【方丈庭園】の白川砂で広がる、大海へとそそぐ形式を採っています。庭園の中程の茶室は、過って「豊臣秀吉」と「千利休」が対峙した場所で、当時何を語り合ったのか、考えさせられます。「鶴島」「亀島」そして「石橋」もあり。庭園の要素を全て整っています。方丈の北側には、【拾雲軒】(しょううんけん)が有り。「沢庵禅師」の書院で、「宮本武蔵」とも対面したことでしょう。【方丈】(本堂)は【国宝】で、襖絵 【四季花鳥の図】狩野元信筆 【四季耕作の図】狩野之信筆 【四季山水の図】相阿弥 筆広々した方丈庭園も、座して暫し眺めますと、心が静まります。右奥に【沙羅双樹】が配置されています。芳春院【芳春院】 加賀前田家の菩提寺 非公開【呑湖閣】(どんこかく)加賀藩から琵琶湖を眺めながら都へ上洛するために付けられたようです。金閣・銀閣・西本願寺の飛雲閣と呑湖閣で 京の四閣と呼ばれています。 わが国の歴史では、「踏み絵」等でキリスト教徒への、弾圧が厳しく、公には信仰を保てなかった中で、此処大徳寺の塔頭で、2箇所公に信仰を守っこうた人物の菩提寺が有ります。一つは【高桐院】(こうとういん)【細川ガラシャ夫人】です。公開しています。明智光秀の娘で、千利休の七哲の一人細川忠興の正室【玉】でした。石田三成の「人質政策」に反抗して死を選ぶ際に、キリスト教徒は、自殺は禁じられていますので、家臣の刃で亡くなりました。【欠灯篭】豊臣秀吉の名石狩りをさけるためと、銘に「無双」と印し、完全を忌(い)む公自身が一部を欠いたそうです。茶室【松向軒】(しょうこうけん)は、黒壁で質素に造られています。高桐院の入り口参道・玄関庭園細川忠興とガラシャ夫人の墓所次回に続きます。
2012.10.29
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今朝は、雨のしとしと降る京都となりまた。歴史の舞台には登場する人柄がそれぞれ遺跡で偲ばれます。 禅宗・臨済宗大徳寺派の本山に参ります。戦国時代の将者の菩提寺になっています。何故か豊臣秀吉の名は有りません。 【大徳寺1】臨済宗大徳寺派 開基 宗峰妙超 (大燈国師) 山号 龍宝山紫野大徳寺と言う、広い境内の中に21の塔頭(たっちゅう)が有ります。殆どが一般公開されていませんが、4箇所は、常に公開されていますので、序々に訪れたいです。先ず本坊からまいりましょう。「大燈国師」により、創建され、位も臨済宗として「五山」の上位に有りましたが、三代足利義満により、十刹(じゅうさつ)の内9位に寺格を下げられた為、辞しました。現代「南禅寺」が「五山」の上位にされたままです。応仁の乱で、焼土化し衰退しましたが、一休宗純により、難波堺の豪商の支持で再建されました。一休さんの庵は、「大仙院」の隣に「真珠庵」として今も残されています。1582年豊臣秀吉は、全国大名に対しての威信を保つ為、主人「織田信長」の葬儀を「総見院」で執り行いました。いわゆる【大徳寺焼香】として、歴史に残されています。たまたま、特別公開に恵まれ写真が撮れました。日頃は、非公開寺院のため、中には入れません。 入り口の門本堂茶室茶室織田信長の墓 千利休と茶道にも関係あり、利休の墓は、「聚光院」にあり、各塔頭には、夫々「茶室」が設けています。豊臣秀吉に関係する緒大名が競って塔頭を建てました。「石田三成」も有ります。石田三成の墓所【大徳寺の七堂伽藍】(ひちどうがらん)【勅使門】御所の陽明門を後に下賜されました。桃山時代の遺構です。 勅使門 【三門・金毛閣】(きんもうかく)初め初層のみの唐様の三門の上に「利休」の弟子たちが上層の【金毛閣】を建て増し、「利休像」を置きました。そして秀吉をその門をくぐらしたことから、秀吉の逆鱗に触れ、遂に切腹の原因の一つと成りました。 金毛閣【仏殿】(本堂) 本尊 釈迦如来 狩野元信の図があります。 仏殿の釈迦如来本尊【法堂】(はっとう)法要を営む。狩野探幽の龍の図があります。 法堂【浴室】昔、和尚さんが入浴された場所。浴室【経蔵】(きょうぞう)天平時代から、南北朝時代の写経が納められています。経蔵【鐘楼】(しょうろう)この鐘の合図で、現在も一山の和尚さんたちの諸行事に、出頭されます。【大徳寺本坊】(非公開)【唐門】本坊に据え付けられています。「聚楽第」(関白豊臣秀勝の御殿)の遺構とされています。本坊が非公開でも、外から観られます。獅子・松・孔雀・滝に鯉。見渡している内に日が暮れると言うところから、【日暮門】とも言われています。 七堂伽藍の参道順次、大徳寺境内にある、塔頭をご紹介してまいります。
2012.10.28
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今朝も、秋晴れの青空が広がっていました。紅葉は、まだはやいですが、八坂神社から円山公園に出ますと洋館建ちの明治の建物が目立ちます。【長楽館】というロマンチツクな様相を為しています。長楽館 長楽館明治の煙草王「村井吉兵衛」の別荘で、現在もレディースホテル喫茶。レストランで、クラシック環境で愛好されています。長楽寺からの関係かと思いきや、名の由来は「この館に遊ばば、その楽しみや けだし 長へなり」伊藤博文が、此処からの景色に感嘆し漢詩を詠んだとされています。 長楽館からの眺め外人さんの姿もみえました円山公園円山公園を登りつめて行きますと、大谷本廟(東本願寺御廟)の入口に沿うて、長楽寺の参道に辿り着きました。 長楽寺特別拝観ここにも外人さん二人熱心です 長楽寺参道 長楽寺三門 本堂【長楽寺】 古く伝教大師さんが開かれ、本尊観音さんは、歴代の天皇のご即位のときしか御開帳されないとされています。この歳になって、此処も初めて訪問することが出来ました。門前は狭いので、たいした寺ではないと思いきや、東山三十六峰の「長楽寺山」があるほどに山道100メートル先に絶景の景色か眺望されると記されていました。将軍塚にいたるのでしょう。体調がよくないので、今回はあきらめました。急坂と敷地の広さに驚きました。今回は、平家物語 【建礼門院さん】がこのお寺で出家されたということで、当時を偲びつつ巡ってきました。11月4日の大河ドラマ平清盛の放送後のナウで、長楽寺が紹介されると書かれていました。視聴率が極めてわるいで゛すが、良ければ見てください建礼門院の坐像掛け軸には平家物語の始のことば祇園精舎の鐘の音...がかかれていました 相阿弥作の園池銀閣寺の庭園も作庭その試作平安の瀧此処にも名水が堪えなく流れています建礼門院塔 釣鐘 右手に建礼門院塔歴史の史実は、全く解かりませんが、平家物語による「忠盛の塔篭」のお話が事実とすれば、白河上皇の血は平清盛に流れ、娘建礼門院も高倉天皇の中宮として、平家は皇室にゆかりのある血統とも言えるようです。白河上皇の権勢力そのものを平清盛の気質も似通ってみえます。でも女性は常にその影で犠牲に成っていることがもの悲しいです。
2012.10.27
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国立病院の診察日でした。8月17日血小板数値4は最悪で輸血までしましたがその後何故か、序々に回復傾向で本日は83までのお恵みを戴きました。健長者150です。医学会でも特定疾患の原因・治療方法は歴然としていませんだけに、有り難く感謝しています。 高台寺の龍の序に訪れました。祇園にある八坂神社は、祇園祭で有名です。祭神は素戔鳴男尊(スサノオノミコト)祇園の中心にある八坂神社疫神社 祭神 蘇民将来命(そみんしょうらいのみこと)門を潜った位置にあります。祇園祭の際、撒かれる「粽(ちまき)」に蘇民将来の護符が付いています。 【立札の説明】むかし、祖神(おやがみ)が諸国を巡って、日の暮れに宿を請うたところ巨旦将来(こたんしょうらい)は、富み栄えていたのに貸さず、蘇民将来は貧しかったけれど、粟穀で座をしいて、粟の粥で手厚くもてなしたので「われはハヤスサノヲの神なり」といい、後年疫病が流行しても茅の輪をつけて「蘇民将来の子孫なり」とえば災厄から免れると約束され、巨旦将来の子孫は皆堪えてしまいましたが蘇民将来の子孫は、今に栄えています。 本殿NHK大河ドラマ【平清盛】も大詰めです。その主人公の出生秘話が、此処京都八坂神社の境内にありますが、殆どの人がその存在と縁起を知らないままに燈籠が建っています。平忠盛は、一介の北面武士でしたが、冷静に思慮の深さで社僧の命を落とさずに救った手柄が、歴史を変えました。 平忠盛燈篭 位置が判り易い様に本殿の側燈篭の裏側から写して見ました。殆どの人は、関心なく、素通りされています。 【平家誕生の秘話】【忠盛燈篭】 (ただもりとうろう) 八坂神社境内に、面白い伝説がありますので、ご紹介してみます。本殿の東の方に、「円山公園」から八坂神社の境内に入った場所に建っています。【白河法皇】が【平忠盛】を伴って【祇園女御】(ぎおんにょうご)を尋ねて、祇園社に来られたときに、雨の中怪しげな光を伴う妖怪を目の当たりにされました。「白河法皇」は「忠盛」に命じて、「射止めよ」と次の忠盛の仕草が、歴史を作りました。生け捕りにして、正体を確かめたのです。やはり正体は、祇園の社僧が、燈籠に火を灯すために、蓑笠からもローソクの火で光っていました。沈着冷静な、忠盛により、尊い命は救われました。よってこの地に、忠盛を讃えて、八坂神社の境内に飾られています。お話に続きが有ります。白河法皇は、即命令に応じず、叱るべきところ、社僧を誤ってあやめる事がなくってすみ、その功を讃え、褒美をとらせようとして、既に、法皇により、腹ぐんだ祇園女御の子が男子であれば授けようと結果男の子でした。それが何と 【平清盛】 として、平家棟梁に成りました。祇園女御の妹の子との説もあります。今回のドラマでは、清盛の生母は、「もののけ」がついて呪われているとして、白河法皇と忠盛の面前で、お付きの者数人で槍に突かれて亡くなる悲惨な場面から始まり、心痛めます。権力者は、強がりのようで、妖怪変化、もののけには、弱かったようですね。「祇園精舎の鐘の音 奢れる平家久しからず」何か因果がありそうです。【白河法皇】は権力者で、この世で適わないものは、ひとつとして無い。然し有名な言葉が京に残っています。白河法皇でも、思うようにならなかったもの。鴨川の水双六の賽の目比叡の山法師でした。白河天皇御陵は、京都南インターを降りて、城南宮の南当時、鳥羽離宮を建てられていた跡地に鳥羽天皇と隣接して眠って居られます。何時の世も権力者の横暴は、目に余るものを覚えます。
2012.10.26
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秋晴れに誘われて、昨日、八坂神社で平忠盛の灯篭を写し、円山公園、長楽館の明治の建物を撮って、建礼門院さんの出家された所縁の長楽寺に特別公開していましたので、この年齢になって、初めて訪問してきました。これもブログ探索のお陰と、歓んでいます。地元新聞で10月20日から11月10日まで、高台寺の庭園のライトアップが、知らされ、何と方丈庭園には、古瓦で造り上げた双龍が写されていました。9時まて゜あるそうですが、赤と緑の幻影は、素晴らしく紙面に写されていました。本日は昼間の現在の高台寺の様子をご報告します。北の政所ねねさんの人気は、観光面でも好調で大勢の方が訪れてこられていました。高台寺は、禅宗のお寺で、本山は祇園にある【建仁寺】でそこには、天井に珍しく【双龍の絵】が描かれています。此処高台寺の方丈前の枯山水の庭園には、三年前まで白砂だけでしたが昨年、古瓦で龍をそして今年は、鬼瓦作品の師匠のもと本山と同じく【双龍】のモニメントが創作されていました。テーマーは、【家族愛】と今時の警唱と願いが込められているようでした。枯山水の方丈庭園の親子の双龍本山建仁寺の双龍 庭園では、紅葉がぼちほち色彩付いて来ました。東山山麓庭園 苔と岩との庭園も広々として心が和みます。ねねさんの想いで、秀吉の眠る阿弥陀が峰を意識して見つけようとしましたが、近代建物が邪魔して、絵に成らず諦めました。明日は、平家物語に戻ります。
2012.10.25
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再び、秋晴れの朝となりました。 本日は、清水寺から三年坂から円山公園までの散策についてご紹介してみます。 法観寺【八坂の塔】五重塔別の角度から 三年坂 【台所坂】の長い石段を降りますと、「ねねの道」に至ります。降りたところに、 【円徳院】が有ります。襖絵は、長谷川等伯作と云われています、小さな庭園が楽しめます。院内に「三面大黒天」という珍しい像が祀られて居ます。ねねさんも時折寝泊まりされたとか。円徳院庭園【霊山観音像】「高台寺」の南隣接して、大きい観音像がコンクリートで戦後造られました。 霊山観音 維新の道「ねねの道」の南端から、東に掛けて「維新の道」が急な坂道として登りますと、 京都霊山護国神社北側に【京都霊山護国神社】があります。戦争で戦士された英霊が祀られて居ます。観音像は、更に目だって大きく、航空機でも存在が判るほどです。幕末の頃に「招魂社」として建てられ、維新の頃の亡くなった550柱の墓があり、 坂本龍馬・中岡慎太郎の墓特に「坂本龍馬・中岡慎太郎そして、木戸孝允」の墓は、有名です。 龍馬たちは京都の都を見守っているようです。 高台から京都の街が見おろせます。霊山は「りょうぜん」と読んでいます。 ねねの道 石塀小路 大雲院・祇園閣 大雲院は、浄土宗で、本能寺の変でなくなった織田信長・長男信忠の天皇勅命による菩提寺で、墓地には、碑が立っています。そして盗賊「石川五右衛門」の墓があり、墓石があちこちあやかりたいとして欠けているそうです。因みに戒名は「融仙院良岳寿感禅定門」 贈り名に 十字と多いこと 寺格の院を配するなど、従来高位の人、社会に著しく貢献した人に、贈られるもので、正に当時の義賊と賞賛されたことが伺えます。非公開寺院ですが、予め申し込まれると拝観可能のようです。円山公園、音楽堂の前に佇んでいます。 円山公園円山公園の坂本龍馬・中岡慎太郎の銅像
2012.10.24
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秋晴れのもと、昨日は、京都三代祭りのひとつ 【時代祭】が盛大に行われました。本日は、朝からしとしとと雨模様です。本日は、豊臣家でも唯一の救いは、北の政所 ねねさんの渦中にあっての賢明な裁量お人柄と思います。現代にいたるまで、人気は高く、【高台寺】は益々客光を帯びています。 ねねさんの希望で大切な旦那が高所を望んだので同じ東山三十六峰の低い地に葬られ静かに阿弥陀が峰を見上げて見守りつつ眠っておられます。高台寺庫裏の入口 【高台寺】 臨済宗建仁寺派 開基 弓箴(きゅうしん) 山号 鷲峰山 豊臣秀吉の夫人「北の政所ねね」が秀吉没後9年後に建てたお寺で、後陽成天皇より下賜された「高台院」にちなんで名付けられました。秀吉並びに生母・養父母そして木下家の菩提を弔うべく建てられたようです。徳川家康も普請に要する費用も援助したとか。伏見城に有った【薬医門】【傘亭】【時雨亭】なども移築されて残っています。当時広い境内でしたが、焼失したり、明治の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)で規模が現代のように縮小されました。三門薬医門の「蟇又」には、「見返り狐」と「うさぎ」が飾られています。庫裏横の受付より庭園に入っていきますと三門【薬医門】蟇股の中に兎裏には狐 【臥龍池】(がりゅういけ)が「蓬莱形式庭園」として広がります。鶴島・亀島はおおきいです。 鶴島・亀島の庭園池を巡りながら【楼船廊】(ろうせんろう)の最中に屋根を一段高く「四方唐波風」で【観月台】が目立ちます。東山からの出る月の眺めは、侘びを感じます。 観月台【開山堂】北の政所の兄「木下家定夫妻」も祀られて居ます。格天井がみものです。 開山堂【臥龍廊】「開山堂」から「霊屋」への渡り廊下です。龍の様に曲げられています。 臥龍廊【霊屋】北の政所は、寛永元年(1624年)9月6日77歳で逝去。此処に眠っておられます。「おたまや」と愛称されるほどに、【蒔絵】(まきえ)が豪華で、「五七の桐」紋を交え、特に夫、秀吉が好んだ「朝露」を、「秋のすすきの葉に露の玉」を採り入れた「ねねさん」の気持ちが痛々しく伝わるようでした。「花筏」「浄土の様楽器」の蒔絵には、ねねさんの思い遣り、希望の念じ方が伝わるようでした。霊屋の内陣に、秀吉・ねね夫人の坐像が飾られていました。 ねねさんの御廟【霊屋】 「大阪城の落城」で燃え盛る火炎を、どのような悲しみで、眺められた事でしょうか。「つゆとをち つゆときえにし わがみかな なにわのことも ゆめのまたゆめ」 秀吉辞世の句。更に高台に、【傘定】と【時雨亭】が昔のままに残されています。中には自由に入れます。 傘亭時雨亭【方丈】は、最近立派に建てられ、【書院】では「おうす茶」も楽しめます。【方丈庭園】では、近代的に「ライトアップ」の行事もあり、観光京都の存在を謳歌しておられます。 方丈庭園観月台から南東の山を眺めますと、【阿弥陀が峰】が見上げるように見えます。ねねさんはひとりどうにもわがままを通した秀吉の菩提を弔っていたのでしょう。 高台寺の石段を降りますと、市民から誰が名付けたか「ねねの道」があります。見下ろすと【八坂の五重塔】が見えます。 法観寺の八坂の塔 大雲院の祇園閣石川五右衛門の墓
2012.10.23
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秋晴れのよき日が続きます。豊臣家の短命と徳川家の長期維持は、身内子孫を邪魔だから排除したか、多く育んだかの形で歴史は変遷して行ったと思います。京都の佳いところばかりでなく、時には歴史上の弱者の悲哀を偲ぶことも、知っておくことが大切とも考えました。浄土宗のお寺です。 【瑞泉寺】(ずいせんじ) 山号 慈舟山 浄土宗禅林寺派 前関白豊臣秀次公御一族四十九宝塔菩提寺坂本龍馬の京都木屋町の寓居跡 坂本龍馬寓居の址【酢屋】(すや)と高瀬川を境にほんのそば三條通木屋町下がった位置に、人知れず菩提寺が有りました。太閤秀吉の姉「とも」の子、従弟にあたる【秀次】が、秀吉に実子が恵まれず、後継者として、関白の位まで授かってもらった処淀君との間にやや【秀頼】が産まれるや否や、難癖をつけて関白職を奪うばかりでなく、高野山に追放の上自刃に追い込まれました。聚楽第も焼失させるほどに、それだけでは気が済まず、何の罪も無い秀次に仕えた女官及びその若君・姫君も三條河原で斬首。天下人の用心は、肉親をも信頼出来ないで、世にも恐ろしい地獄絵を見せ付けました。後に高瀬川を開削した【角倉了以】が、刑場の址地とされる此処に菩提寺を建てたとあります。 記この堂の中央に安置された地蔵菩薩は、秀次公一族の処刑の際、刑場の一隅にその木像を運び込み、次々と打たれる子女達に引導を授けたと伝わる尊像です。極楽浄土へ死者を導く【引導地蔵尊】として京洛の人々に今日なお崇敬されています。 寺伝では「定朝作」 秀次公四十九の供養等四十九の供養等秀次の墓と四十九の供養塔 墓標 鐘の棒の漣のような響きは、悲しみを訴えているようでした。安らかに憩われるようにお祈りしました。 首塚の前に「南無阿弥陀仏」と記された鐘棒五個が鳴らすと、共鳴してカランコロンといとも悲しい音色が境内を奏でていました。 殉職した四十九柱絵図 秀次の首塚三條河原の刑場で四十九柱の遺体を地中に埋め,その上に高野山からの秀次の首を西向きに晒し、三條大橋を渡る人々に晒したという、寺伝が残されています。昨日の侵略による野蛮的「耳塚」と共に、一番に訴えたかった京の街の繁華街に近い,「酢屋」と【瑞泉寺】へ写真を撮りにいきました。殆ど人は、存在をご存知有りません。でも歴史で悲しい出来事は、太閤の栄華の蔭で歴然と残されていました。秀次の無念さを考え、四十九の御霊の菩提を祈ってまいりました。500の石段豊国廟の入口豊国廟 慶長3年(1598)8月18日63歳で伏見城で歿する 秀吉の遺言により、京の都が一望出来る「阿弥陀が峰」に葬られました。然し 元和元年(1615)豊臣氏の滅亡と共に廟は破壊され、墳墓に弔ずる人もなく、空しく風雨にさらされていました。 明治30年(1897)秀吉300年忌に際し廟宇が再建され現在は五輪宝塔が建てられています。 豊国神社は明治15年に建てられました。 歴史の真意は、計り知れませんが。京都の遺跡により、何か真意が見えてくる感じを受けます。 布団着て寝たる姿や東山 服部 嵐雪七条大橋からの東山右がわ一段と高い山が阿弥陀が峰【頭の形】真ん中清水山【お腹を突き出したような形】左側の低い山は高台山【足元】明日はねねさんの高台寺へ、旦那が高いところなら私は地中深く低いところで、旦那をそっと見守りたいと。
2012.10.22
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秋晴れの快晴の日が続きます。京都は、朝最低気温10.3度でした。 本日は、一昨日の三十三間堂の直ぐ側にある、豊臣秀吉に関係する遺跡をご紹介します。秀吉が三十三間堂にも関わっていたことは、「通し矢の禁止令」の古文書で明らかで、方広寺には、権威誇張のため、奈良の大仏さんより大きいものを建てましたが地震で壊れました。そして死後近くの阿弥陀が峰の高き場所に遺言で葬られました。 あの天下人でありながら、辛うじて、墓はあっても、秀吉独自の菩提寺がないことに、気付きます。 明日は、身内の豊臣秀次の菩提寺「瑞泉寺」をご紹介します。 京都駅から、七条通りを東へ、「七条大橋」西詰めから、車を停めて「東山三十六峰」を眺めやりますと、頭を南に大きいお腹をつきだして、脚を伸ばす姿が、正に人が寝ている姿にも見えます。 「布団着て寝たる姿や東山」 服部嵐雪布団着て寝たる姿や東山 豊国廟の500段石段下正面この阿弥陀が峰頂上に豊臣秀吉が眠っています 頭が豊国廟のある太閤秀吉の墓で、「吾が屍を都の見下せる場所に葬れ」と言うことで「阿弥陀が峰」の頂上に置かれています。石段500余段有り、脚がわらってしまうほどです。石垣に包まれた五輪塔の石碑があるのみでした。 寧々夫人は、脚元の「高台寺峰」に、「旦那が高い所ならば、わたしは地中深く掘り下げたところに」と謙虚に高台寺に眠っています。お腹は、「清水峰」で、東山区では、代表的な【清水寺】が有ります。 豊国神社(とよくにじんじゃ)伏見城から移築国宝唐門 豊国神社前 【豊国神社】(とよくにじんじゃ) 太閤秀吉を祭神として祀られて居ます。徳川家康により焼き払われましたが、明治時代に再建され、拝殿は伏見城の遺構を持ってきています。徳川家康は秀吉なきとあと支配し、豊臣秀頼に命じて財産を使わすため精銅の大仏さんを建てさせさせました。この大仏さんも寛永の大地震で倒壊、「寛永通宝」に化しました。落慶法要のときに、釣鐘の銘に家康は因縁を付けました。 方広寺の釣鐘白塗りの部分に「国家安康・君臣豊楽」の銘が書かれています。 【方広寺】釣鐘に有名な「国家安康・君臣豊楽」 の銘があり、徳川家康の曲解で「大阪城冬・夏の陣」と豊臣家は滅びてしまいました。 家康の名を安の字で分断・豊臣が栄えるの意。 方広寺の岩だけ当時のまま残っています。 耳塚供養塔 【耳塚】「豊国神社」の前の道の側にあり、秀吉が韓国に野望を広げて攻め入り、韓国の罪無きひとびとの耳や鼻を船で日本に持ち帰り、その数で論功功賞を図った惨い仕打ちに、目を覆いたくなるのですが、その被害の霊に対して「供養塔」が建てられています。「瑞泉寺」での、豊臣秀次一党身内でも痕跡無くなるまでの自己防衛の仕打ちと重ね、歴史上真意は如何に。一方神にまで奉じられている現実、太閤贔屓の方も多いでしょうが、その蔭も京都には遺されて居ます。人間の神格化。野望に残忍な犠牲そして、釣鐘によっての大阪城の滅び。因果報応が、この一画に集められた異様な場所でもあります。
2012.10.21
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昨日は、秋晴れに誘われて、家族で、京都府立植物園の定例のバラ展を家族と観に行ってきました。私のブログのデザインにも採り入れています。府民の憩いの場として四季折々に和ませてくれます。紅葉はまだどこもなく、又の楽しみです。正門付近 コスモス園 サルビア園バラ園背後に比叡山を展望 バラ園噴水・園児たちが写生に訪れる緑の木 緑の木 バラ展会場 19・20・21日 丹誠込めた素晴らしいバラ展でした。本日は、社寺から離れた話題で更新しました。明日から又、三十三間堂周辺の歴史の変遷を知っていただきたく更新していきたいと思っています。
2012.10.20
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京都は打って変わって快晴の冷え込んだ朝でした。世界文化遺産並みお堂と考えられます。 【蓮華王院】【三十三間堂】天台宗 開基 後白河上皇 山号 なし外人観光客・修学旅行には、人気の高い寺院です。明治の煉瓦風の建物「京都博物館」の南向いに有ります。京都国立博物館受付を入りますと、長方形に三十三の間の扉で仕切られた、日本一長い建物に驚きます。観音さまは、人の願いに応じて、三十三身に変化される数に合わせているようです。更に堂内に入りますと、これまた観音さんの立ち姿の多いことに、感歎の声を発せられます。 何せ、真ん中に十一面千手観音菩薩坐像【国宝】(仏師法印湛慶作)が蓮華坐に安置され其の両脇に五百体づつそして、その裏手に一体の十一面千手千眼観音菩薩立像が所狭しと整然と並んでいます。1001とは1000で留まらず1と広がる意義が有ります。 そして観音菩薩の護身役として前列に二十八部衆と風神雷神【何れも国宝】が並んでいます。左右対称の場合は、本尊より左手が上位です。(私達より向かって右側)例えば。「雷神・風神」「仁王の阿・吽形像」「梵天(宇宙)・帝釈天(太陽)」この形式は、「清水寺」も観られましたし、外でも良く観られますので、参考にされるには、最も身近に大きいお姿で拝観出来ます。 何でも「後白河上皇」頭痛持ちだったそうで、夢のお告げにより、紀州「熊野権現」の附近で、自分の頭蓋骨にすすきが生え、その穂が揺れる度に、ずきん・ずきん痛むと。そのことにより34回に及ぶ「熊野行幸」され参詣されると共に、「平清盛」に命じて、数の量の多い仏を祀り頭痛納めに努められたと言う伝説も有ります。お守りの中にも「頭痛封じ」が有るのは珍しいです。後白河上皇の権威から来る気性の激しさから現代風に言えばストレスが可也多かったのでしょう。仏像の数も多ければ癒されると考えたかもしれません。 頭痛除のお守り 廊下を巡ると「通し矢」の歴代の名人の額が掛っています。現代でも伝統として、正月成人の日に、女性による「通し矢」の行事が行なわれています。何故? 【三十三間堂との柳の由来】廊下に書かれていました。 「昔紀州の殿様が鷹狩りをしていました、すると大事な鷹が、柳の枝に絡みつき離れず、短気の殿様が家来に命じて、木を切ってしまえと、其の時弓の名人横曽根平太郎が名乗り出て、枝を払うことで無事、鷹が救われ、柳の精が喜んだ」後に弓の名人の許に「お柳」(おりゅう)と言う別世の美人が訪れ、お嫁にと二人の間に「緑丸」が産まれました。平和な家庭でしたが、ある時、お柳が悲しくも「私は実は貴方に助けられた柳の精です。京の都に狩り出されることに成りました」と実は此処三十三間堂の「棟木」に供出されることになったのです。でも誰の手でもびくとも動かなかった柳の木に、「緑丸」が優しくお母様と泣く泣く言って、手で優しく摩ると、動き出したと言います。正月行われる、弓の通し矢の行事として、残されています。 1月15日弓の遠し矢の場所皆様、急がれるため殆ど見ておられません。 仏師「故西村公朝和尚」さんの二十八部衆の面白い観方を一部披露します。【神母天王像】は【鬼子母神】(きしもじん)関東では信仰が厚いそうです。シンバルを両手で鳴らし、その音を目を真中に細め、静かに聴こうとしている彫刻。 我が子が500人も有りながら、他人の赤ちゃんを見ると全て食べてしまう鬼女でした。お釈迦さんが堪らず、彼女の子1人を隠されましたところ、彼女は気が狂ったように泣き叫び探したそうです。其処でお釈迦さんは「500人の内一人でも亡くした母親の悲しさ、喰われた他人の母親の嘆きや如何ばかりか」と諭されました。心を180度改め,幼児を護る安産の福の神に成りました。【阿修羅王像】(あしゅら)喧嘩・闘争を好み、梵天・帝釈天とも闘いました。これも、お釈迦さんに諭され仏の味方と成りました。眉間にも目がある三つの顔を持ち合わせています。奈良・興福寺の【阿修羅像】は、東京でも大人気となりました。私個人としても、仏像で最も愛好しています。【迦楼羅王像】(かるら)コブラ(蛇)を常食の巨鳥。鳥頭人身の形を採り、横笛を吹き、右足先で リズム・調子を採るユーモアな像に観られます。インドの神さまです。【帝釈天王像】(たいしゃくてん)右手に太陽をあしらった鏡を持っています。【摩喉羅王像】(まごら)眼が眉間も合わせ5個もありますよ。 こうして観ていきますと「仏像」にも興味が沸いて来るのではないでしょうか。苑内に庭園がありました。布団着て寝たる姿や東山 服部嵐雪境内の奥、に、豊臣秀吉の眠る阿弥陀が峰と左側は、清水寺の音羽山がのどかに、見えました。
2012.10.19
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今日も京都は朝から雨模様です。一昨日療養中外出は控えて居ましたが久方ぶりに、三十三間堂付近を巡ってきました。NHK大河ドラマ平清盛も大詰めです。後白河法皇の壮大な離宮【法住寺殿】の一角に法皇は勅命により清盛に三十三間堂を1164年創建したと伝えられています。柳と三十三間堂法住寺殿跡地三十三間堂外の向いに位置し、そのお隣に75代後白河天皇の御陵そして、養源院が並んでありました。恐らくどなとも知られずひっそりとしていました。 語白河天皇陵養源院門 参道徳川の三つ葉葵参道の現在の紅葉三十三間堂外側からこの向かいに養源院があります。修学旅行生がタクシーでそして外人の方も多く見かけます。殆どの方は、日本一細長いお堂の中を1001体の観音像に驚きそのまま退散される方が多いですが、往時火災で持ち出されたのは、観音さんの前に並んだ鎌倉時代の国宝二十八部衆と風神・雷神に観察されるゆとりも無いようです。タクシー利用の修学旅行生時代は代わり、桃山時代には豊臣秀吉がこの周辺を広く確保し方広寺では高さ19mの木造大仏(奈良の大仏14.9m)を建てたとされています。秀吉死後、墓地を背後の阿弥陀が峰に葬り徳川家康によって、秀吉の所縁のものは、ねねさんの願いで太閤塀と南大門だけが、現代遺されています。南大門と築地塀 瓦に五七の桐紋歴史の流れを推し量りながら、明日から順次寺社の説明にはいりたいです。後白河上皇も、平清盛も、権力を持たれて三っつの事ができないと言われた(加茂川の水・賽の目・比叡の僧兵)72代白河天皇に縁があり、後白河天皇は、鳥羽天皇と待賢門院さんとの子で、平清盛は、父平忠盛だが、祇園八坂神社境内にある忠盛灯篭のゆわれで、白河天皇のご褒美として、白河院の女房祇園女御(妹の説?)与えられた母とも言われています。あれだけ歴史上の有名人物でも仔細が判然としていません。いずれにしても両者気性は激しかったようです。
2012.10.18
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本日はあいにくの雨の日となりました。昨日は快晴で、全く久方ぶりに、 三十三間堂周辺の取材に出掛けました。平清盛の建てたお堂で明日からその周辺の更新をしたいと思います。 【二条城3.】大広間を過ぎますと、更に奥に、【黒書院】と【白書院】があります。【黒書院】は、奥御殿で、将軍と親しい諸藩の大名の内輪の対面所です。特に紀伊・尾張・水戸の「御三家」で、「大政奉還」の審議は、この部屋で行なわれたといわれています。注目すべき襖絵は、「狩野探幽」の弟「狩野尚信20歳」の桜の絵が、描かれ、兄の豪壮に対して、とても和やかな、優しい 落ち着きを感じさせる襖絵です。【白書院】いわゆる、【大奥】で、将軍を囲み、将軍にお茶を運ぶ「女官」控える「局」と控える「女官」が、人形で表しています。襖絵は、狩野兄弟のお師匠「狩野興以」の「山水画」です。此処より、折り返し、牡丹の間・ソテツの間そして、二条城から手渡される、パンフレットに「鷹」の図がありますが、大広間の裏「四の間」に豪快な「老松にとまる鷹」の絵に、目を輝かせてくれます。この部屋の左方の欄間には、牡丹、往路大広間の三の間がその裏側になり、同じ欄間に「孔雀」が彫られている事に、ご注目下さい。厚さ35cmkの幅で、異なった「彫刻」がなされています。老中の間そして最後に「勅使の間」を見て、下足した場所に戻ります。部屋数33室・畳数800畳余り有るそうです。 とても広くって、第一段階ここから時間がないので、引き上げるが多いです。 特別史跡【国宝】・二の丸庭園更に、玄関の出て、右手に「庭園入り口」があり、【二条城二の丸庭園】(特別名勝・国宝並み)小堀遠州作庭。豪壮な石が並び、瀧が流れ、石橋・鶴島・亀島と配置良く、庭園の「要素」を備えています。 庭園入り口を入って、直ぐ右手に、先ほど巡った「二の丸御殿廊下」の軒下をのぞいてみますと、「鴬張りの仕組み」が見えます。本丸への門 内濠 本丸此処で、引き返す方も有ります。堀の橋を渡りますと第三段、【本丸御殿】天明の大火で、焼失、現在は京都御所に在った、旧桂の宮御殿を移築されました。庭園は明治時代に作庭、精洋風に作られています。 天守閣があった跡地【天守閣跡】天明の大火の直前、落雷で焼失しました。現在平坦な空き地に、なっています。帰路。【清流園】江戸時代に「角倉了以屋敷」から建物の一部と庭石800個を譲り受け全国から名石300個と集め、「和風庭園」と「洋風庭園」を作庭。茶室もあり、大茶会とか、国賓の接待所に利用されました。土蔵。収納庫(米蔵)そして台所・御清所には、人形が有り、「お毒見役」も、見られます。 清流園四季に季節の花が彩り、時間にゆとりがあれば、広域に散策を楽しめる市民の憩いの場所でもあります。
2012.10.17
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今朝も秋晴れ、何処か出掛けたい気分の日です。テレビでははや紅葉の姿も見せかけてきました。本日は、美術館並みの狩野探幽の襖絵等みられる国宝の「二の丸御殿」をごあんないしますが、撮影禁止で、見ていただけないのが残念です。 国宝・二の丸御殿の玄関内部は、写真が撮れないので、説明文のみと成ります。【二条城2.】 お城の中って、どんな構造に成っているのでしょう。下級武士から、殿様まで、そして「大奥」と、テレビで紹介されますが、実際に目の前に、見せてくれますのが、ここ【国宝・二の丸御殿】です。玄関には、龍安寺で、ご紹介した【懸魚】(げぎょ)が、目立ちます。下足を脱いで、スリッパに履き替えます。順次各部屋ごとに、説明付のボタンが、設置されています。短いですからね利用されると面白く見られます。【二の丸御殿】(国宝)桃山時代武家風書院造りの代表的な建物です。•1. 【車寄】(くるまよせ)・遠侍に付けられた御殿の玄関です。欄間を見上げますと鶴・牡丹・鳳凰が見られます。秀吉の造って壊した聚楽第の遺稿といわれています。豪華ですね。•2. 【遠侍】(とおさむらい)・柳の間・若松の間・勅使の間 お城に参上した大名や外来客の控え室と成っています。柳の間・若松の間・襖の絵により名付けられました。共に「目付役」が、来殿者の受付をする所で、来殿者の心を和らげる雰囲気があります。虎の間・三部屋に分かれています。大名の控え室で、虎と豹の絵が描かれています。説明では、当時生きた現物を見たことがないので。虎を雄・豹を雌との構想で、微笑ましいです。城の威厳。武将の厳しさを表現したのでしょう。何れも【狩野派】の絵とされています。3.【廊下は鶯張り】知恩院でも、紹介させてもらいましたが、皆様が廊下を歩かれると、「きゅつ・きゅっ」と音がします。「忍びの者が、潜入してきても直ぐわかる仕掛けとも言われています。後ほど、庭園に出られたときに、建物の廊下の下部を覗きますと、仕掛けが解かります。4.【式台】式台の間・老中の間。老中の間 老中と参上した大名と挨拶を交わした場所 【狩野探幽25歳】豪華な老松が襖(ふすま)に描かれています。「切手」に登場しました。 東入り口の杉の戸の【八方睨みの獅子】何処から見ても正面を向きます。5.【大広間】 「一の間・二の間」将軍と緒大名との対面所。最も大切な場所です。人形がずらりと並んでいます。将軍は、小姓と、上座に控え、「武者隠しの部屋」も控え、「桃山時代」の「武家風書院造り」典型をなします。違い棚・付書院、天井は二重折り上げ格天井(ごうてんじょう)この部屋で、【大政奉還の儀】が行なわれました。265年間の徳川幕府でした。戦国時代日本人同士が戦を始め、我こそ天下人と野望を逞しくしましたが、戦の無い国へと徳川が漸く15代の泰平の世を築きました、然し封建思想もあって、開国も伴ないここで大政奉還がおこなわれました。日本の黎明の場でもあります。
2012.10.16
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秋も深まり、京都観光のお客さまも増えてきました。御所の近くに徳川幕府は朝廷との交渉しやすく二条城を築城し伏見城は廃城となりました。徳川幕府は15代続き現代に至るまで、文化財は世界文化遺産の評価を得られるほどに客光を浴びています。 本日は、修学旅行生では、欠かせぬ二条城です。【二条城1.】世界文化遺産登録 修学旅行生が、近年タクシー観光を各社利用される学校が増えて来ました。一見贅沢の様ですが、安内による【見所】貴重な時間の有効性、迷わずに目的地が、多く観られます。そして何より大切な事は、【安全管理】父兄の方が一番我が子の安全を心配。要所に先生方が、待機して生徒さんたちに、安堵感を与え、微笑ましい光景が、見られます。二条城の外周 二条城の周囲は、2km(京都御苑は4km)ジョギングされる方を多く見かけます。それだけに、観光コースも三通り1.二の丸御殿の内部だけ見て帰られる2.二の丸御殿と池を廻って帰る。3.本丸庭園も観られる方。でしょうか。 二条城のあらまし•1. 徳川家康が、上洛の際の宿所として、1603年造営•2. 徳川家康と豊臣秀頼との、二条城会見がここで行なわれました。•3. 家光の時、後水尾天皇をお迎えすることで、外堀の西半分を拡大し、城郭として、盛大な宴が、模様されました。後水尾天皇の中宮が、家光の実の妹で【和子】(まさこ)後の【東福門院】で尚更に盛大にお迎えの設備が整いました。•4. 家光以降は、将軍の上洛もなく、幕末14代家茂の上洛が有りました。•5. 1750年落雷で、天守閣焼失。1788年天明の大火で、建物一部焼失しました。•6. 1867年(慶応3年)15代将軍徳川慶喜の【大政奉還の儀】が二の丸御殿大広間で行なわれました。•7. 1884年徳川幕府の終幕で、宮内庁の所管となり、二条離宮と改称されました。現在は、京都市管轄となりました。•8. 【国宝・二の丸御殿】•9. 【特別名勝・二の丸庭園】小堀遠州作庭 順路•1. 駐車場前の受付。•2. 東大手門(重要文化財) 暴れん坊将軍によく出てきます。東大手門 •3. .番所 江戸から毎年2組(1組50人)が、4月に交代で派遣されます。裃姿(かみしもすがた)が上役の人形です。坐姿は、番士の人形です。•4. 土塀に5本の筋が見かけられます。【筋塀】と称し、門跡寺院等寺格を表すと申しますが、京都では殆ど5本です。寧ろ「飾り」と思えます。•5. 【唐門】二の丸御殿の正門。西本願寺の唐門と同じく、「伏見城」から移築されたとの伝えです。良く観ますと「雲龍」「竹に虎」「牡丹に唐獅子」等豪華で鮮やかで、盛んにシャツターを切って居られます。 国宝・二の丸御殿•6. 二の丸御殿の入り口前庭、プロの写真家が記念写真をと待機しています。 他でも、シャツターチャンスと考えてよいでしょう。次回は、御殿内へ。
2012.10.15
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今年も10月22日の時代祭りが近付いてきました。昨日ご紹介した、青蓮院の門前からも、朱色の鳥居が見える位置に有ります。京都の都を定められた桓武天皇をお祭りした平安神宮は意外と新しく、明治の文化黎明の、遷都1100年記念で建てられました。筑後120年程度です。 【平安神宮】祭神 桓武天皇(京の都を制定された天皇)・孝明天皇(京の都の最後の天皇)【平安遷都1,100年を記念】として建てられました。 朱塗りの大鳥居が京都市美術館の前に立ち、小学生6人が手を繋いで繋がるほどです。 大鳥居 正面に【応天門】がカラフルな姿で建っています。中国の「長安」に模して造られた物のようです。 応天門 中に入りますと、正面に【大極殿】向かって右に【左近の桜】楼閣として【蒼龍楼】が向かって左に【右近の橘】楼閣として【白虎楼】がこれまた、カラフルに建てられています。本殿左近の桜右近の橘白虎楼門を潜ったところに「手水」が有りますが、「手水鉢」にも同じく「蒼龍」「白虎」の姿が彫られています。四神相応として東・西・南・北は、青・白・赤・黒となり、夫々「蒼龍」「白虎」「朱雀」「玄武」からの配置と思われます。白砂を踏みつつ拝殿まで実に優雅で明るく広々として、雄大な気持ちに成れます。外国人の観光客もとても多いです。 社殿で礼拝した後、案外其のままでお帰りになる方が多いです。社殿の裏にとても素晴しい池を伴う大きな庭園が三部に分かれて、待って居ます。穴場的存在です。 拝殿の西側に【庭園入り口】があります。 入口から入ったところに、【チンチン電車2号】が置かれていました。琵琶湖疏水で日本で初の発電所が開発され、此処岡崎公園では万国博覧会が催しされ、電車が走りました。 日本初のチンチン電車前振れと言って、電車の前には車夫が「あぶない・あぶない電車が通る」手を振って走ったそうで、警告の「チンチン」は電車からでのどかでした 【小川治兵衛】明治の造園家で、【白虎池】から【蒼龍池】ここでは、有名な【三条大橋の石の橋桁】が池の中をよぎることが出来ます。 蒼龍池龍の蛇腹石白虎池白虎池 【栖鳳池】(すほういけ)には【橋殿】が架かり、中央屋根に【鳳凰】が模っており池に写す姿は素晴しいです。四季折々に咲く花を愛でることが出来ます。 【橋殿】鳳凰がかざられています 栖鳳池の水面 結婚式場の建物が見えます。「栖鳳池」の側に、神宮の結婚式場があり、和服姿の新婦の姿をよく見られます。あの有名な「石川さゆり」も此処で挙式されました。こうした、優雅な場所で皆様に祝福されて、幸せで満ち溢れることでしょう。桜・かきつばた・紅葉何れの時期も心和みます。 時代祭りは、毎年10月22日に京都三大祭りとして行なわれます。794年延暦13年10月22日は、「平安京」の誕生日でもあります。
2012.10.14
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大原から、法然上人ヲシリーズで続けてみました。数々の足跡を京都観光のためにものこしておられました。本日は、知恩院に隣接する賞蓮居にご案内します。法然上人のお弟子に関係します。 浄土真宗を広められた、親鸞上人さんも、天台宗の門跡寺で僧になる、得度式を迎えられ、隣接する知恩院の境内で、お師匠さんとして、法然上人さんの教えを確りと会得されました。このあたりは、天台宗→浄土宗→浄土真宗の経緯が生まれた聖地かもしれません。 【青蓮院】 (しょうれんいん) 天台宗 開基 最澄 山号 なし天台宗五門跡寺の一つとして、【粟田御所】とも云われる、格式の高い寺院です。 玉座「天明の大火」で御所も焼失した時に、「後桜町天皇」は此処を「仮御所」とされ、その玉座の間も残されています。 樹齢八百年目楠門前には樹齢800年の楠が、迎えてくれます。5本の筋塀を見ながら 親鸞上人童形像 表御門を入り、受付より、履物を脱ぎ、廊下伝いに「勅使門」からの玄関間に至ります。その勅使門の院内に歌碑が有りました。実は、【親鸞上人】がこの寺院で、【得度】 (とくど)(出家なさること)されました。未だ幼少の身で、出家の決意に悩まれた結果の句が書かれています。 歌碑 「明日有りと 思う心の仇桜 夜半(よわ)に 嵐の 吹かぬものかわ」 宸殿前の左近(さこん)の梅・右近(うこん)の橘 宸殿前庭 廊下伝いに【宸殿】に、此処には、堂内に「親鸞上人・得度をされた場所」として、立て札が立っていました。此処も「宸殿」の前は、左近の「梅」右近の「橘」が配置されていました。本堂の西部屋には、「浜松の襖絵」が、東部屋には、【青不動三尊】【国宝模写】の掛け軸が、掛けてありました。【日本三不動】園城寺(おんじょうじ)(滋賀・三井寺)黄不動・高野山明王院の赤不動が有ります。黄は、人間の皮膚の色、赤は動脈そして、青は静脈、を表わすとか。更に渡り廊下を進みますと、先ほどの「後桜町天皇」の玉座の部屋が有ります。格式の高い「格天井」(ごうてんじょう)の間に中国風の襖絵がきらびやかに画かれていました。 滝と池を伴う回遊式庭園が最も相応しく、鑑賞出来る部屋でも有りました。 「一文字の手水鉢」更に廊下伝いに、【一文字手水鉢】一の字が長く彫られた手水鉢が、目立ちました。そして 庭園書院造りの間】へ、此処からの庭園の眺めも落ち着きが有って良いものです。亀島・鶴島・石橋・滝そして灯篭・茶室が眺められました。一旦、履物を履いて、庭園を巡る事も出来ます。 昔は、庭園の芝生の上で、舞妓さんたちが、お琴の演奏を興じて居られた時がありました。一般には、出来ませんが、庭園の奥から山道を辿りますと、【将軍塚】に、至ります。【青蓮院別院】としての尼寺に成っています。
2012.10.13
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ノ-ベル文学賞は予想に叶わず、中国の莫言氏が受賞、村上氏は高く評価されましたが、今回はおよびませんでした。でも莫氏は日本人作家の影響も受け日中の友好の大切さを中国人のネツトでも村上氏の評判はよかったそうです。政治感覚でなく文学には国境は無いと思います。 世界文化遺産17箇所もおわりましたが、それに匹敵する社寺が 京都には、多く観られます。その一つが【知恩院】です。法然上人が説かれた、【浄土宗総本山】です。弟子の親鸞上人も同じく【浄土真宗】として、本願寺があります。全国から法要のため多くの信者さんたちが、お参りにこられます。 鐘楼-【知恩院の除夜の鐘】大晦日と言いますと、テレビでも表題のシーンが放映される事が多いですね。108つの煩悩を振り払う、僧侶十数人掛かりで、撞かれます。【重さ70トン】 御影堂(みえいどう)大河原の頂上の真ん中に瓦が三枚ほどくくられてあります【知恩院】(ちおいん)は、浄土宗の総本山とされ、法然上人が開祖で、一般大衆でも難しいお経を唱えなくっても、ただ【南無阿弥陀仏】と唱えるだけで阿弥陀さまの世界【西国極楽浄土】に召されるということで、日本全国信者さんが大勢信仰を持って居られます。 御影堂(みえいどう)は法然上人が祀られ、大きい建物です。何でも、【左甚五郎】の作と言われています。 過日、疑問にずっと感じていましたが、信仰の対象と成るはずの【阿弥陀堂】が西側に小さくって、聖人とはいえ【御影堂】がとても大きいことに、和尚さんの説明では、阿弥陀堂は【礼拝堂】であり御影堂は、【説法堂】として広く多くの人達が法話を聞くお堂と。やっと納得できました。 長い竹の棒で位置を説明します。 有名な【忘れ傘】 が正面向かって右側の軒下に見上げるとひなびて居ますが、見られます。実は忘れたのでなく、木製の建物として、最も恐ろしいのは、【火災】です。それに対応して、水に関係する【傘】を置いたのでしょうね。 屋根の頂上の中央に【瓦三枚】 が縛られて置かれています。和尚さんのお話では、作者は半永久的に残したい意味で、「この建物はまだ未完成ですよ」の意図と考えられます。人間も慢心しないで未だまだ足らない事が多々あります謙虚さを説かれていました。寺社では、隠れた為になる教訓が気付かない所に有るようですね。 各観音開きの高さ3mはありましょう扉も、指一本で動くほどに。真っ直ぐ削られた名工が証明されます。錠前の下部にカッパとかスッポンが出入り口を守る魔よけとして存在していますよ、実に微笑ましい存在です。 西側に阿弥陀如来の祀る阿弥陀堂があり、阿弥陀像の両手の指をよく見ますと、親指と人差し指を交えて居られます。皆様の仏壇を観察してみてみられては!、(仏像の観察) 更に奥に行きますと、廊下が【鴬張り】 になっています。忍びの者の侵入を察知する為(城構え)そして更に進みますと、大柄杓(ひしゃく)が手の届かない、梁(はり)に掛けられ、【シャクに触るな】につながります。又、柄杓は、多くの人を救いとるの意。 あまり上手に画けて、【抜け雀】【三方正面真向の猫】観る者が位置を変えても、親子の猫の目がこちらを見ている。日本一大きい三門 一度は観られると良い豪華な【三門】は日本一大きいとされています。その上層部には、建築の責任者寺社奉行【五味金右衛門夫婦】の【白木の棺】と像が置かれています。予算超過でその責めを採り自刃。三門は、徳川二代将軍秀忠公によって建てられ、楼上には、お釈迦さんが、祀られて居ます。お釈迦さんは両手の指を伸ばしておられます。(仏像の観方) 三門から御影堂まで、急な石段【男坂】となだらかな【女坂】があります。七不思議のひとつ【瓜生石】 二条城に通ずるミステリ地下道の出入り口される【瓜生石】この石の上に祇園の牛頭(ごず)天皇が降り大石から瓜が実った。 以上を【知恩院の七不思議】とされています。知恩院は、二条城と御所を監視のための徳川のお城でも有ったようです。 御殿の東北には、東照宮があり、家康・秀忠を祀って居ます。庭薗も観られます。 知恩院境内の最も聖なる地法然上人御廟所石段を登りつめた場所 御影堂の東に急な石段を登り詰めますと、【勢至堂】(せいし)即ち法然上人のご幼名でありそして、【御廟】が有ります。その勢至堂の裏側即ち北側に、NHK大河ドラマ天地人で話題となった、徳川家康の孫、豊臣秀頼に嫁がされた【千姫の墓】があり、京都の市街が、美しく見渡せます。千姫の墓千姫も。父秀忠公と静かに京都を見守ってくれていましょう。 東照宮への庭園 御影堂の東側から勢至堂・御廟への石段登り口
2012.10.12
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今回ノーベル賞を授与される、山中教授の京都大学に最も近い観光寺院の【真如堂】です。旧三校の校歌 くれないもゆる に出てくる「吉田山」に位置します。昨日ご紹介した、金戒光明寺に隣接し、奥に存在する「会津藩の墓地」を通り抜けますと、「三井家の墓地」から真如堂に通じています。 法然上人さんが、比叡山からの辿られた寺院関係を続けています。 応仁の乱を免れた阿弥陀如来さんを祀る 三重塔【真如堂】 (しんにょどう)【眞正極楽寺】(しんしょうごくらくじ) 天台宗山門派 開基戒算山号 鈴声山(れいしょうざん) 銀閣寺庭園の小高き枯山水の滝組の道から望める前方に見えます「吉田山」 (旧三高の校歌で有名)を一名【神楽岡】(かぐらおか)とも言われます。即ち「山号」として「鈴声山」で「仏法有縁真正極楽の霊地とされていました。その岡の南の方に「真如堂」が建てられています。 本尊阿弥陀如来像は、【頷ずき弥陀】(うなずき)と呼ばれ、作者は、慈覚大師円仁(天台第三世座主)が比叡山で彫り終えられたとき、 「修行者の本尊に成って下さい」 と問いかけられると弥陀は頭を三回横に振られ否定されたそうで、「それでは都に降りて一切衆生、特に女性をお救い給え」 と念じられましたら、弥陀は三度うなずかれたそうです。比叡山常行堂に安置されていましたが、後に開山戒算上人が「真如堂」の本尊としてお招きされました。ひととき女性と言う事で「一条天皇の母君」「藤原詮子」離宮に安置されたともいわれています。「来迎の阿弥陀像としては、最古で、応仁の乱でも逃れておられます。 向井去来の歌碑法然上人・親鸞上人も比叡山から悟りを開いて先ず此処の阿弥陀さんに礼讃されたことで、向井去来も詩を残しています。 涼しさの 野山に満つる 念仏かな 去来そして、去来の大きい墓が境内・塔頭に有ります。【日本三如来】 信濃善光寺の阿弥陀如来・嵯峨清涼寺の釈迦如来・真如堂の阿弥陀如来 涅槃の庭 背景大文字如意ケ嶽 涅槃の庭の別庭に近代感覚の石庭【涅槃の庭】 (ねはんのにわ)大文字「如意ケ嶽」東山を借景として、石組みで釈迦の横たわれた姿が見られます。別に【涅槃図】も掛け軸として存在し、珍しく猫くんが神妙に画かれています。何故ならお釈迦さまが中毒で、お母さんの摩耶(マヤ)夫人が天より、薬袋を投薬されましたが、周りに「沙羅双樹」が有り。その樹の枝に引っかかって届かず、(絵にもあります)ねずみくんが、登って取りに行こうとしたときに、猫くんが阻んで、お釈迦さまに届かなかった次第。猫くん「ご免なさいと反省しきり」借景の東山も、大文字山(如意ケ岳)がお釈迦さんの頭として寝て居られる姿が見えます。 春日局の桜【春日局の桜】 本堂の横に「春日局のお手植えの桜」家光の乳母で父上の「斉藤利三」の菩提を弔うために植えられました。其の側に「利三の墓地」が又恩人の絵師「海北友松」(かいほうゆうしょう)その外「落柿舎の住人」芭蕉門下十哲「向井去来」の墓も有り眠っています。奥には「三井家の墓」が広々と有りました。 境内に去来の寺がありました。嵯峨野では小さい墓石でしたが四季折々に、桜・紅葉の名所と成っています。わらべ唄にもうなづき阿弥陀さまの庶民の暮らしへの思い遣りが伺えるようです。 ああ 真如堂(しんど) めし黒谷さん(くったか) ここらで一ぷく永観堂(ええやろう) お茶漬さらさら南禅寺(何杯や)
2012.10.11
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82代後鳥羽天皇は安徳天皇の次の天皇で法然・親鸞上人を流刑然しおん自らも北条に攻められ隠岐島に御子順徳天皇も佐渡島に配流の浮世となりました。大原陵で眠っておられます。この時代では、天皇が上皇になられて問題になられたのでしょうか。 【安楽寺の縁起】「紫の庵の明け暮れに 心を澄ます谷水の流れを人の聞き伝え 人里まれなる鹿ケ谷(ししがだに)なお山深く分け入りて 紫の庵を結びつゝ」 「御門の寵愛浅からず 数多の官女の嫉妬よりとかく浮世を厭い捨て 菩提の道を求めんと一念心を傾けて 剃髪染衣を求めんと」 安楽寺和賛 住蓮上人・安楽上人お二人の念仏のお話に惹かれて、大勢集まり、精進の妨げと更に山深く庵を求められたとき、一匹の白い鹿に導かれ鹿ケ谷の山中で姿を消したので、仏の導きと、其処に紫の庵を設けられました。本堂一方、後鳥羽上皇の寵愛を一身に受けた 女官、松虫・鈴虫は、当初清水寺で法然上人のお話に救われ、後に 上皇の紀州へのみゆきの留守に、宮中を抜け出し、此処「紫の庵」に駆け込み、上人の宮中へ帰ることを進めるも、仏道への志高く、両姫は見識も高く美しい姿も投げ捨て、両上人によって、剃髪をされ、出家されました。松虫19歳・鈴虫17歳でした。鈴虫・松虫の供養塔後鳥羽上皇の逆鱗は恐ろしく、兼ねてより意向に適わぬとして、住蓮・安楽上人は斬首。 法然上人は讃岐国(高松市)・親鸞上人は越後国(上越市)に流罪。【建永の法難】仏道の僧でありながら罪とされました。 松虫・鈴虫尼僧は、自分の行いが原因で、両上人が、殉教されたと知り、嘆き悲しみその後、瀬戸の生口島(いくのしま)(尾道市)で念仏を捧げ松虫35歳・鈴虫45歳で入寂。 後に、法然上人が戻られ、此処に両上人の菩提を弔う為、草庵を復興「住蓮山安楽寺」と名付けられました。 【鹿ケ谷かぼちゃ】(ししがだにかぼちゃ)無病息災のために、7月末の夏場の健康維持のためにも、寺院で炊き出し行事が行われます。 法然上人さんは、当時【清水寺】で【念仏道場】を最初に開かれたとされています。【阿弥陀堂】には、その旨と上人さんの像が祀られています。 鈴虫・松虫も法然さんを清水に訪ねて、その法話に、感じいれられたともいわれています。 入口京都市観光局の立札安楽寺住蓮山と号し、浄土宗の寺院である。鎌倉時代の初め、現在地より東一キロメートルばかりのところに法然上人の弟子住蓮坊、安楽坊二僧が、念仏場を建てて人々に念仏をすすめた。たまたま後鳥羽上皇官女松虫、鈴虫が教化をうけてひそかに出家する事件がおこり、上皇の立腹をうけ、「念仏停止」の宣下によって、二僧は死刑、法然上人は土佐へ親鸞上人は、越後へと配流された。これがいわゆる建永二年(一二0七)の法難であるが下って室町時代の末、天文年間(一五三二~一五五五)二僧の供養のため伽藍を之の地に再興したのが、当寺である。本尊阿弥陀尊像を安置し傍らは、住蓮、安楽両上人松虫、鈴虫両姫の座像、法然上人張子の像等をまつっている。また境内右手に住蓮、安楽両房の五輪石塔東方山林中に松虫、鈴虫両姫の五輪石塔がある 京都市境内庭園 仏足石 供養塔への登り口 安楽坊・住蓮坊の供養塔 参道 庭園内の千両 本堂の背景 東山 鹿ケ谷
2012.10.10
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山中さんがノーベル賞に選ばれました。40歳代の若さでで日本の誇りです。80歳のお母さまに報告出来て感謝と何回か挫折もあったそうで、9度の失敗から1度の成果を生み出す努力をしたと謙虚に話されていました。今後の難しい病気の医療に実際に貢献できて人様のために成ればと今後も努力すると。 法然上人さんの辿られた寺院をご紹介してみます。 寺院も一つのテーマーでリンクしてみますと、全体図の夫々関与していることで、興味がわくような気がしてまいりました。三千院の道中、熊谷直実の大原問答で師匠法然上人に若し危害が加わればと腰掛けて鉈を持って待機した石を紹介しましたが、今回は鎧を掛けて武士を捨てた松が話題です。一の谷で源義経に仕えた直実が、敵将の平敦盛の首を仕留めたか15歳と言う若武者に戦の哀れを感じて、京にもどり、法然上人に帰依し、菩提をとむらったといいます。(平家物語)御影堂 熊谷直実の鎧掛けの五葉の松【金戒光明寺】(こんかいこうみょうじ)(黒谷)浄土宗大本山 開基法然 開山 紫雲山 吉田山(神楽岡)の南端に位置します。【真如堂】の奥に三井家の廟所があり、地続きに南へ歩みますと、 会津藩の墓地【会津藩】の墓地が広く繋がっていました。此処「黒谷」に本陣を構えて駐屯していたと言うことです。平和の時代を迎え、思わず当時の悲惨な歴史を顧みて、霊の安らかに眠られん事を念じました。 地元では、「くろだにさん」と愛称で呼ばれています。法然上人が比叡山で修行され、43歳のときにこの地で念仏を唱えられたとき、光明があたりを照らされたことから、念仏道場を開かれたとのこと。浄土宗の建物形式にそって、三門・御影堂・阿弥陀堂があり、特に変わった処といえば、 三重の文殊塔石段で高く登った所に三重の搭があり、【くろ谷の文殊さん】として「文殊塔」が一際、美しく建って居ます。 【日本三文殊】で、丹後天橋立の【切戸文殊】・大和【阿部文殊】そして【岡崎文殊】(黒谷)黒谷文殊塔は、徳川秀忠菩提のために立てられ、運慶作と云われています。 「三人寄れば文殊の知恵」賢いと言うよりも、健康的な判断が出来る智恵の授かることを願いたいです。 阿弥陀堂 【阿弥陀堂】豊臣秀頼の再建で、この寺院で最も古い建物で、本尊の阿弥陀如来像は、 「恵心僧都」の最終の作で胎内に「のみ等器具」が納めてあり、「おとめの如来」または「ノミ納めの如来」とも云われています。 山門 【山門】額縁に「後小松天皇」(一休さんの父君)宸翰で何故か【浄土真宗最初門】勅額 が掲げてあります。それは、浄土真宗の意味でなく、法然上人が説かれた、浄土経の真の教え を始めた最初の門の意味だそうです。法然上人は、比叡山から降りて、最初に真如堂の阿弥陀如来にお参りされた後、此処黒谷に草庵を持たれたそうです。浄土真宗の開祖親鸞上人も「真如堂」の阿弥陀如来にお参りされたと云われています。【吉備観音】(きびかんのん) 中国から持ち帰ったもので、栴檀香木(せんだんこうぼく)で造られた観音像で、御影堂内に安置されているようです。 御影堂の裏に、最近庭園を散策できるようになりました。
2012.10.09
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昨日は、地元「御香宮神社」の祭礼の日でした。秋祭り子供神輿、女子ギャル神輿そして本神輿の巡行がありました。 【三千院4】 「勝林院」では、殆ど訪問者無く、ゆつくり「阿弥陀さんの世界」と「声明の調べ」を満喫出来ると思います。正に民衆の為の宗派「浄土宗の発祥の地」とも考えられる聖地で有りました。外に出て直ぐ隣に、「宝泉院」が有ります。【宝泉院】 天台宗 開基 円仁(慈覚大師) 富士の形した五葉の松 法然上人衣掛けの石 入口の小庭 奥の間への庭園 門の正面に樹齢500年余の「富士山型の五葉の松」がどっしり構えています。受付で備え付けの「木魚」を叩くと係りの方が案内して下さいます。額縁の竹林 【額縁の庭】 として、広いガラス戸の間から、片や「近江八景図の庭園」が片や「竹林」が額縁の中で鑑賞出来ます。「抹茶と菓子」が出され、三千院の鑑賞の疲れに、一服落ち着いて外の景色をゆっくり味わわれるのに最適です。竹林の背景には、翠黛山(すいたいざん)(阿波内侍の眠れる山)ほか大原の里が望まれます。 【血天井】 が京都に数箇所有り、その一箇所が此処「宝泉院」でも弔っています。 伏見城で徳川の忠臣「鳥居元忠(とりいもとただ)一党が、篭城で死守して、援軍の届かぬ内に自刃して果てた、血染めの廊下を、天井に上げて、菩提を弔ったと言う。 宝泉院別の庭園 宝泉院庭園 【実行院】天台宗 開基 円仁(慈覚大師) 「声明」の音階・音律を味わえる場所でもあります。楽器は四国の自然石で自由に鳴らして体験が出来ます此処も、抹茶と菓子で庭園を眺めながら憩う事が出来ます。 又、庭を散策するための履物も、用意され冬でも花を付ける「不断桜」も楽しめます。 滝の流れと小規模の庭園形式の「契心園」も落ち着きます。女性のみが、「宿坊」として利用も出来るそうです。 後鳥羽天皇・順徳天皇大原陵【大原御陵】 「実光院」の真向かいに位置します。「承久の乱」(じょうきゅうのらん)鎌倉幕府に破れ「武家政権」が際立つように成りました。82代後鳥羽上皇は、隠岐に、84代順徳上皇は佐渡に配流されました。大原の里で御霊は、静かに安らいで居られる様です。遠く歴史を偲びつつ礼拝。【来迎院】(らいごういん)天台宗 開基 円仁(慈覚大師) 山号 魚山余程、時間の赦せる方しか望めませんが、「呂川」(南谷川)の上流に位置し、慈覚大師円仁の「声明」の根拠地とも言われています。平安時代の末期に「融通念仏の開祖・聖応大師良忍」によって、再興されました。本堂には創建当時の作と言われる薬師・釈迦・阿弥陀三如来の坐像が安置されています。 更に「来迎院」を過ぎて、「律川」(北谷川)の上流かなり山道を辿りますと、【音無しの滝】に出会いました。感無量でした。白糸をたらしたような美しい滝で、巨岩に落下する「水音」は山肌にすいこまれように静けさを深めました。聖応大師が「滝の音」と「声明」が相乱れるのを恐れられ、「呪文」で「水音」を止められたと言う伝説が伝わっています。近くに聖応大師の墓が有ります。今でも仏教音楽「声明」に心して居られる事でしょう。 大原紀行も、此処まで訪れられれば、悔いは残りません。紅葉のころ又賑わうでしょう。雑踏の中でも静かな三千院の奥も愉しんでみて下さい。
2012.10.08
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すつかり秋本番に成りました。 浄土宗の発祥の基盤となった大原問答勝林院・大原問答【三千院3】 京都市内から、かなり遠い位置に「大原」は有りますので、観光時間の関係で急がれる方が多いのか、又ご存知ないのか、「「三千院」の感動をそのままで、「御殿門」から、帰途に付かれる方が、殆どとお見受けします。 その証拠に、秋の紅葉シーズンでは、観光の人並みで混雑していましても、その奥に素晴しい寺院・御陵そして「音無しの滝」を訪問される方は、少なく、ゆったりと味わう事が出来ます。 熊谷直実が座って待機した石 「桜の馬場」を更に北奥に進みますと、「律川」の橋を渡ります。その橋の袂に「法然上人」の弟子「熊谷直実」(くまがいなおざね)が坐って待ち構えていたという石が存在しています。 そして橋の渡った辺りを「鉈捨て籔」(なたすてやぶ)と言っています。更に突き当たりまで、歩を進めますと。正面に「大原問答」で有名な「勝林院」が有ります。【勝林院】 天台宗 開祖 円仁(慈覚大師) 山号 魚山(ぎょざん) 受付(殆ど不在)から石畳の道を経て、本堂に履物を脱いで堂内に、そしてボタンを押しますと、堂内に厳かな「声明」(しょうみょう)が聞かれます。其の雰囲気で本尊「阿弥陀如来坐像」を拝する事ができます。 証拠の阿弥陀さん阿弥陀さんの目は拝する位置によって、怖く・優しく変化します。 僧侶の読経される坐が最も優しく見える45度の角度のようです。阿弥陀さんの手から紐がぶら下がって居ますので、手元の紐を引くと阿弥陀さんと握手した事に成るという事で、浄土へ導かれることを願って実行されています。この手法は、他寺でも良く見かけます。縁があればお試し下さい。 両台座に座して問答 【大原問答】 堂内の本尊阿弥陀如来の前、両側に梯子があり、壇上が備え付けて有りました。一方には、「法然上人」がそして、もう一箇所には、「叡山南都の学僧」と浄土念仏の教理を論議・問答して信服させられたと言います。 法然上人54歳対して顕真(けんしん)権僧正(ごんそうじょう)56歳でした。 既成仏教は、王朝貴族を初め、知恵者、特定の富者のみに適ったもので、貧者・大衆・凡俗は、何等仏の救いも無く、実に仏教とは他山の石・無縁の存在とされていました。そこで法然上人は、叡山で修行し会得された結果。誰もが「一意専心・南無阿弥陀仏」と念仏を唱えることで「極楽浄土に導かれる」と、説かれた時、本尊阿弥陀さんの手から、御光が射したと言うことで、「証拠の阿弥陀」と称されることに成りました。その後「浄土宗」として庶民の信仰と広がっていきました。 このとき師匠「法然上人」に危害が加えられるのではと、弟子の「熊谷直実」は懐に鉈(なた)を隠し持って、近くで構えて居たところ、法然上人にたしなめられ、鉈を竹薮に捨てたという事です。 前庭 前庭 堂内の裏には小さい緒仏像が、並んでいますがその中に「踏み出しの阿弥陀如来像」があります。人を正に救おうと左足を一歩踏み出す、救いの動的表現を採っていますそして「法然上人」の像も有ります。 殆ど貸切状態の様に、来訪される方は、まばらでゆっくりと、妙なる「声明」のお経を聞きつつ阿弥陀さんの世界に心を寄せて拝観できます。「三千院」の人込みが嘘の様です。次回も三千院の置くの様子をご案内しましょう。
2012.10.07
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朝夕めっきり冷えてきました。体調を整えたいです。 本日は、建礼門院さんも慕われたとされる阿弥陀さま【往生極楽院】という 三千院の中心部分をご紹介します。【三千院2】8.【宸殿西の間】救世観世音菩薩像(くぜかんぜおんぼさつ)(重文)鎌倉時代作、当初秘仏で観られませんでしたが、今は公開されています。不動明王像。阿弥陀如来像が祀られて居ます。部屋の中まで入って、拝観されることを、お勧めします。9.【宸殿本堂】正面に112代霊元天皇の御親筆の額が掲げて有ります【三千院】と。 本尊は、薬師瑠璃光如来(やくしるりこうにょらい)で伝教大師の作とされています。 向かって右に歴代天皇の、左に歴代法親王の尊牌が祀られて居ます。本尊は秘仏で観られません。 瑠璃光の庭10.【宸殿玉座】 三千院の中で最も大切な場所です。高貴の方が坐られる事から、此処からの【瑠璃光庭】と【往生極楽院】の眺めが素晴しいです。 瑠璃光とは、薬師如来の世界往生極楽は、阿弥陀如来の世界 玉座は、高貴な方が坐られる為に、「格天井」(ごうてんじょう)になっています。 正面に「王義之」(おうぎし)の【鵞】(が)拓本の大軸が飾ってあります。【虹の間】玉座の前の部屋で、「下村観山筆」天皇を太陽に見立てて画かれた「虹の図」従来の襖絵の常識を破って、鴨居の上の壁にすべきところを、特に「釣り襖」として、天井まで貫く大胆な構図で「虹」が画かれ、世界的に有名だそうです。虹の七彩の美しさもさることながら、下部の壁にまで、「水草」が可愛く画かれているのにも注目して見て下さい。障子の外から手をかざしますと、指の間から虹が映し出されます。「紅葉」ごろは更に美しく反映します。是非試みて下さい。瑠璃光の庭 小さいお地蔵さん11.【瑠璃光庭】本堂前から履物を履き、苔むす広い庭園は、心を和らげます。大きい地蔵菩薩が庭に立って居られます。三千院の美しさ、静けさ、清らかさ、雰囲気を味わう絶好の場所です。「造った庭」ではなく「造ることもなく出来上がっている庭」井上靖が「東洋の宝石箱」とした「池泉回遊式庭園」で、女性の着物姿が「水面にぬれた」と歌った場所かもしれません。想像して鑑賞して見て下さい。【紅葉】【雪】景色は表現の出来ない感動を与えて呉れます。 「薬師瑠璃光」の如来の道場のごとく清らかで自然の姿。「杉苔と杉木立」を満喫して下さい。【有清園】瑠璃光庭の一部で、「往生極楽院」の東側にあります。「さざなみの滝」水音が静けさを感じさせます。あちこちに「童地蔵」石仏が微笑ましく、皆様を歓迎しておられます。往生極楽院内部は写真が撮れないのが残念です。12.【往生極楽院】 【阿弥陀如来】脇侍として【観音菩薩】【勢至菩薩】の坐像がゆったりと祀られて居ます。極楽浄土への御来迎の形で、「観音菩薩」は、蓮華坐を持って居られます。両脇侍は、あぐら坐でなく、「大和坐り」と言ってとても珍しく、腰をやや立て、今や迎えようとされる、動的感じを与えて居られます。「阿弥陀如来の印相」は「上品・上生」で極楽浄土への最高の迎え方をして居られます。仏さんを大きく囲う為、天井は、船底型になっています。彩色は今は剥げてしまいましたが、往時は、美しく極彩色で有ったと考えられます。板塀には、25菩薩三千仏、天井には飛天、柱には極楽浄土に咲く「宝相華」(ほうそうげ)も画かれていたようでてす。 お坊さんのお話では、「建礼門院さまが、この優しく心の安らぎを感じさせる阿弥陀さん三像を目の前にして、わが愛しき子と平家の菩提を弔うに相応しいとして此処大原の里に余生を送ることを決意されたのではないでしょうか」と。次回は、皆様が殆ど見向きもされずに、帰途につかれますが、三千院の奥に素晴らしい内容が潜んでいます。場所をご案内いたします。
2012.10.06
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今朝の京都は秋晴れで久し振りにスッキリしていました。 平清盛の娘「徳子」は、幼くして高倉天皇の中宮(皇后)になられ、壇ノ浦では、幼き吾が子安徳天皇と入水するも、義経にご自分だけ、救い出され、京都の円山公園そばの「長楽寺」で身を整え往生極楽院の慈悲深き阿弥陀如来のお姿に、大原の里を選び「平家一門の菩提を弔う為、」忠実な侍女阿波内侍と優しい里人の支えで女の一生を遂げられました。大原は、歴史の哀れすら感じる場所ともいえましょう。 【三千院1】 天台宗 開基 最澄(伝教大師) 山号 魚山(ぎょざん) 大原は、京都を訪れる若い女性にとって、嵯峨野巡りと並んで人気のあるところです。 「京都 大原三千院 恋に疲れた女がひとり 結城(ゆうき)に塩瀬の素描(そびょう)の帯が水面(みずも)にぬれていた 京都 大原三千院 恋に疲れた女がひとり」 デューク・エイセスの歌声が耳に残ります、作詞家 永六輔が京都の代表として選ばれたようです。 「寂光院」から紫色の「ちそ畑」を眺めながら、坂道を登ったところに「三千院」が有ります。「穴太積」 (あのうづみ)と称して、滋賀県坂本の穴太衆の作業で石垣が目立ちます。地震があれば余計に揺すられて固まる仕組みに成っています。フランスの女性客に説明していましたら 「よっぽど自信が有ったのですね」とジョウクで返されました。桜の馬場と言いますが、紅葉が素晴しいです。 穴太積(あのうづみ)の石垣桜の馬場 大原は、【声明】 (しょうみょう)の道場の地で、「声明」とは、お経に節を付けて、歌う様にお経を唱えます。とても荘厳で仏への世界へと誘われ落ち着きの保てる雰囲気になります。従って「三千院」桜の馬場の両出入り口「呂川」(りょかわ)と「律川」(りつかわ)が流れる「橋」が架かっています。何れも「声明」の音律から付けられたもので、節回しが上手く行かない時に、酒に溺れて酔っ払って言語のはっきりしない人を「ろれつがまわらない」という語源が出来たそうです。【天台五門跡】 妙法院(三十三間堂)・青蓮院・毘沙門堂(山科)・曼殊院・三千院格式の高い寺院で、天台座主の後継者候補が門跡として、仏事に坐しておられる方が多いです。 現在の比叡山延暦寺の総本山で「256世天台座主」になられた「半田孝淳(こうじゅん)座主」は「曼殊院門跡」でした。「三千院」の建物は、【往生極楽院】1143年建設を除き、明治以降にに修理改築された建物と比較的に新しいです。【順路】1.「呂川」に架かる「魚山橋」を渡り、「穴太積」の石塀と茶店で挟まれた「桜の馬場」を散策、【御殿門】の前の石段を登ります。門前に大きく「三千院」の立て札が掲げてあり、記念撮影に、シャッターを切っておられます。 三千院の正面の門 2.受付を済ませて玄関に入りますと、先ず目に付くのが、【香時計】です、朝灯した香の軌跡で時を図る仕組みで、珍しいです。3.同じ場所に、「往生極楽院」の阿弥陀如来の脇侍の一体「勢至菩薩」の大和坐りの写真が大きく飾られています。4.【坪庭】京の都では、昔、面玄関の間口の幅の広さで課税したそうです。そのため奥行きを長くして建造しました。いわゆる「鰻の寝床」と称します。健康上中間に太陽をと言うことで、坪庭を設けました。その雛形が此処にも有りました。家の中に庭を設けたところから「家庭」の語源ともなるほど大切な要素でもありました。「三尊石」植木「千両」そして苔が飾られています。 坪庭5.おみくじの元祖「元三大師」が祀られた部屋が有ります。「角大師」(つのだいし)とも言われお札が置かれています。帰って玄関入り口に飾る事で、魔除けになるとの信仰です。6.【聚碧園】(しゅへきえん)「芝法師琳賢(りんけん)」の原作で、庭師金森宗和が自ら手を加えて今日の清楚にして優雅な庭園が生まれました。池の源は、「音無川」の滝よりで、杉木立の間から「往生極楽院」が望めます。小さい池の奥に「枯れ滝の石組み」は古いです。 聚碧園(しゅへきえん)7.【客殿】最近内部が改造されて、開放的に成りました。客殿から「聚碧園」を眺める事も出来る様になりました。以前は廊下伝いでした。 続く
2012.10.05
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季節のの変わり目、体調管理にご留意願います。平家に対する哀話の遺跡をまとめてきました最終日は、やはりこの方、【建礼門院】さまでしょう。 比叡山の麓にも、寺院が取り巻いています。 特に、京都観光でも、大原・三千院は、嵯峨野巡りに次いで人気が高いです。 本日は、その前にNHK大河ドラマ平清盛に関係する「寂光院」をご紹介してみます。 本堂 境内 参道の門 本堂参道の坂道【寂光院】 (じゃくこういん)天台宗 開基 聖徳太子 山号 清香山 京都観光の嵯峨野巡りに次いで、人気のある大原三千院を訪れる前に、「寂光院」に参りましょう。平家物語に登場します「後白河法皇」の【大原御幸】の辿られた道は、「上賀茂神社」から鞍馬街道を経て、市原・静原街道に入り、【江文峠】(えぶみとうげ)経由大原の里に入ります。普通は「鯖街道」を路線バスも走る道ですが、古を偲びつつ利用するのもまた楽しいです。車も空いています。 594年と言いますから、平安京遷都794年の昔、聖徳太子か父君の31代用明天皇の菩提のため、創建されたと伝えられています。「六萬体の地蔵菩薩」が祀られていましたが、 近代放火で焼失、現在新しく再建されました、本尊地蔵菩薩立像の向かって左に「建礼門院像」右には侍女の「阿波の内侍像」が安置されています。阿波内侍の姿は、「大原女」(おはらめ)のモデルとなったそうです。 建礼門院は「徳子」と言い、平清盛の娘で、80代高倉天皇の中宮(皇后)で、81代安徳天皇の生母で、源平合戦「壇ノ浦」で平家滅亡の際、母子ともに入水されましたが、源義経に母だけが助けられ、一時京都東山の「長楽寺」で、出家され、一説に寄れば安住の地を求め山道を超え大原の里に辿り着かれ、「極楽往生院」の「阿弥陀如来像」の優しさに触れ、「平家一門」の菩提を弔うに相応しいと、余生を「寂光院」で静かに送られたということです。 村人達は、建礼門院を慰めようとして、畑で採れる野菜は勿論、「ちそ」栽培で「柴漬け」を発案、お食事の進むように、親しく付き合われたそうです。「京漬物・柴漬け」の発祥。 29歳の秋も深まるころ、「後白河法皇」が10人の侍女をお供に、お慰めに来られたと言う平家物語・謡曲で有名な「大原御幸」が当時を偲ばれます。 中宮・建礼門院の御陵 侍女・阿波内侍の眠る翠黛山ご主人を常に見守っている 御陵への坂道の参道 建礼門院は中宮のため、院の東隣に御陵として、石段をかなり登ると辿り着けます。 阿波内侍の墓今回初めて辿り着け見つけました 翠黛山・墓地への階段参道謎の苔道の階段初めて訪問 阿波内侍の墓は谷を経て向かいに位置す「翠黛山」(すいたいさん)に階段を登った所で、ご主人を永久に見守りつつ眠って居られます。 千代の松枯れてしまいました雪見灯篭 庭園 境内には、「汀(みぎわ)の池」樹齢1000年の「姫小松」「雪見灯篭」そして滝の流れる小規模の庭園を鑑賞する事が出来ます。 湧き水此処からは一般には入れなくなりました。特別公開となりました。庵室の跡の碑 奥に宝蔵庫積み上げられた石垣は当時の姿を語ってくれそうです。 「建礼門院庵居跡地の碑」が有り、此処に入った途端、静寂と霊気が身に染みて、「寂光院」を訪れたな、と最高の雰囲気を味わう事が出来ます。 未だに「清水」が湧き出て、当時のお住まい方が偲ばれるようです 然し今年訪問しましたところ、「特別拝観」制としての扱いとされて常時は拝観できなくなったようです。極めて残念です。 建礼門院は此処で採れた生花を摘み取り、仏前に供えられたと聞きます。 この庵室で静かに息を引き取られる時に、西(極楽浄土)から紫雲がたなびき薫香が庵室に充ち、空から妙なる音楽が聞えたと「平家物語」に記されているそうです。幾多の悲しみと苦労を体験なさり、御歳59歳で御逝去なされました。平清盛の娘として、幼くして高倉天皇の中宮として、迎えられながら栄枯盛衰平家滅亡でわが子安徳天皇を救うことも出来ませんでした。
2012.10.04
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観光シーズンに入りました。嵯峨野の道中の竹林が旅情を高めてくれます。 平家物語と嵯峨野は深い関係の、遺跡でもあります。人間関係がままならなかつたのですね。大河ドラマ「平清盛」像をどのように、表現していくのか、微妙です。 「祇王寺」のご感想は如何でしたでしょうか?苔の庭を一周するだけでも、大自然の美しさと侘びしさを感じとる事が出来ます。白拍子の「祇王さん」の華やかさの影に世の無情を身を以って体験され、心の癒しに、仏道に出家され、此処「嵯峨野」の静かな地で、漸く人間の尊厳を会得されたのではないでしょうか。【平家物語】「祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)の鐘の声、諸行無情の響きあり、沙羅双樹(さらそうじゅ)の花の色、盛者(じょうしゃ)必衰の理(ひつすいのり)を顕わす(あらわす)。奢(おご)れる者久しからず。ただ春の夜の夢の如し、猛(たけ)き人も遂に滅びぬ。偏(ひとえ)に風の前の塵に同じ琵琶法師の語りが深々と聞えそうです。 祇王寺に隣接した滝口寺の門【滝口寺】 (たきぐちてら)浄土宗 開基 良鎮 山号 小倉山 「祇王寺」の出入り口から、少し山手に隣接して、「滝口寺」が有ります。ここもお寺とは言え、庭先のこじんまりした部屋に訪れるだけですが、「平家物語」「重盛高野の巻」に登場する、平重盛の家臣【滝口入道時頼】と「建礼門院」に仕えた侍女【横笛】の悲恋の舞台となった場所でも有ります語り部とし、縁先で訪れる人ごとに、無表情で滔々と語られたお婆さんも、この世から、浄土に召されました。同じ事柄を終日多くの人々に述べられたご労苦は察するに余りありました。【物語】 清盛の西八条殿での「花見の宴」に於いて、「建礼門院」侍女「横笛」の「舞い姿」を、重盛の侍「斎藤滝口時頼」が繁々と見て、ひと目惚れして恋しく想う様になり、恋文を送る様になりました。ところが時頼の父がこのことを知るや「お前は名門の身にして、将来平家一門に入る身上でありながら、横笛ごときを想い染めるとは」と激しく叱られました。 時頼は、主君の信頼に背いて恋に迷う自責から「これこそ仏道に入る為の仏の尊い導き」と決心して、此処嵯峨野の【往生院】で出家し、名を【滝口入道】と改めました。 【横笛】は、都で「滝口入道」が出家したということを伝え聞いて恨めしく思い、自分の恋心を持って居ることを打ち明けたいと、都から嵯峨野の往生院を探し求めて辿り着いた時はもう日も暮れて、夕闇の迫るころでした。荒んだ僧坊から念仏の唱える声が聞えました。心をときめかして、滝口入道の声と聞き澄まして、真の恋心を打ち明けたく女の身で訪れたことを告げてみると、裾は露で濡れ、袖は涙でぬれ、痩せこけた顔付きは、本心で求め尋ねてきた様子は、誰しも抱き閉めてやりたい気になるも、仏道に仕える者として心を鬼にして、同宿の僧を遣わし「全く此処にはそのような人は居りません、何かの間違いではないでしょうか」と言わせました。 「横笛」は、悲壮な悲しみで帰る時「眞の心を伝えたく」庭の近くに有った石に歌を「血染め」で書いて帰りました。 「山深み 思い入りぬる 柴の戸の まことの道に 我れを導け」 そして保津川に身を投じたという説もあります。 「滝口入道」は、未練が残ったまま別れた「横笛」に住まいを見つけられたからには、修行の妨げと思い【高野山】に移りました。これを知った「横笛」もその後直ちに、奈良の【法華痔】で尼に出家しました。現在本堂に紙製の小さな「横笛像」並びに「横笛堂」があるとのことです。 「法華寺」で尼に成ったと聞いた「滝口入道」は、一首の歌を「横笛」に送りました。 「そるまでは 恨みしかも 梓弓(あずさゆみ) まことの道に 入るぞ嬉しき」 「横笛」やっと心の通じた「歓喜」と「幸せ」をかみ締めて、返しの歌 「そるとても 何か恨みむ 梓弓 引きとどむべき 心ならねば」* 【あずさゆみ】神事に使う弓ですが、詩の「枕詞」として「春」(張る)に掛け、心の春をイメージしているようです。 「横笛」は、仏道を全う出来た心の安らぎのまま、間もなく法華寺で亡くなりました。これを聞いた「滝口入道」も仏道修行を積み【高野の聖(ひじり)】といわれる高僧に成られたと言う事す。【本堂】滝口入道・横笛の木像鎌倉後期の作で眼が水晶(玉眼)竹薮に平家の供養等が建っていす。【小松堂】平重盛を祀る【横笛歌碑】参道の庭にあり、横笛が指を切って「血染め」で、歌を書いて帰ったと言う石碑嵯峨野の雰囲気は、文学で女性の悲話を以って語られています。現代人としてその昔を偲びつつ訪れるのも自然にも触れ、祈りの気持ちにもさせてくれるようです。
2012.10.03
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台風一過本格的な秋らしくなってきました。散歩も愉しく過ごせます。京都の観光もこれからが人出も多くなると思います。NHK大河ドラマも大詰めになってきました。本日は平清盛と祇女に関係する史跡を訪問しましょう。 【祇王寺】 (ぎおうじ)真言宗大覚寺派 開基 祇王尊尼 山号 高松山祇王寺 本堂入口萱葺の門孟宗竹苔庭手水鉢 「嵯峨野巡り」の中心的叙情に溢れた観光が味わえると存じます。「平清盛」の寵愛を失い、余生を尼になって過ごしたと伝えられる「平家物語」に名高い白拍子(しらびょうし)「祇王」にゆかりの寺です。此処にも女性の哀話が話題と成ります。 平家全盛の頃。都に「平清盛」の寵愛を受けた白拍子「祇王」と妹「祇女」が仕えていました。後日加賀の国の「仏御前」が清盛の屋敷に、白拍子として出仕方申し出ましたが、清盛は「祇王には適うまい」と門前払いを受けました。心の優しい祇王は清盛に取り成して。「一度舞いを観られては」と取り成し受け入れられました。 「今様の歌」七・五調の宮廷の舞の歌で 「君を始めて 見る折は 千代も暦(へ)ぬべし 姫小松 御前の池なる 亀岡に 鶴こそ群(むれ)いて 遊ぶめれ」 (大原寂光院の池) 繰り返し三度歌ったが声も筋もすこぶる上手で、清盛の幼児の頃母御から聞いた懐かしい歌に清盛は、涙してたちまち心を「仏御前」に移したと言います。 清盛の館から追い出される「祇王」は、せめての忘れ片身にと、障子に書き残されました。 庭園の片隅に石碑として建っています。萌えいずるもの歌碑 「萌えいずるも 枯るるも同じ 野辺の草 いずれか秋に あわではつべき」 草木が芽を出し初々しく萌え出るのも、枯れてしまうのも、同じ野辺の草(自分たちのこと)の宿命。そして秋が来ると、哀れにも姿を消していく、そうした同じ道を辿るものです。 あくる春清盛より祇王に、「仏御前が退屈しているから、舞を舞うて慰めてくれぬか」と使者をよこすも、あまりの屈辱に祇王は行く気は無かったのですが、清盛の権勢と母「刀自」(とじ)の哀願に抗し切れず,館に赴き歌いました。 「仏もむかしは 凡夫(ぼんぷ)なり われらも遂には 仏なり いずれも仏性 具せる身を 隔(へ)つるのみこそ 悲しけれ」 並み居る諸臣も、祇王の心を察して、涙を絞ったと言う事です。「祇王」は母と妹を伴って、此処嵯峨野に身を寄せ、「仏門」に入られました。暫し年を経て、母子三人が念仏している所へ、竹で編んだ網戸を静かに叩く音がしました。以外や「仏御前」でした。 あれほどの仕打ちを受けたにも拘わらず、祇王も今は仏に仕える身と、心を赦して優しく迎え容れられました。 寺とは名ばかり、こじんまりした苔の庭園の側に二部屋の本堂があるだけです。昔は祇王桜が有りましたが、枯れて今は見られません、秋には、紅葉の葉っぱが苔に散らばり、彩なす光景は心癒されます。訪れられれば、必ず、履物を脱いで、「本堂」に上がって下さい。ボタンを押すと、上記のお話しが、流れます。そしてもう一つ、別室から観られる「虹の窓」を鑑賞してみて下さい。篠竹を斜めに交差した外側に「孟宗竹」が縦に構え、障子を閉めると篠竹から「虹」が写る趣向になっています。 虹の窓本堂の側に親子三人の墓があり、嵯峨野で静かに揃って憩うて居るようです。世の無情から解き話された様に 祇王・祇女そして母刀自の墓右は平清盛の供養等も並んで今は憩うているようです。 次回は、【滝口寺】が隣接して居ます。同じく女性の哀話が潜んでいます。
2012.10.02
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台風17号が過ぎ去りました。そして10月1日を迎えました。平家にあらずんば人にあらずと豪語して奢れれる平家久しからずとなりました。此処嵐山にも「女性の哀話」が平家物語で語られています。 【嵐山】京都観光の「嵯峨野巡り」は、最も女性に人気が有ります。その入り口が【渡月橋】を含む此処「嵐山」です。「山紫水明の景勝地」として訪れる人々の心を遺憾なく癒してくれます。嵐山・渡月橋 大堰 保津川 渡月橋より上流の景色保津川下りの船「角倉了以」が「保津峡」を開削、豊かな渓谷は、JR「亀岡駅」からの「保津川下り」でも、スリル満点で、此処嵐山が「終着船着場」となっています。その船着場から、少し川上に、丘に登る階段が有り、少し上ったところに中国の「周恩来総理記念詩碑」が建っていますが、有名な【雨中嵐山】の詩の表現は、嵐山の表現を遍く伝えて下さっています。 中国の要人が来日の際は、どんなに忙しい日程でも、此処を表敬訪問されます。最近では、「温家宝首相」が訪れられました。現在、折角「日中国交化40周年」の節目の年に両国の間で紛争が不幸にも起こり残念なことです。 周恩来の碑「雨中嵐山」の詩が書かれています。更に「亀山公園」を登りますと、「角倉了以」そして「津崎村岡局」の銅像あります。特に村岡局は、嵯峨野「直指庵の創設者」で、幕末の影の立役者でNHK大河ドラマ「篤姫」の味方・理解者でも有りました。 角倉了以の銅像保津川の開拓者 津崎村岡の銅像 戻って、「渡月橋」は南北に架かっています。見所はブロの写真家が佇む、京都市内から訪れた、渡月橋の手前から嵐山を背景に、シャツターチャンスです。そして渡月橋を南に渡った所から、川べりに降りて、堰を含めて背景に、お饅頭の様に、丸く構えている「小倉山」(小倉山百人一首)そのバックに「「愛宕山」が見える場所も一服の絵に成ります。 真ん中丸い山「小倉山」 此処から更に、南へそして石段を登りますと、「虚空蔵菩薩」(こくうぞうぼさつ)(知恵の仏)を祀る、【法輪寺】があります。地元での言い伝えですが、子供さんたちの「七五三」のお祝いで、智恵を授かる為に、法輪寺で祈祷して、渡月橋を南から北へ、「振り向かないで、渡り切ると、その子に智恵が授かる」ということで、子供たちは真剣な様子で前を見つめて渡る姿は、とても微笑ましいです。川の名が渡月橋の上流・下流で堰と堰とで変わります。上から「保津川」「大堰川」そして「桂川」と嵐山の景勝を求めて、多くの観光客がお見えですが、その殆どの方が、目にとまらないのが、渡月橋の北東詰に在る【琴きき橋跡碑】です。 渡月橋の北詰に碑が建って今す。此処で源仲国が小督の琴の音を聴いたと偲ばれます。小督寓居跡渡月橋から直ぐの所にあります。此処には、嵯峨野の女性悲話の一つが静かに潜んでいます。あの有名な「黒田節」の二節に 「峰の嵐か松風か、尋ぬるひとの琴の音か、 駒引き止めて立ち寄れば、爪(つま)音高き【想夫恋】(そうふれん)」 宮中一の美人でお琴の名手であった【小督局】(こごうのつぼね)は、高倉天皇の寵愛を受けていましたが、中宮であった【徳子】(建礼門院)の父である「平清盛」は「わが娘をおいて何ごとぞ」と烈火のごとく怒り、小督を宮中から追い出してしまいました。高倉天皇は、愛しさのあまり部下の【源仲国】に命じて嵯峨野に身を隠していました小督局を探しに行かせました。嵯峨野の此処嵐山を訪れたころ、高倉天皇を恋い慕う想いを込めた【想夫恋】の琴の激しい曲が聞えてきました。そして出会って事情を話し、宮中へ連れ戻されました。今でも「国道1号線東山トンネル」西出口のそばにある、高倉天皇の御陵の側に天皇の遺言により、眠っています。 小督局の屋敷跡が、渡月橋の少し川上の「局茶屋」の北側に碑が建てられています。馬を止めて琴の音を聴き入る仲国の姿がまぶたに浮かびそうです。 平家物語の一つです。
2012.10.01
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