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5月だというのに、もう台風の心配をしないといけない。しかもその影響で梅雨入りだそうな。最近散歩していると街角で紫陽花を見かけるようになりました。昨日は一日中雨で外に出る気にならなかったが、今朝は雨も上がり曇天の空模様。千種区の茶屋ヶ坂公園まで紫陽花を見に出かけてきました。地下鉄名城線茶屋ヶ坂駅、自由ヶ丘駅の中間に位置し、毎年梅雨になると訪れる。目指す紫陽花園は公園内の茶屋ヶ坂池の東にあります。茶屋ヶ坂公園マップ。池沿いに歩道が整備され、視界が広がれば紫陽花園。雨上がりの雫を湛えた紫陽花が随分と咲き始めていました。相変わらずの植物図鑑、どれだけ撮っても紫陽花でしかないけれど、微妙な色の移り変わりが綺麗な花。正式名は知らないが紫陽花。一色に染まらないこのグラデーションが綺麗な花。同じような色合いに見えながらも其々違う。白一色。園内には紫陽花以外にも鮮やかな黄色のキンシバイも見られます。これがよく分からない「みなづき」?園内の紫陽花、まだ一週間は早い感じです。公園東側の歩道沿いもまだまだこれからです。因みに昨年の梅雨入りは6/14だったそうです、それが今年は5/29に梅雨入り。最近の天気は手加減をしらない、大雨の年にならなければいいのだが。差し当たっては北上中の台風は、このまま大陸に向かって、大谷さんのスイーパーのように離れて行って欲しい。茶屋ヶ坂公園 あじさい園所在地 / 名古屋市千種区鍋屋上野町訪問日 / 2023/5/30
2023.05.31
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前回記載した世界一の大きさの狛犬。駐車場からそちらに向かう途中、右側に鎮座するのが陶町大川の「八王子神社」社頭は国道419号線に面し、一対の常夜灯と石の明神鳥居を構え、鳥居右側に「指定村社 八王子神社」と刻まれた社号標があります。兎岩がある名も知らぬ山の西の麓にあたり、社殿は杉や広葉樹の杜に包まれ、国道からだと鳥居と境内に続く石段が目印になる。国道脇の常夜灯、竿には秋葉山、大神宮、反対側に牛頭天王、金毘羅山と刻まれています。社頭全景。燈籠が連なる石段は少し高みの境内に続きます。石段の前を一対の陶製の狛犬が守護する。色こそ違う物の先に見た大きな狛犬と姿が良く似ています。(寄進年未確認)にこやかな表情の狛犬は、互いを見つめ合っている様にも見える。阿形の近くに建てられた石標には「瑞浪市有形文化財 大川の美濃焼狛犬郡」とある。脇参道にずらりと並んでいた狛犬を含め、この神社の境内には多くの狛犬が見られそうです。鳥居の額は「八王子」明治12年(1879)に発足した岐阜県土岐郡の郡長を務めた水谷弓夫による揮毫とある。一説によれば瑞浪と名付けたのもこの方だという。石段の先に建つのは神楽殿。そこには「八王子」と書かれた木目の美しい額が掲げられています。境内は二段に築かれ、この境内には神楽殿、手水舎が建てられています。神楽殿は入母屋茅葺屋根に銅板が葺かれた四方吹き抜けのもので、棟飾りにも「八王子」とある。訪れた時は写真のモミジが瑞々しい緑色で輝いていた。靑紅葉と何気に使うのだが、この鮮やかな緑の色合いを「靑と形容してはいかんやろ」せめて萌黄紅葉(そんな言葉はない)だろうと感じた事はないだろうか。昔の色彩語彙が白・黒・赤・青と括っていた事もあり、緑が靑のグーループに含まれたことがあるにしても、大好きな青りんごや靑信号、靑紅葉しかり、どこかに「緑だろう」と思う自分がいる。という事で、境内は萌黄色に染まり美しい時期を迎えていました。社殿全景。左が社務所、拝殿、本殿両脇に境内社があり、陶製ではないが石造の狛犬の姿がある。由緒については以下の二点までしか掴めませんでした。1.岐阜県神社庁「元禄14年(1701)再建の棟札があり、昭和6年(1931)3月1日陶町大川字十三塚に鎮座した無格社天神社を合併」とありました。2.瑞浪市の資料「八王子神社の創建は寛永2年(1625)」とあり、本記事ではこれを創建とさせて頂きます。祭神は天之忍穗耳命、天之菩卑能命、天津日子根命、活津彦根命、熊野久須毘命、多紀理毘売命、市寸島比売命、多岐都比売命の五男三女をお祀りします。境内社については社頭の燈籠に刻まれていたように、秋葉山、大神宮、牛頭天王、金毘羅山が祀られているはず。手水舎。社殿域左の石垣から滾々と清水が湧き、鉢に注がれます。拝殿正面全景。拝殿前の狛犬、社頭の狛犬とは違い、互いの視線は外し怪しい訪問者を見つめている。台座から寄進年は読み取り出来なかった。ここにも八王寺の文字が入っている。拝所の鈴紐は上に纏められていた。下は瑞浪市有形文化財美濃焼狛犬郡の解説。「狛犬は、中世では、多くが小型の石製や木彫のものが本殿左右の縁に据えられるのが普通であった。しかし彫刻が難しいところから、陶器に関係の深いこの地方では、江戸の中期以降に神社の氏子や信者たちが、 個人または共同で庇護や利益の祈願報謝の意味を込めて、陶製狛犬を奉納するようになったと言われている。しかしこれらのうち半数が無銘で、年代も作者も一部しか判明していないのは残念であるが、この大川八王子神社の五対余りのうちに「羽柴与左衛門景度作」在銘のものがあることは大変貴重なことである。この景度の先祖は室町後半期の文明6年(1474)、武蔵国久良岐郡(神奈川県横浜市付近)より移住してきた加藤左衛門尉景信で大川窯を開き、景光、景忠と続き、景度の時代で全盛を極め、その製品は「与左焼」と呼ばれ広く世間から、賞用された。その銘ある狛犬は、小型ではあるが与左衛門の元亀、天正頃の作と考えられ、その力作の素晴らしさを表している」加藤左衛門尉景信は、代々相馬焼を業としていたともされ、修行として全国を巡り歩き、窯業を営むうえで余程この地は適していたようで、四代目景度は天正2年(1574)には織田信長より朱印状も下され、後に羽柴性を名乗る事を許されたようです。拝殿内から本殿方向。八王寺神社には五対と二体の鉄釉狛犬が安置されているとあり、その内4対に羽柴与左衛門の銘があるという。この拝殿又は本殿に、そのひとつでも安置されているものと期待していたが、その銘は見つけきれなかった。社殿斜景。向拝、拝殿、幣殿、本殿と連なり、両脇の境内社が横に連なり本殿の姿は捉えにくい。右の境内社。覆屋の中に祀られているのが天神社。神社庁の記載にあった昭和6年に陶町大川字十三塚鎮座の天神社。檜皮葺の一間社流造で祭神は菅原道真。天神社の右に金毘羅大権現。詳細は不明。祭神は大物主大神。左手の境内社は津島神社。こちらも詳細は不明。祭神は八王子の父、建速須佐之男命。ここから本殿の姿を垣間見ることが出来ました。綺麗な曲線の海老虹梁と脇障子を持つ一間社流造、ここにも狛犬の姿はなかった。津島神社の左手に鎮座するのが稲荷社。小さな狛狐が沢山守護し、社を支える岩の前にも狐の姿と七福神の姿がある。祭神は宇迦之御魂神。本殿域から神楽殿と靑紅葉。手水舎の前から世界一の狛犬に続く脇参道が続く。その脇には幾つかの覆屋があり、そこには表情や色味の違う陶製狛犬が無数に安置されています。陶製狛犬のサンクチュアリ、そこは大川の八王寺神社です。八王子神社 創建 / 寛永2年(1625)祭神 / 天之忍穗耳命、天之菩卑能命、天津日子根命、活津彦根命、熊野久須毘命、多紀理毘売命、市寸島比売命、多岐都比売命境内社 / 津島神社、稲荷社、天神社、金毘羅大権現祭礼日 / 10月第1日曜所在地 / 岐阜県瑞浪市陶町大川716参拝日 / 2023/04/11関連記事 / ・世界一の美濃焼狛犬、豊穣の壺・南宮神社(土岐市鶴里町柿野)
2023.05.30
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亀居山放光院大願寺を後にして、厳島神社宝物館の右手から多宝塔(修復工事中だった)の建つ高台に向かいあせび歩道から大聖院(だいしょういん)御成門に向かいます。上のマップでは入口が分かり難いかもしれませんが、宝物館の右手から多宝塔に続く石段が描かれています、黄色実線を通って向かいました。この道はあせび歩道に続き、厳島神社多宝塔を経て、大聖院仁王門の上にある御成門に続いており、普通に仁王門から向かうより人通りは少なく、しっとりとした雰囲気があります。大聖院本坊は厳島神社から白糸川上流に向け5分程の距離にありますが、弥山本堂、大日堂、霊火堂、三鬼堂など、関連する堂宇は宮島最高峰弥山(標高535㍍)の頂にまで及ぶ大きな伽藍を持っています。それらの堂宇を巡るには、白糸川の対岸から続く登山道を1時間30分程かけて登るか、ロープウェイで頂を目指す事になります。上は現在の大聖院本坊の境内マップ。大聖院は正式名称を多喜山(滝山)大聖院水精寺と号し、寺伝によれば空海が唐より帰朝後、宮島に渡り弥山で修行し大同元年(806)に開かれた寺で、一時期は多くの塔頭寺院を有し、明治政府による神仏分離令以前まで厳島神社の別当寺を務め、弥山を中心とした神仏習合の聖地宮島の中心的存在が大聖院と言って過言ではない。大聖院は皇室との関係も深く、鳥羽天皇勅命の祈願道場、また明治天皇行幸の際の宿泊先に、さらには秀吉が茶会を開いたこともあるお寺です。長い歴史を誇る大聖院は幾度も自然災害や火災に見舞われ、明治以降だけでも以下のように被災しています。明治20年(1887)火災で大部分の堂宇を焼失。明治21年(1888)火災で弥山の諸堂を焼失。平成3年(1991)台風19号で弥山、本坊共に被災。平成17年(2005)火災で霊火堂を焼失。霊火堂は弘法大師が護摩修行した当時から燃え続けている消えずの火と大茶釜の霊水を収めた堂で、不滅の霊火堂とも呼ばれていたもの。消えずの火は火災直後に蝋燭にともされ持ち出して難を逃れ、再建された霊火堂で今も護り継がれているという。現在見られる大聖院の伽藍の大部分は明治20年(1887)以降から昭和34年(1959)にかけて再建されたもの。下は江戸時代後期に安芸藩によって作られた芸州厳島図会に描かれている大聖院挿絵。右が仁王門、中央を御成門と見て行くと、現在の伽藍と違い随分とすっきりとしたものに見える。左に描かれているのが白糸川と思われ、下流で御手洗川に合流しますが、大聖院や下流の厳島神社は当時も今も土石流のリスクが付き纏う立地に鎮座しています。あせび歩道から訪れると挿絵にある御成門の石畳辺りに出ます。という事で、かみさんの御朱印待ちの間、一人で足早に仁王門まで戻り御成門まで写真に収めて来た。仁王門全景。昭和14年(1939)の再建で、左右の間に安置された仁王像と組物や彫物など見ごたえのある門。仁王像。仁王門入口付近の由緒と手水鉢。仁王門の梁には躍動感のある龍の彫飾りが施され、蟇股の彫物や斗組もなかなか見応えがあります。門をくぐるとそこから御成門まで石段が一直線に伸びている。この石段、訛った体の自分にはとても応える、足早に戻りたい気持ちとは裏腹に体がついてこない。御成門まで続く石段を分ける様に設置されているのは手摺ではなく摩尼車、その数は優に500巻はあっただろうか。仁王門をくぐった左に建つ下大師堂、芸州厳島図会が描かれた後に建てられたものだろう。この石段途中には左側に鐘楼堂もある。鐘楼堂。鐘楼堂右奥に小さな石の壺が置かれており、石段途中のこの場所から願をかけた願い玉を投げ、見事に壺に入れば願いは叶うらしい、かなりの難度で壺周辺には空しく的を逸れた願い玉が散乱しています。自分もかみさんもこうした類で的に入った例がなく、その確率たるやオラがドラゴンズの勝率を下回り、いつしか「願いは自分で叶えるもの」として近寄らなくなった。5百羅漢園。これも当時にはないもので、石段左から霊宝館まで苔むした石段が続き、その両脇に大小様々な石像が安置されています。石段を上り詰め境内から御成門を振り返る。大正3年(1914)に再建された入母屋銅葺屋根の門で前後に唐破風が配されている。ここから眺める瀬戸内は見晴らしが良くて気持ちがいい、海辺からここまで結構な高さを登った事になる。観音堂。御成門をくぐった右手に入母屋瓦葺の大きな建物が観音堂。この観音堂は天正18年(1590)に豊臣秀吉が大聖院を訪れ歌会を催した事で知られ、その様子は芸州厳島図会の挿絵にも描かれています。明治維新までは十二坊の末寺を有し、厳島神社の法会祭事を司る別当職を務めていた。伽藍の中では最も大きく、現在の建物は昭和7年(1932)に再建されたもので、こちらには厳島神社の本地仏だった行基の手による十一面観世音菩薩が安置されています。観音堂正面。ここにも力強い龍の姿があります。観音堂には「戒壇めぐり」もありますが、補助光もあり経験した中では一番人にやさしいものでした。併せて安芸四国霊場の2番札所、中国観音14番札所、山陽花の寺二十四ヶ寺の1番札所にもなっているようです。見事な曲線を描く虹梁、木鼻や肘木にも手の込んだ意匠が施され、垂木の連なりに幾何学的な美しさを感じる。上芸州厳島図会の和歌御会之図を再現した奉納額。下当日は堂内で宮島福よせ雛と銘打って現役を卒業したひな人形が展示され堂内に彩りを添えていた。上観音堂左に挿絵に描かれている小さな小池があり、そこには祈り鶴が建てられ、その後方には当時なかった二つの堂が建っています。右手が星供曼荼羅堂。左の社は参拝するも社名もアップも撮り忘れ今は分からない。小池を背にして祭られ佇む社は、雰囲気的には○○なんだろうがここは不明社としておこう。下施無畏堂。勅願堂右脇の釈迦涅槃堂の奥に建つ小さな堂で聖観音が祀られています、安産や子授けの御利益があるとされ、108観音霊場の18番札所。にこやかに微笑む金色の極楽観音が印象に残る。勅願堂(本堂)。大聖院の本堂で鳥羽天皇(1103~1156)勅願道場。秀吉の朝鮮出兵の際に、必勝・海上安全を祈願した本尊波切不動明王を安置する。右手の堂が釈迦涅槃堂で後方に見えているのが大師堂。入口左右には十六善神と常啼菩薩、法誦菩薩、玄奘三蔵、深沙大将の20体の像が安置されています。堂内には秀吉の御身仏で軍艦船宝丸に安置し海上安全と戦勝を祈願した波切不動明王が安置されており、周囲には千体不動が取り囲んでいます。千体不動の他に不動明王、釈迦如来坐像、金剛夜叉、降三世明王などの像が壁面に安置されています。八角万福堂。勅使堂後方の小さな池の中央に立つ八角堂で、堂内には木造の恵比須、大黒天、毘沙門天、弁財天、福禄寿、寿老人、布袋尊の七福神像が安置され、宮島七福神と呼ばれているそうです。広い境内ですが、勅使堂周辺は堂や石像が特に集中し、太子堂に向かう人の流れが滞る場所かもしれない。極楽観音を過ぎると右に烏天狗の石像が安置されており、そこから上に向かう石段があります。摩尼車を回しながら摩尼殿に向かう。この日は太子堂に向かう参道が混みあっていましたが、摩尼殿に向かう参拝者は少なく、こちらから薬師堂、愛染堂、阿弥陀堂を拝んで太子堂に向かいました。摩尼殿全景。弥山の守護神三鬼大権現(大日如来、不動明王、虚空蔵菩薩)の祈祷所で、弥山の頂の三鬼堂に登らなくてもここでお参りすればいい。宝形屋根の二層の堂で、前方に唐屋根の長い向拝が付く。唐破風向拝から堂内方向。建立時期は分かりませんが、大きく突き出た軒を支える斗供の巧みさ、向拝の木鼻、破風に施された彫物も見事なもの。内側にも獏の掛鼻が施されています。摩尼殿の額。張り出した軒を支える組物や蟇股の装飾が良く見え、堂内は外陣と弥山三鬼大権現を祀る内陣に分かれています。摩尼殿は挿絵には描かれておらず、江戸時代以降の建立と見られます。薬師堂。摩尼殿の左に建てられた寄棟屋根の堂で、内部に薬師如来と十二神将を祀っています。堂内の薬師如来と十二神将。薬師如来は病気平癒、身体健康の仏で、薬師如来を取巻く十二神将は薬師の12の大願に応じて、四六時中人々を護持する仏達。愛染堂。愛欲にまつわる煩悩から人々を救い、悟りの方向に導く愛染明王を祀り、欲情の浄化、災害除去、縁結びの御利益がある。ここは特に念入りにお願いしておく。相輪が施された阿弥陀堂。内部に阿弥陀三尊を祀られています。解説によると「この阿弥陀像は「本坊」観音堂にお祀りされていたが、平成5年8月の阿弥陀堂建立によりこちらでお祀りされた。」大師堂。大聖院本坊最古とされる建物で、真言宗の開祖、弘法大師空海が祀られています。この大師堂の堂のまわりには西国三十三観音や一願大師、稚児大師などが安置され、大師堂の下に遍照窟と呼ばれる人口の窟があり、内部には四国八十八ケ所霊場の本尊が安置されており、各霊場の本尊前はお砂場となっており、ひと回りする事で四国を遍路したのと同じ功徳が得られるとされています。上大師堂後方の五鈷杵。下手前が一願大師。秘鍵大師とも呼ばれ、願い事をひとつだけ念じることによって、叶えられる。後方の絵馬が吊るされた祠が稚児大師。香川県善通寺市で生を受けた空海7歳のとき、捨身誓願をした頃の姿を現した像で、子の健やかな成長に功徳がある。上大師堂の右の庭園に祀られていた祠。中に石仏らしき像が二つ安置されていたが内容は不明。下馬酔木観音堂の所で「山陽花の寺二十四ヶ寺」と記載しましたが、山口・岡山・広島の3県に其々1~8寺の札所を設け、計24ヶ寺の札所を花の開花時期に合わせめぐる花巡礼で2010年に開創されたもの。広島県の1番札所が大聖院で、この寺の花は馬酔木とモミジ、訪れた時には庭園各所で馬酔木の花が見頃を迎えていました。「大聖院(だいしょういん)」宗派 / 真言宗御室派大本山山号 / 多喜山院号 / 大聖院寺号 / 水静寺開基 / 空海(寺伝)創建 / 大同元年(806寺伝)本尊 / 三鬼大権現(本堂)、波切不動明王(勅願堂)、十一面観音(観音堂)札所 / 中国三十三観音14番、山陽花の寺二十四ヶ寺1番(アセビ、モミジ)、広島新四国八十八ヶ所霊場87番、安芸四国霊場2番、108観音霊場18番所在地 / 広島県廿日市市宮島町210参拝日 / 2023/03/03関連記事 / 亀居山放光院大願寺(広島県廿日市市宮島町)
2023.05.29
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名駅東側に鎮座し徒歩圏内で参拝できる神社巡りの3となります。今回は中村区名駅南2に鎮座する須佐之男神社。前回の柳里神社から須佐之男神社へは南に5分程の距離にあります。上は明治31年(1898)とほぼ現在の地図。この辺りに来ると南に下広井町線があるお陰か、圧迫感のあるビルの森もなくなり、見上げると空が広がる。社地周辺には西に住友生命名古屋ビル、北には特徴のあるスパイラルタワーが聳えている。須佐之男神社社頭の一区画東には青空のような外壁の名古屋四季劇場がすぐ近くにある。基準がもとめるのか、冷たい色合いのビルばかりですが、こうした色合いのビルがあってもいいと思うのだが。須佐之男神社社頭全景。ここまでの2社に比べると大きなビルが迫る事もなく、南向きの社頭の前と左がパーキングのため境内は明るく風が良く通る。社頭は右に「村社須佐之男神社」の社号標と一対の燈籠があり、石の神明鳥居の先の参道右が社務所、中央に社殿、左に小さな建物ある。燈籠は明治33年(1900)に寄進されたもの。須佐之男神社の由緒について地史や愛知県神社庁など調べて見ましたがこれといったものは見当たらなかった。上は大正4年に出版された名古屋市史社寺編、そこに須佐之男神社の沿革が記されていた。内容は以下。「下笹島町東側に鎮座し、勧請の年月は不明。当初は中笹島に氏神として祀られていたもの。明治12年(1879)、村社に列格。明治19年(1886年)、鉄道敷設に伴い米屋町と堀内町の境の徳川家所有地に遷座。明治23年(1990)頃、下笹島町の西、約110㍍の地に再遷座。明治32年(1899)、現在地に遷座、神殿を改造し遷宮。大正元年(1912)、神殿、神饌所、社務所を建設、境内の築地を落とす。祭神は須佐之男命。境内社秋葉社、金刀比羅神社は同町の氏神で明治23年(1990)頃本殿域に遷座、境内に須佐之男社が鎮座していたが移設の際に本社に合祀。例祭は10月17日」これによれば、一面葦が茂る湿地帯だったこの辺り、明治19年に笹島停車場の完成以降、鉄道整備や名古屋駅の開発に伴い目まぐるしく鎮座地を求め彷徨ったのが窺われます。それはこの地に住む氏子達も同様だったはず。現在も笹島再開発やリニア中央新幹線建設に伴う開発の波が収まる事はない。石灯籠は再遷座後に寄進され、ここに移設されたもののようです。社殿全景。参道は須佐之男社の門に続き、そこから左右の門に続きます。参道脇を守護する狛犬。狛犬の寄進年は昭和3年(1928)。戦火を経験した狛犬達だ、上の石灯籠やこの狛犬の一部に欠損や罅があるのは空襲によるものなのか。本殿域は板塀で囲まれ、三つの門は手前が金刀比羅神社、中央は須佐之男神社、左が秋葉社の門。本殿域の全景(2枚貼り合わせ)。左から銅葺流造の秋葉社、神明造の須佐之男神社、銅葺流造の金刀比羅神社。須佐之男神社本殿は6本の鰹木と水平カットの千木が付く、女神も祀られているのか?。境内右手の社務所と左の石灯籠。右手の鳥居の柱には大正7年(1918)と刻まれており、現在地に鎮座後に寄進されたもの。社務所横の石燈籠の竿には大正元年(1912)の寄進年が刻まれ、社殿再建時に寄進されたものようです。今も変貌を続ける名駅周辺。この神社も文明開化と高度成長期の荒波に翻弄されて来た神社のひとつ。それらを支え、今に繋げられているのも氏子をはじめとする熱心な崇敬者によるものだろう。須佐之男神社創建 / 不明祭神 / 須佐之男命境内社 / 秋葉社、金刀比羅神社参拝日 / 2023/04/27所在地 / 名古屋市中村区名駅南2-11-26関連記事 / ・迦具土神社・豊光稲荷大明神 (名駅付近の神社巡り)・柳里神社・白鷹龍神 (名駅付近の神社巡 2)
2023.05.26
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岐阜県瑞浪市陶(すえ)町、この町は猿爪、水上、大川と三つの地区に分かれており、陶町の字が示すように陶磁器産業が盛んな地域。今回はここ大川地区にある大きな狛犬と茶壷を掲載します。国道363号線と国道419号の交わる瑞浪市陶町大川付近の光景。4月中旬のこの辺りは、山々に芽吹き始めた淡い緑と山桜が入り混じり、春を迎えた山里の光景を見せていました。写真前方が瀬戸方向に続く国道363号線になります。「世界一の美濃焼狛犬」は二つの国道が交わる三叉路に安置されています。国道419号線沿いに鎮座する八王子神社の近くに「こま犬駐車場」があるのでそちらを利用します。八王子神社の社頭を通り過ぎ、世界一の狛犬がいる三叉路向かいます。この神社には瑞浪市有形文化財の「大川美濃焼狛犬郡」があり、社頭の狛犬も陶製狛犬で、まさに狛犬の群れが集まっています。三叉路の角にある巨大な美濃焼の狛犬。この巨大狛犬が焼かれたきっかけは、平成元年(1989)に瑞浪市と高浜市が姉妹都市として提携した事に始まるようです。瑞浪市政35周年を記念し、国道419号線の起点と終点にあたる瑞浪市と高浜市の交流を深める目的から故郷創生資金を財源に平成2年(1990)に焼かれたもの。写真に収めてしまうと大きさは伝わりませんが、名古屋方面から国道363号線を走ってくると、この姿が否応なく視界に飛び込んでくる。「世界一のこま犬」の入口付近は八王寺神社の境内に続く脇参道で、その参道脇にも表情豊かな狛犬達が安置されています。「世界一のこま犬」の入口に立つ狛犬。ボリューム感のある毛並みが表現されたスタイリッシュな狛犬。世界一のこま犬は瑞浪と大川、高浜の土をブレンドして作られ、制作延べ日数183日、延べ人員1000人が携わり、約12日間をかけて焼かれたもの。この狛犬を焼いた窯は、三叉路から国道363号線を少し入った左側に県内最大の六連房式の登り窯と云われる陶与左衛門窯で焼かれました。※六連房式の登り窯の規模の表記は一部に国内最大とありますがマップにある県内最大を引用しています。狛犬の前後には焚口も残されています。地元住民の協力によって作られたこま犬は、ギネスに『世界一大きいこま犬』として認定されています。覆屋に安置されている狛犬は、阿形・吽形共に高さ約3.3㍍もある。正面から見る狛犬。この狛犬のデザインは室町時代文明7年(1475)に開窯された大川窯の4代目羽柴与左衛門景度の美濃焼狛犬をモデルとして作られたそうです。大川の地には東窯と西窯の二つの窯があり、東窯だけでも40基はあったそうです。背筋を伸ばし遠くを見据える二体の大きな狛犬は年末・年始にはライトアップが施されるそうで、街明かりの少ない山間にこの狛犬が浮かび上がるようです。三叉路から国道363号線を恵那、瑞浪方向へ直進した右側にある「世界一の茶つぼ」こちらも覆屋に覆われ、その下に高さ5.4㍍、直径が4㍍のギネスに認定された茶壷が安置されています。狛犬から100㍍程東の斜面にあり、平成11年(1999)に製作日数365日、12,000人が作成に携わり、13日間をかけ焼かれた「豊穣の壷」。瑞浪市の陶町に点在する古窯のひとつ大川窯の陶工の茶壷をモデルにして制作されており、地元総出で製作に関わり形となった茶壷は、関わった人たちにとって、自分やその子供にも誇れるモニュメントとして残っていく。この下を走る国道363号線の向かいに6連房式登り窯があります。国道脇には「中馬街道」の道標と後方に見えるのが「大川馬頭観音」大正十年(1921)に彫られた馬頭観音は街道の安全を守護するとともに、瀬戸と明智を結ぶ中馬街道の道標も兼ねています。豊穣の壺あたりから西方向の三叉路を眺める。世界一の美濃焼狛犬、豊穣の壺所在地 / 岐阜県瑞浪市陶町大川2023/04/11関連記事 / ・春の岐阜ドライブ日記・南宮神社(土岐市鶴里町柿野)
2023.05.25
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厳島神社の引き続きとなります。今回は境外末社「清盛神社」から御手洗川を渡った先に鎮座する大願寺を掲載します。大願寺はマップの赤丸部分にあたります。清盛神社からだと御手洗川に架かる石橋を渡り、徒歩で2分もあれば大願寺境内です。山門。厳島神社出口に建つ山門で、大半の方はこちらから大願寺を参拝し、清盛神社まで足を向ける人は少ないようです。木造瓦葺の山門左右の間には仁王像が安置されています。両翼に塀はなく山門だけがポツンと聳えています。大願寺の創建時期は寺伝によれば平安時代初期に空海(774~835)によって開かれたと伝わります。一方で鎌倉時代初期の建仁年間(1201~1204)に了海(1239~1319)によって再興されたともされるようで定かではないようですが、往古より厳島神社と深い関りがあるようです。現在の大願寺は元禄時代に建立された山門と本堂が主な伽藍で、境内の護摩堂などは平成18年(2006)に再建されるなど、古の佇まいを強く留めるものはこの山門かもしれない。今はポツンと聳える山門ですが、かつての門は左右を塀で繋がれ、複数の堂宇があったようで、海に浮かぶ大鳥居を舟でくぐり、御手洗川を経て大願寺から厳島神社に参拝していたとも云われます。ここは厳島神社出口と云われますが、実は入口だったのかもしれません。上は天保13年(1843)、当時安芸広島藩士だった岡田清により編纂された厳島図会の大願寺挿絵。手前が清盛神社の鎮座する西の松原で、その先が御手洗川と思われます。当時は山門に繋がる塀も描かれていました、描かれた当時の山門は現在の向きに対し右に90度振られていたようです。左右の間に安置されている仁王像。実はこの仁王様はもともとこの山門に安置されていたものではありません。元々は、厳島神社末社の今伊勢神社から尾根沿いに東に歩いた頂に建っていた仁王門に安置されていたもの。延宝6年(1678)9月、山県郡都志見村の香川七郎左衛門が建立した門に安置されていました、それも明治政府の神仏分離令に伴い取り崩されてしまい、像だけが大願寺の山門に移されたのだと云います。上は今伊勢神社から尾根沿いに続く山辺の小幹に残る石標で、痕跡はなにも残っておらず唯一それを伝えるのがこの石標だけです。この像を見る時、五重塔が聳え立つ対岸の、更に先から居場所を求めてやって来た、そうした目線で見てやってください。山門から先の境内に鎮座する厳島龍神。水が張られた小さな池の中央に巨岩が組まれ、その頂に厳島龍神の本殿が祀られています。この地で龍神信仰が根付いた背景に海や航海に関わる土地柄があるのかも知れないが、厳島と付くだけにこの龍神様は海を含めた島そのものの守り神なのだろう。厳島龍神の後方に伊藤博文が手植えした9本松が聳えていましたが、何年か前に枯れたらしく現在は残っていません。嘗てここに1本の松の根元が9本に分かれた9本松が写り込んでいたのでしょうが、現在は切株が残るだけで境内は妙にすっきりとし、本堂の全景が良く見て取れる。大願寺概説。真言宗に属し、室町時代末期に厳島神社の修理造営権を握り、道本・尊海・円海と相次いで傑出した住職が出て、厳島神社諸建築の建造や復旧に当たった。また鍛冶・番匠(大工)・檜皮師などの職人団を率い、筑前筥崎八幡宮・豊前宇佐八幡宮の修理造営にも当たった。当時厳島は内海の要港で、ここに集まる京・堺などの貿易商人らとの接触も深い。尊海が大蔵経を求めて朝鮮に渡った時の見聞を記した紙本墨書尊海渡海日記(国指定重要文化財)、銅製朝鮮鐘(重要美術品)、木造薬師如来坐像・木造釈迦如来坐像・木造阿難尊者立像・木造迦葉尊者立像(以上国指定重要文化財)、その他多数の中世古文書を所蔵する。清盛により現在の厳島神社の原形が築かれ、海に浮かぶ厳島神社が匠を育む結果にもつながったのだろう。護摩堂。明治時代に焼失し、平成18年(2006)に再建された裳階を持つ方型の建物。本尊は厳島弁財天。相模国の江ノ島神社、近江国の竹生島の宝厳寺とともに日本三大弁財天の一つとされます。堂内には不浄なものを焼き尽くす力を持つとされる真紅の火炎(迦楼羅炎)を背にした、総白檀で作られた約4メートルの本尊不動明王座像が安置されています。厳島大仏 不動明王総身一丈六尺(4m80㎝)、重量7t、総白壇明治の初期に焼失した護摩堂は、平成十八年四月に再建、落慶並びに開眼供養されました。総白檀の不動明王像としては日本最大の仏様です。不動明王のお姿は、右手に、智剣と呼ばれる我々衆生の悩みを断ち切る智慧の剣を持ち、左手には、絹索と呼ばれる正しい道から外れた衆生を引き戻して下さる縄を持ち、背中には、我々衆生の煩悩を焼きつくす人を背負っています。不動明王 御真言なうまくさまんだ ばさらだん せんだん まかろしゃだ そわたや うんたらた かんまんこの御真言には、不動明王への讃歎と畏敬の念が込められています。本堂前を守護する狛犬。本堂。瓦には厳島神社同様の三つ盛り二重亀甲に剣花菱紋が入る。本堂には神仏分離令によって厳島神社から遷された弁才天像(毎年6月17日御開帳)や釈迦如来像など、多くの仏像を安置し、本尊は薬師如来、弁才天をお祀りする。大願寺は中国四十九薬師霊場22番、広島新四国八十八ヶ所霊場1番の札所でもあり、霊場巡りで訪れる参拝客も多い。本堂前にはピカピカに輝く賓頭盧尊者が安置されており、これまで多くの願を叶えて来たのだろう。本堂右の地蔵堂。堂の左から奥に進むと清盛神社に続きます。さて次に向かうのは山門から左に進み、小高い丘に建っている多宝塔(当日は修復作業中)方向へ向かい、あせび歩道から大聖院に向かいます。大願寺宗派 / 高野山真言宗山号 / 亀居山院号 / 放光院開基 / 空海(寺伝)創建 / 不明本尊 / 薬師如来、弁才天境内社 / 厳島龍神札所 / 中国四十九薬師霊場22番、広島新四国八十八ヶ所霊場1番所在地 / 広島県廿日市市宮島町3参拝日 / 2023/03/03関連記事・ 厳島神社 境外末社「清盛神社」・ 安芸国一之宮 『厳島神社』・ 地御前神社(広島県廿日市市地御前)
2023.05.24
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車中泊で巡る#1「上野国一之宮貫前神社」と「前橋東照宮」からの続きとなる群馬県二日目。道の駅赤城の恵で迎えた二日目。昨晩は結構車中泊していた車も、既に多くが走り去って行ったようで、爆睡していた我家は出遅れ感があるか。二日目の最初の目的地は群馬県太田市世良田町に鎮座する「世良田東照宮」を目指します。その前に、ここから数分先にある吉野家の朝定食を食べて一日がスタートします。8:16食事を済ませ、道の駅から通勤時間で混みあう国道17号線を50分程南下。利根川左岸の田園地帯が広がる世良田町の新田荘歴史資料館の駐車場に到着。ここに車を停め世良田東照宮と徳川町の東照宮の二社を巡ります。上は太田市歴史公園マップ。園内には新田荘歴史資料館、世良田東照宮があり、参拝に訪れ駐車するにはありがたい。資料館には徳川家と所縁のある「長楽寺」や「世良田東照宮」に伝わる文化財はじめ、新田荘の歴史を伝える資料等が展示されています。下は資料館前の新田義貞像。稲村ヶ崎で剣を海に投げ、海の神様に祈願してから、海岸から鎌倉へ侵入して、倒幕をはたした故事に基づく銅像。新田荘歴史資料館所在地 / 群馬県太田市世良田町3113-9世良田東照宮小黒門から境内の眺め。門の前の通りから右を眺めると東照宮の別当寺を務めた長楽寺の太鼓楼と三仏堂も近い。東照宮境内から社殿の眺め。当日は本殿が修復作業中で全景を見ることが出来ず残念でしたが、さすが東照宮、拝殿に施された左甚五郎の彫飾りや狩野探幽の彩色は見応えがありました。世良田東照宮 由来寛永21年(1644)、三代将軍徳川 家光は、世良田が徳川氏の先祖の地ということから、日光東照宮古宮(元和年間造営の奥宮)を移築し、家康公をお祀りしました。奉斎にあたり家光公から御神領二百石が寄進され、以後、幕府の手厚い保護を受け、徳川家代々礼敬を尽く されました。東照宮の御鎮座は文化・経済の発展を助長し、世に「お江戸見たけりゃ世良田へござれ・・・」と誘われました。御祭神主祭神 徳川家康 (東照大権現)東照大権現とは、東から照らす朝日のように勢い盛んな神の意味です。配祀菅原道真公(学問の神) 、倉稲魂命(穀物、商売繁盛の神) 、須佐之男命(愛、農業の神)、大穴牟遲命(招福、医療の神)、誉田別尊(安産、育児の神)、伊弉冉尊(結婚、火防の神)、火産霊命(車、縁結びの神)、建御名方神 (スポーツの神)、豊城入彦神(開運の神)。祭事一月元日 初詣1月4日 除魔神事 午後1時1月5日 御釿始め式 午後一時4月第一日曜日葵祭り 午前十時~4月17日例祭、10月17日春季祭11月 七五三祝祭太田市世良田は徳川発祥の地と云われ、町名にも徳川町と残る程徳川家と所縁のある地。徳川氏の祖は上野国新田郡を支配していた源氏の嫡流新田氏であるとされ、平安時代末期の「後三年の役」の内乱を鎮定した源義家は、東国にその基盤を築き、義家の子義国は関東に下り、その長子義重が「新田の庄」を開き、新田氏の祖となりました。新田義重は、仁安3年(1168)に世良田などの開拓の地を四男義季に譲りました。新田義季は上野国新田郡世良田荘徳川郷(太田市尾島町)に住んで徳川(得川)を称し、徳川義季と名乗りました。これが徳川氏発祥の始まりと言われています。その後、義季の子孫である親氏は、父有親とともに諸国を放浪し、三河松平郷(愛知県豊田市)に住んで松平を称し、松平親氏と名乗りました、その松平親氏の子孫が松平家康で、後に徳川氏を名乗り徳川家康となります。そうしたことから世良田東照宮は歴代の将軍から厚遇されてきました。大鉄燈籠。上野国総社藩主の秋元長朝が明暦4年(1658)に寄進した鉄燈籠で、他にも宝暦から天保の元号が刻まれた石灯籠が見られます。世良田東照宮創建 / 寛永21年(1644)祭神 / 東照大権現境内社 / 稲荷社、日枝社拝観料・開場 / 300円・9:00から道の駅赤城の恵から車移動で世良田東照宮 / 移動時間50分程所在地 / 群馬県太田市世良田町3119-1これだけゆっくりと参拝し拝観料は300円とは懐に優しい。時間が10:00という事もあるのか、意外に参拝者は少なく、何より大陸からの団体客に出会わなかった。次はここから南西の徳川町に鎮座するもう一つの東照宮に向かいます。世良田東照宮から徒歩で20分程という事なので見渡す限りの葱畑が続く道を歩き出しますが、あまりに単調で日差しを遮るものもなく、道半ばで引き返して車で向かいました。10:05駐車場から徳川町東照宮までは車で5分程、永徳寺前の縁切寺万徳寺遺跡駐車場に駐車し社頭までは徒歩2分程、最初っから車移動だったか。上徳川東照宮社頭全景。利根川支流の早川左岸に鎮座し、社地左は資材置場、右は小さな公園に挟まれています。公園の脇に家康が描かれた尾島かるたが掲げられていました。「徳川氏発祥の地尾島町江戸幕府将軍徳川氏の先祖は尾島町にはじまるといわれています。新田義重の子の義季は世良田周辺地域を領地とし、世良田氏・徳川氏の祖となりました。義季から八代目の親氏が各地を流浪したすえ、三河国松平郷(現愛知県豊田市松平町)の豪族の女婿になり、その九代目の家康が名字を松平から徳川にかえたということです。」とあります。社頭から見る社殿は神社と云うより寺の雰囲気が漂う。左の石標には「徳川義孝公館址」とあり、右の社標には「●●東照宮」と刻まれていました。下かつてのこの辺りは上野国新田郡得川郷と呼ばれる徳川家発祥の地とされ、徳川義孝の館があった場所。この屋敷址は後に正田家が所有し、そこに建てられたのが徳川東照宮とされ、代々正田家により護られて来たようですが、明治政府の神社合祀令により東照宮の社地は正田家から徳川郷に移り、郷内の神社は世良田東照宮に合祀されたようです。現在の入母屋瓦葺の拝殿は、車を停めた向かいに鎮座する永徳寺から大正3年(1924)に権現堂を移築し拝殿としたものとされます。世良田東照宮と徳川東照宮は葱畑を隔てお互いに見える距離にありながら、随分と境遇は違うようです。御朱印は世良田東照宮で頂けるようです。徳川東照宮創建 / 天正19年(1591)祭神 / 東照大権現所在地 / 群馬県太田市徳川町387-1世良田東照宮からアクセス / 徒歩20分、車で5分10:30群馬県の徳川東照宮を後に最終目的地埼玉県の「父父夫國総鎮守 秩父神社」の最寄りある「道の駅ちちぶ」へ向かいます。移動時間は約70分程。道の駅へはほゞ12:00到着。ここで一息入れ、売店で土産を探し求めながら、こちらの名物?豚みそ丼本舗で昼食を予定していました。ところが歩き足りなかったのか、かみさんの御楽しみだった豚みそ丼はとても食べられる状態ではなく、軽く蕎麦を食べる事に変更。上「道の駅ちちぶ」周辺には商業施設もあり、車中泊には便利かもしれないが、目の前を国道140号線が走るので夜はどうなんだろう?下駐車場脇の「ちちぶの水」、昼寝の時間も迫りボンヤリしてきた意識を秩父の冷たい湧水がリフレッシュしてくれる。PET容器持参で汲みにこられるようです。そば処入船。道の駅から秩父鉄道秩父駅方面に向かい、秩父神社社頭を通り過ぎて約10分歩きます。左手の風情ある佇まいの通りに面し「そば処入船」がある。既に開店しており、第一陣が入店した後なんだろう、店舗前に列は見られずラッキーと喜んだ。しかしウェイングリストを見ると結構待ちがあるようで、取り敢えず記名を済ませ店舗前で座っていると、次から次に客が訪れ始め、長椅子では足りず立って待つ状態に。30分程して店内の奥の座敷に通され山くるみそば¥900とまいたけ天ぷら¥800、くるみ天ざるそば¥1700をオーダー。30分程して、山くるみそばとまいたけ天ぷらが出て来た。やくみの下のくるみだれにたっぷり蕎麦を絡ませ味わう、口の中は出汁の効いた濃厚な胡桃と蕎麦の風味が広がり、なかなかいける蕎麦、くるみだれに蕎麦湯を入れても胡桃の風味は負けていない。舞茸の天ぷらもカラッと揚げられサクサクした食感で美味しかった。趣のある入船の店舗は「登録有形文化財秩父銘仙出張所二」として登録されています。大正時代から昭和時代初期にかけて、この地は秩父銘仙の取引で賑わい、近在近郷の織物工場の製品取引をするための出張所が建ち並んでいた。木造2階建、切妻造、瓦葺、平入、建築面積88平方メートルで、正面2階軒を出桁造、1階は下屋を設ける。正面は真壁造で外観は左右対称の2戸1棟形式で、当時の商業地区の景観の一端を今に伝えている。」秩父銘仙とは、崇神天皇の御代に知々夫彦命が住民に養蚕と機織の技術を伝えたことが起源とされ、山に囲まれた秩父の地形は、稲作に適さないことから養蚕業が盛んとなり、商品にならない繭を使い「太織」と呼ばれる野良着を生産、それが評判となり鬼秩父、秩父銘仙と呼ばれるようになり、庶民の普段着として重宝され、往事は住民の7割近くが繊維業界に携わっていたようです、番場町にはこうした出張所は3棟現存するようです。そば処入船所在地 / 埼玉県秩父市番場町100113:40多少時間を費やしてしまったが最後の目的地秩父神社に戻る事に。父父夫國総鎮守 秩父神社社頭全景。秩父鉄道秩父駅から徒歩10分ほどの秩父市番場町1に鎮座する古社。秩父神社の創建は、平安初期の典籍『先代旧事紀国造本紀』によると、第10代崇神天皇の御代、知知夫国の初代国造に任命された八意思兼命の十世の子孫である知知夫彦命が、祖神をお祀りしたことに始まるとされ、武蔵国成立以前より栄えた知知夫国の総鎮守として現在に至っています。上は栞にある境内マップ。現存する権現造の社殿は、天正20年(1592)に徳川家康が寄進したもので、江戸時代初期の建築様式をよく留めていることから、埼玉県の有形文化財に指定されています。毎年12月3日に行われる例祭は秩父夜祭として、国の重要無形民俗文化財と重要有形民俗文化財に指定され、京都祇園祭、飛騨高山祭と共に日本三大曳山祭のひとつに数えられる。訪れた時は本殿北側の壁面が装飾の補修中で職人により漆の剥離作業が行われていました。上神門から拝殿の眺め。参拝客は多いが途切れるのを待っていれば人の映り込みの少ない写真も撮れなくもない。下拝殿正面全景。入母屋銅葺屋根で千鳥破風と唐破風向拝が施された拝殿。秩父神社は永禄12年(1569)に戦火で焼失、家康により天正20年(1592)に再建されますが、社殿全周に施されている彫刻とその彩色の美しさが見所といってもいい。拝殿正面の四面に描かれた虎の彫刻「子宝 子育ての虎」は、左甚五郎が家康の威厳と祭神を守護する神使として彫ったものとされます。拝殿両側面の装飾。左甚五郎による繋ぎの龍、子育ての虎、お元気三猿などの彫りもの一つ〃に物語があり、それら見ているだけでも時間は過ぎていきます。父父夫國総鎮守 秩父神社創建 / 崇神天皇10年祭神 / 八意思兼命(政治・学問・工業・開運の祖神)、知知夫彦命(秩父地方開拓の祖神)、天之御中主神(北辰妙見として鎌倉時代に合祀)、秩父宮雍仁親王(昭和28年に合祀)所在地 / 埼玉県秩父市番場町1-3秩父神社を14:30に後にして「道の駅ちちぶ」で鬼胡桃などの買い物を済ませ350㌔の帰路につく。世良田東照宮(右)と父父夫國総鎮守 秩父神社の御朱印。名古屋着はとっぷり日が暮れてしまうが、帰りも付かず離れず法定速度+10km/hの定速運転でひた走る。二日間の全走行距離790㌔、使用燃料80literと年代物の車ながら上出来の結果でした。訪問日 / 2023/05/11~12二日目走行ルート 関連記事 / 車中泊で巡る#1「上野国一之宮貫前神社」と「前橋東照宮」
2023.05.23
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先日秩父に出かけた際に地元で食べた胡桃たれの蕎麦。余程美味しかったのか、はたまた鬼胡桃は洋胡桃に比べ一層健康にいいとされる都市伝説に毒されているのか地元で安く手に入れることができた。かみさんがコストコなどでよく買ってきては食べているが、それは洋胡桃。殻はくるみ割りで容易に割る事ができるが、鬼胡桃は半端なく固い。銀杏割で割ろうものなら割るどころか握り手が曲がってしまい使い物にならなくなる、だから殻付き鬼胡桃は買わない、採らない。山間地の神社に訪れるとこんな実が成っていたり、落ちていたりします。これが鬼胡桃、キウイのようにも見えますが見慣れた胡桃の姿はこの果肉の中にあります。この実を地中に埋め腐らせたものが、あの胡桃。webなんかで実を削ぐとかありますが、それはやめた方がいいでしょう、土中で腐らせ肥やしにするのがお勧め。今回は頑固なまでに固い鬼胡桃の殻を、ハンマーで粉砕することなく割る方法と結果をお伝えします。まずやらない方がいい事を下に列記します。1.果肉を削ぐ(かぶれたり手が茶色に染まる)2.電子レンジでチンして割れ目を作る(レンジ内がウオールナッツのスモーク臭で満たされる・機器の破損要因)3.ハンマーで割れ目を目がけて叩き割る。(危ない・粉砕されるだけで胡桃バウダーになる)4.普通の銀杏割ではやらない。(柄が曲がるだけで効果がない)これらはwebで勧める向きもありますが、いずれも過去に経験済みで自分は勧めない。我家でやった事。1.買ってきた胡桃を水を入れたボウルに放り込み、上から皿を重しにして二日ほど胡桃を水没させる。2.二日後胡桃を取り出して中火で熱したフライパンで殻を炒る。3.パキンと音がすれば割れ目が開いた合図。4.手袋をしてキッチンバサミの握り手側に付いている突起を使い、割れ目に差し込みテコの原理で割る。買ってきてその日には食べれないかもしれませんが、鬼のように固い殻は写真のように綺麗に割れました。・・・が、ここから綺麗に取り出せるかが課題かもしれない。取り敢えずパウダーよりはましだろうし、二次加工して濃厚な風味を楽しむ気にもなるかぁ。※炒るためのフライパンは捨てようかな?と思っているものがあればそれを使うこと、念のため眼鏡を付けることをお勧めします。
2023.05.20
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5月11日~12日にかけて、久し振りに車中泊で一之宮を巡って来ました。かみさんが温めていたプランのひとつで、上野国一之宮貫前神社と知知夫國総鎮守秩父神社を巡る総走行距離は約800㌔の行程です。名古屋を5時に発ち一路中央道をひた走り、岡谷ICで降りて立科、軽井沢方面に向け山越えの道を走る。初日の第一目標上野国一之宮貫前神社を目指しました。高速は工事規制もありましたが、全体の流れが法定速度+10km/hの巡行速度で、十分な車間距離を保つ流れだったのでブレーキを踏む必要もなく運転のストレスは少なかった。10:00国道142号線沿いの「道の駅 女神の里 たてしな」に到着。一面田畑が広がり浅間山が望める長閑な道の駅で、地元の野菜や珍しい山菜、苗などが販売されています。こちらの新トイレはとても綺麗、女性には受けがいい事間違いなし。国道は交通量はさほどでもないがトラックの往来があり、車中泊だと音が気になるか。「道の駅 女神の里 たてしな」所在地 / 長野県北佐久郡立科町茂田井248011:15奥多摩の山々を見渡す富岡町の山間に鎮座する上野国一之宮貫前神社に到着。一ノ鳥居の下に車を停め、石段を上り詰め大きな両部鳥居をくぐり、総門に向かう。総門前にも駐車場があるので石段を避けたい向きにはお勧めですが・・・総門から社殿の眺め。随分と下に社殿があります。下り参道と云われ、総門から楼門へは石段を下りていく事になります。上野国一之宮貫前神社拝殿から本殿。2009年から2013年にかけて「平成の大修復」が行われ、彩色も落ち着きを見せ、嫌みのない華やかな社殿。貫前(ぬきさき)神社の創建は安閑天皇元年(531)とされ、物部姓磯部氏が氏神の経津主神を蓬が丘綾女谷に奉斎したのが始まりとされ、祭神は経津主神、姫大神。樹齢1200年とも云われる大杉をはじめ、スダジイやイチョウの古木が聳え立つ広大な社叢に包まれた美しい神社です。富岡と云えば世界遺産「富岡製糸場」もあり、こちらを訪れた際に貫前神社は訪れるだけの価値はあります。上野国一之宮貫前神社創建 / 安閑天皇元年(531)祭神 / 経津主神、姫大神所在地 / 群馬県富岡市一ノ宮1535参拝を終え、丁度昼時となり10分程離れた登利平 富岡店で昼食としました。群馬では鳥めしがソウルフードだという事で、登利平は群馬県内各所に店舗があるようです。写真は胸肉とモモ肉を甘辛たれで絡ませた「鳥めし松重(¥900)」御飯にもたれが浸み込み、うなぎ程こってりでもなくさっぱりとした味わい。ここから一旦上信越自動車道に乗り、次の目的地「前橋東照宮」まで小一時間の移動時間。前橋公園駐車場へは15:10に到着。ここに車を停めて周辺を散策。まずは、公園東に隣接する臨江閣と庭園を散策。手入れの行き届いた庭園内には臨江閣本館、別館、茶室の国指定重要文化財三棟が建っている。明治期における近代和風建築の迎賓施設で、明治17年(1884)に群馬県を訪れる皇族や賓客の接待・宿泊施設として建てられたもの。臨江閣所在地 / 群馬県前橋市大手町3-15-3三時のおやつ。群馬県のソウルフード原嶋屋総本家の「焼きまんじゅう(¥240)」なんというのか、五平餅のたれを丸いパン(まんじゅう)に塗って焼いたもの・・・悪くはない。群馬県は名古屋同様に味噌文化が花開いているのか、味噌を挟んだ味噌パンなどスーパーで売られていた。もちろん「こんにゃく」も豊富で価格も安く、大量に袋詰めされた刺身こんにゃくを土産に買ってきました。原嶋屋総本家所在地 / 群馬県前橋市平和町2-5-20前橋公園駐車場から5分程南の大手町に鎮座する前橋東照宮。御覧の様にスタイリッシュな外観で、この建物自体が鞘殿で本殿は右側のガラス張りの部分にある。外部から本殿の全容が見れますが、映り込みもあり見えそうで見えない。前橋東照宮は江戸初期の大名松平直基公が幕府より賜った領地、福井県の越前勝山に寛永元年(1624)に創建されたもの。江戸時代中期には松平家が各地の国替え経て姫路城より前橋城に入城。その後洪水の被害を受けて、一時武州川越に居住しその川越に作られた社殿で、洪水による復旧を遂げた前橋に戻るに際し解体・移築されたもの。現在の社殿は明治4年(1871)に再築されたものだという。前橋東照宮創建 / 寛永元年(1624)祭神 / 東照大権現、木花咲耶姫、菅原道真、長壁様所在地 / 群馬県前橋市大手町3-13-19初日の行程は一通りコンプリート、そろそろ地元スーパーに立ち寄り今夜の酒と肴を買い込み今日の宿泊地「道の駅 赤城の恵」に向かいます。17:45赤城山の南麗にある「道の駅赤城の恵」に到着。この道の駅には「あいのやまの湯」が隣接し、お風呂も食事も済ませることができるので車中泊にはいい条件が揃っています。車を停め、車内をお泊り(宴会)モードにセットしてお風呂に向かう。久し振りの長距離走行で腰はパンパン、歩き疲れて足は重い、41℃のやや塩味を感じる湯に浸かり一日の疲れを癒し食事処で乾杯。入浴料は大人520円で、65歳以上は310円に割り引かれ、施設内には休息所もあるなどお得な施設。ここで20:00までゆっくりと休むことが出来ます。その後は車に戻り二次会、今夜の酒は地元のスーパーで見切り品だった「船尾瀧」。テレビの受信状況も良く、雉や鶯の鳴き声も聞こえるいいロケーションの道の駅でした。初日行程 / 名古屋~道の駅赤城の恵
2023.05.19
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奈良県桜井市三輪『恵比須神社』日本で最古の神社とも云われる大神神社、広大な三輪山そのものを御神体とするため本殿を持たない神社。桜井の町に聳える大鳥居が印象に残る神社で親しみを込めて三輪明神とも称される古社です。今回掲載する『恵比須神社』は、大鳥居から続く長い参道の一本南に伸びる上街道(伊勢本街道)沿いに鎮座します。上は観光マップに上街道を赤線、大鳥居と大神神社を青枠で示し、赤丸が恵比須神社の鎮座地です。大鳥居脇の大神神社第2駐車場に車を停め、綱越神社の前の三輪街道を東に進みます。街道の面影が残る三輪の町を歩く事10分弱で恵比須神社社頭に着けるはずです。恵比須神社社頭全景。訪れたのは4月4日、散りゆくばかりの枝垂れ桜が辛うじて残ってくれていた。「日本最初市場 三輪坐 恵比須神社」の社標と由緒が掲げられた左から境内に入れますが、鐘楼の建つ右側が正参道でその先に鳥居を構えています。左から車で入れそうですが、駐車が許されているのか定かではありません。「日本最初市場 三輪坐 恵比須神社由緒略記御祭神 八重事代主命、八尋熊鍔命、夜奈留美命御由緒当神社は八重事代主命(三輪明神の御子神)他二柱を奉斎し、日本最初の市場海石榴市(つばいち)の守護神として、悠久の昔創祀せられ「つばいちえびす」と称えられエビス信仰の本源をなす大和の古社であります。顕幽両界に亙って働かれるご神徳が敬仰されています。主要祭事初市祭 宵宮 2月5日、本戎祭 2月6日、御湯祭 2月7日夜市祭 8月13日例祭(秋の大祭) 10月14日」八重事代主命は大神神社の御祭神の大物主大神の御子神で、国譲りの談判交渉の際、大物主大神に代わって大役を務めたことが神話にも語り伝えられています。海柘榴市(つばいち)は三輪山南麓を流れる初瀬川(大和川)沿いの金屋の地で物々交換の市として始まったそうで、海柘榴市の守護神として神社も祀られましたが、延長4年(926)の大雨により初瀬川が氾濫、それを契機に市は三輪の地へ移され、守護神も三輪に移されたのが今日の恵比須神社のようです。市の賑わいは平安時代の「枕草子」や「万葉集」にも記され、市の始まりと共に三輪の繁栄を護り続け、市場神社や日本最初市場の神とも称され、商業や産業の守護神として、古くから伝わる祭りとともに現在も篤く信仰され続けています。参道から境内の眺め。まずは右側の桜と神仏習合時の名残を残す鐘楼に目が行きます。参道左が手水舎で正面に狛犬と石の明神鳥居が立っています。鐘楼。間近で梵鐘の銘を見ていないので年代は不明。手水舎と左奥に見えているのが社務所。大きな龍がいますが撮り忘れていました。手水舎脇の碑。内容は以下。「当神社の手水舎は、もと正徳2年(1712)に市場の繁栄を祈願して三輪村下市中の寄進によって造営されました。その頃の当神社は、おおいに繁盛した三輪市(上市・下市) の守護神として、また広く市の神として、商人達の崇敬を篤くし、特に初市には全国各地から参集した豪商達で賑わったと伝えら れています。三輪の茶屋を舞台とした近松の「冥途の飛脚」が初演されたのもこの頃のことです。このたび、氏子草敬者の寄進によって当時の手水盤を基に復元し、正徳の昔をしのぶと共に未来の繁栄を祈るものです。昭和7年(1932)10月日本最初市場 三輪坐恵比須神社」参道脇の狛犬と鳥居。蔓柏(つるかしわ)の神紋が入った前掛けを着けられた狛犬。誇らし気に微笑むかのような阿形の狛犬は、恵比須さんの表情にも見えてくる。鳥居の額は「恵比須神社」参道を覆う様な枝垂れ桜は鮮やかな葉桜に装いを変えていました。花の時期はさっぱり読めなくなってきました。境内右の恵比須神社社務所。当日は無人で御朱印は頂けなかった。左手に見える巨樹は樹齢600年とも云われる御神木の欅夫婦欅で、名の通り根元から幹が二つに分かれており、寄り添いながら共に大きく育つ姿から、この樹に触れ願をかけると良縁の御利益を頂けるようで、安産や子宝にも恵まれるという事です。拝殿左の琴平神社。拝殿正面全景。恵比須神社の由緒では創建について「延長4年(926)7月の大雨により初瀬川が氾濫、それを契機に市は三輪の地へ移され、守護神も三輪に移された」とあります。神社の社伝には「大風、長谷山崩レ、海石榴市ニ至リ、人烟悉ク流レシニヨリ、市場ヲ三輪ニ開クニ及ビ、市神モココニ遷シ祭ル。是レ即チ当神社ノ創祀ニシテ」と記されているようで、現在の惠比須神社の始まりは延長4年(926)としてもいいのだろう。大和川氾濫前の海石榴市は、大和川右岸を15分程遡った三輪山南麗の金山町にあったとされ、日本書紀では欽明天皇13年(552)、百済の使者がこの地に釈迦仏の金銅像や経典を献上したと記される事から、この地は仏教伝来の地として大和川沿いに顕彰碑が建てられています。山の辺の道や幾つかの古道が交わり、大和川を行き交う船着き場として、人・物が集まりやすい立地だったようです。惠比須神社の元となる護神が祀られた時期となると更に遡る事になる。拝所から拝殿、本殿方向の眺め。にこやかに微笑む大黒天とえべっさん。琴比羅神社社頭全景。琴比羅神社由緒。「御祭神 大物主神例祭 7月9日日本で最初に開けた海柘榴市(つばいち)ゆかりの流れを汲む恵比須神社の境内に祀られ、いわゆるエビス・ダイコクのダイコクとして、増殖・蓄財のご神徳が仰がれています。」本殿域全景。左の石灯篭の柱に寄進年らしき文字が見えますが、いろいろ加工しても読み取れなかった。本殿前を守護する小柄な狛犬には〇金の前掛けがかけられている。琴比羅神社本殿は銅葺屋根の流造で千鳥破風が付く。創建時期など詳細は不明。棟には5本の鰹木と外削ぎの置き千木が付き破風側の棟にも鰹木と千木が施されています。棟飾りには〇金。琴比羅神社左に佐藤春夫が海柘榴市を訪れ詠んだ「海柘榴市の 野道に飛び交ふ 蟲や何 」の句碑。三輪の初市「JR三輪駅の西に位置し、旧指定村社の恵比須神社がある。本殿には、天正15年(1587)銘の「上棟城上郡三輪市場恵美酒宮」と書かれた棟札が残っている。2月6日の初市祭は現在でもにぎやかで、この時にこの年の三輪素麺の価格が決められる。『日本書紀』の海柘榴市の伝統を残しているとの説もある。」古くは六日市とも呼ばれ、旧暦の正月6日の前後三日間で執り行われ、現在は初相場奉告祭として三輪そうめんの標準価格を神様に告げるようです。そうめんもピンキリで味音痴の自分にはその違いがよく分からない。三輪坐恵比須神社境内全景。恵比須神社創建 / 延長4年(926)祭神 / 八重事代主命、八尋熊鍔命、夜奈留美命摂社 金比羅神社創建 / 不明祭神 / 大物主神大神神社第2駐車場から徒歩 / 10分程所在地 / 奈良県桜井市三輪375参拝日 / 2023/04/04関連記事 / ・奈良 談山神社・岡寺・今西酒造本店『三諸杉』・「大和國一之宮大神神社」
2023.05.18
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名古屋市中村区名駅南1、柳里(りゅうり)神社・白鷹龍神。迦具土神社・豊光稲荷大明神の続きで、名駅東側に鎮座し徒歩圏内で参拝できる神社巡りとなります。今回掲載する柳里神社・白鷹龍神は上のマップの赤い矢印の位置になり、移動時間は15分前後です。鎮座地は笹島交差点南東の区画の南側に鎮座します。上は明治31年(1898)とほぼ現在の地図。社頭の前は柳街道が通り、嘗て街道周辺が一柳荘と呼ばれた荘園で、柳の樹が多く植えられていた事に由来するとも云われるようです。柳街道は佐屋街道から名古屋城下町へのバイパスとして整備されたもので、柳の樹を植えたくなるような土地柄だったようです。神社名の柳里もそうしたことから付けられたのかも知れません、今はその柳の樹は見かけません。柳里神社の呼称は「やなぎさと」や「りゅうり」などさまざまですが、ここでは「りゅうり」としておきます。柳街道沿いで三方をビル囲まれ、良くある街中の神社の佇まい。街道沿いの歩道を歩くと両脇を壁のようにビルが連なる一画に、玉垣と白鷹龍神の白い幟がはためく柳里神社が現れます。鳥居は少し奥に立てられているので目印はこの幟旗だろう。歩道から境内の眺め。右手に「柳里神社」の社標と常夜灯、鳥居と続き、左側に白鷹龍神の覆屋があり、手水鉢は本殿右側にあります。「柳里神社」の社標はセメントで塗り潰された痕跡もなく、常夜灯も比較的新しいものです。愛知県神社庁で柳里神社・白鷹龍神を検索するが属していないようで情報は得られなかった。どちらも大正4年(1915)とあるので無格社という事か。境内左の白鷹龍神覆屋と右に小さな祠が祀られています。板宮造りの社は社名札はないが恐らく白鷹龍神の本殿なのだろう。左右の祠其々に座布団が敷かれ、中に石像が安置されています。左の祠の石像。嫌な予感はしたが、やはり蛇。とぐろを巻き、鎌首をもたげこちらを睨んでいる。右の祠にも蛇らしき石像。とぐろの部分は蛇のウロコの様に表面が劣化、頭部に耳らしき突起があるも、もはや蛇なのか龍なのかイメージすらできない。これらの像が重軽石なのか、撫でるものなのか作法は分からない。白鷹龍神の謂れはよく分からなかったが、低地で湿地帯が多く、田んぼの広がっていた土地柄を考えると、水や天候を司る龍や蛇が祀られても違和感はない。事実、江川線沿いに鎮座する白龍神社や堀川左岸の須崎神社には白龍龍寿大神が祀られるなど、龍神の多いところかもしれない。五行説に於て白龍は西方を守護し、金運や仕事運、縁結びなどの御利益があるとされ、ビジネス街に鎮座する白鷹龍神に訪れる地元の方は多い。本殿域全景。背後と左右はビルの壁が迫り、小さな社地のこの一画の上だけが抜けている。右側に澄んだ水が張られた手水鉢、柄杓も置かれています。本殿全景。コンクリートジャングルの中にあって、本殿域には貴重とも思える緑の樹々が杜を形造り、境内は表通りに比べると体感温度も幾分低く感じる。小さな体で精一杯大きく口を開けている本殿域の狛犬。寄進年など見る事は出来なかったが、子犬の様にムチムチした体をしています。本殿と常夜灯。祭神は須佐之男命、火之迦具土神とされ、神明造の棟には6本の鰹木と内削ぎの千木が施されています。偶数の鰹木と水平カットの千木は女神と云われるがどうなんでしょう。左の常夜灯は随分古そうで、竿には「柳野天王〇」と刻まれており、嘗ては牛頭天王として祀っていた?創建時期や由緒が定かでなく、創建時からこの柳街道に祀られていたものか、明治以降の変貌著しい鉄道整備に伴い遷座したのか不明。ヒントは竿の裏側に刻まれているかもしれません。こぢんまりとした柳里神社の本殿域から上を見上げれば、コンクリートジャングルの隙間に空が広がる。本殿域から社頭の柳街道の眺め。忙しない街中の喧騒から逃れ境内に立ち入れば、そこにはゆっくり時を刻む特別な空間がある。柳里神社・白鷹龍神創建 / 不明祭神 / 須佐之男命、火之迦具土神所在地 / 名古屋市中村区名駅南1-24参拝日 / 2023/04/27関連記事 / ・迦具土神社・豊光稲荷大明神 (名駅付近の神社巡り) ・洲崎神社
2023.05.17
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岐阜県土岐市鶴里町鎮座南宮神社。国道脇363号線沿いに石鳥居を構え、参道は杉林の中に続いています。社頭前に駐車余地があるので駐車場に困る事はないかも知れない。国道と沿う様にかつての中馬街道が続き、名古屋から瀬戸を経て柿野、細野、曽木を経て飯田に至る街道があり、江戸時代に山間の農民が自家産物を馬に背負わせ山を下り、その帰りに塩などを積んで帰る駄賃馬稼ぎの習慣が生まれ、信州一円で行われていました。国道363号線を走っていると、道端に祀られた馬頭観音や石仏などの姿を見かけます。社頭全景。石の明神鳥居を構え、右に「南宮神社」社標、左に手水舎がありそこから先は上に向けて石段が伸びている。社頭正面、少し行けば社殿だろうと勝手に思い込み、石段を上り始める。鳥居の額は南宮社と刻まれているが、風化も進み読み取り難いけれど、鳥居の柱には大正8年(1919)と刻まれています。手水舎全景。湧水が導かれているのか、澄んだ清水が絶え間なく注がれていた。4月だというのに温かいを通り超して暑いと感じる陽気、清水の冷たさが心地よく感じた。広葉樹と杉に包まれた参道の石段は、氏子により2003年に整備されたもので、勾配はさほどでもなく、手摺も整備されておりありがたい。すぐに社殿は見えてくるものと思っていたが意外に道のりは遠い。幾つかの石段を上ると、その先は林間に参道が続く。前方を見渡しても社殿の姿はなく、これは奥が深そう、かみさんに怒られるパターンだ。木漏れ日が入る明るい杜の中からウグイスの鳴き声も聞こえ、解放感のあるなだらかな参道です。やがて右手に石段が現れ、それを上れば社殿がある。南宮神社社殿全景。大きな杉の杜に包まれた神秘的な雰囲気の境内は、拝殿とその先の覆殿が一体となったもので、雪深い土地柄なのが伝わってくる。南宮神社の詳細は調べきれなかったが、岐阜県神社庁の一覧に社殿の写真と共に以下の記載があった。「 主祭神 金山毘古神、祭礼日 10月初旬、創祀・縁由不明、摂末社祭神 空欄」情報が乏しいと捉えるか、これだけでも有難いと取らえるか人其々。どこぞの県の神社庁に比べれば、よっぽど把握に努めている。境内の常夜灯の竿には、識別しにくいですが明治12年(1879)と刻まれています。これが現地で見た一番古い寄進物になる。拝殿とその前を守護する狛犬。この狛犬の寄進年は未確認ですが、風貌から燈籠の寄進年と同時期かと。拝殿から幣殿、本殿。土岐市やお隣多治見、瑞浪の主要産業を支えるのが窯業・土石製品という事もあるのか、祭神は鉱山の神様金山毘古神を祀る。本殿の造りまでは分からないが、陶製の小さな角を持つ狛犬の姿が見える。頻繁に崇敬者が訪れているようで、山の中にある神社としてはとても綺麗に手入れされているのが印象に残る。拝殿左から覆殿方向の眺め。手前に石の社が祀られています。拝殿右手側は見ていませんが、こうした社が右にも祀られているのかもしれません。境内社。石の社の正面に社名が刻まれているようですが全文読み取れず不明としておきます。結局境内に由緒らしきものはなく、詳細は分からないままですが、燈籠の寄進年が明治12年である事や中馬街道も近い事から創建は江戸時代に遡るかもしれません。石段から社頭の眺め。創建や由緒等分からない事ばかりですが、杜の中に続く整備された参道や、手入れされた境内・拝殿など見る限り、この地に住む人々の生活と神社は今も密な関係にあるようです。蜜な関係?南宮神社創建 / 不明祭神 / 金山毘古神境内社 / 不明社所在地 / 岐阜県土岐市鶴里町柿野2829車移動 / 名古屋市役所から東へ約80分参拝日 /2023/04/11関連記事 / 春の岐阜ドライブ日記 (山菜料理・神社・世界最大美濃焼こま犬・日本最大の水車・ダム見学)
2023.05.16
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厳島神社の参拝を終え、出口から右手方向に向かい、松並木と石灯籠が続く西松原を清盛神社に向かいます。赤丸部分が清盛神社なります。この一帯は砂が堆積した岬の様になっていて、波打ち際から望む海に浮かぶ大鳥居の眺めは絶景です。清盛神社はこの西の松原の先になります。西灯籠の左手は細い流れの御手洗川が流れており、この川で清めをしていたのかもしれない。西の松原から見る大鳥居と宮島桟橋の眺め。参道をしばらく歩いて行くと清盛神社の赤い社殿が見えてくる。現在の厳島神社を形作った平清盛をお祀りする神社なので、ここは参拝しておくべきところだろう。社地は周囲に瑞垣を廻らし、朱の鳥居とその先に檜皮葺流造の本殿が建てられている。社殿は随分新しく綺麗なものです。清盛神社全景。厳島神社は参拝者で溢れていますが、清盛神社まで訪れる参拝者は少ないようです。鳥居右の清盛神社由緒。「御祭神 平清盛公例祭日 3月20日御由緒平清盛公の没後770年を期に、御遺徳を顕彰しようとの気運が高まり昭和29年(1954)に創建された。」とあります、どおりで綺麗なわけです。島内に厳島神社の摂社三翁神社が鎮座していますが、そちらから分祀創建されたのが清盛神社です。「平氏にあらずんば人にあらず」、あまりいい印象を持たれない清盛ですが、この地方に於ては音頭の瀬戸を始めとした航路や港の整備などに貢献し、清盛の印象は変わり、寝殿造りの厳島神社の基礎を築いたのも清盛の功績なのかもしれません。社殿後方の眺め。厳島神社参拝のあとは、清盛神社まで少し足を伸ばして見るのも良いかもしれません。厳島神社境外末社「清盛神社」創建 / 昭和29年(1954)祭神 / 平清盛例祭日 / 3月20日所在地 / 広島県廿日市市宮島町28-1参拝日 / 2023/03/03関連記事 / 安芸国一之宮 『厳島神社』
2023.05.13
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愛岐トンネル群。春日井市と岐阜県多治見市間にある旧国鉄中央線の廃線跡で国登録文化財「愛岐トンネル群」に指定されています。明治33年(1900)国鉄中央(西線)として、名古屋から多治見間が開通し、日本の近代化から高度成長期を支えてきました。やがてSLによる単線の輸送は、日本の高度成長に追いつかず、新たに複線の電化されたJR中央線として開業を始めると昭和41年(1966)に廃線となり、その後はその存在自体忘れ去られていきました。平成17年(2005)に古老の記憶からトンネルの探索が行われ、土岐川沿いの藪の中に埋もれたトンネル群を発見、保全・解放されるまでになったもの。愛岐トンネルの建築に際しては難関があり、トンネル崩落や土砂の崩落、幾多の犠牲者を伴いながら近代化を歩み始めた当時の智恵と技術が注ぎこまれ完成を見たもの。玉野第四隧道。両サイドの壁柱や壁面、綺麗な曲線を描く迫石など、赤レンガを使用したもので、近代工法のトンネルにはない造形美と温もりがある。年二回、期間限定で一般公開されています。今回は愛岐トンネル群散策で見かけた「山の神とんがり岩と護り稚児地蔵」を取り上げます。玉野第四隧道解説。土岐川右岸の散策路入口から二つ目のトンネルで通称4号トンネル。山の神とんがり岩は4号トンネルを出た左の山肌にあります。山の神とんがり岩全景。土岐川右岸の岩肌に注連縄が巻かれた巨岩が聳え立ち、その下に素木鳥居が立てられています。左手からとんがり岩の直下に続く小路が作られており、間近で拝めるようです。遊歩道脇にも鳥居と解説板が設置されています。解説は以下。「“山の神”(とんがり岩)山の神は女性(女神)だと云われます。そのため昔は女性がトンネルに入ると女神が嫉妬して山が崩れるといわれ、女人禁制でした。またトンネル工事などで、作業員の妻が出産した時は、女神の嫉妬を恐れ一週間坑内に入らないという決まりもありました。正面のトンガリ岩を見あげると女神さまのお姿に観えませんか。周囲のトンネル群を見渡せる高台にあり、まるでトンネル通行の安全を祈って いるようです。ちなみに俗称・山の神とは、結婚後「ヤカマシクなった妻」のこと。特に怖い奥さんのことを「山の神が怒る!」と言います。「山の神」が短縮されて“カミさん”になったという説も・・・・。また、トンネルの山の神は、トンネル工事が無事貫通したことから“難関突破” ”初心貫徹”の意味につながり「合格祈願」にもなります。きっと拝んで損はありません!特例*箱根駅伝 山登り5区の “山の神” は男性である」女神の全景。山の神は多くの場合、男神なら大山祇命、女神の場合は木花咲耶姫をさす事が多く、この女神はやきもち焼きで、解説にある坑内女人禁制や産後の一週間…のくだりはこうした業界では知られた話の様です。今では草食男子に変わり女性技術者が多様な業種に活躍し、そんな縁起を担ぐことはないようです。「怖い奥さんをかみさんと言う」については全くその通り、女神は一旦怒らせると大魔神になり、一旦噴火するとしばらくは鎮まらない、息をひそめ少し離れて時の経過を待つしかない。護り稚児地蔵は4号トンネルを過ぎ、次の隠山第一隧道(通称5号トンネル)の入口右に安置されています。入口右の隠山第一隧道解説。玉野第四隧道と隠山第一隧道では右の壁柱から斜めにウイングと呼ばれる壁が作られているのが特徴で、山側の圧力を分散する地形に合わせた技法なのだろう。護り稚児地蔵はこのウイングに寄り添うように安置されています。護り稚児地蔵全景。赤レンガで小さな祠が作られ、赤い前掛けが付けられた小さな地蔵が安置されています。愛岐トンネル群の調査・整備中に付近の土中から少女形の地蔵が発見され、護り稚児地蔵として安置されたもので、祠に使われている赤レンガは明治期のものを用いて建てられています。「護り稚児地蔵トンネル群調査・整備活動中にこの近くの土中からモルタル製の少女のレリーフが彫られた「稚児地蔵」を発見しました。右側は「昭●二七●十二」の文字、左側の文字は「鈴木 仲二郎?」と読めます。どなた何方かのご供養か? どんな経緯で作られたものか定かではありませんが、「トンネルと廃線敷」一帯の安全と「豊かな渓谷の自然」が永久に続きますようにと願いを込めて、廃線跡から集めた明治の赤レンガで祠を作り安置させていただきました。 合掌平成22年5月 愛岐トンネル群保存再生委員会」銘が刻まれているとありますが、前掛けで隠れている事もあり、自分にはそれらしき文字は見当たらず、像の表情も伺い知れない状態でした。こうした思いの込められた地蔵や古い建造物が打ち捨てられ撤去されていく中で、トンネル保存整備中の偶然とはいえ、再び安置された事はトンネル保存会の思いも現れているようでもある。トンネル群を訪れる機会は年二回と限定されますが、トンネルを形作るレンガの造形美の他にも、こうした小さな見所もあります。愛岐トンネル散策路 「山の神とんがり岩と護り稚児地蔵」所在地 / 春日井市玉野町公共交通機関アクセスのみ / JR中央線定光寺駅から入口まで徒歩3分。訪問日 / 2023/04/28関連記事 / 新緑輝く旧国鉄中央線廃線愛岐トンネル群へ
2023.05.12
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相野山 八幡神社。3月7日、岩崎御嶽山を訪れた際の帰り道に相野山の八幡神社に立ち寄った。東名高速日進JCTから南東方向へ約1㌖程、周囲は農地が広がる相野山に鎮座します。高速の先に見える小高い山が岩崎御嶽神社が鎮座する御嶽山。車なら10分程の位置になります。JCTの建設以前は緑豊かな田園地帯の趣がありました。随分すっきり造成され、あと何年かすればこちらにも住宅の波は押し寄せてくるのだろう。相野山八幡神社社叢全景。この陽気につられ、土筆が頭を出している姿も見られるかと思いましたが、残念ながら見つけることはできませんでした。相野山八幡神社社頭。社叢南側に石の明神鳥居を構えた社頭があり、右側に「村社 八幡神社」の社号標が立っています。「出没注意」だそうだ。社頭から境内へは舗装された緩やかな参道伸びており、その先に僅かばかり石段がある。参道の先に社殿が見えて…であればいいけれど、ここからでは見通せません。やがて視界は広がり、その先に「イノシシが」だけは勘弁してもらいたい。名古屋市内でも奴らは出没するだけに、農地の広がるこの一帯にいない訳がない。石段まで来ると社殿が見えてきます。広い境内の奥側に広範囲に石垣が積まれ、その上に社殿が建つ。社叢の西側から車道があり手前の境内に駐車できるようです。境内全景。視界は広がり、広い境内の正面に社殿が見える。周囲をしっかり見渡す、幸いにも「イノシシ」の姿はない。里山の頂の森を切り開き広大な境内が作られており、社殿域を囲う玉垣は広範囲迄取り囲んでいます。由緒によれば、この地の始まりは慶安元年(1652)、北新田開墾のため三河各地から来た9軒の入植者により開かれた。入住から10年後の明暦3年(1657)、須賀郡寺部より八幡宮を勧請したのが始まりで、岩藤新田も氏子となり両新田の氏神として現在に至る。明治5年(1872)に村社に列格。昭和37年(1962)に境内北の現在地に社殿を遷し今日に至るようです。往古は例祭で馬塔、棒の手を奉納していたようで、広い境内はそうした事もあるのだろう。祭神は応神天皇をお祀りする。境内左の手水鉢。社殿はこの石段の先に広がり、瓦葺妻切りの拝殿に幣殿が連なり、その先の流造の本殿が主な建物。拝殿左に一本の桧が真っすぐに聳えているのが印象的。拝殿全景。木造拝殿は四方吹き抜けですが、妻側以外は腰壁で囲まれている事もあり安定感を感じる。手前に狛犬が安置され、台座に寄進年も刻まれているようでしたが読み取れなかった。本殿左側に境内社が纏められていました。由緒御祭神 応神天皇例祭日 10月10日慶安元年(1648)、三河各地より9軒の人々ここに入植し北新田の成立をみる。うち4軒は来主渡辺氏の本拠たる三州賀茂郡寺部よりの転住者たりしため、入住10年の明暦3年(1657)9月、寺部の八幡宮をここに勧請、岩藤新田も氏子となり、当神社を両新田の氏神として今日に至る。往昔は例祭に馬塔・棒の手を奉納す。明治5年(1872)7月、村社に列格す。昭和57年(1982)10月、社殿を少しく北方に遷し、祝詞殿、玉垣を新設せり。境内左手の手水鉢。拝殿前の狛犬。妻飾りに八の文字が刻まれていますが、鬼や軒丸などの瓦に紋は見られなかった。拝殿から幣殿、本殿の眺め。参拝を済ませ境内東から社殿側面を眺める。本殿は檜皮葺きの一間社流造。境内左に纏められた境内社。上津島社。下左が鍬神社、右が熱田社。境内社後方から社殿全景。広々とした郊外の神社は陽射しは降り注ぎ、風が心地よく通り抜け解放感があり、いつ来てもいいものです。相野山 八幡神社創建 / 明暦3年(1657)祭神 / 応神天皇例祭日 / 10月10日境内社 / 鍬神社、津島社、熱田社所在地 / 日進市北新町相野山1286岩崎御嶽社から八幡神社車移動 / 東へ10分程参拝日 / 2023/03/07関連記事 / 岩崎御嶽社散策と相野山八幡神社
2023.05.11
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地御前駅に戻り、ここから終着駅である宮島口駅に向かいます。厳島神社の表玄関だけに、途中の駅舎に比べて非常にお洒落な駅舎です。駅を降りれば目の前が宮島に渡るフェリー乗り場で、JR宮島フェリーに乗ることをお勧めします。乗船する際は右舷側をお勧めします。宮島口から宮島フェリーは目の前、そこから宮島まではフェリーで10分程。このJR宮島フェリーは、行きの途中に厳島神社の鳥居の近くを通過してくれるので、右舷側で待っていれば修復を終え海に浮かぶ両部鳥居と社殿を一枚に収めることができます。宮島港桟橋。宮島(厳島)を訪れる観光客は年間300万人を超える、その多くがこのフェリーで訪れます。宮島桟橋広場。宮島や厳島と呼ばれる神の島ですがどちらも同じ島を指していますが、国土地理院の定める正式名称は「厳島」です。厳島の由来はいくつかあるようで、ひとつに祭神の市杵島姫命の「いちきしま」から厳島(いつくしま)に転じたとされ、戦乱の時代が終わった江戸時代頃から厳島神社(お宮)のある島から、宮島と呼ばれるようになったとようです。これ以降は通称の宮島として記載します。宮島桟橋広場に出ると、神の使いとされる鹿が出迎えてくれます。もともと陸続きだった頃から宮島に生息していた野生の鹿で、禁足地だった頃から神の使いとして見守られてきたこともあり、人を恐れませんが飼いならされたものではありません。人が接し方を間違え、それによるトラブルが結構起きていると聞きます。昼寝の邪魔をしない方がいい。宮島は島全体が神、観光の中心は厳島神社になりますが、弥山を含め奥宮や奥之院、さらに海岸に点在する神社「宮島七浦巡り」などがあり、とても一日で巡ることは出来ません。今回は厳島神社とその周辺の寺社を中心に巡る事にしましたが、機会があればテントを張ってのんびり巡りたいもの。厳島神社が鎮座する宮島は日本三景の一つで、世界遺産にも指定される景勝地です。島全体が崇敬対象で往古は禁足地とされていた。御神体の宮島は、島の北東に聳える弥山を含め15%ほどが世界遺産に指定されていますが、海を含むその他は緩衝地帯として管理されています。宮島には厳島神社以外に、弘法大師が護摩修業した1200年前から「消えずの火」として受け継がれて来た不消霊火堂など多くの寺社が鎮座し、神仏習合の名残を留めています。フェリー乗船中の観光ガイドでこの島にないものとして三つ紹介されていました。一つは島内に一基も墓は建てられていません、同じ理由から出産も本土ですることが受け継がれています。二つ目は島内に信号がない。三つ目に島内にはコンビニがない。今回は厳島神社周辺を歩いただけで、宮島ロープウエイ方向まで廻れませんでしたが、確かに上の三つは目にしなかった。一ノ鳥居と狛犬。波打ち際の松並木が続く参道にある石造の明神鳥居で、一対の大きな狛犬が出迎えます。青銅狛犬。大正8年(1919)の寄進で、角付きの吽形と阿形は笑っているような。厳島神社の象徴といっても過言ではない海に浮かぶ大鳥居、2019年から修復が始まり、昨年修復が終了しましたばかりで現在のもので9代目と云われます。鮮やかな朱色の両部鳥居は干潮時には間近で見ることができ多くの人で賑わいます。やはり海に浮かぶ姿が一番。干潮を迎える厳島神社社殿。大半の建造物は国宝または重要文化財に指定されています。青銅狛犬の次がこの石造狛犬。主な伽藍は、入口側から客神社本殿、東廻廊、本社社殿、祓殿、高舞台、左右の客神社、西廻廊を経て天神社、大國神社、能舞台と続き、一番人が集中する場所でもあります。国宝厳島神社東廻廊入口。どこでもそうだろうが、陽も高々とあがってからでは人の映り込みは避けられません。拝観は6時30から出来るのでその時間なら本来の姿が見られるだろう。東廻廊から見る客(まろうど)神社。東廻廊。人波が途切れる事はありません。廻廊右の飛び出した部分は客神社の祓殿。客神社拝殿から見る幣殿、本殿。厳島神社最大の摂社で本殿、幣殿、拝殿、祓殿とあり、祭神は天忍穂耳命、活津彦根命、天穂日命、天津彦根命、熊野櫞樟日命の五男神が祀られています。本社拝殿から見る客神社と東廻廊。平清盛の厚い庇護を受け建てられ、鎌倉時代の仁治2年(1241)に再建されもので、本殿は前後に長い庇を持つ両流造で檜皮葺き。手前の祓殿の廻廊に付けられた白い波よけ板、正面の二間だけが付けられていないのは、往古の儀式などでここから海側へ昇降できるように配慮したものと言う。厳島神社には地御前社で少し記載した管弦祭や舟で海に団子を供えた藁船を浮かべ、烏がそれを食べに来れば吉兆と占う伝統神事「御島巡り」など舟を用いた祭礼が幾つもあり、そうした事もあるのかも知れない。後方に聳えるのは厳島神社・五重塔と左は豊国神社千畳閣。高舞台の左右を守護する青銅製の狛犬。寄進年は未確認ですが、個性的な尾と鬣を持つ風格のあるもの。高舞台から本社祓殿。厳島神社の創建は伝承では推古天皇元年(593)とされますが、定かではないようです。現在の海に浮かぶ社殿の原形は平清盛により築かれたとされます。祓殿の前に一段高い高舞台が設けられています、黒漆塗りの基壇に朱塗りの高欄を廻らし前後に階段がつけられた舞台で、平清盛が大阪・四天王寺から移したという舞楽が演じられ、現在の舞台は、天文15年(1546)棚守房顕によりつくられたもので、国宝に指定されています。この日は挙式も行われ、居合わせた国内・海外から訪れた観光客からも祝福を受けていました。その光景を見てカナダバンフの片田舎にある教会で、二人だけで挙げた結婚式の様子が蘇ってきた。あの時も現地の人から祝福を受けたものだ。右門客神社と鳥居。高舞台から見て右の神社で切妻檜皮葺の覆屋内に流造の社殿がある。祭神は櫛磐窓神を祀る。両部鳥居。平舞台の沖に建てられた鳥居で、補修を受け色鮮やかに海に聳えている。鳥居の島木と笠木の内部は空洞で、内部に石が詰め込まれ、その自重で自立し、風や波の影響から耐えるようになっている。往古の鳥居は両部鳥居ではなく明神鳥居だったようで、両部鳥居に変えられたのは天文16年(1547)に再建された際からだといわれます。左門客神社と青銅製の灯籠。高舞台から見て左の神社で右門客神社同様の造り。祭神は豊磐窓神を祀る。客神社の脇に高舞台で舞が行われる時に使用される楽房がありますが、人の映り込みも多く掲載は見送りましたが、これも国宝です。高舞台から海に伸びる火焼前先端は、燈籠と鳥居を入れ撮影する映えスポットのようで、長い列は途切れない。三つの燈籠は寄進年がそれぞれ違いますが、いずれも細かな意匠が施されています。ここは左門客神社の青銅製の灯籠と鳥居を入れて一枚。祓殿、拝殿、幣殿の全景。平舞台から能舞台(左)と楽屋が見える。楽屋右奥の山の上に足場が聳えているのが多宝塔で現在修復作業中でした。本社拝殿から幣殿、本殿方向の眺め。神紋は三つ盛り二重亀甲に剣花菱。なにを買って帰ろうかねぇ。大国神社。鎮座年代は不明、天文6年(1537)の記録に記述があるようで、祭神は大国主命で相殿神に保食神をお祀りする。由緒によれば本社にお供えする前に、ここに一旦安置した後に本社にお供えされたという。檜皮葺き両流造の本社。西廻廊から見る天神社と反橋。西廻廊から能舞台の眺め。慶長10年(1605)の建立とされ、延宝8年(1680)にも再建され、現在のものは1991年の台風19号で倒壊、平成9年(1944)に再建された切妻檜皮葺のもので、鏡板に描かれている松もその際に描かれたもの。全長24㍍、幅4㍍の反橋で、こうして見ると緩やかな曲線を描いています。橋脚部分は黒漆、高欄は丹塗りのコントラストの効いた橋ですが干潮時は今一つ趣がないか。往古は天皇の勅使しか渡る事が許されなかった事から勅使橋と呼ばれたそうです。廻廊から入口を見ると壁のように見え、とても渡れたものではない。高欄の擬宝珠には銘が残され、現存する橋は弘治3年(1557)に毛利隆元、元就父子により再建されたもの。潮もすっかり引いて地上に現れた社殿全景。潮が引いても燈籠の前の順番を待つ長い列は途切れることはないようです。上豊国神社千畳閣。名の通り、豊臣秀吉が千部経を読誦するために天正15年(1587)に発願、建立した入母屋瓦葺の大経堂で未完成のまま現在に至っています。廃仏毀釈により明治5年(1872)、神となった豊臣秀吉、加藤清正を祀る厳島神社の末社豊国神社に改められ現在に至るようです。堂内には大きなしゃもじが安置されていますが、しゃもじは御飯をすくい取る事から勝利をすくいとる縁起物として奉納されるようになったとか。下五重塔。室町時代の応永14年(1407)の創建で、千畳閣の境内に聳えています。もとは大聖院の子院(金剛院)の五重塔でしたが、廃仏毀釈にともない、厳島神社に附属する塔となりました。厳島神社のシンボル朱の大鳥居。平安時代から数えて9代目の現在の鳥居は、明治8年(1875)に再建され、修復を終えたばかり。鳥居の額は海側は「厳島神社」、本社側は「伊都岐嶋神社」と書かれています。間近に見るより海に浮かぶ姿が一番趣がある。鳥居は人が取り囲んでいますが、意外にこうして社殿を眺める人は少ないようです。こうして見ると客神社の脇の楽房や三つの燈籠も一望する事が出来る。「あのおやじ邪魔」なんて声が聞こえてきそうだ。次回訪れる際は腰を据えて海岸線に鎮座する宮島七浦巡りだけを訪ねたいものです、そこならさすがに人は少ない気もする。安芸国一之宮 厳島神社創建 / 推古天皇元年(593)祭神 / 市杵島姫命、田心姫命、湍津姫命境内社 / 客神社、右門客神社、左門客神社、大国神社、天神社所在地 / 広島県廿日市市宮島町1-1参拝日 / 2023/03/03関連記事 / ・地御前神社・地御前・大蔵神社・智秀山西向寺・金光(きんこう)稲荷神社・広島東照宮・安芸国一宮厳島神社とB級グルメ巡り 広島Day2
2023.05.10
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巨大な二つのビルが聳え立つ名古屋の玄関口名古屋駅、今も次々とビルの建設が進み、更に拍車をかける様にリニア建設に伴う工事が着々と進み、名古屋駅は益々変貌を遂げようとしています。迦具土神社・豊光稲荷大明神は、桜通り東口から徒歩2~3分程のビルの谷間にひっそりと鎮座しています。上の矢印が鎮座地。左が1898年の頃で、現在の名古屋駅から200㍍ほど南に名護屋駅として開設された頃で、これから急速に変貌しようとしていた時期。右がほぼ現在の地図、どちらにも鳥居の印は記されていません。出張帰りに一杯ひっかけるため、神社付近は何度か前を通りがかっていますが、日中に訪れるのは今回が初めてで、迦具土神社・豊光稲荷大明神の創建や謂れは分からなかった。迦具土神社(左)・豊光稲荷大明神(右)の社頭全景。ビルの谷間の僅かな一画に社頭を構え、神社を取り囲むように無数の自転車が置かれているのが印象に残る。名駅の店舗やビル群が聳え立つ一画にあって、小さな神社の社地が今も与えられているのが奇跡的とも思える。殺風景なビルに取り囲まれた小さな境内には、場違いと思える立派な御神木が聳え、社頭の神明鳥居と二棟の瓦葺の建物があり、この一画だけは時が止まったままのようです。神社側面の眺め。左の切妻の建物が迦具土神社の鞘殿。右の片流れの建物が豊光稲荷大明神社の覆屋で、その前に幾つかの奉納鳥居が連なっているのが分かります。左に迦具土神社社標、鳥居右の柱脇に小さな手水鉢がありますが、自転車が玉垣のように取り囲みよく見て取れなかった。鞘堂の鬼や軒丸瓦に神紋は見られなかった。こうした街中の神社は、背面に無機質なビルの壁が聳える光景がつきものですが、1本の御神木の緑があるだけで随分と印象は変わって見える。鳥居をくぐると目の前に賽銭箱と拝所が迫る。貫に御即位記念と彫られており、寄進年は大正4年(1915)とあります。大正天皇即位礼に合わせ寄進されものですが、これを持って創建時期とするには無理がありそうです。鳥居の下から迦具土神社に参拝。右の稲荷に進むが、赤い鳥居の入口には引き戸が付けられ、そこに開けられた小窓から賽銭を投げ入れ参拝するのが作法のようで、引き戸から覆屋へは進めない造りになっています。小さな神社の手水石は、ビルの森に住む鳥たちにとって絶好の水浴び場になっているようだ。変貌を続ける一帯で行き交う人は多いものの、誰からも見向きもされないのが寂しい感じがする。この一画が自転車に飲み込まれず、残っていければいいのだろうが。迦具土神社創建 / 不明祭神 / 加具土命豊光稲荷大明神創建 / 不明祭神 / 宇迦之御魂大神所在地 / 名古屋市中村区名駅2-42-5名古屋駅から徒歩 / 1番出口から北東へ2分程参拝日 / 2023/04/27
2023.05.07
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相模國一之宮寒川神社。訪れたのは2023/01/18、新たな年を迎えて間もない頃の事。疫病との付き合い方も分かり、まもなく海外から多くの観光客が訪れ、賑わう前に訪れておく場所のひとつとして、一泊二日で神奈川の一之宮巡りに訪れました。ここ相模國一之宮寒川神社でそれも終わりを迎える。そんな時期なので冬枯れた景色ばかりで彩りには乏しいかもしれない。上鎌倉から寒川神社へは江ノ電とJRを乗り継いで寒川駅で降車しました。寒川神社の最寄り駅は宮山駅になるかと思いますが、一駅前で降りて線路沿いを10分程歩いた踏切の先に立つ一ノ鳥居と社標から訪れる事にした。なんだぁ、意外に駅から近いじゃないかと内心喜ぶも、一ノ鳥居から松並木に挟まれた参道から遥か先を眺めても社頭らしき姿が見えない。寒川神社一ノ鳥居は相模川の左岸沿いに流れる目久尻川の左岸に位置し、昭和4年(1929)に寄進されたもの。下鳥居から10分程進んだだろうか、ようやくニノ大鳥居が現れる。その先になんとなく社頭らしき姿も見て取れる。実に長い参道、この鳥居を過ぎたあたりから社頭方向に向かう車が渋滞を始めた。この鳥居は、明治5年(1872)に老朽化し撤去され昭和41年(1966)に再建されたコンクリート製で、高さは16㍍もあり関東最大の鳥居とされます。上寒川町そのものが初めて訪れましたが、寒川の名物はどうやらこの水仙なのかも知れない。下ニノ鳥居から5分程で漸く神橋の先に三ノ鳥居が現れる。渋滞は社頭まで続き、その大半は寒川神社へ参拝に向かう車が大半のようで、社頭前の寒川神社前交差点は写真のように流れが滞っていた。当日は平日、特に祭礼日でもないが凄い列だ、さすがに相模之国一之宮という事か。神池に架かる神橋と噴水の先に銅像があり相模薪能石橋の銘があった。境内の由緒。内容は以下。「祭神 寒川比古命、寒川比女命の二柱の神を奉称して、寒川大明神という。例祭日 9月20日(9月19日例祭宵宮祭・流鏑馬神事) 当神社は日本総国風土記によれば、雄略天皇(457~479)の御代に奉幣の記録が残る。神亀4年(727)社殿建立と伝わり、1600年以上の歴史を有す。以後、延暦16年(797)桓武天皇を始め、歴代奉幣の記録が残る。承和13年(846)に神階従五位下を始めとする神階授与がなされています。醍醐天皇の御代に制定された延喜式神名帳に相模国十三社の内、名神大社と定められ関東地方の信仰の中心をなす。中世、源頼朝、小田原北条氏累代による社殿造営、社領の寄進等あり、武田信玄からは武運長久を祈願し兜が奉納されるなど崇敬が篤く、徳川家代々においても社殿再建、社領の寄進など古来より武家からの崇敬の念は篤いものがあった。明治四年国費から幣帛料が奉納される国幣中社に列せられた。その後、大正時代の関東大震災、昭和の大東亜戦争終戦後、昭和21年神道指令により、神社の国家管理を廃され神社本庁の包括神社となる。戦後日本全体の復興とともに八方除信仰を中心として全国の崇敬者から崇敬、参拝されている。平成9年本殿、幣殿、拝殿、翼殿、廻廊等の増改築が行われる。神聖なる神嶽山を背に約1万5千坪を有し、平成21年に本殿奥庭の禁足地を「神嶽山神苑」とて開苑。」参道右側に古い鳥居の笠木と柱が置かれ、そこに鳥居の解説があった。それによれば寛政8年(1796)に寄進された一ノ鳥居で、安政2年(1855)の江戸大地震、大正12年(1923)の関東大震災と二度倒壊した明神鳥居だという事で、現在の一ノ鳥居に比べひと回りも二回りも小さなもの。人で溢れる参道を先に進み楼門の左に写真の大きな手水舎がある。寒川神社楼門全景とその前を守護する狛犬。筋骨隆々としたその姿は角を持ち、顔つきも勇ましいものがある。上楼門左の神馬舎。内部には神馬と手綱を引く木彫りの猿の像が安置されています。下楼門右の授与所。初詣もあるのだろう、祈願を希望する多くの参拝者の列が伸びていた。寒川神社楼門。平成5年(1993)に竣功した入母屋銅葺屋根の見るからに新しい門。この神社では毎年楼門に「迎春干支ねぶた」を掲げ、参拝者を迎えるのが慣例だされます。今年は国家安泰、五穀豊穣の神「瓊瓊杵尊」(左)と、安産の神「木花咲耶姫」(右)、中央に木花咲耶姫の子「火遠理命」のねぶたが架けられ、夜には明りが入り、このねぶたを楽しみに訪れる参拝客も多いと云う。日没から22時まで毎日灯され2月23日まで飾られるようで、どうやらこの楼門は陽が落ちてからが見応えがありそうです。楼門から社殿の眺め。寒川神社の正確な創祀年代は定かではなく、記録として残るものは以下の様です。・雄略天皇(456~479)の御代に奉幣。・神亀4年(727)社殿建立の記録。このことから少なくとも約1600年の歴史を誇る神社のようです。延長5年(927)に編纂された「延喜式」の相模國十三社(寒川神社、川勾神社、比々多神社、前鳥神社、寒田神社、高部屋神社、大山阿夫利神社、小野神社、有鹿神社、石楯尾神社、宇都母知神社、大庭神社、深見神社)のうち、唯一の名神大社とされています。祭神は寒川比古命と寒川比女命のニ柱で寒川大明神と奉称され、寒川大明神は相模國を中心に広く関東地方を開拓、衣食住などの根源を開発指導、関東地方文化の生みの親として敬仰される。現在の社殿は、大正時代から昭和にかけて竣工されたものが多く、神橋なども同時期に整備されたようです。この拝殿は東西に翼殿を連ねたもので平成9年(1997)に竣功されたようです。なので趣のある古い建造物は皆無と云っても良く、整備された荘厳な社殿です。拝殿とその奥に見えているのが本殿の大棟だろう、本殿や幣殿は神嶽山の社叢が包み込み全体は見通せなかった。拝殿唐破風と拝殿内のねぶた。一説には200人同時に祈祷できる広さがあるという。それくらいでなければあの長蛇の列はさばききれないだろう。あれで普段の平日なんだという。寒川神社は、相模國一之宮と称され、全国唯一の八方除の守護神として約1600年の歴史を持つ神社です。古くは朝廷をはじめ、源頼朝、武田信玄、徳川家代々、さらには民間と幅広く崇敬された。神社HPによると「拝殿の右側に配置された渾天儀のレプリカは、本来天体の位置・星等を観測する器具です。特に星の運行は、人々に方角を教えてくれるばかりではなく、国家の命運をもにぎると昔から考えられてきました。そのため、天体観測により暦が作られ、さらに暦によって日々の吉凶が占われたのです。寒川神社の渾天儀には、龍は天空を支えるという故事にならい四隅に龍が配置されています。」とあります。現在は八方除の神徳を戴くため全国各地から崇敬者が集まります。社頭の駐車場の空きを待つ長い車列、境内に入れば今度は授与所の前で長い列、さすが相模國一之宮。拝殿から楼門方向の眺め。本殿裏手に末社の御祖神社が鎮座するようですが、入口が見当たらず参拝は諦める。南門とその前を守護する狛犬。楼門前の狛犬に比べ幾分穏やかな表情。もともとの神門を移築したもので、旧本殿をしのぶ建物との事。訪れた時はこの南門をくぐった右側に御朱印受付が設けられ、かみさんによるとこの時期の通常御朱印はなく、写真の特別御朱印のみだとか。最後に本殿、神嶽山が見れないものかと社地外周をひと回りして見る。神嶽山後方に生垣が一部切り取られた裏参拝所があり、そこから禁足地の様子が見てとれるようになっていた。宮山神社。境内を出て、社頭左の道路沿いに鎮座する寒川神社の末社で、古くからこの宮山各地区に鎮座していた七社の小祠をここに合祀したもの。明治41年(1908)に琴平社に八剣社、雷社、祢岐志社、若宮八幡社の四社を合祀、大正3年(1914)に稲荷社、昭和44年(1969)に三峰社を合祀し宮山神社になった。一間社流造の宮山神社全景。由緒によれば、安産と母子の健康を願い崇敬され、白豆腐を御供し祈願すると母乳に恵まれるという事。その他にも家運隆昌、家内安全、無病息災、商売繁盛、五穀豊穣を司る神として地元から崇敬されているようです。関東大震災で被災、国の支援で昭和5年に修復されたとの事。境内左の平和塔。相模國一之宮寒川神社。創建 / 不明(雄略天皇(457~479)の御代に奉幣の記録)祭神 / 寒川比古命、寒川比女命(寒川大明神)所在地 / 神奈川県高座郡寒川町宮山 3916JR相模線「寒川」駅から寒川神社徒歩 / 約20分参拝日 / 2023/01/18関連記事 / ・鎌倉 円覚寺・鎌倉 建長寺・鶴岡八幡宮 今宮・白旗神社(大蔵白旗神社)と源 頼朝墓・北条義時法華堂跡・鶴岡八幡宮境内社「旗上(はたあげ)辨戝天社」・鶴岡八幡宮境内社「白旗神社」・「若宮」・鶴岡八幡宮
2023.05.06
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岐阜県郡上市八幡「野中稲荷神社」町内を長良川と支流の吉田川の二つの清流が流れ、城下町の趣が漂う落ち着いた静かな町。3/25、例年より早い桜の満開を迎える名古屋を離れ、電車と気動車を乗り継いで長良川鉄道「郡上八幡駅」に降りたった。名古屋に比べ少しばかり標高の高い郡上八幡。周囲の景色は随分と変わり、郡上の町はこれから春本番を迎えようとする時期で、上着が一枚欲しくなる。吉田川右岸の郡上の町を見下ろす八幡山の頂に建つ郡上八幡城。低く垂れこめた雲海の上に浮かぶ城の姿を求め、郡上を訪れる人も多いといいます。城は昭和8年(1933)に再建されたもので、現在は耐震化工事が行われており入場は不可。郡上八幡は水の都とも呼ばれる事もあり、町内には宗祇水をはじめとする湧水や水舟、御用用水が巡らされています。豊かな水は日常生活と密接し、軒を連ねる町並みの消火のためにも使われてきました。写真は「やなか水のこみち」清らかな流れの水路沿いに川石を敷き詰めた小径が作られており、芽吹き始めた柳の鮮やかな緑と紅殻格子の建物が風情のある佇まいを魅せてくれ、暑い日に涼むには絶好の場所。野中(やなか)稲荷神社はこの「やなか水のこみち」沿いに鎮座します。野中(やなか)稲荷神社。二つの鳥居を構え、左に水舟があり、「やなか水のこみち」の名はこちらの稲荷から付いています。一ノ鳥居に架けられた額は「野中稲荷神社」水の都らしく、冷たい水は絶え間なく水舟に注がれ、その水は再び台地に戻る。境内から一ノ鳥居に刻まれた寄進年を見ると大正10年(1921)と刻まれています。正面の「やなか水のこみち」沿いにも水舟が作られ、水舟は身近な存在として活用されています。二ノ鳥居から本殿の眺め。シックな色合いの街並みの中で、この鳥居と本殿の朱色が一層鮮やかに見える。野中(やなか)稲荷神社由緒。内容は以下。「野中(やなか)稲荷神社はこの一帯に郡上藩三代藩主遠藤常友の弟大助が家臣とともに住んだ長屋群があり、その遠藤家の屋敷と土地を守る屋敷神であったとされる。左側の奥一帯は江戸時代初めの遠藤氏時代からの藩屋敷があり、この長屋群は三筋の町並み(現在の稲荷町1~3丁目)をつくり、新長屋・中長屋・片長屋と呼んだ。江戸時代後半の青山氏時代には、ここはすべて足軽屋敷となり、全部で五十八戸があった。尚、「やなか水のこみち」は昭和63年(1988)に小公園ポケットパークとして整備され、野中稲荷神社にちなみ命名された。参考文献 歴史探訪郡上八幡」遠藤大助(常昭)の生没は1629~1692年とされ、徳川家綱の小姓衆として仕え、延宝元年(1673)に隠居し郡上に戻り、城下の願蓮寺南に大助様屋敷が与えられ晩年を過ごし、元禄5年(1692)に64歳で亡くなったと言います。そうした事から、野中稲荷神社は江戸時代前期に伏見稲荷から勧請し創建されたものと思われます。常夜灯の竿には嘉永6年(1853)寄進と刻まれています。本殿全景。扉の前には小さな狛狐が守護しています。右手の柱に白い札は、毎年4月20.21日、ここから少し東に鎮座する日吉神社に大神楽を奉納した事を示すもので、日吉神社大神楽は重要無形民俗文化財に指定されているとか。子孫繁栄、息災延命等の御利益がありそうです。「稲荷町」とありますが、現在の町名は稲荷の鎮座する側が八幡町新町、小径を挟んで左が八幡町島谷に分かれ、稲荷町としては残ってはいないようです。新緑の時期を迎え、郡上の町は見所やご当地グルメもあり、日帰りで散策するには持ってこいの場所です、散策で通りかかった際には足を止めて見るのもいい。表通りとは違い、この小径は車の往来もなく、暑い日には水舟に注がれる水音が癒してくれそうです。野中(やなか)稲荷神社創建 / 江戸時代前期祭神 / 倉稲魂神所在地 / 岐阜県郡上市八幡町新町931参拝日 / 2023/03/25関連記事 / ・願連寺・郡上八幡 『左京稲荷神社』・郡上八幡 『神農薬師』・長敬寺・慈恩禅寺・蓮生寺・安養寺・八幡神社・天満宮
2023.05.05
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岩崎御嶽山の岩崎御嶽社から中之院と訪れてきましたが、今回は御嶽社最後となる奥之院です。中之院から民家のある三叉路に戻り、奥之院までは三叉路を西に進み、民家の立ち並ぶ高台の頂に向かいます。奥宮に至るまでの道を緑のラインで示します、直線距離にしたらたいした事はありませんが、見ての通りです。三叉路から概ね15分程の上り坂となります。三叉路を西に向かい、住宅が立ち並ぶ右手の高台の頂を目指します。ほゞ円錐形の高台を周回するように道路が続き、近道を探したくなりますがここは我慢。訪れた3月は樹々の間から池も見えていましたが、今頃は新緑も生い茂り見えにくくなっているかもしれません。分かれ道まで来たら右の上り坂を進みます。上は奥之院が鎮座する高台の頂付近。左手のフェンスのある坂を上ると奥の院に至ります。写真中央の石垣に石段がありますが、そこを進んでも奥之院には行けません。奥之院参道口。正面に見えているのが岩崎御嶽山、周囲は傾斜地に住宅が立ち並び別荘地の趣がある。見晴らしもよく良い環境ですが、下からここまでは坂なので車が必需品かもしれない。生活道路で、さほど幅員もないので路駐は避けた方がいい。緩やかに上る整備された参道を上り切れば奥之院です。中之院までの道のりの様に余計な不安を抱く事はないと思います。奥之院が見えてきました、奥之院登頂まであと少し。頂きには赤い幟や鳥居が立てられ、ひっそりとした雰囲気のなかに佇んでいた中之院と比較すると随分賑やかです。奥之院全景。境内は概ね三つの神域で成り立っており、手前の鳥居が御嶽社、中ほどに不動明王、奥に心願講と其々に神明鳥居が立てられています。最初に記載しておきます、奥之院の寄進物の寄進年は見ていません。御嶽社奥之院。万延元年(1860)、明心・明寛の2人の御嶽行者が夢のお告げを受け、木曾から御嶽大神を勧請して開山創建したのが起りとされる神社で大己田貴命、少彦名命をお祀りする神社。岩崎御嶽社そのものが地図上に記されるのが大正9年から、奥宮に至っては現在も記されていなかった。奥宮がいつ頃から存在したか定かではなく、奥宮で唯一目にした本殿域の大正9年と記された玉垣しか見ていません。地図上の印の有無で創建時期と推定する根拠にならないだろうが、地図に現れる年号と玉垣の年号が奇しくも同じ年なのはただの偶然だろうか。奥之院鳥居扁額。三つの扉がある本殿の中央に鏡が置かれ、その左右に小さな陶器の狛犬が置かれています。本殿は三柱を祀る相殿でこの両脇に石像が立てられています。奥宮左の明治天皇尊碑。互いを見合う様に陶製の狛犬が碑を守護している。中央が唯一二つの鳥居を構える不動明王、参道は突き当りの石窟に向け伸びている。一ノ鳥居の不動明王の額。ニノ鳥居のすぐ前に人の手により作られた石窟がある。石窟(仏窟)内部は屈まなければ入れないほどの高さしかなく、床に敷物が敷かれ、正面に粗削りな大日大聖不動明王や地蔵、弘法大師や仏像などの石像が安置され、香炉には不動明王講とある。岩崎御嶽山には心願講、誕生講、福寿講、出生講など良く耳にする有力講社の他に、この地域や名古屋市内に活動拠点を置く講社の霊場があり、岩作御嶽山(安政5開山)と共に御嶽信仰の一大聖地のひとつで、講員は其々の霊場で御座儀礼や読経を行い、霊峰御嶽に戻った先人達と繋がりを持つのだろう。不動明王の左に複数の石碑や像が安置され、狛犬の姿もある。さほど広いとはいえない奥宮境内に神と仏が一つに融合されています。境内西側の神願講霊場。鳥居の先には神願講開祖の明寛霊神像が安置されています。奥之院から西を眺めれば、名古屋市内第二位の標高(約111㍍)の親鸞山(極楽山)があり、高針心願講の霊場のひとつ高針御嶽山(1949年開山)が間近に見られ、その先には東山スカイタワーやセントラルタワーズも一望できる。北方向に目を向けるとモリコロパークや猿投山の山々も望め、空の澄む時期には雪を頂いた霊峰御嶽の眺望が広がります。気持ちだけは今でも山は登れるつもりでいますが、若い頃は気にもしなかった坂が、最近ではやたらと急登に思えるようになり、岩作御嶽山から標高133㍍の奥之院までの道のりが遠く感じる。岩崎御嶽社 奥之院創建 / 不明祭神 / 国常立尊、大己貴命、少彦名命所在地 / 日進市岩崎町竹ノ山中之院から徒歩ルート / 西へ約15分参拝日 / 2023/03/07関連記事 / ・岩崎御嶽社中之院・岩崎御嶽社(日進市岩崎町竹ノ山)・功徳天満宮(岩崎御嶽社)・八大龍王(岩崎御嶽社)・岩崎御嶽社散策と相野山八幡神社・岩作『御嶽山』
2023.05.04
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