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陽気に誘われ名古屋市昭和区の鶴舞公園まで花見に出かけてきました。どっしり構えて桜を眺めるのはじつに久し振り。地下鉄鶴舞線の鶴舞駅は平日にもかかわらず多くの人で混雑を見せ、人波が続く先は鶴舞公園だ。地上に出る前から芳しい香りが漂ってくる。鶴舞公園は1909年(明治42)、名古屋市で初めて作られた公園で、花見の名所として市内では知られる場所。公園内には多くの屋台やキッチンカーが並び、足を止めたくなりますが、どこも長い列ができ食べ物を調達するのには多少時間が必要。園内の桜はほぼ満開、以前は桜の下にレジャーシートを広げるのが定番でしたが、桜の周囲はフェンスで囲われ、以前とは一味違った視野での花見になっていました。レジャーシートを敷いてくつろげるのは市指定文化財の噴水塔東側の芝生広場、なので結構埋まっていました。陽気もいいので噴水塔近くに椅子とテーブルをセットし腰を据える。花見となると屋台のB級グルメや酒はつきもの、久し振りに訪れ、キッチンカーや屋台の多さに驚いた。肝心の桜はほぼ満開、風が通り抜けるとひらひらと花が散りはじめていました。ほぼ手ぶらで来ても飲み食いに困る事はありません。長い冬の時期を乗り切り活気が戻ったのは歓迎すべきですが値段の高さには驚いた。このご時世なので致し方ないけれど、ビールにはとにかく驚いた、泡ばっかりでカップの半分ほどしか注がれていない、これで500円とは、注ぎ方を忘れてしまったのかナ。飲み物は缶を買うかコンビニで買っていくのが正解。温かい陽射しを受けながら、おもいおもいの桜を楽しんでいました。間もなく入学式、桜はつきものでしたがどうやら桜吹雪の入学式になりそうです。鶴舞(つるま)公園2023/03/27所在地 / 名古屋市昭和区鶴舞1
2023.03.28
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広島東照宮北側から双葉山麓に鎮座する金光(きんこう)稲荷神社を経て、山頂に鎮座する奥宮に続く参道が伸びています。今回は東照宮境内社の金光(きんこう)稲荷神社と奥宮を掲載します。上東照宮北側の朱の鳥居、ここから石段を上り、一般道を越えれば金光(きんこう)稲荷神社です。下道路を渡ると脇参道の入口が見えていますが、正参道は道路を右に進んだ左側になります。上金光稲荷神社社頭。右に金光稲荷神社の解説が立っています。ここから石段を上り、まずは本殿に参拝し、奥宮を目指します。下金光稲荷神社の解説。例祭 月次祭 毎月1日、15日春季大祭 4月1日、秋季大祭 11月1日祭神 宇迦之御魂命由緒 元禄(1700年)の頃より当権現山(二葉山)に祀られる、遠き昔より商売繁盛、家内安全など諸願成就の大神として神徳を得られ金光稲荷大神として称えられている。」解説によれば奥宮へは約8分で辿り着けるとある。それ位なら仏舎利塔は無理としても、奥宮までは行けそうです。上石の神明鳥居に掲げられた額は金光稲荷神社とある。下石段中ほどから見る拝殿。社殿の建つ境内は意外に小さく、全景を入れるには自分のレンズではここまで後退しなければ入らない。本殿も鬱蒼とした杜が遮り全く見通せなかった。拝殿に掲げられている額と下が境内右側の境内社。後方の鳥居は奥宮遥拝所。社殿の鎮座する境内には三つの社が祀られており、上は境内左の流造の社で外削千木と5本の鰹木。下は拝殿右奥の社、造りは同様で内削千木と4本の鰹木。何れも社名札がなく社名は分からなかった。東照宮の朱の鳥居脇には奥宮までの参道にお産稲荷社、出世稲荷社、三狐呂稲荷社、玉成稲荷社、玉秀稲荷社、高彦稲荷社とありますが、結論から言えば奥宮までには無数の社が祀られています。二葉山の頂に鎮座する奥宮まで約8分とありますが、くねくねと方向を変え高度上げる参道は、約8分では奥宮に辿り着けなかった。写真の時間情報から見ると奥宮までは、足元の悪い参道を20分程登った事になります。そんな参拝者向けにこの奥宮遥拝所がある、ここで拝めば上に上らなくとも同じ御利益を得られます。参道入口の光景。これならば行けそうな気はしますが、奥宮にかけては更に参道は荒れていきます。参考時間を書きますが、この写真撮影時からものです。16:33。登り始めて1分程で神輿舎と参道右側の社。お産稲荷社大神、ここで16:36上出世稲荷大神、16:38三狐稲荷大明神16:40上、三狐稲荷大明神の右側にも鳥居を構えた稲荷社。玉成稲荷大神、16:42上、玉秀稲荷大神、16:46下、高彦稲荷大神、16:48スタートが16:33なのでここまでが15分です。ここまで来れば左手の高みに鎮座する奥宮も間もなくです。奥宮鳥居到着、16:49それまで杜に包まれ遠景は見通せなかったが、参道の左側に西陽が差し込み空が開けた一画が奥宮。上、鳥居の右の手水舎。下、奥宮の社殿右側の山肌には巨岩があり、そこにも社が祀られていて、山肌には古い石垣が積まれ山城の趣があります。参拝後もう少し上まで登ってみます。奥宮社殿から山側の眺め。ここにも一枚の巨岩が聳え、岩の下側に穴が開いており、その前で狐が守護する社が祀られています。狐は穴を好みます、奥宮までの小さな社にも穴を社にしたものもありました。狐の巣穴として意味もあるだろうが、この巨岩自体が神秘的な磐座のようにも思えます。岩の上を良く見ればそこにも祠が見える。狐の巣窟です。金光稲荷大神奥宮。大きな一枚岩の上に祀られる社は流造。眼下には広島市街を一望でき、原爆投下以降、ずっと街の繁栄を見続けています。奥宮への約500段近くある急な道のりは正直言ってとてもきつい、しかし山肌に祀られた大小の社や数えきれない奉納鳥居、参道の整備状況を見ると多くの崇敬者に護られているのがよく分かります。奥宮から眺める市街の眺望や遥か先には広島湾を望むことも出来、お勧めするには辛すぎますが、眺望は一見の価値があります。奥宮への道のりは正直言ってとてもきつい、ここの登拝で全ての余力を使い果たした感がありました。それでも奥宮からもうひと登りして更に上を目指します。上奥宮社殿全景と眼下の広島東照宮方向。下広島市街と瀬戸内海の眺望。標高139㍍権現山(二葉山)、奥宮から上に出ると尾根の上は城址のような光景となります。幾つかの大きな窪みが作られ、壁は石垣が積まれています。ここは高射機銃陣地址で第二次世界大戦の戦争遺構として保存され、当時の様子が開設されています。広島市街を見下ろす二葉山には、こうした陣地や兵舎が築かれていたそうですが、一発の原爆で全滅しました。大量殺戮の智恵を絞り、資源や資金を次ぎこむエネルギーがあるなら、一つの星として纏まる事にエネルギーを費やすのが道筋ではないだろうか、広島東照宮と金光稲荷、いや広島はそうしたことを考える機会を与えてくれる場所でもある。そろそろ参道を下りるとしよう、こんな道が続くので油断は禁物です。広島東照宮境内末社 「金光(きんこう)稲荷神社」創建 / 元禄(1700年)頃祭神 / 宇迦之御魂命所在地 / 広島県広島市東区二葉の里2-1境内社 / お産稲荷社、出世稲荷社、三狐呂稲荷社、玉成稲荷社、高彦稲荷社他関連記事 / 広島東照宮(広島市東区二葉の里)
2023.03.28
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功徳天満宮は、日進市にある岩崎御嶽社が鎮座する、岩崎御嶽山のほゞ山頂に鎮座しています。前回掲載した八大龍王からあじさい遊歩道をものの1~2分程向かった右側に鎮座しており、目の前は岩崎御嶽社と云ってもいいでしょう。あじさい遊歩道から見る功徳天満宮全景。境内に続く石段の右に「功徳天満宮」と刻まれた石標が立ち、石段を上った境内の右側に二つの社が建てられています。功徳天満宮が鎮座する岩崎御嶽山の始まりは、万延元年(1860)、明心・明寛の2人の御嶽行者が夢のお告げを受け、木曾から御嶽大神を勧請して開山創建したのが起りとされ大己田貴命、少彦名命をお祀りする神社でほゞ全山に霊神碑や功徳天満宮のような社が鎮座しています。上が境内の全景で右手に手水鉢、正面の神橋の先に天満宮、左に社名不明の社が建っています。功徳天満宮の詳しい由来や歴史は不明ですが、社名からは菅原道真公をお祀りする神社であることがわかります。菅原道真は平安時代の学者、政治家、歌人で、様々な分野から崇敬されていますが、特に学問や合格祈願にご利益があるとされる神社で、全国各地に天満宮や天神社が建てられています。境内右の手水鉢、後方に見える建物は御嶽社社務所。左の社名不明と功徳天満宮。鬱蒼とした樹々に包まれた神秘的な雰囲気の漂う境内の神橋から功徳天満宮の全景。一対の石灯籠から神橋を渡ると、左に霊神碑と右に石碑があり、覆屋の下には5本の鰹木と外削ぎ千木が付く神明造の社がある。良く見れば社の左に小さな撫牛の姿があり、漸く天満宮らしさを見ることが出来ました。この天満宮がいつ頃建てられたか分かりませんが、岩崎御嶽社が万延元年(1860)に開かれたとされるのでそれ以降、大正から昭和にかけてからかもしれません。岩崎御嶽山の功徳天満宮は、普段目にする天満宮の趣とはやや異なり受験祈願の絵馬や梅紋、境内には梅の木の姿も見当りません。功徳天満宮創建 / 不明祭神 / 菅原道真公所在地 / 日進市岩崎町竹ノ山参拝日 / 2023/03/07八大龍王から功徳天満宮 / 徒歩約1~2分関連記事 / 八大龍王(岩崎御嶽社) 、岩崎御嶽社散策と相野山八幡神社、
2023.03.27
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広島市東区にあり、東照大権現(徳川家康)をお祀りする広島東照宮。JR広島駅の北口から徒歩10分程の二葉山の麓に鎮座し、広島の玄関口を代表するのが広島東照宮かもしれません。江戸時代の慶安元年(1648)、広島藩主浅野光晟により建立しました 。広島城の鬼門(北東)に位置する二葉山の山麓に鎮座しており、城下町広島の総鎮守として信仰されてきました。社頭左に由緒書きがあり、以下内容です。「広島東照宮広島二代藩主浅野光晟(みつあきら)は、生母振姫が徳川家康公の三女であったことから東照宮の造営に熱心で、家康公没後三十三年の慶安元年(1648)に、城下を一望できる二葉山の山麗に華麗な朱塗りの社殿を造営しました。昭和20年(1945)8月原爆により本殿・拝殿を焼失しましたが、御神体は駐屯していた兵士達により運び出され難を逃れた。また焼失を免れた唐門、翼廊、本地堂、手水舎などは、370年余りの歴史を伝え、広島市重要有形文化財に指定されています。」境内には、御産稲荷社、祖霊社、福禄寿の像、二葉山の山麗から頂にかけて、東照宮境内社の金光稲荷社や奥宮が鎮座する広い神域を持っています。慶安元年(1648)、三次藩主浅野長春寄進の鳥居。原爆投下により広島、長崎は人類史上最も悲惨な経験をし、人も都市も焼き尽くされ、それは今も終わる事がない。今年で78年を迎え、被爆地広島、長崎の平和宣言の趣旨に対し、今だ一つになれず終末時計は進むばかりで後退の兆しはない。原爆ドームはそれを悟らせる遺構であるように広島東照宮もそのひとつ。広島東照宮は、1945年8月6日に原子爆弾が投下された際に全壊を免れた被爆建物の一つです 。境内には被爆者を慰霊する塔や碑が建てられており、平和への願いが込められています。この鳥居も原爆投下による甚大な被害から免れたもの。鳥居から見る唐門と左右の翼廊。伽藍の中で被爆による焼失を免れた唐門、翼廊、手水舎、本地堂、神輿などは広島市の指定重要有形文化財となっています。被爆当時、境内に多数の避難者や救護者が身を寄せ合ったとされます、広島出身の詩人で小説家だった原 民喜もその一人で、その経験を後の作品の中に残しています。被爆前のこの参道の両脇には桜並木が続き、広島城下唯一の桜の名所(桜の馬場)として知られたそうで、社頭南の二葉の里第二公園の入口には当時の様子を伝える「復活記念碑」が建てられています。唐門。日光東照宮の陽明門に相当する一間一戸向唐門で、唐破風の下に「長尾山」の額が掲げられています。呆れるほど絢爛豪華な陽明門と比較するのはどうかと思いますが、家康を祀るだけに意匠には手が掛けられ、最近訪れた各地の東照宮の中では威厳のある姿のものです。唐門表。欄間に鶴、破風板には花文様の彫飾りが施されています。唐門裏。こちらは色彩豊かに彩られた鳳凰?だろうか。唐門から眺める広島駅。70年は草木も生えないとも云われた広島は今も発展を続けています。門の左右の翼廊。原爆投下の爆風を受け、全体が北東側に傾いた翼廊は、原爆による爆風、火災にも耐え、昭和23年(1948)に保存修理を受け創建当時の姿を留めています。翼廊は左右10間ずつ建てられた切妻のもので、戦後桟瓦に葺き替えられていたものを平成20年(2008)に本瓦に葺き替えられ、この姿が創建当初の姿だという。東照宮の伽藍配置。ほゞ南を向いて正面に翼廊と唐門、その先に拝殿、幣殿、本殿と並び、境内左に手水舎、御供所があり、境内右側には現在修復作業中の本地堂、本殿東側に神輿舎、本殿後方に境内社が主な伽藍配置。手水舎。切妻瓦葺で慶安元年(1648)、広島藩主浅野光晟により造営。総漆塗りで蟇股の月と兎など桃山時代の様式を伝え、昭和64年(1989)に解体修理が施された。手水鉢は慶安元年と刻まれています。ここまでは葵の紋より巴紋を見ることが多かったけれど、境内に入ると葵の紋が目に付くようになります。御供所。手水舎の後方に建つ入母屋瓦葺のこの建物は、神に供える神饌を整える厨房として使われ、全国の東照宮にあって独立した御供所が現存するのは多くはない。現在の建物は原爆投下50周年記念事業として東照宮350周年記念として平成9年(1997)に解体修理を受けた。本地道。境内右側に建つ、慶安元年(1648)に造営された方形の瓦葺で、家康の本持仏薬師如来を祀り神仏習合の名残を伝える建造部。総漆塗りで極彩色の蟇股などが見事らしいが、昭和59年(1984)に復元補修を受け、訪れた時も復元修理を受けており全容は見られなかった。この修復工事は2024年3月完了を目指しているようです。拝殿全景。現在の建物は原爆投下により焼失し、昭和40年(1965)に350年式年大祭を記念し再建されたもの。入母屋銅板葺で唐破風が施され、焼失前は檜皮葺の社殿だったようです。金色に輝く葵の紋。拝殿額は「廣島 東照宮」、徳川宗徳(1897~1989)の揮毫によるもの。本殿は銅板葺の一間社流造で唐破風付きのもので棟には外削ぎの千木が付く。現在の本殿は昭和59年(1984)再建のもので、被爆当時は境内に陸軍第二総軍通信隊が駐在しており、消火活動により御神体だけは焼失を免れたと言います。本殿右側に社が祀られていますが栞などに目を通しても社名は分からず、ここでは不明社とします。社後方の松は「原爆ゆかりの赤松」三本の鰹木と外削ぎの置き千木が施された不明社と東照宮本殿。原爆ゆかりの赤松。原爆投下後本殿、拝殿、瑞垣は焼失、70年は草木も生えないとされたが、翌春に本殿の焼け跡から数本の赤松が自然発芽し移植したものが本殿域で今も成長を続けている。本殿は彩色された手の込んだ彫が施され、脇障子にも彫が見えます。神輿庫。東照宮が創建された慶安頃(1648~51)の製作とされる神輿を保管。原爆投下による焼失から免れた神輿の重量は800㌔と言われ、50人で担ぐとされそれを保管する為の建物です。本殿から幣殿、拝殿方向の眺め。御産稲荷社祭神の徳川家康は寅年の天文11年(1542)の寅の日、寅の刻に愛知の岡崎城で誕生したとされ、母於大の方は家康を身ごもると無事に生まれて立派な武将になる事を薬師如来に祈願されたと言う。そのことから東照宮にお参りすると安産のご利益があると伝わるようになり、「お産さん」とも称されるそうです。傍らにある亥子石と花手水。後方の亥子石と彫られた石標の上に丸い石が乗せられており、それを撫でる事で小授、安産、子育、豊作、安栄の御利益が得られるという。左の覆屋には福禄寿が安置されています。円満な人格、誰からも信頼され、尊敬される徳を与えて頂け、特徴のある長い頭は慎重に物事を考え行動する事を表しており、福禄寿の福は幸福、禄は高禄、寿は長寿を指し、この三徳を兼ね備えたのが福禄寿。二葉山山麗七福神巡りというものがあるようで、近隣の寺社を巡るコースもあるようです。祖霊社。祭神は大之御中主大神。例祭3月21日、9月23日。祖霊社付近から見る本殿。祖霊社の左に朱の鳥居が立っており、ここを上り車道を越えた先が二葉山に鎮座する東照宮境内社の金光稲荷社と多くの奉納鳥居が立ち並ぶ奥宮に続く険しい参道は、自分には遠く厳しいものでした。尚、御朱印は16時までとなっています。金光稲荷社、奥宮は別途掲載します。午前中は日本の防衛にあたる呉の艦艇や大和ミュージアムを見てきただけに、原爆の爪痕を残す広島東照宮を訪れると、諸国を纏め天下泰平をもたらした家康に変わり、世界を一つとして捉え、残り90秒となった終末時計を遅らせることが出来る現代の家康は誰なんだろうと考えさせられる。広島東照宮創建 / 慶安元年(1648)祭神 / 東照大権現境内社 / 金光稲荷神社、御産稲荷社、祖霊社など所在地 / 広島県広島市東区二葉の里2-1-18広島駅から徒歩 / 所要時間10分程参拝日 / 2023/03/02関連記事 / 安芸国一宮厳島神社とB級グルメ巡り 広島Day1
2023.03.26
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建長寺から鶴岡八幡宮末社「今宮」へは、県道21号線沿いに鶴岡八幡宮に続く下り坂を徒歩10分ほど進みます。鶴岡八幡宮参拝者駐車場の手前で左に進み、突き当りを左に進みます、両脇に点在する住宅に続く路地の突き当りが今宮の社頭になります。聳え立つ樹々が背後に迫り、鎮座地は鶴岡八幡宮境内の最深部に位置します。社頭。左に史跡鶴岡八幡宮境内「新宮」の案内板があり、朱の明神鳥居の先に社殿がひっそりと佇んでいます。社殿正面全景。想像していたより新しく綺麗な社殿で、右手に今宮の祭神が記された案内板が立つ。源頼朝亡き後、北条義時・北条政子と後鳥羽上皇が争った承久の変(1221)、戦に敗れた後鳥羽上皇、土御門天皇、順徳天皇は流罪となり、延応元年(1239)後鳥羽上皇が隠岐で亡くなると、天変地異や飢饉、疫病が起こり、鎌倉でも北条泰時が病に伏せるなど、承久の変で京都に関わった北条泰時(1242)、北条時房(1240)、三浦義村(1239)など次々と他界。後の宝治元年(1247)の宝治合戦の争乱、天変地異や飢饉、疫病は続き、度々改元されましたが、これらの禍の根源が亡くなった上皇達の祟りだとされ、その怨霊を鎮めるために祀られたが社が今宮とされます。今宮の鎮座地は人で溢れ喧騒とした雰囲気の鶴岡八幡宮境内とはかけ離れ、同じ境内ながら訪れる参拝客はなく静寂に包まれた空間が広がる。ここに至る道筋にそれらしい案内板も見当たらず、ここが鶴岡八幡宮の末社とは思えない。唯一それと分かるのは、この鶴の紋と文化財の看板くらいだろうか。現在の社は令和元年(2019)の台風で被災し、同3年に再建された素木の銅板葺一間流れ造りのもので、木の香りが漂う新しい社。江戸時代の徳川光圀が当地を訪れた際に記録、編纂された「新編鎌倉志」、ここに今宮の記述があり、「社の後ろは深谷なり、一根にして六本に分かれた大杉あり。魔境にて、天狗ここに住むという」と記されていると云う。訪れた時には、六本に分かれた大杉は存在しませんでしたが、深い杜は今も保存され、天狗が住みそうな雰囲気は漂っています。境内に建てられた「今宮」の石碑。昭和4年(1929)に建てられたもので、碑文の内容を要約すると以下のようなもの。「四條天皇の時代である延応元年(1239)、鎌倉では様々な諍い事があり。特にその年の5月22日には大騒動が起きたと云う。この日は後鳥羽上皇が隠岐にて崩御し、こうした諍いはその怨念だとされた。宝治元年(1247)4月に大臣山(鶴岡八幡宮が鎮座する山)の西麓に今宮を建て、尊霊を勧請し、順徳院と護持僧長賢の霊を合祀。長賢は、承久の役の官軍(後鳥羽天皇側)に属し奮戦、後に捕まり陸奥に流刑されたと云う。今宮は新宮と書く」後鳥羽上皇が配流先の隠岐で亡くなったのは延応元年2月22日で、2月25日に埋葬とも言われます。今宮を取巻く社叢。多くの観光バスが行き交う県道から少し入っただけですが、今宮の空間は時が止まった様に静まり返っていました。鶴岡八幡宮末社 今宮創建 / 宝治元年(1247)祭神 / 後鳥羽天皇、土御門天皇、順徳天皇所在地 / 神奈川県鎌倉市18建長寺から今宮徒歩ルート / 県道21号線沿いを鶴岡八幡宮方向に約10分関連記事 / 『建長寺』
2023.03.25
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名古屋市昭和区川名山町の香積院の枝垂れ桜を見に行ってきました。結果は既にピークを過ぎ、風が吹くたびに花弁が散るそんな状況でした。一台も止まっていない駐車場から香積院の全景。総門左の桜が見頃に近づいている、これは出遅れた感が漂う。総門から山門本堂の眺め。…人がいない。境内から山門、本堂の眺め。ピークなら山門(丸門)と枝垂れ桜を写真に収める人が訪れるが、今年も遅かったかぁ。瓦葺の唐門。花期のピークには淡いピンクの花を付けた枝が垂れ下がり、丸窓はピンクのカーテンをかけたようになります。今日は風が吹くたびに花弁がひらひら小雪のように舞い落ちていました。山門(丸門)の丸い入口から境内の枝垂れ桜の眺め。今年も一番いいシーズンは逃してしまったようです。火灯窓から見る散りゆく桜。境内から見る丸門。庫裏側から枝垂桜と境内の眺め。同、枝垂れ桜と本堂を眺める。今夜からまた雨が降るともいいます、散りゆく枝垂れ桜を見る最後のチャンスだったかナ。ここが見頃を過ぎると市内のソメイヨシノは見頃になります。2023/03/24香積院宗派 / 曹洞宗山号 / 味岡山創建 / 貞享4年(1687)住所 / 名古屋市昭和区川名山町115公共交通機関アクセス / 市営地下鉄鶴舞線「杁中」駅下車、徒歩で北に約10分関連記事 / 枝垂桜咲く 「香積院」、香積院
2023.03.24
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久し振りに胸が熱くなる、ドラマが幾つも凝縮されたいい試合でした其々の夢や努力が花開いた結果だね、たっちゃんおめでとう
2023.03.22
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建長寺の前を走る県道21号線、その道路沿いに天心庵があります。建長寺の門前にある点心庵は、建長寺の一部とも思える落ち着いた佇まいの外観。店舗前のメニュー看板。靴を履いたまま入口付近のカウンターまで行けますが、食事のため客室に入る場合はここで靴を脱ぐ必要があります。室内は畳敷きのテーブル席となっていて照明も控えめで落ち着いた店内でした。メニューの一部(1/17時点)。カレー、けんちん蕎麦、海鮮丼、サンドイッチなどあり、器や盛り付けにも気が使われ、がっつり食べたい人には物足りないかもしれない。鎌倉野菜のデトックスウォーター。席に着くと、鎌倉野菜たっぷりのデドックスウオーターがもれなく出されるところが妙に嬉しい。写真は建長汁と塩むすび、小皿の付いた990円のセット(1/17時点)。一説によれば、けんちん汁の発祥は、鎌倉時代の建長寺の僧蘭渓道隆が作った事から広まったとも言われます。点心庵のけんちん汁は、建長寺の老師直伝の味を再現したもので、まさに建長寺の味そのものです。やさしい味付けのけんちん汁に、シンプルな塩結びとの相性が良いです。自分で料理した時にかみさんから味付けが「濃い」と良く云われるが、それも分かる気がする。店内の奥にある座禅堂。丸窓から望む庭の樹々は、これから鮮やかな緑に変わっていきます。建長寺でお昼の時間を迎えた時には、総門の目の前にある静かで落ち着いた天心庵は捨てがたい。天心庵所在地 / 神奈川県鎌倉市山ノ内7利用日 / 2023/01/17関連記事 / 建長寺
2023.03.22
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今朝はあんなに天気が良かったのに。今日はWBC準決勝。試合開始まで近所の桜を見に散歩に出かけてきました。身近な散歩道にも桜の花を見かけるようになってきました。さっきまで晴れていたのに小雨が降り出す。決めきれない試合展開。いっこうに花咲くことない村上様は、つい先日までの桜の蕾の様にも思えたが、ようやく花も開き、これ以上ない勝ち方で勝ち残る事が出来ました。明日はこの流れで満開になるといいのだが。
2023.03.21
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前回掲載した熱田社、次の目的地は熱田区一番に鎮座する「八剱社」です。八剱社へは社頭から東に向かい、「一番一丁目西」交差点から右へ約150m程先の一番町公園の北側に鎮座しています。一番町公園の東側の路地の北側に一番町八剱社の社頭があります。社頭には石の神明鳥居があり、境内にはニノ鳥居も構えています。社頭の左側に「村社 八剣社」と刻まれた社号標と由緒書きが立てられています。「神社名 八剱社鎮座地 名古屋市熱田区1番2丁目27番9号御祭神 日本武尊由緒創建は文化14年(1813)8月と伝わる。昔から1番町の氏神として崇敬篤く明治5年(1872)村社に列格。昭和34年(1959)年9月26日、伊勢湾台風により社殿に損害を受け、同36年(1961)復興。長い間の風雨災害による破損も多く、本殿、拝殿、渡殿、末社、鳥居、手水舎など全面大改修、増築のため平成3年(1991)2月着手、同年10月に完成。境内末社 秋葉社、知立神社境外末社 天王社祭事 例祭日 10月10日、元始祭 1月1日、五穀祈年祭・天王祭 6月4日、新嘗祭・秋葉社・知立社大祭 12月15日」上は大正9年(1920)の白鳥橋周辺。熱田新田の開発は正保4年(1647)に始まり、慶安4年(1651)に完成したとされており、堀川から西にかけて広がる旧熱田新田は堀川寄りから東組、更に西は西組としてして二つの組があり、割と呼ばれる33の区画に分けられていました。各区画は番号で識別され「〇番割」として称され、堀川寄りの東組から西に向け附番されていました。この新田を33に分け「番割」と呼び、それぞれに氏神が祀られ、番割観音と呼ばれる西国三十三ヵ所になぞらえて観音堂も祀られました。当時の番割は、現在も一部に6番町や10番町などの町名として名残を残しています。熱田区内には1番から9番までの番割観音が現存しているそうで、熱田社の右隣に鎮座する慈教寺には2番、3番の番割観音がありました。ここ一番割の番割観音堂は白鳥橋から少し西の杜の中に鎮座しています。八剱社もこの一番割の守護神として祀られてきたようです。境内に入った右側立つ手水舎。平成3年(1991)に手入れが行われたばかりで、伽藍全体に目立った傷みはなく、境内も綺麗に手入れされており、気持ちよく参拝することができます。ニノ鳥居から眺める境内は、周囲に低層住宅が立ち並ぶ立地にあるため、鬱蒼とした杜は見当たりませんが、複数の桜が植えられているので、境内をピンクに染めるのも間もなくでは。拝殿の右奥に境内社が纏められているようです。拝殿は入母屋瓦葺きで、四方が吹き抜けになっています。柱を斜めから支える太い添木があることで、全体的に安定感のある印象を与えます。拝殿から本殿の眺め。本殿前には一対の狛犬が安置されています。しかしながら、社殿域は全周を玉垣で囲まれており、間近で見ることができません。滑らかな曲線で、しっかりと彫り込まれた毛並みを持つ狛犬。昭和4年(1929)に寄進年されたものでした。神明造の本殿の棟には、5本の鰹木が施され、千木は水平方向にスパッと切られた内削ぎが施されています。「鰹木が奇数本の場合は男神、内削ぎ千木が施された場合は女神を祀る場合が多い」と良く耳にします。この八剣社の場合はどう判断するのか悩ましいところ。棟を飾る鰹木や千木は個人的に、ユニセックスなデザインの一例として捉えるように意識しています。境内社と本殿。板宮造りの二つの社が整然と祀られています。境内末社の秋葉社、知立神社。社名札が見当たらず、よく分からず、由緒にある境外末社の天王社も探していますが所在が掴めない。本殿左に忠魂碑。社殿全景。広々とした明るい境内は、一番町公園の一部と言っても過言ではなく、境内を通って公園に向かう親子の姿も見られる身近な存在の神社です。今年は久し振りに腰を据えて花見が楽しめそうです。悲しいかな花粉症になってしまったのか、マスクは手放せなくなってしまったようだ。一番町 八剱社創建 / 文化14年(1813)祭神 / 日本武尊境内社 / 秋葉社、知立神社境外社 / 天王社所在地 / 名古屋市熱田区一番2-27-9参拝日 / 2023/02/12熱田社から八剱社 / 徒歩5~6分程関連記事 / 熱田社(名古屋市熱田区二番)
2023.03.21
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八大龍王。先に記載した岩崎御嶽社散策の際、御嶽社に向かうあじさい遊歩道沿いで八大龍王を見かけ立ち寄ってみました。写真は県道57号線の弁天池交差点から山側に折れ、すぐ先の右側に続く上り坂を進んだ先にある参拝者駐車場から遊歩道の眺め。遊歩道とは言うものの、車も通行するので迂闊に車道は歩けない。駐車場脇にある案内図。余りにもデフォルメされており、よく分からない。案内図の駐車場を〇で、八大龍王の概ねの位置を⇩矢印で表しておきます。写真データから所要時間を見ると駐車場から八大龍王までは約7分ですが、あちらこちらと見て廻っているので実際は5分もかからないと思います。上に続く歩道沿いの左右には、それこそ無数の霊神碑が立ち並び、歩道脇のみならず細い小路が設けられ、こうした霊神碑や小さな社などが杜の奥まで祀られているようで、なかなか立ち入り辛いものがあります。遊歩道沿いの「八大龍王」社標(1957)。数多くの霊神碑や社がある中で、こちらに魅かれたのは守山区に鎮座する八龍神社のように、こうした場所で立派な龍に出会える事もあり、それを期待していたのかもしれない。歩道から八大龍王を眺めると、この時期の杜は草木も冬枯れ比較的明るいので石段を下りて杜に踏み込むことにさほど躊躇いはないが、樹々が生い茂る真夏には度胸がいるかもしれない。石段を下りると、境内右側に小さな池があり、片隅に石標が立てられています。龍は水を司ると言われるだけに、龍神が鎮まる場所としては相応しい雰囲気があります。八大龍王は、天龍八部衆に所属する龍族の八王。法華経に登場し、仏法を守護する難陀、跋難陀、娑伽羅、和修吉、徳叉迦、阿那婆達多、摩那斯、優鉢羅の8首の龍族の族長が祀られ、龍は水を司る事で知られますが、他にも商売繁盛や五穀豊穣など様々な御利益があるとされます。台座には雲または水面が刻まれ、その上にとぐろを巻いた龍が彫られています。自分は蛇が生理的に受け入れにくいのですが、龍には抵抗がないのは不思議なことです。龍に視線を向けている間は問題ありませんが、視線を下げるととぐろを巻いた蛇がいるのです。石であっても、こうした場所であまり出逢いたくないものです。八大龍王(岩崎御嶽社)創建 / 不明祭神 / 八大龍王所在地 / 日進市岩崎町竹ノ山参拝日 / 2023/03/07参拝者駐車場から八大龍王 / 徒歩約5分関連記事 / 岩崎御嶽社散策と相野山八幡神社、『八龍神社』名古屋市守山区大森八龍
2023.03.20
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安芸国一宮厳島神社とB級グルメ巡り広島Day2二日目はいよいよ宮島を目指し、安芸国一宮の厳島神社と宮島を歩くことが主となります。ホテルから数分の広島駅から広島電鉄2号線で一路地御前駅まで各駅停車で約1時間の移動時間となります。上広島駅の昔懐かしい光景です、名古屋も過去にはこのような路面電車が街中を走り回っていました。地下鉄やバスも良いですが、路面電車は見直されるべき良い交通網だと思います。この電車は市内を路面電車として車と並行して走り、信号待ちも同様です。横着な運転をすると電車の進路妨害や接触に繋がりかねません。スマホなどを見ている余裕はありません。整備しすぎた道路を路面電車が走っているだけでも、高速紛いに吹っ飛んでいく車や強引な右左折をする違反も減るでしょう。それくらいの緊張感は必要だと思います。下途中下車した地御前駅。厳島神社の最寄り駅は宮島口駅ですが、一旦こちらで降りて道草をして、廿日市市の地御前にある地御前・大歳神社に参拝していくことにしました。ここまでのルート駅から踏切を越え、左の生活道路を歩いて神社に向かいます。広島といえば、「かき」が有名ですね、こうして脳裏に刷り込まれていく。地御前駅の西側の道筋で見かけた地御前史跡マップ、駅はほぼ中央に位置し、目的地の地御前・大歳神社は左に向け進みます。狭い通り沿いは旧街道の雰囲気が漂い、一帯には寺社や堂が多く鎮座し見所は多いかもしれません。生活道路のため交通量が多いので注意が必要です。智秀山西向寺。浄土真宗本願寺派の寺院で、楼門と本堂の間の境内には樹齢300年以上とされる天井松があります。境内に入ると一本の赤松が天幕の様に大きく枝を広げ、本殿向拝にまで伸びています。あまりに長い枝振りは、多くの支えがなくては形を保てないほど見事なもので地御前史跡マップにも紹介されていました。生憎逆光が酷くここでは掲載を見送りましたが、門の手前に観音堂が鎮座していました。所在地 / 広島県廿日市市地御前3-22-23西向寺から5分程進んだ先に鎮座する地御前大蔵神社。明神鳥居の先から僅かな石段を上り、注連柱をくぐると境内に入ります。社殿は、入母屋瓦葺きの拝殿と幣殿が連なっており、瓦葺きの流造の本殿に繋がっています。境内には桜の古木が複数見られ、間もなくこの境内はピンクに染まる事でしょう。広島県神社庁によれば祭神は大國魂神を祀るようです。由緒は明治15年(1882)、佐伯郡地誌編集控によると、寛政元年(1789)の勧請とされ、現在地に鎮座と考えられる。それまでは、地御前村神賀の平原(現在、この地名は使われていない)に鎮座され、『芸藩通志』には、嚴島外宮(地御前神社)鎮座以前、地御前村(現在の廿日市市地御前、地御前北、阿品、阿品台)一村この社を同じく祀るという里人の伝承があるという。例祭(10月第2日曜日)地御前・大歳神社創建 / 不明遷座 / 寛政元年(1789)祭神 / 大國魂神所在地 / 広島県廿日市市地御前4-12-12大歳神社を更に進むと山陽本線の踏切が現れます。目指す地御前神社は踏切を越えた右側に見える森に鎮座しています。広島県廿日市市地御前に位置し、背後には山陽本線、社の前には広島電鉄の2つの線路に挟まれています。境内であるものの、拝殿前を一般道が横切るため、車には注意が必要です。こちらの祭神は、厳島神社の本宮と同じく、市杵島姫命、田心姫命、湍津姫命の宗像三女神で、非常に大きな入母屋の拝殿があります。また、厳島神社が鎮座する宮島の対岸に位置し、厳島神社の外宮として同時期に建立されたとされるのが地御前神社で、往古は19の神殿舎屋のあったされます。こうして見る社殿には往時の面影を感じる事はなく、手前の拝殿と背後に客人(まろうど)宮本殿と本殿、拝殿右側に境内末社の胡子神社が主な伽藍になります。拝殿は大正3年(1914)に再建されたもので、後方の客人宮本殿と本殿は共に宝暦10年(1760)に再建されたもの。本殿は五間社流造で、すぐ背後に山陽本線の線路が横切っています。拝殿前には石の明神鳥居が立ち、その先に瀬戸内海が間近に迫りますが、鳥居から海に続く参道は広島電鉄の線路と国道2号線が横切り、参道は分断された形になっています。厳島神社摂社 地御前神社創建 / 推古天皇元年(593)主祭神 / 宗像三女神客人宮 / 天忍穂耳命、天穂日命、天津彦根命、活津彦根命、熊野櫞樟日命例祭 / 御陵衣祭(旧暦5月5日)管絃祭 / (旧暦6月17日)境内社 / 胡子神社所在地 / 広島県廿日市市地御前5-17地御前駅から徒歩 / 約10分それでは、再び地御前駅に戻り、ここから終着駅である宮島口駅に向かいます。厳島神社の表玄関だけに、途中の駅舎に比べて非常にお洒落な駅舎です。駅を降りれば目の前が宮島に渡るフェリー乗り場で、JR宮島フェリーに乗ることをお勧めします。乗船する際は右舷側をお勧めします。地御前駅から宮島駅 / 15分程このフェリーは、行きの途中に厳島神社の鳥居の近くを通過してくれるので、右舷側にいると海から社殿と修復を終えた両部鳥居を一枚に収めることができます。厳島神社が鎮座する宮島(厳島)は日本三景の一つで世界遺産にも指定される景勝地で島全体が崇敬対象で往古は禁足地とされていた。御神体の厳島は、島の北東に聳える弥山を含め15%ほどが世界遺産に指定されていますが、海を含むその他は緩衝地帯として管理され、島内には厳島神社以外にも多く寺社が鎮座し、神仏習合の名残を留めています。島に上陸すると多くの参拝客や海外からの観光客で賑わい、フェリー乗り場周辺から鹿が出迎えてくれます。厳島神社の象徴である海に浮かぶ大鳥居は9代目とされ、2019年から修復が始まり、昨年修復が終了しましたばかり。鮮やかな朱色の両部鳥居は干潮時には間近に見ることができ、ここに訪れる機会を見計らっていましたが、遮るものもない美しい姿を見ることができました。上干潮時の社殿と五重塔。大半の建造物が国宝または重要文化財に指定されています。主な伽藍は、入口側から客神社本殿、東廻廊、本社社殿、祓殿、高舞台、左右の客神社、西廻廊を経て天神社、大國神社、能舞台と続き、一番人が集中する場所でもあります。・境内マップはこちら下高舞台から本社祓殿。この日は挙式も行われ、居合わせた観光客からも多くの祝福を受けていました。厳島神社の創建は伝承では推古天皇元年(593)とされますが、定かではないようです。主祭神は市杵島姫命、田心姫命、湍津姫命をお祀りします。現在の海に浮かぶ社殿の原形は平清盛により築かれたとされます。西廻廊を出て海岸沿いの西の松原を奥に進んだ場所に、平清盛を祀る清盛神社が鎮座しています。例祭日は3月20日で、御祭神は平清盛公です。この神社は、平清盛のご遺徳を顕彰するために、昭和29年(1954)に創建されました。現在の厳島神社の礎を築いた平清盛を祀る神社が、昭和に入ってから創建されたとは意外にも思えます。清盛神社創建 / 昭和29年(1954)祭神 / 平清盛所在地 / 広島県廿日市市宮島町28-1ここから少し戻り、右手の大願寺に向かいます。西廻廊の出口の正面に立つ味のある大願寺山門、元禄時代のものとされ、本堂も同時期に再建されたものとされます。大願寺は「亀居山放光院大願寺」と称される真言宗の寺院で、鎌倉時代の建仁年間(1201~1203)に僧了海により再興されたと伝えられ、開基は不明とされています。本尊は厳島弁財天で、相模国の江ノ島神社、近江国の竹生島の宝厳寺とともに日本三大弁財天の一つとされます。本堂の右側には、明治時代に焼失し、平成18年(2006)に再建された裳階を持つ方型の護摩堂があります。堂内には不浄なものを焼き尽くす力を持つとされる真紅の火炎(迦楼羅炎)を背にした、総白檀で作られた約4メートルの本尊不動明王座像が安置されています。大願寺開基 / 不明再興 / 建仁年間(1201~1203)本尊 / 厳島弁財天所在地 / 広島県廿日市市宮島町3ここから南の高台に向かい、当日は修復中の厳島神社多宝塔を経て、あせび遊歩道を経由し、大聖院仁王門の上にある御成門に向かいます。上仁王門全景。下御成門から見る勅願堂と遍照窟方向の眺め、この右手に観音堂、摩尼殿が鎮座します。真言宗御室派大本山 多喜山水精寺大聖院。宮島にある寺院で最も歴史が深く、空海が唐より帰朝後宮島に渡り弥山にて修行した、大同元年(806)の開基とされる弘法大師ゆかりの寺です。厳島最高峰の弥山に弘法大師が勧請した守護神三鬼大権現や秀吉が朝鮮出兵の際に護身仏として祈念した波切不動明王、厳島神社の本地仏であった十一面観世音菩薩、七福神など多くの仏像を祀ります。明治維新までは十二坊の末寺を有し、厳島神社の法会祭事を司る別当職を務めていた。観音堂では「戒壇めぐり」も体験しましたが、補助光もあり経験した中では一番人にやさしいものでした。多喜山 水精寺 大聖院創建 / 大同元年(806)開基 / 空海本尊 / 本堂 三鬼大権現、勅願堂 波切不動明王、観音堂 十一面観音所在地 / 広島県廿日市市宮島町210大聖院からは仁王門を出て滝小路をひたすら真っすぐ進み三翁(さんのう)神社方向へ。三翁神社。厳島神社の摂社で本殿域に三つの相殿があり、由緒によれば創建時期は定かではなく、治承元年(1177)の「伊都岐島千僧供養日記」に比叡御社壇と記述があり、それが三翁神社と考えられ、明治以前は山王社と称されていた。中央 佐伯鞍職(佐伯の翁)、安徳天皇、所 翁、二位尼、岩木翁、大綿津見神左殿 大己貴神、猿田彦神右殿 御子内侍、竹林内侍、徳寿内侍各各祖神。例祭日 10月23日。三翁神社創建 / 不明祭神 / (上記記載)所在地 / 広島県廿日市市宮島町上宮島交流館の屋外に展示されている宮島の大杓子。長さ7.7㍍、最大幅2.7㍍で重量が2.5㌧の巨大なもの。宮島の伝統工芸の宮島細工を後世に遺し、杓子発祥の地宮島のシンボルとして製作されたもので、世界遺産登録を機に展示される様になったとか。宮島交流館所在地 / 広島県廿日市市宮島町412下厳島神社の北側の岬の頂に応永14年(1407)に創建されたもので、豊国神社千畳閣の一画に聳える厳島神社・五重塔。明治初年の廃仏毀釈、神仏分離以前は大聖院の子院にあたる金剛院(現在は広島市佐伯区五日市町石内)の五重塔でした。豊国神社所在地 / 広島県廿日市市宮島町1-1随分と歩いて足取りは重たい、お腹も空いた、表参道商店街を徘徊し少し遅めの昼ご飯。マンホールの影響もあるだろう、迷うことなく「かき」。商店街はとんでもない人波でこれ以上カメラは下に向けられない、しかも長蛇の列が出来ていました。他をあたる余力もなく列に加わる、とにかく冷たいビールを飲みたい。40分程待って店内へ、店の前ではひたすら、ひたすら牡蠣を焼き続けるおにいちゃん。これから夏場は過酷な作業環境なのは容易に分かる。店内に入り漸く腰掛ける事が出来、ホッと一息、とにかく冷たいビールで喉を潤し、生ガキとカキフライをオーダー。これらは比較的早く出されましたが、この日は焼牡蠣がオーダーしてから1時間待ちの大盛況。折角だからと承知の上でオーダーを入れた、外のお兄ちゃんの頑張る姿に牡蠣の焼き上がりをひたすら待つ、言われた様にしっかり一時間を要していた。一つの牡蠣に二粒入っていたりして、粒の小さめのものはこうして入れてくれるようです。待っただけの事はあるか。藤井酒造の宝寿若竹のごとく。広島の酒米八反綿のみを使用し、豊かな香りですっきりとした味わいの純米酒で、土産の候補として考えたが、今一つかみさんの好みではないようなので諦めました。おいしいお酒だったが。焼牡蠣のはやし所在地 / 広島県廿日市市宮島町505-1厳島神社正面全景。昼ご飯を終え、御笠浜に出てみると、ちょうど干潮と重なっており、大鳥居まで歩いて行ける状態でした。早速鳥居に向かって歩き出しました。しっかりとした砂で、埋まることもなく容易に鳥居まで近づけます。鳥居の前は記念写真を撮る人で賑わっていますが、社殿側を眺める人は意外に少ないようです。修復を終え、艶のある朱色で塗装された鳥居。ほとんどの人は鳥居に触れていますが縁起がいいのだろうか。紅葉堂の揚げもみじと大鳥居。色々と考えるものです、まさに不思議食感、渋いお茶が欲しくなる。最後の目的地の長浜神社を目指そう。御笠浜から北に向かい常夜灯のところから右に進み在光寺方面へ。在光寺の手前に厳島神社末社の今伊勢神社に続く石段があります。長い石段の途中に両部鳥居があり、そこから更に石段を上った先に社殿があります。今伊勢神社。瀬戸内海を望む要害山の山頂に鎮座し、厳島神社末社のひとつ。素朴な佇まいの拝殿と瓦葺の流造の本殿が主な伽藍。戦国武将の陶 晴賢(1521~1555)の霊を慰めるものだといい、毛利家から今伊勢神社に二十五石を奉納されたという。創建時期は不明。祭神は天照大神、八幡大神、春日大神、素戔嗚尊、猿田彦神、興津彦命、興津姫命の七柱を祀る。例祭は11月1日。相殿に大織冠藤原鎌足霊神が祀られる。例祭日に神社石段脇の存光寺で甲冑を着け、太刀を帯びた四名の者が舞う湯立神楽が行われていたそうです。厳島神社末社 今伊勢神社所在地 / 広島県廿日市市宮島町伊勢町今伊勢神社からは尾根沿いに桟橋方向に向かいます。行者堂。修験道の開祖の役小角を祀る堂で、江戸時代の絵図には角仏堂と記されている。祭神 役小角祭礼 旧暦4月7日所在地 / 広島県廿日市市宮島町857要害山の散策路から一般道に出会い、そこから下に向かい三叉路を右に進むと海辺に鎮座する長浜神社に至ります。行者堂から5分程の海岸沿いに鎮座する厳島神社境外末社の長浜神社。社殿は道路の先に鎮座し、檜皮で葺かれた四方吹き抜けの拝殿と切妻瓦葺の覆い殿の二棟が建っています。拝殿前の海辺には厳島神社の大鳥居を思わせる朱の両部鳥居があります、多くの人が訪れる大鳥居と比較すると、訪れる参拝客は少なく、落ち着いた雰囲気のある神社です。由緒や創建などの詳細は不明ですが、古くは長浜エビス社と呼ばれていたそうです。主に漁家から崇敬され、例祭日は11月20日。祭神は興津彦命、興津姫命、所 翁の三柱。管絃祭の時には大元神社同様に沖合の御座船上で祭事を執り行い管絃が奏されるという。渚に6つの礎石が置かれ、そこから柱を組んで立てられた朱の両部鳥居、干満時や朝夕には別の表情を魅せてくれる事だろう。厳島神社境外末社 長浜神社所在地 / 広島県廿日市市宮島町宮島桟橋に戻ってきました。広い厳島の一部の寺社しか廻っていませんが、陽はあっという間に傾いています。帰りの電車もあり厳島(宮島)を後にしました。それにしても凄い人と耳にする多言語の多いこと、世界遺産だけの事はある。主なルート JR山陽本線宮島口駅から一気に広島駅へ。エキエ広島で土産と弁当を買い求め、こちらでも一杯。後は電車の中で晩御飯を食べ名古屋まで爆睡するだけだ。上Hikari Rail Star新大阪・博多間を運航する車輛で名古屋からだと馴染みのない車両。下アナゴ弁当が晩御飯、若干高いがボリュームもあり美味しかった。今回の旅行、かみさんが宮島に行ったら絶対食べたかったとしていた「ぺったらぽったら」は休業日で食べられず唯一悔いが残りますが、ほゞ満足の出来るいい旅になりました。明日からまた質素な生活が始まるなぁ…アラームをセットしてひと眠りする。
2023.03.19
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建長寺。神奈川県鎌倉市山ノ内に鎮座する臨済宗建長寺派の大本山の寺院で、建長寺、円覚寺、寿福寺、浄智寺、浄妙寺の5つの寺院を鎌倉五山と称し、建長寺はその鎌倉五山の一位に列格される寺院。前回掲載した円覚寺は鎌倉五山第二位に列格する。円覚寺から建長寺へは県道21号線沿いに鶴岡八幡宮方向へ徒歩15分ほど。上は県道21号線沿いに大きな建長寺寺号標と「天下門」が現れます。建長寺にはこの天下門の他に総門、三門の門を構えています。この天下門は総門前の駐車場入口を兼ねており、写真を撮るにしても車の往来が多く注意が必要。この天下門は現在はこの門だけですが、往古は東西に二つの門を構えていたそうですが、関東大震災で被災倒壊、昭和になってこの西門だけが再建されたようです。東門の痕跡は見られませんが、西門を通り過ぎた先にぽっかりと総門に続く間口が見られます。下は建長寺境内マップ。伽藍は円覚寺と同様の配置で総門、三門、仏殿、法殿、方丈と一直線に続きます。周囲には塔頭寺院が点在し最深部の半僧坊に至ります。境内は天園ハイキングコースの一部でハイキングで通行する際にも拝観料が必要。建長寺総門。江戸時代の天明3年(1783)に京都般舟三味院に建立されたもので、昭和15年(1940)に移築されたもの。総門に掲げられた「巨福山」の山号額は中国の僧、一山一寧(一山国師)禅師(建長寺第10世)の揮毫。「巨福山」は大きな福をもたらす寺の意味が込められているという。建長寺は正式には巨福山建長興国禅寺(こふくさんけんちょうこうこくぜんじ)と称し、鎌倉時代の建長5年(1253)の創建とされる。開基は鎌倉幕府第5代執権北条時頼、開山は南宋の禅僧蘭渓道隆(大覚禅師)で本尊は地蔵菩薩。当初は多宝塔のある伽藍だったとされ、正応6年(1293)の鎌倉大地震で大半が倒壊、炎上。正和4年(1315)、応永23年(1416)等火災に見舞われ創建当初の建物は残っておらず都度再建された、さらに関東大震災でも被災し、その後修復された姿が健在のもの。三門。造りや外観は円覚寺三門と同様のもので、上層の唐破風の下に「建長興国禅寺」の大きな扁額が掛けられている。上層内部は非公開ですが宝冠釈迦如来像を始め、十六羅漢像、五百羅漢像などが安置されているという。三門とは三解脱門の略で、空・無相・撫作を表し、この三門をくぐることで、あらゆる執着から解き放たれる事を意味する。現在の門は安永4年(1775)に万拙硯誼和尚らにより再建された三間二重門で、この作りとしては東日本最大の規模を誇ると云われます。現在の屋根は銅葺屋根ですが当初は杮葺きだったようです。創建当初、三門と後方にある仏殿の間には、参道を挟んで座禅堂や食堂があったようです。現在この空間にはビャクシンの古木7本が植えられており、建長寺開山で南宋から渡来した蘭渓道隆の手植えと伝えられる。仏殿。寄棟造の二層構造に見えますが、内部は一層で、一層の屋根は裳階で中央に唐破風が設けられています。仏殿前の香炉の笠の宝珠や脚には細かな意匠が施されていた。正保4年(1647)に芝の増上寺の徳川二代将軍秀忠夫人の霊屋をこちらに移築したもの。内部に本尊の地蔵菩薩が安置されている。仏殿内。中央に本尊の地蔵菩薩と格子天井には鳳凰らしき絵が一面に描かれ、壁面や梁、天蓋など緻密な透彫りや彫が施され内部の見所が多い、しかし内外ともに漆塗りの剥離や彩色の脱色が目立ち修復が必要な時期に来ている。徳川二代将軍秀忠夫人の霊屋を移築し仏殿としただけに、色褪せていますが当時は内部、外部共に煌びやかなものだったのが窺われます。中央の地蔵菩薩坐像は中国・南宋彫刻の影響を受けた作風で、創建当時(1253)のものか、永仁元年(1293)の鎌倉大地震火災後の制作か定かではないようです。また、地蔵菩薩坐像の左右の仏壇は、創建当初独立した建物だったとされる土地堂に相当するもので、ここには五体の伽藍神が安置されています。五体が全て揃って残っているのは珍しいと云われ国の重要文化財に指定されています。蘭渓道隆の手植えと伝えられるビャクシンの古木、樹齢750年以上ともされる。後方の三門と比較しても遜色のない樹高とうねる様な樹皮は見事なものがある。法堂。現在の建物は、文化11年(1814)に再建されたもので、入母屋二重屋根で銅板葺の関東最大の法堂。昔は建長寺全体が修行道場で、山内にいる僧侶全員がこの法堂に集まり、住持の説法を聞き修行の眼目としました。往時には388人の僧侶がいた記録も残り、ここに参集したそうですが、現在の修行道場は西来庵に機能を移され雲水達はそこで修業しており、現在の法堂は法要・講演・展覧会などに使われているようです。掲げられている「海東法窟」の額は、かつて東外門に架けられていたもの。法堂の見所ともいえる釈迦苦行像と雲竜図の解説。法堂内の本尊・千手観音像と雲竜図。右手の釈迦苦行像はパキスタンのラホール中央博物館に安置されている像のレプリカで、愛知万博の際に陳列されていたものが当寺に寄進されたもの。法堂内部は本尊の千手観音と建長寺創建750年を記念し天井に描かれた雲竜図が見応えがある。球を握る龍の指を見比べると、こちらは5本指、円覚寺の龍は3本と違いがある。因みに焼失前の首里城の龍は4本、元々五本指の龍は中国皇帝のみ用いる事を許されたものらしいが、日本に伝来する過程で変容していったようです。円覚寺の天井画も素晴らしかったが、個人的にはこちらの雲竜図がお気に入り。方丈と唐門。法堂後方に位置する方丈、桃山風の向唐破風の四脚門で、黒漆と煌びやかな金色の飾り金具が強烈な存在感を示している。寛永5年(1628)東京・芝・増上寺で徳川二代将軍秀忠夫人の霊屋の門として建てられたもの。政保4年(1647)に仏殿、西来庵の中門と共に建長寺に移築され、方丈の正門として使用されている。平成23年(2010)に解体修理が施されたこともあり一層輝きを増している。方丈と庭園側から見る唐門。方丈とは本来住持が居住する建物で、現在は法要・座禅・研修の場として使用されます。創建当初の建物は寛永18年(1641)に再建されたが、関東大震災で倒壊し、現在の建物は総門同様に京都般舟三味院から昭和15年(1940)に移築されたもので、享保17年(1732)に皇室の位牌を安置する目的で建立されたものという。方丈内の額には「龍王殿」とある。縁側伝いに建物を一回りでき、後方の方丈庭園も眺めることが出来る。天源院。方丈の左側を奥に進んだ場所にある建長寺の境内塔頭寺院の一つ。趣のある参道に導かれ進んできたものの、残念ながら一般の拝観は許されていないようです。正当院。天源院の更に奥にあり、こちらも建長寺の境内塔頭寺院の一つ。杉木立に囲まれた石畳の参道は趣があるものの、こちらも一般の拝観は許されていないようです。ここから最深部の半僧坊に向かいます。半僧坊の社頭には、狛犬が守る長い石畳の参道が一直線に続き、遥か先には一ノ鳥から三ノ鳥居が視界に入ります。三ノ鳥居の先に社殿があるように思いがちですが、それは大きな間違いです。実は、半僧坊はこの先の山の頂に向けて続く長い石段を上り詰めた先にあるのです。途中の参道脇の山肌には、いくつもの穴が開けられ、墓石や供養塔が建てられています。鎌倉は基本的に平地が少ないため、こうした場所に墓所を作ることが多かったようです。三ノ鳥居をくぐっても、その先には社殿はありません。代わりに、左右に折れ曲がりながら標高を上げていく石段が続いています。上を仰ぎ見ると、半僧坊にたどり着くまでにはまだまだ先は長く、途中には複数の天狗の姿が見られます。社殿の直下には古びた狛犬が守っており、その先には手水舎があります。手水舎の右手には、社殿に続く最後の石段が伸びています。正面には小さな門が見えます。最後の石段を上り切れば、やっと半僧坊の社殿にたどり着きます。ここまで上り切った参拝者を労うかのように、穏やかな表情をした狛犬が出迎えてくれます。半僧坊の創建は明治23年と意外に新しく。当時の建長寺住職・霄貫道がお告げにより静岡県の方広寺より奥山半僧坊大権現を勧請し、建長寺の鎮守として、最も景色の良いこの場所に社殿を築いたのが始まりとされます。方広寺は後醍醐天皇の子、無文元選禅師が開いた寺院で、奥山半僧坊権現の根源とされます。禅師は南北朝時代に中国の元に渡り、各地を巡って参禅を行い、日本への帰国の途中に航海中に台風に遭遇しました。荒波に飲み込まれそうな船倉で観音経を唱えていた禅師の前に、奥山半僧坊権現が現れ、禅師を守護したとされています。半僧坊の右手から更に上に鎮座する勝上巘地蔵堂。建長寺後方のこの山は「勝上巘」と呼ばれ、半僧坊が建立される以前から半僧坊社殿の場所に鎮座しており、半僧坊建立に合わせこの場所に移されたものとされます。島木だけのシンプルな鳥居の先のこの石段だけは登ってみました。方型の小さな堂の内部には勝上巘地蔵が祀られ、名の由来は勝上巘から来ているようです。全身金色で右手に錫杖、左手に宝珠を持ち、円光背を持つもので、鎌倉二十四地蔵尊霊場の第十一番札所になっています。参道は左手に続き天園ハイキングコースとして更に上へ伸びていますがこれ以上は無理です。ここからの眺めで満足し下山する事にします。社殿下の門から先に進むと、右手の岩肌に大団扇が刻まれています、こうした大団扇は参道沿いで他にも見ることが出来ます。天気が良ければ、ここから富士山を眺めることができるようで、その日はあいにく霞がかかっており、遠くまで見通せませんでした。多くの天狗に見守られる建長寺、ここまでの道のりはきつかった。ここまで上れば南に相模湾と鎌倉市街地、西方向は運が良ければ富士山も拝めると言います。左の山を越えれば次の目的地「鶴岡八幡宮」も近い、頑張って下って行こう。建長寺三門の左に鳥居を構える正一位巨福稲荷社。鳥居から社殿までの距離は石段を上り始めると見える距離なので安心してください。社頭は特徴のある塩ビパイプ製の鳥居を構えています。詳細は定かではなく、webでは、建長寺の守護を目的として祀られ、左の石灯籠や以前の鳥居は天明7年(1787)寄進とされますがよく分からなかった。三門の右に薬医門があります。額に嵩山とある建長寺道場で一般の拝観は許されていないようです。山門右の茅葺屋根の鐘楼。北条時頼の発願により広く施主を募り、建長7年(1255)1255に鋳造された梵鐘は重量が2.7㌧あり、国宝に指定されるもので今も現役。この右手にもう一枚解説があり、夏目漱石は「鐘つけば銀杏ちるなり建長寺」と読んだそうで、その句を基にして松岡子規の「柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺」につながったという。広大な伽藍を持つ建長寺。塔頭寺院も多く一回で掲載しきれていないものもありますが、この鐘楼を見て建長寺を後にすることにします。建長寺開山 / 蘭渓道隆開基 / 北条時頼創建 / 建長5年(1253)山号 / 巨福山宗旨・宗派 / 臨済宗建長寺派本尊 / 地蔵菩薩所在地 / 神奈川県鎌倉市山ノ内8参拝日 / 2023/01/17円覚寺から建長寺徒歩ルート / 県道21号線を南下15分弱関連記事 / ・神奈川県一之宮巡りday1(鎌倉円覚寺・建長寺・鶴岡八幡宮)・鎌倉『臨済宗大本山円覚寺』
2023.03.16
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前回掲載した社名不明社(熱田神社)と無縁地蔵菩薩から東に向かい、江川線を越え国道1号線方向に進む事15分弱。白鳥西公園の南にある熱田社が今回の目的地です。公園と境内を区切るものはなく、公園で遊ぶ子供たちにとって熱田社の境内は遊び場の一部になっているようです。公園の北側から神社の杜を眺めると、市街地にあるにもかかわらず、そびえ立つ木々の大きさに驚かされます。その杜の中には、神明造りの本殿と境内社が妨げるものなく見通せます。熱田社社頭。国道1号線に架かる2番歩道橋の少し東側の国道に面し社頭を構えています。社頭の左側には「熱田社」の社標と常夜灯があり、参道を進んで少し先に神明鳥居があります。その先には社殿が鎮座しています。参道左の手水舎。控え柱が付いた安定感のあるものですが、手水鉢に龍の姿は見られなかった。上は大正9年(1920)の白鳥橋周辺、熱田社は赤で示した位置になります。堀川から西にかけて広がる旧熱田新田は堀川寄りから東組、更に西は西組としてして二つの組があり、割と呼ばれる33の区画に分けられていました。各区画は番号で識別され「〇番割」として称され、堀川寄りの東組から西に向け附番されていました。現在でも一部に6番町や10番町などの町名が当時の名残を残しています。熱田社の鎮座する辺りは二・三番割に位置し、大正当時の地図にも鳥居の印が見られます。境内に由緒書きが見当たらず創建等の詳細は定かではなく、「明治初年の勧請、祭神は日本武尊、昭和4年社殿が改修」というのがWebで見られる内容でした。少し調べてみると、尾張徇行記に以下のような記録があることが分かりました。この地史は、樋口好古により1792年から1822年にかけて尾張藩の尾張国や尾張藩領などを視察した際に、村の沿革や隣村との境界、人口、租税額、寺社の除税地、河川、水路、橋梁などを記したもので、Web上でも閲覧することができます。それによると熱田社の起源は慶安3年(1650)の三十番神から始まったようです。熱田新田の開発が正保4年(1647)に始まり、慶安4年(1651)に完成したとされており、新田開発に当初に三十番神が創建されたと考えられます。また、尾張徇行記編纂当時には、熱田社の境内には天王社や神明社なども祀られていたようです。三十番神とは陰暦の1日から30日までの毎日を交替し、法華経を守る神を三十番神といい、その神々を祀った社だといわれています。市内では千種区の茶屋ヶ坂交差点に祀られています、関連記事にリンクを貼っておきます。熱田社境内全景を見ると、左側に拝殿、本殿があり、その右側と左側には境内社が祀られていることが分かります。また、公園から見えていた巨木は御神木のクロガネモチで、保存樹に指定されているそうです。樹齢は定かではないですが、幹の太さや枝振りのいい姿は存在感があり、町のランドマーク的な存在だろう。拝殿全景。入母屋瓦葺の妻入りで四方吹き抜けもの。鬼や軒丸瓦に五三の桐紋が入る。拝殿から本殿方向の眺め、本殿前は一対の狛犬が守護しています。狛犬のウエーブのかかった毛並みは、とても優雅な印象を受けます。本殿は神明造で6本の鰹木に内削ぎの千木が付き、よく言われる女神をお祀りする事になります。……日本武尊が祭神。本殿左の社務所脇に神明鳥居を構えた日本龍神が鎮座する。鳥居(1988年)から境内の眺め。参道右側に置かれた岩の窪みには大黒さまと恵比寿さまが安置されていました。岩を組んだ基壇の上に板宮造りの小さな社が建てられ、右手の岩には由緒が刻まれています。詳細は良く読み取れなかったが、日本武尊の蝦夷征伐、熱田皇大神宮の文字が見え、不可思議な事象が起りそれを鎮めるために祀られたような文脈が見えます。そういえば熱田神宮には龍神社があり、そちらと結び付きがあるのかもしれません。…ん?、これは布袋さん大黒さん、この境内に他にも安置されているのかも。拝殿右から境内社の眺め。左の天王社と右の秋葉社。尾張徇行記に記されている天王社はこの事を指しているのかも知れません。記載されていた神明社の行方がどうなったのか、熱田社本殿の千木と鰹木の数が気になってくる。右の秋葉社の情報には出逢えなかった。境内東から境内社、本殿の眺め。境内から南側の拝殿、社頭の眺め。クロガネモチの聳える静かな境内を後に、多くの車両が往来する国道1号線に出て、次の目的地である白鳥橋方向に向かいます。熱田社創建 / 不明祭神 / 不明(日本武尊とされる)境内社 / 日本龍神、天王社、秋葉社所在地 / 名古屋市熱田区二番1-11-16参拝日 / 2023/02/12無縁地蔵菩薩から徒歩ルート / 江川線を越え国道1号線方向に進む事15分弱。関連記事 / 社名不明社(熱田神社)と無縁地蔵菩薩、山口街道と民俗史跡めぐり 1 三十番神社
2023.03.15
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風もなく温かい陽射しに誘われ、名古屋中心部から車で50分程の日進市の岩崎御嶽山と近くの相野山八幡神社に出かけてきました。今回はその時の様子を掲載します。東名日進JCTの西側にある岩崎御嶽山は、かつては広大な田畑が広がっていましたが、近年の急速な宅地化により、その勢いは山の西側まで迫っています。標高131mの岩崎御嶽山には、森の中に散策路が設けられており、樹々が芽吹きを迎える季節には、森林浴を楽しみながらの散策も気持ちが良いでしょう。山のほゞ全体が岩崎御嶽社の境内で、岩崎御嶽社、中之院、少し離れた住宅の立ち並ぶ高台の頂には奥之院が鎮座し、それらを巡るだけでも約3.3km約50分の散策が楽しめます。ただ、イノシシ、マムシ注意の看板があり、注意のしようはないけれど意識だけは持っていた方がよさそうです。県道57号線の弁天池交差点を山側に進み、右側の上り坂を進むと参拝者用の駐車場がありますので、そちらに駐車すると便利です。駐車場は岩崎御嶽社にもありますが、中之院、奥之院共に駐車場はありません。特に奥之院周辺は生活道路のため路駐は出来ません。歩いて周回するなら、ここか山の頂にある岩崎御嶽社駐車場のどこに停めても一緒かな。ここから頂を目指しこの坂を上っていきます。御嶽社は、霊峰御嶽山をご神体とする山岳宗教で、信仰される人々は死後は霊峰御嶽に帰っていくとされます。そのため、先祖とのつながりの場として御嶽社に霊神碑が建てられます、なので霊神碑はお墓とは違うものです。この道沿いには無数の霊神碑が立ち並んでおり、あたかも霊峰御嶽に訪れたかのようです。ここから北に位置する長久手市役所付近の岩作御嶽山の御嶽社と岩崎御嶽社は規模の大きなものです。岩崎御嶽社駐車場所在地 / 日進市岩崎町竹ノ山車の往来がある道沿いを歩いて行くと道路左下に八大龍神が祀られており、石造の龍が祀られています。更に進み、前方が開けてくればそこが岩崎御嶽社。上はその手前にある弘徳天満宮。ここから右に進むと岩崎御嶽社の駐車場へ続きます、まずはそちらに向け歩いて行きます。広大な岩崎御嶽社駐車場の脇に鎮座する三笠山神社。駐車場には、一際目を引くコンクリート像が設置されています。浅野祥雲作の弘法大師像で彼の手によるものは全国でも見られますが、この辺りでは犬山の桃太郎神社やここから少し東の五色園でも多数見ることができます。ここから更に先に進みます。ふれあいの森平成展望台。ここから西を望むと名古屋中心部のビル群などの眺望が望めますが、展望台は狭く周囲の樹々が遮り意外に開けていない印象があった。平成展望台所在地 / 日進市岩崎町元井ゲ17-93さて駐車場方向に戻り岩崎御嶽社に向かいます。社頭全景。岩崎御嶽山のほゞ山頂に鎮座しその始まりは、万延元年(1860)、明心・明寛の2人の御嶽行者が夢のお告げを受け、木曾から御嶽大神を勧請して開山創建したのが起りとされる神社で大己田貴命、少彦名命をお祀りする神社。鳥居から続く石段の両脇には、無数の霊神碑や岩崎御嶽山八十八ヶ所霊場があり、こうした不動明王像が立ち並んでいます。石段を上り詰めた先の社殿。左に穴不動の案内板があります、徒歩1~2分程で山肌に穴が作られ、その奥に不動尊像が祀られた「お助け穴不動」に至ります。拝殿で参拝さてもらい、中之院に向かいます。本殿の千木鰹木。軒丸瓦などには山丸三の紋が入ります、山は霊峰御嶽、○は宇宙を現し、中の三本の線は上から不動明王、中央が大日如来、下が摩利支天を示しているとされます。本殿後方。グーグル先生の誘導がラフで本殿後方から中之院へ続く道が先に伸びている様に見えますが、本殿の先は行き止まり。周囲には霊神碑に続く小路が多く、しばらく道が見つけられませんでしたが、中之院に続く道はこの絵で云えば、本殿の左下(正面からだと右)に奥に続く道が伸びておりそちらが正しいルートでした。岩崎御嶽社所在地 / 日進市岩崎町竹ノ山本殿の南側から中之院へ続く道。道を進んでいきしばらくするとやがて下りになり、道は左方向に続きます。坂を下ると民家が視界に入ってきて、道は左右に分かれるので右に進みます。拝殿からここまでの所要時間は10分弱。中之院はここから5分弱くらいです。中之院全景。岩崎御嶽社 中之院所在地 / 日進市岩崎町四ツ池ここから再び来た道を戻り、先ほどの分岐を直進し奥之院へ。奥之院へは三ツ池を左に見ながら住宅が立ち並ぶ右手の小高い高台の頂を目指します。ほゞ円錐形の高台に周回するように道路が続き、直登出来ないので長い上り坂が続きます。その道すがらで見つけた枝垂れ梅。甘い香りを漂わせ、陽光に照らされたピンクの花は、春を感じさせる温もりのある色合いでした。奥之院参道口。正面に見えているのが岩崎御嶽山、周囲は傾斜地に住宅が立ち並び別荘地の趣がある。見晴らしもよく住みやすそうに思えるが、下からここまでは坂ばかりで車は必需品かもしれない。分岐から15分弱で岩崎御嶽社奥之院到着。ここの坂を毎日上る生活を送っていれば、自然に足腰が鍛えられそうですね。我家も高台の頂にあり、どこへ行くにも坂しかなく、昔から付き合いのあるご近所さんも高齢化すると「歳をとって坂がきつくなったので、下に降りる」と言い残し、平地に移住していく人も増えています。若い頃は気にもしなかった坂も、最近ではその言葉を身をもって感じるようになってきました。奥之院付近から北方向を眺めるとモリコロパークも間近に望める眺望が広がります。岩崎御嶽社 奥之院所在地 / 日進市岩崎町竹ノ山岩崎御嶽社駐車場から徒歩周回ルート / 約3.3km約50分以上が岩崎御嶽社散策で写真を撮ったりしていたのでスタートから2時間ほどの所要時間でした。折角ここまで来たので少し南に鎮座する相野山八幡神社を訪れました。岩崎御嶽社から東名を越え、日進ジャンクションを望む田畑の広がる一画に相野山八幡神社は鎮座します。相野山八幡神社社叢全景。この陽気につられ、土筆も頭を出しているのではと思いましたが、残念ながら見つけることができませんでした。相野山八幡神社社頭。社頭から境内に続く参道。「出没注意」だそうだ、参道の先に社殿が…であればいいけれど、「視界が広がりその先にイノシシが」だけは勘弁してもらいたい。名古屋市内でも出没するだけに何ら不自然でもないのだが、いるようです。周囲を見渡したくもなるが幸いいない。視界は広がり、広い境内の正面に社殿が見える。慶安元年(1652)、北新田開墾のため三河各地から9軒の入植者により開かれ、入住10年後の明暦3年(1657)に須賀郡寺部より勧請されたもので、岩藤新田も氏子となり両新田の氏神として現在に至る。往古は例祭で馬塔、棒の手を奉納していたようです。明治5年(1872)に村社に列格、社殿は昭和37年に境内北の現在地に遷し今日に至るようです。檜皮葺き流造の本殿には応神天皇をお祀りする。相野山 八幡神社所在地 / 日進市北新町相野山1286岩崎御嶽社から八幡神社車移動 / 東へ10分程さて陽も随分と傾いて来た、そろそろ家路に着く事にする。車アクセス / 名古屋市役所から東へ約1時間参拝日 / 2023/03/07
2023.03.14
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3/12名古屋ウィメンズマラソン2023のボランティアとして、夫婦二人で名城公園付近でお手伝いをさせてもらってきました。雨も心配していましたが午前中は天候も良く、ランナーにとっては少し暑い条件だったかもしれない。少し早めに名城公園に向かい公園を散策しながら集合時間を待つ。名城公園フラワープラザのオランダ風車周辺の光景。色とりどりの花に溢れているかと思いきや、この時期は植え替えのタイミングなのか意外に花は少なかった。桜はまだ〃蕾は固く、唯一ボーダーガーデンのパンジーが冬枯れた公園を華やかに彩っていた。もうすぐ、目の前の大津通は色鮮やかなユニフォームやコスチュームを身にまとったランナーたちが大挙して走ってくる。昨年のレースではルース・チェプンゲティッチが一人旅で後続集団に大差をつけて優勝したが、今年のレースはどうなるのだろうか。選手たちの息遣いを感じながら、間近で観戦できるのがボランティアとして参加するうえでの最大の楽しみだ。早速着替えてお仕事〃。一通りセッティングを終えた頃、バンテリンドームではとっくにスタートしているはず。一息ついていると上空にヘリがホバリングするようになる。間もなく昨年の覇者ルース・チェプンゲティッチが独走で目の前を通り過ぎて行った、またも一人旅だった。彼女が通過してから鈴木亜由子が引っ張る2位グループが見えてくるまでの時間の長い事。この辺りでトップとは3分程差があったと言うが、待ち受ける側にとってこの3分はとてつもなく長く感じるほどのものだった。昨年の記録を更新するのかと感じさせたが、記録は昨年を下回る2時間18分08秒で連覇となった。パリ五輪の代表選考会であるグランドチャンピオンシップ(MGC)の出場権がかかっていただけに鈴木亜由子も自己新で見事に2位でフィニッシュ、3位に前田穂南も自己ベストで入り出場の切符を手にすることができました。一般ランナーも、タイムを目指す人、完走を目指す人、それぞれ異なる目標を持って大会に挑んでいることでしょう。果たして、結果は花開いたでしょうか?それにしてもエントリー費は高くなり過ぎたように感じる…自分だけか。
2023.03.13
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大山祇神社・白龍稲荷神社。鳥羽を見下ろす鳥羽城跡、その西山麗に鎮座するのが大山祇神社・白龍稲荷神社。城山公園から西に下ってくと境内に出ることもできます。訪れたのは昨年の12月15日、折しもこの時期の境内は落葉したイチョウの葉が境内を黄一色に染め美しい光景を見せていた。社頭は鳥羽城址の西山麗にあり、冒頭書いたように城山公園からも境内に辿り着ける。写真は社頭の石の神明鳥居、ここから緩やかな石段が境内に続きます。境内全景。境内は右から大漁稲荷大明神、不明社、左の覆殿が大山祇神社の伽藍。写真は境内右の城山公園に続く石段、左は神輿庫のようで、こちらの祭礼で使用する獅子が保管されているようです。手水舎は境内右にあり、小さな龍もいる。ニノ鳥居から社殿全景。石段前で神社を守護する狛犬は個性的なフォルムのものです。全体的に丸いフォルムで尾や鬣の造形はボリュームのあるもの。寄進年度は見忘れましたが、表面は随分風化が見られ貫禄すら感じさせる佇まいの狛犬です。覆殿。比較的最近建替えられているのでしょう、傷みもなく綺麗な外観です。内部に架けられている額は「大山祇神社」大山祇神社の前身は178年前「社宮司」に遡るようで神社には当時の扁額が残るそうです。三重県神社庁による「大山祇神社」の由緒は以下。「文禄3年(1594)約四百有余年前、九鬼嘉隆が築城の際、石垣が何度も崩れたので、元城山に斎祀されていた大山祇神を現在地に移したら石垣も崩れず鳥羽城(二色城)が出来上がったとの申し伝えがある。古文書、記録等はおよそ慶長年間(1600年頃)の神社の大火の際に消失されたものといわれている。明治6年3月に村社に定められ、同39年12月神饌、幣帛、供進指定社となる。」とあります、また大山祇神社には鎌倉時代から伝わる木彫りの小さな狛犬があるという事なので創建は更に遡る事になります。祭神は大山祇神、草野姫命、猿田彦命の三神をお祀りするようです。更には下のようにも記されていた。「大山祇神社は瀬戸内海に浮かぶ大三島の大山積神社の末社である。氏子は旧鳥羽町の九町の内、中之郷、錦町、横町、藤の郷の四町の氏神様であり、例祭はこの四町が輪番で、各町4年に一度、当番町として奉仕している。四町の内、中之郷、横町、藤之郷が「獅子と天狗の舞」を奉納し、錦町は「神輿練りこみ」を神祭とし社前に奉納し、各町内を巡行する。氏子、町内の祭りとしてだけでなく「鳥羽まつり」として多くの人で賑わっている」とも書かれており、鳥羽町内から親しまれる神社の様です。上は鳥羽城絵図で、当時の城はほゞ全周を海が取り囲む海城だったようで、神社は天守のあった頂上付近に鎮座していたとされます、正面に描かれている島は答志島。文禄3年(1594)九鬼嘉隆が鳥羽城築城の際に天守から左斜め下辺りに神社を遷座したとされ、しかし築城は石垣が何度も崩れるなど難航したと伝わります。町民が「獅子と天狗の舞」を奉納した所、無事に城が完成したと伝わり、以来400年以上を経ても奉納の春祭りは受け継がれているそうです。覆殿から本殿の眺めは高い玉垣に囲われ姿を見る事は出来なかった。覆殿左に伊勢神宮遥拝所。左の石灯籠の寄進年は明治5年(1872)と刻まれています。境内右の大漁稲荷大明神から大山祇神社方向の眺め。令和2年(2020)新たに建替えられた事もあり社殿の飾り金具はピカピカ光り輝いている。大漁稲荷大明神について調べて見ましたが詳細は分かりませんでした。中央の不明社。こちらも社名札がなく詳細は分からなかった。桜の花が咲くのも間もなくか。大山祇神社・大漁稲荷大明神創建 / 不明祭神 / 大山祇神、草野姫命、猿田彦命例大祭 / 4月11日境内社 / 大漁稲荷大明神、不明社参拝日 / 2022/12/15所在地 / 三重県鳥羽市鳥羽3-4-15関連記事 / 幼い頃の桑名の記憶を辿り、的矢の牡蠣を味わう一泊二日、「伊予の國一ノ宮 大山祇神社」
2023.03.11
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「ソラリア西鉄ホテル京都プレミア三条鴨川」晩秋の京都を訪れた際に宿泊したホテル。ソラリア西鉄ホテル京都プレミア三条鴨川は、鴨川に架かる御池大橋を西に渡った左に建つホテル。京阪や地下鉄の「三条」駅から徒歩で5分もかからないので、観光で訪れ宿泊するには便利な位置にある。ホテルロビーはいかにも京都らしい趣を漂わせている。宿泊と朝食(2700円だったような)付きのツインで予約。チェックインを済ませ必要なアメニティーをもって客室に向かう形式。なので取り忘れると再び一階に下りる事になります。宿泊階は三階の木町通り側のツインで室内は何処までも普通、現役時代の出張で利用するビジネスホテルを思わせるもの。まあ、雨風を凌いで快適に眠れれば満足できる。今日は東寺はじめ散々歩いたこともあり足は疲れ気味、早速ホテルの大浴場へ。こちらの大浴場は地下にあり、内風呂と外風呂がある。浴室は新しいようですが、メガネのない自分には照明が暗くて足元が不安。大浴場と称してはいるが、大きさは良くある銭湯の風呂程の大きさ。それでも温かい湯は疲れた足を癒すには充分、じっくり体を温め外風呂へ。浴場が地下にあるので外風呂と云われても、四方を壁に覆われ、解放された天井からは地上の雑踏が飛び込んできて、開放感があるのか圧迫感があるのかよく分からなかった。温泉宿じゃないのでこんなものかなぁ。夕食は先斗町で摂る。翌朝。ホテル横から御池大橋方向の眺め。朝食はホテル一階の京モーニングブッフェ。なんだろう、期待し過ぎていたようで、メニューはビジネスホテルのビュッフェと遜色のないレベルで、一部に京らしいメニューが加わった程度か。これがその日の朝食、鯛茶漬け、ちらし、焼き魚、以上。かみさんのトレイもなんだか寂しい。海外からも訪れる観光地で利便性もいいので、ある意味売り手市場、料金の割に得るものは少ない。朝食は別でとられることをおすすめします。ソラリア西鉄ホテル京都プレミア三条鴨川宿泊日 / 2022/11/24所在地 / 京都府京都市中京区木屋町通三条上る上大阪町515
2023.03.10
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明日は雨の予報もあり、延び延びになっていた東谷山フルーツパークの梅を見に出かけてきました。結果は既に花期は終わりを迎え、多くが散り始めており、開花の遅い枝垂れ梅がこれから蕾を膨らませようとしている状態。そんな中で数は少ないながら、園内の河津桜が丁度見頃を迎えていました。平日ながら梅を楽しみに訪れた方も多く見えましたが、主役は梅から桜に変わろうとしています。蜜を求め飛び交うミツバチ達が一番よく分かっているようです。東谷山フルーツパーク所在地 / 名古屋市守山区上志段味東谷21102023/03/09
2023.03.09
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円覚寺。大河も終わったし、春節前なら比較的空いているのでは、そんな目論見で鎌倉の寺社を訪れた。湘南新宿ライン横須賀線「北鎌倉駅」円覚寺へは駅から徒歩2~3分の静かな鎌倉の町に総門を構えています。南は相模湾に面し、三方を山に囲まれた鎌倉は、その山々いくつもの谷筋があり、「谷戸」と呼ばれ、こうした谷に人々は生活を営んでいました、そうした立地が防衛的に有利とされ、頼朝はここに鎌倉幕府を置いたされます。総門。左右に「臨済宗大本山円覚寺」の寺標と「北条時宗公御廟所」の石標が建ち、石段の先に総門が聳えています。総門から境内の眺め。総門をくぐった境内は、左が拝観受付、右が駐車場になっており、正面には再び石段が現れ、目の前の山門に続く。鎮座地は六国見山南西の麓に位置し、山名から分かるように六つの國(相模、武蔵、伊豆、上総、下総、安房)を見渡せるという。境内はこの総門、山門、弁天堂などへは石段を昇る必要がありますが、主な伽藍の山門から方丈にかけては比較的平坦な参道が続いています。総門に掲げられる山号額は「瑞鹿山」瑞鹿山の由来は仏殿開堂落慶の折、開山・無学祖元禅師の法話を聞こうと白鹿が集まってきたという逸話からつけられたといわれます。石段から見上げる山門。こうして見る山門は天明5年(1785)に再建されたもの。門は桁行(棟側)三間(柱間)、梁行(妻側)二間の入母屋二層で、柱だけの吹き抜け。楼上は非公開の十一面観音、十二神将、十六羅漢が祀られていると言います。正面の軒に唐破風が施され、「円覚興聖禅寺」の扁額の文字は伏見上皇の勅筆によるものとされます。三門から石畳みの参道を先に進むと見えているのが仏殿。本尊の宝冠釈迦如来を祀る建物で、現在の姿は大正12年(1923)の関東大震災で倒壊後、昭和39年(1964)に再建されたもの。参道左の柏槇の古木は市の天然記念物という。仏殿の扁額は後光厳天皇(1338~1374)勅筆とされる「火光明宝殿」の額が掛かる。堂内には宝冠を被った宝冠釈迦如来像が安置されている。天井を見上げると、再建後に描かれた白龍図の天井画がこちらを見据えている。倒壊前の仏殿に描かれていたのかは分からない。選仏場。仏殿の左に建つ茅葺きの寄棟、屋根の上に箱棟を持つ建物で、名が示す様に仏を選び出す場所という意味を持つ修行僧の坐禅道場のこと。創建当初の建物は、建武2年()の境内絵図によれば、山門と仏殿の間の左側に裳階付きの大建築として描かれていると言う。しかし永禄6年の大火で焼失、現在の建物は元禄12年(1699)に伊勢長島城主松平忠充が、江戸の月桂寺・徳雲寺住職一睡碩秀の薦めにより、大蔵経を寄進しそれを所蔵する場所と禅堂を兼ねて建立されたもの。内部には南北朝時代の薬師如来像が中央に祀られる他、平成15年(2003)には円覚寺百観音霊場の一番として、大慈大悲観世音菩薩像が安置されています。堂内の仏像。中央が南北朝時代のものとされる薬師如来像。右は大慈大悲観世音菩薩像。左は解説には記されていなかったが不動明王座像の三体が安置されていた。仏殿から先に進み方丈方向へ向かうと、正面に見えるのが勅使門。天保10年(1839)に建立された唐破風門で梁の蟇股や木鼻には手の込んだ彫が施されています。扉には見事な龍の透彫りが施されています。上が方丈側から門を見て右側、下が左側のもので、下に波濤、上に雲が描かれ中央に躍動感あふれる龍が施されています。大方丈。この方丈前の庭園にも仏殿前で見かけた柏槇の古木が聳え、市の天然記念物に指定を受けています。訪れた当日は、膨らみ始めていた梅の蕾が一部花開き、春の訪れを告げていました。方丈の額。方丈の裏には心字池を中心とした庭園がありますが、この時期は彩りには寂しいものがあります。方丈から少し先に進んだ左にある舎利殿。山門の額には「萬年山」とある。舎利殿には、「佛牙舎利」というお釈迦様の歯が祀られています。源実朝公が宋の時代、中国能仁寺から請来したものとされ、鎌倉にあった太平寺の仏殿を移築したもの。この先に入母屋杮葺きで裳階の付く国宝舎利殿がある。無学祖元禅師をお祀りした開山堂と共に円覚寺随一の幽邃の地とされ、特別拝観期間以外は修行の場故に拝観が規制されている。佛日庵 円覚寺開基廟。開基廟は佛日庵御霊屋とも呼ばれ、円覚寺大檀那である鎌倉幕府8代執権・北條時宗、その子で鎌倉幕府の9代執権・貞時、孫の鎌倉幕府の14代執権・高時が祀られている。時宗は、この場所に庵を結び、禅の修行に没頭し精神鍛錬に励んだと伝えられる。弘安7年(1284)に時宗が亡くなると、その庵の場所に遺体を安置し、お堂を建て開基廟とされた。現在の建物は江戸時代の文化8年(1811)に改築された茅葺きの寄棟、屋根の上に箱棟がのるもの。選仏場同様の作りです。白鹿洞。開基廟から僅かばかり上に進んだ右側に、岩壁に小さな穴が開いています。無学祖元禅師の法話を聞こうと白鹿が集まったという逸話の場所、白鹿洞と名付けられています。ここから白鹿達が続々と集まって来たんだね。紅梅院。円覚寺塔頭寺院の一つで円覚寺境内の最も奥に鎮座します。黄梅院は文和3年(1354)に夢窓疎石の塔所として方外宏遠により開創され、応安元年(1368)には室町幕府2代将軍・足利義詮の遺骨が分骨されていると言う。境内左に千手観音菩薩を本尊とする本堂があり、こぢんまりとした美しい庭園があります。山門の山号額は「伝衣山」とある。庭園の奥に建つ観音堂。この時期の庭園には、白い綿のような花を付けた樹や、椿、水仙など枯れた冬景色に僅かばかりの彩りを与えてくれていた。堂内の聖観世音菩薩像。所々に花が生けられた黄梅院庭園。如意庵。円覚寺塔頭寺院の一つで、山門から右に向かった円覚寺境内に鎮座する寺院。山門から先は一般に公開されていないようです。門から境内の眺め、山門の額には「如意」とある。開基は応安3年(1370)頃に上杉憲顕より開創されたと云われ、無礙妙謙の死後に無礙妙謙の塔所として開創されたとされ、本尊は宝冠釈迦如来を祀るそうです。弁天堂。山門と仏殿の間から右に進んだところに弁天堂の社頭があり、上に向かって石段が続きます。この石段の先に国宝の洪鐘があります。長い石段を上り詰めた先に山の斜面を切り開き境内が作られ、寄棟瓦葺で向拝を持つ弁天堂が鎮座する。向拝下の扁額は「大弁財天」とある。江ノ島弁財天の加護によって洪鐘の鋳造が完成したと伝えられ、その弁財天を祀るお堂で、北条貞時が洪鐘とあわせてここに弁天堂を建立し、当山の鎮守としたとされます。国宝洪鐘。関東で最も大きい洪鐘(高さ259.5㌢)で、円覚寺の開基である北条貞時が、正安3年(1301)に国家安泰を祈願して寄進されたものとされる。物部国光の鋳造によるもので、刻銘の銘文撰者は当時の円覚寺住持の西澗子曇によるものとされ、梵鐘の池の間には、全周に細かい銘が刻まれています。境内の片隅に享保4年(1719)の供養塔がひっそりと佇んでいた。桂昌庵(閻魔堂、十王堂)。山門左に鎮座する円覚寺塔頭寺院の一つで本尊は矢柄地蔵を祀り、創建時期は定かではないようです。名が示す様に向拝柱の蟇股には「王」の一文字が入り、堂内には十王の木像が安置されています。境内右に矢柄地蔵菩薩と閻魔堂の古びた石標が立っています。臨済宗大本山円覚寺円覚寺開山 / 無学祖元開基 / 北条時宗創建 / 弘安5年(1282)山号 / 瑞鹿山宗旨・宗派 / 臨済宗・円覚寺派本尊 / 宝冠釈迦如来所在地 / 神奈川県鎌倉市山ノ内409参拝日 / 2023/01/17関連記事 / 神奈川県一之宮巡りday1(鎌倉円覚寺・建長寺・鶴岡八幡宮)
2023.03.09
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3月2日から3日にかけて、広島を訪れました。目的は、安芸国一宮の厳島神社を訪ねることと、呉の海自カレーや広島のご当地グルメを食べ歩くことでした。名古屋を7時50分発のぞみに乗り、広島駅に到着後、そこからJR呉線に乗り換え1時間程電車に揺られて、呉駅へは11時頃に到着しました。広島駅から呉駅 / JR呉線で約一時間呉駅からはバスに乗り、潜水隊前で降車し、到着時刻は11時20分でした。車窓からは、係留された海自の艦艇や整備中の艦艇の姿を間近に見ることができます。こちらには潜水艦桟橋があり、現在22隻体制とされる潜水艦の一部を見ることができます。呉が海上自衛隊基地となった背景には、地理的な利点と産業的な要因が挙げられます。広島湾の東部に位置し、瀬戸内海に面していることから、瀬戸内海を経由し、太平洋や関門海峡を越えれば東シナ海、日本海域へのアクセスが容易であり、湾奥に位置しているため、艦艇の隠密性も高く、船舶建造に必要な資源や技術を有する労働力も豊富であり、産業的な要因もあるのかもしれません。明治時代には旧海軍の呉海軍工廠が設置され、様々な工場や船舶建造所が建設され、後の大和、長門、赤城などの巨艦が生み出されました。とてもきな臭い状況のなか、日本の防衛にあたる艦艇が係留されていました。後方の船は右が4203訓練支援艦てんりゅう、左が113護衛艦さざなみ、桟橋の先の船は識別番号が見られず不明、手前の潜水艦はおやしお型。この他にそうりゅう型など、一隻当たり約550億~650億とも云われる潜水艦、日本の潜水艦の約50%近くが当日係留され、グーグルアースからもその姿を見ることが出来ます。 港町珈琲店。潜水艦桟橋を良く見下ろせるビルの二階にあるカフェ。テラス席も用意され、風がなければ潮の香りを感じつつ艦船を眺めながら食事が摂れる。生憎この日は風が強く人影はありません。店内はグッズやレトルトの海自カレー販売など海自一色。かみさんが食べてみたかったという「くろしお特製広島風柔らか牛筋カレー」を揃ってオーダー。ドリンクバーにサラダ、食べ放題ピザが付き¥1080と意外にリーズナブル。旭日旗がたてられ、香辛料が効いたカレーは結構おいしかった、窓の外には本物の潜水艦。狭い艦内での唯一の楽しみと言ったらやはり美味しい食事が不可欠。日本防衛の最前線で貢献する乗組員にはせめて美味いもの食べてもらいたいものだ。カレーだけでも満足ですが、次から次に勧められるピザも食べたものだから昼からお腹は一杯。次の目的地「大和ミュージアム」へはバスで移動するプランでしたが、腹ごなしに歩いて向かう事にしました。港町珈琲店営業時間 月・水~土 11:00~20:00、日祝 8:00~20:00所在地 / 広島県呉市昭和町6-17呉駅から公共交通機関アクセス / 呉駅からバス・潜水隊前下車20分程大和ミュージアム。4階建てで、一階から三階が主な展示スペースとなっており、旧日本海軍の歴史や大和から引き揚げられた部品が展示されています。一階には設計図、写真、潜水調査の映像を基に、10分の1の戦艦「大和」の巨大な姿が展示されています。縮小とはいえ全長26.3㍍もある。自国で資源を賄うことのできない日本の象徴が大和なのかもしれない。400発の前世代の巡航ミサイルを持ったとして、撃ってしまえば自国で補充すらできないのが日本、果たして離島の日本に陸続きの様な支援の手が及び国民の生命と暮らしが守れるだろうか。「手の内を晒す訳にはいかない」総司令官は云われますが、新しい調達品の種類、数量まで公開し、Gアースにも露わにしている現状が「様々な視点からみて該当しない」のだろか。独自の路線を持たず、陸続きの国々と同じ振る舞いをすることが望ましいのだろうか。大和ミュージアムはそうした事を考える機会を与えてくれる。館内にはその日に入港する艦船の一覧が公開され、遊覧船で間近に見学もできる。また一階の売店では広島の地酒が利き酒できるコーナーもあり、帰りの土産の品定めも出来る。利き酒セット¥500円でコイン三枚と交換、6種の銘柄から好きなもの3点の試飲ができました。大和ミュージアム西隣の芝生広場には役目を終えた「有人潜水調査艇しんかい」と道路を隔て海上自衛隊呉史料館の前には退役した潜水艦「あきしお」の実物が展示され内部も一般公開されていました。2004年に退役した「あきしお」を間近に見るその大きさは想像を超える迫力がある。この「あきしお」で深度450㍍まで潜航能力があるという。手前の「しんかい」は日本初の有人潜水調査船とかで、海上保安庁が所有し1977年に退役したもの、これで600㍍まで潜れるという。現在は「しんかい6500」が現役で、次の世代は12000㍍を視野に入れているという。退役した潜水艦をこうして見れる事は貴重ですが、その中の一隻でも尖閣に常設展示したらどうなんだろうねぇ。大和ミュージアム休館日 / 火曜日入場料 / 500円 所在地 / 広島県呉市宝町5-20港町珈琲店から徒歩約40分これら呉の観光を終え15:00。次はここから今夜の宿がある広島に戻り、広島東照宮参拝に向かいます。広島駅北口から徒歩10分程の広島東照宮へは16:00着。社頭の由緒書きは以下。「広島東照宮広島二代藩主浅野光晟(みつあきら)は、生母振姫が徳川家康公の三女であったことから東照宮の造営に熱心で、家康公没後三十三年の慶安元年(1648)に、城下を一望できる二葉山の山麗に華麗な朱塗りの社殿を造営しました。昭和20年(1945)8月原爆により本殿・拝殿を焼失しましたが、御神体は駐屯していた兵士達により運び出され難を逃れた。また焼失を免れた唐門、翼廊、本地堂、手水舎などは、370年余りの歴史を伝え、広島市重要有形文化財に指定されています。」広島城の鬼門(北東)封じのために、この二葉山が選ばれたようで、現在の社殿は昭和40年(1965)に再建されたもの。原爆と言う悲惨な体験を経験し、壊滅的な被害を受けた広島にあって、そうした状況下でも焼け残った唐門、翼廊などは街の再生の象徴のひとつともなった事だろう。草木も育たぬとも云われた広島が短期間で見事に復興したのも、人々の強い意志と努力、そして世界に向けた平和への願いが背景にあったからこそ、広島は再生できたのかもしれない。写真は広島東照宮北側の双葉山山頂にある金光(きんこう)稲荷神社奥宮から広島市街の眺望。金光稲荷神社は元禄の頃に祀られた東照宮の境内社で、奥宮は東照宮本殿後方から二葉山に山頂にかけて約500段近くの急な石段を登りつめた先に祀られています。奥宮に至るまで急な参道が続き、数えきれないほどの朱塗りの奉納鳥居が立ち並んでいます。奥宮への道のりは正直言ってとてもきつい、ここの登拝で全ての余力を使い果たした感がありました。それでも奥宮から眺める眺望は一見の価値はあった。お勧めするには辛すぎますが、眺望はお勧めしたい。広島東照宮創建 / 不明祭神 / 東照大権現境内社 / 金光稲荷神社など広島駅から徒歩 / 所要時間10分程17:30社頭から今宵の宿ヴィアインプライム広島 新幹線口に向かう。ヴィアインプライム広島 新幹線口<紅葉の湯>新幹線北口から徒歩3分の好立地に建つ新しいビジネスホテル。一階にコメダがあり朝食はコメダのモーニングとなるようです、近くにスーパーやコンビニ、飲食店もあり食事は全て外食としました。ここまで来てコメダかいと思うが、出張で利用する身であればありがたいだろう。新しいだけに室内は綺麗、ビジネスホテルと捉えれば快適な広さ。10階に大浴場があり、マイクロバブルのシルキー露天風呂は疲れた足の疲労を和らげてくれた。部屋のバスユニットも大型で、足が延ばせるので充分リラックスできます。カミソリは有料です。所在地 / 広島県広島市南区松原町1番6号チェックインも済ませ部屋でビールをひっかけ広島の街に繰り出した。最初はお好み焼き。広島には仕事で訪れる機会もありましたが、ソウルフードを食べる機会はなく、今回は是非とも広島のお好み焼きを食べておきたかった。「いっちゃん本店」駅のターミナルにも出店していますが、地元の人で賑わう雰囲気に浸かりたくて、ホテルから東に歩いて10分程の本店へ。店内は向かい合わせのテーブル席がメインで10人も入れば満員くらいか。上は牡蠣そば。薄く丸く伸ばした生地の上に10㌢を越える山盛りのキャベツを載せ、その上に具材やそばをのせ、ひっくり返す。当然散乱するので全て生地の下に押し込んで蒸し焼き状に仕上げ、大量のお好みソースが降り注がれる。その結果10㌢をあろう厚みも写真のような厚みまで凝縮され完成。蒸し焼きにされたキャベツの甘みとやや甘めのお好みソースが絶妙で、あの大量のキャベツは普段なかなか摂れないものだ。しかもそばも加わり、これに冷たいビールでほぼ仕上がってしまう。かみさんオーダーのお好み焼きにイカ天のトッピング。酒の肴に食べるあのイカ天がソースを吸って柔らかくなり、牡蠣よりお好みらしくていいかもしれない。ソースはテーブルにも用意されており、必要に応じ追加できる。この日の広島は予報では暖かいと言われていたが、時に小雨が降り風も強く寒かっただけに熱々のお好み焼きは体が温まっていいものだ。食べ歩く気持ちだけはあるものの、これ一枚で満腹です。いっちゃん本店所在地 / 広島県広島市東区光町1-6-30 吉岡ビル1Fお腹は満たされましたが、もう少し酒を飲みたい、居酒屋に寄ってからホテルに戻る事にします。次は広島駅南の駅前レンガ通り商店街の「広島県民酒場駅前店」に向かいました。ホテルからだと10分程で、ホテルから南に向かい駅を越えた場所にあり、目印は赤い幟のはためく左の店舗。超個性的な建物で間口は広いが中に入ってカウンターの椅子に腰かけると目の前が壁。薄っぺらい店舗で味があっていい。建物はうすぺらたがこちらのマスターが作る料理は奥行きがあって美味しい。女性だけでは入りにくい店構えの様に見えますがそんなことは全くない。マスターは穏やかな語り口で地元のお勧めを紹介してくれ好感度はいい。価格もリーズナブルで仕事帰りにひっかけて帰るには良い感じの店てす。広島の地酒「雨後の月(480円)」枡から溢れんばかりに酒がそそがれ、二杯分は楽しめる。お通しのお刺身も綺麗に飾られ酒のみには最高の肴。マスターには県外から訪れた事はすぐに見抜かれ、広島に来たならこれは是非食べてくださいと勧められた彼のお勧め二品が上の写真。上が「がんす」車中泊で訪れても地元スーパーで必ず買って食べる外さない味だ。下が「こうね炙りポン酢」これが絶品、少なめの赤身に脂身の「こうね」と呼ばれる牛肉をバーナーであぶって出されるものですが、ほんのりと炭の香りが漂い、口の中で上品な脂の旨味が広がり柔らかくて美味しい。広島名物の「コウネ」とは牛の前足から脇にかけての肉で三角バラの下側にある部位で、「ブリスケ」「肩バラ」「肩カルビ」とも呼ばれ、赤身の味わいと脂がのってまったりとした食べ応えで、噛めば噛むほど旨味を堪能できます。脂が多い部位なので赤身と脂身のバランスを整えていると少なくなってしまい、手間がかかるぶんコストももかかり割に合わない部位なのかもしれない。炙りはやみつきになる美味しさだった。こちらに来たらこれは外せない。お酒も進み追加に「キレイ(450円)」を飲み干していい塩梅に仕上がってきた。お酒二杯とソフトドリンク、肴二品で¥3000少々、懐に優しく美味しいお店でした。広島県民酒場駅前店所在地 / 広島県広島市南区松原町10-31ホテルより2店舗徘徊ルート / 約2.5km 30分さてとお腹も気分も整ったのでホテルに戻りシルキー風呂に浸かって寝る事にしよう。明日は宮島を目指す。
2023.03.08
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今日は風もなく温かく穏やかな一日陽気につられて分厚い上着を脱ぎすてて少し身軽になって、日進市の岩崎御嶽神社まで出かけてみました御嶽神社から中之院、奥之院まで約3.3km約50分アップダウンもあり、訛った足には結構きつかったが上着一枚脱ぎ捨てるだけでも身軽に感じられるのは気のせいかついでに土筆を探して見るが残念ながら見つけられなかった代わりに色鮮やかなピンクの枝垂れ梅が春の香りを漂わせていたこれでウグイスの初鳴きでも聞ければいよいよ春も本番だ
2023.03.07
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12月14.15日。三重県志摩市磯部町的矢のいかだ荘へ牡蠣を食べに出かけてきました。「牡蠣を食べたい」そんな欲求を満たしてくれる牡蠣尽くしの料理は満足できるものでした。名古屋から近鉄電車で2時間30分程で最寄り駅の「志摩磯部」駅に到着。上志摩磯部駅舎全景。レトロな外観で、駅舎の時計台は短針も長針もなく時刻盤だけというお茶目な時計台だ。下改札出口の天井ドーム状でカラフルなステントグラスがお洒落。ここから宿までは送迎バスで15分程の距離にあります。上海を見下ろす高台に建つ「いかだ荘 山上」全景。南側は遮るものがなく、低気圧の影響から海風が吹きすさんでいました。事前に「宿の一部設備に支障があり内湯に入れない状態」と連絡を頂きました。幸い露天風呂は入れるし、内湯は近くの旅館まで送迎して頂けるとの事だったので、こうして訪れる事にしました。下ラウンジから望む的矢の海。上普段は有料の家族風呂。当日は希望者は予約の上一時間無料で貸し切れました。偵察を兼ね一人で入浴、かみさんに状況報告「開放的で海の眺めも良く、湯加減もいいが湯舟を出ると風が強くとても寒い、家族風呂1で待つ」、すぐに「パス」の回答が戻ってきた。下テラスから望む的矢湾の夕景。この日は流星群がピークを迎える、起きていられれば見れそうな天気だったが…。さて、お楽しみの牡蠣尽くし。いかだ荘では刺身や牛肉など豊富なプランがありますが、牡蠣オンリーの牡蠣食べ尽くしプランを選択。設備不具合から最初のアルコールはサービスとの事でビールを頂き乾杯。写真の日本酒以外にワインの取り揃えも充実しています。当日のお品書き。酒の取り揃えも豊富で、馴染みのある作や平蔵はじめ初めて飲む酒もあり、決めきれない時は写真のような利き酒セットもありました。上前菜三種盛り下的矢牡蠣生牡蠣は伊勢志摩プレミアムオイスターと的矢牡蠣の選択が出来た。今年の牡蠣は生育が宜しくないとの事、的矢牡蠣は粒が小さく、プレミアムオイスターは更に小さいという話だった。潮の風味と牡蠣の風味が口の中いっぱいに広がり、ワイルドな牡蠣の風味は的矢、旨味はプレミアムか?上伊勢志摩プレミアムオイスター。更に粒が小さいという話でしたが十分な大きさに感じました。下焼物の焼牡蠣。粒が小さいのは当たり前か、牡蠣が美味しいと感じるのは、1に生、2はやっぱり焼かな。上牡蠣寿司。個人的においしく感じた一品。下牡蠣みぞれ鍋。この日は寒い一日でした、上品な出汁に牡蠣の旨味も加わってこんな日の鍋は嬉しい。上牡蠣蕎麦。アレルギーを持たない体質に感謝だね。ここに来て「牡蠣は食べれません、蕎麦もアレルギーがあって」なんて聞くと悲しいものがある。下牡蠣フライ。揚げたてのフライは軽く塩を振って頬張れば口の中は海の風味で満たされる。上牡蠣御飯と香物三種盛り、椀の物は牡蠣味噌汁。酒に香物は必需品だ、これさえあれば酒が進むのは自分だけだろうか。下デザートこれ以外に牡蠣と松茸の土瓶蒸しが付くが普段の食生活から見ると食べ過ぎだ。丹精込めて出される料理を残すのも失礼だ、若かりし頃の食欲と現実の違いは明らか。お互いに歳と共に食が細くなり、思う程食べれなくなった、牡蠣小屋に行く案もありましたが、そんなに食べれるものじゃない。充分過ぎるほどの内容です。いかだ荘テラスからの朝陽。かみさんが内湯をリクエストしたのでフロントに送迎をお願いしに行ったときの光景。車で近くの旅館 橘の内湯へ、湯あがりに旅館から見た朝陽、周囲の紅葉が朝陽の赤が加わり一段と燃え上がっていた。朝・夕の僅かな時間、こうした光景を見せてくれる。ここから車を30分程走らせた大王町船越の登茂山展望台は、入り組んだリアス式海岸に沈む夕陽が美しく見られ場所で、陽が傾いていれば足を伸ばしてみるのもお勧です。朝食。朝からボリュームのある品揃え、目の前で焼く肉厚の鯵の干物は魚好きの自分には嬉しかった。最近の物価高で鯵の干物も気軽に手が出しにくくなったものです。設備の不具合から内湯には入れず残念でしたが、それ以上のもてなしをして頂き、牡蠣三昧を堪能する事が出来ました。いかだ荘 山上問い合わせ / 0599-57-2035所在地 / 三重県志摩市磯部町的矢883-12宿泊日 / 2022/12/14関連記事 / 幼い頃の桑名の記憶を辿り、的矢の牡蠣を味わう一泊二日
2023.03.05
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いつもの散歩道。道端で春の訪れを身近に感じる贈り物を見つけた。日中は随分暖かく感じるようになってきた。ひとつ郊外にでてみようかな。
2023.03.04
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前回掲載取り上げた神野神社。そこから徒歩5分程南に進むと右側に公園が現れます。今回の目的地は、ここ熱田区西野町にある西野公園の一画に鎮座する社名不明社を掲載します。西野公園もすぐ東に交通量の多い江川線や名古屋高速が伸びています。表通りから少し西側に入った住宅や工場が立ち並ぶ一画に設けられた公園は意外に車の往来も少なく静かな環境にあり、陽射しが降りそそぐ明るい公園でした。予測不能な幼い子供達を解き放ち、自由に走り回らせるには安心できる場所かもしれない。上は西野公園西側から東方の眺め。今回取り上げる神社は公園の敷地西側に鳥居を構えた「社名不明社」社名不明社としてはいるものの、グーグル先生によれば「熱田神社」とある。しかし表示されていた画像や解説は熱田神宮のものが貼られ情報が混乱しているようで、社名すら疑いたくなる。現地には社標や由緒は見当たらず、寄進物などからも社名に繋がるものを見付けられなかった、ここでは「社名不明社」とさせてもらいました。社頭全景。西野公園の敷地西側に東を向いて社頭を構え、左右は集会所と民家が隣接しています。公園から鳥居をくぐると参道が設けられ、公園で走り回る子らに「ここから先は少しおとなしくしようね」とでも言っているような感じが漂う。こぢんまりとした神社が見つめる先には西野公園、少し先の熱田神宮を見守っている。こうして見ると先に掲載した神野町の神野神社とシチュエーションがよく似ています。いろいろ調べて見ましたが「熱田神社」とする記述には巡り逢わなかった。神野町と同じような生立ちの西野町もまた新しい町、町名を冠した神野神社と同じように捉えれば、西野町を守護する西野神社の方が自然な気がしてならない。創建時期や祭神などの詳細は分かりません。鳥居に手水鉢、燈籠や狛犬を備え、石積みの基壇の上の玉垣で囲われた本殿域に神明造の社が祀られ、こぢんまりとしながらも伽藍は整えられています。「皇紀二千六百年記念」と刻まれた玉垣の先の社は、6本の鰹木と水平に切られた内削ぎの千木が施された立派な社です。社殿を守護する小型の狛犬。小さな体格ですが肉付きも良く、口元は上品な朱色の彩色が施されお洒落には気を付けているようだ。社には三つの扉が見られ、祀られているのは一柱ではなさそうです。町の鎮護として祀られたものと仮定すれば、屋根神さまの祭神のイメージだろうか。境内から西野公園を眺める。境内の寄進物で社名や創建時期に繋がるものは、石の明神鳥居の柱には寄進者と昭和15年(1940)寄進、燈籠は昭和13年(1938)寄進と刻まれていますが社名に繋がるものは見当たりません。皇紀二千六百年記念の玉垣からも創建が昭和以前に遡るとは思えませんが、一面の湿地帯が水田に開墾され、集落が出来、多くの人が住む町に発展する過程で町の安泰を祈願して祀られたものと考えられます。この神社も西野町の発展とともに地域を見守り続けて来た神社なのだろう。神々に見守る目の前で遊ぶ子の姿、神社と人が身近に接する温もりのある公園です。社名不明社(熱田神社)創建 / 不明祭神 / 不明所在地 / 名古屋市熱田区西野町2-4参拝日 / 2023/2/12関連記事 / 神野神社神野神社から徒歩ルート / 神野神社から南へ5分無縁地蔵菩薩西野公園の東角に小さなお堂の姿があります。無縁地蔵菩薩と呼ばれるようで、高い基壇の上に切妻の覆屋が建てられ、内部には一体の地蔵菩薩像が祀られていました。地蔵さんを拝んだ後に像をよく見ても年号など見当たりません。この地蔵の謂れや由緒については定かな情報もなく、これ以上お伝えするものはありませんが、穏やかな表情のお地蔵様が安置されています。無縁地蔵菩薩所在地 / 名古屋市熱田区西野町2
2023.03.04
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滋賀県犬上郡豊郷町吉田「岡村本家」この辺りを訪れると「金亀」の銘柄をよく見かけます。自分も彦根を訪れた際、口にする機会がありそのフルーティーな飲み心地と香りが気に入り買って帰ったのを覚えています。今回、滋賀県の酒蔵を巡るツアーの中に「岡村本家」が含まれており、一度は訪れて見たかったので願ったり叶ったり。東に鈴鹿山系を望み、そこを源にする愛知川がすぐ西を流れています。琵琶湖に向かって広がる平野の東寄りに「岡村本家」の蔵が立っています。岡村本家は安政元年(1854)に彦根藩主井伊大老より酒造りを命じられて創業を始め、金亀や大星の銘柄で知られ、地元では好まれています。岡村本家は昔ながらの古い外観で、紫の暖簾が目印です。岡村本家のある吉田は往古は善田と呼ばれていたそうで、一帯は良質な近江米の産地で伊吹山の寒風が吹く酒造り適した風土に恵まれ、使われる米もこの地域の米に拘っているようです。暖簾をくぐると店内は酒好きにはたまらない香りに満たされています。店内には製品が展示され、ツアー客には大盤振る舞いで試飲をさせてもらえます。そんな店内で目に入ったのが写真の岡村本家の歴史。岡村本家は旧大星岡村本店として創業が始まり、創業者の岡村家を遡ると源頼朝に仕えた佐々木定綱、高綱にまで遡るようです。始まりは「安政元年(1854)、八代多内酒造業創始者で彦根藩に仕えていたため、酒造りは弟の平四郎名義で、年貢米の代わりに酒造りを始め、金納と酒税を納めた。」から始まり、現在に至る迄の沿革が記されています。店内の蔵の入口に祀られた神棚。古い建物には酒を育む妖精もいれば神もいる。商品の一部です。こちらの商品のラベルには40から90の数字が記されており、お米の磨き(精米歩合)を表しています。数値が低ければ低いほど、それだけ磨かれている目安になります。個人の好みにもよりますが、精米度が高ければ美味しいとは限らないのが日本酒だと思います。特徴は色味を残して旨味を感じさせる味わいがあります。こちらの搾りの行程は、フィルターを介し、機械で圧縮し絞り切ってしまうものではなく、1枚ずつ袋に入れて搾る「木艚袋搾り」で搾る製法を用いています。歩留まりも落ちて人手もかかるものですが、敢えて機械化し効率化をしないのがこの蔵のこだわりとして受け継がれています。沢山の種類を試飲させてもらい、こちらでは写真のしぼりたてと背番号40を購入しました。にごりも期待しましたが、試飲の印象が好みではなかったので見送りました。機械化、コンピュータ管理され、省人化されたプラントから生み出されるものは、いつ飲んでも安定した製品を生み出してくれます。しかし、少し味気ないと感じることもあります、人が多く介在することは、技術の伝承も次の人材育成にも繋がると思いますし、味わいも変わって良いものだと思っています。我家の味噌汁なんか作り手のその日の気分で微妙にかわります、それがまたいいものです。多くの人の手を介在した製品の方が味わい深いものだと思っています。古くから伝わる酒蔵には妖精や神がいて、その年の味わいを調整してくれています。「岡村本家」所在地 / 滋賀県犬上郡豊郷町吉田100番地訪問日 / 2022/12/27名古屋から車アクセス / 名神高速「湖東三山スマートIC」より車で約10分関連記事 / 滋賀県飲んだくれツアー
2023.03.03
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白蔵稲荷大明神桑名駅から東に15分程歩くと寺町堀沿いに古くからある「寺町通り商店街」に至ります。寺町堀沿いを南北に約200㍍に渡って、アーケードを備えた寺町商店街がある。約40店舗ほどの店が立ち並び、昭和の頃の懐かし光景が漂う。この寺町通りは、毎月3と8がつく日に「三八市」呼ばれる市が立つそうで、その日は多くの客で通りは賑わいを見せると言います。商店街の中ほどに、稲荷橋に続く通りがあり、そちらに向けて進むと稲荷橋の先に朱塗りの堂が目に止まります。後方の背の高い建物は桑名宗社の祭礼「石取り祭り」で南魚町が曳き回す祭車蔵。江戸時代初期にまで遡るこの祭りでは43台の祭車が曳かれるそうで、一帯の各町にはこうした祭車蔵があるようです。寺町堀に架かる稲荷橋を渡った左側が「正一位白蔵稲荷大明神」この白蔵稲荷大明神の南側には天台宗の寺院佛眼院も鎮座しており、桑名城の西にあたるこの辺りは多くの寺院が残る寺町の名残が漂います。落ち着いた色合いの街並みに、白壁と朱塗りの白蔵稲荷大明神の堂はとても目立つ存在です。切妻瓦葺の平入で向拝を持ち、向拝の下に朱の鳥居が立てられています。上は正一位白蔵稲荷大明神由来記。それによれば「太古より御神徳高い伏見稲荷大神は、その霊験最もあらたかにして、古来桑名の氏神たる春日神社別当天台宗佛眼院の守護神として勧請され、江戸時代町年寄36人衆始め、町衆から篤く信仰され、火伏、商売繁盛、招福除災、子女の学徳成就を願って代々崇敬し数々の御霊徳を賜って今日に至りました。」佛眼院の創建は定かではないですが、一説に最澄により創建されたとも云われ、守護神として白蔵稲荷大明神が祀られたとあるので、創建は江戸時代を更に遡る事になるのだろう。鳥居をくぐると右手に手水舎があり、年代は未確認ですが龍もいます。拝所に掲げられた額には「白蔵稲荷大明神」とある。鈴を鳴らして招福除災をお願いしておこう。白蔵稲荷大明神創建 / 不明祭神 / 不明参拝日 / 2022/12/14所在地 / 三重県桑名市南魚町33関連記事 / 桑名宗社(桑名神社・中臣神社)桑名駅からアクセス / 桑名駅から東へ徒歩15分程
2023.03.02
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近々広島方面に出かける予定があり、国会中継を聞きながらいろいろ調べていた。立民の質疑の中で、岸田さんあなた「我国の安全保障上、手の内を見せる訳にはならない」と丁寧に答弁されています。グーグルを見たらどうですか、自衛隊基地、潜水艦基地、魚雷積載用クレーンなとご丁寧にコメントまで入っている現状を持って、これは手の内を晒しているのではないかい。ここまで手の内曝しておいてこれで危機管理できてます?この画像は張りぼてで、どこぞに秘密基地でもあるのかい?こんな平和ボケした状態でよくぞいいますね。youが総司令官でしょう、モザイクくらいかけさせたらどうなのよ。こればかりではなく原発についても、岸田首相、責任とる覚悟が出来ているのか丁寧な説明が欲しい。責任転嫁ばかりの発言はいいんで、youが国のトップでしょうが。
2023.03.01
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