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昭和58年の夏に、開業1年を迎えた東北新幹線の古川駅で、下り電車から降りるはずの家族が、どういう事情か降りそこなってしまい、電車は発車してしまう。ただ1人先にホームに降りた小学生は、線路上を一ノ関駅方面に向かい歩き出す。そして、11キロ地点で後続の列車にはねられて死亡。その地点はトンネルだという。ひとりホームに残されて、どうすれば良いかもわからず、泣きながら家族の後を追ったのだろう。駅員でも他の客でも、誰かが気づいて駅務室に保護してあげていれば、確実に再会できたはずなのだが。当時は大きく報道されただろう。1983年なら私は仙台に来ていたが、このニュースの記憶はない。
2015.01.31
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宮古や釜石は、本州でも日の出が早い地点だ、と思っていた。というより、日の出日没の時刻は、経度に従い、同じ経度なら同じだろう、と単純に思っていた。それは誤りだ。地球が太陽を回る公転面に対して、地軸は鉛直ではなく傾いているからだ。なるほど、その証拠に極地だと白夜や極夜がある。夏と冬では、太陽が上がる場所がかなり異なる。小学生の頃なら、回帰線の意味などと合わせて理解していたのかもしれないが、年取るとだめだね、物事をちゃんと考えないようになってしまう。さて、元旦の時点でいうと、日本の日の出(初日の出)は、南鳥島が最も早く(5時27分、2020年の場合)、本土の平地では犬吠埼が最も早い(6時46分)。しかし、高低差も考えねばならず(200m高いと1分早まる)、富士山頂は6時42分で本土で最も早くなる。東京スカイツリー展望回廊(453m)も犬吠埼と同じ頃になる。ここで、北海道の東部や、本州でも宮古市など三陸海岸は犬吠埼より経度(東経)は高い(東にある)のだが、犬吠埼の日の出が早いのだ。地図上に、日の出時刻ラインを引くとすれば、経度に対して、右(東)上から左下に斜めに緩い弧を描くだろう。仙台市(市役所140°52’)は東京都心部(都庁139°41’)より東なのだが、初日の出は遅くなるようだ。しかしこれは、正月を含む冬のケースである。夏は逆になる。仙台は東京よりかなり早く夜が明けるのだ。札幌市(市役所141°21’)はもっと早くなるのは当然だが、仙台市より西にある青森市(市役所140°44’)なども仙台市よりだいぶ早い。本州最東端の宮古市の日の出が、結局どうなるかというと、次のとおり(2022年の場合)。夏と冬では、日の出の早い遅いに地域間で逆転現象が出るのだ。日付宮古市仙台市秋田市千代田区1月1日(元旦)6:526:537:006:506月21日(夏至)4:044:134:114:2512月22日(冬至)6:496:496:576:47
2022.12.04
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黒川神社を訪れた。「東方乃薬師 黒川神社 参拝のしおり」から------------【黒川神社御由緒】 当社の起源は多賀城の鎮守府将軍大野東人の流れをくむ黒川郡三ヶ内城主報恩寺可則(よしのり)が仁和年間(885-889)智証大使(ちしょうだいし)の作になる薬師の像を霊験あらたかな当所にお祀りしたことに始まると伝えられています。 この薬師像は、永承年間(1046-1053)源義家が東征に際し尊崇して「袖振薬師」と称しました。 安永年間の風土記(1774)によれば、この薬師像は「功徳山八聖寺」と言われ、黒川郡を領していた黒川晴氏が特に「東方の薬師」と称し崇敬されました。 明治元年になりますと、新政府によって神仏分離令が発せられ、同5年薬師堂は村社「黒川神社」となりました。 旧社殿は前出の風土記によれば三間四面の堂宇とあり、現在の社殿は明治11年に起工、同13年竣功されたもので、用材はすべて境内周辺の木材が充てられ、建設当時は本殿・幣殿は木羽葺、拝殿は茅葺屋根でした。 昭和3年、無格社・住吉神社が合祀されました。【御祭神と御神徳】 御祭神は薬師如来と通ずるところから「少彦名命」(すくなひこなのみこと)が祀られています。 命は『古事記』では神産巣日神(かみむすびのかみ)、『日本書紀』では高皇産霊神(たかみむすびのかみ)の子で、大国主命の国土経営に助力し、貢献されました。また、医療・医薬・温泉・禁厭(まじない)・酒造の道に優れた神でもあります。 薬師如来は衆生のあらゆる病気・災難を取り除く役割を担っていたとされ、氏子崇敬者は今もって「お薬師様」とも呼び、家内安全・病気平癒・無病息災・災難防除・商売繁盛・子育て・交通安全・学業成就等を祈願しています。【仁王尊】 仁王尊は仏法の守護神であり、寺門の左右に寺門神として仁王像が立てられることが多く「金剛力士像」と言われます。 向かって左の那羅延(ならえん)金剛は口を開いた「阿形」、向かって右の密迹(みつしゃく)金剛は口を閉じた「吽形」に表されます。《阿吽の呼吸》 3尺2寸の本尊に対して仁王尊は6尺8寸と大きく、昭和60年解体修理の際に「永享4年(1432)再興勧進」という胎内の記述が判明しました。 桧の寄木造りで、子どもがその股をくぐると「はしか」が早く治るという言い伝えがあり、無病息災を願う人に親しまれています。 現在の仁王堂(鞘堂)は昭和60年に建立されたもので、元は本殿に安置されていて明治15年4月より現在の位置に新築された記録があります。 また、仁王像後方に祀られております十二神将は1尺8寸でやはり智証大師の作と伝えられ、薬師如来の「十二の大願」を護持するための守護神です。------------黒川神社は明治以前は「薬師堂」として1200年もの歴史を持っているが、その間火災にも会わず奥の院に当初からの薬師如来が祀られている。明治になって神社になり、薬師如来と一致する少彦名神が御祭神として祀られることになった。(社報黒川神社第24号から)訪問日2024年4月4日午前■この日の訪問の記事 天満宮(大和町鶴巣太田)(2024年04月09日) 神明社(大和町鶴巣小鶴沢)(2024年04月08日) 稲荷神社(大和町鶴巣小鶴沢)(2024年04月07日) 神明社(大和町鶴巣山田)(2024年04月06日) コミュニティセンター山田(大和町鶴巣山田)(2024年04月05日) 黒川神社(大和町鶴巣北目大崎)(2024年04月04日)
2024.04.04
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戦後、米川村議会議員を務め、「米川新聞」を15年間500回にわたり発行した女性がいた。キリシタンの歴史の再発見、集団洗礼とカトリック教会創立など、戦後の米川の地域社会の姿に思いをしながら、下記文献をもとに、記します。■佐藤和賀子「『米川新聞』からみえるキリシタンと地域社会」 仙台白百合女子大学カトリック研究所編『東北キリシタン探訪』教友社、2024年 所収(なお同書の他執筆者部分も適宜参考にしています。出典等は記事本文中に注記します。)■特に関連する過去の記事(他の関連する記事は後掲) 海無沢の三経塚(2010年11月11日) カトリック米川教会(2010年11月9日)■関連する記事 「東北のキリシタン聖地-旧大津保村を中心に」シリーズ・東北のキリシタン聖地-旧大津保村を中心に(その1 田束山)(2024年08月31日)・東北のキリシタン聖地-旧大津保村を中心に(その2 馬籠村)(2024年09月03日)・東北のキリシタン聖地-旧大津保村を中心に(その3 大籠地域)(2024年09月10日)・東北のキリシタン聖地-旧大津保村を中心に(その4 大柄沢洞窟)(2024年09月13日)1 町村合併 1889年(明治22)4月に、狼河原村と鱒淵村が合併して米川村になる。人口5800人ほど。農耕地は少なく、煙草、養蚕、製炭が主な産業だった。その後、1956年(昭和31)9月、米川村と錦織村が合併して日高村が誕生。人口8500人ほどであった。当時の県は人口1万人以上の広域合併を勧奨したため、一年も経たない1957年(昭和32)5月に、日高村と米谷町が合併して東和町となる。 日高村の合併が決議されたのは1954年(昭和29年)3月26日だが、直後の米川新聞114号(1954年4月1日)の「波紋」欄には、第一の念願たる米川の主体性確立には、今後の大籠部落との併合が是非必要である、とする読者の意見が掲載された。 大籠地区は米川に隣接しキリシタン遺跡がある点で共通する。1889年(明治22)、大籠村、津谷川村、保呂羽村が合併し、岩手県東磐井郡大津保村ができた。さらに、1955年(昭和30)に、大津保村の旧大籠村と旧保呂羽村は近隣町村とともに東磐井郡藤沢村になる(2011年一関市に)。 なお、大保津村は戦後、貴重なキリシタンの聖地として調査が行われた。(上掲書所収、高橋陽子「地域の人々の活動に生きる隠れキリシタン:東北のキリシタン聖地」から。当ジャーナルで別記事にしたい。)2 米川新聞 1951年(昭和26)1月15日に創刊、終刊は1965年(昭和40)2月21日である。その間、日高村誕生で新聞の名称も日高新聞に変更、東和町誕生の際は、北星新報に改称、その11か月後に再び米川新聞になる。 藁半紙(ほぼB4サイズ)ガリ版両面印刷の2ページ。発行部数は350前後、月3回発行で購読料15円(1953年当時)。編集に関わった同人メンバーは、議員の沼倉たまきを中心に、教員、郵便局員、役場職員、農民、主婦など多様。配達は小学生高学年や中学生が担当し(小さな同人)、報酬は不明だが年に一度バスで松島等へ遠足のご褒美があった。 特色は、沼倉の担当による詳細な議会報告が掲載されたこと。また、論説や「桑の実」(朝日の天声人語に相当)、農事放談、農事メモ、学校の行事予定や人事異動、「波紋」(読者投稿欄)、「ほそみち」(風刺のきいたエッセー)、時々小学生向けのクイズが出され景品に文房具をプレゼントしたようだ。出生、死亡、会葬御礼、火事見舞い、商店広告等も載った。 3 沼倉たまきの生涯(1896-1990) 米川新聞の編集発行人であった。 1896年(明治29)米川村に江戸時代から続く医者である沼倉家に生まれる。父の精一郎で5代目と言われる。たまきの生まれる5年前の1891年(明治24)、沼倉家は石巻町の安田家から昌平(12歳)を養子に迎える。たまきは1914年(大正3)、宮城県女子師範学校を卒業し、翌年米川村小学校教員になる。1917年(大正6)には、朝鮮総督府に勤務していた義兄を頼り朝鮮にわたり日本人学校に勤務。義兄の勧めで1919年に婿養子縁組の結婚をするが、翌年に夫が亡くなり、3か月後に長男隆文が誕生。1941年(昭和16)朝鮮で一緒に暮らしていた母りんが亡くなり、2年後には隆文が結核で23歳で亡くなる。 終戦後、たまきは母、夫、息子の3つの位牌をもって帰郷し、1946年(昭和21)米川小学校に勤務。翌年には米川中学校に転勤し、在職のまま米川村議会議員に立候補して当選(1947年4月30日)。その後も日高村議会議員、東和町議会議員に連続当選し、1965年(昭和40)5月14日まで議員を続けた。 翌年の1966年(昭和41)に洗礼を受ける(洗礼名モニカ)。1985年(昭和60)に沼倉正見・満帆夫妻と養子縁組をしている。正見は米川出身の画家で、高校教員の満帆はたまきが朝鮮で小学校の教員をしていた時の教え子である。1990年(平成2)に94歳で亡くなる。4 沼倉たまきの議員活動と米川新聞 たまきが村議になって3年8月が過ぎた1951年(昭和26)1月15日に米川新聞が創刊される。発刊の辞には、明瞭な村を再建するためとある。 なお、創刊号の記事の冒頭は、「新校舎の行方?-行き悩む学校敷地問題-」で、懸案の中学校建築問題を論じているようだ(同書掲載の資料写真から当ジャーナル)。 1965年(昭和40)2月21日発行の第500号を最後に廃刊するが、同号には、「終戦5年という頃、米川にも正しい民主主義を育てようと同士が集まって新聞を発刊した。その功罪は読者の判断に委ねたい」とある。その3か月後の5月14日にたまきは18年間の議員生活を終える。 編集責任者は、221号までは沼倉たまき、222号から406号までは東北電力勤務の亀掛川貢一、以降は個人でなく米川新聞社となっている。5 キリスト教に関する記事 米川新聞に掲載されたキリスト教関係の記事は、内容から3つの時期に分けられる。(1)隠れキリシタンの遺跡や資料の発見が相次いだ時期 =1951年から1953年 8号(1951年3月25日)には「カトリック聖人 後藤寿庵の墓発見さる」。墓石の絵が掲載され、「一天齢延壽巷主」と読める文字がある。寿庵についての記事の要約はこうだ。------------ 後藤寿庵の前の名は岩淵又五郎で、葛西氏の家臣である兄が戦死、葛西が没落後、又五郎は諸国を放浪し長崎でキリスト教徒になった。京都の商人田中勝助と親交を結び、田中の推薦で伊達政宗の家臣になり、その時、後藤と改姓し、現在の岩手県水沢市福原の地に領地を与えられた。福原に堰(寿庵堰)を作り農業の発展につとめた。キリシタンの迫害が激しくなり、政宗は片倉小十郎に捕縛を命じるが、寿庵は逃れ、元和9年12月以来、行方は不明になったと伝えられている。------------ 元和9年(1623)の前年に長崎で元和の大殉教があった。51号(1952年6月21日)には、「訪う人繁き 寿庵師の墓」、53号(1952年7月11日)に「後藤寿庵墓参の名士」と続く。名士とは全日本観光事務局と宮城県観光課の関係者で、観光資源にする動きがあったようだ。 55号(1952年8月1日)では、同年7月16日岩手日報に掲載された記事(岩手県南部家の古文書によれば寿庵の系統をひく信者が84人いた)を紹介している。 しかし、59号(1952年9月11日)では、新しく寿庵の墓碑がつくられ、仙台と一関の教会が協賛で落成式を行ったとの記事が掲載されている。8号で墓と紹介された「一天齢延壽巷主」との関係はわからない。 米川新聞が報道(一天齢延壽巷主)してから40年後に、郷土史家の沼倉良之氏は『洞窟が待っていた仙北隠れキリシタン物語』(宝文堂、1991年)を著す。この中で、「一天齢延壽巷主」の墓は、1951年(昭和26)3月18日に旧米川村で発見されて後藤寿庵の墓と報道されたが、その墓は後に「狼河原村高人数御改帳」から後藤正八の墓であることが確認された、と記している。 60号(1952年9月21日)には、「聖地における荘厳ミサ」。新しく造られた寿庵の墓碑の前でミサが行わわれ、NHK全国放送予定である、と書かれている。また、同号には、じゅあん羊かん本舗の広告がある。 61号(1952年10月1日)では、宮城県史編纂委員の只野(淳)、小原(伸)、岩間(初郎)の三氏が米川綱木沢の小野寺藤右衛門宅を調査して、キリシタンに関する重要な古文書を発見した、とある。この文書には三経塚の由来等の記述があったようだ。 68号(1952年12月11日)では、「子安観音三体発見」の記事で、宝ノ沢で2体、毘沙門天の堂内で1体発見され、何れもマリアを観音様や地蔵様の形にしたと説明がある。 75号(1953年2月21日)では、沼倉良之氏が、小野寺家の巻物(「老聞並伝説記」。なお、沼倉良之『洞窟が待っていた..』では「伝説並老聞記」と記している)から三経塚について紹介している。------------ 鉱山盛りし処 東磐井郡保呂羽村千松大篭村より製鉄方お役人が来り 神仏の信仰を語り教え人々は皆尊び申候処 其後は伊達様の御役人参り 信者を集めて打ち首となす張付となす 手と足に釘を打つ ・・・・・・・死体と経文を埋候 鉱夫の人数は三ヶ所・・・・・・・一場所に四十人位・・・・・・・享保年間の事------------ 76号(1953年3月1日)には、「老聞並伝説記」から、隠れ籠の由来が紹介されている。------------ (旅人が)享保9年8月15日夜、磐井郡一関より黄海に行くために一夜の宿を願うにより 是を許したるも出発は何時とたずねしに 明朝五ッ刻と語りし時 門外に人の声するあり これは追手の役人なり この家に五〇位の男あらば差出すべしとの事 その中に裏門より出で山に登りて一夜を明かす ・・・・・・・かくれた所を隠れ籠と呼んでいる・・・・・・・旅人はついにつかまって磔になったという------------(2)教会活動が活発になった時期 =1954年から1960年頃 小林有方司教が米川村を訪問し、その後に集団洗礼や聖堂建設など教会活動が活発になった時期である。 小林司教は仙台教区長を退いた後に、1971年(昭和46)8月、第8代米川教会の主任司祭に就任した。1980年発行の『身も魂も 米川カトリック教会創立25周年記念誌』に「米川と私」と題したエッセーを寄せている。------------ 私が・・・・・・・仙台教区長に任ぜられたのは、昭和29年の春三月でした・・・・・・・(只野淳氏が)「宮城県北に、米川という不思議な村があります。350年前の殉教者の子孫の住む村落です。殉教の遺跡も数多くありますから一度行ってみませんか」そして、私は、誘われるままに、何気なしに〔おだずま注、この5文字に傍点あり〕、29年の夏の一日、その米川に第一歩を印ました。------------ この時の記事が124号(1954年7月11日)に掲載されている。小林司教が初めて米川に来て1年後、1955年(昭和30)7月10日には集団洗礼がある。159号(1955年7月11日)には、「全国的にも異例の式」「受洗者は184人、大人38人、大部分が小中学生だった」などと。同号の社説の記載は次の通り。------------ 去る10日、184名が受洗された事は本村何百年来の快事である・・・・・・・われわれの祖先がキリスト教を信仰し、120の殉教者を出した聖地である事は、つい近日まで誰一人、口にする者のなかった・・・・・・・人類愛に生き抜くべく改宗された方々のその英断、ひたすら良い子たれと、わが子を神に託すべく受洗させられたご両親の決断に対し、心から敬意を表したい。願わくは受洗者のすべてが、村人の心のともしびとなられるよう祈ってやまない。------------ この集団洗礼は『アサヒグラフ』(1955年7月27日号)で紹介された(バテレン村に主はきませり-宮城県登米郡米川村-)。米川に聖堂はなく、洗礼式は米川小学校で行われた。7月10日は農繁期で昼は忙しかったので、夜に行われた。『アサヒグラフ』記事では、なぜ集団洗礼を受けたかとの記者の質問に、少年が「母ちゃんが、まぁええじゃろう」と答えた、とある。 181号(1956年3月1日)では、聖マリア保育園開園を知らせ、241号(1957年11月1日)には、「カナダ レミュ大司教の贈物」の見出しで聖堂落成の記事が掲載されている。小林司教はカナダで、江戸時代に殉教のあった米川で集団洗礼が行われたことを講演した結果、浄財が集まり聖堂建設が実現したと報じている。 301号(1959年7月10日)には、次の記事(集団洗礼4周年)がある。------------ 7月10日は米川カトリック教会に於ける第1回集団洗礼の記念日にあたり、教会では・・・・・・・ミサを捧げることになっている・・・・・・・信者たちも追々増え信仰生活も漸く板について来つつある。保育園事業その他教会を中心とした仕事も着々と実績が上がって居り今後が期待される。------------ 前掲『身も魂も...記念誌』によると、同誌が発行された昭和51年(1976)時点で、米川教会とその巡回教会の大籠教会の両教会で受洗した人は、臨終洗礼を含めて540人。(3)米川カトリック教会神父の随筆が掲載された時期 =1960年から1963年 1960年(昭和35)に米川カトリック教会は教会報「じゅあん」を発行する。それ以降、米川新聞に教会関係の記事は少なくなるが、神父のエッセーが掲載されるようになる。そのうち3例を紹介する。 347号(1960年11月1日)には、浅沼事件(10月12日社会党委員長浅沼稲次郎が右翼成年に刺殺される)について平田浩神父が寄稿。379号(1961年10月1日)の島村泰三神父の題は「世界の関心は核実験」。ベルギー人の村首ステファノ神父は「青い目で見た米川」の題で連載し、432号(1963年4月1日)では、できるだけ他人の私生活に互いに興味を持たない方が良い、と書いている。6 カトリック布教からみた米川新聞の評価 前出『身も魂も...』には、米川新聞を「間接の布教」と評価する意見が掲載されている。教会報「じゅあん」が発行される前は米川新聞が教会の広報誌の役割を果たしていたが、新聞の編集者は布教を第一の目的に書いたのではないだろう。公平な報道を心がけていたと推察される記事があるからである(下記)。 143号(1955年1月24日)「新春座談会 若い世代に聞く」では、ある青年の「自分だけが幸福になるのなら宗教で出来ようが、家族を幸福にするには経済が伴わないことには」という率直な意見を掲載している。359号(1961年3月1日)では、辛口エッセーを載せる「ほそみち」欄で次の文章がある。------------〔おだずま要約〕旧正月元旦、お父さんは神タナの前で「五穀ホージョー、国家安全」とかしわ手。7歳のA子と5歳のS坊は保育所のおしこみよろしく「チチトコト セイレイノ ミナニヨリテ アーメン」。3歳のT坊やは「ナンミョーホーレンゲッチョ」。ハイティーンK君は年越しパーティで夜更かしし今朝もぐりこんだ床の中から「アアアリガタヤ アリガタヤー」------------ 最後の一節は、1960年某歌手が歌って流行した「ありがたや節」の一節。(五穀豊穣)国家安全は、前年(1960年)の安保闘争を反映して、家内安全を国家安全に書き換えたと推察する。そして、このエッセーの重要な点は、父親だけが伝統的な宗教儀式を継承していること。 伊藤幹治氏が「東北農村におけるキリスト教の受容」(『国立民族学博物館研究報告』11巻1号、1986年8月25日)で、「家督相続者非受洗の法則」と書いている。父親はキリスト教徒にならないことがエッセーから読み取れる。7 現代につながる隠れキリシタン(まとめ) 隠れキリシタンは既存の宗教から新しいキリスト教の信仰に生きた人々である。戦後参政権を得たが、女性が議員として活躍する機会は特に農村では閉ざされていた。しかし、米川の有権者は、沼倉たまきを議会に送り18年間も政治を託した。この選択は、既存の価値観にとらわれない点で、隠れキリシタンと通じるものがある。 米川新聞が15年間休刊がなかったことは、信仰生活を送った米川の人々の持続力と勤勉の成果である。そして、編集者たちが自らを「同人」と呼んだことに象徴されるが、年齢や男女の差もなく多様な人々が結集し新聞発行を担い、米川地区の購読者もまた担い手の一員だった。 戦後の米川地区の人々の中には、隠れキリシタンと同じような精神が生き続けていたと思う。■関連する過去の記事(登米市関係) 気仙沼線・BRTを体験する(2024年05月05日) 香林寺(登米市)(2024年05月02日) 組合立だった名取高校、岩ヶ崎高校、岩出山高校など(2024年03月21日)=組合立だった米谷工業高校 ついに見た!米川の水かぶり(2023年02月09日) ネフスキーと登米(2022年11月9日) 北上川の移流霧(2021年5月22日) 登米の警察資料館(2015年5月24日) 中江その通り(2015年5月1日) 船で脇谷閘門を通過する(2010年11月14日) 華足寺(2010年11月12日) 海無沢の三経塚(2010年11月11日) カトリック米川教会(2010年11月9日) 登米市と「はっと」(08年11月30日) 仙北郷土タイムス を読む(08年10月6日) 登米市出身の有名人と「まちナビ」(08年5月2日) 北上川改修の歴史と流路の変遷(08年2月17日) 北上川流域の「水山」(08年2月11日) 柳津と横山 名所も並ぶ(07年10月26日)
2024.08.16
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今回も鈴木氏の著作を参考にさせていただき、宮城県の市町村別(平成の合併前)の特色をみてみたい。■鈴木常夫『みやぎの苗字 あなたはどこから来たか』本の森、1998年まず、宮城県全体での多姓を確認して、市町村ごとに見た場合に、全県の順位と異なる特に特徴的な姓を拾うことにしたい。(仙台市は前回やったので、それ以外です。何度かに分けて記します。)〔宮城県の多い姓〕1佐藤 42,940世帯 2高橋 25,390 3鈴木 18,660 4阿部 16,850 5佐々木 14,1906千葉 12,610 7伊藤 11,550 8斎藤 11,220 9菅原 9,600 10渡辺 9,36011遠藤 12三浦 13加藤 14小野寺 15菊地 16相沢 17木村 18今野 19及川 20熊谷21吉田 22後藤 23小野 24早坂 25村上 26菅野 27山田 28大友 29石川 30庄子 以下は、全国的な順位に比べて高いと思われる姓を記す。31桜井 34星 40鎌田 42畠山 48大場 51大沼 53大槻 54赤間 56内海 57我妻60山内 62芳賀 64千田 65平塚 72狩野 79門間 83遊佐 86岩渕 89相原 95沼田〔石巻市〕阿部(1位、3700世帯)がダントツで、2位佐藤(1,980世帯)を突き放す。高橋、佐々木、鈴木、木村、千葉と続く。菅原は少なく(18位)、6位の木村のほか、平塚(12位)、亀山(17位)、津田(19位)、須田(25位)などが上位に出てくる。(なお、市町村は平成の合併前。他も同じです。)〔岩沼市〕加藤が5位のほか、太田(8位)、大槻(9位)、小野(10位)、森(12位)などが上位に出てくる。竹駒神社は平安時代に陸奥国国守だった小野篁が山城国から迎え祀ったとされ、今でも小野姓が多い。〔角田市〕佐藤に次いで、2位斎藤、3位渡辺が続く。加藤、太田、大槻、目黒、日下、横山、馬場、水戸、清水、八巻、宍戸、笠松、佐久間、牛沢、毛利、戸村、一条など、他ではあまり見られない姓が多い。目黒氏の由来は、千葉常胤の三男胤盛(のち武石氏)が伊具・亘理・宇多三郡の地頭となったが、その家臣として武州荏原郡目黒村出身の者。〔気仙沼市〕県内他地域とはだいぶ様相が異なる。1位の小野寺(1940世帯)のあと、熊谷(1170世帯)、佐藤(1100世帯)、村上(1000世帯)、菅原までがベスト5で、以下は、千葉、斎藤、吉田、畠山、小山、小松などと続く。種類も多く、菊田、内海、西城(条)、昆野、白幡、梶原、金野、日野、軍司なども代表的な姓。〔塩竈市〕佐藤(1320世帯)、鈴木(1000世帯)、高橋(600世帯)のあと、阿部、佐々木と続く。地域の特徴は小野、桜井など。〔白石市〕佐藤(1550世帯)がトップ、高橋(770)、斎藤(390)、鈴木と続く。5位遠藤、6位日下、7位佐久間、8位半沢、9位村上、10位大野などが登場する。小室(13位)、我妻(18位)、八島(23位)、大浦(24位)、安藤(27位)、高子(30位)なども特徴的。■関連する過去の記事 仙台の苗字の特徴(2016年1月11日) スーパーレアな名前(2015年9月24日) 変わった名前で珍問答(2015年2月10日) 東北の変わった苗字(2015年2月9日) 氏と姓と名字の成り立ち(2012年9月29日) 名字の都道府県別ランキング(2012年9月28日) 都道府県名と同じ名字(2011年12月19日) 各県の名字ベストテンと特色ある名字、珍しい名字(2011年12月18日) 宮城の代表的な苗字は(2006年9月13日) 宮城県の苗字ランキング(2006年9月12日) 姓と苗字の違い(2006年8月23日) 宮城県の由緒ある苗字(2006年8月1日) 苗字と名字の違い(2006年5月22日) やっぱり多い鈴木さん(2006年5月9日)
2016.01.12
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セブンイレブンが盛岡に初めて進出した。毎日新聞の記事に出ていた(8月14日地方版)が、今月1日から盛岡市と矢巾町の3店舗で営業を開始。コンビニ最大手のセブン-イレブン・ジャパンだが、岩手県では00年に一関市出店の後、県南部で27店を展開しているものの盛岡は初進出。北上市に総菜などを扱うチルド米飯共同配送センターを新設し、宮城県内の工場から店まで3時間以内に届ける品質管理の基準を満たしている。来年2月末までに盛岡市周辺でさらに19店を開き、将来50店程度の規模にしたいという。意外だったのは、セブンイレブンが盛岡には今までなかったという、その事実。仙台ではたぶん80年代前半からコンビニ(当時はCVSなどとも称した)が急増した際に、地元系や独立店も健在だったが、ほどなく大手チェーンに飲まれたが、それはセブンイレブンが主流だったからだ。ローソンやファミリーマートは関東や関西に比べて相当遅かったはずだ。盛岡には初進出。そもそも岩手県は00年の一関が初めての進出、ということだから、最大手のセブンイレブンも、全国満遍なく展開しているのではない、ということだ。では、現在の業界大手の勢力地図はどうなのだろう。いくつか調べてみたら、だいたい次のようだ。◎ローソン以前はダイエー系列。また、かつて東北に多かったサンチェーンと合併。私は80年代後半友人と京都を旅した際、夜の町に浮かぶローソンの牛乳看板の多さにびっくりした記憶がある。当時まだ仙台には店舗がなかったと思う。早くから全国展開に力を入れており、現在全都道府県に所在し、店舗数はセブンイレブンに次いで第2位。店舗数は(08年7月)、国内合計8594、東北771となっている。同社HPで店舗検索してみた。 青森市 35店舗 弘前市 18店舗 八戸市 35店舗 盛岡市 37店舗 仙台市 90店舗 秋田市 38店舗 山形市 11店舗 福島市 21店舗 郡山市 8店舗 いわき市 23店舗まんべんなくどの町にもある、という感じ。◎ファミリーマート西友系から出発し、全都道府県に展開。国内店舗数7199は業界第3位。店舗数を同社HPで拾ってみると(都道府県別)、 青森 25 岩手 96 宮城 197 秋田 33 山形 87 福島 126ちなみに、九州や沖縄に強いとされるが、福岡260、長崎130、鹿児島199、沖縄198などと、やはり店舗数が多い。◎サークルKサンクス長崎屋系列のサンクスと、ユニー系のサークルKが起源。ユニーが名古屋を中心とするため、中部地区の店舗が多く、また青森県内に古くから店舗が多いそうだ。JA共済連が株主となっているのも特徴。サンクスは第1号店が仙台市八幡(80年)で、そのためか仙台では結構店舗が多いように思う。特に仙台駅前地区に多いと私は感じている。サークルKとサンクスを合わせて全体では、中国や九州方面には店舗展開が少ない。また、サークルKは東日本には少ないようだ。店舗状況を同社HPから調べた。全国6148店舗(サークルK2984、サンクス3164)。 青森 合計 174 サークルK 111 サンクス63 岩手 93 8 85 秋田 107 26 81 宮城 115 0 115 山形 55 0 55 福島 20 0 20 東北計 564 145 419◎セブンイレブンイトーヨーカ堂がライセンスを取得して国内で始めたご存じ国内最大手(12013店舗)のコンビニチェーン。現在は株式会社セブン&アイ・ホールディングスの完全子会社。ローソンなどと異なり特定地域に展開する方針をとっており、現在でも未展開の都道府県が意外と多い。青森、秋田、富山、石川、福井、鳥取、島根、徳島、香川、愛媛、高知、鹿児島、沖縄が未だ店舗設置のない県であるが、HPによると、北陸や四国にも展開をしていくようだ。岩手県27 宮城県316 山形県130 福島県376ちなみに、栃木337、群馬344、と関東以北では北に行くほど展開が薄い現状となっている。岩手県北部(盛岡)の出店は北東北展開の足がかりということだろうか。仙台でコンビニ急増時期には、地元系を飲み込んでコンビニといえばセブンイレブンだったように思う。その後、乱立から店舗閉鎖となるのもセブンイレブンが代表格で、あのレンガ調の店舗が、携帯ショップや中古車屋になったりしているところが結構ある。しかし片や、仙台周辺で最近でも新規立地の店もある。やはり最大手は健在というところか。◎ミニストップイオングループであり、最近仙台周辺で新規店舗を数多く見かけるようになった。店舗数1879で、関東や中部に多いが、東北も比較的多いようだ。イートインと呼ばれる店舗内で飲食できる形式が特長。私も娘とアイスを食べたりしています。青森県(40)、岩手県(県北部のみ)(6)、宮城県(82)、福島県(52)東北合計180は、九州(福岡県中心に115)、大阪府(75)、京都府(33)などと比較してみても相対的に多いと言えるだろう。◎デイリーヤマザキ山崎製パンがかつてサンエブリーとヤマザキデイリーストアーを展開していたが、これを統合したもの。店舗数1622。同社HPから拾ってみた(一覧がないので結構大変だった)。 青森市8 弘前市4 八戸市1 盛岡市6 仙台市51 秋田市9 山形市0 福島市0 郡山市4 いわき市3◎am/pmやっぱり東北には店舗がないようだ。◎ホットスパー(HOT SPAR) ココ(COCO!)ストアあのスペードのようなマークで、結構仙台にもあったような気がする。茨城県を中心に展開していたが、現在ではすべての店舗がココストアに変わっているそうだ。あの濃いピンクの看板ですね。ココストアの店舗情報を、「ココストアイースト」のサイトから拾うと、全国392店舗。東北では、北3県にはないようだ。(宮城県24) 仙台市1 利府町1 美里町1 色麻町1 石巻市12 登米市3 女川町1 栗原市1 気仙沼市3(山形県6) 山形市2 米沢市1 南陽市1 上山市1 東根市1(福島県24) 福島市3 白河市3 西郷村2 郡山市5 小野町1 棚倉町1 北塩原村1 南会津町1 湯川村1 いわき市4 南相馬市1 相馬市1石巻市が断然多いのはかつてのスパーの流れだろうか。ところで、これはココストアイーストという会社の店舗であって、ホットスパーの流れを汲むもののようだ。従来から東京などで展開しているココストアはサイトも別で、こちらは北関東、東北には店舗が全くない。■関連する過去の記事 コスモス(仙台)とエイトテン(石巻)があった時代-1983年の宮城のコンビニ事情(05年11月16日) 仙台のコンビニ今むかし 「コスモス」を知りませんか?(05年10月12日)
2008.08.16
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ミトコンドリアDNAの解析によって、日本人は決して均一ではなく、大きく2つのグループに分かれる。その1は中国大陸、韓国、アメリカインディアンと遺伝的に近く、その2は東南アジア人に近い。縄文人の頭骨からDNAを抽出した結果、縄文人と近世アイヌは、現代日本人とは系統的にかなり異なり、縄文人は、現代のマレーシアやインドネシアなど東南アジア人と共通の遺伝的起源があることが明らかとなった。(国立遺伝学研究所宝来助教授の研究)また、家族内だけで感染する成人T細胞白血病ウイルス(ATLウイルス)の分布を調査すると、もともと日本列島にATLウイルスキャリアであった先住民がいたところに、大陸からノンキャリア集団が渡来し勢力を拡大、日本人の主流を占めるに至った、との仮説が立てられている。現在、北海道のアイヌ、琉球人、九州や東北の一部、隠岐島などにATLキャリアが高い確率で存在するのがその証拠である。(京都大学日沼名誉教授の研究)さらに、人間に随伴するイヌの移動パターンからもこれは裏付けられる。縄文人は犬を友として葬ったが弥生人は食料とした形跡さえある。これらの研究から、まず東南アジアから縄文人につながる人々が移住し、日本列島の全体に広がった後、大陸から渡来した人々と混血していった、と思われる。『古代史発見シリーズ2 謎の東北王国・三内丸山』1996年、学習研究社 から■関連する過去の記事 ミトコンドリアDNAと日本人の起源(07年11月4日) 縄文人と弥生人(07年6月5日)
2008.11.23
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山形県の最上川で発見された江戸時代の小判の話。24時間テレビでも川の捜索が行われたので私も知っていた。その経緯を下記の書物を参考に記事にしたい。■八重野充弘『埋蔵金発見!解き明かされた黄金伝説』新人物往来社、2010年------------昭和36年(1961)7月31日、白鷹町の最上川で手製の箱眼鏡で魚取りをしていた12歳の上村義実さんが、川底から金色に輝く楕円形の小判を発見。うわさが町中に広まり、約半月の間に小判23枚、二分金9枚、二朱銀358枚がみつかった。白鷹町の人々の記憶には、西村久左衛門の黄金伝説がよみがえった。米沢藩御用商人の西村久左衛門は、米などの産物を舟で酒田まで運ぶため黒滝の改修を藩に提案。財政難のため断られるが、1万7千両の自己資金を投じて工事を行い、米沢と酒田の間の水運を完全なものとし、藩主上杉氏も久左衛門も巨利を博することができた。その後久左衛門は現在の白鷹町最上川河畔に藩のため蔵屋敷を建て、近くに自宅も新築。そして自宅地下に子孫のため財産を埋蔵したといわれる。屋敷がどこにあったか全くわからないが、川っぷちにあった久左衛門の屋敷が洪水で流され小判が川底に沈んだのではないか、と憶測する住民もいた。しかし、見つかった小判はすべて文政2年(1819)から11年にかけてつくられた文政小判で、二分金と二朱銀も同時代。久左衛門の河川改修は元禄6年(1693)から翌年なので、久左衛門埋蔵金説は否定された。ところが、地元の郷土史家が、寛長公御代要覧という史料から、本庄家用人の小嶋俊親の日記の記述を見つけ出した。「天保元年(1830)7月10日、城下(米沢)の大和屋久左ヱ門から、荒砥の清水屋に80両を運ぶ飛脚が、鮎貝、荒砥間の最上川で溺死した。」1830年は文政小判が流通した頃であるし、発見された金銀貨の総額が72両1分なので、金額にも矛盾がない。また、飛脚が溺死した場所は当時の渡し場の近くで、金銀貨がみつかった場所とも一致する。現金輸送飛脚の落とし金とみて間違いないだろう。ただ、残り7両と3分が未回収となる。2008年夏の日本テレビ「24時間テレビ」で地元の子ども達とタレントが探そうと言うことになったが、生放送の当日は豪雨のために川が増水して中止。後日リベンジを図ったが何も見つけることはできなかった。なお、61年に改修された小判その他は、はじめ25名の発見者がそれぞれ自宅で保管していたが、町が埋蔵文化財に指定して一括保存することとなり、昭和41年にかき集められた。時価総額2千万円といわれるお宝は、今、白鷹町役場の出納室の金庫に厳重に保管されている。------------■白鷹町観光協会のサイトに詳しい解説があります。
2011.11.02
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仙台で越路(こえじ)といえば、今は市内から愛宕橋を渡ったところの町名ですが、元来は、そこから霊屋下に至る街道、つまり今でいう向山のバス通りを指したのだそうです。 昨夜、以前住んでいた宮城野区五輪のことを考えながら寝ましたら、今朝の夢で、向山のバス通りが浮かんで、昔を思い出していました。 越路は、古くは東街道と呼ばれた江戸と奥州を結ぶ街道筋として活用されたそうで、長町からこの向山バス通りを通って鹿落を経由して広瀬川を渡るというルートだったのだそうです。仙台開府の後に、清水小路などのルートが主流になったそうです。 また、八木山は八木久兵衛さんの山だったからですが、八木家の所有となる前は、八木山一帯は仙台藩士の共有財産で、「越路山」と呼ばれていたそうです。 あの辺一帯は、旧町名も「長町越路」ですね。昭和40年代の住居表示導入前に建てたと思われる家の表札に長町越路の住所を記した家を何軒か見かけました。 実は私、学生時代は向山三丁目に住んでいました。 その「越路」(向山バス通り)は、私の新聞配達ルートでもありました。 あの年の12月は例年になく寒い冬だったと記憶していますが、コートにくるまって電気コタツで寝て、朝4時に起きたら、向山高校下のアパートから、八木山入口の新聞販売店まで、暗い中、坂を走って下りるのです。K新聞のようにメジャーじゃない、M新聞なものですから、配達軒数の割には配達区域が広く、上は八木山香澄町の県警住宅から、下は霊屋・米ヶ袋まで、という具合です。6時過ぎに配達を一通り終えて、鹿落の坂をスパイクタイヤのバイクでグィーンと登ってくる頃には、東の空がほのかな紫に明けてきて、販売店から今度はトボトボ歩いてアパートへ。ゴソゴソと石油ストーブをつけて... 咳がなかなか抜けなくて辛い冬でした。1月2日(新聞休刊日)の朝はものすご~く安楽な気分に浸った記憶がある。 八木山入口の角のF酒店でよく酒やツマミを買い、また灯油も配達してもらいましたが、ある時、おばさんが「あんだもガンバらいよ」といって、梅干しの詰まった太いビンをくれました。朝起きたら、1粒口に入れて、しばらくは噛むのを我慢、坂を下ってちょうど酒店のあたり、販売店の直前で噛みつぶしたものでした。すっぱ~い。 ありがとう、おばさん。なぜか南高校の新任の先生だネと間違われていたけど。 酒や灯油代のツケも完済していたかな。ちょっと大げさかも知れないが、あの梅干しで頑張れたような気もする。 「越路」には本当にたくさんの思い出があります。(編集部注:今回も『忘れかけの街・仙台』(河北新報出版センター)を一部に参考にしました。)
2005.12.28
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今回も下記文献からのお勉強。アイヌ語で読み解けるとされる仙台の地名について。■太宰幸子『仙台城下の地名』(国宝大崎八幡宮 仙台・江戸学叢書14)大崎八幡宮 仙台・江戸学実行委員会、2008年■関連する過去の記事(同文献からの記事) 古代人の移民地名(玉造、加美、志田、色麻など)(2013年4月16日) 縄文海進海退の跡を示す地名(2013年4月15日) 燕沢の地名を考える(再論)(2013年4月14日)(県内の災害崩壊地名)アイヌ語で解ける地名は青森県、秋田県、岩手県に多いが宮城県内でも仙台以北に確認される。多くは、古代城柵のあった地点を結んだ直線の前後から北に分布。仙台市内では次の3つの地名などが、アイヌ語で解けるとされる。(1)案内燕沢と東仙台に統合されて消えたが、案内住宅やバス会社の案内車庫の呼び方が残る。案内は ara-nay で、もう一つの川の意味。燕沢エリアには、北に高野(こうや)川、南の東仙台エリアには藤川が流れ、藤川のそばの高台(東仙台5丁目)に案内公園がある。このあたりが案内住宅とよばれたようだ。高野川は与平沼(ママ)から流れ出るが、昭和4年に井戸を掘った際に湧き出た案内温泉(案内荘)がある。(2)日辺名取川と広瀬川の合流地点に開けた場所。洪水が度々あったのではないか。アイヌ語では nit-pet で、流木がたくさんある川の意味。アイヌ語を話した人が住んだ頃は上流からたくさんの気が流れ着く土地だったろう。(3)茂庭北海道の藻岩と同じ。mo-iwa 小さい山だが、どちらかというと霊山のような所を言ったようだ。太白山がそれかも知れない。■関連する過去の記事(案内について) 仙台のロータリー(その4)東仙台5丁目(2010年11月26日) 仙台百景画像散歩(その3 東仙台案内踏切)(06年3月22日)
2013.04.18
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ラベル正面には、「紫黒米酒OMOWAKUHIME Light Feeling Sake 平安の武将が愛した娘 おもわく姫」と記されている。精米歩合90%、アルコール分8度。製造は蔵王酒造(白石市)、企画は多賀城市観光協会。そして、「多賀城市の古代米(紫黒米)を100%使用した低アルコールのお酒です。優しい甘味とキレの良い酸味が口一杯に広がります。」と記されている。美味かった。以下は、購入の際にいただいたパンフレットの内容を転記します。ほんのり甘酸っぱい想いがわく〈古代米美酒〉おもわく姫※お酒は二十歳になってから販売店・提供店 *株式会社 すずこう 宮城県多賀城市下馬2-11-14 TEL:022 (365) 8850*ネット注文も承ります https://suzukougift.base/shop古代ロマンに想いをはせて、心華やぐ芳醇なひとときを。史都・多賀城の地に伝わる、いにしえの恋物語。ヒロインの名は「おもわく」。歴史のかなたに咲いた、美しい恋をモチーフに生まれたお酒「おもわく姫」。淡い色合いと爽やかな香り。ほんのり甘酸っぱい舌触り、そこから広がる華やかな味わい。フレッシュな白ワインのようにフルーティーな、新感覚の日本酒です。新感覚を醸し出すのは、はるかな時を超えて現代によみがえった古代米。悠久の歴史と伝説の物語に想いをはせ、芳醇な酔い心地をお楽しみください。Brand ー Omowaku hime多賀城グルメブランド「しろのむらさき」のお酒。 多賀城を流れる野田の玉川には、伝説の架け橋があります。平安時代の武将・安倍貞任が、美しい村娘・おもわくに恋をして、彼女のもとへ通うために架けたといわれる「おもわくの橋」。別名「安倍待橋(あべのまつはし)」です。 そんな恋物語が伝わる当地では、古代から稲作が盛んに行われていました。紫の稲穂が特徴の品種「紫黒米(しこくまい)」を中心に古代米を育て、それを原料に誕生した新たなグルメブランドが、多賀城の「しろのむらさき」。そのブランドを牽引する古代米美酒が「おもわく姫」です。 古代米には、ポリフェノールの一種・アントシアニンやビタミン、ミネラルなどの成分が含まれています。精米歩合90%の「おもわく姫」は栄養素を豊富に含みつつ、古代米特有のフルーティーな酸味と香りが、爽やかで軽い飲み口を実現しています。 ストレートで味わうだけでなく、生レモン搾りや炭酸割り、グレープジュース割りなど、カクテルベースとしても楽しめます。フルーツとの相性が抜群なので、サングリア風のアレンジもおすすめです。(写真の解説)1:フルーティーで爽やかで軽い飲み口が特徴。2: 炭酸やジュース割り、サングリアなどお好みのアレンジで楽しめます。3: 現在も残る野田の玉川に架かる「おもわく橋」。Production ー Omowaku hime若き作り手たちの志が、伝統を未来へつなぐ架け橋に。 古代米の作り手は、多賀城高橋地区の由緒ある農家7代目を継ぐ食品開発者。古代米を醸すのは、宮城の老舗蔵元「蔵王酒造」気鋭の若き杜氏。伝統の継承と革新に挑む、若き志が架け橋となり、古代の恵みが新時代の日本酒として結実しました。(写真の解説)1:多賀城高橋地区の7代目農家により生産される古代米。2: おもわく姫と杜氏の大滝真也氏。3:一般的なお米に比べ、ミネラルやビタミンが多く含まれる古代米。4:宮城の老舗蔵元によって醸造される、おもわく姫。History ー Omowaku hime史跡からの出土品が物語る、古代みちのくの稲作。 多賀城は、奈良時代に陸奥国(みちのくのくに)を統治する国府として創建された北の都。現在、日本三大史跡に数えられる城跡は、およそ1300年もの歴史を誇ります。城跡出土品に記された「黒舂米(こくしょうまい)」 の文字が当時の稲作を物語り、グルメブランド「しろのむらさき」の誕生につながりました。(写真の解説)1:松尾芭蕉が「奥の細道」の行脚の際、訪れている壷碑。2: 多賀城のほぼ中央に位置し、政務や儀式が執り行われた政庁跡。OMOWAKU HIMETagajo madeSake created from ancient rice grown in Tagajo.■関連する過去の記事(古代多賀城、多賀城碑) 国宝指定された多賀城碑(2024年09月16日) 日本三古碑と上野三古碑(2023年01月13日) 利府町の埋蔵文化財(2022年5月7日)=窯跡など 多賀城 命名の由来(2012年10月9日) 多賀城の遺跡認識(下)(2011年11月19日) 多賀城の遺跡認識(上)(2011年11月18日) 多賀城と4面サイコロ(2011年9月14日) 多賀城碑、壺の碑、日本中央碑について(2010年11月1日) 東北の道 概説(その1 古代)(2010年10月23日) 多賀城 壺の碑(08年9月15日) 日本の三古碑(07年8月22日)(多賀城の碑) 船形山神社の仏像と多賀城(07年8月30日) 加瀬沼から多賀城六月坂地区へ(07年4月16日) 多賀城跡の風景(07年2月19日) 多賀城の基礎知識(後編)(06年8月8日) 多賀城の基礎知識(前編)(06年8月7日) 岩切の寺社をめぐる(06年1月3日) 平泉への道(06年1月11日) 芭蕉が感激した「おくのほそ道」岩切・多賀城(06年1月25日) 古代東北の理解(06年5月31日)■関連する過去の記事(多賀城市) 多賀城緩衝緑地と砂押川災害復旧(2015年6月21日) 湊浜の昔(2015年3月15日) 末の松山と東日本大震災の津波(2013年10月19日) 多賀城市「下馬」の由来(2012年8月14日) かなり古い時代の岩 沖の石(2011年11月27日) 野田の玉川 歴史散歩(その1)おもわくの橋~大土手橋(10年5月4日) 野田の玉川 歴史散歩(その2)清水橋~おもわくの橋(10年5月4日) 野田の玉川 歴史散歩(その3)天神橋~せせらぎ橋(10年5月4日) 野田の玉川 歴史散歩(その4)天神橋上流の鉄道廃線跡(10年5月4日) 末の松山・沖の石(10年4月30日) 多賀城のあやめ(09年6月13日) 多賀城 壺の碑(08年9月15日) 加瀬沼から多賀城六月坂地区へ(07年4月16日) 多賀城跡の風景(07年2月19日)
2024.10.01
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以前の日記(仙台コンビニ今むかし)で、学生だった頃の仙台のコンビニについて書きましたが、偶然、当時のコンビニ事情を伝える非常に面白い資料を目にしました。宮城県商工労働部が昭和58年3月に出した調査報告書です。まず面白いのは、調査の趣旨の説明。大店出店規制を受けて流通王手がCVS(コンビニエンスストア)のチェーン展開に重点を置く一方、フランチャイズチェーンやボランタリーチェーンが真に消費者に受け入れられるか(コンビニエントなのか)を見定める必要もある、という趣旨です(ODAZUMA Journal要約)。当時は東北新幹線開業直後ということもあり、また、82年(昭和57年)は県内コンビニ店舗数が対前年で倍増以上(207%)と雨後のタケノコの時期であったことを反映して、中央資本と地元資本の動向、地元の小売経営者の意識、消費者の意識、など基礎データを全体的に把握しようという意図だったのだろうと思います。この後に到来する本格的な郊外型店舗立地も含めて、従来型の単立小売店と商店街を軒並み潰していく商業大変革の津波の、その第一波というところでしょうか。ライフスタイルの点でも、深夜や未明でもモノが買えるというのは、まさに画期的だったはず。いや~まさに、時代ですね。(中島みゆきの「時代」を聞いたのは小学校6年生だったかな...)以下に、調査報告書の要点をご紹介します(ODAZUMA Journal要約。なお、消費者や経営者の意識などの部分は除外)。データなのでちょっと長いですが...------------○ 83年春時点で県内に200店舗以上(何らかのチェーンを形成しているもの)。○ 内訳は(括弧内は資本)... サンチェーン(キャバレーハワイチェーン・ダイエー・ローソン)55店 サンクス(長崎屋)34店 コスモス(独立系)23店 パンプキン(オーケー(ダイエー系))16店 エイトテン(独立系)15店 マイショップ(独立系)9店 セブンイレブン(イトーヨーカ堂)21店 サンエブリー(山崎製パン)2店 YDS:ヤマザキデイリーストア(山崎製パン)42店○ 当時の全国チェーンで宮城県に参入していないのは、 ミニストップ(ジャスコ) ローソン(ダイエー) ファミリーマート(西友) サークルK(ユニー) Kマート セイコーマート コミュニティストア○ チェーンの形態別にみると、 フランチャイズ方式(FC)100%なのが、セブンイレブンとYDS。 逆にレギュラー(直営)チェーン(RC)100%が、サンチェーンとコスモス。 他はFCを基本に一部RCやVC(ヴォランタリーチェーン)を混合。------------さらに、調査報告書の中から興味深い点をいくつか。■ 店舗数ではサンチェーンが堂々第1位。仙台では、78年(昭和53年)のコンビニチェーン第1号を始めに、サンチェーンが出足が速かったようです。(78年は宮城県沖地震。私はまだ仙台におりませんでしたし、来るとも思っていなかったですが。)そのあとセブンイレブンの猛追を受け店舗数で一旦抜かれますが調査時点ではトップの座を回復。■ 82(昭和57)年には単月に約9店舗の新規開店という、物凄いペースでコンビニが拡大。この年には、セブンイレブンとサンエブリーの大手2チェーンが参入し、乱戦の幕開け! ちなみに向山高校の下に住んでいた私も向山2丁目のセブンイレブンによく行きました。■ 他方で、83(昭和58)年1月には既に仙台で2店が閉鎖しており、競争の激化の一端として注目される。(注:このコメントを書けた県の担当者はすばらしい。)■ 有名な石巻のエイトテン。15店舗全部が石巻市内。石巻では最大の店舗数を誇り、他にはサンチェーン6店、サンクス1店のみです。出足も比較的速く、70年代末には店舗網を構築したようですが、その後は店舗数も伸びず、結局大手に飲み込まれていくことになります。■ 仙台・宮城のコンビニ展開の特徴。札幌や福岡と比較して、地場のCVSが少ない。と、だいだいこんな感じ。とても興味深いですね。前の日記では確信を持てずにいた仙台の「コスモス」は、やっぱり実在した! この点は記憶が実証されたので安心。たしかこの直後に「ニコマート」(これも消滅したはず)に吸収されたように思います(この点はまだ曖昧)。それと、エイトテン。ネーミングだけで全国的に有名になりましたが、他に先駆けて地元展開したチェーンが数年であっさり大手に負けてしまったのは、一面で寂しいですね。独立系のコスモスとエイトテンが、その後東北各県に店舗展開する、なんてことにはならなかったです。まあ、それが仙台・宮城らしい、ということでしょうか。その点では、古川市に本社のあるリトルスターが注目されます。86(昭和61)年にCVSに進出、今では、岩手、山形、福島にも店舗を展開しているのだそうです。
2005.11.16
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1 概説勃発は寛政9年(1797)3月9日の払暁。江刺郡伊手村であった。9日には他6か村の農民二、三百人が集まり、江刺郡邑主で一門の伊達大炊(岩城氏)の岩谷堂町に押し寄せた。やがて水沢、前沢など上下伊沢郡から磐井郡に広がる。波は登米郡にも押し寄せ、寛政一揆最後の仙北諸郡大蜂起が勃発する。すなわち、西磐井郡流郷永井村で計画された一揆は、石越村に入り四方に連絡を取って一部は東進して石森村、黒沼村に屯し、登米伊達氏の城下に進出し栗原郡の一揆と合流。また、石森村からの連絡で佐沼郷7か村の農民も蜂起し瀬峰から高清水に向かった。かくして一揆は、石越若柳方面、佐沼瀬峰方面、栗原郡西部方面のものが築館、高清水に合流し、仙台城下を向かって奥州街道を南下しようとした。これに呼応して遠田、玉造の両郡下にも蜂起の形勢があり、もし栗原登米の農民が高清水を突破して大崎耕土に入るなら、遠田志田玉造の農民も合流することが明瞭の緊迫した事態となった。藩ではこの重大事態に地方邑主を動員し、できるだけ願書を受理し穏便に解散させるよう指示。4月28日29日の頃に、迫方面の一揆主流に対しては高清水邑主石母田備後が、また、瀬峰に向かった佐沼郷の一揆に対しては佐沼邑主亘理内膳が、栗原郡山間地の一揆に対しては真坂の邑主白河上野が、それぞれ一揆と交渉して嘆願書を必ず藩主に上聞すべきことを約束して群衆を解散させた。その他遠田郡西野村の一揆は大肝入がとりなし、玉造郡の一揆は岩手山の邑主御一門伊達弾正が、志田郡の一揆は三本木町で松山の邑主茂庭周防が説得した。気仙、伊沢、磐井、登米、栗原、遠田、玉造、志田の9郡を席巻し一説には宮城郡にも蜂起が伝えられる。正しく仙台藩未曾有の大事であった。2 一揆の要求と藩の対応記録が残る永井村の嘆願書は31ヶ条から成るが、(1)不当な課税や借上げに反対、(2)御買米に対する反対、(3)郡方村方役人の不正、(4)窮迫した農村に救済の要求、の4点にまとめられる。最後に、拙者共申上候通御下知不被成下候ハ拾ヶ年間御暇被下置度奉願候御事、と固い決意を述べて藩を威嚇した。藩では蜂起の落着とともに、寛政転法と称せられる民政の転換を発表した。すなわち藩としては一揆の要求を受容し、首謀者の処分は寛大にし、むしろこれを機会に藩政の改革刷新を実行しようとした。平定後1か月を経た5月2日に、奉行衆より出入司に、郡村の潤助と民間の窕(くつろぎ)のための改革を指示。地方役人の大減員、役人の廻村停止、郡村の諸償(肝入大肝入などの費用)や遣捨人足(御作事や御普請方)の厳正化、年貢先納の緩和、などが正式に村々に通知され、事務の簡素化で役人の不正も減少し農民負担も減る結果となった。ただし、一揆が最も要求した買米制度の改革と大肝入制度の廃止には、藩は一切手を触れなかった。買米制は藩財政の支柱であった。また大肝入は農民の抑えとなる重要な役割で蜂起の取り鎮めにも大きな力となった。寛政転法で地方の中間的役職はかなり整理され、実権が代官に集中したが、これがためにむしろ農民との間の緩和役である大肝入が重要となったためである。3 責任者、首謀者の処分一揆の直接の原因は、郡方役人の苛政とこれに結託する大肝入肝入への憤激であった。藩が地方役職制の改正に主眼を置いて寛政転法を実施する以上、当然ながら不正役人や役付の処分を行った。全貌を明示する史料はないが、郡奉行小松左門は免官、北条大輔、平三左衛門は役替。村方役付では、迫筋一揆の責任を負い、佐沼大肝入高橋佐戸右衛門(御買米本金を私的流用)が大肝入追放。登米郡大肝入伊藤慶治(寛政5年為登(のぼせ)米の大坂銀利潤や同6年登米佐沼上納金着服など)は城下及び登米一郡から追放。一揆首謀者側については、「張本人ハ江刺郡伊手村百姓誰(名前失念仕候)、下伊沢徳岡村百姓山伏正覚坊を始御郡々張本人有之候得共、伊手村百姓誰正覚坊ハ徒党主本人ニ付死刑に被相行、其他大体流罪被相行候事」(佐伯是保の書上)。死刑にされた2人を中心に各郡各村に連絡者組織者があったのであり、例えば永井村に発端する迫筋の蜂起は石森村の百姓嘉蔵が連絡に当たったが、主として指導したのは大肝入や肝入級の土豪的百姓ではなく、組頭級の中農層だったらしい。瀬峰に向かった南方村一揆の指導者清蔵、兵作、惣作の身許からも想定される。伊手村の百姓某や徳岡村の山伏正覚坊も恐らく同様な階層だろう。一揆が中農層に指導されたのは、耕野村や松川村の初期の一揆が、封建農村の設定をめぐり村を支配してきた土豪層と藩の支持を受けた給人との対立であって、肝入を中心に動いたのとは異なる。寛政一揆では、大肝入肝入は農民から分離し、藩と協力して鎮圧につとめた。金成村大肝入や石越村肝入は一揆の襲撃を受けている。藩の貢租が強化されると村方役付は農民からの収奪に一役買うことになるから、一般農民との間に対立が生じる。買米や貢租の重課で打撃を受けるのは組頭級の中農層であり、その強固で合理的な自衛行動が寛政一揆であった。藩としても、本百姓維持政策を継続する以上、首謀者の処分も寛大にならざるを得なかった。こうして張本人2人が極刑とされただけで、他の指導者は流罪。南方村兵作は家財欠所、網地浜へ流罪、清蔵と惣作は家財欠所の上、長渡、田代島に流罪。永井村首謀者も入牢の上7回の詮議を受け寛政10年離島へ配流。■関連する過去の記事 仙台藩領の百姓一揆(2010年10月10日) 三閉伊一揆を考える(2008年1月7日)■平重道『仙台藩の歴史3 百姓一揆』宝文堂、1972年 から■奥州市サイト 百姓一揆
2010.10.10
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学生時代に吉野家の牛丼を食べるのは、贅沢に浸れる幸福なひとときだった。仙台では、青葉通り店によく行ったが、徹夜明けに友人の分まで牛丼弁当を自転車で買いに行ったりもした。社会人になってからも、深夜の仕事の後や、また酒飲みの後(その場合は国分町店か駅前店)にお邪魔している。最近では胃袋の能力も下がり、あまり行っていないが、先日事情あって登米市の佐沼店で朝飯に豚丼を食した。米国産牛肉の輸入解禁の動きがあるが、店で提供できるには2ヶ月ほどかかるという。さて、20代の頃の私は宮城県内の吉野家はすべて制覇したと自慢していたが(もちろん「はんだや」も同じ)、あの頃の記憶では県内の店舗は次の通りだったと思う。 ○青葉通 一番お世話になっている。牛丼が食えるという噂があり、バイトしたかった。 ○扇町 結構古くから有るはずで、兄におごってもらった記憶あり。 ○高砂? 小さな店舗。2回ほど行ったことがある。 ○向陽台 泉店が正式名称。1度だけ行った。当時はここで宮城県内全店制覇が完成。 ○北根 昭和64年昭和天皇崩御の朝に大先輩と一緒に朝食を食べた。帰宅途中夜中に入るパターン多し。 そのほかに、仙台駅前店や岩沼店も早くからあったような気がする。その後、仙台市内などできめ細かく店舗展開しているようだ。吉野家D&CさんのHPで現在の店舗状況を確認。どうでも良いことだが私の訪問実績を付記しました。 ○青葉区 7店舗 私の訪問実績5/7 ○宮城野区 5店舗 3/5 ○太白区 2店舗 0/2 ○泉区 4店舗 2/4 ○石巻 1 0/1 ○塩釜 1 0/1 ○気仙沼 1 0/1 ○白石市 1 0/1 ○名取市 2 1/2 ○岩沼市 1 0/1 ○登米市 1 1/1 ○大崎市 1 0/1 ○大河原町 1 0/1 ○利府町 1 1/1 ○大和町(鶴巣PA内)1 0/1 ○富谷町 1 0/1というわけで、私の宮城県内店舗訪問実績は、31店舗中13店舗。打率にして現在 .419です。吉野家HPによると、出店形態にビル・イン(駐車場のない都市内部型)とフリースタンディング(ロードサイド型)と2つあるが、後者の場合、 ○車両交通量が多いこと(12時間で10,000台×片側車線数が目安) ○人口増加率が高いところが条件で、敷地面積 150~250坪、.間口 25m、店舗面積は25~30坪、駐車台数は15台以上を標準とするそうだ。吉野家の場合、直営とFCの混合展開だと思うのだが、HPに建設協力金は1000~2500万円と記載があるのは直営店舗を想定してのことか。とすれば、なおさら、立地条件を本部で相当吟味して出店を決定するのだろう。以下に東北地域の吉野家店舗を拾ってみた。○青森県 5(青森市、弘前市2、八戸市、五所川原市)○岩手県 8(盛岡市4、花巻市、北上市、奥州市水沢区、一関市)○秋田県 6(秋田市3、能代市、横手市、大館市)○山形県 6(山形市2、米沢市、酒田市、鶴岡市、天童市)○福島県 19(福島市4、会津若松市2、郡山市6、いわき市2、須賀川市、相馬市、伊達市、本宮町、西郷村(新白河))東北の主要地方都市が規模の順序できれいに揃っている。合併前ベースで人口7万人程度の集積の都市にはある、という感じ。吉野家は直営とFCが混合していると思うが、徹底した立地調査をしているはずだ。競合する牛丼チェーンでは、すき家(全店舗直営)が結構展開しており、各都市への展開はほぼ吉野家と同様の状況だ。FC展開のなか卯(ゼンショー)は、宮城、山形以外には、秋田市に1店舗、八戸市に3店舗のみ。吉野家に戻るが、例えば岩手県では、6万人規模でも水沢にあって宮古にない、という辺りが丁度分かれ目なのだろう。配送の交通事情も加わっているかも知れない。宮城県の気仙沼にはあるのは、やっぱり宮古と差が付いている。その宮城県内では、登米市(佐沼)にあって栗原市にはないのが、1つの分水嶺だ。佐沼の都市集積が反映された形。秋田県では、次は本荘や大曲だろうが、ちょっと集積が足りない(4万人クラス)。青森県では、五所川原にあるなら十和田市にあっても良いようなものだが、交通状況などの差が反映しているのだろうか。山形、福島はきわめて自然な結果。私は宮城県以外にも都内各所で相当食べている。夜行列車で東京に行った早朝、青雲の志を持った18才の私が、兄の案内で人生最初に入った吉野家は、四ツ谷の駅を出てすぐの店だった。店を出たら冬の空が明るくなっていた。
2006.08.15
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昨日の記事で秋田県教委の発表している学校毎の進学実績を引用したが、青森県教委でも学校毎のデータ(平成19年春)を公表していた。昨日と同様に、まずは大学等進学率7割以上の学校をピックアップする。なお、進学準備者は、大学等進学者と就職者以外の者として表示された数値である。進学校だからこの数値のほとんどは浪人と考えた。------------青森 卒業者319 大学等進学者243(76.2%) 進学準備者5青森東 273 209(76.6%) 34青森戸山(普+美)222 165(74.3%) 19弘前 278 216(77.7%) 8弘前南 232 163(70.3%) 3八戸 274 229(83.6%) 13八戸北(普+理)238 185(77.7%) 5五所川原(普+理)193 147(76.2%) 6三本木(普+理)276 232(84.1%) 14------------一見して感じるのは、浪人が非常に少ないこと。青森高、弘前高、八戸高がトップレベルだと思われるが、いずれも宮城県に比べて極めて少ない。歴然と違っている。これら高校について、進学者数(全日制)を見る。過卒者のデータはないようだ。------------青森 大学等進学者243 国公立161(弘前26、東北26)青森東 209 国公立120(弘前34、東北5)青森戸山 165 国公立66(弘前18)弘前 216 国公立157(弘前67、東北25)弘前南 163 国公立100(弘前46、東北3)八戸 229 国公立178(弘前17、東北63 )八戸北 185 国公立105(弘前11、東北1)五所川原 147 国公立99 (弘前34、東北14)三本木 232 国公立129(弘前25、東北4)------------なお、私立のデータも出ているが、進学率7割を超えるところはない。国公立の進学者の多いところでは、東奥義塾52名(弘前15、東北7)、青森山田40(弘前10、東北2)である。■関連する過去の記事 改めて宮城県の伝統校の進学実績を考える(08年7月31日) 公立学校の学区撤廃を考える(08年7月30日) 中高一貫校と東北(08年1月15日) 宮城県立高校の共学化について(4)真に学校を思うなら(05年12月11日) 宮城県立高校の男女共学化を考える(3)妙案登場!?(05年12月7日) 仙台市梅原市長の「仙台一高・仙台二高別学維持」発言に思う(05年11月30日) 宮城県内の公立高校の男女共学化論議を考える(2)歴史(05年11月28日) 宮城県立高校の男女共学化を考える(1)序論(05年10月28日) 宮城の進学率と公立高校を考える(05年9月6日)
2008.08.01
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仙台第二高校の進路資料で大学入試合格状況を見てみた。まずは、データを。仙台第二高校 大学合格状況(過去3年間) 種別平24年3月うち現役23年3月うち現役22年3月うち現役(b/a)(a)(b)(c)(d)(e)(f)国立大学218137221129233125.628公立大学201116102012私立43590397131374103東北大学10675894812568.708東京大学126127126.500医学部医学科合格(平成24年3月) 国公立44(うち現役16)、私立他11(うち現役2) 以前から仙台市内の県立上位進学校は、浪人率が非常に高い。私は率直に学校側の意識にあると見ていた。すなわち、教員の意識や同窓生の醸成してきた伝統的な学校生活・進路に対する態度文化、である。入学する生徒が山形や秋田に比較して全体として見た場合に、学力や意欲で劣っていると言うはずはなく、しかしながら例えば秋田高校や山形東高校の現役進路達成状況(つまり浪人比率)とは大きな開きがあった。仙台の閉鎖性や非開明性を象徴するようなナンバースクールの文化も、共学化を契機に変わって欲しいと願っている一人だ。その観点から、上のデータをどう考えるか。合格状況であって現実の進路状況とは異なる点があるだろう(特に私立)が、まず国立合格者の現役比率は、53.6% → 58.3% → 62.8% と上がっている。これを有意と見るかどうか見解は分かれるかも知れないが、過卒合格者実数(a-b)が 108 → 92 → 81 と下がっていることからも、浪人にまわる全体数は一応着実に下がっていると言えそうだ。これを東北大学で見ると、半分が浪人だったのが7割になり、浪人に回って合格した数も、57 → 41 → 31 と減っている。やはり共学化の進展と無関係ではあるまい。山形東高を比較例として挙げる。山形東高 大学合格状況(平成24年春) 種別現浪計うち現役(b/a)(a)(b)国立大学183135.738東北大学6552.800医学部医学科合格 17(うち現役6) もちろん個々の生徒が主体的意欲を持って卒業後に希望を叶えるべく受験準備をすることを悪いというつもりは全くない。人生をどう考えるか自由だ。例えば医学科に浪人で入学する人が多数いる現状からしても、主体的浪人生が一定程度あることは直視すべきことだ。しかし、当ジャーナルが以前から主張しているのは、修学年限で希望を達成しようとする生徒を支援する力が弱い「進学トップ校」では困るということだ。宮城の進学校に入った若者だけが「浪人希望率」が高いわけではないだろうに、ハッキリと浪人の結果が多いのは、現役進路達成を重視しない(むしろ浪人を是とするかの如き)風潮があったからに他ならない。それに甘んじてきたことが問題なのだ。宮城県では共学化や学区撤廃の効果を客観的に検証するのだという。ぜひ、当ジャーナルの拙見もご参照いただきたい。■関連する過去の記事 今春の各高校の大学合格実績 概略(2012年5月29日) 宮城県の高校の進学実績を考える(2010年11月20日) 宮城の県立高校の「現役」進路実現力を考える(09年8月25日) 宮城県の県立高校の進路実現力を考える(09年8月21日) 共学化の方針を堅持(09年2月5日) 県立高校共学化論議を考える(08年12月18日) 梅原市長の高校男女別学の主張を考える(08年11月13日) 高校の進学状況 福島県のデータ(08年8月3日) 宮城県の伝統校の進学力を考える 青森県との比較(08年8月1日) 改めて宮城県の伝統校の進学実績を考える(08年7月31日) 公立高校の学区撤廃を考える(08年7月30日)(宮城県の方針) 宮城県立高校の男女共学化を考える(4)真に学校を思うなら(05年12月11日) 宮城県立高校の男女共学化を考える(3)妙案登場!?(05年12月7日) 仙台市梅原市長の「仙台一高・仙台二高別学維持」発言に思う(05年11月30日) 宮城県内の公立高校の男女共学化論議を考える(2)歴史(05年11月28日) 宮城県立高校の男女共学化を考える(1)序論(05年10月28日) 宮城の進学率と公立高校を考える(05年9月6日)
2012.09.08
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戦国時代の書状は、いわば現代の私文書。公文書にあたる文書(もんじょ)が、例えば、誰かの権利を保証するために、書式が決められ年月日と印判(判子)が捺されるものであるのに対して、書状の用途は多様で、公的な内容も私的な内容も書かれていた。電話やメールのないこの時代は、相手に使者を派遣する場合に、書状を持たせるのが普通だった。書状には、自分が書いた証明として直筆で花押(サイン)をするのが通例。(公文書ももともとは花押を用いたが印判が普及していき、反対に書状に印判が捺される場合もあった。)相手の手元に直接伝わる書状には、気持ちを伝えるための大変細かいルールが定められていた。それが御書礼である。書札礼(しょさつれい)ともいい、書状の書き方である。具体的には、文言はいうまでもなく、紙の種類、折り方、封の仕方、署名の仕方、宛先の書き方など多数のルールがある。家格や身分の上下、実際の力の強さなどさまざまな要因で、微妙に書札礼が使い分けられていた。伊達稙宗は、分国法の塵芥集を制定し、はじめて奥州守護に補任されるなど、伊達氏が戦国大名として発展する基礎を作った人物だ。ところで、稙宗の父尚宗は、文亀3年(1503)に越後守護上杉房能の支援を求めて同国人の中条藤資に書状を送った。このとき、守護上杉氏の家格が高いのは当然として、伊達氏と中条氏はともに国人で本来同格だが、尚宗は中条氏に対して「被官同然」、つまり家臣に対する書札礼で書状を認めた。これを知った上杉房能は「はなはだもって口惜しい」「上杉は大名である。伊達は国人に過ぎない」と怒りを表した(中条文書)。稙宗が受け取った書状には、古河公方足利高基の重臣である簗田高助が稙宗に対して「忠節を尽くしたので、御書礼を改めて(古河公方が稙宗に)書状をお書きなされます。今後ますます忠節を尽くしてください」というものがある。稙宗の忠節の礼に、古河公方が今まで以上に丁寧に書状を書くと、簗田が伝えたのである。当時、古河公方は書札礼を恩賞の一つとして用いていた。いかに書状の書き方が重要であったかが、わかる。伊達稙宗と子の晴宗は、天文11年(1542)に伊達天文の乱をひきおこし、天文17年の和睦成立まで激しく戦ったが、もともと仲が悪いわけではなく、天文6年ころには、稙宗と晴宗がそれぞれ高野山の観音院に宛てて、贈り物に対する返礼についての同日付でほぼ同内容の書状を送っている。ここで、稙宗は観音院から「水原」をもらった礼を述べているが、水原は、杉原(すいばら)の当て字で、当時武家が珍重した紙である。室町初期に成立した『書札作法抄』には、「武家に対しては杉原紙でなければ文を書いてはいけない」と記されており、貴重な贈答品でもあった。親子で書状を送っているのは、子の晴宗が政治的な活動を開始していたものとして注目される。書状の末尾には「詳しくは〇〇が申します」という形で、書状の内容を補足する家臣の名前が書かれることが通例で、こうした役割の家臣を取次(とりつぎ)といった。稙宗と晴宗はおなじ中野親時を取次として書状に記載している。晴宗は天文の乱が終結すると家臣に対して恩賞を与えている。土地はもちろんだが、中には、古河公方と同様に、家臣に対して書札礼を改めることを恩賞として用いた場合もあった。伊達家内部でも、家格に基づく書札礼が細かく定められており、自身の書札礼の格が上がることは極めて重要だったから、恩賞となりえたのである。晴宗の子の輝宗の書状では、仮名書きの書状が注目される。一般に仮名書きは女性宛の消息に使用されることが多いが、輝宗は家臣に対して用いている。これが政宗にも継承されたという。政宗の場合は、書状や印判状などの文書は現在4500点ほどが知られる。少なくとも4人の祐筆(曾根四郎助、石田(大石)長門、武山修理、大和田重房)がいたとされるが、しかし、直筆文書も1400点以上が確認されており、他の武将と比べて割合が格段に高い。書状は、一般的に年号を書かずに日付のみを書くのが当時の習わしだった。このため、文面に書かれた政治状況や花押の形状から年次を判断することになる。■佐藤貴浩『「奥州の竜」伊達政宗 最後の戦国大名、天下人への野望と忠誠』KADOKAWA(角川新書)、2022年 から
2023.06.14
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青森のニュースによると、昨日(5日)が県立高の前期選抜で、9日合格発表。後期選抜が14日実施で19日発表という。各県で制度や日程がそれぞれだが、青森の場合は、前期が募集人員が多く、後期は3教科の学力検査のほか実技や面接なども重視されるものだ。岩手県や宮城県の場合の推薦入試と一般入試の関係と比べると、実施の順序が逆のように思える。また2制度の実施日程は非常にテンポが近い。今さらながらだが、各県によって多様なのだ。
2012.03.06
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渡辺萬次郎『わが町仙台』(宝文堂、1977年)の記述から、昭和30年、40年代の仙台近郊団地造成の概要。■関連する過去の記事 仙台の団地名を考える(再び)(2012年5月20日) 仙台の「団地名」を考える(後編)(2011年12月11日) 仙台の「団地名」を考える(前編)(2011年12月11日)(1)田園の市街化昭和30年代は米産奨励の時代。水田の宅地化は嫌われた。それ故人口が膨張しても、市の東方の水田市街化はおくれ、大戦中に軍需工場の置かれた苦竹、小田原方面と、それらの従業員を含めた案内、中原、燕沢、小鶴等の東仙台方面を除けば、長く水田のままであり、昭和35年以降、市がこの方面の団地建設を初めても、七北田河畔の高砂、広瀬河畔の飯田、袋原、四郎丸等、それらの河川の氾濫による砂礫の多い畑地に限られた。水田地帯に多くの道路を縦横に通じ、鉄工団地、自動車団地、卸町団地、印刷団地等を開いたのは、主として昭和40年代、経済高度成長に伴う産業の地方分散、新産都市の運動以来で、昭和40年には中央卸売市場をもここに移し、その他の地域もそれぞれの地域の土地区画整理委員会によって市街化し、国道45号に沿っては、新興市街が七北田河畔の福田町まで連なった。一方、小田原方面に於いては、東洋製罐、凸版印刷等、軍需工場の跡地に生まれた工場のほか、農事試験場、専売局工場、ガス局等の進出に加え、中江および幸町を中心とする集団住宅街に加え、国鉄、専売局等の集団住宅も加わり、着々高層住宅街と変わりつつあるが、昭和51年なおその一部に水田を残している。芭蕉の「奥の細道」にある玉田横野の跡であろう。大正の末まで、その中央を南北に貫く射撃場を挟んで、その表面を全部畠と水田に被われ、その北側の山裾で煉瓦や瓦を焼いていた台の原も、今は全く住宅で被われ、射撃場両側の土手の外側にあった松並木の一部と瓦山の地名に昔を偲ぶのみとなり、高山樗牛の瞑想の末は薬科大学の敷地内に保たれ、展望台を設置したが、眼下は家屋の波であり、戦後の開拓時代を語る五本松奥のトタン屋根も、森林公園の一部と化した。(2)新町名の制定(抄)昭和40年 小田原一年圃を「旭ヶ丘1から4丁目」昭和42年 八幡国見方面、次いで、八木山方面、桜ヶ丘方面。それは必ずしも団地名と一致せず。例えば春日団地は「桜ヶ丘1丁目」、長町恵通苑は「恵和町」、越路恵通苑は「桜木町」、国鉄根岸は「青山1丁目」と変わった。昭和45年には市の中心部も新町名に変更し、肴町、元鍛冶町等伝統を伝える町名が大部分消えた。(3)郊外進出(略)(4)山地の造成近郊山地の住宅化は、戦後急速に加わった。中にも向山一帯、北山の背側、台の原等には、個人あるいは市営住宅が急増したが、それらの多くは個別あるいは少数戸数の集団に過ぎなかった。これを多くの戸数を含んだ集団住宅すなわち団地として造成を開始したのは、主として昭和35年、県の住宅公団(ママ)による黒松団地の開発以来で、市役所職員組合(ママ)による荒巻の共済団地、東南商事会社の緑ヶ丘等、また時を大体一にして、その前にできた三和商事の小松島住宅また名称を旭ヶ丘としてこれに加わった。少し需要が多かったので、民間企業でこれに加わるもの続出し、関兵精麦の南光台、双葉建設の中山ニュータウン、東北建設機動の桜ヶ丘等、次第に大規模のものが加わり、県は黒松団地に次いで七北田西方に将監団地、名取市の名取ニュータウン、市は小田原の北東方に鶴ヶ谷団地の大造成を敢行し、昭和40年代には南は名取市北は泉市を越えて富谷町、東は塩竈市の東部、西は宮城町に及ぶ近郊の山地は、次々に緑を失って仙台のベッドタウンと化した。以下、方面別に概述。(a)東北地区宮町、原町方面を入り口とする東北地区には、旭ヶ丘、南光台、鶴ヶ谷の3大団地のほかに、東黒松、第1から3自由が丘、若葉ハイツ、東光台等の団地がある。さらに七北田川の低地を越え、利府、多賀城、塩竈の団地群がある。旭ヶ丘団地は、昭和31年の発足にかかる小松島住宅を南端とし、その北方の小田原一年圃から泉市八乙女の真美沢沼に達する大団地で、面積430ha、南から1から4丁目、堤1から2丁目に分かち、南部は初期の造成にかかって起伏激しいが北部は大体平坦。南北の幹線を中軸に規則正しく格子状の道路に貫かれる。南光台は旭ヶ丘の東に接して泉市松森に属するが、交通の上ではかえって仙台に直結し、造成以前は小松島から浦田に通ずる山道を軸に、その西側の天(あま)ヶ沢と東側の前沢の谷に分かれたが、まず西側の谷の上流から市街化し、続いてその東側の浦田山道を東に突破し、はじめはこの部分を牧場としたが今はそれらも市街化し、2万人以上を収容の予定であるが、多くは独立家屋から成り、学校以外に特別に大きな施設は少ない。鶴ヶ谷団地は南光台の東にあり、昭和42年以来仙台市の造成にかかり、鶴ヶ池大堤に注ぐ藤倉沢の本支流に刻まれた海抜80m内外の丘陵を削り、谷を埋め立てて緩傾斜とした住宅地で、その南斜面の県立三高以外には住宅一戸のみ山林緑地であったが、次々に住宅街を造り、これを1から8丁目に分かち、そのうち2丁目、5丁目および6丁目には、最高11階に達する高層集団住宅を列ね、東仙台方面から走る大道を新たに開き、それから入った中心部には市民センター、ショッピングプラザ、銀行支店等を備え、他に1中学校2小学校のほか病院、老人ホームを有し、23千人を収容の予定である。自由ヶ丘はその西北の天ヶ沢団地とともに、鶴ヶ谷と南光台との中間南部にあり、前者に先立って造成せられ、若葉ハイツは小松島からそれらに達する中間東側にある。第2から第3自由ヶ丘は、若葉の東、鶴ヶ谷一丁目の南にあって、安養寺堤群に隔てられる。東光台は鶴ヶ谷団地の東斜面に位し、鶴ヶ谷以前の造成にかかる。鶴ヶ谷団地の北方には七北田川の谷を隔てれば、松森城一名鶴ヶ城の遺跡を北から囲んで、住友商事の鶴ヶ丘団地が、大計画の一部をもって分譲を開始し、その遙か東には、歴史に名高い多賀城趾の南麓に、トーメン多賀城ニュータウンが開かれ、さらに塩竈市の東北隅に、西に松陽台、東に藤倉団地が松島湾を眼下にしてその眺望を誇り、他にも若干の団地がある。(b)北方地区国道4号を入り口とする北部地区では、昭和35年以来県の造成にかかる黒松団地があり、県営第1から第2アパート群、公団住宅アパート群を有し、人口7千を数うるうち、西側は仙台市に東側の大部分は泉市に属する。北仙台から黒松に向かえば、その東側山中に千鳥ヶ丘、その東に森林公園、西側の斜面に鷺ヶ丘、常磐団地、勝山団地、双葉ヶ丘等の諸団地あり、勝山から西に谷を越えれば、第2勝山団地があって、北仙台小学校および中学校を有し、東から、渡辺、幸福(さち)ヶ丘、南から、ひよりヶ丘、平和台、国鉄荒巻等の小団地群に囲まれる。これから北に七北田川を越えれば、西に県営将監団地が、1丁目から13丁目に23千人の人口を予定し、その北部と南部とに多数の高層集団住宅を配するほか、中央に公設市場、銀行支店等を備え、1中学校、2小学校、消防署等を有し、独立の一小都市をなすが、これまた仙台市の遊星に過ぎぬ。今からわずか10年前、大洋漁業の7万羽養鶏所が鋭い三角点峰を負った所も、今はただ紅青の鉄板屋根を列ねる平地となり、将監沼がわずかに当時の趣を留める。これと斜めに要害川の谷を隔てた東側には、名勝洞雲寺通称山の寺の谷を挟んで、南に共栄泉および泉ニュータウン、北に泉向陽台があり、後者は人口1万を予定し、かつて稜線上に並んだ東北電力の高圧送電塔がその基脚のみを残した円塔上に峙っている。これらの間を北に進めば、泉市と富谷町の界を跨ぎ、国道の西に泉ヶ丘ニュータウン、その北西の富谷町南端に、藩主の鷹狩りで名高い亀杉を擁した鷹の杜団地、さらに富谷の市街地の北方東側に、富谷グリーンパーク一名河北平和ランドの遊園地およびゴルフ場、富谷ニュータウンなどがある。(c)西北地区荒巻本沢を門戸とする西北地区では、その入り口の荒巻温泉に近い共済団地、川平団地、泉ヶ丘、春日団地等、昭和30年代後半の諸団地の後ろに、桜ヶ丘、中山ニュータウンの2大団地がある。それぞれ、人口5千人、3万人を予定する。中にも中山ニュータウンは丸田沢の支流平沢と梅田川との水稜線をなし、長く北山根白石間の本道をいただいた稜線の両側を削り、その東南麓から西北に登り、昭和41年早くもその頂上三角点に達し、その翌年にはそのすぐ下に尚絅短大、東北電力総合研究所等を誘致する一方、さらにその西方に造成の歩を進めて、丸田沢の支流を埋め、泉市実沢の南端との境に達し、2カ所の公務員住宅群、三井、藤崎、東芝等の高層住宅群を加える。中山ニュータウンの造成初期、その北側には行楽園団地の造成が行われ、その一角には小遊園地も造られたが、その後放棄の運命にあった。ところが昭和46年、第1、第2勝山団地の造成を終わった勝山企業がこれを接収するとともに、その頂上背後にある中山西部の北斜面をも造成し、第3勝山団地と称し、その東斜面に朴沢高校を迎えるとともに、その北隣には同じ朴沢学園に属し現在柴田町船岡にある仙台大学転入のための用地を建設し終わっている。この東下に位するのが桜ヶ丘で、東と北に範囲を広げる一方東側の山地を削って小学校を建て、さらに東には公苑団地、西北には東急青葉台を加えた。最近ここも新町制を施行し、桜ヶ丘1から9丁目、中山1から9丁目、西勝山、滝道、川平1から2丁目などとした。これらの北には丸田沢を隔て、泉市大谷刈の丘陵があり、東に県営加茂団地、西に大和長命ヶ丘が並んで、最近その造成を終わり更に七北田川の北には、三菱地所の超大団地パークタウンがその第1期の造成を終わり、公園を整え、小学校を建設し一部を住宅街化しているが、これを貫く計画道路北四番町丁大和町線が、未だ市内に達せぬため、市の郊外とするにはやや遠すぎる。さらにそれより西方に位する西田中、住吉台等の造成地についても同様。中山ニュータウンの西方に位する中山ゴルフ場、その西北に造成中の第2中山ニュータウン、ゴルフ場の南に接する中山吉成、その南の伊勢吉成の両団地はいずれも仙台に外接するが、前の両者は泉市実沢、後の両者は宮城町吉成に属し、いずれも仙台市外にあり、国見峠の東麓に位する半子町恵通苑のみ市の辺境に孤立する。(d)西方地区川内を門戸とする西方地区は、主として青葉山で、その大部分は東北大学、宮城教育大学、青葉山ゴルフ場に占有せられ、住宅団地としては東北突端の亀岡、武田南団地と、西方頂上部の青葉台のみである。■昭和30-50年 仙台の団地造成の概要(その2)(2012年5月22日)につづく
2012.05.22
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■本記事は4回シリーズとしています。 東北の道 概説(その1 古代)(10年10月23日) 東北の道 概説(その2 平泉政権と奥大道)(10年10月24日) 東北の道 概説(その3 中世)(10年10月24日) 東北の道 概説(その4・完 近世)(10年10月24日)1 古代の官道整備と平泉政権を支えた道東山道が多賀城から胆沢城に延長し、また多賀城から出羽雄勝城、さらに笹谷峠越えで内陸から庄内、秋田に通じる横断道も開かれた。これを舞台に東北の交流は展開するが、その主体性をもっとも体現するのが古代末期に登場した平泉政権である。平泉の都市社会はもはや蝦夷論や俘囚論の国家論のみで問われるものでなく、京や東北各地との交流を通して練り上げられた地域権力であり地域文化である。その交流の道として、白河から外が浜までの幹線整備、浜通りを北上し平泉に達する東海道(あずまかいどう)、秀衡街道、平泉から津軽十三湊への道、北上川舟運などがあった。2 奥大道藤原清衡が奥州の覇権を掌握して最初に手掛けたのは、白河関から外が浜(陸奥湾)にいたる幹線である奥大道の開発整備である。徒歩20日の行程の一町(108メートル)ごとに金色の阿弥陀像を図絵した笠率都婆(卒塔婆)を建て、中心に関山中尊寺を配したという。奥大道は、笠率都婆により荘厳を施され、壮大で超越した広域的支配を支える聖性を備えていたと言えるだろうか。また、夥しい品目を調達し京に届け、政権をアピールする生命線でもあった。ただし、陸路のみでなく、牡鹿湊(石巻港)に至る北上川の水運と、関東・東海の太平洋沿岸を経た海運のルートも忘れてはならない。3 北方世界と奥大道藤原氏の影響力は奥大道を通じて、糠部・久慈・閉伊から、鹿角・比内、そして津軽四郡(平賀、鼻和、田舎、山辺)、外が浜、西が浜、さらには夷が島、千島、サハリン、沿海州方面に広がる北方世界に及ぼされた。北方から豊かな物産がもたらされただけでなく、平泉の側からも渥美・常滑の壺、京都風の素焼土器、中国産白磁の壺などが搬送された。北方世界のうち本州部分は中世から近世にかけて陸奥国の行政区画に組み込まれ、海峡を越えた夷が島さえ陸奥国の延長として認識されることがあった。このうち、鹿角・比内の両郡、津軽四郡や外が浜、西が浜が、太平洋側の陸奥国に含まれるというのは自然でない。本来なら出羽国に組み込まれるべきところだろう。奥大道を通じた陸奥国側からの政治的影響力が強大だったということだろうか。事実、奥大道南北ルート貫通以前の古代には、これらの地域は出羽国の影響下にあった。秋田城から能代に出て、米代川を遡って比内・鹿角に達する東西の道筋が優位を占めていた。また、奥大道南北ルート貫通前は、鹿角・比内、津軽四郡、久慈・閉伊などの諸郡や糠部の一戸から九戸などは、建置されなかったのである。これらの地には、上津野、火内、幣伊、※(金偏に色)屋、仁土呂志、宇曾利など、俘囚、夷人の村が散在するばかりであった。これら北方の住人は、空堀に囲まれた高台の住居群(北方性防御集落)に拠りながら、秋田城や胆沢城に朝貢に赴いて饗給(こうごう)に与ることはあっても、中央政府の直接統治に従うことなく自立した暮らしを維持していた。奥大道の貫通は、北方世界に中央政府の直接統治を及ぶし、諸郡の建置を進める一大変革を推し進めた。4 奥大道の貫通時期清衡の時代には貫通していたのは確実だが、それ以前の清原氏の時代にまで遡るのかどうかが問題である。延久2年(1070)に陸奥守源頼俊と清原真衡の連合軍が北方世界に進出して、「衣曾別島(夷が島)荒夷」、「閉伊七村山徒」を撃つという合戦が行われ、北方世界の全域が中央の直接統治下に置かれることとなった。その10年ほど後には、諸郡の建置を実現した。従って、この合戦の直後が奥大道の貫通時期とするのが妥当であろう。いずれにしても、貫通時期が前九年合戦(1051-62)より以後であることは問題がない。奥六郡の安倍氏が滅亡させられる以前は、※(金偏に色)屋、仁土呂志、宇曾利などの村が健在で北方の独自性が維持されているからである。5 奥大道の意義奥大道は、北方世界と奥南を結び、また京都など日本国の中央と連結したばかりではない。さらに博多を通じて東アジアに至る海上の道にまで連結していた。12世紀の日本の三大都市は、京都、平泉、博多であった。京都は日本の富を集中した唯一の都市であったが、平泉と博多は民間交易ネットワークに立脚した新しいタイプの地方都市であった。13世紀に鎌倉が都市開発されるまでは、平泉が東日本唯一の都市であった。このような民間交易のネットワークが形成され国際化の波が奥州にまで及ぶことがなかったならば、安倍、清原、藤原の政治権力の登場は不可能であった。さらには、頼朝の幕府樹立も不可能であった。■参考 渡辺信夫編『東北の交流史』無明舎出版、1999年 より 渡辺信夫「東北の交流史」 熊田亮介「古代東北の海道・陸道」 入間田宣夫「平泉藤原氏と奥大道の開発」
2010.10.24
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蔵王のマグマに負けては居られない。風評など蹴散らして、いざ連休まっただ中の蔵王山麓へ。村田から遠刈田にのぼり、R457で青根温泉へ向かう。木漏れ日が気持ちよい。青根では、「じゃっぽの湯」に浸かる。ヒルクライムというのだろうか、路上でみかけた自転車の人たちが、温泉でも出会うことができた。じゃっぽの湯の向かいに青根洋館。じつは気に懸かっていたことがあり洋館の方に聞いてみた。学院大のセミナーハウスはどうなったのですか。すると、もう少し先の(下の)場所に有ったが、今は更地。その建物の一部がこの洋館で、10数年前にここに移築したということだった。青根温泉にはしばらく来ていない。すずらん峠の県道の方は何度も通っているが、たぶん青根は、およそ25年くらい前だろうか、湯元不忘閣などに仕事で訪れて以来だと思う。(その後も通過だけはしているかも。)学院のセミナーハウスは、もっと前。30何年か前だろう。青根セミナーハウスに行ったのだった。学院大の学生ではないが、車に乗せられてとにかく行った。道のこちら側でカーブのあたりだったという記憶。そして、洋風の建物もあったような。だからこの洋館がひょっとしたらそれと関係があるかも、と直感的に思い出して、尋ねたのだった。その後、川崎町内に向かって車を走らせると、たしかにすぐ下(北)に更地となっている区画があり、東北学院青根セミナーハウスの看板だけは残っていた。川崎から登れば気づいただろう。平成一桁台のころの私の青根のイメージは、上記の仕事で調査した古賀政男のことや不忘閣の歴史。そして、私的な思い出もあってセミナーハウスやエコーホテル。新緑に映える清涼の地。時代も動いているから、施設が消えてしまうのも仕方ない。しかし、緑に包まれ、訪れる人がすがすがしく生気を取り戻す地であることには変わりがないと思う。R457を降りていくと、若い人たちが列をなしているピザ工房なども見えた。青根は良いところです。
2015.05.04
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今朝の新聞に出ていた。文部科学省のまとめによると、今春全国の国立教員養成大学44校を卒業した人が教員に就職した率は62.0%になるという。年よりは2.4ポイント上昇。卒業10,479人に対し、教員採用は6,494人(正規3820臨時2674)だった。ちなみに、教員以外への就職1752人、進学1137人、未就職者946人。鳴門教育大学は2年連続の全国第一位で、77.9%(9月末時点)。徳島新聞によると、今春の卒業生は113人で教員採用は88人(正規57臨時31)。このうち県内公立学校就職は23人(正規13臨時10)で昨年の22人を1人上回った。同大は2001年に就職支援室を開設し公立学校校長経験者をアドバイザーに配置。05年卒業生から60%以上の教員就職率を維持。徳島新聞には線グラフまで掲げられており、誇らしげだ。教員就職率の全国第2位は兵庫教育大。以下、愛知教育大、京都教育大、岐阜大。低かったのは秋田大(44.5%)、鹿児島大(47.2%)、琉球大(同)、岩手大(49.1%)、福井大(50.5%)などとなっている。東北では宮城教育大60.2%、弘前大52.1%とのこと。河北新報の記事でも、ここまでしかわからない。こうなると、全国最低の秋田大についての記事や、山形大、福島大の就職率が気になる。東北は低調なのだろうか。今回の文科省調査の一覧は文部科学省のリリース一覧には出ていない。昨年12月の発表資料は出ている(全国45大学)。これによると、教員就職率ワースト5は鹿児島、横浜国立、琉球、秋田、熊本で、低調な大学の要因として、● 学生の地元志向が高いことと地元採用数の少なさ● 教員に正規採用されないと民間就職していることが指摘されている。一覧データによると、全国 59.6%弘前 53.1岩手 48.2宮城教育 68.9秋田 44.0山形 63.0福島 51.4となっている。今回の報道と比べると、宮城教育大はかなり下がって全国平均を下回ってしまった。秋田大は依然低調。岩手大と弘前大も全国以下で低迷という感じだ。
2011.12.29
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国道45号線を走ると旧津山町の北上川沿いに「日本三柳津虚空蔵」とかいう看板があった。今でも有ると思うが、三「柳津」とは何処なのだろう、と思っていた。四五代聖武天皇の神亀3年(726年)に、行基菩薩が東国各地を巡錫し布教した時、本吉郡柳津に立ち寄り、大土ヶ森に一堂を建てて一尺あまりの虚空蔵を刻んで納めた。これが現在に伝わる本尊であり、本尊の前に立つ大黒天と毘沙門天は弘法大師の作という。その後元和元年(1615年)に大土ヶ森の頂から山麓に移し、柳津山興福寺、今は福満山宝性院と号す。日本三柳津虚空蔵堂は、他に奥州会津柳津円蔵寺、常州村松柳津日光寺(茨城県)の虚空蔵堂である。■出典 菊地勝之助『名数みやぎ郷土小事典』宝文堂出版、1973年さて、この際同書をもとにわが仙台・宮城にかかわる寺社仏閣関係の三大名数を整理しよう。○日本の三山寺 七北田の山ノ寺、近江の石山寺、羽前の立石寺。 山ノ寺は竜門山洞雲寺と号する古刹。慶雲元年(706年)釈定慧(藤原鎌足の子)が開山、のちに慈覚大師が中興。本尊は盧舎那仏で大師が唐の青竜寺から招来したものという。大師が本尊を安置したときから山ノ寺と称したという。 近江の石山寺は観月の勝地で、良弁の開基。羽前の立石寺は円仁の開基で、東北地方で天台宗随一の巨刹で、奥のほそ道でも有名な山寺。 七北田の山ノ寺は、これら石山寺、岩山寺に対して、砂山寺をもって知られる。○日本の三蔵王 栗原市旧花山村の金峰山花山寺(かざんじ)に安置されていた蔵王権現。平泉藤原氏時代の頃から、金峰山寺(奈良県)と三仏寺(鳥取県)のそれと共に、日本の三蔵王として名高い。 花山寺には役(えん)の行者小角(おづの)の作と伝えられる国宝の閻浮檀金(えんぶだんごん)の像が安置されていたが、戦後盗難に遭い行方不明。○日本の三弥勒寺 登米市旧中田町の長徳山弥勒寺。真言宗に属し、日本三弥勒の1つとされる本尊は二尺七寸の座像で、空海が安置したという。33年目の開帳期でないと拝することができない。 他の三弥勒は、神奈川県足柄郡上秦野の弥勒寺で頼朝夫人が臨産の時祈願した。また、秋田県角館の弥勒寺で、清原武衡・家衡の首を埋めたとされる。○日本の三不動尊 登米市旧津山町の横山不動尊。成田不動尊(千葉県)、菅谷(すがたに)不動尊(新潟県)とともに、日本三不動尊。 横山不動尊は白魚山大徳寺境内にあり、一尺八寸の天竺渡来の不動明王を腹籠にした一丈六尺の不動尊が安置され、弘法大師の作という。保元年間百済の国から水戸辺浜に着いた不動明王の尊像を祀ったという縁起。大徳寺ははじめ明王山金剛寺で真言の道場として創建し、葛西時代に曹洞宗となり、現号に。門前の小川はウグイの生息地。○日本の三大稲荷 岩沼の竹駒神社。京都伏見の稲荷神社。笠間(茨城)の稲荷神社。 竹駒神社は仁明天皇の承和9年(842年)に小野篁が陸奥守として多賀国府に赴任する際に、京都伏見の稲荷明神に参拝し傍らに現れた白狐を請うて旅についた。途中岩沼を通った際に白狐が武隈の森に入ったので、ここに社殿を建てて勅許を得て武隈明神を祀った。○日本の黄檗宗三叢林 黄檗宗は禅宗臨済宗の一分派で明の黄檗山万福寺の僧隠元が来日して広めた宗派。黄檗宗の寺院で日本の三叢林(道場)とされる名刹が、仙台茂ヶ崎の大年寺、山口県萩市の護国山東光寺(元禄4年開山)、鳥取市の広禅寺(元禄6年開山)。 大年寺山は昔の茂ヶ崎城跡に4代藩主綱村の元禄8年に京都宇治の黄檗山万福寺の末寺として建立。下総国牛島の弘福寺住職鉄牛和尚を招いて開山始祖とし、両足山大年寺と称した。宇治の本山万福寺に擬して建造された伽藍は壮麗、山中の堂塔二十余宇が建ち並び黄檗宗日本三叢林の第一位とされた。仙台藩からは一門格の待遇を受け寺領二百石を附せられた。○奥州の三八幡 奥州には源氏の守り神である八幡宮が多く勧請されている。大崎市旧田尻町の大崎八万社、栗原市旧栗駒町の営ケ岡(たむろがおか)八幡宮、岩手県奥州市の胆沢八幡宮の三社を奥州三八幡という。 大崎八幡社は後冷泉帝の天喜5年(1057年)に源義家によって創建されたと伝える。頼義、義家父子が安倍貞任を討ったとき糧食に乏しく飢渇に苦しんだが、義家が一夜八幡様の夢を見たので、陣頭に社壇を設けて勝利を祈願し、小松の柵(田尻)を攻め、逃げるを追って遠く衣川や厨川の柵をも陥れた。 そして凱旋の際に、大崎、営ケ岡、胆沢の3社に武具等を奉納して祀ったのである。 営ケ岡八幡宮は、延暦年間に田村麻呂が東征の際に勧請した。その後上記の通り頼義義家父子が凱旋の際に奉納した甲冑が今も保存されている。営岡(屯岡)の名称は田村将軍がここに屯(たむろ)して蝦夷と対陣したことから生じたという。 田尻の大崎八幡は後に仙台藩祖政宗公によって仙台に奉遷されて今に至る。○奥州の三観音 延暦15年(796年)坂上田村麻呂が陸奥出羽の按察使となり陸奥守を兼ねて鎮守将軍、翌年には征夷大将軍になった。この際に奥州の7カ所に観音像を安置したのが、奥州七所観音。そのうち、篦嶽(ののだけ)観音、牧山観音、富山観音を後世に奥州の三観音として尊崇した。 篦嶽観音は、篦嶽山上の無夷山篦峰寺に祀られる観音堂。延暦12年に田村麻呂が巨魁悪路王等をこの地神楽岡に討ち、後勅命により護持した十一面観音を祀ったと伝えられる。 牧山観音は田村麻呂が延暦11年に牧山の地に大嶽丸等の豪族を討伐した際に、今の梅渓寺の地に堂宇を建立して、後に霊峯山梅渓寺を建立したという。 富山観音は大同年中に田村麻呂の勧請で手樽富山に富春山大迎山寺大悲閣を建立して千手観音を祀った。藩政時代に政宗公の長女五郎八姫が堂宇を建立し堂内に田村麻呂の像が配置されたという。○東奥の三霊地 霊島金華山、出羽三山、南部の恐山。 金華山は5つの峯、68嶺、48渓谷から成り、山には千古未だ斧を入れない老樹巨木が鬱蒼と茂り、至る所に奇岩怪石があり、鹿や猿が戯れる仙境である。中腹には黄金山神社が祀られ、神域は崇巌、社殿堂塔の結構は壮麗を極める。
2007.08.21
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東北では菊地が18位、菊池が23位の多姓であるが、岩手県では菊池が多く、菊地の20位を大きく引き離し第5位。ちなみに、岩手県の多姓は、第1位から順に、佐藤、高橋、佐々木、千葉、菊池、阿部、菅原、及川、伊藤、鈴木と続く。岩手県の菊池氏は、遠野市、宮守村、東和町、江刺市、大東町などに多く、中でも遠野市では4.8世帯に1世帯が菊池という多さ。菊池の発祥は、肥後国菊池郡(熊本県菊池市)で、中世菊池氏の居城跡と菊池神社がある。菊池氏は瀬戸内海から紀伊半島にかけて活躍した海族だったが、平安後期、壇ノ浦の戦い(1185年)で平氏に敗れ各地に散った。一族は、現在の大分、愛媛、三重、千葉、茨城、福島、宮城、岩手各県に落ち延びたという。遠野市小友町館内にある奥友館は、菊池喜左衛門の居館跡といわれる。阿曽沼氏の家臣に菊池氏が多くみられ、阿曽沼氏から八戸南部氏にかわってもこれに従ったと思われる。むつ市田名部には、九州菊池の一族菊池正興の城跡がある。■参考 鈴木常夫『多姓と難読姓からみた 東北人の苗字』本の森、2001年ところで、当ブログでも随分参考にさせていただいている田村昭さんの著作(出典下記)に、仙台の本郷さんは古く菊池氏から発生したとある。(以下に要約)仙台藩のお抱え刀工の本郷国包(くにかね、新寺二丁目善導寺に墓、中央二丁目の貴金属店本郷は子孫)、松川だるまの本郷けさのさん(柏木一丁目、8代目)など、宮城県内では約560世帯がある。ところで本郷の名字は、本郷の地名と関わりがあるのだろう。東京文京区の本郷はじめ、宮城県内にもたくさんある(白石本郷、利府本郷、坂元本郷、舘腰本郷など)。本郷の姓の起こりは、藤原氏の流れをくむ菊池から起こった本郷氏が既に古い時代から発生しているから、地名と名字のかかわりが深かったと想定できる。(要約以上)本文中では、本郷さんが地名に由来すること、菊池から本郷氏が発生したこと、は記述されているが、宮城県の本郷姓が菊池(氏)から発生したとまでは記載していないと思う。しかし、この項目(p74)の見出しは、「集落発展基礎の本郷さん 古く菊池氏から発生」とされている。なお、目次ページでは、「集落発展基礎の本郷さん 菊地氏から発生」と記載されている。細かいことだが。■参考 田村昭『宮城県のお名前漫歩』宝文堂、1985年■関連する過去の記事 東北各県の特徴的な名字と珍名(2019年11月24日) 仙台の苗字の特徴(2016年1月11日) 変わった名前で珍問答(2015年2月10日) 東北の変わった苗字(2015年2月9日) 名字の都道府県別ランキング(2012年9月28日) 氏と姓と名字の成り立ち(2012年9月29日) 都道府県名と同じ名字(2011年12月19日) 各県の名字ベストテンと特色ある名字、珍しい名字(2011年12月18日) 宮城の代表的な苗字は(06年9月13日) 宮城県の苗字ランキング(06年9月12日) 姓と苗字の違い(06年8月23日) 宮城県の由緒ある苗字(06年8月1日) 苗字と名字の違い(06年5月22日) やっぱり多い鈴木さん (06年5月9日)■関連する過去の記事(人の名前あれこれ) シンコペーテッドな名前 再論(2023年01月03日) 下から読んでも同じ名前(2011年11月25日) 同一の段だけの氏名はあるか(09年4月23日) ア列の名前(08年7月26日) 回文を考える(07年9月15日) シンコぺーテッドな名前(06年12月22日)
2024.02.10
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亘理郡亘理町の名は郡名に由来すると思うが、合併と大字表記の取扱い状況はどうだろうか。また、町内のエリア区分はどうか。地名に着目しながら理解を深めよう。1 歴史と「わたり」の名 郷土資料館でもらった『亘理町文化財マップ:わたりの歴史巡り』(亘理町教育委員会、2023年3月)をもとに。 町内には100か所近い遺跡があり古くから人が住んでいた。わたりの名は、川を渡るが由来と考えられている。奈良時代には朝廷の政治圏に入り海道筋の要衝地とされた。平安時代には郡衙が置かれた。三十三間堂官衙遺跡(国指定史跡、逢隈駅の西側)。 郡衙が役目を終えたころに登場したのが亘理権大夫藤原清経(子が藤原清衡)。文治5年奥州合戦で奥州藤原氏が滅ぼされると、戦いで活躍した千葉常胤の三男武石胤盛が亘理郡を拝領。武石氏はのち亘理氏を名乗る。天正19年(1591)伊達政宗の命により亘理氏は涌谷へ移り、片倉景綱が亘理を治めるが、さらに慶長7年(1602)景綱が白石に移され、伊達成実が亘理領主となる。成実は政宗の右腕として特に戦場で活躍し、政宗、忠宗と二代にわたり藩主を補佐。また、町場の整備や新田開発を行い現在の亘理の基礎を築いた。その後、亘理伊達家の城下町として発展していった。 明治3年亘理領主14代伊達邦成は多くの家臣と北海道に移住、現在の伊達市(姉妹都市)に発展した。2 地域の概要(エリア区分) 上記パンフレットによると、町内は亘理、吉田、荒浜、逢隈の4エリアとして紹介されている。 町の行政組織では、荒浜、逢隈、吉田、亘理に4つの地区交流センター(旧各支所)が置かれていることからも、この4つのエリア区分が定着していると思われる。・亘理エリア 城下町の風情が残る町並み(上記パンフの表現。以下同じ) =(主な施設等)亘理駅、悠里館、伊達成実霊屋、亘理領主伊達氏歴代墓所、称名寺のシイノキ・吉田エリア 山裾に広がる太古のくらし =浜吉田駅、大塚古墳、慶月院(原田甲斐の母)の墓・荒浜エリア 阿武隈川と太平洋を繋ぐ港町 =鳥の海、湊神社、御城米蔵跡、河村瑞賢滞在地跡・逢隈エリア 由緒ある歴史を受け継ぐ里 =三十三間堂官衙遺跡、安福河伯神社、毘沙門天木像(蕨薬師堂)、義民北原金平顕彰碑(中泉八幡神社) 4つの地区交流センターの所管区域は、「亘理町行政連絡区設置並びに区長選任に関する規則」に定められている。概ね次の通りだ。 ・亘理地区 31行政区 =(大字のない)字○○、逢隈鹿島、逢隈神宮寺、逢隈高屋のなかの小字(その一部などの表記も多い) ・吉田地区 16行政区 =吉田、長瀞 ・荒浜地区 6行政区 =荒浜、逢隈高屋のなかの小字 ・逢隈地区 15行政区 =逢隈上郡、逢隈下郡、逢隈小山、逢隈田沢、逢隈中泉、逢隈牛袋、逢隈十文字、逢隈榎袋、逢隈鷺屋、逢隈蕨 なお、逢隈地区交流センター管内には、「逢隈(逢隈○○ではない)字蕨」(蕨行政区)と「逢隈字郡」(下郡行政区、早川行政区)があるようだ。3 大字等の表記(1) 現状 「宮城県亘理郡亘理町」の後に続く地名の表記をまとめてみる。 いわゆる大字と思われるのが、荒浜、長瀞、吉田、逢隈○○(逢隈中泉など13地名)である。ただし、「大字何々」とは表記しない(cf.蔵王町の場合)。また、大字地名がなく、「亘理町」の後に小字名が続く場合は数多いが、おそらく旧亘理町(明治の小堤村)エリアが昭和の合併の際に表記上大字を省略する(字○○のように「字」は表示する)こととしたためだろう。大字を表示しないのは、旧亘理町エリア以外でもあるが(例:字苺里←以前は吉田字某だったろう)、新たに地名をつける際に大字の表記を省略したと思われる。(表記例) 町役場 亘理町字悠里1番地 吉田地区交流センター 亘理町吉田字大塚185番地 逢隈地区交流センター 亘理町逢隈田沢字鈴木堀6番地8 荒浜地区交流センター 亘理町荒浜字中野33番地■関連する過去の記事(大字、小字などの表記方法について) 蔵王町を知る(その1 永野と宮の謎)(2024年01月18日) 市町村合併と住所の表記(07年8月25日)(2)合併の際の経緯 『亘理町史 現代編』(亘理町史編纂委員会編、亘理町発行、平成20年3月)を読んでみた。 昭和30年2月1日に、亘理町(まち)、荒浜町、吉田村、逢隈村の2町2村が合併し、新たな亘理町(ちょう)が発足。県の2度にわたる合併計画試案(昭和28年、29年)はいずれも亘理郡を北4町村、南2村で合併するもので、これに従った。 当時の人口は、亘理町(まち)7,296人 荒浜町5,845人、吉田村6,554人 逢隈村9,094人で合計28,789人だった。 合併建設計画とは別に、17項目の合併条件事項があり、昭和30年1月18日に関係町村長が連署した。そのうち、第13として「字名について」。「旧町村名はつけない。ただし、荒浜地区及び逢隈地区は新町名の次に旧町村名をつける」とされた。また、第17として「支所の名称」は、荒浜支所、吉田支所、逢隈支所の3つ。 念のため、上記資料より古い『亘理町史 下巻』(亘理町史編纂委員会編、亘理町発行、昭和52年3月31日)を確認したが、合併に際する字名の取り扱いについては、合併条件事項を紹介しており同様の内容だ。 上記のように、昭和の合併で、新町名の「亘理町」のあとに、荒浜地区と逢隈地区で旧町村名をつけるとされた。上記(1)の現状に照らしてみると、まず逢隈地区では「亘理町(大字)田沢字鈴木堀...」としなかったのは、逢隈村を構成する13の大字(これらは明治町村制の前の村である。5(1)参照)の地域的一体感を表示で残すべきとの声があったのだろう。他方で、「亘理町逢隈大字田沢字鈴木堀...」も冗長なので、「逢隈」の2語を冠する13の大字名にした、ということだろう。 次に、荒浜地区は現在も「荒浜字○○」が主流だ。逢隈地区と違うのは、大字が単一だったので複雑でない(明治もひとつの村)なので、「亘理町字中野...」とする手もあっただろうが、ここも荒浜(町)の語を残す意識が強かったで、合併条件事項のとおり旧町名(荒浜)を大字として残したのだろう。 吉田地区は、現状でも吉田と長瀞の2つの大字がある。合併条件事項では、吉田地区は旧町村名をつけないとされたことから逆算して考えると、昭和の合併前は「吉田村吉田字○○」「吉田村長瀞字○○」と表記していた(明治の町村制で吉田村と長瀞村が合併。5(1)参照)ではないか。4 小中学校(1)小学校 小学校は6校。通学区域(学区)を確認すると(町規則)、小学校は次の通り。小字の一部が対象や対象外とされている場合を除外して、概要をつかむ。 ・亘理小学校 字○○、逢隈鹿島字○○、逢隈神宮寺字○○ ・荒浜小学校 荒浜字○○ ・吉田小学校 吉田字○○ ・長瀞小学校 長瀞字○○ ・逢隈小学校 逢隈上郡字○○、逢隈下郡字○○、逢隈小山字○○、逢隈田沢字○○、逢隈中泉字○○、逢隈牛袋字○○、逢隈十文字字○○、逢隈榎袋字○○ ・高屋小学校 逢隈高屋字○○、長瀞字○○(各小字の一部とされる)、逢隈鷺屋字○○、逢隈蕨字○○ 以上のとおりで、13ある逢隈を冠する大字(逢隈○○)が3つの小学校区に分かれているようだ。(2)中学校 中学校は、亘理、荒浜、吉田、逢隈の4校だ。 ・亘理中 ←亘理小学区+吉田小学区+逢隈高屋字○○ ・荒浜中 ←荒浜小学区+逢隈高屋字○○ ・吉田中 ←長瀞小学区 ・逢隈中 ←逢隈小学区+逢隈鷺屋字○○、逢隈蕨字○○ つまり、高屋小学校だけが中学校になると学区が分割される。すなわち高屋小の学区のうち、逢隈高屋は、亘理中と荒浜中に分かれて進学し、逢隈鷺屋と逢隈蕨は逢隈中に進学する。5 町村合併の経緯 『亘理小史』(亘理町史編纂委員会編、亘理町発行、平成2年10月1日)から。(1)明治の町村制 明治5年の大小区制で、亘理郡は第19大区となり、さらに、8つの小区に分けられた。現在の亘理町域は、次のようにされた。 ・小1区(9)=上郡、下郡、小山、田沢、中泉、牛袋、十文字、榎袋、鷺屋 ・小2区(3)=蕨、高屋、高須賀 ・小3区(3)=小堤、鹿島、神宮寺 ・小4区(5)=長瀞、吉田(一部は現山元町へ) 明治11年、大小区を廃して郡区町村をおく。 明治21年4月に市町村制が公布され(翌22年4月施行)、現亘理町域は次のようにされた。 ・亘理町(まち)←小堤村 ・吉田村←吉田村、長瀞村 ・逢隈村←牛袋村、榎袋村、鹿島村、高屋村、上郡村、下郡村、小山村、鷺屋村、十文字村、神宮司村、田沢村、中泉村、蕨村 ・荒浜村←高須賀村 鹿島村など13村が「逢隈村」とされたのは、『亘理小史』によると、昔「逢隈の里」と呼ばれた地域であったことによる。 小堤村が単独で広域地名の亘理を名乗ったのは、亘理氏の館や亘理伊達氏城下町の歴史から名乗る資格があったということだろう(おだずま意見)。(2)その後の経緯 荒浜村が荒浜町となる(昭和18年)。昭和の合併で2町2村が合併したのは上記3(2)のとおり。6 余談 先日三陸道を走っているとき、運転している編集長に助手席の特別秘書(娘です)がカーナビ画面をみながら声をあげた。「十二支のような地名があるよ!」と、写真も撮っていた。あとでネットで検索したら、大字「逢隈蕨」の地域の中に、十二支の動物や、天、地、人の地名(小字)がある。非常に面白いと思いました。■別建てで記事にしています 十二支と天地人(亘理町)(2024年03月12日)■関連する過去の記事(地名などについて。下記記事最後に掲載の記事リストご覧ください) 地名(市町村名)の付け方の類型論(2024年03月05日)
2024.03.10
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書き込むほどのことでもないのだが、今朝の河北新報朝刊で誤字を見つけた。1面で「日本式介護人材 ベトナムで育成」という大見出しの記事。宮城県などの介護やクリーニングの事業者でつくる組合が技能実習生を受け入れているのだが、JICA事業に採択されてベトナム現地の関係機関を9月に訪れる。そして、ベトナム北部のハイズオン省にあるハイズオン医療技術大にスタッフを派遣して、同大の教員に、日本語や日本の習慣を踏まえた介護のノウハウや指導方法を伝えて「マスタートレーナー」として育成する、などの内容だ。そして、その大学施設での介護実習の風景の写真が載せられている。その説明(キャプション)では、「ハンズオン医療短大での介護実習」と書かれている。(なお、続けて「短大は昨年9月に医療技術大に統合された」とある。)自宅に配達された紙面を見たのだが、念のため、ネット版でみても同様。いま(夜10時台)も直ってはいない。社内でだれも気付かないものか。7年くらい前か、高校野球で古川高校が「ゴールド負け」という記事があって、そのあとオンライン記事では「コールド負け」と訂正されていたことを思い出す。
2025.06.18
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家の中の整理をしていたら古い新聞記事切り抜きが出てきた。1989年(末尾に注)の河北新報の夕刊で、2月21日から24日の連載「仙台うまいもの事始め」だ。以下にテキストでその概要を記す。2月21日河北新報夕刊(リード文)牛舌(たん)焼き、回転ずし、冷やし中華、炉端焼き。この四つに共通するものは何だかお分かりですか?。実はいずれも「仙台が発祥の地」と言われる食べ物です。真偽のほどはさて置き、全国的にもポピュラーになった大衆料理を、元祖はいつひらめき、どう工夫していったのか。アイデアがビジネスの決め手になる今、仙台発祥のグルメの周辺を探ってみた。(4回統き)仙台うまいもの事始め(1)牛舌焼き/筋入れに極意牛の舌がおいしいなんて、一体、だれが最初に思いついたのか。「昭和十年ごろだったかねえ。東京で日本料理の修業をしている時に知り合ったフランス料理のコックが言うんだよ。牛の舌ほどうまいものはないってねえ。まさか、と思って自分で焼いて食べてみたら、これが本当にいい味なんだ」牛舌焼きの生みの親、仙台市青葉区の「太助」の社長佐野啓四郎さん(74)は初めて牛舌と出合った約五十年前を懐かしそうに振り返る。昭和二十三年、日本人の口に合うような味に工夫した牛舌焼きの商売を始め、今や経営するお店は仙台、盛岡市に四店。さらに、牛舌焼きの技術を仕込んだ弟子、孫弟子の店が北海道から九州まで散らばり、その数は百店以上に上っている。牛の舌はだいたいビール大瓶一本の大きさ。硬い皮を包丁でむいたあと、ハムを切るように手のひら半分大にスライスしていく。塩・コショウで味付け、一晩寝かせて炭火で焼けば出来上がり。作業は単純そうだが、かむごとに口全体にジワーッと広がるあの風味を出すには隠れた”技”がある。「スライスした一枚一枚にお客さんが食べやすいように包丁で筋を入れるが、表面だけをそっと切り込むのがコツ。完全に切っては味が染み込まないんだ」と娘婿の佐野初男さん(45)。”技”はこのほかにもある。お客さんが食べる時に振り掛ける唐がらし。下ごしらえに使う塩とこしょう。その混ぜる割合や量。「何十年やっても難しいよ」と啓四郎さんは笑う。牛舌には付きもののあのとろけるようなテールスープだって単純ではない。「味付けや水とテールの割合は秘伝中の秘伝。微妙に味を左右するんだ」佐野さんの店で、ビールを飲みながら牛舌焼きを食べていた相馬市のおじいさんは「牛舌を初めて食べたのは東京オリンピックの前あたりかな。”こんなうまいものがあるなんて”と感動したねえ。それ以来ずっと牛舌焼きは仙台で食べている」と話す。仙台に出張でやって来るビジネスマンの中には牛舌を食べるのが楽しみという人も多い。仙台で生まれ、日本中に広まった牛舌焼き。啓四郎さんは「お客さんに喜ばれる味を守るということは大変なことなんだ。毎日緊張していないとね」と職人らしい厳しさを見せた。写真/牛舌焼きの元祖・佐野啓四郎さん。焼き加減を見る姿が生き生きしている(注)私は2月21日夕刊から同24日夕刊とだけメモしていて、年次は不明だが、カレンダーで日曜を含まない年、また記事中「青葉区」の記載があることから政令指定都市移行後の1990年2月と推定した。東京にいた時期で地元ネタを勉強したのだろう。平成に切り替わった頃のビジネス事情などが、記事には感じられる。また、今では表記は「牛タン」で定着だが、当時は「牛舌」だったのだ。■今回の記事シリーズ 仙台うまいもの事始め(その1)牛舌焼き(2025年11月24日) 仙台うまいもの事始め(その2)回転ずし(2025年11月24日) 仙台うまいもの事始め(その3)冷やし中華(2025年11月24日) 仙台うまいもの事始め(その4)炉ばた(2025年11月24日)■関連する過去の記事 冷やし中華と牛タン(09年6月22日) 冷やし中華の龍亭(シリーズ仙台百景 22)(07年6月29日)
2025.11.24
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私は毎朝通勤の車中でラジオのNHK第一放送を聞きます。下の娘を保育所に出してから、7時20分から30分頃に家を出て、JR駅近くに借りている駐車場までの短時間ですが、7時40分にあやしいギターの音楽とともに、「とうほくラジオ朝一番」という番組が始まります。仙台放送局のアナウンサーが交代で担当していて、交通情報と、天気と、音楽と、あとは秋田とか青森とかの地元の方が電話で登場して地域の話題を話すという、実にコストのかからない(失礼)、番組です。 もう3週間くらい前でしょうか、ベテランのアナウンサー(Fさんだったか)が、仙台市立上杉山通小学校のことを、「かみ・すぎやまどおり」と読んでいた。「かみ」のあとに3分の1音節分くらいの微妙な間を置くのがポイント。 ああ、このアナウンサーはさすがだな、と感心しました。 仙台のど真ん中、NHK仙台放送局にも私の職場にも近い、青葉区上杉一丁目にある、上杉山通小学校。この名称にある「上杉山通(り)」の名は、昔から気になっていました。 現在の住居表示による町名は「上杉」。その昔、某テレビ局の女性アナウンサーが「ウエスギ」と読んでいたが、カミスギ。それは私が学生時代の話。 この町名に引きずられて、「かみすぎ・やまどおり小学校」だと思っている人も多いのではなかろうか。事実仙台生まれでない田舎者の私は大都会仙台に来た当初は、そう思っていた。例えば、堤通雨宮町は堤通りと雨宮町の合成でしょうが、これと同様に、「上杉」と「山通り」の合成かと。現に「上杉」という町名も堂々とあるのだから、こう考えても無理もない。どこかに「山通り」という昔の通りの名前があんだろうな、ぐらいに思っていた。 しかし、正解はアナウンサー氏のとおり、「かみ・すぎやまどおり」です。 かくにんのため、仙台市市民局HPで、歴史的町名等活用推進事業というのがあります(平成12年度から14年度、仙台開府400年事業の一環)。 http://www.city.sendai.jp/shimin/kusei/rekishi/index.html この趣旨には同感。城下町の歴史を感じ、わがまちを知るために、大事なことだと思います。そこで、「上杉山通」について整理すると次のようになります。 城下町の北方にある「杉山」(台原あたりで「杉山台」とも呼ばれた)に通じる道を「杉山通」と呼んだ。「上杉山通」とか「中杉山通」の名は、杉山通の上下の位置を示したもので西からこの順に並んでいた。江戸期には中身侍の屋敷地であった。 ということで、上杉山通小学校は、れっきとした武家屋敷の通り「上杉山通(り)」の小学校というわけです。JR仙台駅のすし通りや牛タン通りとはわけが違います。 小学校の歴史。明治6年に開校、明治22年に上杉山通りに移転し名称を上杉山通尋常小学校としたそうです(同校HP)。 なお中学校は「上杉山中学校」です。これは、「杉山」の上(城に近い)にあるということでしょうか、それとも「上杉山通り」を略したのか。昭和22年に第四中学校として設立され、24年に移転、校名も上杉山中学校としたそうです(同校HP)。台原中学校が昭和37年の開校ですが、それ以前は上杉山中学校が台原(つまり杉山(台))を学区としていたと思われます(未確認)ので、「杉山の上」という命名かと思います。 両校とも、上杉小・中と略称しているようです。通称はもちろんそれでいいですが、正式名を由緒ある城下町ゆかりの名前で名乗れる小学校や中学校、そんな学校で学んだ人たちは、何ともうらやましい限りです。 ところで、この由緒ある上杉山中学校に杉山校長がおられたのは、平成10年頃だったでしょうか。東北地区中学校長会会長も務められた、すばらしい先生です。 としますと、上杉の杉山上杉山中学校校長先生ということになりまして、大変だっただろうと。 ほかに私が昔考えたもので、「東北学院大学大学院東北学研究科」、これは実際にはありません。ほかには、「東京都西東京市西東京市役所西庁舎」、あるのかな。また、「静岡の石川知事」、昔は「岡山の長野知事」、16年前にひょっとしたら誕生したかも知れない「宮城の愛知知事」、この方、いまや突然ながら東京の代議士ですよ。 何の事やら、低次元で結んですみません。
2005.09.17
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東京から関西方面に新幹線で移動するとき、それまであまり気にしていなかった車内アナウンスの英語に、軽い疑問をいだいた。Welcome to the Shinkansen...と呼びかけているのだ。この場合、Shinkansen は大文字で始まる感覚なのだろう。じっさい、車内の電光文字メッセージ(正式には何というのか。)には、大文字で流れていた。英語に弱い私だから自分の適当な感覚の話になるのだが、the Shinkansen と定冠詞で言い切っているのが、よくぞ本家本元日本のザ・新幹線に乗ってくれたね、という尊大なニュアンスに聞こえたのだ。ちょっと具体的に書くと(私の言語感覚を論じても何の役にも立たないのですが)、新幹線を大文字でいうのなら、(日本の)新幹線という乗り物あるいは新幹線ネットワークを利用していただいてどうもありがとう、というだけで良いのに、わざわざ the で限定するのが気になる。何かに限定する文脈にしたいのなら、(冠詞なしで)Tokaido Shinkansen とすべきだろうが、the で導いたということは、「今皆さんの乗っているまさにこの新幹線」に乗って皆さん良かったね、と言っているように聞こえたのだ(何度も言いますが自分の英語感覚ですから全く当てになりません)。われらが東北新幹線の場合は、Welcome on board to Tohoku Shinkansen. とアナウンスしているような気がする(これも適当)。今朝ネットでみてみたら、on board the Tohoku Shinkasen なのだそうだ。the があることの感覚については後述するが、少なくとも、「東北」新幹線と紹介していることはまず指摘できる。つまり、(どの路線と特定しないが日本の)新幹線に乗ってくれたね(無冠詞のShinkansen)、というのならいい。また、新幹線一族のうちでも「東北新幹線」に乗ってくれたね(Tohoku Shinkansen)、というのもわかる。なのに、(1) なぜ、the が必要なのか(これは東北でも東海道でも)(2) なぜ東海道は the Shinkansen なのかという疑問だと分析できようか。ちなみに私が違和感を抱いた「ひかり号」車内での日本語アナウンスは、「今日も新幹線を利用いただきありがとうございます。」だったから、これに相応しい英語は、私の乏しき感覚ながら、Welcome to Shinkansen だと思う。まず、(2)について。これは英語の問題というより意識の問題なのだろうか。すなわち、我こそ新幹線。日本には、ほかに東北新幹線や秋田、山形、最近は北陸や北海道新幹線もできたみたいですけど、この新幹線が本家本元でっせ。こんな主張をしたいということではないか。と考えてみたが、開業当初からこれで通しているだけかも知れない。それとも、ひかり号やのぞみ号は、山陽や九州新幹線に乗り入れることもあるから敢えて一般的に表現しているのだろうか。さて、(1)について。これが最も厄介なところだ。はるか昔の学生時代に読んだマーク・ピーターセンさんの『日本人の英語』では、a,the,無冠詞の区別は文脈が全てであり、名詞の性質によって前につく冠詞が決まるということでは決してないという説明を思い出す。限定の文脈なら固有名詞だって the が付くのはおかしくない。冠詞は名詞に付くのではなく、意味的カテゴリー(限定か一般か)を決める役割を持っている。日本語の「今日も新幹線をご利用いただき...」は、特に「どの新幹線」と決めつけていないニュアンスを受けるから、無冠詞の Shinkansen が素直だと(私の乏しい英語感覚では)思う。もっとも、このアナウンスは、東京駅を出発してから発せられたわけだから、皆さんが乗車している「この新幹線」ないしは「このひかり号」という意味で、聞き手の乗客と話し手の女性(録音だけど)の間に、特定の文脈を受け入れる前提はできている。だから、新幹線にいくつかの種類があるという認識があるという前提の中で(ウルトラマンに一族があるように)、「この新幹線」とか「この新幹線列車」ということなのだと理解できるのだろうか。だとすれば、逆に、Tokaido などと付けていないのもうなずけるというものだ(the Tohoku Shinkansen という言い方はおかしいことになる)。つまり、Welcome to the Shinkansen(みなさんが乗ったこの(東海道)新幹線にようこそ)Welcome to the Shinkansen train(みなさんが乗ったこの新幹線列車にようこそ)という意味内容において成り立っている、と。ネイティブに聞けばすぐわかることでしょうが。本棚から探し出して『日本人の英語』もう一度読んでみますか。
2016.09.19
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しばらく前のことだが、妻の母が、自分からは動かず我が家を訪問した母親に湯茶の世話をさせようとした妻をさして、まったくタレカモノだと言っていた。これは仙台弁で、横着者の意味。三原良吉監修(仙台八十八選選定委員会編集)『仙台あのころこのころ八十八年』(宝文堂、1978年)の「仙台弁八十八選」によると、次のように説明されている。仙台人同士よく使うが他県人にはわからない。例えば、一緒に車を押しているとき、そのふりはするが力を入れない横着者。誰だか解らないように手を抜く。見つかれば互いににやりと笑い、このたれかものと言って片づく。軍隊用語のタレカから来ている新しいことば。身を隠して偵察にくる斥候を歩哨が見つけてタレカと誰何するタレカである。ダレガと濁らないところを見ても軍隊用語そのままである。こういう説明だ。なお、「かばねやみ」(骨惜しみ)の項では、かばねは骨のことから体を意味し、「やみ」は病みではなく休みであろう、とある。すると、「たれか」は単なる「かばねやみ」と違って、一見仕事をしたフリをする巧みさと、笑って許す軽さを伴っているもののようだ。(冒頭に記した妻の場合は、「かばねやみ」が相応しいのかも知れない。)たれか(者)の語は、他でも聞いたことはある。仙台出身の先輩が自分の親世代の言い方だとして語っていたような記憶がある。それにしても、上記のような由来とニュアンスがあるとは、興味深い。■関連する過去の記事 仙台弁「うざにはく」の語源(2016年1月17日) 「おしっこがつまる」は仙台弁か(09年11月13日) 仙台・宮城人怠け者論を考える(09年11月11日) 「んざねはぐ」の語源を考える(07年9月5日)
2016.01.18
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地域の総面積から山林や湖沼を除いた可住地面積の割合が高いのは、どこか。東北6県の市町村で調べてみた。(出典:総務省統計局 統計でみる市区町村のすがた2020)割合が概ね7割以上の高い市町村を書き出す。■青森県 八戸市 総面積(km2)305.56 可住地面積(km2)203.45 三沢市 119.87 97.82 つがる市 253.55 213.62 藤崎町 37.29 37.29(なんと同数値!でも下記のとおり他にもある。) 田舎館村 22.35 22.35 板柳町 41.88 41.88 鶴田町 46.43 46.23 六戸町 83.89 57.08 おいらせ町 71.96 58.97■岩手県 矢巾町 67.32 51.51■宮城県 仙台市宮城野区 58.19 54.38 仙台市若林区 50.86 48.64 塩竈市 17.37 14.72 名取市 98.17 70.73 多賀城市 19.69 19.11 東松島市 101.36 73.48 大河原町 24.99 17.86 亘理町 73.60 61.63 山元町 64.58 42.82 七ヶ浜町 13.19 11.18 涌谷町 82.16 59.44 美里町 74.95 74.82■秋田県 潟上市 97.72 66.44 八郎潟町 17.00 13.93 大潟村 170.11 159.66■山形県 中山町 31.15 21.13 河北町 52.45 38.23 三川町 33.22 33.22■福島県 本宮市 88.02 60.95 鏡石町 31.30 27.86 湯川村 16.37 16.37 中島村 18.92 15.70 矢吹町 60.40 49.36 三春町 72.76 49.36 新地町 46.70 30.50多賀城市が一番かとの先入観は、うち破られた。宮城県内でも、美里町が割合では上。市町村合併が進んだかの差異も出ているだろうが、それにしても、津軽平野などには堂々と100%の市町村があるのには、驚いた。
2020.08.30
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『47都道府県・妖怪伝承百科』小松和彦・常光徹 監修、香川雅信・飯倉義之 編、丸善出版、2017年 から(川島秀一執筆部分)■関連する記事 青森県の妖怪伝承(2023年07月11日) 岩手県の妖怪伝承(2023年07月12日) 秋田県の妖怪伝承(2023年07月15日) 山形県の妖怪伝承(2023年07月16日) 福島県の妖怪伝承(2023年07月17日)・糸車を回す婆様(山中の家に居り、何度撃っても笑っている。最後には老体のサルが正体を現し、婆様と思ったのは木の根だあった)・海人魚(唐桑町津本の漁師がカツオ船で目撃したクジラのようなヒレを持ち胴体は人間の女性。同町鮪立では捕まえた人魚を逃がしたら、舐めれば三年長生きするのに、と揶揄われた。)・海坊主(網地島のカツオ船が大漁するたびに船上から熊野神社に投げていた。もったいないからと潜ってそのカツオを拾い上げた船頭が、大坊主に片手をつかまれ、馬屋の馬を海に引っ張り込んだ。)・大鱈(気仙沼市五駄鱈の家の娘に毎夜通ってくる和子様(若者)の袴に麻糸をつけて、翌朝たどっていくと沼の中に大きな鱈が死んでいた。南三陸町戸倉の同様の話は「姫子岩」で鱈の親分に子分が集まる所の話で、鱈網で大漁する漁場だった。)・片目の鮒(大郷町大谷のメッコ沼の鮒は、漁師が大鮒の目を貫いて殺したため、みな片目だというが、その漁師も片目を刺されて死んでいた。)・河童(旧暦6月15日は天王様の祭日で各家で初物のキュウリを供えるが、気仙沼地方では河童様にあげ申すと唱えた。河童に引かれるからと危険な場所で子どもが泳ぐのを注意することもある。色麻町の磯良神社はオカッパ様と呼ばれ、宮司の姓は代々「川童」である。)・ザシキワラシ(気仙沼市大島村上家。旧長磯村斎藤家。気仙沼尋常小学校。南三陸町入谷の菅原家では代かきを手伝ってくれたワラシに魚を御馳走したが、雲南神社の祠に入っていたので、以来菅原家では田仕事に魚を食べない。南方町原の佐々木家。宮戸島の観音寺では、三寸くらいのザシキワラシが多数酒を飲みかわすが、見た者は小人になってしまう。)・大蛇(気仙沼市名木沢の門兵衛が鉄砲で撃った大蛇が、大島の葡萄口まで流されて死んだ。その祟りで門兵衛一族が大島に渡るとさざ波が立ち、一族は代々片目が悪い。大郷町では板谷斎兵衛が大蛇を撃った話。七ヶ浜花渕浜の花淵善兵衛は大蛇の歯に刺さっていた獣骨を抜いてやり、山の蛇除けの言葉を教えられた。)・テンテンコブシ(気仙沼地方で、わら打ちの槌を椿の木でつくると、その晩に化け物が来る。)・人をだます猫(離島に多い話。小野喜惣治『田代管見録』(1888)。また、網地島では、田代島から渡って来たマントに高帽の男が渡した金が木の葉だった。網地島で宿直の先生が毎晩猫を目撃したが、その猫が船賃として2円を出した。今でも臨時に田代島から網地島に船を出してもらうときには2000円を払うという。出島では唄を、野々島では浄瑠璃を歌う猫の話。田代島には猫神様、野々島には猫神社が祀られている。)・ヒヒ(本吉町でヒヒ(老年のサル)にさらわれた娘がを、故郷の者が五葉山で見つけたが、何不自由ないので帰らないと語った。)・船幽霊(菅江真澄が1786年気仙沼大島に渡る船中で聞いた。沖に碇泊していたカツオ船に次々と人が乗り移ってくるので、狭い一室に閉じ込めると翌朝にはみなクラゲになっていた。七ヶ浜にも同様の話がある。南三陸町寺浜では、大阪徳蔵という船頭の船の前に急に山が現れたが、乗り切って助かった。「大阪徳蔵山乗った」という地口が残る。清水浜ではハモドウ(ハモ漁の筌)を挙げているときに多数の手が船べりにすがりついた。)・まさぼう滝(気仙沼市渡戸川の小滝に浮いた大ウナギを取り上げダツ(運搬具)に入れたところ、マサボウ、マサボウ、いつ来るや、と滝の中から声が聞こえ、ダツの中から大ウナギが、マサはいつ来る来ずさ、と声を返したので、男は一目散に逃げ帰った。同様の話のある「昌坊滝」が登米市東和町と藤沢町の境にも伝えられる。)・山小屋の妖怪(気仙沼市塚沢で出会った化け物は人の心を読むので退治に難儀したが、そのうち小屋のオキリ(炭火)が跳んできて退散した。同市西才中に同型の話がある。)■関連する過去の記事 ごんだら村(気仙沼市五駄鱈)(2013年2月8日)ほかにも多数あります。フリーページの記事リストご覧ください。
2023.07.13
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律令国家は全国平定のため行政区として五畿七道を設け、都より国府に至る幹線道路を整備した。東北の蝦夷平定のための東山道は、陸奥東山道と出羽東山道が北上する。陸奥東山道は7世紀後半には郡山(仙台市)に朝廷の地方役所が構築され、8世紀半ばには蝦夷平定の拠点として国府多賀城が置かれた。802年には坂上田村麻呂により胆沢城が竣工、アテルイが降伏した。その後東山道は志波城まで延びている。全国の官道には30里(16km)ごとに一駅が設けられ馬が配備された。宮城県及び岩手県分では(カッコ内は比定地)、篤借(あつかし)(越河、斎川)、柴田(大河原)、小野(川崎)、玉前(たまさき)(岩沼)、名取(仙台市郡山)、栖屋(すねや)(利府)、黒川(吉岡)、色麻、玉造(岩出山)、栗原(鶯沢)、磐井(西磐井)、白鳥(前沢)、胆沢(水沢)、磐基(いわき)(花巻)である。■関連する過去の記事 東北の道 概説(その1 古代)(2010年10月23日)利府を経由して吉岡に至るのは、現在の国道4号の感覚とは離れているが、多賀城の存在を考えなければならない。そして、黒川の東山道ルートについては、利府から、小鶴沢、太田、幕柳、鳥屋、北目、大崎、舞野村に出て、奥田を経由して色麻、玉造に向かったとされる。また、黒川が現在の吉岡でないことは、元禄13年(1700年)の黒川郡駒場村山林絵図に、古海道が記載されていることから明らかである。吉岡は政宗の三男宗清が下草から元和2年(1616)に居館を移して宿駅が成立し、新しい奥州街道を造成した。吉岡宿の北端から水田を横切って善川をわたり、昌源寺門前に出て、昌源寺坂(奥田坂とも)を上り、駒場村で県道に出て三本木に至る。古海道とは、この新奥州街道に対比しての呼称と見られる。舞野観音から須岐神社に至る古海道の沿道は東北自動車道が通っている。■関連する過去の記事 セントラル自動車が奥州街道を復活(09年2月13日)いま、現代の交通路を含めて並べてみると、国道4号は吉岡市街北辺を迂回してから大衡丘陵地の西裾を廻って三本木に至る。奥州街道は吉岡の街中から水田を突っ切って奥田の山中(今ではセントラル自動車)に向かい、駒場地区(須岐神社)へ。古代の推定東山道は、奥州街道とは交わらず、舞野地区から北上し現在の東北自動車道と絡み合うように北に延び、大衡ICの東側を併走し再び自動車道西側に出て(というより自動車道が一度西に振れているとも言えるが)、駒場須岐神社で藩政時代の街道と交わるという関係。次に仙台以北の街道ルートについて。天保4年(1833)の御城下町割絵図には、北山輪王寺脇の道に古海道と書き込まれており、城下に新しい奥州街道が造成されたので古海道と呼ぶようになったのであろう。また、中山古海道(古街道)、中山通とも呼ばれ、輪王寺脇から荒巻小学校を右にみて神明社のところで梅田川を渡る。段丘崖の外縁にそって進むと水の森公園。公園入口の叢塚の前を過ぎると、地域の方々が命名した秀衡街道という標識に出会う。上谷刈村風土記には御城下ならびに黒川郡への道とあり、江戸時代の交通路でもあった。公園の東縁を通り抜けると高柳川が流れており、橋のたもとに8基の石碑が立っている。目の前には陸橋加茂大橋。古街道は橋の東に続き、住宅裏に道の痕跡が残っている。街道は北環状線道を越えて七北田川に沿って進み、道路神社(道六神社、沼遺跡付近)がある。ここで七北田川を渡ると、本七北田。嚢塵埃捨録にいう昔の巣鎌(現菅間)の宿であろう。本七北田の名称は、政宗により北根を経由して新たに造成された奥州街道の七北田宿に住民が移されたためである。■高倉淳『仙台領の街道』無明舎出版、2006年 などから■参考サイト 七北田のルーツ(泉区サイト内)なお、七北田・富谷ルート以前に、根白石が奥州街道の宿場だったとの見方がある。■関連する過去の記事 忘れられた宿場町 根白石(09年11月4日)
2011.10.23
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ことしもあと1週間。今年の十大ニュースのタイミングとなりました。福島民報(2007読者が選んだ県内十大ニュース)によると、尾瀬が単独で国立公園に(8月)、が第1位。フラガール、合唱日本一、陸上選手の活躍など明るい話題が上位。FISや前知事裁判などもあるが、やはり前向きな気持ちで年の瀬を迎えたい意向が働いたのだろうか。県庁爆破男の県職員逮捕、なんてのも見える。十大ニュース(福島民報では20位まで)は、一年のニュースを振り返る良い機会でもある。今年も当ジャーナルでは東北の十大ニュースを整理させていただきます。■関連する過去の記事 2006東北10大ニュース(06年12月26日)
2007.12.25
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囚人を収容する場所は現在は刑務所だが、古くは牢屋、獄屋、監獄、明治12年頃から暫くの間は集治監と呼ばれていた。我が国で最初に集治監を設置したのは、東京と仙台の2か所である。仙台は明治12年(1879)9月のことである。設立当時は宮城集治監と称し、仙台区郊外の古城址に建設された。東京集治監とともに我が国における刑務所の嚆矢であった。宮城集治監は、中央に見張りの六角五層の塔が高く聳え、六棟の獄舎が放射状に配置されていて、中央棟からの監視が行き届くように設計されたもので、当時の人々はこれを「雪形六出の構え」と形容した。囚人三千人を収容することの出来る設備があった。かの西南の役における国事犯人が囚人としてここに送られたという。宮城刑務所房舎(旧宮城集治監)は、西南戦争の国事犯を収容するためにつくられたもので、明治12年(1879)落成。請負は大成建設の前身である大倉組。中央にルネッサンス風の六角塔を置き、放射状に木造2階建ての6棟の雑居房と独房を配したもので、今は3棟が切り取られている。中央の棟は4階建て、1、2、3階は看守の見張り所となっている。この看守所は組み立て梁を用いた洋風構造である。房舎の内部においては日本在来の牢建築の手法を用いている。獄舎建築としては画期的なもので、香港、シンガポールの獄舎を通じて英国に範を求めたとも言われている。堂々たる大建築で、俗に六角大学の異称で呼ばれた。■菊地勝之助編『名数みやぎ郷土小事典』(宝文堂、1973年、1987年復刻)から■関連する過去の記事 宮城刑務所(シリーズ仙台百景 29)(08年8月12日) きょう宮城刑務所から出てきました(2010年11月6日)
2011.11.01
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27日(金)は、おだずまジャーナル編集局は業務閉鎖。ついでに編集長の収入源の副業(実は本業)も休んで、編集局の全員(一家のこと)で東北調査旅行(単なる家族旅行)です。今回は盛岡の繋温泉に宿をとりました。朝は盛岡南ICで降りました。志波城跡公園から南部片富士が快晴に映えます。田村麻呂はどんな思いで岩手山を眺めたのだろうか。さて、初めて訪れる、けんじワールド。10時の開始時間は少し遅れたが、結局6時過ぎまで滞在して、子供達は思う存分楽しんだようだ。プールには色とりどりのカッパ君たちがいて、楽しいイベントの案内などをしてくれる。遅いお昼を食べているとき、ステージではカッパ君達がお楽しみ抽選をやっている。リストバンドのロッカー番号でもって抽選するのだが、だいたいこういうのって当たらないよね、それにしてもステージの赤いカッパ君はお腹出ているね、などと娘たちと話していた。ところが、青いカッパ君がマイクで呼ぶ番号。何と私編集長のリストバンドの番号じゃないですか。思わず、両手を上げてステージに走る。腕を突き出して番号を見せて、例の赤カッパ君から景品をもらった。感激のあまり、赤カッパ君に握手を求めて、帰りには手まで振ってしまった。思わず、の行動で、なんとも小市民丸出し。席に戻ると、子供達が、なぜか醒めていた。いただいた景品。お風呂の入浴券です。午後もたっぷり楽しんだ、けんじワールド。あの赤カッパ君はバック宙飛び込みを見せるなど、実は敏捷な身のこなし。さらに、プールのアチコチに出没してみんなを楽しませていた。私も水をかけてやったら、メガホンでたっぷり返された。夜は繋温泉の宿。御所湖の向こうに岩手山。
2007.07.27
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今朝から作業をして、11時頃に完了。まずは画像をご覧下さい。(1枚目)ストレーナと接続した銅管(上部はタンク本体です)(2枚目)同(下からのアングルです)(3枚目)古い銅管。細目のノコギリで切ったもの。(ごく短い管は、2度目の切断によるものです)我が家のエネルギーは電気中心で暖房も電気だが、補助的に温水ルームヒーターも建築後2年目くらいに設置して使っている。これまで2度ほど修理や部品交換をしたが、今シーズンも室内機を押入から取り出して設定。試運転したら、エラー表示が出る。室外機の点火ミスということで、点火プラグなどの部品交換が必要なのだろうか。コールセンターにお願いして、修理に来てもらったら、問題はホームタンクの方だという。水が相当たまっているし、サビもあって老朽化しているからタンクを交換しておきなさい。その後また点検修理に来ますから、ということだそうだ(家人による)。そこで、まずは先週から今週にかけて現在のタンクの水と灯油の処理。やったこともなかったが、水抜き栓からたしかに大量の水が、まずは出てくる。20リットル以上はあっただろうか。結露などではなく、どこかから雨水が漏れ入ったに違いない。その後、出てくる液体が灯油に代わって、ポリタンク2個分ぐらい出た。出し切ってから、いつもお世話になっているガソリンスタンドに持ち込み、廃棄してもらう。実は、水抜き栓から液体が出るペースが遅いので、ここまでは大変時間がかかったのだが、今週の晴れ間を見て、作業しておいた。木曜日に最寄りのDIY店で取り寄せてもらった95リットルの新品ホームタンク(1万円強)を、自宅に搬入し、代わりにカラになった古いタンクは引き取っていただいた。そして、いよいよ今日(土曜日)の設置作業だ。(DIY店で、200リットル以下なら資格不要で自分で設置可能、と聞いていた。)開梱して組み立てまでは、ストレーナの取り付け(ねじ込み)がかなりきつかったが、屋内の畳部屋で何とか完了。日差しが出てきて小春日和の屋外に移って、ヒーターの室外機まで灯油を導く銅線でつなぐ作業に入る。銅線は既存のものを残しておいたので、これを活用するのだが、よく見ると所々に折れ曲がりかけたような部分がある。そもそも全体が長すぎるようなので、丁寧に銅線のカーブをなおしながら、思い切って折れ曲がり箇所を含む部分を切り捨てることにした。細い目のノコギリで切る。しかし、切り口が斜めになったような気がしたので、2回目。切った後を、ヤスリで丁寧に補正して、そのあと、管の内側に残った銅の切りくずや粉を、綿棒で何度かきれいにしてやった。その後、ヤスリできれいにした銅管に押さえナットを通そうとするが、銅管が微妙に曲線を成しているのか、するっと入らない。石けんを持ってきて塗りつけてみると、何とかナットが通った。そのあと、樹脂スリーブ(ねじ込むと潰れてパッキンの役割をするらしい)をはめて、タンク本体のストレーナに繋げておいたI型継ぎ手に、接続。継ぎ手を押さえて、回らなくなるまでねじ込んだ。ここまで終えて、ホッと一息。家人が業者に連絡して灯油が真新しいタンクを満たすことになり、来週早々にルームヒータの修理の業者にふたたび来てもらうことになっている。あとは、ちゃんと油が室外機まで漏れることなく供給されて(私の作業に問題がないこと)、室外機が正常に作動してくれれば(部品交換はするのかな)、安心です。(なお、毎シーズンの水抜き作業はやった方が良いのでしょう。タンクの取扱説明書には、半年に一回以上、とある。それと、季末の灯油は残さずに使い切った方がいいでしょう。雨の夜や寒い早朝に、時間のかかる水抜き油抜きの作業は嫌でしたから。)
2015.12.05
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再び、各県の名字の話題です。各県のメジャー名字について。◆青森県工藤(1位)は全国では65位。平安後期の武士、工藤祐経(すけつね)が祖で、分流が鎌倉時代に東北の地頭となった。福士(30位)も全国では990位。成田、三上、対馬、古川なども上位。珍名では、哘(さそう)。向こうに行こうか、と口で誘うから。地名にもある。また、治部袋(じんば)は、元は陣場で、石田治部少輔(三成)が陣を構えたため。◆岩手県佐藤(1位)、佐々木(2)、高橋(3)、千葉(4)、菊池(5)など。全国279位の及川(9位)、小野寺、小笠原、八重樫、郷右近など。蟇目(ひきめ)は、鏑矢を使った神事の意味の宮古市の地名から。人首(ひとかべ)は、坂上田村麻呂が取った鬼の首が実は人の首だったことに由来。西風舘(ならいたて)も珍名。◆宮城県宮城県の佐藤(1位)は義経忠臣の佐藤継信・忠信兄弟の影響が大きい。菅原は道真の後継を称している。高橋(2)、鈴木(3)、佐々木(4)など。阿部(5)は奥州の大姓で、平安中期以降、北上川流域の一大勢力に。宮城県と福島県にある珍名で、百足(むかで)は、大百足を退治した人と、伊達藩の百足衆の末裔、との2説がある。◆秋田県1位は佐藤だが、高橋(2)も県民の5.6%を占めている。佐々木(3)、伊藤(4)、鈴木(5)など。特有のものは、三浦、畠山、小松、柴田、鎌田、成田など。珍名で及位(のぞき)。◆山形県佐藤(1)、高橋(2)、鈴木(3)、斎藤(4)、伊藤(5)など。後藤(9)は、藤原北家、利仁の子孫が義経家臣となった際に後藤太と名乗った。五十嵐(10)は、新潟市の五十嵐(いそあらし)浜が起源で、磯の嵐が訛って、いそらし→いからし、となった。新潟では今でも「いからし」という。他に、梅津、渋谷、小関、板垣、安孫子、寒河江、東海林などが多い。左沢(あてらさわ)は、アイヌ語の日陰の意味のアテラから。左の沢が日陰だった。◆福島県佐藤(1)、鈴木(2)、渡辺(3)、斎藤(4)、遠藤(5)と続くが、特徴的なのは、菅野、渡部、橋本、星、五十嵐、根本、佐久間。橋本は地名にも多く(全国最多)、星は会津から新潟にかけて分布。小さい盆地を意味し、平野部に降りると星野になると言われる。円谷は全国5300人のうち2600人が福島県。大越(二本松市周辺)、宗像(田村郡周辺)。参考 KKベストセラーズ『一個人別冊 日本人の名字の大疑問』2017年9月なお、この本にはクイズとして、東京23区と同じ名字の話題。最も多いのは、中野(7万世帯)、次いで渋谷、足立など。新宿や千代田なども希少だが存在。名字として存在しないのは、文京、台東、世田谷の3つだそうだ。■関連する過去の記事(東北と名字。また、姓について) 名字の都道府県別ランキング(2012年9月28日) 都道府県名と同じ名字(2011年12月19日) 各県の名字ベストテンと特色ある名字、珍しい名字(2011年12月18日) 宮城県の由緒ある苗字(06年8月1日) 氏と姓と名字の成り立ち(2012年9月29日) 姓と苗字の違い(06年8月23日) 苗字と名字の違い(06年5月22日)
2019.11.24
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河北新報夕刊1990年2月24日仙台うまいもの事始め(4完)炉ばた/素朴な温かさ縄のれんをくぐって、ガタゴトと障子を開ける。「おばんです!」と優しい声が出迎えてくれる。ここは仙台市青葉区国分町の「炉ばた」(加藤潔店長)。「炉ばた焼きじゃなくて、炉ばただでば」と、かすりのもんぺをつけた奥さんの加藤和子さん。「ここは人のぬぐもりがあんでねえの」この「炉ばた」、造り酒屋「天賞」の会長だった天江富弥さん(五十九年死去)が昭和二十五年に開いた。”天賞”の売り上げを伸ばすために富弥さんが考えたアイデアだった。囲炉裏の周りを木のカウンターで囲む店内は、広さ約三十平方メートルで十八人が座れる。満員になるとちょっと窮屈だが、「そごは”そですり合うも他生の縁”て言うじゃない」と和子さんは笑う。 酒や料理は、囲炉裏の前に座った和子さんが、約一メートルの柄のついた、スプーンを大きくしたような「ぼっけべら」(ドジョウをすくうへらで他店では使っていない)で、「はいよ」とよこしてくれる。このスタイルをまねして全国に広まったのが「炉ばた焼き」だ。”炉ばた”は商標登録されてあるため、よその店では「炉ばた」の名称は使えない。当時囲炉裏の前に座って客の相手をしていた富弥さんは、お客さんから”おんちゃん”と呼ばれて親しまれていた。おんちゃんはしゃれ者。京都の造り酒屋で修業している時も、花柳界に顔が利く粋人だった。そんなおんちゃんの話を聞きたくて、お客さんは「炉ばた」に足を運んだ。今、囲炉裏に座っている和子さんも負けてはいない。「東京弁で”そうですね”は、津軽・南部・仙台弁で”んだっきゃ、ほだへ、そっしゃ”と言うのよ。私は四カ国語をしゃべれるよ」などと言っては客を喜ばせる。ある常連客は「酒はうまいし、料理も珍しいけど、何か言うとポンポン返事を返すおかみさんの話が面白い」と言う。料理もいろいろある。そばの実を雑炊にした酒田の「むきそば」。ハタハタの入った汁「しょっつる」「きりたんぽ」は秋田名物だ。壁には、みの、輪かんじきが掛かっており、雪国の昔風の家を思い浮かばせる。「炉ばたは東北の博物館だ」という客もいた。出店当時からのスタイルを踏襲している加藤夫妻にも一つだけ気掛かりなことがある。「この辺も家賃が高くなって、店を続けるのが大変になっている人もいるようです」写真/熱いから気を付けて-。囲炉裏を囲んで酒を飲むのが仙台の粋人■今回の記事シリーズ 仙台うまいもの事始め(その1)牛舌焼き(2025年11月24日) 仙台うまいもの事始め(その2)回転ずし(2025年11月24日) 仙台うまいもの事始め(その3)冷やし中華(2025年11月24日) 仙台うまいもの事始め(その4)炉ばた(2025年11月24日)■関連する過去の記事 冷やし中華と牛タン(09年6月22日) 冷やし中華の龍亭(シリーズ仙台百景 22)(07年6月29日)
2025.11.24
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山形新聞によると、23日、山形市と遊佐町のそれぞれ小学校プールで児童の事故があった。----------山形市の出羽小では、5年生の女子児童が競泳練習中に頭をプールの底に打ち、一時意識を失う事故があった。女子児童は教諭の人工呼吸で意識を取り戻し、市立病院済生館に搬送。頸椎骨折の大けがで、23日午後5時半から24日未明まで手術。同校はプール使用を当面中止を検討。他方、遊佐町豊岡の蕨岡小のプールで23日午前10時15分ごろ、1年生の女子児童が沈んでいるのを監視の教諭が引き揚げ、日本海総合病院に搬送。女子児童は一時、意識不明となったが、命に別条はない。酒田署の調べによると、同校の1、2年生計34人が同日午前9時半から水泳の授業を受け、授業終了時間の同10時15分になったので、教諭がプールサイドで人数を確認した際、1人足りないことに気付き、プール内を探したところ、水深約1メートルの中央付近で沈んでいる女子児童を発見。すぐに救助して人工呼吸したという。----------これらの報道を見ると、とにもかくにも児童の命が救われていることにホッとする。担当の先生がおそらくは迅速に対処したためなのだろう。思い出したのは、河北新報の22日の記事。福島県では、高校のプールで飛び込みが禁止されたままで水泳部員が練習できなくて困惑しているという内容。これは、県教委がプールでスタート台から飛び込む行為を全面禁止にした1日付けの通達なのだが、6月に県立高校のプールに飛び込んだレスリング部員が底に頭をぶつけて死亡した事故を受けたもの。しかし、国体予選の県総体が目前に迫る水泳部員は大会に向けたタイム測定さえままならない。やむを得ず禁を破る高校もあるという。河北の論調は、一律禁止はやりすぎだ、という感じ。プール事故というと、学校事故の1つのテーマだ。判例も少なくなく、法的責任問題の研究対象にもなっているが、何より大事なのは管理体制だ。難しいことではない。普通に「気づき」の感覚を生かすだけなのだ。山形の2件の事故。被害の児童には大変気の毒だが、迅速に対処した(と思われる)先生の存在に、何か安心感をおぼえる。■関連する過去の記事 ふじみ野市プール事故初公判を考える(07年11月21日) 地下鉄のエスカレーター点検(07年8月15日) 再びプール事故を考える(2006年8月11日) ふじみ野市プール死亡事故を考える(06年8月3日)
2008.07.25
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日本の鉄道で最も長い直線は、東北新幹線の白石蔵王-仙台間にある約25kmの区間だそうだ。宮城県が日本一とは、知らなかった。■梅原淳『新幹線 徹底追求 謎と不思議』東京堂出版、2008年 から直線としては室蘭線の白老-沼ノ端間27.8kmが有名だが、実際には区間内に駅が5か所あり、構内で分岐のための多少の曲線が生じる。従って、線路が一直線に伸びているのは、宮城県の東北新幹線が最長なのだということ。なお、東北新幹線は東海道などと比較して高架橋の区間が多い。東京-八戸間593.05kmのうち、高架橋は308.238kmである。明かり区間(トンネルでも地下でもない区間)407.416kmのうちの実に76%が高架橋。確かに、田園地帯を高架橋で直線に突き進むのが東北新幹線のイメージだ。これは、築堤や切取り工法より用地費が安いから。高架橋は築堤より工事費で1.5倍かかるが、用地費は半分以下になる。これは、高架橋に必要な幅が管理用通路を含めて11.6mに対して、築堤式だと、斜面や28.52mの土地が必要になるからである。この他にも、自動車道路の立体交差の便宜(いちいち橋で越えるより一気に高架にするのが容易だし安価)や、スラブ軌道には沈下しにくいコンクリート路盤が適していることなどが理由である。高架式にする考えは山陽新幹線建設の際に生み出されたのだが、山陽新幹線延長562.27kmのうち、高架橋は289.744km(52%)と実は長くない。トンネルが280.492km(50%)もあり、また筑豊地区など地盤が弱く高架橋が設置できなかったからである。東北新幹線は、トンネル延長が185.63kmと山陽より短く、しかも地盤が比較的良い。
2011.08.28
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伊達政宗が来住する以前の仙台平野は、国分氏支配の下に名族が城館を構えていた。現在の国分町は、政宗開府以前に木ノ下の国分寺薬師堂周辺にいた家臣団(国分衆)を移住させたという。また、仙台城も、若林城ももとは国分氏の旧城を基にしているのであって、仙台は国分氏とその領民が基礎を形成したのである。木ノ下の白山神社は国分町移住後も国分衆によって流鏑馬などの儀式が運営され、国分氏滅亡後は遺臣(国分侍)が伝統に則り祭礼を執行している。国分氏は、鎌倉御家人の千葉介平常胤の五男胤通が、平泉征伐の戦功で国分荘33郷と名取郡を給与されて仙台平野に土着したという。胤通は、その前に鎌倉から下総国国分荘に移住して国分氏を称しており、国分氏の祖となっている。もっとも、国分氏の名は宮城郡の国分荘に由来するとの説もある。居城は、始め郷六城、次いで千代城、小泉城、松森城と当主により転々した。国分寺郷の名は南北朝期にも見え、国分寺周辺を指し、北は南目村、東は伊在、蒲町あたりで区切られていた。しかし、観応2年(1351年)の岩切城の合戦で吉良探題に味方し勝利した国分氏は、ライバル留守氏の勢力を削いで、仙台平野に君臨することとなる。十代盛忠は足利義持から宮城、名取、黒川の三郡の主政に任ぜられたとされ、北は泉区から旧宮城町一帯、東は岩切で留守氏と境を接し、南は増田付近まで、西は秋保峡から高館付近までを治めた。栄盛を誇った国分氏だが、室町中期以降南奥から北上する伊達氏と結んだ留守氏に、小鶴の合戦で敗れる(永正3年、1506年)。また、同年松森城主で国分氏の分家松森盛次の反乱があり、衰運に向かう。14代宗政が伊達家の後ろ盾を得て立て直すが、家中に意見の対立が続く。伊達家から入嗣した第十八代盛重が、政事宜しからずと政宗の怒りを買い、松森城を追われる。一説には、国分家老の堀江伊勢(掃部)が盛重の謀反の意と急襲の陰謀を政宗に通報したとされている。軍記には乱戦の中、盛重の身代わりに切腹させて自らは落ち延びた、とされるが、亡命先は常陸の佐竹氏。関ヶ原の後の出羽の左遷には同行し、横手城に一千石を充てられる。盛重には三男一女があり、三男の重広は姉の嫁いだ先の古内実綱の家督として、やがて岩沼に1万6千石を得る。なお、長男と次男は僧となり、盛重が横手城に移ってから、藩主佐竹義久の三男宣宗を養子とし、宣宗は国分(伊達)氏を称した。さらに、妾腹に伊賀重吉がおり、国分氏没落の際に、宮城郡桂島の馬場主殿をたより桂島(松島)に隠れ住み、やがて木ノ下に移り伊達家の安堵を受けて荒巻方面の開墾に従事したが、一族は国分姓をはばかり馬場、桂島を称したという。国分氏の家臣団としては、郷六、森田、八乙女、北目、南目、朴沢、鶴谷、松森、秋保、粟野、古内、坂元、白石、福岡、馬場、小泉、堀江、萱場、武田、横沢、小林、税所などの各氏があった。参考 紫桃正隆『みやぎの戦国時代 合戦と群雄』宝文堂、1993年
2009.08.09
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明治23年(1890)の帝国議会開設後は、それまでの薩長中心の政府高官の政策決定から不十分ながらも代議政治がスタートする。他方で、鉄道の幹線区間は、上野青森間が日本鉄道会社が建設するなど、多くが私鉄であったが、明治23年の恐慌で私鉄計画は停滞する。そこで、鉄道庁長官の井上勝は明治24年に私鉄を政府が買収し、他の幹線は官設鉄道として建設する方針を打ち出す。議会では地元選挙区への敷設を叶えたい議員の間に鉄道路線拡張の気風が強まり、もっぱら官設鉄道の路線拡張を目標に鉄道敷設法が明治25年6月公布される。鉄道敷設法第2条では今後全国に官設で敷設する路線を33掲げた。しかし、一斉に着工はできないから優先順位をつけることとなり、同法7条に、まず12年間で着手する第1期線(9路線。東北関係では福島青森間の奥羽線)を再記した。このことから、鉄道実現を求める地方住民の目標は、議会による法改正によって、まず第2条に載せてもらい、次いで第7条に昇格させて着工時期を待つという手順となった。こうして、かつてのように高官の一存で路線を決定するのではなく、地元選出の衆議院議員に依頼する運動が沸き起こったのである。第1期線9路線の建設は日清戦争後に本格化したが、多くは予定より遅れ、奥羽線の完成は日露戦争後の明治38年(1905)となった。遅れながらも第1期線が完成に近づくと、他の路線の沿線地域は第1期線への繰上を求めて運動を強める。こうした要求を中央に投じるパイプ役となったのが明治33年結成の立憲政友会である。政友会は、鉄道、治水、港湾、道路などの要求を吸い上げる利益誘導政治で衆議院で多数を占め続けた。とは言え、日露後の日本は賠償金が得られないことから財政が苦しく、鉄道敷設法に基づく官設鉄道の拡張も進展しない実情であった。そこで地方の短区間の路線は私鉄として建設させる方針が示され、明治43年(1910)に軽便鉄道法が公布される。各地に軽便ブームが起きるとともに、国鉄にも軽便敷設に道を開いた。このため、大正時代に建設される多くの路線は、鉄道敷設法の改正が不要となる国鉄軽便線となった(東北関係では水郡線、大船渡線、大湊線など。北上線は敷設法から削除されて軽便鉄道建設予算に計上されて建設)。第一次大戦後の好景気もあって原敬の政友会内閣は、鉄道建設積極政策に出たが、ライバル憲政会もまた地方の建設要求に積極的に応えるようになる。このため、政党間の綱引きで路線が不自然になるケースもあった。典型は国鉄軽便線として敷設された大船渡線である。陸中門崎と千厩の間は直線で10キロほどに過ぎないが、わざわざ正方形の3辺を通るごとく迂回するため26キロもの路線延長となった。これは、摺沢を地盤とする政友会の政治家が地元を通させたからであるが、摺沢から大船渡に東進すると千厩が素通りされることから、今度は憲政会の大物議員が千厩を通したのである。かくして不自然なナベヅル線となるのは、政友会と憲政会の誘致合戦の結果である。ところで、大正9年の恐慌や12年の関東大震災による不況局面で政友会の積極策も行き詰まる。しかし、各地の建設熱はさめず、原内閣は鉄道敷設法の改正を検討する。新たな法案は、別表に掲げる予定路線について序列を施さず、これらの中から順次予算を計上して着工するとした。そして、別表には実に149の予定路線が一挙に掲げられたのである。原の死後、おなじ政友会の高橋是清内閣がこの法案を成立させ、大正11年に公布。第二次大戦後まで存続した。■『歴史群像シリーズ 図説 鉄道路線はこうして生まれる』学習研究社、2007年 から(松下孝昭著作部分)〔次回(その2))に続く次回は改正鉄道敷設法別表掲載の路線の推移(東北関係分)を予定しています。■幻の鉄道計画 改正鉄道敷設法の予定線(その2)(2013年4月20日)
2013.04.19
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現在の鶴岡市に庄内藩士の娘に生まれた長南年恵(1863-1907)は史上有数の霊能者である。空の容器に水を湧き出させ、病の人を救った。また、自らはほとんど飲食はしなかったという。明治33年(1900)7月7日に大阪朝日新聞記者の前で霊水の湧出実験に成功し、さらに同年12月12日には神戸地裁で実演してみせ、詐欺容疑に無罪の判決を得る。後掲書の解説によれば、いずれもマジックとして考えれば十分に成功の可能性が高く、また、神通力に関する証言は信者や家族などによるもので、しかも霊力に目覚めたとされる29歳は彼女が家計を支えた始めた時期と一致することを指摘する。そして、極端な偏食が40代の早逝に作用したと推察する。霊力が客観的科学的に正しいかどうかはわからない。騙しだった可能性は高いだろう。しかし、怪しいからこそ人は何かを求め集まったのだろう。彼女の霊力の発揮の場は山形と大阪だったようだ。日清戦争に勝利しながら臥薪嘗胆、条約改正をめざして世界列強にのし上がろうと富国強兵策を進めた時期の当時の日本にあって、庄内は、まだ羽越線も通らず城下町や農村の風情が色濃く残っていただろう。そんな中で、黒山の人だかりをなすほどの話題だったことに、思いを馳せてみる。■ASIOS(アシオス)著『謎解き超常現象』(2009年、彩図社)などから
2012.03.15
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前回、女性ドライバーの地域性に関して運転免許統計を扱った。■前回の記事 女性ドライバーの少ない宮城(2015年12月1日)ここで記した内容とは別に、この統計の中に興味深い数値があった。都道府県別の指定自動車教習所の卒業者数(平成26年中)である。全国で約160万人いるのだが、都道府県別にみると、第1位が東京都の115千人。5万人以上の都道府県は、北海道、埼玉、千葉、神奈川、静岡、愛知、大阪、兵庫、福岡。まずは人口の多いところが順当だ。その次は、京都の46,618人で、ビックリするのはその次に山形県の45,590人が来ていること。新潟(43,417)、広島(37,433)、茨城、岐阜、熊本などを抑えて、堂々の第12位。宮城県は29,303人で、山形の方がずっと多い。福島県も34,718人と「健闘」している。思い浮かぶのは、合宿制の教習がさかんだということ。これが寄与しているのではないか。■関連する過去の記事 東北の合宿制自動車学校(2007年2月20日) 自動車教習所の大手 長井市のマツキ(08年10月8日)
2015.12.02
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渡辺萬次郎『わが町仙台』(宝文堂、1977年)の記述から、昭和30年、40年代の仙台近郊団地造成の概要。(前回 昭和30-50年 仙台の団地造成の概要(その1)(2012年5月22日) から続く)■関連する過去の記事 仙台の団地名を考える(再び)(2012年5月20日) 仙台の「団地名」を考える(後編)(2011年12月11日) 仙台の「団地名」を考える(前編)(2011年12月11日) 仙台圏の宅地開発史を考える(2011年1月5日)(e)西南地区向山、長町方面を門戸とする西南地区中、中心に近い長町分では、緑ヶ丘、茂ヶ崎など、八木山及び大年寺山の東斜面に位するもの、八木山団地、松が丘等山頂に近いもの、長町・越路両恵通苑、青葉苑等、それらの中間に位するものも数多く、そのうち八木山土地区画整備(ママ)組合に属する八木山団地には8千人の収容を予定し、既に中学、小学校を備え、その周囲には東北放送、東北工大、動物公園等があり、また西部には郵政研修所の高層をみるが、集団住宅等は含まぬ。以上の西南に当たる西多賀地区では、山腹中段に早期に造成された西の平、萩の台、大谷地等の小団地の外、近年その奥の金剛沢に造成された八木山南ニュータウンが著しく、その周辺には第2羽黒台、城南荘、信販鈎取等数が多い。更にその西の鈎取沢上流の西岸には、月ヶ丘、ひより台、県営太白団地等、次々に団地が造られ、その西南には山田住宅、山田自由ヶ丘が開かれ、更にその西南で旧生出村とを堺する旗立台地では、東に羽黒台、西に日本平、その更に西に南仙台ニュータウンが次々開かれたほか、その一部には農学短大、さわらび学園等がある。更に生出地区の中心茂庭の一部には、仙台市営茂庭団地が造成中であり、それから峠を北に越した折立地区の折立団地も、行政的には生出に属するが、その位置広瀬川に近く、むしろ西方地区に属する。これから更に西方には熊ヶ根の南にゴルフ場付き住宅団地西仙台ハイランドがある。(f)南方地区名取川を南に越えた名取山地には、各地に住宅団地の造成を計画されながら自然保存地区に編入され実現に至らず、その東麓の丘陵地帯に県の造成した名取ニュータウンが7千人の収容を予定し、その西方には名取工業専門学校、成人病センター等を見るに過ぎぬ。古代史上最も早く人の集まったこの方面が、最も長く旧態を保存するのも皮肉である。(g)山地造成の問題点以上各方面の山地造成団地中、昭和30年代のものは山地の原形をそのままにしてこれを階段状に削り、崖を玉石積で被うたに過ぎぬ。緑ヶ丘の東斜面の如きその代表的なもので、さながら古城の塁壁のごとく、道路は弓の字形に上る。従って冬季積雪が凍結すれば車の昇降は不可能となり、その上雨期には斜面崩壊の危険がある。昭和40年代に入り、かつ造成が大規模となればブルドーザーの利用によって山を削り谷を埋めて平地をなるべく広くしたが、削った部分の周壁や埋めた部分の前端に大断崖を列ねやすい。特に団地のあるものは地辷(すべ)りの跡をそのまま利用したため、例えば茂ヶ崎団地の如きは崩壊しやすい玉石層を露わに示した大きな崖に三方面から囲まれる。昭和44年緑ヶ丘の北側に起こった山崩のごときもその例で、この内側に計画中の第2松ヶ丘団地の未着手だったことが幸いであった。大年寺山の北側につくられた野草園の如きも昭和22年新たに起こった地辷(すべ)りによる急斜面で当時はその下を流れる米研(こめとぎ)沢を埋めて沼沢と化した。県はその下流への脱出を恐れて砂防ダムを築いたがそれさえその後崩壊に瀕して再建を余儀なくせられた。この種の地辷(すべ)り可能地帯は山中に多く、例えば八木山-日本楢道の通じる金剛沢の北斜面では昭和40年代に入ってこれを起し、営林署による防止工事が行われたがなお緩慢な動揺が続きその後に植えた杉の立木が一本ごとに傾いている。これを防止する方法としては崖を階段状にすること、防壁に水脱き孔を多くし内部滞水を無くすること、崖下に家屋の建築を避け、小公園等の空き地にすること等で、現に実行せられつつあるが、多量の降雨に会すればたといこの種の崩壊がなくとも裸になった地表の土砂を急激に流し、下流に氾濫する危険がある。昭和41年6月中山不動を襲った山津波はその例であり、その後社務所をやや東方に移している。山地造成の第2の問題は交通にある。現在は改まったが、はじめは無統制に行われたため、市中心部との交通に不便多く、かつ隣接団地間に障壁の多いことで、団地の境界が断崖になったり谷で隔てられる場合が多く、遥かに迂回しなければ隣の団地に買い物にも行けぬのが実状である。特に開発の途中においては、埋木の末端が谷に臨んで崩崖をなし、各所に一時的沼沢を生ずるからその下流では降雨の際の決潰流失に注意を要する。
2012.05.22
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太平洋戦争で米軍は6大都市の空襲の後に、中小都市を標的として、仙台市と、海軍防備隊基地の女川町を攻撃した。○仙台 昭和20年3月10日、7月3日、7月10日にB29空襲。特に7月10日の大空襲は午前0時3分から約2時間半にわたり、市内中心部や川内地区が火の海。死者1,066人、負傷者1,689人、被害家屋11,933戸、罹災者57,321人(当時仙台市人口26万人)。 第二師団、仙台駅、青葉城大手門、瑞宝殿などを失う。 宮城県全体では死者1,170人、負傷者2,018人、建物12,821戸と言われている。以下に仙台市以外の概況。○亘理町 8月10日午前9時頃に、亘理駅発仙台行き列車が吹田付近でグラマンの機銃攻撃を受け、死者6人、負傷者多数。○名取市 7月9日、10日の仙台空襲で、高舘に焼夷弾が落とされ、熊野堂や川上部落で68戸が被害。○岩沼市 6月から飛行部隊104部隊が駐在した矢ノ目飛行場(仙台空港)に空襲。7月11日午前11時に、空襲による火事で玉浦・千貫地区の11戸全焼。8月10日に岩沼駅が空襲受ける。○塩釜市 昭和19年12月29日空襲、死者1名、負傷者13名、462戸(2,142名)被害。○古川市(現大崎市) 8月10日田尻方面から数機が台町に爆弾を投下。死者7名、負傷者8名。○小牛田町(現美里町) 8月9,10日の2度、グラマン十数機が小牛田駅の鉄道施設や野田橋を攻撃し、死傷者。○矢本町(現東松島市) 8月8,9日、金華山沖の米軍空母艦載機が矢本飛行場(松島航空隊)を攻撃。○石巻市 8月10日、海軍の造船所(中瀬)に艦載機が船を狙って攻撃。電話局や小学校も被害。死者数名。○女川町 8月9日早朝から10日にかけて、グラマン編隊が海軍防備隊基地である女川港から町中心部までを、機銃掃射。町民は防空壕で過ごす。乗組員など200名が死亡。日本軍が駐屯した江ノ島も攻撃され、死者19人、負傷者16人。○気仙沼市 8月8,9日の昼夜、グラマン編隊が亀山スレスレに飛行し、梶が浦、浪板、内の脇方面に爆弾投下、機銃掃射。鹿折地区で死者18名。参考:宮城県図書館協会編著『郷土みやぎの姿』1985年、宝文堂出版販売■関連する過去の日記 藤井前市長の話(06年7月13日)
2006.08.02
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前回、学校給食の「いただきます」について書きましたが、もう1題。同じく学校給食の「いただきます」に関してなのですが、話の重点が変わります。「合掌」について、です。 平成14年12月15日に秋田市で、「第5回一日中央教育審議会」が開催されました。教育基本法の見直しなどについて意見発表がされているのですが、岩手県で小学校の教頭をされている畠山さんという方が、次のような発言をされています(文部科学省HPからODAZUMA Journal要約)。------------ 宗教に関する教育をより重視する方向で見直すべきである。特定の宗派でない、宗教的な情操の涵養や生命に対する畏敬の念の育成は、人格の形成に欠かせないが、現状の学校教育ではおろそかにされている。教育基本法第9条の第1項(宗教について教える必要性)がおそろかにされ、第2項(特定の宗教のための教育の禁止)が全ての宗教教育を禁じていると過大に受けとめられているのが実態。 例えば、給食前に合掌して「いただきます」と唱和していた富山県の小・中学校では、保護者から「合掌という言葉は宗教的な色彩があり、強制されるのは苦痛」という指摘を受け結局合掌を取りやめ、平成8年以降は、「気をつけ。いただきます」に変えたという。(他に、近畿地方では多くの小学校が伊勢神宮を修学旅行のコースに入れていたのが激減した、ゆとりの時間に家庭で神棚、仏壇、墓地を清掃し、花を献じるよう指導した校長に教育委員会は中止の指導を行った、などの紹介があり、)伝統、文化の尊重の視点からも残念なことだ。(なお、発言の後「宗教教育」の語義について中教審委員とやりとりあり。)------------ 政教分離や「宗教教育」については色々言いたいこともあるのですが、グッと我慢して、ここは「合掌」を宗教教育を理由に廃止したという点に注目したいと思います。 これは、富山市内のK中学校で平成8年に現実に投書がなされたという実例を指すようですが、実はその以前から富山県内では合掌の号令をやめた小中学校があるのだそうです(98年7月28日産経新聞が過剰反応だという視点で記事にしている)。 憲法20条の解釈論で行けば、「目的効果基準」を採用することとなり、合掌の目的が宗教的意義を持ち、その効果が宗教に対する援助、助長、促進または圧迫、干渉になる場合には、違法(違憲)ということになるでしょう。私個人としては、軽く合掌する程度は、現在の感覚として宗教的意義は薄く世俗的な生活の一部なのであって、公立幼稚園のクリスマス会(サンタ登場、キャンドルサービス)の方がよっぽど宗教的だと思います。 ちなみに、我が家の2人の娘たちに給食の時間の「いただきます」の際に、どうしているか(合掌するかどうか)確認してみましたら、小学校3年(公立)の姉も、保育所(公立)の5歳の妹も、いずれも手を合わせるしぐさをしてくれました。 もっとも、「いただきます」を発声するときに軽く両手を合わせる感じのようです。日常生活でも通常こんなものでしょう。 富山の例で言えば、給食前の合掌のさせ方に通常の生活を明らかにはみ出したものがある、例えば一斉号令で黙祷させる、時間が長くある程度の苦行と感じられる、などならば、目的効果基準のテストに照らしても問題にもなりえるでしょう。また、浄土真宗の強い土地柄で、何らかの社会的な要因があるのかも知れません。 いずれにしても、異論が出るようではまともな指導ができないという配慮で、こうなったのでしょう。 教育上の現実的配慮としては、妥当な対応かも知れません。個人的には教育委員会に毅然として欲しいとも思いますし、後味はよくありません。しかし、学校教育の枠内だけに押し込めた議論に終始するのも、また間違いでしょう。 「合掌有害論」は特殊な一例なのかも知れませんが、皆が自然に合意し依拠する揺るぎない考え方や所作(大げさに言えば文化とか伝統)というものが崩れているのだろうか、と思ってしまいます。
2005.11.24
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蔵王山の噴火対策が話題になっている。蔵王町では今年のイベントを中止するなどの対応。自然災害の脅威はいまさら言うまでもないが、現代に生きる我々は、科学の粋と知恵を集めて、客観的に災害を知り、無用の混乱を招くことなく正しくこれを恐れて適切に備えていくことが大切だろう。ところで、近世最大の爆発であった元和9年(1623)4月16日の噴火は、刈田、柴田2郡に砂石を降らせ、噴火は夜間仙台からも望見されたという。翌寛永元年に至るもやまず、政宗公は明の帰化人王翼に鎮火祈願を命じる。政宗公の七男、村田城主3万石の伊達宗高は、進んで父公に代わり寛永元年10月5日、王翼を従えて鳴動の中激しい寒風をついて刈田山頂に達し、生命を山に捧げることを誓って鎮火を祈願。この命願により、以後鳴動はやんだという。2年後の寛永3年5月、政宗公は上洛、世子忠宗らとともに従っていた宗高は、7月には二条城で従五位下右衛門大夫に叙任の沙汰を拝する。しかし、8月17日に天然痘で死去。20歳。政宗公が従三位権中納言に、兄忠宗が従四位右近衛権少将、とそれぞれ叙任される晴れの参内が迫っていたため、父にも兄にも会えない臨終だった。9月6日に遺体は村田の竜島院に入ったが、9日の重陽の節供で儀式に忌みをはばかり、宗高の兄弟や重臣から名代をもって弔問となった。葬礼も急いで7日に行われた。政宗公は平常殉死を不可とし、このときもともに村田に下る武山修理には殉死を思いとどまるよう命じていたが、宗高の棺が7日正午発引すると、家老福地右近ら9人が切腹。大半が20代の青年であった。仙台藩で唯一女性の殉死となる乳母お阿茶も同じた。宗高の墓は、竜島院境内にあり、南に村田城跡を間近に望む。山門を入ってすぐ左にお阿茶が形見に植えたという枝垂れ桜の老木がある。刈田岳山頂の延喜式内社刈田嶺神社石堂の東に右衛門塚は、若冠18歳の村田城主の伊達右衛門大夫宗高が、刈田柴田2郡の農民の被害を救うため、命を山霊に捧げて祈願を込めた遺跡である。■三原良吉『郷土史仙臺耳ぶくろ』(宝文堂、1982年)に依っています。400年後の21世紀にある我々は、もっと別の考え方ができるはずである。何よりも天災を恐れ、命を懸けて対応してきた地域の歴史を謙虚に学びながら、祖先が必死に守ろうとした郷土を現代の英知で受け継いで行かなければならない。
2015.03.03
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サイコロと言えば、今では6つの目を持つ立方体が当たり前だと思う。しかし、これは比較的最近の話で、徐々に大きな数字を使うようになって立方体になったのだそうだ。サイコロの原型は表の裏だけの2面しかなかったという。現在でも中部アフリカやアメリカインディアンには2面サイコロが残っている。また、古代エジプトでは、動物の骨でできた4面体のサイコロがあった。多賀城跡では、4面の木製サイコロが見つかっており、700年代に使われていたと推定されている。■知的生活追跡班編『数字のウソにダマされない本』青春出版社、2001年 から
2011.09.14
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