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今日は、新暦の7の月の最終日ということもあって、「7種類の立体構成」を取り上げることにした。本日の掲載写真が、その「7つの立体」である。内訳を言うと、金色の5種類が「正多面体の5つ」で、向かって左側から、「正4面体・正8面体・正6面体・正20面体・正12面体」となっている。ここで一言、説明をしておきたい。それは、見てお分かりの通り、私の立体の表現は、同じ長さの「軸線(素材は綿棒)」で構成したものである。一般的には、各種の立体を、それぞれ何面体(例えば「正12面体」)という名称であらわすように、立体を「面」でとらえがちだが、私の場合は軸線構成による「中身の構造の安定化」が先にあるという考え方である。つまり、等辺による軸線構成によって安定化した構造が前提にあって、それに「面」は、結果的に付随するという立場だということである。(これが以外に重要な視点なのである。)そして、銀色の立体構成は2種類あるが、小さいほうが(向かって右)「準正14面体」であり、大きいほうが(向かって左)「準正32面体」である。(この2つの準正多面体を加えて「7つ」とした理由は、わかる人にはわかるということで、ここでは取り上げないことにしようと思う。)虹の7色や、音の7音階など、いわゆる「音色の7」は、この「7つの立体」とも関連するのではないか!・・・そういう直観から、また共感できたらということで、この画像を公開してみました。[ ド・レ・ミ・ファ・ソ・ラ・シ・ド / 赤・橙・黄・緑・青・藍・紫 ]その答えが、この画像の「7つの立体」に関連しているのかも・・・。
2005年07月31日
かつて東京都を含む関東地域に、トータルで10年以上住んでいたことがある。その間、様々な地域を巡り歩くなかで浮かび上がってきた、方位を示す軸線があった。それが、今日のタイトルの「関東の南北軸」である。結論から先に言おう。その「南北軸」の「南」の場所は、鎌倉の「江ノ島」、そして「北」の場所は、日光の「男体山」である。地図を広げてみて欲しい。この2つの南北の場所を線で結ぶと、関東の背骨が観えてくる。さらに、この南北軸には、その軸線に沿って、これが「南北軸」だよと言わんばかりのポイント地点が並んでいる。目ぼしいところを挙げていこう。まず、「南」の江ノ島から始まり、次に「大国魂神社」、次に「川越」、次に「さきたま古墳群」、そして「北」の男体山となっている。ここで簡単に、それぞれのポイント地点を紹介していこう。[ 江ノ島 ] 鎌倉の弁天様で有名な島。日本三大弁財天のひとつである。鎌倉幕府の礎をつくった北条時政は、ここで祈願して大願を成就させている。そして、江戸城を築城した大田道潅は、ここで築城場所の感得があったということである。また、徳川家康は、江戸城に入城するにあたり、江ノ島を経由して、ここで祈願している。これらの事実は、この島の重要性を示していると言えよう。(神奈川県藤沢市)島の先端にある岩屋洞窟には、昔から龍神が棲むという伝説があり、現在はその洞窟の奥まで入っていける遊歩道ができている。[ 大国魂神社 ] この神社は、大国魂(おおくにたま)の大神を武蔵国の守り神としてお祀りした社である。(出雲の大国主神と同神とされる)大化の改新(645年)のとき、武蔵の国府をここに置くようになり、この神社を国衙の斎場とし、国司が奉仕して、国内の祭務を総轄する所にあてられた。武蔵国の総社である。(東京都府中市)[ 川越 ] 江戸城の築城で有名な、大田道真(どうしん)・道潅(どうかん)親子により、1457年に川越城が築城され、城下町川越が始まった。江戸時代には、川越街道や新河岸川を利用して、物資を江戸に供給しており、江戸幕府の守りの拠点として重要な場所でもあった。小江戸と呼ばれる「川越」、江戸時代の街並みを今に伝えている。(埼玉県川越市)市内にある、天台宗の名刹 喜多院(きたいん)は、徳川家康の信頼を得ていた天海(てんかい)和尚ゆかりの寺でもある。[ さきたま古墳群 ] 埼玉県行田市にある、9基の大型古墳からなる東日本最大の古墳群である。5世紀から7世紀にかけて、北関東を支配した豪族がつくったと考えられている。なかでも、稲荷山古墳から出土した鉄剣(金錯銘鉄剣)は、特に有名である。 現在は、「さいたま風土記の丘」という公園として整備されている。(埼玉県行田市) [ 男体山 ] 栃木県の日光連山の主峰である。そして、下野国一の宮 日光二荒山神社(ふたらさん)の御神体山でもある。ご祭神は、二荒の大神(出雲系の神)。男体山には、中善寺湖畔にある中宮祠の本殿脇にある登拝門から、登ることができる。この山の山頂が、奥宮となっている。(栃木県日光市)(私自身も、山頂には2度ほど立っており、そこからは見えないが、「南北軸」を意識しつつ、江ノ島を遥拝した覚えがある。)以上、簡略ではあるが、南北軸の軸線上にある主要ポイントを解説した。ところで、この「南北軸」は、東西を分ける軸線でもある。この「南北軸」が観えてきた後に、不思議にも今度は「東西軸」が、私の心に浮上してきたのである。その「東西軸」の「東」は、常陸国一の宮 鹿島神宮(主祭神 タケミカツチ大神 / 茨城県鹿島市)と、下総国一の宮 香取神宮(主祭神 フツヌシ大神 / 千葉県佐原市)となる。そして、その「西」は、信濃国一の宮 諏訪大社(主祭神 タケミナカタ大神 / 長野県諏訪市)となる。この東西の軸線を、南北軸にクロスさせて、全体を結んでいくと、なんと!私の大好きな「 菱 形 」がでてくるではないか。そして、東西南北を結ぶ「中央」は、現在の川越市近辺の位置づけとなる。なるほど!、江戸幕府の守りの拠点となったはずだ・・・と合点がいく。それに気づいたとき、自分の魂が揺さぶられる感じで、その関東地域が描く美しい「菱形」に釘付けになってしまったことは、言うまでもない。さてここで、この東西の拠点に関して、天体の地上投影という観点から、自説を述べてみようと思う。私の心のなかで「関東」は、「 春の星座 」が投影された地域だと観ている。そういう観点から、まず東側だが、まるで並んでいるように鎮座する「鹿島・香取の両宮」は、ふたご座という名称の由来でもある「カルトース・ボロックスの二星」を想定している。つまり、鹿島神宮がカルトースで、香取神宮がボロックスという想定である。そして、西側の「諏訪大社」は、おとめ座の「スピカ」を想定している。諏訪大社は、諏訪湖の南北に二社づつ四ケ所に分かれて鎮座する、独特の祭祀のたたずまいの社だが、そのうちの「上社前宮(かみしゃまえみや)」が、「スピカ」に相当する社だと想定している。この「上社前宮」の祭神は、タケミナカタ大神の妃神「八坂刀売神(やさかとめ)」である。おとめ座の「スピカ」は、女神を祀る「上社前宮」にふさわしいではないか。ちなみに、この「上社前宮」は、この夫婦神が最初に居を構えた地と言われ、諏訪信仰の発祥の地でもある。面白いことに、日本神話の「出雲の国譲り」の段で登場する神々のなかでも、この三柱の神は、重要な役割を演じている。このうち、鹿島・香取の祭神であるタケミカツチとフツヌシは、天津神系(日向系)の神で、出雲側に国譲りをさせた軍神である。そして、もう一柱のタケミカツチは、国津神系(出雲系)の軍神で、出雲の国譲りに際しては最後まで抵抗して戦った神とされ、最後は諏訪の地まで落ちのびたという内容になっている。いわば、天津神系と国津神系の両横綱の軍神が、あの関東の「菱形」地域の東西に陣取る配置となっているのである。以上の観点を踏まえつつ地図を見ていると、神々と星々が大地を通して語りかけてくるようで、まさに壮観な眺めとなって眼前に迫ってくる。結果的には、関東地域における「南北軸」と「東西軸」そして「中央」の、それぞれの醸し出すハーモニーが形成する「大菱形構造」ついて、その大枠を語ることになった。以上述べてきたことが、意図的な配慮で企画・運営されてきたとすると、実に感慨深いものがある。ここまでお付き合い下さった、皆さんの感想はいかがだろうか。
2005年07月26日
この画像は、新潟県の糸魚川(いといがわ)原産の、ヒスイ(翡翠)の大岩で、その側面の一部分が磨いてあるところを映した写真である。(高さは約3メートル、胴回りは10メートル以上はあった)「フォッサマグナ」という日本列島を東西に二分する大断層があり、その断層に沿うように日本海側に注ぐ川が、糸魚川である。この糸魚川で採れるヒスイ(硬玉)は、古くは縄文時代から大切にされ、各地域の首長クラスの装身具のひとつであった。全国の遺跡などから出土する「勾玉(まがたま)」は、化学分析の結果から、ほとんどのものが糸魚川原産の「ヒスイ」ということである。列島の東西を分ける大断層のせめぎ合いが生み出した、日本列島あるいは日本文化を代表する宝玉といえよう。ところで昨日は、東京で震度5強の地震があった。関東地域には、大学時代を含めて10年以上お世話になった経緯もあり、他人事とは思えない心境となった。そして地震が、バランスを欠いた集合意識の「ガス抜き」だとする説どころではなく、その時の私の意識は、「絶大な経済力を背景にして、国際テロを演出する真犯人の魔の手が、日本の首都圏に届きつつあったのでは・・・。」などという心境にまで飛躍していった。昨年末のスマトラ島沖の大地震以来、直接的あるいは間接的にかかわらず、この手のいわゆる「トンデモ」情報に触れてきたためか、少し神経が麻痺していたのかも知れない。いずれにせよ、地震列島の日本国である。いつ、どこで、どんな地震が起きてもおかしくないのが現実だ。さて、日本列島の地震活動も、いわゆる地殻変動の一環である。日本列島を地質構造という側面から眺めてみると、実に興味深いものがある。これは、地質学者が述べていることだが、かつての伊豆半島は、現在の伊豆諸島に連なる「島」のひとつで、その大きな島が長い時間をかけて地下に沈み込んでいき、結果的に現在の「富士山」が盛り上がるようにしてできたということである。日本列島を東西に二分するように太平洋側からもぐりこんでいく、その静かな動きは、いずれは先述したフォッサマグナと連動するかたちで、数千万年後には、列島を分断することになるということである。ここで、面白い話をしよう。「日本列島は、世界地図の縮図である」とは、聞かれた方もあると思う。そのとらえかたでいくと、「本州」が「ユーラシア大陸」となる。そして、「富士山」が「エベレスト山」となってくる。それを暗示するかのように、エベレスト山を含むヒマラヤ山脈は、インドのデカン高原が、やはりかつては大きな島であって、それが大陸にぶつかり、沈み込んでいくことで、結果的にヒマラヤ山脈となっていったということである。これは、先述した「富士山」の造山のしくみと、よく似ているではないか。そういう観点を自らつかんだためか、この「縮図説」は、いつも私の心の片隅にある。そして最近では、さらにこの日本列島の縮図は「沖縄」だという説を聞いた・・・。とても緩やかな動きではあるが、確実に変動している地球の大陸、たまには「地震」や「火山活動」、そして「地殻変動」もあるわけである。そして、その悠久なる大地の営みのなかに育くまれてきた、日本を代表する宝玉に「ヒスイ」があった。その気品あふれる美しさに魅せられつつ、思い出して欲しい。常に律動する地球表層の「球面」に、私たちが生かされていることを・・・。
2005年07月24日
天平15年(743)、聖武天皇によって、大仏造立の詔が発せられた。そして天平19年には、大仏造立の成就祈願のための勅使が、宇佐神宮(豊前国一の宮・大分県宇佐市にあり、全国の八幡神社の総本宮)に派遣され、託宣があった。それは、八幡大神は天皇の大仏造立の成就のために天神地祇を率いて協力し、障害が発生しないようにしましょう、というものであった。ところで、宇佐神宮の御神体の山は、御許山(おもとやま)である。私も山頂付近まで何度か足を運んでいるが、その山頂付近に奥宮の「大元神社」がある。そして、山頂そのものは、禁足地になっていて入ることはできないが、その山頂には3つの巨岩が並列しているらしい。この神体山の「御許山」の山頂が、宇佐の八幡信仰の原点といわれている。山口県内には、大仏造立にまつわる2つの寺院と2つの料地がある。その2つの寺院とは、山口市にある龍蔵寺と、萩市にある龍蔵寺である。この同名の寺は、その地域の一番の古刹で、共に天平時代に創建されたという由緒のある寺だ。県の北部で日本海側と、県の中央部に、同じ名前の寺院がある。これはアヤシイということで、地図を広げると、ほぼ南北軸に結ばれる2つの寺院の南方の瀬戸内海を越えた先は、やはり宇佐に結ばれていた。その結ばれる南北軸をよく見てみると、南の宇佐は、宇佐神宮の神体山は「御許山」の山頂にその軸線が通るではないか!。これは、また何かが観えてきた、ということである。そして、大仏造立にまつわる2つの料地だが、まずひとつは県の西部(美祢郡美東町)にある長登(ながのぼり)銅山跡がある。ここは、奈良時代から平安時代にかけて国直轄の採銅所が置かれたところで、日本最古の銅山とされている。ここで採掘された大量の銅が、東大寺に送られたという記録が残っており、東大寺の発掘調査の際に出土した青銅塊の化学分析の結果でも、大仏創建時の料銅は長登銅山産のものであることが判明している。現在の銅山跡では、採掘跡や製錬遺跡を散策するコースなどがあり、展示館には発掘調査で出土した土器や鉱石、木簡等が展示してある。次に、もうひとつの料地は、県の東部(佐波郡徳地町)の佐波川上流の徳地(とくじ)という、東大寺再建の際の用材を採った地域である。平安時代の末期(1180年)、源平の戦いにおいて、東大寺は消失した。その後、朝廷から東大寺再建を命じられて、重源(ちょうげん)上人が周防国(山口県東部)に派遣され、用材の大木を求めて、徳地の山々を料地とされたということである。その当時切り出された大木は、東大寺の南大門や仁王象に姿を変えて現存している。現在の徳地町には、往時を偲び、文化の伝承をかねて、「重源の郷」という文化施設がつくられている。この2つの料地から採れた、銅や木材は、瀬戸内までは河川などを利用して運び出され、奈良の東大寺までは瀬戸内海を船で運搬されたようである。あるとき、上述してきた東西の2つの料地と、山口県域の中央部を縦断して宇佐の御許山に結ばれる南北軸に想いを馳せていると、古代の陰陽五行説に基づく呪術が浮かび上がってきた。東大寺創建とその再建と、利用された料地の時期は違うけれども、同じ呪術をもって料地が選定されたのではないかという推理である。つまり、大仏造立の創建時は、山口県域の西部は「長門国」の旧国域で採れた銅を採用した。つまり、県西部の「西」は、五行では「金気」に当り、金属に関連する地域となる。ゆえに、「金気」の「西」にある長登銅山で採れた「金属」の「銅」を、大仏造立に充てたのではないか・・・。そして、その再建時には、山口県の東部は「周防国」の旧国域で採れた、木材を採用した。つまり、県東部の「東」は、五行では「木気」に当り、樹木に関連する地域となる。ゆえに、「木気」の「東」にある徳地で採れた「樹木」の「木材」を、建立の建材として充てたのではないか・・・。その当時の国を挙げての、一大プロジェクトにおける、その大願成就を約束する神々の意志の発動の場が、この南北軸の「南」の極にある宇佐神宮であった。そして、その軸線上に成就祈願の寺院であったはずの、2つの龍蔵寺(りゅうぞうじ)が、その「中央」と「北」を守るべく、それぞれの拠点としての役割を担うように据えられており、現在までその威光を輝かせているのである。私自身は、それほど陰陽五行説や陰陽道などの呪術に詳しくはない。その道に明るい人は、この情報を掘り下げていくと、さらに面白いことが分かってくるかも知れない。それは、この方面に詳しい方にお任せするとしよう。しかし、もしこの大仏造立のための主要な材料を、その「呪術」をもちいて山口県域から産出したことが事実だとすると、古代の人々は実に大きな企画を立て、それを実行に移し、大仏造立を成し遂げたわけで、すごい時代があったのだなーと感嘆してしまうのである。そして、その「呪術」は、例えば奈良の「東大寺」を中心とした近畿地域にも張り巡らされていたことは、すでに多くの研究者が指摘しているところである。大仏造立にまつわる材料で、最後の決め手となるのが、大仏を塗金する「黄金」であった。天皇は塗金用の黄金の不足を心配して、中国の唐に朝使を派遣して求めさせようとしたこともあったということである。そこで、時を見計らったように、東北の陸奥国で黄金が産出され、天平21年(749)4月には、900両(12.6キロ)もの黄金が貢納されて、大仏は美しく塗金され完成をみた。縁あって、その東北の黄金の産出跡地に行く機会を得た。場所は、宮城県遠田郡涌谷町にある黄金山神社の境内地を含むその周辺だとされている。その黄金山神社のすぐ近くには、「天平ろまん館」という文化施設があり、天平時代の黄金産出の歴史を垣間見ることができ、また「砂金採り」の体験コーナーも併設してある。その展示室に、当時の産金を寿ぐ、万葉集にある短歌が記してあった。 すめろぎの みよさかえむと あづまなる みちのくやまに くがねはなさく黄金900両が貢納された翌月に、越中国守の大伴家持(おおとものやかもち)がつくった歌である。味わいがあり、感慨深く読んだ記憶がある。
2005年07月23日
掲載写真の構造は、何度か日記で取り上げてきた造形だが、今日のタイトル「愛を知る体験」を語る際に、今一度取り上げることにした。(詳しくは7月8日の日記)その体験とは、変性意識状態でみた夢の話が中心となる。つまり、自分の意識がはっきりしたなかで、夢の内容が進行していくタイプの夢である。今から約2年前の話になるが、ある日、当時は長崎に住んでいた知人から電話があり、しきりと私に長崎の「二十六聖人の殉教地」(長崎市西坂公園)に来るようにとの話をいただいて、その長電話を終えた。そして、その余韻のなかで眠りについたときに、今までにない、とても印象的な夢を見た。私の前には、何かの順番を待つ人々の姿が見えていた。私は、そのひとりひとりを受け入れることとなり、その準備を整えた。まず、最初のひとりを受け入れた。受け入れる人に比べると、私の体はかなり大きかった。その受け入れるところはというと、なんと!「ふところ」の中の・・・「心臓」であった。その心臓の中に、人ひとりを迎え入れても十分すぎる位のスペース、それだけ私の体は大きかったのを覚えている。ひとりひとりを心臓の中に迎え入れ、頃合を見計らって胸に抱いていた人を自分の手で心臓から出し、その人の様子を伺う。その人が元気が出てきたところで、次の人を迎えるという感じであった。受け入れた人々の中には、なかなか元気の出てこない人もいたが、何度か胸に抱く行為を繰り返すことで、元気を取り戻していった。不思議なことに、その行為の最中に、感情のはたらきは一切無かった。ただ、無心にその行為を繰り返していく、ただそれだけだったのである。おそらく「真実の愛」とは、いわゆる愛情という感情を越えたところの、その行為そのものにある・・・、それを知るきっかけとなる夢だったと思う。そして、最後のひとりを迎え入れて、そして見送りをしたとき、それが二十六番目の人だということを知った。その時はじめて、知人との電話で話題にしていた二十六聖人の殉教者を、ひとりひとり抱いていたことに気づいた。これをどう表現したらいいのだろう。ただ、私の胸は燃え上がるように熱く、後にも先にも自分の心臓が、これほど暖かいと感じたことはなかった。そこで夢の場面は変わり、今度はその二十六人全員を見送ることになった。そこには、ゴシック調のデザインの荘厳なバスが一台停車していた。私はひとりひとりと挨拶を交わしながら見送り、まず二十六人がバスに乗り込んだ。そして、なぜかまた別の二十六人が私の前に並んだ。みんな少し背が低く、女性のようだった。その女性の二十六人が、また続いてバスに乗り込んでいった。ということは、バスの乗車人数は、男女合わせて52人ということになる。ここで余談だが、その夢を見ている段階では、その殉教者の二十六聖人が全員男性であることを知らなかった。そして、それを後から知ることになり、後からバスに乗り込んだ二十六人の女性は、来世で夫婦になる予定の伴侶が寄り添うかたちとなったのでは、と思うようになった。そして、みんなが乗り込んだバスは来世に向かって厳かに出発した。私は別れを惜しみつつ、大きく手を振って見送りをした。夢の話はここで終わる。その夢を見て起きた朝、余韻の冷め遣らぬままに、私は長崎の知人に電話をした。「今日、長崎にいくよ!」と。そして、山口から一路長崎に向けて車を走らせた。以外に早めに着いたので、西坂の殉教地に向かうことにした。二十六聖人の殉教の地は、現在は西坂公園になっており、その一角に慰霊のためにつくられた、二十六聖人を象るブロンズ像がたっていた。その裏手には、二十六聖人記念館があり、当時のキリシタンの殉教の歴史や文物、そして国際貿易港としての当時の長崎の様子を全体的に見渡すことができる。ひとしきり公園内を巡り歩いて、ルイス・フロイスの記念碑にたどり着いた。長崎で殉教を目撃した、イエズス会宣教師ルイス・フロイスの報告書「日本二十六聖人殉教記」は、殉教の場所や殉教者の最後の様子を具体的に伝える記録となっている。このフロイスの記述によって、西坂の殉教地がわかったということである。(なお、当時の日本には、キリスト教を布教する会派が、大きく分けてイエズス会とフランシスコ会の二派があり、殉教者の二十六名のそのほとんど(二十三名)は、フランシスコ会に所属の人々だったということである。)そのフロイスを称える記念碑を見て、そろそろ場所を移動しようと思った時、背後から声がした。振り返ると、長崎の知人である。ここで待ち合わせをしていないのに、なぜかそこにいるのである。びっくり仰天したが、すかざず知人いわく。「たまに使われることもあるのよね。」・・・なんだそうだ。そのときに持参した構造があった。それが今日の掲載写真にある3つの構造の内の手前の2つの構造である。向かって右側の緑色の構造が、「調和」をあらわす造形で、向かって左側の桃色の構造が、「愛」をあらわす造形だ。この「調和」と「愛」の2つの造形を統合した構造が、その真ん中上位にある「真実の愛」をあらわす造形である。長崎に訪れた当時は、まだ「真実の愛」をあらわす、その統合の造形はできていなかった。いわば、この2つの造形を統合するに至る、その心境の変化の過程において、まさに「夢」に導かれるかたちでこの地に足を運んだことになるわけで、そういう意味でこの殉教地は、私にとって印象深い場所となっている。ところで、「お大切さん」という言葉をご存知だろうか。これは、山口市内にあるザビエル記念聖堂の展示室で知った言葉だが、当時の宣教師が「愛」という言葉の代わりに使用していた言葉なのだそうである。宣教師が布教に活躍していた当時は、「愛」という言葉の概念、というか意味づけが、現代の感覚と違っていたようなのである。当時の「愛」は、「上位の立場にある人が、下位の立場にある人に、恵みや施しを与える行為」という意味合いだったということで、「対等」の立場で「LOVE」を伝えていこうとする宣教師は、その翻訳を「愛」ではなく、「大切」という言葉に少し装飾をほどこして、「お大切さん」という言葉にして活用していたということである。素朴で、わかりやすい表現だと思う。私も、今でこそ「愛」という言葉を使うようになったが、この夢の体験をするまでは、ほとんど口から発したことは無く、その「愛」という言葉を聞いても、ほとんどそれに伴う(はずの)情的な反応は無かった。私は「愛」の無い人間なのか、などと頭をかすめたこともあるが、先述の「お大切さん」の話を知って何となく合点がいったことを、いまさらのように思い出す。そして、先の夢の話でも取り上げたように、「愛」とは、言葉や感情であらわすより、態度や行為であらわす方が、伝わりやすいのではないかと思う。言葉で「愛」を伝えようと叫んだとしても、それは押し売りに聞こえてしまい、結果的には「愛」とは反対の「憎悪」を肥大化させてしまいかねないのではないか・・・。それは、「平和」を声高々にうたう人に限って、闘争的な性格の人が多いということと、どこか似通っているところがある。おそらく「愛」の達人は、「愛」という言葉を一言も口にせず、さりげなく「愛」を伝えることができるのだと思う。その人は、「愛」を行為としてあらわすことができる人なのであろう。あるいは、「愛」を意識しなくても、「愛」のあふれる行為が実践できる人もいるだろう。しかし、たとえ「愛」のある行為があったとしても、その行為を受け取る側の人が、それを「愛」として受け止めることができるのかどうか・・・それを受け取る人の「心の器」こそが、大切な鍵を握っている場合もあるのではないかと、そのように考えてみたりもする。しかし、これほど「愛」を、言葉として語るようになるとは、自分でも思わなかった・・・。もしかすると、「愛」に目覚めちゃったのかもね(笑)・・・。言葉を超える「愛」を、目に見える「かたち」に託しつつ、さらなる模索の道を、今日もまた一歩。
2005年07月20日
今まで何度か話題にしたように、私なりの立体構造の表現は、等辺(同じ長さ)の軸線(綿棒)を用いて、全体の構造が安定するように構成することを特徴としている。その手法でつくる軸線構成の立体ゆえに、中身を透かして見ることができる。例えば、目の前に軸線構成の立体があったとしよう。その透け透けの構造をみると、その構造を通してバックの背景にまで、おのずと視線が届くことになる。ここが、面で構成した立体との大きな違いである。面構成の立体をみる場合は、その構造物のところで視線がとまるわけで、その構造物自体を透過して向こうを見ることは、基本的にはできない。そこで、軸線構成の3次元立体を透過して垂直視する視線があるとして、ここに空間次元としての4次元を設定するなら、それを「4次元の視線」ととらえてみてはどうかと思う。つまり、軸線構成の立体を見るという行為は、次元空間としては、第4次元目を体験していることになる・・・。そうとらえてみると面白いではないか!ここでまた、視線を変えてみよう。ある時、この軸線構成の立体と面構成の立体を、「気」のわかる人に比べてもらったことがある。そうすると、「気」が透過する力は、面構成よりも軸線構成の立体の方が強いということであった。興味深いことに、その強さの違いは「2.5倍」だそうである。軸線構成で立体を組み立てる際に、私なりに心がけてきたことは、いかにして全体の構造を安定化に導くことができるか、ということであった。結果的に、同じ長さの構成素材(綿棒)だけを用いて、いかに構成することができるかという条件設定となったのである。そして、構成の仕方を洗練させていけばいくほど、その軸線の構成本数も少なくなり、それでいて構造はしっかりしていくという経験を何度もしている。一見複雑そうに見える構造も、「同じ長さの綿棒」だけの組み合わせでできている。気づいたのは、「真理とは、以外に単純で、そして明快なのだ」。「宇宙の構造」も、その大規模構造になると、9割以上が見えない物質でできているということで、いわば見える構造として把握できているのは、1割未満だそうである。この軸線構成の立体も、全体の1割未満の構成素材でできていて、およそ9割は何も無い空間だとするなら、「宇宙の構造」を把握する「手がかり」として、それにふさわしい媒体と言えるのではあるまいか。・・・などと、自作の立体構成を眺めつつ、宇宙の構造を全体把握できる、その普遍的な構造に辿り着けるはずだと、妄想をふくらませている今日である。
2005年07月19日
この地球上に、生かされて生きる生命にとっては、「月」と地球との関係を第一義とし、「日(太陽)」と地球との関係を第二義とする、「月日の順序」の捉え方が大切だと考える。そこで、この「月日の順序」を主軸とする暦が「太陰太陽暦」、すなわち「旧暦」である。月の満ち欠けを拠りどころとする暦、つまり、まず「月」を一番(前)、つぎに「太陽」を二番(後)ととして抱き合わせた「旧暦」こそ、地球の大地が醸し出す「自然のリズム」と調和して歩むことのできる暦なのだ。(※ちなみに、この「月日」の順序で使われる言葉遣いや単語には、「月日が経つ」・「生年月日」・「月日貝」などがある。)3月3日は、「桃の節句」と言うけれども、桃の花が咲いていない現行暦の3月3日に、ひな壇飾りを出してお祝いしても、月日の数字合わせをしただけで、ほとんど意味は無いに等しい。5月5日は、「端午の節句」だが、やはり菖蒲の花が咲いている旧暦の5月5日(新暦は6月11日だったが、忙しい現代ではその日取りに近い休みの日で、菖蒲の花が咲いている時に行うのが望ましい。)の行事が理想である。また、7月7日は「七夕」だが、まだ夜空に「織姫・彦星」が昇って来ない季節に「七夕まつり」を開催しても、風情も情緒もあったものではない。ちなみに今年は、新暦の8月11日が、旧暦の「七夕」の日取りに当たる。以上のように、明治時代のはじめに太陽暦が導入されて以来、「まつり」の日取りが、およそ一ケ月ほど早めになっていて、例えば「あれ、どうしてお盆が二回あるところがあるのだろう」ぐらいのことで、その大きな日取りのズレに気付かないまま通り過ごしているのが実状なのではあるまいか。人体のリズムも、その基本は月のリズムが由来の、1日約25時間だといういうことである。それが朝、太陽の光を浴びることで、24時間に調節されるということだそうだ。このように体内のリズムを科学的にみても、まず月がはじめで、その次に太陽という、「月日の順序」になっているのである。あれだけ大きくて、まぶしく輝いているから、天体のなかで太陽が一番に決まっているじゃないか・・・と思いたいのもヤマヤマである。また、日本神話においても、いわば「太陽神」を主軸とした内容の物語であり、縄文時代や弥生時代から大切にされてきた「月神」や「星神」はないがしろにされ、封印されてきたきらいがある。確かに、われわれの地球が所属する太陽系の中心は太陽である。しかし、地球に棲息する生命の立場からすれば、地球に最も近い天体の「月」のはたらきのほうが、実際の生活では強い影響力があるわけである。したがって、やはりその「月と地球との関係」を第一の要素ととらえ、それから「太陽と地球との関係」を第二番目の要素としてとらえる、それが順序ではないかと考えるのである。ところで、日本では一般に、「月」を男神(月読命)とし、「太陽」を女神(天照大神)ととらえる。(日本でも太陽を男神とする捉え方もあるにはあるが・・・)ところが、西欧ではその逆に、月を女神、太陽を男神とするのが主流である。「この違いは、どうしてなのか」と私なりに考えてたどり着いた、ひとつの叩き台としての答えがある。それは、東洋の日本は、もともと[精神]優先の国柄なので、インテリで冷静な「月」を男神とし、朗らかで暖かい「太陽」を女神とした。そして、西欧では、[物質(肉体)]優先のために、肉体にいわゆる「月のもの」のある女性を月神と見立て、その反対の性の男性を太陽神に見立てたのではあるまいか・・・。(キリスト教の唯一絶対神の本質は、太陽であり男神であろう)このように、日本の精神主義と西欧の物質主義にわけて、月と太陽にともなうそれぞれの「性」を考えると、私なりには合点のいく折り合いがつくのだが、いかがだろうか・・・。余談になるが、イスラム教の社会では、「太陰暦」であり、月のリズムを主体にした暦法に基づく生活である。イスラム教社会とキリスト教社会の折り合いが難しいとされる原因のひとつに、太陰暦(イスラム教)と太陽暦(キリスト教)の生活リズムの違いに関係があるのではないか・・・とは、私なりに考えるところである。今後、より多くの人々が、太陰暦と太陽暦が順序正しく和合した暦である「太陰太陽暦(旧暦)」を、心のよりどころとして、日々の生活に役立てていくようになると、世界の平和と安寧、住みやすい地球環境、そして希望の持てる人類の未来につながっていくようになるのではないかと、そのように考える今日この頃である。
2005年07月18日
この[ みすまるのたま ]には、5つの正多面体が隠れている。別の表現では、正多面体の5つが、バランスよく「ひとつ」に融和した構造といえよう。手前の5つの立体がそれで、左から正4面体(金色)、正6面体(紫色)、正8面体(青色)、正12面体(黄色)、正20面体(橙色)の順に並べてある。この5つを、ある条件のもとに、ラセン回転を踏まえて組み上げると、後方にある「 御統玉 」になるわけである。伊勢神宮に寄り添うように流れる川の名は、かの有名な「五十鈴(いすず)川」。たおやかに流れる川のせせらぎの音に、日本語の言の葉の五十音をなぞらえ、付けられた名称と聞いたことがある。それはまた「鈴の音のように美しく響く、五十音の言霊(ことたま)の道」を暗示しているようである。この「 御統玉 」に抱かれた5つの正多面体だが、それぞれの頂点の数を加えると、全部で合計「50」となる。(先述の順で、4+8+6+20+12=50)などということを、推察の根拠にするわけでもないが、この「 御統玉 」は、どうしても私には、日本語の五十音をあらわす「ひな形」に観えてしまうのである。50個ある頂点のひとつひとつに、五十音の「言霊」がひとつひとつ宿っているように感じるのだ。そういえば、そんな気がして、かなりの時間が経過している・・・。そのある意味での「気づき」から、十有余年を経て、この度の一般公開となった。
2005年07月15日
今日のタイトルは、「あらゆるものをはらんでいる立体構成」という意味合いである。日本神話からだが、正式には、「やさかにのまがたまのいほつのみすまるのたま」(漢字は忘却)と記してある。古代日本の祭祀長が所持していた「勾玉の首飾り」を称えた言葉であったと思う。美しい言霊である。私の出生地の一の宮が、玉祖神社(主祭神の玉祖命(たまのおやのみこと)は、玉造部(たまつくりべ)を統率する長とされる・山口県防府市)であった由縁か、自分の「立体を造る行為」を「玉造(たまつくり)」だと意識していた時期があった。そのためか、縄文時代から列島の「翡翠(ひすい)」の原産地として有名な新潟県の糸魚川の下流域や、島根県は出雲の玉造温泉にある玉造工房跡には、何度か足を運んでいる。また、茨城県にある地名の「玉造」には、「玉」にまつわる博物館があり、時間をかけて見学したことを思い出す。そんな行脚を続けてきて、私なりの構成表現もひとつのまとまりを得たということもあり、1994年に地元のギャラリーで、初めての個展を開いた。やはりタイトルは「 勾 玉 」にした。その時の、メインの作品が今回の掲載写真の造形である。「石には意志がある」といわれるが、その意味でも、この立体構成には、私の「意思」が反映している「勾玉」だったわけだ。ところで、日本神話では、天津神系と国津神系と大きく2つの系統にわかれての、その相克と和睦の物語が展開されていると観ることができる。その天津神系の要となる神社が「伊勢神宮」であり、国津神系の要となる神社が「出雲大社」とは、多くの歴史学者が唱えるところでもある。形と数の「関係性」を研究する私にとって、神社廻りの際に印象に残るのは、その神社の「ご神紋」だったりする。気になる「神紋」に出会うと、社務所でその由来などを尋ね、思わぬ歴史の勉強になったこともある。そういうことで、神社によっては数種類の「神紋」があるが、代表のご紋ということでは、出雲大社は「亀甲紋」、そして伊勢神宮は「菊花紋」となる。そこであるとき、この写真の「御統玉」を観ていると、恐れ多くも、この2つの「ご神紋」が浮かんできたことがあった。分かりやすくいえば、外側の暖色系が「菊花紋」で、内側の寒色系が「亀甲紋」と観えてきたのである。紋章は平面図形なのだが、それぞれの紋章が「立体構造」として、私の心に浮かび上がってきたのだ。そうか、そうだったのか! 7月13日の日記(「変容する玉」と「みすまるのたま」は、内容は同型の構造である)にも書いたように、内側の「亀甲紋」と外側の「菊花紋」は、ひとつの型(準正14面体の枠組み)が相互に変換する過程にあらわれる「二面性」をあらわしていたのか・・・。となれば、「亀甲紋」か「菊花紋」か、という二者択一的なとらえかたで見るというよりも、「亀甲紋」も「菊花紋」も、元々「ひとつ」であるという観方ができ、またその「ひとつ」の構造には「二面性」が秘められていたと観ることもできる。しかも、その二面性は、螺旋(らせん)で結ばれていた・・・。ところで最近は日本でも、「女神信仰」の「よみがえり」がささやかれたり、世界レベルでは、ベストセラーの「ダビンチ・コード」等で問われた、マグダラのマリア信仰を含む「地母神信仰」の復活が取り沙汰されている。(今年の5月の連休には、出雲で「女神サミット」というイベントが開かれ、なぜか私はその関係者各位に加わり、直径40センチ位のフラーレン構造を手に持って、出雲大社の正式参拝に同行している。また、昨年末には、「マグダラのマリア」を描いたとされるルーブル美術館所蔵のダ・ビンチ作「モナリザ」を、ねばって展示室の一番前まで行き、間近で見てきた。)その本質は何かと考えると、それは「螺旋(らせん)」の動向を再認識することではないか・・・と感じるようになってきた。この「ラセンの動き」とは、「女性原理」を意味するのではないかという直観である。そういえば、赤ちゃんが母親の胎内から産まれるときは、ラセン状に渦巻くように出てくるそうである。日本神話の登場人物で例えれば、「ウズメノミコト」が象徴的である。天の岩戸の前で神舞いを披露した女性の神様で、「ウズメ」とは「渦女」と解釈できる。そして、この「ウズ=渦」とは、「螺旋(ラセン)」とうけとめることもできよう。この女性原理の「ウズメ」に対応するのが、男性原理の「サルタヒコ」である。天狗の面でもわかるように、まさに男性原理を象徴するフォルムだ。さらに例えれば、大地に屹立する御柱(サルタヒコ)と、それに伴うようにして、目には見えない「渦(ウズメ)」が巻いているたたずまいがあるとして、その「ウズ」たる「螺旋(ラセン)」の動きを、ようやく再確認できる時を迎えた・・・とそのようにとらえると、秘められた謎を解く手がかりになりそうだ。科学の分野では、「電気」と「磁気」の関係が、「サルタヒコ」と「ウズメ」の関係を彷彿とさせるようで面白い。いわば、直線の方向性を「電気」や「サルタヒコ」ととらえて、その直線方向に寄り添うかたちのラセン回転を「磁気」や「ウズメ」と想定すると、私なりに妙に合点がいくのである。最後になったが、この「ラセン」の動向を、全体的に把握できる視座が得られる、その「手がかり」となるのが、数々の立体構成のモデルであり、わかりづらいかもしれないが、今日の写真の造形、「みすまるのたま」である。物事を見る目を、2次元の平面図形から3次元の立体構造に変えてみる。たった1次元の違いだが、今まで見えなかったものが観えてくることがある。それを体験すると、その1次元の差が「雲泥の差」に思えてくるのである。
2005年07月15日
今日は、「テンセグリティー(Tensegrity)」の構造を紹介しよう。そもそも「テンセグリティー」とは、Tension(張力)と Integrit(完全無欠)の合成語で、K・スネルソン氏によって考案され、バックミンスター・フラー氏により命名された概念である。掲載写真の構成素材は、「箸」と「輪ゴム」という手短な物を使用した。その概念の説明を続けると、張力部材(輪ゴム)が全体をバランスよく引っ張り、圧縮部材(箸)がその力を受け止めるようになっているために、全体は統合されたかたちで安定した構造になる、ということである。それでは、掲載写真の説明に入ろう。まず、下方の金色の軸線(正月に使う祝い箸の丸箸が素材)の3種類だが、真ん中の大きい構造は、20面体系統の構造で、30本の軸線で構成してある。その左側は、8面体系統の構造で12本の軸線構成、そして右側は4面体系統の構造で6本の軸線構成となっている。この3つの構成が、実際につくるのに、取り組みやすいと思う。それぞれの軸線の両端には、市販の「地図ピン」が付けてあり、これを引っかかりにして、箸と輪ゴムとの連携を図って組み立てていくことになる。実際の組み立ては、コツがあって、慣れないと難しいと言っておこう。「テンセグリティートイ」として一般に販売もしているので、実際に作ってみたい人は、チャレンジしてみてはいかがだろう。(検索でわかるはずだ)ちなみに「輪ゴム」は、一般のものと同じ規格だが、より張力の強いものを使用している。仕上げは、もう少し圧縮部材を強い素材にして、張力部材を「ワイヤー」で決めたかったところだが、それには根性が足りなかった(笑)としておこう。しかし、この構造を知るキッカケとしては、これで十分だと思う。次に、上方の5点だが、赤と緑で塗り分けて、「融和の関係」を演出してみた。構成の単位は、4面体系統の6本で構成したテンセグリティーである。テンセグリティーは、その構造を構成する際に、言わば「左旋系」と「右旋系」の2種類ができる。その2種類を「赤」と「緑」で塗り分けたわけだ。どちらが右旋でどちらが左旋かは、区別のしようがない。どこで見るかによって違ってくるからだ。全体的には、向かって右側の「緑」と、向かって左側の「赤」が、中央部分で3種類の「融和の関係(むすび)」をあらわしている。中央の上部は「ほどほどの関係」、下部は「なかなかの関係」、そして中央は「ぴったしかんかんの関係」というところである。(笑)以上簡単ではあるが、「テンセグリティー」について、その概念に基づいて試作した作品の紹介をかねて、私なりの解説を試みた。なぜか7月13日は、フラー氏の業績の一端を(私ごときがおこがましいとは思いつつ)、お知らせする月日となった感じがしている。
2005年07月13日
この造形は、5つの正多面体が「ひとつ」に融和した複合構成の立体である。その正多面体の5つは、一番外枠の「準正14面体(銀色)」を、この構造の最も内側にある「正4面体」に折りたたんでいく過程に、段階的に見出すことができる。そして、その具体化を試みたのが、この作品である。この「折りたたむ」というのは、この「準正14面体」を、例えば同じ長さの軸線(24本)をつないでつくる時に、各頂点(12個)のジョイントのところをチューブなどの柔らかい素材を使って構成したとする。そうして作った「準正14面体」を、立体の最小単位である「正4面体」に向かって、まさに折りたたむようにして、構造の中心方向に集約させていくことができる。ちなみに、この条件で形成される「正4面体」は、24÷6=4ということで、4本の軸線を折りたたんで束ねたような軸線を1本と見立てると、それが6本で構成されている。その「準正14面体」から「正4面体」に折りたたんでいく過程に、「正20面体」や「正8面体」を見出すことができるのである。実は、この折りたたみの過程にあらわれる振る舞いに、先日から話題として取り上げてきた「螺旋(ラセン)」の回転が、絶妙なかたちで関係しているのだ。もちろん右回転も左回転もある。この「多面体を折りたたむ」というモデルを最初に考案した人は、あのフラーレン構造やドーム型建築で有名な、バックミンスター・フラー氏である。(考案されたのは、1948年)ところで、私がこの折りたためる「柔らかい立体」に出会って(1984年頃)、その折りたたまれていく過程にあらわれる、その構造が「変容」する軌跡を、いつかは具体的な形として表現してみたいと思っていた。そして、それが実現したのは、1990年であった。掲載の画像は、その時の記念写真である。(東京都大田区に在住の時)その「変容」の軌跡の、全体構成を形成していく過程で、気づいたことがあった。従来のとらえ方では、その「準正14面体」から「正4面体」への変容の過程に、「正20面体」と「正8面体」が見出されていた。そこで私は、その変容する過程に、さらに「正12面体」と「正6面体」を見出すことができたのである。「自然の摂理」に基づくシステムは、やはり奥が深いと実感した瞬間であった。
2005年07月13日
今日は、ふたたび「螺旋」を考えてみる。写真の造形は、7月10日の掲載写真と同型のもので、その時はミクロの遺伝子DNAの螺旋をテーマとして取り上げた。そこで今回は、マクロの太陽系の螺旋運動を取り上げてみたい。(イマジネーションの世界)われわれの太陽系が、銀河の中心を廻っているとするなら、その回転の「方向」があるはずである。その回転の「方向」に連動する「螺旋」を考えてみるのである。ここで写真の造形を参考にすると、「方向」とは、この円筒の断面(10角形)の中心の下から上までの軸線と、取り合えずとらえてみる。そして、連動する「螺旋」とは、下から上までの1回転の金色の曲線(2本あるが1本としてとらえる)を想定してみる。これを太陽系の地球時間における1年間の運行になぞらえてみるわけだ。そうすると、「方向」をあらわす中心の軸線の長さが、恒星である太陽の一年間の運行の軌跡ということになる。そして、連動する「螺旋」の曲線の一回転が、惑星である地球の1年間の運行の軌跡と、便宜上とらえることができる。つまり、この単位としての円筒を、地球時間で1年間の太陽系の運行の軌跡だと、大枠では見立てることができるわけである。そしてさらに、われわれの太陽系を含む恒星系の数々を束ねる「親太陽(セントラルサン)」があるとして、それを写真の「単位としての円筒」に見立ててみる。そこで、「親太陽」の運行に連動して廻る、われわれの太陽系の1回転の期間を想定すると、「親太陽」が中心軸線の軌跡をあらわし、われわれの太陽系は金色曲線の1回転ととらえることができる。このように「螺旋の入れ子」の考え方で、各段階のスケールを動態的にとらえていくと、通常の時空の感覚を越えて、ミクロからマクロまでを、普遍的かつ包括的に観ることができるのではないかと思う。今回は、ミクロからマクロまでをつなぐ、「螺旋(らせん)」の話でした。「追伸」 よく右回転とか左回転、右巻きとか左巻き、というが、それはそれを見る側の見方によって、その回転の方向が変わってくる。一般に、右回転とは、時計の針の回転だというとらえかたをしている。ここで、二人の人間が向かい合っているとしよう。そこで、一人が自分の胸元に手を持っていき、人差し指で時針の右回転を描いているとしよう。その状態で、もう一方の何もしていない人が、その相手の指先の回転を見ると、それは右回転とは逆の左回転に見えるわけである。ところで、今回の掲載写真の造形は、遺伝子DNAの構造の原型をモデル化したものなので、右回転の螺旋を表現したものとなっている。つまり、金色の曲線が、円筒の下から上に向かって(下の円筒の断面の10角形から見て)、時計回りに上昇して1回転したところを単位とする表現だ。これを、地球の自転の回転運動としてとらえてみる。南極方向から、つまり地軸の南側から(分かりやすく言えば南十字星のところから)、地球の回転を観ると、それは右回転である。そして、地球の周囲を廻る月も、前述と同じ方向から見ると、右回転で地球を廻っているように見えるはずだ。そして、右回転で廻る月をかかえた地球も、右回転の自転をしつつ、太陽の周囲を右回転で廻っていると、とらえることができるわけである。私たちの生活面で言えば、時計の針の回転は言うまでもなく、例えば「ネジ」は、ドライバーを右手で持ち、右回転で前進させて締めるようになっている。また、スポーツのトラック競技では、人間をを右回転で走らせるようにしてある。(このトラック競技の右回転とは、上空から見た回転ではなく、大地の側から見た回転のとらえかたである。つまり、見方の違いで、上から見ると左回転だが、下から見ると右回転ということだ。人間の心臓が左側にあるから、その回転で走らせるようにしたという理由以外の、何らかの効果があるのではないか、と私は観ている。)今回取り上げた、螺旋の回転の場合は、例えば「右」回転に方向付けると、「右螺旋」の回転に限定された方向付けになってしまうきらいがある。右旋に回転しながら前進という方向性である。右か左かは別として、この<螺旋回転>は、以外に重要な意味をもっているような気がする。そこで「追伸」として、回転の捉え方について、少し詳しく書き加えることにした。もしかすると、左利きが、右利きに変えられるという習慣も、その理由はどうやらここらあたりにあるのかも知れない・・・。そういえば私は、「両利き」である。
2005年07月11日
「数」を「形」に置き換えてあらわした、新しい時計のデザイン。(2000年3月・制作)角形表現には、様々な条件設定ができるが、このデザインの場合には、「正4面体」を構成の単位として、1から12までの立体的な角形表現を試みた作品である。これは、ある意味において、「12進法の数理展開」を、12角形までの構成表現として投影した雰囲気を醸し出している。時計をイメージしてデザインした。
2005年07月11日
[ 写真 ] 梅雨の刻 しとどに濡れる かごめ紋 (正6面体の立体構成)「かごめ」の歌かごめかごめ かごのなかのとりは いついつでやるよあけのばんに つるとかめがすべったうしろのしょうめんだあれこの歌を、形と数の関係性から、斬新に紐解いてみたい。この歌の解読にあたっては、「かごのなかのとり」をいかに解釈するかに、焦点が絞られてくると思う。普通は、「かごのなかのとり」は、「籠の中の鳥」という解釈が主流だが、形と数の関係性からとなると、「かご」は「星型8面体」、そして「とり」は「十理(とり)」、つまり「10進法の数理」ということになる。つまり、「かごのなかのとり」とは、「星型8面体の構造に展開する10進法の数理」という解釈になる。この「星型8面体」は、2つの正4面体をバランスよく統合した構造で、全体的には「正6面体」と観ることもできる。この「星型8面体」をある角度から見ると、「かごめ(籠目)の紋」、つまり「6ぼう星(ダビデの星)」に見えるのである。この「正4面体」は、4つの頂点を持つ立体だが、その4つの頂点と中心とで、合わせて「5」ととらえる。つまり、1から4までの数が4つの頂点の位置づけで、5を中心の数の位置づけとするわけである。つまり、この「星型8面体」は、2つの正4面体で構成されるので、1から5までが、ひとつの正4面体に展開する数として、そして6から10までが、もうひとつの正4面体に展開する数として、「10進法の数理」の全体の数展開をとらえることができるわけである。したがって、2つの正4面体が統合した「星型8面体」の中心が、「5」と「10」の2つの数の位置づけとなり、残りの8つの数の配置(12346789)は、この構造の8つの頂点となるわけである。ここまでで、形と数の関係性から解釈する「かごのなかのとり」の全体像をあらわすことができたとしたい。残りの歌の内容は、ほとんどが「陰と陽の統合」を意味していると思う。まず、「かごめかごめ」とは、陰と陽の2つの正4面体の統合を意味し、その2つの正4面体の統合が、次の文言の「かご」につながっていくわけである。そして「いついつ」とは、「5・5」の意味合いであり、ひとつの正4面体に展開する数が1から5までの5つの数で、それが陰と陽の2つあるということである。「よあけのばんに」とは、「夜明けの晩」で、「朝」と「夕」の陰と陽であり、それは[ 時間 ]の統合を意味している。そして「つるとかめがすべった」とは、「鶴と亀が統べった」であり、「鶴」と「亀」とは、「天=鶴」と「地=亀」の陰と陽のことであり、それは[ 空間 ]の統合を意味している。そして、「うしろのしょうめん」の「後ろの正面」は誰か、ということになるが、ここでこの「かごめの歌」の遊戯を思い出してもらいたい。目隠しした中心の人が、周囲を廻る数人の人の中から、この歌を歌い終えて廻るのを止めた時に、丁度自分の後ろの正面に来た人の名前を当てる、確かそんな遊戯だったと思う。今までの解釈から類推すればわかるように、目隠しした中心の人とは、ひとつの正4面体の中心の数の「5」を意味しており、その後ろの正面は誰かのその人とは、もうひとつの正4面体の中心数の「10」を意味している、というわけである。つまり、2つの正4面体が統合した「星型8面体」の中心には、いわば表の数として「5」があり、その同じ中心には、もうひとつ裏の数として「10」があるということである。ところで、「5」を中心とした9マスの魔方陣(例えば「九星図」など)があるが、これは「星型8面体」の平面投影図と観ることができる。その魔方陣の平面図形が、この「かごめの歌」の遊戯に密接にかかわっているのではないかと思う。その魔方陣の中心数は「5」なのだが、その後ろの正面には、平面図形では分かりにくいけれども「10」という数が隠れている・・・。この「後ろの正面は誰か」という「かごめの歌」の最後の問いかけは、表の数の「5」の裏には、「10」という数が隠れており、その「10」という数の重要性を強く暗示しているということが言えるのではあるまいか。そして、その認識の視座は、3次元の立体的視点に立ってはじめて、獲得されるものだということも・・・。さらにそれが分かる時は、「形」と「数」の関係性が紐解かれ、「時間」と「空間」の統合の秘密が解き明かされる「その時」なのであろう。その謎が紐解かれる「その時」を、みんなでドキドキしながら待っている今日この頃である。< 追 伸 > この「かごめの歌」の解読は、すでに多くの方々が取り組まれている。本日の解読の試みも、ひとつの叩き台として、提案するものである。
2005年07月10日
古今東西で、なぜ「10」を完全や完成をあらわす数と認識されてきたのか・・・という観点から、昨日は「10角形」の立体構成を取り上げた。そこで今日は、それをベースにして、無謀にも(笑)、遺伝子DNAのラセン構造に迫ろうと思う。左の写真の構造は、DNAの二重ラセン(金色の曲線)の1回転を、ひとつの単位としてとらえ、これを抽象的に表現した円筒状の構成である。(あくまでも方便としての形状表現だが、ラセン回転のスタイルは近似値である。)この円筒を、真上から見た形が「10角形」で、それが10階層のところで二重ラセンが1回転となっている。イメージとしては、昨日取り上げた「10角形」の立体構成が、右回転の二重ラセンを描きながら、ある間隔を平衡に36°づつ、10階層ほど回転移動した、その軌跡をあらわした造形となる。今回、あらゆる生命(地球に数千万種あるとされる多種多様な生命体)の根幹であるDNAの構造に、「10角形」が密接に関連しており、またその基本が「1回転10個の塩基対」であることを知ることができ、ひさびさの感動であった。ちなみに、人間のDNAの場合、この1回転10個の塩基対の単位が、約3~3.2億個もつながっているということである。地球生命の健全な維持活動が、結果的に「10」を選択していた・・・。となれば、その数を、完全や完成をあらわす数として認識されてきたことも、自然のなりゆきだと思うと、感慨深いものがある。
2005年07月10日
この立体構成は、この構造をちょうど二分する断面が、10角形になる構造だ。その断面が、「10角形」ということが分かるように、真上から映した写真である。ちなみに、この構造は、構造を二分する10角形を、全部で6面ほど備えている。古今東西で、何故「10」という数が、完全や完成をあらわす数として尊ばれてきたか、その答えが、この構造に秘められているのではないかと、私は観ている。今までの立体構成と同様、手探りでたどり着いた構成表現である。しかし、かつて、外枠は同型ではあるが、内部構造を違う構成で表現していたときがあった。ところがある時、数学の得意な人から、その構造は等辺(同じ長さの軸線)による構成ではなく、およそ[ 1:0.95 ]の割合で、少し揺らぎのある表現になっていることを指摘され、「これではいかん」ということで、それから数年かかって、ようやくたどり着いた構成表現であった。こういう、ある意味で「生みの苦しみ」があるから、完成した時の達成感も大きく、やりがいもあるわけである。ところで、ある神道系の求道者の書籍を読んでいて、気になる文章に出くわしたことがある。そこには、太古から「12」という数(日本では同系統の「8」)で治めようとしてきたために、様々な問題が生じてきており、その山積みになった問題を処理するためには、「10」という数で解決を図る必要があると記されてあった。私は、この文章に出会ったとき、妙に共感したことを覚えており、そのとき既に、角形表現において、ある条件では12角形と8角形とは密接な関係にあることをつきとめていた。そして、「10」の数で解決に向かうとは、それは「10角形」と関連するはずだという直観があった。そして、その「10」という数、また「10角形」の正体こそ、この「準正32面体」の立体構成に違いないと感じるようになっていったのである。その後、確認に確認を重ねて、その求道者の助言もいただくなかで、この立体構成は、神道的解釈では、物部神道系の「十種神宝(とくさのかんだから)」の呪術にも連関すると観るようになった。ここで「十種神宝」とは、物部氏の伝える古神道の呪術で、人間が持っている潜在的な神秘力を呼び起こす行法とされる。1から10までの数(ヒフミヨイムナヤコト)を唱え、十種類の行法を実践すると、神の力を自分のものとすることができ、あらゆる病気を癒し、死人も蘇らせることができると伝えられている。話題をかえて、この写真の図形を今一度よく観ていただきたい。イメージとしては、この構造が手前から向こうに、右回転のラセンを描きながら、真っ直ぐに伸びていくという感じだ。この10角形を二分する対角線の両端から、2本のラセン回転を想定すると、遺伝子(DNA)の二重ラセンの構造にも連関してくるというわけである。そうなんです。遺伝子構造の断面は、大枠では「10角形」なのだ。次回は、この「10角形の立体構成」をベースにした、DNAの螺旋構造に迫ります。
2005年07月09日
昨年の末、私は縁あって、エジプトに行った。10人位のメンバーで約10日間の旅だった。3大ピラミッドをはじめ、屈折ピラミッドなど、カイロ博物館の見学を含めて、古代エジプト時代から現在までの、様々なたたずまいを満喫することができた。そのなかで、とりわけ印象に残った遺跡が、アビドスのオシレイオン宮殿である。実は現場に行くまで知らなかったのだが、その水に浸かった神殿の柱に、かつて見たことのある図形があった。古代神聖幾何学の図形として、スピリチュアルの分野で注目されている「フラワー・オブ・ライフ」の模様である。こんなところにあるわけだ・・・とビデオカメラで撮影し続けたことを思い出す。ここで、この「フラワー・オブ・ライフ」の模様に関して、その同名の書籍である「フラワー・オブ・ライフ」の著者、ドランバロ氏の言葉を引用してみよう。*「フラワー・オブ・ライフ」は、地球の子宮深くに存在し、人類の意識レベルが、まさにそれ自体に、完全に存在を依存している、純粋な意識の枠組みである。*すべての知識が、男性面と女性面の両方で、しかも例外なく包含されている模様。*その一枚の図形の大きさの中に、存在する生命のすべての側面を内包しきっている。*すべての数学的方程式、すべての物理法則、すべての音楽のハーモニクス、あなたのその肉体におよぶまでの全生命についてもです。*あらゆる原子、あらゆる次元レベルで、波動体系宇宙のなかに存在するものすべてが、残らずここに内包されている。以上、書籍「フラワー・オブ・ライフ」・Drunvalo・Melchizedek 著 より。と書籍には、この平面図形に関して、”すごすぎる”ことが書いてあった。このエジプト旅行から帰ってきて、共時性なのであろうか、この図形に強い興味を持つ人との出会いがあり、「この図形は3次元の立体にできるはずだ」という話になった。そして、その人が持っていた葉書サイズのその図形を見ているうちに、「これはできる」という確信がわいてきたのは不思議だった。そして、その翌日には、その図形のそれらしき立体構成の具体化が実現していた。(2005年3月)出来上がったときの率直な感想は、この構造は「音」に関係しており、素材の綿棒の一本一本が、音を出す「弦」ではないかという感じがした。例えば、一本の弦を爪弾くと、それが一瞬にして、その構造全体に響きわたっていくという感じである。そして、さらに時を経た同年の6月に、これと同じ構造を複製する過程で気付いたことがある。それは、この構造は、ドーム型建築やフラーレンで有名な、バックミンスター・フラー氏の研究成果に関連する、という直観だった。フラー氏は、「準正14面体」に関する研究のなかで(この写真の構造も全体として「準正14面体」である)、いわばこの立体構成の一番外枠の結び目の数が、全部で「92」になることに注目していた。(当時のフラー氏が使用したモデルは、球の集合体だったが、写真の軸線構成の構造ともリンクさせることができる。)この「92」とは、天然に存在する元素のなかで、最も大きい元素の「ウラン」の原子番号である。つまり、この写真の構造を、自然に生成する原子をすべて包括する枠組みだと、とらえることができそうなのだ。(あくまでも想定だが・・・)このことは、先に紹介した、ドランバロ氏の言葉にも通じるところがある。私にとっても、久しぶりに「手ごたえ」のある構造表現となった。掲載の写真は平面だが、これを観る人の、それぞれの意識と共振する何かがあると思う。ご照覧ください。
2005年07月07日
昨日掲載した写真のなかで、最も大きな立体が、地元の山口市内にある神社に奉納された。神社の名前は、「仁壁神社(にかべ)」。奉納されて、すでに3年が経過した。写真にあるように、拝殿の天井から吊り下げられて、風に揺らいでおり、参拝者はいつでも見ることができる。この「大玉」たる立体は、一番外側の枠組みの構成が、「大菱形12・20面体」という名称である。制作当初は、この外枠の形状しか分からず、内部の構造については見当がつかなかった。しかし、手探りで掘り進めて言った結果、一番内側にある核の構造を含めて、5層構造になっていることがわかった。すべて、同じ長さの軸線(綿棒)だけを用いた構成で、総計約2000本の綿棒を結んで造った作品である。(1998年・制作)ところで、この「大玉」の奉納された「仁壁(にかべ)神社」は、山口市内で最も古い神社である。御祭神は、住吉三神・アジスキタカヒコネ命・シタテルヒメ命。全国一の宮巡りなどを含めて、津々浦々の神社を参拝してきて、私なりに少しずつ感じてきたこと、それはそれぞれの神社に祭られている御祭神とは、本当は何を意味しているのか・・・ということであった。分かりやすい例では、伊勢神宮の主祭神のか神名は、天照大神(あまてらすおほみかみ)である。その神名の本質は、「太陽」であり、これが投影された呪物として「三種の神器」の「鏡」があるわけである。沖縄の古代祭祀が物語るように、「太陽」を祭る神官は、女性シャーマンであった。(現在の伊勢神宮も、宮司は女性である。)もともと「太陽」を祭る立場であった女性神官の祭祀のあり方が、時代の変遷とともに形骸化していき、祭祀に参加する一般信者から強く慕われるかたちで、神として祭られるようになる。つまり「人が神になる」という経緯もあったことは、天神信仰などを含めて、すでに多くの歴史研究家が述べていることである。御祭神とは、その神社がある土地や地域を、代々お守りしてきたご先祖の方々であり、現在、自分あるいは家族が住まいする地域の神社に参拝して、その地域のご先祖方を含む八百万の神々に、日々お守りいただいている感謝の思いを報告する。これが、神社参拝の心構えや御祭神にたいする、一般的な捉え方ではないだろうか。さて、この「仁壁神社」の御祭神の住吉三神は、海の神様である。神名は、ソコツツノヲノ命・ナカツツノヲノ命・ウワツツノヲノ命の三柱の神である。ご存知の方もあると思うが、この三柱の海神様は、オリオン座の三星(みつぼし)だと、昔から言われているのである。なぜ「星」が「神」となったのか、そのいきさつを紐解いていくと、これがなかなか面白い。古代、というよりも明治以前の江戸時代までは、交通手段の要は「船」であった。船の航海の安全は、昼間はもちろん大切だが、とりわけ夜間の航海の安全が問われたと思われる。その真っ暗な海上で、航海の安全を約束する目印となったのが、天空の夜空を彩る星々だった。その夜空の星々のなかで、一際目立つ目印の星として、オリオン座の三星が、航海の安全を導く星として尊ばれていきました。この三星は、夜の船舶の航海の安全を約束する道しるべの星として尊ばれ、時代の変遷のなかで、やがて海の神様として祭り上げられていったということである。住吉神社で全国的に有名なのは、「摂津国(大阪府)一の宮 住吉神社」・「長門国(山口県)一の宮 住吉神社」・「筑紫国(福岡県)一の宮 住吉神社」の三社である。九州北部の博多湾の海域から、瀬戸内海の東西全域を、住吉系海人族が主軸となって、船舶の運航や貿易を含む海運業を司っていた時代があった・・・それをほうふつとさせる神社配置である。さて、山口市の古社「仁壁(にかべ)神社」は、地域を流れる「ふしの川」の上流域にあり、かつては何故こんな川上に海の神様を祭るのかという素朴な疑問を持っていた。歴史を調べていくと、昔のこの地域は大きな入り江になっていて、かなり上流まで船が遡行していたということである。さらに、昔の港は、現在のように海岸付近につくるのではなく、海水の混じらない川の上流の船で行ける限界のところに港をつくっていたようである。昔の船は木造だったので、海水に船舶を常に浸けていると、フジツボなどが付着して老朽化が激しいため、船舶を長持ちさせるという知恵もあって、川上の真水の港に接岸していたということである。以上のことを考え合わせてみると、何故こんな山奥の盆地に、海神の住吉三神を祭る神社があるのかということが、かなり明確に分かってきたというわけである。さらに最近になって、もう二柱の祭神、アジスキタカヒコネノ神と、シタテルヒメノ神に対応する星が明確となってきた。それは、日本神話に登場する神々を、天空の星々と関連させて読み解くと、アジスキタカヒコネはオリオン座の赤星(ベテルギウス)であり、シタテルヒメはこれもオリオン座の白星(リゲル)となるようである。となると、「仁壁神社」の御祭神の五柱の神々は、「オリオン座の五つの星々」ということになる。もしかすると「大玉」の奉納を御神縁として、この「真祭神」について識ることになったのか、それは分からないが・・・。もはや、私にとってこの知見は、妄想の域を脱していることだけは確かである。かねてより、「古事記」の冒頭にある天地初発の神、[ 天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)]は、夜空の天空に輝く星々の中心に座す「北極星」のことだと、研究者のあいだでささやかれたきたことは知っていた。ということは、八百万の神々とは、北極星を中心として廻る天空の星々と言えるのではあるまいか。しかし考えてみると、最近になって、今まで謎と感じてきたことが、少しずつ自分なりに解明できつつあるなかで、しかもこれをリアルタイムで公開していくことになるとは思いもしなかったことである。日本の歴史や文化の本質を知りたい、そして極めていきたい、という思いというか願いが、津々浦々の神社巡りに自分を導くことになり、その過程で授かってきた立体の構成法における究極の玉が、結果的に地元の神社に奉納される運びになったのだと思う。かつて、この「仁壁(にかべ)神社」は、地域を流れる大川の「ふしの川」流域(旧・吉敷郡/現在の山口市・小郡町・阿知須町・秋穂町)の総鎮守の社であった。その「ふしの川」の下流域に今世の生を受けた私の作品が取り上げられ、しかるべき社殿に奉納されたことは、実に有り難い事だと感じる今日この頃である。
2005年07月05日
1998年 制作・撮影 山本裕一 この写真は、全部で18種類ある基本の立体を、並べて映した写真です。同じ長さの軸線(素材は綿棒)だけを用いて、それぞれの内部の構造を安定化させて構成したところが特徴です。
2005年07月04日
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