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今回も、田村昭『東北お国ぶり』(宝文堂、1970年)の中から題材を拾って、記させて頂く。県別に特徴的な苗字として、次のようにあげられる。青森県 神(じん)、夏堀、工藤、福士、三上、今、葛西岩手県 八重樫、千田、及川、小野寺、村上、菊池宮城県 菅原、千葉、庄子、石垣、中鉢、蜂谷、早坂秋田県 越前屋・加賀谷・能登屋のように屋・谷のつくもの、照井、八柳山形県 富樫、本間、神保、奥山、安孫子、志鎌、鏡、土屋福島県 菅家、菅野、星、丹治、渡辺、五十嵐、宗形なるほど。私なども、そう言われると、知人や有名人や政治家などで、出身がこのとおりの方を思いつく。田村さんが書いているように、これをもって即断は危険にしても、ご先祖が出身であるなど、目安がつく場合が多いように思う。東北地方の珍奇な苗字として、紹介されているものとして、仙台の八月朔日(ほずみ)さん、加美郡の川童(かっぱ)さん、仙台市の蛸(たこ)さんなどがあげられるという。また、次の苗字は解説がくわしい。鉄炮(てっぽう):下北半島の尻屋部落には昔からよく難破船が漂着した。この先祖は難破船から上陸する際に、できるだけの品物をもってあがったが、その持ち物が鉄砲だった。槍を持った人は、槍を苗字としたという。我慢(がまん):津軽藩に住んでいた先祖が同僚たちと戦禍を逃れて旅に出たが、途中で具合が悪く行動を共にできなくなったとき、仲間からここで我慢して永住してはどうか、と話が出たから。猿賀(さるが):宮城県では1軒だけ。青森県尾上町の猿賀神社に関わりがあるらしく、この起源を見ると、津軽地方では谷地の下部から出る泥炭層を「さるけ」と読んでいるが、秋田県鹿角郡の辺りから流出してきたため、川を去るの意味で「去河」という地名が起こり、さらに猿賀に転化したという。鬼(おに):仙台、青森に。幸福(こうふく):酒田市に実在。山寺の末寺、幸福寺の寺侍だった先祖がつけたという。などなど。
2015.02.09
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もう昨年のことになってしまうが年末の頃の河北新報に出ていた。仙台駅西口のバスプールなどと言うが、バス乗り場をバスプールと呼ぶのは仙台など東北に限られているのだそうだ。恥ずかしながらこれは気が付かなかった。私の感覚では、バスターミナル、バス乗り場、バスプールなどそれぞれニュアンスの違いはあっても、あるいは行政やバス会社がどれを公称しているかの問題はあっても、どの都市に行ってもあまり気をせずにいずれも共通に使える用語だと思っていたからである。あえて言えば、「バスターミナル」は一点あるいは一つの建物に集約された感じ。名古屋のような場合や、仙台でも広瀬通の中長距離バス専門の乗り場。「バスプール」は、次の発車時刻までバスが何台も待機している平面的な広がりを想起させる言葉で、仙台駅前で「プール」というならタクシープールがより相応しいと思うのだが、なぜか仙台ではあまり言わないように思う。さて、仙台では以前から駅前のバスターミナル構想が持ち上がっては消えるのを繰り返してきたように思う。市内や郊外団地に伸びる路線の停留所が「仙台駅(前)」と呼べないほどに周囲に分散してしまっていること、また、中長距離路線の発着場が駅前に確保されないこと、更に言えば、ここに物販店など商業要素も盛り込んで一大「ターミナル」を設けようじゃないか、という話が経済界などから持ち上がるのだ。こうした論調からすれば、来るべき(?)ターミナルが実現するまで、プールと呼んでおくのが「自然」だったのかも知れない。これは当ジャーナルの勝手な邪推だが。
2012.01.02
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ある本に出ていた。鎌倉時代の御成敗式目には、他人の悪口は重罪とされている。これは名誉感情の高い武士の喧嘩の原因となるからだそうだが、悪口には人を動かす言霊の力が宿るとも考えられたという。各地に「悪口祭り」が伝わっており、例えば悪口で見事言い負かした側が一年間福に恵まれるというのが典型だ。栃木県足利市の最勝寺の悪態祭、茨城県岩間町の悪たれ祭などが知られる。昔は京都祗園社の「おけら詣で」でも行われた。これらの祭には、素行の悪い人間を戒めることで共同体の秩序を保つ効果がある。祭の日に神様の名を借りて不心得者を思いきり罵倒し、不満をぶちまけるのだが、糾弾の矛先がたとえ村の有力者であっても、背景に神様がいる以上、怒りたくても怒れないだろう。宮城県塩竈(注)の「ざっとな」:夜中に子ども達が集まり行状の悪い人物の家の戸口で悪口を大声で言い立てる(おだずまジャーナル注:下記文献中では「宮城・塩釜の...」と表記されています。)千葉寺の「笑い」:夜に顔を隠した人が集まり、素行の悪い人物を笑いのめすなどの記録もある。子どもに言わせたり、顔を隠し匿名性を持たせるのは、その後の人間関係への配慮だろう。悪口祭は庶民の知恵とも言える。■奥武則・大島透『にっぽん一千年紀の物語』毎日新聞社、2001年 から塩竈にこのような習俗があるのは知らなかった。興味があるので調べてみたい。■関連する過去の記事(奇祭と匿名性) 奇祭 鶴岡化けもの祭り(2011年1月3日) 秋田ナマハゲは秘密結社か 再論(2010年5月20日)
2011.02.27
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今朝から作業をして、11時頃に完了。まずは画像をご覧下さい。(1枚目)ストレーナと接続した銅管(上部はタンク本体です)(2枚目)同(下からのアングルです)(3枚目)古い銅管。細目のノコギリで切ったもの。(ごく短い管は、2度目の切断によるものです)我が家のエネルギーは電気中心で暖房も電気だが、補助的に温水ルームヒーターも建築後2年目くらいに設置して使っている。これまで2度ほど修理や部品交換をしたが、今シーズンも室内機を押入から取り出して設定。試運転したら、エラー表示が出る。室外機の点火ミスということで、点火プラグなどの部品交換が必要なのだろうか。コールセンターにお願いして、修理に来てもらったら、問題はホームタンクの方だという。水が相当たまっているし、サビもあって老朽化しているからタンクを交換しておきなさい。その後また点検修理に来ますから、ということだそうだ(家人による)。そこで、まずは先週から今週にかけて現在のタンクの水と灯油の処理。やったこともなかったが、水抜き栓からたしかに大量の水が、まずは出てくる。20リットル以上はあっただろうか。結露などではなく、どこかから雨水が漏れ入ったに違いない。その後、出てくる液体が灯油に代わって、ポリタンク2個分ぐらい出た。出し切ってから、いつもお世話になっているガソリンスタンドに持ち込み、廃棄してもらう。実は、水抜き栓から液体が出るペースが遅いので、ここまでは大変時間がかかったのだが、今週の晴れ間を見て、作業しておいた。木曜日に最寄りのDIY店で取り寄せてもらった95リットルの新品ホームタンク(1万円強)を、自宅に搬入し、代わりにカラになった古いタンクは引き取っていただいた。そして、いよいよ今日(土曜日)の設置作業だ。(DIY店で、200リットル以下なら資格不要で自分で設置可能、と聞いていた。)開梱して組み立てまでは、ストレーナの取り付け(ねじ込み)がかなりきつかったが、屋内の畳部屋で何とか完了。日差しが出てきて小春日和の屋外に移って、ヒーターの室外機まで灯油を導く銅線でつなぐ作業に入る。銅線は既存のものを残しておいたので、これを活用するのだが、よく見ると所々に折れ曲がりかけたような部分がある。そもそも全体が長すぎるようなので、丁寧に銅線のカーブをなおしながら、思い切って折れ曲がり箇所を含む部分を切り捨てることにした。細い目のノコギリで切る。しかし、切り口が斜めになったような気がしたので、2回目。切った後を、ヤスリで丁寧に補正して、そのあと、管の内側に残った銅の切りくずや粉を、綿棒で何度かきれいにしてやった。その後、ヤスリできれいにした銅管に押さえナットを通そうとするが、銅管が微妙に曲線を成しているのか、するっと入らない。石けんを持ってきて塗りつけてみると、何とかナットが通った。そのあと、樹脂スリーブ(ねじ込むと潰れてパッキンの役割をするらしい)をはめて、タンク本体のストレーナに繋げておいたI型継ぎ手に、接続。継ぎ手を押さえて、回らなくなるまでねじ込んだ。ここまで終えて、ホッと一息。家人が業者に連絡して灯油が真新しいタンクを満たすことになり、来週早々にルームヒータの修理の業者にふたたび来てもらうことになっている。あとは、ちゃんと油が室外機まで漏れることなく供給されて(私の作業に問題がないこと)、室外機が正常に作動してくれれば(部品交換はするのかな)、安心です。(なお、毎シーズンの水抜き作業はやった方が良いのでしょう。タンクの取扱説明書には、半年に一回以上、とある。それと、季末の灯油は残さずに使い切った方がいいでしょう。雨の夜や寒い早朝に、時間のかかる水抜き油抜きの作業は嫌でしたから。)
2015.12.05
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どうでも良いことだが、東横○○なる会社があるのを広告でみた。東横建設だったか、東横不動産だっかた。たしかに東横インはあるのだがと思いつつ、考え込んでしまった。東京と横浜を総称するのなら、京浜工業地帯とか京浜東北線のように、京浜が本来ではないだろうか。たしかに東横という言い方があるものの、東京人には馴染みかも知れないが、私の言語感覚ではしっくり来ない。あえて、その理由を考えて見ると、2つ。(1) 横(よこ)は訓読みだから音読みの東(トウ)と並ぶ苦しさがある。例えば、仙山線、仙石線、横黒線(横手と黒沢尻)、水郡線などはハマっているだろう。ケイヒンの方が読みやすい。なお、逆に訓読み同士で並べた例に、目蒲線などがあるが、それまた、大和言葉として一体性があると言えるだろう。湯桶や重箱の合成語はどうも苦しいように感じるのだ。埼京線という響きに最初は違和感があった。京葉線はしっくりするが。(2) 東京の2文字を1文字にするときに、東か京か。そもそも、地名を一文字にするときにどの文字を選択するかを考えるに、仙台なら「仙」で、石巻なら「石」だが、最初の文字を選ぶとは限らない。大阪のように印象度の高い「阪」を選ぶこともある。阪神、京阪奈。また千葉も、京葉線など。そこで、問題の東京の場合だが、成り立ちからして「東の都」なので、どちらも土着の固有性がなく印象の薄い文字だ。あえて言えば、方位の東より「京」を選んで、上京とか帰京とかいうのが、どちらかといえば自然な気がする。東大、東電、東芝の例もあるが、それは合成された名称を合成要素に細分解して最初の文字を綴ったのだから、場合が違うというべきだろう(もっとも、阪大、ナベツネなどの例もあるけど)。さて、では、なぜ東横という言い方がされてきたのか。私は東京人でないから全く自信はないが、おそらく、東横(とうよこ)で連想するのは、東横イン、東横線と東急百貨店でないか。東横線と東急百貨店は東急グループ。中心企業の東京急行電鉄は、前身は東京横浜電鉄と称し(1924年)、1939年に姉妹会社の目黒蒲田電鉄(目蒲線)と合併。なお、東横短大は、もともと東急の五島氏が設立した学校法人なので、東急グループゆかりの東横の名を継承したもののようだ。他方で、東横インは東急グループとは関係がないそうだ。東横線の呼称は1927年からという資料があるから、前後関係からして、東京横浜電鉄の頭文字(東大、東電のパターン)として造語的に命名したのではなかろうか。そこから、東横(とうよこ)の語が、田園調布や学園都市のイメージと相まって、好んで使われてきたのではないか。東横をトウオウと読む手もあったのだろうが、新規性がない。あえて、耳になじまない湯桶読みで、ブランニューな印象を与えようとしたのではないか。五島総帥の高等戦略か。勝手な推測だ。これを受け止めた人たちとしては、単に東京と横浜を中心とした一体を機能的に指し示す京浜(ケイヒン)ではなく、あの、洗練された東横なのよ、という感覚か。...どうでも良いことだった。
2016.11.26
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先日訪れた鶴岡は素晴らしい町だと、いつも思う。ところで、この仙台から車で行くと、高速道で山形市まで約1時間。そのあと、さらに2時間近く時間を掛けて達するのだが、進路としてはかなり北に寄っている。従って、鶴岡に着くと、宮城県でいうと石巻はおろか、大崎よりも北で、栗原市(築館)や南三陸町あたりと同じ緯度レベルにまで北上している。酒田市は鶴岡より北だから、宮城県でいうと気仙沼市とほぼ同緯度。意外なことだが、宮城県域の北限はもちろん気仙沼市で北緯39度線上あたりなのだが、山形県の北限(遊佐町や鳥海山)は、宮城の北の端よりさらに北にある。ところで、山形県の沿岸部は新潟県に押し出されるような形でかなり北に限られており、言い換えれば新潟県がずいぶんと北にまで張り出している。鼠ヶ関が両県の境目だが、これは太平洋岸では新北上川の河口である追波湾あたりが同緯度になる。つまり、同緯度くらべをすると、新潟県が、宮城県の黒川郡や石巻市よりも北に飛び出しているのである。宮城に住む私たちは、何気なしに、石巻は西に国道47号で酒田にいくから、ちょうど東西に同緯度くらいかなという感覚を持っているのではないだろうか。実際は、酒田はかなり北。新潟県は福島県の西くらいの方位感覚でいるのだが、実際は、山形県をはさんで、宮城県の南から半分以上にまで「肩を並べて」いるのだ。■関連する過去の記事 同緯度くらべ (06年6月29日) その他、各地域や主要都市に関する方位感覚など何度か記事にしております。
2015.07.29
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これは龍飛岬にある看板に書いてあったものだ。『義経渡海伝説』源義経は岩手県の衣川で最期を遂げたと伝えられている。しかしその前に脱出し、海峡を越え北海道に渡り、さらには大陸に至ったという伝説が残されている。ここ外ヶ浜町三厩地区にも『義経渡海伝説』や数多くの遺跡が残されている。『義経渡海伝説』の中で、義経が海峡を渡ったとされる場所が義経寺(ぎけいじ)。三頭の竜馬がつながれていた場所が厩石(まやいし)と伝えられている。三厩の地名の起源はこれに由来するといわれている。義経は津軽海峡を渡るため、日頃身につけていた観音像を岩の上に置き、三日三晩、海上平安の祈りを捧げた。すると杖を手にした白衣白髪の老人が現れ「汝の願いを聞き届け、三頭の神通力を備えし竜馬をつかわそう。これに乗り海を渡るべし」と告げた。やがて近くの岩窟の傍に来ると馬のいななきが聞こえ、中を覗くと見事な駿馬が三頭つながれていた。振り返って海を眺めると荒れ狂っていた海がいつのまにか静かになっていた。こうして義経一行は無事に海峡を渡ることができたという。義経北行伝説ゆかりの地紫波町→平泉→高館→束稲山→衣川村→江刺市→大東町→遠野市→山田町→宮古市→川井村→新里村→田野畑村→普代村→久慈市→八戸市→青森市→三厩村→北海道→大陸へ(青森県の地図の中に、寺下観音、小田八幡宮、藤ヶ森稲荷神社、貴船神社、油川、と経路が示されて、義経寺・厩石から北海道へルートが続く。)龍飛崎から龍馬山義経寺・厩石 12km(「厩」の文字は便宜上これで代用しました。以下同じ。)岬を後にした私は厩石・義経寺に向かう。まず、路傍の義経海浜公園に着く。そして、厩石だ。傍らの看板にこう説明がある。厩石の由来文治5年(1189年)、兄頼朝の計らいで、衣川の高館で藤原泰衡に急襲された源義経は、館に火をかけて自刃した。これが歴史の通説であるが、義経は生きていた!藤原秀衡の遺書(危難が身に迫るようなことがあったら館に火をかけ、自刃を粧って遠くの蝦夷が島(北海道)へ渡るべし)のとおり北を目指しこの地に辿り着いた。近くに蝦夷が島を望むが、荒れ狂う津軽海峡が行く手を阻んで容易に渡ることが出来ない。そこで義経は海岸の奇岩上に座して、三日三晩日頃信仰する身代の観世音を安置し、波風を静め渡海できるよう一心に祈願した。丁度満願の曉に、白髪の翁が現れ、"三頭の龍馬を与える。これに乗って渡るがよい。"と云って消えた。翌朝巌上を降りると岩穴には三頭の龍馬が繋がれ、海上は、鏡のように静まっていて義経は無事に蝦夷が島に渡ることができた。それから、この岩を厩石、この地を三馬屋(三厩村)と呼ぶようになりました。この画像で、石の手前の黒い石碑には、三厩村名発祥之地と刻まれている。厩石と国道を挟んで向かいが、義経寺。山門まで上がると、三厩湾の向こうに高野崎、さらに下北半島の陸地が間近に見えるのだった。
2013.06.13
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昨日の読売新聞の「よみうり寸評」で書いていた。大学の地元での略称。チョーダイ(長崎大学)、ブンダイ(大分大学)など。ウダイ(宇都宮大学)は聴いたことがあるし、ガンダイ(岩手大学)は当然なじんだ呼び方。でも、記事になるくらいだから全国的には、あっそうなんだ、というなのだろう。たしかに、大分大学のブンダイは、私には新鮮だ。さらに紹介されているのが、同音の大学で、ヤマダイ(山形、山口)、フクダイ(福島、福井、福岡)、カダイ(香川、鹿児島)、キンダイ(近畿、金沢)、シンダイ(神戸、信州、新潟)。関西では神戸大学をシンダイというそうだ。新潟大のことも地元ではシンダイというのか。これらも自分にはニュースだ。そういえば、わが東北大学も昔はトウダイとかホクダイとか呼んだと聞くが、今ではトウホクダイか、隠語的にトンペイだ。沿革から言うと(推察)、大学も少ない頃は、トウダイと地元で言えば東北大学を確実に指したのかも知れないが、全国的視野ではやはり東京大と混乱するから大学関係者などからホクダイが発生し、今度は北海道の帝国大学がホクダイを名乗ったので、結局グローバルな視点からどちらも消滅した...いずれにせよ、今は地元に固有の略称も特になく、このグローバルな視点でトウホクダイと呼んでいる。やや長いとストレスを感じることもない。(ちなみに私はメモなどではTUと書く。なお、東京大はUTだから区別される。)関西ではシンダイで通るのだろうか。関西の人とはシンダイで通用するが、グローバルな場面では、コウベダイ、と呼ぶのではないかという気もする。今度、関西の人に聞いてみよう。
2017.02.23
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愛用の腕時計が電池切れで針が止まりました。この時計、広瀬通のジャスコ仙台店の閉店セール(フォーラスに改装する前)、たしか昭和59年の初夏ですが、その際に1万円弱で買った物です。まだ学生でした。以来21年間この時計だけでやっています。バンド交換も10回以上やったはず。本体の横やウラの一部が汗や水分のため錆びも見えます。また表面ガラス部が外れること何度か有りましたが、自分でハメ直してきました。 こうなると愛着が沸きまして、リタイアまでこれで頑張ろうなどと考えたりしています。(時計より先にこっちがアウト・オブ・オーダーかも!) 当時のジャスコと言えば、一番町の中心部分、また国分町の入り口でもあり、学生の飲み会と言えば、「6時ジャスコ前」というのが集合場所の定番でした。 学生の頃は、一番町を南北に流すと誰か友達に会う、と誰かが言っていた様に、結構みんな町に出ていました。車など持っていないし、書店、飲み屋、深夜までやっている喫茶店などが限られており、これらの店との往来に一番町を歩くことになることから、昼夜を問わず、自然と一番町で出会ったのでしょう。今でいうコンパクトシティです。 ジャスコは、その一番町のちょうど中心、人の通りの交錯するポイントでもあり、まさに集合場所に恰好でした。 今は、一番町を歩くことも月に1度か2度。郊外に住んでいることもありますが、一番町に出てくること自体が結構大変だったりします。 ちなみに国分町で飲むことも以前に比べてメッキリと減りました(よく言えば家庭第一主義とも!)。 そこで、今日の仕事の帰り道に一番町を通りました。そして、午後6時に旧ジャスコ(フォーラス)前の風景を撮ってみました。 「6時ジャスコ前」の風景、です。 多湖輝さんの『頭の体操』の第1集(?)にあったクイズ。灼熱の非文明社会に入った文明人が手みやげに持ち込んだ時計2個のうち、1個は一日に5分づつ遅れ、1個は全く止まってしまった。さて、非文明社会の現地人はどちらを選ぶか。正解は、全く止まった時計。理由は、少なくとも1日に2回は正確な時刻を指すから、というものでした。(記憶が不正確ですが、概ねこんなクイズでした。第1集でないかも。何せ小学校の頃で。) そこで、私も文明の波に逆らって、今からは一日二回正確に時間を指す止まった時計にしようかとも思いましたが、12時13分で止まった時計を見ても仕方ないです。 「ジャスコ前」からずーっと仙台駅まで歩き、仙台駅東口のヨドバシカメラで電池交換いたしました。
2005.11.14
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山の軽井沢、湖の野尻湖、海の高山。これが、外国人のあげる日本の三大避暑地とされる。東北のドライブコースを案内する本に書いていた。最初はビックリしたが、外国人避暑地という視点の三大名数のようで、これなら歴史ある七ヶ浜が堂々とカウントされて良い。軽井沢や野尻湖は、日本人の観光スポットとしても今なお有名だ。これに比べれば、高山は知名度は低いだろう。実際、私も学生時代に別荘地に連れて行ってもらうまでは、知らなかった。県道の右脇、つまり学院大のセミナーハウスとは逆の海側にゲートがあり、これを開けて別荘地に入っていったように思う。別荘から歩いて林間を抜け出ると松島湾が一望できた。表浜にも降りて歩いたような気がする。明治期に外国人宣教師によって、松島を望む花淵浜高山地区に避暑地が形成された。高山に隣接する表浜(外人浜)が避暑外国人のビーチという位置づけだったのだろう。ちょうど菖蒲田浜が東北初の海水浴場として開設された頃で、海と国際交流に関しては、七ヶ浜は長い歴史をもっている。東北防衛局広報誌(08年7月)に紹介がある(岩手宮城内陸地震の記事などもありつい読み耽ってしまう)。係長さんが管理人の方に取材されたようで、良い記事が載っていた。明治21年、第二高等学校ハーレル博士が狩猟の際に当地を発見、次いで東北学院第2代院長シュネーダー博士が在仙外国人を勧誘し翌年7棟の別荘を建てたのが始まり。明治40年に村との間で、999年間の地上権設定がなされ、現在は46棟の別荘が建つ。祖父の代から3代にわたり管理をされている方は、最初は学校の教師や宣教師、戦前は在日大使館員、近年は一般の欧米人特に北欧人が多い、と語る。通信や交通が不便な昔は、各地の外国人が年に一度交流を深める重要な場所だったようだ。(記事を要約させていただきました。)■参考 はなぶし(花淵浜コミュニティ・ホームページ) (地名は鼻節神社と同源だったのかと、納得。大変面白いサイトです)
2010.07.18
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藤原嘉藤治(1896-1977)は岩手県紫波町の出身。音楽教員などを経て開拓農家の指導者に。宮沢賢治の親友で最大の理解者。郷土を愛した偉大な先人だ。嘉藤治と賢治が出会った時は、嘉藤治が花巻高等女学校の音楽教師、賢治は花巻農学校の教員。既に新聞や雑誌で著名だった嘉藤治に、賢治が自作の詩の批評を求めて、学校の宿直室を訪ねたのだそうだ。やがて嘉藤治は賢治の人格や作品を高く評価し、音楽活動などをともにし、賢治の没後は全集の編集に取り組む。さらに戦後は開拓農民として地域活動に功績を残した。賢治の才能を初めて正当に認め、賢治の作品を世に紹介し、そして賢治の精神を体現して開拓農民の指導に尽力する。偉業の先人だが、岩手出身の私も不勉強で実はよく知らなかった。嘉藤治が開拓した東根山麓では毎年6月に、かとうじ山の音楽会が開かれる。今年も16日に行われるという(岩手日報記事)。郷土の先人を顕彰し、ふるさとを考える、すばらしい活動だと思う。
2007.06.16
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一関市で10月31日に、リアルケイドロ in 一関 なるイベントが開かれ、参加者募集中。テレビでお馴染みの佐々木成三さんが企画・監修なのだが、佐々木さんは一関市出身だそうだ(河北新報の記事)。■イベントのサイト佐々木さんは、一般社団法人リアルケイドロの代表理事となっている。防犯意識の向上や、街の魅力発見を目指すということなのだろうか。去年は235人が参加したとある。また、佐々木さんは、刑事コメンテーター、元埼玉県警察刑事。いちのせき大使にも任命されている。
2026.09.12
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耕英の開拓の歴史について。栗駒山の宮城側中腹、標高500から650メートル一帯に耕英開拓地がある。昭和22年に28人の開拓者が入植し、ブナの原生林を切り開き厳しい自然と格闘してきた。半数以上は大望むなしく山を下り、残った人たちは開拓地を高原ダイコン、イチゴ、イワナの産地に変えた。昭和57年4月には、それまでの沼倉栗駒の字名を耕英に変えた。栗駒の地番が山を下りた旧栗駒村の一部にもあり郵便物などに支障との理由だ。■朝日新聞仙台支局『宮城風土記1』宝文堂、1984年 から(おだずま註:内容は当時の時点のものです。)1 入植のはじまり一帯は、かつてはブナの原生林で人を寄せ付けなかった。栗駒山自体古くから修験者の山として知られ、今でも行者滝などに面影を残している。辛うじて湯治場「駒の湯」があり、里の人が、登山の行き帰りや秋の骨休めに、食糧を背負って細い山道を登ってくるだけだった。昭和22年3月31日、農林省が計画した県営委託開墾建設事業のため、この地に初めての入植者たちが辿り着いた。この日の午後、旧栗駒村役場には、12か13人の入植先遣隊のメンバーが集合。ほとんどが、伊具郡耕野村の出身者。先遣隊の一行は、駒の湯の主人菅原孝さんの案内で山に入る。旧役場前から耕英開拓地までは、現在の県道(築館栗駒公園線)舗装道路でも17キロ。当時は沢に沿って狭いけもの道だけ。3月末でも積雪は多いところで1.5メートル。役場から6、7キロはトラックに揺られ、降りると原生林が立ちはだかった。「出発は午後。行者滝から孕(ハラミ)坂を通り、駒の湯に着いたのは夕方だった」(菅原さん)。当座の食糧をぎっしり背負った先遣隊員が、菅原さんを追って岩盤と雪の上を追うのは大変だった。メンバーは農家の次男や三男。食べて行くためには戻ることは許されない。先遣隊を初めとしてこの年28人が入植した。当時の駒の湯は、わらぶき小屋4棟と湯舟だけだったが、その1棟で24年秋まで2年半の共同生活が始まった。2 開拓の背景(満州移民)伊具郡耕野村は、昭和15年、当時の八島考二村長の分村移民計画で、農家の二男三男対策を解決しようと、県経済部厚生課の菅原兵市氏に相談した。菅原氏は栗原分栗駒町文字出身。理想が合致した2人は、その年耕野村で谷津冬蔵氏を団長とする第一次移民団を組織し、満州の東満総省勃利県へ入植した。菅原氏も翌年、県庁を辞して出身地の人々で組織した第二次移民団団長として満州に乗り込む。菅原氏は、駒の湯の主人菅原さんの妻の父親である。しかし間もなく敗戦。菅原氏夫妻は満州で病死。人々も傷心のうちに帰国した。八島村長が兵市氏の焼香のため、栗駒町文字の菅原兵三郎氏(兵市氏の父)を訪ねた。八島村長に対して、当時駒の湯の主人であった兵三郎氏は、湯の周辺を切り開けば何とかなるだろうと答えた。農林省でも戦後の開墾事業を開始しようとした矢先で、22年3月31日の先遣隊結成の発端となった。耕英の名は、満州耕野開拓団よりも更に秀でた開拓地にしようとの発想から、秀=英の字と、耕野の耕の字を一文字ずつ取った。耕英には、その後、栗駒町文字や登米郡などからも入植が相次いだ。3 現状耕英開拓地の広さは11万平方キロ。7月末現在で54世帯、156人が住む。昭和29年のピーク時には92戸が開墾に従事し、昭和33年までに入植した戸数は、(山を下りた家族も含めて)延べ140戸を数える。これだけの世帯で広大な原野を切り開いた事実に驚かされる。4 開拓の苦労初めて耕英入りした先遣隊(12人か13人)のうち、今でも耕英に残るのは6世帯。その一人Sさん〔おだずま註:書中では実名です。〕は、耕英東に隅、子供4人と孫4人。長男が跡を継ぎ、高原ダイコンと露地イチゴで生計を立てる。24歳で入植したときはまだ独身。裸一貫の出発だった。駒の湯の共同生活の最中に結婚。開墾とはいってもまずはブナの原生林を切り、炭を焼く。その合間に食糧集め。炭を背負って7キロ下の連絡所に運ぶ。帰りには米や味噌を担いで山道を登る。炭焼きの後原木ナメコ栽培に入るが他産地のオガクズナメコに押されて、今ではダイコン、イチゴ主体に。仲間が去る時オレも辞めようと思ったが、その時の仲間が来て去らなければ良かった、という。今では本当に住みよいところだ、とSさんは語る。5 農業の歩み昭和22年から始まった耕英の農業は、駒の湯での共同生活の後、組経営、個人経営と移った。共同生活の頃は、国有林払い下げによる炭焼きと材木売りが主。24年秋に共同生活が終わり住宅が立ち始めると日雇いに出る人も多く、製炭とともに重要な資金源となった。このころの主食はごはんと塩汁だけ。里で味噌汁を出された人が、「中に何が入っているかわからず、飲むのが不安だった」との当時の逸話が残る。昭和29年に原木ナメコの試験植菌が始まる。32年からは耕英開拓農協(23年設立)を通じて共同出荷され、はじめて安定経営の見通しがついた。夏場はナメコ、冬は出稼ぎのパターンが定着しつつあった。ナメコと並行して、和牛、乳牛、稲作も始まったが、牛は餌の買い付けや乳を里に下ろす費用で赤字。稲作も高地のため不良で、結局見切り。それでも、ナメコの値が高いうちは良かった。44年に、栽培しやすく形の良いオガクズナメコが競合産地から出荷され、大暴落する。耕英では、すぐ活路を見いだした。高冷地を利用して天然抑制栽培の高原ダイコンを植え始める。また、イチゴは41年42年から本格生産に。ナメコ暴落の年は、大根とイチゴの本格栽培と重なり、暴落を賄うには至らずとも、ポストナメコの基幹作物の見通しがついた。6 先見ある農業経営農業産品は高原ダイコンと並んで、「夏は山、冬は里」で栽培するイチゴ。昭和42年組織の耕英地区野菜生産組合には、54戸中の49戸が加入。露地イチゴ4.5ha、半促成イチゴ21.5ha、ダイコン18.5haを耕作。出荷高は57年度実績でイチゴ96百万円余、ダイコン56百万円弱。イチゴは独特の栽培方式を確立。露地イチゴは収穫後に翌年のための苗を採り仮植させて11月頃に大型冷蔵庫に入れて強制休眠させる。この方法で、他産地より遅いお盆前までの出荷が可能となった(抑制栽培)。一方、47年から冬場の出稼ぎ対策として13戸が山を下りた鳥矢崎地区の2か所でハウスによるイチゴ栽培(半促成)を始め、一年を通して農業に従事できるシステムを確立した。この実績により、昭和57年度宮城県朝日農業賞が組合に贈られた。組合長のSさんは露地イチゴ栽培を成功させた功労者。登米郡中田町上沼の出身で、26年春に耕英に入る。最初は他の入植者と同様炭焼きが主な仕事。早々に耕英開拓農協の組合長になって生活道路や営農資金の獲得などに奔走。炭焼きから原木ナメコに移ったとき、一斉にナメコが顔を出し収穫に四苦八苦することを防ぐため、原木に水をかけて芽出しの時間を調整し収益を上げた。さらに、ナメコでの順調な生活は長く続かない、と昭和44年の大暴落を予想し、イチゴ栽培を早めに手掛けた。7 イワナ養殖栗駒山に降る雨は無数の沢から、三迫川となり、下流で一迫、二迫川と合流し、迫川となる。沢は耕英の人たちの命綱。ほとんどの家が沢からホースを引いて、飲料水や生活用水を確保している。滅菌の必要ないミネラルウォーター。沢の至る所に、イワナやヤマメが生息する。一度釣り竿を浸すと翌日は全く釣れない、というほど警戒心の強いイワナも、最近は乱獲で数が減少し幻の魚といわれる。このイワナ養殖に成功し、農業とは別の道を歩んでいるのがKさん一家だ。〔おだずま註:書中では実名です。〕Kさんの家の20数個の池には5万匹を越えるイワナ、ヤマメが泳いでいる。いまでは養殖は長男が受け継いでいる。イワナのKとして県内外に知れ渡っているKさんは、白石市越河の出身。農家の三男坊で、戦後4年間のシベリア抑留の後、たまたま同地区出身のOさんが耕英に来ていたこともあって、25年にやってきた。皆と同様に炭焼きや原木ナメコを作ったほか、アズサの木を利用してウス彫りもした。しかし作業中大木の下敷きとなり力仕事が出来なくなった。他の人たちが主幹作物をイチゴや大根に変えたとき、Kさんはイワナ養殖に懸けた。きっかけは、当時耕英小中学校校長の寺坂二男さん(現在鳴子町長)の提案。他県で成功しているので耕英でもできないかと、約10人が先発産地の山形県を視察。Kさんは参加しなかったが戻ってからの反省会に出席して、これならやれると思った。42年頃だ。Kさんはじめ5人ほどが挑戦。近くの沢からイワナを捕獲して、自宅の池で育てた。46年にようやく出荷の見通しが立つが、それまでに仲間は、思うようにエサを食べない、成功するかどうかわからない、と次々と養殖を離れていた。小さなイワナを採卵用の大型魚に育てるまで5年間、Kさんには現金収入が無く、それまでの貯えで細々と食いつないだ。初年度の売上げは34万円で、全部エサ代に消えた。成功のつかの間、47年には日照りで池が枯れてイワナが全滅。55年頃には不心得者に水を抜かれたり、バッテリーを使って親魚を殺されたりした。水管理も大変で、少しでも汚水が入るとイワナは死滅するため、雨が降ると寝ずに取水口の汚物処理にあたることもしばしば。努力のかいがあって、今では耕英地区内の宿泊施設に卸すほか、観光客も多く訪れてイワナを買い求めるようになった。(後編につづく)
2013.12.07
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気仙沼市の鹿折金山資料館を訪れた。■略史藤原時代に黄金文化を支えた金山のひとつと伝えられる。江戸時代には源氏沢鉱山として唐桑村の古館が探鉱。明治14年に山形県南山村の鉱山師信夫歌之助が探査。明治20年に鹿折の菅野駒治が秋田県阿仁の鉱山師中村亀治を招いて開発し、金鉱を発見。明治27年に、仙台の内ヶ崎峯吉が試掘。この頃から鹿折金山が注目される。明治33年、中村亀治から早稲田大学工学部教授徳永重康に鉱山の権利を売渡し。36年、気仙沼の吉田正章と徳永重康が共同で開発、経営した。金の含有率20%という高い鉱脈を発見。明治37年には金の含有率83%という自然金が発見され、セントルイス万国博覧会に出展し、ナゲット・モンスターと称賛され青銅メダルを授与される。このことが日露戦争の外貨獲得に大きな貢献をする。徳永回顧録によると、使用人600人、事務員だけで20人いた。明治42年、古賀廉造個人のものとなり、50馬力の機械を備え付け一日1万貫の鉱石を採掘したが、43年に休山。昭和13年、堀家万太郎により復活。その後、日本産金会社が経営し、一時期トン当たり200gの富鉱にも当たったが、大部分はトン当たり3gの貧鉱だった。昭和24年、堀家が再挑戦し小規模ながら生産した。同46年、鉱業権を放棄し、鹿折金山が閉山した。平成10年、鹿折金山跡保存会が設立、14年、仮設・鹿折金山資料館が保存会有志によって開設。平成24年10月28日、気仙沼市鹿折金山資料館が開館。運営委員会を設置。(以上はパンフレットに掲載の略史。以下には、パンフレットの解説から要点を。)■鹿折金山の伝説大治元年(1126)藤原清衡公が中尊寺金色堂を建立した時、陸奥の多くの砂金が献上された。鹿折金山の砂金も献上されたと云われる。鹿折金山の裾野に源氏の沢があり、三段に流れる源氏の滝がある。また、源義経公、愛馬太夫黒が生まれ、沢の水を吞んだ場所に飼馬桶跡の窪みがある。金山を抱える土地は日ノ口(ひのくち)、奥州平泉藤原時代の所縁か、藤村姓が多く太夫黒の母馬が生まれたという屋号、臺羅貝(飼)(たいらがい)、場産地に繋がる、駒つなぎ、木戸脇、仮松部、などがある。■鹿折金山の事実昭和44年10月故藤村臺一郎氏のゴボウ畑から57基の板碑が出土、うち22基に金泥梵字があった。更に経文を入れた三筋壺も出土、いずれも平安から室町時代のものとされる。■豊臣秀吉、徳川家康の金山管理秀吉の時代、この地方の百姓たちは年3度の運上金制度に反発し、千厩に集まり三千人の一揆を起こした。徳川家康は全国の大名に金山開発を命じ、産金地に奉行を配置し、金を採掘する百姓達に鑑札(御本判)を持たせ、厳しく取り締まった。伊達政宗の時代この地方の鹿折金山、大谷金山、玉山金山等三金山の他多くの金山が砂金採取地として管理され、御本番百姓達が作業に駆り出された。■本格的な鹿折金山の採掘明治20年、秋田、鉱山技師中村亀治が初めて金脈を発見。資金が続かず、同33年、早稲田大学理事徳永重康氏に鉱山権利を譲渡し、その後37年、金の含有率83%の怪物金を発見。米国セントルイス万国博に出展「モンスターゴールド」と命名された。やがて日露戦争が勃発、怪物金は外貨獲得の材料として英国にわたり、司馬遼太郎作「坂の上の雲」にも紹介された。明治42年、古賀廉三が所有権者となり、昭和13年堀家万太郎により再開発され日本産金株式会社となって一時期トン当たり2百gの富鉱があったが、その後トン当たり3gの貧鉱が続き、昭和46年、鹿折金山は完全閉山となる。■明治、大正、昭和の鹿折金山の監督として初代中村亀治の系統である中村家は、二代中村直太、三代中村源一郎まで、金山作業監督として続いた。源一郎の妻はつえは、平成22年2月20日、99歳白寿にて大往生された。はつえは、その生涯をかけて鹿折金山を大切に保存し続けた。(現鹿折金山資料館館長四代中村敬二)■モンスターゴールド明治37年、重さ2.25キロの鉱石に金の含有率83%の巨大な金鉱石が産出された。この怪物金はセントルイス万国博覧会に出展され、青銅メダルと大賞状を受賞。海外にその名を馳せ、モンスターゴールドと命名された。現在は茨城県つくば市の地質標本館に6分の1の塊が保存。■鹿折金山資料館の完成平成23年、東日本大震災の年、菅原市長は郷土の大切な文化財資料として後世に残すことを決断し優先して鹿折金山資料館の建設に着手され、平成24年10月28日、公設民営方式で開館し、現在に至る。運営は鹿折金山資料館運営委員会、展示品は約千数百点にのぼる。また、資料館外部には日本でも珍しい金を溶解したレンガ造りの釜が残されている。■岩手日報2019年12月13日「三陸ジオトレインの旅/8/上鹿折駅・鹿折金山跡」(資料館で頂いたもの。以下要約)気仙沼駅前の停留所からBRTで上鹿折駅までは、一般道を走る民間バス会社路線をBRTとして運行。最終停留所の上鹿折駅で下車、徒歩30分。大船渡線の鉄橋をくぐると、真新しい鹿折金山資料館が見えた。館長の中村敬二さん(81)の案内で、裏手の鹿折金山へ。林道を20分ほど歩き、4番坑口跡と事務所跡。坑道は鉄枠フェンスでふさがれ、奥には水が溜まっていた。さらに林道を10分ほど上り、2番坑口跡に到着。ここからモンスターゴールドが産出。下山し資料館で中村さんの話に耳を傾ける。1887年(明治20)に曾祖父亀治さんが金鉱脈を発見、以来祖父、父の3代にわたり採掘の現場を主導してきた。4代目の中村さんは、「ここはほとんど手掘りで周りの金山と違って大きな機械が入っていない。もしかすると手つかずの鉱脈が残っているのではないか」と力強く語る。(報道部・佐藤渉)【解説】鹿折金山跡鉱脈は約1億2千万年前に起きた火成活動により、マグマや熱水が周辺の地層の割れ目に沿って流動、生成された石英脈。玉山、大谷の両金山とともに奥州藤原氏の黄金文化を支えたと伝えられる。明治初期から本格的な開発が始まり、一時期は1トン当たり200グラムの金を産出したが、次第に減少し1971年に閉山。2002年に資料館が開設された。【おすすめスポット】金山神社の岩塩と黄金水/邪気を清めるパワー資料館に隣接する金山神社には、モンゴルから贈られた世界最大級の岩塩が祭られている。自由に触れることができる。重さ1.5トン、世界遺産に指定されているモンゴルの岩塩産地ダブスト山から切り出された。邪気を浄化する力があるとされ、手についた塩をなめると、海の塩と違うほのかな甘みがあると評判だ。2005年愛知万博の同国ブースで展示され、終了後に引き取り先を探した結果、モンスターゴールドのセントルイス万博(1904年)出展の縁で寄贈された。金山神社そばには金山から湧き出る「黄金水」を汲める水道も配置。鉱床で育まれたカルシウム豊富な水。昔から飲用に使った中村さんは、家族では不思議と誰も骨折したことがないと効果を実感。その場で飲む場合は無料、持ち帰りは500円。■関連する過去の記事 大谷鉱山(気仙沼市)(2021年5月4日) 白石・小原と鉱山の歴史(2014年6月16日) ゴールドラッシュと涌谷(2011年10月24日) 半田銀山と五代友厚(10年8月30日) 岩手の製鉄と雨宮敬次郎の地域開発(10年2月20日) 白石湯沢温泉「やくせん」(2007年05月13日) 東北の飲泉地(06年7月18日) ハンダの名の由来 桑折町(2010年8月7日)(半田銀山)
2021.05.03
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きょう(9月16日)の朝、桜ケ丘公園付近で、車4台がからむ玉突き事故があった。川内トンネルの出口の脇にある側道で、仙台二高方面から立町小学校交差点方向に向かって、信号待ちをしていた車に最後尾の乗用車が追突したようだ。ところで、NHKのニュースでは「川内トンネル付近の※市道」と報じていて、わざわざ「※この記事を公開した際に、当初「国道」としていましたが、正しくは「市道」でした。失礼しました。」と付記している。訂正する姿勢は良いと思うが、あの地点を含む広瀬通から西道路にかけては、国道と市道の区間が複雑に入り組んでいることの反映だと思う。■関連する過去の記事 仙台西道路の謎を考える(2014年6月8日)立町小学校(桜ケ丘公園)交差点から以西の仙台二高(美術館)交差点までは、地上部分はすべて市道。路線番号「青葉1344」、路線名「仲の瀬橋路線」だ。地下のトンネル(立町T、川内T)と橋梁部分の下部層はR48(仙台西道路)で国管理になる。ちなみに、立町小学校交差点から晩翠通りまでの区間は、地下(立町T)も地上も、国道48号で国管理になる。おそらく、NHKさんも当ジャーナルのこの解説を参考にして、訂正記事を書いたのだ(と信じましょう)。
2026.09.16
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リフト建設と絡んだ有名な蔵王の境界紛争。宮城県副知事を務められた津軽芳三郎さんの著作をもとに整理を。----------1 経緯 北都開発と山形交通のリフト建設競争に端を発する。 昭和37年のエコーライン開通を機に、北都開発商会はリフト建設を計画し、38年1月山形営林署に国有林貸付申請を提出、山形県には建設計画を提出したが受理されないでいた。他方、山形交通は宮城県側にリフトを計画、38年2月に白石営林署に貸付申請書を提出して受理され、8月には落成式が行われた。 これに対して、山交のリフトが実際に建設されたのは従来県境とされた登山道の西側であっっため、北都は山形営林署に抗議。山形営林署は、明治37年の記録を基に実際に検測を行い、分水嶺付近が林班界であり県境であると主張したが、北都は39年1月、山形交通と営林署関係者等を公文書偽造、公務員職権濫用などで告訴。さらに、同年3月には林野庁と山形県に4千万円の損害賠償請求。 なお、北都開発は山交に1年遅れてリフトを完成したが3年で運転を打ち切り、残がいが長く残った。2 刑事訴訟 山形地検は当時の営林署長ら16人を逮捕したが、営林署長だけを起訴。昭和45年7月に仙台高裁で有罪が確定(職権濫用は無罪、収賄が有罪)。3 境界の変更 国有林の借用の案件がどちらの営林署の管轄となるかは、市町村の境界問題でもあり、リフトの固定資産税の帰属の問題でもある。七ヶ宿町は林班界(分水嶺)説を主張し、上山市は登山道説を主張。両県知事の数度にわたる話し合いは、刑事事件係属中もあり物別れに。 41年3月には、両市町からそれぞれ裁定申請を受けた両県知事は、4月に自治大臣に地方自治法に基づく裁定を申請。 当時宮城県地方課長だった津軽さんは現地を踏査した。登山道と言っても境界標石があるわけではなく、分水嶺と言っても馬の背のように明白ではない。角田領主の石川氏ゆかりの図面や書類まで借りて調査したのだそうだ。 その後、自治省は事情聴取や現地調査も行ったが裁定を出さないままの状態が続き、国会でも取り上げられた。 固定資産税は39年から法務局に供託されたままであった。4 新境界の設定 20年を経て上山、七ヶ宿とも首長が交代し、解決の機運が生じ、林班界と登山道の中間線を新境界とするとの七ヶ宿町長の提案を上山も了承。59年3月に両議会が了承。8月には自治省も再度現地調査、10月に自治法施行以来初の大臣裁定となり、不服申立期間を経て11月に確定した。 なお、川崎町、蔵王町、上山市の境界は一部未定のままであり、リフト問題の際に川崎町、蔵王町からも問題が提起されたが、開発や税との関わりもないのでそのままになったと思われる。5 民事訴訟 民事訴訟は大臣裁定で県境問題が解決した後の昭和62年になって第一審判決があり、山形地裁は分水嶺が県境という国の主張を認めて請求棄却。控訴審判決は平成7年1月に行われ、仙台地裁は、一審判決を取り消し795万円の支払を国に命じた(確定)。 曰く、従来は登山道を県境として認識し維持管理していたのに山交リフトに協力する意図で検測した線引きに従い申請を拒否したもので、職権濫用で違法な公権力の行使だ。営林署の検測は内部調査に過ぎず、大臣裁定まで、境界として取り扱われていた登山道に基づいて措置すべきだった。----------4の後半の部分は、リフトとは別の位置の境界未確定部分で、お釜の周辺のことだと思う。■津軽芳三郎『何があった地方行政五十年』宝文堂、2006年■関連する過去の記事 蔵王のお釜は共有財産(08年11月5日)
2009.05.17
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宮城スタジアムについて記すのは相当久しぶりになった。ワールドカップ日韓大会の決勝リーグでは雨のトルコ戦に敗れ、メジャーな競技大会や球技の試合も少なく、無用の長物視され、宮城県の財政逼迫の原因としてやり玉に挙げられるなど、実に旗色の悪い施設だ。今回、4年ぶりのJリーグ公式戦だが、ベガルタ仙台もここで勝ったことはない。J1昇格の正念場となる今日の試合。勝って山形を追いかけたい。ベガルタもだが、もう1つの主役である宮城スタジアムにとっても、是非今回はスッキリ勝って欲しかった。ジンクスの尽きまくった宮城スタジアムに、何としても名誉を。寒い一日だった。観客2万3千人台は、ちょっと少なかったように思う。それでも、黄金の応援が鳴り響く坩堝(るつぼ)の様は、久しぶりだ。影の主役であるスタジアム君も、嬉しかったに違いない。久々に訪れた歓喜の渦。あとは、画期的な勝利を待つだけだった。私はサッカーのことは詳しくないが、前半の菅井の先取点は見事な連係プレーだった。しかし、後半は選手の足が止まっており、流れが全く感じられなかったように思う。ほとんど広島にボールを支配されていた。俺のせいか... いつまでも絶えない仙台の応援を支えながら、スタジアム君は、思っていたに違いない。何とかあと1点取ってくれ。危ない場面を林のセーブで何度かしのいで、同点で後半を終える。内容的には負けてもおかしくないパフォーマンスだったと思う。そして、山形は快勝。仙台はどうしても勝ち点3が必要だったのだろう。宮城スタジアムで、不敗神話ならぬ無勝伝説が、破れない。ああ、久しぶりで俺もスタッフも頑張ったのだけれど... 傾きかけた秋の夕陽を背にして、スタジアム君も嘆息に暮れた、と思う。
2008.11.09
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山下龍夫『47都道府県ケンミン性の秘密』(幻冬舎、2014年)を読んでいたら、秋田県では「嫁は山形からもらえ」の言葉があるという。地元の秋田美人をあえて避けるのは、男女ともおおらかな県民性で家計が成り立たないからだとか。しっかり者でよく働く山形の女性が理想となるようだ。同書の山形県のページでは、庄内地方は上方との交易の歴史を持ち、明るいながらもあくまで控えめ。両親や祖父母と同居も多く郷土愛も強く、内助の功で家庭を支える理想の女性...とベタ褒めだ。私が知っている庄内出身の女性というと、(著名人は別として)今頭の中にとりあえず3人ほど思い当たる。1人は酒田出身で理知的だがちょっと我が強い人。1人は遊佐町の出身と聞いたが、表裏の有る人。もう1人は、ずっと昔の学生時代の知人で、鶴岡出身の女性。当時の印象なのだが、確かに控えめで虚飾とは無縁のような実直な人。今思えば、この人こそ、秋田人も羨むお嫁さんの理想像だったのではなかったか。思い出は美しくなるものとは言うが。上掲書では、山形女性はあまり外に出ないため、庄内美人と出会いたい場合こちらから率先して転勤していくのが良い、とある。
2014.12.25
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三好京三先生の本を読んでいたら、かつて教員生活の舞台だった衣川村(現奥州市)の大森分校は平成10年に閉校したが、平成15年に文部科学省の廃校リニューアル50選に選ばれたそうだ。(『北上川神楽囃子』チクマ秀版社、2003年)岩手日報の記事も引用されていて、環境庁の事業を導入して平成3年5月にふるさと自然塾として蘇り、環境教育の拠点として活用されている、という。文部科学省サイトの廃校リニューアル50選によると、廃校施設利用に際し、その有効活用に積極的に取組んでいる事例を全国から選定したもの。東北関係では、4県から9事例が選ばれている。抜き出してみた(市町村名は当時)。県市町村施設名称用途旧学校名廃校年岩手県葛巻町森と風のがっこう自然エネルギー・自然体験活動等の研修施設小屋瀬小学校上外川分校平成8年岩手県衣川村ふるさと自然塾自然体験等交流施設衣川小学校大森分校平成10年宮城県志津川町さんさん館滞在型宿泊施設(地域農産物等活用型総合交流促進施設)林際小学校平成11年宮城県牡鹿町網小医院診療施設(入院・デイサービス有)網長小学校平成9年秋田県男鹿市加茂青砂ふるさと学習施設国登録有形文化財加茂青砂小学校平成13年秋田県西木村多世代交流施設山鳩館高齢者生きがいデイサービス・デイケア事業、保育事業、多世代交流事業上檜木内中学校平成11年秋田県平鹿町平鹿町屋内スポーツセンター全天候型スポーツ施設浅舞中学校平成9年山形県白鷹町滝野交流館集会施設滝野小学校平成10年山形県酒田市上田コミュニティ防災センター社会教育施設上田小学校平成9年
2009.11.29
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昨日9月1日も暑かった。東北でも各地で真夏日を記録。福島35.5度、八戸35.4度など。56地点で9月の史上最高を観測。仙台は32.4度で、年間真夏日数は42にまで達し、最多記録を更新中。ちなみに年間熱帯夜日数も仙台9日、福島18日、酒田13日など、記録更新中。残暑は今月上旬まで続くという。今後1週間の予報はすべて真夏日。もうウンザリ。
2010.09.02
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鈴木重雄(1911-1979)は唐桑町鮪立に生まれ、ハンセン病回復者の社会復帰に尽力した。回復者の社会復帰にさまざまの問題を抱えていた中で、患者であった鈴木は地元に戻り受け入れられ、高度成長期の漁業の町を、地域振興や障害者政策などで大きく変える力となった。■松岡弘之「ハンセン病回復者の社会復帰と宮城県本吉郡唐桑町」 荒武賢一朗編『東北からみえる近世・近現代-さまざまな視点から豊かな歴史像へ-』(岩田書院、2016年)所収(本文中は敬称を略しております。)鈴木重雄は東京商科大学在学中にハンセン病を発し、1936年、岡山県の国立療養所長島愛生園に入る。田中文雄の名で入所者の処遇改善のため自治会活動を支えた。隔離政策への反対運動にもかかわらず、隔離を継続し退所規定ももたない「らい予防法」が制定され、鈴木自身も自殺を図り一命を取り留めるが、その後は個人の立場からハンセン病に関する啓発や社会復帰に関心を寄せるようになる。戦後日本のハンセン病問題は、プロミンの登場などで転換を迎え、1953年の経口薬DDSの開発で外来治療の途が開かれる。昭和24年から50年にかけて3357人が療養所を後にした。また、療養所にいながら園外の高度成長期の建設労働に従事した人も多かった。しかし、住まいや仕事の確保、再発リスクや社会の視線などの複雑な問題について、社会復帰策は不十分であった。鈴木は、全国ハンセン氏病患者協議会(全患協)や藤楓協会(旧らい予防協会)、社会復帰研究会などの活動に関わっていく。藤楓協会の浜野規矩雄は、昭和15年に浜野が軍事保護院課長として愛生園を訪問した際に鈴木と面会しているが、その後、厚生省予防局長を退職して藤楓協会理事長となって、再び鈴木と浜野の関係が続いていく。退所者の増加は、それまで入園者の作業に依存した療養所の存立基盤にも影響したことから、療養所のあり方も検討された。昭和38年の東京YMCA会館でのハンセン病回復者宿泊拒否事件、昭和39年の簡易宿泊施設「交流(むすび)の家」建設建設反対問題などに際して、学生達とも交流を深めている。故郷との再会は思いがけない形で訪れた。気仙沼湾は昭和23年に県立自然公園に指定されており、市や唐桑町はこれを陸中海岸国立公園に編入させる陳情を行っていたのだが、厚生省の国立公園審議会で追加指定は見送られていた。地元の市町の陳情先のひとつが、国立公園審議会委員でもある浜野規矩雄だった。浜野を訪ねた鈴木が市長や町長の名刺を目に留めたことで、鈴木ははじめて唐桑出身であることを浜野に明かし、編入問題を知ることになった。巻き返し方法を尋ねる鈴木に、浜野は知恵を出し、鈴木は景観調査のために、自身は二度と訪れることはないと考えていた故郷を27年ぶりに訪れるのである。それ以降、鈴木は田中文雄を名乗って、気仙沼市長に陳情方法などを助言、昭和38年5月、審議会委員による御崎・巨釜・半造など景勝地の視察を実現させた。その結果、翌年6月1日、唐桑半島は陸中海岸国立公園に編入が決定する。いったんは否決された要望に再審査の途が開かれて編入が実現したことについて、市長が浜野に礼を述べたところ、浜野は陰の功労者である田中が実は唐桑町出身のハンセン病回復者鈴木重雄であると明かした。昭和39年8月4日、気仙沼市で開催された国立公園編入記念の祝賀会に、鈴木は鈴木重雄として招待され、翌5日には唐桑町で浜野とともにハンセン病に関する講演会を開催した。会場の公民館には100名以上がつめかけ、浜野や鈴木は懸命に取り組んできた社会復帰運動の結実を実感した。(同じ鮪立地区に生まれた村上正純(後出)は、かつて地区に患者がいたことを知っていたこと、過去の病気や後遺症よりもスケールの大きな鈴木の言葉に惹かれたこと、発汗障害のため手ぬぐいで汗をぬぐう鈴木のさま、などを2013年に証言している。)昭和40年に東京で開催された汎太平洋リハビリテーション国際会議で鈴木はハンセン病回復者として初めて日本代表に推され報告を行い、かつて大学ボート部員として接した東京都の東知事とも再会。ところで、国立公園とさらた観光資源を唐桑町の産業として活かしていくために、鈴木は個人の立場で宿泊施設の整備を町に持ちかける。しかし、町は過大な財政負担を理由に慎重な姿勢でいた。一方で、丘陵地で水源に恵まれない地域からは上水道整備の要望も出されており、各家庭で水瓶に水をためるのは女性や子どもの仕事だった。そこで、鈴木は、国民宿舎をあえて半島突端に設置し、施設営業に不可欠なインフラとして上水道を敷設する構想を練り上げる。浜野(昭和41年死去)の後任の藤楓協会理事長となった元厚生省環境衛生局長の聖成稔であった。聖成は鈴木の活動を後押しし、昭和43年2月、国民宿舎からくわ荘が1億8千万円を投じて建設され、同年10月竣工。また、総延長30kmで町内12地区1万人を対象とする上水道は昭和44年度から3か年継続事業として昭和45年10月に竣工。総工費は3億5千万円に達した。いずれも国の長期低利融資を獲得して実現された。昭和44年には藤楓名誉総裁の高松宮が、からくわ荘を訪問。回復者が後続を案内して会食するということは地域におけるハンセン病問題の啓発と、鈴木の力量を印象づけるできごととなった。その後も、昭和46年の船員保険保養所「南三陸荘」の定員拡充(80名で日本最大規模。船員が次の出港まで家族と宿泊する施設)、気仙沼し尿処理場、昭和47年には気仙沼港の検疫出張所設置の決定(出漁時の予防接種や帰港時の検疫など、これまで大船渡や塩竈の検疫官の出張を待つ必要があり不便だった)、など鈴木の貢献は続いた。検疫出張所の件は、昭和45年にはじめて宮城県に陳情を行ったが、県は当時仙台新港への検疫所新設を計画したためか厚生省への取り次ぎを保留していたため、直接厚生省に働きかけ、検疫課長が後にらい予防法廃止を打ち出す大谷藤郎であったことなど、鈴木の厚生省に対する交渉力が武器となったものである。また、鈴木の力に目をつけたダイキン工業に招かれ、昭和46年4月鈴木は同社の顧問に就職する。唐桑町の船主たちはダイキンの冷凍機を次々発注し、子会社のナミレイはアフターサービスのため気仙沼に出張所を開設した。この頃の鈴木は、愛生園、ダイキン大阪本社・東京支社、唐桑町に、それぞれ1週間づつ滞在する生活。地域の有力者や企業だけではなく、旧軍人軍属、船員の遺族年金などの個人からの相談を受けると、厚生省や社会保険庁に照会し、必要な書類を整えさせるなど、感謝する者は後を絶たなかった。(おだずま注:原典では「からくわ民友新聞」の記事が出典とされている。)やがて、鈴木の識見と実行力に期待を寄せる人々が、昭和48年の唐桑町長選挙への出馬を促す。船主の小野寺淳一など。要請を固持していた鈴木が翻意した契機は、陸前高田市が昭和45年に策定した新総合計画で広田湾を埋め立て大規模臨海工業地帯を造成する構想を盛り込んだことである。同市内では漁業組合から市民全体に反対運動が広がろうとしており、唐桑町でも昭和47年10月に町、議会、漁協等の4者が反対協議会を設立して町ぐるみの反対運動を開始した。12月には小型漁船250隻余りが海上デモを行うなどした。岡山に長く暮らした鈴木は、水島コンビナートの事例を見聞きしており、埋め立ての断固反対のために出馬を決意する。立候補表明は投票日2か月前の2月23日。一部を除いて知名度はまだ低く、町内をまわって住民の対話を繰り返した。対立候補は一年上で助役を退いたばかりの鈴木重美(しげよし)であった。両候補とも広田湾埋立反対、福祉充実、教育振興など公約は共通していたが、重雄は、重美の地盤の小原木中学校での立会演説会で、医師不在のままの小原木診療所への医師招聘を厚労省医務局長の理解を得て必ず実現する、広田湾埋立阻止は環境庁大気保全局長に働きかけている、などと国や県の協議過程なども盛り込んで説明。療養生活で親交を重ねた人々も全国から手弁当で応援に駆けつけた。これに対して、重美は、町勢発展基本計画を丹念に説明するとともに、重雄候補に埋立反対の熱意があるならばなぜもっと早く行動しなかったのかと責めたという。選挙公示当初は町内12地区のうち10地区でリードできる見込みだった重美陣営は追い上げを受け、人身攻撃やデマも流れる泥沼の激しい「南北戦争」とも表現された。(おだずま注:原典では「三陸新報」記事が出典とされている。)4月14日の選挙は投票率80.11%(女性は98.58)に達し、重美2957票、重雄2774票で決した。昭和49年4月、選挙を支援した船主らは鈴木のため町内に住宅を建て、鈴木は妻佳子とともに、38年余りを過ごした長島愛生園を退園した。故郷に戻った鈴木は再び選挙に出ることもなく(町長選挙は無投票が続いた)、地域住民の相談に応じていた。鈴木が最後に手がけたのが、知的障害者のための施設建設であった。町長選の際も実現を訴えたことだが、父親が漁で家を空けるなかで母親がひとり障害を抱えた子を育てていくことへの支援はほとんどなかった。また、当時、知的障害者の施設は県北に存在せず、県南の施設に預けても交通費の負担が大きかった。だが、選挙戦に敗れて施設誘致の芽はなくなり、結果として鈴木は独力で社会福祉法人を設立して施設を建設する道を選び、それを遠洋漁業の船主たちが後押しした。昭和51年1月、唐桑愛の手をつなぐ親の会ら7名によって、社会福祉法人設立準備委員会が発足し、事務所は唐桑遠洋漁業協同組合に置かれる。準備委員長には鈴木が就き、役員予定者には、小野寺淳一、三浦政勝、三浦勉、亀谷寿一、畠山禎治郎、村上正純、昆野庄一、神白叔夫、馬場充朗、畠山啓一など、漁業関係者が名を連ねた。4月10日、馬場地区7100m2に100名の知的障害者を収容する、社会福祉法人愛生会(仮称)精神薄弱者更生施設椿園(仮称)設立趣意書が発表された。事業資金2億円、自己資金5千万円の他は、日本船舶振興会、社会事業振興会からの助成を得るとした。その後、用地は馬場地区が不調で、支援者の畠山啓一が所有する浦地区(宿、宿浦とも)の山林2500坪を賃貸することで決着。資金の面では笹川良一の日本船舶振興会に働きかけるため高松宮にまで紹介を依頼し、土地造成費用がその対象にならないと判明すると、船主たちが不足分を負担するとして支えた。資金計画は、船舶振興会からの助成金2億1200万円、社会福祉事業振興会長期低利融資5140万円、自己資金2千万円、特殊寄付金6百万円と変更された。法人名称は山田無文が洗心会と命名し、施設名は高松宮の許可で高松園とした。ところが、施設建設は地域社会の厳しい反対を受けることとなった。高松園のふもとの浦地区や藤浜地区では、昭和51年夏に集会所での懇談会で洗心会側の協力要請に対して反対意見が出された。表向きは施設の汚水処理を理由としたが、これには当時の漁業をめぐる環境も関係する。唐桑町の昭和45年7月時点の全1991世帯のうち水産業には1456世帯が従事し、季節的で不安定な自然漁業から比較的安定した養殖業に転換する傾向があり、また、かきむき、わかめ養殖など、労働力確保に姻戚関係や本家分家、地縁関係などが主要な意味を持っていた。オイルショックによる燃油価格の高騰、魚ばなれ、200カイリ宣言(昭和52年)などで町を支える漁業は三重苦にさらされていた。鈴木を後押しした遠洋漁業関係者に対して養殖業者が反発したのは、唐桑の漁業構造を反映した一面もあり、選挙戦の激しい対立の再燃ともみなされたものであった。町議会でも高松園建設の賛否が問題となり、昭和51年8月に親の会から嘆願書が、また9月には浦地区の建設反対期成同盟会からは反対の陳情が提出される。議会では全議員の特別委員会に付託し、昭和52年2月には10対7で反対陳情を不採択、推進の嘆願を採択とした。その後も反対論はくすぶり、6月には反対派が県議畠山孝(元町長で昭和46年以降県議)に対して説得工作が行われた。また、再び町議会に対して浦地区建設の反対陳情が提出され、7月に教育民生常任委員会で3対2で不採択されるが、議論は収まらなかった。11月の臨時会では、選挙で争った鈴木重雄の功績になることに消極的だと目されていた町長が見解を問われて、決して消極的ではないと反論する場面もあった。反対の声が静まらない中で、着工を前提とする助成申請は見送られ、計画は遅滞した。昭和52年4月には洗心会理事会で定員を100から50名に半減を決定。これは全国での施設建設が進む中、船舶振興会の助成申請を確実にするためであり、予算は1億496万円(うち振興会助成67百万円)に減額した。洗心会の職員たちは町内各地域で上映会を開催して施設への理解を広げていた。宿浦地区の養殖業者の家に生まれた熊谷眞佐亀は、父が町長選で鈴木重雄を支持したことで加工場を別にされるなど地域で孤立した経験があり、高専卒業を控えて実際に鈴木に会ってみたところ感銘を受け、父や鈴木の反対はあったものの高松園職員となった(2013年の証言)。昭和53年に洗心会は社会福祉法人の設立を認可された。この設立認可の「ごあいさつ」では、設立趣意書の際とは力点が異なっており、知的障害者の隔離のためではなく、地域の理解を得ながら社会復帰の拠点とすることを前面に押し出している。昭和53年3月に入札が行われナミレイ仙台市店が受注、しかし反対派は実力での工事阻止を示唆し、緊迫していた。地元の「三陸新報」は、反対の理由である汚水による漁業の影響については、し尿は水洗でなく気仙沼し尿処理場に運ぶこと、生活汚水も浄化設備を設けて放流することなど、計画には修正が加えられたことを述べて、反対同盟の執拗な反対を批判し、「その執拗な反対の底には何か強い理由がなければならず、もしそれがあるならば、堂々と表明、社会の批判にかけるべきである」と断じて、知的障害者への偏見を非難した。昭和54年4月1日ついに高松園は開園したが、鈴木の姿はなかった。職員の採用手続を終えた同年1月末に、鈴木は突如自ら命を絶った。長く秘書を務めた者さえ予兆を感じなかったという。法人は三浦政勝が理事長を引き継ぎ、4月には高松宮が園の視察に訪問した。妻の佳子は理事に迎えられ、愛生園にもどることなく唐桑で亡くなったが、佳子にとっての社会復帰でもあった。地域への貢献を讃えて、平成2年には、国民宿舎を見守るように鈴木重雄の胸像が建てられている。------------以上は、松岡氏の著作をもとに記載したものである。さて、唐桑の地域はどう受け止めていたのか。公式な町史にはどう出ているのだろうか、と思い、確認してみた。■唐桑町史編纂委員会『唐桑町史』唐桑町発行、昭和43年(1968)12月「観光」の章に、昭和37年国立公園に編入されてからは一躍天下にその名が知られ、来町する観光団が激増している、と記述されている。さらに、観光に関する近年のできごとが年表的に綴られており、昭和38年5月28日に自然公園審議会委員団が来町、御崎・巨釜半造を撮影、とある。同年8月6日には県観光課長が来町し、やはり御崎・巨釜半造を撮影。39年6月1日には国立公園の編入指定。この前後には、施設の整備やテレビ局の放送などが随分と記されている。39年8月の国立公園編入祝賀会も項目だけはあるが、出席者などはなく、鈴木重雄氏の名もみえない。最後の方で、昭和42年12月22日に国民宿舎からくわ荘建設の町議会議決。昭和43年2月27日着工、同年9月30日竣工。事業費9千2百万円余、とある。当時はさながら観光開発ラッシュだったのだろう。町史の記述も具体的で、当時の地域の期待を担った「動き」を感じさせる。町史自体が昭和43年末の発行だから、記述もこの辺が最新だったのだろう。ちなみに、町長は畠山孝が「現任」である。鈴木重雄氏については、観光の章以外でも、触れられていない。
2016.06.19
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先日栗原市築館で、町の中心部に「せんぽく」の看板をみた。宮城県北部の金融機関である仙北信用組合が、略称を「コミュニティバンクせんぽく」としている。そして、今では看板にもハッキリと書いている。宮城県では完全に「せんぽく」で定着だろう。また、「県北」(けんほく、けんぽく)については、やや微妙な気はするが、以前記事にした県北幹線道路のローマ字表記のように、宮城県では「けんぽく」が主流。「南北」(なんぼく、なんぽく)になると定まらないが、どうも「なんぽく」が多数派か。これまでの検討状況は下記の記事たちをご覧ください。そのうち、言語学、音声学的な観点と、地域文化史や歴史の観点からのアプローチで、この研究を完結させたいと(できるの?)思います。■関連する過去の記事 宮城県民は「県北」をやはりケンポクと読む(2013年2月6日) 南北線は Namboku Line(2012年11月22日) 宮城はやはり「せんぽく」(2011年2月8日) 仙北は「せんぼく」か「せんぽく」か(2010年7月26日)
2015.05.16
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以前田村昭さんの著作を読んで、花街の概史を記した。■関連する過去の記事 仙台の花街(07年2月10日)『目で見る仙台の歴史』(宝文堂、1980年増補改訂版)には、何枚かの絵や写真が紹介されている。南幸楼錦絵明治2年針生庄之助なる者が官許を得て国分町の西側に貸座敷を開き、4年にその東側に移り、中正楼と称して繁盛を極めた。新盛楼、舞鶴楼、南幸楼など約20軒の吉原風の妓楼が軒を並べていた。(画は宮城国分町南幸楼三階之図。)常盤町の妓楼国分町の妓楼は10年続いた。県令宮城時亮は明治12年片平丁支倉寄りの広瀬河畔に移させ常盤町と称した。今の元常盤町一帯はこの花街の跡である。当時今の市民会館のところに吉原まがいの大門と見返り柳があり、西側は大見世、東側が小見世であった。(画は常盤町遊郭之景。上田文斎、日本名所図絵)新常盤丁遊廓(丁は原文ママ)常盤丁にあった遊郭は川内兵営の向かいにあったので、明治27年陸軍の反対で小田原に移り、新常盤丁と称した。2階、3階の楼廓造りが軒を連ねた。維新後さびれた宮町は活気づき、日清日露の戦後好況時代には弦歌のさざめきが絶えなかった。終戦後の廃娼法により、建物は旅館となり、旅籠町と改名した。(写真は、新常盤丁全景、妓楼)
2013.11.16
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再び、各県の名字の話題です。各県のメジャー名字について。◆青森県工藤(1位)は全国では65位。平安後期の武士、工藤祐経(すけつね)が祖で、分流が鎌倉時代に東北の地頭となった。福士(30位)も全国では990位。成田、三上、対馬、古川なども上位。珍名では、哘(さそう)。向こうに行こうか、と口で誘うから。地名にもある。また、治部袋(じんば)は、元は陣場で、石田治部少輔(三成)が陣を構えたため。◆岩手県佐藤(1位)、佐々木(2)、高橋(3)、千葉(4)、菊池(5)など。全国279位の及川(9位)、小野寺、小笠原、八重樫、郷右近など。蟇目(ひきめ)は、鏑矢を使った神事の意味の宮古市の地名から。人首(ひとかべ)は、坂上田村麻呂が取った鬼の首が実は人の首だったことに由来。西風舘(ならいたて)も珍名。◆宮城県宮城県の佐藤(1位)は義経忠臣の佐藤継信・忠信兄弟の影響が大きい。菅原は道真の後継を称している。高橋(2)、鈴木(3)、佐々木(4)など。阿部(5)は奥州の大姓で、平安中期以降、北上川流域の一大勢力に。宮城県と福島県にある珍名で、百足(むかで)は、大百足を退治した人と、伊達藩の百足衆の末裔、との2説がある。◆秋田県1位は佐藤だが、高橋(2)も県民の5.6%を占めている。佐々木(3)、伊藤(4)、鈴木(5)など。特有のものは、三浦、畠山、小松、柴田、鎌田、成田など。珍名で及位(のぞき)。◆山形県佐藤(1)、高橋(2)、鈴木(3)、斎藤(4)、伊藤(5)など。後藤(9)は、藤原北家、利仁の子孫が義経家臣となった際に後藤太と名乗った。五十嵐(10)は、新潟市の五十嵐(いそあらし)浜が起源で、磯の嵐が訛って、いそらし→いからし、となった。新潟では今でも「いからし」という。他に、梅津、渋谷、小関、板垣、安孫子、寒河江、東海林などが多い。左沢(あてらさわ)は、アイヌ語の日陰の意味のアテラから。左の沢が日陰だった。◆福島県佐藤(1)、鈴木(2)、渡辺(3)、斎藤(4)、遠藤(5)と続くが、特徴的なのは、菅野、渡部、橋本、星、五十嵐、根本、佐久間。橋本は地名にも多く(全国最多)、星は会津から新潟にかけて分布。小さい盆地を意味し、平野部に降りると星野になると言われる。円谷は全国5300人のうち2600人が福島県。大越(二本松市周辺)、宗像(田村郡周辺)。参考 KKベストセラーズ『一個人別冊 日本人の名字の大疑問』2017年9月なお、この本にはクイズとして、東京23区と同じ名字の話題。最も多いのは、中野(7万世帯)、次いで渋谷、足立など。新宿や千代田なども希少だが存在。名字として存在しないのは、文京、台東、世田谷の3つだそうだ。■関連する過去の記事(東北と名字。また、姓について) 名字の都道府県別ランキング(2012年9月28日) 都道府県名と同じ名字(2011年12月19日) 各県の名字ベストテンと特色ある名字、珍しい名字(2011年12月18日) 宮城県の由緒ある苗字(06年8月1日) 氏と姓と名字の成り立ち(2012年9月29日) 姓と苗字の違い(06年8月23日) 苗字と名字の違い(06年5月22日)
2019.11.24
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岩沼市にある名取高校は、女学校としてスタートし、戦後は学校組合立を経て県立に移管された。同様の動きは県内各地にみられ、その経緯をたどると、子女の教育の充実を図ろうとする地域の熱意と新制高校づくりに向けた県と市町村の連携の足跡が知られる。1 実科高等女学校(『岩沼市史』(昭和59年1月、岩沼市史編纂委員会)から当ジャーナル要約。以下2、3も同じ。) 実科高等女学校の制度は明治43年にできた。女子教育の進歩発展に伴い、各郡市の中心小学校内に実科高等女学校の設置を要望する気運があった。修学のために父母から遠く離れることなく、学校と家庭の連絡を密接にしようとするもの。入学資格は、12歳以上で尋常小学校卒業程度以上の学力。修業年限は4年(尋常小学校卒程度)、3年(高等小学校1学年修了程度)、2年(高等小学校卒業程度)とされ、高等小学校に併置する場合に限って許可された。2 岩沼実科高等女学校の経緯 ・明治32年 岩沼小学校に裁縫専修科を付設 ・明治33年 補習科と改称。 ・明治43年 町立岩沼実業補習学校創立。修業3か年、男49女59 ・大正13年(1924) 町立岩沼実業補習学校女子部が昇格して、岩沼実科高等女学校を岩沼小学校内に設置する。 生徒 岩沼91人、玉浦16人、千貫18人、他に愛島、館腰から19人 ・昭和18年 宮城県岩沼高等女学校と改称3 戦後の高校昇格と県立移管 昭和23年4月新制高校の昇格が認可され、男女共学の町立高校となる。このとき、岩沼外10カ町村による学校組合が組織された。 参加町村は、岩沼町、閖上町、千貫村、玉浦村、館腰村、愛島村、下増田村、逢隈村、槻木町。昭和23年11月に増田町が加入する。(おだずま注:市史の文中には「岩沼外十か町村の組合立」と記載がある。しかし、年表中に記載された参加町村は上記の通りで数えると1つ足りない。岩沼町を含む10か町村、という意味(本文が誤り)なのか、それとも年表の中の列挙に1つ(高館村か)の記載が漏れたのか、いずれかと思われる。) 新制高校として存続の危機に遭遇したものの「名取高等学校(仮称)設置要望の趣旨」に躍如として記されている。「仙南四郡の広きに亘る一般大衆の憧憬と思慕とを集めてきた我が岩沼高等女学校の宮城県立高等学校昇格は、私どもの心から熱望するところである」 昭和24年、学校用地として日東産業岩沼工場の敷地建物を買収。町立、組合立を経て、昭和25年4月県立に移管。男女共学の学区内唯一の普通高校であった。定員は全日制451人、定時制507人〔おだずま注、名取高校HPによると昭和25年県立移管時の定員男女600人〕、3分校を設置(玉浦、増田、館腰)。4 学校組合立と県立移管 佐々久『近代みやぎの歩み』(宝文堂、1979年)には次のように記されている(p157-、一部要約と下線おだずま)。------------ 戦後の物価高や土建関係の多忙、食料欠乏と買い出しなどの混乱が続いた。この時期に、岩沼、岩出山、岩ヶ崎、飯野川に4つの高等学校が町村組合立で静かに開校され、数年ならずして南郷農学校と共に県立に移管された。名取、玉造、桃生の3郡には県立高校がなかった。栗原の西部にも高校がなかった。この地理的情勢に着眼した一視学が、高等小学校に附属していた廃校の運命にある、町立実科女学校を高校に昇格することを考え、各町に出向いて説きまわった。 当時の飯野川の五島町長、佐藤カゴ屋の主人、高良印刷店主、岩沼の森喜吉前市長、当時の石垣町長、岡崎元町長、岩出山の富岡小学校長、髙橋源治医師(現古川市)、坪井亘先生、岩ケ崎の千葉惣小学校長、太宰作右衛門元町長、三浦薫、岩林豊平氏、各関係町村の議員諸氏の当時の努力の様子が思い出される。南郷農学校県立移管に当っては、県会議員諸氏が大勢で視察にでかけた。米所南郷で餅ぶるまいをうけたという話もきいた。県立移管を最も喜んだのは、創立者の長者野田真一翁であった。 このほか、桃生郡鹿又の実科高女が、髙橋軍治小学校長の不抜の見識により町立高校に昇格し、しばらく後に遅れて県立となった。いまの河南高校である。------------ 佐々先生の説明だと、高等女学校を母体に県立高校を実現したのが、岩沼(名取)、岩出山、岩ヶ崎に加えて、飯野川高校(廃校)、河南高校(現石巻北高校)がある。もっとも河南高校は学校組合をつくらなかったようだ。各町に出向いて回った一視学とは佐々先生ご自身のことかも知れない。それはともかく、名取高校と似た事例が宮城県内で他にもあるのだ。県としては、県立にするためには単独町だけでなく周辺の村ともよく協議調整して体制整備と施設整備を求めたのだろうか。 次に、『宮城県教育百年史 第三巻 昭和後期編』(昭和50年3月、企画編集宮城県教育委員会)から、関連する記載を探してみたので、下に掲げる(おだずま要約と下線)。------------【組合立高校や県立移管に関して】 昭和23年3月31日告示第111号によって、4月1日県立高等学校を36校設置することが定められた。36校は、男子主の普通科9、女子主の普通科11、農業科10、水産科2、工業科3、家政科1である。このほか、市町村立、組合立の高校としては、仙台高校(以下「高校」を略)、仙台工業、仙台商業、仙台図南、塩竈、塩竈女子、石巻商業、石巻家政、大河原、名取、志津川、岩出山、岩ヶ崎、飯野川、鹿又女子、村田、津谷農林などであった。これらの高校のうち、昭和24年度中に県立に移管されたのは、志津川、岩出山、名取、飯野川、岩ヶ崎、津谷農林、大河原の各高校である。【定時制分校に関して】 働きながら学べることから入学者が多かったが、問題を抱えていたのは分校。数が多すぎて、不振の分校もあった。そこで、昭和26年2月「高等学校(定時制課程)分校設置基準」が定められた。 第2 分校設置は市町村又は一部事務組合の地域とする 第3 一分校の6粁以内に既設分校ある場合は、之を廃止して組合立の独立本校を設置することができる。又、新たに分校を設置しようとするときは、隣接町村の修業希望に応じて組合立の独立本校を設置することができる 一方で分校振興のため、分校所在の町村と密接に連絡を取り充実に努めた結果、昭和27年4月には、田尻、米谷、前谷地、矢本が独立して町村立の定時制高校に昇格したのである。------------5 各事例について●岩ヶ崎高校(学校HPから) 昭和16年 岩ヶ崎町立宮城県岩ヶ崎実科高等女学校 →昭和18年 岩ヶ崎町立宮城県岩ヶ崎高等女学校 →昭和23年 岩ヶ崎町立宮城県岩ヶ崎高等学校(男女共学、募集定員200) →昭和25年2月 組合立に移管(1町6村=岩ヶ崎、文字、栗駒、尾松、鳥矢崎、鶯沢、津久毛) →昭和26年4月 県立移管●岩出山高校 『岩出山町史 通史編・下巻』(平成23年11月、発行大崎市、編集岩出山町史編さん委員会)から引用する。一部おだずまで要約と下線。------------ 町財政の厳しい中で、新たに中学校の建設も必要となる上に、高等女学校は廃止してはどうかとの声も出てきた。しかし、教育関係の有識者によって岩出山高等女学校を存続させようとする動きも現れた。町立の高等女学校ではあるが、近隣の玉造郡2町6村から生徒が通学していることを踏まえて、廃止の危機を乗り越えるには、県立に移管することで存続させようとの運動が展開された。昭和21年11月、郡内町村会で県立移管の請願が決定された。 しかし、県立に移管させるためには「新制高等学校実施の手引き」に定められた基準を満たすことが条件であり、校舎の増築が必須の課題であった。昭和22年に町議会や建設促進委員会の活動、それに卒業生のバザーによる募金集めなどを経て、岩出山町議会では新校舎建築を決議し、工事費を予算化。昭和23年2月玉造郡内町村会で、新制高校が(小学校中学校より一年遅れの)昭和23年4月より施行されるまでには県立移管が難しい状況を踏まえ、とりあえず玉造郡内町村組合立としてスタートさせ、費用も分担することなどを決定した。------------ 昭和4年 岩出山町立宮城県岩出山実科高等女学校 →昭和18年 岩出山町立宮城県岩出山高等女学校 →昭和23年4月 組合立に移管(玉造郡2町6村) 「玉造郡二町六ヵ村組合立宮城県岩出山高等学校」となる。組合構成町村は、岩出山町、鳴子町、東大崎村、西大崎村、一栗村、真山村、川渡村、鬼首村。必要経費は岩出山町が50%を、郡内他町村が50%を負担することとした。川渡(中学校)、真山(小学校)に分校設置。(上掲町史から) →昭和24年4月 県立移管●飯野川高校 『河北町誌 下巻』(昭和54年8月、著者河北町、編者河北町誌編纂委員会)には各学校の年表が掲げられている。飯野川高校の部分から一部を引用する。おだずま要約と下線。------------ 昭和2年 飯野川高等女学校(本科57名入学) 昭和4年 補習科設置 昭和23年 新制高等学校として認可(組合立)、管理者として飯野川町長五嶋三右衛門引継を施行。4月宮城県飯野川高等学校開校。定時制を設置、大川、中津山、二俣に定時制分校。 昭和25年3月 校舎移転(飯野川旧屋敷元桃生郡役所跡)、4月県立移管公布。 昭和26年 定時制二俣分校廃止、定時制十三浜・桃生分校認可 昭和34年 定時制桃生分校と中津山分校を廃止し桃生町分校設置 昭和40年 大川分校廃校 昭和41年 桃生町分校廃校------------ 飯野川高校の学校組合構成町村はわからなかったが、分校のあった桃生、中津山、二俣、大川、(本吉郡)十三浜などが参画していたのではないか。 なお、平成22年閉校し、校舎は現在、石巻北高校飯野川校である。●河南高校(現石巻北高校) 『河南町史 下巻』(平成17年、編集河南町史編纂委員会、発行宮城県河南町)から、経緯をまとめてみた(おだずま要約、下線)。------------ ・大正13年12月 宮城県鹿又実科高等女学校として認可。 本科2年、補習科1年、専科1年。定員120名。 鹿又村素封家高橋三郎が女子教育の重大さを認め、資産を寄附創設。 ・大正14年4月 鹿又小学校の一部を使用し開校 ・昭和18年 高等女学校令改正により宮城県鹿又高等女学校となる。本科2年、専攻科1年。定員300名。 ・昭和21年4月 学制改革で修業年限3カ年となる ・昭和23年4月 学校教育法制定により宮城県鹿又高等学校となる。定時制併置 ・昭和41年 校名変更により、宮城県河南高等学校 (前谷地高校を廃止。県立農事講習所が閉所)1966年(昭和41)までは、鹿又高等学校、前谷地高等学校、農事講習所の3つの高等教育機関が存在した。これらを統合して県立の高等学校を創立しようとする動きが以前からあり、同年4月1日に「宮城県河南高等学校」としてスタートし、1968年(昭43)4月には県立移管が実現したのである。------------ 女学校時代と戦後の鹿又高校は、鹿又村立だったと思われる(鹿又村など5村合併による河南町の成立は昭和30年)。 次に、『河南町誌 上』(昭和42年3月 編集河南町誌編纂委員会、発行河南町)を見てみた。河南高校の創立と県立移管に関して、以下に要点を記す。------------・昭和34年 町議会で校地の購入を可決・昭和35年 PTA校地獲得実行委員会開催・昭和37年 宮城県・鹿又高等学校校地造成促進委員会発足・同 鹿又駅向かいの耕地24枚(8000坪)買収を町議会で採決・昭和39年 町議会で本校新校舎建築予算議決・昭和40年 校舎落成記念式(旧鹿又高校分)・昭和41年 第二期工事竣工(農事講習所分)・昭和41年から町立河南高等学校発足------------ 昭和41年に3施設統合により(形式は鹿又高校の改名で)宮城県河南高等学校が河南町立としてスタートし、43年に県立に移管した。(上記要点抜き書きでは省略したが)上記の『河南町誌 上』には、町側の県への陳情や要望の経緯と、施設を町が整備することを条件に県立に移管する協議が進められた関係資料が収載されている。 なお、平成22年に石巻北高等学校となる。飯野川高校を併合した形である。●米谷工業高校 米谷工業高校は、学校組合の事例として取り上げる。同校の場合は組合立の期間が長い。上記の『宮城県教育百年史 第三巻 昭和後期編』の記載のように、県の基準に沿って、昭和27年に分校から本校に昇格する際に組合立としたもののようだ。 ここで、『東和町史』(昭和62年3月、監修佐々久、編纂東和町史編纂委員会)から関係する部分を読んでみた。以下に(おだずま要約)。------------ 宮城県登米高等学校定時制米谷分校として昭和23年7月、米谷公民館を教場として発足。まもなく米谷中学校を借りての夜間の学習であったが、土日は昼間通学もできた。次第に米谷地区の近隣の地域からも入学者が増加。昭和26年、米谷中と浅水中が合併して米谷中校舎が全面的に空いたので夜間から民間教授への切り替えができるようになった。そこで、同年4月から、昼間週3日授業になる。 独立の気運はこのころから次第に高まり、隣接の米川、浅水、錦織と4ヵ町村による組合立の議がまとまり、県に設置認可申請をし、昭和27年4月米谷高等学校として独立設立が認可された。 定時制課程の独立校となったが、課題は教育課程の検討。地域の農林業に就くものは30%程度に過ぎず、商工業や家庭科が望まれた。また、独立校舎建設の課題は、昭和29年米谷町議会が独立校舎建設を議決、昭和30年7月落成。教育課程も普通科と家政科とした。独立校舎を契機に全日制課程の併置と県立移管の気運もまた高まってきた。 昭和32年5月東和町が発足し、東和・中田両町の組合立高校となったが、議会、組合議会、組合教育委員会等が一体となり県立移管と工業課程(全日制)併置の陳情請願を行った。昭和33年4月、工業課程(機械科)が認可され、生徒は、週6日(1から3年生)、週1から2日(4年生)となり実質的に全日制に。昭和36年4月1日、宮城県米谷工業高等学校が設立認可(機械科、電気科、自動車科)。翌37年4月1日県立移管がなる。------------以上から整理すると、次の通りだ。 昭和23年 宮城県登米高等学校定時制課程米谷分校(米谷町立であろう) →昭和27年 組合立(米谷町、米川村、浅水村、錦織村の4町村)に移管、組合立宮城県米谷高等学校 →昭和36年 組合立宮城県米谷工業高等学校 →昭和37年 県立移管 (平成27年閉校)■関連する過去の記事(組合立学校) 東北の組合立学校(08年6月19日) 明星中は公募による命名だった(10年6月21日)=明星中学校は組合立だった■関連する過去の記事(岩沼と名取の関係) 合併と広域地名(名取市、柴田町、本吉町、宮城町など)(2024年03月19日) 地名(市町村名)の付け方の類型論(2024年03月05日)
2024.03.21
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宮城県北の不自然な東北本線のルートについて。前回(宮城県北の東北本線ルート(2011年8月20日))は、小牛田や田尻など、敷設が実現した地域の町史を読んでみた。今回は、外された地域の公的文献を見てみよう。------------涌谷町 涌谷町史下巻(昭和43)から 日本鉄道株式会社は(中略)、遠田郡では北浦村の鎌田常之助(1万円)、馬場谷地村砂金三十郎(5千円)、横山萬五郎(5千円)の3人が名を連ねた。(砂金三十郎は涌谷伊達家の御用商人の家の次男、質屋小間物度量衡火薬商を営業。横山萬五郎は江合川の河川交通盛んな頃にひたら船の船頭、維新後、三井組石巻出張所の東京引き上げに際し手形の残処理で産を成したという。〔この部分おだずまジャーナル要約〕) (中略)本線は鹿島台から涌谷を通る予定であった。ところが陸蒸気が走るとその火の粉で火災になるとか、振動で線路近くの田圃に植えた苗は活着しないとかの流言が飛んで、涌谷駅の開設を拒み、鉄道を小牛田に追いやった。小牛田でも停車場を街には作らせず、南端の田圃中の元停車場の地に建てたのであった。いわゆる鉄道反対説が堂々と罷り通って涌谷は本線筋からはずれたのであると伝える。これは各地でよく語られる話であるが、真偽は不明であり、もし事実とすれば誠に遺憾事で、爾後の涌谷町の発展に大きな影響を与えたといえる。 鉄道の開通によって陸運は飛躍的な発展をしていった。従来振るわなかった塩竈の市況はとみに活発化し、小牛田新市街が生まれていった。三本木町 三本木町史上巻(昭和41年)から 東北本線の通過している宮城県内の地点を見るに、仙台以南の地と一関以北の地とは、大体国道すなわち奥州街道に沿うているが、仙台から北方一関に至るまでの間は、鉄道は国道の東方を走っている。従って、かつて奥州街道に沿うていた七北田、富谷、吉岡、三本木、古川、高清水、築館、金成等の旧宿駅であった町々は、遠く鉄道から離れ、一方比較的人口の疎らな地方を縦走している。 これは色々と敷設に当たっての理由もあったことであろうが、一般の鉄道敷設条件の例外とも見られる。その理由として考えられることは、鉄道を敷設する地方は可成り平地であるということである。従って丘陵地帯である七北田、三本木とか築館、金成などの地を避けたものと見られる。また、鉄道の通過することによって従来からの徒歩の往来客が減少するとか、桑の栽培とか稲作に被害などの関係から地元民の要望、反対もあったので、現在の場所を通過することになったとも言われている。 この鉄道の便から遠ざかった三本木は、汽車に乗るためには当時小牛田とか松島の駅まで出ねばならなかったのである。かくて旧道に沿った各宿場町は、衰微の一途を辿った。特に川の運輸の便を失った三本木などは、その代表的なものであった。古川市 古川市史第4巻(平成19年)から なぜ、東北線は古川を通らなかったのか。東北線から外れた理由は何だったのだろうか。地元民の反対の声が強かったためとも言われるが定かではない。(中略)各地の鉄道反対の声(中略)の多くは、鉄道の便利であることは認めつつも、自分のところだけはいやだといったもので、口から口に伝えられるに過ぎないものが大部分であった。 東北線のルート決定に当たっては、明治13年(1880年)12月開拓使傭ジョセフ・クロフォードが松本荘一郎とともに東京-青森間を測量したが、それによると、一関-仙台間は現在の路線と同じである。このことから、古川は当初から外れていたとも推定されるが、これより古い図面には古川を通る路線が書き込まれたものもあったとされ、詳細は不明である。 ルート決定の基準として、(1)東京と野蒜(後に塩竈)、八戸の各港を結び、更には青森港に達する、(2)街道沿いの人口の多い都市(東北地方の内陸部)を結ぶ、(3)急勾配はやむを得ないが、トンネルはなるべく避ける、の3点があった。路線が古川などの国道から離れ、東側を通ることになったのは、やはり国道筋の反対と仙台-塩竈間を本線としたためかも知れない。(この後、本線との連結が課題となる。明治27年石巻鉄道株式会社の設立申請があり、石巻-小牛田-古川-鍛冶屋沢(川渡)の開通をめざした。明治30年に測量、31年に免許下付もされたが、結局実現できず。後の陸羽東線まで待つことに。〔この部分おだずまジャーナル要約〕)------------以上がルートから外れた地域の「正史」であり、現代から振り返って、やはり残念だったという色がどうしても濃い。涌谷が原案ではルートだったのに反対論で変更した、というのは、真相ではなく、やっぱり強がりから来る言い訳なのだろう。東北線が走った後には各地で横断線の熱意が上がっていることから、よく理由とされる鉄道反対論も、当時にどれだけ人々が信じていたのかと考えると、相当疑わしいと思う。ただ、実際に鉄道が走る前の段階では、見たこともない黒船に疑心暗鬼だったろうことは、考えられる。ある程度は、反対論があって、多少なりともルート選定に影響したのかも知れない。もし古川が商工界挙って出資も増強し政治運動などすれば小牛田ルートから変更されたかも知れぬ、という消極的な意味での影響だが。それにしても、古川、築館が東北本線で結ばれている県土を想像してみる。例えば、泉区や富谷の大型団地も今ほどでなかったかも知れない、などと。■関連する過去の記事(東北本線ルートなど) 宮城県北の東北本線ルート(2011年8月20日) 仙台駅の予定地(その7)(10年9月6日) 塩竈市内の仙石線と塩釜線の歴史(10年5月11日) 仙台駅の位置について(その6)(09年10月21日) 仙台駅の位置について(再び)(09年3月10日) 仙台駅の位置について(その4)(07年8月16日) 大河原の尾形安平 東北本線実現に尽力(07年1月5日) 仙台駅の位置について・続々(06年7月15日) 仙台駅のはなし・続(06年7月11日) 仙台駅のはなし(06年7月10日) 宮城県内の東北本線のルートの話(05年11月27日)■関連する過去の記事(県北部の駅) 我らが準秘境駅 梅ヶ沢駅(2011年8月14日) 小牛田駅前 20時(08年5月10日) エリアスタディ鹿島台駅東口(08年5月5日)
2011.08.24
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宮城県の県南部一帯を仙南と呼ぶことが多い。例えば県の保健所は仙南保健所(大河原町)だし、消防などを扱う広域行政体も仙南地区広域行政事務組合だ。他にも、仙南信用金庫(白石市)、JAみやぎ仙南(柴田町)、仙南病院(角田市)など。各種団体や大会のブロックの呼称としても、仙南の語は定着していると言えるだろう。これに対して、県北部をさす仙北は、使われてはいるものの、仙南ほどピッタリはしていないように思われる。仙南の場合は、広域行政に用いられるだけあって、指し示すエリアもおおよそ共通認識として理解されている。大河原、柴田(船岡、槻木)、白石、角田、などの伝統ある町が割拠していて都市名で一帯を呼ぶことが遠慮されていることも、仙南の名が使われやすい環境なのかも知れない。仙北の場合、そもそもどこからどこまでを想定しているのか、県民に共通認識はないのではなかろうか。私は、栗原市や登米市を思い浮かべる。石巻や気仙沼ははずれるような気がするし、黒川や大崎は、含まれるような含まれないような、微妙な雰囲気だ。もともと旧仙台領を城下からみて南北に区分したのならば、黒川や大崎も含めて現在の県土の中部、北部、北東沿岸部をもカバーして良いことになるだろう。しかし、それでは広すぎて、現実に呼称として用いる実益もない。その上、大崎、石巻、気仙沼(本吉)などは広域行政単位としても定着している呼び方なので、消去法的に、栗原や登米あたりが、特に仙北と呼ばれるエリアだろうな、というのが私の感覚だ。固有名詞として用いられている例としては、仙北信用組合(栗原市)、仙北郷土タイムス(登米市)、仙北鉄道(現在の登米市と栗原市)がまず思い浮かぶ。或いは、逆にこうした用例から私の地域イメージが形成されているのかも知れない。企業の支社や営業所なら、県北部エリア全体をカバーする拠点を仙北営業所などと呼ぶことが多いように思う。仙南、仙台、仙北の3つのフィールドに分割し、あるいは石巻などを加えることもあるかも知れないが、こうすると仙南オフィスは名取や岩沼あたり、仙北オフィスは大崎市あたりが好適なのだうか。行政のエリア区分は関係なく、交通事情や物流特性などによるのだろう。ところで、だ。仙北。読みは、「せんぽく」か「せんぼく」か。盛岡の仙北町(駅や小中学校がある)は、「せんぼ(bo)く」だ。秋田の仙北市も、「せんぼ(bo)く」だ。宮城の仙北はどうか。ホームページURL表記などから確認していくと、■仙北信用組合(栗原市) せんぽ(po)く■仙北郷土タイムス(登米市) せんぽ(po)く■有限会社サポート仙北(大郷町) せんぽ(po)く■株式会社仙北建設(大崎市) せんぽ(po)く■仙北自動車学校(大崎市) せんぽ(po)く(参考までに秋田県仙北市の仙北自動車学校は、せんぼ(bo)く)■仙北薬品株式会社(仙台市泉区) せんぽ(po)く以上の通りで、宮城はすべて「せんぽ(po)く」のようだ。宮城県人たちはどう発音しているだろうか。「あんだ、せんぽくの出身だすぺ」てな感じか。やっぱり po が主流か。私自身は、使うならば「せんほ(ho)く」と発音するんじゃないかと思うが、いややはり po か。わからない。意識などしていない。
2010.07.16
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地域名としての「仙北」が、秋田ではセンボクと読まれ、仙台・宮城ではセンポクが主流であることは、以前記した。■関連する過去の記事 仙北は「せんぼく」か「せんぽく」か(2010年07月16日)また、「南北」はナンボクと読むのが日本語の標準のようだ。もっとも、これについては、仙台市民や宮城県人がどう読んでいるか私も自信がない。でも、ナンポクと読む人は確実に居るような気がする。(たとえば歴史上の南北朝時代について、私自身として、ナンポクチョウと半濁点で読みたくなります。念のため、わが子の小学生向け社会科資料集を借りて確認したら、振り仮名が「なんぼくちょう」となっていました。もちろん宮城県教委作成ではなく全国ワイドの出版物ですから。)■関連する過去の記事 南北線は Namboku Line(2012年11月22日)と言うわけで、あえて一般定式化すれば、次のようだろうか。ことば標準的よみ方仙台・宮城の人 「仙北」せんぼくせんぽく「南北」なんぼくなんぽく(?)さて、それでは「県北」はどうだろう。先日のこと栗原市内で築館から若柳まで暫定的に供用されている自動車専用道の「みやぎ県北幹線道路」を走ってきた。路上の青い案内標識には Kenpoku と明記されていた。bではなくpだった。間違いなく。これで、少なくとも宮城県土木部のオフィシャルは半濁音の「けんぽく」だとわかる。全国的にはどうだろうか。身近なところでは岩手県に「県北バス」がある。公式サイトのURLがkenpokuの語を用いている。半濁音のケンポクだ。長崎県の行政組織に県北振興局というのがあり、urlはkenhokuを用いている。しかし、福島の県北地方振興局はkenpokuになっている。茨城県にはやはり県の行政組織で県北振興室や県北県民センター(常陸太田市)があるようで、urlではkenhokuを用いているが、県北ジオパークをkenpokuと読ませているようだし、また、県北地区就職支援センターは「ジョブカフェけんぽく」と愛称を付けているなど、県民感覚では清音と半濁音がいずれも使われているのだろうかと察する。ワープロの辞書では、kenpokuとすると手紙の脇付の意味の「研北」が出るが、「県北」はkenhokuで入力しないと出てこない。(ちなみにkenbokuもダメ。)こんなことから仮説としては、全国的には「けんほく」だが、東北や茨城では半濁音の「けんぽく」が主流あるいは許容されるというところか。
2013.02.06
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奥羽街道は三戸から五戸、三本木、七戸を経て野辺地に向かう。1891年(明治24)9月に盛岡青森間を一気に開業させた日本鉄道は、南部支藩の城下町で青森県東部最大都市であった八戸に近づいたため、また、地形的に建設しやすいルートを選択したこともあって、尻内(現八戸)、古間木(現三沢)経由で千曳、野辺地へと向かった。三戸ヨリ七戸ヲ経テ千曳ニ至ル鉄道として1922年(大正11)年4月公布の改正鉄道敷設法別表で予定線に編入されたが、実現の兆しはなかった。1922年9月5日に十和田鉄道(後十和田観光電鉄)が開業したこともあって、三戸郡下の中心地五戸と東北本線を結ぶ鉄道建設の気運が高まった。地元の有力者ら10人を発起人に、尻内-五戸間地方鉄道敷設申請は、1925年4月に免許となり、26年(大正15)2月に五戸電気鉄道が設立された。当初は倉石村大橋付近に発電所を建設して五戸町に電力供給を目論み、五戸電気鉄道は十和田湖を経て秋田県に至るという遠大な目標も掲げていた。しかし資金不足から動力は蒸気、内燃に変更となり、1929年(昭和4)8月に尻内-上七崎仮駅間6.2kmが開業した。志戸岸延伸は同年10月、五戸まで12.3kmの全通は翌1930年4月であった。全通はしたものの金融恐慌に発端する不況や凶作で営業成績は伸び悩んだ。1936年(昭和11)5月には電気の文字が消えて五戸鉄道に改称。宣治統合では公営3者、民間3者のバス事業を買収し、1945年1月に南部鉄道に社名を変更した。五戸鉄道時代の1941(昭和16)年度に30.2万人、1946(昭和21)年度に71.2万人、47年度83.6万人を記録。石炭の値段が高騰し非電化私鉄の多くが電化されたこの頃、南部鉄道も1949年に電化を計画したが、数年の違いで燃料事情は好転し実施は見送られ、車両の大型化と気動車運行再開で対応した。昭和30年代前半は60万人台、後半は70万人台の旅客を輸送。昭和40年度は87.2万人を記録して戦後混乱期を上回った。会社は八戸を中心に青森県南部・岩手県北部に路線網を有するバス事業が基幹となり、バス収入は鉄道の4倍だった。なお昭和23年1月には、尻内-八戸中央-種差間の17.5kmの免許を得ている(昭和35年に八戸中央-種差間5.9km失効)。鉄道の幕を引いたのは、輸送人員の低下でもモータリゼーションでもなく、1968年(昭和43)5月16日9時49分発生の十勝沖地震であった。全線運休。37か所で道床が損壊、レールと枕木が宙づりとなった。復旧費用は2億円近くと見込まれ当時の鉄道収入の4年分を要することから、結局1969年3月27日許可、4月1日実施により廃止となった。会社は1970年5月に南部バスに改称。開業時の尻内は三戸郡上長苗村という寒村に位置していたが、南部鉄道廃止後の1971年4月に八戸と駅名を改称された。社線尻内駅跡は、2002年12月開業の東北新幹線八戸駅となり、旧尻内駅を離れた線路跡は区画整理によって住宅地に姿を変えてしまった。【停車場・停留場】尻内-張田-正法寺-七崎(ならさき)-豊崎-志戸岸-県立種鶏場前(地蔵岱から改称)-五戸【隧道】県立種鶏場前停留場付近に地蔵岱トンネル253mがあった。■参考文献:寺田裕一『私鉄の廃線跡を歩くI北海道・東北編 この50年間に廃止された全私鉄の現役時代と廃線跡を訪ねて』JTBパブリッシング(キャンブックス) 2007年
2013.03.08
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前回に続く探訪記です。現在の道路は、仙台松島道路(三陸道)の東側から直角に折れて三陸道をくぐって西側に出て、ふたたび北東(松島方)を向いて進んでいく。クランクのような形になっているが、旧線ルートはこのクランクを挟んだ前後の区間では、道路築堤の下に消えたと思われる。(写真1)仙台松島道路(左側、奥が石巻方面)をくぐる手前。(写真2)西側に出て、数十メートルは高速道側道のように続くが(新設道路だろう)、その先は旧線跡で両側が石積みの擁壁になっている。いい感じのルートだ。(写真3)振り返ってみた。鉄道を土砂から守るために、しっかり石垣を作った昔の人たちの思いが伝わってくるようだ。手前が松島方、奥が利府方。画の奥に仙台松島道路の法面が見える。(写真4)石垣に守られた林間のルートから、開けたところに出る。利府街道が見えてくる。旧線跡は県道8号(利府街道)の葉山団地南入口の交差点(コンビニのあるところ)のすぐ傍に出て、さらに利府街道と並走するように伸びていく。(写真5)交差点東側(コンビニと向い合せ)にある染殿神社。往時はこの神社の下、県道との間を山線の機関車が走ったのだろう。(写真6)染殿神社の下から、松島方を望む。画の左は県道8号(利府街道)で、出っ張っているのはバス停。右手から奥にかけて仙台松島道路(三陸道)がみえる。今回の探訪マップと撮影地点(黄色矢印の先端)です。なお、撮影方角は矢印と関係ありません。文中に記しています。■シリーズの一覧・利府線(山線)の跡を訪ねて(その1)(2024年05月08日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その2)(2024年05月10日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その3)(2024年05月10日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その4)(2024年05月11日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その5)(2024年05月12日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その6)(2024年05月15日)・今回 利府線(山線)の跡を訪ねて(その7)(2024年05月17日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その8)旧赤沼信号場(2024年05月18日)・利府線(山線)の跡を訪ねて(その9)用地界標(2024年05月26日)・東北本線旧線(山線)の跡を訪ねて(その10)松島町桜渡戸、初原(2024年06月01日)・東北本線旧線(山線)の跡を訪ねて(その11)松島町初原、旧松島駅(2024年06月02日)・東北本線旧線(山線)の跡を訪ねて(その12)愛宕駅、高城川架橋(2024年06月03日)■関連する過去の記事(東北本線のルートについて。なお記事リスト鉄道敷設史をご覧ください) 仙台以北の東北本線・仙石線ルートと「松島電車」(2016年2月11日) 宮城県北部の東北本線ルート(何度目でしょうか)(2012年1月1日) やっぱり当初は角田か 東北本線ルート(2011年9月15日) 東北本線ルート 白石か角田か(2011年9月5日) 宮城県北の東北本線ルート(再び)(2011年8月24日) 宮城県北の東北本線ルート(2011年8月20日) 塩竈市内の仙石線と塩釜線の歴史(10年5月11日) 大河原の尾形安平 東北本線実現に尽力(07年1月5日) 宮城県内の東北本線のルートの話(05年11月27日)
2024.05.17
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まずは多賀城碑の簡潔明瞭な解説。多賀城市の観光案内(2009.9)から。------------(p.4)高さ196cm最大幅92cmの古碑は、江戸時代初期に土中から発見され、仙台藩が歌枕の「壺碑」として名所にしたことから脚光を浴びる。碑文には平城京や各国境からの距離と、多賀城の創建修造に関する記事など141文字が刻まれていますが、歌枕「壺碑」との関連性がないことから、明治以降に真贋論争が起こる。しかし、近年、宮城県多賀城跡調査研究所の調査により奈良時代に建立された真碑であることが確認され、平成10年に国の重要文化財に指定された。碑文は史実であり、名実ともに日本三古碑(那須国造碑、多胡碑)となった。(p.7壺の碑の説明)「むつのくの おくゆかしくそ おもほゆる つほのいしふみ そとのはまかせ」山家集・西行法師多賀城碑が奈良時代に建立された真碑であることは確認されたが、「つぼ」については不明のままで、「いしぶみ」を「文」の意味で引用した歌も多く歌われています。(p.7コラム)歌枕は古代のみならず近代詩にも生かされている。明治期文部省に作られた小学唱歌、中学唱歌には、土井晩翠作詞、瀧廉太郎作曲で知られる「荒城の月」などとともに、坂正臣作詞、栗本清夫作曲と考えられる「壺の碑」の歌が収められている。作詞の坂正臣は華族女学校(現在の学習院女子部)教授を勤めた人。「海は田となり 田は海と うつりかはりし 世の中を ひとり静かに みちのくの つぼのいしぶみ 苔深し」(p.9コラム)壺の碑の北西脇にある「つほのいしふみ」道標は、芭蕉が訪れた40年後に建てられたもので「つほのいしふみ 是より二丁四十間(約290m)すくみちあり」の道案内と、「和州南都(奈良県)古梅園」との寄進者の名が刻まれている。道標だからもとは別の場所にあった(旧街道追分の石あたりと思われる)のだが、この碑には逸話がある。「古梅園」は今も奈良にある墨屋で、そこには二つに割れ、全く同じ文面の道標が残されている。一度送られた道標が多賀城に着いたときには割れていて、再び同じものを作って運んだという。270年前のことだから、その熱意に心を動かされる。------------さて、多賀城碑の真贋論争は決着したが、「つぼ」の方はどうなのだろうか。また、青森にあるという「壺(坪)の碑」との関係はどうなのだろうか。そもそも仙台藩が掘り起こして、これぞ本物の「壺のいしぶみ」です、と宣伝したのだから、それまで、壺の碑についてある程度の共通理解があって、なおかつ、それがどこにあるか今ではわからない、という点も認識が共有されていたはずだ。まず、古来人々に東北の果てにあるものと認識された壺の碑の由来だ。歌枕となった経緯は不明だが、文治年間の藤原顕昭「袖中抄」に、次のような趣旨が説明されている。東の果てに「つぼのいしぶみ」があり、坂上田村麻呂が弓のはず(両端の弦をかけるところ)で彫った日本中央の文字があり、その場所を「つぼ」という、とのことだ。それでは、青森の壺(坪)の碑なる日本中央の碑(南部碑)について。青森県東北町の坪と呼ばれる集落のそばに千曳神社がある。昭和24年、川村種吉氏によって千曳集落と石文(いしぶみ)集落の間の赤川支流の湿地帯から巨石が偶然発見され、これをひっくり返してみると、日本中央の文字が発見されたというものである。千曳神社には、千人の人が石碑をひっぱて埋めたとの伝説(千曳の由来)が残っている。明治初年の天皇巡幸の際も政府の名で付近を発掘したという。現在、日本中央の碑保存館に所蔵されている(日本中央の碑歴史公園)が、本物かどうかはわからない。■関連する過去の記事 多賀城 壺の碑(08年9月15日) 船形山神社の仏像と多賀城(07年8月30日) 加瀬沼から多賀城六月坂地区へ(07年4月16日) 多賀城跡の風景(07年2月19日) 多賀城の基礎知識(後編)(06年8月8日) 多賀城の基礎知識(前編)(06年8月7日) 岩切の寺社をめぐる(06年1月3日) 平泉への道(06年1月11日) 芭蕉が感激した「おくのほそ道」岩切・多賀城(06年1月25日) 古代東北の理解(06年5月31日)
2010.11.01
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福島の復興と再生のため、4度目の挑戦で今年5月にエベレスト登頂を成功させた福島出身のタレント「なすび」が、内堀知事を訪問したという報道があった。このとき、なすびは、ふくしまデスティネーションキャンペーンの「県北応援団長」として法被を身につけていた。その法被には、河北新報記事の写真によると、「けんぽく」と表記されていた。やっぱりね。■関連する過去の記事 地下鉄東西線乗りました(2015年12月6日) 福島も「けんぽ(po)く」です(2015年11月24日) 仙北・県北・南北の読み方 再論(2015年5月16日) 宮城県民は「県北」をやはりケンポクと読む(2013年2月6日) 南北線は Namboku Line(2012年11月22日) 宮城はやはり「せんぽく」(2011年2月8日) 仙北は「せんぼく」か「せんぽく」か(2010年7月16日)
2016.06.17
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以前に苗字と名字の違いに関心を持って整理したが、根本的には姓と苗字の相違の方が深い意味を持つようだ。日本の政治・社会制度のみならず、家産制度の歴史とも深く関係する。以下は、坂田聡『苗字と名前の歴史』吉川弘文館 2006年 による。結構面白いことが書かれている。なお、「名字」の語はなく「苗字」だけが登場する。1 姓 そもそも姓(かばね)は、古代の氏(うじ)が氏名(うじな)のもとにつけた称号で、政治的社会的位置関係を示す。朝廷から氏名と姓を与えられ、一族が世襲。姓の例は臣(おみ)、連(むらじ)、君(きみ)、直(あたい)など。具体例で、蘇我大臣馬子は、蘇我が氏の名、大臣が姓。 しかし律令の官位制度導入で平安時代には姓(かばね)も形骸化。姓もセイと読まれるようになり、姓が、氏の名と同義化する。 国司として地方に下向した下級貴族が現地に定着することで、当地の氏の構成員(血族)がすべて、例えば藤原を名乗るようになる。このように、氏の構成員に広く共有され、承継された。 そして、貴族の構成員ではない庶民も、荘園・公領の範囲で、庶民レベルで独自の氏を、あるいは擬似的に貴族の姓をまねて名乗っていたと思われる。2 苗字 苗字は、姓が一族の名であるのに対して、家の名である。現在日本人が名乗っているのは、家の名だから、苗字ということになる。 苗字は平安中期以降戸籍が作成されなくなったことで、氏の名(庶民も擬似的に藤原などの姓を名乗っていた)を失ったため、地名や職名などを通称として用い始めた。例えば、鎌倉武士の三浦や北条は家の名であって、氏(一族)の名ではないから、父子兄弟がそれぞれ異なる地名や官職名を称している。この時代は分割相続が原則だった。 南北朝内乱期以降、長男単独相続に移行したことで世代を超えて家産を承継する「家」組織が成立し、その呼称として確立し世襲されることとなる。一家に一つが本来の姿だから、同族でも別苗字が原則。現実には分家は同じ苗字を名乗る例も多いが、家名としては本質的に別もの。3 姓と苗字 現在、法制上は「氏」とされ、家の名前として認識されている(氏名が個人の名称だとか夫婦別姓の議論はあるが)。しかし由来をたどれば姓と苗字が現在にまで混在している。 両者の違い(見分け方)を具体的に何点か。(1)「の」が入るのが姓、入らないのが苗字 源頼朝は、「みなもとのよりとも」と読むが、「の」を入れて読むのが姓。北条、足利、徳川、は苗字。秀吉の羽柴は苗字だが、豊臣は天皇から賜った姓で、「とよとみのひでよし」と読むべきとの説がある。 現在も、藤原、菅原、大江など、姓の系譜を引く名が残るが、「の」を入れて読まないのは、明治8年の苗字必称令に伴い、苗字として古代の姓を起用したからとされる。(2)下の名とのセット 姓は実名(じつみょう)とセットになる。実名はおめでたい漢字二文字訓読が基本。藤原道長、源頼朝など。例えば、徳川家光も公文書では、「源家光」である。正式な儀式では、姓と実名を用いる風習は江戸時代にも残っていた。そもそも松平の苗字だった家康は源氏の新田義貞の一族得川氏にみずからの系譜を結びつけて源氏を名乗ることで、征夷大将軍となることができた。 これに対し、苗字は字(あざな)と呼ばれる通称とセットになる。例えば、足利尊氏の場合、足利は苗字、尊氏は実名(じつみょう)だが、本来的には字(あざな)を用いて足利又太郎と呼んでいたと思われる。やがて姓と苗字の混在化で、苗字+実名で表記されるようになる。4 江戸時代の庶民は苗字を持っていたか 明治になって寺の坊さんに適当に苗字をつけてもらった、と学んだ。しかし庶民も、武士の前では使えなかったが、村の中では苗字を用いていたことが明らかになっている。それをそのまま維新で届け出たのだ。5 名の呼び方(本名忌避の習俗) 例えば義経は実名(じつみょう)だが、それを口にすることはめったになく、「九郎どの」「御曹司」と一般に呼んでいたと思われる。 古来日本には、相手の名を実名(じつみょう)、あるいは本名(実名に限定せず広く本当の名前の意味)で呼ぶことを非礼とする習俗があった。このタブーの根底には本名が他人の口にのぼると支配されてしまうという感覚があり、文化人類学的にも世界各地にあるという。 ■関連する過去の日記 ○苗字と名字の違い(06年5月22日)
2006.08.23
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岩手と製鉄は深い縁がある。近代の地域開発における鉄の位置づけも、広い意義があった。仙人製鉄所は、我が国の近代製鉄をリードするものだった。和賀郡岩崎村及び湯田村に介在する仙人山鉄山は、日清戦争の頃に、実業界の異才雨宮敬次郎が所有するところとなった。雨宮は、木炭銑鉄のため、原野を開拓し、事務所や飯場を建設。木炭高炉が完成して操業を開始したのは、1900年(明治33年)11月である。地形を有効に利用し、捲揚機械を使わずに運搬を可能にした。1903年には内国勧業博覧会で2等賞、翌年にはセントルイス万国博覧会で2等賞、陸海軍に納入を始めている。官営八幡製鉄所の火入れは1901年であり、技術が確立されたのは1904年以降であるから、仙人と釜石鉱山が、高炉部門の先駆的な役割を果たしたのである。1907年、仙人鉄山は資本金50万円の株式会社仙人製鉄所を改め、雨宮が社長となり、事業の拡張を図るた。一般交通の利便も考え、地元資本と協同して、和賀軌道株式会社を興し、黒沢尻と仙人の間に開通させた。また、仙人の鉄鉱石は、雲母鉄鉱が主体で、リン分の少ない良質の鉱石だが、採鉱の際に大部分が粉鉱となる問題があった。このため、野呂景義博士の指導を仰ぎ、粉鉱の集結技術を確立したが、これは日本の粉鉱処理の先駆けとして歴史的に評価されるべき事である。そもそも仙人鉄山が脚光を浴び始めたのは、1892年(明治25年)に、官営製鉄所の設立をめざして製鋼事業調査委員会が、当時の農商務省内に設けられた際に、釜石、仙人、赤谷、北海道砂鉄の4カ所が挙げられたことである。鉄鋼材の需要に応えて近代製鉄業の確立が求められていた。工部省による官営釜石鉄山の失敗の後、大島高任式の小型木炭高炉により田中長兵衛が1887年(明治20年)に釜石鉱山田中製鉄所を設立したのが、突破口となる。釜石は、大高炉と呼ばれた工部省時代の英国式25トン高炉の改造と復活を計画し、1894年火入れ。同時に、新設コークス炉(骸炭製造竈)で、夕張炭を用いて我が国最初のコークス高炉法を成功させる。田中長兵衛に次いで近代製鉄に情熱を傾けた実業家が、雨宮敬次郎だ。山梨県奥野田村に生まれ、生糸の仲買から身を起こし、東京市水道鉄管疑獄事件で必ずしも高く評価されていないが、甲武鉄道(今の中央線)を起こし、北海道炭礦鉄道を興して室蘭製鉄所の基礎を築くなど、鉄鋼界の恩人である。雨宮は、製鉄と鉄道が国の大本と考え、地域の産業開発を一貫させて考えていたのである。雨宮は、仙人製鉄所を中核に東北の経済発展を企図し、盛岡や東京の財界人や学者と協同で東北鉄山組合を結び、また、農商務大臣榎本武揚を会長に据えて大船渡開港鉄道を構想した。やがて、仙人で先駆的に切り開かれた粉鉱処理の技術は、近くの岩手製鉄に生き、新日鐵発足とともに移設された旧八幡製鉄所の東田第5高炉を機軸に、優れた釜石磁鉄粉鉱を用いて高品質のコークス銑をつくり、釜石製鉄所と並んで東北の産業経済を支えた。■参考 新日本製鐵(株)秘書部広報企画室編『鉄の文化史』東洋経済新報社、1984年 (飯田賢一「明治期東北地方鉄鋼業の再評価」、加世田譲一「反射炉と釜石鉄山の高炉」)
2010.02.20
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先日、河北新報に載っていて軽い衝撃を受けた。昨年末に開業の地下鉄東西線は、日本一の標高を誇る(?)八木山動物公園駅の手前で、竜の口(河北の表現)渓谷を橋で渡る際に一度外の空気を吸うのだが、この橋は「2階建て」で、下は地下鉄電車が走り、上には道路橋が整備されているのだ。工事費55億円の内訳は車道32億円、東西線23億円で、効率化のため一体化して架橋したとのこと。上下式の併用橋とは、知らなかった。記事が解説するのは、都市計画道路計画がたどっている経過だ。都市計画道路の川内旗立線は、川内亀岡町から、3つのトンネルと、この竜の口を渡る橋を経て、太白区ひより台、旗立に至る。しかし、仙台市では事業着手時期は未定とする。市中心部へのアクセス向上で期待された道路だが、東西線開通もあり地元の熱意は冷めつつある。その上、渓谷一帯はオオタカやハヤブサが生息するため自然保護団体の反対もある。八木山地区の地元では、現在はむしろ、青葉山と八木山を結ぶ散策路としての橋の活用を市に提案しているという。川内旗立線と聞くと、若い頃に見聞きした仙台の道路の環状と放射状にめぐらされたネットワークを想起する。南小泉川内線といっしょになって、国道4号や北環状線よりも内側の都心部をまわる道路だったと受け止めている。当時できていた「宮城の萩大通り」や、数年前に伸ばされた台原から安養寺・ガス局へ至る道路が、それを構成している。青葉山や八木山の方面では、川内旗立線が、昨年できた(かつて幻の橋とされた)ひより台大橋で格段に通行が向上したが、計画では、川内亀岡から動物公園までは工学部の下をトンネルで抜けることになっている。仙台市は2010年6月に、都市計画道路網の見直しによる「新たな幹線道路網(案)」を定めている。評価の結果として、継続候補と廃止候補に仕分けをしているものだが、市のサイトでマップと合わせて、具体的にどの路線が該当するのかが、その理由とともに示されているので、わかりやすい。この資料をもとに、当ジャーナルの主観による「主な」路線が、どう評価されてどう位置づけ(継続か廃止か)られているのか、拾ってみたい。【環状系の道路】● 川内旗立線 未整備の、工学部、ひより台-旗立の両区間とも、継続候補。幹線道路としての連続性が重視された。ただし、後者の区間は、旗立保存緑地と基準を超える縦断勾配が課題とされている。● 川内南小泉線 川内-国見の区間1.7kmは、八幡と川内駅のアクセス、国見地区の幹線道路の必要などから継続とされる。他方で、国見-台原の区間は、トンネル構造のため北仙台駅にも北山トンネルにもアクセスできないという理由で廃止候補とされている。しかし、これは計画の考え方自体を否定することになるから、おかしな理由だとも思う。旧国道4号の西側部分で、確かに反対運動もあったとは思うが、結局、「環状」線としての完成は断念したようだ。● 鶴ヶ谷国見線 旧4号の北根3丁目交差点から西に東勝山や桜ヶ丘の下(北四番町大衡線タッチ)までは完成、また北根交差点から東に南光台小学校あたりまでは整備済み。未整備の区間のうち、西の桜ヶ丘、中山区間は混雑緩和のため必要として継続、しかし更に西の中山-国見の区間は、国見駅との直接のアクセスにならないなどの理由で廃止とされた。東の未整備区間である鶴ヶ谷区間(4号バイパスまで)は継続。● 鶴ヶ谷仙台港線 上記の鶴ヶ谷国見線の鶴ヶ谷区間(未整備)と接続して、4号バイパスから宮城野大橋で七北田川を越え、国道45号を立体で越えて仙台港に至る。未整備区間は、45号バイパスからの利府街道までの岩切地区で、パークタウン流通工業団地と仙台港を結ぶ産業活動を支えるため継続としている。● 六丁の目鶴ヶ谷線 六丁の目から新田を経て鶴ヶ谷に至る道路。鶴ヶ谷団地の南側は整備済み。また、新田のあたりも整備されたが、未整備部分のうち、小鶴、燕沢などの区間は廃止、自由ヶ丘は混雑緩和に寄与のため継続との位置づけ。● 上杉山通東仙台線 北仙台駅から、台原、小松島、幸町を経由して東仙台駅までを東西に結ぶ。そのほとんどが、他の路線で交通需要に対応できるなどとされて廃止候補に。● 東仙台南小泉線 東仙台駅付近から南下する路線。新田や自衛隊の中を縦断する区間は、廃止とされた。【放射系の道路】● 仙台駅旭ヶ丘線 錦町から台原に北上して旭ヶ丘駅に至る。大半を占める台原中学校付近以南の未整備区間は、廃止候補に。● 定禅寺通上田子線 錦町から東に延びて、国道45号とJR東北本線に挟まれる形で並行する形で、新田、田子大橋に至るもの。新田までの区間はすべて廃止とされた。● 向山富田線 緑が丘、西の平、西多賀を経由して富田に至る。八木山団地群を南北に縦断するものだが、構造やコストなどを理由に、すべて廃止候補としている。なお、この仙台市の資料には、優先度の高い路線・区間として、今後20年以内の着手を予定するものもリストアップされている。● 郡山折立線(環状) 未着手区間を挙げている。中でも最長の青葉山区間3.5kmは、八木山南地区から一気に仙台宮城IC南側に出る路線。● 川内南小泉線(渋滞解消) ガス局交差点から、坂下交差点を経て銀杏町まで。救急機関、産業活動などを理由に継続とされているところ。● 宮沢根白石線(環状、放射状) 国道45号から中江、小松島を経由して、南光台まで北上する区間。約4.5kmくらい。骨格的な幹線とされている。● 原町広岡線(概成済み、区画整理関連)● 向山常盤丁線(概成済み) 市民会館から大学病院前までの区間。
2016.06.26
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新型コロナでマスク着用の緩和(3月13日)が行われたが、その後も外出時に常にマスク着用という人が6割にのぼる。そして、都道府県別では、広島県が72%と割合が最高だ。これは、第一三共ヘルスケアのネットによるアンケート調査(資料資料)。3月17日から19日に実施。全国で4,700人が回答。概要はこうだ。・マスク着用ルール緩和後も、61.6%は外出時に常にマスクを着用・理由で最も多いのは「感染が不安」(52.1%)で、「慣れてしまった」45.9%、「花粉症などアレルギー対策」40.6%、「周りの目が気になる」28.7%などと続く。・なお、女性では「素顔見られたくない」(26.3)、「メイクが面倒」(26.6)も。・着用率が最も高い都道府県は、広島県。最低は奈良県。 1位広島県(72.0%) 2位岐阜県(70.1) 3位愛知県(69.9) 45位佐賀県(60.3) 46位福岡県(60.1) 47位奈良県(56.4)・緩和後の変化では、「外すことが増えた」は20.8%にとどまり、「変わらない」が70.8%と多い。都道府県別で「外すことが増えた」や「常に外すようになった」の回答率が最も高いのは沖縄県。 1位沖縄県(32.0%) 2位佐賀県(31.0) 3位大阪府(29.0) 43位群馬県・島根県(15.0) 45位秋田県・岡山県(13.0) 47位広島県(11.0)・依然、感染対策(手指消毒、手洗いうがいなど)を実施しているのは鳥取県。「変わらない」や「頻度が(やや)多くなった」の回答が88.0%である。 1位鳥取県(88.0) 2位神奈川県(87.0) 3位広島県・島根県(86.0) 41位石川県・三重県(72.0) 43位宮城県・大阪府・岐阜県・千葉県(71.0) 47位福井県(66.0)マスク着用行動は、感染症だけでなく、周りの目など社会的な要因もあろうから、複合的に考えるべきなのだろう。もう慣れた、メイクが面倒、なども面白い。もし、マスクを外させる政策を考えるなら、各要因の寄与度や相互関係を考えるのだろうか。クロスセクションでどれだけ「地域性」が分析できるのか分からないが、広島が、マスクを着用する人多い、外すように変化した人もいない、感染対策も変わらない、の三拍子そろって「保守的」だと有意に言えるなら、相当に興味深い事象だ。わが東北では、秋田と宮城が「変化した」方で登場だ。
2023.04.27
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イーグルスCS進出に暗雲。好機で打てない。ところで、走者満塁などの「好機」にどのくらい得点を期待できるものか。統計的なデータがある。■川村卓『野球の科学 解剖学、力学、統計学でプレーを分析!』SBクリエイティブ(SBビジュアル新書0022)、2021年■鳥越規央ほか『勝てる野球の統計学 セイバーメトリクス』岩波新書(岩波化学ライブラリー223)、2019年アウトと走者の状況から、そのイニングが終了するまでに何点入るか。サンプルは、NPBで2004年から2013年のレギュラーシーズン全イニングだ。状況走者なし1塁2塁3塁12塁13塁23塁満塁無死0.4550.8211.0401.3601.4171.7211.9742.2001死0.2420.4990.6870.9190.9051.1581.3351.5412死0.0910.2140.3210.3710.4340.4870.5860.740このうち、「無死走者なし」の場合とは、当然ながらどのイニングでも最初に出現する状態なのであり、157,706回の機会があった。逆に最も出現数の少ない走者状況は、「無死走者3塁」で1,507回、つまり年に100回程度しかない機会である。高校野球になると多少状況が変わる。無死満塁(1.90)よりも無死二三塁(2.18)の方が期待値が高い。(2017-2019年、春夏の甲子園大会219試合のデータ)
2023.10.04
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場所や時代をこえて、巨視的に歴史の大筋を把握することが必要な場合がある。とくに東北を地域単位と捉えてその交流史を理解するには、文字通り主軸となる「道」の概要を掌握しなければならないだろう。■参考 渡辺信夫編『東北の交流史』無明舎出版、1999年 より 渡辺信夫「東北の交流史」 熊田亮介「古代東北の海道・陸道」 入間田宣夫「平泉藤原氏と奥大道の開発」■本記事は4回シリーズとしています。 東北の道 概説(その1 古代)(10年10月23日) 東北の道 概説(その2 平泉政権と奥大道)(10年10月24日) 東北の道 概説(その3 中世)(10年10月24日) 東北の道 概説(その4・完 近世)(10年10月24日)(なお、理解を深めるために上掲書中の図(街道図など)も引用させていただきました。図版等の直接引用は極力避けていますが、街道の状況理解のためどうしても必要になりました。)1 古代の陸道弥生・古墳文化の北上は、畿内を軸として東日本に「山道」「海道」の概念を生んだ。山道と海道の両者を進んで更にその奥(道奥)、と2通りの東北に達する道が次第に確定し、これを基に官道の「東山道」「東海道」が律令政府の下で設定された。この官道を通して移住と文化流入が展開し、言語社会の変質を伴う新たな東北が築かれた。こうした時期に建てられ、京(奈良)、蝦夷、常陸、下野、更に海外の靺鞨国への里程を誌す多賀城碑の意義は大きい。東山道は多賀城から胆沢城へ延長し、東海道は常陸から浜通りを北上した。さらに東山道は多賀城から出羽の雄勝城へ、また笹谷峠越えで出羽国に進み内陸から庄内に出て秋田に達する横断道も開かれた。2 蝦夷の道古代国家は多数の移民(柵戸)を組織的に送り込み、これを核に郡制施行地を拡大する方式で行われた。移民を中心に編成された辺郡(近夷郡)には、先住の蝦夷も組み込まれたが、蝦夷の集団性を生かして族長を郡司とする蝦夷郡も編成された。辺郡(近夷郡)と蝦夷支配の拠点として城柵を造営するに際して、官道を整備した。官道は、城柵や官衙を結ぶ征夷の道である。733年出羽柵が秋田に遷置され雄勝郡が置かれるが、雄勝郡の維持は困難で、737年には多賀城と出羽柵の直通路を開くための大野東人の遠征がある。この目的が達成されたのは759年で、雄勝平鹿2郡と出羽柵に通じる陸路に6駅が置かれた。また、出羽国最上郡は道路険しく大河は急流であるが、遠征軍が通らねばならぬ要路であった。796年に伊治城と玉造塞間に1駅、804年に志波城と胆沢郡間に1駅が置かれるのも、征夷に伴う官道整備の一環である。また、常陸国から多賀城に至る海道諸駅の廃止など、官道の再編もあった。官道はまた北方の珍貨を求める交易のルートでもあり、鉄などの物資の流入で蝦夷集団の政治的成長をも促した。北海道を含む日本海沿岸の夷地は本来出羽国の管轄とされ、秋田城・雄勝城は辺郡(近夷郡)に組み込まれた蝦夷を含め多数の蝦夷の支配拠点であった。蝦夷支配の基本は、饗給である。秋田城は9世紀後半には、野代村、上津野(鹿角)村など郡制施行の範囲を超えた夷地も城下に組み込んでいる。雄勝城は山北三郡を城下としたほか、陸奥国志波村を管轄した時期もあったらしい。雄勝城は「十道を承くる大衝」とされ、奥羽山脈を越えた陸奥にもルートが延びていたとみられる。3 古代の海の道縄文遺跡の三内丸山の出土品には、糸魚川産と思われるヒスイがある。北陸と北奥羽の海上または陸上の往来が想定される。また、奈良平安時代に入る頃には、北海道には擦文土器文化が発達し北奥に影響を与えていたが、津軽海峡は陸地を隔てる海ではなく、むしろ両者を結ぶ川であり、活発な両地の交流があった。海や河川も古くから交流の道であったが、海運は輸送需要との関わりで考えるべきである。古代律令政府が定める公租米の輸送規定では、東北は出羽国からのみ認められていた。太平洋側は駿河国までであり、関東・東北の太平洋側の遠隔海運はまだ開かれていなかったのである。日本海側の遠隔地間交流は早くから開け、すでに古代末期に確認されている北奥の津軽十三湊が注目される。西は北陸から北の蝦夷地に至る環日本海沿岸を舞台に、ときに海外との直接間接の交流で栄えた。やがて「廻船式目」の七湊である津軽十三湊、秋田(土崎)、今町(直江津)などの湊を結ぶ海運が、西国や北陸と東北を結ぶ太い交流の道となった。4 阿倍比羅夫の道越国国守の阿倍比羅夫の北征(658年-660年)は、蝦夷に対する貢納的支配の拡大を目的に、3年間に3度行われた。対象は秋田市以北の日本海側で、齶田(秋田)、渟代(能代)、津刈、渡島(北海道)の蝦夷である。ただし、津刈、渟代の蝦夷は北征以前に服属しており、齶田、渡嶋の蝦夷との間に戦闘があったわけでもない。既に7世紀前半には各地の蝦夷は古代国家と個別に接触し始めていたと思われる。比羅夫の北征軍は660年、渡島で粛慎と武力衝突する。粛慎の古訓は靺鞨と同じアシハセで、蝦夷とは明らかに異なる集団である。北海道のオホーツク沿岸は4世紀以降独自のオホーツク文化が展開し、7世紀以降にはサハリン・千島まで文化圏が広がる。大陸北東部に由来するとされ、粛慎も大陸系集団であろう。交戦の結果、比羅夫はヒグマの皮などを献上させ、のちに、出羽国の納税の一部に組み込まれることとなる。北方世界の珍貨交易の道を開いたと言える。出羽国も律令制に基づく国郡制が行われるが、秋田市以北の広大な地域は長期にわたって郡制を施行しなかった。蝦夷集団固有の社会を生かし、安定した交易関係を維持して珍貨を獲得するには国郡制支配が馴染まなかったと見られる。5 渤海使の道渤海国は旧高句麗遺民や靺鞨人が698年に建国した多民族国家で、のち唐に冊封されて渤海郡となる。727年高斉徳らが初めて渤海国使として出羽国に来着する。10世紀初めまで34回の国使来着があるが、9世紀以降は北陸以西が来着地であるのに対して、8世紀段階では14回のうち1例をのぞき北陸以東、しかも6回までが出羽である。日本政府は773年に太宰府(筑紫道)に入るよう命じるのだが、出羽に入るルートは固定的なものがあったはずだ。出羽来着には、使節の殺害や略奪も頻発したが、それでも蝦夷地・賊地の出羽に来着を重ねた。また靺鞨部族の一つ鉄利人ら1100人が亡命集団として出羽に来着した(放還される)こともある。公的使節にも亡命者にも既知のルートがあり、そして秋田以北の日本海沿岸には多くの港津が存在し、受入れ先となっていたのである。特に、771年に渤海使325人が来着した野代湊の機能は注目されるべきである。9世紀後半まで郡制が施行されないことも、軍事的性格と関係するだろう。■「東北総合案内」さんのサイト中にも解説がある。■高倉淳さんの説明 仙台周辺の古道、仮説玉野新道
2010.10.23
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国道346号は、大崎市鹿島台から涌谷に向かうとき、鳴瀬川を渡る。大崎市と美里町南郷の市町境でもあるこの橋が、感恩橋である。この橋は、野田眞一翁が私財を投じて架けた。翁は明治14年の生まれ、鳴瀬川に橋を架けるほか、鹿島台と北村の間の「野田道路」の開発、農学校の建設(現在の南郷高校)の建設を行った南郷創建の慈父である。大工事となった橋と農学校はほぼ同時に建設をはじめ、翁の家族全員で現場の作業員の世話をし、最前最良の資材と技術を傾注するよう心を配ったという。報恩感謝の一念による無償の行為と伝えられる。南郷高校の庭には、二宮金次郎像と野田記念図書館が、翁の人となりと思想を物語っている。(宮城県町村会『The-町村 わがまち自慢ベスト展パート2』1995年 を参照しました。なお、同書では真一と表記されています。)南郷高校のホームページで学校長の挨拶のなかにも、昭和6年、地元旧南郷町の篤志家野田真(ママ)一翁の浄財により誕生したことが書かれている。今は美里町となった南郷だが、明治22年の市町村制施行のとき、南郷村と称したものである。この町名は、福ヶ袋、練牛、大柳、木間塚、二郷の6村が、涌谷城下から見て南にあることから、南郷(みなみごう)五か村と呼ばれたことに由来する。これに和多田村を加えて南郷村が誕生、昭和29年に南郷町となる。(上掲書から)いまの我が郷土は先人の営みのうえに成っている。ふるさとの発展に力を尽くした人と、その時代について、学びたい。
2015.03.29
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加美町に足を伸ばしました。中新田の火伏せの虎舞をみるために。今日やっているという以外に何の事前勉強もせず、休日で遅く起き出してきた下の子を車に乗せて、まずはR457で加美町を訪れ、車の流れの雰囲気に任せると、バッハホール向かいの駐車場(中新田体育館の駐車場のようだ)に乗り入れる。出会った知合いの方や、店の人に聞いて、あの屋根に虎が登るヤツの場所を教えてもらう。ちょうど間もなくだということでした。いつも通過するR457以外にはほとんど中新田の街を知りません。やはり街を知るには歩いてみるものです。R457から役場側に入っていくと、石で舗装された通りがあり(花楽小路)、ここが祭りの中心地。交通規制が敷かれていて、一歩通りの中にはいると、信じられないくらいほどの人の数。出店に並ぶ人やら山車を待つ人やら、大変な人の密度です。目抜き通りの南のあたりで、さっそく虎がいましたので撮りました。わが親子の流れは、さらに人混みをかき分けるように北上していくと、人々やTVカメラが待ち構えている。そして屋根のある建物(寅や)が。その南隣が祭典本部(伊藤歯科駐車場とのこと)のテント。なるほど、ここがよくニュースや観光パンフでみるアレですか、と感無量。そこで2人で待っていました。ほどなくして、山車が南からやってきて留まります。そして、いよいよ、寅やの屋根から6頭の虎が出てきて、演舞です(冒頭の画像)。中学生でしょうか、屋根瓦の上の足場にしっかり乗って、虎の頭を左右に振ったり、尻尾を立てたり。屋根のてっぺんで太鼓をたたいたり、横笛を吹く人たちも。それから、中新田高校の生徒達がゴミ収集などボランティアをしていました。暖かい初夏の日。大変いいミニトリップでした。記念にもらったビラから記念に要点を記載します。------------(まつりの案内と交通規制マップのビラから)平成25年初午まつり火伏せの虎舞宮城県指定無形民俗文化財主催/加美町・中新田火伏せの虎舞保存会 加美商工会・中新田「春まつり」露天運営協議会(中新田グルメ&土産マップ 創刊号平成25年2月11日 から)初午まつり毎年4月29日に開催されている。約650年前、春先の強風により大火の多かったこの地域で、中国の故事にならい虎の威を借りて風をしずめ、火伏せを祈願したのが起源。色あざやかな山車とともに町内を練り歩く虎の姿、ときに高屋根に登り腹いっぱいに風をはらんで立つ虎の姿は勇壮そのものです。毎年2月11日建国記念の日に、うめえがすと鍋まつりin加美が、加美町の花楽小路イベント広場を中心に開催されます。鍋は200円から300円で約20店舗の出店。オープニングセレモニー、酒蔵見学会、チャリティ地酒など盛り沢山の内容です。------------それにしても、鍋祭りの宣伝文句が、酒蔵見学と地酒...と酒づくし。さすが清水の酒の里。ぜひ今度は2月に行ってみたい。
2013.04.29
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ひさびさに庭の小鳥に登場してもらいましょう。こんな低温続きの冬でも、午前9時台にもなると昇ったおひさまを受けて、鳥たちもやってきます。この日はシジュウカラとスズメたちが一緒に飛び回っていました。雪の残る庭。小枝を飛び渡る鳥たちでした。
2008.01.30
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秋田さきがけ新報社のWEB版を見ている。近所の無職女性の実家を家宅捜査、そして4日夜には逮捕状。何と、4月に死亡した子供の母親だ。死体遺棄については大筋で認めているというが。この人を犯人と決めつけるのは早計で、今日からの報道ぶりに、また日本の社会とマスコミの成熟度が表れるだろうが、それはともかくとして事件の解明に大きな進展だろう。秋田県警は相当慎重に進めて来たとは思うが、着実に解明し、また捜査経緯を明らかにして欲しい。住宅地の2件隣の母親が逮捕されたことで(真実解明とは断定するな、とは言っても)衝撃は大きい。
2006.06.05
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山形県では今、県議会議員のモラルと議会の権威が問われている。飲酒運転で摘発された議員に対して、県議会が議員辞職勧告を決議。それでも辞職しない意向を示したため、県議会は臨時会最終日の22日、各会派の総意で、議員政治倫理要綱に基づく行為規範に違反する疑いがあるとして、政治倫理審査会審理開始を決定。同審査会は県議の公選法違反事件などを受けて03年に設置したが、審査開始は初めて。渦中にあるのは、今月2日未明に飲酒運転した村山隆議員(東村山郡区選出)。議会の総意としては、村山さんという問題の県議を辞職させて自浄能力を示したいのだろうが、当の本人は勧告されても辞職しない。辞意を示せば議会も閉会したのだろうが、辞職しない意向を示したため、会議時間を延長して村山県議を出席させて議会運営委員会を開催。この場でも村山県議は、4年間の職責を全うしたい、と述べた。これを受けて阿部議長が政治倫理審査会の審査開始を後藤政倫審委員長に命じた。午後7時過ぎの本会議終了後ただちに、1回目の審査会を開催。次回を6月12日と決定。後藤委員長は「議会の信頼回復に向け県民に分かりやすい審査をし、村山議員に辞職を促していく」と語った。■山形新聞記事(政倫審が審査開始決定-村山議員の飲酒運転で県議会)他紙では河北新報が、記者の署名記事で椅子にこだわる議員の姿勢を非難している。斎藤知事は23日の記者会見で、県民として政治家として恥ずかしく思う、と発言。率直で至当の発言だろう。ちょっと思い出すことがあった。高校生の時に生徒総会の過去の会議録を見ていたら、会長がやめるやめないのやりとりがあった。何かの理由で意欲をなくしたのだろう、辞めるといった生徒会長に対して、任に留まって職責を果たすよう促すような誰かの発言があった。中学の頃、教科書の巻末に掲載された日本国憲法の条文を読んで驚いた。内閣の総辞職が制度化されている。ものすごく違和感を覚えた。せっかく国会から選ばれて総理になり内閣を組織しているのだから、頑張って職責を全うするだけのことだろうに、総辞職しなければならない(第69条、第70条)と他律的な辞職が制度化されているとは、とビックリした。もちろんこれは三権分立や議院内閣制を理解していないからである。総辞職制度はあくまで近代憲法史上の一所産にすぎないのであって、普遍的で絶対不可欠のものではない。内閣は国会の信任の上に浮かんでいるから、国会が不信任を突きつけたり、国会のメンバーを改選した場合には、内閣もリセットします、というだけのことだ。さらに、説明の仕方はいろいろあるが、内閣に解散権を認める以上、均衡として議会の側の不信任決議が実効あるものでなければならない、という側面もある。つまりは、制度設計の話だ。憲法は何も、人間たるもの仕事は一途に頑張れ、という職業倫理や人生訓に立脚しているのではない。統治制度をいかに設計するのが、統治者の恣意を防ぎ、国民の自由や権利をより侵害しないか、という観点から、歴史上の試行錯誤で、とりあえず今の時点ではこんな制度を採用しています、というだけだ。今の制度が人類の到達した終局の理想などではない。そもそも三権分立などは、効率性を犠牲にしてでも何とか恣意を防ごうという、言ってみれば後ろ向きの発想に立っている。現行憲法は素晴らしい民主主義の贈り物だ、みんなで守ろう、みたいな教育を受けてしまっているから、そんな人類の普遍真理の中に「頑張ることを止めよ」なる命題があるなんて、と当惑してしまう。その意味では、戦後民主主義教育が絶対真理と教えてきた「多数決」だって、普遍性や客観的妥当性は実は怪しい。人類出現以前から宇宙に存在したような正統性を装わされているが、そんなものじゃない。他に方法がないから手続的正義として一応わかりやすいだけのことだ。山形県議の話に戻るが、職責を全うしたいから留まる、というのはどう見ても空虚な保身のヘリクツにしか聞こえない。選ばれた以上頑張る、というのはその限りでは良い言葉だが、民選の政治家の場合は全く事情が違う。公選の職は世の中をまとめるための、いわば道具なのだ。言葉が不適切かもしれないが、そうなのだ。だから、公選された公務員について職業選択の自由などを持ち出して多選制限はできない、などという論調が、私はことのほか嫌である。職業選択の自由という権利を享有するのは国民の側だ。その権利の保護を含めて、自己実現や幸福追求を最大限に可能ならしめるための役割が公職だ。道具なのだ。道具が自己目的化することはありえない。公選のポストに職業選択の自由が憲法上保障されることは原理的におかしい。(もちろんサラリーマンである一般職公務員は別だ。)この点については書生論と言われそうだが、公選公職は民意に完全に従属すべき道具として考えるべきだと思っている。公職や公職者の事情を考えて発想すべきでない。身分安定や議員特権の要請があるとすれば、それは議員活動を十全ならしめ議論を尽くしてもらう趣旨ではあっても、身分安定が決して政治家個人の地位を安定させる趣旨でない。またリコールの直接請求は当選後1年間は禁じられるが(地方自治法84条)、これも選挙の蒸し返しによる混乱を防ぐ趣旨であって、身分保障は反射的利益に過ぎないだろう。このように身分安定の制度は、議会制度の円滑な運営のためであって、公職自体が自己目的なはずがない。ましてや選ばれた人が立派だからではない。だから、相応しくない人ならば、身分安定の要請など後退して当然だ。選挙民に選ばれたから、とか、任期を全うするべきだから、などというのは、どこから見ても自己保身の詭弁だ。あなたでなければならない理由はない。確かに形式主義的民主主義論からすれば、選挙で選ばれたから選挙で落とされるまで頑張る、県民の審判で落とされるなら本望だがまだ審判受けていない、などという形式論も一応あるだろう。しかしそんな問題じゃないだろう。普段は県民の声を不断に聴きます、と言って都合の良い(悪い?)ときだけ、選挙の審判ないからネの論を持ち出すのはおかしい。また、村山県議の属する東村山郡選挙区は1人区だから、補欠選挙を行うことになるコストも要するが、コスト払ってでもスッキリしたいのが選挙民じゃなかろうか。もっとも90日以内なら選挙せずに次点者が繰上当選。接戦で敗れた自民候補が当選となるが、もうちょっと頑張って、それは阻止したいということだろうか。とにかく飲酒運転というのは、本当に恥だ。悪いと思っているはずなのに、それなのにやるのだから、本当に醜い。合わせる顔がない、となるハズなのだが。(ため息)
2007.05.25
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岩手県金ケ崎町は、町名を構成する「ケ」の文字について、小さい字で表示する場合も見られるが、1年余の調査を経て、改めて大きな「ケ」で統一すると発表した、という。9月28日の岩手日報記事だ。全国の自治体に聞いたら、14自治体中10は小さな「ヶ」を採用しているそうだ。この問題は、当ジャーナルでも調べたところだが、もともと、片仮名としての「ケ」の大文字小文字という議論ではないのだ。ただし、現在の実務上混乱はあるだろう。具体的に言えばワープロで文字を表現するときに、どちらでやるのか。いずれにしても統一してもう悩まない、ということなら、それで良かろう。■関連する過去の記事 旭ヶ丘などの表記「ケ」を考える(07年8月3日) 宮城・悩みの地名あれこれ(07年6月9日)
2007.09.29
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8日の河北新報に出ていた。国天然記念物で、ウトウ繁殖地の南限である女川町の無人島、足島で、海鳥がドブネズミに捕食される被害が出ているという。足島は、天敵のヘビがいないため、ウミネコなどの海鳥にとって楽園である。だが、大震災以降ネズミによる被害が急増。津波でがれきに乗ってやって漂着したという見方がされている一方、ネズミは1kmほど離れた江ノ島から泳いで渡ることも可能だという。環境省では昨年11月に3回、殺鼠剤入りのえさを置いたが、今後も警戒して監視を続けていくのだそうだ。■関連する過去の記事 江島列島 足島と笠貝島(2016年6月14日)
2017.01.09
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読売新聞の記事(宮城県版、8月28日)によると、07年の県内宿泊客は、香港便就航などで外国人客が対前年3割増加し、国内外の全体の宿泊客数も10年ぶりに800万人を超えた。宮城県の平成19年観光統計概要によると、昨年10月から12月のプレ・デスティネーションキャンペーン期間中は、前年同期比で観光客入り込み数で6.4%、宿泊観光客数で3.6%増加している。この効果も大きかったようだ。少し個別に見てみる。(1)外国人宿泊観光客数 ○148,517人(対前年30.4%増) ○地域別には、仙台市91,620人(42.2%増)、松島・塩竈22,028人(2.0%減)、蔵王18,030人(32.7%増)など。 秋保の5,163人が101.3%増と倍増以上の伸び。 ○旅行者の地域別では、台湾33,988人(10.1%減)、香港30,437人(126.8%)、米国17,943人(88.4%増)、韓国16,573人(7.9%増)、中国8,934人(33.4%増)、フランス4,807人(13.2%増)など。 香港の倍増以上の伸びが突出しているが、米国も大幅に伸びている。 ○先日記した記事で、JNTOの調査(06-07)によれば、東北地方は台湾と韓国からの旅行客が伸び、香港は減っているということだが、まだまだ全体の絶対数が少ないから、国際定期便の設定の有無で大きく左右されてしまうのだろう。(2)圏域(地区)別観光客入込み数○全県 57,876,741人(対前年3.8%増)○蔵王 4,019,275人(0.5%増)○旧仙台市 10,493,294人(3.5%増)○松島 6,217,250人(0.5%増)○鳴子温泉郷 2,156,300人(1.7%減)○栗原圏域 1,910,876人(12.1%増)最も伸びが大きい。読売の記事では細倉住宅跡の人気と分析されていた。○登米圏域 2,125,374人(3.0%減)○石巻圏域 4,615,074人(3.4%増)○南三陸・気仙沼圏域 3,576,287人(0.4%増)(3)圏域(地区)別観光宿泊客数○全県 8,226,706人(対前年2.8%増)○蔵王 650,604人(2.1%減)○旧仙台市 3,121,332人(5.6%増)○松島 735,276人(0.6%増)○二口峡谷(秋保温泉や作並温泉を含む) 1,210,242人(2.0%減)○鳴子温泉郷 801,000人(0.1%減)○栗原圏域 160,218人(0.3%減)○登米圏域 36,362人(6.4%減)○石巻圏域 379,928人(1.0%増)○南三陸・気仙沼圏域 491,824人(0.2%減)栗原は登米より入込み全体は少ないが宿泊は多いことになる。気仙沼と石巻の関係もそうだ。(4)居住地別宿泊観光客数 旅行者の居住地別のデータだが、「県外」からの宿泊客の比率と、そのうち代表例として「関東」の比率を見てみる。○全県 県外39.0% 関東18.4○蔵王 県外35.8% 関東18.9○旧仙台市 県外43.5% 関東20.9○松島 県外4.1% 関東1.9○二口峡谷 県外49.6% 関東22.8○鳴子温泉郷 県外29.4% 関東16.2○栗原圏域 県外33.4% 関東14.4○登米圏域 県外51.0% 関東24.9○石巻圏域 県外39.5% 関東16.0○南三陸・気仙沼圏域 県外55.7% 関東23.0これだと日本三景松島が全く県外から来ないようにも思えるが、実は「不明」が92.2%もある。地元の観光協会やホテルの調べ方の問題だろう。「不明」の僅少な栗原、登米、石巻、気仙沼をみると、絶対数は少ないものの、宿泊者には一定の県外層があることがわかる。(5)主要観光地点入り込み数絶対数の多いところを中心に拾う。○遠刈田温泉 836,388人(1.7%増)○仙台城址、瑞鳳殿、博物館等 1,000,730人(5.5%増)○クリネックススタジアム宮城 1,087,690(20.1%増)○仙台七夕まつり 2,030,000(5.1%減)○SENDAI光のページェント 2,570,000(1.2%減)○松島海岸 3,685,000(0.7%減)○塩竈神社 858,630(3.2%増)○秋保温泉 1,197,893(0.9%減)○定義如来 1,073,766(16.8%増)○竹駒神社 1,641,000(0.5%増)○宮城県総合運動公園 1,044,870(68.6%増)○鳴子温泉 1,115,900(1.7%増)○あ・ら・伊達な道の駅 3,422,423(18.1%増)○いわかがみ平・栗駒山 755,800(7.3%増)(6)市町村別観光客入込み数増減の顕著な市町村をみると、○柴田町 46.7%減○多賀城市 21.5%増○利府町 35.6%増○富谷町 64.8%減などとなっている。■関連する過去の日記 東北を訪れる国際観光客(08年8月29日) 東北の映画ロケ地(07年10月28日)
2008.09.02
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今日の仙台も猛暑だ。35度を下まわると穏やかに感じるほど異変の夏だ。そんな昼下がり、水の森の丘に佇む、明治15年コレラ流行の死者をまつる塚を訪れてきた。■関連する過去の記事 仙台とコレラ流行の歴史(2022年9月19日)(そのほかの関連記事は最後にまとめて記しています。)はじめて、水の森市民センターにお邪魔する。プールや児童館も併設され、夏休みの子どもたちも来ているようだ。明治のコレラや碑について、ホールに何も解説などはなかった。この市民センターは水の森公園のちょうど南端に位置する(昭和の頃はスケートリンクがあったと思う)。館を出て市道沿いの敷地の南角が、広い公園全体の南端であり、公園内の長い園路の出発点がある。車止めがされ、林の中に進んでいく散策路なのだが、そもそも古くは秀衡街道(別名を古街道、義経街道)と呼ばれ、伊達政宗公が七北田を通る新街道と七北田宿を整備するまでは重要な街道だった。江戸時代は新街道の大名行列を避けるため、そして戦前は難を逃れるため、戦後は買い出しや病院通いのため、人々は秀衡街道を往来した。(仙台市サイトの解説)(秀衡街道に関する当ジャーナルの過去記事は、最後に整理しています。)そんな秀衡街道だが、この辺は明治の頃は相当寂しく暗い峠だったろう。下の地図の赤い印の場所が、叢塚の場所だ。さっそく、散策路を進んでいく。阿曽沼先生の言うとおり(上記の前回記事です)、150歩ほど北進すると左手に叢塚が現れた。碑文は三面にわたって刻まれている(写真は一面のみ)。解読文は前回記事のとおりだが、目にすると、仙台に現実に起きた災禍の重みと、碑を建てて後世に伝えた意気に押される。(↑左が市民センター。市道から入っていく散策路の入口。往時の秀衡街道だ)(↑碑の左面の刻文)さらに緩やかに上り坂を進んでいくと、すぐに三叉路に出る。なお、東西の二本に分かれる散策路は、三共堤の外周をまわり、北のキャンプ場で合流するのだ。東(北に向かって右)に延びる園路が秀衡街道だろう。この三叉路の山側(北)斜面に、上部が欠けた自然石の「焼場供養塔」(コレラ塔)がある。276人の供養碑だ。吉岡方面からやってきて秀衡街道を仙台に向かう人は、この峠を経て、現在の荒巻小学校の方向へ降りて行ったのだろう。コレラ供養塔のある三叉路からは、住宅が密集する東勝山の風景を見下ろせる。秀衡街道を引き返して、市道から公園の散策路に入る地点に戻る。(↑秀衡街道が荒巻方面に下っていく。尾根沿いの山道だったろうが、今では陸橋だ)(↑同じ陸橋部分を、散策路入口地点から。市内中心部のドコモビルが見える)(↑公園散策路入口地点から、西側住宅地を望む。桜ヶ丘や中山か)(↑北に向かう市道は坂道を下っていく。右側が市民センター)(↑水の森市民センター。右側の園庭の奥の法面の上が散策路だ)■関連する過去の記事(仙台・宮城と感染症) 仙台とコレラ流行の歴史(2022年9月19日) 芋峠(2021年8月9日) 芋峠(仙台市)と感染症(2020年11月28日) 鈴木重雄と唐桑町(2016年6月19日) 宮城の民間医療伝承(2011年9月4日) 明治のコレラ大流行と仙台市立榴岡病院(10年9月3日)■関連する過去の記事(疫病や感染症に関する民俗) 世界に誇る東北の郷土芸能(西馬音内盆踊り、鬼剣舞など)(2022年12月14日) 疫病と向き合う東北の民俗伝承(2022年6月8日) 民俗信仰と東北(2022年6月4日) 鬼剣舞と念仏踊りを考える(2022年6月2日) 魔よけと東北を考える(08年2月10日)■関連する過去の記事(秀衡街道などに関して) 北根と七北田街道(2011年10月24日) 近世までの東山道と中山古街道、七北田街道(2011年10月23日) 中山道を考える(再び)(09年11月23日) 忘れられた宿場町 根白石(09年11月4日)(奥州街道について) 中山(なかやま)道を考える(09年3月25日)(根白石街道) 中山道のむかし(09年3月23日)(根白石街道) セントラル自動車が奥州街道を復活(09年2月13日)■(参考)関連する過去の記事(奇祭など。ほかにも過去記事ありそうですが) ついに見た!米川の水かぶり(2023年02月09日) 中新田火伏せの虎舞(2013年4月29日) ハンコタンナと覆面風俗(2015年2月1日) 塩竈の「ざっとな」(2011年2月27日) 奇祭 鶴岡化けもの祭(2011年1月3日) 民俗信仰と東北(2022年6月4日)(弘前市鬼沢) 岩木山信仰とモヤ山(2022年5月30日)■(参考)関連する過去の記事(来訪神などに関するもの) 西馬音内の盆踊り(2012年8月5日) ナマハゲやスネカの起源と神(鬼)の両義性(2022年5月29日) 秋田美人を考える(再)(2022年5月11日) 日本三大美人と秋田(2016年1月31日) 小野小町(2011年7月23日) 秘密結社とナマハゲ(2011年6月4日) 海の民、山の民(2010年12月25日) 秋田美人を考える(2010年12月23日) 秋田ナマハゲは秘密結社か 再論(2010年5月20日) なまはげと東北人の記憶を考える(10年4月27日) 秋田なまはげは秘密結社か(07年8月13日)
2023.08.03
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あ・ら・伊達な道の駅(株式会社池月道の駅)は年間273万人の入込客(宮城県観光統計概要、令和4年)で、国道47号を往き交う車はみんな停車するのではないかと思わせる抜群の集客力だ。ところで、施設の奥側の広い駐車場の周囲に、標柱がいくつか建っている。一栗中学校の跡地なのだ。そして、道の駅に隣接して一栗体育館。おそらく校舎は解体したが、比較的新しくまだまだ使える学校体育館を残して地域の施設に転用したのだろう。最後の画像(体育館入口)の上部には、校章らしきものが。開校昭和22年4月1日閉校平成8年3月31日卒業生3778名旧岩出山町域では、岩出山、一栗、真山の3中学校があったが、平成8年に現在の岩出山中学校の1校に統合された。なお、小学校は平成29年度まで5校あった。岩出山(平成30年3月児童数253人)、西大崎(47人)、池月(47人)、上野目(45人)、真山(48人)の5校が144年の歴史を閉じて、平成30年4月に新制岩出山小学校となった。■関連する過去の記事(陸羽東線沿線の探訪) 西古川駅(大崎市)(2024年06月22日) 名生館から西古川へ(大崎市古川大崎、古川斎下)(2024年06月19日) 名生館官衙遺跡、名生城跡(2024年06月18日) 東大崎駅、大崎神社(2024年06月14日) 大崎市の戦中地名(2024年03月20日)■関連する過去の記事(鳴子、岩出山周辺など) 小黒崎観光センター(大崎市)(2023年12月13日) 美豆の小島(大崎市)(2023年12月12日) 小僧街道踏切(大崎市岩出山)(2023年12月11日) 川渡小学校上原分校跡(大崎市)(2023年12月10日) 小黒ヶ崎のすばらしさ(2016年6月5日) 歌枕だった小黒崎(2013年3月14日) 大崎市のカンガルー(09年11月26日) 観光客で賑わう鳴子峡(08年11月2日) 花山で釣りをする(07年10月25日) 再び岩出山を探訪する(07年7月22日) 初滑りオニコウベ(06年12月29日) 松山街道 姫松、真坂あたり(06年11月5日) 岩出山を探訪する(06年7月17日) 鳴子の交流人口と東北の地域構造の多様性を考える(05年10月10日) 鳴子峡散策で地域の先人たちを考える(05年10月9日) 御料馬金華山号と支倉常長の野望(08年9月16日) 鬼首の名馬金華山号(07年12月26日) 古代人の移民地名(玉造、加美、志田、色麻など)(2013年4月16日) 松山道・上街道(2011年9月16日)
2024.07.02
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書き込むほどのことでもないのだが、今朝の河北新報朝刊で誤字を見つけた。1面で「日本式介護人材 ベトナムで育成」という大見出しの記事。宮城県などの介護やクリーニングの事業者でつくる組合が技能実習生を受け入れているのだが、JICA事業に採択されてベトナム現地の関係機関を9月に訪れる。そして、ベトナム北部のハイズオン省にあるハイズオン医療技術大にスタッフを派遣して、同大の教員に、日本語や日本の習慣を踏まえた介護のノウハウや指導方法を伝えて「マスタートレーナー」として育成する、などの内容だ。そして、その大学施設での介護実習の風景の写真が載せられている。その説明(キャプション)では、「ハンズオン医療短大での介護実習」と書かれている。(なお、続けて「短大は昨年9月に医療技術大に統合された」とある。)自宅に配達された紙面を見たのだが、念のため、ネット版でみても同様。いま(夜10時台)も直ってはいない。社内でだれも気付かないものか。7年くらい前か、高校野球で古川高校が「ゴールド負け」という記事があって、そのあとオンライン記事では「コールド負け」と訂正されていたことを思い出す。
2025.06.18
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旧七北田村とは、南北朝時代に大崎家兼が奥州探題として下向した際に、宿駅を建てた元七北田の場所が、上谷刈、野村、古内、小角、根白石、朴沢、福岡の7つの田を北にすることから、その名がある。そしてその名を持つ七北田川は泉ヶ岳から東流し、蒲生に注ぐ。寛文年間には、川は多賀城市新田から東進し南宮で砂押川と合流して八幡を経て七ヶ浜町湊浜で海に注いでいた。これを新田から南に変え、福田町を経由して蒲生海岸に注ぐ流路変更の大工事が、川村孫兵衛重吉によって行われた。寛文の流路変更の主目的は、城下への穀船輸送である。これにより七北田川をのぼり鶴巻(舟入跡)で積み替えて御舟堀を曳舟で旧苦竹村まで運ぶ。その終着点は現在の自衛隊苦竹駐屯地東側、国道45号沿いの「とん亭」付近。苦竹から御米蔵のあった現榴ヶ岡公園東端までは陸路を牛送した。七北田川の流路変更はもう一度、昭和58年に竣工した。これは、実沢地区から松森地区にかけて蛇行の修正。私も手元の新旧の地図で比べてみた。仙台バイパス泉大橋(現運転免許センター付近)から松森清掃センターにかけては、現在の地図では流路はほぼ直線だが、25年前の地図ではコの字に蛇行している。そして現在の地図ではかつての河道が、市名坂と松森の字界として残っている。■参考 関根一郎『仙台・川と橋の物語』創栄出版、1991年■関連する過去の日記(七北田川沿いに関するもの)(松森・岩切付近) ○岩切城そして仙台市北東部の古城を学ぶ(07年9月4日) ○芭蕉が感激した「おくのほそ道」岩切・多賀城(06年1月25日) ○岩切の寺社をめぐる(06年1月3日) ○松森城(鶴ヶ城)について(07年6月10日)(舟曳堀) ○舟曳堀(鶴巻-苦竹)を探して(06年3月12日)(福田町) ○仙台の地名 福田町と高砂について(05年11月10日)
2007.10.03
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