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一般に、高床式建物というと、米作りの技術と共に弥生時代に日本に伝えられたと考えられていた。ところが、富山県小矢部市の桜町遺跡では、多量の高床式建物の建築部材が発見されたことにより、定説よりも2000年も古い縄文時代に、すでに高床式建物があったことが証明されたという。本日の画像は、今から約4000年前の縄文時代(縄文中期末ごろ)の高床式建物を、同遺跡から出土した木柱等を参考に復元したものを映した写真である。(2000年6月・小矢部市内にて撮影)特に出土部材の中でも、部材を十字に組み合わせる祭に、双方に溝を掘る「ワタリアゴ」の加工に、注目が集まったということだ。この加工は、現在でも多用されている技術なのだが、弥生や古墳時代の遺跡からも見つかっておらず、これまで確認された最古の例は、奈良県の法隆寺金堂(7世紀後半)ということである。縄文時代の建物に特有の規格とされる「縄文尺(約35センチ)」が使用され、出土した建築部材の樹種は「クリ」ということである。今回の発見によって、食料としてのクリ、建築部材としてのクリと、縄文人は「クリ」を上手に利用し生活に取り入れていたことが、改めて明らかになった・・・。また、今回の発見の本当の意義は、縄文人が現代にも通じる高度な建築技術を持っていたことを具体的に示してくれたことにあったということである。ところで話は変わるが、おととい27日の日曜日、私は地元である講演会の講師を務めた。内容は、子供たちに綿棒で立体工作の指導と、縄文と弥生の古代文化についての講演であった。講演の場所は、山奥の川のせせらぎが心地よいログハウス(といっても新幹線の新山口駅から車で20分位)。その知人が運営するログハウスのすぐ側に、国関連の助成事業として最近建設された「いろり庵」がある。その中の囲炉裏を囲んで、親子が20人位集っての会合だった。この「いろり庵」の囲炉裏、これが特徴のある囲炉裏で、なんと「八角形」なのである。実は、運営者の知人が、八角形に強いコダワリがあるということから、八角形の囲炉裏を作りたいということで、私が綿棒でその原型を作ったものが具体化した囲炉裏であった。その囲炉裏を囲んでの講演会だったので、私としても、なかなかに感慨深いものがあった。子供たちは10人位だったと思う、おそらく初めて体験する立体工作に興味津々で、みんな楽しそうに取り組んでくれた。幼稚園から中学校までの子供たちは、遊びの感覚で基本の形を体で覚えていく。一番幼い、4~5歳の女の子が、2つの正四面体をひとつにして作る星型8面体に感動していたのが、特に私の印象に残った。この多面体は、ある角度から見ると、6角形の星型に見える。その女の子は、その形成過程を見ながら、星型8面体が出来上がったとたんに、「あ、お星様だ、お星様ができた!」と可愛い声で言うのである。そして、何度もその作り方を復習して、「どうやって作るの?」と言いながら確実に覚えようとする姿には、私の方が感動してしまった。そして、縄文文化に関して、掲載画像の建築物の話も織り交ぜながらの縄文よもやま話。その後、場所を変えて、来年山口県で開催される国民文化祭の「子ども夢プロジェクト」で採用が決まった「子供たちの原始時代の家づくり」の建設場所(「いろり庵」のすぐ近くにある段々畑の跡地)にて、みんなで昼食会。ここでは、ささやかながら弥生文化についてのよもやま話を一席。緑の木々に囲まれて透き通った空気のなか、本当に美味しく食事をいただくことができた。気づいてみると、このブログタイトルである「真理探究と歴史探訪」をテーマとした講演会となっていた・・・。とても内容の濃い充実した時間を、主催者や参加者の皆さんと過ごすことができ、有意義でありがたい「思い出づくり」になったと感じている。
2005年11月29日
11月11日(旧暦10月10日)から始まった出雲の「神在祭」は、現在は出雲大社から佐太神社に移り、佐太神社では25日まで斎行されている。「八雲立つ出雲」の「八雲立つ」とは、[出雲国風土記]によれば、国名の「出雲」にかかる枕言葉ということである。また[古事記]には、須佐之男命が出雲の須賀に初めて宮作りをしたとき、その地から雲が立ち昇ったので詠んだ歌として、「 八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣作る その八重垣を 」を載せており、日本最初の和歌とされている。出雲には、その和歌発祥の地として「八雲山」(標高426m)がある。この山の山頂で、この31音のはじめての和歌が詠われたということである。そしてこの八雲山を御神体の山として祀る神社が、その麓にある「須我神社(掲載写真の下が拝殿)」(大原郡大東町須賀)である。ちなみに、この神社のある「須賀」という地名の由来は、須佐之男命が大蛇を退治した後、稲田姫を伴い、「我が心すがすがし」と言われたことから・・・である。また、この八雲山の中腹には、須我神社の奥宮とされる御岩座(巨石)の「夫婦岩」がある。掲載写真の上は、その夫婦岩の写真で、数年前の今の季節に、神社の神主さんに山頂まで案内していただいたときに映したものだ。八雲山の山頂からは、周囲の宍道湖・中海・大山・中国山脈が木々の間から見渡せる、眺望の素晴らしい場所である。その折、お導き下さった神主さんは、山頂にて篠笛の美しい音色を披露された。かの八雲山に立ちて、瑞雲たなびく出雲の「国見」の宴というか、幽玄なる「ひびき」を堪能することができ、「有り難き幸せ」の言葉が身に染みる、感動のひとときであった。出雲地域を訪ねたのは、今まで8回位だが、まさに「八重垣」のごとく幾重にも重なっている垣根を、毎回訪れる度に、ひとつひとつ通らせていただき、段階的にその深みに触れることを許されてきたという感じがしている。なかでも一番印象に残る場所は、松江市の南郊にある「田和山遺跡」(松江市乃白町)である。標高約46mの小さな丘に、三重の環濠が掘り廻らされており、私も現場に行ってみて、今まで見たことの無いその異様なたたずまいに、思わず「おお~!」と驚きの声が出たわけだが、これほど厳重な防御施設は、当時の日本には例が無いということである。この遺跡は、弥生時代の前期後半から中期末(BC2世紀~AD1世紀)にかけてのもので、その厳重に守られた丘陵上には住居跡がなく、塀のある高床式建物が一棟と物見やぐらとみられる建物があるだけという特異な遺跡とされることから、特別な祭祀を行う神聖な空間だったという説もある。この遺跡の継続する時期が、青銅器が大量に出土して国の史跡にもなった、荒神谷遺跡や加茂岩倉遺跡とほぼ同じということから、青銅器の祭を行っていた古代の出雲社会を考える上で、重要な鍵を握る遺跡とされている。私もこの丘陵の田和山遺跡に実際に立ってみて、古代出雲の人々が、あの銅剣や銅鐸を使用して、ある特別な時期に祭祀を斎行していたに違いない・・・と感じたところである。この宍道湖をのぞむ丘陵上の眺望がまた素晴らしい。北方には、佐太神社の神体山である朝日山、東方には神奈備山の茶臼山と、気象条件がよければ大山を遠望することができる。厳冬の晴れた日にこの遺跡に縁があったので、雪化粧の美しい大山が迎えてくれて、すがすがしい気分となり、嬉しかったことを覚えている。さて、いよいよ「南北軸」の話となる。この田和山遺跡を訪れて後、ある時自宅で、その遺跡の近辺を含む出雲地域の地図を見ていた。すると、八雲山と田和山遺跡が、まず南北で結ばれることが分かった。「はっは~!」と思いつつ、さらにその軸線を海側の北方に伸ばしていくと、松江城(公園)を通っていき、なんと島根町の「加賀の潜戸」(国天然・国名勝)と結ばれていることが分かったのである。この「加賀の潜戸」と言えば、現在「神在祭」が斎行されている佐太神社の主神「佐太大神」の生まれた「闇き岩屋」とされている場所である。(関連文章・8月25日の日記)「八雲立つ出雲」にまつわる古代出雲の三つの祭祀場(南=八雲山・中=田和山・北=加賀の潜戸)は、三点一直線の「南北軸」で結ばれていた!!!歴史の現場を何度も巡り歩くなかで観えてきた「八雲立つ出雲」の南北軸。なぜ私は「南北軸」にこだわるのか・・・。その「南北軸」の北の果てには、「北極星」がある。つまり「南北軸」とは、この北極星を星神の中心として信仰の対象とする、「北辰信仰」の軸線を意味しているのだ。須我神社の主神 須佐之男命を象徴する「剣」とは、地球の「地軸」を意味するモノザネであり、その剣先は地軸の極北の「北極星」を指していた・・・。古代出雲の田和山では、この「南北軸」を視座に据えた「夜の祭祀」も、厳かに斎行されてきたことであろう。「八百万の神々」の本質は、「夜空に輝く星々」のことである。その中心に座して輝く星こそ「北極星」であり、[古事記]の冒頭に登場する八百万の神々の最高神である「天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)」となる。神在月の旧暦10月22日。出雲に八百万の神々が集うこの時に、この文章を公開できたことを嬉しく思う。
2005年11月23日
本日は11月22日ということで、その月日の数の角形表現を並べてみた。上が「11角形」で、下が「22角形」の、それぞれ平面図形である。ある条件のもとに、同じ長さの軸線だけを用いた表現となっている。実は、この「11角形」と「22角形」は、相互に密接な関係にある。説明を試みると、まず上の図形と下の図形の軸線が同じ長さだとする。上の「11角形」の一番上の頂点を、下の「22角形」の中心に置いて、その「11角形」の頂点の反対方向にある1辺(この11角形の一番下の底辺)と、「22角形」の一番外枠のどれか1辺と重ねると、「22角形」の中に「11角形」が綺麗に納まるという関係である。つまり、下の「22角形」は、外枠だけの「11角形」のひとつの頂点を中心として、その頂点の反対方向にある1辺を、円環状に1辺づつ22回ずらしていくかたちで形成される図形というイメージである。ここで、この「22角形」と同様の条件で構成した、9月30日の日記の「18角形」の図形と見比べてみると面白いと思う。今の私の感覚では、「22角形」が「水」の要素、そして「18角形」は「火」の要素と観えている。皆さんの心には今、どのように映るだろうか・・・。さて、8月3日の日記にも書いたが、新暦の8月11日が旧暦の7月7日となる月日を皮切りに新暦の11月11日まで、「11」という数にまつわる月日の日取りが節目節目にあったという不思議な期間だった。(関連記事・11月11日の日記)そして、11月11日から11日を経て、今日11月22日が、ある意味での「締めくくりの月日」と私なりに直観して、今日の画像の披露となった。そこでまたひとつ、新暦と旧暦の関係で「気づき」があった。それは、本日11月22日は、古来から「鎮魂祭(ちんこんさい/みたまふりのまつり)」が斎行される日取りということであった。この「鎮魂祭」とは、古くは旧暦の11月に、「新嘗祭(にいなめさい・古くは冬至の祭)」の前日に行われた祭で、皇祖神アマテラスの魂を安定させて呼び覚ます太陽信仰の儀礼である。いわば、年末の締めくくりの祭と言えよう。一年のうちで、最も日照時間の短い冬至(今年の冬至は12月22日)の頃には、古代より世界の各地で「太陽」の復活のための祭が行われてきた。(例えば、キリスト教のクリスマスも「冬至祭」に由来する。)わが国の歴代天皇は、天照大神(あまてらすおほみかみ・太陽神)の子孫とされるので、「鎮魂祭」によって天皇自身および太陽の霊力を取り戻し、続く「新嘗祭」によって再生した太陽を祝うのである。すでにお分かりのように、上述の二つの祭は「冬至」にゆかりの深い祭である。ところが双方の祭は、「冬至」からみておよそ1ヶ月早い、つまり旧暦の祭祀の月日を、そのまま新暦に置き換えて、斎行されているのである。「神は時なり。時を外れた祭はなし。」とするなら、明治初めの「太陽暦」の導入は、本来は国家祭祀の柱であるはずの「冬至祭」に、大きな歪みを与え続けていると言えるのではあるまいか・・・。さあ明日は、一般国民にとっては、お陰さまで「勤労感謝の日」である。ようやく紅葉を迎えた!?美しい彩りを、存分に楽しみたいものである。
2005年11月22日
今日は、「6」にまつわる「形と数の関係性」を推測してみよう。ここで話を進める前に、あらかじめ確認しておきたいこと(私の日記内容の全般にわたることでもあるが)は、以下の記載内容は、私なりのある仮定、つまりひとつの「とらえ方」であって、ある程度は的を射た内容であったとしても、それが真実とは限らないということである。ブログタイトルに「真理探究」をうたっているが、そのなかなか辿り着けそうもないけれども、私としては常にテーマとして掲げておきたい、その「真理」という言葉。その「真理」を私なりに探究してきた過程を、その時々の成果と思える断片を披露しつつ、このブログに縁のある人々と、部分的にでも共感・共鳴するところがあればという想いで、記しているところである。ということで、今日のタイトル「6角形の数理」に入っていこう。まずは、今日の画像の左側の写真。これは一見すると平面図形の「6角形」に見えるが、実は軸線構成の「準正14面体」という3次元の立体である。この立体を二分する断面の形が「6角形」なので、その6角形がわかるように映した写真を、今回の話題に添えることにした。ちなみにこの「準正14面体」は、中心から各頂点(12個)までの長さと、各頂点の間が、すべて同じ長さでできており、その構成に必要な軸線の本数は36本である。また外側の面は、3角形が8つと4角形が6つの合計14の(架空の)面で構成されている。数ある基本の立体のなかで、最も「調和(バランス)」が取れた構造といえる。(3角形と4角形は交互に並ぶ配置。この形を実際に作ってみたい方は、8月2日の日記を参照のこと)この「準正14面体」には12個の頂点があり、この立体の中心を真っ直ぐに貫く軸が6本見出せるところがポイントで、この6本の軸が画像の左側の「6中数理」の中心数である「6」にも関連してくる。さて、この「6中数理」とは、9マスの魔方陣にあるように、「6」を中心とする数理という意味合いである。タテ・ヨコ・ナナメに並ぶ3つの数の合計が、それぞれ「18」になる魔法陣である。(例・3+6+9=18 / 5+6+7=18)そして画像中央部の数の並びは、魔方陣の「6中数理」を展開したものである。縦の3列は、左側が上から下に「1から11まで」の数を、そして中央をはさんで右側が下から上に「1から11まで」の数を並べている。中央の「6」が分かりやすいように、丸い囲いをつけた。(その<6・6・6>は、構造の中央ゆえに隠れているわけである。)つまり、縦の3列の数の並びは、横に並ぶ3つの数の合計が、それぞれ「18」になる関係を示している。(注 / ここで(1・6・11)の関係を「6中数理」の魔方陣に載せていないのは、9マスの枠に入らないためである。)ところで、今日のタイトルは「6角形の数理」だが、ここで取り組みたいと考えていたのは、実は「ミロク」の数理について・・・である。その「ミロク」とは、釈迦の入滅後、56億7千万年後に現れて衆生を救うとされる「弥勒(ミロク)菩薩」のことで、その「ミロク」を象徴的にあらわす数として、「369・567・666」などがある。なぜか分からないが、私は前々からこの3つの数の並びが気になっていた。あるとき、画像の9マスの「6中数理」を眺めていて、ハタとひらめいた。「あああ!!!これが「ミロク」の数を暗示する数理ではないか!」と。ここで9マスを見ていただきたい。右上の「3」から左下に向かって「369」、左上の「5」から右下に向かって「567」とあるのが、「弥勒(369)下生は、56億7千万年後(567)」と読めてしまったのである。そして「弥勒如来(666)と顕現し燦然と輝く」という具合に・・・。(弥勒は、釈迦滅後18年後に現れたという説もあるということである。)画像の右下には「亀甲紋」を添えてみた。6角形の亀甲紋は、「出雲大社」の神紋である。(大社の神紋は、正確には「二重亀甲に剣花菱」であり、掲載の紋とは少しデザインが異なるが、亀甲紋は「6角形」が基本である。)出雲大社は、北方を守る役割を担っていたことから、北方を守護する「玄武」、すなわち「神亀」を神紋としたということである。この「玄武」とは、中国思想における四神の一で、亀と蛇が合体したしたような架空の霊的動物のことをいう。「玄武」は北の方位を守る神獣とされ、その「北」をあらわす要素には「水」がある。・・・とするならば、この「水」という漢字は、「6角形」に見立てることができ、水棲動物でもある亀の甲羅も6角形という類推も含まれて、北方鎮護の紋章になったのではないかとは、私なりに考えるところである。(昔から日本では、「亀」はめでたい動物とされ、神の化身と考えられていたので、家紋のなかでも「亀甲紋」は、格別な扱いをされてきたということである。)現在の私の心境は、出雲大社の主祭神「大國主大神(オホクニヌシ)」が、「ミロク(666)」に観えている。往古より、永年かけられてきたはずの執拗な「封印」が、今こそ解かれようとしているのではあるまいか・・・。本日の11月18日は、出雲大社で斎行されている「神在祭」の最終日である。今日という良き日に、ご神紋の「亀甲紋」にまつわる「6角形の数理」に関して、これを紐解く手がかりを提案できたことを嬉しく感じている。(関連記事・・・9月30日の日記・8月29日の日記)
2005年11月18日
少し前に、感性の豊かな人と、次代を担う子供たちについて話している内に、「クリスタルチルドレン」の話題になった。私も詳しくは知らないが、今までの従来型の「炭素」を基盤にした生命体の人間から、鉱物のクリスタル(水晶)の成分である「ケイ素」を基盤にした、いわば「ケイ素型生命体」のタイプの子供たちが、最近増えてきているということらしい。いままで、2~3人のそういうタイプの子供に出会った感じがしているのだが、その私の触れた子供たちは、まだ4~5歳にもかかわらず冷静沈着で洞察力に優れており、まるで大人のような子供たちであった。少々自分の身に危険が迫ったとしても、平気で乗り越えていけるような、まさに現今の社会環境に適応できる新しい生命体という感じである。それはさておき、その話題のなかで、「ケイ素」というキーワードから、なぜかチベットの聖地である「カイラス山」の話題に飛んだ。なんでも、カイラス山(カン・リンポチェ)は「ケイ素」だけでできている山だと聞いたことがあるというのである。(このあたりの関連の経緯は、8月15日の日記でも取り上げた。)ここでいつもの連想ゲームがはじまる・・・。そうか、「カイラス山」が「ケイ素」で「水晶」、そして「次代を担う子供たち」か・・・。そうすると、「日本列島は世界の諸大陸の縮図である(このとらえ方は、既に私の中では<地球を観るときの基盤>になってしまっている)」という観点から、カイラス山を含むチベット地域を日本列島に投影すると「富士山系」に相当する。(これにまつわる関連記事は、7月24日の日記に記載。)そして実は、ここからが今日の日記の本題となる。以上述べてきた「世界と日本における地形の相似関係」から類推して、チベットの最高峰「エベレスト」を日本の「富士山」とすれば、「カイラス山」は富士山系の山々のどの山と想定することができるか・・・とある時、自分自身に問いかけた。私なりに納得するその答えが出たのは、先月の10月1日頃であった。チベットの「カイラス山」は、富士山系の「金峰山」と想定できる!その「金峰山」は、富士山から北の甲府市の北側にあって、山梨県と長野県の県境にそびえる標高2599mの山である。この山を中心とする地域は、全国的に有名な「水晶」の鉱床のある地域なので、これが決め手となった。つまり、連想による類推の結果、「クリスタル=水晶(その主要成分としての<ケイ素>)」が、「カイラス山」と「金峰山」を結んだというわけだ。そしてその後、2種類の鉱物とその産出地が気になってきた。それは、「ヒスイ」と「黒曜石」である。2種類の鉱物はともに、古代の日本文化を象徴する鉱物である。「ヒスイ」は古代人の祈りを象徴する呪具で、縄文時代から日本列島全域のそれぞれの地域の宝物として大切にされてきた形跡がある。その産出地は、新潟県は糸魚川(姫川)下流域とされ、全国の古代遺跡で発掘される「大珠」や「勾玉」などの「ヒスイ」を加工した呪具は、ほとんどすべて新潟産のものだということである。そして「黒曜石」は、旧石器時代から古代人が「ナイフ型石器」や「尖頭器」などに加工して、生活の道具として活用されてきた石器材料である。この「黒曜石」は、日本の様々なところで産出されるが、今回の「気づき」に触発された場所として、伊豆七島の神津島を産地として取り上げることにした。富士山近辺の太平洋側をはじめとする関東地域の古代遺跡からは、なぜか遠く離れた、この神津島産の黒曜石を加工した石器類が出土しているということだ。縁あって、「ヒスイ」の産地である「糸魚川下流域」と、今回取り上げた「黒曜石」の産地である「神津島」には、ともに2度づつ訪問している。私のブログタイトルにもある「歴史探訪」という観点から言えば、結果的には、「縄文文化を探る旅路」のなかで訪れた場所と言えよう。「ヒスイ」や「黒曜石」を加工した太古の石器類は、日本列島の歴史文化の「柱」である縄文時代の文化を代表する文化財と言える。そして今回、様々な経緯から「クリスタル(水晶)」の産地である「金峰山」を中心とする地域を意識するようになってきた。この「水晶」は、縄文時代の古代人の生活の中で、どのような役割を担っていたのか・・・、あるいは現在より未来に向かって、この「水晶」をいかに活かしていけるのか・・・ということ等を、今後じっくりと探っていくことにしたい。(今日の画像は、「ヒスイ原石」の大岩を写した写真。国の天然記念物に指定されたヒスイの岩塊である。新潟県糸魚川市にある「翡翠ふるさと館」にて<道の駅・親不知ピアパーク内>)
2005年11月15日
今日の画像は、「大きいカタチ」から「小さいカタチ」に、あるいは「小さいカタチ」から「大きいカタチ」に、相互に変容するカタチの様相を、その過程を含めて表現した軸線構成の作品である。その「大きいカタチ」とは、一番外側の枠組みの「準正14面体」であり、「小さいカタチ」とは、内部の一番底にある「正4面体」である。相互のカタチの変容に「ラセンの動き」が関係するので、それを「赤・黄・青」の3原色であらわしてみた。わかりやすく(と言っても分かりづらいと思うが)言えば、最上部の「銀色の3角形」が、上から下に垂直に平行移動して、最下部の「銀色の3角形」と重なる過程のなかに、正20面体・正8面体・正4面体などの立体の基本形状を見出すことができる。(3原色の軸線は、「銀色の3角形」の平行移動と連動する。)この「閉じる方向(収縮系)」と「開く方向(膨張系)」の、相互の形状の「変容」をふまえた表現は、自然の摂理が醸し出す「普遍的秩序」と言えよう。止まれ。解説の言葉はあまり必要ではない。それを見て「美しい」と感じるカタチの背後には、「自然の法則」が見え隠れしているということである。
2005年11月14日
今日は11月11日。旧暦では10月10日で、新旧あわせての「ぞろ目」の月日である。また、8月3日の日記でも取り上げたように、かねてより注目していた月日で、「11」づくしの極まりの日取りと言ってもよい。そこで本日は、「11」にまつわる形として、「11角形」を単位として、これを円環状に22枚重ねたかたちで構成した、「22角形」の平面図形を披露することにした。9月30日の日記で披露した図形は「18角形」だが、それと同様の構成の仕方で、ひとまわり大きな図形となっている。ところで、ここしばらく日記はご無沙汰していたが、新たな展開もあり、私なりの研究も、さらに深まりを見せつつある。今日の月日を迎えるまでに、今までの成果を再確認していた一ヶ月だったような気がしている。また本日は、神在月の出雲大社で斎行される「神迎祭」と重なる月日となったことも興味深い。この祭りは、翌日からの「神在祭」に先立って行なわれ、出雲に集われる八百万の神々を神社にお迎えする祭りである。その祭りの際に、神々の先導役としての「龍蛇(りゅうじゃ)さま」が、神社に奉納される。この龍蛇とは、かつてはこの時期の出雲の沿岸部に打ち上げられていた海蛇のことで、この海蛇が神社に奉納されると、豊作・豊漁・家内安全・子孫繁栄の霊力を持つ「龍蛇さま」として、「神在祭」の期間中は大切にお祀りされるということである。この海蛇を「龍蛇さま」と呼び、神社に奉納するのは、出雲地域の独特の信仰とされている。今日の画像の背景は、「イチイ樫」の大木で、「大蛇伝説」の地に屹立している。まさに、出雲大社「神迎祭」の日取りにふさわしい画像となった。
2005年11月11日
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