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昨日、もちろん「叱ってはいけない」ということでもありません。私が言いたいのは、「子どもの人間としての尊厳を傷つけるような叱り方や関わり方はしない方がいいですよ」ということです。ということを書きました。子どもが「やってはいけないこと」をしているのを見たら、親は「それはやってはいけないことなんだよ」という何らかのサインを出す必要があります。子どもは親の反応を見ながら、自分がやっていることの是非を判断しているので、親が見て見ぬ振りをしてそのままスルーしてしまったら、子どもは「これはやってもいいことなんだ」と理解してしまうのです。森の幼稚園では「子どもがやっていることには大人が介入してはいけない」というルールを決めている所が多いようです。私もこれは原則賛成です。でも、大人が介入しなくても、子どもは側にいる大人の反応を見て自分たちの行動の是非を判断しているので、物理的な介入をしなくても、精神的な介入は排除できないのです。子どもが他の子をいじめているとき、大人がそれを黙って見ていたら、そのいじめている子は「自分の行為は肯定されている」と受け取ってしまうのです。子どもから見える場では、「何もしない」ということ自体が、もうすでに介入になってしまうのです。だったら、そんな曖昧な介入の仕方などしなくて、もっと明快に介入した方が子どもは安心するのです。だからといって、ズカズカ子どもの所に行って「止めなさい」などと言っても無駄です。また、イジメを禁止するだけでは仲良く遊ぶ関係は生まれません。基本的に、イジメは退屈なとき、楽しくないときに起きるのです。みんなで楽しく遊ぶことが出来ていないときに、一つの「遊び」としてイジメが生まれるのです。また、親によって連れてこられただけの集団で、子ども同士の間に仲間としての関係が作れていないから、簡単に誰かをターゲットに出来るのです。だったら、子どもたちが楽しく遊べるような、また、仲間作りが出来るような方向で大人が介入すればイジメは消えるのです。学校でのイジメも同じです。子どもたちが「勉強が楽しい」、「学校が楽しい」と感じられているのならイジメは起きないのです。いくら「イジメは止めなさい」と子どもたちを説得しても、学校が楽しい場になっていなければ、イジメは起きるのです。大人から見たら「イジメ」でも、子どもたちにとっては退屈や苦しさを紛らわせる一つの「遊び」に過ぎないのですから。でも先生達は「イジメは止めなさい」と言うばかりで、学校を「学ぶことが楽しい場」「みんなと一緒に活動するのが楽しい場」にしようとしていません。ただ、「子どもたちが楽しく遊べるように」と言っても、無理矢理子どもたちの所に行って、「こういう遊びをしようよ」と言っても無理です。子どもは大人が近寄ってくるだけで警戒しますから。そこで更に、「ああしろこうしろ」と言い出したら、子どもは余計につまらなくなります。イジメも消えません。じゃあどうしたらいいのかということですが、子どもが見える所で大人が遊び始めればいいのです。大人だけで木登りをしたり、縄跳びをしたり、わらべ歌をしたりして遊べばいいのです。ナイフで木を削って何かを作ってもいいです。大人が寄っていくのではなく、子どもが寄ってくるような状況を作るのです。子どもだけ何とかしようとするからうまく行かないのです。そうやって大人が楽しそうに遊んでいると子どもたちも寄ってきます。そして、大人の真似をして遊び始めます。大人が仲間作りをしていれば子どもも仲間作りを始めます。そして、子どもが積極的に参加するようになってきたら、「他の遊びをしたいんだけどどうしたらいいと思う?」と子どもに問いかけるのです。すると子どもは「遊びを発見する遊び」を始めます。そして、自分たちだけで遊び始めます。そして、子どもたちが遊びを通してつながり、自分たちだけで遊べるようになってきたら、大人は静かにその場から遠ざかればいいのです。そういう状態の子どもたちは仲間を排除するようなイジメはしないものです。だって、そんなことしたって楽しくないですから。昔の子ども達は、子どもたちだけで群れて遊んでいました。むしろ大人の目が届かないような所で遊んでいました。大人達も、自分たちの仕事をするのに忙しくて、子どもの監視などしていませんでした。その群れには幼児から大人に近い子までいました。その大きい子もまた、その群れの中で育った子です。何十年、何百年と受け継がれてきた遊びも存在していました。大人に教えてもらわなくても、子どもたちは伝承されてきた遊びで、楽しく遊ぶことが出来ていたのです。大きい子と小さい子の間には、遊びの伝承によるつながりもありました。でも、今の子どもはその群れや伝承から切り離されてしまっています。そんな状態の子どもたちをいくらいっぱい集めても、昔の子のように楽しく遊ぶことなんか出来ないのです。だから「イジメ」という簡単な方法で遊ぼうとするのです。だから大人が「みんなで遊ぶって楽しいよ」「遊びを発見するのって楽しいよ」「こういう遊びもあるよ」ということを子どもたちに伝える必要があるのです。叱るだけでは子どもの状態は悪化するばかりです。子どもは「子どもを叱る大人」を見て、他者を否定する事を学んでしまうからです。まずは大人からなんです。
2022.08.31
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世の中には「叱ってばかりいる子育て」をしている人もいっぱいいますが、叱ってばかりいたら子どもの成長に害が出てしまうのは誰にでも分かりますよね。(その当事者は分からないのかも知れませんが・・・)でもその一方で、「全然叱らない子育て」をしている人もいます。このような人は、子どもが危ないこととしていても、みんなが困るようなことをしていても、やってはいけないようなことをやっていても、ただ黙って見ています。このような人は、「叱らない」のではなく「叱れない」のでしょう。子どもがやっていることの是非を判断することが出来なかったり、自分が叱ることで子どもとの関係が壊れてしまうことを恐れているのかも知れません。また、周囲の人の目を意識して声が出なかったり、行動が出来なかったりすることもあるでしょう。また、褒めたり叱ったりすることを「子どもをコントロールする道具」として使っている人もいます。「褒めること」で子どもをコントロールしようとする人も、「厳しくすること」で子どもをコントロールしようとする人もいます。また、それらをうまく使い分けて子どもをコントロールしようとする人もいます。でも、これらのいずれの方法を使っても、子どもはお母さんとの間に「信頼出来る人間関係」を築くことが出来なくなってしまいます。なぜなら、このようなやり方を選ぶ人は、自分と子どもを「対等な存在」として認めていないからです。というか、自分と子どもを「対等な存在」として認めていないから、子どもを褒めたり叱ったりしてコントロールしようとしているのです。それはペットに対するやり方です。ただし、子どもを「自分と対等な存在」として認めるということは、「子どもの言うことや、子どものやることをそのまま肯定しなさい」ということではありません。もちろん「叱ってはいけない」ということでもありません。私が言いたいのは、「子どもの人間としての尊厳を傷つけるような叱り方や関わり方はしない方がいいですよ」ということです。子どもはやがて大人になります。大人は昔子どもでした。ここに例外はありません。また、「子ども」と「大人」の間に境目はありません。子どもと大人とでは見かけは異なりますが、中味は一緒です。法律的には「今日から大人」という境目がありますが、心とからだの世界にはそんな境目ありません。大人と子どもの違いは、スタートとしての「誕生」と、ゴールとしての「死」をつなぐ「人生という長い道のり」の、「今どこにいるのか」というだけの違いです。ただ、子どもの方が社会で生きるための必要な知識やスキルが未熟なのは事実です。でもそれは、大人の方が優れていて、子どもの方が劣っているという事ではありません。そこにあるのは、「人生の先輩」と「人生の後輩」という関係だけです。実際、遊びの場では「大人の方が子どもよりも優れている」などということは決してありません。むしろ、頭の柔軟性においては子どもの方が優れています。感覚や体の柔軟性も子どもには敵いません。子どもは人生の先輩としての大人から色々なものを受け継ぎ、学び、成長します。そして、やがて自分にも子どもが生まれると、今度は先輩としての役割を果たすことを求められるようになります。そして大人は、子どもに色々なものを受け渡すことで、自分が生きてきた証をこの世に残すことが出来ます。これが命の世界における「親」と「子」の関係です。子どもは親の所有物ではありません。時々、そのように勘違いしている人もいますが、その勘違いに根拠はありません。奥さんに対しても、「お前はオレに養われているんだから、オレの言う通りにしろ」などと言うような人もいますが、そのような人もまた、親から同じようなことを言われながら育ったのでしょう。だから一人の人間として自立できなくなってしまっているのです。そのように生きている人は「自分の人生を自分のものとして生きる能力」を育てられないまま、からだだけ大人になってしまっているのです。昨日、長野県の白馬の方に行ってきました。途中「鬼無里」(きなさ)という村に立ち寄り、買い物をしたり、博物館を見たり、「おやき」を買ったりしたのですが、その「おやき」を買ったお店の壁に子どもを叱るな 昔来た道老人を笑うな やがて行く道(記憶力がないので多少語句が違うかも知れません)という文字が書かれた額が架かっていました。これは、冷静に考えたら誰にでも分かる単純な真実ですが、この真実を忘れてしまっている人や、そのことに向き合おうとしない人がいっぱいいるのです。
2022.08.30
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(これは以前書いた文章です)昔々、スフィンクスという怪物が、自分の所を通ろうとする旅人に難問を出していたそうです。それは、「一つの声をもちながら、朝には四つ足、昼には二本足、夜には三つ足で歩くものは何か。 その生き物は全ての生き物の中で最も姿を変える」というなぞなぞで、それに答えることが出来ない旅人は食べられてしまったそうです。これは有名ななぞなぞですから、皆さんも答えはご存じでしょう。それは「人間」です。赤ちゃんの時には四つ足(ハイハイ)で歩き、やがて二本足で歩き、老人になると杖をつくようになるので三本足になる、ということです。ただ、わたし的にはこのなぞなぞはまだ不充分な気がします。乳児の時にはお母さんに抱かれて移動するので、四つ足の前に「無足歩行」の状態があります。さらに、老人になって車いすを使うようになれば、また乳児と同じ「無足歩行」に戻ります。そして、人間においてはこの過程は自動的に起きます。お母さんに抱かれたままの状態の赤ちゃんは、別段お母さんがしつけなくても時期が来れば自分の力でハイハイをするようになります。また、ハイハイで歩いている状態の赤ちゃんは、厳しいしつけなどしなくても、時期が来れば立って歩くことが出来るようになります。最初はよろよろ歩き、次にしっかり歩き、3才頃には走り回ることが出来るようになります。そして、走り回ることが喜びになるようになってくると、次第にお母さんから離れていきます。お母さんが無理矢理自立をさせようと仕付けなくても、からだがしっかりとしてくると、次の段階として自然と自立が始まるのです。言葉もそのようにして自然に学びます。最初は何も出来なかった状態の赤ちゃんですが、人間らしい扱いを受けているだけで、誰でもみんな自然に一人前の大人になっていくのです。ただ、その時に忘れられがちなのが「自分で考え、自分の意思で活動し行動する自由」を与えてあげるということです。人間の人間らしさの根幹はその「自由意志」の中にあるので、それを発揮できないような状態では、人間としての成長全般が滞ってしまうからです。自分で考え、自分の意思で活動する行為が、子どもの意識や意思の育ちを促してくれるのです。ですから、「しつけ」と称した束縛で、子どもをがんじがらめにしてしまったら、子どもは自らの意思で成長する力が萎えてしまうのです。「叱ってばかりいる子育て」でも同じです。そのような「管理された状態」では、子どもは正解ばかりを求め、自分の成長に必要な手本や目標を求めなくなります。周囲にどんなに素敵な手本があっても、自由を与えられていない子どもはそんなものに興味を示さなくなるのです。その結果、さらに「厳しいしつけ」が必要と思われるような状態になってしまうのです。また、室内で、人工的なオモチャでばかり遊んでいると、からだの発育も遅れ、「自立のための意思や意識の育ち」も遅れてしまう可能性があります。ちなみに、この場合の「からだの発育」とは、身長とか体重のことではありません。「生命力」や、「からだを使いこなす能力」のことです。これが子どもの意思や意識の成長と密接につながっているのです。おっぱいも、トイレも、時期が来たら子どもは自分の意思で卒業します。でも、意思や意識の育ちが遅れている子は、お母さんへの依存が抜けないため、いつまでも卒業することが出来ないのです。また、ちゃんと成長していても、その時期を待つことが出来ないお母さんもいっぱいいます。だから、大人の都合に合わせた「おっぱいトレーニング」、「トイレトレーニング」が必要になるのですが、でも、無理をすると子どもとの信頼関係に悪い影響を与えてしまう恐れもあります。一見、「しつけ」とは無関係に思われることですが、自然の中で走り回ったり、木登りしたり、仲間と一緒にコマを回したり、竹馬をしたり、大きな声を出したり、ゴロゴロしたりするような活動や、家の中でもハサミや包丁を使いこなすような能力が、おっぱいやトイレの卒業を促す力になるのです。これを、行動を制御する「しつけ」だけで乗り切ろうとすると、次の段階もまた「しつけ」で対応しなければならなくなります。子ども自身の成長が伴っていないのでキリがないのです。でも、成長と共に子どもは「しつけ」から逃げたり、あからさまに反発するようになります。そうなると「しつけ」という方法はもう使えません。さらに困ったことに、そのように幼い頃から「しつけ」などでがんじがらめに育ってきた子ほど、不安が強く、自分をコントロールする能力は低いため、親の束縛が届かない状態では不安と欲望に振り回され、非常に困った状態になってしまうことが多いのです。また、室内でばかり遊んできた子は、自由を与えられても、自由に活動することが出来ません。オリの扉を開けても、慣れ親しんだオリから出て来ない動物のようです。そのような子は依存心ばかりが強いです。ただ、「しつけなんて必要がない」ということではありません。子どもは放っておいても立って歩けるようになりますが、姿勢正しくちゃんと歩けるようになるためには「しつけ」が必要です。言葉も勝手に覚えてしまいますが、正しい言葉を話すことが出来るようになるためには「しつけ」が必要です。そして、それが本来の「しつけ」の意味だと思います。「しつけ」というのは一種の美学なんです。だから、「躾」という字も使ったのだと思います。まただから、昔の人は、言葉遣いや、立ち居振る舞いにうるさかったのです。でも、現代人はこのような「しつけ」には無頓着です。現代人にとっては、大人の都合を押しつけるのが「しつけ」の目的になってしまっています。そのため、多くのお母さんが動物を調教するような手段を「しつけ」として使っています。でも、それが、子ども自身の「人間としての育ち」を支える働きをしないのなら、それは本当の意味での「しつけ」ではないのです。最初のスフィンクスの言葉ではありませんが、人間は成長と共にその姿を変えていく生き物です。でもその時変わっていくのは、姿・形だけではありません。意識や、心や、からだの状態も変わっていきます。ですから、三歳の時に必死になって頑張って仕付けたことでも、子どもが四歳になって意識も、心も、からだも変わってしまうと、全く役に立たなくなってしまうことが多いのです。それで今度は、「四歳児対応のしつけ」をするのでしょうが、それも五歳になったら役に立たなくなってしまうかも知れません。歯を磨く習慣も、手を洗う習慣も、お母さんが必死になって身につけさせても、成長と共に簡単に消えてしまうことが普通にあるのです。そうやって、子どもがしつけから逃げたり、しつけに反発するようになるまでいたちごっこが始まります。逆に、全然仕付けていないのに、お友達がやっているのを見て、手を洗うようになったり、歯を磨くようになったりすることも多いのです。そのような子はお友達と良い関係を築けている子でもあります。ちなみに、ちゃんと仕付けられた「正しい歩き方」や「美しい言葉」は、急に消えたりはしません。本当の「しつけ」は「一生もの」なんです。
2022.08.29
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お母さんは子どもたちのことを思って、色々と叱っているつもりなのでしょう。というか、そういう風に思い込んで、自分がやっていることを正当化しているのでしょう。でも、実際には「子どものため」になっているような叱り方をしている人は多くありません。多くのお母さん達が、自分を守るために子どもを叱っています。周囲のお母さんの目を気にして叱る。自分の都合通りに予定を進めるために叱る。自分の仕事を増やされないために叱る。自分が捲き込まれることを避けるために叱る。子どもが、自分の価値観とは違うことをやっているからそれを止めさせるために叱る。「勉強しなさい」と叱るのも、「勉強することが子どもの成長につながっているから」というよりも、学校から与えられた課題を我が子がちゃんとこなせるように、先生から目を付けられないように、また、自分が安心するために叱っているのではないですか。その証拠に、お母さん達は勉強の中味には興味が無いですよね。子どもが何をどのように学んでいるのかにも興味が無いですよね。ただ机に向かって、お仕事のように勉強していれば安心するのではありませんか。たとえそれが、子どもの成長につながっていなくても。また、子どもに自分の都合を押しつけて「早くしなさい」と叱ってはいませんか。そんな理由で叱られても子どもが変わるわけがないのです。実際、「いくら叱っても子どもは変わらない」と言うことは、日々、お母さん達が実感しているはずです。ただし、「変わらない」と言っても、これは「いい方には変わらない」ということです。「悪い方」には変わっていくのです。まず、子どもがお母さんを信用、信頼しなくなります。皆さんだって、このような理由で部下を叱る上司を信用、信頼しますか?しませんよね。次に、自分の心や感覚で感じ、自分の頭で考え、自分の意思と責任で行動する能力の育ちが阻害されます。なぜなら、常に、お母さんに監視、管理されている子どもは行動の自由を奪われているからです。そのような能力が育つためには、自分の心や感覚で感じ、自分の頭で考え、自分の意思と責任で行動することが出来るような自由な時間と、場と、それを共有出来る仲間が必要だからです。子育てで必要なのは、「大人の価値観に合わせて叱ること」ではなく、「子どもの気持ちに寄り添い、共感し、見守ること」なんです。そういう子育てを受けている子は、お母さんを信用、信頼します。そしてお母さんから学ぼうとします。子どもだけでなく大人だって、「これがあんたのためなんだから」と自分の考えを押しつけてくるような人を信用しないですよね。例え、その人の価値観と異なっていても、自分が大切にしているものを大切にしてくれる人を信用しますよね。自分が虫が嫌いだからといって、子どもが大切にしている虫を「捨ててきなさい」と叱るのではなく、その虫を「子どもの気持ちの表れ」として大切にしてくれるお母さんを子どもは信頼、信用するのです。インドで活動していたマザーテレサはクリスチャンでしたが、ヒンズー教の人にキリスト教を押しつけたりはしませんでした。ヒンズー教を否定することもありませんでした。その人がヒンズー教を大切なものとして信仰しているのなら、その気持ちは敬いました。ヒンズー教を敬ったのではなく、その人の気持ちを敬ったのです。
2022.08.28
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FBつながりの人が、子どものどこが叱るべきポイントなのか全くわかりません。と書いていました。それで「私も同じです」とコメントを入れました。ネコに「イヌらしさ」を求めたら、ネコの「ネコらしさ」は全て短所になります。でも、ネコのネコらしさが好きな人に取っては、ネコに短所なんかありません。イヌ好きの人が「ネコのこういう所が嫌いだ」と言えば、ネコ好きの人は「ネコのそういうとこがいいのよ」と言うでしょう。リンゴが好きな人がミカンの「リンゴらしくない所」を非難、否定しても意味がないですよね。八百屋に行った人が「なんでここには魚が置いていないんだ」と怒るのは見当違いですよね。でも、多くの人が、子どもに対してはそれと同じようなことをしているのです。子どもはただ「子どもらしく」しているだけなのに、多くの大人の人がそれを短所として子どもを叱り、矯正しようとしているのです。子どもはただ「自分らしく」しているだけなのに、大人が勝手に頭の中で創り出した理想像と比べて、その違いを短所として決めつけ、非難し、否定し、矯正しようとしているのです。多くの場合、人は自分の個人的な価値観に従って、それが短所なのか、長所なのかを決めています。そこに、「評価される人にとってそれが良いことなのか、悪いことなのか」という視点はありません。でも、このような視点でいつも監視され、叱られ、矯正を押しつけられている子は、次第に自分自身に対しても「大人と同じような評価」を下すようになります。そして、子ども本人が「子どもらしさ」や「自分らしさ」を否定し、恥ずかしがるようになります。当然、自信も失います。そういう子は、自分も子どもなのに、他の子に対しても大人のような指摘をしたり、評価をしたりします。泥んこで遊んでいる子を見ると「ドロンコで遊んじゃいけないんだよ」とその子に言います。水たまりに入って遊んでいる子を見ると「そんなとこ入っちゃいけないんだよ」と言います。裸足で遊んでいる子がいると「裸足になっちゃいけないんだよ」と言います。普段、私が関わっている子にはそういう子はいませんが、新しい子が参加するような遊びの場に行くとそういう子が時々います。「ドロンコ遊びをしよう」というテーマで遊びの会をすると「うちの子にもそういう体験をさせたいので」と子どもを連れてくる人がいます。お母さんは被害を受けないように遠くから見ています。でも、そういう「連れて来られた子」はドロンコに手を出しません。「お母さんがいつもダメって言っているから」と言う子もいます。お母さんは「今日はやってもいいのよ」などと言ったりもするのですが、子どもは困ったような顔をするだけです。それでズーッとやらないままの子もいますが、最初は「やらない」と言っていたのに、気付いたら一番ドロンコになっていて、「もう終わりだよ」と言っても止めないような子もいます。本当はやりたかったのでしょう。裸足で歩くのも同じです。「裸足で歩いちゃ行けないんだよ」と言っていた子も、「裸足で歩くと気持ちがいいよ」と言って裸足で歩いてみせると、靴を脱ぎ始める子がいます。そして、嬉しそうな顔をします。なぜなら、子どもは本能的にそっち方が気持ちがいいことを知っているからです。子どもは本能的に「泥んこで遊ぶ楽しさ」を知っているのです。なぜ楽しいのかというと、子どもの成長にはそういう遊びが必要だからです。子どもの「困った行動」の多くは、子どもが「自分の成長に必要なこと」を満たそうとしているだけのことなんです。子どもの子どもらしい行動の多くは、子どもの成長に必要なことなんです。だから、裸足で歩くのが好き、泥んこで遊ぶのが好きな子は、それが長所なんです。大人から見たら短所かも知れませんが、子ども自身の成長から見たら長所なんです。大人の人は、「大人の目から見た子どもの短所」を治そうとしますが、もしかしたらそれが子どもの成長を阻害してしまっているのかも知れないのです。
2022.08.27
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サマーさんがブログを拝読していると公立の小学校の良さは一つもないように思えてしまうのですが、それなら子供たちは主体性が持てるオルタナティブスクール等に通った方が良いのではないでしょうか?と書いて下さいましたが、私が言いたいことはそういう事ではありません。サマーさんの返事にも書きましたが、オルタナティブスクールにもオルタナティブスクールなりの問題点はあります。「主体性を大切にする」という主張は素敵ですが、その名目の元に子どもを放任しているだけのオルタナティブスクールもあります。「主体性を大切にする」の名目の元に子どもに自由にゲームをやらせている所もあります。でもゲームに依存するようになってしまった子がゲームをするのは「主体性の表れ」ではなく、主体性を失ってしまった状態の表れです。状況に応じて「ゲームをしない」という選択も自由に出来るような状態が本来の主体性の表れです。そもそも、「100%完璧で誰にでも合った素敵な教育方法」なんてどこにも存在しないのです。シュタイナー教育にも、モンテッソーリ教育にも、森の幼稚園にも問題点はあります。ある視点から見た長所は、別の視点から見たら短所になるのです。逆に、ある視点から見た短所が、別の視点から見たら長所になることもあります。それが長所になるか、短所になるのかは、そのものとの関わり方や、その人の価値観や、子どもの感性や能力の問題であって、そのもの自体の問題ではないのです。普通の学校が苦しくなってシュタイナー学校に移り、元気になった子もいます。その逆に、シュタイナー学校が合わなくて、普通の学校に移った子もいます。「だからダメだ」ということではなく、だから学校に依存するのではなく「学校の使い方」や「学校との関わり方」を各自で工夫して下さい、ということなんです。「○○教育が好きだからそっちに行く」とか「うちの子には○○教育の方が合っているから」という発想ならいいですが、「この学校がダメだから別の所に行く」という単純な発想では、その別の所でも同じことを繰り返してしまうのです。学校に問題点を感じたなら、まず先生と話し合ってみる。校長先生と話し合ってみる。文句を言うのでも、自分の個人的な価値観を押しつけるのでも、我が子のことだけを言うのでもなく、子どもたちみんなが幸せになるような視点で提案をして一緒に考えて見る。学校がそれを拒否したり、一方的に圧力をかけてきたなら、その時点で学校を変えることを選択肢に入れればいいのです。そして、そういう親からの提案に柔軟に対応してくれる学校もあります。ただし、これは校長先生次第です。先生も同じです。話し合いに応じて一緒に考えてくれる先生もいれば、それを拒否する先生もいます。国が決めた学校自体がそういうシステムになっているわけではないので(多分)、あくまでも先生次第なんです。でも、そういう柔軟性が乏しい学校もいっぱいあります。上から目線で学校の価値観を親に押しつけてくる学校もいっぱいあります。一方的に親のやり方を否定、非難してくる学校もあります。学校そのものに「地域と共に、親と共に子どもたちを育てようとする哲学やシステム」が備わっていないからです。だから学校での教育が、「子どものための教育」ではなく、「お国や学校のための教育」になりやすいのです。そして親もまた、学校に依存してしまうのです。
2022.08.26
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日本人は周囲の人に合わせるのが得意です。前の人が「コーヒー」と言えば、後の人もそれに続きます。みんながマスクをしていれば自分もマスクをします。自分の頭で考え、自分の意思でその行為を選択しているのではなく、「みんながやっているから自分もやらなくてはいけない」と考えるのです。そして、テレビがそれを煽っています。それを長所として説明すると「協調性がある」ということになります。短所として説明すると「主体性がない」ということになります。また、周囲に合わせて生きるだけなら、自分の頭で考える必要がありません。自分の感覚や感性で感じる必要も、自分の意思と責任で行動する必要もありません。また、その行為が間違っていても、それは自分のせいではありません。「自分はただみんなの真似をしただけなんです」と言い逃れることも出来ます。(それ自体が問題なんですけどね)自分の頭で考え、自分の感覚や感性で感じ、自分の意思と責任で行動することを放棄することで、自分の行為に責任を負う必要がなくなるのです。だから、常に周りの人がやっていることや、言っていることを見たり、聞いたりして同じことをしようとするのでしょう。でもその結果、「赤信号、みんなで渡れば怖くない」状態になってしまっています。怖くはなくても確実に危険性は高まっているのですが誰もそのことを考えようとしません。それどころか、そのことに気付き、指摘した人をみんなで非難し、排除します。違う意見の人がいるとみんなが不安を感じてしまうからです。そんな時は話し合えばいいのですが、日本人はその「話し合う」ということも苦手です。そんな教育受けていませんから。日本人は、みんなと同じことをするのは得意ですが、一人一人異なった役割の中で動き、システムとして助け合うのは苦手なんです。なぜなら、自分の責任で行動するための能力を育てるような教育を受けていないからです。自分の役割を自覚してみんなと異なった行動をするためには、自分の頭で考え、自分の感覚や感性で感じ、自分の意思と責任で行動する必要があります。でも、日本の教育では、そういう能力を育てるどころか、むしろ否定するような教育になってしまっているのです。「みんなと一緒」が出来ないと指導されてしまうのです。歌を歌うときも、みんなで同じメロディーを歌うのは得意ですが、パートに分かれて異なった旋律を同時に歌い、全体として一つの音楽を構成するような歌い方は苦手です。音遊びなどをしていても、前の人と同じ音を出す人が多いです。「カエルの歌」を輪唱するような場合でも、前の人につられてしまう人が多いです。「全体の音」を聞いていないから「前の人の音」につられてしまうのです。またそれは、お料理などで、前の人が塩を入れたら、次の人も真似をして塩を入れるようなものです。その次の人もまた塩を入れます。そんなことを繰り返していたら、ただの塩煮にしかなりません。それでは保存食にはなりますが、そのままではしょっぱくて食べられません。全体の状態を見ながら、人と違う役割を果たすためには自分の頭で考え、自分の感覚や感性で感じ、自分の意思と責任で行動する必要があるのです。だからその能力を育てるためには、子どもたちに、自分の頭で考え、自分の感覚や感性で感じ、自分の意思と責任で行動する必要が発生するような活動をいっぱいさせる必要があるのです。つながりが失われ、みんながバラバラに生きているような今の時代だからこそ、自分の頭で考え、自分の感覚や感性で感じ、自分の意思と責任で行動する能力を育てる必要があるのです。また、このような能力が育った子にしか、社会の中につながりを再生することが出来ないのです。
2022.08.25
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私は、自宅では造形教室を、また様々な所に呼ばれて造形遊びを指導するかたわら、遊びを含む様々な身体活動、身体表現を通して子どもたちと関わってきました。民族楽器をいっぱい使ったワークショップを高校や、お母さん達のグループでやったこともあります。私は10年間、そのような活動を続けているのですが、最近非常に気になっていることがあるのです。うちの教室で出会う子どもたちが、どんどん無気力になってきているのです。面白そうなものが飾ってあると興味は示します。そして「ちょうだい」と言います。「これは自分で作るんだよ」と言うと、「じゃあいらない」と言います。作るのが「めんどくさい」と言うのです。特に男の子達なのですが、この「めんどくさい」という言葉をよく使います。造ってあるものではよく遊ぶのですが、自分では造ろうとしないのです。椅子を造りたいという子がいたので材木を出して「ここを切って」と言うと「え!ぼくが切るの」と真顔で答えます。そして、少しノコを引いて、大変そうだとすぐあきらめます。あきらめるのも早いんです。いったん、そうなると「がんばればできるよ」と言っても、「できない、できない」と言って手を出そうとはしません。私はやれば出来るようなことしか勧めないのですが、一度思い通りに行かないことがあると、それ以上手を出そうとしないのです。というか、やったこともないことなのに、なぜか最初からうまく行くと思い込んでいる子が非常に多いのです。ノコギリや、トンカチや、ナイフ、糸鋸といったような道具は子どもたちの日常にはありません。ですから、最初は興味を示します。で、私がやって見せます。すると子どもは自分も私と同じように出来ると勘違いしてしまいます。でも、道具は最初からうまく使える訳がありません。それがトンカチであろうと、ナイフであろうと、竹馬であろうと、コマであろうと、「からだで学ぶもの」は失敗と、工夫と、努力を積み重ねてなんとか使えたり、出来るようになるのです。そして、普段からからだを使った遊びをいっぱいやっている子はそのことを知っているし、努力も工夫も出来るのですが、小さい時からデジタルに依存した遊びばかりやっているような子は、そのことを知らないし、そもそも「からだとの対話」が出来ないので、からだの使い方の修正や調整が出来ないのです。そして、そのような子は最初につまづくと、もう「ぼくは、○○ができないんだ」と自分を決めつけてしまって以後手を出そうとはしなくなってしまいます。それでいて、「たいくつだー」と言います。「たいくつだー、たいくつだー」を連発しながらうろうろするのです。からだの中にエネルギーはあるのです。でも、その出口がないのです。出口のないエネルギーがからだの中に溜まっていますから、言葉や行動が攻撃的になっていきます。落ち着きがなくなっていきます。落ち着かないから集中したり、何かにしっかりと取り組むということもできません。だから充足感がなく、虚無的になっていきます。すると、どんどん出口を閉ざして、ますます出口のないエネルギーを溜めることになってしまいます。ブラックホールのような悪循環です。今、多くの子どもたち、特に男の子達がこのような悪循環の中にいます。そして、そんな子どもたちの唯一のエネルギーのはけ口がゲームなんです。現実世界では無力でも、ゲームの中では超人になることが出来ます。その快感が麻薬のように子どもを虜にしてしまうのです。そして、麻薬のように依存していきます。最近、そのような子どもたちと造形で関わることの難しさを感じるようになってきました。最初から手を出そうとしない子が多いので、関わりようがないのです。そして、もっと身体的な活動から入るべきだという実感がますます強くなってきたのです。今の子どもたちのそのような問題は、子どもたちのからだ、表情、姿勢、言葉、声、行動にも如実に現れています。からだの強い緊張、過敏症、無表情、胸が閉じた姿勢、足がしっかりと前に出ない歩き方、コントロールのきかないキンキンした声、落ち着きのない動き。また、イメージ能力や説明能力の欠如という特徴も見られます。造形は手を出さなければ始まりませんが、からだは何もしていなくてもメッセージを発しています。「たいくつだー」と言ってうろつきまわること、そのことがもうメッセージであり、表現でもあるのです。それを、一つの表現として大人が受け取り、そして子どもに返してあげる。立っている姿、キンキンする話し方、そういうものに意識を向けさせ、自分の気持ちに気付かせていく。そういう方法でないと本音を出そうとしない現代の子どもたちと深いところで関わることができないのです。逆に言えば、そういう方法でなら子どもたちと関わることができるのではないかと思うのです。そのために、時には演劇的な手法も必要かも知れません。また、からだほぐしやグループ遊びが必要かも知れません。また、歌を歌ったり、ダンスをしたりというようなことが必要かも知れません。また、時には何もしないでただ目を閉じていることが必要な場合もあるかも知れません。今、子どもたちに必要なのは、色々なことを教え込む事ではなく、自分のからだの状態、感覚の状態、心の状態を「表現」という形で外側に出させてあげて、自分自身と対話する事なのではないかと思うのです。そいやって、入れるのではなく、出させてあげるのです。 そして、そういう活動を通して初めて子どもたちは自らの頭で考え、自らの感性で感じ、自らの意志で行動できるようになるのではないかと思っています。 そして、それこそが本当の「生きる力」なのではないかと思うのです。
2022.08.24
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子どもは、子どもの成長に合わせた「きっかけ」を与えるだけで勝手に動き出します。筋肉骨格系が成長しつつある時期の子どもに走って見せたり、「はしろう!」と呼びかけると、喜んで走り出します。そして、大人が提示した以上の走り方を工夫したりし始めます。大人は真っ直ぐに走りますが、子どもは真っ直ぐになど走りません。ジグザクに走ったり、ジャンプして走ったり(?)、四つ足で走ったり、後ろ向きで走ったりします。子どもの応用力は天才レベルです。ハサミで紙を切って見せて、ハサミを渡すと何でも切り始めます。カーテンや、自分の髪の毛も切ります。時にはお母さんの洋服も。そうやって、ハサミを楽しみ、ハサミに熟達していくのですが、その自由な展開を大人は好みません。だから子どもからハサミを取り上げます。お母さんがお化粧をしている所を見ると、お母さんが見ていないときにそのお化粧道具を持ち出して、自分の顔や、鏡や、周囲の色々なものにお化粧を始めます。だから叱って、「もう使わない」ということを約束させます。1才を過ぎた子にペンで書いている所を見せると、自分もペンで書きたがります。そして、床や、壁や、自分のからだにまで色々書き始めます。そうやって、「ペンの世界」を広げようとするのですが、大人は子どもがその「ペンの世界」を広げることを好みません。大人が教えた使い方だけで書いて欲しいのです。でも、子どもはそんな大人の都合など分かりません。だから子どもからペンを取り上げます。音遊びで、家にあるものを自由に持ってきてもらって、叩いたりこすったりして音を出して遊んだりすると、子どもはすぐに真似をし始めます。大人が歌を歌えば、子どもも歌い出します。ただし、自分流でですけど。子どもはちょっとした「きっかけ」を大きく膨らませるのが非常に得意なんです。それは工夫することを楽しんでいるからです。でも、その「きっかけ」と出会えなかった場合は、「それを使って工夫する遊び」をする事が出来ません。それは「それ」がもたらしてくれる新しい世界との出会いを失うことであると同時に、工夫する能力を育てる機会を失うことでもあります。子どもにコマを回して見せたり、弓矢を飛ばしてみせると「僕も僕も」と食いついてきます。そして、工夫をし始めます。そこまではいいのですが、奪い合いも始まります。ケンカも起きます。だから、「仲良く遊べないんだったらダメ!」と取り上げます。ボタンを押している所を見せると、色々なボタンを勝手に押し始めます。エレベーターのボタン、バスのボタン、時には押してはいけない「赤いボタン」まで。パソコンのスイッチのボタンを子どもが何回も押したのでパソコンが壊れてしまった人もいました。だから厳しく叱ります。子どもはきっかけさえあれば、自由な発想でそのきっかけを広げるのは天才的です。でも、大人はその「自由な発想」が困るのです。だから、禁止したり、しつこく使い方を教え込もうとするのです。そんな時は、ただ取り上げたり禁止したりするのではなく「チャレンジする目標」を与えてあげると、子どもは喜びます。そして、大人が困るようなことが減ります。例えばですが、オモチャやものを投げて困るような場合は、新聞紙を丸めてボールを作って、的に当てるゲームをしたりすると、「投げる」という行為を自覚出来るようになります。自分の動きをコントロールすることも出来るようになります。すると、投げてはいけないものを投げることが減ります。だから、子どもが「困ったこと」をし始めたら、取り上げたり禁止したりするのではなく、逆に「シメタ」と思って、それを「遊び」に転換してあげるといいのです。子どもの困った行動は、「そういう行為を通して色々なことを学ぶ成長段階にいる」というサインでもあるからです。ケンカも同じです。自我のぶつかり合いによってケンカをするのは、「社会性を学び始める時期である」というサインでもあるのです。そんな時はケンカを禁止するのではなく、「みんなで一緒に遊ぶ遊び方」を教えてあげればいいのです。「これはダメ」という禁止とか、「ああしなさい」「こうしなさい」という指示命令は、子どもから「成長する喜び」を奪うことになってしまうのです。だからといって、好き勝手にさせているだけだとスキルがアップしないので、すぐに飽きます。だから、その時点で「こんなことも、もあんなことも出来るよ」と、「スキルアップにつながるような新しいきっかけ」を与えてあげる必要があるのです。
2022.08.23
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私は、教育の大きなスタイルに「押しつける教育」と「引き出す教育」の二種類があるような気がします。子育てでも同じです。子育てにも「押しつける子育て」と「引き出す子育て」の二種類があるような気がします。「押しつける教育」の代表例は、今の一般的な学校のやり方です。子どもたちを椅子に座らせ、自由に動き回ることやおしゃべりも禁止して、ただ受動的に先生の話を聞き、覚えさせるような教育です。このような教育では正解は先生が決めています。学説的には曖昧なことでも、間違ったことでも、そんなこと関係なく先生は自分が知っていることを唯一の正解として子どもたちに押しつけています。そして子どもたちは先生が提供する正解を覚えなければなりません。この作業では、先生が求めている答えを探り出すために頭を使うことはありますが、真理を探り出すために頭を使うという工程がありません。「正解を覚えること」や「正解を理解すること」は求められていますが、「自分の頭で考えて答えを導き出す」ということは求められていないのです。ですから、このような教育を受けた子は正解はいっぱい知っています。そして、そういう子が「頭のいい子」として扱われています。でも、その「正解」は、実際の生活の場、や、実際の仕事の場や、実際の子育ての場では使えません。なぜなら、学校で教えてくれる「正解」は、教科書や学校の中だけでしか通用しない正解だからです。(クイズ番組でも使えますが・・・)そのような「正解が存在しない場」では、いくらいっぱい「正解」を知っていても無意味です。それよりも必要になるのは、「自分の頭で考え、工夫する能力」なんです。でも、学校ではこの能力を育てることが出来ません。むしろこの能力を潰すことの方に熱心です。なぜなら、その方が子どもたちを管理しやすいからです。また、先生達の多くも「自分の頭で考え、工夫する能力」が育っていないので、子どもが自分の感覚や感性や思考力で考え「自分なりの答え」を導き出しても、それに対してどう対応したらいいのか分からないのです。子どもの答えに対して「○×」でしか対応出来ない先生には、子どもの自由な発想は対応出来ないのです。そもそも、このような「押しつける教育」(押しつける子育て)を選択するような人は、子どもの感覚や、感性や、思考力や、工夫力や、学びたいという意欲を信じていないのです。だから子どもは、大人が正解を教えなければ、いつまで経っても無知のままだと思い込んでしまっているのです。「押しつける教育」は「子どものことを信じていない教育」でもあるのです。その逆に、子どもの感覚や、感性や、思考力や、工夫力や、学びたいという意欲を信じている人は、正解を教えるのではなく、その感覚や、感性や、思考力や、工夫力や、学びたいという意欲を更に活性化させるような関わり方をします。つまり、押しつけようとするのではなく引き出そうとするのです。これは「子どものことを信じている教育」でもあります。「信じられないで育った子」と「信じられて育った子」、この違いは子どもの人格形成や能力形成に大きな違いをもたらします。
2022.08.22
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幼い子どもは、まだ「自分が生まれてきた世界のルール」」を知りません。だから、自分の行動の是非を自分で判断することが出来ません。そのため、何をしたらいいのか、何をしてもいいのか、何をしてはいけないのか」ということを、お母さんの表情や声の調子で感じ取ろうとしています。お母さんは、子どもが困ったことをすると一生懸命に「どうしてそれがだめなのか」を説明しようとします。やらせたいことがある場合も、一生懸命に説明します。でも、子どもは「お母さんが言っている言葉」は聞いていません。また、聞いても理解出来ません。じゃあ、子どもは何を基準にして自分の行動の是非を判断しているのかというと、お母さんの表情や声をよく見て、それを基準にしているのです。簡単に言えば、お母さんが笑顔なら「OK」、声が柔らかいときも「OK」ということです。その逆に、お母さんの表情が硬くなったり、イライラしたり、怒っていたりするような場合は「NO」です。声が固くなったり、尖ったり、大きくなったときも「NO」です。つまり、子どもはお母さんの言葉ではなく、お母さんの感情を自分自身の行動の基準にしているのです。ですから、お母さんがいつもイライラしていると、お母さんとしてはそんな意図はないにせよ、子どもは自分の行動全てが否定されているような気になってしまいます。また、「イエス」と「ノー」しか判断できないので、「お母さんが自分にやらせたいこと」は理解できません。だから、自由にやらせてみてから、行動を修正するしかないのです。そして、色々なことをやらせてみる過程で軌道修正するのです。やる前に説明しても理解できないのですから。また、お母さんの感覚の使い方もよく感じ取っています。お母さんが音に敏感なら、子どもも音に敏感になります。お母さんが色に敏感なら、子どもも色に敏感になります。お母さんが、音や色を喜ぶ感性を持っているのなら、子どもも音や色を楽しむ感性が育ちます。もちろん、その逆もあります。そうやって、子どもはお母さんの感覚や感性の働き模倣しながら、自分自身の感覚や感性の働きを育てているのです。だから、日本人の感性を持ったお母さんに育てられた子は、良い面でも悪い面でも、日本人の感性を持つようになるのです。ただし、大人と子どもとでは、基本的な感覚や感性の状態が異なりますから、お母さんと子どもが同じになるわけではありません。また、気質の違いも大きく影響しています。ですから。お母さんが好きなものを与えても、お母さんの意図とは逆に嫌いになることもあります。ただ、お母さんの感覚や感性の状態が、子どもの感覚や感性の育ちに大きな影響を与えているのは事実です。また、生活環境も子どもの感覚や感性の育ちに大きな影響を与えています。いくらお母さんが自然が大好きでも、感覚や感性が育っている時期の子どもの周囲に人工物しかなく、日常的に自然と触れ、自然を楽しむような環境がなければ、子どもは自然を味わい楽しむ感覚や感性を育てることが困難になります。特に、強い刺激に満ちた環境は、子どもの感覚や感性の育ちを阻害します。そしてその、感覚や感性の育ちが、子どもの感情の育ちを支えているのです。感情の状態は、感覚や感性の状態と密接にリンクしているのですから。
2022.08.21
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「感情の育ち」は「感覚の育ち」に支えられています。ただし、「感覚」と言ってもこの場合の「感覚」は、単なる五感(味覚、嗅覚、視覚、触覚、聴覚)のことではありません。これらの感覚は、オギャーと生まれ落ちた時点ですでに「肉体の機能」として備わっている感覚です。ですから、これらの機能のどれか一つでもうまく働かなければ「障害」として扱われます。それに対して、私が言っている「感覚」とは「心の働きとつながった感覚」のことです。実は、人間においては「感覚の働き」は「心の働き」と密接につながっているのです。悲しかったり、苦しかったりすると、いわゆる「世界が灰色に見える」状態になります。それは、単なる気のせいではなく、色が心に響かなくなることで実際に起きる現象です。そのような状態でも、「これは赤」「これは青」と色を判断するだけなら出来るのですが、「色」を味わうことが出来なくなってしまうのです。そのため、美しい絵を見ても、美しい景色を見ても何も感じなくなります。それが「灰色」という状態です。でも逆に、ハッピーな状態の人は色を楽しむことが出来ます。ハッピーな時は心の「色に対する感受性」が高まるからです。だから、「私が生きている世界はなんて美しいんでしょ」などと嬉しくなったりします。これは、音に対しても、味に対しても、触覚に対しても、匂いに対しても同じです。幸せなときは、不幸を感じているときよりも「感覚に触れてくるもの」を肯定的に感じ取ることが出来るのです。幸せを感じている人は、不幸を感じている人よりも美味しいものを食べているのです。また、このような状態の時は、赤ちゃんの泣き声もそれほど苦痛ではなくなります。それに対して、不幸を感じているときには「感覚に触れてくるもの」を拒否しようとします。「感覚に触れてくるもの」が「自分を攻撃してくるもの」のように感じてしまうからです。このような状態の時には、赤ちゃんの泣き声が苦痛になります。赤ちゃんの泣き声に含まれている「赤ちゃんからのメッセージ」にも気付かなくなります。そのため、自分の気持ちを受け止めてもらえない赤ちゃんはさらに泣くことになります。そうして悪循環が起きます。ストレスを感じているときや、悩みや苦痛を感じているときにも同じような状態になります。そして、そのような状態の時、人は感覚の働きを通して周囲の世界とつながることを拒否しようとします。そして、自分の心の中に閉じ籠もろうとします。このような感覚の変化は、感情の変化に伴って誰にでも起きることではあるのですが、でも人によって「感覚に触れてくるもの」に肯定的な反応を示す傾向が強い人と、否定的な反応を示す傾向が強い人がいるのです。「感覚に触れてくるもの」に肯定的な反応を示す傾向が強い人は、自分の周囲の世界と積極的に関わろうとします。でも、否定的な反応を示す傾向が強い人は、自分の周囲の世界と積極的に関わろうとはしません。そして「自分が大好きな世界」、「自分にとって心地がいい世界」、「安心が出来る世界」の中だけに閉じ籠もろうとします。それはそれで、お金を稼ぐことが出来て、生きて行くことが出来るのなら問題はないのですが、夫婦生活や子育てにおいてそのような状態の人は非常に苦しい状態に追い込まれてしまうのです。自分を守ることばかりに意識が向いてしまうため、パートナーや我が子と良好な関係を築くことが出来なくなってしまうからです。そして、「感覚に触れてくるもの」に肯定的な反応を示すようになるか、否定的な反応を示すようになるかは、「子どもの頃にどのような感覚体験をしたのか」ということが非常に大きく影響しているのです。
2022.08.20
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昨日は、知識や思考力と言ったものは単なる道具に過ぎません。その道具よりももっと大切なのは、その道具を使いこなす立場にいる感情の方を育てることなんです。ということを書きましたが、ではその感情はどのように育てたらいいのか、ということです。人間の成長は、命の働きが決めた予定表に従って実現していきます。妊娠も、胎内での成長も、出産も、生まれた後の成長も、老化も、死も、すべて命の働きが決めた予定表に従っています。これは、人間が人間になる以前から続いてきた命の世界の現実です。この場合重要になるのは「命の都合」であって「人間の都合」ではありません。ですから、「もう少し妊娠期間を短くしたい」とか、「出産の痛みを消したい」とか、「早いうちから勉強を教えたい」とか、「命の働きが決めた予定表」を無視して人間の都合の方を優先させて不自然なことをしてしまうと、「命の予定表」に狂いが生じます。そしてそれは、「成長の歪み」として表れます。自然界でも、人間の都合ばかりを優先させると、自然界が狂い始めますよね。気候変動が起きるだけでなく、動植物も減ったり、生態系が狂ったり、絶滅したり、生命力が萎えてしまったりしますよね。「命の都合」を無視した子育てをしてしまうとそれと同じことが、子どもにも起きてしまうのです。でも、それに対しても人間は、人工的な手段で対応しようとします。そして、泥沼にはまっていきます。掴んでいたワラを手放して、水に任せればからだは浮くのに、次から次へと新しいワラを探そうとするのです。そして、次第にからだは沈んでいきます。その、「命の予定表」では、子どもはオギャーと産まれるまでに生命維持機能を完成させる必要があります。へその緒がなくても生きていけるようにからだを整えておく必要があるのです。そして、産まれた後は、自分が産まれてきた環境への適応化が始まります。自分が産まれてきた世界の気温、湿度、空気密度、細菌環境、生活環境、自然環境、人間環境と関わり、感覚やからだの状態をそれに適応させようとするのです。赤ちゃんのからだはまだ、「人間のからだ」としては完成していないのです。胎内にいる十月十日の間に35億年の進化の過程を繰り返して、ようやく人間らしくなって産まれてくるのですが、でも、人間らしく見えるのは外見だけで、中味はまだ人間以前なんです。だから、感じ方も、考え方も、行動の仕方も人間以前なんです。だからお母さん達は困るのですが・・・。そこから、周囲の環境や人間との関わり合いを通して、人間らしく成長していくのです。生まれた後からの成長を支えてくれるのは他者との関わり合いなんです。そして、その時に使われているのが「感覚の働き」なんです。感覚の働きがないことには他者と関わることが出来ないのですから。だから、幼い子どもは何でも触ります。何でも口に入れます。そうやって視覚、触覚、味覚、嗅覚、聴覚を使って他者と関わろうとするのです。そして、それに適応するようにからだの状態を整えていきます。口から入ってくる雑菌に合わせて、からだ免疫機構が適応化されるのです。また、暑い国に生まれて来た子は、汗腺を多く作ります。食生活に合わせて腸内環境も整えます。そのような時の基準となるのが「快・不快」です。命の働きに好ましいものに対しては「快」を感じ、好ましくないものに対しては「不快」を感じるのです。そして、この「快・不快」の感覚が発展して、人間らしい複雑な感情が育っていくのです。赤ちゃんの頃の「快・不快」の感覚が「感情」の原点なんです。幼い子どもは、「快」を感じるような関わり方をされることで「自分が受け入れられている」と感じます。そしてそれが、「肯定的な感情」の育ちにつながっていきます。でも、「不快」と感じることが多いような関わり方をしていると、「自分は肯定的に受け入れられていない」と感じます。それが「否定的な感情」の育ちにつながっていきます。その時、子どもの表情が感情の育ちを知る基準になります。笑顔が多ければ「肯定的な感情」が育っている証です。無表情であったり、悲しそうな顔や、苦しそうな顔が多ければ「否定的な感情」が育っている証です。そして、何を「快」と感じるのか、「不快」と感じるのかは、子どもの成長と共に変化していきます。赤ちゃんの時は抱かれているのが「快」だったのに、4,5才頃になると、抱かれるよりも見守ってもらえる方が「快」になります。9才頃になると、見守ってもらうよりも信頼してもらうことの方が「快」になります。それに伴って、お母さんと子どもの距離感も変わってきます。このような変化は子どもの感情の育ちと関係しているのです。
2022.08.19
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昨日は、人間の行動は、人間の感情によって支配されています。頭の中だけにしか存在しない知性や論理は「感情の力」にはとうてい敵わないのです。そして、その「感情の力」は体験によって育ちます。知性や論理はお勉強をしたり本を読むだけでも育ちますが、「感情」が育つためには「体験」が必要なんです。と書きましたが、実際、人間は自分の感情の働きに従って感じ、考え、判断し、行動しています。知識や思考はその際の道具として使われるだけで、目的自体を与えてくれるのは感情の方です。だから、東大を出て知識や思考力が高いはずの人でも犯罪を犯すのです。学歴と人間性は全く関係がないのは周知の事実です。でも、知識や思考力が高ければ、豊かな感情が育っていなくても、社会的には高い地位に就くことが出来ます。国や社員や多くの人を支配する立場に立つことも可能です。だから、その下にいるような人達が困るようなことが起きるのです。知識や思考力と言ったものは単なる道具に過ぎません。その道具よりももっと大切なのは、その道具を使いこなす立場にいる感情の方を育てることなんです。否定的な感情の持ち主は、自分の知識や思考力を否定的な行為を実現するために使おうとするでしょう。破壊的、暴力的な感情の持ち主は、自分の知識や思考力を破壊的で暴力的な行為を実現するために使おうとするでしょう。同じように、肯定的な感情の持ち主は、自分の知識や思考力を肯定的な行為を実現するために使おうとするでしょう。みんなが幸せになることを喜ぶような感情の持ち主は、自分の知識や思考力をみんなが幸せになるために使おうとするでしょう。だからこそ、子育てや教育においては知識や思考力を育てることよりもまず、感情を育てることを重視するべきなんです。そしてそれこそが9才までの子どもにとって最も必要な学びなんです。知識や思考力は、9才を過ぎてからでも育てられます。でも、感情の基礎は9才までに整ってしまうので、9才までのからだ育てが非常に重要になるのです。でも、実際には、みんな感情を育てることよりも、知識や思考力を育てることの方にばかり熱心です。仕付けという名目で子どもの行動を支配し、管理しています。「遊んでばかりいないで勉強しろ」と子どもを追い立てています。子どもから自由な体験や、一緒に走ったり、ケンカしたり、笑ったり、作ったり、遊んだりする仲間や、そういうことが出来る場や時間を奪っています。いい点数を取れば褒めますが、素敵な泥団子を作っても褒めません。洋服を汚さなければ褒められますが、遊びに夢中で洋服を泥だらけに汚すと叱られます。こういう状態では子どもの人生を支えてくれるような感情が育つわけがないのです。それは自己肯定感の低さとして表れます。成功体験を与えれば自己肯定感は育つと考えている人がいますが、それは感情の世界の事を知らない人の発想です。人の感情はからだの働きによって生まれているのです。だから、からだが育たなければ感情も育たないのです。でも、現代人はその「からだの育ち」という視点を持っていません。西洋医学的な意味での「体」のことは知っていますが、命の働きとダイレクトにつながっている「からだ」のことは知らないのです。みんな、子どもたちに平気でゲームを与えています。でも、ゲームでいくら遊んでも子どものからだは育ちません。むしろからだの育ちを阻害してしまいます。でも困ったことに、これは、冷暖自知の世界に属することなので、そう簡単には説明出来ないのです。まただから簡単に無視されてしまうのでしょう。ちょっとだけ説明すると、肯定的な感情の人はからだが緩んでいます。声も動きも柔らかいです。自然の美しさに敏感です。私が言っている「からだ」とはこういうからだのことです。
2022.08.18
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「平和であるべきだ」とか、「戦争をしてはいけない」とかそういうことを決めても、「平和」は訪れません。「戦争はしません」と憲法に書いても、周囲の国々と仲良く出来ないのなら戦争は起きます。逆に、周囲の国々と仲良く出来るのなら、そんなこと書かなくても戦争は起きません。「僕はケンカは嫌いだ」と言っていても、自分だけのことだけを考えて、周囲の人のことを考えないような行動ばかりしていたらケンカは起きます。でも、そういう子は「僕は悪くないのに○○君がいきなり・・・」というような説明をします。(そういう子、結構います。)自分からはケンカを仕掛けなくても、周囲の子と仲良く出来ないのなら自分からケンカの種を蒔いていることになるのです。そんな時、「仲良くしろ」と指示するだけでは何も変わりません。いくら厳しく「イジメをするな」と子どもに言っても、お互いに比較され、競争させられ、楽しさを共有する体験を与えられず、つながり会う機会や場を奪われてしまっているのなら「イジメ」は起きます。人間の行動は、人間の感情によって支配されています。頭の中だけにしか存在しない知性や論理は「感情の力」にはとうてい敵わないのです。そして、その「感情の力」は体験によって育ちます。知性や論理はお勉強をしたり本を読むだけでも育ちますが、「感情」が育つためには「体験」が必要なんです。でも、現代の大人達は体験は与えずに、知識や論理を説明するだけで子どもの行動をコントロールしようとしています。ノコギリには触らせず、「ノコギリの使い方」を教えるようなことばかりやっています。だから、「イジメは悪いことだ」と知っていてもイジメをしたり、「万引きは悪いことだ」と知っていても万引きしたりするのです。その時、そういうことが悪いことだと知っている子はバレないようにやります。知識や論理はそういう所で使われるだけで、子どもの行動そのものを変えることは出来ないのです。「平和」は「作るもの」ではなく、子どものように「育てるもの」なんです。「子どもの育ち」を支えるためには体験が必要なように、「平和の育ち」を支えるためにも体験が必要なんです。それは、「幸せの体験」「つながり合う喜びの体験」「共感し、共に喜び、共に悲しむ体験」「助け合う体験」などです。そういう体験を共有出来る仲間の中に平和が生まれるのです。そして、そういう体験をして育った子は、他の人もそのつながりの中に取り込む能力を持っています。「あの子がいるときはみんな仲良く遊んでいたのに、あの子がいなくなったらみんながバラバラになってケンカするようになってしまった」というような体験はありませんか。そんな、平和の種を蒔くことが出来る子を育てませんか。そのためにはまず、「親子の平和」、「家庭の平和」を育てるところから始める必要があるのです。それが出来なければ「社会の平和」も生まれないのですから。
2022.08.17
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子どもを叱ってばかりいるお母さんがいます。でも、子どもはオドオドし、憶病になるだけで、行動が改善されることはありません。それは、目隠しされている状態の人に「真っ直ぐ歩け」と言っても意味がないのと同じです。「真っ直ぐ歩け」と言う前に、目隠しを取ってあげる必要があるのです。そして、自分にとって価値のあるものに目を向けさせてあげるのです。そうすれば「真っ直ぐ歩け」などと言わなくても、自分の意思で真っ直ぐ歩くようになるのです。ただし、お母さんが向かわせたい方向とは違う方向に歩き出すでしょうけど。「イジメをヤメロ」と言うのは簡単です。でも、イジメしか知らない子に「イジメをヤメロ」と言っても止めるわけがありません。ただ、隠れてやるようになるだけです。「ケンカなんかしないで仲良く遊べ」と言っても、「一緒に遊ぶ楽しさ」や「楽しく遊ぶ遊び方」を知らない子が仲良く遊べるようになるわけがありません。「遊んでばかりいないで勉強しろ」と言っても、「勉強の楽しさ」や、「勉強の仕方」を知らない子が勉強するようになるわけがありません。それは材料を与えることもせず、作り方も、作る楽しさも教えないのに「自分の力で立派な家を建てろ」と言っているのと同じことだからです。そんなこと出来るわけがないのですよね。子どもにそういうことを要求している大人だって出来ません。でも、お母さん達だけでなく、世の中の多くの大人達が、「自分でも出来ないようなこと」を子どもには要求しているのです。いくら「戦争反対」を叫んでも、戦争の悲惨さを知らない人にはその訴えは届きません。色々な写真を見せ、色々な体験話を聞かせても戦争に対する恐怖心が生まれるだけです。そして、いくら恐怖心を広めても、戦争は防げないし、平和な社会も作ることも出来ません。それは、「一緒に遊ぶ楽しさ」や「楽しく遊ぶ遊び方」を知らない子に、「ケンカなんか止めろ」「イジメなんかヤメロ」と言うのと同じことです。戦争はなんで悲惨なのかというと大勢人が死ぬからではありません。人と人が殺し合うからでもありません。実際、ウクライナではいま多くの人が死んでいます、人と人が殺し合っています、でも、多くの日本人はそれを情報として知っているだけでウクライナの人と一緒に悲しんだり、苦しんだりはしていません。悲惨だという状況は認識していますが、実際に悲惨さを感じているわけではありません。どうしてなのかというと、ウクライナに「自分にとって大切な人」がいないからです。ウクライナが自分にとって「大切な国」ではないからです。戦争が悲惨なのは、大切な家族や、大切な仲間や、大切な想い出や、大切な故郷や、大切な文化や、大切な生活が失われてしまうからなのです。ただ単に人と人が殺し合うからではないのです。でも、ウクライナに「大切な家族」や、「大切な仲間」や、「大切な想い出」を持っている日本人は多くありません。だから、人ごととして見ていることが出来るのです。人は、「自分にとって大切なもの」を守るために戦うのです。そして、「自分にとって大切なもの」が失われたときに悲しむのです。だから、戦争がない平和な社会を作ることが出来る子を育てるためには、子どもにとって「大切なもの」、「失いたくないもの」をいっぱい育ててあげる必要があるのです。江戸幕府が300年も平和を築けたのは、人々が悲惨な戦の想い出を語り継いだからではありません。むしろその逆に、人々が日々平和に生きることの中に「楽しさ」を見いだしたからなんです。だから、あれだけの文化が花開いたのです。平和な社会を持続させるためには、子どもたちに「大好きな家族」、「大好きな仲間」、「楽しい想い出」、「自然の美しさと面白さ」、そういうものをいっぱい育ててあげる必要があるのです。「自由と平和の素晴らしさ」をいっぱい体験させてあげるのです。戦争はそういう「大切なもの」を人から奪ってしまうからやってはいけないのです。皆さんだって、子どもの頃楽しく遊んだ川、楽しく遊んだ野原、楽しく遊んだ仲間を失いたくはないですよね。破壊されそうになったら守ろうとしますよね。でも、お金や、地位や、名誉にしか興味がない人は、それらを得るために戦争を利用するかも知れません。戦争が起きても、「大切なもの」が失われないのですから。でも今、その「自分にとって大切なもの」を育てることが出来ない子どもたちがいっぱいいます。自分の命やからだすら「大切なもの」でなくなってしまっている子もいます。それは、大人達が、子ども達から「遊び」を奪い、「仲間」を奪い、「自由に感じ、考え、行動する喜び」を奪い、「自然」を奪い、お金を得ることや、競争に勝つことの大切ばかりを教えて来たからです。そういう状態の子は平和を守ることには興味が無いでしょうね。皆さんのお子さんにとって「大切なこと」は何ですか?皆さんにとって「大切なこと」は何ですか?以下は、昭和2年生まれで、87才で亡くなった父が書いた自伝的な本です。父は、私と違って記憶力が優秀でした。
2022.08.16
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今日、8月15日は「終戦記念日」です。戦争で死んだ人のことや、命と平和の大切さを今一度想い出すための記念日です。浅草に住んでいた私の父の母と妹、つまり私の祖母と叔母は、3月10日の大空襲で亡くなりました。父は、宝塚にいた特攻隊の生き残りでした。でも、父が飛ぶ前に戦争が終わったので、今の私がいます。私自身は戦争が終わって6年後に生まれたので直接戦争は知りません。でも、私が子どもの頃は戦争の記憶が濃く残っている時代でした。当たり前のことですが、その当時の大人は100%戦争体験者でした。街の中にもまだ戦争の名残が色濃く残っていました。駅には、白い服を着て、アコーディオンを弾いている戦争で怪我をした人たち、いわゆる傷痍軍人と呼ばれる人たちがいっぱい立って物乞いをしていました。鎌倉駅の前にもいました。父や母や祖父からも戦争の時の話をよく聞かされました。母は、学校の帰りに機銃掃射を受けたと言っていました。落下傘で落ちてきたアメリカ兵を大人たちが棍棒などを持って殴りかかって殺してしまった話も聞きました。家内の父は兵隊には行きませんでしたが、戦後、開拓民として北海道に渡り、大変な苦労をしたそうです。義父と北海道旅行をした時、その話をいっぱいしてくれました。なにしろ、電気も水道もなく、農耕には適さないような荒れた土地でなんとか生き延びなければならなかったのですから、当時の体験は、筆舌に尽くし難いものだったようです。でも今、その戦争の記憶は薄れてしまいました。遠くの国で起きている戦争の話は聞きますが、自分の親兄弟や友達が死んでいるわけではありません。自分達の命や、衣食住が脅かされているわけでもありません。だから、ただ「可哀想だ」と感じるだけです。子どもたちはゲームの中で殺し合って遊んでいます。大人たちも、助け合うのではなく、競争し合っています。子どもたちに「ケンカはやめなさい」とか「イジメはやめなさい」などと言ってはいますが、「仲良くする楽しさ」や「仲良く遊ぶ遊び方」は教えません。でも、二度と戦争が起きないような社会を作るためには、子どもたちに「仲良くする楽しさ」や「仲良く遊ぶ遊び方」を伝える必要があるのです。いくら戦争の悲惨さを教えても、平和の作り方を知らない子は平和を守れないからです。実際に戦争が動き出したら「戦争反対」も言えなくなってしまいます。「戦争が起きたら逃げる」と言う子もいますが、逃げることも出来なくなるのです。また、自分の感覚と心で感じ、自分の頭で考え、自分の意思で判断し行動する能力を育てる必要もあります。戦争が動き出したら、国は決して本当のことを言わなくなるからです。というか、戦争につながらなくても、国民に隠し事をするような国は危険なんです。その嘘を見抜き、支配されないためには「自分の感覚と心で感じ、自分の頭で考え、自分の意思で判断し行動する能力」が必要なのです。そしてそれが、平和な社会を作るために必要なことなんです。平和な社会は国が作るものではなく、私たち一人ひとりの意識と生き方が作り出すのです。なぜなら、私たち一人ひとりの意識と生き方が、国の形を決めるのですから。「本当のこと」を隠したり、利害関係で繋がった組織票で政治を動かそうとする考え方は、民主主義の理念に反するのです。ちなみに、第9条があるから大丈夫などとは考えないで下さいね。国が本気になったら、こんなもの勝手に変えてしまうことも出来るのですから。国が情報操作して、「9条は危険な考え方だ」と偉い学者達にテレビなどで言わせれば、世論は簡単に変わってしまうのです。実際、戦争中はそれで多くの人達が戦争に賛成していたのですから。今でも同じようなことが起きていますよね。
2022.08.15
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文明の進歩と共に、社会全体が豊かになり、自由も増して、選択肢も増えてきました。現代社会では、ちょっと能動的に行動しさえすれば、誰でも簡単に自分が望む所に行け、望むものを見て、望む情報を得、望む遊びをすることが出来ます。それは誰でも望むものを食べることが出来るレストランのような状態です。お金さえ出せば望むものを食べることが出来るのです。でも、そのようなレストランでその自由を有効に使うためには、まずメニューが必要です。すでに食べている人を見たり、食べている人の話を聞くことも大切です。そして、気になったものは食べてみる、というチャレンジ精神も必要です。見た目は美味しそうでも実際にはそうでないものもあります。その逆もあります。そうやって色々な体験をしたり、色々な情報を得るからこそ、選択の自由を十分に行使できるようになるのです。そこに教育の意味もあります。でも実際には、親も学校も、「自分が大切にしているもの」だけを子どもたちに押しつけています。そして、他の選択肢があることを教えません。というか、多分、親も学校も先生達も「他の選択肢」のことを知らないまま育ってしまったのでしょう。そのような状態の人は、選択の自由があることを教えられてもそれを求めません。それは、メニューにはいっぱい書いてあっても、そのメニューを見ることなくお店の入口に貼ってあった「今日のお勧め定食」だけしか頼まないような人と同じです。「同じでいいや」と連れと同じ料理ばかり頼む人も同じです。ちゃんとメニューを見るという習慣がないだけでなく、いちいちメニューの中から選ぶことを面倒くさがる人もいっぱいいます。世の中には、選択肢がいっぱいある状態を喜ぶ人と、喜ばない人がいるのです。そして、最近の日本人には後者のタイプの人が多いような気がします。現代社会には、子どもたちの「選択する能力」を育てることが出来るような場がないからです。幼いうちから、大人が常に側にいる状況で、大人に管理された時間と、空間と、環境の中だけで生活していたら「選択する能力」が育つわけがないのです。そして「選択する能力」が育っていない人は、「みんなと同じ」という状態の中に安心を感じるのです。「選択する能力」が育つためには、自分の感覚で感じ、自分の頭で考え、自分の意思で行動出来るような自由の体験が絶対的に必要なんですが、今の子どもたちにはそういう体験をする場が与えられていないのです。「選択する能力」が育っている人は、沢山の選択肢がある場では自由を感じますが、「選択する能力」が育っていない人は逆に不自由や不安を感じます。「選ばなくてはいけない」という不自由と、「本当にそれでいいんだろうか」という不安です。だから、手っ取り早くみんなと同じものを選んでしまうのです。また、見た目だけで選んでしまう人も多いです。自分の価値観に合った「安心出来るような情報」ばかり集めている人もいます。子どもたちも、簡単に遊べて、刺激も強くて、すぐに結果が出るような遊びばかり選びます。食べ物であれば、甘いものや肉ばかりを食べたがります。でもそれ故に、社会の中の選択肢はいっぱいあるのに、その選択肢を活用することなく偏った生き方をしている人がいっぱいいるのです。皮肉なことに、何でも選べる状況だからこそ偏食が起きるのです。普通のお料理の隣にアイスクリームやチョコレートが置いてあるのですから。でも、そこには手軽さと、安心と、快楽はあっても「成長の喜び」はありません。何でも自由に選べる社会で自由に生きるためには、選ぶ能力を育てる必要があるのです。そうでないと、自由を不自由と感じてしまう人が増えてしまうからです。自由を楽しむ能力が育っていない人は、自由に危険を感じます。そして、自分と同じような不自由を人に押しつけようとします。自分と違う感じ方、考え方、価値観を持っている人がいると不安を感じるからです。そのような人は、自分とは違う価値観、考え方の人を理解しようとせずに、簡単に否定してしまいます。いくら選択肢が増えても、その選択肢を比較し、判断し、選ぶ能力を育てることが出来なければ、人は余計に不自由になってしまうのです。そして、価値観の偏り、考え方の偏り、感覚の偏り、生き方の偏りが生まれ、お互いにつながり合うことをせず、ののしり合い、戦い合って、狭い世界に生きることになります。その狭い世界の外側には、広くて自由で素晴らしい世界が広がっているのに。
2022.08.14
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「悩み」を抱えている人は、「悩み」忘れようとしたり、消そうとします。「苦しみ」を抱えている人も、「苦しみ」忘れようとしたり、消そうとします。そこでお酒や麻薬に手を出す人もいます。買い物や遊びで気を紛らわそうとする人もいます。でも大抵、そのもくろみは失敗します。なぜなら忘れようとすれば忘れられないし、消そうとしたら余計に燃え上げるのが、人の悩みや苦しみの特性だからです。見ないようにしていても、ふとした瞬間に見えてしまうのです。その時、以前見ていた姿よりも大きくなっているのです。逃げ回れば逃げ回るほど、悩みや苦しみは大きくなるのです。それは「不安」も同じです。じゃあどうしたらいいのかというと、昨日も書いたように、何か新しいことを始めればいいのです。実際の旅に出なくても、何かしら今までの生活にはなかった新しいことを始めれば人の気持ちは変わるのです。それは、泣いている子どもを泣き止まそうと一生懸命に説得しても無理な状態と似ています。説得しようとすればするほど、余計に泣きますよね。それは、人には今の自分の感情にこだわる性質があるからです。説得すればするほど、今の自分の気持ちに対するこだわりが強くなってしまうのです。そんな時は、子どもの気持ちを他の事に向けさせればいいのです。「死にたい」と言っている人に「そんなこと考えるんじゃない」と言っても、余計に傷つくだけです。そんな時は、(例えばですけど)「今まで食べたものの中で一番美味しかったものはなあに?」などと聞いた方が心を和らげる効果があるのです。「新しいこと」を始めると、それまで見えなかったようなことが見えるようになります。自分の意識の世界、感覚、思考が変わり、普段の生活や人間関係も微妙に変わります。すると、それまでの悩みや苦しみの正体が見えてきます。そして、それまで自分を苦しめていた悩みや苦しみの意味が分かるようになります。そして、悩みや苦しみからのメッセージを受け取ることが出来ます。不思議なことに、その「悩みや苦しみからのメッセージ」をちゃんと受け取ることが出来ると、悩みや苦しみは消えていくのです。また、人間として一段階成長することも出来ます。実は、「悩み」や「苦しみ」から抜け出すためには、今の状態から一段階成長する必要があるのです。というか、その成長を促すために、その悩みや苦しみが存在しているのです。お酒や、麻薬や、買い物に逃げても、自分自身の成長がなければ、悩みや苦しみはいつまでも付いてくるのです。でも、成長は悩んでいるだけではやってきません。人が成長するためには、新しい学びと、新しい体験が必要になるのです。さあ、何か新しいことに挑戦してみて下さい。断捨離のような一回限りのものでなく、無理なく継続的に挑戦できるものの方がいいです。英語やヨガや太極拳などの学びでもいいです。絵を描くことでも、歌を歌うことでも、山に登ることでもいいです。それまでやったことがないようなことに挑戦してみて下さい。後悔はしないと思いますよ。そして、気付いたら、今皆さんを苦しめている悩みや苦しみは「過去のもの」になっていると思いますよ。
2022.08.13
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私は30才の頃、リュック一つで1年間、ヨーロッパ、インドを中心に色々な所を歩いてきました。この1年間で、それまで働いて貯めてきた貯金を全部使ってしまったのですが、それでもかなりの貧乏旅行でした。スペインが一番長くてマドリッドに3ヶ月、アリカンテの近くのオジャ・デ・アルテアというところに3ヶ月いましたが、マドリッドにいた頃よく食べていた夕食は、チャイニーズレストランでスープとライスだけを頼んで、「スープにライスを入れて食べる」というものでした。とにかく、これが一番安かったのです。オジャ・デ・アルテアでは友人と家を借りていたので、自炊していました。次に長かったのはインドで2ヶ月ぐらいいました。あとは、フランス、モロッコ、ギリシャ、イタリア、タイなど色々な所をウロウロしていました。ちなみに全部、物価が安い所です。この一年は、お金はありませんでしたが自由は山のようにありました。毎日が、宿題がない夏休みのような状態でした。人は自由になると自分の感覚で感じ、自分の頭で考え出します。そして、自分の判断で行動します。そうしないと、何も起きないし、何も変わらないし、ただただ退屈なだけだからです。楽しい旅になるか、退屈な旅になるか、苦しい旅になるか、危険な旅になるのかは全て自分次第なんです。そしてそれが楽しいのです。パック旅行では楽しい旅になるか、退屈な旅になるか、苦しい旅になるか、危険な旅になるかは旅行会社の問題ですが、自由な一人旅では、自分次第でそれを変えることが出来るのです。またそれが楽しいから一人で旅に行くのですが、「一人では不安だから誰かに付いていく」とか「誰かに旅行を企画してもらわないと安心出来ないし楽しめない」という人は多いです。「自分で考えるのが面倒くさい」という人もいるでしょう。また、最初から「旅には興味が無い」とか「どこにも行きたくない」という人も多いです。まあ、それもそれで個人の自由ですからいいのですが、でも、「人は皆、自分の人生という旅を生きている」という事実は忘れない方がいいと思います。基本的に、人生は一人旅です。旅の時々で他の人と一緒に歩くことはありますが、一生、誰かと一緒に歩くことは出来ません。また、一緒に歩いていても、お互いに別のものを見て、別のことを感じて、別のことを考えています。どんなに仲がいい親子でも、恋人同士でも、夫婦でも、お互いに別のものを見て、別のことを感じて、別のことを考えています。その相手もまた「自分だけの人生」を生きているのですから。人生という旅に、「安全で安心で楽しいパック旅行」な存在しないのです。人生はバックパッカーの一人旅と同じなんです。しかも、たった一回きりの旅行です。今の自分の人生は、永遠という時間の中でたった一度しか与えられていないのです。だから、安全や安心ばかりを求めて、自分の感覚で感じ、自分の頭で考え、自分の意思で判断することを放棄してしまったら、せっかく自分に与えられた時間がもったいないのです。わざわざリュックを担いで旅に出なくても、私たちはみんな、もうすでに旅に出ているのです。皆さんも、例外なく旅の途中なんです。実際に、一人で自由な旅をしてみるとそのことがよく分かるのです。「ああ、これは人生と同じだ」と。旅の醍醐味は新しいことと出会い、新しい体験をし、新しいことを学ぶ事です。だとしたら、わざわざリュックを担いで旅に出なくても、日常生活の場でも旅と同じような状態は作れるはずです。「休みだ、さあディズニーランドに行こう」とか、「休みだ、さあゲームをやろう」ではなく、自分に「自由な時間」を与えてみて下さい。この場合の「自由な時間」とは、「自分の頭で考えないと何も始まらない時間」のことです。「与えられた自由」ではなく、「自分で創り出す自由」です。そして、今までやったことがないようなことに挑戦してみて下さい。簡単なことでいいのです。ただ、普段とは違うことをやってみるだけでいいのです。歩いたことがない道を歩いてみる、本棚にはあるけどあまりちゃんと読んでいない本を読んでみる、空を見る、足下を見る、しゃがんでみる、寝転んでみる、入ったことがないお店に入ってみる、食べたことがないお料理を食べてみる、話したことがない人と話してみる、もう、これだけで十分、旅と同じなんです。そして、このような「新しいこと」をすることで、旅が前に進み出し、新しい景色を見せてくれるようになるのです。何もしなくても、旅の終わりは来ます。旅を楽しんでいなくても、一カ所に留まっているだけでも、旅の終わりは確実に来るのです。その時、「自分は何のために生まれてきたんだろう」とか「自分の人生はいったい何だったんだろう」と気付いても手遅れなんです。ちなみに、幼い子どもたちは毎日このように生きていますからね。幼い子どもたちにとっては、毎日が新しいのです。そして、色々なことをやりながら、自分の人生を、自分らしく生きようとし始めているのです。でも大人達は、「みんなと一緒」を強制します。安心安全を考えて、子どもたちを無理矢理、パック旅行に参加させてしまうのです。でも、そのことで、子どもたちは「自分だけの人生」(旅)を失ってしまうのです。また、そんな幼い子どもに、ゲーム機やスマホを与えたら、旅の全てがホテルの中だけで完結してしまうような人生になってしまうかも知れません。それはそれで楽しいかも知れませんが、「自分が生まれてきた意味」は一生分からないままになってしまうでしょうね。
2022.08.12
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昨日は、でも実は、自力という方法はあまり人間らしくない方法なんです。なぜなら、人間は元々助け合わなければ生きていけないように出来ている生き物だからです。ということを書きました。でも、社会の価値観も、学校の価値観も、親の価値観も、それとは逆の方向に進んできてしまっています。結果、一人で、孤独の中で、人目を気にしながら、自分を守りながら、心を傷つけ合いながら、自分で自分を否定しながら、必死になって生きている人たちがものすごく増えて来ました。みんな、苦しまなくてもいいことで苦しんでいるのです。子育ての勉強会などでも、「お子さんをどのような大人に育てたいのですか」と聞くと「精神的、経済的に自立した人」と答える人が多いです。そこには、精神的、経済的に自立できていない人の「子どもには自分のような大人になって欲しくない」という想いも込められているのでしょう。だから、子どもが「ママ、遊んで」とか、「ママ、ダッコ」とか、「幼稚園に行きたくない」などと言ってきても「甘やかしてはいけない」と子どもを遠ざけたり、無理矢理幼稚園に行かせたり、また、勉強や、習い事や、自分のことは自分でやるように追い立ててしまうのです。それはまた、自分の中の弱さを肯定出来ないことの表れでもあります。悲しいことに、自分自身を否定している人は、子どもの想いも否定してしまうのです。そしてだから、まだまだ大人のぬくもりと、見守りと、手助けと、指導が必要な幼い子どもにも、精神的な自立を求めるのです。だから、子どもは精神的に自立できなくなってしまうのですが、そのカラクリに気付く人は多くありません。でも、実際に精神的、経済的に自立できている人は、助けて欲しい時には素直に助けを求めることが出来る人なんです。そして、助けを求めている人がいれば、喜んで手を差し伸べることも出来ます。そのような「他の人と支え合うつながりを作る能力」を持っているから、精神的にも経済的にも自立することが出来ているのです。また、「自由な人間に育って欲しい」と言う人も多いですが、そのように言う人に「じゃあそのために心がけていることはありますか?」と聞くと、「だから子どもがやりたいことは自由にやらせています」と言います。でもその結果、子どもは「大人から学ぶ」とか、「ルールを学ぶ」とか、「みんなと一緒に活動する」ということが出来なくなります。「学ぶ楽しさ」や「成長する喜び」も体験できなくなります。また、お母さんがいない場では不自由を感じるようになります。でも、子どもは望むと望まざるとに関わらず、成長と共にお母さんから離れなければならなくなります。そして、仲間と遊んでいる時も、幼稚園にいる時も不自由を感じるようになります。で結局、不自由を感じるようになっていきます。それは「自由に踊れるような人になって欲しい」と、何にも指導しないで自由気ままに踊らせているようなものです。でも、自由気ままに踊らせていても自由に踊れるようにはならないのです。なぜなら、自分の可能性を広げることが出来ないからです。人は自分の可能性を広げることが出来ている時に自由を感じるのです。他者からの束縛がなくても、自分自身に束縛されていたら自由ではないのです。自分の世界の中にいる時だけ感じる自由は「安心」であって、本当の意味での「自由」ではないのです。また、勉強が出来る子になって欲しいと、子どもが小さい時から早期教育や勉強に追い立てている人も多いです。でも、小さい時から早期教育や勉強に追い立てられている子は、中学に入った辺りから急激に失速します。勉強する楽しさや学ぶことで成長する喜びを知らないからです。「大人になった時にこうなって欲しい」という願いはあっても、それを子どもの頃から求めてはいけないのです。子どもが幼い頃に大切なのは、大人の願いを押しつけることではなく、子どもの願いに耳を傾け、その心に寄り添ってあげることなんです。そうすれば、自由で自立した人間に育つのです。
2022.08.11
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「自力」と「他力」という言葉があります。Weblioには以下のように書かれています。「自力」①自分自身の力。 「 -ではいあがる」② 〘仏〙 自分に備わっている悟りを開く能力。また、自分の修行によって悟りを開こうとすること。「他力」①他人の助力。② 〘仏〙 自己の力で悟るのではなく、仏や菩薩の力を借りること。仏・菩薩の加護のこと。多くは浄土教で、衆生(しゆじよう)を極楽へ救済する阿弥陀仏の本願の力のこと。元々は仏教の言葉ですが、普通の日常でも使われている言葉です。で、多くの場合、自分の力で頑張る「自力」の方が良いイメージがあって、人任せ的な「他力」の方はあまりいいイメージがありません。現代人が大好きな「頑張る」とか「努力する」という言葉は、「自力」の世界の言葉です。「任せる」という世界では「頑張る」とか「努力する」という言葉は価値を持たないからです。そして現代人の多くは自分の力で頑張って、自分の力で必死になって生きています。スポーツの世界も自力の世界です。勉強も子育ても自力で頑張っています。でも実は、自力という方法はあまり人間らしくない方法なんです。なぜなら、人間は元々助け合わなければ生きていけないように出来ている生き物だからです。自力は競争社会の原理です。そしてその競争社会は社会の近代化によって生まれました。それは人類の歴史1万年の中のほんの2~300年ほど前のことです。日本では100年ちょっと前のことです。その社会の近代化とは、生活や社会の機械化のことでもあります。生活や社会が機械化することで、それまではみんなが助け合わなければ出来なかったようなことが、機械の力を借りれば一人でも出来るようになったのです。そして、その機械を買うためにはお金が必要になりました。社会の近代化と共に、助け合いがなくてもお金さえあれば生きていける社会が生まれたのです。結果、競争はますます激しくなり、自分の力だけで頑張る「自力」という価値観の方が重視されるようになりました。でも、どんなに社会が近代化し、機械化しても、1万年前と変わらない世界もあるのです。それは夫婦生活と、子育ての世界です。夫婦生活も子育ても、人と人がつながり合い、支え合わないことにはどうにも出来ないように出来ているのです。でも、小さい時から自分の力で頑張ることばかりを求められ、追い立てられて育った現代人にはそれが出来ないのです。みんな自分を守り、他者と比較し、戦い、競争する事ばかりに意識が向いてしまっていて、自分をオープンに開き、他者を受け入れ、支え、支え合うつながりを創り出せなくなってしまっているのです。だから夫婦生活や、子育てや、一人の人間として生きるということが非常に困難に、また、苦しいものになってしまっているのです。ちなみにスポーツにおける「チームプレー」の考え方は、敵に勝つための方便であって、本当の意味での支え合いではありません。チームに貢献できない選手は切り捨てられてしまうのですから。それは、働けなくなった老人や病人や障害を持った人達を社会から排除するのと同じ仕組みです。本当の意味で助け合うのなら、事故などで片足を失った選手がいても、その選手が活躍できるようにルールを変えたり、みんなで支え合ってプレイするようにするはずです。障害を持った人達だけを集めてプレーさせるのではなく、障害を持っている人と持っていない人が一緒にプレーするのです。その場合大事になるのは「勝敗」ではなく、「楽しめるか楽しめないか」です。でも、現代人にはそういう発想はありません。パラリンピックは障害を持っていてもスポーツがやりたいのなら、障害を持っている人だけで集まってスポーツをして下さい。それは応援しますよ。でも、障害を持っていない人と一緒にプレーすることは出来ませんよ。ということですよね。私にはこれは差別にしか思えないのですが、思い過ごしでしょうか。<続きます>
2022.08.10
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(これは以前書いたものに手を加えたものです)辞書的な意味での「自立」の反対は「依存」ですが、実際には、他者に依存していない人などこの世界には一人もいません。この世界の全ての存在は繋がりの中で生まれ、繋がりに支えられて存在することが出来るような仕組みになっているからです。自分の意思で産まれて、自分の力だけで大人になった人などこの世界に一人もいないのです。みんな依存の中で生まれ、依存の中で成長して大人になったのです。ですから、依存することは恥ずかしいことでも、避けるべきことでもありません。また避けることも出来ません。ここで大事なことは、「依存しないこと」ではなく「支配されない」ことなんです。それが「自立」の本質的な意味でもあります。私たちはお金に依存して生活しています。それは避けることが出来ない現実です。それが嫌だったら、無人島や山の中で自給自足で暮らすしかありません。でも、同じようにお金に依存していても「お金に支配されている人」と「お金に支配されていない人」がいます。いわゆる「専業主婦」と呼ばれる人は、経済的にはご主人に依存しています。そして、ご主人は生活や子育てを奥さんに依存しています。ですから「お互い様」なんですが、お金を稼いでいないことを後ろめたく思っている女性の中には、その負い目から精神的にご主人に支配されてしまっている人もいます。また、「お金を稼いでいる俺の方が偉いんだ」と思い込んでいる男性は、奥さんを支配しようとしてきます。でも、「支配」は「依存」の裏返しでもあります。支配する対象に依存しないことには支配が出来ないからです。国民がいなくなったら支配者は支配者でいることが出来なくなってしまうのです。ですから、支配しようとする傾向のある人は依存心が強い人でもあるのです。でも、お互いに尊重し合って家族を支えている夫婦は、支配されても支配してもいません。それが「自立している」という状態です。子育てに本当に必要なのは「子どもの育て方」という「方法」ではなく、「お母さんが一人の人間ととして自立すること」なんです。自立しているからこそ、子どもの育ちを補助することが出来るのです。そして、自立するためにはまず、自分の感覚を開くことから始める必要があります。ちゃんと見て、ちゃんと聞いて、ちゃんと感じて、ちゃんと味わうことから自立が始まるのです。また、ここから始めないと「自分の頭で考える」ということも出来ません。そしてこれもまた、「支配されない」ための方法でもあります。「経済的に自立して下さい」ということでも、「ご主人や仲間に依存することをやめて下さい」ということでもありません。そういうことはみんな「お互い様」なので、素直に受け入れればいいのです。また、色々な本を読んだり、色々な先生の話を聞くのもOKです。それを「自分の生き方」や「自分の子育て」を考えるヒントとして使うのなら、色々な人の話を聞き、色々な本を読むことは素敵なことです。でも、自分で判断することなく、「偉い先生が言ったから」とか、「みんながやっているから」「テレビで言っているから」などと、自分の考えや行動を人任せにしている人は、支配されていることになります。学校の先生に言われた通りに子どもを追い立てている人は、先生に支配されている人です。「親の役割」と「先生の役割」は根本的に違うのですから、先生が親に指示命令を出すのも、親がそれに従うのもおかしいのです。でも、実際には多くの親が、先生や学校に支配されています。そして子どもを追い詰めています。テレビに出ている医者が言っていることに支配されている人も、他人の目に支配されている人もいっぱいいます。支配されないためには自分が「自分」である必要があるのです。そして、自分が「自分」であるためには、「自分は何を見て美しいと感じるか」、「何を美味しいと感じるか」、「どのようなことに感激するか」、「どのようなことに喜びを見いだすことが出来るか」ということを、「自分らしさ」として自覚し、大切にする必要があるのです。人と自分を比較していたら、「自分らしさ」は失われてしまうのです。そのため、人と自分を比較する癖のある人は自立できません。我が子と他の子を比較している人も自立できていません。
2022.08.09
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ネットの記事を見ていると「コロナは単なる風邪とは違うこんなに恐ろしい病気なんだ」という記事をよく見かけます。「だからマスクしろ」、「だからワクチンを打て」、「だから外出するな」、「だから他の人の近くに寄るな」ということなんでしょうが、でも、マスクをしていても、ワクチンを打っていても、外出しなくても、他の人の近くに寄らなくても、罹るときにはかかります。それは厳然たる事実です。だからといって、私は「何をやっても無駄だから、何もしなくてもいい」ということを言いたいわけではありません。子どもの心とからだの健康や、心とからだの育ちや、思考力や社会性の育ちを阻害することなく、コロナだけを防ぐことが出来る方法があるならば、それを否定はしません。でも実際には、現在のコロナ対策の多くは、コロナの蔓延を防ぐことばかりを考えて、子どもの心とからだの健康や、心とからだの育ちや、思考力や社会性の育ちを全く無視しています。そして、それでもコロナを防ぐことが出来ていません。結果、子どもの成長に対する害だけが発生しています。最近、ようやくそういうことを指摘する科学者や、そのことを実証するようなデータも出て来ています。特に、幼い子どもにおける言葉の遅れは大変な状況のようです。幼い子どもは相手の表情とセットにして言葉を覚えているので、マスクをしていて顔が見えなければ、言葉の理解も遅れてしまうのです。例えば、「悲しい」という言葉は、「悲しそうな顔」とセットにして聞くことで、その意味を理解出来るようになるのです。まだ言葉の意味がよく理解出来ない幼い子どもが大人の言葉を理解するときには、大人の表情を手がかりにしているのです。ですから、マスクをしていてその表情が見えなければ、必然的に言葉の発達は遅れてしまうのです。そしてその「言葉の後れ」はそのまま心の育ちの遅れ、思考力の遅れ、対人関係能力の遅れに直結しています。でも、自由を奪われた状態の中で暮らしている子ども達を見ても、その事に気付くことが出来ません。歩く必要がない生活をしている人を見ていても、その人が歩けるのか、歩けないのか分かりませんよね。それと同じです。それだけではありません。マスクは呼吸を阻害します。それはつまり、脳に行く酸素が減るということです。また、マスクは鼻と口のすぐ側でバイ菌を培養します。そもそも、コロナ対策を考える専門家の中に「子どもの育ちを考える専門家」がいないのですから、子どもの育ちのことを無視して、コロナのことしか考えない偏った意見や方法しか出てこないのも当たり前のことです。だから、医者や、政治家や、マスコミの言葉に支配されるのではなく、自分が置かれた状況に合わせて、自分の頭で判断する必要があるのです。それに、私たちは隔離された閉鎖空間の中に生きているのではなく、開放系の中で、つながり合い、支え合って生きているのですから、つながりによって伝播する病気を100%防ぐことなんか出来るわけがないのです。そして、子どもは大人よりもつながりを必要としています。コロナと人間は共存していくしかないのです。というか、それ以外の方法がないのです。だから、一人一人の免疫力をアップさせる必要があるのです。でもみんな、コロナ対策と称して、免疫力を下げるようなことばかりをやっています。だから、それまで大きな症状が出なかったようなありふれた病気で、深刻な状態になってしまう人が増えて来たのです。病気はコロナだけではないのです。また、コロナで重大な状態にならなくても、熱中症で重大な状況になったら意味がないのです。そして今のこのような気温では、コロナで重大な状態になるよりも、熱中症で重大な状態になる可能性の方が高いのです。
2022.08.08
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現代社会では、多くの人が「心の苦しみ」を抱えています。それは、便利な機械や社会的インフラの普及と共に、私たちが「からだを動かす生活」をしなくなった事とも関係しているのですが、社会から多様性が失われ、知識や、常識や、考え方が固定化され、多様性が肯定されなくなってしまったこととも関係しています。現代社会では、みんなが流行に合わせて似たようなものを買い、似たような趣味を持ち、「観光地」と呼ばれる似たような所に旅行に行き、テレビで紹介されているような似たような遊びをしています。職業も、本当は無数にあるのにみんな似たような所に就職したがっています。そしてみんな似たような生活にあこがれています。子どもに対しても似たような価値観や活動を求め、似たような子ども像を「理想的な子ども」として考え、似たような勉強をさせ、似たような基準で子どもの上下、優劣を判別しています。「しつけ」も、子どもの個性や成長の程度など無視して、みんなに同じ「しつけ」を押しつけています。それを煽っているのがテレビなどのマスコミですが、現代人はそれを当然の常識として受け入れ、その社会の流れから外れないように必死に頑張っています。子どもの成績が悪かったり、子どもが「幼稚園(学校)に行きたくない」と言った時に感じる不安感もそこから生まれています。また、このように多様性が失われることで競争も始まります。広い野原では競争は始まらないのですが、そこに道が出来、選択肢が減れば競争が始まるのです。そしてそれは、人々の心からゆとりを奪います。でも同時にその競争が経済活動を活性化させているので、その流れに疑問を感じる人は多くありません。でも、このようにして、社会の文明化が進めば進むほど多様性が失われ、競争が激しくなり、そして最後には自滅します。これは人類の歴史が示す通りです。でも、一度この流れに飲み込まれてしまうと、「乗り遅れないように」とか「落ちこぼれないように」といった不安に支配されるようになり、思考が停止し、何の疑問も感じずに競争に参加するようになってしまうのです。その結果、「多様性」によって支えられている心やからだが苦しみ始めるのです。人が森や自然の中に行くことで心やからだが緩み、癒やされるのはそこに多様性があるからなんです。生命の世界も、自然界も多様性によって支えられているのです。 でも、最近では「社会の部品」として完成されてしまい、自然の持っている多様性を受け入れることが出来ない感性の人達も増えてきています。そのような人達は、ちゃんと管理され、ちゃんと整理整頓された人工的な環境の中でないと安心出来ないのです。出産も子育ても管理されていないと不安になります。病気に対しても薬などで管理していないと不安になります。子どもの遊びも管理していないと不安になります。生活の場も、自由に管理出来る場でないと不安を感じます。子育てを「楽しいもの」として感じない人が増えてきたのも、そういう人が増えてきたからだと思います。本質的に子どもは「管理不能な生き物」だからです。「心」を病む人が増えてきたのも同じ理由からだと思います。「心」は管理出来ないものなのに、その「心」を管理しようとするから「心」が病んでしまうのです。自己肯定感が低い人も自分の「心」を管理しようとしている人です。管理しようとしても管理出来ないから自信を失ってしまっているのです。でも、「心」は「管理するもの」ではなく、「自分」と「世界」をつなぎ、「自分の生き方や人生を支えてくれる大切なパートナー」なんです。だからその声に耳を澄ますべきなのに、「心の声」に耳を傾けないばかりか、逆に「頭で考えた正解」を「心」に押しつけてしまっているのです。確かに文明は「安心」を与えてくれました。文明のおかげで、私たちは食事や、住居や、オオカミやクマに襲われる心配をしなくても良くなったのです。でもそれと引き替えに心や感覚や思考の「自由」を失いました。そしてそのことで新しい不安が生まれました。それは、自分の感覚で感じ、自分の頭で考え、自分の意思で行動していない事から生まれる不安です。それは、目を閉じて歩いているかのような不安です。生命の働きが発する本能的な不安です。そして、この不安に対して文明は無力です。薬も効きません。どんな贅沢な暮らしをしても、どんな権力を得ても消えません。大人だけではありません。子どももまた管理された環境の中では本能的な不安を感じるのです。それは自分の生命の働きを否定される事から生まれる不安です。その結果、他者や自分自身に暴力的になったり、生きる意欲を失ったりします。だからといって私は文明を否定しているわけでも、「文明を放棄しなさい」ということを言いたいわけではありません。そうではなく、「ちゃんと目を開け、今自分たちが置かれている状況に気付き、流れに流されないようにして下さい」ということを言いたいのです。本来、人は皆自由なんです。何をするか、何を考えるか、どういう風に生きるか、どういう風に子育てをするのかを自分で決められるのです。でも、多くの人が「自分は自由なんだ」ということに気付かずに、自分で自分を束縛しながら生きています。
2022.08.07
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意外に感じる人もいるかも知れませんが、子どもたちはみんな学ぶことが大好きです。そして学びたがっています。だから、幼い子どもたちは能動的に活動し、色々と探索行動をしたり、実験をしたり、試したり、無茶をしたり、大人にはくだらないようなことに夢中になるのです。ただし、「子どもが学びたいこと」は「子ども自身の成長」につながるようなことだけです。自分の成長につながらないことには関心がありません。自分の成長を阻害するようなことや、場や、人からは逃げようとします。だから、お母さんがやらせようとしても子どもがやらなかったり、逃げたりするのなら、それは「子どもの問題」ではなく、「子どもの育ちに必要なもの」を理解していない大人の問題です。子どもが幼稚園や学校に行かなくなるのは、「子どもの問題」ではなく「幼稚園や学校の問題」です。子どもが追い立てなければ勉強しないのは、「大人が教えたいこと」が「子どもが学びたいこと」と違っているからです。確かに、「子どもが学びたいこと」は一人一人違います。でも、具体的には一人一人違っていても、抽象的にはみんな「つながる幸せ」や「成長する幸せ」につながるようなことを学びたがっています。その点では同じなんです。赤ちゃんは、大人が丁寧に言葉を教えなくても、ただ、普通に話しかけているだけで勝手に言葉を覚えます。赤ちゃんは必死になってお母さんとつながろうとします。お母さんとのつながりが、自分自身の成長や、安心や安全にもつながっているからです。だからお母さんがやっていることをよく見て、よく聞いて、真似をしようとするのです。真似をすることで受け入れてもらい、つながろうとするのです。遊びも同じです。仲間と遊びたい子(つながりたい子)は、特に教えなくても見ているだけで遊びを覚えてしまうのです。自然に興味を感じた子は、木の実や枝や虫に興味を持って、拾ったり、捕まえたりしようとします。だから、ポケットの中がダンゴムシだらけになることもあります。腕にいっぱいナメクジを乗せて、笑顔で見せに来た子もいます。図鑑を見て調べる子もいます。虫に関しては大人顔向けの知識を持っている虫博士も時々います。そうやって、自分が大好きな自然とつながろうとしているのです。以前、まだ幼稚園なのに、あまりに電車が好きなのでかなりの量の駅名を漢字で書けるようになってしまった子もいました。ただし、書けるのは駅名だけですけど。筋肉や骨格が成長しつつある時期の子は、からだがウズウズしてジーッとしていることが出来ません。そして、動きたがります。子どもの成長を支えている命の働きが、筋肉や骨格を使うような活動を求めているからです。そして、その活動が満たされることで、子どもは喜びと幸せを感じます。ですから、子どもの遊びは子どもの成長に合わせて変わります。ある時期は走り回ってばかりいたのに、途端に、動かなくなって図鑑ばかり見るようになることもあります。ですから、子どもの行動や遊びを見ていると、その子の発達の段階と状態がよく分かります。記憶力が成長しつつあるときには、言葉遊びを始めます。考える力が成長しつつあるときには、ナゾナゾのような考える遊びを楽しみます。でもい、いつでも好きなのは「発見する遊び」です。だから、実験が大好きです。でも、勝手に個人的な実験をやってしまい、お母さんや先生から叱られます。大人はそれを「イタズラ」と呼んでいます。「Hungry is best source」の諺通り、お腹がすいている時にはからだが食べ物を欲しているので、何でも美味しく感じるのです。ちなみに、意図的に人が困るようなことばかりする子は、他の子や人とつながりたいのに、「つながり方」が分からない子です。だから、叱るだけでは子どもの行動は変わりません。余計にエスカレートしてしまうこともあります。でも、大人がその原理を理解しないで、大人の都合、大人の価値観だけで、子どもに勉強や、行動を押しつけ、子どもの自主的な行動を否定していると、子どもは「つながる幸せ」「成長する幸せ」を求めなくなります。その幸せを得るための行動もしなくなります。能動的に感じたり、考えたり、行動することもなくなります。そして、仮想空間の中にその代償を求めようとします。
2022.08.06
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私は、人間にとって一番本質的な「幸せ」とは、「つながる幸せ」と「成長する幸せ」の二つなのではないかと思っています。子どもにとって「遊び」はこの二つの「幸せ」を満たしてくれます。お母さんと遊べば、お母さんとつながることが出来ます。仲間と遊べば、仲間とつながることが出来ます。そして、遊びを通して成長する事が出来ます。子どもにとっての遊びは、単なる「消費行動」ではなく、自分自身の成長とつながる「創造行動」だからです。コマ回しでも、竹馬でも、縄跳びでも、基地作りでも、成長する事によって更に楽しく遊べるようになるのです。子どもは遊びを通して、仲間とのつながりや、自分自身の成長を楽しんでいるのです。そしてそのことに幸せを感じているのです。だから、いっぱい遊んでいる子は満たされた顔をしているのです。でも、近年、ゲームのように他者とつながらなくても、遊びを通して成長しなくても、お金さえあれば楽しく遊べる遊びが増えて来ました。その遊びでは、頑張って努力して成長しなくても、お金さえ払えば高い能力を得ることが出来ます。ゲームの世界では「自分の成長」をお金で買うことが出来るのです。でも、その成長はゲームの中でしか有効ではありません。「オンラインでもつながりは作れる」という意見もあるかも知れませんが、顔を見せないオンライン上でのつながりは、「見かけのつながり」であって「本当のつながり」ではありません。それは、仮面舞踏会のようなものです。仮面舞踏会では、一緒に踊ったり、話したりしても本当のことは話さないものです。仮面舞踏会は、現実世界から切り離された状況の中で、ただその時だけを楽しむための場だからです。ゲームの世界も同じです。ゲームの世界の中にいると現実世界を忘れさせてくれるから楽しいのです。でもだから、そればかりに浸っていると現実世界を生きる能力を育てることが出来なくなったり、現実世界を生きる楽しさが分からなくなってしまうのです。「他者とつながる能力」も「成長する能力」も育たなくなります。「つながる幸せ」は「横の世界」とつなげてくれます。人だけでなく、様々な文化や、自然や、生き物や、草花ともつなげてくれます。それは、「つながりの中の自分」への気付きにつながります。「成長する幸せ」は「縦の世界」とつなげてくれます。そして、自分の可能性や、自分の価値や、自分が生まれてきた意味とも出会わせてくれます。「個としての自分」への気付きにつながります。この二つの「幸せ」を求める衝動によって、人間は人間らしさに目覚め、様々な文化や文明を築き上げてきたのです。ですから、このいずれの「幸せ」が失われても、人は不安を感じるようになります。「成長する幸せ」を失うと、生きる意味や目的を失います。すると、その代償として、「お金を得ること」や「競争に勝つこと」に、自分の価値や幸せを求めるようになります。でも、お金を得たり、競争に勝つことによって得ることが出来る幸せは一時的なものです。また、その幸せはすぐに「得たものを失うかも知れない不安」に移行します。さらに、仲間ではなく敵を作ったり、妬みや恨みを買うことにもなります。一方、「成長する喜び」を知っている人は、一生成長を求めます。そして、「敵」ではなく「仲間」が増えていきます。子どもは自分の成長を感じた時、幸せと喜びを感じます。だから、お母さんに「ママ見て!」と見せに来るのです。学校の勉強がつまらないのは、学校の勉強が子どもの成長につながっていないからです。「つながる喜び」を知っている人は、活動的に自分の世界を広げようとします。相手に勝とするのではなく、相手を支えようとします。だから「仲間」が増えます。仲間が増えれば安心も、自己肯定感も増えます。人間だけでなく、群れて生活する動物たちも「つながる喜び」は知っています。仲間と一緒に居ると安心します。でも、「成長する喜び」を知っているのは人間だけです。人間だけが、「見えない世界とのつながり」を感じることが出来るからこそ、成長する事を喜ぶことが出来るのです。「成長する」ということは「出来なかったこと」が出来るようになることだけではありません。「分からなかったこと」が分かるようになる、「見えなかったもの」が見えるようになる、「聞こえなかったもの」が聞こえるようになる、「感じることが出来なかったもの」を感じることが出来るようになることが「成長」の本質なんです。「出来なかったこと」が出来るようになるののはその結果に過ぎません。
2022.08.05
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最近、21才のお母さんが、二人の子どもを車の中に残したまま男友達と会っていて、車に戻ってきたら子どもがぐったりしていて、そのまま二人とも亡くなってしまった事件がありました。事件があった厚木は、茅ヶ崎からは比較的近いです。「二児のお母さん」とはいっても、顔写真を見るとまだ子どもです。ニュースでの写真を見る限り、21才でも雰囲気は子どものままです。幼い頃からズーッと寂しかったんでしょう。その寂しさが心の育ちを阻害していたのでしょう。ここで書いていることは全て推測ですが、私にはそうとしか思えないのです。もちろん、このお母さんのやったことは許されることではありませんが、人の感覚や、思考や、行動は、世間の常識には従ってくれないものです。頭で考えた善悪にも従ってくれません。頭では「悪いことだ」と分かっていても、「やらない方がいい」と分かっていても、人は心の奥底からの声や衝動には逆らえないのです。罰則をどんなに厳しくしても無力です。むしろ最近では、死刑になりたくて人を殺す人や、警察に捕まりたくて事件を起こす人がいるくらいなんですから。それは、彼女のことを非難する人達でも同じです。そもそも、平気で人を非難、否定、中傷するような人も、事件を起こした人と基本的には同じ状態なんです。人を非難し傷つけることで、寂しさや、ストレスや、苦しみを発散しようとしているのですから。彼女は寂しかったんだろうと思います。幼いときからズーッと一人だったんだろうなと思います。側にお母さんやお父さんはいたのかも知れませんが、心のつながりを育てることが出来なかったのでしょう。どういう子育てを受けたのか、どういう子ども時代を過ごしたのかは不明ですが、色々な状況を見ていると、寂しい子ども時代を過ごしたことだけは間違いがないような気がします。だから、誰かとつながっていたかったのでしょう。人は孤独には耐えられない生き物だからです。21才という年齢で二人も子どもがいるというのも、寂しかったからなのでしょう。そして、「心のつながり」の代わりに、「肉体でのつながり」を求めたのでしょう。でも、無責任な男性のせいで子どもが出来てしまった。でも、子育てと向け合えるほど心が成熟していない。そもそも、自分の中に寂しさを抱えた人は、自分のことばかり考えるようになってしまうため、子どもともパートナーとも向き合えないのです。そして常に、寂しさから逃れるような行動をしてしまうのです。自分の周囲を物や刺激で満たそうとしたり、SNSで〝いいね〟をもらうために色々な事をやるのも同じです。どうか子どもに寂しい想いをさせないで下さい。お母さんも、一人で寂しい想いをしないで下さい。子どもは、お母さんの一番身近にいる仲間です。だから一緒に笑って、一緒に泣いて、一緒に食べて、一緒に遊んで、毎日を楽しく過ごして下さい。仕付けのことなんか考えなくて大丈夫です。どんなに厳しく仕付けても、子どもが寂しさや孤独を感じるようになってしまったら、思春期が近づくにつれ、それまでのお母さんの努力は水の泡と消えてしまうのですから。逆に、しつけなんか後回しにしても、毎日を子どもと一緒に楽しく生活しているなら、思春期が近づくにつれ、子どもはちゃんとした行動を取ることが出来るようになるのです。
2022.08.04
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私は理想的な父親でもなく、家内も理想的な母親でもありません。じゃあ、我が家ではどのような子育てをしたのかということを今日は書いてみます。私が心がけたのは出来るだけ多くの大人や仲間と出会わせることでした。親が出来ないことは、他の大人や仲間との関わりを通して学ばせるしかないと考えたからです。赤ちゃんの時には色々な人に抱いてもらいました。外国の人にも抱いてもらいました。そして、写真を撮って、子どもが大きくなったら「君はこれだけ多くの人に抱かれて大きくなったんだよ」と伝えようと思っていました。長女が5才、長男が3才の時には、物作りを通しての「仲間作り」をさせたかったので、自宅で子どものための造形教室を始めました。また、当時、鳥山敏子さんが「賢治の楽校を作ろう」と呼びかけていたので、それに参加して「茅ヶ崎 賢治の楽校」という活動も始めました。賢治の楽校では年一回、60~70人程度の人数で合宿して劇遊びをしたり、様々なワークショップをしたりしました。(10年間、素敵な森の中の別天地を借り切って活動していたのですが、その場所が使えなくなり、現在は賢治の楽校の合宿はやっていません。その場所があまりに素敵だったので代替え地が見つからないのです。)それと付随して、相模川の河原で「焚き火の会」という会を企画して、大勢の親子と共に外遊びをしました。「焚き火の会」は現在は「冒険クラブ」と名前を変え隔月でやっています。それと同時に、やはり隔月で「詩とお話で遊ぶ会」というものもやっています。(私は子どもの育ちには自然の中でからだを使って遊ぶ遊びと、室内でお話しやファンタジーやイメージの世界で遊ぶことの両方が必要だと考えています。)そのような場にも子どもたちを連れて行きました。そして、みんなに可愛がられました。3番目が生まれて幼稚園に入った時は、「わらべうた」と出会いました。そして、その素敵な遊びに魅了され、偶然茅ヶ崎でわらべうたを教えられていた荒川薫先生にお願いして、仲間と一緒にわらべうたの勉強会を2年間やりました。それが今、CDという形になっています。(800円で販売しています。中の歌声はうちの子どもたちと仲間達です。)また、松井洋子さんの影響でからだ遊びの場として「ポランの広場」という、親子で一緒に遊ぶ幼児教室も始めました。そういう時には、幼稚園も休ませました。その私の活動はそのほとんどが「子連れ」でした。私は仕事も親子相手が多いので、仕事の時にも子どもを連れて行きました。また、我が子が一緒だと、参加者に遊びのお手本を見せやすいので便利でもあったのです。それで「助手を連れてきました」と紹介しました。時にはオンブしながらワークをしたこともあります。そのような活動を通して知り合った仲間達は大人同士も、子ども同士も価値観や感覚が近いので何にも緊張しないで遊ぶことができました。また、日常的に家族同士で付き合うことが出来る仲間もいっぱい出来ました。子どもたちはしょっちゅうそのような友人の家に行って、友人の子どもたちと遊んでいました。友人の子どもたちが来ることもありました。憂鬱質の4番目などは学校の友達とは遊ばないで、そのような仲間とばかり遊んでいました。うちはゲーム機もないし、カード遊びもしないので、学校の子とでは遊びを共有できなかったのでしょう。でも、友人の子どもたちとは造形遊びをしたり、劇遊びをしたり、お化け屋敷ごっこをしたり、ドロンコ遊び、水遊びをしたりして遊んでいました。みんなでどこかに出かけて遊んでくることもありました。劇遊びや、お化け屋敷などでも、うまくできると大人を呼びに来て発表してくれたり、お客にさせられました。子どもたちは毎日新しい遊びを発見して、暗くなるまで遊んでいました。そして時には友人の家で夕食をごちそうになり、お風呂まで頂いて帰ってくることもありました。ちなみに塾に行っている子はいません。そういう遊びは、ゲームやカードで遊ぶより絶対に楽しいのです。4番目が学校の友達とも遊ぶようになったのは5年生くらいからです。子どもたちはそのような遊びを通して「役割」を体験してきました。劇遊びなどは特にその「役割」が分からないと遊ぶことが出来ません。また、色々な大人と出会いました。親は「素敵な父親」でも「素敵な母親」でもありませんでしたが、子どもたちは多くの大人や仲間との関わりを通して、「人間として必要なこと」はしっかりと身につけてきたのではないかと思っています。遊びの場でも、「賢治の楽校」のような合宿でも、そこには必ずつながりと、支え合いが発生します。そして誰かがその役割を引き受けてくれます。そうしないと会がまとまらないし、楽しくもならないからです。 皆さんも、自分が立派なお母さんや立派なお父さんである必要はないのです。素敵なお父さんや、素敵なお母さんと出会わせてあげればいいのです。我が子には厳しいお母さんでも、一般的に他の子には優しいものです。それでもいいのです。子どもは優しさの体験を通して「人を信じる心」を育てることが出来るのですから。
2022.08.03
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子どもは一人一人違います。意識と、感覚と、心と、からだの状態も一人一人違います。能力も、適した活動や仕事も一人一人違います。そして、そのように一人一人違う子どもを育てている親もまた、一人一人違います。だからこそ、子育てには正解がないのです。そんなことちょっと考えれば当たり前のことなんですが、世の中にはそんな「当たり前」を無視して正解を押しつけてくる人達がいっぱいいるのです。テレビもまた正解を押しつけてきます。そしてその正解に縛られる人もいっぱいいます。子ども時代に、「自分の頭で考える能力」を育てることが出来なかったような人は、すぐに答えを求めるからです。そして、そのような人の期待に応えるかのように、「子育ての正解」、「仕付けの正解」、「教育の正解」を書いた本や、情報がいっぱいあります。また、国や医者や教師も正解を押しつけてきます。競争に勝ち抜いてきてその立場を勝ち取ったような人は正解が大好きだからです。本来、正解がなければ競争もないのです。学校でも子どもたちに「正解信仰」を押しつけています。そして、そのカルトに洗脳されてしまう子もいっぱいいます。人と違うことをする子(人)や、ホームレスの人をバカにするような子(人)は「正解信仰」に洗脳されてしまっている子(人)です。でも、そのことに違和感を感じた子は学校に行けなくなります。それは競争からの脱落を意味するので、正解信仰にはまってしまっている親も先生も一生懸命に子どもを競争社会に戻そうとします。病気の治療法だって本来一人一人違うはずなんです。一見、同じ状症状もその原因は人それぞれだからです。薬に対する反応も一人一人違います。だから安易に「頭が痛い=>頭痛薬を飲む」という単純な図式で考えてはいけないのです。どのような治療方法を選ぶのかは、その人の生き方の問題でもあるので、無理矢理医者や政治家が正解を押しつけるべきではないのです。じゃあどうしたらいいのかと言うことですが、そんな正解信仰から抜け出すためには、もっと「自分」について知る必要があります。「我が子」について知る必要があります。そのために必要なのは「観察」と「対話」です。「自分らしさ」や「我が子らしさ」を知るためには、「自分観察」や「子ども観察」、そして「自分との対話」や「子どもとの対話」から始める必要があるのです。人は皆「自分らしく」生きればいいのです。子育ても「自分らしさ」と「我が子らしさ」大切にやればいいのです。でもみんな、その「自分らしさ」を知らないのです。そして、「我が子らしさ」を「我が子の欠点」として見ようとしてしまっています。短所だと思っているところが、もしかしたら長所かも知れないのに、頭の中の正解に合わせてそれを一生懸命に直させようとしてしまうのです。そして子どもは「自分に対する自信」と「自分の人生の可能性」を失っていきます。
2022.08.02
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「子育てを楽しんで下さい」と言っても、自分一人だけで子育てをしている人は、そんな「楽しむ」などという余裕は無いでしょう。また、一人だけで子育てをしていると、つい子どもの行動や成長に自分の努力の成果を求めてしまいます。「私がこんなに頑張っているんだから、あなたもちゃんと行動して欲しい、もっと勉強して欲しい、もっと良い子になって欲しい」と要求してしまうのです。でもほとんどの場合、子どもはそんな親の期待は無視します。むしろ、親の期待を裏切るようなことばかりをして、親の期待とは反する方向に育っていきます。なぜなら、そのような子育てでは、子どもが求めているもの、子どもの成長に必要なことが満たされないからです。また、期待を押しつけられるばかりでお母さんとつながることが出来ない子は孤独になります。そして、その孤独もまた子どもの成長を阻害します。幼い子どもは無条件にお母さんが大好きです。だから、お母さんの言うことは絶対だし、常に自分のことを考えてくれていると思い込んでいます。ですから、「厳しく叱られるのも、叩かれるのも、自分が悪い子だからなんだ、お母さんは私のためを思って叱ってくれているんだ」と考えることで、お母さんのやっていることを正当化しようとするのです。ですから、子どもの能力の範囲内で、子どもは一生懸命にお母さんの期待に応えようとします。でも、お母さんの期待は子どもの思考能力ではうかがい知れません。子どもは、(たとえばですけど)「綺麗に出来た泥団子を見せればお母さんも喜んでくれる」と考えます。それが子どもの発想です。それで、綺麗に出来た泥団子をニコニコしながらお母さんに見せ行きます。でも、お母さんは喜ぶどころか逆に怒り始めます。そして子どもは戸惑います。そんな子どもでも、自我が目覚め始める9歳前後から「お母さん」が「無条件に大好きな存在」ではなくなって来ます。そして、お母さんを客観的な目で見るようになってきます。お母さんが「私のため」を思ってではなく、お母さん自身を守るために怒り、怒鳴り、自分を叩いていることにも気付き始めます。そして、親の期待を押しつけられる苦しさから逃れようとし始めます。親に反抗するようにもなります。それまでも親の言うことを聞かなかったかの知れませんが、それは反抗していたからではなく、親の言っていることが理解出来なかったり、親の期待が自分の能力を超えていたからに過ぎません。ただ、まだ9才前後は体力的にも未熟だし、知識も常識もないし、思考力も未熟なので、親が力尽くで子どもの反抗を押さえ込もことも出来ます。でも、それをしてしまうと、14才頃になってもっと大きな反抗が来ます。この頃になると親ではもう太刀打ちできません。ちなみに、この頃の子どもに必要なのは話し合うことです。9才前後は、「考える力」や「自分を表現する力」が大きく伸び始める時期だからです。そして、話し合うことで子どもの気持ちも収まってきます。でも、それすらも力尽くで押さえ込もうとすると、後から、更に大きな問題となって表れてきます。このような状態になってしまうことを避けるためには、お母さんの仲間作りが必要になるのです。楽しい子育てをするためにも、子育てを楽しむためにも、仲間が必要なんです。お母さんの仲間作りが結果として、子どもの仲間作りにもなるのです。そして子どもは仲間や大人達との関わり合いを通して勝手に育って行くのです。
2022.08.01
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