全33件 (33件中 1-33件目)
1
(まず参考記事として、svseedsさんのこちらの記事をご覧下さい)(フランスが国民投票で今回憲法の批准にはノンを選んだ訳ですが、ユーロそのものには既に参加しているものの、今回のフランスでのEU憲法否決が即EU(ユーロ)体制崩壊ということは意味しない事を前提に話を進めます。)結局イギリスがEUにまだ参加していない理由と重なるのですが、金融政策という一国の舵取りの致命的な部分を『直接関わりの無さそうな他人の都合との折り合わせ』で決める事に根源的な不安が残されている事が一つ。もう一つ、今回のテーマとして書くのが、通貨統合で各国の金融政策の自由を奪ってしまう事の危険性と非効率性。EUに参加している国の間でも、名目金利を上げたい所とそうでない所が存在しているのに、ECB(EUの中央銀行)は一律の金利しか定める事が出来ない。一律でない金利を定める事はECB(EU)の前提には含まれていない。(すなわちEU内に複数の通貨が存在する事になってしまうから)で、私がつらつらと考え続けている無税金政府について、その使用する通貨の対外的な信用と取引という部分は、やはり避けては通れない事項な訳です。私は無税金政府という仕組みが、おそらく、地域(時限)通貨と、国家通貨と、共同指標通貨の3本立てのお金の仕組みの併用が必要になると感じているのですが、1種類の通貨から他の種類の通貨への為替(交換)の処理をどう仕組み立てるのかを最近考えていたのですが、複数通貨間の指標通貨という意味では、やはりユーロはまさにそのものズバリの存在の一つなのです。ユーロ統合の際には、参加12カ国の為替レートを固定し、1国の通過から他国通貨へ交換する場合は、一度ユーロに交換してから、対象の他国通貨へと戻しました。現在でも各国中央銀行は国債を異なる金利(利回り)で販売できるのですが、各国の成長格差も違うのに、ユーロの価値は単一に保たねばならない、という部分が、実物通貨でもあるユーロの強みを生み出す根でも根拠でもあるのですが、大きな制約でもあり深刻な亀裂をもたらし得る弱みでもあるのです。では、どうすれば良いのか?指標通貨はあくまでも指標通貨であり続ければ良い。つまりEUのユーロの様に、『お金』(マネー=交換の媒体)として発行されたりやり取りされたりするものでは、無くするのです。それでは現在の円=ドル取引などとどういった違いが出るのでしょうか?基本的に通貨間のやり取りは、銀行(金融機関)同士の振り替えで、その時々の為替レートに基づいて通貨(マネー)が移動するのですが、ポイントはその移動を行う銀行(金融機関)同士が、それぞれに外貨を持っているか準備しなければいけない、という点です。(現在)国にしても企業にしても金融機関にしても、この外貨準備というのはものすごい曲者なのです。例えば100億円持っておかなくてはいけなかったとしても、対円レートが1%でも違えば、売り上げや利益なども違ってきてしまうからです。発展途上国が外貨を得る為に商品作物を優先的に作って国民の食べる分は生産できていない話などにも無縁ではありません。私の考える共同指標通貨(p!=ポール)は、基本的に、多国間互助型多国通貨バスケット(決済)システムです。各国通貨はおそらく残りますし、金利政策などの裁量も各国中央銀行に残ります。為替相場すら残ると思われます。(現在とは違う形になるでしょうが)詳細な説明は次回記事に書きますが、大雑把に言うと、国も企業も金融機関もそして個人も、ポールに自国通貨を支払って、受け取る時もポールから自国通貨を受け取る、というだけの仕組みになります。それを可能にする為に、ポールに参加する国同士が、多国間決済用に自国通貨を拠出しプールして(溜めて)おくのです。例えばアメリカの金融機関が金利の低い日本で1000億調達して、アメリカの債券0.1%で運用し、返済も円で行う場合、日本側からは1000億をポールのプールに移動させ、アメリカ側にポールから10億ドル(1ドル=100円として仮定)するのです。返済時は、その金融機関からポールへと10億ドル(と金利分)を移動させ、日本の金融機関はポールから1000億(と利子)を受け取るという流れになります。金利や為替レートが変わったとしても、基本的な動きは変わりません。結局の所、自国通貨で払いだして自国通貨で受け取っているだけになるのですから、感覚的には現在とほとんど変わらないものになるか、少しだけ使い勝手が良くなる感じでしょうか。(ポールの副次的な機能の一つとして、マネーの移動がポールを介す事によって、動く向きと量などの記録が残るという利点があります。この資金移動の量と速度と方向を掴むというのは、致命的に大事な事とだけ捉えておいて下さい。私は個人的に『見えない猫の首に鈴をつけるようなもの』と呼んでますが、要はその資金移動の流れに一国だけでなく多国間(理想的には当事国全員)で対応する事によって、その通貨交換(為替)の影響の波に呑まれないようにする為の観測手段としても機能させる事がおそらく可能です。)(つづく)<参考記事>・EU:経済通貨同盟用語解説 EUの通貨統合プロセスがどのような筋道で行われたのか簡潔に説明 されています。
2005.05.31
コメント(0)
えっと、まぁ言うまでも無いけど、嘘ニュースですので本気になさらないよう・・・。(ちなみに、Tシャツの背中の方には、政党名がLDPとか、議院ならその座右の銘や最も訴えたいポリシーとか大きく書かれてると面白いな、とか思いましたが、今回は時間の関係などで見送りました。『徹底牛歩!』とか『道路建設命!』とか書かれたTシャツを集団で着てるおじさんの群れ見てみたいなぁ・・・。)
2005.05.30
コメント(2)
日曜日(5/29)の夕方に、NHK教育で、こんな番組がやってました。NHKジュニアスペシャル - 出生率 生まれる子どもが少なくなる… - いやもちろん、小学生にだって、自分達がこれから参加しようとしている社会がどんな状態になっているのか知る権利はあります。でも、校庭に何十人かずつ参加させる形で、出生率2.0と1.0で、どう人口が減少していくのか試したりするのを見てて、正直、エグイなぁ・・・、と思いました。だって、小学校中学年くらいの子供達に、『赤ちゃんの数が減っていくとこんなに大変なことになっちゃうんだ!』と実感させた所で、(じゃあ俺(私)はじゃんじゃん稼いでがんがん子作りするぜ!)と内なる闘志を燃えさせる事にはならないかなぁ、とも思うのです。笑(むしろ逆効果にはならないかと心配にすらなりました。つまり競争に勝ち抜いたとしても、その社会はもう減退して消えていく運命にあるんだ、なんて悟ってしまったら、それこそ中学に上がる前に人生に絶望してしまう事に・・・。実際問題、集団自殺に中高生が混じってる事は大して珍しくないのですが、その内、小学生達まで混ざりかねない、のかな。orz)番組中では、韓国の激しい受験戦争(つまり限られた資源の集中合戦)が出生率を押し下げているとか、デンマークの父親の子育てや家事への参加で出生率が上昇したとかも取り上げられていました。そんで、デンマークの少子化対策というか子供を育てる為の社会環境を整える為にどういった事をしたかという資料がこちら。(オランダの方の話も混ざってます)・第82回人口問題審議会総会議事録(98/11/26)いくつか目に付いた事を挙げていくと、(デンマークに関して)・出生の約半数が未婚の女性による出産だが、それは父親のいる家庭に生 まれてきている・第1子出産の平均年齢よりも、初婚の出産年齢のほうが高い・全女性(既婚女性や子持ちの女性含む)の85%が働いている・その状況において国の政策として、両親が2人とも働いている、つまり 2所得(共働き)の家庭であるということを前提として政策を立てている他にもいろいろと興味深い事が書かれてますので、関心のある方はお暇な時にでもどうぞ。そんでこちらは日本の方で実施されたけど利用する人がいなくて廃止になった案。・男性の育休助成、利用ゼロ 2年間、04年度で廃止この下のデンマークに関する記事の一番下のデンマークの高税率がどう社会に還元されているかを見て頂ければ、単純な官側のかけ声だけでは民は踊らないという事がなんとなく伝わるかと思います。・ヨーロッパで一番税率が高い国(リンク先の一番下の部分の記事)デンマークという国が人口が約540万しかいない小国という観点からすれば、国としての政策の効き具合もかなり違うかも知れないというのも確かにあるでしょう。(日本の人口は約1億2700万で、県や地域によって出生率が上がっている所も実際にはある(沖縄県など)。デンマークとは福岡県が人口・経済規模が共に近い)と、まぁ人口が減り続けている現在の状態は基本的な傾向として今後も持続されていくとして、上記資料の中のオランダの方も話されていたのとある意味同じ様に、日本人としては人口減を受け入れているのです。それが1億や7500万程度で止まるのか、それとも0にまで減少を続けていくかは、その速度を含めて誰にも分かりません。ただし、子供の人口が急激に減っている現実からしても、あまり日本という国が現在の状態を無為に続けている余裕は無さそうです。最近書いてた若年齢層の収入低下傾向は、人口縮小の傾向に一層の拍車をかける要因として働くでしょう。ある程度景気が上向いたとしても、急に賃金は上がらないし、雇用も増えません。一度将来に対する不安を覚えてしまった身なら、まず将来世代の事よりも自分自身の将来に対して備えようとするでしょうから、その意味で僅かに所得が増えても消費よりは自分の将来の為の貯蓄に回す傾向の方がおそらく強く働くでしょう。そんな将来に関する私の基本的な答え(の一つ)は、無税金政府です。お金の価値の維持と財政(支出)規律さえ取れれば、不可能な存在ではありません。(シリーズ『お金』のバーナンキの背理法を遊ぶ:前編、後編辺りを参照)現在の政府債務を相殺するような名目で、一定期間まず(ほぼ)全ての税金を廃止して、高齢化/少子化社会に必要な社会的支出も政府と日銀の間のやり取りだけで(基本的に)賄います。(詳細は『無税金政府のラフスケッチ』等の項目を参照)逆説的になり、まだ私の中での考えも完全にはまとまってませんが、中央(国家)政府の規模を最小限にして、無税金にしていくのと、高税率にして、公共サービスを無料にしていく考えの根っこは、同じ所に落ち着いていると私は思います。それは『お金』というものを社会の中でどう捉えて扱っていくか、という問題に過ぎないからです。無税金政府の財政規律のかけ方の一つとしては、人口縮小社会においては基本的に人口が減っていく=公共サービスを提供する規模も内容も減少していく事にもなるので、予算枠は常に前年度以下になる、と考える事が可能なのです。重要なのは、いかに人口を減らさないか、では無く、人口が減っていく社会の中でもいかに豊かな生活を維持していくか、という事になるかと思います。(その意味で金融政策という『お金』に関する社会の判断は非常な重みを持ちますが、それだけで全てが解決されるという単純な問題ではありません。)(社会全体の仕組みをどう変える事が一番望ましく、その中で使われる『お金』とその流通システムはどのようなものが一番適切で有り得るのか。その意味で地域通貨と時限通貨をミックスしたものとか共同通貨なども考えてみてますが、まだまとまってはいません。笑)そんな訳で、うだうだとした妄言はまだまだ続きそうです。<参考記事>・子育て支援官民懇が初会合 少子化対策、効果は?
2005.05.29
コメント(0)
「ニート」は経済不況からもたらされるだけの存在ではない。例えば、バイトにしろパートにしろ、単に働くだけならば、無料就職情報誌はコンビニにも駅にもばらまかれてるし、インターネットでも相当量の情報が入手できる。就職機会が全く無いからニートになる(=働かない)という指摘はだから、外れている。問題はそこには無い。むしろ、そこで働いても、「タカが知れている」という、経済的な自立の見通しが立たず、将来設計への不安も払拭できないという諦めの計算の方が、より大きな要因かと私は思う。(その計算の詳細については、バイト(パート)による『年収200万円以下の生活がもたらすもの』の項を参照。)(働くという事に興味が持てない、続かないというのも、だからこの一部)生きることそのものに意味を見出せなくなって、でも1人で死ぬのが怖くとも、今では集団自殺という"お手軽"な手段が提供されている。インフレにして景気を良くしたとしても、やる気も素養も経験も無い人間でもどんどん職に就けてしまえば問題は解決する、というのも有り得ない方策だ。企業はバブル期の無計画に雇った人材の処理をようやっと進めたり処理し終えたりしている所なのだから、少子化で競争が減っていくにしても、無駄な人材を再度雇う程に企業は寛容にはなれないだろう。(現代の競争社会の原理がその余裕を企業に与えないだろうし、官費(税金)でその手当てをするというならそもそものニート生活保護費(兼自殺対策費?笑)を直接本人の口座に振り込んだ方が効率的だろうが、当然ながら生活費が保護されればされる程、ニート=非労働という生き方を助長するだけに終わる。)つまり長引く経済の構造転換(単なるデフレや不況ではない)で収入格差が拡大し、4年制大学を出てもその出口で正社員になる事に失敗してしまえば意欲があったとしても実際にアルバイト/パートの身分から浮上する事は難しい。今日(5月30日)見たニュースで引用されていた資料には、最近書いてきた記事の裏づけとなるような情報がいくつか載っていたので、一部抜粋して掲載してみます。1997-2002年の統計局の「就業構造基本調査」によると、「二十-二十四歳」の男性従業員のフリーターの割合は7.6に1人が、3.8人に1人という倍増という結果が出ている。つまり4人に1人以上がフリーターという状態が既に現実のものとなっている。一度フリーターになると、年齢を重ねる程にフリーターから抜け出しにくいという状態にも触れられている。『丸山(2005)は後述の酒井・樋口(2005)と同じアンケート調査から、男性25-29 歳のフリーター(非正規雇用者)が5年後もフリーターである確率は55%であるとしている。30-34 歳では75%、35-39 歳では80%であるとしている。』その内閣府の資料はこちら。(目次、本文)図5-3(p.36)を見て頂くと、20-24歳の所得分布(1997年と2002年)で目につく違いが、・正規雇用が減っていて、加えて正規雇用者の間でも平均年収が落ちている。・その分非正規雇用に吸収されているが、その年収は100万円前後の割合が一番多い。で、こういう統計て文章よりも生の数字の方が怖かったりするのですが、それらはp.42~44に掲載されています。端的な数字だけ抜き出してみましょう。正規雇用者(正社員)と非正規社員(派遣やフリーターなど)の違いはあるにしろ、どっちにしても社会構造の変化が著しく見て取れるからです。まず24歳だと現在進学率が上がって労働人口そのものはあまり増えていないのと、新卒程度の給与はあまり参考にならないというのを含めて、34歳までのを含めた数字を。これらの数字は雇用者、つまり働いている人達の間での所得水準とその累積シェア(労働人口に占める割合)です。20-24歳正規雇用/非正規雇用対比表(数字は上記資料から抜粋) 2002年 1997年年収100万以下 1.2%/23.7% 1.1%/22.2%年収200万以下 17.9%/69.7% 14.0%/64.9%年収300万以下 70.2%/94.3% 62.9%/92.1%年収400万以下 94.5%/98.5% 92.7%/98.4%年収500万以下 99.2%/99.4% 98.9%/99.5%・・・なんかもー、200万円以下の割合を見るだけで、愕然としてしまいました。2002年で約7割ですよ・・・?(そりゃー、自立も結婚も子供を持つ事も、自分自身で考えて『無理だ』という結論に辿り付くでしょうね・・・。)で、24歳といえば、就学率が上がっている新卒の分の数字が含まれていないじゃないかと言われるでしょうので、続いて、25-29歳と30-34歳の分の数字も載せてみます。(ちなみに20-24歳の労働人口が減っているのは主に就学率の向上と見られているのですが、実際の就学人口数を見ると横ばいか微減しているのです。これに関しては話がまた少しずれるので後日また別項で書きますが、いわゆる就職浪人で就職を先延ばしする人達はこの類に含まれていると考えてよろしいかと思います。)25-29歳正規雇用/非正規雇用対比表(数字は上記資料から抜粋) 2002年 1997年年収100万以下 1.6%/13.3% 0.3%/13.2%年収200万以下 5.8%/49.8% 3.9%/41.2%年収300万以下 35.3%/80.3% 27.1%/68.3%年収400万以下 71.1%/91.7% 65.5%/84.3%年収500万以下 91.4%/96.2% 89.9%/91.7%年収700万以下 99.0%/98.8% 98.7%/95.7%正規雇用でも年収400万以下に約7割弱が収まってしまうというのは正直驚きましたが、非正規雇用の場合、年収200万以下が約5割程度いて、300万以下で8割、400万以下で9割にも達するというのには、もっと驚きました・・・。(非就業者人口の分を加味すれば、だからこの累積シェアの平均値はもっと下がるでしょう。)30-34歳正規雇用/非正規雇用対比表(数字は上記資料から抜粋) 2002年 1997年年収100万以下 0.4%/7.8% 0.2%/5.8%年収200万以下 3.0%/31.1% 1.9%/21.0%年収300万以下 17.3%/56.1% 11.4%/41.3%年収400万以下 42.6%/70.3% 33.6%/57.2%年収500万以下 69.9%/82.6% 63.2%/71.4%年収700万以下 94.6%/93.0% 93.6%/86.6%年収1000万以下 99.2%/97.4% 99.0%/95.7%転職の実質的な限界がこれくらいの年代までの人が多い事から考えると、基本的にこの年代を過ぎても収入が上がっていくのは正社員達の間の何割かだけでしょう。(年功序列の昇給制度も既に一般的なものでは無くなってきてますしね。終身雇用も)全体の年齢層を見て分かる事は、1997-2002の間で、正規雇用を含めて全体の収入(レベル)が低下している事が明らかに見えます。非正規雇用で言えば、一般的なフリーターや派遣などで言えば、その収入の上限に達する頃ですが、200万以下で3割、400万以下で7割がそこに含まれるようになっているわけです。300-400万の年収の実感というと、1人暮らしであまり贅沢しなければ、そこそこ好きな様に生きていけるという程度です。(良くある月給手取り25万程度を12ヶ月というレベルがこのクラスに相当します。(25万×12ヶ月でちょうど300万。正社員でボーナスがある程度入ったとして400万になるくらい)ただしこの400万程度で二人の生活を支えようとするなら、基本的には無理が生じます。(一人頭200万の生活費になってしまうから。つまりフリーターの生活レベルに落ちてしまう事になる)例えば、夫が400万の正社員、妻200万のパートで収入を得たとしても、それでやっと子供1人を養えるという程度でしょう。正規雇用の600万以下の収入の累積シェアは87.3%に達してます(2002年)ので、大半の家庭は、ほぼその程度以下の夫の収入に妻の収入を足して、何とか住宅のローンを組んだり、子供を大学にまで通わせたり、老後の生活費を貯めたり(年金を払ったり)というやりくりに追われるわけでしょう。つまりどこをどう引っくり返しても、親の経済援助無しに、年収200万以下のフリーターの男女がくっついて(結婚して)子供を持つというのは厳しすぎる要求になります。(実際やってる方もいらっしゃるでしょうが)えっと・・・、うん。なんかニートについて書く筈が、だいぶ話がずれたような・・・。笑ただまぁ、ここまでご紹介した資料などの数字で、ニートが発生し易くなってる理由(物価が落ち、平均賃金=年収も低下している)も、ある程度裏付け出来たかな、とは思います。だけど繰り返しになりますが、単純な社会状況の変化だけでもなく、本人に就業意志そのものが無いのでもなく、就職機会が全く無いわけでも無いのですが、『要は働いても自分の望む生活レベルにまで到達できない』という悲観的な諦めが主な要因の一つかと、私は思います。ここまでまた長々と書いてきてなんですが、また引っくり返すような事を言います。結局のところ、お金の性質(実質金利等)とか、経済や財政、つまり社会やお金が運用されていく仕組みそのものから解決できる事は多いかと思います。意図的に数年バブル起こしてその後人為的に1-3%程度の経済成長を達成する事では、根本的な問題は解決されません。そこら辺を次回以降書いていこうと思います。<参考資料>・大学・短期大学等の入学者数及び進学率の推移・労働力状態,男女別15歳以上人口 - 全国・所得格差 若年ほど拡大傾向 フリーター増加が要因・フリーター数・ニート数の推移・それでも「ニート」っていうのやめませんか。しつこいですかそうですか。(svnseedさん)・「ニート」を騒ぐ連中は隗より初めよ(bewaadさん)・「若者自立塾創出推進事業」の実施について・フリーター年間20万人削減へ…国民会議設置の方針<追記>・これは派遣や契約として働いてきた身だからこそ思う事でもあるのですが、フリーターと派遣/契約を同じ分類として扱う事は、統計上かなりの誤差をもたらし得ます。正規雇用/中間雇用/非正規雇用というような形で分類し、派遣/契約は、その中間雇用という分類にでも落として、一般のフリーターとは区別すべきです。派遣の一般的な時給は平均的なバイトの時給と比べてもその給与分布がおそらくかなり高めになるからで、正確な統計、すなわち社会的な観測が誤ったものになる恐れがあります。特に危険なのが、下級/最下級層の生活レベルが現実と合わないレベルで社会的に認知されてしまう可能性があるということかと。)
2005.05.28
コメント(0)
(以前『先進国で人口が減る理由に関する考察』で書いた内容と重複する部分有りますので、よろしければまずそちらをご覧下さい。)で、その内容から、なぜ収入が増えて子供を複数持つ事に不安が無い社会階級の人達の間でもそうしないのか、考えてみましょう。(そもそも社会の上に行けば行くほどに人口の比率として少なくなるという前提を念頭に置いておいて下さい。最も富裕な層を含む全体の2~3割程度の人達を対象に考えてみます。)人口を減らす大きな要因:競争に勝ち抜く為の資源の集中社会が豊かになる為には中産階級の誕生と社会の底辺でも一定程度の収入が確保される必要がありますが、中程度から上に行く為には、現代社会では高度の教育を受けている事が(スポーツ選手などの一部例外を除けば)一般的な前提条件となります。限られた資源を限られた対象に集中する事によって、より高度な教育を受けさせ、より安定した収入を得る機会を増やす。しかし収入や資産的に不安の無い筈の(上流)家庭でも、なぜ出生率が増えないのでしょうか?例えば年収が700~1000万円程度ある方でも、その程度を3人以上の子供に対しても提供するには、一人頭2000~3000万とも言われる子供の教育戦争費用を捻出し続けるのはおそらく楽な作業では無い。なぜなら、子供が生まれてから約20年以上大幅な出費増が重なり続けるからで、そこに家のローンその他が重なると、例えば1000万x30年から税金その他生活費や老後の貯蓄を大雑把に6割引いてみると、3億-1億8千万=1億2000万。一年150万×20年とざっくり計算して子供一人に3000万として試算してみると、2人分引くと残6000万、3人分引くと残3000万にまで減ってしまう。生活レベルを維持したまま老後の生活費を考えるなら、かつかつといった程度にまで減ってしまう。(ちなみにアメリカでは受験戦争は基本的に存在しないが、高校での成績などから絞り込まれ、大学の年間授業料が有名私立だと半期200万、年400万くらいとバカ高い値段で、入れる人や卒業できる人が相当程度に絞り込まれる仕組みになっている。全額無料にできる程奨学金をもらえる人の割合はもちろんその全体の極一部。年400万に生活費150万としても、4年で2200万円もかかる計算になる。普通の中流家庭で払いきれる額では全く無い。アメリカの場合は住んでいる州の州立大学なら学費が定額の1/2程度に抑えられるという側面もある)遺産を残すという側面に於いても、子供の子供の養育費まで意識下で考えるなら子供の数は二人以下までが有利となる。子供が多ければ多い程に、一人頭で遺せる金額は減るからだ。例えば遺産が一億あったとしても、2人なら5千万ずつの物が、3人では約3300万、4人なら2500万という風に減じていき、相対的に彼らの子供の子供達が有利な状態で社会的な競争に参加する為のアドバンテージ幅が縮小されていく事になる。貯蓄額から見た社会人口構造からすると、貯蓄が3000万以下に5~6割以上がいるのだが、子供(の競争)にかけられるお金は当然その貯蓄額以下となる。例えば3000万しか無いのに半分を割いたとしても1500万。ぎりぎり頑張っても2000万とするなら、当然一人分の競争費用しか出せない事になり、二人目を産んでいたとしても公立に通わせるなどして最低限の費用しかかけられない事になる。(つまりここら辺が低~中所得層で少子化の現象が進んだ理由と、所得格差が開いてきた理由でもあると思われる)残る3割程度の富裕な人達の間でも、1億円の余裕から子供二人に2500万ずつかけたとして、残5000万。彼らの子供の子供に対して同程度ずつかけるとしたら、自分達の老後の生活費が無くなってしまうので、当然同程度にはかけられない事になる。これが、上流の方でも子供が二人以下になる理由かと思う。つまり残5000万の中から家のローンなどを引き、子供の子供の一人に1500万くらいの教育・養育援助するするのがぎりぎり一杯だろう。という事で、彼らの間でも、4人が2人、2人が1人という図式で人数が(徐々にしろ)減っていくことになる。社会の富の大半を独占すると言われる残り1割未満の人口にしろ、経済的な細かい支障はほぼ無いにしろ、生活水準を子供以降の世代にも持続させるにはやはり二人以下の方が望ましい。遺産の半々ゲームが続いていけば、遺産は磨耗して消滅していく事になるからだ。(それでも通常数世代はその富が持続されるものの社会構造の大きな変化と伴に上流階級も入れ替わってきた。江戸時期の富裕層と明治期の富裕層、昭和期の富裕層など、ずっとその富の規模を維持するか拡大してこれたのは限られた人達の中でもさらに限られてきた筈)それと超富裕層で子供が沢山作られたとしても、歴史上でも一般的に行われてきたのが、長子のみに遺産の大半を相続するというやり方。これが最も資産の磨耗を少なく出来るからでしょう。つまり遺産を相続される者以外は、段々とその社会層から外れていき、その子供の子供や、又その次の世代くらいまでには完全に中流層程度にまで落ちていく事になるでしょう。(スタート地点での遺産によるアドバンテージが喪失される為)だから、元々の人口の全体に占める割合が極度に少ない超富裕層が子宝に恵まれたかもしくは頑張って子作りしたとしても、半々ゲームにしろ長子遺産相続にしろ結果として子供の大半は中流程度以下に落ちてきますので、全体としての人口の増加にまでは寄与出来ない事になります。日本などでも貧しくても7~10人程度という子供も直接の働き手だったという社会で、しかし平均寿命も短い時は、人口は増加していきます。工業化などに伴い教育による所得分配の競争が起きてくると子供の数が4人程度にまで減り、さらに第3次産業の就労人口が第2次産業まで多くなるような社会に変化し競争も激化してくると2人程度。社会に経済的成長の余地がほとんど無くなって価格(労働賃金)の切り下げ競争が一般化するようになると1人程度かそれ以下になってくるという感じでしょうか。今回は社会の上流層という雲を掴むような話だったのでほとんど推測で書きましたが、次回はいくつか見つけた危ないデータを基に、人口の減少と所得格差のもたらすものの相関関係について書いてみようと思います。たぶん。(2005/5/30)
2005.05.27
コメント(4)
中国の副首相がドタキャンで帰国した件などに関して少し。礼がどうこうというのは脇に置き、靖国参拝の云々の詳細に立ち入る前に、私の考えの前提を箇条書きでまとめておきます。問:首相や閣僚は靖国参拝を止めるべき?答:個人の信念に従って参拝するなり、しないなりすれば良し。問:A級戦犯とされている人達を分祀すべき?答:No。B/C、更には一般の兵士達にまで言及されてくる可能性は 消えないので、根本的な解決にならないから。日本人は、靖国 に祀られている対象が、被侵略国からすれば直接の加害者達だっ たという事を忘れてはいけない。彼らは戦争の犠牲者というだ けの存在ではない。問:靖国参拝を首相や閣僚が止めれば日中/日韓関係は改善されるか?答:多少はするかも知れない。ただし中国・韓国政府が用意した歴 史教科書を採用する事も将来要求されてもおかしくない。(受け 入れるべきかどうかは全く別の問題) 究極的には、日本の国力が中国や韓国より遥か下に落ちぶれない 限り彼らは満足しないと思われる。なぜ今回のエントリを書こうかと思ったのかというと、中国や韓国(最近ではシンガポールからもあったけど)からの靖国参拝反対!の声が、いーかげん聞くのうざったい、と思ったからです。つまるところ、靖国が騒がれるのは、参拝=戦争(犯罪人)崇拝という図式が中国や韓国では成立しているという事実。(それが参拝する当人の意図では無いとしても)以前朝ナマを見ていた時、中国政府が日本と国交を回復する際に、日中戦争などで被害を中国に与えたのは日本の指導者や軍部であって、日本人全体ではないと国民に説明して納得させたと発言している人がいた。極東軍事裁判やA級戦犯の定義などがここで登場するわけだが、端的に彼ら中国や韓国の感覚から言うと、靖国参拝を『ヒトラーの墓参り』になぞらえた公明党議員がいて国内では総スカンを食らったが、中韓からすれば「まぁそんな所」であってもおかしくはない。(尚、極東軍事裁判で戦犯にされた人達の名誉は国会で回復されているという人がいるかも知れないが、それは日本の国会であって、中韓の国会では無い点に注意。)そう考えてやっと、彼らがなぜ反発するのかという心理に近づけるのかも知れない。秀吉や西郷が日本人にとって英雄かも知れなくても、韓国にとっては大悪人なのだから。(西郷は靖国に祀られていませんが。為念)日中戦争や太平洋戦争は、日本の国益を守る為の侵略行為を含んでいたのだから、それを今から正当化する必要はさらさら無い。あの当時の日本にとってはその国益を守る為に戦ったのであって、アジアの解放なんていうのは後付のおためごかしに過ぎない。日中戦争の履歴を追うだけでも『アジアの解放の為』なんていう言葉が嘘八百に過ぎないのは明らかだし、その意味で、靖国神社自身が先の戦争を侵略戦争と認めていないのは誤りだと思う。(戦争を侵略かそうでないかを分ける意味は大して無いし、善悪を語るのはもっと無意味だが、侵略された側からすれば、それは決して無意味では無いという事に、侵略した側の国民は配慮すべきだと思う)韓国併合にしろ、満州国設立にしろ、日中戦争(侵略)にしろ、太平洋戦争にしろ、当時の日本が国益の拡大や維持の為に行ったのであって、それ自体は極めて善悪の問題では無いのだ。(参考:マッカーサーの意見:"Their purpose, therefore, in going to war was largely dictated by security.")ただし併合された側(韓国)や侵略された側(中国)からすれば、そんな日本の都合など関係無い。相手が自分を殴った理由や刺した理由にどんな都合があったにしろ、それは日本の都合であって、韓国や中国自身の都合では無かったのだから。(中国で日本と戦ってたのは国民党であって共産党では無かったけどね、主に)靖国が戦争実行者(兵士や戦争指揮者達)を英霊として祀るのは勝手(自由)だが、その戦争実行者の被害者達にも祀られた対象を敬えというのは無理だ。ましてやそこに現役の国家指導者達が参拝に行く感覚は理解し難いだろう。理解し難いという感覚が理解し難い?ちょっと強引な例え話をしてみよう。将来アフガンやイラクに米国の影響を受けない反米政権がもしも発足したとして、9/11同時多発テロの実行者達をアフガンやイラク国内で米や親米勢力と戦って死んだ戦士達と合祀した墓地が設立されたとしよう。そこにアフガンやイラクの現役国家指導者が参拝したらアメリカ及び世界中の非難を浴びるかも知れないが、米にさんざんな目に合わされてきた国々の人々からすれば、当然の褒め称えられるべき行為になる。テロと戦争は一緒には出来ないが、立つ側によって見方が極端に異なり得るという例にはなると思う。A級戦犯は罪人ではないとした森岡厚労政務官の発言の内容は、全部が間違いでは無いにしても、いくつも重要な点で間違っている。A級戦犯とされた罪人が悪い存在でないと日本側が判断するのは自由だが、その考えを相手に押し付ける事は出来ない。理由は上で述べてきた通りだ。(根本的な戦争指導者としての最大の罪は、戦争に負けたという自国民に対する罪である事は言うまでも無い)極東軍事裁判を国際法に準拠していないかったら無効だ(従って戦犯とされた人達は罪人ではない)と考えるのも自由だが、無条件降伏を受け入れたという事実とその影響を無視していませんか?敗戦国から勝戦国に条件を付けられるのは有条件降伏の場合ですよ?ポツダム宣言の第十条や降伏文書、(極東軍事裁判後の)サンフランシスコ講和条約の第十一条などを読めば、『やっぱあれは無しね』と言える立場に日本はいないのです。(少なくとも単独では不可能)(極東軍事裁判というとインドのパール判事を持ち出す人も多いのだが、彼にしても日本が裁かれるというなら戦勝国の犯罪も同時に裁かれるべしという意見だし、その事自体で日本の一連の行動が正当化されるものでも無い、としている。)長々と書いてきましたが、基本的な結論は冒頭に書いた通り。ただ一つ書かなかったのが、中韓の『靖国参拝を止めよ!』の声を止めるにはどうしたら良いか、の答えだ。答え自体は単純極まりない。首相や閣僚だけではなく、日本国民全てが靖国参拝をしなければ、当然『参拝を止めよ!』の声は二度とあがらない。(まぁ次の段階として靖国神社を潰せ!という声が上がってきたとしてもあまり驚かないけどね)ただ、首相や閣僚や政治家だけに限ったとしても、中韓に要求されたから靖国参拝を止めました、では格好がつかない。(右翼どうこうという戯言はおいといて)じゃあどうするのか?まず8月22日を韓国併合記念日、7月7日を日中戦争開始記念日として国民休日に指定し、日本の侵略とそれぞれに伴った全ての犠牲者を祀る慰霊碑を、韓国の方は竹島に、中国の方は尖閣諸島(魚釣島)にでも作り、それぞれの記念日に首相と閣僚が対象国の大使(か国家首脳)と参拝。12月8日(アメリカ時間12月7日)を太平洋戦争開始記念日、8月15日を終戦記念日として、やはり国民休日に指定もよろしいかと。(日本は第二次世界大戦というと、真っ先にヒロシマ・ナガサキがきて次に東京空襲という被害者としての側面しか思い出さないか侵略した側としての意識が弱すぎる)そして靖国へは8月15日の終戦記念日に、首相と閣僚、それから中韓米及び第二次世界大戦中に日本と戦った国々の大使達と参拝。彼らが一緒に行く訳が無い?今のままならごもっとも。その公式参拝の前置きとして、日中韓米(及びASEAN諸国や印、オーストラリア、ニュージーランド、カナダ、EU諸国等)と恒久平和条約と相互安全保障条約を締結し、その調印場所か成立記念式典の場所として靖国神社を選ぶ。こうすれば、名実共に、靖国に参ることが不戦の誓いを報告しに、という名分が成り立ち、最初に他の戦勝国が同伴する事によって(&初回以降も米大使級が参拝に同行する事によって)、中韓の公使も参拝に同行する事への抵抗感を可能な限り無くす。また当然なのですが、口先の約束だけで信頼が得られる訳も無いので、基本的に日本の軍隊(自衛隊)の指揮権を国連に預けるという大胆な提案も有りだと思う。その際には自衛隊の持つ災害救助や国内テロ対策部隊といった機能だけは分離して国内活動を最優先にしておかなくてはいけないだろうけど、それ以外の軍事力を有する部隊としての自衛隊は、これを国連に預けてしまい、国連軍の中核としてしまい、自衛隊分の費用は日本が拠出する。拒否権無しの安保理常任理事国に名乗りを上げるのとは比べ物にならないくらいのインパクトを与える事は出来ます。日本の防衛という面では確かに現状とは比べ物にならないリスクを抱える事になりますが、海外派遣については日本国会の同意を得るという但し書きさえつければ無制限にイラク戦争のような戦闘に最初から巻き込まれる危険性も多少は減らせるかと思います。まず国民単位で自分達が侵略する側の国だったという認識を深め、形にも現し、制度的にも軍事力的にも他のどの国よりもリスクを背負う事によって初めて、中韓の雑音を(ほぼ)永遠に封じ込める事が可能になるかと思います。絶対に不可能な施策ばかり?ええ。つまりそのくらい踏み込まないと、どの道無理な話だと思います。そこまでする価値があるかどうかは、政治家や官僚だけではなく、国民一人一人が自分自身にも関わりの有る問題として捉え、判断していくべきでしょう。<参考リンク>・靖国神社・靖国神社とは・東條英機
2005.05.26
コメント(11)
前回分の日記で、時給1000円で、月22日勤務を12ヶ月と計算して、年収が200万円ちょっとという計算してたんですが、実際のデータはもっと厳しかったようです。『1993年~2003年までの10年間で、15~34歳の正社員(男性)の平均年収は409万7000円から394万7000円へ3.7%減少した。これに対して、フリーターの一部である、15~34歳のパート・アルバイト(男性)の平均年収は、122万1000円から102万7000円へと実に15.9%も減少している(厚生労働省「資金構造基本統計調査」から試算)。』(週間エコノミスト2005/5/31号、p.19)仮に年の手取りが100万円の1人暮らしの若者がいたとして、家賃6万、食費・交際費(携帯代1万含む)で4万としたら、あらもう足が出ますね・・・。とてもじゃないけど都市部で月10万円以下の収入での1人暮らしは無理でしょう。そうなった場合、合理的な結論として、だから親と同居ということになります。足りない部分は実質的に親負担です。この点に留意しておいて下さい。さて、時給1000円程度で、年200万円くらい稼いだとしても、100万円の2倍ですが、一応の自立は出来るものの、ほとんど貯蓄を残す事は不可能か、出来ても微々たる積み重ねという事になります。家賃7万、食費3万と大雑把な経費を積み重ねるだけで、12×10で120万ですから、200-120=80万円からさらに水道電気代や税金、医療費、交遊費その他をざくざく引いていって、例えば年に50万貯められたとしても、10年間で500万円にしかならないのです。20年間で1000万円です。30歳で500万、40歳で1000万が何を意味するのか?(上記の算出方法からすると、かなり生活切り詰めていってようやっと貯まる感じだろうから、実際にこの程度の年収でこのペースで貯蓄できる人はほとんどいない可能性の方が高いかも知れません)30歳で500万(以下)の貯蓄で、結婚や出産(子供を持つ)事やその後の生活費にまで不安を抱かない人はいないでしょう。と、言うよりは、実質親からの援助が無い場合には、大半が諦めていてもおかしくありません。40歳で1000万(以下)の貯蓄で、家を買うという冒険に出られるでしょうか?(時給が1000円のままと仮定し、今後も昇給が望めない展望の中で。)しかも、結婚したり子供を持ったりしていれば、当然ながら貯蓄出来る額は減ります。それも大幅に。そんな状況にある人達が、老後の蓄えを考える余地が有るでしょうか?結婚や子供を持つ事を優先するなら、反比例して老後の不安を抱える事になります。もし老後の不安の方が優先されるなら、それだけ結婚も子供を持つ事も(家を買う事も)、当然優先順位が落ちていきます。そして、年齢を経るごとに、結婚も子供を持つ事も転職(再就職)も難しくなっていくと一般的に考えて良いでしょう。(同時に、一定年齢を超えると長期ローンを断られるようになってきます。ローンを組んだ時点から稼げるお金を逆算されてしまうからです。) 200万の年収を持つ男女が結婚して、子供を持った後母親がパートに出て稼ぐとしても、ぎりぎり1人程度を養える程度で、教育にかけるお金も当然ながら限定されていくことになります。老後の蓄えにしても、自分達の分だけでも切り詰めて20-30年持つかどうかという程度でしょう。若い時と同じバイト(と時給)で働き続けられると考えるのも楽観的過ぎます。もう一つ重大な点があります。現在、年収100~200万の若者達の生活を補填している両親達は、当然ながら今後死にます。そして年収が100~200万円同士でくっついて何とか子供を持った若者達の子供が適齢期になった時、彼らの労働・賃金環境が大幅に改善されていない限り、子供を持ったり養う事は、彼らの両親が若かった時の2倍以上厳しくなっているでしょう。何故なら、彼らの(正社員だった)両親と違って、年収100~200万円の両親には、子供の子供を養う為の余力など無いからです。端的に言うと、階級社会の復活というか、明確化でしょうかね。それに伴って、当然ながら人口減少が加速されていきます。(これはだからデフレが解消されたら全て良くなるという単純な問題でも有りません。景気が回復して賃金水準が相当程度上がるのが相当長期間続かないと無理でしょう。ちなみにバブル期でさえ、出生率は低下し続けていました。)最近見たあるデータ(ソース紛失して探し中です。><)では、貯蓄が1000万以下、3000万以下、5000万以下、5000万以上という社会構造に分けると見事に3000万以下くらいに大衆が納まります。(うろ覚えで6割程度だったかな。5000万以下で2-3割程度、5000万以上は人口の1~10%以下だったか様な・・・。ソース掘り起こしたら追記します)年収でいうと、100万以下、200万以下で、ほぼフリーターやパートがカバーされて人口の2-3割がこの中に入り、350万以下が上級アルバイトや派遣・契約社員の大半。500万以下で、今後の正社員の5割以上が収まる可能性も今後有りますね。こういった階級社会の底辺ほど今までは出生率が高かったのですが、逆です。世の中の底辺ほど収入も貯蓄も低いレベルなのですが、出生率も大幅に低下し続けています。世の中の半分以上を構成する底辺の出生率が落ちているのだから、当然ながら全体としての人口は増えていかない事になります。社会構造の上の方が、じゃあ頑張って(笑)子供をばんばんと作ればいいじゃないか?、と言う方もいるでしょうし、実践する(してる)方々もいらっしゃるでしょうが、実際には彼らの間の方が底辺の方よりも出生率はおそらく低くなっていると私は思います。(この部分に関してはデータが無いし見た事も無いので推測です)その理由は、中国や韓国などの例を引きながら次回書いてみます。(2005/5/30朝方著)
2005.05.25
コメント(0)
普通、スキルアップをすればお給料上がると思いますよね?特定の技術検定が必要で無いような職場でも、今までよりも効率良く仕事をこなせるようになれば、常駐先(契約先)からの評価も上がって給料が上がると思いますよね?残念。今までより効率良く仕事がこなせるようになるという事は、すなわち、今までより短い時間で仕事を終わる事を『要求される』事なのです。端的な例を挙げましょう。コール(サポート)センターのように、ユーザー(お客)からの電話を取って相手の質問に答えるような職種の場合、コール数や一本当たりの解決までにかかった時間などで効率を測られます。大雑把な契約の仕方としては、月に全体で何本までのコールという形で雇う人数を決めたり、そのコールセンターの運営にかかる人件費枠などを決めるのです。すなわち、コール数が減り、一本の電話にかかる時間も減っていけば、当然仕事をもらってる方としては相手の要求を満たしている事になるのですが、結果として、雇う人数を減らされるか時給を減らされるという現象が起き始めます。何故でしょうか?例えば良くある質問をまとめたWEBサイトをコールセンターの人達が工夫して作ったとして、それで何割かのコールが減り、一本当たりの時間も減っていくと、『これまでより少ない人数で、短い時間でも出来るよね?』となってしまうのです。確かに人数を減らした場合は、残った人の時給が微増する場合は有りますが、全体としての会社対会社の契約額としては人が減った分減らされています。根本の原因としては、ヘルプデスクなどの機能は、一般的に利益を生まない部門として見られているので、可能な限りのコスト圧縮を常に要求されている場合が少なくないのです。従って、ある企業(もしくは人)が全く問題無く業務をこなしていたのに、このコスト圧縮要求からどうしても赤字が出るという事で、止む無く契約を維持出来なくなり仕事を奪われ、従ってその企業に張り付いていた従業員達を上手く他の職場に移したり社内教育したりできれば良いものの、そうはいかないケースの方が多数で、そのまま解雇という場合が多いのです。(最悪のケースで言うと、何の素養も持たないバイト君か、ほんの少しだけパソコンの知識を持ってる人達が集められて、その圧縮された人件費で仕事を奪っていく会社がいるものの、上のサポート経費を切り詰めるという目標の為に多少の客からのクレームは我慢となってる場合も少なくないようです)まぁ、私もこの業界の裏表を知り尽くしている訳ではないし、上記に書いた事と逆にスキルアップして時給もUpして正社員にまで登用された人達ももちろん数多くいるでしょう。ただし、ざっくりした世相から言うと、バイトとか派遣(契約)レベルでの時給は、20%~40%以上落ちてます。(求職雑誌とか見てても)私が25歳くらいの時、派遣でいくつか入った場所で時給が2000円を切る事は無かったのですが、SEさんとかになると3500円くらいで募集されてました。んで、現在約8年後の今、経験もあってサイドスキル(英語)などの有るヘルプ(サポート)デスク要員で、時給1500円くらい、SEさんでも2000円程度くらいにまで落ちてきたそうです。(本当にスキルが無くパソコンやエクセル触った事有ります程度だと1000円以下くらいから、かな。マックやコンビニのバイトより少し上という程度)さて、ここで問題。時給1000円で8時間勤務のバイト、月22日働いたとして、176,000円。12ヶ月で、2,112,000。そこから生活費やアパート代や通勤費用(バイトだと出ない場合が多い)や税金その他を引いていったとすると、ほんとに生活ぎりぎりというレベルになる。税金を全く引かれなくても、一年の総収入が二百万円という水準が既に危ないのです。しかもコンビニやファーストフードなどの後にスキルが蓄積されないタイプのバイトから社会に出てしまった人達は、その後収入水準が大幅に上昇する見込みは、ほぼ全く無いと言って良い程厳しい。先程計算した通り、多少パソコンが使えてインターネットの知識がついた所で、時給は1000円程度までしか現在上がらない。この年収200万円以下の社会で何が起こるのか、次回書いてみます。(2005/5/29著)
2005.05.24
コメント(0)
なぜ談合が無くならないのか?根本的な所を考えてみないといけません。最近の経済で見落とされがちなのが、生産能力や価格競争力を高めるというコトの意味。それ自体は企業が生き抜くためにおそらく求められているのだけれど、生産能力を高めるコトも、価格競争力を高めるコトも、最終的な製品やサービスの提供(=購買・落札)価格を押し下げる圧力として働くのであって、一般的にその逆の圧力としては、競争原理が働いていて価格競争が行われている限り、決して働かない。この競争原理というものを突き詰めていくと、だから赤字覚悟でないと仕事が取れないという事態が起こり、つまり同業者間全員がおまんまの食いっぱぐれという状況になりかねない。それを防ぐ為の談合。そもそもの入札予定価格を政府側が設定してる時点で、落札側に採算が取れる価格を、当然、見込んで伝えているのだから、入札制度そのものにも問題があるとしても、この談合というシステムはだから、官が民に公共事業を"継続的に発注する"という仕組みが残る限り、絶対に無くならない。(今日国土交通省の事務次官の会見でも制度側に出来る事には限界があるというのも、だから当然)(これは余談だけど、公共事業=政府支出もGDPの中に含める現在の計算の仕方はだから、根本的に計算が狂う前提になっている。穴を掘らせて埋めさせるのでも構わないというレベルならともかく、以前にも書いた通り、鉄筋1本辺りの値段を操作するだけでも計算は簡単にずれてくるのだから。)事業の丸投げどうこうと先日のオリエンタルランドと右翼系の会社の絡みで報道されていたが、あんなのは(右翼系というのは特殊だったとしても)、特に建設系でもそうだし、他の業種でも『何を今更騒いでるんですか?(笑)』の世界です。バーナンキの『リフレと金融政策』を読んでから、小菅信彦の『日本はデフレではない インフレ目標論批判』を読み返してみたが、物価下落の原因は、デフレが原因なのではなく、消費者物価が卸売価格に近づいてきた事が原因だと、元経済企画庁スタッフが統計資料に基づいて反論している。それが何を意味するのかというと、卸売という中間コストを削減する事によって、生産に要する価格と実際に購買される価格が近づいてきたということであって、それをすなわち談合や事業丸投げの例に当てはめるなら、公共事業コストも数分の一に減らせる可能性すら場合によっては有り得るということなのです。だから私は根本的に官主導の経済生成には反対だし(発展途上国ならまだしも)、バーナンキにしろ、小菅にしろ、物事の原因を金融政策には求めていないという点では一致している。バーナンキ『基本的にデフレという現象は、それぞれの国の総供給が総需要を上回ることに由来していると思います』(リフレと金融政策、p168、なぜ、世界で同時並行的にデフレ懸念が台頭するようになったか、を聞かれて)小菅『マネーサプライが伸びないことの根本原因は、投資意欲の低迷や投資機会の制約にある。その根本原因の除去こそが構造改革なのである。それなくして金融政策のみで解決を図ろうとするところにそもそもの無理がある』(日本はデフレではない、p192)さて、冒頭の意見に戻りますが、競争原理が働いて一定の成長余地が無くなってきた場合、国の文化に関わらず、等しく、価格の下落圧力にさらされることになります。(生産能力を高めるコトも、価格競争力を高めるコトも、最終的な製品やサービスの提供(=購買・落札)価格を押し下げる圧力として働くのであって、一般的にその逆の圧力としては、競争原理が働いていて価格競争が行われている限り、決して働かない。)私が指数的な成長を維持する事が不可能だと思う理由の一つにこの上記の価格の下落圧力があります。(米国の低インフレを支えているのはFRBの金融政策の優秀さではなく、他国の通貨によって自国通貨(国債)を買い支えられているだけという身も蓋もない現実があったりもしますが、話がずれるのでこの話はまた別項で)資本主義で市場での価格形成(競争原理)を重んじる限り、この価格競争=物価の下落圧力から逃れることは出来ません。出来るとすれば、官との癒着に支えられた談合という競争原理の無視によってのみ可能です。原油市場を見ていても分かる通り、市場経済なんぞ万能ではありません。ライブドアとフジの攻防戦でフジテレビ株がわずか数週間の内に数万円上がったかと思うとあっというまに下落していった通り、株価市場の上昇や下降なんぞに景気は依存してません。企業活動や企業価値の反映が株価だとすれば、日経平均株価とNYダウの平均株価がほぼ完全に一致した上昇/下降動向をなぜ見せるのかという説明は、永遠につきません。為替相場の影響は二つ以上の通貨をまたがって商売をしている企業は等しく影響を受けますが、日々の乱高下をトータルで見た場合、そこだけでインフレやデフレを語る事の阿呆らしさは浮き彫りにされています。例えばインフレ=円安論にしても現状(もしくは昨年度平均相場)より何円円安になればインフレになるのかさえもはっきりした基準は誰も持ち合わせていないし誰も決められない。そんな基準なぞ存在しないから。例えば昨日1ドル=100円だった相場が110円になれば10%(円)インフレ?そんなバカな話ではない事は誰の目にも明らかです。実例を上げるなら、1ドル130円代が107円代くらいに下がったからデフレが起きたのですか?年初103円くらいだったのが108円くらいに上がったからインフレが起きているのですか?そんな事で物事の説明が付いていない事だけは、おそらく、明らかになっていると思います。物事をインフレやデフレという言葉に基づいて話そうとすると、本来どうでも良いことの筈の些細な事が、物事の中心に摩り替えられてしまう現象が頻繁に起きていると思う。(日銀のバランスシートや当座預金残高の下限議論然り同類です)次はおそらくバーナンキの背理法を含めて、『リフレと金融政策』を読んでいて違和感を感じたことを中心に書いてみます。
2005.05.23
コメント(0)
『リフレと金融政策』ベン・バーナンキなる本をたまたま見つけて読み始めたのですよ。その筋の人達からすると、『まだ読んでなかったのか?』とか『あんなもん読む価値無い!』とかいう意見飛んで来るかも知れませんが、いやぁ、まだ読んでる途中なのですが、確かに実感した事が一つ有りました。それは、原典を読む事の大切さ、です。キリスト教を語るにはまず聖書を読む必要があるのと同じですね。でも経済学に関してそれをやろうとすると数学的部分の理解を含めて、その素養が無い人は永遠に語る事が出来ない存在になってしまう。聖書の様に、『これ一冊を読めばOK!』というものが無い。(ケインズの『雇用・利子、および貨幣の一般理論』がそれにあたるのかも知れないけど、ケインズの系譜もだいぶ細分化されてるみたいですしね。)で、原典を読む大切さがしみじみ伝わって来るのは、その信者と言われる人達の言葉が実はその教祖(当人はその教祖である事すら否定する場合があるけどw)の言ってる事と全然違うか、大切な部分が意図的に削られていたりした部分を、原典をあたることによって見出した時ですね。経済学じゃないけどマキャベリの『目的の為には手段を選ばず』という言葉も、重要すぎるその前提条件が抜かされたまま流布してしまってる代表例ですし。話がそれましたが、リフレとか金融政策とか、あまり一般的な言葉では無いですよね。とりあえずネット上のその辺の議論とかで言うインタゲ派(とその否定派)で、もちろん全員では無いですが、『これを信じない、やらないなんて人じゃない!』なんていう意見をちらほらと見たりするのです。んで引っ張りましたがね、リフレ派(又はインタゲ派)の首領とも目されているこのバーナンキさんがどんな事をおっしゃってるかと言うと・・・、『金融政策はいくつかある政策手段の一つにすぎません。』『デフレを止めることが、すべての解決策になるわけでなく、それ自体では万能薬でもないですが、構造改革の他の要素と一緒になれば日本の回復へとつながるでしょう』うん。なんかケインズの『雇用・利子、および貨幣の一般理論』の冒頭の言葉で、すごくすっきり入っていけたこの一言に、やはり何か通ずるものがあるのですよ。『本書は主として、私の仲間である経済学者たちに向けて書かれたものである。私は本書が他の人々にも理解されることを希望はしている。しかし、本書の主要な目的は難解な理論上の問題を取り扱うことであって、この理論の実践への適用は副次的に取り扱われるにすぎない。』ケインズはこの著書の中で、以前の自分の著作から考えを改めた部分についても積極的に触れているし、その意味で全く宗教的で無い。つまり「AはAだから正しいのだ」とか、「BをBとして信じない奴は人間じゃない!」といった狂信には程遠い存在。次期FRB議長になるかも知れないバーナンキさんですが、言葉も説明も平易で、専門的(数学的)な説明はほんとに最小限に留められ、言葉を追うだけで意味が取れます。(少なくとも、そう思わせてくれます)バーナンキ氏自身は細かい反論にまで簡潔に解答してもいるのですが 統合政府=政府+中央銀行(日本なら日銀)のトータルな視点で物事を見たり、金融政策と財政政策の区分はあまり意味が無い、とかも興味深かったです。『日銀による国債買い入れは、元利負担のある債務をそれらがないマネーに換えることにより、現状の赤字と元利負担、ひいては将来の税負担についての国民の期待感を低下させます。もちろん、何事もただで手に入れるというわけにはいきません。財政の観点から見れば、国債のマネタイゼーション(国債とマネーの代替)が増加することは、一般の税金をインフレ税に置き換えたにすぎません。』という部分、つまりリフレってのも万能じゃないんだけど、デフレ状態よりはいろいろとマシ(な筈)だよ、でもこーいう事も起こるんだよ、てのは当然ながら他の場所でも触れていらっしゃる。(もちろんネット上でそれらに当然ながら言及されてるサイトも数多い、と思う。全部巡れないので分かりませんが、w)財政規律の面に関しても、もしそれを問題とするなら、先進国では常識になってる予算制度のルールを作って、財政赤字や債務残高を制限する必要があるよ、というのが氏の考え方らしい。(ただ惜しむらくは長期債務買い増しを日銀がやるにしても、その債務残高をどの辺に設定すべきかという言及は無かったと思う)インフレ目標が掲げる年率1~3%程度のインフレ率では、実質的に債務削減に貢献しないとも言ってますし。(名目GDPの伸びが債務の伸びを上回り続けなければ債務の返済はできないし総額も従って減らない)ちょっとまだ完全に読み終わってないし、引っかかってる部分への考察を深めないといけないのもあって、本全体への批評(もどき)も出来ないのですが、先日別の本の中で触れたソロスを経済学者に含めるのはどうかとしても、当たり前なのですが、経済学者や経済活動に纏わる人々は、常識的な人もやはり多いのだなぁ、と原典を当たる度に確認出来て、何故か嬉しいです。私は経済学者でもそれを目指す学生でも一般の人でもありませんが、でも、なにか嬉しいのですよね。だからこれからも、必要な時には原典に当たっていこうと思います。(余談ですが、私がケインズの例の本を読もうと思ったのは、エンデの本の中でほとんど救世主扱いされてたゲゼルという人をケインズが評価した部分だけ書かれていて、「これほんとかな?これだけかな?」と思ったらやはり全然違いました。笑 ケインズがゲゼルを評価した理由も、その信望者達の中で唯一フィッシャーの名前をマトモな部類として挙げているのも面白かったです。まだ全部読み終わってませんがね・・・。^^;)
2005.05.22
コメント(0)
最近はかなり日付がずれて書いてるので、これもそうなんだけど、書こうと思ったのは、こんなニュースを見た(読んだ)から。・各界の知恵集めニート対策 国民会議が初開催はっきり言って、これ以上間違った面子を集められないくらいに完全な人選違いな方々が集められている。この問題(問題と言うべきか知らないけど)は、とりあえず人生に挫折したような経験が無い人だと、学校にカウンセラーを配置するだの、職業訓練をもっと受けやすいようにするだとか、そんな程度しか話が出てこないと思う。なぜなら、この問題を彼ら自身の体験、もしくは、自分の身につまされるような程度にまで真剣に自身にも関わりのある様な事として捉えられないから。ニートという言葉の定義一つを取っても、社会の上の方の人達が言うような訓練や気力不足だけの問題でもたぶん無いし、一部の経済学信者さん達が言う様な不況という就職難という状態だけが問題でも無い。端的な例を挙げよう。『もう生きるの面倒くさい』働こうと思えば働ける。でも、そうする気力が起こらない。どうしても。そんな状態になった人が全て社会から逃避する訳では、もちろん無いけれど、でも一歩間違えれば電車のホームに飛び込んでたかも知れない、そんなすれすれの毎日を送った事のある人とそうでない人の間には、見えないけどとてつもなく遠く深い溝があると私は感じる。というわけで、いつも大上段に構えて振り下ろす的に書いてますが、このシリーズは自分の体験談を交えて書いていこうと思います。シリーズ名は、『生きるのって面倒くさいかも?(笑)』になるかどうか分かりませんが、テキトーに書いていきます。おそらく。
2005.05.21
コメント(0)
政府の財政支出や減税の財源を新規発行した国債の中央銀行引き受けで解決するので将来の増税にはつながらない。このバーナンキの主張には、重大なレトリックが隠されています。無制限に政府が国債を発行し無制限に中央銀行が引き受けるなら、結果として通貨の価値は暴落します。無税国家は成り立たないとしながら、新規発行した国債の中央銀行引き受けで解決するので将来の増税にはつながらないと言うのは論理の矛盾を引き起こしているのです。何故でしょうか?国債とは本来、将来の税収を担保に政府(官)が民からお金を借り、将来の税収から償還と利払いを行う存在です。同じ官側の中央銀行に引受させることでその償還と利払いを無視しつつ、しかし受け取ったお金は流通しているお金と等しいものとして扱う事自体が、『お金』という存在の定義を覆しているのです。ゼロ金利状態の日本では、国債とお金の差がほとんど無くなっており、国債は利子のついた紙幣なのですが、その利子部分すら無くなれば、『お金=国債』の恒等式が成り立ってしまうことになり、国債本位制ともいうべき無税国家の前提条件が成立してしまうのです。そんなバカな?買いオペという中央銀行が行う市中金融機関との国債とお金の交換作業は、実質的に、お金と国債の兌換が行われているのです。(利子が付かない国債オペどころかマイナス利子でのオペまで発生しています。現実に)しかしそうは言っても、中央銀行が紙幣(通貨)発行の元手として国債を引き受ける事は以前からあったという意見もあり、国債の中央銀行引受がすなわち無税国家成立条件になるわけでも無いことは確かです。ここで問題になるのは、どの程度、政府財源をまかなう為に中央銀行が国債を引き受けると、単にデフレをインフレ状態に転換するだけで終わるのか、それとも通貨価値の暴落を起こしてしまうのか、という点です。通貨価値の暴落を起こさずに政府財源を全て中央銀行引受出来れば、無税国家が成立することになりますので、それは有り得ないとするなら、逆説的に、政府財源の全てを中央銀行引受は出来ないと仮定されます。(これを『無税金政府非成立の交換条件』とでも呼んでおきます。)まず既発債が存在しない、つまり政府債務がゼロという状態を仮定してみます。その政府は毎年の税収で全ての支出をまかなえる状態です。つまり国債という名の借金はする必要が無い政府だとします。しかしその政府が中央銀行に国債を引き受けさせれば税金を取る必要性すら無くなると考え実行に移した場合には何が起こるのでしょうか?政府からの支出が無くなるわけではないので、総需要は減りません。その出所が政府になるか中央銀行になるかという違いだけです。本来税金として民の側から官の側へと移動していた筈のお金は民側から移動しないことになります。このお金の総量を1として仮定すると、政府又は中央銀行からの支出もまた1として仮定されます。全ての支出は税収によってまかなわれていた状態だからです。税金として払われていた筈のお金は手元に残り、しかし政府からの支出はそのままであれば、その支出額分(以前は税金として支払われていた分)のお金が、総量としての増加分に等しくなるのでしょうか?なるべく単純な具体例を考えてみます。Aさんは一年に100円稼ぎ、いろんな税金の支払いを合わせると10円を政府に収めていました。つまりAさんは残された90円で生活していたことになりますが、この税金の10円が手元に残るとすると、100円で生活することになります。(バーナンキは中央銀行引受でこの10円を将来の増税で賄わせない事が可能だと言っているのです。民側に残存(流通)するお金の量が増えた事で通貨価値が下落し、物価はおそらく上昇するので、この部分がインフレ税と呼ばれる部分になります。物価上昇率よりも所得の増加率が上回っていれば生活程度は保証されます。)さて、もう一段バーナンキの背理法をこねくり回してみます。(笑)無税にしても政府支出を減らせばインフレにはならない。(正確に言うなら、無税にしても同時に政府支出を減らして、市中に流通する通貨の総量にほとんど変化を加えないのであれば、(激しい)インフレにはならない可能性がある。)これは有り得るでしょうか?年間に創造されるお金(価値)の総量(GDP)が500円でその内の50円が政府に収められていた税金の総額だとすると、無税金になるけれども政府支出が同額のまま据え置かれた場合、GDPの中に政府の支出は元々含まれていますので、無税になった事による経済効果を無視するならGDPは500円のままで変わらないことになります。つまり、無税にしたことによる経済効果を打ち消したい場合は、その分だけ政府の支出を減らせば良い事になります。(=日銀の引受限度額を減らす?)前編の錬金術師や政府と中央銀行の国債とお金の交換の例を思い出してみて下さい。いくらタダで金を作ったとしたり、お金を刷って国債と交換したとしても、それが流通しなければ全体には影響を及ぼさないのです。極論するならば、政府と中央銀行間でやり取りされるお金が市中に流出せずに物やサービスに交換可能であるか、政府と中央銀行間でやり取りされるお金の量が市中に流通するお金の総量に影響を及ぼさない程度の少量であるなら、通貨価値は崩壊も下落もせず、インフレも起きない事になります。市中にお金を流出させずに政府と日銀の間でお金をやり取りさせる事は可能でしょうか?政府(公的)機関内で所有している国債を中央銀行に引き受けさせてしまえば帳簿上の数字が移動するだけで、実際に流通する通貨量には全く影響は与えません。(ここら辺が、国民が95%もの債務者である限り財政破綻は有り得ないとされる根拠でもあります。つまり債務の払い手と受け取り手が大雑把に言うと同一の存在だから可能な所業です。)ただし、市中銀行や個人、及び外資が保持している既発債の扱いは、もう少しだけ微妙になります。(たぶん)それらを日銀が引き取る際には、買い切りオペ、つまり現金を相手に渡して国債を引き取る形になりますので、市中に流通する通貨量は増加する事になります。例えば市中金融機関や郵貯・簡保、個人や外資の持つ政府債務の合計が仮に400兆円だったとした場合、一気に中央銀行が回収してしまうと、当然市中に流通する通貨量が半端ではなく増加してしまうので、償還年度に合わせて順次日銀が引き取るか、無税金政府への移行(つまり政府支出の財源を日銀引受にすることによる既発国債価格や利回りの激しい変動)前に希望者は日銀に自分の所有する国債を引き取ってもらう事を可能にしておけばよろしいのかと。(ただし、広義流動性という範囲内に国債は元から含まれているので、既発債全てを中央銀行が引き取ったとしても国債という名目が預金や現金という名目に変わるだけで、マネーの総量としてみた場合は変化しないとも言えるのです。おそらくここら辺が、バーナンキが『新規国債』や『新たな政府支出』という存在を持ち出した理由でもあるかと。つまり既存の物を取替えっこしてもマネーの総量に変化は無い、という証左の一つ。既発債を日銀が回収する事の意味は、マネー総量の増加を目的とするのではなく、低金利時の国債価格が金利上昇局面では低下することによる市中金融機関及びその他保持者の損失(お金の減少)を防ぐのが目的)いろいろ話が飛び飛びになってますが、結論として言うと、いくつかの前提条件をつけてそれをクリアできるのであれば、無税国家は成立する可能性が有るという事です。(50%税引き国家とか90%、99%税引き国家とかも同じ理屈の上で成立可能となります。)こんな感じで長々と書いてきたのには一つ大きな理由があります。お金と国債の差がほとんど無くなっている環境下では上述してきたように無税国家の成立の可能性が生まれてきているのです。それが何を意味するのか、可能にするのかというと、経済成長の持続と飛躍的な税収の増加という相反するようなテーマを同時に満たす条件として働きえるのかなぁ、と考えたりもしたからです。というより極論してしまうと、税収がどう考えても今後の政府支出(公共サービスに要するお金)に追いつかなくて、追いつかそうとするととんでもないくらいの税率に上げないといけないが、そうすると持続的な国債の発行と市中消化を可能にする筈の経済成長を減速させてしまうという皮肉を、バーナンキの背理法という理屈をこねくり回すことで、税収を税収で無くすという方法が可能かどうかを考えてみたというところです。(おそらく続く・・・)
2005.05.20
コメント(0)
バーナンキの『リフレと金融政策』の中で、中央銀行が単独でもゼロ金利状態からでも、デフレ状態をインフレ状態に移行する為の手段が紹介されています。現在の錬金術師が金をゼロコストで無制限に製造する方法を発明した場合金の価格は崩壊するという例え話を紹介しつつ、だから現実に金に兌換が義務付けられていない紙幣制度のもとでは、印刷機(またはその電子的な代替物)を使って好きなだけ紙幣を発行させることができるので、政府の意志さえあれば常により大きな支出を創造することが可能であり、それゆえインフレを起こすことができる、としています。(p.17-19近辺)(この場合の理屈を簡単に言うと、ドルを好きなだけ刷って、それを流通させることによって、ドルの価値を好きなだけ落とす事ができる=ドルに対しての物価が上昇する、という結論がもたらされることになります。)この流通させるという部分を、刷ったお金と何らかの資産を交換することによって行うとしていますが、日本に関する部分では、財政出動や減税という財政政策の財源を(長期)国債の新規発行分を日銀引受でファイナンスすることで、現在の減税分が将来の増税につながるという国民の予想を断ち切れる、すなわち増えたお金を将来(の増税)に対する貯蓄ではなく現在の支出(消費)に対して使おうとするだろう、と書いています。(p.134-139)お金の価値はそれで落ちないのか?、という問いに対しては、日銀が物価水準目標を公表することでコミットすることで防げるとしています。(p.137)もちろんインフレ税という形で、お金の価値が減価していく現象は起きますが、その場合は(安定した)物価の上昇に伴い企業の売り上げ=賃金も上昇していくことによってペイされる筈、という考えになっているかと思われます。(お金をそのままの形で持っていても価値が減るのであれば、その事実自体がお金を別の形の財へと交換しようとするすなわち消費/投資活動が促進される筈、というのも、インフレの方がデフレよりもマシだという根拠の一つだと思います)さて、いろいろ突っ込み所が多いとは思いますが、デフレという状況を脱するには、要はお金を刷って国民に配り、そのツケはでも国民には基本的に回さないと明言する(現在の政府支出又は減税分の国債償還は日銀引受の時点で既に解消されてしまっているから)ことで、強引にデフレを終焉させてしまいましょう、というお話だと思います。そして一旦インフレに振れてしまえば、中央銀行が本来持っている金融(金利)調節手段でインフレはコントロール可能ですから、という事、かな。んでかなーり前置きが長くなってしまいましたが、『バーナンキの背理法』です。(ニュアンスが微妙に違うけど、FAQ的にはこことかここが簡明)(上記を長々と書いたのは、ネット上でこれが原文!というのが見つからなかったので、せめて本人の言葉を直訳した筈の著書の中からそれに該当する言葉を拾ったからという理由があります。^^;)デフレをインフレに振り向けるためには、中央銀行が引き受けた国債代金=新規に発生したお金を流通させなくてはいけないのです。(くどいようですが重要なので。中央銀行が国債を引き受けるだけではインフレにはならないという反論は馬車馬さんのこちらの記事が秀逸です。)当然ですよね。合衆国政府とFRBがいくらお札と国債を交換し合ったとしてもそれが一般の国民の手に届く所にまで落ちて来なければ、つまり市中に出回ってるお金の総量に変化が無ければ、現状デフレだろうがインフレだろうが状況に変化は訪れません。(例えば上述の錬金術師が、金をコストゼロで無限生産する方法を開発しても、生産した金(と製造方法)を自分だけの秘密として隠してしまった場合を考えて頂ければ、それがなぜ国債を中央銀行が引き受けるだけではインフレにはならないか、という説明に近いものとなります。)んで今度こそ、本当に本当の本題。(ダメすぎ)その流通させる部分を、政府の減税や支出という形で行い、財源を新規国債の中央銀行で引き受けで解決するとしているのに、なぜ無税国家が不可能だと仮定できるのか?(実際に流通させる段階においては、既発債も引き受ける必要性が有るという意見に私は同意しますが、その説明も長くなるのでここでは割愛。興味のある方は上記馬車馬さんの記事のレス部分を参照のこと)無税国家なんて有り得無そうだから不可能、というのでは説明になっていない。バーナンキ自身が国債などの引受、つまり税金(政府支出)引受限度額について具体的に言及していないように見えるのと、逆にそれに制限をかけてしまってもデフレ期待をインフレ期待に転換できるのか(結局将来的にやっぱり中央銀行引受分も税金によって利払い+償還費引当しなくてはいけないとなった場合、それが部分的だったとしても、それで彼の言う所のインフレ期待が成り立つのか)という部分などについて触れながら、言葉遊びというような感覚で、無税国家が可能なのかどうか考えてみたいと思います。(長くなってしまったので後編で)政府支出の中央銀行引受額に制限をかけないとするなら、それは無税国家の成立に他ならないからです。バーナンキ自身が認めているように、ドル(通貨)もその供給量が厳重に制限されている限りにおいてのみ価値を持っているのです。(p.18)しかし標準的ではない方法での通貨投入の経済効果を測定することは困難であるかもしれない(p.19)と本人が認めているのに、通常でない施策を取ってもインフレ目標の設定だけで通貨価値の暴落(ハイパーインフレ)を防げるとしているのは根拠に乏しいように感じます。というような素人的にも想像の余地を働かせられる隙間でバーナンキの背理法なるものを少し遊んでみようかと思います。後編で。(前置き長過ぎですみません)
2005.05.19
コメント(0)
・宇宙の軍事利用求める 空軍が大統領に、と米紙地球上の土地なら、まだ囲い込んだ奴の勝ち、ってのは何となく分かる。でも以前テレビで見た番組で、月面の土地を売ってる会社ってのがあってそれを金払って買ってる連中がいるらしい。えーーー、と、さ・・・。宇宙空間の軍事利用でおもいつくのは以前もぽしゃったアメリカのスターウォーズ計画(映画じゃないよ)だけど、アメリカの独断専行はどこまで続くのでしょうかねぇ。
2005.05.18
コメント(3)
昨晩のWBSの中でガソリン値上げで、ガソリン代を払う為に消費を控え始めた人々のインタビューを見て、何かを暗示してるなぁ、と思ったりしましたが、とりあえず今日はインフレと成長動機について少し触れておきます。インフレどうこうという用語はひとまず置いておき、今日稼いだ分でもう一生働かなくて済む、となったら人はそれこそ発狂すらするかも知れません。笑つまり、より多く稼ごう、より豊かな生活を、より充実した人生をという前向きな姿勢を動機付ける存在として、成長する経済やプラスの利子が作用している部分も確かに存在します。現状のままでずっといいよ、と上司から言われてずっと一日椅子に座って何もしないでも給料が(僅かずつ減るけれど)生活できる程度にはもらえ続けるとしても、やはり人はお金以外の「やりがい」みたいな別の価値を求めるかも知れません。環境破壊や富の偏在といった弊害はあったにしろ、現代の豊かな生活を実現しているのは、そういった成長期待や動機に裏付けられていると思います。で、私が何度か触れてる減価するお金やその意義ですが、『働かなくても食っていける社会にする』為のものでは全く有りません。むしろ逆で、『稼いだ分だけしか使えないお金』に使ってもらう為の要素を地域通貨とか時限通貨のようなアイディアを付けてみてるだけです。(無税金政府も、放漫財政とは真逆の存在で、税金が富の還流を強制する為の手段であるとするなら、通貨自体でそれを置き換えてしまえば、税金を支払う/徴収する/節税するといった社会全体で見えないコストを極限まで小さくしてその分経済活動に使ってもらう、というのが一つの考えとしてあります。現時点では個人や法人の売上の1%を『見なし徴収』する事で大まかな予算枠とする案を考えてみています)話が少しずれましたが、インフレとデフレの姿について、面白い記事を見つけたのでご紹介します。・インフレーションの形経済について何も分からなくとも、インフレとデフレの場合で100円がどのように姿を変えるのか、表で非常に分かり易く表現されています。(記事の後半部分)それとこちらはインフレとデフレを含めた貨幣の需要と供給に関する非常に示唆深い寓話です。・経済を子守りしてみると。そのコメントの中の一文を抜粋。『でも子守り経済でない実際の経済では、夏にとけてなくなるクーポンに 対応するものってなんだろう。答えは、流動化トラップにはまった経済 には、インフレ期待が必要だ、ということだ――つまり、いまきみたち が貯め込みたがっている円は、一ヶ月後、一年後にはいまより少ししか ものが買えませんよ、と人々に説得することだ。』昨日ご紹介した地域通貨について調べている時にも、ゲゼルの唱えたような減価するお金の仕組みをわざわざ導入しなくても、インフレがその役割を果たしている、という考えが紹介されていて、なるほどなぁ、と唸りました。(いや分かってる人には今更なのでしょうが)一応説明しておくと(間違ってなければいいのですが)、今日100円を持っていたとします。極端な例えですが翌日10%のインフレが起きたとすると、持っていた100円の価値は10%下がります。つまり価値が下がる前に使っておいた方が得だったという見方が成り立ちます。デフレは逆の事が起こるのですが、それは上で紹介した『インフレーションの形』の表の中に詳しいのですが、同じ100円の借金があるとした場合でも、インフレの場合はその痛みが和らげられ、デフレの場合は痛みがひどくなるという形になっています。svnseedsさんのコメントにもある通り、『(ある程度のゆるい)インフレはリスクをとる者のリスクを軽減し、社会を活性化させる環境を作ると考えて良い』という意見はだからインフレの重要な側面を捉えています。(svnseedsさんのインフレやデフレに関するエントリは例えばこちら。)インフレには既に述べたような効用があるのですが、扱いが難しいのも事実です。中央銀行の利上げや売りオペといった金融調節で流通するお金の量はある程度絞る事は可能なのですが、『ほどよい程度に』保ち続ける事が可能かどうか、インフレ期待(調整インフレ論)の支持意見と反対意見は、ネットを巡るとそれこそとても追い切れない量で展開されています。私はいわゆるインタゲ論者ではありませんが特にそれに反対している訳でもなく、ただ現実に各国中央銀行は万能では無いと見ているだけです。例えばゼロに極限まで近い金利や量的緩和をしていても、国内の資金需要とは全く関係の無い外資(銀行や投資会社)に安く円を調達され、外貨つまり海外で運用されたり、日本の株式や不動産などを安く買われる為に使われるという国内の経済成長とは何の関係も無い結末に終わっているという見方も有り、一国の中央銀行が手の届く範囲の限界が浮き彫りにされているようにも感じています。まとめ(?)インフレとは社会や人々の成長動機として機能している側面もある。インフレそのものがお金の減価として機能している側面も併せ持つ。(つまり昨日以上に稼がないといけないといった観念の発生源としても働く? 成長経済の下では、今日のお金はだんだんと価値が目減りしていくので)今後日本の経済規模が縮小していくにしろ、成長する企業や業種というのは当然ながら存在し得るし、全体としても成長する可能性は有り得る。(経済活動をなるべく活発にする要因を増やしていかないと、経済規模の縮小傾向と速度は一段と厳しいものになる可能性がある)お金が商品として他のお金とやり取りされる環境下では中央銀行の影響力も限定される。低金利で外資に調達された通貨は海外で運用され、国内の経済成長に寄与しない現象が起きていたとしても、現状では中央銀行はそれを咎める根拠や権限を持たない。(地域通貨の必要性が叫ばれる背景には、地域内で使われ地域内の経済活動に寄与するお金を供給するという機能(目的)が存在する)(つづく)
2005.05.17
コメント(0)
今日(18日)は、地域通貨に関して調べてたりしました。各地域政府(将来的に日本でいうと各道州政府)が地域通貨を発行する権限を将来的に与えられたとして、どんな問題が生じてくるだろうかつらつらと考えてみました。(本当はもっと沢山あるのだろうけど)問題1:異なる地域通貨同士の交換レートをどうするのか?問題2:国家通貨(日本なら円)との交換レートをどうするのか?問題3:所得や税金などの扱いをどう振り分けるのか?問題4:国内外に共通の価値を提供している円を機能分割するメリットは あるのか?問題5:異なる地域通貨とも国家通貨とも1対1の交換レートを有するのな らそれは現在の円そのものであって、地域通過として分割したり 減価させる性質を持たせる必要性は薄い。(分割せずに円そのもの を減価する方式を工夫した方が単純に済み効果も高い)問題6:各地域通貨毎に異なる減価方式の採用はされるべきか?問題7:国家通貨は減価の対象とされるべきか?最大の問題:減価するお金を採用することによって、今後の縮小する経済 モデル下での財政構造がどう変わるのか?成立するのか?地域通貨導入の最大の理由:地方政府の財源政策の最たるもの、通貨発行権を限定的ながら与えることによって、国家通貨と並存/併用という形をとりつつ、地域経済と行政サービスの自立採算性を促す財源とすることにある。ただし各地域が経済活動に必要とする資源やエネルギーも自身の地域内から調達できない場合は、当然日本国内には出来ない地域しか存在しないが、結局国家通貨や地域外の通貨との交換方式を明確に決めておかないとお金としての価値と存在意義を失う事になる。(今後継続して資源調達費用が高騰していく可能性もあり、海外との取引に使われている円で対外的には一本化しておいた方が信用などの面でも安定した取引が可能になる筈)(かなり先の将来の話としてですが、地域通貨-国家通貨の併用から、地域通貨-国家通貨-共同通貨の併用へと移行していき、随時国家通貨の比率を下げていって、地域通貨-共同通貨へと収斂していくのが最終的な姿になるのかも知れません)上記の問題全てに詳細に解答するとなるとかなりの分量になってしまうので、ここではいくつかのアイディアを提示するに留めておきます。・国家通貨に減価をかける場合、お金そのものではなく預金額に対して一定比率をかけるようにする。(例えば一千万までの預金にはかけないか非常に低減価率を貸し、一千万を超えるような預金や資産に対しては累進的に減価率を大きくかける)(ただし減価しない外貨との調節方法を予め考えて備えておかないと円の価値のメルトダウン(自己崩壊)だけに終わってしまう危険性が強い)・地域通貨と国家通貨の併用を義務付け、例えば給与支払い25万を国家通貨で支払った場合、その10%にあたる地域通貨を支給する。ただし、地域通貨は1年間のみ有効な時限を持つ事にする。地域税は地域通貨で支払えるようにする。(支給のタイミングと時限のかけ方によってかなりの不平等が発生し得るのと、他地域通貨や国家通貨との交換レートや減価方式の調節などを考えるだけでも、かなり非現実的ではある)(時限通貨は、スタンプという手段が現代にそぐわないし、数字の預金に対しては電子技術を利用したとしても適用が不可能と思われる為、1年経つと価値が無くなる、という意味で強制的に『利用される事を促す』通貨。本来の所得に10%足しているのでインフレが起きそうだが、利子がつかないし時限で消滅するので、最終的には発行した地域政府に税金として回収されるまでに補助的な通貨としての役割を果たすことを期待される。)(1回限りの利用しかできずしかも限定した世代にしか配給されなかった地方振興券の拡張機能版とでも考えていただければ近いかと。配給比率は流通量などから地域中央銀行(日銀の支店みたいなものだが、各地域(道州の地域通貨にとっては中央銀行そのものにあたる)で金融調節する)と、ここまで書いてきてなんですが、例えば地域通貨の発行総額を国家通貨の1/10以下程度に調節し、地域通貨発行基準を該当地域内で支払われた給与の10%として制限をかけたとしても、お金の持つ利便性を著しく損なってしまう可能性があり、その意味でも人々の間に定着することはかなり難しいというか不可能なんじゃないかと感じています。少なくとも利益や利便性だけでは、それを使おうとする手間をかける理由にはなり得ず、地域内に留まり循環するお金が結果的に該当地域の経済を活性化させる為や、おそらく国家通貨分では不足する社会保障費などを地域通貨の支払いを認めることで補填可能にするというメリットと手間を人々が受け入れてくれるかどうか、その労力をかけるに見合った安定したシステムを構築できるかどうか、などにかかってきそうです。(ボランティアに対するインセンティブのような存在として地域通貨を支払うという類も現存しますが、それは特に公的に発行され地域全体の経済の潤滑剤としての機能を期待されて発行されるわけでは無いので、もしそういった機能も兼ねるとしても、あくまでもそれは副次的な効果の部分になるかと思われます)(つづく。 最大の問題:減価するお金を採用することによって、今後の縮小する経済 モデル下での財政構造がどう変わるのか?成立するのか? について考え中です・・・。)地域通貨に関する参考リンク・「緑のお金」(様々な地域通貨の種類や現状などが簡単に紹介されています) ・地域通貨:持続可能な社会創造のための公共空間再編ツール(松下政経塾の塾生さんが書いた論文らしく、第4章地域通貨とは、第5章の各地域通貨の紹介、第6章の地域通貨への批判などに目を通すといろいろ参考になるかと思われます)
2005.05.16
コメント(0)
減価するお金を前提にしたシステムが可能かどうかに話を移す前に、ここで一旦立ち止まってみます。まず、前言撤回の様に聞こえてしまうのは承知の上で、以下の様に定義する事から始めてみます。『プラスの利子も成長を前提とした経済も今後引き続き成 立する。その裏付けとなる人口は世界全体のネットで見れば 縮小よりは明らかに増加の傾向を辿り、科学技術の進歩によ り少なくとも今後 100年以上の単位で自然資源も枯渇しない』まず世界人口から。現在70億前後の人口は今後50年程度で90億以上にまで膨らむと予測されています。同時期に先進国の人口規模が減っていったとしても、後進国の人口増加と経済規模の拡大により穴埋めされる可能性は、十分に有り得ます。(ただしそれは先進国自身の経済規模が縮小しないという証左には、おそらくなりません。詳細についてはまた後で考えてみますが、単純にいうと、輸出が経済全体に占める割合は5%程度に過ぎないので、ただでさえ市場規模が小さい後進国の経済成長に先進国の経済成長という重すぎる負荷がかけられるとは考えにくい事が挙げられます。)(しかもこちらが黒字である為にはあちらが赤字で無ければならないので、アメリカ(や中国)の様な特殊な関係要因を持たない限りこちらにとってのメリットは自ずと限定されるでしょう)成長する経済が現実に世界に存在する限り、従ってプラスの利子を期待するお金の存在が望まれ、かつ維持される可能性は、高いか低いかで言えば、当然高いことになります。ただし現在においても、ODAなどでマイナス金利の貸し出し、つまり元本より少ない額を返還してもらうという動きは存在しているようです。(ヒモ付きでない、つまり返還義務の無い資金援助も、全体に占める比率は少ないにしろ昔から存在しますし)次に、資源の減少について。原油等の化石燃料、鉄などについては今後数十~百五十年以上に渡って維持可能である可能性が高いと思われます。(参考)掘削やエネルギー効率などの技術革新は当然ながら今後も継続され、今日の時点で不可能と思われた複数の問題も将来的に解決されることは確かに期待されています。ただし水(不足)の様に自然から発生し人間自身には現時点で解決不可能に見える問題や、商品作物の生産が優先される食料生産と土壌の限界といった資本効率第一主義がもたらす弊害をどう解決していくのかも含めて、科学技術の進歩だけでは解決が困難な問題が同時に存在する事もまた事実でしょう。無責任な言い方になるかも知れませんが、今後人口が100億近くまで増え、その大半が経済未発達地域に住み、今後先進国並の消費傾向を経済発展に伴って辿っていくとすると、その環境需要(エネルギーや資材だけでなく水や食糧生産)が満たされ得るかどうかは、誰にも分からない、というのが実状でしょう。この項のまとめ少なくとも世界規模で見る限り、人口は今後も50年以上増え続け、プラス方向に成長をする市場が存在し続けると考えられるので、従って後進国に資金を貸し出す側の先進国においても『(貸付に)プラス利子を前提付けたお金』が存在し続けると考えられる。科学技術の進歩に伴い、現在は解決困難に見える資源の問題についても将来的に解決されないとは言い切れない。従って環境要因(だけ)を元に今後世界経済が縮小の方向に向かうとは言い切れない。(ただし、エネルギーを採掘/提供する側の理屈から言えば、有限の資源を長持ちさせる為、とでも言って、かなりの程度生産する資源やエネルギーの値段を吊り上げる事が可能な状況にある。投機目的で本来需要/供給とは無関係に価格が乱高下し、エネルギーや資源の経済活動への安定した価格での供給には不安要因が残されている。エネルギーや資源費用が高まれば高まる程、経済成長にとってはマイナス要因として働くため。)(しかも、エネルギーや資源などの持つ『高いので他から買うよ』という選択の自由が極端に限られるか存在しない場合があるので、まさに売り手の思うままの価格形成が今後なされていく可能性が有ります。または売り手に良心があったとしても、投機マネーの前に無力なものと化す可能性も同時に存在します。)<参考リンク>・増え続ける世界人口・経済成長とエネルギー消費量の関係
2005.05.15
コメント(0)
さて、利子の存在に追われる成長至上主義の経済をさも悪者のように書いてきたわけですが、お金の『残せる』という特質と「他人に貸すと利子が付いて増える」という経済成長動機をもし外してしまったとすると何が起こるのか考えてみましょう。歴史的に金利は4~5%という利率が一般的だったらしいのですが、近年の日本では0%という利率が存在しています。(厳密には0.001%を最低金利と設定)この0%がどんな利率かというと、手元に残しておくのと変わらない状態となります。むしろ下手に他人に貸したりして貸し倒れされるリスクを踏まえればそのまま現金で持っておく方が賢い状態とも言えるかも知れません。さて、ゼロ成長で超低金利(10年国債で1.3%前後)より低くなっていく状態は有り得るのでしょうか?つまり、他人にお金を貸してもプラスの利息が期待できない状態です。(その場合はだから貸し手はプラスの利益の為にお金を貸し出す動機を失う事につながります)このシリーズとは別の人口減少下の経済についてのエントリで触れましたが、大雑把に言うと、人口全体の規模が縮小していくに連れて経済規模も同時に縮小していく現象です。需要が縮小していくので、お金を供給することでは根本的な問題は解決できません。お金の不足が問題では無いからです。問題は、より大きなリターンを得る為に先行投資をする、というプラス利子と成長期待に基づいた経済モデルが崩壊する事なのです。前回のエントリの中でも触れた通り、特に事業でお金を儲ける為には、借りたお金と利子分よりも大きなリターン(収益)が見込めなければ、そもそも借り入れ動機すら消えます。借り入れ先が無ければ当然、貸し付けてお金を増やすという行為も成立しなくなります。ようやっと見つけたとしても、非常に低い利率でしか借り入れられないという状況になるでしょう。ここで一つの大きな命題が発生します。手元に現金を残す限り、そのお金は減らないという限界をどう扱うかという命題です。特に預金の数字となったお金は物理的な劣化から解放されています。市場の金利は様々な要因で変動しますが、上記の現金を手元に残すというゼロ金利の保存手段を認める限り、縮小する経済下では、お金はますます流れなくなる可能性があるのです。理由は上で触れた通り、お金を持っている人程、金利が上がり出すまで現金のまま手元に残しておくか、もしくは僅かな利率でもプラスが付くならそちらに貸し出そうとするからです。(国債市場に異常な程大量のお金が流れているのは他にそれだけ大量に流せ込める(かつリスクの低い)市場が無い為でもある)引っくり返せば、『他所にプラス利子で運用できる可能性が残っている限り、人々はお金にプラスの利子がついて増えるという性質が残される事を望む』という事になります。当然ですよね。金貸しにしろ、様々なリスクを取って増やしてきたという歴史もあるでしょうから。世間一般の人にしろ、例えば給料が口座に振り込まれても、『預金は毎週1%ずつ減価していきます』と言われたらパニックに陥るかも知れません。つまり10万円振り込まれたとしても、毎週1%ずつ預金が減っていくとなったら、まるで天地が引っくり返ったように感じるでしょう。何の為にそんな事をするかというと、『貯めておくよりは使った方が得だ』というお金を使う側の意識変革を促す為の施策の一つです。(もちろん弊害もあるでしょうがここでは触れません)例えば、口座に入れておくと減ってしまうというなら、引き出して手元に置いておけば良いと考えるかも知れませんが、この『お金の流れの停滞』を防ぐ為の手段が、年をとるお金ともいうべきスタンプ通貨です。経済大国の通貨に適用は物理的に不可能かも知れませんが、考え方としては、例えば1000円の新札であれば、その裏面に毎週2円のスタンプを貼らないとそのお札を使えなくなる、という様なものです。これもお金の循環を促す施策で、歴史上世界中で何度も狭い範囲内の適用ですが試されています。(そのお札は約一年後に銀行に回収され、スタンプで徴収したお金は新規にお金を刷ったり管理する費用に充てます)交換リング、イサカアワー、デーマーク、ヴィア銀行など様々な試みが有りますが、その多くは既存通貨との共存/併用であり、政府への税金は既存通貨で行う事でその地域(代替)通貨の存在が政府に認められているというケースが多い様です。『お金は使うためのものでもあるのだから循環させなければならない』という基本理念が有ったとしても、もし本当に『お金』それ自身が減価してしまうようになったら、人々はお金以外の減価しないものを新たな『お金』として代用する様になるかも知れないという指摘は考慮する必要が有ります。(ケインズからゲゼルの理論への批判部分)私自身の考えでは、繰り返しになりますが、『他所にプラス利子で運用できる可能性が残っている限り、人々はお金にプラスの利子がついて増えるという性質が残される事を望む』事を考慮する限り、だから、『他所にプラス利子で運用できる可能性が消えた時、人々はお金という存在にプラスの利子が付く事を初めて諦める』のでは無いかと思います。そんな事が有り得るのでしょうか?その可能性を持つ答えの一つとして、環境の限界を挙げておきます。資源は無限では有りません。無限リサイクルと無限エネルギーという究極の技術を人類が開発しない限り、必ず、絶対に、プラス成長を前提とした経済モデルは破綻します。数式をいじることによって資源は生まれません。経済学は宗教では無いのですから。プラス成長を基調とした経済モデルを世界全体が取ろうとした場合、地球がいくつも必要になるそうです。しかし私達が持っているのは一つだけです。貧富の格差の開きが激しい中国でさえ慢性的なエネルギー不足で、電力を得るのに未だに石炭を使っていて、その煙が北半球の空気を汚染しているそうです。中国の生活レベルが上がるのと時期を同じくして、この先インドまで発展が進んでいったとしたら、どれほどのエネルギー不足が発生し得るのか、誰にも正確に予測できません。(参考)アメリカが世界の景気を支えているといっても、いつまでもその資源の浪費を続けられないのはみんな分かっているのですがその代替案は誰にも分かっていないような状態です。減価するお金の仕組み、マイナス利子、縮小する経済モデルなどが求められるとしても、上述した様な社会的背景も含めて人々の意識の変化があって初めて成し遂げられる事です。ケインズという人の言葉をご紹介しておきます。「困難は、新しい思想にあるのではなく、大部分のわれわれと同じように教育されてきた人々の心の隅々にまで広がっている古い思想からの脱却にある」(ケインズ、『雇用・利子および貨幣の一般理論』の序文より)というわけで、次回はおそらく、減少する人口と天然資源といった社会背景を元に、『お金』はどうあるのが望ましいのか、政府や財政システムは『お金』の仕組みの変化に合わせてどう変容し、どう機能していくべきなのかを考えていこうと思います。(しかし難しいのは先進国と後進国では置かれた状況が全く異なる事。人口の増減や経済成長余地などを取っても。ただし私はいくつかの前提条件を付けるコトで、プラス成長経済と減価するお金の仕組みとマイナス成長経済などは並存し得ると思います。これも次回以降で触れます)<参考リンク>・ケインズ・ゲゼル
2005.05.14
コメント(0)
今回はお金の特質の一つ、「貯められる」ことについて考えてみましょう。例えば、食べ物は食べれば無くなるし、物はいずれ朽ちます。サービスも受ければおしまいです。ですが、その対価として支払われた『お金』は残るのです。しかも手元に残しておくコストはほぼゼロです。銀行に預けてしまえば、それは数字として残り、少なくとも物理的な劣化からは(半永久的に)解放されることになります。もしその持ち主である人が死んでも、お金は跡に残せます。この「貯められる(残せる)」という特質に、お金はその本来の価値を維持する為に有限でなければならない、という制限を加えてみましょう。(どの国の政府でも無制限にお金を発行する事は可能ですがその結末はお金の価値の自滅だけです)何とでも交換できて、しかも貯めるのに便利なお金は、しかし社会の中で基本的に有限な存在です。そこで何が起こるかというと、「より多く貯めようとする」集団的行動です。何故でしょうか?例えば、人が一生生きるのに必要なお金が一万円しかかからないとしましょう。もし一万円が一日働いて稼げるお金なら、人は一万円とその数倍くらいの余分を稼いでから、「やれやれ、これでもう働かなくて済むぞ」と働くのを止めるでしょう。もし一生を過ごすのに一億円かかるとしたら、一日に一万円稼げるとしても、100,000,000円÷10,000日として10000日かかります。約27年という計算になりますが、休みも混ぜればもっと長くかかるでしょう。2億円ならその2倍、3億円ならその3倍。つまり一生働き続けてやっと払えるかどうかという計算になります。しかし人は老いますので、一生働き続けられません。そこで、働ける内に働けなくなった時の分を稼ごうとします。その手前の教育や結婚、子供などにかかるお金も、前もって稼ぎ貯めておく方が賢いとされています。後になって他人から必要な費用(お金)を借りれば、利子分だけ余計に払わなければいけないからです。しかし、完全に自給自足な生活をしている人でない限り、日々の生活にもお金が要ります。稼いだ全額を貯蓄に回す事は出来ません。けれども、支出分よりも貯蓄分の方が大きくできるとしたら、何が起きるでしょうか?貯蓄分を銀行などに「貸し付け」利子を得る事が出来れば、どこかの時点からその人は単純な賃金労働をする必要が無くなり、利子収入のみで生活する事が可能になります。より貯蓄が多ければ多い程(そして利率が高ければ高い程)この優位性ははっきりと顕れます。(株式や不動産などへの投資の方が有利と見ればそちらに投資が振り向けられるでしょうが、『増やす』ことが前提となっている事に違いはありません。それも『より多く増やす』という動機に基づいています)有限のお金をより多く増やすには、より多くのお金を持ち、より有利な条件で貸し付けること。これはお金という存在が人間の社会に誕生した数千年前から存在していた図式でしょう。(世界最古の職業は、兵士と娼婦と産婆と言われていますが、もう二つ加えるなら権力者(通貨の発行者)と金貸しかも知れませんね。笑)さて、貯められるお金を増やすには、より多く貯める事という図式に、もちろん人々は気が付いていました。しかし預けられたお金にしても、誰かに借り入れられて増やされなければ、当然ながら増えません。お金は本来、物やサービスの交換の代価として誕生し、その機能を持っています。逆説的になるのですが、お金は使われなければお金としての価値を失うのです。ある社会に100人の人がいて、その内の1人が全体のお金を貯め込んでしまい、他の人に利用できなかったら(もしくはその貸し付け費用(利子)が、利用する事によって得られる利益の期待よりも遥かに上回っていたら)、残る99人は別のお金を自分達で発行して、それを自分達の間の『お金』として利用し始めるでしょう。(近代アメリカを含め、政府側が発行する通貨が極端に流通しなくなった時、自発的に発行される代替通貨はその都度、お金本来の持つ機能を回復しましたが、後にその発行を政府によって禁止される事が各地域で続きました)上記の例の中の100%のお金を貯め込んだ1人のお金は、その新規に発行/流通し始めたお金と折り合いをつけない限り、全く無価値な物になってしまう訳です。(その1人が政府や銀行なら、だから相手の通貨発行を停止させてしまう事で折り合いをつけてしまった事になります)増やせば増やす程、貯めれば貯める程有利な筈の『お金』なのですが、その社会の中で使われなくなければ価値を失うという、逆説的な自律性(カウンター・バランス)も併せ持っています。(その意味で、お金を持ち貸し付ける側からすれば、『どうやって社会に使わせながら自分の持分を増やすか?』が次の命題になる訳ですが、個人金融やクレジットカードなどが見事にその命題を満たす解答例として実社会に顕れています。そして如何に多くの人が借り入れという行為と利子という存在について理解していなかったかは、自己破産者という先進資本主義国(笑)に共通の現象として証明されているでしょう)永続的に指数的な成長を続ける事が不可能な事はシリーズ(1)の最期の引用でもご紹介しましたが、「お金は貯められるけれども使われる為の物」という矛盾した二つの性質を持つ『お金』を、より「使われる為のもの」として機能させる為の、老齢化するお金、スタンプ通貨、マイナス利子などを次にご紹介しようかと思います。(ここで明言しておきますが、私はお金(利子)=悪とは考えていません。老齢化(減価)するお金やスタンプ通貨(や地域通貨)などは、現代社会にそのまま通用出来ないと思うし、マイナス利子にしても経済全体に適用できるか微妙な存在だと思います。私は『お金』の持つ複数の機能を分割する事が最終的に望ましいのではないかと考えますが、詳細は次回に持ち越します)
2005.05.13
コメント(2)
さて、お金が何故価値があるのか?理由はいくつもありますが、身近に、私達が普段財布の中に入れてるお札とか硬貨の存在を考えてみましょう。この政府や日銀が発行してるもの自体に価値は有りません。何故でしょうか?江戸時代とかにまで遡って考えてみましょう。当時は年貢を米で納め、米を売って現金を得ていました。税金も農民はだから米で納めてました。つまりお金が保証する価値の裏付けの富は民の方で生産されていました。商人が売る商品にしても、民が作り売っていました。当時の貨幣は金や銀などから作られていましたので、それ自体が価値が有りましたが、交換の媒体としての幕府(政府・官)から作られるにしろ、無限に作られる可能性は有りませんでした。貨幣そのものに含まれる金や銀の割合でも価値が変わったので。で、現代のお金です。現代の富は政府が生み出しているという見方がされる時があります。政府は通貨を好きなだけ発行できるからです。それは国債という形を取る事もありますが、最終的には同じことです。この国債という利付きの手形を良く考えてみましょう。その価値がどこから来るのかと言えば、政府が好きなだけお札を刷れるからではありません。政府は好きなだけお札だけを刷るのと、好きなだけ国債(手形)を刷って中央銀行に引き受けさせ(てお金を受け取)るのは、同じことですから。国債が何故価値を持つのかというと、富を生産する民の税金で、約定された元本と利子が支払われるから、です。決して、官が好きなだけお金(お札や新たな国債)を刷れるから、ではありません。昔は、お殿様が商人からお金を借りるという事をやってました。現代の政府でも根本的には同じことをしています。国債という証文を引き取ってもらって、代わりにお金を受け取っているのです。ここでまたお金の不思議が一つ生まれているのですが、商人にしろ、自分の持たないお金は貸せませんでした。百万両持っている商人なら、貸し出せるのは百万両まででしょう。銀行の預金量が全部合わせて500兆円しか無かったとしたら、当然、政府に貸し出せるのも500兆円までになります。他の金融機関、例えば投資会社や個人投資家も合わせて400兆円くらいあったとしても、そこから借りれるのはやはりその限度額までになる筈です。政府がそれでもお金が足りない時に何をするかというと、中央銀行を含めた身内といっていい政府系金融機関に引き受けさせます。そして国債が売れた事にして、その金額を政府の口座に支払わせます。米本位制や土地本位制でも無い、国債本位制とでも言うべき『お金』が誕生しているのです。その実態の詳細は不明ですが4割程度(以上)政府自身が引き受けてると言われていますので、国債の価値は税収によって裏付けられる、という制約も既に破綻しています。(蛇が自分の尻尾から自分を食べてるような状態)『国債は政府が発行しているから価値があるんだ』とか、『いざとなったら、政府は好きなだけお札を刷れるから価値があるんだ』といった本末転倒なお金の上に、私達の日常生活が乗っかっていることになります。好きなだけ刷れるお札(や国債)には、実は価値が無いかも知れない。そんな風に視点を変えてみることが、今日の私達に求められているかも知れません。(ちなみにドルは好きなだけ刷られている代表的な『お金』ですが、ドル以外の『お金』から買い支えられてその価値を維持しているという不思議な存在です。つまり「おれはお金持ちだからお金持ちなんだ!」と言ってる人の懐に、周りの人々がお金を入れたり(そして出したり)してるので、みんなそのお金を『お金』として使っている状態です。お金が信用(この場合はそのお金持ちに対する信用ではなく、その周囲の人達へもそのお金を使えるという信用)やその便利性から成り立っているという好例ではあります。)(続く)
2005.05.12
コメント(0)
私がここ半年程つらつらと考えさせられたテーマの一つに、『お金』があります。テキトーに考えたコトをテキトーに書きなぐってるだけですので、お暇な時にでもテキトー読み飛ばして頂ければ幸いです。お金について考えさせられ始めたきっかけ世界を実体経済から遊離した『お金』が席巻しているのに、アメリカや日本といった富める国でさえ医療保険や年金などに支払うお金に窮し、政府は絶えず存在しないお金を未来から借金し続けないと運営すらままらない状態。企業もニュースも株価やGDPや金利の小数点以下の数字に一喜一憂を繰り返す。おかしい。何かが、決定的に、おかしいのではないか?世の中には想像もできないくらいのお金が飛び交っている筈なのに、目を転じれば世の中の到る所が『お金が足りない!』という叫びに満たされている。お金。子供の頃から使っている筈なのに、実は何も分かっていなかった存在。今日この本を読み終わる前から痛感できたのは、何故こんな大事なコトを学ばないで生きてこられたのかという恐怖。現代に生きる私達が他の何をおいても学ばなくてはいけないコト。それが、お金、という世にも類稀な存在なのです。算数でも数学でも政治でも経済でも、株や債券や物理学や方程式でもなく、『お金』そのものについて学ぶこと。人間とその社会が、便宜の為にお金を生み出し利用してきた筈なのに、いつの間にか、お金に従属させられるようになっている現実と歴史とを今この現代こそ私達は鮮明に認識する必要に迫られています。断言できます。人間はお金に従属していますが、お金は人間に従属していません。もちろん世の大半の人にその自覚は有りません。例えば、社会的に大人と認められる条件は各地域や文化で異なるでしょうが、現代の資本主義経済下にある国々においては、以下の条件を満たすかどうかでその『人物』を判断するのむしろ一般的な風潮になっているかと思われます。その人がいくらお金を稼げる人か。その人がいくらお金を持っているか。その人がいくらお金に換算できる物を持っているかどうか。特に社会的な自立という意味で、お金を稼げない人は、イコール社会的に不要な人間で、負担でしかない、という視点は確かに存在します。失業者という定義すら、就職を希望して就職できない人、であって、就職を諦めた人はその定義の内に含まれません。私は東京という世界で最も豊かな筈の都市で生活していますが、その定義外の人達は到る所に溢れています。お金の機能だけで何種類もあり、定義まで考えるならそれこそ本を何冊読んでも足りないかも知れません。数学的な証明、数式まで含めて理解しようとするなら、もう一度義務教育から受け直して専門の高等教育まで進む必要があるでしょう。逆上がりができなくても生きていけるとの同じ様に、その数式の部分の理解を欠いていてもお金は使えます。しかし目隠しをしたまま車の運転をしているようなものかも知れません。だからといって諦めるのではなく、数学の部分を除いてもお金について考えることは出来、その考える事自体が重要な意味を持ちます。なぜなら、お金という存在が、非常に観念的な意味合いの上に初めて成立しているものでもあるからです。人々が『お金は価値があるもの』と信じ、その価値観を等しく共有して初めてお金はお金足り得るのです。100円は誰が持っていても100円の価値が有る、という意味で等しい価値観を提供しているのです。その裏付けは、『100円で100円の価値に等しい物が買える』という人々の信用によります。お金はそのまま持っていても減りません。お金はその価値を認める誰とでも交換の媒体として利用できます。そんなお金を誰かに貸すと、利子という貸し付けた側への報酬が発生します。この利子という存在が、現代までの競争経済社会の『成長しなければならない』という強迫観念の発生源です。なぜ、経済が成長する事を義務付けられているかというと、経済活動の元手となったお金に対して利子を支払う必要性があるからです。借りたものをそのまま返すだけで良いのであれば、それまで存在しなかった余剰分を生み出して貸し手に利子として返済する必要も発生しません。ここで一つの壁に当たることになります。お金とは無限に存在し得るでしょうか?答えは、存在し得る、です。ただし、お金を媒体として交換される物やサービスなどが有限である限り、その交換手段だけが増えてしまっても、お金としての価値を貶め最終的には無価値な物に変えてしまうだけですので、本来、お金とは有限である筈のものです。ではお金が有限なものとして、お金で交換される物や有限の時、利子の存在によって特定の誰かにのみ持分が増やされなければいけないとするなら、有限な範囲の中で既に存在するお金の中か、これから生産され得るお金の中から利子の支払いが行われる事になります。お金を借りるという行為を利子の存在を踏まえて考えた時、必要とするだけのお金を持っていないから借りるか、もしくは借りた金額とその利子の返済額よりも大きな儲けを生み出す期待があるから借りるか、ということになります。そのどちらの場合でも、『増やして返さないといけない』ことに変わりはありません。直接お金を借りていない人でもその利子の影響を受けることになります。何故なら、例えばお金を儲る為にお金を借りた誰かの商品の価格には返済しなければならない元手と利子のお金が反映されることになるからです。ここで、お金とお金によって交換される物(価値)は有限であるという制約を思い出してみて下さい。例えば世の中が、お金の貸し手と借り手で半々に分かれていたとしましょう。しかし借り手は『増やして返さないといけない』のですが、返そうとするものは有限ですので、どこかの段階から、返そうとしても返せない人が発生する事になります。返そうとする資源が無限に有るのなら、借り手は究極的に無限に借り入れを行える事になるからです。つまり、お金とお金によって交換される物(価値)は有限であるという制約が現実に存在し、借りたお金は『増やして返さないといけない』というプラスの利子の法則が働く環境下では、必然的に、スタート時点で貸し手と借り手で半々で社会が構成されていたとしても、借りたお金と利子を返せない借り手が脱落していくことによって、お金全体の入れ物である社会の大きさも縮まることになります。脱落した人から貸した額以上のお金を吸収した貸し手は、他の貸し手よりも有利な条件でまた他の借り手にお金を貸し付ける事が可能になります。例えば110円しか持っていない人と200円持っている人では、同じ100円を貸し付けるにしても、その条件に大幅に差を付けられるからです。かくして元々貸し手であった人の間からも、借り手を見つけられないまま、しかし価格に含まれる利子コストを支払う内に利子を取る側から取られる側へ回る人々が発生することになります。この連鎖はその発生条件であるお金を貸し付ける利子がプラスである限り続きます。おそらくは最期の貸し手が100%のお金を独占するまで。その貸し手が死んだ後はだからお金だけが残る事になります。実際の社会では、活かさず殺さずという利率が法律で定められていますが、世界の富は極一部の国々に集められ、その国の更に極々一部がまたその富のほとんどを独占しているのが現状です。その傾向は豊かな国ほど顕著になっているというのも世界の実情でしょう。(続く)
2005.05.11
コメント(0)
今回は自由意志で、しかも外国の民間警備会社の兵士として(ここの感覚からして既に多数の日本人には馴染まないだろうけど)イラク入りしていた人。当地の危険性はもちろん承知という所か、その危険から誰かを守る、そして身の守り方のコンサルタントを職業にしているのだから、最初からそのリスクに身を晒してそれを飯の種にしていた人。彼の無事を祈ってる人もいますが、既に無事じゃないそうですから。重傷負っているそうですから。それでも生きているならその生存を期して『無事を祈る』?彼が拉致された時、同行していた16人は既にその場で殺されたそうですが、それは別にどうでも良いのでしょうか?(外国人5人含む)しかも、です。その海外の警備会社がはっきりとこう取り決めてるかはまだ未確認ですが、車列の最後尾の車から20メートル以内に後続車が近づいた場合、『問答無用で銃撃する』よう命じられている内規に従っていたとしても、やはり彼の身を案じるのでしょうか?(家族とか同僚とかならともかく)後ろに近付いてきた車が無害な民間人が運転してるかどうかなんて全く関係が無いという、そういう仕事に就いてた人の身を案じる?・・・まぁ、邦人ですからね。(わらい)日本の記事や報道だけ追ってると、どうしても『日本人』にだけ焦点がいってしまって他の事はどうでも良くなってしまってます。政治的には、Anbar provinceの知事が拉致された事の方がインパクトが大きいでしょう。(拘束されている武装勢力を釈放するよう求めているそうです。)前にも何人も日本人捕まってますし、殺された人も既に出てますしね。あとね、自衛隊含め彼らを派遣してる日本人には今回のような海外の警備会社になんて関わってないと言う方、いらっしゃるかも知れませんがそれは誤った認識です。隣国まで空輸した物資をサマワ駐屯地まで運ぶ車列の警護、どこに頼んでいるか調べてみると面白いですよ。もちろん、彼らへの報酬には国民の税金が使われています。今回の斎藤さんの生死に関して、私はドーデモイイと感じています。彼が日本人だろうがアメリカ人だろうがナイジェリア人だろうがその他の国の人だろうが、自らの意思で現地へ行き、危険を承知では無く飯の種に行っていた人なのですから。彼は自らのリスクを負っただけです。感情的になる理由など、どこにも有りません。こっから下は、yahooはyahooでも、.com、つまりアメリカの方の記事内で面白い表現を見つけたのでそれをご紹介します。Iraqi governor seized, hostage crisis escalatesもーイラク人質事件は邦人でないとニュースにもならんみたいですね。(日本国内では)で、そんな記事の中の一文がこちら。Japan has around 550 soldiers in Iraq, a largely symbolic deployment as they are not allowed to take part in combat. このニュースに限った事では無いのだろうけど、『自衛隊』という表現のアホらしさが、英語にしたら"soldiers"=兵士という身も蓋も無い言葉で顕にされているのが笑えました。さらに続けて、"a largely symbolic deployment"という表現もツボに入りました。"ほとんど形だけの派遣"、もっと言うなら『(戦闘に参加する事を許されていない)お飾りとして来ている』という皮肉たっぷりな表現。単なるお飾りならお守りもいらないだろうけど、自分の身も守れない生きているお飾りなので、お守りに別の国の軍隊を必要とするまさに『お荷物』でしかない。そんなモノをなぜ派遣しているのかアメリカ人には理解し難い感覚だと思う.まとめいいかげん、日本人が絡んだ時だけ、コトの日本人に関する部分だけを大げさに騒ぐの、やめませんか?笑イラク情勢に関して言えば、民主化と新政府樹立プロセスはもう止められない流れになっているのに、それに反抗する人々が自爆テロを含めて同胞達の命を巻き添えにしていってるコト自体が悲劇なのであって、今回の襲撃・拉致事件はその中の一つの出来事にしか過ぎない。(もちろん、アメリカやイギリスの戦争犯罪は今後も追及し続けていかなくてはいけないとしても)アメリカの民間人だってもう数十人以上は軽く死んでます。自衛隊の派遣なんて、自慰行為であって、当地の治安の安定になんて(ほぼ)全く寄与していません。寄与しているというならそれは自己矛盾に陥るから。彼らの持つ銃や装備はイラクの治安を守る為では無く、彼ら自身の身を守る為に『のみ』携行されていて、それ以外の用途は禁止されているから。(疑う人は特措法を読んでみて下さい) 自分達の居住する駐屯地の安全さえ自分達で守れないのに、なぜその外側の安全を守ることに自分達が寄与していると言えるのか、片腹痛いです。斎藤さんの弟さんのコメントが気丈とかいうレベルではなく常識的だと感じました。「イラク政策を変えることなく、揺らぐこともなく、兄の件とは別に主体的に(自衛隊が)イラクにいるべきかどうかを考えてほしい。いるべきだと思うなら、日本政府を支持します」まぁ、私の兄はイラクに行ってもないしつかまってもいないけど、自衛隊はイラクにいるべきではないし、現在の日本政府の政策も支持しませんがね。
2005.05.10
コメント(4)
10連休明けでしたが、始業10分前には準備万端でいました。(最寄の駅についたのはさらにその40分前くらい。マックで朝食)しかし、きつかった。連休明けというのもあったのでしょうが、徹夜明けというのが、効きました。なにせ9時始業の30分後くらいには睡魔に襲われ、朦朧となってましたから。ハイ!はっきりと、ダメ社会人ですね。笑でもまー、電話が多かった事もあって、きっちり仕事は(たぶん)こなし終業時間を無事迎え、定時後のミーティングもこなしました。・・・他に何か無かったのか?アジワンのウェイトレスに期待が持てそうな新人が入っていたこと → ○会社とか電車、たぶん気のせいでなく、人増えすぎ! → ×しかも周り普段99.99%男しかいないよ! → 涙(まぁ、先日の日記でも触れたエンデの遺言『根源からお金を問うこと』にかかりきりな状態なのでこんくらいで・・・。)
2005.05.09
コメント(2)
時々落ち込んだこともあったけれど、私は元気です。byキキじゃないけど、作る予定でいたFlashに手をつけられかったものの、概ね有用な休みでした。10連休だけど遠出はしませんでした。LotRのボックスとDVD一枚買ったら4万だったので、それ以上の冒険はしませんでした。最終日に映画と本で1万円くらい使ったのを除けば。笑(本3冊で8000円て・・・。orz)散歩もしたしゆっくりもしたし運動も少ししたし書き物も少ししたし。落ち込んだっていうか、欝になりかけたのは、やりたいことに体を向けても気が向かない、ていうような状態。まだその時じゃなかったんだ、と今では解釈してます。結局その時間をWoWで遊んでたりしたのですが、その時々で最終的にやった事が、自分が本当にやりたかった事なんだと思いました。だって最終的な選択肢が、それだったのだから。やりたかった事がやれなくて欝になるなんて、本末転倒ですしね。10連休って長いような気もするけれど、自分ではそうでもありません。社会人になってからも、仕事と仕事の合間には数ヶ月以上空いたあるし、学生時代なんて夏休みは4ヶ月でしたから。先日分からの日記を埋めた通り、GWの最期は漫画喫茶>ファミレス>自宅に帰って書き物、の徹夜コースで〆て出勤しました。^^
2005.05.08
コメント(0)
ミヒャエル・エンデ。『はてしない物語』(映画ネバー・エンディングストーリーの原作。ただし著者であるエンデはこの映画の原作である事を後から拒否しようと裁判に訴える事までしましたが。映画の骨子があまりにも原作とかけ離れている為)『モモ』などの著者というとファンタジー作家、つまり現実とは遠いところを描く人と思われるでしょうが、実は、違います。『どう考えてもおかしいのは資本主義体制下の金融システムではないでしょうか。人間が生きていくことのすべて、つまり個人の価値観から世界観まで、経済活動と結びつかないものはありません。問題の根源はお金にあるのです。』意外と思われるでしょうか?私は彼のこういった一面を知らなかっただけに、意外でした。同時に、嬉しくもありました。敬愛する作家も、物事の根っ子を同じ様に捉えていたのかと。『その原因は今日の貨幣、つまり好きなだけ増やすことができる紙幣がいまだに仕事や物的価値の等価代償だとみなされている錯誤にあります。これはとうの昔にそうでなくなっています。貨幣は一人歩きしているのです。』彼が10人の法律家にそれぞれ手紙を書き、『銀行券(紙幣)とは何か?』と尋ねましたが、10通りの返答が返ってきたエピソードも紹介されています。それに触れてこう語っています。「それ(銀行券)は『法的権利』なのか、国家がそれを保証するのか。もしそうなら『お金』は経済領域に属さず、法的単位ということになります。『法的権利』なら商いの対象にはできません。しかし、そうではなく経済領域に属するものなら、それは商品といえます。10人の法律家からは10通りの返答がきました。つまり、法的に見て、銀行券とは何なのかを私たちはまるで知らないわけです。定義は一度もされませんでした。私たちは、それが何か知らないものを、日夜使っていることになります。だからこそ、『お金』は一人歩きするのです」『今日ではお金とは抽象的な大きさにすぎません。紙幣すらだんだんと姿を消し、今日動かされているのはコンピューターの単位、まったく抽象的な数字といえるでしょう。』極め付きは次の言葉でしょう。『私の見るところ、現代のお金がもつ本来の問題は、お金自体が商品として売買されていることです。本来、等価代償であるべきお金が、それ自体が商品になったこと、これが決定的な問題です。そのことにおいて、貨幣というもののなかに、貨幣の本質を歪めるものが入るのではないでしょうか。これが核心の問いだと思います。もっとも、これは私の考えであって、経済学者は別意見かも知れませんが。』パンを買う代金として支払われるお金と資本市場のお金という2種類のお金が存在していると指摘しているエンデは、上記のような結論にたどり着いています。さらにエンデは民主主義政治の選挙というシステムの限界にまで触れています。エンデ自身がSPD(ドイツ社会民主党)の党首だった人物から党の経済評議会のメンバーに招かれた時の話で、『しかし、資本経済の変革を党綱領に取り上げたら大変なことになるだろう。誰も、労働者ですらも、SPDに票を入れなくなる』と話されたエピソードが紹介され、つまり貨幣の持つ内的価値要因のシステム的な変革よりは、外的なメンタリティの変革の方が難しいだろうと。『この経済システムを変革できないのは、私たちの民主主義ともかかわっています。ですから、この問題は党綱領を通じて解決できません。政治を通じては解決できないのです。一九二〇年代に考えられたように、国家が舵をとる経済や、武力革命でこの問題は解決できません。問題の解決は経済人自身がこの問題を理解すること、それ以外に道はありません。』私は、究極的には、一度世界中の通貨は統合されなければならないと思います。そこには必ず政治のプロセスが必要になります。統合する事の最大のメリットは、一つの通貨を他の通貨と取り替える、という商取引を絶滅できる事にあります。つまり現代の利潤計算のみで膨れ上がっていくマネーの膨張を支える錬金術に終止符を打つ、一つの、そして最低限必要な施策と思われるからです。そうなって初めて『お金』は取引の等価代償としての本来の役割を取り戻す事が可能になるでしょう。(本の続きを読んでから、また続きを書きます。現在、5月9日の朝6時20分。シャワー浴びて出勤します。)
2005.05.07
コメント(0)
5/9の朝方になってこれを書き始めてる馬鹿がいます。朝方といっても超朝方。朝4時の5分前です。GWは終わってます。ま、細かい事は気にせず、今日観て来た掲題の映画などから、ぼちぼちと話をつないで空いた日記の穴埋めをします本題につないでいこうと思います。(5/5~7は主にWoWやってたので。笑)映画『Little Birds』って?ぶっちゃけ、映画としては観る価値無いでしょう。イラクに行ってきた日本人ジャーナリストがイラクの開戦前と開戦後、終戦後の様子などを映像に撮ってきたものをつぎはぎしただけ。カメラワークも何もあったものではないし、ナレーションなどの編集作業も全然観れるレベルにまで到達していない。当時のマスコミの映像やNHKスペシャルなどの特番を見てたら、特に問題意識を持ってイラク戦争前後の推移を眺めてた人なら、今更この映画を観る意味は特に無い。映像的にあえて言うなら、サマワに行った自衛隊を取り巻く日本メディアの馬鹿さ加減がイイ加減に表現されていたくらいだ。しかし、私がこの映画と映像を撮って来たジャーナリストを評価しない理由は映画的評価とは別に有る。イラクで殺された橋田さんの言葉がいみじくも語るように、彼は『戦争と戦場を混同している』のだ。このジャーナリストは何度もイラクに来たアメリカ人兵士に詰め寄る。『なぜイラクに来たのか?』命令だからに決まってる。自分の所属する部隊がイラクに派遣される事に決まったからという動機に過ぎない。『なぜ無実の人々を殺すのか?』完全にこのジャーナリストは劇中ではきちがえていたが、彼が詰め寄った相手が殺したのでは無く、空爆などで自分が手にかけたのでもない相手や犠牲者に対して責任を取れと言われても、ね。一兵卒に罪の意識を被せようと必死だった。太平洋戦争を振り返るドキュメンタリー物でも恒例なのだが、ヒロシマ・ナガサキに原爆を落としたパイロット達を責めて何になる?東京を空襲しにB-29に乗ってきたパイロット達に人道的に間違いは無かったのかと問い詰めて、その事自体に何の意味があるというのだろうか?逆に面白かったのは、イラクの人にこのジャーナリストが追い返される何回かのシーン。『なぜアメリカの味方をするのか?』『私は日本政府の(対イラク戦支持)政策を支持しない』と言った所で、彼自身が日本人である事実は変えられない。この映画の中で出てきたイラク人達の多くが「日本は嫌いでは無いがアメリカの味方を何故するのかわからない」と言っていた。彼らは根本を間違ってる。日本はもともとアメリカに従属しているのだ、という事実を。その意味で、イラクで亡くなった橋田さんは潔かった。『お金のため』である。人類の為とか、真実を伝える為とか、国際平和の為とか、ジャーナリストとしての使命に燃えて(まぁそれもあったろうけど)、と言うよりは、生活の為である。(詳細は『イラクの中心でバカと叫ぶ』の"戦争を祈るヘンな男たち"辺りを参照のこと)イラクで体の一部を吹き飛ばされたり、家族を殺されたりした人々が言う。『アメリカは何故イラク人を殺そうとするのか?』おそらく、アメリカはフセインを権力の座から追い出したり、米軍主導の政権の樹立の邪魔者は能動的に排除しようとするだろうが、一般庶民に関して言えば、殺したくて殺しているわけではない。たまたま、爆弾が落ちた(もしくは落ちちゃった)場所にいたのが彼らだった、とか、アメリカ兵が機銃を掃射した所に居合わせた、とかだろう。(例外的に、人を撃ちにイラクに来てる連中の犠牲になった人々もいるだろうけど)イラク人をフセインの圧制から解放する為、というのはとって付けたおまけで、石油という理由でほとんどは説明される。アメリカという国の繁栄を続ける為。その繁栄に必要なエネルギー資源を確保しておく為。戦争って、そんな身も蓋も無い理由で始まって終わるくらいに考えて良いと思う。映画中で、3人の子供を殺された男性が、米(連合)軍の戦後補償を求めてその事務所に赴いたが、爆撃で家屋を壊された事も含めて、『うちらが殺した人の(命の)補償は出来ないよ』と明言してる姿が生々しかった。中国が過去60年前とかの日本軍の侵略などを非難するなんてものじゃない。つい数ヶ月前の爆撃の犠牲者で、3,5,7歳の娘達を住宅地への爆撃で失った男性へ、死亡診断書や写真その他の証拠を揃えても(映画中でもかなりの時間をその男性とその亡くなった子供達に対して割いている)、米軍は一切補償には応じない。当たり前だ。いちいち対応してられない、というのが本音だろうし、そんな事の為に彼らはイラクくんだりまで来たんじゃないのだろうから。そんなアメリカとくっつくことで繁栄を享受しているのが日本なのだから、毒を食らわば皿まで、の精神を体現したのが小泉首相であり、イラクへの自衛隊派遣だろう。はっきり言えば、イラクの現状を撮影するよりももっと大事な事が、役目が日本人には、おそらく期待されていたのだ。それが幻想に過ぎない期待だとしても。イラクへのアメリカの介入を止めて欲しかった。それが、現実だろう。100%無理な話だったとしてもだ。日本人からすればね。例えアメリカのイラク戦費を日本と中国でファイナンスしていたとしても。戦争という視点から見た映画がムーアの『華氏911』だとすれば、戦場というかイラクの被害者達に少し寄り添い一部米兵に詰め寄った日本人ジャーナリストの出来損ないドキュメンタリーフィルムがこの『Little Birds』だろう。んで、少々強引ですが、その映画の後に寄った本屋で見つけた本の紹介を次に。(といってもまだ読み始めですが。笑)(映画『Little Birds』は、cat's eyeさんのこの日記を読んで観に行ってみました。)
2005.05.06
コメント(0)
『総務省が「こどもの日」にちなんで四日まとめた人口推計によると、四月一日現在の十五歳未満の子供の数は千七百六十五万人で、前年より十五万人減った。二十四年連続の減少で、総人口に占める割合も過去最低の13.8%(前年比0.1ポイント減)となり、昭和五十年以降、低下が続いている。』(産経新聞5月5日朝刊3面)紙面にはグラフも載ってるのですが、昭和50-55年辺りで2700万人くらいいた15歳未満の人口は、綺麗に急激に減り続けてますね。この年齢層が25年くらいで約1000万人も減ってる計算になります。当然ながら、今後も減っていくと推測されていて、そうなるでしょう。(そうならない根拠が無いから)平均年齢が伸びているせいで、総人口の減少は来年からになりますが、実質的にはもうかなり前から減り始めていたんだなぁ、と実感できるニュース(情報)ですね。このペースで減っていったとすると、25年後にはさらに1000万人減って700万人程度になるのかな。(なんか自分で言ってて怖くなりましたが・・・)子供の数が恒常的に減っていくことの何が怖いかというと、出産(人口を増やす)適齢期人口も同時に減り続ける、という事なのです。1億2000万人が1億1000万人に減るっていうとまだまだ余裕ありそうですが、1700万人が700万人に減るって、もう余裕なんて全然無くなってるように感じるのは、私だけでしょうか・・・?(実際には700万人になる頃には全体も1億人程度くらいまで減ってるでしょうが) 日記のようなもの(274)
2005.05.05
コメント(1)
発生時から全然気にしてませんでした。新聞の見出しとかチャンネル回しててふと入ってくるニュースを眺める程度。だって、事故発生当日も、その次の日も、どっちにしろ乗らなきゃならない電車には乗っていたんですから。あはは。で、メディアは『これ幸い』と特ダネ扱いで連日の報道を繰り返してるわけですが、最近は当日夜に懇親会をそのまま開いてボウリングや飲酒してたのはケシカラン、と事故からずれた話にまでなってきてて、ネタ切れ感が否めません。笑『不謹慎だ!』と彼らを責めるのはそりゃ誰でも言える。でも、周辺に住んでる人はお酒呑んじゃいけなかったんですか?ボーリングしてたらいけなかったんですか?彼らが現場や勤務地で待機してて何か出来たんですか?確かに、何かは出来たかも知れない。でも映像で見てた限り、必要な人だけでもぎっしりな状態で、直接手出し出来る立場にもいなかったろうし、その技術も無かったでしょう。憶測ですがね。でも死人が出てるのに不謹慎だと言うなら、彼らが『配慮』して中止してれば、それが当然だ、とでもなるのでしょう。(まぁ中止してた方が賢かったとは思いますがね)私が見境の無い不謹慎の合唱に呆れるのは、別に始めてじゃない。イラクで大馬鹿3人組が捕まった時に、何も出来ないだろう役人や政治家達が緊急対策本部とやらに申し訳程度にたむろしてたのも、だからそんな『不謹慎だ!』の合唱を避ける知恵だったのでしょう。あといくつか思い起こされた事を。9・11同時多発テロが起きた後、いくつもの行事が中止されたのも阿呆らしかった。プロ野球のリーグ優勝のビールかけ自粛とか、何の関係が有るんだ!?、みたいなね。それから事件を知りながら懇親会を中止しなかったJR西日本の対応が、全然次元は違うものの、日米戦争(太平洋戦争)開戦の宣戦布告の文書の翻訳と提出作業よりも、知人の結婚式や同僚の送別会を優先した外務省官僚(しかも宣戦布告が真珠湾攻撃開始よりも遅れてしまった事に関する処罰はその後一切無し)達の体質と、全然変わってないのだなぁ、とふと思えてしまいました。ってネタ切れというか気力が湧かなかったので、これについて書いてみました。^^;日記のようなもの(293)
2005.05.04
コメント(0)
まー、たかが連休の内の一日です。新聞のTV欄見たって、それらしい番組は午前中のNHKの特番くらいで、民放だとNews23の中で触れたくらい。あんだけ公共のなんたらと吹聴してた筈のフジは当然いつも通りの構成。視聴率取れない番組の存在意義は無い、のでしょうからね。はっきりそう言い切ればイイのに。『どうせうちらが数年かけて作った特番をゴールデンタイムで流したとしても、あんたら興味無いし、見ないでしょ?だから作らないんだよ』とでもね。新聞でも、全紙が一面で憲法改正論議を扱ってたわけではありません。一面TOPに持ってきたのは東京とか朝日とか。毎日は尼崎脱線事故の記事の脇に載せてました。産経は一面下段と2面と5面で。日経はまぁ所詮日経でした。憲法改正とか新しい憲法を創る事とかに関して世間一般の関心は、新聞などの電話調査だと6割以上の人が有るそうですが、衆参の調査報告書の存在については3割未満に留まるそうです。(朝日新聞一面)憲法改正というとすぐに9条改正とか軍拡とか復古主義とかにつなげられていた時代よりは僅かに前進してる状態ではあるのでしょう。憲法なんて、つぎはぎするものなんです。いらなくなったのは消したり、必要なものは文章変えたり新しいのを加えたりして、現実に即したものにしていく。それだけのモノなんです。人が生きるか死ぬかというような問題じゃ無いのです。(まぁ徴兵義務が盛り込まれたりすれば又別でしょうがね)憲法は、誰の為に有るかといえば、その対象とされ、その影響下にある国民の為に有るのです。憲法は、何の為に有るかといえば、自分達の権利を守る為に国がしなくてはいけない事としてはいけない事を明文化する為に有るのです。憲法が万人は平等の権利を持って生まれたなんて書いた所で、在邦外国人の参政権一つ取っても平等ではありません。『陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない』といった所で、「これは自衛隊で軍隊じゃないし、装備してるのも戦力じゃありません」と押し通してしまえばそれが通って数十年経過してるのが日本なのです。つまり憲法なんて有って無きが如し。意味無いじゃん?と言われてしまえば、大半が、その通り、なのですよ。今回10年や20年かかって改正なり創憲されたところで、その根本は変わらないでしょう。でも、憲法を持つ事が完全に無意味かというと、そうでは無いとも、私は思うのです。三権分立という幻想はとりあえず置いておいたとしても、例えば天皇は何故天皇なのか?天皇は何故立法府の定めた法律にハンコを押す事を拒否できないのか。そんなものを定めてるのも憲法です。例えば、『人が誰かを殺したら、そいつは死刑にする』という法律を作る事は小学生にでも可能です。でも、作った法律を他人にまで強制できる権限は持たない。では立法府(地方や国の議会)が定めた法律が何故その強制力たる権限を持つかというと、憲法で規定されているからです。(第四章国会など)例えば何人たりとも両議院の議員に同時になることはできない、とかね。(第48条)逆に言えばだから、憲法が無くなると誰が一番困るかというと、立場を保証してくれてるモノを失う国会議員達だと思う。(だから二院制の堅持は両院の調査報告書で多数意見)今回の改正論議にしろ、民と官(国会議員含む)のどちら側から発せられているかというと、官の側。つまり今まで臨時法その他でいろいろ迂回させてきたけど、それも限界に近いほど『面倒くさい』ものになってきたので、だったら憲法そのものを変えてしまえばいい、という事だと思う。現状維持なら、何も変える必要は無いのだから。(自衛隊の存在を含めて)TV欄で各局がこぞって憲法調査会の最終報告書の内容を検討する番組をゴールデンタイムに流すような状況には、現在の社会的機運は、全く無い。いざ国民投票で憲法改正という段になれば9割が投票に行くという調査結果も出ている(東京新聞)が、どうせそこまで言うのなら、投票前にもう少し関心を払っても無駄では無いと思う。日本の社会は急激な人口縮小という現代社会において前例の無い状態に突入していく。頼りにしていた経済力も先細りになり続けるのに減少し続ける天然資源の価格は自然と高騰していく事になるのに、政治組織がそのままで維持し続けられるはずが無い。そんな時にさえ持ち出されるであろう反論が、『でも憲法で規定されているから』。そんな先の見えた阿呆な事態に陥らない為にも、一人一人が自分達と国とを縛る最大の鎖たる憲法に、もう少しずつ関心を払っても良いのだと思う。それらが表面化してきた時、GW中のTV欄の様子も、少しは様変わりしてくるのでしょう。(それが最終目的では全然無いけど)
2005.05.03
コメント(2)
このGWの目標の一つにこの三部作を一気に観る事があったのですが、さすがに一息には見れませんでした。てか無理。w一応、全部劇場では観てましたが、その当時の通常版よりもこの無修正版とでも言うのかな、の方が大分良かったです。特に、2番目の『二つの塔』と3番目の『王の帰還』は無修正版で観る事をお勧めします。『二つの塔』は劇場版でもそこそこ観れたというか3部作の中でも一番好感を持っていたのだけれど、細かいエピソードなども含めて更に良い物に仕上がっていました。しかし3つの内で一番の違いを感じたのは、やはり『王の帰還』。消化不良の様に感じて劇場では一回しか観なかったのだけれど、それもその筈。無修正版をご覧頂ければ分かるのだけれど、重要な部分でもばっさばっさと切りまくり過ぎて、どうしてそれで公開できていたのか(そして意味が一応伝わっていたのか)、不思議に思えるくらいでした。原作そのままでは勿論無いにしろ、サルマンのケリも付けられてたし、フロドとサムの旅もハラハラする場面がかなり削られてたり、その他話的に「カットしちゃヤバイだろ?」的な場面も多数です。特に原作を読んでる人から見れば、『あ、この場面ちゃんと撮ってくれてたんだ!』と嬉しくなる事請け合いです。という訳で、指輪物語ファンで映画版も一応否定しない方なら、無修正版はかなりお勧めです。特に『王の帰還』だけでも観るべし。お勧め度は、ファンの方なら、5点満点で5点ですかね。(それ以外の方はお好みの点をどうぞ。笑)で、ここから下は、原作を文字媒体で持つ作品を映画化する事に関する雑感です。指輪と同時期にシリーズ作成・公開されてるハリー・ポッターでもそうなのだけど、原作をそのまま映像化する事は不可能。何故なら、文字は登場人物を言葉でそのまま読者に伝えられるけれども、映像では役者の演技越しか台詞で伝えなくてはならないから。(字幕使っても同じ事)さらにいくらCGが進化しても、映画(やTVアニメ)という商業媒体に載せられる限り、物語の尺をそのまま再現する事も不可能。かなり忠実に商業的にほぼ限界の長さで作ったであろう指輪物語でさえ、原作の文字数で表現されてる事の実質的には半分以下しか映像化出来ていないと思う。(トールキンは旅の細かい描写まで一々書き込んでた人なので。笑)現代の人が一生の内TVを見る時間と本などを読む時間のどちらが長いかというと、国や文化や生活水準などで全然違って来るだろうけど、特に学業時代を終わってしまえばTVなどを観る時間の方が長くても不思議ではない。LotRのSpecialExtendedEditionにしろ、結局あれだけの労力をかけても書かれた事全てを映像化する事は不可能(というか映像としてする必要が無いのも事実)。でもそこで私が強調したいのは、如何に文字が自由か、という事。つまりペンと紙さえ有れば、カメラやフィルムが無くとも物語を紡ぐ事は可能。どちらがより自由かは言うまでもない。このLotRの無修正版はもちろん映画として素晴らしかったので、それにケチを付けるつもりはさらさら無いけれども、逆に素晴らしかった事で、文字って自由でいいなぁ、と強く感じました。ああ、そうそう。文字は一人でも書けるけど、映画はね。一人で凄いの作っちゃう人もたまにいるけど、そういった意味でも、文字や言葉ってすごいんだな、って思います。
2005.05.02
コメント(0)
中国で反日デモが無かったそうです。(5/1含む週末に)ただし、一連の中国政府による封じ込め活動に少なからぬ違和感を感じたので列挙してみます。1.違法なデモ?つまり政府が許可しているものが合法でしていないものが違法。集会の自由というのは当然民主主義の根本にあるわけなのだけど、実際問題としては日本やアメリカでも大規模なものになればなるほど申請して許可がいるらしい。(集合日時やデモ順路、目的などを申告するのかな)さて、日本の大使館や領事館その他に破壊行為を加えたデモをかなり後になってから当局は「違法なデモだった」と認めたのだが、それらが官製だったかどうかはおいといて、『違法なデモ』という言葉に違和感を感じました。何故なら、政府などに対して何も不満が無ければそもそもデモなどしなくていいわけで、今回のデモに関して言えば、自分に対してではない日本に対するものなのに、それを中国政府がデモの内容や付随する行動ではなく、デモを行う事その事自体を禁じている。例えば、極端な話、背中に『日帝安保理常任理事国反対!』といった立て札を縛り付けて両手も後ろ手に縛り、どうしたって暴力行為には及べない人達が100人なり1000人なり10000人集まったとして、それも違法行為であるというのは、これはデモを禁止しているというよりは、言論の自由とその行使の自由そのものを否定している事にはならないでしょうか?それも『違法なデモ』になるのでしょうか?破壊活動をするから違法なデモ、と判断しているのでは無い所に私は危惧します。この中国という国は、天安門事件を起こした頃の体質から、本質的には何も変わってはいないのだと。当局の都合以外の異論は許さないのだと。2.市民の携帯電話にメール携帯電話のメルアドは、ある意味固定電話以上の私的な存在な筈。(中国は違う、登録制だというならここから書く事は無用のものかもしれないけど)つまりそんな私的な公開していない筈のメールアドレス宛に、『反日デモに参加するな!』なんてメールが政府から届いたら、ゾッとしない?感覚的に分かりにくければ、替えたばかりの携帯のメアドとかに、「明日の選挙には行きましょう」と選挙委員会からのメールが一斉に届いていたりしたら、やはり怖くないでしょうか。中国のメルアドのシステムがどうなっているのか分からないけれど、日本のマスコミがこの点について何も深く突っ込みを入れていないので、書いてみました。3.反日団体の事務所に踏み込みパソコンなどを押収。サイトにアクセス不可にこれは上で触れた言論の自由などにも絡むけど、確かに中国が民主主義国家では無いにしろ、やり過ぎな感が否めません。何故か?デモ封じ込め、異論封じ込めには確かに有効な手段かも知れない。けれども、これは完全に言論の自由と集会の自由を否定した行為ではないでしょうか。インターネットのサイトに自分の信じる意見を書き込むというのは、紛れも無く言論の自由の行使。その同士が集まろうというのも、立派な集会の自由の行使。(それが例え悪魔崇拝とか人種差別団体とかだったりしても)その事務所に立ち入り、サイトのデータを持っていた(おそらくね)サーバーまで押収してしまったのだとすると、書物(本)にすれば発禁して書店からも強制回収したというのに等しい。4.これらの違和感を踏まえてデモが今週末は無かったね、良かったね~。とか、中国政府の努力が実りました。今後も継続される事を望みます。では済まされない様に、私は思うのです。中国は確かに国連安保理常任理事国です。しかし民主主義の国では、上記に触れた通り、有りません。10億以上の人間をまとめる為には止むを得ない措置という部分も、もちろん有るでしょう。しかし経済的には、この国無しでは世界中が立ち行かなくなってきているのです。そんな中国の内情がだから言論の自由を簡単に抹殺してしまう様な国であるとしたら、いくら経済的な結びつきを強調した所で、それが一晩で無に帰してしまう可能性が未だに消えていない実態を私は危惧します。杞憂でしょうが、今回の一連のデモを禁じられた人達は、それこそ十数年以上にわたって受けてきた教育内容に基づく自発的な行動を禁じられているのですから、今後同じような中国政府の行為がどのような違う局面で適用されるのか誰にも分かりません。私はそこに一抹の不安を感じます。
2005.05.01
コメント(0)
(人間自販機 エピソード1:『今日こそ』-1、-2、-3)、 エピソード2:『求めていたモノ』 エピソード3:『ねがひはつきぬもの』 エピソード4:『自殺教育』 エピソード5:『親子』-1、-2、-3、-4)五.裁判官達の判断(裁:裁判官、検:検事、カ:心理カウンセラー、弁:弁護士)裁:さて。この四者の会話・通信記録から、おおよその見当はついたかと思うが、どうすれば今回の事件を丸く収めて、なおかつ未来に遺恨を残さないと思うかね?検:まず皆様にご報告しておきますと、今回の暴行未遂事件の被害者である娘さんの春菜さんは、告訴を取り止めました。被害届けのみ提出し、扱いは非公開という事で同意されました。カ:私が一番心配しておりますのが、春菜さんの彼氏、隆さんの心理状態ですね。春菜さんの身篭られたお子さんが自分の子供であると医学的に確認されているのですが、心理的に、高志さんと春菜さんとの間に以前から性交渉があったのでは無いかと疑われております。無理もありませんが。 現時点では暴力衝動の兆候は見えておりませんが、もし万が一堕胎を勧めたり、春菜さんが希望しておられる結婚にも同意しないような事がありますと、胎児の命だけでなく、母親である春菜さんの命にまでかかわりかねません。つまり、思いつめた挙句の自殺です。弁:高志さんは自分の性衝動を自覚しておられた故に、今回の再生処置を行われた。裁判所もそれに許可を与えた。未遂事件そのものに関してはその場に踏み込んでしまった春菜さんの巡り合わせの悪さが大きく関わっているわけですが・・・検:異議有り!もし今回の再生処置が完了していたとしても、その後同じ様な犯行に及んでいた可能性はあったわけでして裁:異議を認めるが、まず弁護人の言い分を聞いてから再度申し立てるように。弁:検事さんのおっしゃる事もごもっともですが、それを認めたら今回の再生処置自体や、インスタント人間の存在意義と利用価値そのものが問われてしまいます。その議論は既に語りつくされているものとして、この場では触れないでおきます。 そして、ですね。私としては、被告人は今後生活環境を完全に娘さんと別れさせ、半年から一年ほど保護観察処分にすればそれで十分かと思います。むしろ、今後犯行が起きるとすれば、彼氏である隆さんから父親である高志さんへの傷害致死行為。もしくは、堕胎を勧められたり結婚を拒絶された場合の娘さんが父親に対する傷害致死行為又は自殺に及ぶ可能性の方が高いように思われますが。裁:心理カウンセラーとしての御意見は如何様になりますか?カ:弁護士さんが言われた事は十分に危惧されます。父親が娘への性衝動を避ける為に数年前から秋穂という女性と性的関係を保っていた事は皆さんにお話しても問題無いでしょう。もちろんここ以外の場所での口外はご法度ですが。秋穂という女性がどことなく亡くなった奥様に、つまりは春菜さんに外見や雰囲気も似ていた事も、彼女を性交渉の相手として選んだ理由だったと高志さんは打ち明けられました。当然、秋穂さんにはそうは話されていないそうですが、秋穂さんご自身はきっと気がついておられたでしょうね。裁:検事さん、警察としては今回の事件と事後処理に関してどのような処置をとる事が可能でしょうか?検:親子の別居処置、及び父親に対する保護観察措置並びに彼氏に対する監視措置でよろしいのではないでしょうか?裁:では、警察にはそのようにお願いしましょう。今回のこの案件について他に何も無ければ、次の案件に移りましょうか。 さて、次は八十七歳の死期が近いと思われる老女が、自分が死ぬ間際には既に七年前に亡くなられているご主人に看取られたいとの申請を出されている件です。もちろんご主人のDNAサンプルは残っていてインスタント人間を再生してという事になる訳ですが・・・<おわり>
2005.05.01
コメント(0)
(人間自販機 エピソード1:『今日こそ』-1、-2、-3)、 エピソード2:『求めていたモノ』 エピソード3:『ねがひはつきぬもの』 エピソード4:『自殺教育』 エピソード5:『親子』-1、-2、-3)四.娘の彼氏から娘の父親の携帯へもしもし、高志さんですか?え、違うけどそうだって?警察の方?高志さんに何かあったんですか?はぁ?高志さんが?春菜を?ちょちょちょっと待って下さいよ!そんな話・・・、聞いてませんてば!あいつ・・・・・。高志・・・さんは今拘留所?そうですか。春菜は、そうです、そう聞いてます。高志さんと付き合いのある秋穂さんていう女性からです。ええ、その秋穂さん伝手ですが、春菜が妊娠してる事も聞きました。ええ、ぼくが聞いた限りでは、ぼくが父親だそうですが、どうだか。え、早まるなって?確かにその産婦人科医のDNA診察結果では、ぼくが父親ですって?そうですか・・・。立ち入った事?何でしょうか?いえ、どうぞ。はは、そんな事ですか。いやまぁ確かに立ち入った事ですね。ええと、春菜は処女だったと思います。少なくとも一年前から付き合い始めて、最初にしたのが半年くらい前でした。出血?無かったと思うけど、それはある人と無い人がいるって話には聞いてましたし、ぼくもその時は気にしてませんでした。いいえ、ぼくは彼女に堕ろすように勧めてません。秋穂さん伝手ですが、産む事には同意しました。ただ、彼女は受精卵保育器は使わずに自分自身で産みたいらしいのですが、ぼくとしては・・・。彼女のお母さんは彼女を産んだ時に亡くなってるわけですし。できれば、彼女を説得できたらと思って、それで高志さんにも今連絡してみたんですけれども。はぁ、そうですか。ずっと春菜の事を想ってたから高校に上がってからは別居同然になって、春菜に襲い掛かった時は亡くなった奥さんを再生していたと。その場に春菜が踏み込んでしまったんですか・・・。そうですか。今すぐに納得しろと言われても無理ですが、間が悪かったと言われればそういうものなのかも知れません。ただ・・・、いえ、何でもありません。じゃあ、電話、切りますね。<続く>
2005.05.01
コメント(0)
全33件 (33件中 1-33件目)
1