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「平家物語」の冒頭「祇園精舎の鐘の声...」の祇園精舎ってのはお釈迦さまが説法を行ったお寺のひとつですな。正式名称は「祇樹給孤独園精舎」。紀元前6世紀頃から紀元前5世紀頃にかけて古代インドにあった「十六大国」のうち、最も有力な国のひとつコーサラ国にありました。この国に住む人は「釈迦族(シャーキヤ族)」と呼ばれています。さて「平家物語」は平氏と敗れた源氏、源氏の隆盛、源平の戦いから平氏の滅亡を描いた物語ですな。吉川英治の小説に「新・平家物語」があって、2度も映画化されてるし、NHKの大河ドラマにも取り上げられました。HNKのは主演の平清盛役を仲代達矢がやっていたと思います。さて「新」のつかない平家物語、こっちは鎌倉時代に書かれたと推測されてますが、確かでなく、しかし文中にしばしば鴨長明の「方丈記」からの引用が見られることから、少なくとも「方丈記」が執筆された建暦2年(1212年)以後に執筆されたとしています。壇ノ浦に結集した船は平氏方が500艘、対する源氏は840艘。海戦を得意とする平氏は追い潮に乗って、最初は源氏に矢を射かけて優勢だったのに、途中から潮流が反転。逆に源氏が平氏を追っかける体になって形勢逆転したのですな。ちなみに船を数えるのに「艘」は中・小型船、「隻」はタンカーなどの大型船です。「艇」はヨットとか艦艇など、「艦」には「いくさ船」って意味がありますな。その他にも「杯」とか「盃」なんて数え方も存在します。現存している「平家物語」には「語り本」と「読み本」の2系統があるらしい。その「語り本」にも八坂流系諸本と明石覚一(南北朝時代の平家琵琶奏者)がまとめた「覚一本」があるそうですが、この「覚一本」が「平家物語」のスタンダードらしい。「覚一本」は壇ノ浦で海に身を投げた後、助けられて出家した建礼門院の物語まで網羅しています。つまり「平家物語」の本流は盲目の琵琶法師によって琵琶を弾きながら語られることにあったのですね。それでテンプレにも琵琶法師を登場させたけど...あら恐ろしや「耳なし芳一」でんがな(笑)と云っても耳なし芳一と平家物語は全く縁がないワケでもない。「耳なし芳一」の物語は平家一門を祀った阿弥陀寺が舞台なんですから。テンプレのミミちゃんは源義経。有名な義経の「八艘飛び」をやっているところ。「八艘飛び」は平教経と云う平家の侍が義経を狙って、源氏の船に単身で斬り込みするのですな。ところが義経は相手にしない。身の軽さを利用して「ヒョイ、ヒョイ」と海上を飛び跳ねるように別の船に乗り移り教経の攻撃をかわし続けました。「平家物語」によれば義経は二丈(6m )も離れた隣の船に飛び移って逃げたとされています。6m !オリンピックに出れますがな(笑)チャッピくんはもうお分かりですね。左端で弓を引いているのは那須与一です。平氏方の軍船に掲げられた扇の的をみごと射落とす功績をあげましたな。テンプレでは軍船を描くのがメンドイので、海に扇を立てました。テンプレ画像にはひとつも映画のシーンは使っていません。下関の源平船合戦と云うお祭りなんかの記録画像を利用しました。壇ノ浦の関門橋が写っているのはご愛嬌ね。中之島公園の猫たち-「SAVE THE CATS IN NAKANOSHIMA PARK-」整備工事で閉鎖になった大阪の中之島公園。そこに暮らしてた約70匹の子供たち。心あるボランティアのご尽力で「猫の部屋」と呼ばれる仮住まいを得ることができました。すこしずつ里親さまも決まってきてますが、まだまだ多くの子供たちが良いご縁を心待ちにしています。なを「中之島公園の猫たち」では恐縮ですが現金によるご支援は一切お断りしております。「公園ねこ適正管理推進サポーター制度」が実施されています。そちらのリンクもありますので、大阪市在住の方はぜひ見てください。
Oct 31, 2015
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「DOS/V PowerRepot 」と云う自作PCの雑誌を買ったら、付録に「CPU進化の系譜」と云う1枚ものの表がついてきました。どれどれ懐かしいCPU(中央処理装置。要するにコンピュータの頭脳のことですな)が載ってますな。日本で販売されたPCのCPUで、導入されたいちばん最初のモデルは「8086」。今のCPUは同時にできる処理が64個の64ビット・プロセッサーですが、このCPUは1/4の16ビット。心臓の鼓動と同じクロックも今ではお話しにならないくらい遅い5Mz~10Mz。これを使ったPCが私が一番最初に買ったメーカー製PCに使われていました。NECの「PC9801」です。PC9801シリーズをもうご存じ無い方も多いと思いますが、IBMのシステムが入ってくる前は日本でPCと云えばPC9801シリーズと相場が決まっていたのです。これの初代から使っていました。このシリーズの強みは漢字専用のメモリーを持っていて、今のようにソフトウエア(MS IME)で変換するより当時は抜群に早かったのです。しかしこの専用仕様が後々、足かせとなって、IBMのシステムに駆逐されていったのです。私のPCはその後PC-9801F、PC-9801Eと新製品が発売されるたびに買い替えられて、PC-9801VMと云うNECが独自開発した8086上位互換の高速CPUであるV30を搭載したPCになっていきました。このころの記憶媒体は今となっては死語に値する「フロッピーディスク」です。そしていよいよ16ビットCPUとお別れして、倍の処理能力を持つ32ビットCPU(それでも今のCPUの半分の能力です)「80386」を搭載したPC-9801RAにいきつきました。当時最新のRAで搭載してるハードディスクは40MBです。当時、もうこれでPCを買い替えることは終わりかなと思っていたのですけどね(笑)ちなみにこの頃のOSは未だWindows が出る以前のMS-DOS仕様。BASICと云う簡易プログラミング言語で雑誌に載ってるプログラムをちまちま書いてみたり、表計算はExcel ぢゃなくて「ロータス123」、ワープロソフトもWordぢゃなくて「一太郎」の時代でした。「ロータス123」が席巻してた頃はExcel なんて目ぢゃなかったですね。PC-9801RAを購入してから、仕事が忙しくなり、仕事で海外に行くことも増えたため、家のPCはしばらくお預け。会社ではCPUに「Celeron」を使ったPCを導入し始めてましたが、仕事ではホストコンピュータを介しての操作だったので、PCそのものの出番がほとんどありませんでした。むしろワープロ機の富士通「OASYS(オアシス)」が大活躍してた時代です。A4用紙そのままの縦サイズが表示できる業務用OASYSでしたが、型番は覚えていません。このOASYSは親指シフトキーボードと云う独自のキーボード仕様を取り入れてましたが、これはとても早く打てて快適なキーボードでした。それから会社を替わって、ここではPC操作が主。その頃にはCPUに「Core2 Duo」を使ったHPのPCに代わっています。「Core2 Duo」は最新CPUのCore i7の前身ですから、もちろん64ビット。もう今のPCと顕色ありません。そう云えば私も「Core2 Duo」を使ったHPのPCを自宅で使っていたけど(WindowsXPの時代です)。それ以前にもWindows VistaのノートPCも持っていましたね。Windows Vistaの方がWindowsXPより後なのに、なぜ先祖返りしたかと云うとWindowsVistaのノートPCがあまりに遅くってイライラし通しだったから。実はこのVAIO、欠陥商品だとソニーが後になって報じたけど、その時にはもう手放していました。それより以前の自宅PCと云えば、Windows NT。これは随分使いこんだOSなのに、不思議に使ってたPCの記憶が無いなぁ。もう随分、ボケが進んできた。それなのにイチバン古いPCのPC9801シリーズのことはよく覚えている。こりゃあヤバイですね。脳梗塞もってるのに加えて、認知症まで出てきたのか?(笑)今使ってるPCのCPUはCore i7だけど、もう第6世代CPUの「Skylake」が出てきてるし...いったいどこまで進化するのやら。もう進化しなくっても、今ので充分なんですけど。中之島公園の猫たち-「SAVE THE CATS IN NAKANOSHIMA PARK-」整備工事で閉鎖になった大阪の中之島公園。そこに暮らしてた約70匹の子供たち。心あるボランティアのご尽力で「猫の部屋」と呼ばれる仮住まいを得ることができました。すこしずつ里親さまも決まってきてますが、まだまだ多くの子供たちが良いご縁を心待ちにしています。なを「中之島公園の猫たち」では恐縮ですが現金によるご支援は一切お断りしております。「公園ねこ適正管理推進サポーター制度」が実施されています。そちらのリンクもありますので、大阪市在住の方はぜひ見てください。
Oct 30, 2015
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時代劇を観ていると、大名行列の先払いが「下に~ぃ、下に」と叫んで、それにあわせて民衆が土下座するシーンがよく登場しますね。ところが史実は「下に~ぃ」ぢゃなかったのですな。「下に~ぃ」と声を上げたのは、将軍家御用達の「茶」を運ぶ「お茶壺道中」と尾張、紀伊、水戸の御三家、それに親藩の大名行列だけです。親藩大名は徳川家康の男系男子の子孫が始祖となっている藩を指すので、尾張徳川家とか奥平松平家と云ったように、みんな徳川か松平の名前を名乗っている大名でその数は多くありません。それぢゃあ、それ以外の有象無象の大名の先払いは何と発していたのか?「片寄れ、片寄れ」なんですな。で、庶民はこの「片寄れ、片寄れ」の声とともに土下座したかと云うと、そうではありません。「片寄れ、片寄れ」の声がする頃には、みんな家の中に引っ込んでて、通りには人っ子一人いない。御三家や親藩の大名行列が通過するときは、事前に通ることが通知されます。それ以外の大名が通過する場合でも、口コミで伝達されてましたし、第一雰囲気でそれと分かったのです。通過するとき、道端に居て粗相があれば、容赦なく切り捨てられます。誰もそんな物騒なトコに近づかない。触らぬ神に祟りなし。民衆は大名行列が通過する間、家の中でじっと息を殺していて、通過したら何ごともなかったかのように普段の生活に戻っていったと云います。もうひとつ侍話しを。あの「髷」と云うのは、身分や階級によって髷の形や大きさが決まっていたのですね。ぢゃあ「ハゲ」はど~していたのでしょう?もう私の頭ではとうてい髷なんて結えるハズもないくらいハゲてます。江戸時代の侍は、とりあえず「入れ髪」をして髷を結ってたのですな。ところが私のように、入れ髪では追いつかないくらい禿げあがったらど~するのか?「カツラ」です。髷が結えなくなったから引退と云うワケにはいかないので、ハゲはカツラを被っていたのですね。冬はいいとして、夏は暑かったやろなぁ。あれだけは絶対被りたくない。しかし、江戸時代からハゲは苦労してたんですな(笑)中之島公園の猫たち-「SAVE THE CATS IN NAKANOSHIMA PARK-」整備工事で閉鎖になった大阪の中之島公園。そこに暮らしてた約70匹の子供たち。心あるボランティアのご尽力で「猫の部屋」と呼ばれる仮住まいを得ることができました。すこしずつ里親さまも決まってきてますが、まだまだ多くの子供たちが良いご縁を心待ちにしています。なを「中之島公園の猫たち」では恐縮ですが現金によるご支援は一切お断りしております。「公園ねこ適正管理推進サポーター制度」が実施されています。そちらのリンクもありますので、大阪市在住の方はぜひ見てください。
Oct 29, 2015
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またまた買ってから一度も観て無いDVDを見つけてしまった。「魍魎の匣」(もうりょうのはこ)何年前だぁ~?2007年公開だって!同作品はTVアニメも放映されてたんですね。原作は人気作家 京極夏彦。これの「百鬼夜行シリーズ」2作目。と云っても、私は京極夏彦、一度も読んだことがありません。この映画、続けて2回も観てしまいました。面白かったから?いえいえ、ストーリーが把握しにくい。特に前半が。なんせ登場人物は多いし、主役は阿部寛かと思って観ていたら、途中から堤真一が登場してきて、ど~やらこっちが主役らしい。時間はどんどん後退したり、前にいったり。なんかワザと分かりにくい演出をしているのかと思うほど。前半のセリフの云い回しがなんかウソっぽいなぁと聞いていたら、これって「舞台」のセリフ回しぢゃない!映画なのに自然ぢゃないんですよね。現代は1952年の東京って設定なのに、わざわざ北京にロケ行って昔の日本の風景を描き出しているって、これが全く中国の風景。こんな日本、どんなに昔でも有りえませんよ。物語はこうです。武蔵野連続バラバラ事件と云う事件がおこります。被害者はいづれも少女。それが首と手足が匣(はこ)に入れられた状態で見つかるのですが、胴体はなぜか見つからない。榎木津(阿部寛)は「人の見た"光景"を"見る"ことができる」能力の持ち主。仕事は「薔薇十字探偵社」を営む私立探偵です。この榎木津が元女優の柚木陽子(黒木瞳)から失踪した娘を探してほしいと依頼を受けます。捜索中の娘は中央線武蔵小金井駅の高尾方面ホームから何者かに突き落とされ列車に轢かれてしまいます。瀕死の状態で発見されますが、民間の医療施設ではなく、美馬坂近代医学研究所という巨大なハコ型の軍事施設のような建物に運び込まれるのです。この研究所の所長 美馬坂幸四郎は実は運び込まれた娘の実の父親。戦前は帝国大学出身の免疫学の権威で天才外科医として名を馳せましたが、不死の研究に没頭したため公の場から追いやられた経緯の持ち主です。この美馬坂近代医学研究所が武蔵野連続バラバラ事件と深く関わっているのですが、それは云いますまい。ここに中禅寺秋彦(堤真一)と云う人物が登場します。古本屋「京極堂」の店主で陰陽師。本来の稼業は家業は宮司で、副業は拝み屋と云う変わった経歴の持ち主です。この中禅寺と榎木津は旧知の間柄。それに「穢れ封じ御筥様」と呼ばれる不幸を匣に封じ込めると云う怪しい教団を調べていた仲間の作家や女性記者が加わって、いよいよクライマックスの美馬坂近代医学研究所に乗り込んでいくのです。とまぁ、文字にするといかにもおどろおどろしい面白そうな映画に感じますが、冒頭に書いたようにいかんせんストーリーを掌握するのが困難(私の頭のせい?)なんですかねぇ、映画化するのが困難な物語をムリに映画にしたような。中之島公園の猫たち-「SAVE THE CATS IN NAKANOSHIMA PARK-」整備工事で閉鎖になった大阪の中之島公園。そこに暮らしてた約70匹の子供たち。心あるボランティアのご尽力で「猫の部屋」と呼ばれる仮住まいを得ることができました。すこしずつ里親さまも決まってきてますが、まだまだ多くの子供たちが良いご縁を心待ちにしています。なを「中之島公園の猫たち」では恐縮ですが現金によるご支援は一切お断りしております。「公園ねこ適正管理推進サポーター制度」が実施されています。そちらのリンクもありますので、大阪市在住の方はぜひ見てください。
Oct 27, 2015
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乱雑でお見苦しい部屋でお恥ずかしい。ミミちゃんとチャッピくんの位置関係。チャッピくんはミミちゃんがどこに居ようがお構いなし。我が道を行くチャッピくんと、どこまでもそのチャッピくんを勝手に意識してるミミちゃんです。近所の公園で秋らしい植物を撮ってきました。と云っても、お花でめぼしいものはなかったので、枯葉とか枯草とか。以前にプロ写真家のアドバイスをブログに載せましたが、云うように写真と云うものは特別なとこに行かなくっても、それこそ自宅の庭でもよく観察すると画になる風景ってのはありますね。まぁ、にゃんこ飼いやワンちゃん飼いの人は身近な子供たちを撮るので、それが普通ですが。全部、コンデジの写真です。花と云うのは意外に光を反射するので、露出がムツカシイ。光を生かした写真ならともかく、どっちかと云うとアンダーな写真の方が深みが出ますね。逆に「桜」なんかは、春の息吹を感じさせるためにオーバー露出ぎみに撮ることもあります。今回は露出を-1にマイナス補正して撮ってます。Photoshop で撮影後に補正する方法もありますが、まっ白に写ってしまった画像はいくらPhotoshop と云えども修正のしようがありませんので。これは逆に光を利用した写真。光の当たり具合を調整するのがメンドイ。中之島公園の猫たち-「SAVE THE CATS IN NAKANOSHIMA PARK-」整備工事で閉鎖になった大阪の中之島公園。そこに暮らしてた約70匹の子供たち。心あるボランティアのご尽力で「猫の部屋」と呼ばれる仮住まいを得ることができました。すこしずつ里親さまも決まってきてますが、まだまだ多くの子供たちが良いご縁を心待ちにしています。なを「中之島公園の猫たち」では恐縮ですが現金によるご支援は一切お断りしております。「公園ねこ適正管理推進サポーター制度」が実施されています。そちらのリンクもありますので、大阪市在住の方はぜひ見てください。
Oct 26, 2015
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もう涼しいを通り越して、うすら寒さを感じる今日このごろ。チャッピくんも、すっかり添い寝にゃんこに逆戻り。は、いいんですが...例のアレ、イビキに悩まされるシーズンと相成りました。チャッピくんのイビキは強烈やからなぁ。蓄膿症か?世界でも名だたる手抜き工事王国の中国。昨年も上海にある15階建てのマンション「心苑西園」二棟のうち一棟の屋根が傾き隣のビルに寄りかかってぶつかり、亀裂が入っていることを住民が発見しました。このマンションは2012年に竣工したばかり。明らかに手抜き工事からおこった事象なのに、建てた上海心圓房地産開發有限公司は「自然の沈降によって引き起こされたもので、建物の主体構造に影響はない」と主張。あれぇ~こんな絵柄、日本にもありましたよね。そう今、世間を騒がしてる三井不動産グループが販売した横浜市都筑区のマンションと同じ。日本も地に落ちたものです。あんな大手企業が販売したマンションがこんな欠陥商品だったなんて。旭化成建材は他にも欠陥建て物が見つかればど~するんでしょうね。1戸のマンションでも取り壊して建て直すと云えば、莫大な費用が掛かるのに、会社がもつのでしょうか?中国ではこんな工事が軒並み。なので中国の建造物の寿命は欠陥がないとしても25年~30年しか持たないといわれ、欧米の半分にも満たない寿命です。このため中国では、建築廃棄物の量は都市全体から排出されるゴミ総量の30%~40%を占めていると云われます。2013年には中国の凱里市第三中学校で新校舎(前年に竣工)の廊下の一部が崩落し、児童37人が地下10m の場所にある駐車場に落ち7人が負傷しました。この廊下、なんと鉄筋が1本も入っていなかったのです。きわめつけは2009年におこった上海のマンション倒壊です。蓮花河畔景苑開発と呼ばれるこのプロジェクトの株主には市の幹部が数名参加しており、まさに癒着と手抜き工事が原因の倒壊。ど~もこの工事も固い地盤層まで杭を打ってなかったのが原因らしい。だから地震の多い日本で、都筑区のマンションみたいな工事したら命取りになるのです。「ピサの斜塔」ぢやないけれど、欧米にも傾いているけどそのまま使用されている建て物がいくつもあります。ただ欧米の場合は傾いてても安全だと証明されて使っているところが違うのですけどね。先ずはドイツ、ニーダーザクセン州にあるズールフーゼンの斜塔から。2010年にアブダビにあるキャピタルゲートビルが認定されるまで、世界で最も傾いた塔としてギネスブックに認定されてた中世に建てられた教会の塔です。ピサの斜塔よりも1.22度傾いていて、自然に傾斜した塔としては世界一を誇ります。この塔は1450年に建築されました。建てたところが湿地帯だったのですが、オーク材による基礎は地下水に守られていたのですな。ところが19世紀になって地下水の排水をおこなったら、基礎の木材が腐食して塔が傾斜し始めたのです。塔は1975年にいったん立ち入り禁止になりましたが、10年後に安全が確認されて再度立ち入りができるようになりました。お次はフランス、ブルターニュ地方にあるレンヌの旧市街。ここは日本人の観光客も多いですね。その旧市街には木組みの家々が並んでいますが、あちこちで傾いている姿を見ることができます。遠目でも建物の歪みがはっきり分かります。安易に建て直さず、傾いた家の間に生じる隙間を埋めるように補強が施されたり内装をリフォームしながら住み続けているのです。次の3つは最初からワザと斜めになるよう意図されて建てられた建て物。先ずはスペイン、マドリードにある「ヨーロッパの門」を意味するツインタワー「プエルタ・デ・エウローパ」から。通りに覆いかぶさるように高さ115m、26階建ての2つのタワーが向かい合って建っています。傾斜角は15度で、この傾斜の下では1,000人が雨宿りできるといいます。お次はアブダビにあるキャピタルゲートビル。「世界一大きく傾いた人工のタワー」として2010年にギネス認定されました。高さは160m 、地上35階建て、傾斜角は18度。12階までは垂直に建設して、それより上の階から30cm~140cmずつずらしていき傾斜を形成しています。最後にモントリオールにあるオリンピック・スタジアムに併設されたタワー。傾斜した人工タワーとしては165m で世界一の高さを誇ります。デッキには展望台も設置されており、毎年25万人の観光客が訪れるという人気のタワーです。中之島公園の猫たち-「SAVE THE CATS IN NAKANOSHIMA PARK-」整備工事で閉鎖になった大阪の中之島公園。そこに暮らしてた約70匹の子供たち。心あるボランティアのご尽力で「猫の部屋」と呼ばれる仮住まいを得ることができました。すこしずつ里親さまも決まってきてますが、まだまだ多くの子供たちが良いご縁を心待ちにしています。なを「中之島公園の猫たち」では恐縮ですが現金によるご支援は一切お断りしております。「公園ねこ適正管理推進サポーター制度」が実施されています。そちらのリンクもありますので、大阪市在住の方はぜひ見てください。
Oct 25, 2015
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今年は琳派誕生400年の節目。日本全国で琳派に絡んだ展示会が開催されていますが、それにちなんで「手のひらの自然 京菓子と琳派展」が京都で開催されています。琳派と京菓子?結びつきそうで結びつかないような...画像は近代の琳派と呼ばれている神坂雪佳の「金魚玉図」です。この企画は一般人公募による琳派をイメージした自由なイメージの菓子デザインを、プロの京菓子職人が立体化し、本物の京菓子に作り上げると云う段どりなんです。ちょうど開催期間中は、京都国立博物館で琳派の展示会も開催中なので琳派一色みたいな。会場は江戸時代の学問・文化サロンであり建造物自体が文化的遺産である「弘道館」。会期は10月25日~11月7日まで。時間は午前10時~午後17時。入館料は500円ですが、呈茶、特製土産付きの特別チケット(2,000円)も用意されてます。予約が必要で、直接 弘道館に行くか、HPのみ。画像は昨年のデザイン部門大賞作品「硯箱」と実作部門大賞作品「MinimalArt KORIN」。同じ企画が京都高島屋で27日まで開催されてます。こちらは入場料無料。弘道館のオフィシャルホームページ中之島公園の猫たち-「SAVE THE CATS IN NAKANOSHIMA PARK-」整備工事で閉鎖になった大阪の中之島公園。そこに暮らしてた約70匹の子供たち。心あるボランティアのご尽力で「猫の部屋」と呼ばれる仮住まいを得ることができました。すこしずつ里親さまも決まってきてますが、まだまだ多くの子供たちが良いご縁を心待ちにしています。なを「中之島公園の猫たち」では恐縮ですが現金によるご支援は一切お断りしております。「公園ねこ適正管理推進サポーター制度」が実施されています。そちらのリンクもありますので、大阪市在住の方はぜひ見てください。
Oct 25, 2015
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自衛隊のメシと云えば海上自衛隊が毎週金曜日に提供するカレーが有名ですよね。しかしカレーが人気なのは陸上自衛隊でも海上自衛隊でも航空自衛隊でも同じみたいです。経験者に云わせると、防衛大学→幹部候補生学校、各術科学校、教育隊→各自衛隊の順にメシがまずいらしい。防衛大学のメシがまずいのは意外でした。各駐屯地によっても味に甲乙あるようで、メニューが違うという事も当たり前。ただカロリーだけはどこの駐屯地も栄養士によってしっかり管理されているようです。一般男性の一日の摂取カロリーが2,400カロリーとして自衛隊の隊員は3,200カロリー必要と設定しています。身体作りが必要な隊員にとって、何よりも食事が大事なのです。自分でご飯をよそう「しゃもじ」が普通サイズの2倍はあります。自衛隊の食事の予算は陸上自衛隊、海上自衛隊、航空自衛隊そして潜水艦乗りによって微妙に違うのですな。例えば海上自衛隊の場合、陸上施設の隊員食堂は1日あたり870円。それが艦艇乗組員は1,025円で、潜水艦は1,073円となっています。潜水艦の勤務は過酷な狭い空間で日常を過ごさなくてはなりません。なのでストレスが溜まりやすく、せめともと食事を豪華にしているそうです。全体的に海上自衛隊は出航すると長い期間上陸出来ないため、陸空よりも美味しい食事が食べられると云われています。ちなみに海上自衛隊では再軍備に関わった禁酒法時代のアメリカ海軍の流れをくんでいるため艦内での飲酒は禁止されているそうです。同じように航空自衛隊の飛行教導隊(パイロット)も常に緊張状態でありストレスも溜まる勤務のため、これまた「加給食」と呼ばれる食事とは別に支給される仕組みがあります。と云ってもバナナ一本、チョコ菓子一個、プリン一個、梨一個など簡単なものです。パイロットと一口で云っても自衛隊にはジェット機のパイロットとプロペラ機のパイロットがいるわけですが、実はジェット機のパイロットと、レシプロ機パイロットには数十円程度、加給食の価格に差がついているんですね。旧日本軍のときと比べて食事は豪華とは云えないまでも、自衛隊の食事はちゃんとしたレベルのものですね。まぁ、旧日本軍のときは一般庶民の食べてるものもお粗末でしたし、むしろ軍隊の方に食材を豊富に供給してたので、食事に関して云えば(最前線を除いて)軍隊に居る方が幸せだったのでしょうが。画像向かって左は大正時代の兵員烹炊所、右は潜水艦乗組員の食事風景です。画像は開戦前の紀元節(昭和16年2月11日)の食事で、このときは果物も特配されました。自衛隊の中でも特異なのが潜水艦乗りの食事です。他の部隊では1日3食ですが、潜水艦は1日4回食事をするのですな。潜水艦は昼食と夕食の間に中間食と云うものがあるのです。夕食が午前0時からになるので、中間食が一般で云う夕食にあたります。潜水艦は出航するとずっと艦を動かしたりする人員が必要なので、常に一定数の乗員は勤務についています。6時間勤務すると12時間休みになるそうで、そうすると食事時間が徐々にズレていく計算になります。画像は潜水艦 いそしおの食堂。食堂には、6名がけのテーブルがふたつ、4名がけのテーブルがひとつあり、1度に16名の隊員の食事ができます。椅子の下には、玉葱やジャガイモが貯蔵されていて、デッドスペースが有効活用されています。また食堂には、湯沸かしポットや、電子レンジ、冷蔵庫も備えてあります。液晶テレビとDVDプレーヤーを設置するなど娯楽室としても活用されているようです。ある日の潜水艦の食事を順に見てみましょう。先ずは朝食。ごはん、白菜とネギの味噌汁、片目玉焼き、ハムステーキ、棒餃子、ツナ缶、しば漬け、野沢菜漬け、明太子、梅かつおニンニク。なんや!うちの朝食よりよっぽど豪華やんけ。次は昼食。ごはん、若布スープ、鶏肉の揚げ漬け、レタス、南瓜と挽肉の豆板醤炒め、明太子ビーフン、オクラ納豆、しば漬け。中間食は午後18時から提供されます。ひつまぶしとカレーうどん。そして夕食(午前0時)は、ごはん、もやしとネギの味噌汁、ミックスフライ、刻み野菜、焼きうどん、肉じゃが、錦糸卵と白菜のナムルとなってます。自衛隊の食堂は基本的にはメニューは選べないのですが、複数献立で選択メニューの場合もあります。カロリーで分けられている場合(普通と低カロリー)もあるし、パスタだと、ミートソースとカルボナーラなどが選べるときもあるのです。これはある自衛隊の昼食で、梅じゃこご飯、肉豆腐、いか団子汁、ところてん、わらび餅、コーヒー牛乳(もしくは牛乳)なんですが、梅じゃこご飯をちらし寿司で選択することも可能なんです。どちらも総カロリーは1,200カロリーほどです。これは航空自衛隊の厨房です。調理する側は朝昼晩と決まった時間に一定以上は必ず食事を準備しておく必要があります。そのため給養小隊は1クルー4、5名前後の隊員が3交代で仕事をするシフト勤務を採用しています。時間に追われる給養員は、朝食担当になると午前3時半前後から出勤します時間も大変ですがそれ以上に大変なのは重い!ことです。そうご飯が重いのです。航空自衛隊の基地食堂は数千人単位で食事を用意するところなので米飯の量も半端なものではありません。入間基地(埼玉県)には約4,300人の隊員がいますが、隊員食堂は昼には約2,000人分の食事を提供しています。それだけ大量のごはんやおかず、汁物を用意するわけですから、その食材自体の重さもすごいものです。約10kg の米飯を炊いたり、ライスボイラ-(火を使わない釜)で約1,000人分の汁物などを作ります。調味料、例えば塩などもライスボイラーに入れれば1家庭の数ヶ月~1年分は入れるのです。それらをかき混ぜるには相当の体力が必要で、給養員曰く「調理というよりは筋トレ」です。こちらはライスボイラーで調理しているところ。中之島公園の猫たち-「SAVE THE CATS IN NAKANOSHIMA PARK-」整備工事で閉鎖になった大阪の中之島公園。そこに暮らしてた約70匹の子供たち。心あるボランティアのご尽力で「猫の部屋」と呼ばれる仮住まいを得ることができました。すこしずつ里親さまも決まってきてますが、まだまだ多くの子供たちが良いご縁を心待ちにしています。なを「中之島公園の猫たち」では恐縮ですが現金によるご支援は一切お断りしております。「公園ねこ適正管理推進サポーター制度」が実施されています。そちらのリンクもありますので、大阪市在住の方はぜひ見てください。
Oct 24, 2015
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私にはリアルタイムで忘れられない事件があります。昭和45年(1970年)11月25日のこと。その日、私は務めていた放送局の映画試写会の仕事でホールに行ってました。上映していた映画は黒澤明監督の「天国と地獄」です。上映途中でニュースが入ってきました。「三島由紀夫が自衛隊市ヶ谷駐屯地でクーデターを促す演説をしているらしい」そしてあの壮絶な割腹自殺と云う道を歩んでしまうのですね。三島が自衛隊に乗り込んだのは日本国憲法第9条の第2項「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」これがある限り自衛隊は「違憲の存在」でしかない。だから自衛隊員自らクーデターをおこし、憲法改正をしようと云うものですが、その後の研究でさまざまな人がさまざまな憶測をしていて、本当の動機はわかりません。三島は割腹するとき、「うーん」という気合いを入れ、「ヤァ」と叫び、自身の左脇腹に短刀を突き立てたと云います。拉致されていた自衛隊総監が「やめなさい」と言葉を発すると「介錯するな、とどめを刺すな」と叫んだと云います。介錯人の楯の会 森田は介錯を3度失敗し、代わって古賀が頸部の皮一枚残すという古式に則って首を切断するのです。三島の割腹は小腸が50cm ほど外に出るほどの堂々とした切腹だったといいます。事件のあと、遺体は慶応義塾大学病院で首と胴体をきれいに縫合されて、楯の会の制服が着せられ、刀(関の孫六)が胸のあたりでしっかり握りしめて添えられていました。遺体の顔はまるで生きているようだったと云います。これは警察官達が「自分たちが普段から蔭ながら尊敬している先生の御遺体だから、特別の気持で丹念に化粧しました」と施したものだったのです。この事件の前、昭和41年(1966年)に三島は「憂国」と云う映画を撮っています。監督、主演、美術まで三島本人がやった映画です。物語は二・二六事件を起こしたグループの中核メンバーである青年将校が、結婚したばかりの主人公を巻き込みたくない仲間の配慮で決起を知らせなかった。そのため逆に反乱軍となった仲間たちを鎮圧しなければならない立場になった青年将校が割腹自殺をとげ、妻も後を追うと云うストーリーです。この映画のほとんどは青年将校が割腹自殺をとげるシーンにさかれています。三島の割腹と同じように、腹を真一文字に切って、はらわたが外に飛び出してきます。ほとんど切腹の作法はこうするものだと云わんばかりの映画だと感じました。しかしまさか三島がこの映画を演じたのとまったく同じ自殺をするとは公開当時、誰も思いもしませんでした。新渡戸稲造は、著書「武士道」のなかで切腹について「腹部を切ることは、そこに霊魂と愛情が宿っているという古代の解剖学的信仰に由来する」と書いています。日本の封建時代の道徳観念のもとでは、不始末をおこした場合にその責任をみずから判断し、自分自身で処置する覚悟を示すことで名誉を保つ意味がありました。しかし江戸時代ともなると天下泰平の世に慣れた侍には、傷みに堪えて切腹するほど性根の座った人はまれで、切腹者の前に置かれる三方には短刀ではなく、木刀や扇子が置かれていました。もちろん木刀や扇子で腹切りができるワケがありません。切腹者がそれらを手にした途端、介錯人が首をはねて切腹にみたてていたのですね。赤穂浪士も、身分が高かった大石良雄ら数人以外は、扇子や木刀を使用しました。中には「自分は切腹の作法を知らない。どうすればいいのか」と聞いたという逸話も残っているほどです。「憂国」ともうひとつ切腹をテーマにした映画があります。昭和37年(1962年)に公開された仲代達矢主演の「切腹」と云う映画です。浪人(仲代達矢)が井伊家の門前に来て「主家の没落後、生活は困窮し、志もないまま惨めに生きてきた。恥を晒すより、潔く切腹して果てようと思う。井伊家の玄関先を貸してほしい」と申し出るのです。井伊家の家老は「又、来よったか」と舌打ちします。窮迫した食い詰ものの浪人が、切腹すると称して大名の玄関先にやって来るのですが、大名側にしてみれば庭先を血で汚されたくない。それでいくばくかの金銭を与えて、退散してもらうと云う風潮があったのですね。その浪人が切腹の場が整って、いざ切腹という時に、ある出来事を語り始めます。浪人が来る数日前にある若侍が同じ理由で井伊家を訪ねてきます。若侍に本当に切腹する覚悟なんてありません。お金にしようと画策しただけ。だいいち自身の持っている刀は「竹光」で腹なんか切れるものでない。ところが井伊家の家臣は「竹光」だと見抜いておきながら、懲らしめのために本当に切腹させることにしてその準備をしだしたのです。当の若侍は狼狽して青くなりました。「一両日待ってくれれば、必ず戻って来て切腹する」と懇願したものの許されなかったのです。観念した若侍は、半ばやけくそになって竹光を腹に突き立てました。しかし竹光で切腹などできません。早く切れと急かす介錯人。とうとう若侍は舌を噛み切り、全体重を掛けて竹光を腹に突き刺し果てたのです。実はこの若侍は件の浪人の娘婿だったのですね。「一両日待ってくれと懇願する婿に、なぜ最後の情けを掛けてやれなかったのか。武士の面目とは、表面を飾るだけのものなのか。もっと適切な対応の仕方があった筈だ」と家老をなじります。体面をつぶされた井伊家の面々はいっせいに浪人に襲い掛かりますが、みんな一刀のもとに切られていきます。ついに刀ではかなわないと種ケ島(鉄砲)を持ちだした井伊家の武士に討ち取られた浪人は、自ら切腹して果てると云うストーリーです。この映画は2011年に「一命」と云うタイトルでリメイクされています。主演は市川海老蔵。最後に「憂国」話しに戻りますが、最近、韓国の人気女流作家 申(シン)京淑(ギョンスク)が「憂国」からの盗作を認め謝罪、執筆活動の自粛を発表しました。文学賞の審査委員も辞退することになったのです。韓国メディアは「なぜよりによって三島由紀夫の作品なのか」と嘆く声が出ているそうです。中之島公園の猫たち-「SAVE THE CATS IN NAKANOSHIMA PARK-」整備工事で閉鎖になった大阪の中之島公園。そこに暮らしてた約70匹の子供たち。心あるボランティアのご尽力で「猫の部屋」と呼ばれる仮住まいを得ることができました。すこしずつ里親さまも決まってきてますが、まだまだ多くの子供たちが良いご縁を心待ちにしています。なを「中之島公園の猫たち」では恐縮ですが現金によるご支援は一切お断りしております。「公園ねこ適正管理推進サポーター制度」が実施されています。そちらのリンクもありますので、大阪市在住の方はぜひ見てください。
Oct 24, 2015
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きょうは胃癌の事後検査でCTを取りに行きます。胃癌を患って早や5年。今回のCT検査、そして来週の問診で異常がなければ、胃癌からは無事解放。もう検診をしなくてよくなります。CT検査の前の血液検査がババ混みなので、きょうは早朝から出かけてきます。「いただきます」と「ごちそうさま」どちらの言葉も日本独特の習慣ですな。ふたつとも謙譲語。この言葉を知らない外国の人は「いただきますって何ですか?」「それは神に対する祈りですか?」と聞いてきます。「頂きます」とは「私の命のために動植物の命を頂きます」の意味。偉大な自然への感謝の気持ちを表したものですね。「ご馳走様」は「馳走になりました」のことで、「馳」「走」ともに「はしる」の意味。 昔は客人を迎えるのに走り回って獲物をとってきてもてなしましたが、そんな命がけの働きに客人が「有難う」と心からの感謝の気持ちを表したものです。この2つは日本独特の挨拶。食べ物への感謝と、大変な思いをして食べ物を用意してくれたことへの感謝の気持ち、食事への敬虔な気持ちを表す挨拶の言葉であり日本の食文化の素晴らしい表現ですな。ところでお恥ずかしいことに私は松花堂弁当と会席弁当の違いがよく分かっていませんでした。会席弁当は箱の形も、四角、長方形、丸形、半月形といろいろですが、松花堂弁当は四角い器で仕切りが4つと決まっている。松花堂弁当の器、もともとは農家の種子入れだった器を、江戸時代初期の石清水八幡宮の社僧である松花堂昭乗が取り上げ、小物入れにしていたと伝えられています。吉兆の創業者 湯木貞一が松花堂昭乗の旧跡での茶会に出向いた折、 ある部屋の片隅に置いてある四角い器を見つけました。高さが3.5cm で田の字型の仕切りがあり、茶色で3ヶ所に墨絵が描いてあって、四方に金具が付いていました。種子や薬入れ、また小物入れ、たばこ盆に使われていたと聞き、湯木貞一はこれを料理の器としたらどうかと考え、その1つを譲り受けて持ち帰り工夫を重ねたのですね。画像は湯木氏が所有していた松木地盆。湯木氏はこれを最初は前菜の器として使っていました。湯木氏は辺の寸法を縮め、高さを高くやや深めにして元になかった蓋を付けて、四つのそれぞれの升に違う料理をバランス良く盛り込み、大寄せの茶会の点心などに用いたところ大変な好評を得ました。松花堂弁当のお料理は懐石を軽く簡略化した品々が「点心」ですが、この点心を箱詰にしたものなんですね。湯木氏は松花堂昭乗の書画に捺された印を模して「松花堂」の焼印を制作して弁当箱の蓋と本体に捺しました。これは無地の春慶塗への装飾というだけでなく、蓋をしたときに前後が判らなくなることから目印の意味を兼ねて考えられたものなんです。松花堂弁当の正しい盛り付けは決まっています。右下:ご飯右上:向付左下:炊き合わせ左上:前菜吉兆ぢゃない松花堂弁当では、かなり高級な松花堂弁当でも、この盛り付け方がメチャメチャなものが多いです。特にご飯を「右下」ではなく「左下」に盛りつけてるとこが多いですな。これはこれで意味合いがあるのでしょうが、何故だか分かりません。私は松花堂弁当にしろ会席弁当にしろ、いつも疑問に思ってたことがあって、それは「蓋」のことです。あの蓋と云うのはど~始末したらいいのか?ついついお弁当箱の下に敷いて、蓋の上に容器を載せる体裁をとってたけど、これって正しいのか?本来は、客の前に据えたあと、蓋を開けて「どうぞお召し上がり下さい」で、蓋は給仕する側が持ち去るものですとありました。大勢がズラッと並んで一斉に食べる場合は「弁当の向こう側」に蓋を置けばよろしい。向こう側に蓋を置くスペースが無ければ、蓋を取る前に店の人を呼んで、給仕する人が来たら蓋を取って「下げてください。」ですね。要するに私は、蓋も下げてもらえない安物のところばかりで食べてたようです(笑)中之島公園の猫たち-「SAVE THE CATS IN NAKANOSHIMA PARK-」整備工事で閉鎖になった大阪の中之島公園。そこに暮らしてた約70匹の子供たち。心あるボランティアのご尽力で「猫の部屋」と呼ばれる仮住まいを得ることができました。すこしずつ里親さまも決まってきてますが、まだまだ多くの子供たちが良いご縁を心待ちにしています。なを「中之島公園の猫たち」では恐縮ですが現金によるご支援は一切お断りしております。「公園ねこ適正管理推進サポーター制度」が実施されています。そちらのリンクもありますので、大阪市在住の方はぜひ見てください。
Oct 22, 2015
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パナソニックのCM「きれいなおねえさんは、好きですか」は女性から男性へ向けた魅惑的なキャッチフレーズで、女性向け商品にもかかわらず男性層を意識したCMとして画期的だったのですね。ところで、あのおぞましい映画「リング」で主役を演じた女優さんってのは全員、この「きれいなおねえさん」に抜擢されているのですね。初代「リング」の松嶋菜々子を初めとして、中谷美紀、仲間由紀恵と。脱毛そのものは、2万年ほど前から鋭利な石器や貝殻を用いて削り取るように剃っていたと推測されています。脱毛剤は紀元前4世紀~3世紀には存在してたようです。紀元前3世紀頃のシュメール人はピンセットもしくは毛抜きを用いて脱毛し、古代アラビア人は縄を体毛の上に転がして縄目の撚りを利用して脱毛していました。紀元前300年~100年頃のものと思われる古代ギリシアの出土品の中に青銅製のピンセットが現存しているのです。古代ギリシャやローマでも女性は体毛の除去を行っていました。紀元前1500年頃の書物によると、エジプトでも脱毛剤が使われていた記述があります。当時の脱毛剤は「焼いたハスの葉を油と一緒に亀の甲羅の中に入れ、カバの脂肪を加えた」ものだったそうです。紀元前70年~30年頃のクレオパトラ7世を初めとするプトレマイオス朝の埋葬品の中にも青銅製の剃刀が存在し、砂糖と蜂蜜や蜜蝋を練ったものが使用されていたそうです。ローマでは男性も髭を剃るようになり、さらには体毛を除去する男性も現れるようになりました。ルキウス・アンナエウス・セネカ(ローマ帝国の政治家、哲学者、詩人)が浴場で体毛を抜く時に上げるうめき声が聞こえてうるさいと記していることから、紀元1世紀頃のローマの公衆浴場ではよく見られた光景と考えられます。日本では平安時代に表面が滑らかなハマグリの外縁部を使い、額の生え際を整えるため毛を抜いていました。江戸時代中期以降となると、ヒゲを含め体毛全般が嫌われるようになり、眉を抜いて薄くし、これを「かったい眉」として粋を競うことが流行。この時代の女性が眉毛の下の方を剃っていたのは「眉毛と目の間を広くゆったりと見せる」ためでした。また毛抜きで眉毛を整える様子も浮世絵などに描かれており、一般女性の間では頭髪や眉毛の脱毛が広く行われていたことがうかがわれます。画像は「髪結いが失敗」した図また男たちは銭湯で脱毛に励んだのです。男湯限定で常備されていた「毛きり石」という軽石や貝を擦り合わせ、削り取るようにして全身の体毛を除毛していました。また剃刀で剃ることもあました。当時は褌姿なので、そのときに覗く体毛が嫌われたためなんです。手足の毛の処理には、日本でも脱毛剤が使われていたことが書物に記されています。この脱毛剤は「木の実から取ったアブラと、軽石を砕いて粉にしたものを混ぜた」もので、これを手のひらで皮膚にすり込むことで、毛を磨耗させて切るという方法です。アフターケアは、うぐいすのフンをぬり、へちま水をつけるようにとアドバイスされています。昔から美容器具もたくさん作られていました。こんな今でもあるような器具から、驚天動地の器具まで。いづれも1920年~1940年頃に使用されていた器具です。先ずは大人しいところから。今でも行われている「フルーツ・パック」。レモンやグレープフルーツでパックしているのですが、これって過剰ぢゃない!?パーマ装置も戦前はこんなだったのです。が、これはどぉ?1920年代後半にドイツで活躍したパーマ装置です。こっちは1920年代に作られた短時間で髪を乾かせる「巨大ドライヤー」1940年代に開発された、金属スプリングに通すことで脚を細くする「美脚マッサージチェア」この辺までは序の口です。拷問器具にしか見えないこちらは30代女性に人気だったという「そばかす除去装置」。ドライアイスでそばかすを凍結させて除去するとのことで、冷却するため、目、鼻、呼吸器を保護するため筒やカバーでふさいでいるのです。これは「美容トリートメント」を施している図。1940年代です。マックスファクターが1930年に開発した「化粧を微調整するヘッドギア」正確な位置にメイクを施すためのものらしい。こちらもマックスファクターによるもの。プラスチック製で内部に水を入れ凍らして使用しました。1940年代のハリウッド女優に人気だったと云います。高地の気圧を実現することでバラ色の顔色にする「グラマー・ボンネット」。内部の気圧を下げ、内部を高山状態にするというもの。40代女性に人気がありました。こちらは2枚とも1920年代の「シワ取り美容マスク」です。中之島公園の猫たち-「SAVE THE CATS IN NAKANOSHIMA PARK-」整備工事で閉鎖になった大阪の中之島公園。そこに暮らしてた約70匹の子供たち。心あるボランティアのご尽力で「猫の部屋」と呼ばれる仮住まいを得ることができました。すこしずつ里親さまも決まってきてますが、まだまだ多くの子供たちが良いご縁を心待ちにしています。なを「中之島公園の猫たち」では恐縮ですが現金によるご支援は一切お断りしております。「公園ねこ適正管理推進サポーター制度」が実施されています。そちらのリンクもありますので、大阪市在住の方はぜひ見てください。
Oct 22, 2015
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きのうのコメでパパゴリラ!さんから、にゃんこを入れるのは「ゲージ」ではなく「ケージ」だよと教えていただきました。ど~も、この歳になっても日本語がかなり怪しい。私は「言う」を「云う」と表現してますが、当用漢字ができる前は「云」「言」どちらも使われていたようです。しかし当用漢字では「言」が「いう」になってます。丁度コンビニで「日本人が"9割間違える"日本語」って本を買って読んでいるところです。読んで見ると目からウロコみたいなことばかり。いかに普段自分が使っている日本語が怪しいか。例えばこうです。× 的を「得た」発言○ 的を「射た」発言的は「射る」もので「得る」ものではない。× 彼はすべからく夢を実現させた○ 学生はすべからく、多くのことを学ぶべきである「すべからく」を漢字で書くと「須らく」で、「当然」「是非とも」と云う意味になります。「すべからく」に「すべて」と云う意味は含まれていません。今回のテンプレはパッとしませんねぇ。ジョージ・ルーカスが自身の高校生活をベースに作った映画「アメリカン・グラフィティ」がテーマ。場所はカリフォルニア州北部のモデストが舞台。時代は1960年代です。いわゆる「ワンナイトもの」映画ですね。さまざまな登場人物の動きを夕刻から翌朝まで追っていく、そこに青春時代のさまざまなエピソードが...この映画では当時、ラジオでよくかかっていたヒット曲が全編に散りばめられてます。プラターズの「煙が目にしみる」とか「オンリー・ユー」、ビーチ・ボーイズの「サーフィン・サファリ」や「オール・サマー・ロング」などなど。映画では実在のDJ、ウルフマン・ジャックを本人役で登場させてます。テンプレの背景にしているのは、映画でも登場した「メルズ・ドライブイン」。聞き覚えありません?そう、USJに現存するハンバーガー・レストランです。私も行きました。USJのメルズ・ドライブインはこの映画をモチーフにしてますが、アメリカでは実在しててつとに有名です。で、テンプレのチャッピくんが演じているのは映画「アンタッチャブル」で主演のケビン・コスナーが演じるエリオット・ネスを支援する内国歳入庁から派遣された経理マンを演じてたチャールズ・マーティン・スミス。この人が演じるテリーと云う牛乳瓶の底のようなメガネをかけた軟弱そうな少年。ミミちゃんはテリーにナンパされるデビー(キャンディ・クラーク)と云う娘役。このテリーがデビーをナンパするときのセリフが「君はコニー・スティーヴンスに似てるね」。するとデビーがすかさず「サンドラ・ディーだと思うけど」「そっちにも似てる」と見事ナンパが成立する場面があります。サンドラ・ディーと云うのは古い映画ファンにはお馴染み、当時のアメリカNo.1 二枚目俳優トロイ・ドナヒューと共演した「避暑地の出来事」(1959年)で有名な女優さん。「避暑地の出来事」をご覧になったことがなくても、主題歌の「夏の日の恋」はパーシー・フェイス楽団で聞き覚えある方も多いでしょう。ぢゃあコニー・スティーヴンスは?1950年代~60年代にかけて人気TVドラマ(日本では1963年にTBSから放映)で「ハワイアン・アイ」と云うのがあります。ホノルルにあるハワイアン・ヴィレッジホテルのプールサイドに探偵事務所を開いたトム・ロパカとトレイシー・スティールの探偵コンビの活躍を描いたシリーズ。この時代は「ハワイアン・アイ」の他に「サーフサイド6」「サンセット77」と探偵ものが人気だったのですね。で、この「ハワイアン・アイ」でコニー・スティーヴンスはお茶目な歌姫 クリケット役で全世界を魅了した往年のアイドルなんです。女優と云う印象が深いですが、歌も結構売れてて、それは両親がジャズ界のプロだったからでしょう。クリケット役がテレビアイドル第1号。「働く女」の先駆けだったのです。コニー・スティーブンスはこの作品で毎回ステキな歌と踊りを披露していたのです。また「避暑地の出来事」の主役、トロイ・ドナヒューも出演してました。タクシー運転手のキム(ポンシー・ポンス)なんてのも毎回出てきましたな。で、このコニー・スティーブンス、今は女優と歌手の他に化粧品事業を手掛ける実業家、そして自作映画の監督までしています。サンドラ・ディーのようにアルコール障害から腎臓疾患を抱えて死去したり、トロイ・ドナヒューのように麻薬とアルコールに溺れて一時は廃人、結局、心臓発作で死去するなど欧米で「ありがち」な、かつて有名だったけど忘れ去られてしまった芸能人と異なり、なかなかのサクセスストーリーを持ってる女性であります。中之島公園の猫たち-「SAVE THE CATS IN NAKANOSHIMA PARK-」整備工事で閉鎖になった大阪の中之島公園。そこに暮らしてた約70匹の子供たち。心あるボランティアのご尽力で「猫の部屋」と呼ばれる仮住まいを得ることができました。すこしずつ里親さまも決まってきてますが、まだまだ多くの子供たちが良いご縁を心待ちにしています。なを「中之島公園の猫たち」では恐縮ですが現金によるご支援は一切お断りしております。「公園ねこ適正管理推進サポーター制度」が実施されています。そちらのリンクもありますので、大阪市在住の方はぜひ見てください。
Oct 20, 2015
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きのうはチャッピくんとミミちゃんふたりともワクチン接種。ついでに健診もね。駐車場までの往復、固いプラスチックのゲージに入れたチャッピくんはカートに載せて。道がデコボコしてるので、ゲージの振動がハンパない。揺れる度にチャッピくん、ギャアギャア騒いでいました。ミミちゃんのゲージは布製なので、私が抱えていきました。病院で待ってる間はふたりとも大人しかったけど、病室に入ったらチャッピくんは少し暴れて、ミミちゃんはまさに「借りてきた猫」状態。診察と注射が終わったら、そそくさゲージに戻るミミちゃんでした。きのうはハブラシの話しだったので、きょうは歯磨き剤の話し(想定できますよね)歯磨き剤の歴史は古く、紀元前1500年の古代エジプトではすでに練り歯磨きと粉歯磨きが作られています。その作り方を記した21m のパピルスが残っているのです。日本で歯磨き剤が初めて使用された記録があるのは、応神天皇(270年~310年)の頃で、塩歯磨きを使っていたといわれています。日本で最初の歯磨き粉の商品化は江戸時代の寛永年間(1624年~1644年)終わりの頃、江戸は神田の丁子屋喜左衛門が「丁子屋歯磨大明香」という歯磨き粉売りだしたのがそれです。この「丁子屋歯磨大明香」と云うのは、朝鮮半島から来た人から丁字屋喜左衛門が作り方を習って「丁字屋歯磨」「大明香薬砂」を製造。「歯を白くする」「口の悪しき匂いを去る」のキャッチコピーを添えて販売を始めたのです。江戸時代の歯磨粉の成分は、房州砂(陶土を水でこした上ずみの細かい粒子)に、丁字、薄荷(はっか)、麝香、竜脳、乳香、肉桂(にっけい)などの香料を混ぜてつくられていました。房州砂は千葉県館山近辺の山でとれ、江戸に運ばれていたのです。元禄時代になると、兼康の「乳香散」、薬種商の「おもだかやの歯磨」、「箱入り歯磨嗽石香」、松井源水の「市之丞のはみがき」。文化、文政の時代(1804年~1829年)には「松葉じお歯磨」、「団十郎歯磨」、「助六はみがき」、「一生歯の抜ざる薬」など多くの歯磨き粉が製造、販売されました。特に江戸小網町の「伊勢吉」、瓢箪屋次郎左衛門の「団十郎歯磨」、美濃屋の「一生歯の抜けざる薬」が有名だったようです。画像は向かって左が元禄6年に編纂された「救民妙薬集」(穂積氏甫著)に載ってる「歯磨薬砂の処方」。右は文政年間(1818年~1829年)の「團十郎はみがき」です。明治初期には、日本古来の調合による歯磨粉が製造されましたが、明治5~6年頃になると欧米式の処方で歯磨き粉が作られるようになったのです。明治初期の歯磨き粉はいぜん房州砂を原料としており「歯の害は少なからず」と新聞に書かれているように品質はあまり良くなかったようです。明治3年からアメリカよりコルゲート、ペプソデント、イギリスからギブス、フランスからシトロエンなど西洋の歯磨き粉が輸入されていました。そして福原有信が洋風調剤薬局「資生堂薬局」として創業した福原資生堂より「福原衛生歯磨石鹸」と称して初めて練歯磨きが発売されたのが明治21年のこと。当時の歯磨き粉は焼き塩などを主剤とした製品で陶製の容器入りのもので2~3銭、桐の箱入りのもので5銭だったのですが、「福原衛生歯磨石鹸」は固形石鹸状の歯磨き剤を使っており、粉と比べ飛び散らない、成分も歯質を損なわずに化学作用で歯石を溶かし、口臭を除き、常用すると生涯歯の病にかからないという特徴を宣伝して大ヒット。値段は25銭と従来のと比べてかなりお高かったのですが、よく売れたようです。当時は陶製の容器に詰めて売られていました。明治29年には小林富次郎商店(現ライオン)が「ライオン固練歯磨」を発売して好評を得ました。同社は海外進出を志向し、日露戦争の勝利を記念して「Banzai(バンザイ)歯磨」を輸出し、1910年頃からは国内にも販売したのです。「チューブ入り練り歯磨」を始めて発売したのはライオンです。1911年のこと。当初はチューブを国内生産出来ず、高価なチューブをわざわざアメリカから輸入して製造していたそうです。その後、資生堂も陶製の容器からチューブ入りの煉歯磨きに変わり、化粧品事業を本格的に始動するのですが、戦争の影が色濃くなった1938年、資材節約のためチューブの使用が禁止にされるのです。その代替品として作られたのがカートン、缶、陶製の容器でした。いずれも円型で、資生堂だと花椿が一輪デザインされています。1926年には喫煙者を対象とした「スモカ歯磨」が出現します。煙草のヤニを除くという効能を謳い、煙草店のルートで販売しました。当初の発売元は意外や意外、洋酒の「寿屋」だったのですね。この時期に「スモカ歯磨」の広報宣伝、デザインに活躍したのが広告の先人「片岡敏郎」。片岡敏郎は大正、昭和の初期にかけて、ポスターの絵柄だけでなく、広告文というジャンルを確立させました。誰もが知ってる赤玉ポートワインのポスター、森永ミルクキャラメル、そして歯磨スモカと彼の残した足跡は枚挙がありません。戦後、化粧品の原料の調達もままならない中、資生堂が確実に生産できる商品が歯磨きでした。化粧品分野よりも規制の少なかった薬品分野の商品である歯磨きは、資生堂の戦後を支える重要な役割を果たします。1946年にはカートン容器入り4円、缶・陶製容器入り5円で販売が再開されます。画像の左は紙袋に入った粉状の資生堂歯磨き。戦後の資生堂歯磨き、復活第一号はこの粉状の資生堂歯磨きだったようです。右はライオンの紙袋入り練り歯磨きです。昭和27年には、日本で初めてサンスターシオノギよりクロロフィル入り練歯磨きが発売され香りはペパーミントでした。中之島公園の猫たち-「SAVE THE CATS IN NAKANOSHIMA PARK-」整備工事で閉鎖になった大阪の中之島公園。そこに暮らしてた約70匹の子供たち。心あるボランティアのご尽力で「猫の部屋」と呼ばれる仮住まいを得ることができました。すこしずつ里親さまも決まってきてますが、まだまだ多くの子供たちが良いご縁を心待ちにしています。なを「中之島公園の猫たち」では恐縮ですが現金によるご支援は一切お断りしております。「公園ねこ適正管理推進サポーター制度」が実施されています。そちらのリンクもありますので、大阪市在住の方はぜひ見てください。
Oct 19, 2015
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きょうは君たち(チャッピくんとミミちゃん)予防接種に連れていくよ~私が脚を痛めてから、痛めた方の脚の側は重い物を持つのを禁止されてるので、ふたりのゲージ、両手に抱えて駐車場の往復はムリ。なのでチャッピくんのゲージはプラスチック製で固いから、キャリーで運ぶしかないなぁ。どっちにしても往復、おおさわぎです。きょうはハブラシの起源のお話し。歯磨き粉については紀元前1500年頃のエジプトの医書に記述があるそうですが、歯をみがくという習慣はインドで始まったとされています。ここでお断りしておかなければならないのは「歯をみがく」と「歯磨き粉をつけて歯をみがく」は別物なんですな。昔はほとんどの場合「歯をみがく」は単にブラシ状のもので何もつけずに単純にみがいてただけです。インドではお釈迦さまが弟子に仏前で読経する前に手を洗い、菩醍樹の小枝(歯木と云う)で歯を掃除することを指導したらしいです。お釈迦様の戒律の一つ「僧祇律」に「歯木」で歯を磨くことの効用が書かれています。1.口に苦からず2.口臭からず3.風邪を除く4.痰を除く5.熱を除くとあります口の中を清潔に保つことは歯のためばかりでなく、全身の感染予防につながることがこの頃から説かれているのです。楊枝の記録は古代エジプトやバビロニアにも有り、エジプト人はナイル川周辺で育つパピルスの茎を切り取って、その先端を石で何度もたたいて筆のようにして、それで食べカスを除去したようです。インドではインダス文明が栄えて、アーユルベーダーというインド医学が発達し、医書には歯みがきが紹介されています。ここでは「ニーム」の小枝を折って歯を磨くと教えていますが、これはインドでは今でもよく行われている歯磨き方法です。小枝で歯をみがく習慣は、東南アジアだけでなく、ケニアなどアフリカの各地でもみられます。インドでは「ニーム」を「村の薬局」と呼びます。種子、樹皮、葉には殺菌消毒作用、抗ウイルス作用、解熱作用、抗炎症作用、抗潰瘍作用、抗菌作用などの効能が証明された化合物を含んでいます。実から取れるオイルは医薬品や石けん、化粧品などの原料に利用されているほか、農業・園芸用の病害虫駆除資材、植物活性資材としても使われています。葉を乾燥させたものはお茶として、葉のエッセンスは香料として、葉は穀物や紙類、衣類の保存、オイルの絞り粕(ニームファーム)や葉、樹皮には防虫効果があるといわれ肥料や堆肥として利用できます。また「ニーム」は建材や家具材としても利用でき、アメリカの試験ではシロアリを寄せ付けない効果があったと報告されています。現代でニームの枝は1本5ルピー(約9円)ぐらいです。「ニーム」を使った練り歯磨きもたくさん売られています。東洋でも1500年ごろには中国で今の歯ブラシと類似した楊枝が登場したのですね。竹表面に硬い豚の毛をつけて、これで歯磨きをするようにこすって食べカスを除去したが、これが事実上 今日の歯ブラシの始まりと見ることができます。 この中国の歯ブラシの効能が知られてヨーロッパにも伝わりましたが、ヨーロッパの人は豚の毛より柔らかい馬の毛を好んだと云います。歯を磨く習慣が日本に伝えられたのは、鎌倉時代、永平寺の開祖道元禅師が中国より仏教の教えと共にもたらしたと云われています。道元の著した「正法眼蔵」にはお釈迦さまのところで登場した「歯木」を使った歯の磨き方が詳しく書かれています。「歯木」は日本では「楊枝」「房楊枝」となって、僧、貴族、武士の間に広まりましたが、庶民までが「房楊枝」を使うようになったのは江戸時代に入ってからです。房楊枝は、かわ柳などの小枝の先端を煮て鉄鎚で叩き、木綿針の櫛ですいて木の繊維を柔らかい房状にしたものです。柄の部分は、鋭利に削り舌の汚れを落とす「舌こき」として使われました。神奈川県愛甲郡中津では、荻野藩の下級武士が内職としていた房楊枝作りを農民に伝え、大正末期まで農家の副業として房楊枝づくりがおこなわれていたそうです。房楊枝は大正末期まで広く日本で一般に使われていました。最も注目する点は日本では楊(柳)の枝を歯ブラシに、そして塩や酢で練った貝殻の粉を歯磨き粉として同時に歯磨きをした点です。他国では爪楊枝と歯磨き粉が分離されて使用されていますがが、日本では昔から歯ブラシと歯磨き粉を同時に使用する文化があったのです。すなわち歯の間のカスも除去して同時に口腔衛生維持できる「歯磨き」は、我が国が「元祖」だったわけです。「房楊枝」の使い方はこんな風です。先ず刷毛(はけ)のようになっている部分で歯を磨きます。次に逆側の尖った部分で、爪楊枝のように歯に詰まった部分を取ります。さらに柄の部分で舌をこすり、舌のざらつきを取ります。今のような歯ブラシは、明治5年に大阪の業者がインドから輸入された西洋歯ブラシ(英国製)の模倣品を作製。これは鯨のひげの柄に馬毛が植えられたもので、「鯨楊枝」という名で製造・販売されたのが最初であると云われています。その後、植毛された歯ブラシが広まりました。このような西洋歯ブラシ、ヨーロッパでは17世紀ごろから使われ始めましたが、19世紀に大量生産されるようになるまで一般的ではなかったのですね。日本では大正3年(1903年)に小林富次郎商店が「萬歳歯刷子」を発売しましたが、この会社が現在のライオンです。デュポン社がナイロン製の歯ブラシを初めて売り出したのは1938年になってからのことです。中之島公園の猫たち-「SAVE THE CATS IN NAKANOSHIMA PARK-」整備工事で閉鎖になった大阪の中之島公園。そこに暮らしてた約70匹の子供たち。心あるボランティアのご尽力で「猫の部屋」と呼ばれる仮住まいを得ることができました。すこしずつ里親さまも決まってきてますが、まだまだ多くの子供たちが良いご縁を心待ちにしています。なを「中之島公園の猫たち」では恐縮ですが現金によるご支援は一切お断りしております。「公園ねこ適正管理推進サポーター制度」が実施されています。そちらのリンクもありますので、大阪市在住の方はぜひ見てください。
Oct 19, 2015
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きょうはバカちょんふたり組(チャッピくんとミミちゃん)のワクチン接種に行こうと思っていましたが、日曜日はかかりつけのお医者さまが半ドン。だと接種した後、具合が悪くなっても対処できないので、結局、月曜日に変更しました。月曜日は私の脳梗塞後の定期健診があるので忙しいのですが、急げばにゃんこ病院の予約に間に合うでしょう。きのうは下の孫、保育園の運動会を見に行ってました。保育園の運動会は面白くないので、私ら夫婦あまり気乗りしなかったのですが、息子夫婦から誘われたら断りもできない。だいたい出番が少なすぎる。午前中だけだから、そんなモンなんでしょうが...で、帰りにコーナンに行って猫砂を大量購入。なんて1日でした。運動会で横に居てた奥さんがゴホゴホ咳のしっぱなし。マスクをしているのに、そのマスクを顎の下まで押し下げてビデオ撮りに夢中。その間、ずっと咳をしているのです。かなわんなぁ。マスクと云うのは日本人が発明したのですか?なんかで読んだ記憶が。この向かって右の画像は大正7年から翌年にかけて世界的に流行したスペイン風邪時の広告です。恐るべし「ハヤリカゼ」の「バイキン!」「マスクをかけぬ命知らず!」と書かれています。この頃のマスクと云うのは黒とか紺色で皮とか布でできています。下の画像のうち上の部分は明治期のマスクです。マスクは最初「呼吸器」と呼ばれていました。下は戦前に売られていた「資生堂」のマスクで30銭です。ちなみに資生堂は明治5年に福原有信が東京、銀座に日本初の洋風調剤薬局「資生堂薬局」として創業しました。明治13年には既に育毛剤の販売を開始しています。(ハゲはそんな時代から悩むところだったのですかね。私もハゲてるけどど~しても理解できない心情)日本初の練歯磨を販売したのも資生堂です。これは明治21年で「福原衛生歯磨石鹸」と云う名称でした。明治期のマスクの原型「呼吸器」は「紳士婦人用マスク 通風装置_折畳自由」の表示とともに金属装置がマスクの中に仕込まれていますが、これがどう云う作用をするのか分かりません。こっちは戦前に販売されてた「聖朝マスク」紳士用。「特製高級品」と印刷されていますから、高級品だったのでしょう(笑)これは昭和のはじめ頃に販売された「バンザイマスク」です。ちなみにガーゼマスクが日本で普及したのは例のスペイン風邪が大流行した大正時代からです。それまでの高価な皮製マスクの代替品として普及しました。しかし戦後まではガーゼを重ねて自分でマスクを作るのが普通で、市販品のガーゼマスクが本格的に登場するのは戦後。戦後の復興期、綿織物が盛んになった名古屋市でガーゼが大量生産されるようになり、一時は国内のマスク生産の殆どが名古屋市内だったのですね。中之島公園の猫たち-「SAVE THE CATS IN NAKANOSHIMA PARK-」整備工事で閉鎖になった大阪の中之島公園。そこに暮らしてた約70匹の子供たち。心あるボランティアのご尽力で「猫の部屋」と呼ばれる仮住まいを得ることができました。すこしずつ里親さまも決まってきてますが、まだまだ多くの子供たちが良いご縁を心待ちにしています。なを「中之島公園の猫たち」では恐縮ですが現金によるご支援は一切お断りしております。「公園ねこ適正管理推進サポーター制度」が実施されています。そちらのリンクもありますので、大阪市在住の方はぜひ見てください。
Oct 18, 2015
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みなさんはヴィンセント・ギャロと云う俳優さんをご存じですか?俳優さんと断定するのは妥当でないかな。なにしろ彼は、映画監督でもあり、モデルでもあり、画家で彫刻家、フォトグラファーでもあり、プロのバイクレーサーだし、ミュージシャンでもあります。なんとも多彩な才能の持ち主。LPレコードのコレクターでも知られ、35,000枚以上所有してるそうです。ヴィンセント・ギャロの両親はシチリア島からの移民。シチリア系アメリカ人です。ヴェネチア映画祭で主演男優賞をとったことがあります。プロのバイクレーサーとしてチャンピオンシップにも輝いた経験は映画「The_Brown_Bunny」と云う作品に生かされてます。映画監督しての才能の開花は90年代に入ってからですが、70年代はもっぱらニューヨークの路上でストリートミュージシャンをやっていました。バスキアとGRAYと云うバンドを組んでいた事がありますが、このときのメンバーと云うのがすごくってマイケル・ホルマン、ニコラス・テイラー、ウェイン・クリフォードらがいました。そんなヴィンセント・ギャロの出演してる映画「狼たちの鎮魂歌」をDVDで観ました。2005年のイタリア映画です。物語は1950年代の実録ギャング映画です。ちょっとディカプリオの主演した映画「ギャング・オブ・ニューヨーク」を彷彿とさせます。アメリカ政府は124人のイタリア系アメリカ人をマフィアとして起訴しましたが、証拠不十分で彼らは実刑をまぬがれるのです。しかし「好ましからざる者たち」というレッテルを張られて国外追放処分となります。帰る場所は故郷イタリアのジェノヴァしかない。イタリアの地元紙「イル・セーコロ・ディチャンノヴェーズィモ」の新聞記者フスコは、彼らのアメリカ時代を取材し始めます。手がかりは1枚の古ぼけた写真。フスコはその写真に写っている人物をひとりずつ訪ねていって、彼らの波乱に満ちた半生を聞き取ると云うのがストーリーです。映画に登場するギャングたちは、マフィア社会の中で中堅クラスまではのし上がっても、それ以上の幹部にはなれなかった者たちです。どんなに羽振りがよく見えても、しょせんは組織の中の兵隊クラス。ヴィンセント・ギャロもそんなギャングのひとりとして登場してきます。彼の父親は堅気のアイスクリーム屋だったのですが、マフィアからしょば代を出せと脅されたのに断ったため殺されてしまいます。息子のヴィンセント・ギャロは復讐のため、殺害したマフィアを返り討ちにするのですが、その腕を見込まれてギャングの仲間入りしてしまうのです。アメリカを追い出されたヴィンセント・ギャロは故郷で屋台のしがないアイスクリーム屋におちぶれます。そして彼が見た「アメリカの裏面」を語りだすのです。大物のギャングはみんな政治家と結びついてて、国外退去になるようなヘマはしないんですな。ヴィンセント・ギャロは日本の下着メーカー「グンゼ」の白のブリーフが大のお気に入りです。来日したとき、ダイエーでグンゼのブリーフを3万5,000円も購入したそうですよ。グンゼ信奉はずっと続いていて、今でもブリーフやシャツを定期的に取り寄せているらしいです。中之島公園の猫たち-「SAVE THE CATS IN NAKANOSHIMA PARK-」整備工事で閉鎖になった大阪の中之島公園。そこに暮らしてた約70匹の子供たち。心あるボランティアのご尽力で「猫の部屋」と呼ばれる仮住まいを得ることができました。すこしずつ里親さまも決まってきてますが、まだまだ多くの子供たちが良いご縁を心待ちにしています。なを「中之島公園の猫たち」では恐縮ですが現金によるご支援は一切お断りしております。「公園ねこ適正管理推進サポーター制度」が実施されています。そちらのリンクもありますので、大阪市在住の方はぜひ見てください。
Oct 16, 2015
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今回のテンプレ テーマは一昨日の「ベン・ハー」に引き続きチャールトン・ヘストン主演の歴史スペクタクル大作「エル・シド」です。1961年に公開されました。映画は1部、2部に分かれていて実に3時間強の上映時間。封切りのとき観に行きましたが、とにかく腰が痛かったのだけぼんやり覚えています。当時の映画館の椅子と云ったらお粗末でしたしねぇ。監督は「グレン・ミラー物語」のアンソニー・マン。主演チャールトン・ヘストンの相手役はソフィア・ローレンです。「レコンキスタ」と呼ばれる718年~1492年まで行われたキリスト教国によるイスラム帝国からのイベリア半島再征服活動を描いた物語ですが、キリスト教対イスラム教と云う図式よりも、各小国の同盟・敵対関係を宗教に関わらず描いた作品です。11世紀後半のレコンキスタで活躍したカスティーリャ王国の貴族エル・シドことロドリゴの生涯を描いた作品なんですな。レコンキスタにおける代表的なキリスト教戦士として中世騎士の理想像の一つとされるとともに、叙事詩「我がシドの歌」の主人公としても知られていますが、なにせ昔のお話しなのでどこまで事実なのか分かりません。カスティーリャ王国の若き武将ロドリゴ(チャールトン・ヘストン)は、イベリア半島に攻め込んで来たムーア人との戦で捕らえた敵の首長ムータミンを生かして逃がします。これに恩を感じたムータミンはロドリゴに「エル・シド」の尊称を贈るのがニックネームの発祥なんですな。「シッド」とはアラビア語で「主人」を意味する言葉なのです。しかし捕虜を逃がしたためにロドリゴは反逆者と見なされ、最高戦士であるゴルマス伯爵はロドリゴを公の場で侮辱します。そのためふたりは決闘することになり、闘いの末にゴルマス伯爵が死ぬのですが、このゴルマス伯爵の娘と云うのはロドリゴと相思相愛の仲だったシメン(ソフィア・ローレン)。シメンは父親を殺された恨みからロドリゴを激しく憎むようになります。画像はチャールトン・ヘストンと監督のアンソニー・マン。この決闘で闘いにとられた方法が「ランス」と呼ばれるヨーロッパの騎兵に用いられた槍。長さが一般的な片手武器の中でずば抜けて長く、4~5m を超えるものもあります。振り回すのに適してない形状なので、馬に乗ったまますれ違いざまに突き刺す攻撃が基本とされてます。テンプレはこのランスの闘いを描いてみました。やがてロドリゴは数々の武勲により汚名を返上し、国家の英雄として名実ともにカスティーリャ王国の最高戦士となるのです。その褒美としてシメンとの結婚を認められるのですが、シメンのロドリゴへの憎しみは消えません。ロドリゴはそれを知りつつもシメンを愛する気持ちに変りがなく、全てを受け入れてシメンと結婚するのです。しばらくして王さまが死ぬと、第2王子が兄を暗殺して即位すると云う事件がおきます。新国王は暗殺の事情に気付いてしまったロドリゴを追放するのです。これをきっかけにシメンはロドリゴを今なを愛している自分に気付き、全てを捨ててロドリゴに付いて行くこととなります。数年後、ロドリゴはムーア人の首長であるムータミンらと手を組みバレンシアを攻略。しかし攻め込んで来たムーア人の王ベン・ユサフとの戦のさなかにロドリゴは戦死してしまうのです。ロドリゴは遺言を残していました。遺体を馬上に据えて味方の先頭に立たせることで、敵を威嚇するとともに味方の士気を高めるようにと。体に剣を突き刺されたまま馬に乗って海岸を走っていくロドリゴの姿にムーア人たちは恐れをなして蜘蛛の子を散らすように四散していくのです。動画は映画のラストシーン。ロドリゴ(エル・シド)はもう死んでいます。ロドリゴの死後、遺体はすぐに崇拝の対象になり、伝説、詩歌が作られ始めたようです。ロドリゴの剣と称されるものは2003年にスペイン文化遺産に指定されています。ロドリゴが所有していたという史学的証拠は無かったのですが、ブルゴスの博物館が観光資源として所有者のファルセス侯爵から160万ユーロで買い取ったのですね。中之島公園の猫たち-「SAVE THE CATS IN NAKANOSHIMA PARK-」整備工事で閉鎖になった大阪の中之島公園。そこに暮らしてた約70匹の子供たち。心あるボランティアのご尽力で「猫の部屋」と呼ばれる仮住まいを得ることができました。すこしずつ里親さまも決まってきてますが、まだまだ多くの子供たちが良いご縁を心待ちにしています。なを「中之島公園の猫たち」では恐縮ですが現金によるご支援は一切お断りしております。「公園ねこ適正管理推進サポーター制度」が実施されています。そちらのリンクもありますので、大阪市在住の方はぜひ見てください。
Oct 15, 2015
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カトリーヌ・ドヌーヴ(古い女優さんでゴメンなさい)のいかにも大人の女性って魅力も捨てがたいですが、私にはフランス人の芸能人と云ったらイチバン先にこの人をあげます。シルヴィ・ヴァルタン。女優さんぢゃなくて、歌手ですな。1944年生まれだから、おん年71歳。まだ新曲を出して現役で歌い続けています。でも、シルヴィ・ヴァルタンは生粋のフランス人ぢゃなくて、ブルガリア生まれ。お父さんはフランス国籍のブルガリア人で、お母さんはハンガリー人。彼女もフランス語の他に英語、イタリア語、スペイン語、ブルガリア語と5カ国語に堪能だし、日本語を勉強していた時期もあったといいいます。そんな彼女のデビュー曲で、大ヒットしたのが1964年発表の「アイドルを探せ」。この曲をひっさげて、シルヴィ・ヴァルタンはパリ・オランピア劇場公演をやったのですが、そのときの共演相手はなんとビートルズとトリニ・ロペズ。ビートルズの人気がでる前で、観客動員をしたのはトリニ・ロペズとシルヴィ・ヴァルタンでした。これが「アイドルを探せ」です。「アイドルを探せ」「悲しみの兵士」「あなたのとりこ」「哀しみのシンフォニー 」「想い出のマリッツァ」「愛の経験」「アブラカダブラ」「愛のかたち 」「ディスコ・クイーン」「初恋のニコラ」etc。ヒット曲が多いですね~私は大学でフランス語を専攻してたけど、あの息を吸い込むようなフランス語の発音が大キライ。なのにシルヴィ・ヴァルタンだけ許せる(笑)それは歌もいいけれど、いかにもパリっ子て感じのシルヴィ・ヴァルタンの雰囲気が好きだから。シルヴィ・ヴァルタンと云えば、日本ではレナウンのCMソング「ワンサカ娘」がつとに有名ですな。作曲は小林亜星。と云ってもリアルタイムで聞いていたのは私らの世代以上か。なんせ1965年の作品ですから。シルヴィ・ヴァルタンと云えば大の親日家で、なんども日本公演をおこなっていますが、昔、青山のブティックで買った麻のワンピースを約40年間も大事に仕舞っていて、2004年にひとり娘のダリナ(養子)に初めて着せたと話しています。役者で映画プロデューサーの現夫 トニー・スコッティと出会ったのも東京音楽祭の審査員としてともに来日してたとき。シルヴィ・ヴァルタンに云わせると「日本は幸せの国」だとか。シルヴィ・ヴァルタンは大変な子供好きで、恵まれない子供たちや老人救済活動を積極的やっていて、孤児院や病院に新生児の医療機器などを支援したりしています。クリスマスには恵まれない子供達に贈物を届けたり、歴史的な修道院の改修などにまで活動の手を広げています。映画「ウォーターボーイズ」で久々にシルヴィ・ヴァルタンのヒット曲「あなたのとりこ」が復活してましたね。これはキャノンのCMで使用されたシルヴィ・ヴァルタンの「あなたのとりこ」中之島公園の猫たち-「SAVE THE CATS IN NAKANOSHIMA PARK-」整備工事で閉鎖になった大阪の中之島公園。そこに暮らしてた約70匹の子供たち。心あるボランティアのご尽力で「猫の部屋」と呼ばれる仮住まいを得ることができました。すこしずつ里親さまも決まってきてますが、まだまだ多くの子供たちが良いご縁を心待ちにしています。なを「中之島公園の猫たち」では恐縮ですが現金によるご支援は一切お断りしております。「公園ねこ適正管理推進サポーター制度」が実施されています。そちらのリンクもありますので、大阪市在住の方はぜひ見てください。
Oct 15, 2015
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今回のテンプレ テーマはチャールトン・ヘストン主演で1959年に公開された映画「ベン・ハー」。この映画はキリストの生誕から始まり、キリストの死によって奇跡がおこるところで終わりますが、監督のウィリアム・ワイラーは原作の宗教色をできるだけ強調しないよう制作したため、私たち日本人にも分かりやすい映画となっています。主演のチャールトン・ヘストンは2008年に亡くなりました。アメリカ南部を中心に人種差別が激しかった1950年代~1960年代に人種差別反対として公民権運動をマーティン・ルーサー・キング牧師、ハリー・ベラフォンテ、マーロン・ブランド、サミー・デイヴィス・ジュニアらとともに展開しました。映画では歴史スペクタクルの「ベン・ハー」はじめ「十戒」や「エル・シド」。パニック映画の「大地震」やSF映画の「猿の惑星」などさまざまなジャンルの映画で活躍してましたな。私はグレゴリー・ペックと大草原で永遠と殴り合うシーンが印象的な「大いなる西部」が大好きでした。映画「ベン・ハー」は実に6年半の歳月と54億円の巨費を投じて制作されてます。54億円と云っても、現在の54億円ぢゃなくて、1959年の54億円ですから、とてつもない額なんでしょうね。アカデミー賞も最多の11部門受賞しました。東方からやって来た3人の賢人たちがエルサレムの夜空でひときわ明るく輝く星を見上げていました。その星の下に示された粗末な厩で一人の男児が誕生しました。イエス・キリストの誕生。こうして映画が始まります。月日が流れて、ユダヤの王族ハー家の長男ジュダ・ベン・ハー(チャールトン・ヘストン)は幼友達でローマ軍の司令官メッサラと再会します。メッサラはベン・ハーに反抗者を密告するように迫るがベン・ハーは拒否するのです。これがベン・ハーとメッサラの宿命の対決の幕開けとなりました。新総督の赴任パレードを見物していたベン・ハーの妹が誤って手すりの瓦を落下させてしまいます。これがきっかけでベン・ハーはメッサラに総督暗殺未遂の濡れ衣をきせられ、自身ははガレー船送り、母と妹は地下牢に閉じ込められるのです。一旦ガレー船に送られれば生きて帰ることは不可能に近い。ある日ベン・ハーの乗っているガレー船は近海を荒らしまわっている海賊船と遭遇。提督を狙う敵をベン・ハーの槍が救った。ガレー船は大勝利。ローマ凱旋の馬車には提督の横にベン・ハーの姿が。奴隷からローマ軍の将軍の養子となるのです。故郷に戻ったベン・ハーは別れた家族が獄死したと聞かされ、宿敵メッサラの出場する戦車競技に自身も出場することを決意するのです。こうして、あのあまりにも有名な戦車競技のシーンへと突入していきます。このシーンでメッサラのあやつる戦車の車軸に取り付けられた刃物が敵の戦車を破壊する「ギリシアの車輪」は実在しなかったのですね。ただローマ時代の戦車競技では競走相手の車を周回をカウントする「スピナエ」と云うカウンターに衝突させることはOKだったみたい。映画では4頭立ての戦車ですが、馬のたてがみを抜くのがタイヘンなので、テンプレでは2頭立てにはしょりました。ベン・ハーの母と妹は獄死してなかったのですね。しかしもっとひどいことになっていました。「らい病」を病んでいたのです。ひっそりと死を待つだけの毎日。隠れ住んでた洞窟の中から妹を抱き上げたベン・ハーはエルサレムへ向かいます。街で気付いた人々は石を投げつけて追い払おうとする。その頃、十字架を背負ったキリストがエルサレムの街路を歩んでいきます。ベン・ハーはガレー船で自分に水を恵んでくれた人こそキリストだと知るのです。キリストの血に染まった裸足がおぼつかなく、石段でつまずきます。ベン・ハーはとっさに近くの水場から柄杓に水を汲みキリストに差し出しました。キリストは水を飲みながらベン・ハーと再会するのです。ゴルゴダの丘で磔にされるキリスト。その時、にわかにかき曇り、当たり一面が暗くなりました。キリストの肉体から流れた出た血が大地に染み込み、小川に混ざる。その瞬間、ベン・ハーの母と妹の体に激しい痛みが走り...ふたりの顔や手からは「らい」の腫れが取り払われ、元の姿になっていたのです。お互いの顔を見、打ち震える感動と喜びに抱き合う3人。画像はウィリアム・ワイラー監督とキリスト役の役者(クロード・ヒーター)さん。動画は「戦車競技のシーン」だけを全部載せています。実に9分強!お時間ある方だけご覧ください。中之島公園の猫たち-「SAVE THE CATS IN NAKANOSHIMA PARK-」整備工事で閉鎖になった大阪の中之島公園。そこに暮らしてた約70匹の子供たち。心あるボランティアのご尽力で「猫の部屋」と呼ばれる仮住まいを得ることができました。すこしずつ里親さまも決まってきてますが、まだまだ多くの子供たちが良いご縁を心待ちにしています。なを「中之島公園の猫たち」では恐縮ですが現金によるご支援は一切お断りしております。「公園ねこ適正管理推進サポーター制度」が実施されています。そちらのリンクもありますので、大阪市在住の方はぜひ見てください。
Oct 13, 2015
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みなさんはコンピュータが誤作動すると云われた2000年問題、覚えていらっしゃるでしょうか?時の総理、小渕恵三さんが自らテレビCMで注意を促したぐらい大騒ぎ。のハズが...大山鳴動して...たいした混乱も無く収まりましたね。2000年問題と云うのは、古いプログラミング言語(会計処理に向いてるCOBOLや科学技術計算に強いFORTRANなど)を使ったプログラムでは、日付を表現する「型」を持ってないので、下2桁だけの「文字型」で表現していることが原因なんです。すると2000年がコンピュータ内部では「00年」となるので、これでは西暦(天皇が変わると年号が変わる和暦はコンピュータでは使えません)「1900年」か「2000年」か分からない。また2000年は400年に一度の2月29日のある特別な閏年であるのに、その処理をしてないプログラムもあったので、より深刻だったのです。このことは1960年代のプログラム開発初期にはもう分かっていたのですが、昔のコンピュータはお話しならないほどメモリーが少ない。なので少しでもメモリーの負担を少なくするため、ワザと下2桁だけで対応していたのです。これはメインフレームなどの大型コンピュータに顕著で、PCなんかでは日付処理の関数を持つC言語やVBで書かれていることが多かったので日付の問題は解決されていました。当時の技術者は「2000年までには何らかの改良が加えられるだろう」と何ら手を打たなかったのですな。実際、この年に私が働いていた会社のコンピュータはCOBOLでプログラムを開発されていたので、当夜はたいへんな緊張でしたね。何人ものメーカーの技術者とコンピュータ室のスタッフが大晦日の深夜にスタンバイしてました。そんな2000年問題を背景に、機械の誤作動を悪用して盗みを働く映画がありました。1999年に公開された「エントラップメント」です。まさにこの年でないと作れなかった映画。主演はショーン・コネリーとキャサリン・ゼタ・ジョーンズ。レンブラントの名画盗難事件がニューヨークで発生。美術専門泥棒としてその名をほしいままにしていたショーン・コネリーの仕業である事を突き止めた保険会社の女性調査員(キャサリン・ゼタ・ジョーンズ)は、彼を罠にはめるため新たな窃盗計画を思いつくのです。いろんな経緯で泥棒と保険会社の調査員はパートナーとして80億ドルとも云われるとある銀行預金に目を付けると云うお話しです。この映画で重要な舞台となったのがさるさる2960さんが先ほど旅行してこられたクアラルンプール。そこに建つペトロナスツインタワーです。台湾の「台北101」に座を譲り渡すまで超高層ビルとしては最も高い高さを誇っていました。452m の88階建て。マレーシアのモスクに似せて作られたビルで、建設は2つのタワーを別々の建設会社が請け負ってました。タワー1は日本のハザマ、タワー2は韓国のサムスン物産建設部門です。ところがサムスン物産の方は経験不足と技術力の限界が同社の役員でさえ認知できるほど日本との格差があったのですね。建設の初期段階から日本企業と工程が違いすぎた。で、サムスン物産は工事を通して日本の技術と経験を学びながらやっと建てたと云います。ちなみにふたつのビルの間にブリッジが見えますが(ここが映画「エントラップメント」でのアクションシーンの場所)ここは誰でも立ち入りできるのではなく、早朝から行って整理券を貰わないと入れません。中之島公園の猫たち-「SAVE THE CATS IN NAKANOSHIMA PARK-」整備工事で閉鎖になった大阪の中之島公園。そこに暮らしてた約70匹の子供たち。心あるボランティアのご尽力で「猫の部屋」と呼ばれる仮住まいを得ることができました。すこしずつ里親さまも決まってきてますが、まだまだ多くの子供たちが良いご縁を心待ちにしています。なを「中之島公園の猫たち」では恐縮ですが現金によるご支援は一切お断りしております。「公園ねこ適正管理推進サポーター制度」が実施されています。そちらのリンクもありますので、大阪市在住の方はぜひ見てください。
Oct 13, 2015
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昨今の映画はどんな作品であれ、VFX(視覚効果)を使うのが大流行りですが、プロデューサー ジェリー・ブラッカイマーのように、普通の撮影を重視しててVFXを使うのはほんのチョッピリ、映像に味を付ける程度と云う人もいます。ジェリー・ブラッカイマーの代表作「バッドボーイズ2バッド」なんて、走ってる車輛運搬車からゴロンゴロン、幾台もの車が転がり落ちてきて、その間隙をぬってウィル・スミスの運転するフェラーリをぶっとばすシーンがありますが、これのほとんどを実際に車を120km のスピードで運転して撮影してます。逆に映画「トロン」のようにこれ全編VFXと云うようような作品も存在します。これは映画「マトリックス」の撮影シーン。ワイヤーで吊られたキアヌ・リーブスと適役ヒューゴ・ウィーヴィング(エージェント・スミス)が銃で撃ちあうシーン。ふたりの人物以外はブルーバックと呼ばれるシートで覆われていて、人物だけで演技してるワケです。ふたりの周囲には360度取り囲むようにスチールカメラが多数並べられていて、同時に撮影をします。この画像をつなげていくと、ふたりを軸に360度ぐるっと1回転したシーンが撮れると云う仕組みです。ブルーバックで撮影された映像は、クロマキーと云う特定の色(ブルーとかグリーン)をPCで透明にしそこに別の映像(背景画像)を合成する技術を用いてこんな映像が撮れるのですね。このようなVFXでは当然のようにコンピュータの出番です。昔はSGI社(シリコングラフィックス)の「O2」とか「Octane」と云ったUNIXを使ったワークステーションでグラフイックスを行っていましたが、現代ではPCの性能が飛躍的に発達してきたので、PCで作業するのが普通です。ただVFXでは私が使ってるAdobe社の「Photoshop」と云った静止画ソフトも使いますが、高価な映像編集ソフト、それもシーン、シーンによって多数使い分けなければなりません。オートデスク社の「インフェルノ」なんてのはシステム価格が5,000万円~1億円を越えるほどします。「スターウォーズ」のようなSFファンタジーでなくても、宇宙を扱った映画では今やVFXなくして制作は考えられません。私がお気に入りの映画「コンタクト」もそのひとつです。これはカール・セーガンによるSF小説の映画化で、SETI(地球外知的生命体探査)プロジェクト、人類と宗教、科学と政治、地球外生命などをテーマにした作品。この映画はNASAの全面協力のもと、ハッブル宇宙望遠鏡などの画像をもとに極めて忠実に宇宙が再現されてます。この映画の冒頭シーンに出てくる約3分間の地球からどんどん遠ざかっていく宇宙の映像はまさに圧巻。途中から音楽も無く、ただ無声のなかで映像だけで勝負している。銀河群を越え、光を発する天体がほとんど無い1億光年を超える直径の超空洞まで映像で旅をする。これは膨大な時間をかけてVFXだけで制作されました。PCの稼働時間だけでも1万数千時間と云います。これが約3分間に凝縮されているのです。しかしこの映画で私が最も注目したのは宇宙のシーンではなく、幼い主人公の父親が突然病に倒れ、主人公が薬を取りに2階の洗面所に駆け上がっていくシーン。ここは目を見張るVFXが駆使されてます。階段を駆け上がり、廊下をひた走る主人公。やがて洗面所にたどり着きますが、いままで走ってきた映像は実は実写ではなく、洗面所の鏡に映し出されていた映像なのです。もちろん階段を駆け上がって、廊下を走ってくるシーンを鏡に映して撮影できるワケがありません。ここがVFXの腕の見せどころ。そして薬をとって主人公が父親のもと戻っていくと、鏡が閉じて、その鏡に映し出されるのは父親と主人公のフォトフレームと云う心憎い映像。DVDの特典映像を観るまで、どのようにしてこのシーンが撮れたのか全く分かりませんでした。2000年に公開された「ミッション・トゥ・マーズ」と云う作品。この撮影で火星表面のシーンはバンクーバー南部の砂漠の砂丘を削り、コンクリートでコーティングした後、大量の赤いペイントを吹き付ける方法をとっています。この映画もNASAの全面協力のもとに制作されているのです。画像は「ミッション・トゥ・マーズ」の1シーン。無重力の宇宙船の中で宇宙飛行士夫婦がダンスを踊るシーンの撮影風景。高いポッドの上に夫婦役の俳優さんが乗って、ポッドを回転させたり上下させて無重力の雰囲気を出しているのですね。さて「コンタクト」も「ミッション・トゥ・マーズ」もある1本の映画を目標に制作されています。それは1968年に公開されたスタンリー・キューブリックの「2001年宇宙の旅」です。この映画が制作された当時は電卓すら黎明期で一般に普及していない時代。そんな時代にVFXの原点とも云うべきワイヤーフレーム(線だけで立体物を描画する方法。映画「バイオハザード」シリーズでも建て物の描写によく出てきます)を導入してるのです。当時のワイヤーフレームは大学研究レベルの段階だったので、計算機も使えず計算尺で計算し、手描きにより作画されたのですね。画像は宇宙船ディスカバリー号の内部の撮影風景。巨大な樽のようなセットをグルグル回転させて、丸い宇宙船の内部でランニングしてるシーンに使われました。この撮影方法は「ミッション・トゥ・マーズ」でも採用されてて、回転する宇宙船の内部をカメラを固定させて撮影しています。この他にも「2001年宇宙の旅」では「フロントプロジェクション」や「スリットスキャン」と云った革新的なSFXの撮影方法が開発されています。これらはスタンリー・キューブリック監督がカメラマン出身だから考え付いたのでしょう。どっちにしても、この映画なくして今日のVFXは考えられなかったし、こんな素晴らしい映像をあんな時代に撮ったと云うだけでスタンリー・キューブリックはスゴイ監督なんですね。こっちの画像はラストシーンに出てくる有名な「胎児が地球を見降ろしてる」シーンに使われた人形です。ところで「2001年宇宙の旅」のシーンで見落としやすいけどこんなシーンあるのご存じですか?宇宙ステーションに積まれている「ハル」と云うコンピュータの声紋識別装置の操作卓、よく見ると言語選択にちゃんと「JAPANESE」があるんですよ。
Oct 12, 2015
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ミミちゃんが背後からチャッピくんを襲おうとしてます。このひと正面からどうどうと勝負しない。卑怯ものです。そしたら寸んでのところでチャッピくんに気づかれた。何事もなかった顔して、ミミちゃんはスタコラ違うところへ。よう繰り返すわ。きょうは季節外れの話題。江戸時代、上方では「砂糖水屋」と称して、道端に桶を置いて砂糖を加えて売る商売がありました。いわば清涼飲料水販売です。夏の風物詩なんですが、冷蔵庫の無い時代ですから保冷はできない。井戸から汲み出してなるべく早く売っていたのですね。値段は1杯6文(150円)。これが江戸になると「冷や水売り」。こっちは冷たい水に砂糖と「白玉団子」を入れたものを売る。そして道端ぢゃなくて、冷たい水を入れた荷台を担ぎ、街中を「氷水あがらんか、冷やっこい」「汲みたてあがらんか、冷やっこい」と掛け声をかけて売り歩いてました。白玉は、ご存じの通り白玉粉で作った団子。ほかに道明寺粉や葛粉を入れたりもしました。紅で赤いまだら模様にした白玉を望む客にはそれを入れてサービスしたのですな。冷や水一杯は、はじめは1文(25円)だったのが、インフレが進んだ1800年頃の幕末には4文(100円)で売られていました。これが錫製の茶碗(錫だと冷たいままサービスできます)で出して白玉がたくさん入ると8文(200円)とか12文(300円)。随分ボロイ商売です。しかし冷や水といっても夏のことですから、時間がたてばぬるま湯になってしまいます。なので「ぬるま湯を_辻々で売る_暑いこと」という川柳ができたほどですこの「冷や水売り」とは別に江戸では「水売り」と云う商売もありました。「水売り」は、井戸には塩分が多く、水道も達してない深川近辺に生活用水を売る商売です。綺麗な水のあるところで水を汲み、舟で深川まで運んで個々の家庭に売り歩いてたのですね。もちろん「水売り」には冷たい水なんて概念はありません。水がらみでお話しすると、日本に洋式の「下水道」がつくられたのは明治30年(1900年)東京・神田に作られたのが最初なんですな。パリで下水道が作られたのは1740年、イギリスでは1863年です。そこから考えると、日本の下水道造成はとても遅い気がします。なんでだと思います?江戸では、し尿と、生活排水や雨水は、完全に分けて処理され、しかも下水に流される水はあまり汚れていなかったので、あえて西洋のような下水道を必要としなかったからです。むしろ西洋より日本の方が進んでいたのですね。画像の家の手前に、鍵形に作られている溝が江戸時代の下水道です。なんせパリやロンドンではおまるから排泄物を道端に投げ捨ててた時代。糞尿まみれの通り...対する日本は江戸などでは糞尿を肥料に使うので近在のお百姓さんが買いに来ます。長屋の大家さんはそれが大きな収入にもなり、下水にし尿が入ることがありません。江戸は水が豊富ではなかったので、井戸水を大切に使いきります。米のとぎ汁は鉢植えにかけたり、洗濯も洗剤など無いので、そこらへんに撒けば土にしみこんでいきます。個人でお風呂を持つのはよほどのお金持ち。湯屋はたくさんありますから、毎日のように湯に入り清潔です。というわけで下水に流れていく生活排水もあまり汚れてないので堀や川に流しても問題なかったのです。画像向かって左には石組みで作られた溝(どぶ)があります。右の画像では「雨落下水」と呼ばれる屋根から落ちる雨を集めて流す仕組みが描かれてて、通りの中央部にある溝「割下水」は水はけのために作られています。中之島公園の猫たち-「SAVE THE CATS IN NAKANOSHIMA PARK-」整備工事で閉鎖になった大阪の中之島公園。そこに暮らしてた約70匹の子供たち。心あるボランティアのご尽力で「猫の部屋」と呼ばれる仮住まいを得ることができました。すこしずつ里親さまも決まってきてますが、まだまだ多くの子供たちが良いご縁を心待ちにしています。なを「中之島公園の猫たち」では恐縮ですが現金によるご支援は一切お断りしております。「公園ねこ適正管理推進サポーター制度」が実施されています。そちらのリンクもありますので、大阪市在住の方はぜひ見てください。
Oct 11, 2015
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「そのひとは私の脚に自分の脚をからませて、静かな寝息ではなく、大きなイビキをかきながら寝ていました」なぁ~んてね。ニューハーフのオッサンのことです。チャッピくん。涼しくなってきたので、チャッピくんが私と一緒に就寝するようになってきました。しかし相変わらずの大イビキです。私もイビキをかくようですが、我が家でイチバンの大イビキはチャッピくんなんです。映画「十三人の刺客」のメイン・ロケ地は山形県庄内地方。今も「スタジオセディック庄内オープンセット」として撮影当時の決戦の宿場町「落合宿」のロケセットがそのまま残されています。もともとは採石場のあった「石倉」って云う場所。入場料金は大人1300円ですが、ここのセットは大掛かりで見応えがあります。広さは東京ドーム20個分。2億円をかけて製作された本格的なオープンセットです。ただ豪雪地帯なので、冬は閉鎖。冬に行って見ようと云う方はネットで営業してるか確認が必要です。このセットでは「十三人の刺客」以外にも数多くの映画が撮影されてます。「るろうに剣心」「超高速!参勤交代」「必死剣鳥刺し」などなど17本ほど。もともと庄内地方そのものが時代劇のロケ地として有名なんですね。廻船問屋の「旧鐙屋」や北海道の鰊漁で巨万の富を築いた漁業王、青山留吉の「旧青山本邸」などでは「おしん」の撮影がおこなわれているし、料亭跡の「旧割烹小幡」は「おくりびと」で葬儀屋の事務所として登場してました。「蝉しぐれ」や「たそがれ清兵衛」も庄内で撮影してます。「十三人の刺客」は1963年の映画のリメイク版です。江戸時代後期の弘化元年(1844年)。将軍の異母弟にあたる明石藩主 松平斉韶は異常性格、暴虐ぶりの振舞いが多く、それを諫めんと江戸家老は切腹、憤死。しかし将軍の意により、斉韶にはお咎めなし。この斉韶をSMAPの稲垣吾郎がやってるけど、まぁ憎たらしいったらありゃしない(笑)しかもこの斉韶がゆくゆくは老中に就任することが内定しているのです。この辺から江戸時代も後期に入ると、官僚主義だけが横行して暴君であろうが触らぬ神に祟りなし。誰もが我が身だけ大事って時代だったのですね。幕府としての処罰ができないことから、ついに御目付役の島田新左衛門はじめ合計13人で、参勤交代道中の斉韶を暗黙のうちに討ち取ることにするのです。そして13人対、斉韶側300人との死闘が開始されます。この映画はとにかく格闘シーンがすさまじい。日本映画の歴史では黒澤明監督の「7人の侍」に迫るスゴイ切り合いを見せているのです。忠臣蔵がめっきり制作されなくなった今日では久々に見る集団闘争の日本映画なんですね。「十三人の刺客」は2010年に公開されました。きのうの更新で「小さい頃は長野にお住まいだったのですか?」とコメいただきました。ゴメンナサイ。あれは私の書き方が誤解を生むような表現でした。最初に「上田映劇」の名前をだして、その後私の記憶を書いたので誤解を生んだようです。私がたびたび信州を訪れるようになったのは山登りを始てからです。あの記憶は奈良県の田舎町にある小さな映画館のものです。中之島公園の猫たち-「SAVE THE CATS IN NAKANOSHIMA PARK-」整備工事で閉鎖になった大阪の中之島公園。そこに暮らしてた約70匹の子供たち。心あるボランティアのご尽力で「猫の部屋」と呼ばれる仮住まいを得ることができました。すこしずつ里親さまも決まってきてますが、まだまだ多くの子供たちが良いご縁を心待ちにしています。なを「中之島公園の猫たち」では恐縮ですが現金によるご支援は一切お断りしております。「公園ねこ適正管理推進サポーター制度」が実施されています。そちらのリンクもありますので、大阪市在住の方はぜひ見てください。
Oct 10, 2015
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きのう誤ってお水の張ってある浴槽に落っこちたチャッピくん。ど~やらお風邪は召されていないようです。このひと、浴槽のお湯を飲むのが趣味なので、それで蓋の上に登ろうとしたのですね。いつも人間がお風呂に入ろうとすると、慌てて後をおっかけます。人間が浴槽に入ると、半分開けた蓋の上からお湯が飲みやすいから。いつも私がその役仰せつかっていたのですが、脚を痛めてから介護用の椅子を浴槽に沈めて入るので、ヘソから上にやっとお湯がとどくかとどかないか。なのでチャッピくんが蓋の上の乗っかっても喫水にお口が届かない。で、ずっとシャワーのお湯でガマンしてもらってたのですが、やはり不満のようでした。長野県上田市に大正6年創業の映画館があります。「上田映劇」。「映劇」とは映画とお芝居をする劇場のことです。私が幼かったころは、映画館でたまに歌謡ショーとかお芝居もしてました。覚えているのは「東京アンナ」とか「ここに幸あり」のヒットで知られる"大津美子"さんの公演と大友柳太朗 主演映画「怪傑黒頭巾」の豪華2本立て。汲み取り式のトイレからは消毒剤のニオイが客席に漂ってくる、そんな町場の映画館でもこんな公演がなされてました。こちらの「上田映劇」は元々明治時代にあった末広座という芝居小屋の後に建てられたものです。最初は「上田劇場」と称し、1階には桟敷と花道があり、回り舞台があっていわゆるお芝居小屋だったのですね。それが昭和に入り映画が中心に上映されるようになると「上田映画劇場」と名前が変わり、現在の「上田映劇」となっていったのです。映画全盛期の時代は、年中無休の2~3本立てで入れ替えなし。毎週新しい映画を上映で、要するに映画は1週間の上映期間だったのですね。切符売り場も東西2か所におき、切符を販売する人、もぎりの人、映写技師2名、掃除人など常時5人~6人の従業員と管理人で大忙しで。劇場の2階に住み込みで働く方もいたほどでした。今も芝居小屋の名残りはスクリーン前にある広いステージとコの字型に囲まれた2階客席の設計に見る事ができます。創業時は無声映画も上映していたため生の楽団が演奏するにあたって芝居小屋の作りは理想的だったのですね。昔は上映前は屋外で呼び込みと一緒に演奏をして、上映が始まると中に入るという事を繰り返していたそうです。「上田映劇」が映画専門館となったのは戦後になってからの事。映画専門館となってからは大映、松竹の作品をメインとしつつも洋画の上映も行っていたようです。こちらが現在の上田映劇の外観。「あさくさ雷門ホール」!なぜに「浅草」?実はこの劇場は劇団ひとりさんが原作、監督を務め、大泉洋さんが主演した映画「青天の霹靂」のロケ地なんです。劇場はこの撮影に全面協力して、外観を変えてしまったのです。ロケ中はロビーも昭和の劇場の売店が姿を現していましたが、こちらのセットは現在はありません。「上田映劇」は「シグナル~月曜日のルカ~」という青春恋愛ミステリー映画にも登場してます。西島隆弘演ずる宮瀬恵介が高給につられて名画座「銀映館」でフィルム映写機の操作係りと云うアルバイトをするシーンに登場します。「上田映劇」は270席とこじんまりした劇場ですね。何度か改装を行っているますが、あくまで建物は創業当時のまま内装だけをいじっているので、劇場のアチコチに昔の姿を見る事が出来るのです。創業時は畳の桟敷席だったという2階席は今では革張りの贅沢なシートに変わっています。2階席はプラス200円。お客さんが場内に入って好きな席を探すのも楽しみのひとつだと全席自由席です。この劇場のいちばんのウリは「格天井」。関東大震災で焼けてしまう前の帝国劇場と同じ形の天井なんです。そんな「上田映劇」も市内へのシネマコンプレックスの進出を期に映画の定期上演を終了。その後、市営の新しい文化施設ができたことからお客さんが激減して苦しい経営状態となりました。そのためライブや舞台などの自主興行と貸館としての上田映劇再生プロジェクトがスタートしましたが、老朽化して雨漏りのする屋根の補修、歴史的価値のある天井の補修など修理しなければならない個所が多く、資金調達が困難なんですな。プロジェクトに賛同して寄付も集まっていますが、目標の1,000万円には程遠いようです。中之島公園の猫たち-「SAVE THE CATS IN NAKANOSHIMA PARK-」整備工事で閉鎖になった大阪の中之島公園。そこに暮らしてた約70匹の子供たち。心あるボランティアのご尽力で「猫の部屋」と呼ばれる仮住まいを得ることができました。すこしずつ里親さまも決まってきてますが、まだまだ多くの子供たちが良いご縁を心待ちにしています。なを「中之島公園の猫たち」では恐縮ですが現金によるご支援は一切お断りしております。「公園ねこ適正管理推進サポーター制度」が実施されています。そちらのリンクもありますので、大阪市在住の方はぜひ見てください。
Oct 9, 2015
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きのうはマンションの水道工事で朝から断水。それでトイレ用にとお風呂のお湯を抜かないで、そのまま溜めてました。すぐに使えるようにお風呂の蓋は開けて。これがいけなかった。私が部屋でPCいぢりしてると突然「ドボン」!あわてて見に行ったら、チャッピくんが猫かきで必死に泳いでる!浴槽がステンレスなので、ツルツル滑って這いあがれない。ど~やらお風呂の蓋の上に登ろうとしてジャンプしたら、そこには蓋がなかった...急いで助け出して、バスタオルで拭いてやろうとしたらどんどん駆けて行ってリビングの端っこまで。フローリングが水浸しです。お風呂場のドアを閉めときゃよかった...しかしそんなこと云うてられない。もう寒くなってきたから、風邪ひかせるのがヤバイ。でバスタオルとドライヤーかかえて追っかけて、先ずはタオルで拭いてやろうとしたら嫌がってなかなか拭かせない。ようよう拭き終わって、ドライヤー使う段になったらもっと嫌がる。掃除機の音さえ平気なのに、なんなの?仕方ないから、片手でシッポをつかんで、もう一方の手でドライヤー。なんとか湿り気ぐらいはとれました。今回のテンプレは坂本龍馬の寺田屋事件がテーマです。坂本龍馬と長州の三吉慎蔵が泊まっていた旅籠 寺田屋に伏見奉行の捕り方が踏み込んだ事件。実際におこったのは慶応2年(1866年)1月24日の午前2時ごろ。ですが、真っ暗闇では画像にならないので、画像では夕暮れ時にしました。私も現在の寺田屋に行ったことありますが、道幅は画像のように広くありません。寺田屋の画像は現在の寺田屋画像を加工したものですが、街の風景はいくつもの建て物画像を組み合わせています。ミミちゃんが新撰組の隊士に扮していますが、これも事実と異なります。坂本龍馬と三吉慎蔵は伏見でたびたび新撰組の検問を通過しており、嫌疑を受けていた様子はなかったから。行動をおこしたのは伏見奉行の捕り方30人ほどです。ところで画像に使用した寺田屋なんですが、この建て物、本物ぢゃ無いんですよね。建て物に入ると寺田屋事件のときの柱に残された「弾痕」や「刀傷」、「お龍が入っていた風呂」なんかが残っていて、まさにここであの事件が起こったのかと連想させますが、本物の寺田屋は鳥羽・伏見の戦いで焼失しています。この建て物は本物の寺田屋の西隣に建てられたまがいもの。現在の寺田屋は昭和30年代に第14代寺田屋伊助を自称する人物が営業を始めたもので、その人物は寺田家とは全く関係はありません。現在の寺田屋を訪れてみると分かりますが、先ず「表札」。ここに「坂本龍馬」と書かれています。んなワケないやろ~拝観料は大人400円。泊まるのは6,500円らしいです。寺田屋の建て物画像はタイヘンでしたねぇ。なんせ本物はコンクリートとかエンビの「とゆ」とかガラス戸とか。これを全部、昔のものに置き換えていかなければなりません。龍馬の妻、お龍(りょう)は事件のおこった当時、寺田屋に預けられてここで働いていたのですね。それでそんな遅い時間にお風呂に入っていたのか。どっちにしてもこの お龍が外の異変に最初に気づきます。それで裸のまま2階の龍馬のもとに駆け込んだというワケですが、濡れたままで帯は着けずに着物だけをひっかけ、階段を駆け上がったと云う記録も残っています。今回はお龍は登場させられません。そんなヌード同然の女性なんて(笑)伏見奉行の捕り方に踏み込まれた時、龍馬は高杉晋作からもらった拳銃で、三吉は手槍を用いて捕り方2名を射殺、数名を殺傷させてます。しかし捕り方が拳銃を持つ手を刀で払おうとして、龍馬は左右の手の親指を負傷。装弾ができなくなったと云うので、三吉が必死に槍で応戦する間に、寺田屋を脱出して路地を走り材木屋に隠れたのです。三吉は伏見薩摩藩邸に救援を求めに行き、薩摩藩邸にいた留守居役が川船を出して救出に向かい、龍馬は九死に一生を得ることができたのですな。高杉晋作から贈られた龍馬のピストルは、騒ぎの際に紛失してしまい、負傷した左手の指は重傷で、その後自由が利かなかったと云われています。画像は龍馬が使ったのと同型のピストル。
Oct 8, 2015
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夏の土用丑の日になるとこぞって鰻を食べますが、あれはエレキテルで有名な平賀源内が張本人と云う説が有名ですよね。本来、鰻の旬は冬なのに、なぜに夏の土用丑の日に食べるのか?この冬が旬ってので夏は鰻が売れない。平賀源内の知り合いの鰻屋が困って、平賀源内に相談したところ「"本日丑の日"という張り紙を店に貼れ」と発案され、それが功を奏して鰻屋は大繁盛したと云う逸話。たまたま夏の土用の時期は暑さが厳しく、夏ばてをしやすいので昔から精の付くものを食べる習慣があり、丑の日にちなんで「う」から始まる食べ物を食べると夏ばてをしないという風習があったそうです。それが鰻とピッタリ符合したのですな。お医者さまに聞くと、今の日本人は普段の食事で充分栄養が足りてるので、ことさら夏の土用丑の日に鰻を食べなければいけない理由は無いそうです。鰻が現在の調理法と同じになったのは江戸時代中期以降の1750年前後だと推測されてます。それ以前の食べ方は、鰻をぶつ切りにしたり、小さめのウナギを丸のまま串を打ち、それを焼いて味噌や酢をつけて食べていました。その後、千葉県の野田、銚子で造られる関東醤油(濃い口醤油)の普及に合わせて醤油の味の蒲焼が普及し始めたのです。江戸でも1800年頃までは関東風と関西風が混在して売られていたようですが、以降は関東風だけが着実に進歩し江戸っ子の食文化の代表として定着し江戸での関西風の蒲焼はだんだん姿を消していきました。うなぎは関西から東上したそうですが、関西風のうなぎは腹開きにして、蒸さずに焼きます。パリッとしていて香ばしいのが特徴です。関東で背開きにするようになった理由は?関東は武家社会なので、腹開きは切腹に通じるからダメ。それで背開きにしたそうです。関西の腹開きは、背のほうに身が多くあって腹開きにすると一度に多く串にさせるからです。しかし大阪人の私は関西風の鰻より、関東風の白焼きをいったん蒸したものの方がフワッとして好きなんですね。もう退店してありませんが、大阪 心斎橋の日航ビルの地下街に「竹葉亭」が入っていました。ここは江戸末期の慶応2年に江戸大富町浅蜊河岸(今の新富町)で創業したお店ですから、と~ぜん関東風の鰻を食べさせてくれます。仕事してるときは、ほんまよく行きましたよ。「竹葉亭」の屋号は酒の女房詞「ささ」に由来する酒の雅称「竹葉」に由来するもので、初代店主の号としても使用されたのですね。画像は「竹葉亭 木挽町本店」現在の割いた形の「蒲焼」を売る露店や鰻売りは元禄の1700年ごろにはすでに関西で売られ始めていました。その約20年後の文献には江戸でも登場します画像は1716年~1735年掲出された「江戸名所百人一首」(近藤清春)です。深川八幡社の画で「めいぶつ大かばやき」と書かれた行灯のある、露店のような粗末な店が境内にあり、そこで蒲焼を焼いている人が確認できます。この「大かばやき」は古代製法の蒲焼と区別するためにつけた蒲焼の名前です。「江戸前」という言葉を最初に使ったのは鰻屋でした。徳川家康は江戸の街づくりで石神井川の流れを付替えました。江戸城の前の浅い海を埋め立てて土地を造成したのですな。現在の宮城前、馬場先門の辺りが沼に変わると、この沼でたくさんのうなぎが取れるようになりました。 頭のいい人がいて、この鰻に目をつけ、味噌をつけてブツ切りにして竹串にさし焼いて売り大儲けししたのです。江戸(城)前の鰻蒲焼の誕生ですな。工事の職人たちは昼飯の惣菜にとこぞってこの鰻を食べたのです。そのうちに「江戸前」の呼称は江戸の前の海で捕れる魚介類の呼称となっていったのです。画像は「板橋駅」長谷川雪旦画 天保5年~7年(1834年~1836年)刊「江戸名所図会」より板橋宿は上宿、仲宿、平尾宿という3つの宿場の総称で、上宿と仲宿の境目は「板橋」が架かる石神井川。仲宿と平尾宿の境目は観明寺付近にありました。中山道有数の宿場町として栄え、江戸時代後期には上宿の入口にある大木戸の内側からが朱引内、つまり江戸として扱われていたのです。天明(1781年~1789年)の末頃には蒲焼きにご飯を付ける「つけめし」が始まりました。また文化(1804年~1817年)ごろに鰻丼の前身「うなぎめし」が大野屋から売り出された。この鰻飯は「中いれ」と称し、大野屋では64文から売り始めたが、100文、200文(職人の手間が470文の時代)の高級品も出るようになりました。寛永元年(1848年)には90軒の蒲焼き店がありましたが、すぐに200店を越えるようになったのです。画像は「江戸見世屋図聚」より鰻丼は江戸の郷土料理堺町(現在の東京人形町)で大久保今助と云う人物が所用で水戸方面へ向かっていたところ、牛久沼のほとりの茶店に鰻の蒲焼がある。これで飯を食べようとしたところ、渡し舟が出そうになったため、今助は蒲焼を飯の上に乗せて皿をふた代わりにして渡し舟に飛び乗ったのです。渡し舟が対岸に着き舟を降りた今助が蒲焼を食べようとしたら蒲焼は飯の蒸気と熱でよい香りになり、味も今まで食べたどの蒲焼よりも美味しい。それで今助は江戸に戻ると、丼に飯を入れてその上に蒲焼を載せ「鰻丼」として売り出すようになったのです。ご飯にタレが染込んだ味は大人気となり、葺屋町にある大野屋が元祖鰻めし「中いれ」という看板で売り出したのが最初だと言うことです。鰻飯は「鰻丼飯」の略。明治に入る頃まで京阪では「まぶし」、江戸では「どんぶり」と言えば、この「鰻丼」を指していました。marnon1104さん、「千切りの紅ショウガのかき揚げが売られているのですか?」それは違います。たしかに千切りを揚げてるお店もありますが、それは亜流。ほとんどのお店は千切りぢゃなくて、紅ショウガの塊を薄くスライスして揚げてるのです。大阪の家庭では、天麩羅といったら必ず出てきます。天麩羅にウスターソースは昔からやってますねぇ。大阪ってウスターソースとトンカツソースしか使わない。中濃ソースはほとんど見かけません。しかし天麩羅みたいな揚げ物にウスターソースかけると(大阪人はかなりタップリ目にかけます)ベタベタになって私は嫌いです。天つゆもイヤで、天麩羅はお塩でいただくのがイチバンです。中之島公園の猫たち-「SAVE THE CATS IN NAKANOSHIMA PARK-」整備工事で閉鎖になった大阪の中之島公園。そこに暮らしてた約70匹の子供たち。心あるボランティアのご尽力で「猫の部屋」と呼ばれる仮住まいを得ることができました。すこしずつ里親さまも決まってきてますが、まだまだ多くの子供たちが良いご縁を心待ちにしています。なを「中之島公園の猫たち」では恐縮ですが現金によるご支援は一切お断りしております。「公園ねこ適正管理推進サポーター制度」が実施されています。そちらのリンクもありますので、大阪市在住の方はぜひ見てください。
Oct 7, 2015
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お寿司屋や鰻屋に比べて店舗数が少ないって云うことも有るけど、私はカウンターごしに目の前であげてくれる天麩羅屋に入ったことは数度ぐらいです。なんせ値段の想定がつかない。しかし美味しかったなぁ。既製品の天麩羅とは全く別の食べ物でしたね。女優の中村玉緒さんは大の海老天麩羅好きで知られてますよね。天麩羅屋に行って、海老天ばかり20匹は食べるとか。1939年生まれと云うから今年で76歳ですよ。天麩羅、それもエビ天ばっかし20匹って、いくらいいお店でばかり食べてて、脂っこくないとしても、よく食べられるものです。天麩羅の原型が伝来したのはずいぶん古く奈良時代~平安時代には米の粉などを衣にしたものが登場してます。その後16~17世紀には西洋のフリッターが伝来しているのです。16世紀の中頃、鉄砲の伝来とともにポルトガルから長崎に伝わった南蛮料理が天麩羅のルーツのようです。これは「長崎天麩羅」と云い、衣に砂糖、塩、酒を加えラードで揚げるもので、味の強い衣であるため何もつけずに食べるものでした。これが17世紀に関西に渡り、野菜を中心としたタネをごま油などの植物油で揚げる「つけ揚げ」に発展していきました。しかし当時の日本では油は灯明用の大変貴重なものだったため、調理に大量の油を使用する天麩羅は高級品として扱われていたのですね。一般庶民が口にするようになったのは江戸中期以降になってからです。この頃になると菜種油、胡麻油の増産が可能になったのですな。日本橋の魚河岸で商われる魚介類をごま油で揚げる「ゴマ揚げ」として庶民のあいだに浸透していったのです。天麩羅の形が出来上がった江戸時代前期にあったのは屋台で、串にさした揚げたての天麩羅を立ち食いする庶民の食べ物だったのです。串に刺したのは手が汚れないようにとの配慮から。屋台の天麩羅は天つゆと大根おろしで食べました。天つゆは共用の深鉢で、お客さんみんなが同じ天つゆをつかっていたのですが、関西の串カツみたいに「ソースの2度づけお断り」みたいな表示があったか定かでありません。値段は1串4文(66円)でたいへん求めやすい値段だったのですね。天麩羅が屋台料理として定着した理由は、町人が住む長屋が密集し火事の多い江戸では,油を熟する天麩羅の屋内営業が禁止されたためだったのです。また天麩羅は油で揚げるため煙やにおいが出るので、換気のためには屋外の屋台の方が便利だったようです。それが結果的に、気軽に立ち寄れる屋台の天麩羅という、江戸独特の風物を花開かせることとなりました。画像は「近代職人尽絵詞」に描かれている「屋台の天麩羅屋」庶民の食べ物として根づいた天麩羅でしたが、時代が下るとともに高級化が進み、安政期(1854年~1859年)の頃には店構えの天麩羅屋が現れ、また料亭でも出されるようになりました。さらに客の家まで出張して、目の前で揚げる天麩羅屋もいたのです。屋内での天麩羅を禁じる法令は依然続いていましたが、儲けが優先で、この頃は幕府の威光も落ちていたので無視されたのですな。明治に入り料亭や天麩羅専門店が広がると共に大阪にも天麩羅が伝わります。大正には関東大震災で職を失った天麩羅職人が地方に移り江戸前の天麩羅を広めることとなったのです。また関西の職人が上京したことによって、野菜揚げに塩をつける食べ方も東京に広がりました。その頃になると屋台の天麩羅屋は姿を消して、天麩羅専門のお店が増えていったのです。画像は東京は台東区日本堤に明治22年からある「土手の伊勢屋」です。創業当初は一般食堂で、場所が吉原大門の傍だったことから朝から晩まで吉原の客で賑わったそうです。それからメニューを最も人気のあった天麩羅に絞り込み、近くの隅田川河口などで獲れた新鮮な魚を漁師が運び込むと、すぐに捌いて天麩羅に揚げていました。名物タネの一つである「穴子」は、生きたまま仕入れて注文を受けてから捌くそうですよ。天麩羅にも関東風と関西風があります。関東風の天麩羅は卵を入れた衣を胡麻油で揚げたもので、こんがりキツネ色に仕上がる「黒天ぷら」が特徴です。一方関西風の天麩羅は卵を入れない衣をサラダ油で揚げたもので「白天ぷら」が特徴です。もともと関東では江戸前でとれた魚を天麩羅にしていたので、魚の臭みをとるために胡麻油で揚げるようになったのですな。関西は野菜中心であったため、自然の味を生かすため天つゆではなく食塩をつけて食べるようになったと云われています。第2次世界大戦後の沖縄では、物資不足の時代、食用油の代わりに機械油が天麩羅を揚げるために用いられたいられました。これを「モービル天麩羅」と云います。沖縄の揚げ物で「てんぷらー」(語尾を伸ばす)と云うのがあります。沖縄で天麩羅と云うとこの食べ物を指すことが多いです。衣に味付けをして、ウスターソースで食べるフリッターですな。タネは白身魚や野菜、海草、芋など。衣には大量の卵を使用し、衣は厚く黄色いです。衣に塩味もついてます。魚屋や駄菓子屋で販売されており、店先や持ち帰って食べますが、モチモチした食感が特徴らしい。今日、日本を代表する天麩羅店と云ったら「天ぷら 近藤」でしょう。ミシュランで星を獲得してるし、メディアでも頻繁に紹介されて今や予約は数ヶ月待ちという名店です。池波正太郎が「近藤」の天麩羅をこよなく愛して、近藤さんは池波正太郎とお客以上のつきあいをしたらしい。池波正太郎が亡くなった今でも正月には残された家族に毎年、お節料理を届けているそうです。川端康成も「近藤」の顧客のひとりでした。この「近藤」で絶品なのが「さつまいも」の天麩羅らしい。よく薩摩芋は薄い輪切りにして揚げるけど、美味しくないと近藤さんは嫌いだったのです。ところが焼き芋にすると美味しい。と云う訳で「近藤」の薩摩芋の天麩羅は10cm くらいの切り株状の薩摩芋を油のなかで転がしながら30分以上かけて揚げるんですな。こうすることによって本来の甘みと風味を内部に閉じ込めることが可能になったとか。画像が「近藤」の薩摩芋の天麩羅。中之島公園の猫たち-「SAVE THE CATS IN NAKANOSHIMA PARK-」整備工事で閉鎖になった大阪の中之島公園。そこに暮らしてた約70匹の子供たち。心あるボランティアのご尽力で「猫の部屋」と呼ばれる仮住まいを得ることができました。すこしずつ里親さまも決まってきてますが、まだまだ多くの子供たちが良いご縁を心待ちにしています。なを「中之島公園の猫たち」では恐縮ですが現金によるご支援は一切お断りしております。「公園ねこ適正管理推進サポーター制度」が実施されています。そちらのリンクもありますので、大阪市在住の方はぜひ見てください。
Oct 5, 2015
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ここんとこ食べ物ルーツのお話しが続いていますが、江戸の名物と云えば「寿司」「天麩羅」「鰻」でしょう。と云うことで、きょうはこの中から「寿司」話を。「鮨」「鮓」「寿司」。いずれも「すし」を表す漢字ですが、もとは違う食べ物を意味しました。「鮨」と「鮓」は古い中国の文献に登場します。「鮨」は紀元前5世紀~3世紀の文献で「魚のしおから」のこと。「鮓」は3世紀になると「塩と米で発酵させた漬けもの」と説明されている。「寿司」は日本で江戸時代から使われ始めたのですね。古代日本のすしは「塩と米で発酵させた魚」のこと。要するに「なれずし」で、中国からメコン川流域にかけての文化です。それが日本に伝わり、海産物を米と一緒に漬けたなれずしが生まれました。飛鳥時代にはイガイやアワビ、奈良時代にはアユのほか鯛のなれずしがあったとされてます。なれずしは、米が発酵してどろどろに溶けるまでつけ込んで作られましたが、これが室町時代になると発酵させる期間が短くなり、溶けずに残った米も捨てずに食べるようになりました。いわゆる「生なれずし」です。江戸時代半ばの18世紀には、生なれずしに酢などを入れて発酵を早めるようになります。これが発酵させずに酢で酸っぱくした食べ物へと変わっていきました。その後、握りずしの原型の一つといわれる「柿の葉寿司」や「笹寿司」が誕生。酢でしめた魚を酢飯にのせ、柿やササの葉でくるんで強く押したものです。画像は「柿の葉寿司」と「笹寿司」こっちは江戸の寿司屋台です。「押し寿司」が 売られていたようです。「寿司」といえば、もともと京都、大阪では「押し寿司」であったものが、江戸では当初こそ同じでしたが、そのうち「握り寿司」のみになりました。京都、大阪風の押し寿司に代わって酢でしめた飯の上にわさびを使い、ネタを乗せた現在のスタイルの握り寿司の元祖は文政7年(1824年)に東両国 回向院前に華屋の屋号で創業した小泉与兵衛と云われています。ただ握る寿司というのは与兵衛以前にもあったようです。しかしそれは小さく握った飯の上に魚を貼り付け、箱の中で笹の葉の仕切りがしてあった、要は「箱寿司」だったのですね。この手間と、押し付けることで魚の脂分が抜け出てしまうのをきらった与兵衛が考えついたのが、現代われわれが知っている握り寿司で、当時は「握り早漬け」と呼んだといいます。与兵衛鮨のすし飯は粕酢を使います。1個分のシャリが約50g と現代の約2.5倍、酢の量は約半分でした。冷蔵庫のない時代なので全体に塩が効いていたとのこと。華屋の流れを汲む両国与兵衛寿司は維新後も明治から大正にかけて営業していましたが、関東大震災以後没落し昭和5年(1930年)に閉店しています。画像は再現された与兵衛寿司の屋台。江戸三鮨と謳われた寿司屋があります。ひとつは先に述べた「与兵衛寿司」そしてあと二つが「松が鮨」と「毛抜鮓」。「松が鮨」は文政13年(1830年)に深川の安宅六間堀(現在の新大橋近く)に堺屋松五郎が創業した寿司屋で、地名から「安宅の鮓」とも呼ばれました。玉子は金の如く、魚は水晶のようだと、その華麗な色彩感がたちまち評判となり、権家の進物品として引っ張りだことなり、やがて江戸中で最も贅沢な寿司であると謳われるようになりました。しかしそのあまりの贅沢ぶりから天保の改革で水野忠邦の発した倹約令に触れて、与兵衛寿司とともに処罰を受けています。歌川国芳による錦絵「縞揃女弁慶 松の鮨」に握り寿司と押し鮓が描かれています。「毛抜鮓」は幸運なことに今でも営業しています。今日主流の握り寿司や巻き寿司に比べて歴史が古く、それ以前の押し鮓や馴れ鮓の形態を色濃く残しているもので、笹の葉で巻いた押し寿司の一種ですね。保存食とするため飯を強めの酢でしめてあるのが特徴で「笹巻毛抜鮓」と呼ばれるこの寿司は江戸時代中期、赤穂浪士の討ち入りがあった元禄15年(1702年)に越後の新発田 出身の松崎喜右衛門が現在の人形町に店を構えたのが始まりです。今は小川町に場所を移して営業してます。ここの名物「笹巻毛抜鮓」のネタに「小鯛」がありますが、鯛の小骨だけは酢でしめても柔らかくならないので毛抜きで抜いていて、それが「毛抜鮓」の名前の由来となりました。寿司を笹で包んでいるのは、古くは兵糧を包むのに殺菌作用がある笹が使われていたという云い伝えに初代が習ったものです。作ってから3時間ほど置いてからの頃合いの方が美味しいそうです。そういう訳でお店は基本「お持ち帰り」が専門です。都営新宿線小川町駅の近くにお店があります。寿司ネタの王さまマグロは当初、非常に下賎な魚とされ、肥料用だったのですね。江戸時代は長崎県の五島列島でマグロ定置網漁がさかんでした。江戸まで運ぶのに7日以上。傷みが来て臭い。下賎も何も食えるわけがない。ところが天保年間に飢饉があったのですが、このとき江戸の近くでやたらにマグロが捕れました。東京湾内まで押しかけたといいます。それで食って見ると旨い。で、余ったものを醤油に漬け込む保存法ができました。これが「ヅケ」ですね。ところがトロは脂肪分が多く醤油が染み込まない。ゆえに保存が悪いと嫌われ肥料にされたと書いてあります。トロという呼び方は、大正時代のなかばに「トロリとする」からと「日本橋吉野鮨」でサラリーマンが云いだして広まったそうです。それまでは脂身の言葉から、大あぶ、中あぶ、などと。太平洋戦争前は赤身のほうが2~3割高価だったそうですよ。画像は江戸時代の屋台寿司屋。江戸の寿司が完成した後も、各地に独自の寿司文化がありました。ではなぜ江戸風の握り寿司が全国に広まったのか?敗戦後の食糧難時代「外食なんてとんでもない!」と「喫茶店」「旅館」「外食券(配給許可証のような券)」「食堂」を除き外食が禁止され、寿司屋は失業状態になったのですね。東京の寿司組合は連合国軍総司令部との交渉に成功したのですが、これが「食品加工の請負」として許可を取ったのです。お客が1合の米を持参すると10個の寿司に加工する仕組み。ところが同じ寿司でも、巻物や箱寿司は加工費として数えられない。それで「握り寿司」だけが許可になったと云うワケで、全国統一で寿司と云えば「握り寿司」となったそうです。画像は昭和5年(1930年)東京神楽坂に出ていた屋台のすし屋。中之島公園の猫たち-「SAVE THE CATS IN NAKANOSHIMA PARK-」整備工事で閉鎖になった大阪の中之島公園。そこに暮らしてた約70匹の子供たち。心あるボランティアのご尽力で「猫の部屋」と呼ばれる仮住まいを得ることができました。すこしずつ里親さまも決まってきてますが、まだまだ多くの子供たちが良いご縁を心待ちにしています。なを「中之島公園の猫たち」では恐縮ですが現金によるご支援は一切お断りしております。「公園ねこ適正管理推進サポーター制度」が実施されています。そちらのリンクもありますので、大阪市在住の方はぜひ見てください。
Oct 4, 2015
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世界でイチバン老舗の多いのは日本です。日本で200年以上の歴史をもつ企業は3,000社を数えます。この数は3,000年の歴史を誇る中国でも9社、インド3社、韓国0社、ヨーロッパで歴史の古いドイツで800社、オランダ200社と比べても突出して多いのです。アメリカでさえ14社もあるんですから、逆に中国の数字と云うのは異常ですな。これが制限を緩くして創業100年超となると中国では40社。対する日本は2万7,441社。勝負になりません。それどころか日本には創業千年以上の企業が7社もあるんです。世界で最も古い企業は大阪の四天王寺さんの門前にある「金剛組」です。どれくらい前に創業したかというと、江戸時代をはるかに飛び越えて平安時代、奈良時代も飛び越えて、何と西暦578年で飛鳥時代になります。金剛組は百済の人で、聖徳太子が招聘されたとされている金剛重光によって、四天王寺建設のため創業されました。この時代って、世界史から見るとどんな時代?イギリスではアルフレッド大王(849年~899年)がイングランドを統一する300年も前のことです。ヨーロッパではゲルマン民族の大移動がようやく終息し、中世と呼ばれる時代が始まった頃でまだ騒然としています。マホメットがイスラム教を開設したのが610年。つまり金剛組はイスラム教より歴史の古い企業なんです。ただ金剛組は2008年に破産廃止になって、高松建設の子会社になっています。いったい何故こうも老舗企業が日本には多いのでしょう?近江商人の家訓に「三方よし」と云うのがありますね。「売り手よし、買い手よし、世間よし」つまり売り手(企業)と買い手(お客さま)だけぢゃなくて、世間からも「必要とされる」精神が老舗企業には根付いていたのです。世界のトヨタも最初は家族経営でした。創業者である豊田佐吉さんが遺した遺訓の中で「家庭的に美風」を残すことを述べています。経営者と従業員という関係を越えた信頼を遺訓にしているのです。JALの御巣鷹山事故のとき、松下電器の社員が大勢亡くなりました。松下電器の社葬にJALの営業部長が行ったとき、土下座も覚悟していったのに、丁寧に来賓席に案内されました。松下電器にとってJALはカーゴでお世話になっているから。これってヘンと思いません?カーゴを使っているのは松下電器です。要するに松下電器がお客さまの立場、そのお客さまのグループ社員を大量死させた企業に対してあくまで丁重な応対。ここに日本の老舗企業のすごさがあるのです。こうした日本独特の企業風土もアメリカ化されて、だんだん薄れてきましたね。昔の経営者は売上が下がると当たり前のように田畑屋敷をうり、生命保険をも解約してまで、従業員の給料を払い、あるいは取引先への支払いにあてました。しかしアメリカ型の企業経営者に「身銭をきる」という発想はありません。法人と個人は別人格であり、あくまでそれは「契約」なのです。企業とは最小限の投資で、最高の利益をめざすもの。だから儲からない会社を続ける利点は1つもありません。なので長く商売をする前にさっさと店じまいをしてしまうと云う発想がアメリカ型の経営風土です。だから老舗企業なんて残るワケがない。そんな企業ばかりに日本もなりつつあると云うことです。フランスのパリにエノキアン協会と云う経済団体があります。協会への加入資格は...1. 創業以来200年以上の社史を持っていること。2. 創業者の子孫が現在でも経営者、もしくは役員であること。3. 家族が会社のオーナーもしくは筆頭株主であること。4. 現在でも健全経営を維持していること。の4点です。日本の企業5社が選ばれてここの会員になっています。国別の内訳はイタリア14社、フランス12社、ドイツ3社、オランダ2社、北アイルランド1社、日本5社、ベルギー1社、スイス2社で、そのうち最も創業の古いのが石川県粟津温泉の温泉旅館「法師」なんです。創業は718年。他の日本企業4社は1530年創業おなじみの「虎屋」1637年創業の「月桂冠」1669年創業の「岡谷鋼機」(鉄鋼、機械などを扱う商社)そして赤福餠でお馴染み「赤福」。こちらは1707年創業です。こんな老舗なんです。2007年の賞味期限の偽装事件で「赤福」は自分の顔にドロを塗ったワケですな。しかしエノキアン協会に登録されてなくても、日本には老舗企業がドッサリ。京都で「あぶり餠」で有名な「一文字屋和助」は1000年の創業。酒造メーカーでエノキアン協会に登録されてるのは「月桂冠」の1637年ですが、茨城県小原には日本最古の酒造メーカーがあります。1141年創業の「須藤本家」です。お茶は京都の「通圓」が1160年創業でイチバン古いです。旅館でエノキアン協会の登録は718年創業の粟津温泉「法師」ですが、実はもっと古い旅館があって、それが705年創業の山梨県西山温泉「慶雲館」。この旅館は世界最古のホテルとしてギネスブックにも載っています。そんな立派な企業でなくても、池袋からほど近い「鬼子母神」の境内にある日本最古の駄菓子屋さん「上川口屋」。創業は天明元年(1781年)と云うから今からざっと230年前の創業です。現在の店主で13代目と云う老舗中の老舗なんです。ここの看板ネコは「石松」くん(ミミちゃんぢゃないですよ~)片目が悪いので、森の石松から名前をいただいたとか。2012年で15歳ですから、まだ健在かどうか分かりません。中之島公園の猫たち-「SAVE THE CATS IN NAKANOSHIMA PARK-」整備工事で閉鎖になった大阪の中之島公園。そこに暮らしてた約70匹の子供たち。心あるボランティアのご尽力で「猫の部屋」と呼ばれる仮住まいを得ることができました。すこしずつ里親さまも決まってきてますが、まだまだ多くの子供たちが良いご縁を心待ちにしています。なを「中之島公園の猫たち」では恐縮ですが現金によるご支援は一切お断りしております。「公園ねこ適正管理推進サポーター制度」が実施されています。そちらのリンクもありますので、大阪市在住の方はぜひ見てください。
Oct 4, 2015
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私は関西人ですが、うどんよりお蕎麦が好き。お蕎麦でも信州蕎麦とか出雲蕎麦のようにしっかり蕎麦粉のきいたのがいいです。関西のお蕎麦はやたら柔らかくって、小麦粉がたっぷりでぜんぜん美味しくない。福井の越前蕎麦も美味しいけど、これもちょっと柔らか目かなぁ。東京なんかでよく食べられてる「更科蕎麦」も柔らかめでイマイチ。「蕎麦」の漢字に「麦」が入っているのは、承平年間(931年~938年)に編纂された辞書「和名類聚抄」にソバのことを久呂無木(クロムギ)と表記し、ソバを「麦の一種」として紹介しているからですもちろんソバは麦の一種ではなく、タデ科の植物ですから、これは誤りなんですな。奈良時代や平安時代さらに鎌倉時代なんかでもソバは天候不順による不作、飢饉に備えるための「救荒作物」としての性格が強く、下層階級の救荒作物や山暮らしの人々の食べ物でしかなかったのですね。鎌倉時代の「古今著聞集」には平安時代中期の歌人 菅原道命(菅原道長の甥)が、山の住人に蕎麦料理を振る舞われて「食膳に据えかねる料理を出された」と慨嘆したというエピソードが収載されているくらいです。ひとつには古くは粒のまま粥にしたり、蕎麦掻きや、蕎麦焼きなどとして食すのみだったからかも知れません。麺の形態に加工する蕎麦切り(現在のお蕎麦)の調理法は、16世紀末あるいは17世紀初頭まで待たなくてはなりません。17世紀中期以降に、蕎麦は江戸を中心に急速に普及し日常的な食物として定着していったのです。現代ではお蕎麦屋さんへ菓子を買いに行くことは考えられませんが、元禄までは菓子屋が副業として蕎麦屋やうどん屋を兼ねていたのですね。屋台形式のお蕎麦屋さんは江戸時代後期に書かれた「三省録」などに寛文4年(1664年)に「けんどん蕎麦切」の店が現れたとの記述があります。これらの屋台のお蕎麦屋さんは、時代や業態によって二八蕎麦、夜鷹蕎麦、風鈴蕎麦などとも呼ばれました。ちゃんとしたお店のお蕎麦屋さんが初めて文献に載るのは文政12年(1829年)の「文政町方書上」に「蕎麦屋が3軒あったと記載されているうちの1軒が寛永18年(1642年)から店を構えていた」と記されています。画像は町はずれの街道にあるお蕎麦屋さんで、馬方、旅人相手の粗末なお店です。床口でそばを食べているのは馬子です。画像は「かつぎ、そばの出前持ち」「かつぎ」は天保3年のもので、それから24年たった嘉永6年のものが「出前持」です。「かつぎ」はこの「出前持」になる前の姿で、天秤棒に入れたけんどん箱をかついで反対の方の棒の先に「つゆ」の入った徳利をぶらさげています。こっちは「摂津名所図会」に描かれている江戸時代の大阪のお蕎麦屋さんです。蕎麦は関東、うどんは関西といわれますが、絵のようにこれほど大きなそば屋は当時の江戸にもなかったでしょう。注文を運ぶ女中さんはお仕着の着物に前掛をしています。近畿における蕎麦どころの筆頭は兵庫県豊岡市出石町で、皿そば「出石そば」は広く知られています。これは江戸時代に蕎麦の本場だった信州上田藩の藩主 仙石政明が出石藩に国替えとなった際、大勢の蕎麦職人を連れて来たためです。京都で有名なニシン蕎麦は幕末に生み出されたものであり、古くから京都にあった惣菜である「ニシン昆布」に発想を得ています。全体的に見れば、大阪や京都は蕎麦よりうどんの方が好まれる傾向にありますが、蕎麦屋であってもうどんも提供するところが多いので、ダシは元来うどんに用いる前提で作られた淡口醤油を使った透き通ったものを用いることが多いのです。それによって生まれた文化もあり、たぬき(油揚げの乗った蕎麦)やとろろ昆布が乗った「こぶ蕎麦」は大阪が発祥なんですな。江戸時代後期の「守貞漫稿」には当時のそば屋のメニューが記されています。「御膳大蒸籠」は大盛り蒸しそば。蒸籠に盛って蒸器に入れて蒸すものです。48文は今で960円くらい。「かけ蕎麦」の語源は、蕎麦に汁をぶっかけて提供するからで当初は「ぶっかけ」と呼んでいたのが下の2字をだけとって「かけ」になったのですな。16文は現代で320円。「あんかけ蕎麦」も16文で320円。「あられ蕎麦」と云うのは「あおやぎ(ばか貝)」の小柱をのせたもの。小柱を沸騰した湯にくぐらせて霜降りにし、あられに見立てて使うところからきました。24文ですから480円。「てんぷら蕎麦」は芝海老のかき揚げが入ってるものです。現在のような大きな海老の天ぷらは戦後、輸入物の海老が手に入りやすくなってからのことです。32文で640円。「花巻蕎麦」は「浅草のり」を焼いてもみ、その一片一片を桜の花弁に見立ててかけ蕎麦にトッピングしたものです。24文480円。「しっぽく蕎麦」卵焼き、蒲鉾、椎茸、鶏肉をのせたもので、上方のしっぽくうどんと同じです。24文480円。「玉子とじ」が高いですねぇ。32文は現代では640円。かけ蕎麦の値段が16文だったのはかなり長い間だったと云います。「明和・安永期(1764年~1780年)以降ずっと1杯16文で売られてきたかけ蕎麦が、幕末の頃には24文と値上がりしたそうです。16文という一見、中途半端な値段設定は明和5年(1768年)に発行された4文銭の高い人気によるものです。4文銭は鋳造直後は色が黄金に似ていることから高い人気を得て、物の値段に4の倍数が増えたのですな。醤油が普及していなかった江戸時代初期には、お蕎麦は茹で上がった麺に大根などの辛みをからませダシ汁をかけて食べるのが普通だったようです。たっぷりの熱い汁の中に麺を入れて食するようになったのは、もう幕末近くのこと。このように江戸時代は屋台蕎麦が大流行しましたが、明治になると激減し、代わって鍋焼うどんの屋台が増えます。屋台の蕎麦は火種の火力が弱いので汁がぬるいが、土鍋で煮込む鍋焼うどんは冷めないので人気が出たのです。鍋焼うどんは幕末の大坂で流行り出したものが、明治7~8年ごろに江戸(東京)に伝わって広がったと言われています。特に明治11年に西南の役が鎮圧された後に、東京の下町辺りでよく食べられるようになったようです。明治13年の読売新聞の記事に「近頃は鍋焼きうどんが大流行で、夜鷹蕎麦を食べる人は少なくなった。府下に鍋焼きうどんを売る者は863人いるが、夜鷹蕎麦屋は11人まで減ってしまった」と記されています。画像は大森貝塚を発見したことで有名なエドワード・S・モースが撮影した明治時代の蕎麦屋台です。よく云われる話に「ざる蕎麦」と「もり蕎麦」がありますね。上に海苔が散らしてあるかどうかで値段に100円~200円の違いがある?ど~なってるのよ。そばつゆで「ざるそば」には「昆布」だしを使い「ざる」に盛ったもの。江戸時代、昆布ははるばる北海道から運ばれて来た高級品だった。対して「もり蕎麦」は「鰹」だしを使い、丼に「盛った」ものってのが昔の話にありますが、今どき「ざる」と「もり」でそばつゆを変えるのでしょうか?結論から云うとざるに入れたそばを「ざるそば」、セイロに山のように盛ったそばが「もりそば」。海苔の有無は全く関係ありません。だから値段に格差をつけるのはオカシイ...中之島公園の猫たち-「SAVE THE CATS IN NAKANOSHIMA PARK-」整備工事で閉鎖になった大阪の中之島公園。そこに暮らしてた約70匹の子供たち。心あるボランティアのご尽力で「猫の部屋」と呼ばれる仮住まいを得ることができました。すこしずつ里親さまも決まってきてますが、まだまだ多くの子供たちが良いご縁を心待ちにしています。なを「中之島公園の猫たち」では恐縮ですが現金によるご支援は一切お断りしております。「公園ねこ適正管理推進サポーター制度」が実施されています。そちらのリンクもありますので、大阪市在住の方はぜひ見てください。
Oct 3, 2015
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きのうの大阪は夜半過ぎからすさまじい風と雨。今年来襲したどの台風よりもえげつない嵐にみまわれました。今、私の住んでるマンションは水道の本管工事で、マンションの庭に仮設の工事事務所と資材置き場を設置しているのですが、その資材置き場の囲いがみんな風でなぎ倒されていました。世界初の居酒屋のことはバビロニアの法律集ハンムラビ法典に記述されてます。紀元前18世紀のバビロニア、古代オリエントには既に居酒屋が存在していたとされてるのです。当時のバビロニアでは利益を得ることは下賤行為とみなされたため、大麦で代金をとる居酒屋は上流階級から白眼視されていたようです。ハンムラビ法典には居酒屋での謀(はかりごと)の禁止や尼僧の来店禁止など細かい規定がありましました。時代が進んで古代ローマの居酒屋兼宿屋は「タベルナ」と呼ばれ、宿屋と共に厩が併設されました。軒に酒の神バッカスの化身であるキヅタの枝束を吊るして看板としていたようで、ほかにも熊や鷲、オリーブ、車輪、剣がモチーフになりました。日本で云えば酒屋の軒先に「杉玉」を吊るしておくようなモンですかね。日本では古事記の時代には役所の管轄で酒の醸造が定着していたようです。797年に書かれた続日本紀には、葦原王が酒屋で酔って殺人事件を起こした記録が残っています。平安時代から室町時代にかけて民間業者が醸造を行うようになり「醸造屋」と呼ばれるようになりました。しかし当初は貴族階級向けで、武士階級に酒を提供する醸造屋が現れたのは鎌倉時代。ようやく商人階級に酒類を提供する醸造屋が登場するのは鎌倉末期のことです。室町時代になると醸造屋は酒類の提供とともに金貸しをやっており、それから醸造と提供の分離が始まり、酒の提供に特化した「酒屋」や茶も出す「茶屋」が登場するようになるのです。居酒屋の本格的な発展は江戸期の元禄・寛政年間の頃からです。酒の小売は客が持ってきた容器に入れて売る。家に帰るまで待ちきれない客の要望に応える形で享保年間(1716年~1735年)に酒屋の店先での立ち飲みができるようにしたのがこうした居酒屋の元になってるのですな。ここからお酒だけではなく、酒の肴に田楽を売り出した豊島屋が立ち売りを発展させ評判となり居酒屋や煮売酒屋が続出したのです。ちなみに江戸時代では空樽は再利用され1樽約1匁(65樽で1両)で取引されました。そのため豊島屋では酒を安く飲ませることで大量の樽をカラにして利益を得ていたのです。酒屋で飲む行為を「居続けて飲む」ことから「居酒」。なので「居酒屋」。そのサービスを行う酒屋は売るだけの酒屋と差別化するために「居酒致し候」の貼紙を店頭に出していました。上の画像は近江屋と云う居酒屋。のれんには「おすいもの」「御にざかな」「さしみ」「なべやき」とメニューが書かれています。下の画像は煮売り酒屋。かならず残り物を狙った犬が登場します。中央上部に魚や鳥など食材がぶら下がっています。「煮魚」「酢タコ」「レンコン煮物」「サトイモ煮ころがし」などを砂鉢、砂皿に盛りあげ、客が好みでとりわけるシステムです。「アンコウ」なども一般的だったらしい。煮売り屋はもっぱら食事に重点。酒をまったく置かぬ店も。また呑むほうへ重点を置いたのが「煮売り酒屋」です。飲食は、ほとんどが畳の上に座り、せいぜい今でいう「お盆」をつかう程度です。現在でいう食卓はありません。当時はすべての飲食が畳の上などで行われていたのです。この頃の酒器はちろりとお銚子。お銚子は結婚式の三々九度に使うタイプで、現在の「お銚子」は「燗徳利」といいます。居酒屋ではチロリと呼ばれる金属性の道具を使ってました。なお酒の価格は、イチバン安いところで酒1合が4文。時代が下ると4文屋の図絵も出てきます。これは何でも4文均一。現在でいうと400~500円ですね。池波正太郎の小説「剣客商売」はなんどかTVドラマ化してますが、ここに「鬼熊酒屋」と云う居酒屋が登場します。ここはご多聞にもれず酒屋から派生したものです。作中のすぐ後の寛政年間(1789年~1800年)には煮売酒屋が盛んになっていきました。現代の居酒屋と違って店内は薄暗かったのが普通です。東京の小金井公園内に「江戸東京たてもの園」と云う野外博物館があります。銭湯「子宝湯」は映画「千と千尋の神隠し」の油屋のモデルのひとつになったとも云われています。その銭湯の隣に居酒屋「鍵屋」があります。このお店は台東区の根岸にあった江戸時代からある有名な店らしいですが、「江戸東京たてもの園」では年に1回だけ本当に営業するそうです。居酒屋メニューで人気の定番はアブ玉でした。播磨屋という居酒屋がアブ玉(吉原名物。油揚げを細く切り、上に卵をかけ熱したもの。つまり油揚げの卵とじ)をメニューに載せたのが最初です。豆腐が拍子木に揚げてあるのですが、こいつが中々の評判で、吉原通いが行き来にこの播磨屋に寄るってのが定番中の定番だったのです。酒2合にアブ玉で飯を食って、勘定が150文でした。土産にもって帰る者も居たらしいですよ。余談ですが、病の親の薬代のために娘が吉原へ身売りすると、身売代は現代で330万円。それが夫の窮地を救うために妻が吉原へ身売りすると、身売代は528万円にハネ上がります。なぜ違うのかは分かりません。ちなみにこの時代の不倫の示談金は49万5,000円が通り相場でした。こうした居酒屋も明治時代になると文明開化の名の下、ビールなど洋酒が流入し、1899年には銀座に「恵比寿ビアホール」が設立されるのです。中之島公園の猫たち-「SAVE THE CATS IN NAKANOSHIMA PARK-」整備工事で閉鎖になった大阪の中之島公園。そこに暮らしてた約70匹の子供たち。心あるボランティアのご尽力で「猫の部屋」と呼ばれる仮住まいを得ることができました。すこしずつ里親さまも決まってきてますが、まだまだ多くの子供たちが良いご縁を心待ちにしています。なを「中之島公園の猫たち」では恐縮ですが現金によるご支援は一切お断りしております。「公園ねこ適正管理推進サポーター制度」が実施されています。そちらのリンクもありますので、大阪市在住の方はぜひ見てください。
Oct 2, 2015
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