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星野山 無量寿寺 中院を後にして北に1~2分程歩くと東照宮中院通りの交差点に至ります。住宅が立ち並んだ交差点の角に墓石や地蔵、石塔が無造作に置かれた一画があります。川越の街にあって宅地にされることなく、墓じまいされた墓石の一時保管場所なのかと思い込み一度は通り過ぎ、目の前の仙波東照宮に足を運ぶも、看板も掲げられており気になって再び戻ってみました。民家なら余裕で二軒は建てられる広い空き地に、ひと際存在感のある石碑が立っている。碑には「閻魔堂記念」とあり喜多院僧の揮毫によるもので昭和4年に寄進された碑。道路際には塔婆が立てられており、そこには南院の文字と歴代和尚の文字が見える。ここは平安時代初期に建立された喜多院と中院とともに、寺勢を誇っていた南院が鎮座していた一角で、神仏分離により破却され、境内の一部を保存し南院にあった墓石や地蔵をここに集め遺跡として残されたもの。遺跡と云っても礎石らしいものが残されている訳でもなく、何気に通っていてもただの一時置場にしか見えない遺跡である。そして左側をよく見ると手毬歌の「あんたがとどこさ」の発祥の地が川越である旨の解説と下の2枚の解説が立てられていた。ひとつは「天台宗星野山無量寿寺 多聞院南刹 南院遺跡 明治2年神仏分離勅令以、廃仏毀釈之乱由廃絶」と彫られた木札。手作り感満載の手彫りのもので川越愛に満ちている。そしてもう一枚が「武蔵国川越仙波喜多院東照宮中院之図。そこには中院(左下)・東照宮(その右上)・喜多院(中央)が俯瞰図で描かれ、東照宮の随神門の真向かいに南院の山門、現在の遺跡周辺には塔頭寺院や坊らしき姿が描かれている。以下はそこに書かれていた解説。「天台宗星野山無量寿寺は中院(仏地院)・北院(喜多院)・南院(多聞院)の三院があり、中院が関東天台の総代でした。北院の院代天界僧正は徳川の庇護のもと北院を喜多院と改称し家康の法会を行い寛永十年(1633)中院を現在の地に移築、仙波東照宮を建立しました。南院は多聞院という名刹でしたが、明治二年神仏分離勅令と廃仏毀釈に遭遇し遺跡のみとなっている」また、大正時代に出版された「三芳野名勝図会」から中院・北院・南院の姿を探して見たが、ここに掲げられている俯瞰図が一番よくできていた。しかし2001年に作られ、南院の姿を留めた俯瞰図も退色により読み取りにくくなっていた。小江戸川越として観光客で賑わう町の歴史を伝えるこうしたものは自治体でできるんじゃないだろうか。目の前の仙波東照宮。かつて南院の伽藍が広がっていた道路右手は今は宅地化され、面影は残っていない。廃仏毀釈以降現在まで、南院遺跡として残されているが、この先いつまで宅地化されず遺跡として残されるものか疑問が残る。日々散歩していると店舗が突然整地され、以前そこになにがあったか記憶すらないことが多い。人の記憶は簡単にクリアされていくだけに、この一角がなくなると南院も記憶から消去されていくんだろうなぁ。南院遺跡所在地 / 埼玉県川越市小仙波町5-12中院から南院遺跡 / 北へ徒歩1~2分程訪問日 / 2023/9/25関連記事・一泊二日武藏國一之宮巡り 一日目「川越市」・浄楽院 光西寺 (川越市小仙波町)・星野山 無量寿寺 中院
2023.10.31
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豊田市広幡町四ツ屋鎮座「村社 八幡宮」前回掲載した白髭神社から国道248号線を南下、大畑町不流の信号で左折、あとは伊保川右岸沿いをひたすら遡る、広幡町四ツ屋地区の八幡宮社頭まで移動時間は10~15分ほど。上は広幡地区を流れる伊保川沿いで見かけた彼岸花の群落。温暖化の影響は、多様なものに影響を与え、豊川では桜が咲いているは、22日に徳川園に行くといまだに睡蓮が咲いていた、身近な彼岸花の開花も遅れ、今年はじめて見たのがこの日だった。八幡宮社頭から杜を眺める。広幡集落の外れ付近に鳥居が建てられ参道が杜の中に続いている。車は川沿いを少し進んだ広幡広報板付近の路肩に停めさせて頂いた、この辺りは幅員が狭く、尚且つ保見地域バスが運行されており、向かいに広い空き地がありますが、「広幡公民館」バス停で転回スペースなのでここに駐車するのは避けたい。バスで訪れるのであれば、愛知環状鉄道「篠原」駅前から保見地域バスに乗り「広幡公民館」で降りれば社頭は目の前。上が広幡八幡宮の鎮座地で等高線が入り組んだ山間地、このすぐ東は猿投神社が鎮座する猿投山になります。石の明神鳥居の額には八幡宮とあります。参道脇にも彼岸花が咲き、濃い緑ばかりの景色に彩りを添え、いよいよ秋の装いに衣替え。八幡宮参道口、左の鳥居は弘見稲荷社のもので、八幡宮は常夜灯の先から続く石段の先になります。以前は石段前に木造の両部鳥居がありましたが撤去されたようです。社頭右の山肌に石窟と少し上の斜面に社が建てられています。上綺麗に岩が積まれ、天井石で上を覆い、まるで横穴式の石室のよう、その奥に役行者像が安置されていました。下その上の斜面に鎮座する社は琴比羅社。村社 八幡宮と刻まれた社号標は大正7年(1918)に寄進されたもの。手水鉢の龍は大きく口を開け立派な角を持つもの。参道は枯れ葉が堆積した古い石段が続き、斜度もきつい。…先程長いものを見ただけに足元要注意、急傾斜のここで脅かされるのは勘弁願いたい。石段の右側から琴比羅社に繋がる。社殿が見えてきた、手摺のない急な石段も間もなく終わり、だからといって最後まで気は抜けない石段である。石段を上り切ると神楽殿と社殿の間にでます、上は社殿全景、右に境内社がありますが社名は分からなかった。左に神楽殿があり、境内は神楽殿から更に左へ広がっており、その先に境内社が祀られている。神楽殿前から眺める社殿全景、左の瓦葺の建物は神饌所か社務所だろうか。木造入母屋造で梁間、桁行3間の四方吹き抜けの神楽殿。妻側に施された彫飾り。松に二羽の鳥と二匹の鯉の滝登りの姿が彫られている。神楽殿内部に大正12年(1923)に奉納された白黒の社殿全景写真が掛けられていました。八幡宮の創建時は定かではない、少なくとも明治の地図には神社を示すものは見当たらず、この写真が奉納された時期を創建時期と捉えるか、再建と捉えるか資料が見当たらない。因みに愛知県神社庁の広幡八幡宮の解説はつれないものだった。拝殿前の狛犬。吽形は角付きでどちらも彫の深い精悍な面構え。(寄進年未確認)拝殿額と軒唐破風。懸魚には鶴、その下には宝珠を持つ龍の蟇股。軒下に掛けられていた由緒。八幡宮祭神 品陀和気命、息長帯比売命祭日 10月14日例祭、12月14日 秋祭、3月14日 春祭拝殿格子戸から本殿の眺め、黒と朱の漆で塗られた本殿は様式は不明。由緒にある品陀和気命、息長帯比売命の二柱以外にもう一柱祀られているようだ。神楽殿から左方向の境内の眺め。両側が切れ落ちた尾根に作られた境内は、北に向かって広がり、正面の斜面に境内社が纏められている。雰囲気は山城か砦跡を感じさせる、ここから少し西の伊保川右岸には広見城址や、更に西には八草城址もあり、尚更そう思わせるのかもしれない。覆屋の下に祀られるのは、左から天神神社、山神社、秋葉社、天王社、天満宮。これら神社の詳細は不明ですが、明治39年(1906)、神社合祀令の影響を受け、谷筋に点在した小社がこちらに纏められたものだろうか。境内社の左側に細い坂道があり社頭に続いています。来た道を戻るにはこの急な石段を再び降りるか・・・または境内社左から下に続く緩やかな坂を下るかの二択、自分はこちらから社頭に戻りました。坂を下ると弘見稲荷社の社頭前に戻る事ができました、あの急な石段を避けたい方は稲荷社前の坂を上り八幡宮に向かうのがいい。弘見稲荷社鳥居扁額。鳥居の寄進年を見忘れましたが、それほど古いものではないように見受けられます。弘見稲荷社殿全景、詳細は不明。八幡宮・弘見稲荷社創建 / 不明祭神 / 品陀和気命 息長帯比売命境内社 / 琴比羅社、天神神社、山神社、秋葉社、天王社、天満宮、弘見稲荷社、他祭日 / 例祭10月14日、秋祭12月14日、春祭3月14日所在地 / 豊田市広幡町四ツ屋70車アクセス / 白髭神社から国道248号線を南下、大畑町不流信号左折、伊保川右岸沿いに直進。 移動時間約10分強。公共交通機関アクセス / リニモ八草駅から徒歩約45分、または愛知環状鉄道「篠原」駅前から保見地域バスに乗り「広幡公民館」参拝日 / 2023/09/20関連記事・彼岸花咲く神社巡り(モリコロパーク東部丘陵地)・八草町森下『八柱神社』・白髭神社
2023.10.30
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前回掲載した国道41号線沿いに鎮座する多気東町の坂庭神社、社地横の歩道橋から国道41号線の西側に向かう、この辺りは多気中町となります。41号線を越え南下し県道166号線を横切り更に南下、5分前後で住居はまばらとなり、名古屋高速の高架と田畑が目立つようになります。田圃は黄金色に染まり、一部収穫も始まっています。そんな田圃の片隅に「神明社跡地」と刻まれた石標が立っていました。側面には「大正2年(1913)5月5日 坂鹿神社合祀」とも刻まれていました。過去の地図でこの神明社と合祀先の坂鹿神社を調べて見ましたが、鳥居の印は見つからず、地図にも示されておらず、もう少し調べる必要がある。今回の目的地はこの石標ではなく、ここから少し南西に鎮座する多気神社。石標から西方向を眺めると、こんもりとした杜が見えています。あの杜を目指して進めば多気神社の社頭に至ります。神明社跡地から南西に5分前後で社頭に到着。社頭左手に由緒書きと「式内 多気神社」の社号標があり、郊外の神社らしい長い参道に石造の神明鳥居が建てられています。南北に長い社地で、参道の奥に蕃塀の姿もあるようです。社頭の由緒。「式内 多氣神社御祭神 伊弉那岐命、伊弉那美命、天照皇大神由緒創立年は不詳であるが、延長五年(927)にまとめられた古代律令制における神祇官が作成した官社の一覧表である「延喜式神名帳」に記載された全国2861社のひとつであった。また、「尾張徇行記』によれば、承応三年(1654)再建あり。「尾張誌」には、大氣村にありて今は熊野と申す社伝に祭神伊弉那美命(いざなみのみこと)也といへり。 延喜神名式に春日部郡多氣ノ神社と記し、尾張国神名帳に従三位多氣天神と見えたるは此社なり。多氣は諸国に多き地名なれど 伊勢の群名を始め みな多氣といひて「オオケ」と呼べる例聞こえず いかがとおぼつかなけれど しばらく古説により記する。明治五年(1872)村社、明治四〇年神饌幣帛料供進神社に指定となる。大正二年(1913)三月一七日許可を受け同所字高畑457番地の神明社を同年四月二七日合祀した。大正五年四月御大典記念事業として社務所新築、同一三年10月及昭和10年(1935)二月本殿地上げ、石材造築工事等を施工せり。境内は1812.42坪あり、樫・椎等大木多く繁茂し荘厳な神城を有する。古くから氏子により、諸々の罪穢れを祓い清め災厄を避け家内安全繁栄、交通安全、健康長寿等を感謝とともに願う数々の神事が営まれ現在に至る。末社事解雄社 事解雄命速玉雄社 速玉雄命厳島社 市杵島姫命天神社 菅原道真公祭事1月 歳旦祭、3月 祈年祭、7月 虫祭、8月 茅輪神事、十月 例祭、11月 新嘗祭施設等入口正面に石鳥居、その左手に社号標がある。 鳥居から10㍍先に常夜灯一対、さらに20㍍ほど進むと右手に百度石、左手に社務所がある。入口80㍍ほどの所に石造連子窓型蕃塀がありその奥に篝火台がある。蕃塀を進むと左に手水舎、さらに奥に灯籠一対、狛犬一対、吹き抜けの拝殿、幣殿・本殿と続く」往古には熊野、多氣ノ神社、多氣天神とも称された多氣神社。上は明治24年頃の当地、石標と多気神社の位置を赤で示してあります。かつてこの辺りは西春日井郡の五条村、小木村、尾張村、多気村で、明治39年にそれらが合併し、北里村となったようで、由緒にある大正の頃の「同所字高畑457から神明社合祀」が現在のどこにあたるのかよく分からない・・・あの神明社跡地の石標がそれなのかな?。地図から見られる鳥居の印は多気神社と南西に鎮座する多気十二柱神社くらいか。参道を進み、蕃塀前から社殿の眺め。由緒の施設配置が書かれており、分かり易くてありがたい。境内社や参道左側に纏められていました。この一角には旧日本海軍から下付を受けた30㌢はあろう砲弾と境内社三社が纏められています。右から白山神社、山神、不明社。石の蕃塀。中央に多気神社の社名が入る。手水舎、手水鉢に清水は張られていなかった。手水舎後方の一角に枯れた池があり、中央に不明社。本来この堀の中は水が張られるものと思います。拝殿前の狛犬は毬持ちと子乗せ?のもの(寄進年未確認)切妻妻入りの四方吹き抜け拝殿で意匠を廃したシンプルな木造で平成29年(2017)屋根改修工事が施されたようです。拝殿から幣殿方向の眺め。綺麗な曲線を描いて高く積みあげた石垣の上に幣殿、本殿が建てられている。幣殿前の狛犬は大正時代の寄進。幣殿から本殿の眺め、手前で一対の小さな狛犬が守護する。本殿両脇の棟持ち柱が良く見える木造の神明造。境内北側から社殿全景。番塀から社頭の眺め。街中の窮屈な社地を見ていると、開放感のある境内には豊かな緑や隣接して公園もあり、いい環境が残っている。多気神社創建 / 不明祭神 / 伊弉那岐命 伊弉那美命 天照皇大神境内社 / 事解雄社、速玉雄社、厳島社、天神社所在地 / 小牧市多気中町242参拝日 / 2023/10/10坂庭神社から多気神社 / 徒歩10~15分関連記事 / 坂庭(さかにわ)神社
2023.10.27
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くそ暑かった夏も過ぎ、漸く半袖短パンの出番もなくなり衣替え。一気に冷え込み、雪も舞うようになってきた。富士山麓で秋キャンプを考えていたが、家の修理やなんやかんやで機会もなく、気が付けば温度差で体の節々の潤滑油も固まりだし行き逸れてしまった。そんなことから最近は、東部丘陵地帯の低山散策や周辺の寺社を訪れる機会が多く、紅葉の時期を控えてそうした場所に行きたくなる欲求も増えてくる。最近マスコミは熊出没情報を盛んに流しているが、なにも急に増えた訳ではなく、身近な場所でも以前から熊は出没している。そこで直近の愛知県内の熊出没情報を閲覧して見ました。上は昨晩10/24に確認した愛知県が発表している県内の確認情報。情報が届いていないのか、リストに打ち込み最新化するマンパワーがないのか、7月末以降更新されていないようで、情報は実態の数値とかけ離れ、リストから見れば8月以降確認されていない事になる。上は目撃情報の地域を〇で囲ってみました。こうして見ると山間部のみならず身近な里山でも目撃されているのが分かります。黄色の〇はなんじゃい?これは豊田市が公表している目撃情報の一部を黄色で示したもので10/24の情報も含めています。愛知県情報と市町村情報の情報共有が出来ていないのか、紙で伺い書を作り、膨大な承認系統を経ないと更新ができないのか、役所のすることは良く分からないが市町村情報とは遅れがあるようです。冬眠を前にして熊の餌となる木の実が凶作と伝えられます。実態を見ていないのでなんとも言えないけれど、人里近くまで来ているのは確か。情報には上がらないものを含めると、件数は更に増えるのだろう。これから紅葉で足を運びたくなる県東部の情報は豊田市を見た方がいい。「鈴は役に立たないし、最近の熊は人を見ても逃げない」高山の山間部に住む方の生の声でした。渓流釣りをされる方は一度や二度は出くわしたこともあると思いますが、今や独りで低山ハイクに向かったり、山中の神社を訪れる場合といえど、何かしら対策をしていくのがいい。具体的になんだ、となる。コストを考えると言い古されたラジオや鈴となるのだろう。クマ除けスプレーは効果を見ていないので分からないし、小遣いでは買えない。ラジオは電波次第だし沢筋では音は消される。爆竹?山火事になるだろう。・・・と考えるとお守り程度にお手軽な鈴なんだろう。最近の自分は鈴とポール、併せてキャンプ用のナイフを持っていき、見通しのきかない山道では柏手を打つことにしている。柏手に効果あるかは不明ですが、不安な気持ちが落ち着くことは確か。出くわさないのが一番だろうが、こればっかりは分からない。獣は何も熊ばかりじゃなく至る所にいる、豊田市が公開する「ツキノワグマ痕跡識別ガイド」は知っていて損はなさそうです。独りで出かける事の多い自分、最近は実に危ないおやじになっている。令和5年度愛知県公開 ツキノワグマ確認情報豊田市 ツキノワグマ痕跡識別ガイド豊田市 令和5年度の出没情報関連記事 / くるみ温泉&キャンプ(高山市朝日町胡桃島)
2023.10.26
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川越市小仙波町の浄楽院 光西寺から北側の道路を隔てた先に鎮座する「中院」正式名は星野山 無量寿寺 中院と号し阿弥陀如来を本尊とする天台宗の寺院。光西寺を過ぎると、最初に現れるのが竹垣の参道奥に建つこの鐘楼門。入母屋瓦葺の屋根を持つ二層の門で、四本の柱が支える二層部分は回縁が付き高欄で囲まれています。参道脇に桜が植えられ、花の時期になると趣のある門も艶やかな印象になるだろう。門直下から梵鐘を見上げる。現在の鐘楼門の建立時期は良く分からなかったが、梵鐘は元禄三年(1609)鋳造のもので、戦時中の供出を免れ大晦日には梯子で二階に上がり撞くことができると聞きます。小江戸川越に鳴り響く鐘の音はどのような音色なんだろう。門をくぐった左の六地蔵、この後方に島崎藤村の義母、太陽寺一族、釈迦堂大先達の墓がある。参道の先の建物は本尊の釈迦牟尼如来を祀る釈迦堂、昭和61年(1986)に比叡山延暦寺西塔の釈迦堂を模して再建されたもの。鐘楼門から少し北に風格が漂う中院山門が建つ。天長七年(830)、慈覚大師円仁により創立された中院の歴史を感じさせる四脚の山門。門の左に「天台宗別格本山」、右に「元関東八箇壇林」の木札が掛けられている。門から望む参道の先に中院本堂の姿がある。境内で見かけた解説。「中院所在地 川越市小仙波町五丁目中院は、かつて星野山無量寿寺仏地院と称し、天長七年(830)に、慈覚大師によって創立された。当初の中院は、喜多院の隣にある東照宮の地にあったが、寛永十年(1633) 東照宮建造の折に現在地に移されたものである。境内には、川越城主秋元侯の家老であった太陽寺一族の墓、島崎藤村の義母・加藤みきの墓などがある。 太陽寺一族の墓は、山門を入ってすぐ左側にある三基の墓で、川越の地誌「多濃武の雁」を著わした太陽寺盛胤の祖父盛昌・父盛方及び妻のものである。また、加藤みきは、文久三年(1863)に川越松平藩蔵前目付の次女としてこの地に生まれ、四歳の時に母に伴われて上京し、以後大正十二年に再び川越に戻り、昭和十年五月に七十三歳の生涯を閉じた。墓石に「蓮月不染乃墓」と彫られており、この墓銘は藤村が書いたものである。」「市指定史跡 中院中院創立の縁起は喜多院と全く同じで、 天長七年(830) 慈覚大師によって創立された。元来星野山無量寿寺のなかに北院・中院南院の三院があり、それぞれ仏蔵院、仏地院、多聞院と称していたものである。当初の中院は、現在の東照宮の地にあったが、寛永十年(1633)東照宮建造の折りに現在地に移されたものである。喜多院に天海僧正が来住する以前は、むしろ中院の方が勢力をもっていたことは正安三年(1301)勅願所たるべき口宜の写しや、慶長以前の多数の古文書の所蔵によって知られる。秋元侯の家老太陽寺一族の墓、島崎藤村の義母加藤みきの墓などがある。」中院沿革(wikipediaより)・830年(天長7)円仁は淳和天皇の勅許により、仏地院(中院)を建立する。・941年(天慶4)天慶の乱で焼失する。・1296年(永仁4)尊海は成田氏の外護により伽藍を再建。・1296年(永仁4)仙波談義所が開かれる。・1537年(天文6)北条氏の侵攻により焼失。・1632年(寛永9)伽藍を再建する。・1638年(寛永15)川越大火により焼失。・1639年(寛永16)現在の地に移転。・1733年(享保18)本堂を再建。・1945年(昭和20)釈迦堂・薬師堂、焼失。・1983年(昭和58)釈迦堂を再建する。・2012年(平成24)薬師堂を再建する。本堂。赤門。弁柄で塗られた瓦葺四脚門で左の柱に「天台宗中院」、右の柱に「特別保護建造物 此門四百年前建物取調書編入 明治十六年六月十九日 埼玉県」と記された木札が掛けられています。赤門の傍らの掲示板の「皆んな元気で100歳迎えましょう」の言葉には自然に笑みがこぼれる。下は蕾の自分が100まで生きるための十一則、やめられない事ばっかり。そこまでして100を目指す事も無かろう。赤門から眺める境内。一般参拝客はこちらから境内に入る事になります。どこの神社仏閣でも同じですがペットお断りの看板を目にします、それは「動物は穢れ」としてとらわれ、そうした理由から神社仏閣ではペットは抱っこしようが外で「待て」してもらうしかない。たま〃だろうがそうした光景を目にすると、人化したお犬様に限らないが、ペットブーム以降「うちの子」がアレルゲンであることを自覚していない飼い主が増えている気がする。入母屋瓦葺の本堂全景。手入れされた庭園には四季折々の草花が植えられ、特に枝垂れ桜が多く桜の時期に訪れたいところ。この時期は紅葉にも早く、苔の緑と彼岸花が印象に残りました。喜多院にくらべ中院を訪れる参拝客は少ないようで、静かで落ち着いた佇まいの古刹でした。星野山 無量寿寺 中院。宗派 / 天台宗創建 / (伝)天長7年(830)開山 / (伝)円仁開基 / 淳和天皇本尊 / 阿弥陀如来所在地 / 埼玉県川越市小仙波町5-15-1光西寺から北へ / 徒歩1分程参拝日 / 2023/09/25関連記事 / ・一泊二日武藏國一之宮巡り 一日目「川越市」・浄楽院 光西寺 (川越市小仙波町)
2023.10.25
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豊田市大畑町寺ケ洞鎮座白髭神社。神社へは猿投グリーンロード八草インターで降り、信号を右折し国道155号線を南下、八草町森下の八柱神社の鳥居を左に見ながら、大畑町前田の信号を左折した丘陵地に鎮座します。愛知環状鉄道の高架をくぐった先から、国道方向を眺める。こちらも参道の上を電車が通り過ぎていく。白髭神社に続く参道。左側に社号標が立てられ、その向かいに豊田市消防団の分団詰所があり、半鐘の吊るされた火の見櫓が聳え、櫓の下には地蔵堂と秋葉さんも祀られていました。その昔はこの辻付近に「高札」や「郷蔵」が建てられていたという。参道の道幅は普通車一台分の幅員でしかも相互通行の生活道路、鳥居のある社頭はこの道の先にあります。社号標は大正7年(1918)に寄進された「村社 白髭神社」とある。上屋敷、不流、硯坂、寺ケ洞集落の境に続く参道の先に白髭神社の社頭が見えてきます。丘陵地に社頭を構える白髭神社社頭。鳥居脇の境内には銀杏と杉?の御神木が空に向かって聳えています。車は左方向に進むと駐車余地があり、地元の方に声掛けした上で駐車されるといいでしょう。鳥居右手のちびっこ広場は、入口に軽がなんとか駐車する余地はありますが遊び場なので駐車は避けたい。鳥居から先はすぐに石段、その先の境内左が手水舎、正面に拝殿の鰹木が見えています。鳥居の白髭神社扁額。石段を上ると八柱神社同様の広々とした境内が広がる。この広い境内の東側が更に石垣で嵩上げされ、大きな社殿が建てられており、余裕があって解放感すら感じる。白髭神社由緒。…後で拡大すればいいかと思っていたが、意に反し由緒の内容は祭神猿田彦命までしか読み取れなかった。手水舎、社殿はコンクリート造り。この日だけかもしれませんが、鳥居前から左に車で進むと写真右側の道に続いており、境内に乗り入れることが出来ました。下の境内から見る拝殿。白髭神社は道開きや導きの神として知られる猿田彦大神をお祀りし、かつて天然痘が流行した際には近隣の尾張地方を含め多くの参詣者が訪れ、疱瘡の神「大畑の白髭様」として崇敬されたそうです。社蔵の棟札に「白髪大明神・白山妙理大権現社維時寬延4年(1751)大畑の氏神として尊祟」として残ると伝わります。拝殿前の狛犬は昭和52年(1977)寄進のもの。左三つ巴の紋が入る拝殿額。拝殿から本殿方向の眺め。現在の社殿は、昭和52年(1977)造営改築が行われ、その際に隣接の山を削り取り、造成が行われたことにより広大な社地が生まれたようです。境内右から社殿の眺め。八本の鰹木、内削ぎの千木が付く拝殿は幣殿と一体になり、内削ぎ千木と六本の鰹木が付く本殿に繋がっています。拝殿右に立つ石造の明神鳥居。額束には白髭神社と刻まれているようです。一対の狛犬の先に石の社が七社祀られています。大正11年(1922)に寄進された狛犬。境内社。左から洲原社、大荒神社、水神社、風神社、秋葉社、琴平社、山神社。もともとは集落に祀られていた社で、大正初期に一帯の開発に伴い、ここに遷座されたものという。境内社から鳥居方向を眺める。参道脇の五基の常夜灯は寄進年を見忘れましたが、鳥居前の一対を除き、竿や火袋の形が違っており、寄進年や石工が違うのかもしれない。この先の伊保川右岸の天神山には飛地境内社の天満宮(赤丸)があるそうですが、等高線の北側に入口があると誤解しとんでもない道に迷い込んでしまい辿りつけませんでした。恐らく等高線の南側に小道と天満宮の社頭があるものと思います。下の境内から社殿の眺め、規模の大きな社殿ですが、とにかく広い社地の影響もあり小さく見えてしまう。境内から鳥居、参道の眺め、正面に見える小山の左側に恐らく天満宮が鎮座するものと思います。次回訪れる時は導きの神が天満宮まで導いてくれるのでは。白髭神社創建 / 寬延4年(1751)祭神 / 猿田毘古神境内社 / 山神社、琴平社、秋葉社、風神社、水神社、大荒神社、洲原社所在地 / 豊田市大畑町寺ケ洞207車アクセス / 八柱神社から国道248号線を南下、大畑町前田信号左折、直進。 移動時間約2~3分。公共交通機関アクセス / リニモで八草駅から約20分、参拝日 / 2023/09/20関連記事・彼岸花咲く神社巡り(モリコロパーク東部丘陵地)・八草町森下『八柱神社』
2023.10.24
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五輪大明神。岩割瀬神社を後に県道15号線(愛岐道路)を多治見方向向け1~2分程進むと、右手に進む道が見えてきます。五輪大明神へはその道を進んだ右側に鎮座しています。今回、高蔵寺の名の由来となった高蔵寺はじめ、高倉神社や近隣の神社を訪れましたが、五輪大明神を参拝し帰路につく事にします。上は五輪大明神の鎮座地を赤マーカーで記しました。鎮座地は高根山の西麗に位置し西に玉野川(庄内川)を見下ろす高台に鎮座します。ここからだと紅葉の名所高蔵寺も徒歩圏内になります。最初に、五輪大明神について詳細を記したものに巡り合えず、建立時期や起こりなど全く分からなかった。ただ確実なのは、地図上で五輪大明神の鳥居の印が現れるのは昭和中期から後期にかけて、岩割瀬神社の創建から後に五輪大明神が創建されているようで、社標も昭和54年(1979)に寄進されたもの。県道から分かれた道は左右を樹々に包まれていますが、少し奥に進むと前方は開けます。五輪大明神の鎮座地はその道沿いになります。五輪大明神社殿全景。東西に長い社地に切妻の拝殿、方形屋根の覆屋が主な建物になります。周辺は草木が生い茂っていますが、直前に訪れた岩割瀬神社と比較すると明るく荒れた印象はありません、普段靴でも大丈夫。車道に沿う様に建てられているので社標の五輪大明神の社名もこの位置にこないと分かりません。社地には社標と一対の常夜灯が建てられ、参道の左側に小さな石塔がありますが、鳥居や狛犬などはありません。拝殿は腰壁付きの切妻妻入りの吹き抜け拝殿で、妻壁に額も掲げられています。拝殿額は「五輪大明神」情報がなく「いつわ」なのか「ごりん」なのか読み方すら分かりません。拝殿から覆屋の眺め。鈴紐の先の覆屋には社はなく、石の御神体が祀られていました。金の御幣と花が添えられ、日々参拝に訪れる方が見える様子です。神社では見かけない木魚が置かれており仏教施設か、しかし手前は鈴が吊るされ、金の御幣が捧げられている。参道左の石塔も文字が彫られておらず詳細は分かりません。この日最後の訪問地五輪大明神、創建に至る起こりも何もわからず、すっきりしない思いで家路に向かう。五輪大明神創建 / 不明祭神 / 不明所在地 / 瀬戸市鹿乗町1507岩割瀬神社から車移動 / 県道15号線を約1~2分先右折参拝日 / 2023/09/10関連記事 / ・岩割瀬神社・鹿乗 八幡社・燈明山 高蔵寺・五社大明神社・御来迎の碑・高蔵稲荷神社・高蔵神社
2023.10.21
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川越市小仙波町鎮座 浄楽院 光西寺。JR川越駅東口から北東方向へ徒歩20分程に位置し、東口から西武バスで最寄りの喜多院入口まで移動する事も出来ます。光西寺の前を北に伸びる道筋は、830年に淳和天皇の勅願により円仁が建立した中院や、仙波東照宮、南院遺跡、喜多院など狭い範囲に鎮座します。仙波東照宮、喜多院が目的でここを通りかかりましたが、山門の彫飾りに目がとまり立ち止まって見ました。光西寺山門。正式名は緇田山浄楽院光西寺、浄土真宗本願寺派の寺院で本尊は阿弥陀如来です。山門は木造切妻の四脚門で木鼻や脇障子など手の込んだ意匠が施されています。山門扉と山号額。左は寺紋の五七の桐、右に浄土真宗本願寺派の宗紋の下り藤が彫り込まれています。山号額。細部にわたる繊細な彫りと流麗な美しさを持つ脇障子の装飾。江戸木彫刻を代表する彫刻家、北澤一京氏が手掛けたものという。山門左の略歴。「光西寺は、永禄九年(1566)に石州浜(島根県浜田市)に、恵誓法師を開基として寺が建立されたのに始まる。浜田藩士の菩提寺として尊崇されていたが、天保七年(1836)、十代藩主康爵の時、藩は日本海の孤島「竹島」を根拠地として外国との貿易(当時は禁制)を行って、幕府の政策に違反した。ことは幕府の密偵 間宮林蔵の調べで露見し、藩は本来ならばお家取り潰しになるところ、徳川家の親藩の故をもって減刑、重臣の岡田頼母、松井図書の二人が責任をとって切腹、船頭が処刑され、藩は奥州棚倉(福島県)に左遷転封されるにとどまった。家臣ともども光西寺も棚倉に転住し東林寺に仮住まいした。棚倉在住三十余年、維新の危機に直面した幕府は、城主松平周防守康英の英明と外交的手腕を重視し、老中職に任じ川越城主に転封させ国内国外の重要政務の責任者とした。慶応二年(1866)十月、光西寺も家臣とともに川越に転地し、南町養寿院門前の千手院を仮寺とした。その翌々年は明治元年、明治維新となったので、寺領も貰えず寺の建立もならず、漸く大正の末に現在の場所に小堂を建立したのである。藩についてきた寺ということで士族寺とかお供寺とかよばれている。」大正2年に記された入間郡誌では光西寺について以下のように記されていました。「南町にあり。養壽院門前にあり。元養壽院所屬千壽院の寺地なりしが、松平周防守川越へ入城するに當て、寺も随伴して、此地に来れる也。然れば寺の川越町に建てられたるは五十年を出でずと云ふべし。」とあった。養壽院(川越市元町2-11-1)は、ここから北西に20分程の「時の鐘」の西に位置し、そこに仮寺を設けていたが、仮寺のまま江戸時代から激動の明治維新を迎え、大正時代になってようやくこの地に落ち着いたようです。藩と共に浜田藩士の菩提寺は何度もお供し、川越に落ち着いた光西寺、お供寺とは言い得て妙だ。歴史のある光西寺ですが、安住の地に落ち着いたのが大正期のため、伽藍自体は比較的新しいもので、この山門も同時期のものだろう、目立った傷みはなく木鼻の獅子の白い歯も綺麗なものです。重い屋根を支える蟇股の力士像、まだ〃表情には余裕がある。本堂。後方の墓苑内には松平周防守家廟所があるというが、ここで次の中院に向かう。緇田山 浄楽院 光西寺宗派 / 浄土真宗西本願寺派創建 / 永禄九年(1566)、(天保7年(1836)福島県棚倉に移転、慶応二年(1866)川越に移転)開基 / 恵誓法師本尊 / 阿弥陀如来所在地 / 埼玉県川越市小仙波町5丁目4−7JR川越駅から光西寺 / 北東へ徒歩20分程関連記事 / ・一泊二日武藏國一之宮巡り 一日目「川越市」
2023.10.20
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10月10日、前日のぐずついた天気から、うってかわってこの日良く晴れ渡った。久し振りに県営名古屋空港西側を歩いてきました。写真は西春日井郡豊山町青山神明の神明公園、周辺を徘徊する際に良く利用させてもらっています。訪れた時は公園西側の駐車場が遺構調査のため閉鎖されており、公園東側に駐車することになる。期間を見なかったが、調査となるとしばらくは東側に停めるしかなさそうです。今回最初に訪れるのは小牧市多気東町の坂庭(さかにわ)神社から始まります。上の左は明治中期、当時西春日井郡多気村だった頃の鎮座地、右はほぼ現在の鎮座地周辺。中江川の東側で春日井郡豊山町と小牧市の境界があり、今回取り上げる坂庭神社は小牧市になります。神明公園から坂庭神社までの所要時間は徒歩15分程の位置になります。古くは熊庄坂場村で、坂庭神社の坂庭はこの辺りをさかにわと呼ばれていた事から坂庭の名がついたと思われます、江戸時代には三明神と呼ばれていたという。尾張国山田郡の式内社とされ、名古屋市西区上小田井に鎮座する星神社とともに論社とされている。鎮座地周辺。名古屋高速の高架が北方向の小牧インターに続き、その下を国道41号線が伸びています。国道を車で走っていても、この高架により自分の位置や店の位置が良く分からなくなった。豊山町から歩いてくると、開けた田畑の先に高速の高架と街並みが連なり、そこに杜や大きな樹がポツンと見えます、そうした所は概ね神社か寺、寺社散策にはそうしたものが目印になる。鎮座地は国道41号線小牧市多紀東町の歩道橋脇が鎮座地になります。明治中期の地図には既に鳥居の印が描かれており、社地は国道拡幅や高速建設に伴い縮小されているように思われます。坂庭神社社頭は国道から右に入ったところに南向きに社頭を構え、変形した社地の周囲は玉垣で囲われ、左に「式内 村社 坂庭神社」の社号標が立っています。境内左に一本の御神木が聳え、神明鳥居の先に石の番塀を構えています。 境内全景。番塀の先の境内には右に社務所、左が手水舎。式内 坂庭神社由緒。「本神社は創建の年代は不詳であるが延喜式神名帳所載(第六十代醍醐天皇の延喜五年制定)の国幤社であり古くは三明神とも言われ国常立命、国狭槌命、天照皇大神の三神を祀る。又、相殿には津島社十二柱社、稲荷社の神々を祀るこの度、国道四十一号線の拡幅により社殿等の改築をはじめ工作物一切の移築が行われ、平成元年(1989)十一月十九日竣工奉祝祭を斎行す」とある。綺麗な社殿は国道拡幅によるもののようです。番塀から社殿の眺め、社殿はコンクリート造り。境内は綺麗に掃き清められ、参拝者を気持ちよく受け入れてくれる。手水舎の舟形の手水鉢に視線が行きます。手水鉢は左の船首が波を乗り越えるように上を向く紛れもない舟型。こうした形の手水鉢は良く見かけますが、全体のバランスが整ったきれいな舟です。その舟を左舷から両手で抑え込む龍の姿がある。多気町は舟に纏わる土地柄なんだろうか?拝殿は銅葺屋根の妻切り平入で、拝殿前で一対の狛犬が守護する。本殿域右に由緒にある「津島社十二柱社、稲荷社の相殿」祀られています。子持ち毬持ちでふさふさとした鬣の狛犬。寄進年は大正14年(1925)のもの、境内の寄進物は大正末期のものが多かった。拝殿。五七の桐が神紋と見えます。拝殿額は「式内坂庭神社」。拝殿から幣殿、本殿の眺め。平成元年(1989)に社殿改修されたことから全体的に綺麗に保たれています。国道歩道側から眺めた社殿の全景。41号線を名古屋に向け走らせていると、良くみかけるお馴染みの姿かもしれない。実際に訪れて見ると、広い41号線から一歩市街地に入ると、すれ違い出来ない細い生活道路で駐車余地のない環境。この日、坂庭神社以外にも何社か参拝しましたが、何れもそうした環境なので歩いて訪れるのが一番いい。本殿は切妻で3本の鰹木と外削ぎの千木が乗せられています。多紀東町の歩道橋脇から本殿域左側を眺める。坂庭神社創建 / 不明、(延喜式神名帳に山田郡坂庭神社とある)祭神 / 国常立命、国狭槌命、天照皇大神境内社 / 津島社十二柱社、稲荷社相殿所在地 / 小牧市多気東町9参拝日 / 2023/10/10神明公園から徒歩 / 西へ15分、約1㌖最寄りの神社 / 豊山町青山 八剱神社 等
2023.10.19
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10/14、豊橋市御園町に鎮座する東田神明宮の例祭で奉納される手筒花火を見に出かけてきました。名古屋から名鉄に乗り名鉄名古屋本線で約1時間、豊橋駅に到着。10/21・22に行われる豊橋まつりを前に、路面電車もデコレーションされ祭り気分を盛り上げていた。目的地の東田神明宮は路面電車で最寄り駅の東田坂上まで約15分程、そこから徒歩で10分ほどで到着できます。例祭で奉納される手筒花火は日没からなので、市内を散策しながら神社に向かいます。マンホールには手筒花火と吉田城が描かれています。某TV局で取り上げられることのある「スパゲッ亭チャオ」で少し早い昼食。昭和レトロな店内は昼前と言う事もあり混雑する様子はなかった。味は食べ慣れた名古屋の味と比較すると、スパイシーさに欠け率直なところ普通のあんかけパスタ。TVや口コミは話半分として捉えるべきなのを改めて感じた、一度食べれば満足かナ。ここから北に5分程のケーキ店「マッターホーン」で三時のおやつ「ダミエ」をテイクアウトして散策開始。吉田神社。マッターホーンから北東に15分程、豊川左岸の護岸を背にして鎮座し、参道の松並木が特徴の神社。社頭右に縣社吉田神社の社号標と手筒花火発祥之地の標柱がさり気無く立っている。創建は諸説あるそうですが、旧社家の文書(天王御縁起)に天治元年(1124)当地で疫病が流行した際、牛頭天王を勧請し疫病退散を祈願したのが起こりとされ、源頼朝からも篤く崇敬されたという。吉田城(今橋城)築城後は御城内天王社・牛頭天王社、天保6年に正一位の神階を賜った後は正一位吉田天王社と称し、徳川幕府成立後の歴代城主から崇敬庇護を受けて来た。現在も本町・上伝馬町・萱町・指笠町・札木町・三浦町・関屋町・西八町の氏神として、又手筒花火発祥の神社として崇敬されている神社です。「伝承三河伝統 手筒花火発祥之地」吉田神社の祭礼手筒花火の歴史は450年以上前にさかのぼると伝えられます。「参河国名所図絵」内で記述のある「古老伝」(所在不明)には「永禄元年(1558)天王社祭礼花火と云事初る」と書かれており、このことから吉田(現在の豊橋)が日本での花火の発祥地と伝承されています。花火は、天文12年(1543)のポルトガルからの鉄砲伝来以降、火薬の広がりとともに発展していったと考えられているそうで、その後天正3年(1575)の長篠の戦い、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いを経て、火薬の可能性に気づいた徳川家康が三河衆に火薬の製造を任せたことがこの地方での花火の発展につながったと言われています。江戸時代の中頃になると、豊橋の花火は全国的にも名を知られるようになります。「三河国吉田名蹤綜録」には他国からも多くの人が見物に来たと記されています。花火が掲げられた場所は、吉田城の城下町・吉田の繁華街だった本町(現在の新本町周辺)の軒が連なる大通りで花火が揚げられていたそうです。享和2年(1802)にこの地を訪れた人気戯作者・滝沢馬琴は著書「羇旅漫録」で吉田の花火を「天下一」と称賛しており、当時の吉田の花火がいかに降盛を極めていたかが読み取れます。嘉永4年(1851)「参河国名所図絵」には、三日間に及ぶ当時の祭の様子が描かれています。初日は午後2時頃から「昼揚げ」が始まり、「袋物」と呼ばれた傘や布なども打ち揚げていたようです。 夜になると打ち揚げ花火や仕掛け花火、翌日には「聞き物」という細工花火などが掲げられたと記録されています。市内の神社を何社か参拝しましたが、何れも花火を揚げるだけの広い境内を持っています。吉田神社創建 / 天治元年(1124)、諸説あり祭神 / 素盞嗚尊所在地 / 豊橋市関屋町2豊川と吉田城。吉田神社から北に数分の所に国道1号線の吉田大橋が架かり、写真は橋の中ほどから吉田城を眺めています。この一帯は吉田城の他、市役所や豊橋公園が隣接しており、緑豊かな癒し空間になっています。東海道の34番目の宿場町吉田宿は平安時代より吉田といわれ、地名の由来は吉田大橋から眺める事で察しがつく様に思います。河原は葦が生えており、古くは田園風景の中に一面葦原が広がる地だったのだろう、そうした光景から「葦田」となり吉田に変って行ったのではないだろうか。吉田から豊橋に地名変更されたのは意外に最近の事で、明治2年(1869)、吉田藩は伊予国に同名の藩があったことから、明治政府から改名を命ぜられ、今橋、関屋、豊橋の三つの候補より、豊川に架けられていた豊橋の名から、明治2年に「豊橋」に藩名変更されたようです。吉田城の本丸には所謂天守はなく、四方に櫓を設けたもので、そのうちの一つ鉄櫓が復元されています。城内で見かけた狂い咲きの桜。公園内でおやつの時間、ベンチに腰掛け花見をかねてダミエを頂く。バタークリームをスポンジケーキに挟んで外をチョコでコーティングしたもので、見た目は重そうですが軽い食感の昔懐かしい素朴な味。市役所13階の展望デッキから東田神明宮方向の眺め。市街地の中に島のようにポツンと杜が点在しています、この景観の中に東田神明宮の杜も見えています。13階の展望デッキには手筒花火体験パーク(入場無料)とレストランが併設されています。手筒花火「東三河の伝統芸能の一つである手筒花火。その歴史は古く戦国時代の永禄元年(1558)今川義元公の吉田城代、大原肥前守が吉田神社に奉納したことに始まると言われています。直径12㌢前後の孟宗竹の節を抜いた筒に荒縄を巻き、その中に火薬を詰め、点火した筒を抱えて揚げる花火で、五穀豊穣、無病息災、家運隆盛を神に念じ、若者の大人への門出、度胸試しとして奉納打ち揚げられます。夏の夜空に轟音と共に立ち上がる火柱、オレン ジ色の雨の様に降りそそぐ火の粉、その中で仁王立ちで放揚する勇姿、人と花火が一体となった手筒花火は豪快にして勇壮華麗な花火絵巻です。」 竹の伐採から始まり、火薬の充填まで奉納者自らの手で作るものという。資格もなく安易に火薬が取り扱えるのか疑問に感じたが、花火屋さんの講習を受け、花火工場の臨時従業員の形態で初めて作る事が出来るらしい。豊橋の方にとって花火作りは身近なイベントなのかもしれない。手筒花火マップ。知らなかったがこうして見ると手筒花火は規模の大きさの違いはあるものの、3月から10月までほぼ毎月のようにどこかで揚げられているようです。東田古墳。豊橋公園から東へ30分前後の住宅地の中に聳える小山で、古墳時代中期の五世紀頃に造られた前方後円墳。鬱蒼とした樹々に包まれ、古墳上部に御嶽社がある事から前方後円墳の実感は得られないかも知れませんが、解説によれば全長40㍍、前方部は幅16㍍、高さ4㍍、後円部は直径20㍍、高さ3㍍あると云います。神社の社殿の建設時に副葬品の鳥文鏡と大刀が出土したとされます。 ここから目的地の東田神明宮は東隣といってもいい。東田神明宮社頭。北側を流れる朝倉川左岸に位置し、社殿は深い社叢に包まれています。「東田神明宮御祭神 天照皇大神例祭日 十月第二土曜日 日曜日由緒社伝によると、平安朝初期醍醐天皇延喜二年(西暦902年)勅旨田飽海壮に神宮領御園職員令による園池司正として神宮禰宜一人 他に佑一人 令史一人 使部六人を使わされ榊山本社に天照皇大神を祀り 本社東五百間(後の仁連木城跡)に豊受大神を祀り 本社東三十間に猿田毘古神を祀るとある如く、伊勢神宮の御分霊を奉斎する古いお社である。古来武将をはじめ庶民の崇敬厚く、天文二十二年(西暦1553年)仁連木城主戸田丹波守宣光新たに社殿造営し祀る。 古来社殿の造営しばしば行われ、棟礼二十二枚を尚蔵する。慶長九年伊奈備前守忠次、徳川家の命を受け社領三石の黒印状(除地)を寄進し爾後明治維新に及ぶ。明治五年壬申九月、郷社に列せらる。明治六年九月、東征大総督一品有栖川宮熾仁親王より御親筆、御額を賜る。大正十二年、本殿、弊殿、拝殿、神楽殿を新たに造営し奉る。例祭には、大筒、手筒の花火が多数奉納され、浦安の舞、豊栄の舞、稚児神楽が奉奏される。東田神明宮の氏子の戸数は、二十六ヶ町、五千戸を数え、豊橋市内最大の神社である。境内社天王社(素盞鳴命)御鍬社(伊佐波止姜神)秋葉社(火産霊神)猿田彦社(猿田毘古神)英霊社(国防に殉じた方々の神霊)」神紋は三本杉。日暮れには早いが境内に向かい参拝だけ済ませる。参道の先の拝殿。展望デッキからも見えていた幟旗が聳え立っている。拝殿前には氏子らが集まり神事を見守る最中だった。境内は参道左に社務所、神楽殿、正面の社殿、右に広い境内があり境内社が祀られています。今日ばかりは、じっくり見て廻るのは難しいな。拝殿右側の境内。ここが奉納手筒花火が揚げられる場所で日暮れを前に準備に追われていました。有栖川宮熾仁親王御親筆の神明宮の額、折しもお宮さんに舞が奉納されていた。神楽殿では今年デビューを迎えた稚児神楽を舞う子らが、出番を控え一生懸命練習するあどけない姿があった、こうして少しずつ大人に成長していく。かみさんもその昔、舞を奉納した(させられた)事があるようで、当時はおひねりを頂けたが、菓子の配給に誤魔化され、多額?のおひねりは青年団の酒代に消えた事、妹の年には全額子供達で別けあった事を今でも訴える。日暮れまでしばらく時間もあり、朝倉川を渡った先のファストフード店で待機。日暮れと共に空は泣き出し雨天での花火となりました。日も暮れて、多くの見物客が集まり始め、やがて境内の照明が落とされ手筒花火の奉納がはじまる。オレンジ色の火柱と豪快に舞い落ちる火花、想像以上の熱や音に男の気概と誇りみたいなものが伝わってくる。最後に訪れるはねの爆音は分かっていても体がビクッとするほどのもの。余談になりますが、我が地区には子供達にファイヤートーチなる行事が受け継がれてきましたが、小さい頃はデビューの日が来るのを待ち望んだものですが、新しい住民が増えるとともに「危ない」とされ途絶えてしまいました。子供花火、境内のお子様たちは希望すれば大人付き添いのもと手持ち花火を体験できる。家庭で楽しむ小さなものより大きなもので、こうして花火に親しんでもらい、いつかはあの大きな手筒花火に至るのだろう。自分事になりますが、世の中危ないことはいくらでもある、そうしたことから遠避けてしまう風潮にどうも共感できない。井戸端会議に熱中し、傍らの我が子が道路でスケボーや自転車を操る事に「危ない」と教えられない姿を見ると、危ないことを教えられない事は子の成長過程で不幸な事かもしれないと感じる。東田(あずまだ)神明宮創建 / 延喜2年(902)祭神 / 天照大御神所在地 / 豊橋市御園町6-16参拝日 / 2023/10/14雨脚も強くなり、帰りの時間も気になって来た、後ろの観客に場所を譲り神社を後に路面電車の最寄り駅東田坂上を目指す。路面電車が頻繁に通るが、車道を走る車の流れは混乱もなくスムーズに流れています。終点の駅前まで路面電車に揺られて15分程。駅前行きの電車が到着。一人しか乗っていない車が緊張感なく、かっ飛ばしやす道の整備を進める事より、こうした移動手段を名古屋にも復活させて欲しい。公共交通機関アクセス / 名古屋➡豊橋 豊橋徒歩散策ルート / 5.5㌔
2023.10.18
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くるみ温泉&キャンプ場から県道453号線を秋神川上流に向け徒歩4~5分程。県道右側に注連縄で囲われた大きな石碑に気付き立ち寄ってみました。県道453号線から氷点下の森方向の眺め。右側に石標が建てられています。開墾碑だろうと素通りしようとも思いましたが気になって近づいて見る事に。逆光で黒い岩としか捉えきれなかったこの石碑、開墾碑ではないようです。更に近づいて彫られた文字をよく見ると国常立尊と彫られ、周囲をひと回りして見ると明治9年(1876)の文字が見られました。霊峰御嶽を背にして建てられた国常立尊の碑。天地開闢のはじめに出現し、造化育成を司る神さまとされ、御嶽大神(国常立尊、大己貴命、少彦名命)の一神がここにあるのは御嶽教と無関係ではないと思います。御嶽噴火以降北嶺からの登山ルートは良く分からないが、ここからだと濁河温泉、日和田高原、開田高原に向かう道筋になると思われますが、この碑について具体的な事は分かりませんでした。キャンプ場から徒歩圏内に先人達がたてた碑があり、更に10分程上流側には宮之前 小鷹神社から分祀した胡桃島 小鷹神社もあります、散策の折に立ち寄って見ては。胡桃島の国常立尊碑所在地 / 岐阜県高山市朝日町胡桃島9-1参拝日 / 2023/08/23くるみ温泉&キャンプ場から徒歩 / 県道435号線を秋神川上流へ徒歩5分関連記事 / ・くるみ温泉&キャンプ(高山市朝日町胡桃島)・小鷹神社(高山市朝日町宮之前)
2023.10.15
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岩割瀬(いわりぜ)神社。鹿乗 八幡社から県道15号線(愛岐道路)を多治見方向に進み、水野川に架かる大藪橋を渡り1~2分程先の右側に鎮座します。県道沿いの鬱蒼とした山の斜面に鎮座し、運転しながら存在を確認するのは難しいかもしれない。少し先を左に進めば、車一台通るのがやっとの玉野橋を渡ると玉野町に続きます。玉野橋下流付近には古くは岩瀬の渡しがあったといい、玉野橋も岩割瀬橋と呼ばれていたようです。鎮座地付近の県道15号線(愛岐道路)。この道の右に神社入口がありますが、さてどこでしょう?右側のフェンスをよく見ると小さな看板があります、そこが岩割瀬神社の入口。扉は開けたら閉める、開けたままだと道路を走る車に接触します。看板はそれを促すものです。また、周囲には駐車場はありません。道路から見る神社全景。神社は落葉樹と竹が生い茂る鬱蒼とした森に覆われ、写真は少し明るくしてありますが昼でも薄暗く、北斜面のため地面は湿気を帯びています。この場所は神霊スポットの噂も聞くが自分には良くわからない。それよりも湿気のある北斜面をローカットの普段靴で踏み込む事の方が個人的に怖い。こんな場所にはやたらと足が多いか、足のないものに出くわす事が多い。意を決して扉を開け、足元要確認で境内に踏み入れる。ジケ~っした枯れ葉が石段に積もり、投げ捨てられたゴミが多く荒れた印象を受ける。道路から見えていた建物は覆屋かと思いきや、拝殿の様です。そこそこ斜度のある石段を踏み外さないように上に向かう。拝殿全景。急な斜面に石垣が築かれ建屋が建てられ、その先は更に上へ石段が伸びていますが、上の様子はここからでは見通せません。拝殿を回り込み本殿方向を見上げる、……言葉を失う。明治中期の地図には集落が見られるこの辺り、現在も西側に集落があります。社地には苔むした庚申塔らしき石標も見られ、かつては人の出入りもあったのだろう。住民によって祀られたものと思われますが、現在は廃社なんだろうか。懸魚だけがかつての姿を残しているが覆屋らしき建物は原形を留めていない。いつ倒壊するか分からない状況でこれ以上近付けず、この場で頭を垂れ滑りやすい石段を戻る事にした。この岩割瀬神社について調べて見たが、祭神は建速須佐之男命を祀り、創建時期や起こりについては分からなかった。ひとつ確実なのは明治中期の地図では既に存在が記されていたことくらいか。先人の思いから建てられた岩割瀬神社、このまま土にかえっていくのだろうか。岩割瀬神社創建 / 不明祭神 / 建速須佐之男命境内社 / ーーー参拝日 / 2023/09/10所在地 / 瀬戸市鹿乗町1353関連記事 / ・鹿乗 八幡社・燈明山 高蔵寺・五社大明神社・御来迎の碑・高蔵稲荷神社・高蔵神社
2023.10.14
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八柱神社へは猿投グリーンロード八草インターで降り、信号を右折し国道155号線を少し南下した東側の丘陵地に鎮座します。国道を南下していくと上の歩道橋が現れるのでそこを左折。目の前に写真の八柱神社の社頭が現れます。右に大きな社標、常夜灯、その先に石の明神鳥居を構えています。鳥居の直ぐ先を愛知環状鉄道の高架が横切り、社頭の様相は個性的な趣をしています。社頭左に上に続く脇参道があり境内まで続きますが、平時は閉鎖されているので車の乗り入れは出来ません。社頭右に秋葉山永代常夜灯とその先に小さな覆屋がある。常夜灯手前に駐車させてもらい境内に向かいました。鳥居の直ぐ先の参道の頭上を愛知環状鉄道の電車が行きかう。参道を線路が横切る光景は稀にみますが、この高さで電車が横切る光景は実に個性的です。八柱神社橋梁をくぐり参道を進む、橋梁の先は壁のように石段が立ちはだかる。薄暗い橋梁をくぐると長い石段が境内に続いています。石段左に旧社標「村社 八柱神社」社標(1917年健之)や石碑が建てられています。石段の先の境内に石の神明鳥居と社殿の一部(左舞殿、右手水舎)が見え、長い石段もそこまでです。境内から見る舞殿と手水舎。はじめて訪れましたが想像以上の広大な境内と立派な社殿を持つ神社です。手水舎の龍。八社神社で一番印象に残ったのが、この龍。両前脚の鋭い爪で宝珠を掴んだドヤ顔の龍の姿、鹿の角とされるトレードマークの角を持たないもので、こうした龍は螭龍と呼ぶそうです。龍の姿もさることながら、梅花石を磨いたドラゴンボールを三本の爪で握りしめる姿は見事な姿をしている。入母屋銅葺屋根の舞殿、あとの社記にも出てきますが平成12年(2000)に境内整備が行われ、その際新造されたもの。舞殿から拝殿の眺め。社殿、舞殿、祓所も同時期に新造され、手入れされた広い境内に綺麗な社殿の佇む姿は清々しい気持ちにしてくれる。境内の社記と竣工記念碑。社記には以下のように記されている。「社名 八柱神社 豊田市八草町森下99番地祭神 正我吾勝勝速日天忍穗耳命(まさかつあかつかちはやひあめのおしほみみのみこと)、天穂比命、天津彦根命、活津日子根命、熊野久須毘命、田所姫命、市杵嶋姫命、湍津姬命。由緒 社蔵の棟札に奉請八王子大明神享禄2年(1529)8月吉祥日とある。 八草の氏神として尊崇する。 明治5年10月村社に列格した。 大正2年1月5日字秋合の秋葉神社を本社に合祀する。 又、字来姓の琴平神社と字二又の御嶽神社を本社境内社として合祀した。 大正8年4月30日神饌所を改造。 昭和11年5月20日社殿を改築。 昭和11年10月20日指定社となる。 平成12年10月境内の整備と社殿、舞殿、祓所、手水舎を新築。例大祭 10月10日末社として次の神々を にする。 皇大神宮、琴平神宮、宇佐八幡神宮、御嶽神社、御鍬神社、須原神社、秋葉神社。境内の面積 9.868㎡氏子 149戶。平成12年10月吉日 氏子・崇敬者一同 」この数の氏子でこれだけの神社を維持していくのはさぞかし大変な事だろう。この辺りは少しずつ新たな住民も増え、氏子入りする方も増えるといいが、近頃は町内組織に属さない人もいるのは確かなようです。拝殿全景。屋根の目に鮮やかな青みどりは特に強調したわけではありません。手水舎の龍とこの色は八柱神社を印象付けるものです。拝殿額。社名が示す様に天照大御神と須佐之男命から誕生した五男三女神の八柱をお祀りする。左三つ巴が神紋のようです。拝殿左は祓所と神饌所だろうか。ここから後方に廻り込め本殿を見ることができます。本殿は神明造で6本の鰹木と水平に切り落とされた内削ぎの千木が施されています。本殿域に一つ社が見えますが、社記にあった皇大神宮、琴平神宮、宇佐八幡神宮、御嶽神社、御鍬神社、須原神社、秋葉神社を祀った相殿だろうか。以前は身近な場所に祀られていたものが、時代の流れから八柱神社に遷らざるをえなかったのだろう。ここまで目にすることのなかった狛犬が本殿脇を守護しています。本殿後方の斜面の上にも二躰の石像と立山大権現の祠、乳白色の岩が纏められていました。これらも同じ道を歩んできたものだろうか。参拝を終え、ニノ鳥居から氏子達の住む緑豊かな八草の町を望む。高台から見護る八草の氏神さまが八柱神社です。八柱神社創建 / 不明、享禄2年(1529)の棟札が残る祭神 / 五男三女神境内社 / 皇大神宮、琴平神宮、宇佐八幡神宮、御嶽神社、御鍬神社、須原神社、秋葉神社所在地 / 豊田市八草町森下99参拝日 / 2023/09/20車アクセス / 名古屋市役所から約22㌔約1時間公共交通機関アクセス / 地下鉄東山線藤ヶ丘からリニモで八草駅、徒歩15分程関連記事 / 彼岸花咲く神社巡り(モリコロパーク東部丘陵地)
2023.10.13
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高蔵寺町の由来となった燈明山高蔵寺から徒歩で中央線沿いに東に向かい、県道53号線の鹿乗橋を渡るとその先の鹿乗町交差点で県道15号線に交わります。今回取り上げる鹿乗 八幡社は交差点の手前左側に鎮座します。社頭全景。参拝者駐車場はないので車だと厄介な場所です。社頭は県道沿いに南北に長い社地で、社頭の前に細い路地はありますが、間口が狭いためか八幡社の社標は県道側を向いて立てられています。上は高蔵寺、玉野町の主要な寺社と鹿乗八幡社の位置をマーカーに落として見ました。これまでは玉野川右岸を巡って来ましたが、今回は左岸となります。神社は右の明治24年当時、既に鳥居の印が見られます。現在の鹿乗町は江戸時代水野三郷(上水野、中水野、下水野)の西にあった下水野村の北端に属していました。鎮座地は入尾城址で、大治4年(1129)平良兼の子孫である平景貞が入尾に入郷、保元の乱(1156)から平治の乱(1159)の頃に城が築城されたのではないかと云われますが詳細は定かではなく、現状は解説板のみで城址の痕跡はあまり残っていません。ただ立地は北側に玉野川が流れ、川にかけて切れ落ちた崖のため城を築くには適した場所なのかもしれない。社頭から鳥居までは夏草が生い茂っていましたが、石の神明鳥居から先は遊具が置かれ、草もない事から頻繁に人の出入りはあるようです。境内左の手水石。境内にはアベマキの巨木が聳え、大きく枝を張り境内を覆う勢いがある。社殿全景。一段高く石垣が積まれその先に四方吹き抜けの拝殿と本殿が祀られています。境内右に入尾城跡の解説。「入尾城は、 源平の乱の60年ほど前に平 景貞が土着して築いたと伝えられ、その子孫が代々水野郷や志段味郷を治めたとされる。『尾張志』に「下水野村玉野川のほとりに城あり、上水野村感応寺に古き位牌一基ありて、義雲院仁峯宗智居士覚位としるし、うらに応永十九壬辰歳(1412)十二月廿八日尾州入尾城主水野備中守平 致高と見えたり」と記される。城は八幡神社付近を西端にして、規模は東西 32間(約58m)・南北31間(約56m)で、四方に一重掘が巡らされていたと伝わる」城は承久三年(1221)に起きた承久の乱で幕府軍に敗れ、後の応永19年(1412)に水野致高の死後廃城となったようです。鹿乗 八幡社の一対の狛犬は昭和15年(1940)寄進のもの。拝殿から本殿の眺め。本殿域を取り囲む玉垣は平成14年(2002)に修復を受けたようです。本殿域には三つの社がありますが社名札がなく分からないが、中央が八幡社なのは間違いなさそう。創建時期は分からなかった、江戸末期には既に鎮座していたのではないだろうか。入尾城の西外れに位置しており、武士と武運の神はつきもの、ひょっとすると江戸末期より更に遡るのかもしれない。両脇の社は明治政府の一村一社統合制度により周辺からここ八幡社に移されてきたものかも。社名札が是非ともほしいところ。祭神は八幡神、誉田別命、応神天皇…良く分かりません。本殿域から社頭の眺め。石の鳥居には狛犬の寄進年に近い昭和11年(1936)寄進とありました。鹿乗 八幡社創建 / 不明祭神 / 不明境内社 / ーーー所在地 / 瀬戸市鹿乗町731高蔵寺から八幡社 / 中央線沿いに東に向かい鹿乗橋を渡り左側(駐車余地なし)。徒歩20分程関連記事 / ・燈明山 高蔵寺・五社大明神社・御来迎の碑・高蔵稲荷神社・高蔵神社
2023.10.12
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大宮駅からほど近いパレスホテル大宮で迎えた二日目。初日結構歩いたことからすぐに寝落ちしてしまったが、朝は相変わらず早く目が覚める。6:00、外は漸く朝陽が昇り始める。かみさんはまだ熟睡中。二日目はノンビリcheck outして徒歩で武蔵国一之宮氷川神社に向かい、その後大宮からバスで武蔵国一宮氷川女體神社を参拝し浦和に向かい帰途につく。朝食までは時間もあり、一人ホテル北側の散策に出かけた。ホテル北側の県道を渡り路地に入ると何処からともなくラジオ体操の音楽が流れてきた。音に導かれ路地を進んだ桜木町で下のお稲荷さんに辿り着く。鐘塚稲荷神社。この境内で毎朝住民の方がラジオ体操をされており、体操が終わると総出で境内を掃き清め、今日一日をはじめるのが日課の様です。このお稲荷さんが町内の人々のコミュニテイーの一つとなっているようです。鐘塚稲荷神社。清掃されていた方にお聞きした所、百年以上前から続く神社だと伺いました。現在の町名は桜本町のようですが、鐘塚の由来は町名を調べていくと分かってくるのか、或いは過去に鐘を埋めた塚があったのかもしれません、何れにしても現在この地は再開発が進み、塚の「つ」の字も見つからない。所在地 / 埼玉県さいたま市大宮区桜木町2-181ホテルに戻り朝食、それなりの値段でそれなりに品数があるので朝から食べ過ぎだ。最終日は昨日より歩く事になので、しっかり食べておく。ホテルを9:30check out、埼玉二日目がスタートする、目的地の氷川神社まで徒歩で約4.5㌔一時間程の歩き。大宮駅から一旦南下して一ノ鳥居を目指しました、途中の街角には写真のような小社を幾つか見かけます。写真は大宮区吉敷町1-63付近の美容室横で見かけた三峯神社。この辺りから旧中山道の県道164号線を南下し一ノ鳥へ。旧中山道の左に氷川神社の赤い大鳥居と武蔵国一之宮の石標に到着。この氷川参道は延々と約2㌔続き、日本一長い参道とも云われるようで、ゴールの三ノ鳥居まで写真データでは30分はかかったようです。広い参道両脇の杜は往古、主に松や杉が主だったそうで、大正から昭和初期にかけて鬱蒼とした杉並木が続き「並木十八丁鉾杉つづき」と称されたようです。現在は杉に変わって欅やスダジイや楠木などが主で、樹の種類が変った背景には戦中、戦後の資材難でそれらが伐採されたことが一因にあるようで、現在の樹々の多くが昭和60年に入って植栽されたものだそうです。参道沿いには今も伐採された切株が残されていました。訪れた時は丁度彼岸花が綺麗な時期で、緑のトンネルにアクセントを加えていました。参道にはこうした丁石が立てられています。これが18になれば到着なんですが先はまだ〃先。ニノ鳥居。約1.6㌔地点に聳える朱の明神鳥居。参道沿いにはベンチや飲食店もあり一息入れる事も出来る。現在設置されている朱塗りの二の鳥居は、 昭和51年(1976)に明治神宮より移築された高さ約13㍍、幅約17㍍の木造の明神鳥居で、関東最大級の規模を誇ると云う。鳥居に用いられている材木は、大正9年(1920)台湾の阿里山で伐採された樹齢1200年以上の桧で作られているといわれます。 暑かったあの時期も嘘のように涼しくなり、鍋が恋しくなる。見るからに食べれそうな…氷川神社由緒。「氷川神社は、第五代孝昭天皇の3年4月未の日の御創立と伝えられます。古くから武将の崇敬をあつめた由緒ある大社としてその歴史を誇り、大宮の地名も氷川神社に由来する。古くは景行天皇のとき、日本武尊が東征のおり当地に足を止め祈願された。また、成務天皇のとき武蔵国造となった兄多毛比命が出雲族を引き連れこの地に移住し、氷川神社を奉崇した。称徳天皇の天平神護2年(766)には、朝廷から武蔵国では当社だけに封戸(三戸)が寄進された。更に醍醐天皇の延長5年(927)には延喜式神名帳に名神大社として社格が与えられた。この他、鎌倉時代には治承4年(1180)源頼朝により社殿の再建と社領3000貫が寄進されたとされ、足利、北条氏も相次いで尊仰した。その後江戸時代の慶長9年(1604)には徳川氏より社領300石が寄進され、文禄5年(1596)、寛文7年(1667)には社叢の整備と社殿の造営が行われた。その後、明治元年(1868)東京遷都に際し、当社を武蔵国の総鎮守「勅祭の社」と定め、明治天皇自ら親拝された。同4年(1872)官幣大社となり、同15年(1883)に本殿・拝殿等を改修。昭和15年(1940)、本殿・拝殿・回廊等造り変え現在の景観となる。祭神は素佐之男命・大己貴命。例大祭は8月1日。他に神事で有名なのが12月10日の大湯祭である。」漸く三ノ鳥居到着。広大な社地には神池、白鳥の池、瓢箪の池を湛え、稲荷社、宗像社、門客人神社など多くの境内社がある。参道を進み、朱の神橋の先に写真の楼門が現れる、四方は廻廊で結ばれ、舞殿・拝殿・幣殿・流造の本殿、社務所の建物が建つ。舞殿と幣殿。舞殿から眺める拝殿。拝殿、幣殿、本殿の眺め。2400年以上の歴史をもつと云われ、「大いなる宮居」として大宮の地名の由来になった古社。武蔵一宮として関東一円の信仰を集め、氷川神社名の社は大宮を中心に、埼玉県および東京、神奈川県下に約280数社を数えると云う。当日は平日にもかかわらず七五三の御祈祷や多くの参拝客が訪れていた。武蔵一宮 氷川神社創建 / 第5代孝昭天皇3年祭神 / 素佐之男命・大己貴命境内社 / 稲荷社、宗像社、門客人神社、松尾神社、御嶽神社など所在地 / 埼玉県さいたま市大宮区高鼻町 1-407大宮駅から徒歩 / 約1時間12:00氷川神社から一旦大宮駅方向に戻り、大宮駅東口から次の目的地氷川女體神社近くまでバスで移動。徒歩ルート / 氷川神社から南下20分大宮駅東口からバスに乗り氷川女體神社に向かいましたが、一向にお腹が空かないので少し手前の染谷新道バス停で降車。ここから芝川を越えて神社まで、一面田畑が広がる約3㌔を歩いて向かう事にしました。写真は芝川に架かる宮後橋から、下流のさいたま新都心方向の眺め。見沼代用水西縁と呼ばれる灌漑用水沿いに遡ると正面にこんもりとした森が現れてきます、目指す氷川女體神社の杜です。見沼田圃の散歩みちのひとつで、遡ってきた見沼代用水西縁沿いは桜並木が続き、花の時期にはさぞかし綺麗な事だろう。遥か昔はこの辺りまで海が迫っていたようで、一帯は氷川女體神社や磐船祭祭祀遺跡など見沼田圃の歴史に深く関わる見所が残されています。見沼田圃を見下ろす高台の鬱蒼とした社叢に包まれた氷川女體神社。「武蔵国一宮御縁起 (歴史)当社は見沼を一望できる台地の突端「三室」に鎮座する。見沼は神沼として古代から存在した沼で、享保12年(1727)の新田開発までは、12平方キロメートルという広大なものであった。この沼は御手洗として当社と一体であり、ここに坐す神は女體神、すなわち女神であった。創建の由緒は明和4年(1767)に神主武笠大学の記した「武州一宮女躰宮御由緒書」によると「崇神帝之御勧請」「出雲国大社同躰」とある。また「神社明細帳」控えには、見沼近くにある当社と現在のさいたま市大宮区高鼻鎮座の氷川神社、同市中川の鎮座の中山神社(氷王子社)の三社を合わせ氷川神社として奉斎したと載せる。中世、旧三室郷の総鎮守として武家の崇敬が厚く、社蔵の三鱗文兵庫鎖太刀は北条泰時の奉納と伝える。祭祀は御船祭と称し、隔年の9月8日に見沼に坐す女神に対して行われた。しかし、古来より続けられてきた御船祭は享保12年(1727) 見沼新田の開発が始められたため、沼中の祭祀が不可能になった。このためやむをえず磐船祭と称し、沼跡の新田の中に小山を築き、舟形の高壇を設けて周囲に池を掘り、ここを見沼に見立てて祭祀を行うこととし、同14年(1729)9月から斎行された。下山口新田には、祭場遺跡として「四本竹」の地名が残るが、近年の調査では多数の注連竹が発見され、これを裏付けた。社叢は、埼玉では珍しい暖地性常緑広葉樹であることから、昭和56年に埼玉県より「ふるさとの森」の第一号として指定された。御祭神 奇稲田姫命、大己貴命、三穂津姫命御祭日 歳旦祭(一月一日)、祈年祭(二月十八日)、祇園磐船龍神祭(五月四日)、名越大祓(七月三十一日)、お日持(十月七日)、例大祭(十月八日)、新穀感謝祭(十一月二十三日)」上に記された中山神社には今回訪れなかったけれど、三社を地図上で見ると一直線場に鎮座しており、訪れるべきだったのかも知れない。氷川女體神社の拝殿に武蔵国一宮の扁額が掲げられています。氷川女體神社は中世以来、武門の崇敬を集めており、鎌倉北条氏、岩槻太田氏、小田原北条氏などにゆかりある書物や宝物が多く所蔵され、徳川将軍家からも社領50石を寄進されているといいます。現在の社殿は、寛文7年(1667)徳川幕府四代将軍家綱が忍城主阿部忠秋に命じて建立したものです。本殿は全面に朱の漆が塗られた三間社流れ造りで、拝殿と相の間で結ばれた権現造りの建造物です。「武蔵国一宮 氷川女體神社」と記された扁額と拝殿。鳥居をくぐった右に手水石。拝殿向拝に掲げられた「武藏國一宮」の扁額。女體神社社殿解説。「寛文七年銘棟札一枚 平成19年3月16日埼玉県指定有形文化財(建造物)この社殿は17世紀の造営であり、本殿と拝殿を幣殿でつなぐ複合社殿です。一番奥にある本殿は朱塗りの三間社流造です。三間社とは、正面の柱となだらかな曲線を描く「流造」となっています。本殿と拝殿をつなぐ幣殿は間口の柱の空間が三つあるので「三間社」と表現します。屋根は切妻造の前方が長く延び、本殿に合わせ、屋根は切妻造で二方向に葺下しています。拝殿は入母屋造で屋根の正面には、「千鳥破風」と、軒から起こり曲線を持つ「軒唐破風」が施されています。現在、屋根は銅板葺ですが、平成23年の社殿保存修理時に、古い杮葺が残存していることが確認されました。寛文7年(1667)銘の棟札には、四代将軍徳川家綱が忍藩主阿部忠秋を奉行として「武蔵国一宮厳河女躰大明神社」本殿の工事を行った記載があり、江戸幕府の公式歴史書「徳川実紀」には、その修理費用が三百両であったとも記録されています。この本殿は埼玉県における代表的な神社本殿建築様式を伝える建造物で幣殿・拝殿を含め社殿として一括して埼玉県の文化財に指定されています。」その社殿も当時のままで、現在は一部雨漏りが発生し、早急な修復に迫られているようです。社殿全景、社殿後方には複数の境内社が祀られています。この神社は古くから豪族や武将からの尊崇があつく、中世を中心にそれらに関する文化財も多い。その中の一つとして鎌倉時代金工品の優品として三文兵庫鎮太刀がある。刀と吊紐をつなぐ帯執りが針金で編んだ鎖となった兵庫鎖太刀で、多く寺社奉納に使われた。この太刀も刀身は鉄の延板で奉納用として作られているという。社伝では北条泰時の奉納と伝えられ、全面に三鱗文が施されている。古社宝類のひとつとして、正応6年(1293)佐伯弘の銘がある飾鉾など、多くの文化財を所蔵する。氷川女體神社参道鳥居。神社から北西約500㍍程の住宅地の生活道路に石の明神鳥居が立っています。鳥居前後左右にはガードバーが設置され保存されています。氷川女體神社創建 / 崇神天皇年間祭神 / 奇稲田姫命境内社 / 龍神社、今宮神社、神明社、坂東神社、石神神社、住吉明神社、天神松尾合社等所在地 / 埼玉県さいたま市緑区宮本2-17-1参拝を終え、参道鳥居を拝見し最寄りの朝日坂上バス停に向かう。氷川女體神社➡参道鳥居➡朝日坂上バス停までの徒歩ルート14:00さてここから14:04分のバスに揺られて浦和の浦和駅東口に向かいます。ここまで昼御飯もとらずにこんな時間になり、胃の中には朝食も残り完全にリズムが狂ってしまった。朝日坂上➡浦和駅東口バス移動約小一時間15:00浦安東口到着、ここで三時のおやつの時間。かみさんリクエストの浦和駅西口の甘味処「ときわだんご」で小休憩。名物の「ときわだんご」とあんこ苦手な自分はプレーンなこれ、シンプルな焼き餅は外さない味。ここで餅を胃に追加するとますますおかしくなっていく。所在地 さいたま市浦和区高砂1-12-1当初の訪問地はここまで、帰りの新幹線には相当時間もある事から浦和の調(つきじんじゃ)神社まで足を伸ばして見ました。「ときわだんご」から調神社までのルート旧東海道の県道213号線を徒歩で約15分程南下、住宅やビルが立ち並ぶ一帯に調神社の杜が見えてきます。社地西側に社頭を構え、右に「縣社 延喜式内 調神社」の社標が立てられています。社頭を守護するのは狛兎。手水舎の手水鉢にも龍の代わりに兎。拝殿左側の境内。16時を少し回ったところですが、境内には明かりが灯された、どんどん一日が短く感じるようになってきました。中央の拝殿と社務所全景。調神社(つきじんじゃ)祭神は天照大御神、豊宇気姫命、素盞嗚尊の三柱を祀る神社。創建は第9代開化天皇年間(BC157~107)とも宝亀2年(771)頃とも云われます。社殿は権現造で、現在の社殿は安政5年(1858)の造営とされ、旧本殿は社殿右の神池の先に稲荷社の本殿として今も残ります。境内入口は5ケ所ほどありますが脇参道には鳥居がありますが、拝殿に向かう主参道や西側参道などには鳥居がないのは祭礼の山車でも入れ込むためだろうか。神池と稲荷社全景、ここにも兎。調神社は古来より月待信仰と深い関りを持ち、調神社も月宮殿にされるようになると使姫である兎の彫刻が各所におさめられていったようです。月に兎はテッパンなんですね。稲荷社社頭。木造両部鳥居と石の明神鳥居の二つの鳥居を構え、正面に透明の樹脂で囲われた覆殿があり、調神社の旧本殿がある。平成29年(2017)に補修の手が入れられ、以前は銅板葺きだった屋根を柿葺きへ戻されたようです。境内にはこの稲荷社の他に調宮天神社、金毘羅神社などが祀られていました。調神社創建 / 不明祭神 / 天照大御神、豊宇気姫命、素盞嗚尊所在地 / 埼玉県さいたま市浦和区岸町3-17-25以上で今回の埼玉二泊三日の一之宮巡りも終わり、後は東京に戻り、一杯飲んで新幹線に揺られて名古屋に戻ります。下は今回頂いた御朱印。左から川越総鎮守氷川神社、川越熊野神社。左から武藏一宮氷川神社、武藏一宮氷川女體神社。埼玉県一ノ宮巡り訪問日 / 2023/9/25~26我家の日本地図、少しは東国が塗り潰されて来たような・・・それでも先は長い。
2023.10.09
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9月30日、名古屋市交通局主催の駅地下ウォーキングに参加。歩き慣れた約5㌔、時間にして約1時間のコースですが二人で歩いてきました。当日のコースは上のコース。桜山から山崎川沿いに新瑞に至るコース、道草ばかりのいつもの歩き方ではなく適度に負荷をかけ歩く。上は2017年に訪れた際のもの。今回のコースの見所はここ東山荘(とうざんそう)くらいだろうか、過去にも何回か訪れており、庭園の苔が綺麗な印象があるが今ひとつ。「東山荘は大正初年から10数年かけて築造された山荘で、綿布商伊東信一氏の遺贈により昭和11年名古屋市の所有となった。東山荘は所有者の名前に因んでつけられたもので、14年から市民に開放された。18年以後市長公舎となったが、43年4月再び市民の公園として開放され、その情緒を味わうことができるようになった。萱葺の門をくぐると広大な敷地に自然樹林そのままで、美しい数寄屋風書院造りの風雅な建物が見事な景観を呈している。庭園は自然回遊式の総合庭園であり、玄関前庭、書院の庭、仰西庵露地、東丘庵露地の4庭と自然樹林からなっている。」せっかくコースにあるのだから、自然林の歩道を歩いてみました。建屋の北側の歩道を歩き今回はじめて知る事となった私的神社を見付けた。石標には「是 東山大神境内」と記されていた。社頭の前に大正元年(1912)寄進の幟立てがある。寄進年は見ていませんが手水石も置かれています。社頭入口は鎖で立ち入りは制限され、一対の常夜灯の先に石の明神鳥居が建てられています。参道の先には社殿がなく、既に廃社となっているようで、正面の基壇と手前に拝所の基礎部分のみ残されています。当時の地図を見て見ましたが、当然のように鳥居の印はなく詳細も全くわからない。何度か訪れていながら、ここにこんな跡があったとは、はじめて知った。桜で知られる山崎川。桜の時期に良く足を伸ばすが、この時期、堤沿いに彼岸花が咲くとは、はじめて知った。身近な散歩道からどんどん姿を消していく彼岸花ですが、ここに来れば季節の移り変わりを知る事ができる。ゴール付近の落合橋で見かけた鵜。作り物のように羽を広げた状態でピクリともしない。お役御免となったお親爺のテントと一緒で撥水性がないのでじっと羽を乾かすしかないんだよね。撥水スプレーや油でも塗ればいいんだろうが、潜って魚を獲るには浮きすぎるのは都合が良くない、難儀だが乾くまでこのポーズやね。随分と乾いたんじゃない?こちらは先がながそうな姿だね。山崎川にこれほど鵜がいるとは、はじめて知った。さてと風のようにゴールに到着、体にも負荷をかけ少しは健康増進に役立ったはず。ゴールで祝杯を上げよう。2023/09/30
2023.10.08
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金刀比羅神社から南東方向の桜通りを高岳交差点方向に向かう事約10分程、桜通り沿いに社頭を構える富士神社へ向かいます。桜通りから東方向の高岳交差点を眺める。桜通りの沿いにビルが連なる一帯、そこにぽっかり空が抜ける一画が今回取り上げる冨士神社。大きなイチョウや楠の巨木が聳え、歩道から社殿も容易に見渡せる。気安く車で訪れる事の出来ない桜通りの南側に北を向いて社頭を構えている。左の大正時代の地図には桜通りは当然描かれていませんが、赤マーカーが富士神社の鎮座地。9月に入って久し振りに街中の神社を巡りましたが、ここ富士神社が最後の目的地です。歩道から境内の眺め。一ノ鳥居の右に「富士神社」の社標(明治42年寄進)と「冨士神社と築城石」の解説があり、鳥居左に神社由緒書きが掲げられています。鳥居は石の神明造で歩道からではニノ鳥居までしか見えませんが、ニノ鳥居から参道は右に曲がり、その先に三ノ鳥居まで構えています。「冨士神社と築城石冨士神社は、もと冨士浅間宮、冨士権現社又は冨士塚権現とも呼ばれ、木花咲耶姫命を祭神とする。昔は社地六十間四方(尾張志は二町又は四町四方とも伝える)と、ほかに控地を有し、うっそうとした森に囲まれていたといわれる。名古屋城築城の際、浅野幸長が社域に普請小屋を設けたため、社は幅下(西区浅間町)に遷された。その後再びこの地に社殿を建て冨士浅間宮を祀った。境内には今も□の紋様が刻まれた築城石の残石がある。」とある。上は江戸時代末期に纏められたとされる尾張名陽図会巻之6富士権現に描かれていた挿絵。挿絵とともに以下のように記されていた。「富士塚権現 富士塚町と所の名に呼ぶ。 元は諸士屋敷の内に有りしを、今は別に神門を建て、境内を別つ。名古屋御普請の節、浅野幸長侯小屋場になりて、この本社を巾下の九尺町に移し、その後また旧跡に社を建つ。相伝ふ、この地内の宮居を巾下にうつせし頃は何も無かりしが、折ふしその宮の跡に美女あらはる事しばしばなり。これを思へば、久しく住み給ひし所ゆえに、むかしを忍ばしくもおもしめされての神意ならんと、その後居をたつとかや。この富士塚の社はいつの頃の建立はしらず。もとは大社と見えたり。神木あるいは末社等今に残りて、屋敷方に在せり」とある。尾張名所図会にも多くは語られていないけれど記されていて、築城に伴い普請小屋設置のたため、一時の巾下に遷座し、その後はこの地に戻るはずが、冨士神社の神主が亡くなり、戻る機会が逸している間に社地周辺に武家屋敷が立ち並び、神社はそのまま冨士浅間神社として留まったようです。巾下に遷座後もこの地には小さな小山と小社が建っていたようで、上の挿絵には表門も描かれている事から、その後下に出てくる享保20年(1735)の津田喜蔵の話に繋がっているような気がする。下は名古屋市史の富士社に書かれていた内容から一部抜粋したもの。「徳川時代は除地で明治9年(1876)当時は165坪とあり、その後増減し現在の社地に至る」「西区富士淺間の舊地にして往古は60間四方と他に扣山を有し鬱蒼たる森林で、慶長築城時、浅野幸長社域に普請小屋を設けたことから一時巾下に遷された」「享保20年(1735)この地を拝領した津田喜蔵が北の一部を社地となし、寛政12年(1800)新に表門を建てた」「門は東向きにあったが駿河町の火災後、社は南向きとされたが現在は東向き」「明治初年村社に列し、同30年に神殿、祭文殿を改造し遷宮」「祭神は木花之佐久夜日賣命なり、殿宇は神殿・祭文殿・神殿・神楽殿」「明治43年(1910)改造、社務所等あり」「境内神社は稲荷社、祭神は宇賀御魂、大田命、大宮媛命、伏見稲荷神社の分霊で勧請年度は不明。明治13年(1880)再興の一所在り」社頭左の由緒記「祭神 木花咲邪姫命当社は人皇九十九代後小松天皇の御代應永5年(1398)6月、この地の郷士前山源大夫なる人、駿河の国大宮(現静岡県富士宮市)の冨士本宮浅間神社へ参詣し其の御分霊を勧請し此の地に奉祀せられたるを創始となす。その頃この地は山口の前山と称し、地域は四町四方並に外山を加え宏大にして老松杉等繁茂幽寂なる神苑は参拝者の心身に自ら清浄感を抱かす近郷稀に見る霊地であった。偶、正親町天皇の御宇天正10年(1582)7月1日には徳川家康公の参詣された事が旧記にある。御祭神は縁結び安産及鎮火の神として崇敬者多く大祭は毎年5月11日に執行せらる」現在の冨士神社は先の大戦の空襲で社殿は焼失してしまいますが、昭和30年(1955)に氏子により社殿が再建され現在にに至っています。一の鳥居をくぐるとすぐ二の鳥居があります。境内はここで一旦突き当たりとなり、参道は直角に右へ曲がります。ニノ鳥居の正面に円筒形の手水石、外周に五・隹・疋・矢と彫られ、中心の四角を口と見立てると吾唯足知(われ ただ たるを しる)となり、プーチンに捧げる言葉が彫られている。名古屋城石垣残石の由来「此の地、往昔、山口の前山と呼ばれ、老杉古松四方に繁り、四季に春鶯秋虫の音が、玉とひびき神威を感じさせる霊域であった。慶長十五年(1610)名古屋城築城に当り、この地に、普請小屋が設けられたため、この社は幅下に移された。この度この造苑を成すに際し巨大石数多出土し、中の一つに□あるものを発見し、ここに利用することになった。名古屋城石垣の残石であり、当地が築城の普請小屋の一つであったことを証明することとなった。」赤く〼と記されているのは発掘時からこうなのか定かではないが、江戸城などの城石にはそこを担当した藩や武家のロゴが入れられ、それぞれの出来栄えを競り合っていたという。手水舎。寄進年を見忘れましたが鉄分を含むのか茶色に染まっていました。冨士神社の龍。九種の動物の特徴を合体させた姿がこの姿で、龍の九似と云われます。角も髭もとても立派ですが前脚のトゲトゲに視線が行く、これはトカゲか?参道左の井戸。名古屋市史にも境内に井戸の存在が記されており、木札には「50年振りに蘇った 御神水復元 平成19年(2007)11月 富士神社」とある。昭和32年(1957)を境に井戸は御神水を湛えていなかったようですが、今では昔懐かしい手押しポンプも付けられ、絶えることなく御神水を湛えているようです。三ノ鳥居。唯一青銅で包まれた神明鳥居。ここから参道は拝殿に向かい真っすぐ伸びていき、その間を二対の狛犬が守護しています。最初の狛犬は明治39年(1906)に寄進された小型のものでボリュームたっぷりの尾を持っています。参道左の神楽殿。戦災で焼失後、昭和30年(1955)に再建されたものでしょう。二つ目の狛犬。この狛犬は先の狛犬より一回り大きな体格で毬と子持ちのもので、昭和3年(1928)に寄進されたもの。阿形は大きく口を開け、吠えかかる姿勢のイメージだがこちらは少し違う、突然口を開け噛んでくるタイプで接し方が難しいタイプのようだ。拝殿左の稲荷社、広く崇敬されているのだろう、多くの奉納旗がはためいている。稲荷社に続く朱のトンネル。伏見稲荷から勧請された稲荷社覆屋全景、右に赤い屋根の小さな社が祀られています。目つきの鋭い健康体の狐。稲荷社本殿。覆屋かと思ったがそうではなかった。本殿は一間社流造で脇障子の付く立派なもの。右側の小社は木札に白龍社とある。しかし扉が二つある事から白龍大神ではなく高龗神、須佐之男命かもしれない。どちらにしてもこの白龍社について語るものが見つからないので詳細は良く分かりません。冨士神社拝殿全景。8本の鰹木と内削ぎの千木が付く拝殿の紋幕には細川桜の紋が入っています。社殿側面が見通せず本殿の造りははっきりと分からなかったが、6本の鰹木と内削ぎの千木が付く神明造かとおもわれます。拝殿額。往事は境内も広かったのだろうが、名古屋城築城を契機に遷座に至り、気が付けば鬱蒼とした杜は縮小し武家屋敷に囲まれ、今では三方をビルが取り囲む富士神社だが今も多くの崇敬者に支えられている。冨士神社創建 / 應永5年(1398)祭神 / 木花咲耶姫命所在地 / 名古屋市東区東桜1-4-12境内社 / 稲荷社、白龍社参拝日 / 2023/09/01金刀比羅神社から徒歩 / 桜通りを高岳方向に約10分公共交通機関アクセス / 地下鉄名城線久屋大通駅から東へ徒歩5分関連記事 / ・金刀比羅神社・少彦名神社・桜天神社・朝日神社・『冨士浅間神社』名古屋市西区浅間
2023.10.07
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2023/09/25・26新幹線と在来線を利用し武藏國一之宮二社を参拝してきました。初日は川越市内を散策し、近隣の神社を巡る。名古屋を7時の新幹線で出発、一路川越まで電車で移動。現地では半袖では肌寒いかと長袖と天候の急変を想定し折り畳み傘まで持ってきたが意外に天気は良さそう。白くない冨士にはそそられないが、ふもとっぱらへキャンプに行く計画もあり、車窓から冨士を眺められるなんてのは我家にしてはとても珍しい、ふもとっぱら行くなら見えて欲しいなぁ。新幹線と在来線を乗り継いで川越駅到着はほゞ10時。名古屋➡川越 この日は主に小江戸と称される川越の街を食べ歩き、時の鐘や利き酒、最寄りの神社を訪ねる全行程徒歩の一日。今回、埼玉で見かけたマンホール。まといの頭に「川」「越」と入っとものは駅周辺、右上の蔵造りの町並みに時の鐘は川越熊野神社、左上は氷川女体神社に向かう途中で見かけたもの。川越は小江戸と称され、川越街道や水運によりサツマイモなどの産物を江戸に出荷し賑わいますが、寛永15年(1638)に大火に見舞われ、城下町や川越城を焼失しますが、当時の藩主松平信綱により川越は再興されていきます。明治26年(1893)、川越は再び大火に見舞われ、市街地の大部分を焼き尽くす甚大な被害を受けました、そうした大火から学んで出来たのが蔵造りの町並みです。まずは駅から仙波東照宮方向を目指し歩き始める。駅から北東に約20分程写真の星野山中院の山門前に到着。ここでかみさんに立ち止まってもらい、境内を窺ってみた。中院の解説によれば以下のように記されていた。「所在地 川越市小仙波町五丁目中院は、かつて星野山無量寿寺仏地院と称し、天長七年(830)に、慈覚大師によって創立された。当初の中院は、喜多院の隣にある東照宮の地にあったが、寛永十年(1633)東照宮建造の折に現在地に移されたもの。境内には、川越城主秋元侯の家老であった太陽寺一族墓、島崎藤村の義母・加藤みきの墓などがある。太陽寺一族の墓は、山門を入ってすぐ左側にある三基の墓で、川越の地誌「多濃武の雁」を著わした太陽寺盛胤の祖父盛昌・父盛方及び妻のものである。また、加藤みきは、文久三年(1863)に松平藩蔵前目付の次女としてこの地に生まれ、四歳の時に母に伴われて上京し、以後大正十二年(1923)に再び川越に戻り、昭和十年(1935)五月に七十三歳の生涯を閉じた。墓石に蓮月不柴乃墓と彫られており、この墓銘は藤村が書いたものである。」中院赤門。山門から少し先にある名のとおりの赤い門。右の柱には小さく「天台宗中院」の札が架けられている。その門の傍らの掲示板を見ていたかみさんが突然大笑い。上の言葉が彼女の笑いのツボにはまったようで、読んで見ると自分も自然に笑みがこぼれる。18才と81才は語呂合わせかもしれないが、まさに書かれている通り。先に進むか、後から追うかの違いにすぎない。少子高齢化の日本にあって、高齢者に対する風潮や振舞いはやがて自分に戻ってくる。まだ〃81才には及ばないが、横断歩道の信号が青で渡り切れそうもないお年寄りと出逢えば、無言で付き添う様に渡る事を心がけている、意思と行動が伴わなくなり若い衆も同じように皆衰えていく。中院は正式名を星野山無量寿寺中院と号し、伝承では創建は天長7年(830)、開山は円仁、開基は淳和天皇とされ、本尊は阿弥陀如来。以前は仙波東照宮の地に鎮座していたようですが、寛永15年(1638)の大火で焼失、跡地に東照宮を建立するにともない、少し南のこの地に再建されたようです。中院所在地 / 埼玉県川越市小仙波町5-15-1仙波東照宮。赤門から北に徒歩2~3分程の場所に鎮座する仙波東照宮。最近のかみさんは各地の一ノ宮巡りで東照宮をコースに入れてくれ、今回のコースも蔵造りの町並に向かう道中で盛り込んでくれた。仙波東照宮の解説は以下。「徳川家康をまつる東照宮は、家康の没後その遺骸を久能山から日光に移葬した。元和三年(1617) 三月、喜多院に四日間とう留して供養したので、天海僧正が 寛永十年(1633)一月この地に創建した。その後寛永十五年(1638)正月の川越大火で延焼したが、堀田加賀守正盛を造営奉行とし、同年六月起工、同十七年完成した。当初から独立した社格をもたず、喜多院の一隅に造営されたもので、 日光・久能山東照宮とともに三大東照宮といわれている。社の規模は表門(随身門)・鳥居・拝幣殿・中門(平唐門) 瑞垣・本殿からなっている。本殿の前には歴代城主奉献の石灯籠がある。 なお拝殿には岩佐又兵衛勝以筆の三十六歌仙額と幣殿には岩槻城主阿部対馬守重次が奉納した十二聡の鷹絵額がある。」随神門。「重要文化財建造物東照宮随身門・石鳥居境内入口にある随身門は朱塗八脚門・切妻造でとち葺形鋼板葺である。八脚門とは三間×二間の門で、門柱四本 の前後に各一本ずつの控柱をもっている屋根つき門のことである。以前には後水尾天皇の御染筆なる「東照大権現」 の額が掲げられていた。記録によるとこの勅額は寛永十年(1633) 十二 月二十四日とあるから東照宮の創始の時期を知るひとつの資料となっている。石鳥居は寛永十五年(1638) 九月に造営奉行の堀田正盛が奉納したもので、柱に「東照大権現御宝前、寛 永十五年九月十七日堀田加賀守従四位 下藤原正盛」の銘文が刻まれており、 様式は明神鳥居である。」随神門の左右の間には随神の姿はありません。解説にある石鳥居の先から石段を上ると東照宮の社殿に至ります。残念ながら平日は拝観できず、玉垣の周囲から窺うのみとなります。寛永10年(1633)に建立されたが、寛永15年(1638)の「寛永の大火」で焼失、寛永17年(1640)に再建されたもの。日光東照宮、久能山東照宮に次ぐ日本三大東照宮の一つに数えられるとされますが、ここについては諸説あるようです。寛永の大火で仙波東照宮は喜多院と共に焼失、3代将軍徳川家光により速やかに再建されたところからみても、かなり重きを置いて見られていた事には違いない。仙波東照宮所在地 / 埼玉県川越市小仙波町1-21-1仙波東照宮境内から北に続く小路があり、葵庭園を経て喜多院境内に続く。上は葵庭園の厳島神社。喜多院境内から一旦山門に向かい喜多院を参拝。川越大師 喜多院 創建と歴史「天台宗川越大師喜多院は、仙芳仙人の故事によると奈良時代にまでさかのぼるかもしれません。伝えによると仙波辺の漫々たる海水を法力により除き、そこに尊像を安置したといいますが、平安時代、淳和天皇の勅により天長7年(830)慈覚大師円仁により創建された勅願所であって、本尊阿弥陀如来をはじめ不動明王、毘沙門天等を祀り、無量寿寺と名づけました。その後、元久2年(1205)兵火で炎上の後、永仁4年(1296)伏見天皇が尊海僧正に再興せしめられたとき、慈恵大師(元三大師)をお祀りし官田50石を寄せられ関東天台の中心となりました。正安3年(1301)後伏見天皇が東国580ヶ寺の本山たる勅書を下し、後奈良天皇は「星野山-現在の山号」の勅額を下しました。更に天文6年(1537)北条氏綱、上杉朝定の兵火で炎上しました。慶長4年(1599)天海僧正(慈眼大師)は第27世の法灯を継ぎますが、慶長16年(1611)11月徳川家康公が川越を訪れたとき親しく接見しています。そして天海の意見により寺領4万8000坪及び500石を下し、酒井備後守忠利に工事を命じ、仏蔵院北院を喜多院と改め、又4代徳川家綱公のとき東照宮に200石を下すなど寺勢をふるいました。寛永15年(1638)1月の川越大火で現存の山門(寛永9年建立)を除き堂宇はすべて焼失しました。そこで3代将軍徳川家光公は堀田加賀守正盛に命じすぐに復興にかかり、江戸城紅葉山(皇居)の別殿を移築して、客殿、書院等に当てました。家光誕生の間、春日局化粧の間があるのはそのためです。その他慈恵堂、多宝塔、慈眼堂、鐘楼門、東照宮、日枝神社などの現存の建物を数年の間に相次いで再建し、それが今日文化財として大切に保存されています。」正面の山門についての解説は以下。「国指定重要文化財山門は、4本の柱の上に屋根が乗る四脚門の形式で、屋根は切妻造り、本瓦葺。もとは後奈良天皇の「星野山」の勅額が掲げられていたといいます。棟札を見ると寛永9年(1632)に天海僧正により建立されたことが分かり、寛永15年(1639)の川越大火で焼失を免れ、喜多院で現存する最古の建物です。昭和30年度に部分修理が行われ、現在に至ります。」鐘楼門。山門前を左に進んだところに建てられている、解説は以下。「江戸時代の喜多院の寺域は現在よりも相当広く、当時鐘楼門は、喜多院境内のほぼ中央にあり、慈眼堂へ向う参道の門と位置づけられます。また、上層にある銅鐘を撞いて時を報せ、僧達の日々の勤行を導いたと考えられます。鐘楼門は、桁行三間、梁行二間の入母屋造、本瓦葺で袴腰が付きます。下層は角柱で正面中央間に両開扉を設け、他の壁面は竪板張の目板打です。上層は四周に縁・高欄をまわし、角柱を内法長押、頭貫(木鼻付)、台輪でかため、組物に出三斗と平みつど 三斗を組みます。中備はありません。正面中央間を花頭窓とし両脇間に極彩色仕上げの雲竜の彫物をかざり、背面も中央間を花頭窓とし両脇間に極彩色仕上げの花鳥の彫物を飾ります。上層には、元禄十五年(1702)の刻銘がある椎名伊予藤原重休作の銅鐘を吊っています。寛永十五年(1638)の大火に焼け残ったともいわれますが、細部意匠などから判断して銅鐘銘にある元禄十五年頃の造営と考えるのが妥当だと考えられます。」花頭窓両脇の雲竜の彫物はなかなか迫力があります。喜多院境内マップ。広大な境内には慈恵堂を筆頭に多宝塔、庫裏、客殿、書院、慈眼堂、五百羅漢像などがあり全てを巡るとかなり時間を要する。多宝塔と手前の手水舎。「県指定有形文化財多宝塔は、寛永16年(1639)に、山門と日枝神社の間にあった古墳の上に建立されました。その後、老朽化が進んだため、明治43年(1910)に慈恵堂と庫裏玄関との渡り廊下中央部分に移築されました。ただし、移築に際し大幅に改造されていたので、昭和48年(1973)に現在地に移し解体修理を実施し復元しました。総高13m、方三間の多宝塔で本瓦葺、上層は方形、上層は円形、その上に宝形造りの屋根がのります。江戸時代初期の多宝塔の特徴が表れています。」慈恵堂「県指定有形文化財慈恵堂は、比叡山延暦寺第18代座主の慈恵大師良源(元三大師)をまつる堂宇です。大師堂として親しまれ、潮音殿とも呼びます。桁行9間、梁間6間、入母屋造りで銅版葺。現在、喜多院の本堂として機能し、中央に慈恵大師、左右に不動明王をお祀りし、毎日不動護摩供を厳修しています。川越大火の翌年、寛永16年(1639)10月の大火以後、いち早く再建され、近世初期の天台宗本堂の遺構として貴重なものです。昭和46年度から4年間にわたり解体修理が行われました。天井に描かれた数々の家紋は、その際に寄進をされた壇信徒のものです。なお、堂内には正安2年(1300)に造られた銅鐘(国指定重要文化財)があり、 年に一度だけ除夜の鐘として、世界平和とすべての人々の安泰を願い撞かれています。潮音殿喜多院の本堂である慈恵堂(大師堂)のことを「潮音殿」とも呼びます。お参りする時に少し上を見上げると、「潮音殿」の額がかかっています。それは昔、広くて静かなお堂の中に入り正座し、耳を澄ませていると、なんと不思議なことにザザザー、ザザザーと、まるで潮の満ち引きのような音が聞こえてきたのだといいます。これには人々も驚き、まるで潮の音のようだというようになり、「潮音殿」といつしか呼ぶようになったということです。また、大昔、喜多院の近くは見渡すかぎりの大海原でどこへ行くにも舟を使っていたそうです。それを仙芳仙人というお坊さんがお寺を建てるために海の主である竜神にお願いして陸地にしてもらったというお話も伝わっています。喜多院のすぐ近くの小仙波3丁目には「小仙波貝塚」(市指定史跡)もあり、近くまで海水が来ていたことが分かっています。喜多院廻廊から紅葉山庭園内の曼殊沙華。慈眼堂。境内左の古墳のような盛り上がりの上に鎮座する方形の建物で後方には歴代住職の墓基が並ぶ。「天海僧正は寛永二十年(1643) 十月二日寛永寺において入寂し、慈眼大師の諡号をおくられた。そして 三年後の正保二年(1645)には 徳川家光の命により御影堂が建てられ、厨子に入った天海僧正の木像が安置されたのが、この慈眼堂である。一名開山堂ともよび、桁行三間(5.45m)、梁間三間で、背面一間通庇付の単層宝形造、本瓦葺とな っている。宝形造は、四方の隅棟が一ヵ所に集まっている屋根のことで、隅棟の会するところに露盤があり、その上に宝珠が飾られている。山門右手の天海大僧正像(右)と白山権現。天長7年(830)、慈覚大師円仁が喜多院創建時に天台宗修験道の霊場白山から白山の神仏の分霊をお祀りしたのがはじまりという。川越大師 喜多院所在地 / 埼玉県川越市小仙波町1-20-1日枝神社。山門前の道路の向かいに鎮座し、こちらも喜多院創建時に天台宗の大本山比叡山の麓に鎮座する日吉大社の分霊を祀ったもの。「日枝神社本殿は、喜多院山門の前方にあります。山王一実神道の関係から喜多院の草創時代から境内に祀られ、近江日枝神社を勧請したものといわれます。本殿は、三間社流れ造り、銅版葺、朱漆塗り。室町末期から江戸初期の朱塗りの華やかな様式をよく残しています。神輿形厨子に安置される僧形の木像は、大山咋神を表しています。なお、現在の赤坂日枝神社は、文明10年(1478)に太田道灌が江戸の地に城を築くに当たってここから江戸城内紅葉山に分祀したことにはじまります。」喜多院山門から北東方向へ徒歩10分程にある蕎麦屋「十限無JUGEMU」。十限無。こちらで十割蕎麦と韃靼蕎麦、蕎麦の実が添えられた蕎麦豆腐を頂く。写真は十割蕎麦大盛、十割とは思えぬ細さで、腰もありのど越しの良い美味しい蕎麦だった。蕎麦湯が入れられた南部鉄の急須は見た目以上の重さがあり、指の筋トレにいいかも。蕎麦はもちろん、サイドメニューも美味しいお店でした。所在地 / 埼玉県川越市久保町6-6さて次はここから北へ15分程歩き川越氷川神社に参拝。歩いていくと最初に石の神明鳥居が現れるが、その右手に朱の大きな鳥居が聳えておりそちらから境内に向かう。大鳥居は朱塗りの明神鳥居で、高さは15㍍の木製鳥居。木製鳥居では国内唯一の規模を持つそうです。扁額の文字は勝海舟の筆によるものです。氷川神社境内マップ。社地は新河岸川の右岸の杜に鎮座し、広い社地の半分が社殿、残りは会館が占めており、当日七五三の御祈祷に訪れた家族連れと大陸系の観光客が多かった。「川越氷川神社は今から約千五百年前、古墳時代の欽明天皇二年に創建されたと伝えられています。室町時代の長禄元年(1457)、太田道真・道灌父子によって川越城が築城されて以来、城下の守護神・藩領の総鎮守として歴代城主により篤く崇敬されました。江戸時代に入ってのちも歴代の川越藩主より社殿の造営や特別の計らいを受けました。現在の本殿には緻密な彫刻が施されており、県の重要文化財となっています。 また、昔より縁結びの神様としての信仰を集め、人々のご縁を取り持ってまいりましたのは、お祀りしている五柱の神様(ご祭神)にあります。川越氷川神社には五柱の神々がおまつりされています。主祭神は素盞鳴尊、ほかに、脚摩乳命と手摩乳命の夫婦神様。さらにその娘であり、素盞鳴尊の妃神でもある奇稲田姫命、そして、素盞鳴尊と奇稲田姫命のご子孫ともお子様ともいわれ、また出雲大社の縁結びの神様としても知られる大己貴命の五柱の神様です。」7月から9月にかけて縁結び風鈴の廻廊が行われ、川越の夏の風物詩として知られますが、参拝時は既にその時期を過ぎており、江戸風鈴が吊るされた廻廊は見られませんでした。氷川神社拝殿。「欽明天皇の時代に大宮市の武蔵一宮から勧請されたと伝えられ、江戸時代には川越城下の総鎮守となり、歴代の城主をはじめ城下の人々の厚い信仰を得てきました。嘉永3年(1850年)に建てられた本殿は、川越まつりの山車の人形を主題にした彫刻がほどこされています。川越まつりは、同神社の神幸祭が起源とされています。氷川神社本殿。「江戸後期に川越城主松平斉典公の寄進と氏子の寄付によって建立されました。ご本殿には木の良さを生かした江戸彫とよばれる関東特有の精緻な彫刻が全面に施されており、名工嶋村源蔵・飯田岩次郎が7年の歳月をかけて彫りあげたものです。これらの彫刻はそれぞれ川越氷川祭で繰り出される山車に乗る人形をモチーフにしています。江戸時代の名工の技が静かに息づくご本殿は県の重要文化財に指定されており、大森貝塚を発見したことでも有名なE.モースも本殿の彫刻を見てその緻密さに驚いたといいます。また、モースは当社のお札をアメリカに持ち帰り、保存しました。」全周を透塀に囲われ細部を見る事は難しいですが、「強度大丈夫か?」と思いたくなる程彫りこまれている。拝殿左の八坂神社。「八坂神社は素盞嗚尊・奇稲田姫命をおまつりする摂社です。毎年7月には例祭・八坂祭が行われ、お神輿が街中を巡行します。八坂祭では神前にキュウリを2本お供えして1本を持ち帰ります。このキュウリを食べると夏負けしないといわれています。京都の八坂神社の神様で、かつては牛頭天王とよばれ、疫病退散のご神徳があります。」この社殿は寛永14年(1637)に江戸城二の丸の東照宮として建立されたが、後に空宮となった事を契機に明暦2年(1656)川越城内の三芳野神社の外宮として移築、明治5年(1872)に氷川神社境内に移築されたもの。」氷川神社所在地 / 川越市宮下町2丁目11番地5さて次はかみさん待望の蔵造りの町並みと食べ歩きに向かいます。社頭南を走る県道51号線を西に向かい、突き当りを左折し徒歩15分前後の移動時間。かみさん待望の焼き芋ブリュレ。蕎麦大盛が収まるおやじの胃袋は、次を摂り込む余裕はなく、ここはかみさんに任せ、小江戸ビールを頂く。6種あるCOEDOBEERの紫のボトルのRuriを一杯。爽やかな喉越しのピルスナービールで、暑い日の一杯に丁度いい。COEDO HACHI所在地 / 埼玉県川越市元町2-1-6蔵造りの町並み。人や車でとても混雑するエリア、随分消しゴムで消したがそれも限度があるようです。時の鐘。マンホールデザインにも採用される川越のシンボル的存在。ここを目指す観光客は後を絶たずこれ以上カメラを下に向けられない。寛永4年(1627)から同11年(1634)の間に川越城主酒井忠勝が、多賀町(いまの幸町)のこの場所に建てたものが最初といわれ、創建された江戸時代初期から、暮らしに欠かせない「時」を告げてきた小江戸川越のシンボルです。現在の鐘楼は、明治26年(1893)に起きた川越大火の翌年に再建された3層構造で、高さ約16メートルあると云う。現在は機械仕掛けで6時・12時・15時・18時の4回自動で鐘が鳴らされるそうです。所在地 / 埼玉県川越市連雀町17-1更に南下し仲町交差点で左に入り、大正ロマン通りを南下する。時の鐘から10分程で川越熊野神社社頭に到着。参道左には石の散りばめられた足踏み健康ロードなる参道があります。素足で境内まで歩ければ健康になるのだろうが、自分には罰ゲームに見え、歩くのはやめた。川越熊野神社境内マップ。天正18年(1590)創建とされる神社で、名が示す通り熊野大神をお祀りする神社。境内には白蛇神社や銭洗弁財天、加祐稲荷神社などの境内社がある。川越熊野神社所在地 / 埼玉県川越市連雀町17-1ここまでの徒歩ルート / 川越駅から約5㌔帰り際、足踏み健康ロードを果敢に挑戦する人を見かけたが、やはり帰りも見送って社頭に戻り南下を続ける。川越熊野神社から5分程南下すると写真の新富町1丁目の家光の山車蔵が見えてくるので、そこで左奥に進み利き酒処昭和蔵へ。店舗入口。こちらで地元の酒を品定め。店内ではこうした地酒がディスプレイされ、500円で5枚のコインと交換し飲み比べる事ができます。色々飲み比べて見た中で一番口にあったのがコイン3枚の川端酒造「桝川大吟醸」。フルーティーな香りで飲みやすいお酒だった。利き酒処昭和蔵所在地 / 埼玉県川越市新富町1-10-1利き酒処昭和蔵から八幡通りを川越駅方向に10分程南下すると新富町2丁目の山車蔵が見えてきます。川越最後の参拝地川越八幡宮は山車蔵の左に社頭を構えます。社殿はこの参道を進んで左側に鎮座します。境内左側で龍と花手水が迎えてくれた。川越天満宮は誉田別命を主祭神とする神社で、創建は古く長元3年(1030)に遡り、はじまりは甲斐守源頼信が平忠常の乱平定の祈願をここで行い、戦勝に感謝し創祀し創建されたと云う。境内には民部稲荷神社、川越三峯神社、菅原神社、稲荷神社等の境内社が祀られています。参拝当日は境内整備のため一部工事中でぐるりと見て廻る事が出来なかった。川越八幡宮所在地 / 埼玉県川越市南通町19-3さて初日川越の訪問地はこれで全てコンプリート、ここから一路川越駅に戻り、大宮に移動します。昭和蔵から川越八幡宮経由川越駅 / 徒歩約20分ここから川越線で大宮駅まで約20分程電車移動。川越線で大宮駅まで移動約20分 大宮駅到着、ここから今夜の宿パレスホテル大宮までは西へ徒歩5分程。夏のような暑さでしたが陽が陰るのだけは早くなってきた。日没が迫ると一日が終わった気分となり随分そんした気になってくる。16:45ホテル到着。まずはチェックインし一休みした後地元の居酒屋へ繰り出す。一軒目は駅の東の「いづみや本店」へ。所謂大衆酒場でお世辞にも綺麗な店内とは言えない。価格はリーズナブルでハムカツなど懐かしい肴を摘まんで飲める肩の凝らない店。なかなか女性一人では入りにくい雰囲気ですが、常連さんは気さくな人ばかりです。生中のジョッキの大きさには驚いた。いづみや本店所在地 / 埼玉県さいたま市大宮区大門町1-43-43二軒目はいづみやから一筋南の「なごみ」へ。こちらは金額毎のチケットを買い求め、カウンターに金額表示され並んだ肴をチケットと交換するシステム。所謂飯屋的な雰囲気が漂うお店。こちらは女性でも入りやすい雰囲気かな。なごみ所在地 / 埼玉県さいたま市大宮区大門町1-72-66豊栄ビル1F生中一杯300円とありながら、食べれないお通しが出てきて+500円なんてのはあっちこっちで溢れているが、何れの店も明朗会計なので分かり易くていい。たらふく飲んでホテルに戻る、気持ちは銭湯を探して徘徊したいが、結構足に来ている。こうした場合大方すぐに寝落ちしてしまうが、今回もまた横になってTVを付けた瞬間意識はなくなる。大宮駅からパレスホテル大宮、いづみや本店、なごみ移動ルート明日は大宮を起点に一之宮を巡っていきます。
2023.10.06
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先日、名古屋市の草木類収集実証実験に申し込み、手作業で剪定やら伐採をしていたが、時間もかかり疲労も大きい事からチェンソーを買い求め、漸く手元に届いたので組み立てを行い早速使ってみました。納品時はバラバラで送られてきます。全て組み上げた外観。分解組み立てに必要な6角レンチはハンドルの下手側に収納されています。取説を見ない自分が悪いが、最初はこの場所が良く分からなかった。スプロケットカバー固定ボルトメーカーのガイドバー取り付け要領。チェンには向きがあるので、スプロケットカバー外面の矢印方向とチェン側面の矢印が同じ向きになるようにチェンをガイドバーにはめ込んでいきます。チェンテンション調整ボルト。組み立て完成形。梱包されているチャンソーオイルは100㎖で、給油タンク1回分の容量でしかありません。動いている間チェンにオイルが滴下されるのでオイルの減りは著しく早く消耗します。もし購入する機会がある方は、注文時に補充用のオイルを合わせて買うのがいいかもしれません。自分の場合、直径15㌢の桂の木を2本伐採し、枝打ち、全長1㍍に切り揃えるだけで梱包品のオイルは空になりました。ウッドデッキの解体もある事から、近くのホームセンターで0.5literのチェンソーオイルのオールシーズンタイプを買い出しに行きました。使用後は電源を抜いて整備して保管します。・ガイドバーのチェンを上側に引っ張ってチェン伸びがあればテンションボルトでチェンを張り調整します。・次にスプロケットカバーを外しチェンやスプロケットカバー内部の木くずを取り去って再びカバーを取り付け保管します。・保管時にオイルタンクに残量があると油が漏れてきます。オイルは使い切るか、抜き取ってウエスで駆動部分をくくって保管すると保管場所を汚さなくて済みます。2回程使用してみた感想。・オイルの減りが想像を超え早い。・初回使用時のチェンの初期伸びが想像を超えていた。・丸鋸や鋸に比べ遥かに効率よく短時間で楽に伐採でき、疲労が少なかった。・レンタルしてチェンとオイルを買う事を思えば使用頻度は少ないが買った方がお得。新品10829円+オイル購入費 : 某ホームセンターレンタル一泊二日1500円+チェン購入費(約4000円)+オイル購入費、二回借りたと思えば回収できる。これから伐採される予定のある方やDIYで色々作ったものを解体する時、粗大ごみとして出す家具を可燃物として出す場合など、揃えていてもいい道具かもしれません。関連記事 / 本日は庭木の剪定・草刈りの日マキタ 350ミリチェンソー M504我家のマキタ電気チェーンソーM504
2023.10.03
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8/21~23、高山市朝日町胡桃島にある「くるみ温泉&キャンプ」に行ってきましたが、今回は秋神川下流の散策中に見かけた宮之前「小鷹(こたか)神社」を掲載します。鎮座地はキャンプ場から秋神川左岸を30分程下った朝日町宮之前地区にあり、集落のほゞ中央に一ノ鳥居を構え、そこから西側の山の麓に建つニノ鳥居まで真っすぐに続く長い参道を持つ神社。集落を一望する高台に鎮座し、いかにも集落の鎮守らしい佇まいの神社。一ノ鳥居は県道435号線に建てられ、参道口に大正時代に寄進された「小鷹神社」の社標と平成4年(1992)に寄進された石造の明神鳥居を構えています。田畑の中、遥か先のニノ鳥居と鎮守の杜に続く参道の光景は映画のワンシーンでも見ているようです。個人的に、こうした日本の原風景を感じさせる神社にとても魅かれる。宮之前地区は南北に長い秋神のほゞ中央に位置し、元禄飛騨国検地反歩帳に宮ノ前村とあり、当時は30軒ほどの集落で、南に御嶽、北に乗鞍に挟まれた山麓地域では水田が少ないうえ、品種改良の進む以前の米は冷害の被害を受けやすく、収穫量もままならず年貢の減免を受けていた。参道中ほどから宮之前集落を眺める。現在の世帯数は当時の集落の軒数と比較しても明らかに減少しており、高齢化した住民の数より過剰な動物愛護により獣の方が数を増し、散策中にも幾つか捕獲檻を目にすることになる。住居が密集する街中とは違い、この視界に入る世帯数で先祖から継承された神社を維持していくには相当な苦労があることだろう。参拝時にはささやかでも賽銭を投じていきたいものです。背丈の高い雑草はまめに草刈し、見栄え以上に獣と人の境を付け、見付けやすくする目的の方が強いかもしれない。小鷹神社の社叢は主に杉やいちい、ひのきが主となり、天に向かって聳えています。ニノ鳥居と左に建てられているのは神楽殿か。ここでは神楽殿としておきます。豊かな森が広がる土地柄もあり太くて立派な材木が使われています。現地では小鷹(こたか)神社の由緒は見かけなかったので、岐阜県神社庁を見たところ、以下のように解説されていました。「創祀未詳。祭神は大己貴大神、少名彦神、大山積大神。由緒不明なれど、明治44年6月23日字川島無格社山神神社を合祀す。例祭日8月29日」と簡潔に記されていました。鬣も立派で肉付きのよい小鷹神社の狛犬。阿形の後方に手水舎があります。大きな舟形をした手水鉢で龍の姿はない。年輪を重ねた針葉樹の杜に包まれ、外の熱気が嘘のように穏やかになります。社殿は、正面の拝殿・覆殿、左右に境内社が祀られています。神社の由緒について調べてみたところ、地元の解説で境内社について記されたものを見付けたので以下に掲載します。「神社年代表によると創建年代は詳しくは分からない。鎌倉時代の作とされる神像や室町時代の作と見られる口・木作りの鍬などが社内に残っていることから、鎌倉若しくは室町時代のどちらかに建立されたと思われる。里伝によれば、仙夫(そまふ)が信州より奉持して大杉の元に奉祀されたと言われている。当時は秋神七ヶ部落全戸が氏子であったが、明治中期に各部落に分祀され、現在では当宮之前と上下両桑之島の三部落が氏子となっている。境内社として江戸末期安政七年(1860)二月、秋神全戸で勧請した稲荷神社を鎮座、鎮座時には秋神全員の氏子が集まり、赤飯を団子にして屋根より投下し盛大に礼祭が斉行されていた。」「仙夫(そまふ)が信州より奉持」とあり信州の何処からか調べて見たが良く分からなかった。キャンプ場のある胡桃島集落にも小鷹神社が鎮座しますが、ここ宮之前の小鷹神社がはじまりのようです。境内の樹々は種類も多く、古いもので樹齢400年を超すものも聳えています。杜には高山市の文化財(天然記念物)に指定されている大杉・いちい・ひのきがあります。杉は目通り7.8㍍、高さは優に40㍍を越え、いちいは目通り37.8㍍・高さ40㍍、ひのきは目通り4.5㍍と堂々たる樹々が真っすぐと空に向かって聳えています。拝殿は床を上げられた切づの拝殿で周囲には濡縁が施され、棟には5本の鰹木と垂直に切り落とされた外削ぎの千木が施されています。今でこそ大雪に見舞われる事は少ないのかもしれないが、嘗ては今は閉鎖した鈴蘭高原スキー場もあった大雪に見舞われる地域、急角度の屋根勾配はそうしたこともあるのだろう。その昔はわが社の保養所もあり、スキーシーズンに小坂から何度も登ったが、当時は四駆でもおっかない道だったことを覚えている。覆殿。この状況なので本殿の姿は垣間見ることも出来ない。拝殿内。左右に随神が安置され、小鷹神社の額と奉納絵馬が掛けられていました。小鷹神社の拝殿額、右には今から飛び立たんばかりの鷹の姿がある。左右の随神。拝殿右の稲荷社覆殿。江戸末期安政七年(1860)、秋神全戸で勧請した稲荷神社。狛狐の姿こそ見えないが、覆殿の中にはしっかり安置されているだろう。拝殿左の覆殿。神社庁の解説にあった明治44年(1911)、字川島無格社山神神社とはこのことを指しているのだろう。二つの社の間に木像らしきものが安置されていたが、それがなにかまで良く分からなかった。両社の創建は不明、こちらの賽銭箱に纏めて投入。参拝を終え、境内から神社が見守る宮之前集落の眺め。長い参道を戻り、炎天下の県道をキャンプ場に向かう。小鷹神社(高山市朝日町宮之前)創建 / 不明祭神 / 大己貴大神、少名彦神、大山積大神境内社 / 稲荷社、山神神社祭礼日 / 4月29日所在地 / 岐阜県高山市朝日町宮之前字森下247番地参拝日 / 2023/08/22関連記事 /・くるみ温泉&キャンプ(高山市朝日町胡桃島)
2023.10.02
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少彦名神社から東の久屋大通りを越え徒歩10分前後、泉町のビル街に左右を壁の様にビルに挟まれ、北向きに社頭を構える金刀比羅神社が鎮座地します。社頭光景。ビルの連なる並びに歯抜けの様に金刀比羅神社の幟旗がはためき、木造明神鳥居と大きな楠が聳えています。南北に長い社地で、社頭には狛犬と金刀比羅神社社標、鳥居の先の右に神馬と左に境内社が祀られている。参道右に手水舎があり、その先は神楽殿と東向きに建てられた拝殿、本殿、正面奥に社務所が主な建物。金刀比羅神社解説は以下。「久屋町にあった医王山全泉庵の境内に、文政2年(1819)に建立された社(猿猴庵日記)で金毘羅社・金比羅羅宮とも。祭神は大物主命。戦前は、例祭で琴平丸と呼ばれた山車と他一両を出していという。 台尻の礎石と伝えられる石は、久屋大通公園に現存する。全泉庵は江戸時代初期に清州から移転した曹洞宗の寺で、文政年間(1818〜30)に、瑠璃光寺と改称した(金麟九十九之塵 他)。本尊は盗人に大音声を発したという逸話を持つ薬師如来。明治初年に廃寺。」とある。金刀比羅神社は清州越しに伴い、清州城下の医王山全泉庵(後に医宝山瑠璃光寺)が久屋の地に遷座。寺の守護神として讃岐の金毘羅さんを勧請・創建した。創建当時の祭神は金毘羅大権現をお祀りしていたのだろう、やがて明治を迎え、神仏分離令により寺は破却の道を辿り、守護神は大物主命となり金刀比羅神社が残り久屋町の氏神として崇敬され、村社に列せられていったようです。金刀比羅神社(瑠璃光寺)については複数の地史にも記録が残り、「本尊は盗人に大音声を発した」という逸話は尾張史にも記されていました。春日井郡阿原村の常安という人の持仏だったが、薬師如来像は盗難に遭い、薬師如来像に大声でどやされた盗人は、不気味な像を置き捨て逃げ去ったものが瑠璃光寺に安置されたという。解説にあるのはこの事を指していると思われます。この像は寺の破却に伴い誓願寺で安置されましたが、空襲で焼失したそうです。上は久屋大通りが作られる以前、大正時代の鎮座地と周辺の変貌。栄を南北に伸びる久屋大通は、戦災以後の復興事業で作られたもので、当初の金刀比羅神社はこの久屋大通りに鎮座し、事業に伴い現在地に遷座したもの。左の大正時代の地図には赤い現在地のマーカーの横に鳥居の印が描かれています。「台尻の礎石と伝えられる石は、久屋大通公園に現存」については、少彦名神社から金刀比羅神社へ移動の途中、久屋大通公園を歩いて見たがパッと目に礎石は見付られなかった。社頭を守護する鼻の大きな狛犬。木造鳥居と金刀比羅神社扁額。石造りの鳥居にはない、木目が現れた質感は温もりがあっていいものです。鳥居後方の右に名古屋十名所の石標と百度石があります。手水舎。敷地内の社務所では塾を開かれているようで、そちらに通う子供達の愛車置き場になっています。頭より遥かに長い髭と角を持った勇ましい姿の龍が子供達の愛車を見守っている。南向きに祀られた三つ扉の相殿。ここに祀られているのは、御嶽社、金山社、秋葉社、水天宮、 白山社、豊受社、稲荷社、 松尾社、住吉社、天神社、春日社の十一社。こちらも以前は現在の久屋大通に祀られていたもので、当時の社地は現在に比べるとかなり余裕があったと思われます。参道右の神楽殿。現在の社殿は昭和35年(1960)に遷宮以降、令和2年(2020)に氏子並びに崇敬者の寄付により大規模修繕が行われたもの。神楽殿の先の拝殿は入母屋銅葺屋根の平入で東向きに建てられています。拝殿側面から見ると、限られた敷地を生かすため、一間を土間にして拝所にし、その先を壁で囲ったもので、参道の狭さを感じさせない造りになっています。とはいえ、正面から拝殿全景はもちろん、本殿の姿も捉えきれません。境内の二つの碑。上 「錨が安置された碑は「金刀比羅神社御祭神は大物主命です。大物主命は広く万物の主たる神である事を称えた神名です。海上の守護神で福徳円満、産業・文化など全ての人々の平安と繁栄を司る神さまです。錨は海事「御祭神」を象徴する意匠として祀りました。戦前の金刀比羅神社境内に大型の錨が設置されてあり、再び祀る事になりました」下神楽殿と拝殿の間に戦没者の碑が建てられていました。拝所に吊るされた大きな鈴と鈴紐、発する音色は渋い低温の音を奏でる。吊燈籠には当然丸金。通りは陽光が降り注ぎ明るいけれど、ビルの谷間の境内の燈籠は既に明りが灯されています。拝所の左には注連縄の掛けられ、金色の丸金の紋が施された祠が安置され、内部に黒光りした満面の笑顔の木造大黒様「お摩り大黒さん」が安置されています。普段はこちらに安置され、毎月10日になると右の大黒様の椅子に置かれます。小槌を摩ると良縁、開運、厄除。頭は受験必勝、学業向上。おなかは安産、子宝。たわらを摩ると出世、土地守護、家内安全。福袋は金運、商売繁盛。手は勝運、芸事上達、足は旅行、交通安全。持病のある方は患部にあたる大黒様の体を摩る事で回復するという有難いもの。拝殿から社頭を眺める、左の常夜灯は大正7年(1918)に寄進されたもの。…外は明るい。ビルの谷間に大きく聳える楠の大木。金刀比羅神社創建 / 文政2年(1819)祭神 / 大物主命所在地 / 名古屋市東区泉1-14-5境内社 / 御嶽社、金山社、秋葉社、水天宮、白山社、豊受社、稲荷社、松尾社、住吉社、天神社、春日社参拝日 / 2023/09/01公共交通機関アクセス / 地下鉄名城線久屋大通駅から北へ徒歩5分少彦名神社から徒歩 / 東に向かい久屋大通りを越え徒歩10分前後関連記事 / ・少彦名神社・桜天神社・朝日神社
2023.10.01
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