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『彼我対照 欧州旅行』に読む明治43年 海外視察 湖畔からのメッセージ001 前田正名は明治43年6月、横浜港を出港し欧州視察に向かった。時に正名、満60歳2か月、彼にとって第5次の海外旅行にあたる。この旅行の意図・目的はなにか。そこを、本邦帰朝後に現された『彼我対照 欧州旅行』を通じ、読み解いてゆく。 そこには<ポスト殖産興業>。そのように思想構造を位置づけるべきであるのか、つまり<資源を加工し搬出・消費しながら、現今の付加価値を求める殖産興業>が第一段階。そこから<資源を持続・利用し、将来世代に付加価値を伝える殖産興業>への助走。 なぜ、かく転じたか。 明治40、41年と阿寒湖畔に滞在した。国有未開地の払下をうけ、そこで展開した山林経営の敬虔。南国・薩摩国に生を受けた正名が、東の国たる阿寒で四季を通じて滞在し未曽有の厳冬期を体験した後のことである。 正名にとって湖畔のアイヌ民族コタンで生業・生活・文化を形づくる地域で生活を共にしながら、その自然に生きる民族の知恵。あわせて集団をまとめあげているエカシ=長老・老女の生活の知恵を見聞した期間。 政権中枢の官僚を経験し、やがて下野し、全国行脚で各地を訪ねた。北海道東部で洋紙生産することに転じ、ついで個々に払下を受けていた国有未開地を一本化して継承した。まずは寒冷地型農園で頓挫、しかし山林経営で新たな展望を図式化することができた。 齢、すでに還暦。しかしその時に、海外視察を企図した。そう推量するに値する、紀行の冒頭に注目する。
2026年08月31日
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書いた人・違う情報・もとネタ・何のための、いつの情報 フェーク情報のチェック点260901 NHKETV-後- 「大本営発表!!」。USA大統領、「もう一つの真実」とフェークニュースを連発。 本邦の首相にも、総裁選を勝ち政権強化のため野党候補をネットで攻撃。 新聞を購読している家庭が二割しかなかった、図書館司書養成課程での司書関係科目。 図書館司書は市民の<調べる・考える>を、「相談できるヒト」として向き合っている。 「本の森 厚岸情報館」は、レッキトシタ図書館。その名が示す通り、今や図書館は、活字媒体の本のみならず、「情報館」の名の如くネット情報からの検索も支援することに。 その時、如何に信頼できる情報を、選びだすか。 ネット社会は、作者が第三者の意見を聞くことなく、そのまま「公 おおやけ」になる状態。 意図的に世論を誘導し、支持に結びつけることも、現に可能なのだ。 たとえば「商売目的の、古い、非常に怪しい情報」が多いのだ、と。 では、そのあやしい情報”をチェックするポイント。26年9月1日放送の「きょうの健康 がんに備える 最新情報 『気をつけて!“怪しい”がん情報』」は、掲載画像の五点を、示した。 画面のクレジットに「提供 聖路加国際大学 中山和弘教授」とあった。書いた人・違う情報・もとネタ・何のための、いつの情報 フェーク情報のチェック点260901 NHKETV-後- 「大本営発表!!」。USA大統領、「もう一つの真実」とフェークニュースを連発。 本邦の首相にも、総裁選を勝ち政権強化のため野党候補をネットで攻撃。 新聞を購読している家庭が二割しかなかった、図書館司書養成課程での司書関係科目。 図書館司書は市民の<調べる・考える>を、「相談できるヒト」として向き合っている。 「本の森 厚岸情報館」は、レッキトシタ図書館。その名が示す通り、今や図書館は、活字媒体の本のみならず、「情報館」の名の如くネット情報からの検索も支援することに。 その時、如何に信頼できる情報を、選びだすか。 ネット社会は、作者が第三者の意見を聞くことなく、そのまま「公 おおやけ」になる状態。 意図的に世論を誘導し、支持に結びつけることも、現に可能なのだ。 たとえば「商売目的の、古い、非常に怪しい情報」が多いのだ、と。 では、そのあやしい情報”をチェックするポイント。26年9月1日放送の「きょうの健康 がんに備える 最新情報 『気をつけて!“怪しい”がん情報』」は、掲載画像の五点を、示した。 画面のクレジットに「提供 聖路加国際大学 中山和弘教授」とあった。
2026年08月29日
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書いた人・違う情報・もとネタ・何のための、いつの情報 フェーク情報のチェック点260901 NHKETV-前-「日本のインターネットサイト250社を調べてみたら、科学的根拠に基づく情報は1割にすぎなかった」。 ネットには「体にやさしく副作用がない」「すべてのガンが消えた」「免疫力アップ」。 実に飛びつきたくなる”情報にあふれる中で、安全性と有効性の確認できるガン治療”。 26年9月1日夜の「きょうの健康」。 国立がん研究センターがん対策情報センター本部 若尾文彦副本部長が出演。 標準治療を「科学的手法で安全性や有効性が確認され、ガイドラインに掲載されて健康保険の適用される治療」と。 自由診療を「安全性や有効性が確認されていない」「言い値で価格を決め、高額となる」とも。 ネット情報には、と。 「(患者さんが希望をもつことは大切だが)夢のような話は疑うことが大事」 「(無料セミナーは内容が)どんな話なのか、内容が安全か有効かを外からチェックできない」 「商売目的の情報、古い情報、非常に怪しい情報が多い」。 では、そのあやしい情報”をチェックするポイント。それは次回。
2026年08月28日
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甲府で江戸西北固めの八王子同心、蝦夷地で江戸北東を堅固 東蝦夷地の文化財-前― 八王子同心は甲府にあって江戸の西北を固めていました。 その八王子同心のうち、原半左衛門とその弟・新助が千人頭を務める130人がシラヌカ&ユウフツに分かれ、蝦夷地に移転しました。 それは初期蝦夷地幕領化=寛政11年正月―文化4年3月とされる時期です。 この時期は、異域=異国との境界にあった領域を内国化する施策です。 幕領化政策の要因の第三に、ロシア南下に対する蝦夷地警備の体制です。ために、東蝦夷地=江戸経済圏を幕領化し、西蝦夷地=日本海交易圏と北蝦夷地=樺太生活圏への結節を果たす構想で、シラヌカの地点は重要と位置づけられました。
2026年08月27日
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ヲンネトー伏流水の資産? 足寄・ラワンフキ大型化260901 「CYCLE AROUND JAPAN 初夏の北海道横断」 NHKBS4K 260831を見ていて。抱いた疑問2点・啓発されました。 一つは足寄・ラワンフキ大型化、二つ目はいつからラワンフキがブランド化されたのか。 ヲンネトー伏流水の資産? 足寄・ラワンフキ大型化260901。 写真説明には、「足寄町のラワンブキは大きいもので高さ3メートルにもなる」、と。 足寄町と釧路市音別地区は、「フキのマチ」を標榜しているけれども。 そこで、九州大学と足寄動物化石博物館が、足寄町の協力を得てすすめた、共同研究に注目。 一に「螺湾川や茂足寄川の上流の雌阿寒岳ふもとから流出する河川水に窒素、リン、カリウム、マグネシウム、カルシウムといった植物の成長に必要な栄養分が、平均的な河川水よりも約10倍程度多く含まれている」。 二に「この源水が、下流の河川沿いの土壌に入り、栄養分が増えることで、ラワンブキの巨大化を引き起こし」 三に「演習林内の畑でフキを生育させたところ、栄養分が豊富にある条件下でフキの成長が促進されることを確認」 螺湾川や茂足寄川の上流から流れてくる豊富な栄養分が、ラワンブキを巨大化させている大きな要因であることを明らかにした、成果である、と。 https://sdgs.kyushu-u.ac.jp/3786 260902 am.06:40 「研究成果 日本一巨大なフキ「ラワンブキ」はなぜ大きいのか?」 九州大学SDGs「ラワンフキ 学名」で検索するに、多くは「アキタブキ(秋田蕗、学名:Petasites japonicus subsp. giganteus)」とヒット。 アキタブキ(秋田蕗が、突然変異で大型化した。そう考えられているようです、よ。
2026年08月26日
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物語性を創造する“文化の力” 地域創造の原点=夕張 小倉屋ぱんまんぢゅう260901 「CYCLE AROUND JAPAN 初夏の北海道横断」 NHKBS4K 260831を見ていて。啓発されました。 物語性を創造する“文化の力” 地域創造の原点=夕張 小倉屋ぱんまんぢゅう260901夕張で70年以上親しまれている「小倉屋ぱんぢゅう店」.気さくな女将さんの笑顔にも誘われて市民に限らず全国からファンが訪れる、と。 カリッフワッの生地にあんこがぎっしり詰まった「ぱんぢゅう」。 最盛時からの人口が、20分の一に減少した北海道夕張市で、最盛期を担った炭鉱マンたちが育てた。 今風には「小腹がすいた時にぴったり」。「ドライブの途中、スポーツの合間、畑仕事の休憩に、夕張のソウルフードはいかがでしょう」。 そう、観光HPは展開しているも。 パンとまんじゅうの中間のようなお菓子で、夕張の隠れた名物。 蒸かして作るのではなく、パンのように焼いて作るまんじゅうだから“ぱんじゅう”と呼ばれるようになったようだ。 “ぱんじゅう”ぱ、広辞苑にも掲載され、現店主は道具もそのまま引継ぎ営業。その劣化が悩み、と。 「戦前から続く老舗の味」を、現店主は1981年に父から継承。 炭鉱で働く人々が好んで食べたため、しっかりとした甘さで塩分も強めに作っていた 今、時代に合わせて少しずつ味も変え、今では塩分も甘さもずいぶん控えめに、と。 小樽の「ぱんぢゅう」と並ぶ名物に。自身で価格を設定できる力強さも。 地元民が育て、地元民のニーズを超えて各地からユーザーが、集まる。 その吸引力、持続力、開発力。地域創造の原点ではないでしょうか。
2026年08月25日
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甲府で江戸西北固めの八王子同心、蝦夷地で江戸北東を堅固 東蝦夷地の文化財-前― 八王子同心は甲府にあって江戸の西北を固めていました。 その八王子同心のうち、原半左衛門とその弟・新助が千人頭を務める130人がシラヌカ&ユウフツに分かれ、蝦夷地に移転しました。 それは初期蝦夷地幕領化=寛政11年正月―文化4年3月とされる時期です。 この時期は、異域=異国との境界にあった領域を内国化する施策です。 幕領化政策の要因の第三に、ロシア南下に対する蝦夷地警備の体制です。 ために、東蝦夷地=江戸経済圏を幕領化し、西蝦夷地=日本海交易圏と北蝦夷地=樺太生活圏への結節を果たす構想で、シラヌカの地点は重要と位置づけられました。
2026年08月24日
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シラヌカ=幕領化政策で経営・警備の人心安定を象徴 東蝦夷地伝承の文化財―後― by Hirotsugu Sato 寛永20年記載のオランダ船船長記録と同時期の松前家記録。それによるとクスリ以東が大名家交易対象地であるのに、トカチ・シラヌカは家臣給与地の対象地となっていました。 これを反映してか寛文9年に起きたシャクシャインの戦いでシラヌカに派遣された交易船で13人の犠牲者(『津軽一統志』)、また「松前之図」にある、犠牲者や遭難船の数では「シラヌカ 蠣崎蔵人 船 人数14人 クスリ 前田九郎左衛門 人数 8人」とあるのです。 時に 前田九郎左衛門なるものは蠣崎蔵人とともに白糠におけるアイヌとの交易権を認められていた藩の有力家臣のひとりということで、追補されてクスリで遭難したものか、難しいところです。 幕府がユウフツと並び、まずシラヌカの地を重視したのは、ここに述べた背景があった故かもしれません。選ばれたユウフツの地は勇払川―千歳川―石狩川を通じ、太平洋岸と日本海岸をむすぶ地点です。 シラヌカには3点のルートがありました。 一は茶路川―利別川を経由して十勝川―石狩川につながるトカチ。イシカリへの道(「利別道」としておきます)。後述するも、そもそもトカチアイヌ民族はこの「利別道」を経て、トカチアイヌ生活圏に連なっているのです。 二に庶路川―迂遠別川―阿寒川―網走川(幕府は「網走山道」とします)で、太平洋岸とオホーツク海岸を結ぶ道です。 三に釧路川―斜里川(幕府は「斜里山道」としました)を経て、これまた太平洋岸とオホーツク海岸を結節する道です。八王子同心にとって、この斜里山道は、その任期中に修復に務めた幕府記録も残されている道です。ユウフツ・シラヌカ共に、江戸経済圏の東蝦夷地と、日本海経済圏に依る西蝦夷地、また中国大陸とつながる北蝦夷地=樺太への分岐点。 特にシラヌカであれば箱館~国後・択捉への千島方面に加え、西蝦夷地のイシカリ、同・カラフト、つまり三方向の経営と警備の枢要地としての性格を体現する地です。
2026年08月23日
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「炭鉱持ち家制度」が生み出した付加価値 『釧路炭田その軌跡』030331 釧路市のその後平成14年度緊急地域雇用創出特別対策推進事業では、炭鉱閉山で職を失う職員・鉱員1000人と関連業種500人から、全員の聞き取り調査を企画した。 閉山後、すでに7ケ月。調査は6人の新聞から炭鉱記事見出し2万5000件をリストアップする班。 こちらは古い新聞紙面を開くたびにびに発生するホコリ&微生物で、苦心の作業。 そして一世帯40項目程の思い入れを聞き取る班120名の布陣。 各家庭に散った調査員は、まったくの初めての取り組み。 しかし、招来記名公開、記名非公開の調査カードを大量に仕上げていただいた。 時に、関係者全員を対象とする悉皆調査が可能であった、背景。 それは1965年前後から始まる、職員・鉱員対象の「持ち家制度」があった、から。 閉山後も炭鉱を離れる従業員がほとんど居なかったことによる。 炭鉱は不動産部門の太平洋興発(株)を起ち上げ、持ち家促進の供給源とした。 他方で鉱員を抱える労働組合いが、組合員個々の要望を親会社&不動産部門に仲介し、<持ち家の質保証>を促す、役割りがあった。 のち、不動産部門は首都圏や北海道中央部に事業を拡大。 「興発マンション」は一つのブランドに成長、発展したと目される。 その供給住宅が体現する、一つの側面を掲載画像で示してみたい。 21年11月27日、釧路市民文化振興財団の依頼で、講座の講師を務めた。 話を聞いてくれた講座担当者がのちにメッセージを下さった。 「労使一体で創り上げた高付加価値住宅、そこにこぎつけた取り組みに感動しました」。(佐藤宥紹)
2026年08月22日
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坑内掘り炭鉱のエピローグ 『釧路炭田その軌跡』030331釧路市 2002年1月末日 「最後の坑内掘り炭鉱」と称されていた太平洋炭礦(株)釧路鉱業者が82年の歴史を閉じました。 時の≪平成14年度緊急地域雇用創出特別対策推進事業≫で、その資料収集&関係記録の保存継承を志すことになりました。 国策の然らしむるところとは言いながら、職員・鉱員1000人と関連業種500人の雇用が失われることに。 担当することになったとき、「電力ダム建設で消滅の全村居住者大将の民俗調査」。かく位置づけることにし、「ヤマの男女=ヒトによる炭鉱記録」 そう位置づけ、125名の調査員を委嘱し、記録事業を企画しました。 ここに公開は、今もアップされている「釧路市公式ホームページ」登載の『釧路炭田その軌跡』データ、です。 https://www.city.kushiro.lg.jp/area/common/003hp/home.html (佐藤宥紹)
2026年08月21日
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蝦夷地幕領化政策で派遣、警備&経営者の人心安定 東蝦夷地に伝承の文化財1802―後― by Hirotsugu Sato寛政12年3月、原兄弟は二班に分かれて江戸を出発、ユウフツとシラヌカに各50名が、ます入植します。享和2年に各15名が加えられ総勢65名の布陣です。後年、史跡国泰寺跡の第二世住職の時代に持ち場所で法要を勤めた僧侶が物故者を記録し、法号を贈りました。史跡国泰寺跡に伝わる『御寺建立以前之過去帳』(説明図版)には、15名の物故者が記録されています注3)。八王寺同心の事績については幕府役人による蝦夷地経営施策、また諸役人による復命書、紀行文が遺されています。測量調査で渡島の伊能忠敬一行の来訪の記録もあります。しかし、在地記録。つまり記録が造られ所在地に伝承する記載記録は、実に『御寺建立以前之過去帳』に残る記録に限られていました。後年、白糠町内に「太陽の手」が建立され、物故者の記名が遺されています。しかし、その出典は不明とされています注4)。従って「原胤篤奉納鰐口」の銘文は、史跡国泰寺跡所蔵『御寺建立以前之過去帳』に続く八王子同心の存在と、そのことを裏付ける在地保存記録となるのです。 ※注3 釧路地方近世史研究会編『日鑑記―国泰寺とその周辺―』 釧路市 1971年。 ※注4 白糠町史編集委員会編『白糠・八王子千人同心隊』 白糠町 1983年。
2026年08月20日
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蝦夷地幕領化政策で派遣、警備&経営者の人心安定 東蝦夷地に伝承の文化財1802―前― by Hirotsugu Sato転じて「原胤篤奉納鰐口」伝承の意味を、3点、説明させていただきます。江戸幕府は寛政11年正月16日に東蝦夷地のうち浦河より以東、知床までの地を7年間、仮直轄します。田沼意次期から重ねてきた蝦夷地調査により、本州商人と季節出稼ぎ労働で獲得される蝦夷地の鉱産・俵物輸出、加えて薬草など、その有用な資源で幕府財政を補完する政策を実施することになりました。厳しい緊縮財政のもと中華蛮夷思想で「近隣・境界」に位置する領域を、異域=異国に領有させぬための施策です。浦河以東知床までの領域であっても、江戸―蝦夷地間の海上直航路、陸上交通施設整備、対アイヌ民族交易と江戸地廻り経済を支える資源搬出をめざす施策には、多くの投資と通年=越冬生活者を確保する手立てが不可欠でした注2)。甲府街道の固めとして営農のかたわら街道警備にあたる八王子千人同心には、次三男の急増による人員余剰の局面にあり、将軍家の要請に応じた蝦夷地出願も、その解決の一方法とされていました。 ※注2 佐藤宥紹「蝦夷地幕領化政策の意義~『休明光記』からみた奥場所の開発 ~ 」(釧路市立郷土博物館紀要第6輯 1979年)
2026年08月19日
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「美しい海は永遠と人を癒やす、その力は変わらない」 イルカに三度救われ 「海とこれからも 〜石川県 能登島〜 小さな旅」NHK260821―中― 能登半島のなかほど、能登島にはおよそ2200人が暮らす、と。「イルカに会える喫茶店」。 そう聞いて入った喫茶店には、坂下さとみ(61歳)さん。 イルカが彼女の立つ浜辺に現れたのは40歳の時。シングルマザーで子育て。ために懸命に働いていた。 しかし娘は、生まれたばかりの子供を残し、家を出てゆきました、と。 またまた、孫の育児を独りで、抱え込むことに。 「家庭環境もいろんなことがあって」「人は一つのことを抱えると、いっぱいです」「それが当時は、3つも4っつも五つもあって」。ここで、イルカに励まされる事、2度目。 「そんなとき、『なにを悩んで居るんだ』と、イルカが言ってくれたような気がして」。 「なんで自分は前をむかないのだろう」とか、「こんなことを考えている自分が、(なにも)考えなくていいんだ」「自分は自分だ・・・し」。 「前向きな自分に、変化して、行きました」。4年後、イルカに出会った場所に喫茶店を建てる。
2026年08月17日
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「美しい海は永遠と人を癒やす、その力は変わらない」 イルカに三度救われ 「海とこれからも 〜石川県 能登島〜 小さな旅」NHK260821―前― イルカに3度救われた。能登半島のなかほど、能登島にはおよそ2200人が暮らす、と。 「イルカに会える喫茶店」。 掲示に誘われて入った喫茶店には、坂下さとみ(61歳)さん。 能登島で喫茶店を経営している。 アナウンサーが船で案内してもらうと女将さんの「おはよう」に、ミナミハンドウイルカが姿を見せる。24年前、能登島の海に2頭。突然、姿を見せたのだそうだ。 そのまま数を増やし、いまや21頭。これが一度目。坂下さんが初めてイルカと出会ったのは40歳。仕事帰りに夕日を眺めて居た時でした。「ここに座っていたら・・・、そこに居たのです」「その時は2頭です」「後ろ姿、背びれが見えたので、イルカだって」。「ウーン、と。2分くらいかな」「その2分は、私にとって忘れられない時間」。「ながい、ながーい時間(だった)」 彼女はそのとき、疲れていた。 シングルマザーだった彼女は、温泉旅館の仲居として懸命に働き、二人の娘を育てた、と。
2026年08月16日
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甲府で江戸西北の固め八王子同心、蝦夷地で江戸北東を堅固 白糠鎮守三十番神社 八王子同心は甲府にあって江戸の西北を固めていました。 初期蝦夷地幕領化=寛政11年正月―文化4年四月は、異域=異国との境界にあった領域を内国化する施策です。 東蝦夷地=江戸経済圏を幕領化し、西蝦夷地=日本海交易圏と北蝦夷地=樺太生活圏への結節を果たす構想で、シラヌカの地点は重要と位置づけられました。 その持つ意味は、江戸の西方を固める甲府と箱根関所に、裏鬼門にあたる増上寺。 その東は会津と白河関所に表鬼門の増上寺です。 京都の石清水八幡宮と比叡山延暦寺に相当する体制が、江戸では甲府・箱根関所・芝増上寺。京洛の比叡山延暦寺にあたる会津・白河関所・上野寛永寺に相当すると考えるのが妥当です。 同心をシラヌカに駐屯させた幕府は江戸の東北を堅固するめ、幕吏が北海道指定重要有形文化財の円空作観音像に続き、同心千人頭が三十番神の社を築き法宝物の鰐口を奉納した営みと接続します。 そしてその後に、国指定史跡国泰寺跡を含む将軍家建立の「蝦夷三寺」に先行する信仰形態となりました。故に当該文化財は、同心のみならず蝦夷地の経営・警備にあたる人心の安寧・秩序に資することを志した金石文資料とすることができます。
2026年08月15日
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噴火で八丈島に避難、帰島試みるもネズミ被害に漂流&行方不明 天明五年青ヶ島噴火 「自然環境の厳しいところが、青ヶ島の宝」「これ以上の宝はない」。 「青ヶ島は上陸したくても、なかなか上陸できない」「神様に選ばれた者ただけが上陸を許される」 伊豆諸島。八丈島から南へさらに70キロメートル。 「秘境」と言われる青ケ島は、島そのものが外輪山で、なおかつ噴火口をもつ。 わずかに島の南西部に連絡船の接岸港をつくることが出来たほどの、絶壁。 天明5 1785年に最大の爆発があり「昼でも暗い日が八日間」。島民全員が八丈島に避難した。 6年後の寛政元年に名主&島民12人が青ヶ島に調査で赴く。 寛政4 1792年 前述の名主ら20人が青ヶ島に渡り、うち12人が島に残るも、ノネズミの被害甚大。。名主・三九郎らは八丈島に戻る。 翌年、青ヶ島に残った者の内5名が八丈島に帰ろうとして行方不明。 その翌年、寛政6 1794年には食を乗せた船が青ヶ島に向かうも、房州に流される。 寛政9 1797年 名主・三九郎ら14人が青ヶ島に向かうも、紀州二木島へ流された。名主・三九郎を含めた11人が死亡。 結局、享和元年 1801年には全員が引揚げ、青ヶ島は再び無人島に帰する。 (「英雄たちの選択 シリーズ 知られざる島の歴史旅 (2)帰りたい〜火山島・青ヶ島 全島避難の軌跡〜」260817 NHKBS4K)
2026年08月14日
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DNA相続に燃える慈母が救われる筋道を歓び “釧路市民盆踊り72th”に三度目の参加 釧路湿原シニア大学&大学院260819午後7時から同8時10分まで、このマチのメーンストリートを交通遮断して催されました。 釧路湿原シニア大学&大学院は、2,024、25、26年と本年が3度目の出場。 2021年受講者に、講座担当者は「今年の盆踊りには、全員ででるぞー」。声をかけました。 なぜ、盆踊り?。用意された講座枠で、話をしたことが・・・・・。 その歳はなぜか、足並みが揃わぬままに、参加は丹念。その気に誘導された受講者も引不可思議ではあった、かも。 その時、話した話題。「母性愛は第七感の末那識 まなしき の無意識階層」&「遺伝子相続、これぞ第八感の阿頼耶識 あらしき の深層心理階層」。 往生した仏弟子の両親。現在の姿はと申すに。 「父は笑顔で円満至徳」に対し、「母は食べ物ノドが通らず、水を呑むとたちまち火炎になる餓鬼道の姿」。 なぜの問いに今日、生物分子学者が答えてくれる。「遺伝子は母から娘に継承される」。 「女性だけでは、次世代を増やせないので、男性が必要」「男は無理して作られた性で、ために免疫力弱い、加えて不摂生を選ぶから、簡単に病没」。 参加者は20人ほどで、男性は一割。「大学院受講者よりも、大学受講者が多い」と。 昼間の港まつりには多くの男性が姿を見せた踊りパレード。盆踊りには女性が圧倒的に多かったのも「遺伝子は母から娘に相続される」が、潜在的に意識されていたのかも。 母は娘に「私の期待に応える立派な遺伝子を」。ために女性は強くなられたが、故に餓鬼道に陥るほどの無理にムリを。 そこを瀬戸内寂聴師の解釈。『源氏物語 宇治十帖』のむすびは<浄土教思想が女人救済を示して>結ばれている、と。
2026年08月13日
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時代はやがて「明治」へ=釧路地方、江戸期の遺産 『北海道歴史探訪 釧路昔むかし』890330江戸期の遺産 江戸期の釧路の様子をそれぞれ具体的に見ていると、江戸時代に芽を出しつつ明治にいたり花ひらいたものが少なくないことである。 なんといっても漁場の形成が第一である。 明治になって釧路は函館の経済圏の中で発展したが、このモノの流れもすでに江戸時代においてできあがったシステムであった。内陸の開拓の担い手として東北・北陸の移住者たちの役割が大きいが、これは明治になって急にはじまったものではなかった。江戸時代すでに東北の漁業者たちが自分達の仕事場としてしげくかよってきていたことである。 つとめて下北地方との結びつきの深さを取りあげておいた。 航空機や青函トンネルはもとより、青函連絡船で行き来する時代にあってさえ、すでに下北は我々にとって遠い、ゆかりのない存在であったかに見える。ところが江戸時代には、釧路-襟裳岬-恵山岬-下北半島は1本の線で結ばれた、ごく身近な地域であった。 明治の開拓を論ずるときしばしば「屯田兵(とんでんへい)制度」が話題になる。そのはしりは白糠にはいった八王子同心にすでにみられている。白糠・石炭岬の石炭採掘を囚人労働によりすすめるなど、明治にはいってからの北海道開拓の方法のいくつかはすでに江戸期において試みられていた。 石炭の採掘やコンブの中国への輸出など、鎖国から開国への日本の歴史のダイナリズムにもゆれうごく地域であった。鎖国体制の中の黒船だってペリーばかりでなく厚岸湾や根室にきたものなどあって〃北の黒船〃として国際社会の緊張を伝えてくれる。北浜の地で学ぶ地域史は、長い時間をかけて形成された日本史の流れを、わずか数百年の間に凝縮して展開させてくれているのかの感がある。 ともかく、原住民のアイヌ民族は、自然採集経済によりつつ、千島や樺太を通じユーラシア大陸との交渉があった。 全国統一政権の成立や本州商人の蝦夷地進出は、モノの流れを松前・箱館、さらには上方、江戸へと変えてしまった。アイヌ民族にとっては生産と流通の手段も資本も全く異なり、まさに異文化との接触であった。あわせて原住民の固有の文化を否定してしまうことにもなった。 かくて交易と漁業と交通の中心地の形成が進められる。明治に引き継がれる臨海部の地域形成が、実は江戸時代から進んでいた。ことさら江戸時代の人々の努力をかたわらにおいてしまうこともあるが、その胎動に気づいていただけたら幸いである。
2026年08月12日
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豊浦の洞窟で刻む円空仏、阿閑祠に「釧路昔むかし 釧路昔むかし」 『北海道歴史探訪』 日本最東の円空仏 「北蝦談」の著者松田仁三郎のまたの名は伝十郎。厳島神社の円空仏を移した人である。この円空仏は仏像の背に「くすりのたけごんげん」と銘がある。日本で最も東の地にある円空仏である。 厳島神社に伝わる円空仏は身の丈43センチ、薬壺をいだく薬師如来像である。昭和52年に「円空作仏像 薬師像」として、北海道有形文化財に指定されている。 円空は美濃国(岐阜県)の仏師である。その円空がなぜ蝦夷地で仏像を彫ったのか。北陸の商人たちから蝦夷が島の様子をきいていた。恵まれないアイヌたちに仏の慈しむ心を伝えようとしたのか、あるいは北海道の山々に霊場を開こうとしたのであろうか。 (駐 当初「円空作仏像 薬師像」fr指定されるも、のちに「円空作仏像 観音像」と改められた、と記憶)。 豊浦の洞窟で彫刻 薬師像を彫ったところは虻田郡豊浦町の洞窟である。場所は内浦湾(噴火湾)に面した礼文華峠という峻崖。ここにケボロヰとよばれる洞窟がある。寛政3年(1791)にこの地を訪れた菅江真澄は、洞窟の中で五体の仏像を発見した。五体は(1)「うすのおくのいん小島」背銘像、(2)「いわうのたけごんげん」背銘像、(3)「くすりのたけごんげん」背銘像、(4)「朽ちて文字のよみときがたく」の像、(5)「たろまへごんげん」背銘像である。 五体を蝦夷地を代表する山岳にあてた。はるばる霊山を訪ねがたいので、この洞窟に背銘像をそろえてひたすら遥拝したのであろう。蝦夷地では松前藩とアイヌたちとの緊張がつづいていたし、噴火・津波・豪雨と自然災害もひんぱんであった。だから、長谷川公茂「円空仏」では、仏像をまつることで「神霊の霊力によって災いをはらい、また、仏の教えにより人々の苦難を救済するためであった」と円空の発願のきもちをおしはかる。 https://www.hokkai.or.jp/history/kusiro-mukasi/2-2.html 『北海道歴史探訪 釧路昔むかし』
2026年08月10日
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トカチ・アパシリと結ぶ枢要地 千島街道&斜里山道の分岐点に統合=1802年 シラヌカ場所を統合 享和2年(1802)に幕府は、独立していたシラヌカ場所をクスリ場所にくみこみ一つの場所とした。また、アッケシ場所との境を東に移し、これまであいまいにされていた、内陸の場所境も明確にするようにした。 ひとつは幕府が蝦夷地を経営するうえで、交通の整備や生産活動を効果的に行うためのものである。2点目は、これまで経済の単位として利益を生み出す対象にしかすぎなかった地域を、行政の単位として位置づけたことである。 隣接地との境界 クスリとアッケシの場所の境は、享和元年(1801)まで釧路町・昆布森の西にあるアチョロベツ川にあった。この年、仙鳳趾より東へ一里十九丁ニ十間さきのモウセウシに移した。現在の厚岸町と釧路町の町境である。その理由はアッケシ場所の面積が広いのに、アイヌの人数が少ない。それでは、道路工事、荷物輸送の距離がなくなり、人夫が不足でこの負担がたいへん、ということになった。役人や警備の藩士が頻繁に来るから荷物輸送にかりだされる機会の距離も増える。場所境をアッケシ側に無理やり移し、場所の面積をせまくしたのである。 クスリとシャリの境は文化年間(1804~18)にケネワッカヲイというところに決められた。クスリとシャリの道をつくるため、クスリ、シャリ、ネモロのアイヌが動員された。ところが、この3者の中で、クスリのアイヌの勢力がすこぶる強い。クスリのアイヌは道路工事の範囲を縮小するため、それまでの場所境であるヲタウニから20丁くらいクスリよりのケネワッカヲイ(中標津町計根別のあたり)に強引に移したという。 (「場所境の選定と国泰寺設置」 ホッカイネット『釧路歴史探訪 釧路昔むかし』 https://www.hokkai.or.jp/history/kusiro-mukasi/2-4.html )
2026年08月10日
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八王子同心二題 その足跡&農業と道路つくり 釧路昔むかし=HokkaiNet 自著260816八王子同心の足跡 さて、八王子同心は寛政12年(1800)3月20日、21日の2日間にわかれ、八王子を出発した。おもむくさきは白糠と勇払と命令されている。 なぜこの場所が選ばれたのか。 蝦夷地の中にあってはどちらも太平洋岸と日本海・オホーツクを結ぶ交通の要所である。交通の要所の警備と開拓。 これがなんといっても八王子同心にあたえられた第一の使命であった。 白糠では西から尺別川、茶路川、庶路川のほとりに畑作の跡があったというから、白糠を去るまでは、このあたりにわかれて生活していたのだろう。 享和2年(1802)に高橋三平という幕府の役人が得撫島で2人の同心にあっている。 文化4年(1807)にロシア船が択捉島にきたときには6人の同心が派遣されていた。農業と道路づくり 白糠に滞在中の事業。 (1)道路を開く、(2)択捉島警備、(3)阿寒で硫黄の試掘、 (4)尺別川、茶路川、庶路川のほとりで農業を試みる。作物の種類は大根・ササゲがとれたという。「千島志料」によると開墾した土地およそ二十町歩(20ヘクタール)で、大根三万本、いも五斗、なたね一斗ほど、いんげん、ささげ、ねぎなど野菜を少々、大麦ニ斗余、粟2斗余、そば五斗に稗・大豆があげられている。 大麦・粟は嵐のため実いりがなかったとつけくわえられている。 阿寒で硫黄・明礬をとった。 原半左衛門の配下のものが試験的に行ったものである。アイヌの産業としてもよいとの考えが幕府にはあった。しかし、経費をかけてまで行うつもりはなかったらしい。のちには出費をともなうものとして中止した。 道路では釧路川~斜里川を結ぶ斜里山道(享和元年)をひらく。この点については改めて検討する。り 釧路昔むかし=HokkaiNet 自著260816八王子同心の足跡 さて、八王子同心は寛政12年(1800)3月20日、21日の2日間にわかれ、八王子を出発した。おもむくさきは白糠と勇払と命令されている。 なぜこの場所が選ばれたのか。 蝦夷地の中にあってはどちらも太平洋岸と日本海・オホーツクを結ぶ交通の要所である。交通の要所の警備と開拓。 これがなんといっても八王子同心にあたえられた第一の使命であった。 白糠では西から尺別川、茶路川、庶路川のほとりに畑作の跡があったというから、白糠を去るまでは、このあたりにわかれて生活していたのだろう。 享和2年(1802)に高橋三平という幕府の役人が得撫島で2人の同心にあっている。 文化4年(1807)にロシア船が択捉島にきたときには6人の同心が派遣されていた。農業と道路づくり 白糠に滞在中の事業。 (1)道路を開く、(2)択捉島警備、(3)阿寒で硫黄の試掘、 (4)尺別川、茶路川、庶路川のほとりで農業を試みる。作物の種類は大根・ササゲがとれたという。「千島志料」によると開墾した土地およそ二十町歩(20ヘクタール)で、大根三万本、いも五斗、なたね一斗ほど、いんげん、ささげ、ねぎなど野菜を少々、大麦ニ斗余、粟2斗余、そば五斗に稗・大豆があげられている。 大麦・粟は嵐のため実いりがなかったとつけくわえられている。 阿寒で硫黄・明礬をとった。 原半左衛門の配下のものが試験的に行ったものである。アイヌの産業としてもよいとの考えが幕府にはあった。しかし、経費をかけてまで行うつもりはなかったらしい。のちには出費をともなうものとして中止した。 道路では釧路川~斜里川を結ぶ斜里山道(享和元年)をひらく。この点については改めて検討する。
2026年08月10日
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八王子同心シラヌカ移住者記録 『御寺建立以前之過去帳』史跡国泰寺跡蔵 「(享和二年)五月十八日 八王子」「一.宗無信士 八木正蔵」。以下、十五名の法号と姓名が記載された、記録。 史跡国泰寺跡に継承された『御寺建立以前之過去帳』に記載の一節。 享和二年は一八〇二年、文化元年は同〇四年。その年に物故者となったことを示す。 「八王子」は現在の東京都下、中央本線沿線に位置する都市。 往時は武蔵国にして甲府街道の<江戸の西の守り>の位置にある。 江戸時代中期ごろから、生糸や絹織物が盛んに商われ、「桑都 そうと」の異称すらあった地なのだ。 「桑も栽培できる」。 寛政十一年正月、幕府が蝦夷地太平洋岸の浦河~知床を仮直轄した。 この政策をうけ、八王子にあった原半左衛門胤率いる同心100名が蝦夷地警備にあたり、それぞれ50人ずつが勇払と白糠に入る。 しらぬか叢書『白糠町史』は、寛政十二年三月に武蔵国八王子を発ち、同四月下旬か五月の初旬ころ、白糠に到着したとする。 翌年にはさらに勇払と白糠に各十五名の追加派遣があったというから、総勢各六十五名の入植であるも、たちまち犠牲者を出すことになったのであろう。 享和二戌年。つまり一八〇二年 イヌの歳二月からの犠牲者が記録に登載されてあったのだ。 史跡国泰寺跡の初代住職は、アッケシに旧暦神無月に着し、翌霜月3日に往生していた。 このこともあり、『御寺建立以前之過去帳』は二世萬善住職の世に、十勝以東択捉までの地を巡回した時点で、記載され法号が追増されたもので、その典拠記録は明らかではない。 故に文化年間(一八〇四~一七年)までには記録され、記録継承地に所在の記録たる点は確実である。
2026年08月10日
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