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☆ もう少ししたら、大切な友人一家と一緒に、初詣に出かけます。ってことで、今年も最後。 ああ、本当に月一更新になっているブログですが、みなさま、お付き合い下さって、ありがとうございました。 今年は、本当に怒濤の一年でした。というか、昨年から引き続き怒濤の二年間だったというべきか……。 舅の土地に夫が建てて今でも夫が税金とローンを払っている家を私たち家族は出て、借家に住んでいる訳なんだけど、一昨年のゴールデンウィークの法事で、舅の体調不良が目に余り、それでも、健康保険証を取りあげて病院へ行かせてくれないという、姑による舅の虐待が続き、我が借家に舅を引き取って以来、そのお舅さんを末期癌で看取って、お葬式出して、仕事の入札準備と並行して、法事を毎週して、49日法要を前に夫が網膜剥離で入院手術となって、更に、再手術になって、子ども抱えて、学校と仕事と保育所と病院を駆け回って、泣きながら車を運転していたこと、何度か。そして、去年の今頃、仕事を止めるか、縮小するか、突っ走るか、……、様々な検討をコンサルタントの方を交えてしていたなぁ。 年明け、1月半ばに、2ルームを閉鎖することになって、それからの後始末と、5月からの私の入院と、……。 落ち着いたのは、夏も終わる頃。 さぁ、やらなければならないことをいっぱい頑張らないと……と肩に力をバリバリに入れて思っていたとき、「やらねばならぬことよりも、今、自分のやりたいことをしなよ。あなた疲弊しきっているから。そうじゃないと、人として立て直せないよ。」とアドバイスを貰い、子どもの頃から好きだった歌を再開して、この冬を迎えました。第九や声楽のレッスン、しんどかったけど、でも、人間らしい感覚が戻ってきた。 今の借家へは、仕事を立ち上げる準備の頃引っ越してきたので、7年くらい住んでいることになるのですが、余りにも慌ただしくしんどく、必死で挑んでいたので、実際、今年1年が、ここに住み始めて初めての1年目の様な気がしていました。6年間、何していたか、ここに住んでいた実感がありません。すっぽり消えていて。 今は、懸命な食事や運動のコントロールをしようという気力がなくて、「今年1年は、まず休んで気力を回復させるのを見守って待つよ」と、主治医にも言って貰い、HbA1cが12.1%という現在。毎日がしんどくて、キツイです。が、ぼちぼち、フリーズしていた何かが解凍されてきている実感があります。 年末のミーティングのとき、私にとってはとても印象的だった出来事がありました。 あるスタッフが、ミーティングの間に、カーテンを洗濯してしまいたいと言い、脚立を持ってきて、ササッとカーテンをレールからはずし、2枚ずつ洗濯機に入れて回しだした。洗濯機は40分もしないうちに止まるから、止まるとサッと席を立ち、洗濯し終わったカーテンを取ってきて、また元通りに吊して、洗い立ての良い香りに鼻を埋めて、「ああ、良い香り」と。そうやって、次々に保育室のカーテンを洗濯して、3時間くらいのミーティングの間に、ついでのようにその部屋1室分のカーテンを洗いきってしまった。 縫い目がほつれているところがあって、裁縫道具を出してきて、ささっと、話を聴きながら会話に加わりながら縫ってしまって、脚立に登って洗い上がったカーテンを取り付けて………。 私にとって、カーテンを取り外すとか、洗うとか、取り付けるとか、それは多分すごく疲れることで、おおごとで、大変なことなのだ。健康で若いって言うのは、こういうことなのかと、本当に、眩しい光景だった。私はといえば、そのミーティングの間、ただ、座って話を聴いているだけで、しんどくてしんどくて、何度も何度も生あくびをしながら、横になりたい気持ちに耐えていた。そんな体調の時にみるその若いスタッフの様子は、つくづく、憧れとも思える、本当に眩しい光景だった。 そんなこんなの中でも、息子が元気に育ってくれているのが、何よりの楽しみで幸せである毎日。 29日の夜、自治会の「火の用心」夜回りの当番で、夫と息子がお出かけ。最近すごく太ってきて、まん丸顔の宝良くんが、完全防備で、更にまん丸になり、いつでも、モンゴルとかへ行って、混ぜても、見分けがつかなさそうな風貌に。今日の写真はそのときのものです。 西原さんの「毎日かあさん」や「ああ、息子」などに出てくる、おバカ丸出し息子に、急激に変貌を遂げつつあり、「お尻、おチンチン、ゴーオンジャー」しか言わないで、ゴーオンジャーのポーズをとるくせに、ゴーオンジャーの録画を見ていると、「怖いから、もう止めて、ペネロペかけて~」という今日この頃の宝良くんです。(笑) そんなお馬鹿な息子なんだけど、かわいくて仕方ありません。 保育所では、お兄ちゃんパンツで過ごすくせに、家ではオムツをはきたがり、オムツでおしっこします。紙おむつでも、ウンチだけは、自己申告して100%トイレに行くくせに、おしっこは100%オムツです。 なので、かなり誘導が入っていますが、「新年1月1日からは、家でもお兄ちゃんパンツにする」と、自分で言わせました。自分の口で自発的に言ったようで、結構誘導尋問です。ほぼ100%言わせてます。さて、どうなりますやら………。 来年は良い年でありますように。皆様にも、良い年が参りますように。今年一年も、お付き合い下さってありがとうございました。来年もよろしくお願いします。
2008.12.31
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☆ またまた、ご無沙汰です。声楽の発表会のあと、11月は、消えてしまいました。最低限しないといけない仕事と、保育所から戻った子どもを寝かしつけるまで。それだけで精一杯。体調不良で、後は使い物になりませんでしたね。夫は、結婚11年を過ぎた今、いつものこととそんな私に平然として怒るでもないってことに、逆に私が「えっ、いいんですか……?」と、ちょっとびっくりしたりして。 さて、前回の声楽発表会ですが、もう、あのブログ後、結局睡眠も取れず、夫も風邪で声が出なくなって、午前中に、家族3人、揃って耳鼻科を受診。出先で昼食を取って、そのまま発表会の会場へ。 会場へ向かう車中、もう、自棄になってブツブツいう私。かつては、子どもの頃から、練習や準備が足りなくても気合いで本番に強い私…という暗示をかけて乗りきるのよ! と、舐めたことを思ったこともある若気の至り。しかし、数年前のピアノの発表会で、もう、最初の鍵盤の位置が分からないほどあがって、3回くらい弾き直しても、初めの音が、正しい位置に手が行かない……、もう、ボロボロの発表会があって、そんな、ハッタリみたいな勢いだけで、乗り切れるほど、甘くないんだよ! って、身に沁みた。あの体験は、子どもの頃からいっぱいお稽古ごとをしてきた身としては、大人になって、態度を改めることができたほど、結構、キッツイ体験でしたね。(まぁ、あの頃は、練習不足というより、ほぼ練習したことが無いに等しい、無謀な時期だったってことで、子どもの頃の発表会云々とは、身を置いた環境のレベルが違いすぎていたのだけれどね。学校行って、仕事に追われて、0歳だったり1歳だったりする息子をおんぶしながら、ピアノに向かって練習しようとしてたけど、まぁ、背中で暴れるし、ずっと泣くし、練習になんかならなかったよね。おんぶしたまま、背中にくくりつけたままでレッスンを受けさせていただいたことも、数回。状況を知っていてくださる先生なので、それも認めてくださったけれど…。 本当に、先生、スミマセンでした。ありがとうございます。) で、あのときのピアノの発表会ほどの、ボロボロの自分が、この声楽の発表会でも繰り広げられるんだ……、と。「練習は裏切らない。努力は裏切らない。というか、やってなければ、やってないだけのものしか、出来ないのが当然」と、夫と息子も乗っている車の中で、一人陰気なワールドに浸り込んで、会場入り。 なのに、ドレスは、カルメンちっく(派手)。開場前に、全員でステージにて発声練習。合唱ではなく、これからソロばっかの発表会で、みんなで発声練習って…。それぞれの声が凄すぎて、自分の声が聞こえない。私、どんな声で今発声練習できているの?声、声、……、??? と思いつつ、もう、立ち姿、姿勢、腹筋、背筋…とかを自己チェックするしかない。 そして、出番。もう開き直るしかなく、逆に、これまでレッスンで先生が指摘してくださった部分を、結構冷静に思い出しながら、注意しながら歌えた。 声や細かなところの処理などは、やっぱり、大雑把に雑になってしまったところも多々あったけれど、あの調子が落ちていた中では、思ったより歌えて、神様、ありがとうーーーーな、ギフトいただいた感じで終わりました。ひとえに、実力以上のものは、すべてギフト。自分の力以上のもの、ギフトに感謝。 ステージから降りると、すれ違いざまに、先生が、OKサインをしてくださり、胸をなで下ろす。 前夜、先生宅で伴奏あわせをしていたとき、ソロ以外にもフィガロの7重唱を歌う上級レベルの方々が、全員とピアノで合わせるために先生宅に残っていらして、駆け込みで合わせに入った私は、その合間に割り込む形になったの。で、私、保育所→公文のあとの息子を連れていたので、私がピアノ合わせで歌っている間、息子の相手をしてくださっていたお姉さんたち。 そこで、ちょっと親近感を持ってくださったようで、発表会当日、ステージから降りて袖へ引っ込んでいった私に、「おかーさん、よかったよ!すごく、声通ってた。会場全体に響いてたよ。よかったじゃん!」って、駆け寄ってきてくれた。前夜の私と比べて、って意味で、上手な他者と比べてじゃないことは、重々分かった上で、でも、すごく嬉しかったです。そうやって、仲間に受け入れて貰えた感じが、なんとか歌えたことの上に重なったから、嬉しかったのかな。 終了後、打ち上げの席で、その声をかけてくれたお姉さんが、「おかあさん、ドレスこれからどんどん増えていくと思うよ。」(たくさん、ソロのステージを踏んでいく未来になると思うよ。)って、いたずらっぽく笑ってくれて。幸せな一日になりました。先生のOKが出ればだけど、次は、やっぱりプッチーニから、ラ・ロンディーネ(つばめ)の中の、「ドレッタのすてきな夢」を歌ってみたいなぁ…。 そして、また、疲れ果て………、11月は消えていきました…とさ。(いつもの展開… 夫のつぶやき&諦め?) 消えた11月の次は、世知辛い12月ですわ。 猛烈な不景気に、我が家も晒されています。金額的にどうなるか、まだ具体的に見えていませんが、12月のお給料から、我が家の家計も、かなり収入が無くなる見通し。更に、それが、堪え忍べば回復するといういい方の見通しは、ナシ。 でも、ものいりな季節。このお正月、予算取りをしておかないと、本当に、ショートしてしまうといけないので、クリスマス関連予算と、お正月初詣関連予算と、お正月お年玉関連予算を計算して、今からお金をよけておくことにしました。 でね、ちょっと気持ちがすっきりしないのが、お年玉。うちは、金額を決めてあるんだ。高校卒業後就職するまでの子が1万円。高校生が7000円。中学生が5000円。小学生が3000円。そして、0歳から就学前までが、1000円。 子ども自身が持つお金としては、それで充分だと、私は思う。んだけどね、お年玉って、子ども自身が貰うお金って意味合いよりも、家同士のお金のやりとり、というか、家単位のお付き合いというか、お持たせとお土産のバランスって感じに捉えているご家庭もあるでしょ。そうすると、我が家のチビにも、5000円~1万円などの結構な金額のお年玉をくださったりすることもあり……。 うちのポチ袋には、先方のご兄弟に「1000円」ずつしか入ってないお年玉を差し上げて、家に帰ってみたら、うちの息子へいただいたポチ袋に「1万円」も入っていたなんてことも何度もあって、それでもいいんだ、うちはこういう方針なんだから…と、自分に言い聞かせて居るんだけどね。正直、何だか、(特に年齢の小さい子の)うちの基準って、ちょっと金額が少ない? と、申し訳ない感じもするんだわ。 みんな、お年玉って、どうしてるのかな……。 でもね、金額変えちゃうと、後々面倒だしね。ほら、子どもって、お年玉をすごく楽しみにしてるでしょ。大人が思っている以上に、凄く楽しみで、あてにもしているよね。で、そんなときに、そりゃ、姪・甥とか、全員に1万円ずつばらまき続けてあげられたら、最高かも知れないけど、そんなことは我が家の経済ではできないし、それに、そんな小さい子どもがぱっと貰う金額としてはおかしいって、健全な感覚だとも思っているんだよね。で、金額に差をつけるとしたら、明確な基準があると、兄弟が居て金額が違っても、自分も学年があがると先には同じようにもらえるから…と思うと、納得もいくと思うの。お姉ちゃんやお兄ちゃんは、就職したらお年玉終わりだけど、そのときに、自分はまだ貰えるから、今は金額差があるようだけど、結局平等だよって。 でも、そうすると、スタート年齢の頃の金額が、家族間のお金の行き来バランス(?)としては、小さい金額になっちゃうんだよね。 ポチ袋買って、一人一人の子どもたちの名前を書き出して、金額を合計してみたら、今年の我が家のお年玉は、合計4万円。世間一般の常識からしたら、少ない? かも知れないけれど、でも、単純に、このご時世、このキビシイ12月、決して、ラクラク出せるわよな金額でもないと思う。(我が家はね)銀行へ行って、お年玉用だからと新札でそれぞれのお札を用意してきて、そんなことを思った次第。 12月5日は、私の父の76歳の誕生日でした。誕生日前に、実家から、「くれぐれも、誕生日プレゼントとかケーキとか、買ってくるな」と私に伝えておけと、父からの伝言。 不景気で、家計の収入もがくんがくんと減っていくし、私が、仕事で、人様のお役に立とうと無給で奉仕し続けてきた後の借金も残っているからね。父は私に、ちょっとでも自分のプレゼントなんかに、お金を使わせたくないって、ありがたい親心、よく分かります。 この先、どのくらいまで、我が家の収入が減収になっていくのか、はっきり見えてきたら、私のお稽古ごとや、子どもの習い事、図書館でも借りるけれど、結構優先順位高くお金を使ってきた子どもの絵本購入(今、多分250冊くらいはあるかも)など、整理してやめていかないといけないだろうと思うし。私の短大の学費も、毎月少しずつ「学費通帳」に貯めていって居るんだけど、これも、このまま卒業までやっていけるかどうかね。まぁ、未来って奴は、訪れてきた問題を、訪れたそのときに対処すればいいだけのことなので、そのときに、その時を生きよう~(^_^)v ってことで、ひとつ、よろしく →私。 で、父には、苺を持っていきました。我が家の台所からのお裾分けって感じなら、父も少しは気持ちの負担にならないかな…と。 近所にお気に入りの苺屋さんがあって、http://skyfarm.jp/はっきり言って、ムッチャ美味しいです。一パック470円。スーパーで買う苺と比べると少し高いけれど、もう、安くてもスーパーやそこそこの果物屋さんとかで買った苺は、食べたくないって感じで、スーパーの苺2パック買うより、ここで1パック買う方がいい。って訳で、休みの日は、よく息子と「苺屋さん、行こう~」とデート。生苺と、苺パフェとか…、ハウスの中にテーブルと椅子を置いてくれているので、育っている苺たちを眺めながら、食べて過ごす休日の一コマ。 その苺2パックと、家にあった柿と蜜柑とバナナを持参して、宝良が、僕が剥いてあげるねと、蜜柑とバナナを剥いて(ちょっと、迷惑? 笑)、私が柿を剥いて、宝良が、「ハッピーバースデー~♪」を何度か歌うってことで、誕生日プレゼントがわりにしました。 まぁ、それはそれで、いい誕生日だったんじゃないでしょうか。 でも、消えた11月の次は、世知辛い12月、ってことに違いはないみたいね。臨機応変、波が来たら波に合わせて、暮らせるといいな。 私の大好きな知人の句に、「布袋草 あすは東の岸にあり」というのがあって、水面を埋め尽くすほどのホテイアオイ、大きな風が吹き荒れても、水をかぶっても、沈むこともなく飄々と水面に浮かんで、風が吹いたら、逆らわず、向こうの岸に流れており、でも、次の風が来たら、またその風に乗り、そうして、気が付けば、あの生命力で、みずみずしく生きている。私もそうありたいなぁ。
2008.12.05
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