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埼玉県川越市喜多町5−1川越氷川神社の社頭前を横切る県道51号線を西に向かう、10分も歩けば観光客で賑わう蔵造りの町並みに続く県道12号線が交わる三叉路に突き当たります。三叉路を左に進んだ県道12号線沿いの喜多町に、趣のある山門を構えて鎮座する広済寺が現れます。この辺りは倉造りの町並み群から少し北に離れるため、県道沿いを歩く人波はさほどでもない。広済寺山門全景。広済寺の伽藍は県道から少し奥まって山門を構え、境内右手に鐘楼と地蔵堂、正面に寄棟瓦葺の本堂、左手に金毘羅堂が主な伽藍。早く倉造りの町並みに向かいたいかみさん。山門のみ写真に収めてくる間少し待ってもらい、山門と境内を眺める事に。山門は妻切り瓦葺の四脚門に潜戸が両脇に付き、右側の脇塀はなく境内が外から良く見通せる。伽藍は東向きに配置されているため、午後を過ぎると西陽が強くなり逆光は避けて通れない。直前に訪れた氷川神社にくらべると実に閑静な佇まい。倉造りの町並みを目指し歩く人は絶えないが、意外に訪れる観光客は少ないので穴場かもしれない。広済寺の正式名称は山号を青鷹山、院号は慈願院と号する曹洞宗の寺院。伽藍から受ける印象は、山門意外さほど歴史を感じさせないかも知れないが、なかなかの歴史を誇る寺院。江戸時代の中島孝昌(1766~1808)により纏められた川越の地誌「三芳野名勝図会」にもその名は記されている。開山は天文17年(1548)広庵芸長、北条氏康・氏政・氏直の3代に仕えた川越城城主大導寺駿河守政繁が菩提寺として開基とある。本尊は釈迦如来坐像で脇侍を文殊、普賢菩薩が務める。また、境内の墓地には中島孝昌の墓地もあり、埼玉県の旧跡に指定されている。山門の木鼻蟇股には躍動感のある獅子の姿も施されています。山門の山号額「青鷹山」山門から眺める唐破風向拝が付く本堂の眺め。境内右側の鐘楼と地蔵堂。梵鐘には明和元年(1764)の銘がある。右の地蔵堂には二体の地蔵と石仏が安置され、左の地蔵は顎がない「あごなし地蔵」と呼ばれる虫歯や歯痛にご利益があるという。右側の一体は縄で縛られた異様な姿の咳地蔵尊で「しゃぶきばあちゃん」と呼ばれるそうです。「しゃぶき」の語源は「しわぶき」が訛ったもので、古い言葉の咳を意味するそうで、咳や喘息などに苦しむ人にはご利益があるという。祈願をする人は縄で縛り、完治したら縄を取り、お茶や金平糖を供えるのが作法とか。地蔵堂の地蔵の姿と右の祠は帰り際と思いながら撮り忘れていた。金毘羅宮全景。山門をくぐった境内左側に明治33年(1900)に寄進された金毘羅宮の石の明神鳥居がある。金刀比羅宮の社殿は鳥居から右に参道が折れ、その先に瓦葺の入母屋拝殿と幣殿・本殿が一体となり、拝殿の左右に楽の間が付属するもので、川越市の有形文化財に指定されている。三芳野名勝図会から詳細に目を通すが、「金比羅祠」とだけ記されていただけだった。川越市解説を調べると金毘羅宮の由緒が公開されていました。「金比羅堂は、安永9年(1780)鴨町の若林宇右衛門と源七が願主で、当山18世大享和尚の代に勧請されたが、文化13年(1816)に焼失し、文化15年(1818)に遷宮された。現在は、本殿、幣殿、拝殿、楽の間からなる複合建築となっている。幣殿と向拝付拝殿は天保10年(1839)に増築。楽の間は、幣殿・拝殿建立後の増築(嘉永4年以降)と考えられる。本殿は、正面3間側面2間の切妻造桟瓦葺屋根で、二重切石の積基壇の上に建ち、正面側に幣殿が接続している。内部は1室で、内陣は須弥壇(しゅみだん)が設けられ、組物は極彩色、虹梁と木鼻、正面の階段は朱塗り、須弥壇の框・棚板・束などは黒塗りが施されて華やかである。須弥壇脇の杉戸と框下には江野楳雪(1812?~1873)による鳳凰図と唐獅子図が描かれている。幣殿は、正面3間側面2間の両下造で、内部は1室で両側面に連子(れんじ)付の花頭窓が付き、本殿側と拝殿側は吹き放ちとし、本殿側に木階(きざはし)2級を据えている。拝殿は、正面3間側面2間の入母屋造。正面に唐破風造銅板葺の向拝1間が付き、背面は幣殿、両側面は楽の間に接続する。内部の天井は中央を鏡天井、四周を小組格天井(こぐみごうてんじょう)として、鏡板は谷文二(?~1850 谷文晁の次男)による雲竜図が描かれている。唐破風造の向拝には多くの建築彫刻が施され、虹梁型頭貫(かしらぬき)の木鼻は、獅子と象、根肘木は籠彫りで波の中に鯉が潜んでいる。虹梁上には親子の竜の彫物、唐破風の妻面は雲と麒麟、兎毛通(うのけどおし)に鳳凰が飾られている。向拝内部の鏡天井には、谷文晁(1763~1840)による竜図が描かれ、「天保十年己亥六月日 文晁画」と記されている。」とても丁寧に解説されており、先を急ぐあまり見落としているかもしれないが、現地にこれを掲示して欲しいと願う。なぜかと云えば参拝時に向拝天井を見上げず龍の姿を見逃していた。拝殿全景。訪れた際には拝殿唐破風向拝の天井に視線を向けて見てください。金毘羅宮の狛犬は毬と子持ちのもので嘉永七年(1854)十月寄進のもので、提灯の羽団扇は狛犬の台座にも刻まれていました。拝殿から本殿方向の眺め。広済寺境内にはっきりと区切られることなく鎮座する金毘羅宮、神仏分離の荒波から免れたものか。金毘羅宮創建 / 安永9年(1780)祭神 / 金毘羅大権現(大物主命?)寄棟瓦葺の唐破風向拝を施した本堂。伸びやかに延びる屋根の線は寄棟造ならではのもの。伽藍は享保年間の火災で焼失、その後黙元和尚により再興されました。本堂に掲げられている額は「廣済寺」向拝蟇股に施されている彫飾りは赤い目の龍。木鼻には獅子が彫られている。三芳野名勝図会には境内に稲荷社・白山社・三峯社など有りと記されていたが駆け足で見て廻った限り目にしなかったがじっくり見て廻るとあるのかもしれない。広済寺山号 / 青鷹山院号 / 慈願院宗派 / 曹洞宗開山 / 広庵芸長(こうあんうんちょう)開基 / 天文17年(1548)大道寺駿河守政繁本尊 / 釈迦如来所在地 / 埼玉県川越市喜多町5−1川越氷川神社から徒歩で広済寺 / 社頭から西に10分程参拝日 / 2023/09/25関連記事・一泊二日武藏國一之宮巡り 一日目「川越市」・浄楽院 光西寺 (川越市小仙波町)・星野山 無量寿寺 中院・南院遺跡・仙波東照宮・川越大師 喜多院・喜多院 「白山権現、仙波日枝神社」・瘡守(カサモリ)社・川越総鎮守 氷川神社
2023.11.30
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金神社。名鉄岐阜駅から徒歩10分程の市中心部にある神社で、成務天皇5年(135)創建と伝えられ、美濃国神明帳の厚見郡座18社に正三位金大神と記される古社。社名が示すとおり、金運や財運に御利益があるとされ、社頭にはそれを象徴するように金色に輝く鳥居で知られる神社。この日は名古屋から小一時間ほど電車に揺られ、岐阜市金(こがね)公園で催されていた岐阜・秋酒祭を訪れた。その会場の北側に隣接して鎮座するのが今回の金(こがね)神社。金色の鳥居は秋葉山本宮秋葉神社の上社依頼久し振りにお目にかかる。金神社は古来より産業繁栄、開運招福、金運アップ・商売繫盛の御神徳が得られるとして人々から崇敬されてきた。この鳥居が金色に塗られたのは平成27年(2015)と比較的最近の事、こちらの御朱印も金色のド派手なもので絵馬もお守りも金色、金色に拘りをもっているようだ。社殿は南向きに鎮座し、右側に手水舎と脇参道を構えている。やはりこうくるかぁ。社殿全景、左手に社務所、中央が金神社社殿、右が金祥稲荷神社で、その右脇に社殿後方の境内社に繋がる参道があります。社殿は元和3年建替えを受けるなど幾度となく再建を繰り返し、明治24年(1891)の濃尾地震で被災焼失し4年後に再建されました。昭和20年(1945)の岐阜空襲で被災・焼失、昭和33年に再建されます。現在の社殿は昭和63年(1988)に再建されたもの。拝殿前を守護する銅製狛犬、ここも金色でいってほしい。寄進年は見なかったが頭部が小さく凛々しい姿の狛犬。拝殿唐破風向拝。朱塗りに金色の飾り金具が金神社らしいか。岐阜県神社庁の金神社の紹介は以下のようなもの。「当神社は古来殖産興業、財宝主宰、金運招福の御神徳あらたかな神として、篤い信仰を集めている美濃国屈指の名社である。御鎮座の年代は遠く上代に在って、成務天皇の御代(西暦135)、物部臣賀夫良命が国造としてこの地に赴任され、国府をこの高台に定められ、篤く金大神を尊崇されたと伝えられている。境内の東北の隅に命を祀る古墳「賀夫良城₍かぶらぎ₎」があり、近くに「蕪城町」という町名が存するのも之に由来するものと思われる。当神社の主祭神 渟熨斗姫命は、景行天皇の第六皇女、伊奈波神社の祭神 五十瓊敷入彦命の妃である。後の世の人々の心の支えとなり、慕い仰がれ、やがてはそれが、人々に財をもたらす御神徳を有する神として尊崇されるようになった。元和3年(1617)加納城主は本殿、拝殿、瑞垣、鳥居等を建立寄進している。明治36年より数年の歳月をもって本殿、祭文殿を始め諸建物を造営したが、昭和20年7月9日岐阜市空襲により烏有に帰した。昭和33年に至りて漸く一応の復興は出来たものの、時局財政困難な状況下での造営であったため、建築資材等も思うにまかせず、又その規模も小さく、年を逐って老朽化が進んで来た。昭和58年に造営奉賛会を結成し、会員、氏子崇敬者の協賛により、昭和63年3月金神社有史以来の大造営をみたのである。」尚、それ以降も平成に入り修復の手が入れられています。往時の社殿の様子を見たかったが、金神社の絵図は見つからなかった。夫、五十瓊敷入彦命(いにしきいりひこのみこと)をお祀りする伊奈波神社は、ここから金華山方向に歩いて30分程の所に鎮座します。拝殿額、神紋は五七の桐。主祭神は渟熨斗姫命。伊奈波神社の縁起によれば、五十瓊敷入彦命は朝廷の詔を受け奥州を平定しましたが、その成功を妬んだ陸奥守豊益により謀反の心ありと朝廷に報告され、朝敵とみなされこの地で討滅されました。夫の死を聞いた渟熨斗姫命は都から夫を慕いこの地に訪れ、夫の御霊を慰めつつ生涯を終えたという。その間の命は地域住民を母の如く労り、私財を投じて町を開拓し農業、産業の発展に寄与し岐阜の街の基盤となった。その功績を慕う人々により、財をもたらす金大神としてここに祀り崇めた。金祥稲荷神社拝殿。金神社の拝殿と金祥稲荷神社拝殿は翼廊で繋がり、後方で透塀と繋がり本殿域を囲っている。金神社と比較すると金の飾り金具は控え目な印象。拝殿から本殿方向の眺め。金祥稲荷神社の創建等詳細は不明。金祥稲荷神社は古来金運と商売繁盛の霊験あらたかな神様で講員のみならず広く崇敬されており、金祥とは財宝(お金)を生み給うて、その御恵を与え下さることを祥ぶ(よろこぶ)という意味だという。財をもたらす金大神と金運と商売繁盛をもたらす金祥稲荷、双方を参拝すれば金運に恵まれない事はなさそうだ。金祥稲荷神社右の鳥居から境内社へ。参道正面に祀られているのは賀夫良城社。右に「史蹟 賀夫良城」の石標がある。「史跡 賀夫良城(かぶらぎ)物部賀臣夫良(もののべのおみかぶら)命の奥都城(墓)と伝えられている。命は物部頭十千根命(もののべとちね)の嫡孫で、今を去る凡そ1800年前成務天皇の御代はるばるこの三野後の地に国造としてこの地に赴任され、国府をこの高台に定められた。昭和32年岐阜市史蹟に指定」神社庁の記載にある「境内の東北の隅に命を祀る古墳「賀夫良城」があり」とあるのはここを指す様です、古墳らしさはあまり感じない。賀夫良城神社から左の境内社。鳥居を構えた一社と覆屋の下に五社が祀られています。金高椅(こがねたかはし)神社古来より調理・料理の技術向上と商売繁盛に霊験あらたかな神として深い信仰と崇敬を寄せられている。日々の生活に必要な3つの条件「衣・食・住」の中の「食」を司る神で料理を生業とする人のみならず、家庭の食事を受け持つ主婦の方々からも崇敬されている。詳細は不明。覆屋の五社。右から秋葉神社。猿田彦神社(淳熨斗媛命がこの街を形作る際に最初に猿田彦大神を招いたとされる)神明神社。物部神社(物部氏祖神)。玉姫神社(子孫繁栄・産業発展を願い招いたとされる)本殿後方。手前の神門の先に金祥稲荷本殿、右に5本の鰹木に外削ぎの載せ千木が付いた金神社本殿、何れも流造。正面の拝殿は横繋がりで一体になっていますが、拝殿から先はそれぞれ拝殿、幣殿、本殿と一体になっており、上から見ると凹型になっている様に思えます。社殿は修復を終え間もないため、塗りも建物も綺麗なものです。境内東側の参道、鳥居は石造の明神鳥居で個人的にはこちらの方が趣があっていいように思う。ここから境内に進むと金色の龍がいる手水舎に続きます。金神社創建 / 成務天皇5年(135)祭神 / 金大神境内社 / 金祥稲荷神社、賀夫良城社、金高椅神社、秋葉神社、猿田彦神社、神明神社、物部神社、玉姫神社所在地 / 岐阜県岐阜市金町5-3公共交通機関 / 名鉄名古屋駅➡名鉄岐阜駅➡北へ徒歩10分参拝日 / 2023/10/28関連記事 / ・伊奈波神社・秋葉山本宮秋葉神社
2023.11.29
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吉田城(今橋城)のある豊橋公園からすぐ南の八町通に鎮座する安久美神戸神明社。社地の西には大正時代に建てられた豊橋ハリストス正教会(当日は修復工事中)があります。国道1号線沿いに社頭を構え、神明鳥居の右に「縣社 神明社」社号標がある。ここから社殿までまっすぐに参道が続くが、参拝者駐車場を兼ねた参道でニノ鳥居の前も公道が横切っており車の出入りが多く注意が必要。ニノ鳥居から安久美神戸(かんべ)神明社境内の眺め。境内は左に社務所と神楽殿、護国神社、正面の社殿と左右に境内社、右手に手水舎と神輿庫が主な建物、シンボリックな大きな松が聳えている。この日は東田神明宮の手筒花火を見に訪れたこともあり、陽が傾き始める時間ですが、地元の方が入れ代わり立ち代わり参詣に訪れる姿が印象に残った。安久美神戸神明社は豊橋神明社とも呼ばれ、毎年2月11日に行われる国指定重要無形民俗文化財の神事「赤鬼と天狗のからかい」で知られ、地元では知名度の高い神社。創建は古く、社伝によれば天慶3年(940)とも云われ、平将門の乱が平定され、朱雀天皇により伊勢神宮へ飽海(あくみ、安久美)荘を神領として寄進した際に当地の繁栄を祈願したことが起こりとされています。境内右の手水舎と赤鬼が飾られた神輿庫。手水鉢とさざれ石。この祭りは1000年以上前に地元飽海郷の五穀豊穣を祈願した田楽からはじまり、神楽が融合され形態を変えながら現在に受け継がれてきたものという。赤鬼と天狗のからかいのクライマックスでは鬼たちがタンキリ飴を撒き、その餅粉を浴びると福が授かれるらしい。神輿庫の入口にその際の写真が掲げられていたが、餅粉が霧のように舞い上がり、福を得るには相当覚悟がいるようだ。神輿庫の扉は解放され、保管されている神輿が公開されていました。この神輿も粉まみれになるのだろうか、一度は見に行ってもいいか。社殿全景、拝殿手前の境内に伊勢神宮遥拝所があります。拝殿右の境内の眺め。中央の玉垣に囲まれた松の木は東照宮御腰掛松と呼ばれ、現在の豊橋公園内に神明社が鎮座していた頃、家康(竹千代)がこの松の傍らの大石に腰掛け祭りを見物していたとされ、明治18年に現在地に遷座後も植え替えられた松と家康が腰掛けた大石が残されている。右の社は猿田彦社、鳥居の先は稲荷社と三峯社の二社相殿。猿田彦社全景。祭神は導きの神 猿田彦大神。創建や伊勢から勧請したものかなど詳細は不明。奥の稲荷社と三峯社。稲荷社 祭神 宇迦之御魂命。三峯社 祭神 伊邪那岐命、伊邪那美命。境内左の光景。神楽殿。安久美神戸神明社の旧鎮座地に旧日本軍の部隊が置かれましたことから、明治18年(1885)に当地に新たに社殿が造営され遷座します。社殿は昭和5年(1930)に入り現在の姿に造営されますが、神楽殿だけは移築された当時のものだと云います。新しい拝殿や本殿に対し、神楽殿の外観に年代の違いを感じるのはそうした違いからきている。神楽殿右の護国神社。拝殿左の境内社。唯一狛犬を構える社。年代は未確認ですが、昭和の造営時に寄進されたものかと思います。こちらの社は外宮社、伊雑社、高宮社の三社相殿。外宮社 祭神 豊受比賣神。伊雑社 祭神 伊佐波止美命、玉桂塵比賣命。高宮社 祭神 伊吹戸主神。拝殿前の伊勢神宮遙拝所。八角形に石が積まれ、伊勢神宮遙拝所として、祭礼の儀式の場として使われているようだ。稲荷社側から拝殿、幣殿の眺め。同、本殿の眺め。鰹木は6本、千木は内削ぎの神明造。拝殿。上拝殿横の由緒。「祭神は天照皇大神。配祀 八幡大神、秋葉大神、菅原道真。飽海神戸の総社で、明応6年今川氏親の命により牧野古白がこの地に今橋城築城の際社殿を改築し城内鎮守の神と崇め、今川義元、徳川家康より30石の社領の寄進を受ける。歴代城主、庶民から崇敬され、元社殿は当時の勅任技師角南隆氏の設計により昭和5年竣工。例祭 2月10日・11日神事(重要無形民俗文化財)鬼祭」下国登録有形文化財 安久美神戸神明社本殿始め5棟 平成22年9月登録。拝殿から幣殿内の眺め。社殿は新しく、少し趣に欠けるかもしれないが、長い歴史を持ち、それとともに受け継がれて来た鬼祭りや家康との所縁のある史跡など飽海の郷と共に歩んできた古社だ。安久美神戸神明社創建 / 天慶3年(940)祭神 / 天照皇大神、配祀 / 八幡大神、秋葉大神、菅原道真境内社 / 猿田彦社、稲荷社、三峯社、外宮社、伊雑社、高宮社、護国神社例祭 / 鬼祭 2月10日・11日所在地 / 豊橋市八町通3-17参拝日 / 2023/10/14奮藩祖・豊城神社、彌健神社から安久美神戸神明社 / 南へ徒歩10分程関連記事 / ・東田(あずまだ)神明宮・手筒花火発祥之地 「吉田神社」・豊橋市今橋町「奮藩祖・豊城神社、彌健神社」
2023.11.26
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川越氷川神社。氷川神社表参道。瘡守社から北に向かい20分程、三叉路の突き当りに社頭がある。氷川神社への入口は写真の石鳥居を構えたここと、社頭から右に向かうと左に大鳥居を構えた広い参道、そして社地北側を流れる新河岸川沿いの脇参道の三か所があります。宮下町日本武尊山車庫。三叉路の手前にあり、川越氷川祭の山車行事で曳航される川越市登録歴史文化伝承山車「日本武尊の山車」を保管しています。川越氷川祭は、慶安5年(1648)に時の城主だった松平信綱が、川越に町をあげた祭礼がない事から祭具を寄進し、江戸の天下祭り様式に則った神幸祭を奨めたこともあり、元禄11年(1698)初めて踊屋台が出たのをきっかけに300年を越えた現在に受け継がれ、川越の蔵造りの残る町並みを煌びやかな山車が曳行される。こうした山車は川越には29台受け継がれているようで、有形民俗文化財や歴史文化伝承山車に指定されているようです。2016年には「川越氷川祭の山車行事」として、ユネスコ無形文化遺産「山・鉾・屋台行事」に登録されたそうだ。普段はシャッターが下ろされ、見る事は出来なかったが、10月第3土・日にはその姿が見られる。社頭右の風鈴。7月から9月にかけて川越の夏の風物詩縁結び風鈴廻廊が行われますが、参拝時は既にその時期を過ぎており江戸風鈴が吊るされた廻廊は見られませんでした。氷川神社社頭全景。石造靖国鳥居とその先に石造明神鳥居の二つを構えてる川越の総鎮守。創建は古く、歴代の川越城主からも庇護を受け、川越城下の人々から崇敬されてきた神社で、縁結びや夫婦円満の御利益があるとして今も多くの参拝客で賑わう。社頭から右手に向かい、朱の大鳥居が聳える参道から境内に向かう。大鳥居は朱塗りの明神鳥居で、高さは15㍍の木製鳥居。木製鳥居では国内唯一の規模を持つそうです。扁額の文字は勝海舟の揮毫とされる。鳥居をくぐった参道左に小川が流れる庭園があり、注連縄の張られた岩と奥に小さな社が祀られています。澄んだ細い流れを境に参道脇に庭園が造られています。戌岩。「その姿が鼻先を神前に向けた戌(犬)の形をしていることから名付けられた。犬はお産が軽く多産であることから、古くから安産・子宝を象徴する動物とされます。今日でも毎月戌の日には祈願に訪れる参拝客が多い。祈願の作法はこの戌岩の鼻先を撫でるといい。」想像力の乏しい自分は解説のように見えないことが多い。この角度から見る岩は、穏やかな表情をし、垂れ耳で頬肉が垂れた大型犬の横顔と健康的な鼻が良く分かる。二人の子育てを終え、この歳で子宝もないが、鼻先を撫でさせてもらった。参拝に訪れた若いカップル、どちらかが撫でようもんなら、それは無言のアピールとして捉え、年貢を納める時期と悟った方がいいかもしれない。戌岩の前の御神水。鉢の底から絶え間なく地下水が湧き出し、苔とシダを育んでいる。御神水は自由に汲み取って持ち帰り、煮沸し飲用してもいいらしい。水神。現在は一筋の細い流れですが、往古は御手洗川という小川が流れ、神社脇の上尾街道を通る人々の喉を潤してきたという。そうした恵みをもたらす水源にはこうした水の神様が祀られます。蛇口を捻れば飲適の水が出るのは当たり前、電気は自給できても命の水はやすやすとは賄えないだけに、当たり前に感謝する意識はもはやないのかもしれない。祭神は弥都波能売神(ミヅハノメノカミ)。境内全景。右が拝殿でこの左手に二つの鳥居がある、奥は八坂神社。境内左には授与所と舞殿が主な建物。拝殿右は護国神社。明治14年(1881)、川越出身の西南戦争以降の戦没英霊をお祀りするため創建された。氷川神社拝殿。入母屋平入の銅葺屋根で現在の拝殿は1874年(明治7)に改築されたもの。氷川神社境内マップ。社地は新河岸川の右岸の杜に鎮座し、広い社地の半分が社殿、残りは会館が占めており、意外に境内は狭い。当日は七五三の御祈祷に訪れた家族連れと大陸から訪れた観光客が多かった。以下はHPから引用。「川越氷川神社は今から約1500年前、古墳時代の欽明天皇(507~571)二年に創建されたと伝えられています。室町時代の長禄元年(1457)、太田道真・道灌父子によって川越城が築城されて以来、城下の守護神・藩領の総鎮守として歴代城主により篤く崇敬されました。江戸時代に入っても歴代の川越藩主から社殿の造営や特別の計らいを受けました。現在の本殿には緻密な彫刻が施されており、県の重要文化財となっています。また、昔より縁結びの神様としての信仰を集め、人々のご縁を取り持ってまいりましたのは、お祀りしている五柱の神様(ご祭神)にあります。」お祀りされる五柱は主祭神の素盞鳴尊の他、脚摩乳命と手摩乳命の夫婦神様と娘であり、素盞鳴尊の妃神でもある奇稲田姫命、そして、素盞鳴尊と奇稲田姫命の子で縁結びの神様として知られる出雲大社の大己貴命の五柱の神様。入母屋銅葺屋根の舞殿。舞台の正面に一本の老松と左右の脇戸に松と鶴が鮮やかに描かれている。舞殿左の覆屋は境内社の一つ柿本人麻呂神社。本殿前の狛犬。御祭神は柿本人麻呂。歌道・学問に優れた柿本人麻呂をお祀りする。直系の子孫、綾部氏が戦国時代に川越に移住してきたことからお祀りされるようになった。歌道・学問の神様、安産・火防の神様として古から信仰を集めている。柿本人麻呂を社名に冠する神社は初めてお目にかかるかもしれない。拝殿左の八坂神社。「八坂神社は素盞嗚尊・奇稲田姫命をおまつりする摂社。毎年7月には例祭・八坂祭が行われ、お神輿が街中を巡行します。八坂祭では神前にキュウリを2本お供えして1本を持ち帰り、このキュウリを食べると夏負けしないといわれています。京都の八坂神社の神様で、かつては牛頭天王とよばれ、疫病退散のご神徳があります。」この社殿は寛永14年(1637)に江戸城二の丸の東照宮として建立されたが、後に空宮となった事を契機に明暦2年(1656)川越城内の三芳野神社の外宮として移築、明治5年(1872)に氷川神社境内に移築されたもの。拝殿脇の社殿解説。朱塗りの本殿は内部は見られませんが、外観には東照宮らしさが漂っています。氷川神社拝殿。「欽明天皇の時代に大宮市の武蔵一宮から勧請されたと伝えられ、江戸時代には川越城下の総鎮守となり、歴代の城主をはじめ城下の人々の厚い信仰を得てきました。嘉永3年(1850年)に建てられた本殿は、川越まつりの山車の人形を主題にした彫刻がほどこされています。拝殿左に本殿を周回する参道があり、入口には無数の絵馬が吊るされた絵馬廻廊があります。絵馬廻廊を抜けた本殿左側には境内社20社が纏められています。上は右が琴平神社、御嶽神社。下は蛇霊神社。上は三峯神社。下は右から雷電神社、嶋姫神社、水神社、厳島神社、疱瘡神社、子ノ権現社。上は右から春日神社、稲荷神社、左の石標が小御嶽神社。下は右から八幡神社、馬頭観音、松尾神社、菅原神社、加太栗島神社、日吉神社、稲荷神社。本殿。玉垣で囲われた本殿域には一対の狛犬と銅製燈籠が見える。本殿は入母屋銅葺屋根の平入で千鳥破風と唐破風向拝が付くもの。天保13年(1843)に起工し嘉永2年(1849)に竣功したもの。一見して視線を釘付けにする色彩や意匠は見られないが、当時の名工とされる嶋村源蔵による精密な彫刻が全周に施されておりそれは見事なもの。氷川神社本殿。以下はHPより。「江戸後期に川越城主松平斉典公の寄進と氏子の寄付によって建立されました。ご本殿には木の良さを生かした江戸彫とよばれる関東特有の精緻な彫刻が全面に施されており、名工嶋村源蔵・飯田岩次郎が7年の歳月をかけて彫りあげたものです。これらの彫刻はそれぞれ川越氷川祭で繰り出される山車に乗る人形をモチーフにしています。江戸時代の名工の技が静かに息づくご本殿は県の重要文化財に指定されており、大森貝塚を発見したことでも有名なE.モースも本殿の彫刻を見てその緻密さに驚いたといいます。また、モースは当社のお札をアメリカに持ち帰り、保存しました。」全周は透塀に囲われ細部を見る事は難しいですが、虹梁、肘木をはじめ「強度大丈夫か?」と思いたくなる程彫りこまれている。遮るものなく一間〃じっくりと眺めてみたいところですが、まだ次の予定もあり氷川神社を後にする。帰りは正参道から手水舎の龍にご挨拶。平日とはいえ多くの参拝客、縁結びを祈願しに訪れる女性の参拝客が多いのには驚いた。ニノ鳥居扁額。黒地の額に金で「川越総鎮守 氷川神社」とある。ひと昔前に小渕さんが掲げた「平成」の元号を書かれた蜂城河東氏の揮毫によるもの。正参道から訪れた際にはニノ鳥居を見上げて見ては如何だろう。川越 氷川神社創建 / 欽明天皇二年(540)祭神 / 素盞鳴尊、脚摩乳命、手摩乳命、奇稲田姫命、大己貴命境内社 / 八坂神社、柿本人麻呂神社、護国神社など所在地 / 川越市宮下町2-11-3瘡守(カサモリ)社から川越高校方向に北へ / 20分程参拝日 / 2023/9/25関連記事・一泊二日武藏國一之宮巡り 一日目「川越市」・浄楽院 光西寺 (川越市小仙波町)・星野山 無量寿寺 中院・南院遺跡・仙波東照宮・川越大師 喜多院・喜多院 「白山権現、仙波日枝神社」・瘡守(カサモリ)社
2023.11.25
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11/23土岐市曽木町にある曽木公園の紅葉ライトアップ、35年間開催されて来たが今年で最後となる。かみさんが最後くらい見ておきたいと云う事で出かけました。平日だった事もあり午後に家を発ち、市内を出てからは渋滞もなく、山道では先行車・後続車とも出会う事もなく15:00には到着。到着した時刻には曽木公園前の無料駐車場は既に満車、ライトアップには当然早い。「バーデンパークSOGI」でライトアップまでのんびり風呂に入り、晩御飯を食べてから見ようと考えていました。曽木公園の向かいにある日帰り入浴施設「バーデンパークSOGI」の施設利用者は、公園周辺の駐車場が満車であろうが気にすることはない。(虚偽申告で施設に駐車の場合施設利用料徴収)施設は入湯料600円と高くなったスーパー銭湯に比較すると懐に優しい。レストランも有りますが、訪れた時はなぜだか14時に終了しており、晩御飯を食べ損ねる。露天・内湯・サウナ・大好きな電気風呂もあり時間は潰せるのだが、くつろぎスペースが少なく、再入場も出来ないので車で時間潰しも出来ない。とはいえ、この季節日没も早く17:00には暗くなるのでライトアップされた紅葉は楽しめる。人で溢れる公園に向かう。地元の方による出店もあり、豚汁やコロッケなどが平均300円ほどで販売されていました。公園へは協力金300円を支払い入場します。この日はTVの中継車も入りさほど広くもない公園はすし詰め状態。公園内には4つの小さな池があり、その周囲にもみじが植えられライトアップされた紅葉が水面に映り込む。事前の下草狩りから池の清掃、照明のセッティングなど地元住民の手作りで運営されてきました。山間地で当たり前のように進む、人口減少や住民の高齢化により今年をもって最後となります。水面に映し出されるもみじも今年が見納めです。沢山撮り納めた中から人の映り込みの少ないものを数枚あげます。水面に写るもみじはどこの池でも美しく見られます。人の集まる池は決まっており、その周囲には黒山の人垣ができ、密集状態で無理に割り込むと前の人は押されて池に落ちかねない状況。瑠璃光院の紅葉を彷彿とさせるものがある。瑠璃光院は最前列の人が屈んでくれるので、後ろからでも鑑賞できますが、ここは最前列で立って眺めるので、車椅子やベビーカーの子供連れにはとてもじゃないが近づけない。かみさんや自分も人垣の中に紛れ込もうとしたが諦める。他の池も同様に美しく、無理に紛れ込む必要はないと感じる。池に落されるよ。空が暗闇に包まれると水面に黒い空を背景にライトアップされたもみじが浮かび上がる。交通整理を終え、お風呂で温まる地元の方々の会話が耳に入ってきたた、「平日でこれだろう」「今年は紅葉はダメ」とか聞こえてきました。確かに、今年の紅葉は、「も」と云った方がいいのかな、鮮やかさに欠ける。紅葉する前に枯れていく感じで、雑誌やTVなど盛られた絵を見てガッカリすることが多くなってきた。19:00前には公園を後にして家路に向かうが、公園に続く国道363号線の対向車線は、公園の手前約1㌔から駐車場待ちの車が連なりピタッと止まったままだった。帰り道も至って順調、対向車は少なく周囲は真っ暗、途中曲がる場所を見落としたが、それでも行きより早く市内に戻ってこられた。御飯は食べ損ねたが最後の曽木公園ライトアップ十分堪能できた。曽木公園もみじのライトアップは11/25まで。バーデンパークSOGI (https://www.badenpark.net/index.php)所在地 / 土岐市曽木町1300-1入湯料600円レストラン有り(11/22は14時終了していた)露天・内湯・サウナ・電気風呂・ドラライヤー有湯質 / 塩素臭強目の無色透明名古屋市役所から曽木公園 車アクセス / 45㌔・約80分訪問日 / 2023/11/22
2023.11.24
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10月10日この日巡った西春日井郡豊山町と小牧市の神社巡りは、日吉神社、秋葉神社をもって一旦終えますが、車を止めた神明公園に向かう道すがら、西春日井郡豊山町青山で幟旗をはためかせた八劔神社の社頭が目に止まり立ち寄ってみました。過去に何回か訪れていますが、こうして神社幟をはためかした社頭の姿は初めて見る光景。ここはひとつ写真に収めておこう。この時期、陽が傾くのも早くなり、空はまだこんなに青く明るいのだが、境内は社叢の長い影に包まれ始めていた。秋祭りの前後だったのかな。八劔神社拝殿妻壁の彫飾りは相変わらず見事なものだ。境内は更に暗くなり「早くお帰り」とでも云われているようだ。だんだん行動時間も制限され、寒さが増してくる時期になってきました。参拝日 /2023/10/10日吉神社から八劔神社 / 41号線を越え東進10分程関連記事 /・日吉神社、秋葉神社・稲荷社・多気十二柱神社・多気神社・坂庭(さかにわ)神社過去記事・八劔神社
2023.11.23
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手筒花火発祥の地「吉田神社」から豊川に架かる吉田大橋へ。そこから次の目的地「彌健神社」のある吉田城方向を眺める。吉田神社から北に数分の国道1号線の豊川に架かる吉田大橋から豊川と吉田城の眺め。吉田城の本丸には所謂天守はなく、四方に櫓を設けたもので、現在はそのうちの一つの鉄櫓が昭和29年(1954)に復元されています。豊川左岸沿いに本丸北側の「北御多門跡」に続く歩道が整備されており、積み方の違う石垣が本丸に続く。河畔沿いから見上げる鉄櫓はなかなか迫力がある。本丸から眺める鉄櫓(くろがねやぐら)。吉田城は四隅の櫓で構成され、天守は持たなかったようで、写真の鉄櫓が天守の機能を持っていたとも云われます。城は1505年に牧野古白が築城した今橋城を改称したもので、天正18年(1590)に池田輝政により整備・拡張に着手されたが、輝政の播磨姫路への移封にともない、事業は頓挫し輝政が描いた吉田城は未完成のままで廃城に至った。城内には石垣や車輪、掘割の一部が遺構として残り、訪れた時は本丸の南側の石垣の復元作業が行われていました。上は幕末に描かれた吉田藩士屋敷図の城内拡大図。後に明治政府の廃城令に伴い取り壊され、その後は旧日本軍の部隊がこの地に置かれました。城の遺構より旧日本陸軍の痕跡が多く残っており、現在の城内は市役所や美術館、スポーツ施設のある豊橋公園に整備されています。本丸から西側に進んだ左が彌健神社のある金柑丸跡となります。そこには「奮藩祖・豊城神社」と刻まれた社標と、奥に大きな石碑とその奥に彌健神社の鳥居の姿があります。まず最初にここ奮藩祖・豊城神社、彌健神社に社殿はありません。奮藩祖・豊城神社は、吉田城二の丸に鎮座していましたが、城外の豊橋市東田町北蓮田に源頼政を祀った豊城神社を建立した事から、社殿や吉田藩の膨大な記録などは全てこちらに移されたようです。なのでこの石標は奮藩祖・豊城神社跡とみるべきかもしれません、礎石らしいものも残っていません。石標から鳥居に向かう右側の大きな石碑は「歩兵第十八聯隊之址」と刻まれおり、豊橋公園の入口の門など旧日本陸軍の施設の痕跡が残されています。奥に進み鳥居の前から全景を眺める。鳥居右に「彌健神社」と刻まれた石標があり、その奥の靖国鳥居の柱の一方には「昭和8年4月3日建立」とあり、もう一方には「奉納・三遠国防義会」と記されていた。更に進んだ右手に手水鉢(寄進年未確認)、その奥に金柑丸稲荷社跡の石標が見られた。金柑丸稲荷社は築城とともに城内に祀られたもので、後の明治11年(1878)に前回掲載した吉田神社に遷座されたもの。参道を進むと本来は彌健神社の社殿があるべきところに一体の銅像があります。その銅像は神武天皇。銅像右手の略記。それによればこの像は明治27~28年の日清日露戦役後に戦勝記念として建てられたもので、銅像の顔は時の明治天皇をモデルとしたもので気高い風格を魅せる。三河・遠江・駿河・伊豆の四か国の浄財で建てられ、愛国魂のこもった権化として崇敬された。しかし後の太平洋戦争の敗戦から八町練兵所から、ひそかに御安奉の場として遷座に至った。昭和40年、ここ吉田城跡の本丸出ぐるわの一角の保食神金柑丸稲荷を祀った清地に、仮の御座所として再び銅像設置に至ったとある。尚、この銅像の作者は不明なのだと云う。つまりは愛国のシンボルとして、初めて国を治めた初代天皇とされる神武天皇を祀り、練兵場内の営内神社として設けたのが彌健神社のようです。本来ここに社殿があってしかるべきだろうが、一時期に於て愛国神や国の象徴として崇敬するには目に見える姿のこうした像が必要な時もあった。終戦以降、戦争のない平和で穏やかな日々があたりまえとなってしまったが、日本の長い歴史の中で戦争のない穏やかな日常は僅か100年にも満たない。今世界を見渡せば火薬の臭いが漂う怪しい状況になっている、満足に自国で賄えない国がいつまでも穏やかであって欲しいが、僅か100年にも満たないぬるま湯が、冷水に変わらないと云えるだろうか。戦時中の遺構を目にすると、平和に感謝する自分と、平和ボケした緊張感のない自分、いろいろと考えさせられる。吉田城金柑丸奮藩祖・豊城神社 / 東田町北蓮田に豊城神社として移転彌健神社 / 明治32年(1899)八町練兵場の南に鎮座、大正5年(1916)現在地に移転金柑丸稲荷社 / 明治11年吉田神社へ遷座所在地 / 豊橋市今橋町3(吉田城内金柑丸)訪問日 / 2023/10/14吉田神社から吉田城 / 国道一号線歩道橋を越え、今橋遊歩道で北御多門跡まで15分前後関連記事 / ・東田(あずまだ)神明宮・手筒花火発祥之地 「吉田神社」
2023.11.20
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瘡守(カサモリ)社。喜多院から北に10分程の川越市久保町、県道15号線北側の緩やかな高台の住宅街の一画に鎮座します。当初は素通りしようと思いましたが、棟の水板の意匠に視線が行き立ち寄ってみた。県道から一筋上った左角に、東西に長い瘡守(カサモリ)社の社地が見えてきます。東を向いた社頭に社標はなく、社頭から奥まったところに神明系の靖国鳥居が立つ。大正12年(1923)健之の石造鳥居から拝殿の眺め。木造瓦葺の切妻で平入の拝殿。外観はいかにも生活と密着した集落の神社の佇まいですが、棟瓦ののし瓦と呼ばれる側面に注目すると手の込んだ意匠が施されています。一般的に棟の瓦はのし瓦が積まれ、その頂に冠瓦が載り、棟の側面はのし瓦の端が見えるもの。遠目に見ると波と龍らしき姿が描かれた水板のようにも見えます。水板とは側面を面でカバーする瓦で覆われ、そこには様々なデザインが施されたりします。個人的に水板は無地のキャンバス、ここは瓦氏の腕の見せ所だと考えている。近付いてよく見ると水板ではなく、波はのし瓦で青海波をデザインし、そこに龍が施されたもの。拡大すると、白い体の大きく口を開けた龍が描かれており、鮮やかに彩色された跡も残る。鱗の細かな部分まで描かれ、今にも動きだしそうな見事なもの。小さく素朴な拝殿ですが、意匠に拘った棟瓦が瘡守(カサモリ)社の見所かも知れない。拝殿額は「瘡守社」とある。神社の由緒書きは置かれていませんが、瘡(かさ)から守ってくれる社名からすると、かつてこの地に流行病が迫ってきた時期があったように窺われる。人々が恐れた瘡が梅毒だったのか或いは天然痘、それとも他の感染症だったのか川越の地史を調べるしかないが、流行病の正体や治療法も確立しない時代、救いを求めるため創建されたものだろう。こうした得体の知れぬ病から守っていただく神社は瘡守社に限らず各地で目にすることができる。過去の事のようになってしまったが、国内にコロナが上陸し誰もが怯え、マスクやアマビエを求め東奔西走した時期もつい最近の事。ひとたび得体の知れない流行病が蔓延すれば、人々が取る行動は昔も今も変わらない。こちらの参拝方法は災いから逃れるため、土で作った団子を神社に供え祈願し、心願成就の暁には米の団子を供えお礼をするのが習わしだと云う。土団子は用意できないが、格子から賽銭を入れ参拝させてもらいました。覆屋の下に祀られる本殿は6本の鰹木と内削ぎの千木が付く神明造。本殿前には幾つかの小さな狛狐が安置され、稲荷であることが分かる。武蔵三芳野名勝図会に目を通すが、瘡守の名は記されておらず、神社庁からも創建や祭神は分からなかった。詳細は全く分からなかったが、鳥居が寄進された大正時代を始まりと仮定すると、明治から大正の川越を見ていくと病の正体が見えてくるのかも。或いは歴史のある川越、瘡守社が必要になったのは更に遡るのかも、いずれにせよ訪れた当日は土で作られた団子は供えられていなかった。境内北側から社殿側面の眺め。瘡守(カサモリ)社創建 / 不明祭神 / 不明所在地 / 埼玉県川越市久保町4-8日枝神社から北へ向かい県道15号線を越え一筋目 / 北へ10分参拝日 / 2023/9/25関連記事 / ・一泊二日武藏國一之宮巡り 一日目「川越市」・浄楽院 光西寺 (川越市小仙波町)・星野山 無量寿寺 中院・南院遺跡・仙波東照宮・川越大師 喜多院・喜多院 「白山権現、仙波日枝神社」
2023.11.19
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2023/11/16WRC最終戦のRALLY JAPANが11.16~19、愛知・岐阜県の各コースで開催されています。初日豊田スタジアムで行われたSSS(スーパースペシャルステージ)観戦のため、出かけて来ました。名古屋から地下鉄で約1時間で豊田市へ。スタジアムに向かう道すがらにはWRCを盛り上げる趣向が施されていた。ラリーなんてのは遥か昔の若い頃、当寺市販車の外観をした荒れ地を疾走するモンスター車に憧れ、そんな車を買い求め構造申請し、ラリーやダートラに参加。ゼッケンを貼った車を泥〃にして、ある時は壊しながら走り、そんな小汚い姿で公道はのんびり走るのが自分なりの美学だった。そんなウキウキした時代も遥か昔、今やこんな事すれば車が可哀そう、腰が悪くなる、金の無駄とさえ思えていたが、WRCが国内で開催されるようになり、若い頃のワクワク感が蘇っていた。「なにが楽しいのか分からん」と言っていたかみさんを洗脳、WRCのチケットを買ってもらってこの日を迎えた。豊田スタジアム。随分と消しゴムマジックで人は消したが、ラリー見たさに訪れる人が多いのに驚いた。到着したのは昼前かゲートやスタジアムのポップが気分を盛り上げてくれた。スタジアム内は芝が剥がされ、全面舗装(ターマック)された特設コースが作られ、ここを往年の名車やWRCで鎬を削る最新鋭の車、各カテゴリーの車が疾走する。懐かしい名車が今も整備され、こうして競い合う姿は還暦を過ぎた爺が若い頃にタイムスリップしたようだ。マルティニカラーのフェラーリやランチア、国産のセリカ、バイオレットやスバルなど歯が抜け落ちる事無く牙は健在。時には老体に鞭をうちすぎ心臓バクバクの車もあったが、遅い早いにかかわらず、走る姿そのものがおやじ世代にはなにより嬉しい。昔の車はボンネット開ければ地面が見えたものだが、近頃の車は訳の分からん物で埋め尽くされ地面も見えず、迂闊に手も出せないし、外観も似たり寄ったりでワクワクさせるものが全くない。年の離れたかみさんは「凍ってるね」のあの車が記憶に残るらしい。各カテゴリーのラリー車がスタジアム勢揃い。このセレモニーが今一つ。これは主催者側の進行の力量なのだろうが、なんというのか間が多い。照明で盛り上げてはいるが、折角ここに集結したのだから、下のカテゴリーの選手まで紹介して欲しかった。インタビューもなくセレモニーが終わるまで車の傍らに立ちすくむのは気の毒に思えてならなかった。世界を転戦するWRCと見た場合にも盛り上げ方が今一つ、全てが決まった最終戦と言う事もあるが、ここを上手くすれば、ポイントやメーカー選手権を争う緊迫した時に開催される希望もあるのだが。スタジアムを爆音とともに疾走するラリー車、派手にドリフトさせる車、派手に飛んで自滅する車、路面に貼りつく様に走り去る車など見ていても楽しかった、なにより時間勝負の孤独なラリーが、ここでは2台同時にコースで走り競り合う姿はここでしか見られない。2分少々ですが勝田(トヨタ)とタナク(フォード)の鬩ぎあいを以下のYouTubeにして見ました。「2023RALLY JAPAN SSS」本当に残念なのが、時間を鬩ぎ合っているのだが、走行タイムや順位の表示もされず、反響して何を言ってんだか聞き取れないアナウンスが響きわたるだけで、今の順位を知りたくとも観戦者には情報がなく、白熱した秒を争うドライバーの気持ちが伝わりにくいと感じた。会場がドライバーと一体となれる改善が欲しい。最後は結果の発表もなく、なんとなく終わった感じで退場のタイミングも良く分からなかった。成熟することが来年につながるのかな。これを書いている二日目は波乱の展開のなかトヨタ勢が盛り返しているようです。なんとなくスタジアムから退場し豊田駅に向かう。Rally JapanのイルミネーションとXmasイルミネーションがなかなか綺麗でした。電車の乗り継ぎに恵まれながらも家に辿り着けば間もなく日が変ろうとしていた。ちょっとばかし若い頃に戻れたようで楽しい一日でした。・WRC RALLY JAPAN 公式サイト
2023.11.18
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2023/11/8、コストコへ買い物に行く機会があり、コストコに向かう前に春日井市高蔵寺町に鎮座する山王大権現を訪れてきました。前回こちらを訪れたのは9月、当時は山々も青々としていたが、早いもので11月となり、こうして見る東谷山の緑も少しばかり紅葉をはじめたようにも見えます。赤のマーカーが高蔵寺と山王大権現の位置関係。高蔵寺の山門から100㍍程東に向かい、山沿いの細い道の左側に山王大権現の参道があり、山を少し上った先に鳥居と本殿が鎮座します。参道入口の手前に「白龍大神」の石標がある。社がある訳でもなくこの石標だけのようでした。山王大権現参道は石標を過ぎた左側にあります。山王大権現参道。「高倉山ふれあい遊歩道」の看板とその左の山王大権現の社標が目印。社標は昭和37年寄進のもの。ここから看板右の坂を1~2分程上っていきます。坂を上り切ると左が天台宗の寺院高蔵寺の墓地となり、山王大権現は右の樹々が生い茂る斜面の石段の先らなります。石段には無数のシイの実が落ちており、秋の深まりを感じられる。毎日のように人里に熊出没のニュースが飛び交っていますが、こうした山の実が今年は凶作らしく、食糧を求め熊が里に下りて来るらしい。円の競争力がなくなり、かつて途上国だった国に食糧調達でも買い負けるようになり、食糧自給率の低い日本の行く末を熊たちが暗示している様だ。石段の先に山王大権現の鳥居が立てられています。木造の山王鳥居。柱後方に控柱が付き、額束には社名は記されていない。山王大権現の創建時期は定かにはならず、高蔵寺の鎮守としての位置付けなのか定かではないが、いずれにせよ高蔵寺、比叡山延暦寺の関りから創建されたものと思われます。鳥居と本殿が建てられるだけ斜面を切り開いた、こぢんまりとした境内。本殿は小型の流造で銅葺屋根のもの。本殿の懸魚。高欄には擬宝珠が付けられ、木鼻の装飾はシンプルなもの。本殿左後方に朽ち果てた不明社があります。不明社本殿は流造のようで、屋根は朽ち果てている。扉の前に白い小さな狐が置かれていることから、稲荷社かもしれない。この社へは一旦鳥居から下に降り、広場の左から参道が伸びています。この社殿は眼下の高蔵寺を見ているのか、遥か先の比叡山なんだろうか。石段を下り開けた場所を左に進むと写真の参道が現れる。石段の右手に小さな朽ちた社があるが、ひょっとして下で見かけた白龍大神の社か?稲荷社らしき本殿は正面に見えます。石段左に昭和28年建立の石標が立っているが、稲荷社らしき社標はない。落ち葉が積もった荒れた石段を途中まで進んで見ましたが、クモの巣が張り、進むのを諦める。上で見たように社殿は朽ち果て、扉前の白い狐だけが杜に浮き立って見える。結局稲荷社なのか確証は得られず、廃社なのかすら分からなかった。広場から行に上るのを見送った石段を下りてみました。石段を下りた左に白龍大神の石標が立てられています。深い杜に包まれたこの一角は、陽光降り注ぐ下界とは違う世界がある。山王大権現創建 / 不明祭神 / 大山咋命所在地 / 春日井市高座町境内社 / 不明社2社参拝日 / 2023/11/8高蔵寺から徒歩 / 山門から東へ1~2分関連記事 / 燈明山 高蔵寺
2023.11.17
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川越大師 喜多院の参拝を終え、山門を出てすぐ左側に一本の大きなもみじの樹があります。そこに石の明神鳥居と天海大僧正(慈眼大師)の銅像が立てられています。訪れた時には鳥居前の緑濃いもみじも、今頃は赤く染まり始めているかもしれない。右手の天海大僧正(慈眼大師)の概説は以下「喜多院第27世住職であり、会津高田(現 福島県会津美里町)出身。江戸時代初期、喜多院を復興しました。将軍徳川家康公の信頼あつく、宗教政策の顧問的存在として助言を行い、将軍も度々、川越城または喜多院を訪れています。108歳遷化後、朝廷より「慈眼大師」の称号を賜る」白山権現全景。大きな石の額には「白山権現」とあり、その先に見世棚造の社がある。紅葉のピークを迎えれば、真赤に染まったもみじに包まれた温かみのある姿を見せてくれるだろう。喜多院の山門横に鎮座していますが、立ち止まって参拝されていく参拝客が意外に少ない。目の前に喜多院の山門があるので気持ちはそちらに行ってしまうのだろうが、さり気無く鎮座する白山権現ですが、創建は喜多院創建と同時期の平安時代に遡る。白山権現は明治政府の神仏分離・廃仏毀釈により、修験道に基づいた白山権現は廃されます。白山三馬場もそれにともない、加賀国の白山寺白山本宮は廃寺、白山比咩神社に改められ、越前国の平泉寺も廃寺、平泉寺白山神社に改められ、美濃国の白山中宮長滝寺は長滝白山神社と天台宗の長瀧寺に分離されした。白山三馬場は何れも訪れていますが、特に平泉寺白山神社は神仏分離・廃仏毀釈により翻弄された痕跡が残り印象的だった。それまで白山権現を称した多くが菊理媛神を祭神とする「白山社」や「白山神社」など神社に改められました。鳥居の白山大権現の額が大きいのにもなにか意味有り気でもある。鳥居脇の解説を下に記載します。「白山権現天長7年(830)慈覚大師円仁が喜多院を創健された時に、天台宗修験道の霊場である白山より、守護神として白山の神仏の分霊を祀ったと伝えられています。右道路の向かい側の日枝神社は、同じく創建時に、天台宗の本山である比叡山麓の日吉大社の神様の分霊を祀った神社です。天台宗では、神仏習合といい、お寺も日本の神様にお守りいただきながら、神仏ともに礼拝し、人々の幸せをお祈りします。修験道=神様と仏様の両方の力を得る修行方法」白山権現創建 / 天長7年(830)所在地 / 埼玉県川越市小仙波町1-19-2関連記事 / 福井県勝山市平泉寺町 「平泉寺 白山神社」喜多院を訪れた際は、山門前の道路向かいにある日枝神社にも訪れて見たい。日枝神社。山門から徒歩1分程に鎮座し、石の明神鳥居と参道先の朱塗りの拝殿が印象的。天海大僧正(慈眼大師)が再興した喜多院の門前に南向きに社頭を構えています。天長7年(830)、慈覚大師円仁により喜多院創建のおり、鎮守として貞観2年(860)に近江坂本(滋賀県大津市)に鎮座する平安京の鬼門封じの日吉社(現 日吉大社)を勧請したものといわれ、東京赤坂に鎮座する日枝神社の本社にあたる。社頭の手水舎。鉢の寄進年を見忘れましたが、木造の手水舎は控柱が付くもので意外に新しく感じる。日枝神社は小仙波の町、喜多院の山門前に鎮座します。慶長17年喜多院に広大な境内と五百石の寺領を下し、日枝神社も二石が与えられ、喜多院境内に含まれていました。当時、喜多院が社務を務めていた頃は日吉山王社と号し、寺領小仙波村の鎮守として村人から崇敬されていた。寛永一五年の川越大火で喜多院は鐘楼門、山門を残し焼失したとされますが、日枝神社が被災したか否かは不明のようです。その後の大正13年(1924)に県道工事に伴い、現在の地にあった仙波古墳群のひとつを掘削し社地として遷座したもので、神社施設が新しく見えるのもそうしたことがあるのかもしれません。拝殿。入母屋銅葺屋根で朱塗りの拝殿とされ、宝暦一四年(1764)の再建とされる。拝殿右の玉垣で囲われた一画は、昔の井戸跡で不思議な言い伝えが残ると云う。この井戸は底が見えず、井戸に物を投げ込んでも一向に物音はせず、人々から「底なしの穴」と呼ばれていたそうです。ある時不思議な事に井戸に投げ込んだ物が近くの龍の池弁天を祀る双子池の水面に浮かび上がったと云われます。実に不思議な話、地下で双子池と繋がっていたとして、音も聞こえない深い井戸が機能したのか…夢のないことを思ったりする。拝殿横の解説。日枝神社本殿 付宮殿 一棟(国指定重要文化財建造物)「日枝神社は、慈覚大師円仁が無量寿寺(中院・喜多院)を中興する際に、近江国坂本(滋賀県大津市) 日吉社 日吉大社)を勧請したといいます。本殿は朱塗の三間社流造で、銅板葺の屋根に千木、鰹木を飾ります。三間社としては規模が小さく、架構も簡素です。見舎の組物は出三斗ですが、背面中央の柱二本は頭貫の上まで延び、組物は大斗肘木になっています。中備は置きません。 妻飾は虹梁大瓶束であっさりとしています。縁を正面だけにもうけ、側面と背面にはまわさず、正面縁の両端のおさまりは縁板を切り落としただけの中途半端なもので、高欄や脇障子をもうけないため簡易な建築に見えます。 庇は切面取の角柱を虹梁型頭貫でつないで両端に木鼻を付け、連三斗・出三斗を組んで中央間だけに中備蟇股を飾ります。ただし、この蟇股は弘化四年(1847)頃、修理工事の折に追加されたものといいます。 身舎と庇のつなぎは、両端通りに繋虹梁を架け、中の二通りに手挟を置きます。本殿の建立年代について、それを明確にする史料はありませんが、構造の主要部分は近世初頭の技法によりながら、装飾意匠の一部に室町時代末期頃の様式をとどめ、また、中央の保守的伝統的な技法によらない地方的な技法も見うけられます。虹梁に絵様をほどこさず袖切・弓眉だけとする点、庇木鼻の形状と正門に近い渦の絵様、実肘木の絵様、手挟のおおまかな斂形、などは室町末期の様式です。また、正面の緑のおさまり、大棟上に飾棟木をもうけず直接千木・鰹木を載せる点、背面の粗物だけを大斗肘木とする点、組物の枠肘木と実肘木が同じ断面寸法でかつ背と幅が同一な点、巻斗の配置が六支掛の垂木配置と関係なく決定されている点、などは地方的技法といえます。とくに枠肘木・実肘木の断面寸法、垂木割にかかわらない巻斗の配置は珍しく、幕府作事方に収斂される中央の木割法とは異なる設計システムが存在したことを推測させます。喜多院は慶長十七年(1612)頃に再興されており、 日枝神社本殿もその一環として造営された可能性もありますが、それ以前に地方工匠の手によって建造された可能性も残されています。」詳細に記され初めて訪れた者にはありがたい。仙波日枝神社の鎮座地の西側はこんもりとした盛り土があり、いかにも古墳らしさが残っています。仙波古墳群の一つで、約1500年前の仙波日枝神社古墳で前方後円墳だった云われます。社地の西側の歩道から見上げると日枝神社本殿が隠れてしまう程の高さが残っており、西側が後円部だったのかと思わせる。墳丘の東側は低く削られ、本殿を取り囲む玉垣沿いに見て廻れる。造りは解説の通り、縦切りカット(外削ぎ)の載せ千木に4本の鰹木が飾られています。三間の間の中央に室町時代に作られた厨子が安置され、中に日枝山王権現像が納められていると云う。綺麗な曲線を描く本殿の屋根。細かな意匠を避けたシンプルな姿です。北側道路から見る社殿。東角から眺める社殿。目立った傷みもなく鮮やかな朱色が印象に残る、古墳の上に鎮座する仙波日枝神社です。仙波日枝神社創建 / 貞観2年(860)祭神 / 大山咋命所在地 / 埼玉県川越市小仙波町1-4-1喜多院山門から東へ / 徒歩1~2分参拝日 / 2023/09/25関連記事 / ・一泊二日武藏國一之宮巡り 一日目「川越市」・浄楽院 光西寺 (川越市小仙波町)・星野山 無量寿寺 中院・南院遺跡・仙波東照宮・川越大師 喜多院
2023.11.14
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11月10日、車中泊で越前町の「越前カニ祭り」に行ってきました。11月6日越前ガニ漁が解禁以降、荒天で漁ができず、8日から出漁しカニのシーズンが到来。それに合わせて越前町の「道の駅 越前」で「越前カニ祭り」が開催される。開催日は11月11・12日、11月18・19日の土日。振舞いはなく朝市的な催しですが、地元の店舗が道の駅にブースを連ね、カニ汁やカニ飯など味わえる。事前の案内では「開催」とあったので、前日の10日にのんびりと下道だけで越前町の現地に向かう。移動日は10日は雨、寒気が南下し天候は下り坂。紅葉の時期いろいろと立ち寄りスポットの計画はあったが、色付きが悪くどこにも立ち寄らず越前に直行し温泉に浸かる事とした。名古屋を10時を過ぎに出発、休憩場所の滋賀県長浜市の道の駅「浅井三姉妹の郷」に12時30分着。関ケ原から長浜まで車窓から眺める山々の紅葉は車を止め眺めよう、そんな気にはならなかった。ここから国道8号線で敦賀に向かい、市内の地元スーパーで晩御飯と酒を買い求め、海岸沿いの国道305号線と漁火街道を経由し「道の駅 越前」に16時に到着。道の駅から越前海岸方向の眺め。雨は降ったり止んだり、低気圧が南下していたが、この時期にしては比較的穏やかで風もさほどではなかった。日本海から押し寄せる鉛色の雲は山に阻まれ、この時期いつきても雲が滞留するイメージしかない。若狭方向の眺め。時間潰しのため、竿と疑似餌を忍ばしてきたものの、消波ブロックと堤防が延々と続く海岸線に気軽に楽しむ場所はないようです。「道の駅 越前」全景。道の駅に近い駐車場は結構埋まっていましたが、道の駅から少し離れた駐車場は閑散としています。イベント前日に合わせ前泊の車も見られ、かみさんの意向から我家もここに駐車。トイレは21時まで道の駅の館内施設が利用でき、それ以降は向かいの「越前ガニミュージアム」駐車場トイレが利用できる。左方向のすぐ近くに24Hのコンビニがあり重宝しますが夜間のトイレ利用はできません。また駐車場の夜間照明が皆無なので、夜の移動の時はライトが必要。一息入れて道の駅へ、そこで見かけた観光マップ。これから冬本番を迎えると海岸線沿いの道路は雪と波の影響を受け思わぬことが起こります、厳冬期に軽い気持ちで訪れるのはやめたほうがいい。道の駅の前にある「越前ガニミュージアム」、隣接し海産物の売店、屋外トイレの施設がある。道の駅では明日のイベントに向け仮設テントの設営に大忙し。かにの漁期はズワイが11月6日から翌年の3月20日まで、セイコが12月31日まで、今回はこのイベントの他にセイコガニをふんだんに使ったセイコガニ丼を食べるのが目的。以前は梅浦漁港付近に予約なしでも食べられたが、今は大半が事前予約が必要。今回もそこを目当てに予約せず来た、駄目なら道の駅でも食べられます。敦賀で買い求めた地元の食材。漬物にサラダ、麩の辛し和え、他に左上の「フジバーグ」。これはご当地フードらしく、試しに一つだけ買ってみたがこれが美味しい。肉は豚と鶏のミンチで牛のように重くなく、甘辛タレがとても新鮮な感覚、軽い食感で病みつきになるもの。へしこ刺身は少し塩味が強いが、癖のある鯖が好きな方なら酒の肴にマッチする。地酒も買い求めましたが写真を撮り忘れてしまった。メインはちらし寿司、これで498なら安い。さあ一次会をはじめよう。TVは受信できますが、選択肢は少ないか。会場の準備は万端、少し早めに晩御飯を食べ、温泉で体を温めて明日に備えよう。道の駅併設の露天風呂「漁火」は料金520円で内湯とサウナ、日本海を望める露天風呂がありドライヤーも完備、街のスーパー銭湯を思えば安価。泉質はナトリウム泉で肌がすべすべになるいいお湯です。車中泊では電気敷布も持参しましたが、寒さはなくマットとシュラフで快適に過ごせました。夜間になって雨脚は強くなり、コンビニへビールを買いに行きましたが、外は風も強くなり本当にこれで開催できるのか多少心配になる。しかし雨天決行ということだった。夜中は深夜に到着した車のエンジン音、車が揺れるほどの強風と時折屋根に叩きつけるほどの強い雨、堤防の向こうでは重々しい波が打ち寄せ砕け散る音。ほんとやれるのかぁと考えながらも寝落ちして翌朝を迎える。翌朝雨はあがる。道の駅の様子を見に行くと多くのテントがたたまれ看板には「本日中止」の貼り紙。雨はあがってもこの風では……。前日準備していたあのテント、夜間たたみに来ていたようだ。ここで大きく計画変更を余儀なくされる、取り敢えずここにいても何も起こらない。セイコ丼は捨てきれないが時間が早すぎる、ここは帰りに道に立ち寄る予定の越前市大滝町に鎮座する岡太神社・大瀧神社へ向かう事にした。一山超えて越前市大滝町の岡太神社・大瀧神社まで小一時間。五箇地区と呼ばれるこの辺りは、1500年の歴史を持つ越前和紙の産地として知られる地域。目的地の岡太神社・大瀧神社はこの地区の一番奥まった場所に鎮座します。越前市大滝町13-1、岡太神社・大瀧神社。大徳山の麗に鎮座し、苔と杜に包まれた下宮とそこから御神体の大徳山を登った頂に鎮座する上宮を持つ神社。里には両部鳥居の一ノ鳥居と境内入口のニノ鳥居を構えている。和紙の里だけにマンホールにも和紙を漉く女性の姿がデザインされていた。この岡太神社・大瀧神社は1500年前、この地に紙漉きをもたらした紙の祖神とされる川上御前をお祀りした岡太(オカモト)神社が起こりとされ、延喜式神明帳の式内社にも記されている。大瀧神社は、推古天皇の時代(592~638)に大伴連大瀧が神様の降臨を請う「勧請」をおこなったことが起源とされ、養老3年(719)、泰澄が、国常立尊・伊弉諾尊を主祭神とし、十一面観世音菩薩を本地とする神仏習合の社を創建し、大瀧兒大権現(オオタキチゴゴンゲン)を建立したという。その際、別当寺として大徳山大瀧寺(後に破却)が創建され一時は48坊を有し社僧6700名を擁する一大勢力となったが、信長によりそれら焼き払われ一時は衰退したが秀吉・徳川、松平氏と保護を受け社殿は再興されていった。後の神仏分離により大瀧兒大権現は祭神を国常立尊と伊弉諾尊とする大瀧児(オオタキチゴ)神社に改め、明治8年郷社に列せられ岡本村の總社氏神となり社号も大瀧神社となり、昭和3年県社に列せられ、現在の岡太神社・大瀧神社となった。独創的な社殿を持つ神社で以前から訪れたいと思いながらも、近くまで来るのだが機会に恵まれなかった。写真はニノ鳥居、鳥居の両脇の大銀杏は落葉の時期を迎え参道を黄に染めていた。岡太神社・大瀧神社社殿全景。上宮の岡太神社と大瀧神社の遥拝所の位置づけで社殿を共にする。従って拝殿の扁額も両社の名が記されています。こうして見る下宮の社殿は、所謂拝殿の部分は入母屋妻入りの唐破風向拝が付くもので、後方の一間社流造で千鳥破風と唐破風の連なる本殿がひとつに繋がった実に複雑な造りで、屋根の連なりが実に美しいもの。紅葉を少し期待するが、周囲の樹々には常緑樹が多く、そうした環境ではないようですが、境内至ると櫓で見かける苔の美しさはなかなかのもの。神門から左手の大徳山山頂に続く上宮へも向かいました、独りで行くから車で待ってと云ってはいたが、かみさんも運動がてら上宮に向かうとのこと、中ほどの鳥居を過ぎた辺り、20分程登った行程の半分ほどで上宮参拝を諦め下山。そうさせた背景には熊と猿の出没が脳裏をよぎる。行き交う人も皆無、見通せない参拝道では大声や拍手も打つも、武器となるものを何も持たず、一緒に登り始めたかみさんの事を考えると、この時期にこれ以上深入りするのは避けた方が賢明と考えた、「戻ろう」と振り向くと、かみさんの手にはしっかりと木の枝が握りしめられていた。上宮までの所要時間を示す看板が参拝道になく、これだけは是非とも整備して欲しい。未練が残るがここで岡太神社・大瀧神社を後にして、新在家町の「越前和紙の里 パピルス館」に向かい御朱印を頂きに行く。岡太神社・大瀧神社所在地 / 福井県越前市大滝町13-1御朱印は越前和紙の里 パピルス館で頂けます。さてここで、どうしたものか。上宮に参拝できず悔やまれるのに、ここまで来てセイコ丼を食べなくて帰るのは何しに来たのか分からない。もう一度越前町に向かいセイコ丼を探し求める事にした。丁度昼時に越前町に戻るが、どこを訪れても満員で長蛇の列、予約なしで食べるのは困難だった。晴れているのか、曇っているのかよく分からない天気、風は今朝がたに比べれば収まっていた。結局は道の駅の「お食事処 かねいち」の20番待ちのウェイティングボードに名を連ね、車に戻り横になってその時を待つ。30分ほどして様子を見に行く、あまりの待ち時間に諦めて帰った方が多いのか意外に早く呼ばれそうな雰囲気。結局1時間待ちで席に座る事が出来セイコ丼(¥5.500)をオーダー。待望のセイコ丼。まったりした内子に外子とカニ身がふんだんに盛られこの時期に是非とも食べたい旬の味。これで越前まで訪れた甲斐があったというもの、満足の一杯にお腹も一杯。さて食後の昼寝と行きたいがそうもいかない。15時、来た道を買い物しがてら帰路に付く。途中、長浜の地元スーパーでサラダパンや赤こんにゃく、麩に野菜など買い求め、上の「湖濱純米」を買い求めて家に辿り着いたのは19時。走行距離402㌔、重たい四駆で下道ばかり走ってliter9㌔はあの車にしては上出来だ。中途半端な時間の昼食だった事もあり、この酒と現地で仕入れた乾き物の晩酌でお疲れ様の乾杯、ひとまずセイコ丼も食べる事が出来満足の二日間でした。今週もイベントは開催されますが、風が有無が開催の可否を決めるようです、現地の天候を考えてお出かけください。イベント詳細は「越前かにまつり・越前がに朝市2023」を確認する事をお勧めします。道の駅越前 所在地 / 福井県丹生郡越前町厨71-335-1訪問日 / 2023/11/10~11
2023.11.13
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豊山町青山北浦町鎮座日吉神社。先回掲載した国道41号線沿いの稲荷社、社頭に間違いなく向かうには、国道41号線を10分ほど南下した豊山町大字青山の歩道橋を目指すのが一番手堅い。日吉神社の社頭は、歩道橋を過ぎた右に石の神明鳥居を構え、訪れた時には「日吉神社」の大きな幟がはためいていた。国道41号線を隔てた東側から眺める社頭、国道を走っているとこの鳥居と常夜灯は目立つかもしれない。西に伸びる参道の先にはニノ鳥居と日吉神社の杜。上が日吉神社の鎮座地、明治24年の地図には既に鳥居の印が確認できます。右のほゞ現在の地図で国道から西に社殿の位置が記されています、一ノ鳥居は国道沿いに建っており、そこから社殿まで長い参道が伸びています。参道から一ノ鳥居の眺め。目の前の国道の上を名古屋高速の高架が続き、その下に青山歩道橋が架けられています。巨大な構造物を背景にしているので、こうして見る鳥居や常夜灯は小さく見えますが立派なものです。参道から社殿方向を眺めると公道が横切り、少し引いたところにニノ鳥居が建っています。ニノ鳥居左の「日吉神社」概説。「日吉神社祭神大巳貴神由緒当社は人皇四十四代天皇の御宇養老年中(717~723)に近江国日吉山王よりその分神を勧請して祀る。」とある。鳥居左に「村社日吉神社」の社号標。右に日吉神社並びに周辺神社を兼務した河村千萬太郎(1864~1932)先生頌徳碑。鳥居をくぐると右側に境内社の秋葉神社の社殿があり、参道の先に瓦葺の日吉神社の神門が建っている。秋葉神社社殿(神楽殿?)。四方吹き抜けで瓦葺の拝殿で、妻壁には大きな時計が掛けられていた。境内左に児童遊園があり、時を忘れ遊びに熱中する子供らに向けてのものだろうか。秋葉神社覆殿と神門。手前に小さな社が祀られていたが社名までは分からなかった。後方の神門は、瓦屋根を支える二本の柱に控え柱が付けられたしっかりした門。覆殿の妻壁に「秋葉神社」の額が掛かる。覆殿の内部の社は幕が降ろされ見ることが出来なかった。境内に秋葉神社の解説らしきものは見当たらず、右の小社など詳細は分かりません。神門から境内の眺め。右の小高く盛られた一画には百度石、御嶽神社、霊神碑が纏められていました。参道の先の社殿配置はこの辺りでは定番と云っても過言ではない、蕃塀、拝殿、透塀で囲われた祭文殿、本殿が一直線に配置されたもの。御嶽神社。創建時期等詳細は分かりませんが、日吉神社の鎮座地は古墳だったと云われ、古墳の規模、出土品、遺構など現地に解説は見られず、盛られた痕跡を古墳として捉えると、この一角か、日吉神社の本殿後方に少し盛られていたように見えますが実際の所よくわからなかった。幾つかの地史の中で、西春日井郡誌に日吉神社の古墳について記載は見つからなかったが、境内社について記載があったので本殿の所に記載しておきます。社務所前に飾られた鬼瓦。令和元年に拝殿屋根の葺き替えが行われ、旧鬼瓦をここに飾ったもの。蕃塀から拝殿、祭文殿方向の眺め。番塀は木造三間の控柱が付くもの、拝殿前には一対の狛犬が守護している。番塀から社頭の眺め。こうして参道を見ると、車止めがなく駐車余地がありそうに見えますが、地元の生活道路として使用されているようなので参拝者の駐車場はないと見た方が賢明。拝殿前の狛犬。台座を撮影しましたが大正の元号が刻まれていましたが、全文読み取れなかった。吽形の狛犬の背中と右足に戯れる二頭の子を連れた個性的なもの。拝殿正面妻壁の装飾、兎と龍の姿が見える。後方は中央に龍、左右には鶴だろうか、鳥の姿が彫られていました。幣殿前の狛犬(元号未確認)彼らが守護する本殿域。切妻瓦葺平入の祭文殿に本殿域を取り囲む透塀が一体となるもの。西春日井郡誌では創建を養老2年(718)、江州日吉山王(比叡山)を勧請とあり、当初は大山咋神を祭神としていたようです。また境内社について「神明社、八幡社、天神社、愛宕社、金刀比羅社、見宮社」、「例祭9月2日」とあった。しかし御嶽神社、秋葉社の社名の記載はなかった。拝殿、祭文殿と透塀が取り囲む本殿域。この一帯は起伏が見られ古墳の香りはしない事もない。本殿域の狛犬。本殿は一間社流造で両脇にも社が祀られているようです。社叢は松や杉の古木に落葉樹が混じり、程よく間引かれた境内は木漏れ日に満ちた明るい印象を持つ。この日巡った神社はここまでですが、歩いてきた細く入り組んだ道筋には幾つかの地蔵堂も見られ、見かけた地蔵堂は別の機会に掲載しますが、そうしたものを探して廻るのいいかも知れない。日吉神社、秋葉神社創建 / 養老2年(718)祭神 / 大巳貴神境内社 / 秋葉神社、御嶽神社、他所在地 / 西春日井郡豊山町青山北浦1250 稲荷社から日吉神社 / 国道41号線を南下、徒歩5分強参拝日 / 2023/10/10関連記事 / ・稲荷社・多気十二柱神社・多気神社・坂庭(さかにわ)神社
2023.11.12
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前回掲載した広幡 八幡宮・弘見稲荷社を後に、今回最後の訪問地は再び伊保川沿いを下り、猿投グリーンロードをくぐった先の二股を右に上っていきピークを越えて下りになった右側に鎮座する胸形神社です。車での移動時間5分もかからないでしょう。現地に参拝者駐車場はありません、公道は大型車両が頻繁に通るので支障のない路肩を探し駐車することになります。胸形神社社頭。下りはじめてしばらくすると、道路右側に常夜灯が見えて来たらそこが社頭。道路が上に伸びていますが、鎖が張られ進入できない状態になっています。右手には駐禁の看板もあります、自分はこの車止めの路肩に寄せて車を駐車させてもらいました。社頭前の椀貸池の看板。「1.祭神 弁財天、白龍王大明神、ミヨリノホシ、御嶽山2.由緒 古くから願掛け池として知られ由緒ある池です。魚取り、水泳を固く禁じます。3.魚・鳥捕る事、竹・木を伐る事、無断車を乗り入る事。右禁ず、違反者に付いては参万円徴収します。」今下ってきた右手の道路は、かつて瀬戸市方面から猿投神社へ、「棒の手」を奉納するため往来した古くからの道。車止めから先の右手が胸形神社に続く車道。参道へは左手の明神鳥居をくぐっていきます。社頭全景。右手に昭和15年(1940)寄進の辯財天の社標。鳥居左には昭和51年(1976)に建てられた改築記念碑がある。一ノ鳥居の額には白龍権現・辯財天。鳥居をくぐると視界が開け、目の前に森に包まれた小さな池が見えてきます。この池は古くから「願かけ池」として知られる「椀貸し池」で、この池には龍が棲むといわれ、池の畔には白龍王大明神が祀られています。写真中央の小高い山の頂に胸形神社が鎮座します。この池には以下のような言い伝えが残るという。「昔々、法事で使うお椀が二十個足りず困っていた村人が、池のほとりを通り掛かると、池の中から「何を困っているのか」と声がした。村人は事情を話すと「足りない数を紙に書いて池の中に投げ込むように」と云われ、言われた通りにして、翌朝池を訪れると、池のほとりに二十個のお椀が並べられていた。それ以降、村人たちは椀が足りなくなるとここに来ては借りるようになりいつしか「椀貸池」と呼ばれるようになった。ある日、隣の村人が結婚式の祝い用の椀が足りなくなり、この池に紙を投げ込んだ。しかし用意された椀を持ち帰る際、転んでしまい背負っていた椀を一つを壊してしまった。式後、借りた椀を返しに池に戻り、「一つくらいならいいだろう」とそのまま池の中に返したという。それを境に「足らんぞ」という声が聞こえるばかりで、二度と誰も椀を借りることはできなくなった。」というもの、断りもなくシレッと返してしまった事から、次の機会を失くしたようだ。椀貸し池は山間地で農業を営むために作られた農業用の溜池で、そうした池には龍神や水神が棲むとされ、それらを祀る小さな祠が祀られ、いろいろな言い伝えも多い。この池を堰き止めている堤沿いにも覆屋が建てられ社が祀られています。椀貸し池を見下ろす堤に鎮座する白龍王大明神。緑に包まれた静かな池畔は何かしら潜んでいてもおかしくない雰囲気が漂う。これから森が紅葉の時期を迎え、運よく池に朝もやがかかれば龍の存在を感じられるかもしれない。平成18年(2006)寄進のニノ鳥居。左手に「胸形神社」の社標、この坂の行き止まりに社殿がある、しばしの辛抱。ニノ鳥居と扁額、こちらは「胸形神社」とある。胸形(むなかた)神社という社名は名古屋ではあまり馴染みはないと思います。天照大神の三女神、多紀理毘売命、市寸島比売命、多岐都比売命をお祀りし、宗像神社の名では西区上名古屋の宗像神社など出逢う事があると思います。宗像神社は福岡県宗像市に鎮座する宗像大社を本社として、宗像の社名を持つ神社は5000を超えるとも云われます。坂を上り進めると左手に稲荷鳥居、道はその先でカーブし頂きに建てられた社殿に続いています。稲荷神社。本殿の他、庚申塔など複数の石の社が祀られています。手前の石鳥居の額束には象頭(ぞうずさん)山と刻まれている。香川県仲多度郡琴平町の象頭山中腹に鎮座する「こんぴらさん」で、金毘羅大権現を祭神とする神社で、神仏分離以降は大物主神を祭神とする金刀比羅宮の本社として知られる。石鳥居の先の稲荷鳥居、額は稲荷神社。稲荷神社境内全景。稲荷神社覆屋の他、左に庚申塔の他に複数の石碑が祀られており、右に一つ石の社と石塔、その右に遷宮記念碑(平成24年(2012))が立てられています。左の石標は手前が庚申塔、中央は識別できず、奥が白戸?阿弥陀佛とあるが、其々の年代は不明。鳥居中央に鎮座する覆屋の中には朱塗りの稲荷神社。稲荷と云えば狐がつきものですが、社にその姿は見られず、赤い社と云えば天王社のイメージが個人的に強く、稲荷の実感は薄い。稲荷神社の右の石の社ですが社名はどれだけ見ても分からなかった。その右は金刀比羅山と読めます、額束に象頭(ぞうずさん)山と刻まれた石鳥居はこちらの鳥居なんだろう。何れも石の色合いは浸食が進み、いつ頃建てられたものかは想像できません。一番右の「遷宮記念碑(2012)」から、境内もしくは近隣からここに遷宮してきたものだろう。今昔マップで明治・大正まで周辺を見渡してみましたが、鳥居が示されるのは昭和に入ってからの事でした。胸形神社社殿全景。左から神楽殿、拝殿、幣殿、覆殿がやや北西を向いて建てられています。広い社地は草刈りが行き届き、社殿の外観もとても綺麗に維持されており解放感があります。神社を陰か陽かで例えるなら陽の神社です。祭礼の時にはここまで車で上ってこれるのかもしれない、あと少し。参道を上り詰めると左側に綺麗な手水鉢があります。残念ながらこちらには龍の姿はありません。境内西側から社殿の眺め。入母屋瓦葺妻入りの神楽殿は桁行、梁間ともに三間で四方吹き抜けで腰壁が張られたもの。その先の本殿域は左が社務所かと思われ、神楽殿の正面が拝殿。神楽殿から拝殿の眺め。拝殿前には一対の石灯籠と狛犬の姿がある。狛犬や石灯籠は平成18年(2006)に寄進されたもの。拝殿額。祭神は多紀理毘売命、市寸島比売命、多岐都比売命の宗像三女神を祀る。神紋も宗像大社に通じる三つ葉柏のように見えます。拝殿前の竣工記念碑の由来。「先祖代々この地に於いて崇敬されし胸形神社は、古事記に「多紀理毘売命、市杵嶋比売命、田寸津比売命」の三柱の神は胸形君等に奉祭している神々であると述べています。三女神は水の神の神徳を持ち、平安時代以降の神仏習合思想により、弁財天と同一視される様になり、財福の神の信仰ともなってきました。信仰厚き先祖により、この地に祀られ、皆の崇拝の基となっております。」とある。これによれば現社殿の竣工は平成18年(2006)となります。航空写真からここが開かれ、社殿らしき姿が見えるは昭和40年代、由緒に先祖代々とある事から、それ以前から祀られていたと思われます。椀貸池は明治の地図にも描かれており、作られた時期は不明で、この池と共に祀られたとすると江戸時代には既に何らかの形態で祀られていたのかもしれない。境内左側に霊神碑と御嶽神社が祀られています。狛犬や社標の年代を見忘れてしまい、今思えば見ておけば良かった。拝殿右から見る社殿全景。綺麗に積まれた石垣が印象的だった。参拝を終え、境内から近くて遠い稲荷神社を見下ろす。今回の八草周辺の神社巡りは胸形神社で終えますが、探しても見つからなかった神社やこの先の猿投神社など多くの神社もあり、次回は電車で訪れ紅葉を見がてら歩いてみたい所です。胸形神社創建 / 不明祭神 / 多紀理毘売命、市杵嶋比売命、田寸津比売命境内社 / 白龍王大明神、稲荷神社、金刀比羅山、他所在地 / 豊田市八草町丁田1233-6訪問日 / 2023/09/20関連記事・彼岸花咲く神社巡り(モリコロパーク東部丘陵地)・八草町森下『八柱神社』・白髭神社・広幡 八幡宮・弘見稲荷社今回訪れた神社 / ルート・宗像(むなかた)神社 (西区上名古屋)
2023.11.11
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仙波東照宮の拝殿右から女坂を下ると、そこは小さな池と朱塗りの小さな太鼓橋が見えてきます。この太鼓橋は八ツ橋と呼ばれ、池の中央の小島に架けられています。そこに小さな社が祀られ、この一帯は仙波東照宮の葵庭園と呼ぶそうです。小さな池ですが比較的綺麗な水を湛え小島を取り囲んでいます。小島には朱の明神鳥居が建てられ、その先に鎮座する社はいかにもの佇まいの弁財天厳島神社。大正6年出版の三芳野名勝図会に目を通すが創建時期については書かれていなかった。また、「喜多院東南にあり龍池弁天と云われ、龍神が棲み弁財天女と崇め、竹生島弁財天を模し祀る」とあった、これはここから東南に15分程の龍池弁財天を指しているようです。この葵庭園では、平成15年から毎年6月末に蛍の鑑賞会が催されるという。源氏か平家なのか記されていませんが、餌となるカワニナ(貝)が自生しているのだろう。この庭園が蛍の自生地となる事を目指し環境維持活動が行われているようです。ここから左を見上げると、そこには方形で瓦葺の建物が見えてきます。隣接する喜多院の慈眼堂で、なんの境界もなく喜多院境内に入ってしまいます。葵庭園から緩やかな坂を上れば喜多院境内。右手に鐘楼門が現れます。入母屋瓦葺で袴腰が施された二層の門で、扉と上層は朱塗りで、上層中央の火頭窓と左右の間に施された彫に視線が行く。鐘楼門 附銅鐘(国指定重要文化財 建造物)解説は以下。「江戸時代の喜多院の寺域は現在よりも相当広く、当時鐘楼門は、喜多院境内のほぼ中央にあり、慈眼堂へ向う参道の門と位置づけられます。上層にある銅鐘を撞いて時を報せ、僧達の日々の勤行を導いたと考えられます。鐘楼門は、桁行三間、梁行二間の入母屋造、本瓦葺で袴腰が付きます。下層は角柱で正面中央間に両開扉を設け、他の壁面は竪板張の目板打です。上層は四周に縁・高欄をまわし、角柱を内法長押、頭貫(木鼻付)、台輪でかため、組物に出三斗と平みつど 三斗を組みます。中備はありません。正面中央間を花頭窓とし両脇間に極彩色仕上げの雲竜の彫物をかざり、背面も中央間を花頭窓とし両脇間に極彩色仕上げの花鳥の彫物を飾ります。上層には、元禄十五年(1702)の刻銘がある椎名伊予藤原重休作の銅鐘を吊っています。寛永十五年(1638)の大火に焼け残ったともいわれますが、細部意匠などから判断して銅鐘銘にある元禄十五年頃の造営と考えるのが妥当だと考えられます。」花頭窓両脇の雲竜の彫物はなかなか迫力があります。いきなり裏側、正面から山門を目指しがてら鐘楼門をひと回り。裏側左の間の花鳥の彫物。同じく右の間の彫物、鶏は鷹か?花は何だろう梅かなぁ。鐘楼門妻側。鐘楼門正面。手前の透塀は右手で途切れていますが、往古は山門まで連なっていたのでは。左の間の雲龍。右の間の龍。寛永十五年(1638)の大火では、鐘楼門は焼け残ったとも云われ、造営時期は定かではないようですが、全体的に脱色はありますが大きな傷みは見られず、現在まで幾度か保存修理が行われているようです。鐘楼門前から道路沿いを右手の山門に向かいます。川越大師 喜多院の山門。寺号標の右手に白山権現と江戸時代喜多院の復興に努めた天海大僧正(慈眼大師)の銅像が立てられています。川越大師 喜多院の創建と歴史。「天台宗川越大師喜多院は、仙芳仙人の故事によると奈良時代にまでさかのぼるかもしれません。伝えによると仙波辺の漫々たる海水を法力により除き、そこに尊像を安置したといいますが、平安時代、淳和天皇の勅により天長7年(830)慈覚大師円仁により創建された勅願所であって、本尊阿弥陀如来をはじめ不動明王、毘沙門天等を祀り、無量寿寺と名づけました。その後、元久2年(1205)兵火で炎上の後、永仁4年(1296)伏見天皇が尊海僧正に再興せしめられたとき、慈恵大師(元三大師)をお祀りし官田50石を寄せられ関東天台の中心となりました。正安3年(1301)後伏見天皇が東国580ヶ寺の本山たる勅書を下し、後奈良天皇は「星野山-現在の山号」の勅額を下しました。更に天文6年(1537)北条氏綱、上杉朝定の兵火で炎上しました。慶長4年(1599)天海僧正(慈眼大師)は第27世の法灯を継ぎますが、慶長16年(1611)11月徳川家康公が川越を訪れたとき親しく接見しています。そして天海の意見により寺領4万8000坪及び500石を下し、酒井備後守忠利に工事を命じ、仏蔵院北院を喜多院と改め、又4代徳川家綱公のとき東照宮に200石を下すなど寺勢をふるいました。寛永15年(1638)1月の川越大火で現存の山門(寛永9年建立)を除き堂宇はすべて焼失しました。そこで3代将軍徳川家光公は堀田加賀守正盛に命じすぐに復興にかかり、江戸城紅葉山(皇居)の別殿を移築して、客殿、書院等に当てました。家光誕生の間、春日局化粧の間があるのはそのためです。その他慈恵堂、多宝塔、慈眼堂、鐘楼門、東照宮、日枝神社などの現存の建物を数年の間に相次いで再建し、それが今日文化財として大切に保存されています。」山門(重要文化財建造物)山門の解説は以下。「山門は、4本の柱の上に屋根が乗る四脚門の形式で、屋根は切妻造り、本瓦葺。もとは後奈良天皇の「星野山」の勅額が掲げられていたといいます。棟札を見ると寛永9年(1632)に天海僧正により建立されたことが分かり、寛永15年(1639)の川越大火で焼失を免れ、喜多院で現存する最古の建物です。昭和30年度に部分修理が行われ、現在に至ります。」寛永9年(1632)の棟札が残り、第二十七世天海が建立したシックな佇まいの切妻瓦葺の四脚門で、門右手の緩やかな曲線を持ったむくり屋根の番所と連なっています。番所(県指定建造物)。目的はその字が示す通り。天保12年(1841)の喜多院境内図では、番所の位置は山門より境内後方に描かれており、山門に接するような現在の配置は、その後の改修によりこの形になったようです。山門、番所の解説。喜多院境内マップ。広大な境内には慈恵堂を筆頭に多宝塔、庫裏、客殿、書院、慈眼堂、山門、鐘楼門などの伽藍が建ち、他にも太子堂、五百羅漢像などがあり、全てを巡るとかなり時間を要する。参道を進んだ右側の六角形の建物が聖徳太子を祀った太子堂で、左側の白い石柱は木遣塚。太子堂の創建は、弘化4年(1847)に末寺の混合院境内に創建されたと伝わり、明治以後混合院廃寺にともない日枝神社に移築、明治42年に喜多院多宝塔建立地に移築さたが、昭和47年現在の場所に六角太子堂として再興されたもの。太子堂後方は市指定史跡五百羅漢。喜多院の五百羅漢は日本三大五百羅漢(栃木県徳蔵寺、神奈川県建長寺)の一つに数えられ、天明2年(1782)から文政8年(1825)の長きにわたり建立されたものと云います。写真の中央の釈迦如来、脇侍の文殊・普腎の両菩薩含め538体が鎮座しています。有料拝観になりますが、人生そのものを思わせる様々な表情の羅漢像が見られます。慈恵堂「県指定有形文化財慈恵堂は、比叡山延暦寺第18代座主の慈恵大師良源(元三大師)をまつる堂宇です。大師堂として親しまれ、潮音殿とも呼びます。桁行9間、梁間6間、入母屋造りで銅版葺。現在、喜多院の本堂として機能し、中央に慈恵大師、左右に不動明王をお祀りし、毎日不動護摩供を厳修しています。川越大火の翌年、寛永16年(1639)10月の大火以後、いち早く再建され、近世初期の天台宗本堂の遺構として貴重なものです。昭和46年度から4年間にわたり解体修理が行われました。天井に描かれた数々の家紋は、その際に寄進をされた壇信徒のものです。なお、堂内には正安2年(1300)に造られた銅鐘(国指定重要文化財)があり、年に一度だけ除夜の鐘として、世界平和とすべての人々の安泰を願い撞かれています。潮音殿喜多院の本堂である慈恵堂(大師堂)のことを「潮音殿」とも呼びます。お参りする時に少し上を見上げると、「潮音殿」の額がかかっています。それは昔、広くて静かなお堂の中に入り正座し、耳を澄ませていると、なんと不思議なことにザザザー、ザザザーと、まるで潮の満ち引きのような音が聞こえてきたのだといいます。これには人々も驚き、まるで潮の音のようだというようになり、「潮音殿」といつしか呼ぶようになったということです。また、大昔、喜多院の近くは見渡すかぎりの大海原でどこへ行くにも舟を使っていたそうです。それを仙芳仙人というお坊さんがお寺を建てるために海の主である竜神にお願いして陸地にしてもらったというお話も伝わっています。喜多院のすぐ近くの小仙波3丁目には「小仙波貝塚」(市指定史跡)もあり、近くまで海水が来ていたことが分かっています。」尚、上にある正安2年(1300)に造られた銅鐘について三芳野名勝図会には「背仙波下之深田之内より引き上げられ、鳩井郷(現鳩ケ谷)の筥崎八幡宮の鐘也とある。」慈恵堂の額と紐のない鰐口。慈恵堂から多宝塔と手前の手水舎の眺め。手水舎龍口。鉢に立てられた剣に2頭の龍が絡み合いながら清水を注ぐ姿のもの。慈眼堂。境内左の古墳のような盛り上がりの上に鎮座する方形の建物で後方には歴代住職の墓基が並ぶ。「天海僧正は寛永二十年(1643) 十月二日寛永寺において入寂し、慈眼大師の諡号をおくられた。そして三年後の正保二年(1645)には徳川家光の命により御影堂が建てられ、厨子に入った天海僧正の木像が安置されたのがこの慈眼堂である。一名開山堂ともよび、桁行三間(5.45m)、梁間三間で、背面一間通庇付の単層宝形造、本瓦葺とな っている。宝形造は、四方の隅棟が一ヵ所に集まっている屋根のことで、隅棟の会するところに露盤があり、その上に宝珠が飾られている。」斜め左から見る慈眼堂と歴代住職の墓基。慈眼堂内に安置されている天海僧正の木像。慈眼堂や歴代住職の墓基が建つ小高い盛り上がりは古墳で、仙波古墳群の一つ慈眼堂古墳と呼ばれる前方後円墳。現在見る姿からは前方後円墳の面影は感じられず、若干高い墓基側が後円部なんだろうか、それとも慈眼堂側が後円部なのか定かではない。どちらにせよ、喜多院の長い歴史と伽藍の移り変わりにより、古墳の姿も変わっていったのだろう。「県指定有形文化財多宝塔は、寛永16年(1639)に、山門と日枝神社の間にあった古墳の上に建立されました。その後、老朽化が進んだため、明治43年(1910)に慈恵堂と庫裏玄関との渡り廊下中央部分に移築されました。ただし、移築に際し大幅に改造されていたので、昭和48年(1973)に現在地に移し解体修理を実施し復元しました。総高13m、方三間の多宝塔で本瓦葺、上層は方形、上層は円形、その上に宝形造りの屋根がのります。江戸時代初期の多宝塔の特徴が表れています。」多宝塔解説から抜粋。「この多宝塔は元々山門前の現在白山権現とその先の日枝神社の間に建てられていた。道路新設に伴い慈恵堂脇に移築され、復元のため解体され現在地に移築、昭和50年に完成したもの。」多宝塔下層から相輪を見上げる。慈恵堂脇に一旦は建てられながら復元を迫られるほどの塔とは、どんな姿をしていたのか気になる。復元を終えた塔は朱も鮮やかで青い空を背景に浮き立っていた。慈恵堂右手の覆屋は大黒堂、小江戸川越七福神の大黒天が祀られていました。大黒堂脇の客殿・書院・庫裏の解説。慈恵堂側面の眺め。右に廻廊が付けられ客殿・書院・庫裏に繋がっています、これらは川越大火で焼失した伽藍を復旧する為、徳川家光が江戸城から移築したもので、いずれも国指定重要文化財のもの、拝観券が必要です。使者の間から紅葉庭園内の鮮やな曼殊沙華が印象に残った。川越大師 喜多院宗派 / 天台宗創建 / (伝)天長7年(830)山号 / 星野山開山 / (伝)円仁勅願 / 淳和天皇本尊 / 慈恵大師、阿弥陀如来所在地 / 埼玉県川越市小仙波町1-20-1仙波東照宮から北へ / 徒歩1分程参拝日 / 2023/09/25関連記事 / ・一泊二日武藏國一之宮巡り 一日目「川越市」・浄楽院 光西寺 (川越市小仙波町)・星野山 無量寿寺 中院・南院遺跡・仙波東照宮
2023.11.08
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前回掲載した小牧市多気中町の多気十二柱神社。そこから南東に向かい、中江川に架かる宮前橋を渡るとそこは西春日井郡豊山町、そこから東を走る国道41号線沿いに鎮座する稲荷社に向かいます。移動時間は徒歩15分程か。ここまで順調に導いてくたグーグル先生、何故だか中江川を越えたあたりで自分の居場所を見失ってしまった。目を覚ませとばかりに再起動をかけ漸く正しい方位に導きだした。随分と時間をロスしたが、豊山町江川に入り、住宅街の一角の小さな稲田に収穫間際の稲を見かける。こんな住宅地の小さな稲田にもたわわに実る稲穂の姿がある。明治の頃の地図で見ると、十二柱神社が鎮座する青山村から、稲田を東に横切り隣村の青山村に来たことになります、明治の頃に比較すると中江川右岸の田畑も少なくなっているようです。稲荷社西側の江川の路地、道幅は御覧の通りで神社周辺には駐車場や駐車余地はありません。じゃあ東側は?東側は国道41号線、こちらを訪れるには多少歩く覚悟が求められる。社頭は国道沿いの歩道に接し、ほゞ東向きに社殿があり、北側には稲荷児童遊園が社地と一体になっています。歩道沿いに赤い幟や神社幟がはためき、国道を走っていてもその存在は一目瞭然。歩道には朱の鳥居が立っていますが撮り忘れてしまい、いきなり境内の社殿全景から。鳥居をくぐるとすぐに写真の拝殿が迫ります。一対の狛狐の先の拝殿は瓦葺の切妻妻入りで、妻壁から鈴と鈴紐が下ろされています。訪れた時は祭礼があったのか、神社幕や提灯が吊るされドレスアップした姿。年齢不詳の狐たち、見つめる先は国道を爆走する車だろうか、「先の信号赤なのに、あの速度は捕まるぜ」とでも話しているようだ。それにしてもこの国道、制限速度は50㌔なのか60㌔なのか何㌔なんだ、所々に速度標識か路面標示くらい立てて欲しいもの、主要国道や環状線を流れに乗っていたら免許証何枚あっても足りやしない。北側から拝殿の眺め。稲荷社境内には由緒は見当たらず、境内の寄進物も大正、昭和のものが多く、明治の頃の地図には鳥居の印は見られなかった。現地では創建時期など詳細は分からなかった。愛知県神社庁からも稲荷社の情報はなく、地史を見ていく必要がありそうです。ここから少し南に行くと萬年山延命寺がありますが、ひょっとすると何か分かるのかもしれない。本殿域には稲荷社の覆屋と左に境内社の覆屋と二つある。稲荷社本殿は一間社流造で、扉の左右に本殿を守護する小さな狐の姿がある。本殿左の境内社。板宮造りの二社の社名は不明。その間に石標がありますが「神」の文字は読み取れたが上の文字は読み取れなかった。境内から社頭の眺め。境内でどなたかお会いできれば伺う事も出来るが、車の交通量は多いが人の通りは意外に少なくそれもままならなかった。稲荷社創建 / 不明祭神 / 不明境内社 / 不明社3社所在地 / 西春日井郡豊山町青山江川 多気十二柱神社から稲荷社 / 南東へ徒歩15分程関連記事 / ・多気十二柱神社・多気神社・坂庭(さかにわ)神社
2023.11.07
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10/14、豊橋市御園町東田に鎮座する東田神明宮の手奉納手筒花火を見に豊橋を訪れてきました。今回は手筒花火発祥の地とされる吉田神社を掲載します。JR豊橋駅から北東に徒歩約25分程の豊川左岸に鎮座し、東には国道1号線と一級河川豊川に架けられた吉田大橋、国道の東には吉田城、豊橋公園も近い。社頭全景。南向きに長い社地を持ち、社頭から松並木の参道が社殿へ伸びています。社頭正面。社頭右に縣社吉田神社の社号標と手筒花火発祥之地の標柱がさり気無く立っている。正面には石の明神鳥居を構えている。社号標は大正11年縣社に昇格した際のもの。鳥居の額は「正一位 吉田神社」揮毫は吉田藩最後の藩主大河内信古により明治3年(1870)に寄進されたものです神階とは? 強力な御利益が得られる、多くの人々から崇敬される?なんでも蛙にも神号が与えられるとか、いったいなんだろう。鳥居をくぐり、参道から社殿を眺める、参道の中央に意味有りげに一つの石が配されている。吉田神社の創建は諸説あり定かではないようです。旧社家の文書(天王御縁起)に天治元年(1124)当地で疫病が流行した際、牛頭天王を勧請し疫病退散を祈願したのが起こりとされ、源頼朝からも篤く崇敬されたという。吉田城(今橋城)築城後は御城内天王社・牛頭天王社、天保6年に正一位の神階を賜った後は正一位吉田天王社と称し、徳川幕府成立後の歴代城主から崇敬庇護を受けて来た。現在も本町・上伝馬町・萱町・指笠町・札木町・三浦町・関屋町・西八町の氏神として、又、手筒花火発祥の神社として崇敬されている神社です。意味有りげの一つの石は影向石(天降石)と呼ばれるようです。江戸時代の寛永十七年(1640)、それまでの木造鳥居を石造りへ再建時、木造鳥居の地中から巨石が現れ、そのまま安置されたもので、昔はこの場所に木造鳥居があった。影向石の出現により、鳥居は位置をずらして建てられたという。旧東海道吉田宿。江戸時代、現在の豊橋市役所や豊橋公園がある一帯は、東海道沿いの吉田川河畔に建てられた吉田城を囲むように武士の屋敷が連なり、城下町として、豊川を介した湊町として、東海道五十三次の34番目の吉田宿として栄えました、松並木の連なる参道にそうした街道の趣を感じる。「伝承三河伝統 手筒花火発祥之地」吉田神社の祭礼手筒花火の歴史は450年以上前にさかのぼると伝えられます。「参河国名所図絵」内で記述のある「古老伝」(所在不明)には「永禄元年(1558)天王社祭礼花火と云事初る」と書かれており、このことから吉田(現在の豊橋)が日本での花火の発祥地と伝承されています。花火は、天文12年(1543)のポルトガルからの鉄砲伝来以降、火薬の広がりとともに発展していったと考えられているそうで、その後天正3年(1575)の長篠の戦い、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いを経て、火薬の可能性に気づいた徳川家康が三河衆に火薬の製造を任せたことがこの地方での花火の発展につながったと言われています。江戸時代の中頃になると、豊橋の花火は全国的にも名を知られるようになります。「三河国吉田名蹤綜録」には他国からも多くの人が見物に来たと記されています。花火が掲げられた場所は、吉田城の城下町・吉田の繁華街だった本町(現在の新本町周辺)の軒が連なる大通りで花火が揚げられていたそうです。享和2年(1802)にこの地を訪れた人気戯作者・滝沢馬琴は著書「羇旅漫録」で吉田の花火を「天下一」と称賛しており、当時の吉田の花火がいかに降盛を極めていたかが読み取れます。嘉永4年(1851)「参河国名所図絵」には、三日間に及ぶ当時の祭の様子が描かれています。吉田神社の例祭『豊橋祇園祭』と呼ばれ毎年7月の第3金曜日から3日間にわたって執り行われ、手筒花火は祇園祭初日に奉納されます。初日は各町による大筒・乱玉台の練込み(台物を担ぎ、町内を練り歩く)が行われ神社に集合、その後手筒の清祓い、各町の神前手筒が奉納され、参道西側の広場で町毎に手筒・大筒・乱玉・ようかん花火などが奉納されます。(写真は東田神明宮の手筒花火)参道右手に祇園祭の解説と手水舎。手水鉢の正面左に元号が刻まれていました。写真から読み取ればいいかと甘く考えていましたが、頭に「正」が付く元号なのは分かりますが、読み取れず、寄進年は未確認。HPに目を通すと「正徳六年(1716)吉田城主 松平信高の寄進」とあった。吉田神社拝殿全景。入母屋瓦葺で唐破風向拝が付き、拝殿前を一対の狛犬が守護している。大正時代に寄進された狛犬。吉田神社由緒。疫病退散の祈願のため牛頭天王を勧請した天王社が起こりとされ、明治2年に吉田神社に改称された。現在の祭神は素戔嗚尊。神紋は木瓜紋の様です。拝殿横の奉納手筒花火、魔除けに飾るかな。これ、大中小で云えばどれにあたるのかわ良く分からないけれど、ここに火薬を詰め込むと相当な重さになる、そこに火が付けられ、火の粉が降り注ぐなか手筒を抱え、最後のはねまでやり遂げるのは根性なくしてやれない。向拝柱の木鼻には獏と獅子。拝殿内の眺め。中央の「素戔嗚尊」の額と左右に掛けられている大きな奉納額に視線が行く。拝殿額。HPによると、万延2年(1861)に吉田城士 倉垣長顕から寄進されたものという。八岐大蛇を退治する素戔嗚尊が描かれていた。(昭和4年)HPで二枚の額について紹介されており、拝殿内右の神馬を描いたものが享保14年(1729)と古いものだと云う。拝殿横から社殿の眺め、本殿域は樹々に覆われ本殿は見通せなかった。現在の拝殿は明治17年に再建されたもので、本殿は明治26年に再建されたもの。境内左の収蔵庫。この左が広い広場となっており、各町内の手筒花火の奉納の場となるようです。その右に朱で彩られた境内社、左が伊雑社(御鍬神社)、右が金柑丸稲荷社。左の覆屋には伊雑社(御鍬神社)が祀られています。明和年間(1764~72)に勧請され、大正7年(1918)に末社御食社が合祀されたとされます。祭神は伊佐波止美命、玉柱屋比女命、宇迦之魂命。右手の入母屋造の覆屋は金柑丸稲荷社。覆屋前の由緒。宇迦之魂命をお祀りし、永正2年(1505)に今橋城本丸に創建されたもの。こちらには城守護稲荷社や城内5カ所にあった稲荷社が合祀されている。社名の金柑丸、吉田城本丸の東側の細長い地形を金柑丸(きんかんまる)と読んでいたそうで。そこからきているようです。吉田城はここから徒歩でも10分未満、金柑丸を訪れて見るのもいいだろう。現在の社殿は明治39年(1906)に建てられたものとされ、覆屋には色鮮やかな鶏の透彫りが施されていた。境内右手の社務所近くで見かけた百花園跡。その名の通り明治頃は花園として知られ豊橋の名所だったという。拝殿から社頭の眺め、近年害虫による松枯れから伐採されていくことが多いだけに松並木は印象的です。普段は閑散とした境内ですが、祇園祀りでは境内は人で埋め尽くされるのだろう。そのお目当ては豪快な手筒花火だろう。吉田神社創建 / 天治元年(1124)、諸説あり祭神 / 素盞嗚尊境内社 / 金柑丸稲荷社、伊雑社手筒花火奉納 / 毎年7月第3金曜日所在地 / 豊橋市関屋町2JR豊橋駅から吉田神社 / 徒歩20~25分程参拝日 / 2023/10/14関連記事 / 東田(あずまだ)神明宮
2023.11.06
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上野天満宮御旅所2019/2/10に公開予定だっただが下書きに残ったまま公開されていないのに気がつき今更ですが公開する事にします。そもそも、つい最近この御旅所の前を通りかかった際、この御旅所が取り壊されている真っ最中。このまま記憶から消え去るのもどうかと思い取り壊される前の姿を留める事にしました。以下は2019年公開予定だった記事、記事の下に最近取り壊される際の姿とその後の写真を添えてあります。名古屋市千種区赤坂町近くを通りかかったので久しぶりに再訪してみました2017年に上野天満宮に清明殿が建立され、それと共に境内施設の一部が建て替わりましたこれを機会にもう一度再訪して行く事にします今回は上野天満宮御旅所多少周辺の住宅に変化はあるものの、御旅所のある西方向の眺めは変わっていないようです通り沿いのコンビニ敷地の片隅にフェンスで囲われた一画その中に玉垣で囲われ御旅所が建っています、以前はコンビニも含めた敷地全体が森に囲われた社だった朝陽に照らされた御旅所、コンビニ駐車場からの全景。これまで御旅所の狛犬の面々を撮り忘れていたので改めて掲載します御祭神は本宮御分霊毎年10月25日の上野天満宮の例祭後、御祭神である菅原道真公が本宮から別宮(御旅所)までお渡りになる神幸祭が行われ、その日以外は本宮におみえで、こちらにはおみえになりませんなのでこちらに賽銭箱は置かれません所在地 / 名古屋市千種区赤坂町1-38以下が2023年10月撮影の御旅所。もともと玉垣と狛犬、基壇とその上の社の小規模なもの。こんな重機の手に掛かればみるみる姿は消えていく。ここには小型ですが流造の脇障子まで付いた社があったが見かけた時には姿はなかった。その前には一対の小さな狛犬もいたはず。近付いて中を覗き込む、そこには狛犬が纏められていた。それまでは御旅所を訪れる人を見据えていた、こうして並んで置かれている姿は妙に寂しくなる。狛犬の目線はお互いを見つめ合い、ゆくすえを案じどことなく不安な表情に見えてしかたがない。後日再び訪れると御旅所のあった場所は綺麗に駐車場に変貌し跡形もなくなっていた。子供の頃にこの辺りで育ち、この場所に杜があり鳥居を持った神社の頃から見ているだけに、杜は消え、コンビニ駐車場角の小さな御旅所に変わり、遂には姿を消した。御旅所の存在は駐車余地を減らすだけでメリットのないものでしかない。これで何年か過ぎればそれすらも記憶から消えていくのだろう。そう思うと公開忘れのこの記事は、是非とも公開しておこうと思うと同時に、御旅所や狛犬のその後に付いて調べてみたい。子供の頃遊んだ神社は、2023年完全に姿を消した。2023/10
2023.11.05
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川越市小仙波町「仙波東照宮」南院遺跡から北を眺めると、左前方に大きな仙波東照宮入口の立て看板が見えています。徳川家康をお祀りする神社で、全国に100社以上あると言われ、日光東照宮、久能山東照宮に次いで仙波東照宮を含め日本三大東照宮(諸説あり)の一つに数えられることもあります。「重要文化財 建造物仙波東照宮徳川家康を祀る東照宮は、家康の没後その遺骸を久能山から日光に移葬した元和三年(1617) 三月、喜多院に四日間とう留して供養したので、天海僧正が寛永十年(1633)一月この地に創建した。その後寛永十五年(1638)正月の川越大火で延焼したが、 堀田加賀守正盛を造営奉行とし、同年六月起工、同十七年完成した。当初から独立した社格をもたず、喜多院の一隅に造営されたもので、日光久能山東照宮とともに三大東照宮といわれている。社の規模は表門(随身門)・鳥居・拝幣殿・中門(平唐門)・瑞垣・本殿からなっている。本殿の前には歴代城主奉献の石灯籠がある。なお拝殿には岩佐又兵衛勝以筆の三十六歌仙額と幣殿には岩槻城主阿部対馬守重次が奉納した十二聡の絵額がある。」社殿全体が高く盛られ、境内からは石段を上ると社殿が建てられています。拝殿の右手に緩やかな坂があり喜多院へ続きます。 随神門。朱塗りの八脚門で左右の間に随神は安置されていなかった。門左の解説は以下。「重要文化財 建造物東照宮随神門・石鳥居境内入口にある随神門は、朱塗八脚門・切妻造でとち葺形銅板葺である。八脚門とは三間・二間の間で、門柱四本の前後に各一本ずつの控柱を持っている屋根付き門の事である。以前には後水尾天皇の御染筆なる「東照大権現」の額が掲げられていた。記録によるとこの勅額は寛永十年(1633)十二月二十四日とある事から東照宮の創始の時期を知るひとつの資料となっている。石鳥居は寛永十五年(1638)9月に造営奉行の堀田正盛が奉納したもので、柱に「東照大権現御宝前、寛永十五年(1638)九月十七日堀田加賀守従四位下藤原正盛」の銘文が刻まれており、様式は明神鳥居である。」解説にある石の明神鳥居と拝殿に続く。この日は境内右の社務所で工事が行われ、人の出入りも多く、人が写り込まないタイミングまで随分待たされた。寛永十五年(1638)と銘が彫られた柱と拝殿に続く石段。拝殿に続く石段。拝殿前に葵の紋が入った扉がありますが、この日は固く閉じられていました。この扉が開けられるのは日曜日の9:00~16:00まで、間近で拝観するにはその曜日を狙って訪れる必要があります。しかし、社殿外周を取り囲む透塀の周囲は、歩道があり周回できるので全景は見ることができます。拝殿正面。「重要 文化財 建造物 東照宮拝殿・幣殿拝殿は桁行三間(5.36m)、梁間(3.64m)で、単層入母屋造、正面は向拝一間(1.82m)あって鋼板葺であでる。幣殿は桁行二間 梁間一間で背面は入母屋造り、前面は拝殿に接続し、同じく鋼板本葺である。内部も朱塗で美しく、正面に後水尾天皇の御染筆なる東照大権現の額が懸けてある。記録によると寛永十年(1633)十二月二十四日とあって、東照宮創建当時に下賜された貴重なものとされている。川越城主であった柳沢吉保や秋元但馬守喬朝の頃に大修復があったと伝えているが、松平大和守の弘化四年(1847)にも修復が行われたという。」拝殿域、本殿域には歴代の川越城主より寄進された26基の石灯籠が立ち並んでおり、このうち拝殿域の左右に23基が配置されています。参道右に立派な角を持つ龍の後ろ姿があり、その先に一対の狛犬の姿が見えます。素朴な外観の狛犬ですが、顔の表情や鬣の表現などディテールに拘りを感じる。豆柴ほどの大きさでしかありませんが、斜めから見た姿は、互いに見つめ合う可愛い印象ながら、目を離すと飛びかからんばかりの勢いを感じます。拝殿正面の鷹の透かし彫りと左右の木鼻には麒麟が施されている。拝殿から本殿の眺め。鬱蒼とした杜の木陰に包まれた朱塗りの社殿、陽が差し込むと朱は鮮やかに輝いて見える。幣殿・拝殿を後方から眺める。いたるところに塗装の剥がれや退色が見られ、塗りの修復が迫っているようだ。本殿と唐門全景、以下は解説より。「東照宮本殿・瑞垣・唐門 (国指定 建造物)東照宮本殿は、三間社流造・銅瓦葺・極彩色で、寛永十七年(1640)に再建された。本殿内に安置されている円形厨子の中には、天海が彫作した冑を着け槍を右手に持ち、駿馬に騎っている家康公の木像が祀られている。本殿の周囲に巡らす瑞垣は、本瓦葺で透し塀。中央正面の唐門は、一間一戸の平唐門で銅瓦葺である。」本殿も拝殿・幣殿同様に塗りの修復が迫っているようだ。昨年川越市政100周年に併せ本殿が特別公開され、解説にある「冑を着け槍を持って、駿馬に騎っている家康公の木像」のご神体が初めて公開されたという。初めての特別公開は諦めるとして、仙波東照宮をもう一歩近くで見るなら是非とも日曜日に訪れたい。参拝当日は社務所の工事もあり御朱印も頂けず少し残念だった。社殿から女坂を下り、厳島神社が鎮座する葵庭園を経て喜多院に向かう。仙波東照宮創建 / 元和三年(1617) 祭神 / 東照大権現所在地 / 埼玉県川越市小仙波町1-21-1南院遺跡から仙波東照宮 / 北へ徒歩1分程訪問日 / 2023/9/25関連記事・一泊二日武藏國一之宮巡り 一日目「川越市」・浄楽院 光西寺 (川越市小仙波町)・星野山 無量寿寺 中院・南院遺跡・日光東照宮・久能山東照宮
2023.11.02
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小牧市多気中町の多気十二柱神社。前回まで掲載した多気神社から徒歩で南西に5分程の県道165号線多気交差点の東角に鎮座します。この神社のシンボルは写真左の大きな椎木が挙げられます。この樹は樹齢約300年以上とも推定され、高さ約15㍍、幹周り約5㍍を越えると思われ、一つの幹のように見えますが、根元から少し上から二つに分かれ、其々が大きく枝を張り、ひとつの落下傘ような見事な樹形をしており、そうした姿から「夫婦シイ」と呼ばれるようで、縁結びや夫婦円満のご利益があるとも云われる。大正14年(1925)に寄進された石造神明鳥居の右に大きな社標が立ち、鳥居から続く参道の先に木造の蕃塀と拝殿の屋根が見える。椎木の解説は以下。「多気十二柱神社のシイノキ一樹平成11年(1999)4月23日指定シイノキは暖地の天然林を構成する樹種で、古い社寺叢に保護温存されている。このシイノキは樹高約15㍍、胸高5.1㍍を測り、根元から2㍍程の高さで幹が二つに分かれている。都内屈指の巨木で、樹齢は約300年以上と推定され、風格を備え、樹冠を落下傘状に美しく広げて雄姿を誇っている。天然記念物として、また、ふるさとの緑のシンボルとして、末永く親しまれ、生き続けるように保護したい。」とある。参道から蕃塀と社殿の眺め。十二柱神社由緒当神社は十二の祭神を祀ったことから十二神社(村社)として命名された。1.創建年 宝永二年(1705)三月二日 天皇 東山天皇・中御門天皇 将軍 徳川綱吉、家宣の時代に春日井郡大気村 杜人・加藤与太丈利政の立ち合いのもと奉遷、十二所権現建立社頭康栄祈所として定まり、時代の変遷 を経て来た中を、代々の氏子達が神社を守り抜き、大正十四年(1925)十月に祭文殿・拝殿の新築ととも に石材造築され、現在に至る。 拝殿北側には天神社(菅原道真)が祀られており、祭礼が十月二十二日と定められている。2.祀ってある十二の祭神・伊弉那岐命(男性の神)・伊弉那美命(女性の神)・天照皇大神命(天皇皇室の神・日本民族の総氏神)・忽穂耳命(天照皇大神命の弟:威力のある稲穂の神・日本神話の中心的な神)・瓊々岐命(平和を司る神)・火々出見命(山の幸の神)・鵜草葺不合命(記紀神様に登場する神)・火具津智士(火の神) ・金山姫命 ((鉱山の神:鋳物・刃物の神:金運厄除けの神) ・埴山姫命(土の神)・罔象女神(水の女神)・旬々能知命(木の神)諸々罪・穢れ・災難・家内安全・繁栄・健康祈願等々を願い、先祖より「畏敬の念を持ち」鎮守の杜として、代々引き継がれ現在に至る。社叢内のシイの木(推定樹齢300年以上)は1999年4月23日小牧市天然記念物に指定。神社創建年前よりここに根付いており、歴史の証人として神社同様、かけがえの無い宝物として手厚く護られている。西暦2014年、後世に語り継いで行く為に、此処に掲げたものである。 氏子一同」 この木造番塀は控柱を備えた三間のもので、各間の下半分は腰板が張られ、上は連子窓が入れられたもの。祭文殿・拝殿は大正十四年(1925)の新築、その後に手が入れられているのか築100年とは思えない状態で維持されている。拝殿右、写真の左奥に境内社が祀られています。社殿全景。拝殿は切妻瓦葺の吹き抜け拝殿で、全体的に奇をてらった意匠はあまり施されていない。境内社。西春日井郡誌に目を通すも天神社以外の記載はなく、三社のどれが天神社(菅原道真)で、他の二社がなになのか詳細は不明。本殿域を取り囲む透かし塀は祭文殿と一体となり、手前に一対の狛犬が守護している。祭文殿前を守護する狛犬(寄進年未確認)、吽形の足元に子を伴っている。本殿は神明造のようで、4本の鰹木が見えるが千木までは確認できなかった。この一つの社に十二柱が祀られています。拝殿から社頭の眺め、穏やかになれない俗世を蕃塀が遮ってくれている。蕃塀から社頭の眺め。陽光に満ち溢れ一見明るく輝いているが、増税メガネや長年与党として胡坐をかき、先を見据えた対策も取れなかった結果が招いた日没間際の俗世が見えて来た。多気 十二柱神社創建 / 宝永二年(1705)祭神 / 伊弉那岐命、伊弉那美命、天照皇大神命、忽穂耳命、瓊々岐命、火々出見命、鵜草葺不合命、火具津智士、金山姫命、埴山姫命、罔象女神、旬々能知命境内社 / 天神社、他所在地 / 小牧市多気中町232参拝日 / 2023/10/10多気神社から多気十二柱神社 / 徒歩5分程関連記事 /・多気神社 ・坂庭(さかにわ)神社
2023.11.01
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