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多血質の人の本質的な特徴は「豊かで不安定な感情」です。今泣いていたかと思うと、次には笑っていたりします。また、知らない人にも平気で近づき話しかけたりもします。深く考えないで行動するので、腰が軽いです。これは長所でもあるし、短所でもあります。また、話すときの距離も近いです。子どもの場合は特に、顔をグッと近づけて話しかけてきたりします。親子遊びの場などに多血質の子がいるとやりやすいです。「誰か手伝って」と呼びかけるとすぐに手伝ってくれます。(この時、絶対に動かないのが憂鬱質の子です。)そんな多血質の人とは正反対に、一番安定した感情を持っているのが「粘液質」の人です。昨日も書いた通り視覚的な変化にも振り回されにくいです。粘液質の人は個人的な感情に振り回されにくいので、客観的に物事を見て、聞いて、感じ、考えることが出来ます。それが長所でもあるのですが、同時に短所でもあります。感情が動かないので、からだも動かないからです。動物としての人のからだは、本能や感情の働きに従って動くように出来ています。喜んだり驚いたりすればからだが広がり、恐怖や不安を感じればからだが閉じます。向こうから大好きな人が来れば近寄って行きたくなり、嫌いな人を見たら遠ざかろうとします。目の前に好きなお菓子があれば、自然と手が出ます。多血質の人は感情の動きがそのままからだの動きになっています。だからこそ反応が早いです。でもだから主観的で客観性がないのです。その感情が動きにくい粘液質の人は、感情で反応するのではなく、理解し納得して動こうとします。だから多血質の人が気付かない所に気付き、多血質の人には出来ない事が出来るのですが、問題は、多血質の人には粘液質の人が何をやっているのか理解出来ないということです。そして、そのどんくささを責めます。気質の勉強会でそのような話をした後、幼稚園の先生をやっているという人が来て「そうなんです、分かってもらえないんです」ということを言っていました。その人は粘液質のようでした。多血質の先生は子どもに合わせて遊ぶのが得意です。胆汁質の先生は遊びをリードするのが得意です。それに対して、粘液質の先生は常に全体に目を配っています。そして、一人で寂しそうにしている子がいたら寄って行って話しかけたり、静かに側に居てあげたりします。危ないことをしている子が居たら、近くで見守ったり、注意したりします。ですから、目立つ活動はしていませんが、非常に大切なことをやっているのです。でも、多血質や胆汁質の人には粘液質の人がやっていることが理解出来ません。粘液質の人が見ている世界が見えないからです。そのため、やっていることも理解出来ません。なので、「あなたは何もやっていない」と非難されたりしてしまうのです。これは子育ての場でも同じで、お母さんが多血質や胆汁質で子どもが粘液質だと、どんくさくて何もやっていないように見えてしまうのです。で、待つことが出来ずに子どもを追い立ててしまうのです。すると子どもは、粘液質の長所である所の「ゆっくり見て、ゆっくり感じて、ゆっくり考える能力」を育てることが出来なくなります。また、いくら追い立てても素早く動くことが出来るようにもなりません。むしろ、急かし続けられることで子どもは自信を失い、不安や依存心が強くなります。また、奥さんが多血質が強く、ご主人が粘液質が強いご夫婦をよく見かけるのですが、奥さんはご主人に「気が利かない、あれもやらない、これもやらない」と文句ばかり言っています。多血質の人は自分と同じことを一緒にやって欲しいのですが、粘液質のご主人は、奥さんが見落としている所をやろうとするのです。それで何もやっていないように見えてしまうのです。それで離婚してしまった知り合いもいます。結婚する前はその落ち着いた所に惹かれたのでしょうけどね。
2022.06.30
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昨日は「多血質の子は変化に敏感です」ということを書きましたが、特に視覚的な変化に敏感です。多血質の子は色の変化、髪型の変化、顔色の変化、ファッションの変化、景色の変化などに敏感に反応します。ただ、反応は早くても、その意味を深く考えたりはしません。だから反応が早いのですから。まただから「落ち着きがない」という状態になりやすいのです。物事を深く考えるのが苦手なのも、視覚的な変化に振り回されやすいからです。何かやっていても、考え事をしていても、チラッと見えたものに意識を引っ張られてしまうのです。そして、どの気質の子でも子どもの時には多血質的な要素が強いので、周囲の刺激に振り回されやすいです。このようなことは多血質の働きが持っている感覚的な特性(生理的特性)なので、仕付けでは直すことが出来ません。叱ったり、説得したり、打ったりしても、「感覚的特性」を変えることは出来ないのです。そういう状態を改善するためには、子どもの周囲から強い刺激を取り除く必要があります。生活環境の中に刺激が強いものが多いと、多血質の子どもだけでなく、成長段階としての多血質が強い状態の子ども達もその刺激に振り回されてしまい、じっくり考える能力や、自分と向き合う能力や、深く物事を感じる能力が育たなくなってしまうのです。刺激が強い生活では、じっくり考える能力や、自分と向き合う能力や、深く物事を感じる能力は必要とされていないからです。そして、日常的に強い刺激に晒され続けていると、刺激がないと不安を感じたり落ち着かなくなってしまいます。刺激中毒になってしまいます。中毒にまでなってしまうと、生活や、勉強や、対人関係でも色々な問題が出てきます。そして、親では手に負えなくなります。現代の子どもたちは、50年以上昔の子どもたちと比べたら格段に強い刺激に晒されながら生活しています。テレビも刺激が強いですが、テレビの刺激は受動的です。だから長時間見ていると飽きます。それに対して、能動的に関わる要素も大きいゲームからの刺激には飽きが来ないのです。だから、止められなくなり、中毒になってしまうのです。ゲームを長時間やっている子は、脳の認知機能が向上するという研究結果もありますが、認知機能だけが向上しても、じっくり考えじっくり感じる能力や、対人関係能力が育たないのなら、周囲に振り回されるだけの生き方しか出来なくなってしまうでしょう。子どもの、じっくり考えじっくり感じる能力を育てるためには、静かで、人工的な刺激が少ない生活環境が必要になるです。ただし、ただ人工的な刺激を取り除くだけではまた別の問題が起きてしまいます。子どもの知的な育ちのためには刺激が必要だからです。そこで必要になるのが自然との触れ合いなんです。日常的に人工的で強い刺激に晒されて生活している子は、思考や感覚の働きが受動的になってしまいます。そのような状態の子を自然の中に連れ出しても退屈するばかりです。何も発見出来ないし、何も気付きません。そんな時、幼いときから「ただそこにあるだけの自然」との触れ合いが多い子は、自然の世界の微かな変化を感じる能力が育っているので、人工的な刺激がなくても飽きないのです。自然が多い静かな環境で自然と関わりながら育った子は、能動的に感じ考える能力が育つのです。なぜなら、その能力が育たないと楽しく遊べないからです。確かに、脳の知的な成長には刺激が必要なんですが、指先だけを動かして受動的に与えられた刺激と、能動的に自分の感覚を働かせ、能動的に行動することで得た刺激とでは、異なった脳の育ち方をもたらすのです。それは心の育ちと関係しています。ちなみに、視覚的な変化に対して一番鈍感なのが粘液質です。
2022.06.29
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「気質の違い」は「性格の違い」ではなく、「体質や感覚の違い」と密接につながっています。その「体質や感覚の違い」が「性格の違い」の背景にはあるのですが、「体質や感覚の違い」が成長の過程でどのような性格として表れるのかは育ちの影響が大きいので、「こういう性格だからこういう気質だ」とは一概には言えません。特に、大人になると育ちの影響が大きくなるため、その性格の裏側に隠れた気質が分かりにくくなります。でも、性格の状態は異なっても気質が同じなら、似たようなからだや感覚の特性を持っています。木は加工されて椅子になったり、テーブルになったり、馬車になったり、家になったり、箸になったり、紙になったりしますが、基本的にみんな火には弱いです。また、湿気が多い場所ではカビが生えたり腐ったりします。ですから、見かけや用途は異なっていても、基本的な扱い方は同じです。石や鉄もまた椅子になったり、テーブルになったり、家になったりしますが、その扱い方は木で出来た椅子や、テーブルや、家と同じではありません。同じ「椅子」でも、木の椅子は燃えますが、石や鉄の椅子は燃えません。石の椅子は雨ざらしでも腐りませんが、でも、ぶつけたらすぐ割れます。木や鉄の椅子は石ほどは簡単に割れません。鉄で出来たものはそれが鍋であっても、箸であっても、自動車であっても、溶かして元の状態に戻せます。でも、木や石で出来たものは元の状態に戻せません。その、「椅子」とか、「テーブル」とか、「家」といった用途的な分類が「性格」と呼ばれるもので、その素材として使われている「木」とか「石」とか「鉄」といったようなものを扱っているのが「気質」の考え方なんです。でも、「素材」ですから表面的にちょっと見ただけでは分からないのです。だからといって、その素材の特性(気質)を無視して扱ってしまったら、燃えてしまったり、割れてしまったり、腐ったりしてしまうかも知れません。ですから、同じ椅子でも、その素材を知り、素材に合わせた扱い方をする必要があるのです。多血質の子は変化に敏感です。そしてその変化を楽しむことが出来ます。明るくて楽しい雰囲気を持っていて、歌ったり、踊ったり、からだを動かすことが大好きです。また、一人で何かをやるよりも、人と一緒にやることを好みます。一人では退屈してしまうのです。アップテンポなリズムが好きです。意識が常に外側に向いていて、深く考えることなく反射的に行動してしまうので、いつも同じ失敗を繰り返す傾向があります。でもそれ故に、反応は早いです。また、豊かな感情を持っています。他の人の感情にも共鳴しやすいです。一番「子どもらしい子ども」です。このような特性を理解して、このような特性が長所になるような関わり方や活動を与えると、多血質の子は明るくて、楽しくて、みんなを幸せに出来るような素敵な大人に育ちます。でも、多血質の子に、多血質の子が持っていない特性を求めると、多血質の子はその明るさを失い、一見憂鬱質のようになります。多血質の子は好奇心が旺盛で、変化に敏感で、反応が早いです。でも、これを裏返せば、「落ち着きがなく、深く考えないで行動する」ということでもあります。そして、失敗しても深く反省しません。「みんなと一緒に楽しく活動するのが好き」ということは、「一人でじっくり何かに取り組むのは苦手」ということでもあります。そのことで色々なトラブルも起きるかも知れません。そして、お母さんや先生は「持っている部分」には目を向けず、「持っていない部分」ばかりに意識を向け、それを直させようとしてしまいがちなんです。でも、そのことで子どもは自分らしさを失います。多血質の長所が消えます。また、短所を直そうとしても短所が改善されるわけではありません。木に、鉄や石のような強さや固さを求めても無理なんです。そのことに気付かず、木に鉄や石のような硬さを求めてしまうと、木は壊れてしまいます。
2022.06.28
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「気質の違い」を「性格の違い」のように理解している人は多いです。確かに「気質」と「性格」は全く無関係ではありませんが、でも、同じものではありません。性格は「今の状態」を分類したものですが、気質は「元々持っている素材的な要素」だからです。憂鬱質の子はあまり他の子と関わりません。不安が強いです。知らない場に行ったり、知らない人と会ったりすると自分の内側に閉じ籠もってしまいます。だからといって「他の子と関わらない子」や「不安が強い子」が憂鬱質だということではありません。他の気質の子だって、環境や育てられ方によっては憂鬱質が強くなることもあるからです。人は誰でも四つの気質全部を持っているのですが、育てられ方によってどの気質が表れやすくなるのかが変わってくるのです。否定されて育つと、その子が持っている四つの気質の中の憂鬱質の部分が強く表れるようになります。でも、気質の状態が変わるだけであって、気質そのものが変わるわけではありません。性格分類では今の状態しか扱っていないので、先天的な憂鬱質と、後天的な憂鬱質を区別しないのでしょうが、気質の考え方ではこの二つを分けるのです。なぜなら本来の気質が違うとその憂鬱質の状態も大きく異なってくるからです。胆汁質の子が否定されてその子の中の憂鬱質の働きが強くなると、(自分より弱いものに対して)支配的、攻撃的になります。多血質の子が否定されて育つと自己肯定感を失い、依存心が強くなります。粘液質の子が否定されて育つと無気力になります。憂鬱質の子が否定されて育つと自分の内側に閉じ籠もるようになります。そしてそれぞれの気質の短所ばかりが強まり、長所は消えて行きます。元々憂鬱質の子でも、否定されてさらに憂鬱質が強くなっている場合は、本来憂鬱質の子が持っている憂鬱質の長所は表れません。肯定され、安心に満たされている憂鬱質の子は、小さなものへの愛情や優しさ、微かなものに対する繊細な感性や、創造性豊かな心の世界を持っています。でも、否定されてさらに憂鬱質が強くなっている子にはこのような長所は現れません。どの気質の子でも否定されているとその気質の短所が現れ、肯定され、安心に満たされていると、長所が現れるのです。多血質の子には、明るい、楽しい、好奇心が旺盛、仲間作りが得意、みんなを楽しませるのが得意、好きなことには夢中になれるなどの長所があります。その一方で、落ち着きがない、苦しいことやつまらないことや退屈が嫌い、部分ばかり見て全体を見ない、論理よりも感情を優先させる、自分の言葉に責任を持たないなどの短所もあります。(ただし、本来はこれらは単なる特徴であって、長所でも短所でもありません。キリンの首が長いのも、ゾウの鼻が長いのも、魚が水の中でしか生きることが出来ないのも単なる特徴であって短所ではないですよね。)で、大人がこの後半の短所の部分を直させる事ばかりに夢中になっていると、短所が消えないばかりか増えていきます。そして、長所は消えて行きます。これには文化的な要因も強く関係していて、日本では自分の意見をしっかりと持って、自分の意思で行動する子は「集団行動が出来ない」ということで叩かれます。そのため、胆汁質的な気質を持っている子でも、自分の長所を発揮することができません。日本では、自分の頭で考えずに、親や先生の言う通りに行動する子が褒められるのです。また日本では、楽しく遊ぶことよりも真面目に勉強や仕事をすることを求められます。そのため、多血質の子は自信を失っていきます。でも、この「子どもらしさ」や「その子らしさ」を認めないやり方では、胆汁質や多血質の子だけでなく、粘液質や憂鬱質の子も自信を失い、長所は消え、欠点だけが増えていきます。そして、やがて社会全体の歪みとして表れます。もう表れていますけどね。************告知です。6月24日から茅ヶ崎の駅の近くで、「ゆりかご」という子育ての勉強会を月一回のペースで一年間やるのですが、「ネットでもやって欲しい」という声があったので、ネットでも子育ての勉強会をします。ただし、リアルの方ではただ知識を学ぶだけでなく、様々な「親子遊び」(からだ遊び、言葉遊び、自然の中での遊び、造形遊び、アート遊び)などの実際を学ぶワークもあるのですが、ネットではそれは出来ないので、子育てに関する基礎知識の学び(子どもの発達と気質について)と、子育ての悩みに答えるということだけに内容を絞ります。ということで、月一回(原則として第三金曜日)で、全3回~5回ぐらいを予定しています。初回は7月15日(金)です。時間は10:00~11:30 参加費は2000円(/回)という形になります。お問い合わせやお申し込みは「篠」までお願いします。メールはここです。
2022.06.27
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気質は年齢と共に変化します。幼児期は多血質が強いです。ですから、基本的にどの気質の子でも落ち着きがありません。楽しい事が大好きです。好奇心が強いです。友達が大好きです。(大好きなこと以外)集中力がありません。ガマンが出来ません。飽きっぽいです。これがいわゆる「子どもっぽい」と言われる状態です。人生の春です。思春期が来ると骨格も筋肉もしっかりしてきて胆汁質が強くなってきます。すると、人と競争や戦いをしたくなったり、頑張って何かをしたくなります。大人や社会に対する不満も言い始めます。大人に依存しなくなったり、大人に反抗するような行動を始めることもあります。でも、目的が決まれば自分の意思でドンドン頑張ります。色々な「欲」も強くなります。人生の夏の始まりです。その変化は9才頃から始まります。でも、中年になってくると、その思春期の熱が冷めてきます。自分の能力や人生の限界も見えてきます。体力も、気力も、欲も、熱も、希望も低下していきます。そして、それまで考えていなかったような人生の心配を始めます。思春期の頃には後先考えずにイッパイ散在していたのに、この頃から将来のことを考え始めます。自己否定を始める人もいます。人生の秋です。その時期を過ぎると諦めが始まります。無駄なあがきをしなくなります。生活面でも無駄なことをしなくなります。無駄なエネルギー、無駄なお金を使わなくなります。欲自体が低下してしまうからです。そして、日々の小さな幸せを楽しむようになります。人生の冬です。このように人生は春・夏・秋・冬の四季のように変化していくのです。そして、気質もこの四季に対応して考えられています。多血質=春、胆汁質=夏、憂鬱質=秋、粘液質=冬のようにです。ただし、幼児期の子どもにも色々な子どもがいます。大人しい子もいれば、一人が好きな子もいます。比較的集中力がある子もいます。従順な子も居れば反抗的な子も居ます。思春期の子にも、中年や老人の人にも色々な人がいます。中年頃から簡単に枯れてしまう人もいれば、結構な年になってもギラギラしている人もいます。そして、この個人差が、その子やその人の気質になります。気質は年齢ごとに変化しているのですが、同じ年齢同士なら多血質の人は子どもの時から多血っぽくて、年を取っても多血っぽいのです。年を取っていても多血質の人は子どものような軽やかさを持っています。ただ、その人自身の若いときほどではないと言うことです。同じ「春」でも、「北国の春」と「南国の春」はその状態が全く違うでしょ。それと同じです。一人の人の人生は多血質(春)、胆汁質(夏)、憂鬱質(秋)、粘液質(冬)と変化しているのですが、周囲の人との関係においては、その人自身が生まれつき持っている気質の状態とのベクトル的な和で決まるのです。個人の中では変化しても、同じ年齢の人達との関係性の中では一生変わらないのです。ただし、それでも変わることもあります。
2022.06.26
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昨日は「気質は色で言う所の原色のようなものです」ということを書きましたが、実際、気質は色に喩えられます。多血質はフワフワした「黄色」、胆汁質は主張が強い「赤」、粘液質は自己主張しない「緑」、憂鬱質は奥行きと深さを感じる「青」です。ただ、誤解しないで欲しいのは「あの人は多血質だ」と言っても、黄色の多血質の要素しか持っていないわけではないということいです。そうではなく、人は皆四つの要素全てを持っているのです。ただ、その割合が少しずつ違っているだけなんです。で、「赤も、青も、緑も持っているけど、全体としては黄色の要素が強い」という人を「あの人は多血質だ」と言っているだけです。でも、普段は黄色みが強い多血質の人でも、何かに成功したりして自信が付けば、一時的にその人の中の赤い要素が表に現れてきて黄色が引っ込み、胆汁質っぽくなるのです。でも、否定されたり失敗したりすれば、青い色が表に現れてきて黄色は引っ込み、憂鬱質っぽくなります。ほとんどの場合、その変化は一時的なんですが、でも、赤くなったり、青くなったりと変化したときは自覚出来ても、元の黄色に戻ったときは自覚出来ません。人の感覚は、「変化」(非日常的な状態)は明確に自覚出来ても、変化しない「ニュートラルな状態」(日常的な状態)は自覚出来ないように出来ているからです。また人は皆、四つの気質の体験があるので、自分の気質が分からなくなってしまうのです。また、憂鬱質(青)が強いからと言って、みな同じ状態ではありません。憂鬱質の人は憶病で不安が強くなりやすいですが、思索や思考でその憶病さや不安を乗り越えることが出来る憂鬱質の人もいるのです。でもそのためには「安心」と「学び」が必要になります。以下の絵は、上が青の時代のピカソの絵で、下はがモネの睡蓮です。両方とも「青」の要素が強いですが、訴えてくるものは全く違いますよね。それと違ってはいても、二人とも巨匠ですから「青」をうまくいかしていますよね。でも、素人の場合、青の使い方が下手で絵を台無しにしてしまう場合もあるでしょう。元々のパレットの色は決まっていても、その決められたパレットの色を有効に使って素敵なアートにすることも出来れば、台無しにすることも出来るのです。それは気質の問題ではなく、今度は育ちの問題になります。元々は同じような気質(パレット)を持っていても、その子の気質(パレット)を生かした育て方をされた子は素敵なアートになるでしょう。でも、その子の気質(パレット)を無視した育て方をされた子は困った状態になってしまうでしょう。
2022.06.25
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これまでも書いてきたように、子どもの状態は成長と共にドンドン変わっていきます。赤ちゃんの時にはお母さんから離れなかった子でも、3才頃からお母さんが近くに居れば仲間とも遊び始めます。5才頃になるとお母さんが側に居なくても仲間と遊ぶようになります。小さいときには人見知りだった子でも、成長と共に積極的に仲間と遊ぶようになったりもします。その節目が3才、5才、7才、9才なんですが、でも、同じ三才児でも色々な子がいます。三才児としての身体的、精神的、知的特徴は共通していても、大人しい子もいれば活発な子もいます。それは、5才児でも7才児でも9才児でも同じです。もっと言えば大人でも同じです。年齢が同じでも、シャイな子もいれば積極的な子もいます。大勢の仲間と遊ぶのが好きな子もいれば、一人か、もしくは特別に気の合う友達としか遊ばない子もいます。外遊びが好きな子もいれば室内遊びが好きな子もいます。好き嫌いなく何でも食べる子もいれば、好き嫌いが多い子もいます。小さいことにこだわらない子もいれば、小さな事にこだわる子もいます。刺激や変化が好きな子もいれば、刺激や変化を怖がる子もいます。知らない人でも平気で近寄っていく子もいれば、知らない人には近寄らない子もいます。多くの人が子どものこのような違いを、仕付けや子育ての影響だと思い込んでいますが、実は生まれつきの要素も強いのです。お子さんを何人も産んでいる人なら分かると思いますが、子どもはお腹の中に居るときから一人一人違います。産まれ方も、泣き方も、おっぱいの吸い方も一人一人違います。子どもは、子育てを受ける以前から「個性」とか、「その子らしさ」というものを持って生まれてくるのです。子どもは真っ白な状態で産まれてくるのではないのです。だからその「子育て以前に持っていたその子の特質」に合わせて、子育てをすればうまく行きます。でもそれを無視したら、困ったことになります。その「子育て以前に持っていたその子の特質」を作りだしているのが「気質」なんです。ですから、育ちの過程で作られて行く「性格」や「個性」といったものと同じものではないのです。気質の話しをすると「私はそんな風に分類されたくありません」と言う人もいますが、気質は「人を分類するためのもの」ではありません。そうではなく「人を理解するためのもの」なんです。そのように感じてしまう人は「気質の話し」を、いわゆる「性格分類」と同じように「人を分類するための方法」と思い込んでしまっているのでしょう。性格分類は、例えば「色」を見たときに「これは赤です」「これは紫です」「これはターコイズブルーです」「これはエメラルドグリーンです」というように分類するのと似ています。だから分類の仕方によって色々に分類することが可能です。赤系、青系という分類も出来れば、パステル系、ビビッド系という分類も出来ます。社会的、文化的な影響も大きいです。以前、色々な国の色見本を見せてもらったことがあるのですが、日本の色見本と、中国やフランスの色見本は全く違うのです。それは、無数にある色の中から、どの色を「名前が付いた色」として認識するのかという感覚のあり方が国や文化によって異なっているからです。私たちは虹の色を7色として認識していますが、同じ虹を見ても、それが5色とか、3色にしか見えない文化の人達もいるのです。逆に、昆虫などは7色以上の色を見ているでしょう。でも、世界中のどんな色でも「赤」「青」「黄(光の場合は緑)」と「明暗」の四つの要素の組み合わせで出来ています。日本でも、中国でも、フランスでもこの原則は変わりません。もっと言えば、どこに居るのか分からない宇宙人もこのことを知っています。結果として表れた色は無数にあるのですが、色を構成する要素は四つしかないのです。そして、目の前の色をただ分類するのではなく、「この色は何色と何色の組み合わせで出来ている」というような「その色の背景」を考えるようなことをしているのが気質の考え方なんです。また、そのようなことが分かってくると、「この色はこの色と組み合わせると素敵になる」とか、逆に「この色の近くに置くとこの色の良さが消えてしまう」というというようなことも分かるようになります。気質の学びでやっているのは、「色を分類する方法」(のようなもの)を学ぶのではなく、「色の使い方」や「色の生かし方」(のようなもの)を学んでいるのです。同じ青でも、青を生かした絵もあれば、その青によって台無しになってしまう絵もありますよね。ただ色を分類する方法を学ぶだけでは、この問題に対処出来ないのです。あるグループでは短所だった能力が、別のグループでは長所になることもあります。あるグループではシャイだった子が、別のグループでは積極的になることもあります。まただから、気質の学びは、教育現場や子育ての現場で役に立つのです。
2022.06.24
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今日は気質のことを書こうと思ったのですが、ちょっと言い足りないことがあったので、昨日の続きを書かせて下さい。昨日も書いたように、子どもと大人は違う生き物です。それはオタマジャクシとカエルの関係、イモムシと蝶の関係と似ていて、やがては同じになるのですが、でも今は、心とからだの状態が全く異なっているため、「生態」も「必要とするもの」も違っているのです。それは「成長過程にある存在」と、「成長が終了した存在」の違いです。そのことを理解せずに、子どもにも「成長が終了した大人」と同じ行動や考え方を求めてしまうと、子どもの成長に必要なものが満たされなくなり、その成長に歪みを生じてしまうのです。昔は、子どもには「子どもの時間」があり、大人には「大人の時間」がありました。子どもには「子どもの空間」があり、大人には「大人の空間」がありました。子どもには「子どもの仲間」がいて、大人には「大人の仲間」がいました。もちろん、子どもと大人が時間や、空間や、仲間を共有する場面もありましたが、でも、基本的には、子どもと大人は別の存在として扱われていたのです。だから子どもに対しては「子どもルール」を使い、大人には「大人ルール」を使っていたのです。子どものいたずらに対しても「子どもだから」と寛容でした。騒いでいても、小川で水だらけ、泥だらけになっていても「子どもだから」と笑って見ていることが出来ました。そして基本的に、子どもの遊びの場に大人はいなかったし、大人の遊びの場に子どもはいませんでした。でも今では、時間も空間も仲間もゴチャゴチャです。今では子どもの遊びの場にも大人がいて、子どもの遊びに積極的に干渉しています。野原や神社や路地のような、「子どもたちだけで遊べるような場」は消えてしまいました。また、不安が強い大人は「大人の目が届かない子どもの遊びの場」をドンドン潰そうとしています。子どもの子どもらしい遊びや、その遊びのための時間を「無駄なもの」として考え、その時間にお勉強やら色々なものを教え込もうとする人も増えて来ました。子どもだからといって「子どもルール」で大目に見てくれる人も少なくなりました。子どもが公園で大きな声を出しているだけで文句を言ってくる人や、電車の中で赤ちゃんが泣いているだけで文句を言ってくる人も増えて来ました。2,3才の子が「食事の時にちゃんと食べないんですけどどうしたらいいでしょうか」とか、「うちの子はお風呂出た後、いつまでも洋服を着ないのですがどうしたらいいでしょうか」と聞いてくる人も多いです。そんな時私は「子どもとはそういう生き物なんです」と答えています。それが子どもにとっての「自分らしさ」なんです。子どもが大好きなゲームの世界には、子どもだけでなく大人も入っています。ネットの世界でも同じです。でも、年齢も性別も容姿も隠しています。子どもは相手も子どもだと思うかも知れませんが、時には悪意を持った大人の場合もあります。また、ゲームの世界では「お金」が必要です。オモチャを買うのにもお金が必要です。本来子どもの遊びには「お金」なんて必要がなかったのですが、最近は、子どもでもお金がないと遊ぶことが出来ないのです。(課金しなくても、ネットや機材のためのお金は必要ですよね。)そのため、現代社会では子どもも立派な消費者として扱われています。そして、積極的に子どもからお金を巻き上げようとしている大人もいっぱいいます。(実際に出すのは親ですけど・・・)現代社会では、子どもにも大人と同じような考え方や価値観や行動を求められるようになったのです。そしてその結果、「子どもの大人化」が進みました。そして、そのまま実際の大人になる人が増えて来ました。でもそこで起きているのは、心とからだの成熟を伴わない「見かけだけの大人化」なので、実際に大人になっても精神的に自立する事が出来ません。結婚しても、お互いに自分を守ろうとするばかりでパートナーを守れません。子どもが生まれても、子どもより自分を守ろうとする人も増えて来ました。知的には成長しても、その知的な能力を悪いことをするために使う人も増えて来ました。繰り返しますが、「成長が終わってしまった大人に必要なもの」と、「成長しつつある子どもに必要なもの」は同じではないのです。大人にとっては価値がないもの、無駄なものでも、成長しつつある子どもたちにとっては必要なものもイッパイあるのです。逆に、大人にとっては価値があっても、子どもの成長を阻害してしまうようなものもイッパイあるのです。子育てや子どものことを考えるときには、どうか「大人目線」ではなく「子ども目線」で考えて下さい。そうでないと、「子どものため」と思ってやっていることが、逆に子どもの育ちを阻害する事になってしまうこともありますから。************告知です。6月24日から茅ヶ崎の駅の近くで、「ゆりかご」という子育ての勉強会を月一回のペースで一年間やるのですが、「ネットでもやって欲しい」という声があったので、ネットでも子育ての勉強会をします。ただし、リアルの方ではただ知識を学ぶだけでなく、様々な「親子遊び」(からだ遊び、言葉遊び、自然の中での遊び、造形遊び、アート遊び)などの実際を学ぶワークもあるのですが、ネットではそれは出来ないので、子育てに関する基礎知識の学び(子どもの発達と気質について)と、子育ての悩みに答えるということだけに内容を絞ります。ということで、月一回(原則として第三金曜日)で、全3回~5回ぐらいを予定しています。初回は7月15日(金)です。時間は10:00~11:30 参加費は2000円(/回)という形になります。お問い合わせやお申し込みは「篠」までお願いします。メールはここです。
2022.06.23
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子どものことを理解するためのいくつかの視点があります。まずは「年齢」があります。1才児と2才児は異なります。2才児と3才児も異なります。もちろん、3才児と4才児も、4才児と5才児も異なります。なぜなら子どもたちは日々成長しているからです。成長しているということは、生命のシステムによって定められたある方向に向けて変異しているということでもあります。「表面的な変化」ではなく、「内側からの変異」です。カエルの卵はやがてオタマジャクシになり、そしてカエルになります。卵が成長するとは卵が大きくなることではなく、卵が卵以外のものになることです。オタマジャクシが成長するということは、単にオタマジャクシが大きくなることではなく、オタマジャクシがオタマジャクシ以外のものになることです。蝶の成長などでもこれは分かりやすいです。カエルや蝶の場合は、成長に伴う内側からの変化を目で見ることが出来るからです。でも実は、これは人間でも同じなんです。人間の子どもも、成長に伴ってまるで違う生き物になるかのようにその内側の状態が変異しているのです。3才児と5才児の違いは年齢だけではなく、その間には不可逆的な変異があるのです。見かけ的には、頭や手足やからだのプロポーションが変わるだけですが、内側の状態はもっと大きく変異しているのです。ただ人間の場合は、足が増えたり減ったり、羽が生えたりしないので、その変異が分かりにくいだけです。骨の数も、右脳と左脳の関係も、脳の中のニューロンの状態も、呼吸器系の状態も、皮膚の状態も、免疫の状態も、子どもと大人とでは大きく異なっているのです。実際には、もっともっと異なっている所があるでしょう。7才以前の子どもは「歯が生え替わる能力」を持っていますが、大人になるとその能力を失ってしまいます。幼い子どもたちは、特に教えなくても、自分の側に居る人の言葉や動きや感覚を模倣してしまいます。側に居るのが人でなくイヌの場合はイヌの言葉や動きや感覚を模倣します。機械の場合は機械のやり方を模倣します。幼い子どもは特に教えなくてもお母さんが話している言葉を学んでしまいます。でも、大人になると、ちゃんと勉強しないと新しい言葉を学ぶことが出来なくなります。そういう視点で見てみると、3才児と5才児は別の生き物なんです。5才児と7才児も別の生き物なんです。そして、子どもと大人も別の生き物です。だから5才児の基準で3才児を見てはいけないし、7才児の基準で5才児を見てはいけないのです。もちろん、大人の基準で子どもを見てはいけません。そんな感覚で子育てや教育をしていたら、成長が歪んでしまいます。蝶には蜜が必要ですが、イモムシには葉っぱが必要なんです。まだイモムシの状態なのに葉っぱではなく蜜を与えていたら、イモムシは成長することが出来なくなってしまうのです。それはつまり、3才児を育てているときには、3才児の心とからだの状態に合わせた子育てが必要になるということです。5才児を育てているときには、5才児の心とからだの状態に合わせた子育てが必要になるということです。でもそれはそんなに難しい事ではありません。子どもの成長に合わせて、お母さんのからだも、感覚も、心の状態も変化するように出来ているからです。それが生命の仕組みであり、本能の働きでもあるのです。そして、人間以外の動物たちは皆、その本能の働きに従って子育てをしています。ただ問題は、人間だけがその本能を否定し、知識や社会的な価値観だけで子育てをするようになってしまったことです。知識や社会的な価値観は、固定されています。3才児と5才児を区別しません。5才児と7才児を区別しません。だからトラブルが起きるのです。あと、子どものことを理解するためには年齢による違いだけでなく、気質による違いにも配慮する必要があります。同じ3才児でも色々な子がいます。同じ5才児でも色々な子がいます。確かに、年齢が同じなら同じような要素を持っているのですが、それでも一人一人違いますよね。人見知りが強い子もいれば、人なつっこい子もいます。活動的な子もいれば大人しい子もいます。このような個々の違いをもたらしている要素の一つに「気質の違い」があるのです。この気質による特徴は年齢とも関係していますが、本質的には年齢ではなく個の特性でもあるので、成長しても、大人になっても、本質的な部分は変わりません。気質は体質とのつながりが強いので、体質が大きく変わらない限り、成長しても気質も変わらないのです。************告知です。6月24日から茅ヶ崎の駅の近くで、「ゆりかご」という子育ての勉強会を月一回のペースで一年間やるのですが、「ネットでもやって欲しい」という声があったので、ネットでも子育ての勉強会をします。ただし、リアルの方ではただ知識を学ぶだけでなく、様々な「親子遊び」(からだ遊び、言葉遊び、自然の中での遊び、造形遊び、アート遊び)などの実際を学ぶワークもあるのですが、ネットではそれは出来ないので、子育てに関する基礎知識の学び(子どもの発達と気質について)と、子育ての悩みに答えるということだけに内容を絞ります。ということで、月一回(原則として第三金曜日)で、全3回~5回ぐらいを予定しています。初回は7月15日(金)です。時間は10:00~11:30 参加費は2000円(/回)という形になります。お問い合わせやお申し込みは「篠」までお願いします。メールはここです。
2022.06.22
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最初にちょっと告知させて頂きます。6月24日から茅ヶ崎の駅の近くで、「ゆりかご」という子育ての勉強会を月一回のペースで一年間やるのですが、「ネットでもやって欲しい」という声があったので、ネットでも子育ての勉強会をします。ただし、リアルの方ではただ知識を学ぶだけでなく、様々な「親子遊び」(からだ遊び、言葉遊び、自然の中での遊び、造形遊び、アート遊び)などの実際を学ぶワークもあるのですが、ネットではそれは出来ないので、子育てに関する基礎知識の学び(子どもの発達と気質について)と、子育ての悩みに答えるということだけに内容を絞ります。ということで、月一回(原則として第三金曜日)で、全3回~5回ぐらいを予定しています。初回は7月15日(金)です。時間は10:00~11:30 参加費は2000円(/回)という形になります。お問い合わせやお申し込みは「篠」までお願いします。メールはここです。(「ゆりかごオンラインについて」という件名でお願いします。)*****************************世の中には様々な子育て方法があって、ネットの世界にも、書籍の世界にも色々な子育て方法が紹介されています。同じ「子ども」を育てる方法なのに、どうしてそのように沢山の方法があるのかというと、その視点と目的と哲学が違うからです。「大人の言うことに素直に従う良い子を育てる方法」と、「子どもが自分らしく生きることが出来るようになるための方法」は当然異なります。「ケンカをしないで仲良く遊ばせる方法」と「ケンカをしてでも強い繋がりを育てる方法」は異なります。「社会や学校で落ちこぼれないように育てる方法」と「子どもの自立に繋がるような学びを大切にする方法」は異なります。「成績が良い子に育てる方法」と、「自分の頭で考えることが出来る子に育てる方法」は異なります。「競争に負けない子に育てる方法」と「幸せに生きることが出来る子に育てる方法」も異なります。ですから、お母さん自身に「子どもを育てる」ということに対する自分自身の視点と、目的と、哲学がない場合、情報を選ぶことも出来なくなります。また、自由自在に変化する子どもの状態にも対応できません。そして、多様な子育ての情報の中で迷子になってしまいます。その多様な情報の中に「子どもは褒めて育てた方がいい」というのと「子どもは厳しく育てた方がいい」という異なった子育て方法が存在しています。でもこれも、「どういう時に、どういうことを、どういう風に褒めたらいいのか、もしくは叱ったらいいのか」ということは自分で判断しなければなりません。昨日はうまく行った方法でも、今日もうまく行くとは限りません。Aくんにはうまくいった方法が、Bくんにも通用するかどうかは不明です。お父さんがやってうまく行った方法でも、お母さんがやってうまく行くとは限りません。知識や情報は固定されていますが、現実は固定されていないからです。そのため、自分自身の視点や価値観や哲学を持たずに、知識や情報に依存してしている人ほど、その変化に対応することが出来ずに余計に混乱してしまうのです。お母さんが同じように褒めても、その受け取り方は個々人異なります。状況も関係しているし、気質も関係しています。本当にすごいと思って褒めている場合と、下心があって褒めている場合とでも子どもの受け取り方は違います。お母さんの意図とは逆の結果になってしまうこともあります。多血質の子はどんな場合でも褒められることが大好きですが、憂鬱質の子は軽い気持ちで褒められることが嫌いです。喜ぶどころか怒り出すこともあります。また、褒めた人をバカにすることもあります。胆汁質の子は自分のやりたいことが決まっているので、その目的や意図に沿った形で褒めると喜びますが、お母さんの気持ちを押しつけるだけの褒め方だと嫌がります。粘液質の子は褒められてもあまり喜びません。これは憂鬱質の子でも同じですが、褒めるよりも「大好きだよ」というメッセージを出した方が喜びます。
2022.06.21
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今日からしばらく「気質と子育て」について書いてみます。子どもたちには「こだわり」があります。強い、弱いはありますが、全般的に大人よりはみんな「こだわり」が強いです。なぜなら、そのこだわりもまた、子どもの「成長する力」の現れだからです。大人になって成長が止まると、子どもの時のような「成長する働きと繋がったこだわり」は消え、「不安や欲望とつながったこだわり」が増えて来ます。また大人になると、「無理なものは無理」と理解出来るようになるので、諦めることも出来るようになります。こだわりが満たされないからと言って、大泣きすることもなくなります。でも、幼い子どもたちは「無理なものは無理」ということが理解出来ません。また、「諦める」という精神回路もありません。(忘れることは出来ますけど。)さらに問題なのは、ほとんどの子が大人から見たらどうでもいいようなことばかりにこだわることです。大人がこだわって欲しいことには関心がないのに、こだわって欲しくないことにはこだわるのです。そして、大人がそれを無視すると大泣きします。こだわる理由に納得できれば大人だってそう無碍に無視はしないのでしょうが、大人には全く理解不能な理由でこだわるので、ついそれを無視してしまうのです。そして更に問題なのは、子ども自身にも自分が何にこだわっているのかが分かっていないことです。そのため、ちょっとしたきっかけで、それまでニコニコしていた子どもが突然泣き出すことがあります。何か理由があるのは分かるのですが、何が理由なのかがよく分からないのです。それで、色々と推測したり、子どもにも何で泣いているのか聴いたりするのですが、子どもはそれを説明出来ません。というか、このような場合、子ども自身にも、何が引っかかったのかよく分からないのです。ちょっとした「ボタンの掛け違い」だけのこともあります。例えばですが、右をやってから左をやるつもりだったのに、大人が先に左をやってしまったことで泣き始める子もいます。大人にはどっちが先でもいいように思えるのですが・・・。そして、理解出来ない大人と、説明出来ない子どものやり取りが延々と続き、子どもは泣き続けます。こうなるともうお手上げです。「好きにしなさい!」「勝手にしなさい!」「もう知らない!」などと子どもを放りだしてしまうお母さんも多いです。こんな時の特効薬はありません。お菓子で釣ったり、別のことをやって気持ちを切り替えさせることが出来る場合もありますが、何を言っても、何をやってもダメな場合もあります。そのやり取りをしているうちに、こだわりの対象が変化してしまうこともあります。子ども自身も何で泣いていたのか忘れてしまうこともあります。そして泣き止む子もいますが、それでも泣き続ける子もいます。特に、憂鬱質の子の場合は、一度、「泣くモード」に入ってしまうと、なかなか抜け出せなくなってしまいます。最初は、「自分が大切にしている物を誰かが触った」などの具体的な「泣く理由」があったのでしょうが、次第にその理由の事は忘れて「分かってくれない事」に対して泣き始めるのです。、何を言っても、何をやっても、泣き続けます。胆汁質の子の場合は暴れ出すこともあります。多血質や粘液質の子は比較的切り替えが楽に出来ます。元々、多血質や粘液質の子はあまり強いこだわりを持たないからです。(続きます)
2022.06.20
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最近、「自己肯定感」という言葉をよく耳にします。私も、時々、この言葉を使います。また、子育ての勉強会をしていても「私は自己肯定感が低いんです」と訴えてくる人も多いです。そのような人は、自己肯定感を高めたがっています。そしてそのために色々な本を読んだり、いろんな講習会やワークショップに出たりしている人もいます。でも、頑張っても頑張っても、自己肯定感は高くなりません。なぜなら、「自己肯定感が低い」の反対は、「自己肯定感が高い」ではないからです。「自己肯定感が低い」という状態の反対は「そんなこと気にしない」という状態なんです。だから、自己肯定感を高めようと自己肯定感のことばかり考えることで、逆にその状態から抜け出すことが出来なくなってしまうのです。自己肯定感のことなんか気にしない人を見て、自己肯定感が低い人達が「あの人は自己肯定感が高い」と勝手に思い込んでいるだけなんです。また、自分で「私は自己肯定感が高い」などと言っているような人は、ちょっとしたきっかけで簡単に自己肯定感が低い状態に戻ってしまいます。自己肯定感へのこだわりが自己肯定感が低い原因だからです。もし本当に、自己肯定感が低い状態から抜け出したいのなら、自己肯定感を高くしようなどとは考えない方がいいのです。自己肯定感を高くしようとする考え方自体が、「今の自分自身の状態の否定」から始まっているからです。じゃあどうしたらいいのかと言うことですが、今やっていることに集中することが大切です。お皿を洗っているときにはお皿を洗うことに集中する。お掃除をしているときにはお掃除をすることに集中する。子どもと遊んでいるときには、子どもと遊ぶことに集中する。歩くときには、歩くことに集中する。そして、見えるもの、聞こえるもの、感じるものに意識を向ける。集中してやっていると、楽しみ方が見えてきます。色々なことが楽しくなってきます。自己肯定感のことなど気にならなくなります。自己肯定感が低い人にはそのような、「色々なことを楽しめる人」が「自己肯定感が高い人」のように見えるのです。だから色々なことを楽しむようにすればいいのですが、なぜか楽しむのではなく、自己肯定感を高めようとしてしまうのです。問題は、楽しめない人は楽しもうとしても楽しめないことです。意識の働きやからだの感覚が、自分の内側にばかり向いてしまっているからです。それを変えるためには「からだ」と向き合う必要があります。自己肯定感が低い状態から抜け出すためには、「心」ではなく「からだ」を変える必要があるのです。心を縛っているのは「からだ」なんです。また同時に心を解放してくれるのも「からだ」なんです。
2022.06.19
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人は皆死にます。あなたも、私も、今産まれたばかりの赤ん坊もやがて死にます。これは、絶対に避けることが出来ない自然の定めです。この世界はそんな自然界のルールに従って作られています。そして、人間もまたその自然の一部です。ですから、自然のルールから外れて生きることは出来ません。短時間なら何とかなっても、長時間になると生命力が萎えてきてしまい、心とからだが病み始めます。短時間なら息を止めていても死にませんが、それが長時間になると確実に死にます。そんな感じです。でも、科学の発展と共に、人間はそんな自然のルールを無視するようになってきました。無視するどころか積極的に自然の働きに逆らうようになりました。そして、自分たちの周囲から自然を排除し、人間による、人間のためだけの、人間の世界を作り出し、その中で暮らすようになりました。ただし、ここで言うところの「人間」は、「自然の働きと繋がった心やからだも含めた人間そのもの」のことではなく、自然から切り離された「脳の中にだけ存在する観念的な人間」のことです。その「観念的な人間」は自然の働きと繋がっていません。そのため、平気で「心とからだの現実」を無視します。その結果、人間による、人間のためだけの、人間の世界の中で暮らしている人は、自分でも気付かないうちに生命力が萎えて来て、心とからだが病んできます。これは子育てにも言えることで、頭の働きが創り出した社会的な価値観だけで子育てをしていると、子どもの心とからだの育ちに歪みが生じてしまうのです。現代社会に産まれてくる子どもたちは、お母さんのお腹の中に居る十月十日の間だけは、自然の原理に従って成長しているのですが、オギャーと生まれた途端に、人工的に管理され始めるのです。そして、不自然な環境の中で、命の原理を無視した育てられ方をしています。それが現代の子どもたちの様々な不自然な状態に繋がっているのではないかと思います。幼い子ども達がまず学ばなければならないことは、(学校の成績に繋がるようなことではなく)生活の知恵、遊びの知恵、人間関係を作るための知恵なのではないかと思います。「頭の中だけにしか存在出来ない知識」、「学校でしか使えない知識」ではなく、自分が生きている世界や生活体験と繋がった「知恵」の学びが必要になるのです。そして、これらは「子どもたちが人間として生きて行くために必要になる知恵」でもあります。人間以外の動物でも、象やサルやイルカのように、高度な知能を持ち、群れを作って生きている動物たちは基本的に同じようなことを大切にしています。でも、自分の体験を通して知恵を学ぶべき時期に、その体験と繋がらない知識や、命の働きとは繋がらない機械の扱い方だけしか学ぶことが出来ないと、一時的に学校の成績は良くなるかも知れませんが、「人間として生きて行くために必要な知恵」を学ぶことが出来なくなるため、学校を出た後一人の人間として生きて行くことが困難になってしまうのです。次の段階で子どもたちが学ぶべきことは、遊ぶ楽しさ、人と関わる楽しさ、学ぶ楽しさ、考える楽しさ、発見する楽しさを知ることです。この楽しさを知ることで生きることが楽しくなります。また、自由に、自信を持って生きることが出来るようになります。「学ぶ楽しさ」、「考える楽しさ」、「発見する楽しさ」を知ったからといって、それがそのまま学校の成績には直結しませんが、子どもが「やりたいこと」を見つけたときには、大きな手助けになるでしょう。また、中学生頃になって小学生の頃とは全く違う学びが始まっても、好奇心を持って向き合うことが出来るでしょう。私の印象では、子どもの頃に勉強が嫌いだった人、勉強が苦手だった人ほど子どもを勉強に追い立てているような気がします。でも、そのような人は勉強の仕方も楽しさも知らないので、ただ「勉強しなさい」と子どもを追い立てるだけです。だから子どもも勉強が嫌いになってしまうのです。また、子どもの疑問に寄り添えないので、子どもの勉強を見ていても、上から目線で教え込もうとします。そして子どもはますます勉強が嫌いになります。親子の関係も悪くなります。
2022.06.18
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現代人は情報に振り回されすぎです。常に、みんなはどうやっているのか、どういうやり方が正解なのか、自分のやり方は間違っているのではないか、ということを考え不安にさいなまれています。どうしてそういう状態になってしまっているのかというと、ちゃんと自分の目で見て、自分の感覚で感じて、自分の頭で考えていないからです。目を閉じて、耳を塞いで歩いていたら迷子になったり、事故に遭ったりしてしまうのは当たり前ですよね。だから、自分の状況や、自分が進むべき道を教えてくれる(と信じている)情報が必要になるのです。でも、現代社会では、多くの人が自分の目で見たり、自分の感覚で感じたり、自分の頭で考えたりすることなく、見も知らない誰かさんが作った情報を頼りにして、自分の人生を生きようとしています。でも、そんなことをしていたら迷子になってしまうのは当たり前です。色々なトラブルが起きたり、事故に遭ったりしてしまうのは当たり前です。子育てや自分の人生が思い通りに行かないのも当たりまえです。不安が強くなったり、心が苦しくなってしまうのも当たり前です。もちろん、色々な情報を参考にするのは大切なことです。でも、自分の目で見たり、自分の感覚で感じたり、自分の頭で考えていない人は「自分」という視点を持っていないため、その情報を参考にするのではなく正解にしてしまうのです。そして、その通りにやろうとしてしまい、迷子になってしまうのです。問題は、自分の目で見たり、自分の感覚で感じたり、自分の頭で考えていない人にそのことを伝えても、何を言われているのか理解してもらえないということです。幼いときから「自分の目で見る」とか、「自分の感覚で感じる」とか、「自分の頭で考える」という体験のない人は、そのことを指摘されても、その意味が分からず、ただ否定されているように感じてしまうのです。でも、そのような自分の状態をチェックする方法はあります。何もない、何も起きない、普段の日常生活、当たり前の毎日を楽しむことが出来ている人は、自分の目で見て、自分の感覚で感じ、自分の頭で考えることが出来ている人です。自分の目で見て、自分の感覚で感じ、自分の頭で考えることが出来る人は、小さな変化やちょっとした出来事にも気付き、楽しむことが出来ます。また、自分で工夫することで生活に変化を加えることも出来ます。だから退屈しないのです。その一方で、常に変化や新しい刺激を求めるような人は自分の目で見たり、自分の感覚で感じたり、自分の頭で考えることが苦手な人です。また、自分の目で見て、自分の感覚で感じ、自分の頭で考えることが出来る人は人と自分を比較しません。我が子とを他の子を比較しません。比較しても意味がないことを知っているからです。現代人は子どもの知能の育ちばかりを求めます。そして、知能の育ちには刺激が必要です。そのため、ゲームなどの刺激が強い遊びも子どもの知能を育てる働きをするという研究結果もあります。と言うようなことを聞くと、お母さん達は安心して子どもにゲームを与えてしまうでしょう。そうすればお母さんも楽になりますから。また、高価な「知育玩具」と呼ばれるものを意識的に与えているお母さんもいます。幼いうちから早期教育に熱心なお母さんも多いです。でも、自分自身の生活体験とつながらない知能の育ちは、学校でよい成績を取るためには有効かも知れませんが、毎日の生活を楽しんだり、自分らしい生き方をする役には立たないのです。また、自分自身の生活体験と繋がらない学びは、子どもの心や感覚の働きを受動的にしてしまうため、「自分の目で見て、自分の感覚で感じて、自分の頭で考える能力」の育ちも阻害してしまいます。それはつまり、頭は良くなっても、その頭の使い道が分からなくなってしまうということです。(最近、一流大学の学生や一流大学を出た若者の犯罪が多いですよね。)また、その知能は、「課題を与えられたら解ける」という能力に過ぎません。小学生のうちはその知能で通用するのですが、中学生頃になって抽象的な概念が求められるようになってくるとその知能だけでは対応出来なくなってしまうのです。抽象的な概念を理解するためには、具象的な世界を十分に体験している必要があるからです。抽象は具象から生まれるのです。また、知能ばかりが育って、心とからだの育ちが遅れてしまっている子は、精神的な自立も困難になってしまうでしょう。子どもが自分らしく、生き生きと、幸せに生きる能力を育てるためには、何もない毎日や当たり前の生活を楽しむ方法を伝えてあげる必要があるのです。小さな気付きや発見を楽しむ感性を育ててあげる必要があるのです。中学生以降からの学びを伸ばしてあげたいのなら、色々な本を読んであげて下さい。色々な本と出会わせてあげて下さい。昔の話や、世界の話しなどをいっぱい語ってあげて下さい。手仕事なども大切です。また、色々な分野で素敵な仕事をしている素敵な大人と出会わせてあげて下さい。お勉強ばかりさせていたら、お勉強しか出来ない子になってしまうのです。それも、小学校のうちだけです。
2022.06.17
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今日は、「はなや」さんからの以下の質問に答えさせて頂きます。私も子供には沢山の人に会わせてあげたいと思ってはいるのですが、夫婦共に対人が苦手で友人が少なく(夫は1人もおらず)広がりがありません。実家へもあまりいかれません。それに対し数少ない私の友人は、友好関係が広く、子供はいつも色々な所や家族と関わり、新しい友人も増え、うらやましく思います。私が出来ることといったら、親子で出かけること、その場限りのイベントや遊びでしか子供を体験させてあげられません。私自身絵や工作好きなのですが残念ながら興味を示しません。子供は家では1人のんびりして過ごすのが好きなようですが、趣味や知識の範囲も狭く、もっと活動的になってほしいのですが、、どうすることもできず、状況に苦しく思う日々です。こんな家庭の場合どうすればいいのでしょうか。「はなや」さんのようにおっしゃる方は多いです。でも、基本的には「私はいいから子どもだけ・・・」というのは無理です。自分で自分を変える努力をしないで、子どもだけ変えようとしてもうまく行くわけがないのです。子どもは、鏡のようにお母さんとお父さんの状態を写し出しているだけだからです。まず出来ることは、子どもといっぱいお話しすることです。やる気になれば、これは出来るはずです。家の中でも、家の外でも、お散歩の時でも、食事の時でも、ちょっとしたことで構わないので、色々なことを話してあげて下さい。お料理で使ったお野菜のことや、お魚のことなどを話すのもいいです。自分の子どもの時のことや、今日のお天気について話すのもいいです。また、子どもの言葉にも耳を傾けてあげて下さい。そして、子どもとの会話や対話を楽しむようにして下さい。そのためには、お母さんが色々なことに気付く必要があります。「ちょっと寒いな」と感じたら、「寒くない?」と聞いて、お天気の話しに流れてもいいです。道ばたに小さなお花が咲いていることに気付いたら、名前や、色や、匂いなどについて話題にしてみて下さい。でもそのためには、お母さん自身が自分の周囲のことに積極的に意識を向け、関心を持つ必要があります。「はなや」さんは趣味や知識の範囲も狭く、もっと活動的になってほしいのですが、、と書いていらっしゃいますが、「はなや」さんご自身も同じ状態なのではありませんか。私が出来ることといったら、親子で出かけること、その場限りのイベントや遊びでしか子供を体験させてあげられません。「でしか・・」と書いていらっしゃいますが、親子で出かけたり、イベントに参加することに能動的に取り組み、思いっきり楽しもうとしていますか。私自身絵や工作好きなのですが残念ながら興味を示しません。子どもが興味を示すかどうかなど気にせずに、「はなや」さんご自身が楽しそうに描いたり、作ったりすればいいのです。子どもが興味を持つかどうかは結果に過ぎません。でも、そのきっかけ自体がなければ、興味を持ちようがないのです。子どもを変えようとすることを止めて、自分を変えようとしてみて下さい。子どもはお母さんの無意識を映す鏡なんですから。また、子どもを色々な人に任せる、ということも必要です。
2022.06.16
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現代人は「知的な能力の成長」には関心があっても、「心とからだの成長」にはあまり関心がありません。それは、知的な能力の成長は、子どもを「良い学校」、「良い会社」、「良い給料」、「(物質的に)豊かな生活」へと導いてくれる可能性が高いからなのでしょう。また、知的な能力の成長の度合いは、ペーパーテストなどで調べることが出来ます。数値化し、比較することも出来ます。そのため、大人達の努力目標にしやすいです。だからみんな、そればかりに夢中になってしまうのでしょう。でも、「心とからだの成長」に関しては、あまり関心がありません。肉体的な成長には関心があっても、頭や心と繋がって働いている「からだ」には関心がありません。なぜなら、「心とからだの成長」の度合いはペーパーテストでは調べることが出来ないからです。もちろん、数値化することもできません。見る人が見れば分かるのですが、それは感覚的なものなので、客観的な数値としてその状態を示すことは出来ません。また、心とからだの成長が、「良い学校」や、「良い会社」や、「よい給料」や、「(物質的に)豊かな生活」を保障してくれるわけでもありません。そのため、最初から関心がない人も多いです。「三つ子の魂百まで」という言葉が意味するものは、「三歳までの育ちが、人間の基礎としての心とからだの成長に大きな影響を与えていますよ」ということなんですが、「心とからだの成長」そのものに関心がない現代人には、その言葉の意味も大切さも理解することが出来ないのです。また、社会的に価値がある知的な成長は、社会的な活動が増えて来る三歳以降から始まるので、三歳までの育ちは、知的な成長には大きな影響を与えません。学校の成績とも関係がありません。だから「〝三つ子の魂百まで〟という言葉は迷信だ」という事になるのでしょう。また、「お母さん達を早くから経済活動に復帰させたい社会のニーズ」、「早く社会活動に復帰したいお母さん達のニーズ」に応えるためにも「三つ子の魂百まで」は否定する必要があるのです。日本の社会はそういう価値観の元、「三歳までの心とからだの育ちを大切にしない子育て」が定着してしまいましたが、その結果が、今の日本の若者や大人達の心とからだの状態になってしまっています。物質的には豊かになっていますが、精神的な豊かさは失ってしまいました。自己肯定感が低いのが当たり前になりました。人間関係で困難を感じる人が増えて来ました。自分の感覚で感じ、自分の頭で考え、自分の意思で決断することが出来る人が少なくなりました。人や物や何かに依存していないと不安を感じたり、どうしたらいいのか分からない人が増えて来ました。そのため、マスコミに簡単に洗脳されてしまう人が増えて来ました。そういう状況を反映してか、最近のネットには「三つ子の魂百までは迷信ではない」「三歳までの育ちは非常に大切なんだ」ということを訴えている記事がいっぱいあります。でもそんなこと言われても、自分自身の心とからだを大切にしていない現代人には、じゃあどうしたらいいのかが分かりません。子どもの心とからだの育ちを促すためには、お母さんやお父さんとの「心とからだを通した密接な関わり合い」が絶対的に必要です。2、3才頃からは、他の子や、他の大人の人との「心とからだを通した密接な関わり合い」が必要になります。子どもの仲間作りも必要になります。でもそのためには、お母さん自身の仲間作りも必要になります。「お母さん自身の仲間作り」とセットにしないと「子どもの仲間作り」はうまく行かないのです。でも以前、お母さん達にそのことを伝えた時、「私は仲間作りが苦手です。私は大人だからいいんです。私ではなくこの子の友達が作りたいんです。」と言ってきたお母さんがいました。このお母さんだけでなく同じようなことを言うお母さんは多いです。でもそれは無理なんです。幼児期の子どもはお母さんをお手本にして育っているのですから。自然の働きとダイレクトに繋がった子どもの成長は、お母さんや大人や社会の都合に合わせてはくれないのです。天気は、人間の都合に合わせてくれないですよね。それと同じなんです。人生の最初に子どもに伝えるべき事は、「自分は受け入れられている」という実感です。また、「この世界は安心出来る」というや「この世界は楽しい」ということを感じさせてあげることも大切です。そのためには、「家族は仲間だ」、「自分の周囲にいる人もみんな仲間だ」、「感じること、考えること、行動すること、発見すること、作ること、仲間と繋がることは楽しい」ということを子どもが実感できるような状況と体験を与えてあげる必要があるのです。私は、自分の子にそういう場を与えてあげたくて、うちの子が小さいときに「ポランの広場」という活動を始めました。「冒険クラブ」とか「茅ヶ崎 賢治の楽校」というのもやっています。
2022.06.15
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昨日、実は、あまり理解されていませんが、「人と関わる」というのはそれだけでも能動性を必要とするものなんです。人間は、能動的な意思が働かないと、人に話しかける、人の話を聞く、一緒に何かをする、ということが出来ないからです。と書きました。今日はこのことについてもうちょっと書いてみます。人間の「人間らしさ」の全ては、生まれた後からの体験と学習によって育つように出来ています。人間は生まれた後から「人間らしさ」を学ばないことには人間になれない不思議な生き物なんです。さらに不思議なことには、人間は人間との人間らしい関わり合いを失ったら、からだの成長までも遅れてしまうのです。そのような悲しい実例が世界中にあります。そしてその「人間らしさ」は、「他の人との人間らしい関わり合い」を通してしか学ぶことが出来ません。ちゃんと衣食住の供給を受けていても、お母さんやお父さんや仲間と、人間らしい状況の中で人間らしい関わり合いをしていなければ、子どもは人間らしさも、人間としての能力も育てることが出来なくなってしまうのです。朝起きて食卓にご飯が用意されていても、実際にその場にお母さんが居て、お母さんと色々とお話をしながら、「美味しいね」と目を見合わせながら食べるという体験がないと、「動物としての肉体」は育っても、子どもの「人間としての心」は育たないのです。そしてその遅れは、子どもの一生にまで影響するのです。共稼ぎをしていたらそんなこと出来ないかも知れませんが、子どもの成長を支えている命の働きは、社会の変化や、個人的な都合には合わせてくれないのです。これが、「命の現実」なんです。「三つ子の魂百まで」というのは子どもの成長の現実でもあるのです。でも現代社会では、簡単便利や経済活動ばかりが優先され、様々な人間的な活動が消えたり、簡略化されたり、機械化されたり、自動化されたりして、「人と人が直接関わる必要」も、「人と人の人間らしい関わり合いの場」もドンドン消えてしまいました。大人もお金を稼ぐことが忙しくなり、子どもと関わることが困難になってしまいました。そして、そのような状況を肯定するために、「三つ子の魂百までは迷信だ」ということを言い出す人も増えて来ました。確かに、知的な成長に限って言えば、他の人との関わり合いがなくても人並みに成長する事が出来ます。人よりも優れた能力を育てることが出来る子もいます。でも、人との関わり合いを失ってしまったら「人間らしさ」と言われるようなものは育たないのです。さらに、このコロナ騒動で「人と人との直接的な関わり合い」が積極的に否定されるようにまでなってしまいました。信じられないことに、親子でさえマスク越しに会話しています。「ネットで会えるじゃないですか」などと言う人もいますが、ネットで会うことが出来るのは、デジタル的に作られた映像に過ぎません。映像ですから、当然のことながら触れることも、手をつなぐことも、抱くことも出来ません。感覚の共有は100%出来ません。画面の中の相手は、自分と同じ時間と空間と状況を共有している存在ではないからです。どんなにリアルでも、触れることも、手をつなぐことも、抱くことも、感覚を共有することも出来ない映像には子どもを育てる力はないのです。リアルな世界では、お母さんがただ側に居るだけで子どもは安心を感じることが出来ます。横を向いていても、後ろ姿しか見えなくても、お母さんが居てくれるだけで安心を感じます。それが「存在の力」です。子どもの成長には、この「存在の力」が必要なんです。でも、ネット経由の映像には、この「存在の力」が全くないのです。テレビのCMなどで、「職場からでもスマホで子どもを見守れます」という機器の宣伝が流れていますが、カメラを設置し、その映像を見て安心出来るのはお母さんだけです。子どもは全く安心出来ません。映像でお母さんを映しても、スピーカーからお母さんの声を聞かせても、そこに「実際に触れることが出来るお母さん」が居なければ子どもは安心できないのです。(続きます)
2022.06.14
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子どもたちに何かを体験させようと思って、色々なところに連れて行っても、子どもがその場所や、そこでやることに能動的に関わらない限り、楽しくありません。そして、楽しくなければ心や、感覚や、からだも閉じてしまうので、体験したとしてもその体験から肯定的なことを学ぶことも吸収することも出来ません。嫌な想い出だけが作られてしまうかも知れません。そして困ったことに、最近の子はその「能動的に関わる」ということが苦手なようです。幼い頃から受動的な遊びしかしてこなかったからなのでしょう。実際、テレビも、スマホも、ゲームも、よくできたオモチャも、みんな子どもを受動的にさせてしまいます。大人が一方的に指導するだけの「○○教室」もまた同じです。それでも、家族や仲間と深く関わったり、遊ぶ機会が多かった子はそれなりに能動性も育っているのですが、人と関わり合う時間が少なく、一人で、機械や、物や、道具に依存した遊びしかしてこなかった子は、能動性が育たないままになってしまうのです。確かに、ゲーム肯定論者が言うように、ゲームやyoutubeなどからも色々と学び、自分の可能性を広げることが出来る子もまれにはいます。そして、テレビなどでは、そういう例外的な子を話題にして「ゲームの素晴らしさ」や「ゲームの可能性」を喧伝しています。でも、実際にはそういう子は少数に過ぎません。さらに、そのような子はゲームやyoutubeと出会う前に、家族や、仲間といっぱい遊んで育った子だと思います。絵本やお話しもイッパイ聞いて育った子ではないかと思います。お父さんやお母さんもまた、学ぶことが好きな人なのではないかと思います。実際、そういう下地がある子はゲームやyoutubeだけでなく、何でも、自分の学びのきっかけにする事が出来てしまうからです。うちの教室にも、「youtubeで見たからあれが作りたい」と言うので材料を出したら、自分でちゃんと出来てしまう子もいます。ゲームの中の武器を作ってしまう子もいます。でも、そういう子は、ゲームと出会う以前にお母さんやお父さんや様々な仲間と出会い、深く関わり合いながら育った子ばかりです。実は、あまり理解されていませんが、「人と関わる」というのはそれだけでも能動性を必要とするものなんです。人間は、能動的な意思が働かないと、人に話しかける、人の話を聞く、一緒に何かをする、ということが出来ないからです。でも、最近の子はその「人と人との関わり合い」が少ない状態で育っています。関わったとしても事務連絡レベルの非常に浅い関わり合いがほとんどです。そういう「他の人と関わり合う能力」の下地がない子がゲームやyoutubeと出会ったら取り込まれてしまう可能性の方が高いのです。いくらいっぱいゲームをさせても、決してテレビで見た成功例のようにはならないのです。そして、受動的に楽しむことは出来ても、能動的に楽しむことが苦手な子になってしまうでしょう。そのような子は、「楽しいこと」を待っているだけです。そして、楽しませてくれるものがないと「退屈だー」と言い続けます。でも、自分からは動きません。また、「遊んでくれる大人」がいるとズーッと遊べるのですが、「遊んでくれる大人」がいないと遊べません。自分の頭で考えたり、能動的に仲間で話し合ったりして「楽しい事」を創り出すことが出来ないからです。子どもが大きくなってからでは難しいですが、幼いうちなら、機械や、物や、道具に依存した遊びで遊ぶ時間を減らすだけでも子どもは能動的に動き始めます。人と関わり始めます。基本的に子どもは退屈が嫌いだからです。子どもに「退屈だー」と言われるのが嫌で、次から次へと「楽しい事」を与えてしまうお母さんが居ます。また、自分にまとわりつかれるのが嫌でゲームやスマホを与えてしまうお母さんも居ます。でも、それが子どもの能動性の育ちを阻害しているのです。そのような状態の子は習い事の教室に行っても、子ども自身の可能性の育ちには繋がらないと思います。むしろ更に受動的になってしまうような気がします。子どもをそういう状態にしたくないのなら、子どもと一緒に何かをする時間を増やすといいと思います。一緒にお散歩でも、一緒にお料理でも、一緒に積み木でも、ただ一緒にお話しするだけでもいいです。また仲間と遊ぶ時間も大切です。あとこれも重要なことですが、退屈な時間も与えてあげて下さい。退屈だからこそ自分の意思で考え、動き始めるのですから。お母さんとやった遊びを一人で始める子もいます。ゲームをやらせる場合も可能な範囲で「一緒に」を心がけていると、子どもは少しずつ能動的に動くようになっていきます。人の能動性を動かすのは人との関わりなんです。これは大人でも同じです。その延長で、子どもが「あれやりたい」「○○教室に行きたい」と言い出したのなら、その教室での学びが子どもの可能性をさらに広げてくれるかも知れません。
2022.06.13
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本当に、子どもの」可能性を拓げてあげたいのなら、いきなり「〇〇教室」に通わせて、やらせるのではなく、ます、本当に上手な人、本当にすごい人がその活動をしている所を見せてあげて下さい。可能なら何回も。そして、子どもが興味を持ったら、可能ならその人に出会わせて上げてください。それは有名人でなくてもいいです。そんなすごい活動でなくてもいいです。相手が大人でなくてもいいです。コマ回しでも、竹馬でも、上手な子が楽しそうに遊んでいる現場を見せてあげて下さい。ピアノでも、いきなり「ピアノ教室」に通わせるのではなく、まず、演奏会に連れて行ってあげて下さい。「野球教室」につれて行くのではなく、「野球場」に連れて行ってあげて下さい。「〇〇教室」に通わせるのは、それで子どもが「僕もやってみたい」と言い出してからにした方がいいです。子どもはお母さんが楽しそうにお料理している現場を見て、自分もやりたくなるのです。お母さんが楽しそうに手仕事をしているから自分もやりたくなるのです。私は自宅では、子どものための造形教室をしているのですが、お父さんが大工さんの子も何人かいて、やっぱり、お父さんの活動を見て育った子は、木工工作が好きだし、上手です。そして楽しそうにやっている子を見て、他の子もやりたくなります。ちなみにうちの教室では自由にやらせています。基本的に、聞いてくれば教えますが、聞いてくる前に教えることはあまりしません。だから、やらない子は何もしません。ズーッとゲームの話ばかりしている子もいます。お母さんが手仕事が好きな子は、子どもも好きだし、上手です。お母さんやお父さんが読書家なら、子どもも本を読むことが好きになるでしょう。ただし、本と出会う前にゲームやスマホの面白さと出会ってしまった子はそうはなりませんけど。そのことに才能がある子は、実際にやっている人を見ると強い興味を示すのです。見ているだけで自分の中の何かが共鳴するのでしょう。絵の才能がある子は絵の実物を見たり、絵を描いている人を見ると、からだの中の何かが反応するのです。山で働いている人、農業をやっている人を見て反応する子もいます。踊っている人を見て反応する子もいます。だから、本当に子どもの可能性を拓げてあげたいのなら、いきなり「〇〇教室」に通わせるのではなく、色々な現場に連れて行って、色々な人と出会わせてあげて下さい。人の可能性を拓らくことが出来るのは「素敵な人との出会い」なんです。でもそのような、素敵な人がやっている現場を「見る」とか、その人に「会う」という体験をすっ飛ばしていきなり「〇〇教室」に通わせられた子は、自分が何をやっているのかよく理解できていないと思います。また、楽しむことも出来ていないともいます。子どもが本当にそのことに興味を持っているかどうかは、自主的に練習しているかどうかを見ればすぐ分かります。子どもでも、大人でも、好きなことは言われなくても、禁止されてもやるのです。でも、いきなり「知らないこと」をやらされたら、楽しめるわけがないのです。
2022.06.12
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「虹が好き」さんから、以下のような質問が来たので、今日は「習い事」について私の考えを書いてみます。私の周囲には子供にたくさんの習い事をさせています。4.5個は当たり前のようで、自由に能動的に過ごす時間はないように見受けられます。大人にとっての習い事は楽しみ、ストレス発散?なのですが、子供には訓練のようだと思います。可能性と機会を奪わないようにというのが周囲の意見でした。習い事は自由で能動的ではないものがほとんどであるかと思いますが、幼少期の習い事についての先生のお考えをお聞かせいただけたらとおもいます。子どもをいくつもの教室に通わせている人は、「虹が好き」さんがおっしゃるように「いっぱい習い事をさせることが子どもの可能性を拓くことになる」と考えているのでしょうね。でも実際に、毎日そのように育てられて大人になった多くのお母さんと関わっている私の印象としては、それは単なる「親の思い込み」に過ぎないと実感しています。ほとんどの人において、子どもの頃に学んだことが、その人自身の生き方や、考え方と繋がっていないように感じるからです。その習いごとをしたことで、その人の人生の可能性が広がったようにも感じません。このブログを読んで下さっている皆さんも、子どもの頃に多くの習いごとをしたと思いますが、その習い事が今の自分自身の人生の可能性を拓いてくれたと感じていますか。大人になった今でも、趣味として残っている人はまだいい方です。でも、そういう人は少ないように感じます。ほとんどの人が「昔、習っていたけど・・・・」と、過去の出来事になってしまっているのではないでしょうか。そもそもが「子どもの可能性」ってなんでしょうか。まだ未知数の子どもの可能性を、その可能性の中味を知らない大人が活動内容を限定して与えることで拓くことが出来るのでしょうか。毎日、走る練習をさせれば、みんなが走ることが好きになったり、早く走れるようになったり、走ることで自分の可能性を拓くことが出来るようになるのでしょうか。もともと「走る才能」があった子はそれでもいいかも知れませんが、「走る才能」ではなく「絵を描く才能」を持っていた子は、走ることばかりを強要されることでその才能が潰れてしまうかも知れません。ただし、習い事の全てを否定する気はありません。子どもの才能を感じて、その才能をもっと伸ばしてあげたいと教室に通わせるのはOKだと思います。また、「お母さん自身もピアノが大好きだから子どもにもやらせたい」というのもOKだと思います。子どもがピアノを学ぶことで、お母さんとの共通の趣味、話題が生まれるからです。一緒に演奏したり、一緒に演奏会などに行って楽しむことも出来るでしょう。お母さんが踊ることが好きだから、子どもにもやらせるお母さんが山登りが好きだから、子どもにもやらせる。お母さんが英語が好きだから、子どもにもやらせる。お母さんが勉強が好きだから、子どもにもやらせる。お母さんがテニスが好きだから、子どもにもやらせる。これは、そういうことが好きなお母さんの元に生まれてしまった子どもの宿命ですからしょうがありません。また、そのことで親子の繋がりも深くなるでしょう。(ただし、子どもがそのことを喜ばず、強く拒絶するときには止めた方がいいです。子どもの拒絶にはちゃんと理由があるからです。)子どもに自分の趣味を押しつけることを悪いことのように考える人もいますが、でもそれは、日本で日本人の元に生まれた子に、子どもの意見を聞かずに日本語を教え、日本人としての考え方やマナーを教えるのと同じことですから、悪いことではないのです。また、親が大切にしていることを子どもにも伝えることは、その子の「ルーツ」を育てることにもなります。ただし、子どもが成長して自分の考え方や意思を持つようになって、「私は日本人ではなくアメリカ人になりたい」と言い出したら、それを尊重してあげる必要はあると思います。「ピアノなんかやりたくない」と言い出したら、それを尊重してあげる必要があります。でも、それまでは、お母さんの趣味を押しつけてもいいのです。でも、だとしたら習い事はせいぜい、1つか、2つぐらいで十分なはずです。お金を払って教室に通わせなくても、お母さんが教えてもいいはずです。一日に2つとか、週に5個とか習い事に行っている子もいますが、これはやり過ぎだと思います。親自身にポリシーがありません。子どもも疲れてしまいます。それにこんなことしていても、学んだことが身につきません。逆に混乱してしまいます。習い事の「やりすぎ」は子どもの可能性を拓くどころか、逆に潰してしまうと思います。親が仕事で忙しいから、子どもの居場所として教室に通わせている人もいます。「みんながやっているから」という理由だけで、子どもを様々な教室に通わせている人もいます。「虹が好き」さんが言うように、「子どもの可能性を拓くため」という理由で教室に通わせている人もいます。そのようなお母さんは自分に自信がない人のような気がします。放課後の「子どもの居場所」がなくなってしまったことの影響も大きいと思います。昔の子はみんな、学校から帰った後は家の外で、暗くなるまで仲間と遊び回っていました。そして、そのような場で子どもは自分の可能性を拓いていました。でも今、学校から帰った後仲間と遊びたいと思っても、外で遊んでいる子がいません。放課後、子どもが集まっているのは色々な習い事の教室だけになってしまっているのです。そんなにイッパイ通わせたくないと思っても、通わせざる終えないような社会になってしまっているのです。でも、そのような場では子どもたちに自由がありません。家の中でも、学校でも、学校から帰った後でも、今の子に「自由」はないのです。そして、自由がなければ子どもの可能性も拓かれないのです。もし習い事に通わせるのなら、お母さん自身が本当に大切だと思う一つか、二つにした方がいいと思います。また、出来るだけ子どもの自由を尊重してくれる教室を選んだ方がいいと思います。それならば、子どもの可能性を拓く手助けになると思います。あとは、お母さん自身の生活を変えることです。
2022.06.11
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まず、最初に言っておきますが、子どもは、頭でも、心でも、からだでも、親の思い通りになんて育ちません。これは確実に言えることです。ですから、いくら熱心に子どもを管理、コントロールして、思い通りに育てようとしても、お母さんが頑張れば頑張るほど、取り返しの付かない状態になってしまいます。そして、子どももお母さんも苦しむことになります。どうしてそういう事になるのかというと、お母さんが頑張れば頑張るほど、子どもは感覚も、思考も、判断も、行動も、お母さんに依存するようになってしまうからです。その結果、「自分らしさ」を育てることも、「自分らしさ」に気付くことも、「自分らしさ」を大切にすることも出来なくなります。そして、思春期が来る頃になってそんな「空っぽの自分」に気付きます。そこから、自分の「空っぽ」を埋めるために、親の支配を拒否し、親と戦い、色々な活動に積極的に取り組むことが出来た子は、「自分」を取り戻すことも出来ますが、でも、多くの子は、親の支配から逃れることが出来ないまま大人になります。「自分らしさ」が育っていないので、精神的に自立する事が出来ないのです。そのような状態の人は、自分のパートナーや、幼稚園や学校や、またその先生達や、世間一般の常識に依存して生きるようになります。学校に行く意味やマスクをする意味を考えずに、「みんなが学校に行っているから学校に行かせる」、「みんながマスクしているから自分もマスクし、子どもにもマスクさせる」というような判断をするようになるのです。それでも、その状態に満足出来ているのならそれはそれでもいいのですが、私の目には「だってしょうがないじゃない」と諦めてしまっているだけのように見えます。日本人は諦めるのが得意な民族なんです。この能力は、自然災害に対しては長所になりますが、自分の人生を自分らしく生きるためには短所になってしまうのです。(これは、憂鬱質の特性でもあります。)子どもたちは、様々な能動的な体験を通して「自分らしさ」に気付き、「自分らしさ」を育てていきます。ここで重要になるのは「何をしたか」「何をさせたか」ではなく、自分の意思と判断で「能動的に取り組んだかどうか」ということです。そして、そのためには「自由」が必要になります。大人から見たら大したことをしていなくても、子ども自身が自分の意思と判断でそのことに取り組んでいるのなら、子どもはそのような行為を通して「自分らしさ」を育てることが出来るのです。そしてそれが「心の育ち」につながっていくのです。ただドロンコでお団子を作っているだけでも、「やらされたから」ではなく、自分の意思と判断でそれを行っているのなら、ドロンコ作りを通して子どもは「自分らしさ」を育てることが出来るのです。これは「お勉強」でも同じです。「やらされる勉強」は、子どもの自分らしさの育ちを阻害しますが、「自分の意思で行う勉強」は、子どもの自分らしさの育ちを支えてくれます。子どもの心の育ちを支えるためには、子ども自身が自分の意思と判断で取り組むことが出来る活動が必要になるのです。かといって、ただ放っておくだけでは子どもは能動的に動き出しません。「自由」は子どもの「自分らしさ」を育てますが、「放任」は「自分らしさの育ち」には繋がらないのです。でも、自由を与えるつもりで放任しているだけの人がいっぱいいます。ちなみに、子どもがいくら熱心にゲームに取り組んでいても、それは、子ども自身の自由意志によるものではなく、ただの中毒です。やめられないだけです。あと、「心の育ち」には「言葉の学び」も重要です。これは明日書きます。
2022.06.10
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毎日のニュースを見ていると、私たちは簡単・便利と引き替えに人間として大切なことを失ってしまったような気がするのです。子どもを虐待する人も増えています。最近、5才の子どもに食事を与えず餓死させてしまったという事件もありました。子どもは、やせ細ってほとんどガイコツ状態だったそうです。そういう状態の我が子を見ても何にも感じなかったのでしょうか。「ペットの方が可愛かった」という証言までしています。また、「東京・江戸川区、ひきこもり7919人 40~50代が目立つ」という記事もあります。江戸川区だけでこれだけの人数の人が、家から外に出て普通の社会生活を営むことが困難になってしまっているのです。全国だったら、一体何人になるのでしょうか。私も時々、お母さん達から〝兄が・・・〟、〝弟が・・・〟という相談を受けます。子どものことではなく、大人になっているお兄さんや弟の引きこもりで悩んでいる人が結構いるのです。自殺する人や鬱病の人も増えています。自己肯定感が低い若者は国際比較で最低水準だそうです。(若者の自己肯定感、国際比較で最低水準…子ども・若者白書)「将来に希望を持てない日本の若者 国際比較で見る驚きの低さ」という記事もあります。公園で子どもが遊んでいるだけで「うるさい」と文句を言ってくる人も多いです。マスクのことでも、子どもの心やからだの育ちに対する悪影響は全く考慮せず、マスクを正義として押しつける人がいっぱいいます。本来は、子どもの心とからだの育ちを守るべき立場の教育者ですら、平気で子どもにマスクを強要しています。そのように子どもの心やからだのことを大切にしていないような人は、自分自身の心やからだも大切にしていません。というか、自分自身の心やからだの状態に無関心だから、子どもの心やからだの状態にも無関心なのです。「心」は目に見えません。成績にも関係しません。また、その状態を調べることも困難です。また、その育て方も分かりません。心の状態に「正解」なんてないのに、子どもに「心の正解」を押しつける大人もいっぱいいます。そもそも、現代人は「心」のように「正解がないもの」を扱う方法を知りません。学校の道徳の授業などで「正しい行動」や「心の正解」を教えることは出来ますが、当然のことながら子どもの心はそんなものでは育ちません。お母さんも、お父さんも自分のことだけで精一杯です。自分の「母親としての評価」に繋がるような子どもの行動や、成績に関しては気にしていても、子どもの心やからだの育ちの事は考えていません。そのため、「正しい行動」をさせるために、平気で子どもの心を否定するようなことを言っています。「なんでこんなことも出来ないの?」、「なんで、○○ちゃんは出来ているのにあなたは出来ないの?」、「なんで、何遍も言っているのに出来ないの?」「こんなことも出来ないなんてあんたバカなんじゃない?」などと言っているお母さんは多いような気がします。現代人は「心」のことを考えなくなりました。目に見えない世界の事は考えなくなりました。でもその結果、心が育たないままからだだけが成長してしまう人が増えて来ました。そのような人は自分のことを自分で決められません。自分で自分のことを信用していません。そのため、常に、誰かや何かに依存しようとしています。知識や正解を求めています。当然、不安は強いです。私が言っている所の「子どもの心を育てる」ということは、道徳の授業のように「正しい心のあり方を教える」ということではありません。そうではなくて、「子どもが自分の人生を自分らしく生きる能力を育てる」ということです。子どもの「自分の人生を自分らしく生きる能力」を育てることを意識して子育てをすれば、結果として、子どもの心も育つのです。心が育っていないと自分らしく生きることが出来ないからです。
2022.06.09
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時々、私は遊びのワークで「見えないもので遊ぶ」という事をやります。いわゆる「エアー○○」的なものです。見えないロープで縄跳びをしたり、見えないネズミを避けたり、見えないボールを投げたりして遊びます。幼い子どもたちがやっている「ごっこ遊び」もこれに近いものです。ごっこ遊びでは木の実や、積み木や、葉っぱや、色々なものを使っていますが、でも、葉っぱがお皿であったり、ドングリがご飯であったり、ドロンコがお団子やケーキだったりします。葉っぱやドングリなどの「見えるもの」は、実際にはそこにない「見えないもの」を共有するための小道具として使われているのです。大人が子どもたちの「ごっこ遊び」に参加するのが苦手なのは、葉っぱや、ドングリや、ドロンコと言った「見えるもの」しか見ようとしていないからです。「見えるもの」だけを見てそれらが象徴している「見えないもの」を、自分の心の中に見ようとしないから「ごっこ遊び」に参加できないのです。古代の人達は、自然を背後から動かしている「目では見ることが出来ない原理や仕組み」を一生懸命に理解しようとしました。「目で見ることが出来る世界」を動かしている「目では見ることが出来ない世界」の原理が分かれば、自然災害などにも対処することも出来るからです。そこで様々な神話や物語や宗教が生まれました。そして、神話や物語や宗教を得ることで、自然界の様々な現象や、色々な出来事の意味を知り、納得することが出来るようになりました。物語が意味を与えてくれたのです。勇気や、希望や、命や、愛という言葉の意味を与えてくれたのも物語です。でも、現代人には「科学」という武器があります。その科学が、自然界で働いている見えない世界の原理を明らかにしてくれました。雷が落ちてくるのは雷神さまが太鼓を叩いているからではなく、大気中の電気が一気に地面に流れるからだということも説明してくれました。そして人々は、科学という武器を手に入れることで「目に見えない世界」への興味や好奇心を一気に失いました。神話や物語や宗教はその力を失い、神を否定する人も増えました。でも、科学が教えてくれるのは「仕組み」だけです。物が落ちる仕組み、その現象が起きる仕組み、地球が出来た仕組み、命の仕組み、などなどです。その仕組みが分かるようになったから、ロケットを作ったり、ロボットを作ったり、命を操作することが出来るようになったわけです。でも科学は、「それらの仕組みがなぜ存在するのか?」ということには答えることが出来ません。「How?」には答えることが出来ても「Why?」には答えることが出来ないのです。なぜなら「How?」という問いかけは、論理的な頭の働きから生まれて来ますが、「Why?」という問いかけは、非論理的な心の働きから生まれて来るものだからです。だから、「How」を説明されて頭での理解は出来ても、心での納得が出来ないという状態になってしまうのです。科学者が大きな災害が起きた科学的な理由を説明してくれても、その災害によって被害を受けた人達の心は納得出来ませんよね。皆さんだったら、自分の家が津波で流されたような時、「なぜ流されたのか」という科学的な説明をされれば納得出来ますか、出来ないですよね。そして、人の安心を作り出すのは「理解」ではなく「納得」の方なんです。理解出来ても納得できなければ不安が生まれます。理解出来ていなくても納得できていれば安心が生まれます。薬が効く仕組みが理解出来なくても、信頼している先生から「これ飲んでおけば治るから」と言われれば安心しますよね。人の心はそういうものなんです。「なんで?」「どうして?」と聞く子どもたちが求めているのも、「理解」ではなく「納得」なんです。そもそも、物事を正しく理解するためには、その前提として「物事を客観的に見る能力」が必要になります。そして、その「物事を客観的に観る能力」が目覚め始めるのが思春期頃なんです。思春期が過ぎないことにはその能力が目覚めないのです。そのため、思春期前の子どもたちには「理解する」ということ自体がまだ困難なんです。(思春期が過ぎても目覚めない子もいっぱいいますけど・・・)子どもが問題行動を起こしたような時、大人は「どうしてその行動が悪いのか」ということを一生懸命に説明して理解させようとします。それで大人が「分かった?」と聞くと「分かった」と答えます。だから大人は自分が言っていることが通じたのだと思い込みます。でも、「分かった」と言ったのに、子どもはまた同じことを繰り返します。何回説明しても、何回も繰り返します。大人達は何か大きな勘違いをしているのです。子どもが何かを怖がっているときにも、大人はそれが怖くない理由を一生懸命に説明します。でも、いくら説明されても怖さは消えません。でも、ちょっとしたおまじないやお守りが効果を発することもあります。「このクマさんのお人形を持っていれば大丈夫」という言葉と共にクマさんのお人形を与えられるだけで怖さに耐えることが出来るようになることもあります。人前で上がる人に「手のひらに人という字を書いて飲み込むと落ち着くよ」と教えるのも同じことです。それが「物語の力」なんです。人の心の深い所に働きかけるのは「頭で処理する科学的な説明や知識」ではなく、「心に響くような物語」なんです。物語の力が人の心を変えるのです。「お月様はなんで私に付いてくるの?」と聴いてきた子どもに、「いや、実際は付いてきてなんかいないんだよ。ただ、うんと遠くにあるので多少動いても、自分から見る位置が変わらないように見えているだけなんだよ」と答えても、子どもには意味不明です。納得もできません。でも、「○○ちゃんのことが好きだからだよ」という言葉で納得したりするのです。子どもが求めているのは知識ではなく納得だからです。子どもに納得してもらうためには、子どもには理解出来ない客観的な視点で説明するのではなく、子ども自身の視点、子ども自身の心の働きに沿った形で説明するしかないのです。すると、自然に物語が生まれてくるのです。その納得が安心に繋がるのです。客観的な理解を与えるのは、思春期が来てからでいいのです。
2022.06.08
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昨日「杜人」(もりびと)という映画を見てきました。副題として「環境再生医 矢野智徳の挑戦」と書いてあります。https://lingkaranfilms.com/で予告編を見ることが出来ます。その映画で描かれていたのは、「この世界は全てつながり合っている」ということと、「目に見える世界は目に見えない世界によって支えられている」ということでした。(ただし、これはあくまでも私の個人的な感想ですけどね。)これは自然の世界でも、人間の世界でも、命の世界でも、物質の世界でも同じです。そして、矢野智徳という人は、その「目に見えない世界」の状態を感じ取る能力に優れているようです。その「目には見えない世界での繋がり」が断たれると、少しのタイムラグはありますが、次第に、自然が荒れる、木が弱る、生命力が弱る、土地が痩せる、山が崩れる、という形で目に見えるようになってきます。でも、目に見えない世界に意識を向けない人には、直接の原因は分かっても、その背景の原因が分かりません。そのため、根本的な対処が出来ません。それで肥料をやったり、水をやったり、防虫剤をまいたりして人工的に管理することで元の状態を維持しようとするのですが、その人工的な介入が、また新しい断絶を引き起こします。それに、そのように人間に管理された自然は、人間が管理や維持を止めたらすぐに崩壊します。子どもの成長でも同じです。大人の管理とコントロールによって良い子を維持している子は、思春期が来て自分で独り立ちしなければならなくなった時、困難に陥るのです。人間は人間の都合に合わせて、「目には見えない世界で自然を支えているつながり」をブツブツ断ち切って来ました。でも、そのつながりは目には見えないので、誰も気にしませんでした。でも、つながりを断ちきられた自然は死に始め、崩壊を始め、それが様々な自然災害になって人間に襲いかかるようになってきました。でも、人間はそのつながりを再生するのではなく、更につながりを断つような方法で、災害だけを防ごうとしています。その方法は一時的には成功するかも知れません。でも、一時的にしか成功しません。やがて更に大きなしっぺ返しが来ます。実際、今、地球規模でそのしっぺ返しが来ています。昨今、「自然を守ろう」という運動が盛んです。CMを見ていても、「私たちは自然を守る活動をしています」的なことを謳っている企業は多いです。「私たちの企業は、木を切ったらその後ちゃんと植林をして環境を守っています」「カーボンニュートラルを目指しています」的な事をいっているCMもよく見ます。この「自然を守る」とか「脱炭素社会を目指す」と言うのは今の社会では正義であり、一応表向きは、その考えに反対するような事を言う企業や人は多くありません。学校でも子どもたちに教えています。でも、このような考え方の背景にあるのは自然を「資源」や「物」としてだけ見ようとする価値観です。そのため「木」は大切にしても「土」は大切にしません。土の中の微生物や、小さな生き物たちによって支えられている生態系も大切にしません。発電や農業や工業や飲用に使う水は大切にしても、ただ大地の中を流れ、無数の命と大地を支えている水は大切にしません。土の中の微生物や生き物も大切にしません。「人間の生活や経済にとって役に立つもの」は資源として大切にし、積極的に育てようとするのですが、「直接、人間の生活に関係のないもの」には関心がないのです。また、「目に見えるもの」は大切にしても「目に見えないもの」は大切にしないのです。でも、「目に見える世界」は「目に見えない世界」に支えられているので、「目に見えない世界」を大切にしていないと、やがて「目に見えない世界」も崩壊を始めるのです。「目に見えない世界」と言っても、私は別にオカルト的な怪しいことを言っているわけではありません。「物理法則」も、「命の働き」も、「大地の中」も、私たちの思考や行動を支えている「感覚や心の働き」も、「音」や「光」も目には見えませんでしょ。(私たちは光が見えていると思っていますが、実際には、光自体は無色透明なので見ることが出来ないのです。私たちに見えているのは「光」ではなく、その光が当たって光っている「物質」です。)いつでも、本当に大切なことは目には見えないのです。「音」の存在の有無は機械でも調べることが出来ますが、「音楽の存在の有無」は人間の感覚でしか感じ取ることが出来ません。私たちの目に見えている世界では、全て物のがバラバラに存在しています。でも、目には見えない世界の中ではこの世界にあるものすべてが密接につながり合っています。その世界には、繋がりから切り離された無駄なものなど一つもないのです。つながり合うことでお互いの存在を支え合っているのです。水の流れが草や木を支え、草や木が水の流れを支えているのです。大地と水と空気、そして、その大地と水と空気の中に存在する生き物は不可分です。大地や水や空気が死ねば、その中に存在する生き物も死にます。逆に、その中に存在している生き物が死んでも、大地や水や空気は死にます。そして死ねば不活性な状態になります。そこからは何も生まれません。死の世界です。子どもの成長を考えるときも、目に見える部分だけでなく、目では見ることが出来ない部分にも意識を向ける必要があるのです。子どもは、子どもの周囲にあるものから切り離された存在ではなく、その周囲にあるものと密接に繋がり合い、その繋がりに支えられ、成長し、生きているのですから。でも、大人が大人の価値観を押しつけ、管理、コントロールするような子育てや教育をしてしまうと、子どもはその「自分を支えてくれる繋がり」から切り離されてしまうため、自分の力で成長することが出来なくなってしまうのです。
2022.06.07
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(今日は2021年8月7日のものをタイトルをちょっと買えて、そのまま再掲載させて頂きます。スポーツの世界では「頑張ること」を求められます。「戦いに勝つこと」、「諦めないこと」も求められます。スポーツ選手のそういう姿を見て、「素晴らしい」とか「美しい」と褒める人は多いです。でも、そこにあるのは「選手達のリアル」であって、「見ている私たちのリアル」ではありません。感動したからといって私たちに同じことが出来るわけではありません。あんなに頑張ることも出来ません。「すごいなー」とは思いますが、真似をしたいとは思いません。ただスポーツを見ていると「自分たちのリアル」を忘れることは出来ます。一種のカンフル剤のように「頑張る元気」をもらう人もいます。それがスポーツの効用でもあるのでしょう。それはそれでいいです。でも私たちが生きているのは「私たちのリアル」です。その「私たちが生きている世界のリアル」にはルールなどありません。努力が点数化されることもありせん。比較はされますが、客観的な点数によってではなく主観的な印象だけで比較されます。そのため、努力していない人が評価され、努力している人が評価されないこともあります。「頑張れば報われる」ということもありません。無理して頑張ることで余計に状態を悪化させてしまうこともよくあることです。子育ての世界は特にそうです。実際には、頑張るよりも、頑張らずに楽しくやった方が子育てはうまく行くのです。また、スポーツはニコニコしてやったら叱られますが、子育てはニコニコしてやった方がうまく行きます。子育てには、日本のため、チームのためという目標はありません。「子どものため」という目標を持つ人は多いですが、その目標がかえって子どものためにならないこともあります。応援してくれる人もいません。またスポーツでは「何をしたらいいのか」が明確ですが、子育てや私たちが生活している世界では「何をしたらいいのか」は決まっていません。何をすべきなのかは、自分で考えて、自分で決めるしかないのです。正解もありません。ですから、「子育ての世界」は「スポーツの世界」とは色々な点で正反対なんです。頑張れば目標から遠ざかり、楽しめば目標が近寄ってくるのです。(武術の世界でもこういうことはあります。力を入れると小さな力しか出ないのに、力を抜くと大きな力が出るのです。)「子育て」は「自然現象」です。だから、頑張るのではなく、自然に従うのが一番いいのです。それに対して、スポーツは人工的に創り出された競技です。ですから、「子育てをうまくやる方法」と「スポーツをうまくやる方法」は全く違うのです。また「頑張る」の精神は「今」の否定から始まっています。「こんなんじゃダメだ」と今を否定して頑張るから記録を伸ばすことが出来るのです。でも、「今」の否定から始めたら子どもは育ちません。立てるようになった子に「まだ立つことしか出来ないのか、もっとガンバレ」という関わり方をしていたら、成長する喜びを感じることが出来なくなってしまいます。やがて子どもは疲れてしまうでしょう。でも、「すごーい、もう立てるようになったんだ。お母さんすごく驚いたよ。」と喜んでいると、子どもは勝手に次の段階に進んでいくのです。それが成長の仕組みなんです。でも私たちは、その「頑張らなくてもいい世界」、「頑張らない方がいい世界」の生き方を知りません。そして「スポーツの価値観」を子育てや教育の世界の中にまで持ち込んでいます。そして子どもたちを「ガンバレ ガンバレ」と追い立てています。でも、追い立てられてきた子どもたちは、思春期が来る頃になると息が切れ始めてしまうのです。勉強も本来は「楽しいもの」です。なぜなら学ぶことが自分の成長につながるからです。そして、自分の成長が実感できると子どもでも大人でも嬉しいのです。そして、そんな風に勉強の楽しさを知っている人は、自分の意思で一生勉強します。だから一生成長し続けることが出来ます。勉強は「楽しむもの」であって「頑張るもの」ではないのです。でもなぜか、学校は勉強から「楽しい」という要素をそぎ落として、勉強を「苦しいもの」に変え「ガンバレ」と子どもたちを追い立てています。お母さん達も同じことをやっています。お母さん達はまず「自分の今」を否定することを止めるところから始める必要があると思います。以下の絵本には「ありのままの今」を肯定してあげることで子どもがどう成長していくのかが描かれています。てん [ ピーター・レイノルズ ]価格:1430円(税込、送料無料) (2021/8/7時点)楽天で購入
2022.06.06
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生命は自然の一部として発生し、進化してきました。ですから、いかなる生物においても、その「生命」や「肉体」は自然に属しています。人間も例外ではありません。どんなに自然から隔離された人工的な社会の中で生活していても、受精や、妊娠や、出産や、病気や、死といったものは自然の働きのままに進行します。たとえその受精が試験管の中で起きたとしても、それは試験管の中で自然現象を再現しただけのことです。そして、死ねばみな大地に還ります。お墓に入れたとしても、やがて大地に還ります。それは単なる時間の問題に過ぎません。地球時間から見たら、人間時間など瞬間的なものです。喜怒哀楽や愛情のような感情すら自然現象です。だから人は自分の感情をコントロールすることが困難なのです。そして、生命や肉体が「自然」に属しているのなら、その生命や肉体の進化や成長や行動もまた「自然」の一部であり、同時に一つの「自然現象」であるということになります。鳥が空を飛び、ライオンがシマウマを襲い、アリが砂糖を運ぶのも自然現象だということです。実際、私たちが「豊かな自然」という言葉を使う時には、そこに生きている「生き物」たちも、また、その「生き物たちの生活」も全て含めています。というか、それらを取り除いた自然など存在しません。その自然現象としての生き物たちは、内側からの衝動に逆らうことなく、空腹になれば(目の前に食べ物があれば)躊躇なく食べます。排泄したくなれば排泄し、交尾したくなれば交尾し、眠くなれば寝ます。それは、風が吹けば草花が揺れる自然現象と同じです。自然現象としての生命体は、「あるがまま」に生きているのです。でも、人間だけがその「あるがままの世界」から抜けだし、自分の意志と思考で自由に生きることが出来るようになりました。そして、自然を排除した社会を作り、その中で暮らすようになりました。その社会の中は「人工物」で構築され、「自然のルール」は否定され、「人間のルール」によって支配されています。でも、そんな現代でも、幼い子どもたちの感性はまだ自然のルールに従っています。食べたいときに食べ、排泄したいときに排泄し、動きたいときに動き、泣きたいときに泣き、寝たいときに寝ます。そのため、自然を否定し、コントロールすることに熱心な大人達は、そんな「子どもらしさ」を否定し、管理、コントロールしようとします。昔々、人々の生活が「自然」に依存していた頃は、人間も「自然」という「あるがままの世界」を大切にし、その世界を破壊しないように心がけていました。なぜなら、あるがままの世界が壊れてしまったら、自分たちの衣食住までが失われてしまう可能性があったからです。自然のような「子どもらしさ」も肯定されていました。でも、機械文明が進み、人々の生活が「自然が与えてくれるもの」に依存しなくなると、人々は自然を大切にしなくなり始めました。むしろ、「自然」に対して違和感を感じるようにすらなりました。キャンプ場で「虫がいる」と管理人に文句を言う人すらいると聞きます。「管理されている自然」なら受け入れるのですが、「ありのままの自然」には抵抗感を感じてしまうのです。一見、大切にしているように見えても、それは「あるがまま」を大切にしているのではなく、人間の趣味や都合に合わせて草木を植え替え、虫を殺し、山を削り、生き物たちからその生存環境を奪っています。「自然と触れ合うための公園を作る」という名目で山を崩し、野原を潰し、人々が遊びやすい環境を作っています。実際には、それは「自然」を否定していることなのですが、現代人は自然を「資源」としてしか見なくなりましたから、生態系が失われていても緑がいっぱいなら「自然がいっぱい」などと喜んでいます。そして、「木を切っても植林すればOK」などと平気で言っています。でも、それは見せかけだけの「不自然な自然」です。その「不自然な自然」は「多様性」と「循環」に支えられていないので、人間の管理がないと簡単に崩壊します。そして困ったことに、その「あるがまま」の否定は同時に、「自然」に属する自分自身の心や、からだや、成長の「あるがまま」を否定する意識へとつながってしまったのです。そして、妊娠も、出産も、子どもの成長も、病気も、死も、自分の心も、からだも、全て人間の都合に合わせてコントロールしようとし始めました。自己肯定感が低い人が増えたのも、整形が流行っているのも、子どもをしつけや勉強に追い立てているのもその表れだと思います。その結果、自然な状態の「子どもらしさ」も否定されるようになって来ました。そして子ども達は、人工的な社会の中で、大人の都合に合わせて人工的な生活をするように強いられるようになりました。成長ですら、大人の思い通りに成長することを求められています。でもそれは、子どものペット化や家畜化に他なりません。でもそのことで、子ども達は「自分の成長に必要なもの」、「自分が自分らしく自由に生きるために必要なこと」を学ぶことが出来なくなってしまいました。成長する喜びを感じることも困難になってしまいました。昔は「早く大人になりたい」と言う子もいっぱいいたのですが、今では「大人になりたくない」と言う子がいっぱいいます。子どもたちが大人に魅力を感じなくなってしまっているのです。管理され続けているうちに、管理者(大人)に依存することを覚えてしまい、自立できなくなってしまっている子もいっぱいいます。
2022.06.05
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お母さん達はみんな一生懸命に子育てをしています。その子育ての苦しさは、一日中子どもと関わっているお母さんでないと分かりません。お母さんがどんなに頑張っても、子どもはそれに応じてくれません。追えば逃げるし、逃げれば追ってきます。片づけたらすぐに散らかし、また片づけたらすぐに散らかします。それが一日中繰り返されます。そして、夜帰ってきたご主人はその繰り返しを知らないので、「少しぐらい片づけろよ」とのんきに言います。お母さんが何にもしていない時には一人で遊んでいるのに、お母さんが何かを始めるとまとわりついてきます。バスやエレベーターに乗ればボタンを押しまくり、お母さんは謝り続けます。だだをこねて欲しくない時に限ってだだをこね、静かにして欲しい時に限って騒ぎます。子どもは常に「無い物ねだり」をするあまのじゃくなんです。そして、時と場所を選ばずいつもお母さんの「限界」を試そうとしています。でも、だからといってお母さんがイライラしていたり、辛そうにしていると、子どもは不安になります。また、それが続けば感情表現も苦手になります。感情表現能力は感情を受け止めてくれる人がいて初めて育つものだからです。そしてその結果、集団の中に入ることも苦手になります。不安が強い子は集団の中に入ることが出来ないのです。また入ったとしても、自分の感情をうまく相手に伝えることが出来なかったり、相手の感情を感じることが出来ないので、誤解やトラブルが発生します。時には、そのストレスで暴力的な行為に出てしまう子どももいるかも知れません。そのことがまた、お母さんを苦しめます。つまり、直接的、間接的にお母さんは子どもから苦しめられることになるのです。このような「苦しい子育て」をしているお母さんはいっぱいいます。でも、本当に「子育て」というものはそんなにも辛いものなのでしょうか。「楽しい子育て」というものはありえないことなのでしょうか。私にはそうは思えないのです。どこかでボタンの掛け違いが起きているのです。実は、子育てで一番必要なのは「知識」や、「我慢」や、「努力」や、「犠牲」ではないのです。「しつけ」ですらありません。そんなものなくても子どもはちゃんと育つのです。その時、子どもが一番欲しいのは「お母さんの笑顔」なんです。(家族の笑顔も含みます。)つまり、お母さんが子育てを頑張らなくても、いつでも笑顔なら子どもは周囲の状況に合わせてそれなりに育ってしまうということです。なぜなら、子どもはオッパイを飲むように、お母さんのエネルギーを吸って成長しているからです。その時、どんな子育てをしているのかなどということは二の次です。○○教育をしていようと、○○育児をしていようと、どんなに育児書をいっぱい読んでいようと、お母さんに笑顔がないと子どもは成長するエネルギーが弱くなってしまうのです。そしてそれは、古今東西共通の原理です。なぜなら人間にとっては生命の働き自体がそのように出来ているからです。それに対して、「どんな子育てをするのか」というのは文化の問題であり、生命の問題の次に出てくる課題です。それに関しては私は「シュタイナー教育」に共感しています。でも、シュタイナー教育などなくても素敵な子どもが育つのは明らかな事実です。世の中には素敵な人、素晴らしい人がいっぱいいますが、実際にはその中にシュタイナー教育を受けた人はほとんどいません。お釈迦様も、キリストも、R.シュタイナー自身でさえもシュタイナー教育を受けていないのです。皆さんの周りにも「素敵な人」はいっぱいいると思いますが、その中にシュタイナー教育を受けて育った人はいますか。実は、生命を育てるために必要な智恵は、生命そのものの中にあるのです。そしてそれは全ての人が共通に持っている能力です。ですから、学校になど行ったことがない人でも、文字を読めない人でも、子育て関係の本など読んだことがない人でも、素敵な子育てをしている人はいっぱいいるのです。まずそこをしっかりと押さえておくべきです。それに対して、現代社会ではみんな学校に行って、みんな子育て書、育児書を読んでいます。シュタイナー教育にも詳しい人はいっぱいいます。でも、そういう人がみんな子育て上手かというと全くそんなことはないのは明らかな事です。また、必ずしも子どもが素敵に育っているわけでもありません。逆に今の時代は子育てに苦しんでいる人の方が遙かに多いのではないでしょうか。特に知識をいっぱい持っている高学歴の人ほど、子育てに苦しんでいる人が多いような気がします。また、小さい時からいっぱい勉強しているのに、自尊心がなく、仲間作りも苦手で、精神的に幼く、依存心ばかり強くて自立できない若者たちも増えてきています。私たちは知識と引き替えに大切な何かを忘れてしまったのではないでしょうか。私は、それは大人達が子どもの成長を素直に喜ぶことが出来なくなってしまったことが一番大きな原因なのではないかと思っています。子どもの成長を素直に喜ぶということは、「出来ていないこと」を求めるのではなく、「出来るようになったこと」を喜ぶということです。私たちは、知識が増えることで感覚やからだが感じている世界を否定するようになりました。また知識によって作られた理想に合わせて子どもを育てようとしています。その結果、ありのままの子どもを肯定することが出来なくなり、「出来ていないこと」ばかりが気になるようになってしまったのです。だから、子育ては苦しくなり、子どもも成長出来なくなってしまっているのです。実は、子どもは何も特別な教育などしなくても、周囲の大人が自分の成長を喜んでくれているなら、もっと成長したいと思うように出来ているのです。それが生命の智恵です。そして、「肯定されている自分」を感じ、どんどん外の世界に向かって自分の世界を広げていくのです。その際、「どのように育つのか」は、大人達が「どのような手本を子どもたちに示すことが出来るのか」ということにかかっています。つまり、「○○教育」も、「子どもを育てる方法」としてではなく、「親自身の生き方の基準」として取り入れることで、その影響が子どもたちに伝わっていくのです。そうでないと「教育」ではなく「訓練」になってしまいます。そして、子どもたちはいつでも「○○教育」の「理想的な子ども像」を基準に評価されることになってしまいます。でもそれでは、自分の成長が肯定されていると感じることは出来ないでしょう。そして、成長への意欲を失ってしまうでしょう。
2022.06.04
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確かに、子育てにおいては「しつけ」が必要です。でもそれは、子どもを大人にとって都合の良い状態にするためのものではありません。「しつけ」は、子どもがやがて親から離れて自分の力で生きなければならなくなった時に、他の人と平和な関係を築き、幸せに、自由に、自分らしく、精神的、経済的に自立して生きることが出来るようになる導きをするためのものです。「しつけ」とは、子どもが自分の人生を幸せに、そして自分らしく生きることが出来るようになるための下準備なんです。ですから、「しつけ」は「大人のためのもの」ではなく「子どものためのもの」であり、また同時に「大人のためのもの」でもあるのです。子どもを支配、管理することを目的としたしつけは、「調教」であって「しつけ」ではありません。そこが分かっていないから、「しつけ」と称して子どもを虐待する人が後を絶たないのです。子どもの人生を奪ってしまうような行為は「しつけ」ではなく「虐待」なんです。そう考えていく時、「しつけ」でまず必要になるのは「言葉の学び」です。「規則」や「ルール」を覚えさせることではなく、なぜこれが規則になっているのか、なぜこのようなルールが必要なのかを自分の頭で考え、理解することが出来るようになるために言葉を学ぶのです。人間は言葉を得ることで「人間らしさ」を得ることも出来たのですから、子どもが人間らしさを育てる際にも「言葉の学び」が絶対的に必要になるのです。子どもをペットのように指示や命令だけでコントロールしようとしてしまうと、この「言葉の学び」が阻害されてしまうのです。それはまた、子どもの「人間としての成長が阻害されてしまう」ということでもあるのです。また、子どもが人間になるために学ぶべき言葉は「知識としての言葉」ではありません。実際に生活の場で使う事が出来る「生活の道具」、「自己表現の道具」、「思考の道具」、「人と繋がりコミュニケーションするための道具」、「世界を認識するための道具」としての言葉です。ただし、子どもがそのような言葉を学ぶためには、「そのような言葉を学ぶための場」が必要になります。お母さんと一緒にお料理をしたり、お掃除をしたり、お買い物をするから「生活で必要になる言葉」を学ぶことが出来るのです。その際「やらされる」という形では言葉の学びに繋がりません。自分の意思で仲間と一緒に遊ぶから「仲間とつながり合うための言葉」を学ぶことが出来るのです。子どもが大勢で活動していても、先生の指示や命令で動いているだけなら「仲間とつながり合うための言葉」は学ぶことが出来ないのです。言葉の学びには「自分の頭で考え、自分の意思で行動する自由」も必要なんです。ですから、「正解が決まっているお勉強」では、「実際的な言葉の使い方」は学べないのです。自分の感覚や感情を表現する言葉は、お母さんや家族や仲間との「感覚や感情を共有する場」で学ぶものです。最近の子どもたちは動画やゲームで言葉を覚えていますが、でも、その言葉では自分の感覚や、感情や、考えを表現出来ません。また、考える道具としても、他の人と意思疎通するための道具としても使えません。知的な能力は高くなったとしても、その能力を使いこなすための本体が育たなければ、子ども自身の人生の役には立ちません。また、言葉には道具としての側面だけではなく、創造性や想像力を高めるという側面もあります。そして、「今」、「ここ」という現実の場を離れて、もっと自由に考えイメージ出来るようになるためには「物語の言葉」が必要になります。物語の世界の中は、「今」「ここ」に縛られていません。宇宙の果てのことや何億年前のこと、何億年後のことまで扱うことが出来るのが物語の世界です。存在していない世界の事まで扱うことが出来ます。勇気や、希望や、夢や、命といったものの大切さも、物語の言葉を学ぶことで初めて分かるようになります。日常生活で必要になる言葉は「今」「ここ」ばかりです。でもそれだけでは、心の世界を育てることが出来なくなってしまうのです。幼い子どもに一番必要なのは、「共に」という状況の中での「言葉育て」という仕付けなんです。子どもは言葉を学ぶ過程で、お母さんのこと、仲間のこと、自然のこと、命のこと、社会のこと、生と死のこと、そして自分のことなどが分かるようになり、自分の感覚で感じ、自分の頭で考え、自分の意思で判断し行動することが出来るようになるのです。
2022.06.03
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(2006年の12月のブログに手を入れて再載させて頂きます。)いつもの事なんですが、ワークや講演会の後の質問コーナーでは“しつけ”に関する質問がいっぱい出てきます。それで、色々とお話しを聞いていくと、どうも“子どもの育て方”と“子どものしつけ方”が同じものだと思いこんでいる人が非常に多いようなのです。そして、そういう人は“しつけさえちゃんとしていれば、子どもはちゃんと育つ”と思いこんでいます。でも、実際問題として子どもを親の思い通りにしつけることは非常に困難なことです。それで、叱ることになります。でも、当然のことながら叱っても効き目がありません。それで、「しつけの仕方」や、「叱り方を教えて下さい」と聞いてくるのです。そして、この「しつけの仕方や叱り方を教えて下さい」という質問の中に今の大人の子ども観、そして子育ての状況が見えているのです。「しつけの仕方」や「叱り方」を知りたいお母さんは子どもの欠点探しが得意です。できることより、できないことばかりを探しています。その証拠に、「子どもの褒め方を教えて下さい」という質問はほとんど聞いたことがありません。「子ども自慢をしよう」というワークも時々やるのですが、なぜかみんな低調です。出てくるものも、「お手伝いをよくする」とか、「言うことを良く聞く」とか、「お母さん大好きって言ってくれる」などなどお母さんに都合の良いことばかりです。つまり、お母さんにとって都合の良いことをやってくれる子が“いい子”で、都合の悪いことをする子が“悪い子”のようなんです。でも、子どもはお母さんの都合に合わせて成長するわけではありません。また、お母さんにとって都合のよい子が人間として素敵なわけでもありません。「いつも外で遊んで洋服を泥だらけにしてくるけど、それがうちの子のいいところです」というようなことを言うお母さんは本当に少ないのです。でも、子どもの一番の長所はその“子どもらしさ”の中にこそあるのです。子どもにとっての“子どもらしさ”は、成長する意志の現れそのものだからです。ですから、その子どもらしさを肯定することは、子どもの成長する意志を肯定することにつながるのです。でも、多くの大人がその「子どもらしさ」を短所だと考えています。それは、現代では子どもも「大人が作った大人のためだけの社会」の中で生活せざるおえないからです。大人の社会の中で生活するためには大人のルールに従ってもらわないと、大人が困るのです。でも、「子どもらしさ」が短所だとすると、子どもは「短所のかたまり」になってしまいます。ですから、結果として「うちの子にいいところはありません」ということになってしまうのです。でも、「子どもらしさ」を短所と考えてしまったら、しつけなければならないことがあまりにも膨大になってしまい、何をしたらいいのかが分からなくなってしまいます。それに、どんなに頑張ってもそのしつけは全て徒労に終わります。だって、子どもは丸ごと「子ども」なんですから。それで、「(大人の都合に合わせて行動させるための)しつけ方や叱り方を教えて下さい」ということになるのでしょう。それが極端になると子どもそのものを否定することにつながってしまいます。そして、子どもも自分で自分を否定するようになります。それはもう「精神的虐待」なのですが、自分自身も精神的な虐待を受けて育ってしまっている人には、「虐待」と「しつけ」の違いがよく分からないのです。ちなみに、一般的に「虐待」というと「身体的虐待」だけを指しますが、その「身体的虐待」の前には、必ず「精神的な虐待」があります。子どもを罵ったりして精神的虐待だけで終わっている人も多いですが、お母さんやお父さんがどうしても自分の要求を抑えることが出来なければ、言うことを聴かない子どもに対して身体的な虐待を始めるでしょう。それでも子どもは言うことを聞きません。そんな「言うことを聴かない子ども」にイライラして、「あんたなんか嫌いよ」「あんたなんか産まなければ良かった」などと言うお母さんもいますが、これはもう立派な精神的虐待なんですよ。また、「子どもに椅子にジーッと座るように求める」、「静かにしているように求める」、「家の中だけで遊ぶように求める」、「大人の都合に合わせた行動だけを求める」、「一人だけで遊ぶように求める」、こういうことは子どもの「自分らしさ」を否定し、成長を阻害する行為ですから、打ったり叩いたりしていなくても立派な虐待です。子どもたちは、実際には、「言うことを聞かない」のではなく、「言うことを聞くことが出来ない」のです。子どもは「自分らしさ」に繋がらない行動は、叱られても、打たれても出来ないのです。オタマジャクシにカエルのような行動を求めても無理ですよね。イモムシにチョウのような行動を求めても無理ですよね。その際、「要求に応えることが出来ない子ども」が悪いのではなく、「子どもが頑張っても出来ない事を要求している大人」の方が悪いのです。と、こういう事を言うと必ず、“でも、そのまま大人になったら困ります”とか、“他のお母さん達の目があるので”という意見が出てきます。後者の意見に対しては、“他のお母さんと、自分の子どもとどちらが大切なんですか?”と聞きます。前者の意見に対しては、“肯定することと放任することを混同していませんか”と聞きます。実は、“放任”と“否定”は同じなんです。なぜなら、放任されても否定されても、子どもは何も学ぶことが出来なくなってしまうからです。肯定すると言うことはもっと意識的で能動的な行為なのです。子どもの成長に寄り添うことが子どもを肯定することなんです。「お母さんに言われたからルールを守る子」に育てるのではなく、「ルールの大切さを理解し、自分の意識と判断でルールを守ることが出来る子」に育てることが、本来の、しつけの目的なんです。そうでないと、成長してから、子ども自身が苦しむことになってしまうのです。自由に生きることも困難になってしまいます。ということで、明日に続きます。
2022.06.02
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子育ての勉強会などで、よく、「お子さんの長所と短所を聞かせて下さい」と聞きます。すると、短所に関しては、言うことを聞かない、勉強をしない、ゲームばかりしている、弟や妹のことをいじめる、片付けない、食べ物を残す、などと矢継ぎ早に出てきます。「では長所は?」と聞くと、一瞬、間が空きます。そして、考えながら、記憶の中から拾い出すように良い所をポツンポツンと話してくれます。(そういえば的なニュアンスで)下の子の面倒を見てくれる、お手伝いをしてくれる、ちゃんと片付ける、などなど・・・。でも以前、「うちの子に長所なんかありません」と断言したお母さんもいました。普通、このように「お子さんの長所と短所を聞かせて下さい」と聞かれたら、お母さん達は「子どものことを聞かれたんだな」と思いますよね。でも、私がこの質問で知ろうとしているのは、「子どものこと」ではなく、「お母さんの子どもに対する意識のあり方」の方です。子どものことを語ってもらうことで、子どもに対するお母さんの意識を見ようとしているのです。それで、「どうしてそれがお子さんの短所だと思うのですか?」などと聞いていくと、次第に自分自身の子どもの頃にまで話しが戻ってしまう人がいっぱいいます。さらには、「どうしてそういう事が気になるのですか」などと聞いていくと、それが「子どもの問題」ではなく「自分自身の問題の裏返しである」と言うことに気付く人もいます。実は、子どもの短所や問題行動の多くは、お母さんや周囲の大人達が作り出してしまっているのです。子ども自身には短所なんてないのです。子どもたちは、大人達が大人のために作り出した環境の中で、ただ、子どもらしく、自分らしく感じ、考え、行動しているだけなんです。それを短所と感じるか、長所と感じるかは大人の問題であって、子ども自身の問題ではないのです。子どもは大人の鏡だと言うことです。そんな子どもの「ありのまま」を受け入れることが出来ずに、子どもに対して「無い物ねだり」ばかりしているから、子どもは短所だらけになってしまうのです。でも、子どもたちは自分の責任でもないことで叱られたり、嫌われたり、打たれたりしています。その一方で、お母さん達が「我が子の長所」としてあげるのは、「お手伝いをしてくれる」「ちゃんと勉強をする」「下の子の面倒を見てくれる」などのように、「お母さんにとって都合の良いこと」ばかりです。「お母さんにとって都合の良い所」が子どもの長所になり、「お母さんにとって都合の悪い所」が短所になるのです。「うちの子は毎日洋服をドロンコだらけにして帰って来ます。それがうちの子の長所です。」と言うお母さんは滅多に居ません。「うちの子は勉強よりも遊びの方が好きです。それがうちの子の長所です。」などと言うお母さんには会ったことがありません。速く走ることを競う競争にカメを出したら、カメの特性は短所になります。一方、速く走ることが得意なウサギは速く走る能力を長所として褒められます。でも、遅く歩くことを競う競争では、カメの特性は長所になり、ウサギの特性は短所になります。子どもの特性に合わせた場を与え、子どもの特性に合わせた見方、関わり方、育て方をすれば子どもは長所の塊になります。でも、子どもの特性に反するような場を与え、子どもの特性を否定するような見方、関わり方、育て方をすれば、子どもは短所の塊になります。ただそれだけのことです。****************告知です。6月から、JR茅ヶ崎駅の近くで子育ての勉強会「ゆりかご」を始めます。数年前までやっていたのですが、しばらく休止していました。内容は、子ども理解、気質の話し、子どもとの関わり方や遊び方などです。室内での遊び方や自然の中での遊び方などもお伝えします。第一回目は6月24日(金)です。月一で毎月やります。(ただし、8月はお休みです)子連れでもOKです。時間は10:00~11:30です。状況によっては12:00まで。参加費は2000円/回です。お問い合わせは篠までお願いします。「ここ」です。メールは「ゆりかごについて」という件名でお願いします。
2022.06.01
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