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受忍論=非常事態で犠牲をうけでも「一般の犠牲」と受け入れる 軍人恩給60兆円&民間犠牲者ゼロ円 「受忍の国」BSTSS1930 1931年に始まった15年戦争。45年8月15日のポツダム宣言受託をもって戦争は終わったわけではない。 戦争は戦地で、職業軍人によってのみ、展開するモノではない。 大都市空襲、沖縄戦、中小都市空襲、広島・長崎の被爆。本土が戦場に、市民が死傷し、国の命令に真摯に従ったしみんほど、犠牲となり、財産も人名も失った。 軍人に対する恩給制度。精度設計を議論する審議会15委員委には陸海軍の大将&中将が各2名。旧恩給事務を篤かった厚生省官OBも指名された、と。 結果、兵士年間恩給は149万円、大将には855万円は2024年度の支給額。 公務員の初任給10。4万円ほどの時代、東條英樹家に支払われた遺族年金は400万円超、と。首相時代の年間56万円+大将支給分をあわせ、その遺族支給分という計算方s気。 なぜ民間人に補償がゼロ円か。「戦争という非常事態のもとで、何らかの犠牲をうけても、それは國をあげての戦争による『一般の犠牲』として、受忍しなければないらいもの」。 1968年、在外資産補償訴訟法 最高裁判決で、司法は「受忍論」を持ち出して原告の賠償請求を棄却した。 1979―80年。厚生省が諮った原爆被爆者対策基本問題懇談会で、時の橋本竜太郎厚生相は、述べる。 「(政府は)国家補償という文字を使うことに非常に神経を使っておりました」「非常に厄介なのが名古屋のグループ、(東京の)下町のグループであります」 その趣旨は原爆被爆者に国家補償をすると、それが東京や名古屋で大都市空襲被害をうけた国民にも補償をすることになる」「それでは国家財政がもたない」。 原爆被爆は被爆者に対する医療費補助の社会保障施策であって、国家賠償ではない。 軍人に手厚くしておかねば、いざというとき、軍務を引き受けなくなるから、多額の年金。 民間人は大なり小なり、みな被害者。特に補償はできない。 そうかも知れぬが、国家が起こす戦争とは、その補償もしなければならぬ代償を伴う、もの。 そう施政者は理解しておかねえば、ならぬ筈だが。
2026年09月25日
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明治節に弾薬海上投下作業の犠牲者に見舞金だけ 軍人恩給60兆円&民間犠牲者ゼロ円の戦後処理 「受忍の国」BSTSS1930 明治節に相当した1945年11月3日。釧路港の防波堤外で、弾薬処理作業に従事した隣組の組長を含む4人が犠牲となった。 「お父さんはその麻、作業に行くべきか、ゆくまいか、相当にためらっていました」。 そんな連れ合いの下に夕方、届けられたのは「お宅のご主人ほかが、作業中に海に投げ出されてしましました」。 北海道東部の港マチ。旧名を「トンケシ」と呼ばれた釧路市浪花&寿界わいの住民、4命が事故にあった。 GHQの命令で港頭に集めれてあった日本軍の弾薬を、海上投棄する作業が道庁―市役所を通じ、隣組に割り当てっれていた。 「勤労奉仕」「勤労動員」で痛い目にあっていた市民には、実に、酷な話であった。 事故の発生後、北海道も釧路市も幾分の見舞いを施した。しかし、ポツダム宣言受託後のことであり、GHQの命令で結果として犠牲になるも、軍人恩給支給の対象にはならず、 自治体史のこの記載部分に瑕疵があると、記述追加の議が市議会で起きた。 背景には、軍事に従事したにもかかわらず、國は手当てすることが平成の時になっても対象としなかった。 時移り2025年3月10日。そして26年8月14日。 BSTBSが「受忍の國」として、広島・長崎の被爆者、東京・名古屋等の大都市空襲犠牲者、もちろん沖縄戦闘や中小都市空襲犠牲者をふくめ、民間人の戦後補償のないこと。 そこを問う番組が、放送された。指摘は「軍人恩給として支払われた恩給の総額がこれまでに60兆円」。対して民間人のそれは「ぜろ円」。
2026年09月24日
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戦後、国民統合の新物語創造、あとまわし 保守派「万世一系、男系天皇制」固執の所以260814 BSTBS1930 戦後の日本は戦後復興、経済成長を優先し、戦後ならではの「国民統合の物語」を作ることを後回しにした。 そのため保守派からしばしば「天皇が上、臣民が下」という、戦前の国体思想がいびつな形で吹き出て来る。 明治維新。天皇中心の中央集権国家を形成するためには、江戸幕府の権威を否定する。 ために天皇をもちだしたのだが、では将軍家と天皇はどちらが長いか、歴史があるか、と。 「天皇が、これだけ古い」とするためには、「天皇は神武からはじまる万世一系の男系中心」の神話、物語をつくった。 明治になって日本は近代化に失敗すると、西洋諸国の植民地になって、たいへん不幸なことになる。 そうならずに日本を近代化し、西洋の徴兵制をしくためには、「神武がやった」という物語をつくる必要があった。 それをやりとげた明治の元勲―伊藤博文や井上毅―は立派だったということになるが、今、それを持ち出すのは、戦後日本の国民の物語、人権の物語を創造できなかった、から。 評論家・近現代史研究者 辻󠄀田真佐憲氏が「神話への傾倒と戦争の関係」 BSTBS1930『シリーズ戦後81年と日本 今問う「あの戦争」の継承』26年8月14日放送の一部で)
2026年09月23日
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「群雲花」 月に叢雲花に風の「叢雲花」&園芸種「叢雲 むらくも」 照会260924 お尋ねをいただいた。「群雲花、その読みと意味を?」。 手持ちの漢和辞典にも『広辞苑』にも、「群雲」「群雲花」の登載はなかったさて?。 念のため検索キーワードで「群雲花」を入力。ヒットしたのは、以下の二つの項に注目。 一は、比喩としての用例。 「月に叢雲 花に風 つきに むらくも はなにかぜ」の用例と読み。 意味=好事に、とかく故障が起こりやすいことのたとえ。 [初出の実例]「世の中は月にむら雲花に風、木のへ殿にはさいもんのでう」 (出典:天正本狂言・近衛殿の申状(室町末‐近世初) 二は、園芸の世界で、「叢雲 むらくも」の種があるそうだ(掲載写真 下) 青紫色で、中垂~平咲きの花に活力があります。 六英咲きですが、 内花被がそのまま垂れた感じの花型です(名古屋園芸 記載) 二用例とも、「群雲」ではなく「叢雲」で解説。ここまでが、現段階での表明。 往時、石川啄木詠歌「浪淘沙 ( らうたうさ ) ながくも声をふるはせて うたふがごとき旅なりしかな」。 この短歌に出会い、熟語として「浪淘沙 らうたうさ」を知らべた敬虔がある。 見つからず岩城之徳氏の解説で、白楽天の唐詩にある語の引用と知った。熟語かも知れぬ。しかし別な読み方もあるのだ。そう、お答えしようかと考える。
2026年09月22日
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明治節に弾薬海上投下作業の犠牲者に見舞金だけ 軍人恩給60兆円&民間犠牲者ゼロ円の戦後処理 「受忍の国」BSTSS1930 明治節に相当した1945年11月3日。釧路港の防波堤外で、弾薬処理作業に従事した隣組の組長を含む4人が犠牲となった。 「お父さんはその麻、作業に行くべきか、ゆくまいか、相当にためらっていました」。 そんな連れ合いの下に夕方、届けられたのは「お宅のご主人ほかが、作業中に海に投げ出されてしましました」。 北海道東部の港マチ。旧名を「トンケシ」と呼ばれた釧路市浪花&寿界わいの住民、4命が事故にあった。 GHQの命令で港頭に集めれてあった日本軍の弾薬を、海上投棄する作業が道庁―市役所を通じ、隣組に割り当てっれていた。 「勤労奉仕」「勤労動員」で痛い目にあっていた市民には、実に、酷な話であった。 事故の発生後、北海道も釧路市も幾分の見舞いを施した。しかし、ポツダム宣言受託後のことであり、GHQの命令で結果として犠牲になるも、軍人恩給支給の対象にはならず、 自治体史のこの記載部分に瑕疵があると、記述追加の議が市議会で起きた。 背景には、軍事に従事したにもかかわらず、國は手当てすることが平成の時になっても対象としなかった。 時移り2025年3月10日。そして26年8月14日。 BSTBSが「受忍の國」として、広島・長崎の被爆者、東京・名古屋等の大都市空襲犠牲者、もちろん沖縄戦闘や中小都市空襲犠牲者をふくめ、民間人の戦後補償のないこと。 そこを問う番組が、放送された。指摘は「軍人恩給として支払われた恩給の総額がこれまでに60兆円」。対して民間人のそれは「ぜろ円」。
2026年09月21日
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国力衰微のとき国内で争うは無意味=「数年の大困難」 前田正名『興業意見 未定稿』260923 若くして経験の海外留学、万国博覧会事務官長で従事した国際感覚、全国府県調査で把握した我が国国力の衰微と脆弱。 征台論と1977年西南戦争は「財政の大困難」を生じた。 のみならず「製産家ヲ倒ス程ノ影響ヲ與エタルニアラズ」といえども、高い経費をかけ「物品ヲ低価ニ売レルニ因ルノミ」と、喝破した。 これでは、次の3点に対応できまい。 1)非常の国用、すなわち非常時の財政出動。 2)貨幣の価値を維持できず、金融信用のみならず、財政健全化にも影響。 3)農業、工業、商業の経営に、資本の蓄積が出来ない。 そこから我が国が国際社会に伍しつつ、地方の地域格差を解消し、農村伝統工業が力量を蓄積するための金融支援。それらを如何に確立するか。富国と殖産興業の起点であった。
2026年09月21日
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明治節に弾薬海上投下作業の犠牲者に見舞金だけ 軍人恩給60兆円&民間犠牲者ゼロ円の戦後処理 「受忍の国」BSTSS1930 明治節に相当した1945年11月3日。釧路港の防波堤外で、弾薬処理作業に従事した隣組の組長を含む4人が犠牲となった。 「お父さんはその麻、作業に行くべきか、ゆくまいか、相当にためらっていました」。 そんな連れ合いの下に夕方、届けられたのは「お宅のご主人ほかが、作業中に海に投げ出されてしましました」。 北海道東部の港マチ。旧名を「トンケシ」と呼ばれた釧路市浪花&寿界わいの住民、4命が事故にあった。 GHQの命令で港頭に集めれてあった日本軍の弾薬を、海上投棄する作業が道庁―市役所を通じ、隣組に割り当てっれていた。 「勤労奉仕」「勤労動員」で痛い目にあっていた市民には、実に、酷な話であった。 事故の発生後、北海道も釧路市も幾分の見舞いを施した。しかし、ポツダム宣言受託後のことであり、GHQの命令で結果として犠牲になるも、軍人恩給支給の対象にはならず、 自治体史のこの記載部分に瑕疵があると、記述追加の議が市議会で起きた。 背景には、軍事に従事したにもかかわらず、國は手当てすることが平成の時になっても対象としなかった。 時移り2025年3月10日。そして26年8月14日。 BSTBSが「受忍の國」として、広島・長崎の被爆者、東京・名古屋等の大都市空襲犠牲者、もちろん沖縄戦闘や中小都市空襲犠牲者をふくめ、民間人の戦後補償のないこと。 そこを問う番組が、放送された。指摘は「軍人恩給として支払われた恩給の総額がこれまでに60兆円」。対して民間人のそれは「ぜろ円」。
2026年09月20日
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明治節に弾薬海上投下作業の犠牲者に見舞金だけ 軍人恩給60兆円&民間犠牲者ゼロ円の戦後処理 「受忍の国」BSTSS1930 明治節に相当した1945年11月3日。釧路港の防波堤外で、弾薬処理作業に従事した隣組の組長を含む4人が犠牲となった。 「お父さんはその麻、作業に行くべきか、ゆくまいか、相当にためらっていました」。 そんな連れ合いの下に夕方、届けられたのは「お宅のご主人ほかが、作業中に海に投げ出されてしましました」。 北海道東部の港マチ。旧名を「トンケシ」と呼ばれた釧路市浪花&寿界わいの住民、4命が事故にあった。 GHQの命令で港頭に集めれてあった日本軍の弾薬を、海上投棄する作業が道庁―市役所を通じ、隣組に割り当てっれていた。 「勤労奉仕」「勤労動員」で痛い目にあっていた市民には、実に、酷な話であった。 事故の発生後、北海道も釧路市も幾分の見舞いを施した。しかし、ポツダム宣言受託後のことであり、GHQの命令で結果として犠牲になるも、軍人恩給支給の対象にはならず、 自治体史のこの記載部分に瑕疵があると、記述追加の議が市議会で起きた。 背景には、軍事に従事したにもかかわらず、國は手当てすることが平成の時になっても対象としなかった。 時移り2025年3月10日。そして26年8月14日。 BSTBSが「受忍の國」として、広島・長崎の被爆者、東京・名古屋等の大都市空襲犠牲者、もちろん沖縄戦闘や中小都市空襲犠牲者をふくめ、民間人の戦後補償のないこと。 そこを問う番組が、放送された。指摘は「軍人恩給として支払われた恩給の総額がこれまでに60兆円」。対して民間人のそれは「ぜろ円」。
2026年09月20日
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Pointで”物語創造”のツアー ぶぶる23th261010プラン 提案いたします。いかがでしょうかー。
2026年09月19日
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桧森神社 幸町七丁目=「神習教春日支教会」跡とする作業仮説261010ぶぶる23th 【命名理由】 旧名西幣舞の一部にして河岸参丁目四丁目は鉄道省所属の仮設水陸連絡場に利用され、中央は札幌鉄道局所属の工場北端は機関庫の所在地たり。 将来仲濱町方面に鉄道省海陸連絡埠頭完成の暁は大部分解放せられんか。 頗る至便枢要の商業地区となるべし。本区には町内団体あり。幸倶楽部と唱ふるに因りて幸町と命く。 因に鉄道用地の中枢は町時代釧路競馬場用地たりしも寄付したる故を以て、その筋より三ツ組金盃を交付せられ、今之を市役所に保管す。 一、此町には神習教釧路春日支教会一、聞名寺説教所がある。 (浪花五丁目)「消防番屋」・・・・・大洋産業(株) (幸町六丁目)「農検出張所」・・・・幸6ビル(六丁目10番3号) ・・・・増子豆腐店(六丁目6蕃) (幸町七丁目)「神習教春日支教会」・桧森神社(作業仮説 七丁目2蕃6号) 「和洋裁技芸女塾」・・□□□ 「聞名寺説教所」・・・龍玄寺(七丁目3蕃) (浪花七丁目)「保育園」・・・・・旧小池豆腐店西部 「天理教支教会」・・天理教西幣舞分教会 ※「幸倶楽部」・・・・・・・・・探索中
2026年09月18日
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命は平等 赤十字精神 西南戦争が残した「官軍病院址」260922 「名曲アルバム 熊本民謡:田原坂」にて。
2026年09月13日
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19歳Victorデビュー、47歳持病から逝去 男性ラテン歌手・ポール梨木 釧路市役所前庭、ポプラに見守られ育つ261010 NHK素人のど自慢の公開番組で釧路湖陵高生が突如あらわれ、合格の鐘を。 その勢いで翌年3月、放送記念日の全国大会でも好成績を残した。 当時、父は釧路駅長。官舎が現在の釧路市庁舎前庭の、背の高いポプラ一樹がその裏庭に植えられてあった、と。 同級生がのちに懐かしそうに語った。 ここがポール梨木の実家でね、たまに遊びに寄ったことがある。彼はその後、レコードデビューしたが、私はその幹の下で仕事に奉じている。 話を聴いて「ポール梨木」で検索すると、当時は確かにプロフィールもネットに豊富であった。 しかし、しかし。ついぞ、その話題を耳にすることも、活字で読むこともない。 最近、姉にあたる住本典子さんが、次の記載を投稿しいている。●https://www.youtube.com/watch?v=MsYcW-NqLGA 「ポール梨木 ラテンの旅より べサメ.ムーチ」。 住本さんの記載。「ポール梨木の姉です」。 「弟は1962年19歳てビクターレコードからラテン歌手として彗星の如くデビューして将来を期待されましたが持病の喘息の発作が度々起きて1980年47歳で亡くなりました」。 「ヤフーのオークションでレコードを見つけ落札しました。ファンの方がいてくれてとても嬉しく思いました」。 「まだボールの記憶が残っている方に在りし日のうたごえが届く事をいのって投稿しました。」(『ナビゲーションをスキップ ポール梨木ラテンの旅 住本典子』)。 チャンネル登録者数 95人 469回視聴 2024/02/05 併せて二つのURLを。 ●https://www.youtube.com/watch?v=voMcq3BA-6s 「ポール梨木ラテンの旅より ある恋の思い出」。 ●https://www.youtube.com/watch?v=3693eqFxdeQ 「ポール梨木ラテンの旅より グラナダ唄」 2026年秋、記載のポプラの根元を集合地として、催事を試みる予定。
2026年09月12日
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19歳Victorデビュー、47歳持病から逝去 男性ラテン歌手・ポール梨木 釧路市役所前庭、ポプラに見守られ育つ261010 NHK素人のど自慢の公開番組で、釧路湖陵高生が突如あらわれ、合格の鐘を。 その勢いで翌年3月、放送記念日の全国大会でも好成績を残した。 当時、父は釧路駅長。官舎が現在の釧路市庁舎前庭の、背の高いポプラ一樹がその裏庭に植えられていた。 同級生がのちに懐かしそうに語った。 ここがポール梨木の実家でね、たまに遊びに寄ったことがある。彼はその後、レコードデビューしたが、私はその幹の下で仕事に奉じている。 話を聴いて「ポール梨木」で検索すると、当時は確かにプロフィールもネットに豊富であった。 しかし、しかし。ついぞ、その話題を耳にすることも、活字で読むこともない。 最近、姉にあたる住本典子さんが、次の記載を投稿しいている。 ●https://www.youtube.com/watch?v=MsYcW-NqLGA 「ポール梨木 ラテンの旅より べサメ.ムーチ」。 住本さんの記載。「ポール梨木の姉です」。 「弟は1962年19歳てビクターレコードからラテン歌手として彗星の如くデビューして将来を期待されましたが持病の喘息の発作が度々起きて1980年47歳で亡くなりました」。 「ヤフーのオークションでレコードを見つけ落札しました。ファンの方がいてくれてとても嬉しく思いました」。 「まだボールの記憶が残っている方に在りし日のうたごえが届く事をいのって投稿しました。」(『ナビゲーションをスキップ ポール梨木ラテンの旅 住本典子』)。 チャンネル登録者数 95人 469回視聴 2024/02/05 併せて二つのURLを。 ●https://www.youtube.com/watch?v=voMcq3BA-6s 「ポール梨木ラテンの旅より ある恋の思い出」。 ●https://www.youtube.com/watch?v=3693eqFxdeQ 「ポール梨木ラテンの旅より グラナダ唄」 2026年秋、記載のポプラの根元を集合地として、催事を試みる予定。
2026年09月12日
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男性ラテン歌手 ポール梨木 高校生時代を見つめた釧路駅長官舎庭のポプラ261010ぶぶる23thポール梨木(ポール・なしき)は、1960年代前後に活動した日本の男性ラテン歌手で、ビクターレコードからデビューした人物とされています。(youtube.com)ポール梨木とは何者か 1962年ごろ、19歳でビクターレコードからラテン歌手としてデビューしたと、家族による証言が紹介されています。(youtube.com)代表的な録音として、ラテン名曲を日本語カバーしたアルバム「ラテンの旅」などがあり、「ククルクク・パロマ」などを歌唱しています。(mysound.jp) これらの音源は、コンピレーション「ラテンの饗宴〜ナイトクラブ時代 1959-1965〜」などにも収録され、現在も配信や中古レコードとして一部で流通しています。活動の特徴と背景 楽曲ラインナップから、ナイトクラブやラテン音楽ブーム期の日本で活動した歌手とみられます。(mysound.jp) 家族の投稿によれば、将来を嘱望されながらも、持病の喘息発作に悩まされていたことが語られています。(youtube.com) 現在は新たな活動情報はほとんどなく、主に過去音源の再評価・コレクター市場で名前が見られる存在です。(diskunion.net)どんな曲を歌っているか 「ラテンの旅」関連の動画では、「ククルクク・パロマ」「べサメ・ムーチョ」「ある恋の思い出」など、ラテンのスタンダード曲を日本語で歌う姿が確認できます。(youtube.com)これらは、1950〜60年代の日本におけるラテン歌謡・ナイトクラブ音楽の一端を知る資料的価値もあると評価されています。(mysound.jp)要するに、ポール梨木は1960年代初頭にデビューした日本のラテン歌手であり、現在は主に当時の録音を通じてその名が知られている人物です。
2026年09月11日
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前回「三ツ輪のマーク=栗林・三上・豊島三社の三輪」が学習項目 「三上運送店が十勝菜豆を取扱い出来た必然?」261010 三ツ輪ビル。釧路市錦町5丁目3番に位置する。昭和7年8月の釧路市地名地番改正で現在の行政字名となった。 先行して明治17年に区画された地番では、現在の釧路市錦町五丁目1番が「西幣舞4番地」。 現在の釧路市交流プラザさいわいとNTT釧路支社の敷地に釧路停車場が設けられて、西幣舞は、橋北地区一の起業拠点であった。 『釧路市職業別明細市街図』では、釧路市錦町5丁目3蕃の最西端に「三上運送店」とある。 細かくはその前年12月、三ツ輪運輸株式会社が創業された。図の発行は昭和7年でも、入稿時には旧社名であった。ここはそう、解して置くことにしましょう。 前回の学習項目は、「三ツ輪のマーク=栗林・三上・豊島三社の三輪」」 10月10日催行予定の「遊ぶ・学ぶ・褒める 語尾3語 るるぶ in 釧路市北大通」。 訪問する三ツ輪ビルでの学習項目。今回は「三上運送店が十勝菜豆を取扱い出来た必然のはなぜ?」 答えは「ごめの目」サイトの「伝えたい『蔵』の記憶(115)三上運送合資会社」260305にも。さてさて。 https://gomenome.jp/others/kura_115/
2026年09月08日
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十勝菜豆、外需輸出を支えた釧路港 海と陸の豆流通を結ぶシステム2610101十勝菜豆―十勝で生産される隠元豆にエンドウ豆の総称。 鉄道輸送され、釧路港からアジア大陸及び直接、ヨーロッパの戦闘対象地に輸出された。 外国需要に対応した貨物取り扱いの流れ。 搬入される貨物は、十勝川河口の大津から移転してきた三上貞治運送店が取り扱う。 問屋の原田商店を通じ、まずは選穀 せんこく 作業に、移される。 「選穀 せんこく」=収穫した穀物や豆から、良質な粒だけを選び分ける作業のこと。主に種子用や高品質品の生産。 釧路港でその記録があるのは高橋駒吉選穀場。 「選穀とは「選穀は、穀物・豆類などから、未熟粒・割れた粒・病害虫被害粒・異物(石・枝など)を取り除き、良い粒だけを残す作業」では、あるも。。 不良粒=未熟粒・割れた粒・病害虫被害粒・異物を取りのぞいた上に、等級=価格の分別を行った。 作業は収穫期から始まる性格があるから、常時の雇用ではなく、季節的な臨時雇用。 貨車からの荷下ろしに、輸出用の船積にも「ヒトの手」が必要で、前者は女性、後者は男性に、斡旋する職業紹介所は不可欠。 もちろん、豆の等級・選別・質保証に北海道庁出張所の質保証=監督が、モノ申す。 女性、それも若手を採用しようとすれば当然、必要な子育て支援。「保育所」も配置。 一方、大豆は食用油・肥料の豆粕・醸造業(味噌・醤油・納豆)、小豆は和菓子業界にその地位を築いてゆく。 菜豆の急激な外国需要に対応する汽船輸出、大豆・小豆・手亡・菜豆の国内向け列車移出。 原田康子著『海霧 うみぎり』、その最終章を理解するうえで不可欠。海陸輸送結節の港マチならではのシステム。
2026年09月07日
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大正5年:好況で農村は異常な好景気 「豆成金」のバックヤード2610101 明治26年1月 十勝三等測候所開設 適地適作農業の起点 ●十勝雑穀 内需移出時代に (京都で抹茶と結合の和菓子、300年以上の歴史を経て『老舗』の呼称) (東京で670余年 和菓子店・塩瀬総本家は日本初の小豆餡と饅頭をもたらす) 明治33年 敦賀港 大和田製油所 大豆圧搾を開始し豆粕生産、副産物に食用大豆油。 大正4年 鈴 木 商 店 =のち豊年製油を傘下に が<べンジン抽出法>特許権を満州鉄道から取得。 大正5年に製油工場を民間の鈴木商店に払い下げ,鈴木商店製油部は大連工場に続き内地において清水,鳴尾,横浜に相次いで大豆抽出工場を建設。 ●十勝菜豆 外需輸出 大正3年7月 第一次世界大戦勃発。 交戦国の生産減退&軍需品その他が必要に。日本は欧州商品の支配力の強いアジア市場のみならず、交戦国の欧州に進出。 交戦国支配力減退を機会に輸入品と競争的な関係にあった諸産業が国内で勃興。 ⇒貿易飛躍的伸張&海上輸送力の減退から、国内に海運業と造船業に異常ブーム。 大正4年―5年 刑期は回復に転じ5年にかけ好況。 農産物を中心とする海外輸出が急激に増加し、農村は異常な好景気に包まれた。 真っ先に青豌豆、次いで菜豆類、澱粉の原料である馬鈴薯、亜麻が続いた。 ◎海運業好況で「船成金」。豌豆で「豆成金」。 ◎澱粉成金、船成金にかわって札幌中心に「大根成金」、「豚成金」、「南瓜成金」の言葉さえ登場。
2026年09月06日
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261010 小説『海霧』 舞台の一隅「原田御殿」=浪花町五丁目
2026年09月05日
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泥炭湿地縁辺の豆腐業 大正6年開業 入舟から移転、新市街で豆腐製造 増子豆腐店261010 停車場で原料の大豆。しかし、製造に必要な水が。 丘陵縁辺部には湧水があって豆腐製造、清涼飲料、酒造の製造が活発な眞砂、入舟。 しかし西幣舞&トンケシ共に、湧水を売り歩く「水売り」から求めていた、新市街。 上水道の通水は昭和2年。小池家&増子家、共に給水に先立ち創業。 馬車などを導入して釧路川左岸の湧水を、右岸の製造所に運搬して賄っていた。 そのように類推というか、作業仮説を用意しているのであるが、いかに。
2026年09月05日
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泥炭湿地縁辺の豆腐業 大正3年開業、二代目愛三さん釧路短歌の中期の代表の歌人260911 旧地名で「西幣舞」&「頓化 とんけし」と呼ばれた地に、大正3年豆腐製造店が開業。 二代目愛三さんは、歌人として釧路短歌会をまとめる位置にあった。 啄木來釧で釧路の短歌運動は活発であった、と。 続編は鳥居省三『釧路文学運動史 明治大正編』で。 三男さんは現在、釧路青垣短歌会を主宰。市内
2026年09月05日
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東端の港マチ。泥炭湿地縁辺の豆腐業 根室から移り開業「西幣舞五十九番地 小池豆腐店」 旧地名で「西幣舞」&「頓化 とんけし」と呼ばれた地に、3軒の豆腐製造が点在していた。 丘陵地に囲まれた釧路川左岸の旧市街に対して、右岸は海岸砂丘と泥炭湿地に囲まれた新市街が急速に人口増加。 旧市街地が「舟着き場」からの発展に対して、新市街は鉄道で旭川&札幌と結ばれ、発展した。 旧市街地の丘陵地に姿を現す湧水を、新市街の砂丘と泥炭湿地縁辺が居住地化した新市街。 そこは旧市街の「水売り」に、飲用水を委ねていたのであるが。 2度に分け、初めに紹介する「西幣舞五十九番地 小池豆腐店」。釧路新聞社編・発行『わが街の人物地図 1集』を読むことに。
2026年09月04日
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大般若波羅蜜多経転読 そもそも史跡国泰寺跡「正五九大祈祷」とは 文政十三年正月 史跡国泰寺跡に伝承の『寺務記録 日鑑記 巻二』の記載。 それは「掟 一 天下泰平国家安全之勤行、怠慢あるべからざる事」条の記載に沿って進められる。 法要満散、すなわち勤め終えたのちには、略式の膳が尊前に供えられ、関係者もまた、<もてなし>をうける。 「勝手方出来次第」。南部・大畑あたりで採用された寺院の賄い方担当の男性がしつらえた精進料理の準備が終わる。 「役寮 やくりょう」。住職を補佐する法務員、そうとは申さずに「役僧 やくそう」などと通称される出家僧が、伝来役を勤めるのだ。住職をささえる3名の布陣。 案内をうけた、大名家派遣の役人&場所請負商人配下の重役たちが、国泰寺に参集。 「座附吸物 ざつきすいもの」。今日AIは「会席料理などで客が席に着いて最初に出されるお椀物(吸物)を指す言葉。 転じて「席に着いた直後に供される最初の吸物」という位置づけ。信じるかどうかは、さておき。 「入麺口取重詰 いれむぎ・くちとり・じゅうづめ」。 「いれむぎ」は<そうめんを温かいだしで煮た料理>。 これに、大晦日のデザートと元旦から食するはずの重箱入り、オセチ料理を結ぶと良いの、だが。 まだ、まだ、ある。「外に丼物参通、温酒数献相廻し、一汁五菜」。 どんぶりモノ三種にお待ちかね、昼前から「燗酒」は誠にありがたい。 一汁五菜は、おそらく一杯の「粥 かゆ」に「汁 しる」は「スマシ汁」でも付属。加えて五種類の副食。 そういうモテナシながら、そこにはワケも。 前年10月、国泰寺に到着した住職ら一行が、周囲に公式に示した「お目見えの膳」でもあった。
2026年09月03日
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大般若波羅蜜多経転読 そもそも「転読」定光禅寺龍神堂三尊天祭礼で260907 北海道東部の港マチ。その定光寺竜神堂で営まれる三尊天の祭礼。 いつの歳であったか、お世話をされている方のお誘いで、一度、参詣されてもらったときには、掲載画像の「大般若心経転読」の法要が勤修 ごんしゅう された。 掲載画像は「融通念佛宗総本山 大念佛寺 -大阪市平野区」が公開しておられる。 説明に「大般若波羅蜜多経(だいはんにゃはらみつたきょう)とは」「転読とは」「大般若転読法会のご本尊 十六善神」の解説。 そこでは「大般若波羅蜜多経真読 だいはんにゃはらみつたきょう しんどく 」に対する、「転読(てんどく)は、経題や経の主要な部分を拾い読むこと作法」、と。 https://www.dainenbutsuji.com/schedule/tendoku/ 結論から記載するに、転読、そもそもの意味。 「すべての災(わざわ)いや悪を祓(はら)いとり除き、人々の願いをかなえて幸せに導いてほしい」という意味で、 「一人一人の除災与楽(じょさいよらく)を祈る」。 で、作法と差定=さじょう 法要の進行・配役・読経順などをまとめた台本のような文書。 結衆 けっしゅう の僧侶は、「経巻をひもとき、一巻、一巻、転読するたび」に。 「大般若波羅蜜多経巻第(だいはんにゃはらみつたきょうかんだい)第一巻~第六百巻、唐ノ三蔵法師玄奘奉詔訳(とうのさんぞうほうしげんじょうぶしょうやく)」と 大声で唱え、本堂内に並んだ僧侶が一斉に六百巻の経典転読が始まる。 最後に経巻をもって「降伏一切大魔最勝成就(こうぶくいっさいだいまさいしょうじょうじゅ)」と言いながら経巻で経机をたたく。
2026年09月02日
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大般若心経転読 読誦の相は定光禅寺龍神堂三尊天祭礼で260907 くしろ元町青年団2022年2月20日付のネット情報で「毎年9月7日、8日 開催場所 定光寺竜神堂」と記載があった。 別なネット記事では「明治明治27年(1894年)から毎年秋に」とも「今年が50回目のフシメ」と伝えられる「三尊天 さんぞんてん 祭礼」。 いつの歳であったか、お世話をされている方のお誘いで、一度、参詣されてもらったことがある。 大道晃仙師が出座され、厳かに「大般若心経転読」で、法要が営まれた。 史料を読み、その記載があること、承知していた。 記載は史跡国泰寺跡に伝承の五世文道代『日鑑記 巻二』の文政13年正月17日の記録。 正月、五月、九月の15日から17日まで、将軍家繁栄と国家安泰を祈祷する法要が、厳かに営まれる。 17日の法要が「満散 まんさん」。つまり功徳成就の法要で、故にひきつづき「半斎献鉢」。 「斎 とき」は昼前の法要後に行う会食や、その席で供される料理を「お斎(おとき)」。 それが「半斎 はんとき」は「食事の量や作法をやや簡略にした接待や儀礼」と、いうことになる。 国泰寺はこのとき、十勝・釧路・根室・国後・択捉の遠隔地には、「奉牌」という修了の札を配るのみだ。 しかし周辺に住む、松前家出張所の役人、それに場所請負商人の患部たちは寺に招かれ、その接待をうけ、つつがなく法要が満了したことを讃え、悦ぶのだ。
2026年09月01日
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