全645件 (645件中 1-50件目)
訪問介護の仕事を始めて1年が過ぎて今年も頑張ろうと思っていたら要介護5のご利用者TKさんお正月休み明けからご家族の方から徘徊が酷いので施設でお世話になる事にしましたと事業所に連絡があったとのこと。事業所からそれを聞かされた私は突然のお話にびっくりするやら寂しくなるやら。今年も気持ち新たに頑張ろうとハツラツとしていたのに・・・。お顔もみないまま、お元気でねとお声もかけられないままのお別れはちょっと寂しいものがあるなと。この仕事の宿命?かもしれないと受け止める外なかった。そして、間なしに事業所からりよえりさん、件数をふやしませんか?との打診。候補はいくらでもあるのですが・・・とのこと。このままでいいと思いながらも3人態勢で入ってもらっている方の中でお友達である先輩もその中の一人と聞いてご訪問させて貰うことにした。17年生まれの男性の方。要介護2で脳梗塞を2回されて少し麻痺が残っておられるご様子。お一人で生活されている。最初は同行して仕事の流れを倣う。手押しのショッピングカートで買い物に行ったり病院へ行ったりはご自分でされるとの事。デイサービスは週2回ご利用。(と言っても要介護2では限度だろう)やはり、お一人の生活食べることはお惣菜を買ったりで心配はないけどお掃除や片づけ等細かな所は気になりながらもなかなか思うようにならないのだなと感じた。お掃除等もその方が気持ち良く生活してもらう為にも気を付けてあげなければと思いました。お友達と介護の仕事の事で話す機会がありヘルパーの仕事の大切さを力説した。「もっと、介護保険をみんなが使えるようになればいいのに・・・」するとお友達が「りよえり、介護認定を受けて制度を利用できる人はまだ幸せなのよ。 お金がない人は利用できない。そんな人いっぱい居られるよ。 老々介護をされている方は特に大変だと思う」そうなんだ・・・あなたの知らない世界まだまだ沢山あるりよえり。考え込んでしまった。私が出来ることお役に立ちたい。
April 16, 2018
コメント(0)
月 2回のエレクトーンのボランティアをすることになって 今日は2回目です。 先月は3階フロアーで。 今回は2階フロアーで。 2階のフロアーは男性が多いように思いました。おやつの時間に曲を流すのですが、皆さん、テーブルについて待って居られる様子。困ったなぁ~。そんなに注目されると上がってしまって弾けなくなる。そんな事を思いながら用意をする。2階フロアーの方々はなんだか反応がすごい。手拍子も取られる。その内、手拍子ではない ピチャピチャとした叩く音が聞こえる。???うん? あれは・・・手拍子の音ではないような・・・頭を叩いて居られる音のよう?弾きながら思わず吹き出しそうになる。どうも私の目の前に居られるような気がする。見るまい、見るまい と 笑いを必死に堪えて演奏を続ける。スキンヘッドの方 居られたのかしらん???確認する余裕もなく本日の演奏会は終わりました。1回目の写真を見ると緊張気味の私は必死になって顔がこわばっていた。これじゃだめだ。スマイル、スマイル。曲にのって楽しそうに弾かないと。今日はとんだ? スマイルとなりました。 ~♪ 9月の曲 ♪~ ☆ 川の流れのように ★ 時の流れに身をまかせ ☆ トップオブザワールド ★ ムーンリバー ☆ ピアノソナタ 第8番 「悲愴」
October 4, 2017
コメント(2)
エレクトーンを習い始めて1年半。いつか…いつの日か施設でボランティアとして聴かせてあげられたら…と思うようになりました。そのためにはレパートリーを増やさなければ。もっと練習をしなければと力が入るようになった。エレクトーンの先生にお話しすると「それは素晴らしいですね。是非、是非。応援します!」と言ってくださった。練習を重ねてもレッスンに通ってもなかなか思うように弾けない。頭が手が足が体がついて行かない。そうこうしている内に頭がボケてしまうのでは???と不安になってきた。「うん? これはボヤボヤしているとその機会を逃すのでは?」まだまだ習い始めて年数も浅く初心者でお聴かせ出来るほどではないのですが厚かましくも決心することに。話を進めよう。意を決して母がお世話になった施設にお話しに行った。快く受けて下さり施設でのおやつの時間にBGMとして弾くことになりました。2017年9月5日 「りよえりエレクトーン演奏」 デビュー しました。一人で行くのは不安でお友達に電話して一緒に行って貰いました。心臓が破裂しそうです。自分の曲が聞こえません。感情こめて弾けているのかさえも。トホホホ。兎に角、初めての演奏が終わりました。早々に逃げて帰りました。間違えてばかりでごめんなさい。上手く弾けなくてごめんなさい。あがり症が早く治りますように。余裕で弾けるようになるよう練習がんばります!みなさん、つたない演奏を聴いてくださりありがとうございました。月 2回 これからご訪問することにしました。 母がお世話になった久しぶりの施設で演奏。 そして、いつか 「鼻笛」もエレクトーンの曲に合わせて吹けるようにと練習しています。これもいい音を出すのは難しいです。一緒に来てくれたお友達がハーモニカを上手に吹けるよう練習したいと言っていたのを思い出しそれなら一緒にアンサンブルしようよ!もっとみなさんに楽しんでもらえるよ!とお願いしています。実現するのが楽しみです。
September 6, 2017
コメント(2)
先日、先輩のお友達から「りよえりもそろそろ訪問先を増やせば?」と言われ「まだまだと思う反面、もっと広げて経験を積まないとね」そんな会話をしていた。事業所へ「作業報告書」を届けに出向いたらいつもは不在のサービス責任者の担当の方が居られた。勉強会の話や仕事の話の流れで「そろそろ、仕事を広げようと思いますが」と言うと待ってましたとばかりにお仕事の話が。「りよえりさん、お掃除出来ますか?」「お掃除? あまり得意ではありませんが」「週1回 45分ですが行って貰えますか?」お話が決まり、先週同行させて貰ってお仕事の手順を習ってきました。そして、今週は一人で出かけました。「おはようございます!」元気ハツラツでご挨拶。初日で気合が入っています。お掃除はトイレ、お風呂場、洗面所、居間、キッチン。掃除機をかけ、拭き掃除を。掃除をしながら「これだけ一生懸命に家でも掃除をしたらピッカピカになるなぁ~」頭に浮かんだ。汗が滝のように流れる。45分があっと言う間に過ぎました。それと言うのもご利用者の方がずっと私のそばでお話をしてくださいます。お家の事、家族の事、働いていた頃のお話と。こちらはそのお話に相槌を打ったり驚いたりで会話は途切れません。おかげさまで、楽しくお仕事をさせて頂きました。またお伺いするのが楽しみです。訪問介護の仕事の内容が多岐にわたりそれぞれに創意工夫が必要だなと判りました。そして、自分自身の生活においてもとても勉強になるような気がしました。少しずつ少しずつ、仕事を頑張ります。
July 14, 2017
コメント(0)
毎月最終週の火曜日は事業所での勉強会がある。その中で「ヘルパーが出来ること、出来ないこと」がプリントされて話された。身体介護生活援助に対してであった。私はこれはちゃんと頭に入れて仕事をせねばとその説明を受けた。訪問先ではヘルパーが訪問した時に業務報告書を書いて綴ったファイルがある。訪問した時に朝は何を食されたのか、昨夜のメニューは何だったのかご様子はどうだったのかを確認した上でその日の食事のメニューを決めるので業務報告書に必ず目を通す。「今日は掃除機を掛けました」「今日はトイレの掃除をしました」とか色々書いてあったが、私の場合は仕事の手際が不味くそこまで手が回らなく時間がいつもぎりぎりになってしまっている。しかし、キッチンで調理をしながら「換気扇、埃がたまっているなぁ」「冷蔵庫やレンジなども少し汚れている」「使うのは私たちヘルパーだから私たちの汚れだろうな」とか思いながらやり過ごしていた。グッドタイミングな議題だった。気になっていた換気扇の掃除も表面を拭くくらいで取り外して徹底的に掃除をするのはNGだと。取り外し再度取り付けた時に動かなくなったらいけないと言うことだった。何でもしてあげたいと思ってしまうことよりもヘルパーが行ってはいけないことを行うことでトラブルを起こすこともあれば逆にヘルパー自身が行えることをしっかり把握していないために行わないなどと言った知識不足によるトラブルが起きてしまうこともあると。また、身体介護と生活支援のサービスの違いも把握する必要がありケアプランの指示に従う事が重要であると記されていた。勉強会後日、先輩のお友達と色々話す機会があり仕事の内容などを色々訪ねた。面接の時に言われた仕事内容は「デイから帰られた時の洗濯ものの洗濯、次の日のデイの着替え一式の用意 食事の用意、片付け、お薬服用の見守り」の等を言い渡され全く他の仕事が思い浮かばなかった。先輩の話を聞くと、色んな事を工夫され、配慮されているのにびっくりした。利用者さんの環境、状況によって自分が出来ることをするようにされている。掃除なども自分が掃除しやすいような小道具は自分で用意していく。家にあるスーパーの袋が溜まったら持って行って使ったり、何でも「これを用意してください」と言うのは簡単だけどなるべくご利用者さんの負担がかからないようしてあげようと思うと。この先輩と今同じご利用者さんを担当しているのでとても勉強になり業務報告書の字面だけでは見えない工夫や配慮を知ることが出来ました。なるほど・・・言われたことだけしか頭になかった私は何も気配りが出来ていないと反省。どこまで手を出していいのか、いけないのかをちゃんと把握してしっかり仕事を覚えなければと勉強になりました。まだまだ勉強不足のりよえり。頑張ります!
June 11, 2017
コメント(2)
仕事を始めてから何だか月日がどんどん過ぎて行く毎日。まだ自分が介護の仕事に就いたことが自身の中で問答している状態。「本当に自分が出来る仕事なのか?」と。仕事を終えて「さようなら。また明日ね」とドアを閉め自転車に乗っての帰路仕事の達成感?充実感?がない。果たしてこれでいいのかなぁ~。それでも、また仕事の日が来る。月1回、事業所では「勉強会」がある。職員の方、訪問介護をされていいる方と顔を合わせ、それぞれの色んな話を聴けるのはこの場しかないので新米の私は楽しみにして出かけた。話の中でご利用者さまが具合が悪くなられ救急車の搬送が必要になった時すぐにケアマネジャーに連絡をし、ご家族の方に連絡を取ってもらいますとの事だった。ご利用者さまの「既往症」「現病歴」「かかりつけ医」処方されている「お薬」等々を伝えなければならない。はたと自分の訪問先の方の事が頭に浮かんだ。お薬も点眼薬もある。「これは何のお薬なのか?効能は?」と気になっていたが。今回の話の中で尋ねてみた。作業日報のファイルの中に「お薬の説明」が入っているので見てくださいとのことだった。まだ仕事をこなすだけで時間が終わってしまっている現状の私はそこまで見ていなかった。そんな中で「安心カプセル」の話が。私も市の「広報」で知ったのは昨年末の事。65歳以上の独居の方に配布と書かれていたので早速市役所へ問い合わせの電話をしてみた。地域の「民生委員」の方に自宅に届けてもらうように連絡をしますとの事で1時間もしない内に民生委員の方が届けてくださった。丸い筒の中に「救急安心カード」なる紙が入っていて「氏名・生年月日・性別・血液型・・・」に始まり「かかりつけ医」「病名」「服薬内容」「緊急連絡先」や「居宅介護支援事業所名」「ケアマネジャー名」「連絡先」なども事細かに記入できるようになっている。この筒を冷蔵庫の中に入れておき、そして冷蔵庫に貼るシールまでが用意されていた。これを受け取った時、どれだけの人が「救急安心カプセル」の事を知って居られるのだろうかと思った。近頃、「お薬手帳」もありお薬の認識も深まっている。自分自身も含め「安心カプセル」は誰にもあっていいのではと思った。 「 心 の 愛 」 No.4
April 25, 2017
コメント(0)
2月、白内障の手術をした。片側ずつ2回に分けて施術したのだが、どうも最初に受けた右目に後遺症が残り少し不快な日々を送るに至っている。周りの人から異口同音に「どう? すっきりした? 良く見えるようになったでしょう?」と声をかけられる度にとても言い表せない気持ちになって心が凹む。「やっぱり右目は失敗だったのかなぁ~」少し様子をみよう・・・そんな訳で2月のお仕事をお休みさせてもらい久しぶりにご利用者さまのお宅へ訪問。いつものようにお喋りをしながらまず最初に洗濯機を回す。そして、夕食の準備。「今日は何を作りましょう・・・」「なんでもいいですよ。 すみませんねぇ」「寒いから温かいものがいいね」冷蔵庫の中の食材を見ながらメニューを考える。そして、夕食後にお薬を出してみるとお薬が増えている。????何? 何にも聞いていないけど・・・これって、申し送り、連絡事項ではない?お薬は何を処方されその効能を知りそのお薬がちゃんとあっているのかどうか短い時間ではあるがちゃんと把握してご利用者さまの様子を観察?することは大事なことなのでは?講習会で使われたテキストの中に介護職としての倫理(第1巻 人間と社会・介護1より抜粋)「介護職は人の生命や生活に関わり、人に対して大きな影響力をもっている職業です」と書いてあったけど・・・そして、「訪問介護職員は、サービス提供者、介護支援専門員との連携の下、訪問介護サービスを提供するが業務そのものは、1人の訪問介護員に集約される」とも。この項目を勉強した時はこうしてみんな守られているんだ、チームワークをしっかり守り介護職をされているのだと心打たれたのに。お薬が増えていますよ。の伝言メモも挟まれていなかった。いいのかなぁ~。 でも、飲まれているし・・・不安な気持ちを持ちながら用意されているお薬を服用してもらった。ただ、顆粒錠だったのでとても飲みづらく何度も何度もの見直しされていた。あぁ~ こんな時「トロミ剤」か片栗粉があれば楽に飲んで貰えるのに・・・今度からはお料理の中に入れてあげては?と、ない知恵を絞りながらのお仕事でした。今度の勉強会で聞いてみよう。【見上げてごらん夜の星を】No.3
March 21, 2017
コメント(3)
いつものように自転車を走らせ仕事に向かう。訪問先の最後の曲がり角を曲がり近くまで来ると男性の怒鳴り声が聞こえる。「わぁ~怖いなぁ」「知らんふり、知らんふり」と思っているとどうもその声は訪問先であった。玄関先で滅茶苦茶怒って居られる。その叱り声に圧倒されて中に入るのをためらっていた。しかし、その怒りは納まる様子もなく時間が過ぎてしまう。恐る恐る「お仕事させてもらっていいですか?」と声をかけたらなんともまぁ「どうぞどうぞ、よろしくお願いします」と声色が変わった。「良かった」と心を撫で下ろし部屋の中へ。どうも、夜中に外へ出てご近所さんのお宅?に声をかけたらしい。「お腹が空いておにぎりを貰えませんか?」と。「そんなにお腹が空くのなら、夜食のおにぎりを作って貰うように頼む」と言って居られる。でも、それは無理なんじゃないのかな?認知症の人は夕食を食べた後でもすぐに食べてしまうのでは?そんな問題ではないように思うノデスガ・・・。私たち訪問ヘルパーは仕事を終えると鍵を閉めて帰るのだが私はいつも「夜中に外へ出られませんように」と祈りながら帰路につく。徘徊はよくあるらしい。今回も私が帰った後では? と心配したが。家族の方が、「こんなに困らせるのなら、施設に入ってもらう。その手続きをする」と言って居られた。その言葉に「はい、そうしてあげてください。その方がご本人の為にもご家族さんにとっても 安心なのではありませんか?」と口を挟みたくなった。それぞれの家庭事情があって、認知症でありながら一人の生活をせざるを得ないのだろう。「地域密着型介護サービス」が奨められているが、それをうまく利用できないのか?でも、色々サービスを受けることは金銭がそれなりに絡むので誰でも彼でもが気安く利用は出来ないのが現実なんだろうな。私が出来ることを考えなくっちゃ。【Ave Maria】
March 10, 2017
コメント(2)
訪問介護の仕事を始めて2ヶ月になります。職場勤めだった私は一人で仕事をして済ませて帰る。その感覚にどうも馴染めません。職場だと解らないことがあるとその場で聞けます。仕事も見て習うことも可能です。しかし、訪問介護の独り立ちがこんなにも簡単に済まされていいのかなと不安になります。講習を受けて仕事に就くのは「施設」での仕事と決めていました。母が過ごした「施設」での生活を知るのに一番だと思ったからです。実習は「小規模多機能型介護施設」へ行きました。そこで見たのは職員の方が利用者さんに接する時間があまりにも短く机に向かって居られる時間が殆どでした。たった一日での印象で職場の事は見えません。一人でする訪問介護より職場での方が何かあった時には一人では不安と思ったのが理由です。でも、施設での仕事は時間的に無理だったので諦めました。訪問介護をして感じたのは施設では見えない「プライベート」を知る事でした。まだ私はお一人の方しか訪問はしていませんがちょっとあまりにも現実が見えすぎて色んな事に手を出してしまいそうになります。「感情移入」の心を抑えて今日も頑張るりよえりです。仕事の流れ、段取りが出来るようになりました。調理の事をもっと色々工夫して短時間で出来るもののレパートリーを増やさなくては・・・自分の生活と照らし合わせると私生活がとても甘いなと感じます。とてもいい勉強になります。
January 25, 2017
コメント(0)
2日間の同行で現実を呑み込めなくて戸惑っています。確かに「時間がない」「1対多」での訪問介護はスタンドプレーにならないよう気を付けなければなりません」「あの人はしている(やってくれる)のにこの人はしない(やってくれる)では困ります」頭の中が混乱しています。まだ始めたばかりなので現実と理想?の違いに戸惑っているのかな?考えても整理できません。お友達に定年後「訪問介護」の仕事に就かれた方がいました。たまたま「初任者研修を受けている」と話しになり色々話している内に受講している事業所に転職した事を知りました。そこで、彼女に時間をとってもらい相談してみました。どこまでしてあげたらいいの?2日間で見ている限りでは報告書の中のチェック欄に書いてある事項が抜けているところもあるけど・・・沢山の疑問と不安を彼女にぶつけました。「寒いから温タオルを出してあげるの」「寒くなったから温かいお茶を飲ませてあげたいよね」「ポットを用意してもらえないか家族さんに聞いてみようと思う」「お料理もレンチン料理ばかりではなく工夫次第で色々出来るよ」「作業をしながらでも利用者さんにお話ししてあげるよ」彼女の言葉の中から心使い、配慮を感じました。気付く人と気付かない人。配慮の出来る人と出来ない人。それが良い悪いではなく違いはここだなと思いました。彼女の話を聞いてとても心が温かくなりました。私も彼女のようにちゃんと気配りが出来利用者さんに寄り添う介護(支援)が出来たらと思いました。肉体的に大変なお仕事ですが、心も強くならなければやっていけない仕事なのではと感じました。りよえりは取り敢えず仕事を覚えなくては。「レンチン料理」の後日談。お豆腐いりのお味噌汁してみました。その作り方を直面した私は驚きと悲しさ?でびっくりしたのですが・・・インスタントのしじみ入り味噌汁にさいの目にしたお豆腐を入れました。(利用者さん宅では小さめのお豆腐をそのままだったのですが余りにも手抜きのようで 気が引けました)お水を入れて「レンジでチン」してみました。ちゃんと出来てる。「あり」だなと思いました。ちゃんと栄養価も高いお豆腐のお味噌汁。独断と偏見で物事を考えて四角四面な固い頭ではダメだよと自分に言い聞かせるりよえりでした。これから色んな事を知り、色んな発想をしてお役に立てることが出来ますように。
January 15, 2017
コメント(2)
金曜日、土曜日の続けての訪問です。金曜日はデイからのお迎えをして土曜日は送り出しです。8時15分から9時のデイのお迎えが来られるまでです。今日も同行です。先輩の方は10年以上の大ベテランの方。45分の間に洗濯物、朝食の用意をしなければなりません。時間がないので兎に角口より体が動いています。洗濯。「え?昨日したのに?」所が洗濯機を覗くと沢山入っています。なんで???それでも、洗濯機を回しました。デイの用意はしてありますが、翌々日の分も持参する日だとか。用意をしますがズボンが一枚もありません。(どうしてか、洗濯機の中に全部放り込まれていたのです・・・)先輩の方は上手に利用者さんに声をかけて作業を一緒にされています。(そうだ、出来ることはしてもらう。残存機能を引き延ばすためにも・・・だった)(なるほど・・・気を付けなければ)今日は先輩の方の作業を見て習う、なのですが45分の時間を計算されてのことなのか作業が早くてついて行けない状態でした。「時間がありません」「利用者さんとお喋りする時間もありませんよ」なんだかとても緊張してしまいました。
January 15, 2017
コメント(0)
「介護職員初任者研修」を無事終了し、その事業所の自宅に近い施設に訪問介護ヘルパーとしての登録をしました。「本当に私に出来るの?」と言う不安が募る一方で流れはどんどん前に進みます。「誰にでも出来ます」「大丈夫ですよ」「家でお掃除、洗濯、お料理されているのでしょう?」異口同音に皆さんがそう仰います。「それでいいの?」 「そんな軽い気持ちでいいの?」介護職員としての「仕事と理解」の中で家事手伝いではありません!と言われて頭にたたき込まれたんですが・・・?????? が心と頭の中で渦巻いています。兎に角、うだうだ御託を並べてないで仕事に行かなければ始まらない。はい。ご利用者さまお一人住まいで軽度の認知症の方です。17:30 ~ 18:30(1時間)その方に。お幾つですか?と尋ねたら73歳と答えられましたが・・・(本当は80歳を超えて居られました)(^_-)-☆。その方のデイのお迎えをし、夕食を作り、洗濯をして干します。食後のお薬、目薬等々・・・冷蔵庫、食器棚(食器やキッチン用具、調味料等が入っています)に鍵がつけてあります。水道の蛇口も取り外しになっています。電気のコードも使用別になっていてレンジもIHの電熱器も使えなくしてあります。押入れの中にも大きなBOXがあり、デイへの着替えやタオルが入った袋や洗濯石鹸、トイレットペーパーなどが入れてありました。初日なので先輩の方と同行で今日は見て習います。冷蔵庫を開いて「さて、今日は何を作りましょうか? りよえりさんなら、この中の食材をみて何を作られますか?」「えぇぇぇぇ~???? 私、そんな手品みたいなことできません!」レンチン料理です。(要するにレンジでチン)ハンバーグがありました。冷凍した茹で野菜がありました。お豆腐もありました。ご飯も一膳分解凍です。はい、今夜のメニューです。(このレンチン料理後日談があります(^^♪)お食事をされて居られる間に洗濯物を干します。そして、翌日のデイへの用意をして手提げに詰めます。食事を終えられた後、お薬服用、目薬、後片づけをして作業報告書を書く頃には1時間があっと言うまにきていました。全ての確認をし、BOXから出したものをBOXに終い鍵をかけて帰ります。「Tさん、帰りますね。おやすみなさい」胸が締め付けられます。胸の奥がいっぱいになりました。「認知症の方を一人で? 夜に外には出られないの?」その夜は眠れませんでした。
January 15, 2017
コメント(0)
第 3 巻 【こころとからだのしくみ】 最終段階に入りました。 ここでは午前は座学、午後は演習とセットになって講座が進みます。 いよいよ「介護職」としてのお仕事に触れていきます。 「生活支援技術」 高齢者の心理、高齢期の喪失感。 生活支援技術、居住環境整備と介護。 移動、移乗、食事、排せつ福祉用具 等々。 調理実習もありました。 (訪問介護での 調理?) ベッドでの洗髪の仕方。 アイマスクを付けて歩行誘導の仕方。 ベッドメーキングからベッドでの介助、体位交換等々。 学ぶことはどっさりありどんどん、意識が下がってしまうことばかりでした。 しかし、 「死にゆく人に関したこころとからだのしくみと終末期介護」の章で 私は母の「ターミナルケア」がここに書かれていることに一致した事を知るのでした。 「看取りに至るまでに見られる症状や 兆候とその変化」 数週間前~1週間・数日前・48時間前~直前と分かれて 食事、意識、呼吸、循環の区分でその状態が表になって記されていた。 母の最期の時、夜の10時を迎え兄姉妹は兄を付き添えに残して帰ろうと 支度をしていた。 その時に当直の職員さんが来られて 「今日はお別れになるかもしれません。帰らずに皆さん揃っていてください」 「他に連絡をしたい方があればされた方がいいかもしれません」と はっきり言われたのです。 それからどんどんと母の様子が変わりだしたのです。 手足に紫斑が表れ出しました。 最後は下顎呼吸。 テキストにすべてが記述されていました。 これを知っていれば・・・もっと母との別れが落ち着いて居れたのでは?「主の祈り」を耳元で祈るのが精いっぱいの私だった。 最後の章が私を最後まで講座に導いた全てだったように思われます。 「介護職」の方のプロ意識がここにあるのだと実感しました。 介護を職業にされて居られる方に心から尊敬し、頭が下がります。 3ヶ月の講座が終わり「終了試験」となりました。 疲れと最後まで落伍せずに通えた安堵で終了試験、全く腑抜けになってしまい エレクトーンに逃げるように没頭してしまいました。 最初は9名でしたが、お一人の方はご主人が倒れられ入院されて 次回のクラスに替わられることになりましたが 全員が合格し、介護の仕事に就かれることになりました。 若い方と接し、楽しい学びの場となりました。そして何より70代の方の前向きな姿勢にも頭が下がりました。お昼時、みんなが揃って歓談しながらのお食事タイムは楽しいひと時となりました。 色んな方とご一緒させて頂き最後まで通う事が出来ました本当にありがとうございました。 これからも共に「介護」を学んでいきたいと思います。
December 20, 2016
コメント(2)
第 2 巻【人間と社会・介護 2】ここでは介護におけるコミュニケーション技法加齢・老化に伴う体の変化と日常認知症 と 障がいの基礎的理解等が説かれていました。専門用語や介護の技術・技法などが沢山出てきました。母が認知症だったので自分の中ではなぞるような講座に母を思い出すシーンが何度もあり胸がつまりました。「老化に伴う心身の変化と特徴・からだの変化と日常」では年をとるとはどう言う事なのかを学びました。その中で講師が 「生きがい」は? と問われました。「生きがい」子育て・・・ 遠い昔に終わりました。 子供たちも独立した今。仕事・・・・・ 定年退職して早や何年?親の介護・・・・ 終わりました。 認知症の親の介護が 「生きがい」そのものだった私。 母を看送った後は抜け殻となってしまい、生きる術が無くなっていた私。今の私には「生きがい」となる事が全くないと答えた私。私たちの年齢になってもしゃんと人生を自分らしく前を向いて過ごされて居られるのに。「人生何があるかわからない」を経験し、全く自分が思いもよらない方向へ流されているような気がしてならない日々。「生きがい」ではないけれど「その人らしく、自分で決定し健康で自立した生活が送れる」ことを意識して自分らしく日々を過ごせたらいいな。レポートに明け暮れる講座。きついなぁ~。 私には無理な仕事。仕事にはつかないよ。と思っているのに。講座がどんどん進む内に「こんなに中身の濃い内容。 これだけの知識をこのままにしておくのは勿体ない。 もっと勉強をしたい。介護職とはなんぞや!知りたい」が募るようになり自分の中に相反するもう一人の自分が存在していました。「食べることは生きること。生きることは食べること」 食べること、お料理大好きな私にぴったりな言葉です。
December 10, 2016
コメント(3)
第 1 巻 【人間と社会 ・ 介護 1】この巻では 介護制度や介護職員の仕事内容・現場の理解介護職員初任者研修の位置づけなどが説かれています。その中で介護の軸となるであろう「人間の尊厳と人権を守る介護」がこの講座の全てのキーワードとなりテキストからも講師からも何度も聞く言葉でした。私は、高齢者はこうして手厚く守られ尊重しなければならない。そしてちゃんと位置づけられているのだを確信し、これなくしては「介護」をしていく中で忘れてはならないと 強く心に置きました。母の介護を通して母だけの意識ではなく、全ての高齢者の方に対して「人生の先輩として尊び敬い、接しなくてはいけない」を再度認識を新たにしました。(うふふ・・・私も言うに及ばず立派な「高齢者」でありまする!(^_-)-☆)得てして、高齢者 イコール 幼児返り などと捉えられ施設での雰囲気や対応に幼児扱いされて憤慨していた母を思うのでした。「大人としての扱いをすべきである」ことは「人間の尊厳と人権を守る介護」「人生の先輩として尊び敬い、接しなくてはならない」この言葉は私が介護をする上での根本的信念が揺るがないものと自信を持つことが出来ました。「その人がその人らしくその人が決定し、自立した生活が出来るよう、支援しなければならない」講座の中で何度も問われ語られた言葉を思い出します。≪介護保険法≫ 目的 第 1 条 この法律は、加齢に伴って生ずる心身の変化に起因する疾病等により要介護状態となり、 入浴、排せつ、食事等の介護、機能訓練並びに看護及び療養上の管理その他の医療を要する 者等について、これらの者が尊厳を保持し、その有する能力に応じ自立した日常生活を営なむ ことができるよう、必要な保健医療サービス及び福祉サービスに係る給付を行うため、 国民の共同連帯の理念に基づき介護保険制度を設け、その行う保険給付等に関して必要な 事項を定め、もって国民の保険医療の向上及び福祉の増進を図ることを目的とする」
December 5, 2016
コメント(0)
7月の末から10月の末までのおよそ3ヶ月に及ぶ講座が終わりました。何年ぶりかの「生徒」となり勉強開始。緊張と慣れない環境の中でのスタートは私にとってはかなりのカルチャーショック状態。受講者は9名。20代 2名 30代 2名 40代 1名 50代 1名 60代 2名 70代 1名今回はめずらしく男性が居られない女性だけのクラスになりましたと説明がありました。現職の方が3名居られ仕事の休みを利用しての受講とか。周りの方全員が輝いて見えた。初日はオリエンテーションだけで終了となりホッとしました。教科書が配られ確認してみると3巻まであり、その内容の深さと濃さにびっくりしました。講座が進むにつれて、自分が介護職員としてではなく自身がお世話にならないといけない身で何が出来るのだろうと益々不安になり気が重い受講となりました。兎に角、最後まで落伍せずやり通すことだけを頭に週 2 の講座に通いました。第 1 巻【人間と社会・介護 1】 科目 1 「職務の理解」 科目 2 「介護における尊厳の保持・自立支援」 科目 3 「介護の基本」 科目 4 「介護・福祉サ-ビスの理解と医療との連携」第 2 巻 【人間と社会・介護 2】 科目 5 「介護におけるコミュニケーション技術」 科目 6 「老化の理解」 科目 7 「認知症の理解」 科目 8 「障害の理解」第 3 巻 【こころとからだのしくみ】 科目 9 「こころとからだのしくみと生活支援技術」 科目 10 「振り返り」
November 27, 2016
コメント(4)
2013年 3月 母を見送る2014年 1月から四国お遍路スタート 母を見送った同じ時期に夫を見送った友人とお遍路を 始めることにしました。 6月 骨折入院、手術 (四国お遍路は中断) 2015年 4月 プレート、ボルト抜釘手術2016年 そして今すっかり引きこもりのような生活になってしまった日々。何かを・・・と思いながら自分に湧いてくるものがありません。リタイア後に習い始めたサックスも足の怪我で自転車にも乗れなくなり楽器が重くて持ち運びが出来ずやめてしまった。「静」は何をしてこれからの楽しみにしよう・・・と思っていた毎日妹に教えてもらって手芸や編み物もしました。在職中に仕事を辞めたら「カリグラフィ」(西洋のお習字?)をしてみたいとテキストや道具を揃えていたのを始めてみることに、で体験教室へ。これも好きなことの一つで、ハマりました。でも、教室の話の違いにちょっと入会をためらい、そのままに。丁度、その教室の目の前が「YAMAHA音楽教室」エレクトーンが置いてあった。小さい可愛らしいエレクトーン。「これなら母のピアノを処分した後のスペースにおけるかも??」と触れて見た。「体験教室ありますか?」自然と口から出てしまっている。体験教室を受け、そのまま習うことにしました。3月の出来事です。エレクトーン復帰は40年以上の歳月が流れ、処分した時はもう弾くことはないだろうと思っていたのに・・・そしてある日、家に配布されたチラシの中に「介護職員初任者研修」なるものが目にとまった。そう遠くない数日前、新聞の読者の声欄の所で「ケアマネージャーへの挑戦。3度目です。 年齢的に仕事につくには無理だが、挑戦したくて受けました。 今年は3度目になります。 今年こそは・・・」と書いてあった。「すごいなぁ~ 70歳後半にしてこの向学心とこの意欲・・・」と感心していたりよえり。母を見送った後、「介護の知識があればもっと母に心地よいお世話ができただろうに...」「機会があれば一度勉強しておくのもいいかも知れない...」と頭に霞んだ。でも、私は母だからできたことであって職業としては向いてないなと思っていたのと、年齢的なこともあって実行には移せなかった。今回、チラシをみて受けてみようと心が動いたのは先日の新聞に投稿された女性の言葉に刺激を受けて挑戦してみよう。仕事に出ることはないかも知れないけど・・・との思いが。早速、電話で尋ねた。一度面接に来てください。そのチラシには 年齢制限も書いてありません。しかし、研修後働ける人と書いてあったのですが・・・兎に角面接にと出かけました。すでに何人かが申し込みをされていて70代の方が受けられますよと言われました。面接された方はとても笑顔の素敵なおしゃべりがテンポよくてフレンドリーな女性の方でした。「ここなら楽しく受講できそう・・・」と感じました。5月の出来事です。 *:;;;:*:;;;:*:;;;:*:;;;:*゚。+☆+。゚+*:;;;:*:;;;:*゚。+☆+。゚+*:;;;: エレクトーン を youtube に アップしています。 まだまだ 上手く弾けませんが進歩を残そうとアップしました。 https://youtu.be/1Y0gFG2F7j0 *:;;;:*:;;;:*:;;;:*:;;;:*゚。+☆+。゚+*:;;;:*:;;;:*゚。+☆+。゚+*:;;;:
August 31, 2016
コメント(2)
救急車が音を鳴らして到着。時間が早いので病院の始まる時間まで車内で待機。「五稜郭病院」へ搬送されました。診断は「骨折しているので即入院、手術です!」とのとこ。「入院できません。 大阪に帰ります」飛行場に大阪までのチケットを買いに走ってもらいましたが1日1便しかなく本日はもう飛びません。と言われ翌日のチケットを購入してもらいました。運良くその日は札幌で宿をとっていたので助かりました。バイクの人たちにとんだ迷惑をかけてしまいました。完全に足をギブスで固められているので動くのに大変でした。宿から娘にお迎えを頼むべく電話を入れました。「・・・ちゃん、お母さん・・・」「どうしたの? 無事着いた?」娘の声を聞いた途端、初体験の出来事にそれまで抑えていた感情が爆発!不覚にもどっちが親??と言うほど、大泣きしてしまいました。翌日、バイクの皆さんと札幌空港でお別れしてdoor to door で 航空会社の方の介助の下、伊丹空港へ。その足で地元の病院へ。「左足脛骨高原骨折」、即入院で手術をすることになりました。入院は3ヶ月に及びました。その間に足に入ったプレートのボルトが緩み再度そのボルトを抜く手術。退院を1ヶ月伸ばせますよと言われたけど精神的にこれ以上は無理と退院しました。入院中に看護師・本人・家族 3者カンファレンスがあり「65歳以上の方は 介護保険が使えます」と教えてもらい母がお世話になったケアマネさんに早速電話を入れて介護申請をすることにしました。入院中の病室での面接でした。全ての質問は危険を度外視して自分でしようと思えば出来ると言えるものばかり。でも、健全な生活、安心、安全を考えると「今は自分で歩くことも日常生活も一人では何もできません。 どうか一人でなんとか動けるまで助けてください」とひたすらお願いするのみでした。退院間近に介護認定が下りました。「要介護2」です。自宅へ帰って家の改修工事。浴室、トイレ、階段等の手すりの取付け。もう車は乗らないだろうと乗っていた車を処分した所でしたが友人の勧めと計らいで、足がわりに車を購入しました。電動車椅子 自走式車椅子 (車で外出時の移動用) などを借りました。プレートやボルトはそのままでも良いと言われたのですが抜釘手術を希望であれば1年以内にとのこと。1年後、抜釘手術を受けるためにも、日常生活が送れている事を目標としました。2015年 4月 待ちに待った「抜釘手術」歩く度にプレートが内部の肉に触れて痛みがあったのですがやっとその痛みからも開放されて足が軽くなりました。この年は介護申請をしないでおこうと思いましたがまだ不安定さを残していたので再度申請 「要支援2」となりました。
August 19, 2016
コメント(0)
2016.08.13やっと、なんとかここに。そろそろ自分の道を歩かないと・・・そう思うまでとても時間がかかりました。「りよえりの介護ブログ」2013年3月12日に母を見送って3年の月日が流れました。母がいなくなってしまってからの私は自分を奮い立たせる術が何もなく無味無乾燥な日々を送っていました。2014年春を迎える前に足首を捻挫。意外にも治るのに時間がかかり、不十分なままバイクに復帰。4月 リハビリツーリングと慣らしの意味で「四国一周へ」6月 北海道一周ツーリング参加北海道ツーリングはキャンプが主体です。キャンプ未体験の私は覚悟を決めて参加することに。子供達は 長男・長女反対! 次男 挑戦すべき!そろそろ自分自身も年齢的に「動」から「静」へ移行する年代だなと思い始めていたので北海道ツーリングが卒業ツーリングとして最後と言うことで出かけることにしました。名古屋港からフェリーで仙台へ。バイクの荷物はキャンプ道具一式を満載しているのでかなりの重量です。仙台から関東の人と合流して青森まで陸路です。どうも足の具合がよくありません。足の骨がずれているのか着地が出来ない。ステップに足を乗せるのに時間がかかる。おかしいなぁ~と思いつつ・・・遅れながらも走行を続ける・・・大丈夫かなぁ~と思いながら・・・夜を徹して雨の中を青森まで。津軽海峡フェリーに乗って4時間ほどの仮眠。函館に着いた時はどうしたことか体が覚醒しません。函館の朝市で海鮮丼を頂きさて、一日のスタートです。体の不調も言えずスタートを切った私。1時間も走らない内に案の定アクシデントが。写真を撮ろうとバイクを停めて降りようとしたが左足に力が入らず体勢を崩し、そのままバイクがのしかかるようにバイクと共に転倒!ボキ! 膝が悲鳴を?上げました。強制送還です! トホホホ・・・北海道ツーリングは3週間の予定が2泊3日で幕を閉じました。つ・づ・く・・・★ すっかり手順を忘れてしまっています。読み辛いかも??? です! ★
August 14, 2016
コメント(0)
毎月第3火曜日に「認知症家族の会」がお世話になっている病院のDr主催で開かれる。今月も参加してきました。 「脳の発達から認知症を考える」大阪市立大学大学院医学研究科脳神経科学 森 啓 教授 臨床症状と病気分類 ・ 無症状 (CDR<0.5)・・・・・プレクリニカルステージ MCI予備軍として先駆的治療対象群として注目され始めている(治験) ・ 前駆期 (認知症疑い CDR=0.5)・・・・MCIステージ ほぼMCIに近いと考えられる。 このステージから認知症へ移行する割合は30~50% ただし、移行する対象を特定することには、成功していない。 ・ 初 期 (軽 度 CDR=1.0)・・・・認知症 病態は潜伏かつ緩徐に信仰するために発症時期の特定は容易ではない。 新しい物事が覚えられないと言う記憶障害が出始める ただし、障害の自覚症状があるため、不安、焦燥感が出現する ・ 中 期 (中等度 CDR=2.0)・・・・認知症 少しずつ荒っぽくなってくる。 周囲への思いやりの消失(傍若無人) 周辺行動症状 ・ 後 期 (重 度 CDR=3.0)・・・・認知症 記憶、判断、人格、性格などの精神症状の障害だけではなく さらに基本的な神経症状が出現する。 何も判らなくなるので逆に楽になる。 四肢の固縮、寝たきりとなるため体を動かす事によって機能維持となるので マッサージなどをして刺激を与えるだけで違ってくる。 施設に居られる方などは寝たきりだから、もう判らないからではなく、 出来るだけ通ってマッサージをしてあげる事が一番いい。 ※ CDR=認知症評価法 MCI=アルツハイマー型認知症 ピアジェの認知的発達段階説、フロイトの性的発達段階説、コールバーグの道徳性発達理論などの話を交えて認知症の段階をお話しされました。そして、 一番心に響いた教授の言葉がありました。認知症を考える時、乳幼児期からの発達を経て大人になりそして後退して幼児→乳児に返り最後は判らなくなる。その段階を考えると子供を産み育てる事と認知症の介護を重なり合わせた時になぜ、発達段階で通って来た道で受け入れられた事が大人が病気の為に後退した時は目の色を変えて許せなくなるのか乳児を扱うようにどうか受け入れ接してほしいと言われた教授の言葉がとても胸に響きました。 母の13年の介護、要介護2から要介護5に至り重度に入り何も判らなくなってしまい娘の私をも誰か判らなくなった母は乳幼児に返りました。とても可愛らしく愛おしい存在となり、やっと母が穏やかな日々を許された事に母がもう辛く苦しまなくていいと心から安堵した事でした。初期から中期、混乱期、後期の重度と大変な時を過ごされて居られる方どうかその日が必ず来る、そして愛おしい存在となる日が必ず来ると信じてお世話をされることを願って止みません。 最後に質疑応答などがされ過日放映されたNHKスペシャル「アルツハイマー病をくい止めろ!」 の話が盛り上がりました。その話を聞きながら私たち家族の会はすでにお話を聞き及んでいたことに改めて家族の会の存在がありがたく思いました。そして、「希望が明るい未来を創る」 「希望をすててはいけない」と教授が声を大にして言われました。 今回、参加された中に民生委員の方が居られ居住地の方の相談をされていました。ご近所に住まわれているAさんの症状が・・・いやBさんがこんな風で・・・と質問される姿に感銘を受けました。こうして、ご近所の民生委員の方が気を付けられ身近な人々を気配りされて居られることはこの地域の人たちはどれだけ救われて居られることかと頭が下がりました。
January 25, 2014
コメント(4)
母がお世話になった大阪市管轄の弘済院付属病院は赤字と老朽化を理由に廃院若しくは民間にと言う事になっていた。わたし達 「家族の会」はそんなことがあっては認知症の家族を抱える立場としてこれから先どうなるのかと不安になりました。家族の会の方の提案で大阪市に無くさないでほしい、存続をの署名をしようということに一致しました。第一回目は2009年のことでした。そして、2013年、再び陳情書を提出しました。 【 大阪認知症介護家族会連合会は8月、 「弘済院を守ってほしい」として、約7800人分の署名を市議会議長に提出した。 (木下敦子)(2013年12月12日 読売新聞)】 昨年末、私たちの声は議会を大きく揺るがし、廃院、統合、民間へ売却とはならず 「 建て替え 」 という事が決定されました。まだ 「建て替え」と決まっただけで先が見えていませんがわたし達家族の会の署名活動もお役に立てたとそれぞれが誇りを持ってこれからの病院を見守って行きたいと心を新たにしました。この署名用紙は地域だけに留まらず存続を願って全国各地を飛びました。沢山の方の賛同と支持を頂き人から人へと協力の輪が広がり想像以上の署名を頂きました。家族の会は見送った家族の者も現在介護をされて居られる方と一緒にこれからも 「介護」 を考えて行きたいと思います。 署名を頂いた沢山の方にこの場をお借りしてお礼申し上げます。本当にありがとうございました。 「 皆は一人のために、一人は皆のために 」
January 22, 2014
コメント(2)
『 母からの手紙 』 2013年 3月に母を看送った後、淋しさと毎日の生活の変化に戸惑い何も出来ない日々が続きました。外へ出て、「お母さん、お元気?」と声をかけられることに耐えられなくて閉じこもる生活になりました。そんな時、癒してくれたのは18年寄り添ってくれている愛犬でした。もう彼女も認知症に入り、殆ど目が見えません。母が施設に入ってから私が外出すると帰るまでずっと吠えていたとご近所さんが言われていました。母が逝ってしまった後、彼女は私のそばから離れず腰を下ろすと必ず私のそばに寄りかかるように居てくれていました。暑い夏を過ごせるかと心配し、エアコンは彼女の為にずっとつけていました。夏が過ぎ9月に入ってすぐに彼女に変化が。もう、自分で立って歩く事がおぼつかなくなり手を添えて抱えて歩かせないとすぐにひっくり返ってしまうようになりました。なので、お散歩(排尿・排便)時にはタオルを胴体に巻き体を吊るすようにしての散歩となりました。それは最後意識が無くなるまで外へと彼女は訴えました。そして、あれだけずっと私から離れなかったのに寄り添ってくれていたのに彼女は私から離れて過ごすようになりました。抱っこをしてもすぐに嫌がり下ろしてくれと逃げ出します。「この子はわたしにさよならをしているんだ。 べったりしているとお別れが辛くなるからと私を慣らしているのだ」と悟りました。どんどんと力が無くなり腰が立たなくなってすぐに転びます。 最後まで食欲があり、水分はトロミ剤を、食事は離乳食状態にしスプーンで食べさせていました。ガーゼに水を含ませると上手にそれをピチャピチャト吸ってくれます。ある時、あまりの勢いで食事をしたものだから喉を詰まらせ仮死状態に。慌てました。 どうしたらいいの??? うろたえましたが「逝ってしまっても仕方がない」 と覚悟を決めて手を口の中に入れ喉の奥の詰まりものを取り出したのです。彼女は息を吹き返した時は腰が砕けてしまいました。そんな彼女も10日間ほどの介護を受け、11月の初めに天国へ逝ってしまいました。彼女の介護をしながら思いました。「母と逆で良かった。 これが逆だったら私は母の世話に通えなかった」と。そして、何より私は愛犬の死を冷静にそしてかつ、十分な知識で看取ることが出来た事は母の介護の経験の何物でもないと感じたのです。食事のこと、体位交換、排尿、排便等々息を引き取る時の下顎呼吸も母のそれと同じでした。すべてが、老犬の死に役立ち私を力強く役目を果たさせてくれたことに母への思いが重なり「時は必ずふさわしい時に与えられる」の聖句通りだと心に染み入るりよえりでした。 そしてまた、母がお世話になった病院の家族会へも最初の内は辛くて参加出来ませんでしたが何とか頑張って今も参加させて頂いています。その家族会に参加させてもらい諸先生方のお話や家族の方々の悩みや発言に対して「私はまだまだブログを通じて知らせたい事が沢山ある」との思いが膨らみました。母の手紙が愛犬の 「健康手帳」に挟んであったのも奇遇でした。 これから、少しずつですが 「認知症」 そして 「介護」 の事を発信出来ればと思っています。
January 13, 2014
コメント(3)
また始めようと思います。 母の介護が活かされることを願って。 母からの手紙 2014.1.4 発見 『 主は私のためにみこころをなしとげられる 詩篇 138 感謝せよ いつくしみはとこしえに絶える事がない。 平安があるように 愛、真実、喜び あなたはわが助け、わが救い主。 わたしが年老いたとき、わたしを見離さないでください。 私はあなたの翼の陰で 喜び歌う。 わたしを平らな道に導いてください。 主は待ち望め 強く、かつ雄々しくあれ 怒ることがおそく、いつくしみが豊かです。 主は恵みふかく、あわれみに満ち 主はわが力、わが盾 私の心は主に寄り頼む。 いつも喜んでいなさい。 絶えず祈りなさい。 すべての事について感謝しなさい。 良いものを守り、 あらゆる種類の悪から遠ざかりなさい。 テサロニケ つとめて落ち着いた生活をし 自分の仕事に身を入れ 自ずから働きなさい。 そうすれば外部の人々に対して 品位を保ち、 まただれの世話にもならずに 生活できるであろう。 ? 目をさまして感謝のうちに祈り ひたすら祈りつづけなさい。 患難は忍耐を生み出し 忍耐は鍛錬を生み出し 鍛錬は希望を生み出す。 希望は失望に終わることはない。 なぜなら わたしたちに賜っている聖霊によって 神の愛が わたし達の心に注がれているからである。 自分を愛するように あなたの隣り人をあいせよ。 感謝、寛大さ、優しさ、熱意、真実 忠実、柔和、平和、寛容、善意、 神の愛、平和のきずなで結ばれる。 平和に過ごしなさい 思いを一つにしなさい。 真実を語りなさい。 いつも喜びなさい。 全き者となりなさい。 互いに励まし合いなさい。 耐え忍ぶ、 絶えず目をさまして祈っていなさい。 最後まで耐え忍ぶ者は救われる。 やすかれ。 真理、生命、喜び。 あなたは施しをする場合 右の手のしていることを 左の手に知らせるな。 それは あなたのする施しがかくれているためである。 天に宝をたくわえなさい。 あなたの宝をある所には 心もあるからである。 あなたの目が澄んでおれば 全身も明るいであろう。 あなたがたのうち 誰が思いわずらったからとて 自分の寿命をわずかでも 延ばすことができようか。 まず、 神の国と神の義とを求めなさい。 そうすれば これらのものは すべて添えて与えられるであろう。 だから あすの事を思いわずらうな。 あすのことはあす自身が 思いわずらうであろう。 一日の苦労はその日一日だけで 十分である。 人をさばくな。 自分がさばかれないためである。』 愛するりよえりへ サカエの手帳より朝、六時五分 木曜日 今朝見つけた母の手紙が 私の背中を押してくれました。りよえりのできること少しずつ、発信したいと思います。
January 4, 2014
コメント(6)
3月16日母は敬愛する森里信生牧師 司式の許告別式が執り行われました。母 99歳。沢山の方に見送られ主のみ許の天国に住み家を移されました事感謝です。 母が天国に召された事を喜びとして受け止めてなくてはならないのですがまだ母の死を受け止める事ができません。 施設に行ってフロアで待ってくれている母の後姿が瞼から離れません。その背中から「淋しい」オーラを感じていました。連れて帰りたい衝動が抑えられなくなる瞬間でした。言葉を失った母には気持ちを最早上手く伝えられません。「お母さん、ごめんね。どうしてあげる事も出来ず」ただただ申し訳ない思いでいっぱいでした。あの母の淋しさを今、私は自身に感じます。母が耐えたように私も現実を受け止め、しっかり耐えようと思います。 お母さんありがとう。いっぱい幸せもらいました。りよえりは幸せでした。 静華麗さんみやちゃん1信徒さんhirikeiさんいそたーさんあもんさんcanaちゃんちーちゃんそしてメールをくださった皆さん最後まで励まし、支えて下さり ありがとうございました。 ブログの中でいつも励まし、支えてくださったブロ友の皆さん本当にありがとうございました。これからもお邪魔させてくださいね。 りよえり
March 17, 2013
コメント(0)
詩篇 23 篇「ダビデの歌」主は私の牧者であって、わたしには乏しいことがない。主はわたしを緑の牧場に伏させ、いこいのみぎわに伴われる。主はわたしの魂をいきかえらせみ名のためにわたしを正しい道に導かれる。たといわたしは死の陰の谷を歩むともわざわいを恐れません。あながたわたしと共におられるからです。あなたのむちと、あなたのつえは私を慰めます。あなたはわたしの敵の前で、わたしの前に宴を設け、わたしのこうべに油をそそがれる。わたしの杯はあふれます。わたしの生きているかぎりは必ず恵みといつくしみとが伴うでしょう。わたしはとこしえに主の宮に住むでしょう。 「汝、今日われと共にパラダイスにあるべし」アーメン 母の愛唱讃美歌「298番」やすかれ、わがこころよ、主イェスはともにいます。いたみも苦しみをもおおしく忍び耐えよ。主イェスのともにませば、たええぬ悩みはなし。 母は3月12日 22時37分子供たち、孫たちに囲まれた中安らかに主の許へ召されました。 皆さまのお祈り、励ましのメールありがとうございました。 ブログを通して沢山の方から励ましやご指導のメッセージを頂き心から感謝しております。 このブログは「完」となり、終了しますがこれからも皆さまと共に「介護」を考えて行きたいと思っております。 本当に長い間ありがとうございました。 後記「ターミナルケア」 母は3月4日から意識が薄れ始め絶食状態になりました。熱がありながらも穏やかに日々を過ごしていました。施設でのターミナルケアは最高のものでした。病院ではここまで出来ないであろう看護をしていただき施設の職員、看護師の方の病室への見回り、声掛けはずっと続きました。 職員、看護師によるケアは家族では到底出来ない看護であり、心身のケアも丁寧な対応であった。入院させずに施設に戻ったことは母にとっても家族にとっても心から安らげる場として終えることが出来ました。
March 13, 2013
コメント(6)
母、終焉の時。 日曜夜半、痰が絡み窒息状態の所を当直の職員が気付き吸引と酸素吸入で事なきを得た母。翌日、発熱の為病院へ受診し尿検査、血液検査、レントゲン検査をすることになった。母が検査に行っている間に医師から家族の方は残ってと言われ意見を聞かれる。家族としてどう考えているのかを聞いた上で治療方法を考えたいと。今の段階では入院して、鼻から管を入れ栄養補給、点滴による抗生剤の処置。入院するであれば病院側としてはその処置をとることが使命。だが、家族は治療をせずこのままを自然と受け止め施設でのターミナルケアを希望されるのであればそれも良し。ありであると答えられた。母は良く頑張りました。家族としてもう治療はしません。 このまま自然の形で看取ってあげたいと告げた。母は病院での治療を受けず、施設に戻りました。施設に戻りその方向で進める段取りをされ施設での看取り介護や職員による痰吸引の説明を受け同意書にサインをしました。 ● 苦痛を伴う医療処置並びに延命治療は行わず、危篤状態に陥った場合も 病院には搬送せず、最後まで施設での看取り介護を行います。 但し、著しい苦痛が出現し、ケアでは緩和出来ない場合、苦痛除去について 医療が最適と診断された時は医師の指示により病院対応となることも。 ● 管理医師に指示を仰ぎながら苦痛や痛みを和らげる方法をとり、 施設内で出来る限りの看取り介護を行います。 等々。そして、母は昨日より看取り介護の個室へ移りました。すでに、経口での食事、水分補給など嚥下機能不能となり絶食状態。そして、痰が絡むので口腔内の洗浄や吸引が続けられます。吸引もなかなか辛そうですが母の夫である私たちの父親も痰を詰まらせ亡くなったのを目の当たりにしたので母までもそれで亡くならせたくないと祈るばかりです。看取りの部屋は家族用のベッドが置かれ24時間出入り自由です。残された時間、母をしっかりそばに居て見守りたいと思います。 母の上に平安がありますように。主のお導きがありますようにとお祈りください。
March 6, 2013
コメント(6)
今日は母の循環器外来の受診日。外来受診は午後からなので午前中は昼食の介助にと出かけた。施設に着くと、職員の方が母が朝から熱を出しているし手も腫れて熱を持っているので整形外科を先に受診しておきたいと申し出された。取り敢えず、循環器の受診の折に相談してから改めて受診することをお願いし、母の部屋へ急いだ。母はベッドで眠っている。手を見ると赤く腫れ上がり熱がある。触ると痛いのか顔をしかめる。これは見るからに「蜂窩織炎」の症状である。母にはかぶれるので安易に湿布は貼らないで欲しいと伝えってあったにも関わらず手には熱を持っているので湿布がご丁寧に貼られていた。 食事介助をし、母の午睡の着床を済ませ、一旦家に戻る。予約時間は午後3時半。 看護師さん付き添いのもと、施設の車で送ってもらう。 エコー検査で血液の流れを調べる。30分程で検査が終わりその後、先生から説明があった。看護師さん、母と3人でお話を聞いていたが認知症で何も分からないのだが、母が聞いているのを気遣われ私一人でお話を聞くことになった。検査の結果血栓はないのですが、血液の流れは確かに悪いです。ただ、座りっきりで膝が曲がった状態が続き膝が固まり伸ばしたら体が反り返るので脚を伸ばして座れないので折れ曲がった状態になっている。そのためどうしても血液の流れが悪くなり血栓が出来、肺に飛ぶ恐れがある。「肺塞栓症」の心配がある。それを本来なら手術をして肺に蓋をして防ぐのだがその検査、手術が大変なことになるので高齢の母には無理をさせたくないし、その為に命と引き換えになることも考えると「止しましょう」と言う事になります。手の浮腫み、蜂窩織炎等もひょっとしたら小さい肺塞栓がすでにいくつか飛んでいる可能性が高いように思われる。爆弾を抱えてる状態、「突然死」もあり得ることも頭に入れておいて下さいと言うことであった。後はリハビリ、脚のマッサージ、浮腫みが酷い時は横になる時間を多く取るとか気を付けてあげてくださいと注意事項を話された。それに加え、「施設にお願いされる事になるでしょう。 私が今看護師さんにお話しておきましょうか?」と言って下さいました。私からお願いするより、直接先生から言って貰えたらもっと理解してもらえる筈とお願いした。看護師さんに先生はリハビリの先生は施設に居られますか?と聞かれ母の病状を説明され、リハビリの方法等を説明してくださり、浮腫みのある時の対処方法、蜂窩織炎の事等を含めお話して下さいました。看護師さんが施設には最近、「柔道整体師」の方を採用されたと答えられると 「私がお手紙を書いて施設に出しておきます」と話された。 蜂窩織炎の診察は内科が午後診があるのでカルテを回しておきましたとの事で内科で待っていると循環器の先生が「血中酸素」を調べさせてくださいと来られた。忘れていました。 それを聞くのを。「血中酸素は90%以下は酸素が足りない。即、酸素吸入なのでしょうか?」「平熱に個人差があるように血中酸素も個人差があるのではないですか?」「呼吸が荒くなる、息が苦しそう、唇にチアノーゼが出ているとかなくても 90%以下は心配!となりますか?」矢継ぎ早にの質問にも丁寧に答えて下さる。「血中酸素、これには個人差はありません。 90%以下は酸素不足となります。 息が荒い、呼吸困難、チアノーゼが出ている そうなると、即酸素吸入になります。 お母さんは90%以下で慣れっこになってそれが当たり前になって居られるのです。 チアノーゼもない、息が荒いわけでもないまさしく「慣れ」です。 酸素吸入の必要性は即ではないが、様子を見ながら気を付けてあげてください」との事でした。 今まで知らなかった病名。「肺塞栓」の話から母の今までの内科での受診の際に不安を募らせてい心臓病のこと不整脈のこと、弁膜症のこと等もしっかり聞く事が出来ました。心臓の模型や本を取り出し詳しく説明をして重大なる症状ではないことも合わせて聞けたことは良かったし、専門医に診てもらう事の重要性を感じました。 母はずっと眠ったままです。 昼食も殆ど食べませんでした。夕食、やっと半分食べました。母を見る度に思います。ゆるやかに下り坂を自走している様子が判ります。母がこの先、転ばないように、急いで倒れないようにしっかり後ろからついてあげようと思います。 神さま病にある兄弟姉妹に癒しと平安の手を差し伸べてください。そしてご加護がありますように。アーメン
February 18, 2013
コメント(0)
母は先日の誤嚥騒ぎ以来ずっとベッドで過ごしていたお蔭で足の浮腫みは殆ど見られなくなりました。でも手の浮腫みはまだ残っています。 昨日、木曜日はかねてより施設外での病院に受診を申し入れてあった病院での診察を受けてきました。施設の看護師さんが施設指定の病院の循環器にとっても良く診て下さる先生が担当される日が木曜日と言うことでこの日を指定された。朝一番に施設側が診察券を入れてくださり、時間を見計らって施設の車にて看護師さんと一緒に送迎してもらっての病院行きで至れりつくせりで申し訳ないくらいです。 母の症状はレントゲンから診て即、心臓が悪いですと診断する医者が殆どだろうと言われる。しかし、気腫もなく肺炎を起こしかけている影もないし年齢的に仕方のない段階であることは間違いないとの事。ただ、心臓の働きが悪く弁膜症もあるので検査をしましょうと言われた。その検査も色々あるが、苦痛や痛みを伴うものは本人にかなりの負担をかけるのでエコー検査だけにします。血栓がないか、血液の流れはどうなのかを調べるだけでもかなりの治療方法が定まってきます。足の浮腫みや手の浮腫みもお薬でかなり軽減出来ますが副作用が心配です。一番、言えるのはリハビリをするしかないと言われる。サポートタイプの靴下を使用する方法もあるが痛みが伴うので止めた方がいいとも。(エッ? 在宅でかかりつけの内科医はそれを薦められ、履かせていたが???) 若い先生であったが診察やこれからの検査、治療方法等を丁寧に説明されました。そして、その後母と看護師さんが先に診察室から出た後、お話がありますと私を引きとめられた。「もう年齢が99歳。 これからどんどん悪くなります。 心臓の働きもそれなりに落ちて血液の流れも良くありません。 チアノーゼが出ているのも今度のエコーで血栓があるかないかが判ります。 治療をどこまでするのか、お薬をどこまで飲ませるのかにかかってきます。 年齢的にお薬の負担はかなりなものになります。 少しの傷から蜂窩織炎になる事も注意してマッサージやリハビリを する位の事しかないと思われます」等と母の様子を話された。そして、「足や手の浮腫みは歩くことや手を動かすことによって筋肉を使い血液の循環を良くする。しかし、歩けない、手を使うこともなくなって筋肉が落ちてしまった母の状態ではマッサージと言うリハビリでしか解消できない最小限の対処方法である」ことも付け加えられた。 今お世話になっている施設のフロアには食卓テーブル以外にソファーやオットマン付の椅子もない。ベッドで出来る限り横になって貰いますの答えしか貰えなかった。家族がそばに居る間だけでもしっかりマッサージを続けなければと思います。 病院に行って検査を受け、それなりの処方を伺えただけでも納得がいき良かったと思います。足や手が酷く浮腫んで来ていますが・・・の訴えに「利尿剤」を出しました。では、やはり根底からずれている気がした。現に、在宅で「利尿剤」の乱発の結果、「カリウム」の数値が減り過ぎて慌てて「利尿剤」を止められた事を経験していただけに家族としてはあまりの処置の無責任さを感じずにはおれませんでした。そして今回、うかつにも母が施設に入って 「薬剤代」として請求されていたにも関わらず薬局から発行されるべき「お薬リスト」が添付されていなかった事に気がついた。病院を受診するにあたり母は今どんなお薬を飲んでいるのだろうと思ったのがきっかけでした。酸素吸入の件もしきりに「血中酸素濃度」を言われ、酸素吸入器をレンタルで借りることに承諾を頂きたいと相談があった。普通、90%以下であれば酸素吸入の必要があるらしい。母は誤嚥をして窒息状態に陥ったので酸素吸入は致し方ないとは思うが未だに酸素吸入が外されていない。86~88%で90%以下なので酸素吸入をさせて頂きますと言われる。母の様子は酸素不足のきらいは全く見受けられない。息苦しそうにするわけでもない。呼吸が荒いわけでもない。酸素不足からくる顔面のチアノーゼ等の症状も見受けられない。この度のアクシデントでしきりに酸素が足りてないと言われるが母の普段のデータに照らし合わせ元に戻ってないと言われるのなら納得も行くが母の状態を見る限りには必要がないように思われる。先日受診した時に医師に相談されていたがその必要性もあるとは言われなかったように思うが??? 今回、施設の看護師さんから「家族さんが食事介助に来られている事にすっかり助けられ甘えていました。 それなりに食事介助に対する注意事項などちゃんと私達が お伝えしておかなければならなかった事を反省しております」と謝罪された。 母の99歳の年齢はやはり気を許せない年齢で職員の方の気の配りようは今まで以上に大変な気遣いです。ありがたいと同時に申し訳なくなります。でも・・・私達家族はお手を取らせるばかりでなく、家族の事を思い、少しでもお役に立てばと通っています。どうか、私達にしっかり伝授してください。介助の方法を。そして、納得のいく対応と説明をして頂きたいと思いました。 家族は日日の観察を見落としてはならないと痛感します。 施設でのお世話にはただただ頭が下がり感謝すべき事は多々あります。 今少し、施設に対して不信感があります。何も分からないのに好き勝手ブログに書いてとお叱りを受けるかも知れません。どうしたらいいのかを問いたくて書きました。ご理解頂けたら幸いです。
February 8, 2013
コメント(6)
大変な一日となってしまった。 いつものように母の施設へ。朝のラジオ体操の時間が早くなっていつも大急ぎで駆け込む。「お母さん、おはよう! ラジオ体操一緒に頑張ろうね」と母の手を取り音楽に合わせて体を動かす。いつもなら迷惑そうな顔をして嫌がるのに今日はご機嫌でしてくれる。ラジオ体操、皆さんと一緒にするがいつも感心する。このラジオ体操は何時ごろからあるんだろう。随分お年を召した方もリズムに合わせてちゃんと手がそれなりに動いている。眠いのか目を閉じているのにちゃんと手が動いているのには驚かされる。昔、何年間かそれぞれに会得したラジオ体操。こうして何年も頭や体に染み付いてちゃんと次が判って居られる。「素晴らしい!」 といつも皆さんに拍手を送りたくなるりよえりの大好きな時間です。 母と一緒にその後はコーヒータイム。利尿作用をちょっとでもと思い母の大好きなコーヒーを持参する。食事の前のトイレも済ませ、食事を待つだけになった。母がずっこけているので体を起こしてもらい食事の用意をする。 今日のお昼はあんかけ肉うどん。「お母さん、美味しそうよ」と言いながら麺をスプーンで小さくカット。一口、二口入れた所で母がむせだす。「なに?なに? どうしたの???」背中をたたき、さするが一向に納まらない。苦しそうに吐き出そうとするが息が止まってる。「どうしよう。どうしよう」 頭の中がパニック。辺りを見回す。前のテーブルで職員の方が他の方の食事介助されている。「あの方は無理だな」 「この方も・・・」落ち着け、ここで慌てて黄色い声を出したら他の方がびっくりされる。静かに、静かにと自分に言い聞かせながら見渡す。やっと見回りの男性の職員の方が目に入り「すみません」と声を出す。それも小さな声で・・・うろたえてしまっているりよえり。悠長とこちらに来られる 「急いで!」「飛んで来て!」と願うが・・・「母が詰まらせてます。息が出来てません!」男性職員、どうした事か看護師さんを探しに???離れられた。「どうして???」早く何とかしてください。そこへ、いつもどっしり落ち着いて居られる若い女性の職員の方が足早にこちらへこられた時には母の顔面はチアノーゼが出て紫色に。即効、事務室へ連れて行かれた。私も後を追う。車椅子を急いで走らせる職員の方を追いながら「良かった。トイレの後いつもなら椅子に座らせるのだが、今日は横着して 車椅子のままでいいですなんて生意気言ってしまったけど、 これで椅子に座っていたらどうなってたんだろう・・・」と咄嗟に頭の中で色んな事が駆け巡る。お母さん! 死んだらあかんよ!! 看護師さん二人が何やらされている。 私は怖くて部屋に入れずドアの向こうの様子をじっと耳を済ませて聞いていた。段々、怖くなってその場を離れ遠くで見守る。 吸引され酸素吸入をしてやっと母は落ち着いた様子。暫くして「もう大丈ですよ。お部屋にお入り下さい。お顔の色も元に戻りました」看護師さんに言われ母の顔を覗き込む。「まだ、手のチアノーゼが戻らないのでもう暫く酸素吸入していましょう」母はお昼を欠食としベッドで休むことになった。母が眠ったのを確認し、一旦家に帰る。「要介護」の老犬(18年目)が近頃トイレが4時間起き位に外へ連れ出さないと家でお漏らしをする。老犬のお世話をして一日付き添いを覚悟し、パソコンを持って施設に戻る。母はベッドでパット交換をしてもらっていた。大人しくベッドで一日過ごした。夕食、酸素吸入を外し、フロアに戻り皆さんと一緒にテーブルに着く。恐々まずお茶から口にする。大丈夫のようなのでご飯を少し口に入れてみる。むせて咳き込む。やはり、無理は禁物。夕食も様子を見ましょうと言うことになった。血中酸素を量られたがやはり低いと。酸素吸入を今夜は続けましょうとなり、母はベッドに戻る。パジャマに着替えさせ、着床を済ませて施設を出た。 「お母さん、ちょっと速度が速すぎる。もう少しゆっくりしようよ・・・」 施設に居るときで良かった。やっぱり私は「あかんたれ!」「お母さん、ごめんなさい」
February 4, 2013
コメント(4)
本当は・・・ 「Never give up ! 」 なんだけど・・・。 「お母さん、 よく頑張った。 頑張らなくていいよ」 最近の母を見ているとそう言いたくなる。 毎日、毎日母の様子を見ているとその度に一喜一憂してしまう。 今日はお昼もやっとの思いで食事を済ませた。 完食とまでは行かないが8分目まで何とか。 昼食前までベッドで眠っている母を起こしフロアまで連れて行くが 完全に目覚めていない様子。 食べられないのも無理ないなと思いつつ終わりにした。 夕方、フロアに居る母の所に行くと崩れるような体勢で眠っている。 喉ののみ込みの下準備にと声をかけて発声を促したり、 水分を口に含ませたりするがモグモグと口を動かすだけで殆ど反応なし。 「夕食も期待出来ないな・・・」と思いながらなんとか母を起こそうとするが これもダメ。 夕食、母は口を開けて一口、二口頬張ってくれたが口が動かない。 「お母さん、モグモグして」 「お母さん、モグモグモグモグはい、ゴックン」 ごはんやおかず、汁物など色々品を変えて促すが もうGive up ! です。 「すみません。母は起きません。 全然お口が動きませんし、のみ込みも出来ません」 職員の方にhelp をかける。 「◎ハシさん ! さかえさ~ん! お食事ですよぉ~。」 他人の声には反応して目を開けて口を動かし始めた。 目が覚めたようなので交代したら・・・また眠っちゃった。 賄の職員さんが 「近頃食べなくなった」とこぼされ、ドキッとする。 1時間近く母とお付き合いしたけどダメだった。 「お母さん、今日はもうご馳走さまね。明日朝、しっかり食べようね」 パット交換はベッドで済ませ、 「お母さん、無理はさせないからね。ゆっくりやすんでくださいね」と声をかけ 着床させて帰ってきました。 母の手足が浮腫み、手がうす黒い。 チアノーゼではないだろうか。 看護師さんに相談するも 「利尿剤飲んでもらっていますからね」 だけ。 手の浮腫みも尋ねても 「どうしても手が下に下がってしまうから・・・」と。 心臓の働きがかなり弱っての事だろうけど何だか施設の対応に今一つ?? 手の浮腫みの酷さや手の色に全く反応されない。 様子を見て、病院に連れて行ってみようと思う。 お母さん心地よい日を過ごそうね。今夜もお空で祈ってる。
January 31, 2013
コメント(2)
身体を自分で支えられなくなりすぐに崩れてしまい何度も体勢を整える。目には元気がないが今少し落ち着いた日々を過ごしている母。やっと一息と言った感じです。そんな中にも母をしっかり見つめ笑顔で話しかけると笑顔が返ってくることが多くなった。私はそんな笑顔が欲しくてずっと母の手を握り話しかける。「*‘=~%$さん」「はい」「もうすぐお食事ですよ。しっかり目を開けて食べて下さいね」母は笑顔で応えてくれる。ベッドでのパット交換もまだまだうまく出来ないが何とか続けている。母は私の気持ちを判ってくれているのか 「ありがとう」と小さな声で呟いてくれる。そして、「ありがとう」の言葉が多くなったことに胸が痛む。「お母さん、私もありがとう。 最後までちゃんとするからね。安心してて」 母のベッドでのパット交換はなかなか力が要る。母は小さい体なのにオシメパットがなかなかうまく母のお尻の部分におさまらない。母の作業をする時いつも頭に浮かぶのが長姉のこと。長姉はお姑さんである義母を家で最後を看取った。まだ介護保険などない時分に。身体の大きい人で大変だった事や看取るまでの大変さを頭で何気なく聞いていたりよえり。今こうして母のお世話をしながら長姉のやってきた事がどれだけ大変なことだったのかを感じ入る次第です。長姉もお世話を頑張った。 私も出来る筈。 頑張れる筈。長姉の頑張りを倣いとして頑張ろうと力が湧いてきます。 今日も元気で母の所へ行ってきます! お母さん2月元気で乗り切ろうね。
January 28, 2013
コメント(2)
ぐったりしてうつろに目を開いている母の時と比較的しっかり元気な様子を見せてくれる時が交差する中、どうしてもゆずれない事が。母の介助はもう職員に任せてくださいと言われている。でも・・・母をトイレに連れて行きズボンを下ろそうとすると必死でズボンをつかみ下ろさせないよう抵抗する。「なにするの・・・」と言いたげに顔をしかめて怒っている。なんとかごまかしながらズボンを下げリハパンを脱がせて便座シートに座らせる。今度は膝を固く閉じて用を足した後の始末をさせない。それはそれは信じられない力で。母の羞恥心は昔からであった。 「女はこうあるべき」 と明治、大正生まれのそれである。夫に慎ましく身だしなみを崩さずかしずいた母。とかく「女」であることを身を律して子供たちに教えてきた母。今、母は自分の意志に反する行為を娘からされても羞恥心は崩れない。母のそんな気持ちを思うとその羞恥心と自尊心を傷つけたくない。大事にしてあげたい。守ってあげたいと心から思うのです。トイレ介助を職員の方にお願いする事がなかなか出来ないでいる。女性職員の方ならまだしも男性職員の方には母以上に私がお断りしたくなる。トイレでの介助がもう出来なくなったのでベッドにてパット交換となった。担当の職員の方はいつも私を「無理をなさらないで下さい。 職員に任せて下さい」と気遣い力強く励まして下さいます。 今日は意を決してベッドでのパット交換をしてもらうことにした。いつもの担当の職員の方が居られたので声をかけお願いした。(この方なら・・・と思って手が空くのをまっていました)午睡の為にフロアを出て部屋に戻り職員の方は母をベッドに。「◎ハシさん、パットを替えさせて頂きますね」と声をかけ母のズボンを下げられる。いつものように母は必至でズボンを引っ張て抵抗するも手際よくズボンを下げパット交換がなされた。どのようにするのかを漏らさずチェック。「私にも出来ますか? 私がしてあげたいです」「はい、出来ます!」力強い言葉が即効返ってきた。 不可能を可能にするような力強い言葉。トイレの時より幾分母は大人しく、されるがままのような感じだった。(よし! 判った。 任せて。 心で頷く ) 夕食後、私はフロアの皆さんや職員の方におやすみなさいをして母と一緒にベッドへ。「お母さん、おやすみしようね」 パジャマに着替えパット交換。夜はオシメとパット、それにリハパンと重装備。ベッドの上で母を仰向けから、右へ左へと移しながら作業をする。 一人で出来ました。しっかりオシメも挟めました。 パジャマから肌が露出していません。パジャマの乱れもありません。リハパンの隙間からもパットははみ出ていません。「お母さん、出来たよ。 これで安心。 最後まで私がみんなしてあげる」 私はずっと不安でした。 私に出来ない事が段々と増え母の嫌がる下の世話をお願いしなければならない事が心に重くのしかかっていた。でも、勇気を出してやってみようと思った事が出来、喜びと感謝の気持ちでいっぱいになりました。最後まで諦めず職員の方に教えて貰いながらすればこれからも母のお世話が出来そうです。 お母さんゆっくり休んでね。「ありがとう、私に任せてくれて」ちゃんと神さまが道を開いてくださったことうれしいです。 「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば見つかる。門をたたきなさい。そうすれば開かれる。誰でも求める者は受け、探すものは見つけ、門をたたく者には開かれる」ルカによる福音書第11章 9節~10節
January 21, 2013
コメント(2)
母は年末より体調を崩し、お正月も熱が下がらず母と一緒に施設で過ごしました。漸く、部屋からフロアに出ることが出来るようになったのもつかの間椅子に座っていても母の体勢がどうも崩れてくる。そのまま眠りに入ることも多くなりずり落ちる危険があると言うことで母はベッドで横になって眠っていることが多くなった。食事も目を閉じて食べている事も多く、時間がかかりいつも最終。痰が絡んでいてももう咳払いをして自分で詰まりを除けない母。母担当の職員の方が「お母さまのご様子を見ていると生活全般に機能低下がかなり進んで居られるので 今後のケア方針を職員で集まって話し合うことになりました。 食事内容、日中の過ごし方、オシメ交換等をどうするかと言う事等又ご連絡します」と言われた。いよいよその時が来たのだと改めて耳に入る言葉は動揺を隠しきれず涙となって流れ落ちた。「しっかりしろ! りよえり」 母が施設にお世話になって半年が過ぎました。その間に3名の方が亡くなられお見送りしました。ずっと一緒のテーブルで食事等をご一緒し家族の方と色んなお話をさせて頂きながらその方のご様子を見させて頂いただけに、母の変化が手に取るように判ります。そして、母が今どの辺りに居るのかが判り母の顔を見る度に辛いものがあり泣いてばかりいるりよえりですが、一日一日がその時、その時が大切な時間となっています。 今年、100歳を迎えるにあたってしっかり心を留めて母のお世話をしなければと気を引き締めた初頭。そして今、与えられた時間、与えられた全ての事に感謝の気持ちでいっぱいです。そして、「すべてを受け入れる」ことが、どんな場においてもそれが一番の心の軸となって私を励ましてくれている。 全てがみ心の内にあると祈っています。 いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。 新約聖書テサロニケ人への第一の手紙 5章16節~18節
January 19, 2013
コメント(4)
私は強く雄々しくあれと命じたではないか。うろたえてはならない。あなたがどこに行ってもあなたの神、主は共にいる。= 旧約聖書 ヨシュワ記 第1章9章 = 今年もよろしくお願い致します。 母が特養にお世話になって半年が過ぎました。とっても穏やかに平安な日々を過ごしてくれていることは感謝です。入所以来沢山の行事があり母と一緒に楽しませて貰いました。今年は母が100歳を迎えます。母が元気に100歳を迎えられるよう母を守り支えたいと思います。 ☆ 6月 入所 ☆ 7月 花火大会 ☆ 8月 猛暑 ☆ 9月 祝白寿 ☆ 10月 ラジオ体操 ☆ 11月 99歳 ☆ 12月 Xmas会 ☆ 職員によるハンドベル & ランチバイキング ☆ お餅つき大会 ☆ お正月 母の部屋飾り ☆ 施設 玄関 6月・・・母の入所が決まりました。7月・・・毎年恒例の花火大会。 ご近所の会社が毎年花火を寄付してくださるそうです。8月・・・猛暑でした。 炎天下の母の施設への往復は参った(>_<)9月・・・施設で 「敬老のお祝い」があり 白寿のお祝いをして頂きました。10月・・・朝のラジオ体操に参加するようになりました。11月・・・母 99歳のお祝いを姉妹でしました。12月・・・Xmas会、お餅つきと行事が重なり賑やかでした。Xmas会の昼食はバイキング形式。 みんな楽しそうでした。職員の方総出でサービスされていました。 お正月休みとして母を自宅に連れて帰ってあげたかったのですが出来ません。 せめてお家と一緒にと思いお正月飾りをしました。 みなさまの上に神のご祝福とご加護がありますように。良い年になりますことをお祈りしています。 今年も母と一緒に大切な時間を過ごそうと思います。
January 1, 2013
コメント(9)
寒くなりました。すごい出で立ちで母の施設に向かいますが施設は常夏?暖房がきいて快適です。お蔭さまで母はしっかり守られています。家ではエアコンをつけた上に足温器で足を温めたりと「これでもか」と言うほど暖房には気を付けていても母の手足は氷のように冷たかったのに。 今日も母の所へ行くとKさんお待ちかね。「おぉ~ よう来たなぁ~」とご挨拶。「ねえさん、今日はええ天気やなぁ~。チャリで来たんやろ! 元気やなぁ」このKさん、母の事を 「ぼくちゃん」と呼び、幼い男の子と思って居られる様子。母に食事を食べさせていると既に食べ終わったKさんは母の食事風景を目をへの字にして眺めて居られる。「ぼくちゃん、しっかり食べるなぁ~」「ぼくちゃん、眠りながらもしっかり口開けて・・・」「さすが、男の子や。 食べっぷりがええ!」 (ブッ )「ねえさん! ぼくちゃん、いくつや?」「99歳!」「 ほんな! アホな!」「ねえさん! 冗談言うたらあかんでぇ~」私はてっきり、冗談で判って言っていると思っていたので思わず99歳と答えてしまった。Kさん、完全に母の事をぼくちゃんだと。仕方ない、それで話を進めよう。「しっかり食べて早く大きくなろうね。おじさんが見てるよ。」と母に語りかける。すかさずKさん「そうや、大きくなるの楽しみにしてるで!」(だからぁ~ 99歳だってば!) 周りの職員さんと大爆笑。「Kさん、ありがとう。 いっつも笑わせてくれて。楽しいわぁ~」「そうか? おおきに、おおきに」 今日はプロの技を習得。体が完全に斜めに倒れてしまい歩行が困難な母を職員さんと二人介助でトイレに連れて行く。便座に座らせるまでに間に合わなくて漏らし、リハパンまで濡れてしまった。ズボンから全部脱がせなくてはと片方を脱がせ、もう一方を脱がせようとしたら「片方だけでいいのですよ」と言ってリハパンをいとも簡単に履かせてしまわれた。「えぇぇぇ???? 何ですか? 手品みたい 」 リハパンをズボンをはいている足に通す時、脱がせた方のズボンを一緒に入れて履かせるとどうでしょう。 全部脱がせないでリハパンが履けました。プロの技!着床時の寝かせ技。立てない人を便座へ座らせ技。リハパンの履かせ技。これで3つ習得。 まだまだこんなの序の口なのだろうな。プロの技をしっかり習得して母のお世話に役立てたい。 私は母一人で根を上げているのに今日も涼しい顔をして皆さんのお世話をされていた。 さすがプロ !
December 12, 2012
コメント(2)
「ねえさん! 今日、わしはお泊りか?」 最近、母のテーブルに男性が席を替わって来られた。 若年性アルツハイマー。 お歳はまだ60を5歳超えられた所とか。 見るからにお若い方です。 その方、私を 「ねえさん!」 「ねえさん!」 と呼ばれる。 「う~ん! 私はおねえさんとは違うけど・・・昔のおねえさんって所でいいかな?」 すこ~し、例によって少々H語がお得意のようです。 そのお話には乗らないし無視。 背を向けて反応しない。 即効で話を変えるとこだわりなくこちらの話に乗ってこられる。 やっと気持ちが通じたのか殆どその会話が無くなったKさん。 とっても優しい顔立ちでなかなかのフェミニスト。 いつもニコニコされて優しい気遣いが出来る方です。 でも、時々スイッチが入り落ち着かなくなる。 「ねえさん、今日わしはなんでここに居るねん!」 「ねえさん! わしは誰と一緒に来たんや?」 「ねえさん! わし恥ずかしいねんけど・・・聞いてもええか?」 「ねえさん、 わしは頭がおかしいいねん。 何にもわからんようになってんねん」 「ねえさん、わしはどうなってしもたんや・・・大の男が情けない・・・」 Kさんはドスの効いた声で 「ねえさん」と言ってからしゃべりだす。 なんか・・・私は渡世の世界で「ねえさん」と呼ばれているみたいな錯覚になる。 母の認知症の初期の頃の会話がダブりKさんの気持ちが良く判る。 「Kさん、大丈夫よ。 人間60歳も過ぎると時々判らなくなる時があるよ。 私も時々、あれ?って思う時があるし。 誰かに聞くとあ~そうかって」 「ほんま? 誰でもそうなん? ねえさんも? 安心したわ」 ものの1分も経たない内にまた 「ねえさん!」が始まる。 近頃は漸く会話の中身が変わってきた。 季節の話、世間話を広げて話すとしっかりその会話を広げられる。 どなたに限らず会話は大事なリハビリなのだと思われる。 それとは反対に同室のMさん。 どんどん口を開き訴える事をしなくなってしまった。 そして、体調を崩されベッドに伏せる事が多くなった。 あの入所された時にもっと訴えに耳を傾け、寄り添ってあげていたら。 今、このような事にはならなかったのでは???といつも疑問が湧いてくる。 「私はもうどうなってもいいねん。 死にたい」とばかり言っていたMさん。 気力がなくなってしまったのだろうか??? 「お話相手になりますから母と同じテーブルに」とお願いした事も届かなかった。 母の通う病院の家族会での合言葉。 「家族から絶対に目を離さない」 「心のケアは家族から」 「 特養 」 毎日通うとお一人お一人の様子が手に取るように判る。 やっぱり母だけではなく、みなさんにいつも心を向けてあげたい。 今日も合言葉が心に響く。 神さま病める兄弟姉妹の上にあなたの愛と福音がありますように。Marry X'mas
December 10, 2012
コメント(2)
判っているけど・・・やっぱり無理。母が段々立たなくなり歩けなくなってきている。しっかり立たせて歩く練習をした方がいいのは判っているが転倒させて以来怖くて仕方ない。お互いが緊張してガチガチになってしまっている。 「お母さん、そろそろ食事の時間だからおトイレに行きましょう」職員の方に教えられたように、母のひじに手を当てて母には腕をしっかりつかんでもらって立たせる。母はヨチヨチと今にも倒れそうに歩く。漸くトイレの便座に辿りつき、さてズボンを下ろして・・・と私が屈むと母は同じように屈んでしまい立たせようとズボンをつかんでも身体を座らせないように力を入れてももう母の力の方が強くて負けてしまう。腕を使い、足や膝を使いと、あらゆる方法で母の体を支えるがいやはや母の体重は35キロしかないがずっしり重い。トイレの呼び出しを押して職員の方に手を貸してもらってやっと母を便座に座らせる。食事前、着床前と一日に4回なのだが1回で根を上げてしまう。 「私には出来ません! どうしてあげたらいいのか・・・」とトイレを出た途端弱音を吐いてしまう。 今日の昼食介助もお手上げ。11時から体操があるのでその時間を見計らって少し早めに施設に入る。今日はすっかりオネムの体勢の母。「お母さん、おはよう。 来たよ。 そろそろ体操が始まるから起きようか?」母のほっぺに冷たい顔を当ててみる。それでも母は目を閉じ眠ったまま。完全に眠ってしまっている母を見て「ベッドへ連れて行って横にならせた方がいいかな?」「でも・・・起こして連れて行けるかな?」そんなことを色々考えている内に体操が始まり、食事前の段取りとなってしまった。「お母さん、起きて。 食事が来たよ」揺り起こしたり、ほっぺをつついてみたり、鼻をつまんでみたり。ウォークマンから流れる讃美歌を聞かそうとイヤホンを耳に入れたりとするが目を開けてくれない。食事を声をかけながら何口が口に運んだが咀嚼もままならず誤嚥をさせてはと思い食事を止めることにした。「すみません。 今日はいくらやっても起きません。 食事を止めてもいいですか?」「これから、こんな状態になってしまうのでしょうか?」母の様子を見ながら不安になってしまった。丁度、担当の職員さんが来てくださって母に声をかけられたがダメ。「まだまだ大丈夫です。 夕食しっかり食べてもらいましょう」「諦めるのは早すぎます。 しっかりお昼寝をしてもらって夕食はしっかり目覚めて食べてもらいましょう」「歩くことも私たちはまだ諦めません。歩いて貰います。 支えながらでも歩くことを忘れない為にも立ったり座ったり、テーブルのまわりとか 短い距離を少しでも歩いてもらいましょう。 諦めないで・・・私たちも頑張ります」職員の方の力強い言葉に励まされた私。過保護の私はついつい心を緩めてしまう。「Never give up !」 母の午睡を見届けて施設を出た。今日は午後から音訳の録音前の読み合わせ。その足で向かう。 その作業が終わり、母を起こさなければと施設に戻る。施設に着くと母はしっかりお目覚め。職員の方が午睡後の様子を伝えに来られた。「お昼寝をしっかりされた様子でおやつもしっかり食べられましたよ」と。お昼を食べなかったせいもあって夕食はほぼ完食。ホッとしました。夜の着床を済ませ施設を出る。帰路、自転車を走らせながら食事の時間も長くかかるようになり、着床までの段取りも時間がかかるようになった。これからが大変な時を迎えるのだろうな・・・そんなことが頭をかすめる。 頑張るぞ! って言えない弱気なりよえり。 お母さん私に頑張る力をください。 起きて私の顔を見て。
December 5, 2012
コメント(8)
この18日に母は99歳のお誕生日を迎えました。施設での夕食を止めて外へ連れ出し、姉妹でお誕生日会をしました。母と同じ11月生まれの長姉と合わせてのお誕生会です。姪のyumi-chan(次姉の娘) が 買ってくれたBirthday cake をテーブルに置いてお祝いをしました。ろうそくに火をつけに来てくれたお店のお姉さん「ひゃぁ~!! おめでとうございます 」 とびっくりされた。母は全く無関心。 それでも元気で外出をして一緒に食事が出来たことは喜ばしいことでした。 Happy birthday of 99 years 99歳を迎えてすぐに母の様子が変。椅子に座らせても体が横になり何度座り直しをしてもずれる。立たせてトイレに連れて行こうとするが今にも崩れそう。「お母さん、今日はどうしたのかな? しっかり歩いてね」声をかけながら一緒に歩くがしっかり支えていないと倒れこみそうになる。母のトイレ介助、歩行介助・・・色々母のお世話をしながら「いつまでこうして一人でお世話出来るだろうか・・・。 出来る限り最後まで母のお世話をしてあげたい。 出来なくなった時をちゃんと判断して 『力を貸してください』と言えるだろうか その時はいつ? なのだろうか・・・」そんな事を思いながら一日でも長く一人でお世話が出来ますようにと願ってきた。とうとう母が立てなくなった。夕食を済ませ何とかトイレを済ませて部屋に戻りパジャマに着替えてもらう。「お母さん、ズボンを脱いでパジャマに着替えようね」母を立たせ窓際の手すりに手をかけさせたが崩れるように座り込んでしまった。立たせられない。 満身に力を入れて立たせようとするがどうしても無理。丁度、向かい側の方の夜の介助に来られていた男性職員が居られ手を貸してもらった。次の日、いつものように昼食前のトイレ介助に母の手を取り相変わらず倒れそうな母を支えてトイレに入った。便器の前に立たせてズボンを下ろそうと私が屈んだと同時に母はまたしても座り込んでしまう。とにかく必死で座り込まないように立ち上がった瞬間に母が転倒。「お母さん!!」 その声に職員の方が飛んで来られた。母は朝、起床時もいつものように立たせようとベッドから足をつかせたがもう完全に足が立たなくて今日は朝から車いす移動をしましたとの事だった。職員の方が伝達事項が前後してしまって申し訳ないと平身低頭される。先日から母を転倒させてばかり。私は母に無理をさせていたのでは??と自分を責める。 いつか、母が立てなくなって私一人の手に負えなくなる日が来ると心していたが、とうとうその日が来てしまった事を切なく思う。食事介助にしても目を閉じ眠ったまま食事をしている事が多くなった。「私はこれからどう母のお世話をすればいいのでしょうか? 私はまだまだ母のお世話をいっぱいしたいです。 私に出来ることまだありますか?」担当の職員の方に話す内に涙がこみ上げてくる。 「一人ではもう無理の時がきたようです。 これからは二人介助です。 大丈夫ですよ。 まだまだお母さんには頑張ってもらいましょう。 私たちがちゃんと手を貸します。 一人ではなさらないでください。 骨折などされたらこのお歳ではもう完全にアウトです。 100歳を元気に迎えられるよう私たちがちゃんとついています! 私たちはプロです。 家族さんに出来る事まだいっぱいありますよ。 一緒にお世話させて頂きます。」力強い言葉を貰って助けられました。 母の午睡の着床を済ませ下に降りて行くと事務所に居られた施設長が「今朝から足元がしっかりしないようなので車いす介助させてもらっています」と飛んで来られた。施設内ではこんな事でも施設長に連絡されていることに頭が下がった。「私一人ではもう無理のようです。 先ほども転倒させてしまいました。 これからどんどんお世話をかけると思いますがお力を貸してください。 出来る限りのお世話をしたいと思います。 色々教えてください」と伝えた。 二人介助。トイレでの介助方法の伝授を受けた。 大変な作業であった。先日、同室の車いすの方が一人でトイレに行き転倒で骨折をされて入院中。そんな事を思うと一人で無理をしてはいけないと自分に言い聞かせる。施設からの帰り道、力及ばぬ自分が何だか切なくて涙が止まりませんでした。すっかり弱気になったりよえり。「力をかして下さい!」 ちゃんと言わなくっちゃ。 お母さん最後までお世話させてね。無理をさせてごめんなさい。
November 24, 2012
コメント(4)
日記を書けなくなって・・・月日の流れはどんどん私を渦中に押し込めていくようです。いつも 「May I help you?」施設に行くと 「私に出来る事ありませんか?」と思ってしまうシーンが私の心を締め付ける。デイに送り出した後の母の様子は連絡帳でしか判らなく「今日も元気に過ごしてくれた」「今日も職員の方にお世話になって・・・」とだけだったけど施設の中の様子を見ていると色んな事が目に心に飛び込んで私を揺さぶる。 そして・・・日記が書けなくなってしまった。 そんな中でも健気に母は施設での生活を穏やかに健やかに過ごしてくれていることは本当にありがたいと思います。 すっかり言葉が少なくなり話しかけてもじっと私の顔を見つめているがそれでも諦めず語りかけると言葉を返してくれる。話の成立は無理でも 「話す」事を忘れないでほしい。 そんな中でも最近、施設の様子が変わりました。午前中、食事の前に全員がラジオ体操や声の発声訓練をされるようになりました。広いフロア、太陽が燦々と降り注ぐフロアの中で職員さんの明るく大きな声が響き渡ります。そして、みなさん素直に? 一生懸命一緒になってラジオ体操をされます。ラジオ体操、発声訓練、そして最後にお昼のメニューの読み上げ。「今日も一日楽しく過ごしましょう」フロア雰囲気がとっても活気に満ちて明るくなります。私も一緒になってさせて貰っていますが気持ちいいです。 体操風景 身体を動かした後(母は体操出来ません、私ですが・・・)母のお散歩が始まります。フロア内をぐるっと一周します。母にはちょっときついようですが内科の先生は「ちょっときつくても大きな息を吸い込む事が出来ていいのでは?」といとも簡単に仰います。その返答に思わず素晴らしいと思いました。母は今月 99歳のお誕生日を迎えますが元気に歩ける事も喜ばしいことです。 母の手を取っておトイレに。 用を済ませ席に戻るときに手を緩めた瞬間 母を転倒させてしまいました。 手を繋いだままだったので床に寝転ぶように 倒れこんだ母。慌てて抱きかかえ起こしました。 母を抱きかかえると胸の中に顔をうずめたまま「えん、えん」と声を出して、しがみついたまま動きません。子供が泣いてお母さんの懐に顔を埋めて泣いているさまでした。母は痛かったことよりもきっと皆さんの前で転倒し注目されたことが恥ずかしかったのだろうと思いました。「お母さん、ごめんね。 許してね。」私も母をしっかり抱きしめた手を緩めず母を受け止めました。母は長いこと私の胸に顔を埋めたままでした。きっと母は色んな事我慢して母なりに頑張ってくれているんだなと感じました。 「お母さん、しっかり甘えてね」お母さん、私はいつも一緒だから。
November 8, 2012
コメント(6)
昨日は認知症外来の診察日だったので外出願いを出すと同時に家で過ごさせようと2泊3日の外出をすることにしました。 診察時間が早かったので施設のお迎えが8時半頃となりました。前もって職員の方が「排便が朝食後に必ずあるので道中であったらいけないのでどうしましょう」とオシメの心配をされていた。しかし、外出前のトイレ誘導で母はしっかり排便を済ませる事が出来職員の方はホッとしましたと。こんなささいな事を気にかけてくださり、日々の母の様子をしっかり把握して処置を心得て下さっている事に感謝の気持ちでいっぱいになりました。その職員の方、ちょっと冷たい感じで仕事をテキパキされるし、はっきり言葉を出されるのでで苦手だなぁ~と思ってみてました。何か言ったら叱られそうで・・・ビクビクだったのですがやっぱりこんな人は自分に自信を持って仕事をされて居られるからそんな風に見えたのかも知れないなと思いました。 「いってらっしゃい」と職員の方に見送られて母は施設を後にしました。久しぶりの車での外出。心なしかうれしそうです。母のうれしそうな顔を見るとこちらまでうれしくなります。久しぶりの診察日。いつものように主治医の先生が母にご挨拶されます。「今日は来てくれてありがとうね」「お元気でしたか?」「お食事はちゃんと食べられて居られますか?」「夜はよく眠れますか?」色々と母の顔を覗き込みながら母の目線で優しくお話されます。母はじっと先生の顔を見つめていますが声になりません。母はすっかり言葉を忘れたのかあまりしゃべらなくなりました。仕方のないことでしょうね。それでもなんとか言葉を発し話をしてくれました。そして、一通り母へのご挨拶が済み「どうですか? その後の様子は。 特に変わったことはなかったですか?」先生が聞いてくださいます。「先生、母は施設に入ってから体調も良く、落ち着いた穏やかな日々を 過ごさせてもらって毎日いい笑顔を見せてくれています。 私的にはとても喜ばしいことなのですが・・・ 実は今日は私が診察をして貰わないといけないかも??? の状態です」と診察依頼?施設での事や思う事等いっぱい疑問、質問として訴えた。「言わんとされている事、お気持ち判ります。特養とはそう言う所です。 ですが、色々な問題点、不審な点があれば自分の言っている事は 正しいと信じて施設に投げかけてください。 施設として気付かないことだってあるし、言い続けることで いつか改善されていくと思うので諦めずに自信を持ってください。 こちらの家族会でもお話されてみなさんの意見を聞かれる事も方法だし・・・」と力付けて下さいます。「相談窓口の方に何度か色んな事を投げかけましたがやっぱり その都度、言ってください で終わりでした。 何度も繰り返し言っている内に 自信がなくなり、もういいか・・・で諦めてしまう。 そうなると段々、母の施設へ出向く足取りが重くなり心が沈んでしまいます。 でも、母の事をこんな事に気を取られ行けなくなることはバカバカしいしと 気を取り直して出かける毎日です」とうな垂れるりよえり。「家族会に来られている方はやはり色んな意味で意識度が高いと思います。 そんな中で相談したりしながら施設へどうかいい続けてください。 時間はかかっても必ず変わっていきます。 自信をもって!」 主治医の先生に励まされ、心のケアをしてもらい病院を後にしました。 マザーテレサの祈りの中の言葉が 「 あなたの正直さと誠実さとがあなたを傷つけるでしょう。気にすることなく正直で誠実であり続けなさい 」 そう言って励ましてくれているではないか。 母は家に帰って来てやっぱり階段が上がれませんでした。一段ずつ、母を担いで登る事になりましたが母は恐怖でガチガチになっていました。家に帰って来ても反応はありません。施設で黙って一日を過ごしているのだろう。食事が済んで母の椅子に座らせてもすぐに目を閉じてしまいます。 ゆっくり休んで。足の浮腫みを十分にとってまた施設に帰ろう。施設で過ごす母にとってやっぱり施設が一番落ち着く場所なのかな? その為にも頑張んないと・・・
October 13, 2012
コメント(4)
母の特養の施設に通うようになって近頃心がblue。 「共同生活」ってつくづく大変な事だなと痛感する。そして、今まではいずれ自分もお世話になる時が来る筈それまでに少しでも 「居心地のいい場所」として形作れたらなと外目線だったりよえり。 利用者の立場になって過ごしやすい施設であることが一番なのだがそれは誰に基準が定められるのか?判らない。 判らないがずっとくすぶっている。 施設は幾分涼しくなった時点からエアコンのスイッチを切られた。日中はまだまだ猛暑です。施設の管理される設定温度は何度? 基準は?暑くてたまらない。 食堂に皆さんが食事に集まられ全員が揃う。食事が始まると熱量が出て熱気で一層暑くなる。職員の方に 「暑くありませんか?」と聞く。「暑いですね」 で終わり。「エアコンつけてください」と言わない限りON にならない。施設の担当者にその事を尋ねてみたら施設での管理温度は28度。締め切った部屋でのエアコンなしはきついのでは?「寒いとおっしゃる方が居て・・・」「それなら、寒い方は衣服で調整して頂けませんか?」体温調整が出来ない老人にとってはちょっと問題では?うちわを一生懸命あおいで居られる利用者さんはいい。暑くても黙って居られる方に 「水分補給を」としきりに気遣って居られる。????そして、暑くるしい中、早々と利用者によって閉じられるカーテン。施設で管理をと願ってもその場限りで放置。私はそのカーテンを時間差で開ける。ほらごらん。外の夕焼けを見て「まっかな夕日がきれい!」と利用者さん。しかし、毎回それを実行出来ない。「またか・・・」で諦めてしまう。 大人しい利用者さんはいつも後回し。色んな事がふつふつと湧いてくるりよえり。私は利用者の家族であって、さしでがましい事はしない方がいい。職員の方は黙って仕事をこなして居られるが。何かおかしい。 同室のAさん。食堂に設けられた洗面台で食後の口腔洗浄をされない。自室の洗面でされている事に気が付いたので洗面台から歯ブラシセットを取りやすい場所に置き歯ブラシにチューブをつけて置いておいてあげるようにした。「ありがとう。 ここに入ってはじめてこんなことをしてもらった」と涙される。「何でも言ってくださいね。 気が付くことは何でもさせてもらいますからね」「大丈夫ですよ。 私がいつもAさんの事気にかけていますからね」左半身不随ですべてご自身でされる。ある時、どうしても着替えが出来ず 「どうしても着れない」と声をかけられた。「片方がひっくり返っているわ。 もう一度脱いで着なおそう」と着替えを手伝った。「ありがとう」 もう涙である。少しの事で心が詰まる。 こんな何でもない優しさに感動されるのはやはり淋しい事を堪えての事だろう。「大丈夫。 ちゃんと私がサポートしますよ」 と心で呟く。 同室のBさん。相変わらず絶叫型。「すみませ~ん。トイレつれてください」あまりの頻繁さに皆さんからブーイング。「職員の方は忙しいだから自分で行きなさい」「私、車いす動かされへん。 危ないからいややねん」この方、あ~言えばこ~言う タイプでエンドレス。でも、なんだか憎めなくてとってもやり易く可愛く感じる。職員の方に「お話相手になりますから母と一緒のテーブルにしてあげてください」とお願いした。 「あんたべっぴんさんやなぁ~。」とお上手を言ってくださる。ある時、ふとため息が出た。「なに? それ! そのため息なに? あんたの顔に似合ってないで」って。私ってどんな顔なん?食事もあれ嫌い。 これ嫌いでいつも文句を言って食べない。「そんなん言うたら作った人泣くよ。 一生懸命作ってくれてはるから食べて」「こんなまずいもん放り投げたいわ。 怒られるわなぁ~」判ってるやん。「うちが作った方がもっとおいしいわ。 みんなだから残してるやん」「お味噌汁残ってるよ。 飲んだら?」「口いっぱい含んでぷーって吹き出してもいい?」笑いながらおちょくられる口調。「私、トイレ行きたい。 もう我慢できない」「でも、食事中に行儀わるいなぁ~」(判ってるやん!)「そうやね。 これ全部食べてしまってご馳走さましてから行こか?」俄然張り切りだして完食。その後、トイレの事は言わなくなった。母の手を握りながらご飯を食べさせていると「あんた、おばあさん甘やかし過ぎやなぁ~。手まで握って」「うふふ・・・」「ええよ。 うらやましいわぁ~。 私もしてほしい」「いいよ。いいよ。」 シェイクハンドで笑顔満面。私は母の所にたどり着くまで皆さんにスキンシップを兼ねて必ず手を握る。「あんた、いっつもテンション高いなぁ~。その声聞いたらホッとするわ。」「私もホッとするわ。 今日も一日元気やったぁ~」って。 母はいつもそばでそんな私を見てくれている。「りよえり。 みなさんに可愛がってもらいなさいよ」って顔してる。 いつもフロア内を仕切ってわが物顔の方Cさん。先日職員の方が夕食の前に「みなさ~ん! Cさんが今日で退所されます」と声を発せられた。そばに行ってさよならの声をかけた。「おめでとうございます」 ??? でいいよね。「良かったですね」 ??? は 居られる方には失礼よね。どう言ったらいいの?「お元気でね」 としか言いようがない。10年過ごされたそうです。そら、主にもなるのは当たり前か・・・。こうして元気に退所される方が居られることに何だかホッとしたりよえり。聞けば、◆男さん。入所の時は要介護で車椅子だったのに今ではスタスタ歩いて要介護が外れるんじゃないか?と言う方も居られる。 何だか特養での共同生活。私には無理のようです。母の事だけを見ていたらいいと判っていても、どなたも気になる。施設内の事も色々個人個人が好きなようにするっておかしくないですか?暑い寒い、その他諸々、千差万別。 私を通せば他の方が我慢?みんなが気持ち良い生活の場って出来ないのかな。職員の方も色々で黙って居られるみたいだが。 でも、聞いてしまった。「なんでこんなに暑いのにエアコンもなし?」「私たちは最上階で照り返しで暑いのに・・・」職員の方同士が話してる。一体だれがこのフロアを管理しているのか。職員の方が家族に「家族さんから言ってくださるのが一番なので何でも言ってください」と言われたがそれは違う。誰に遠慮して仕事をしているのか誰の為に仕事をしているのかをしっかり考えて頂きたい。 今日はずっと我慢していたが気分が悪くなって帰ろうとしたその時、フロアのエアコンのスイッチが入った。「??? なんですか? 今頃エアコンがつけられて。 食事の前につけるのが普通じゃないですか? 大勢が集まり暑かったのに、みなさんが午睡に入られて人数が減ってから つけても意味がないのでは???」今日は我慢が出来ず、事務所の相談員の方に一言声をかけてきた。外の爽やかな秋のそよ風に吹かれて心地よく施設まで来たのに施設のフロアに入ると熱気と臭気が充満しているその不快感。なんとも言えない。 「空調管理を私たち家族がその都度言うのではなく、職員の方に 徹底していただきたい。 今の季節微妙ですが、寒い方は一枚羽織るとか衣類調整をして 空調管理して貰えませんか。」(手が足りないのは重々承知ですが)(利用者さんが数名熱を出されているが 体温調整が出来ずに熱を出されているのではないですか?) 諦めず、根気よく施設に言い続けるのですよ。家族会で言われた事をはんすうするがなかなか言えないし言い続けられない。めげそうになるが 家族は黙っていてはいけないを痛感する。 しかし「また不快指数の上がる場所に行かなければならない・・・」だんだんと施設に向かう足が重く感じる今日この頃。誰も嫌な事口にしたくないよ。 気持ちよく母のお世話に通いたいだけなんだけど・・・
October 10, 2012
コメント(2)
今月も母のお世話になる病院の認知症家族の会の定例会がありました。 「 認知症と食 」講師認知症看護認定看護師 : 森 本 早 苗 ◆『食べること』の流れ ・ 食べ物を認知する → 認知期 ・ 食べ物を口に取り組む → 捕食 ・ 食べ物をかんでのみ込みやすくする → 口腔期 ・ 食べ物をのどへ送込む → 咽頭期 ・ 食べ物が食道を通る → 食道期◆ 『認知症の方の食の問題』 ・ 食べない ・ やせてきた ・ 立ち去ってしまう ・ おかずとごはんを混ぜてしまう ・ 食べるのが早い ・ 一つの皿だけを食べる ・ むせやすくなった。食後に咳が出る ・ 花瓶の花を食べる。トイレットペーパーを食べる≪ アルツハイマー病の方に対する食事ケア ≫◆ 初期 『食行動(料理のつまづき)』 初期では実行機能障害、記憶障害、判断力の低下により 買い物や食品の貯蔵管理、さらに鍋こがしや台所の乱雑、味付けの変化がある。 しかし、手続き記憶は維持されているので支援することによって認知症の人にも 料理を継続することが出来る。◆ 中期 『 食べようとしない 』 食物を食べる対象物として認識できない(失認) 例えば ・ 白い茶碗に白いごはん → 茶碗を色物にしたり、ふりかけをかけたりしてみる ・ 透明のガラスのコップ → プラスチック、陶器など色物のカップにしてみる ・ どのように使ったらいいのか判らない → 使い慣れたものを使用する。◆ 中期 『 途中で食べるのをやめる 』 注意障害によって食事以外の環境から過剰の刺激によって摂取を中断することが ある。 ・ 静かな環境つくり、好物など 「食べたい」と言う意欲を誘発するのも有効である。 ・ ワンプレート式や丼等食器類にも工夫をしてみる。◆ 『 食べ方のみだれ 』 (レビー小体型認知症も同様) ・ 食具の位置や使い方に混乱している場合や箸がうまく使えないで手で食べたり することがある。使いやすい食具やテーブルの色柄にも配慮してみる。 ・ 後期になると 口腔失行が認められ口を開かない、 いつまでも口腔内に食べ物をふくみ呑み込めない状態となるが 「口を開けてください」 「のみ込んでください」と言葉で伝えても判らない。 頬をトントンと触れてみる、下唇にスプーン等を触れてみる、好きなものを 出してみる。感覚機能を活用した食事ケアも有効である。 嚥下機能の低下により肺炎、窒息に注意。≪ 血管認知症(VaD)の方に対する食事ケア≫◆ 『 のみ込みにくい 』 『 食べようとしない 』 ・ 障害部位にもよるが認知症の発症時から嚥下障害を伴う事が多い。 ・ 記憶障害は記銘と再生に時間がかかり、食事であることを伝えて認知するのに 時間がかかる。 待つことも大切である。◆ 『 途中で食べるのをやめる 』 ・ 麻痺や局所神経症状を伴うことも多く、利き手に麻痺がある場合動作が出来ない。 自助具の工夫など動作支援が必要。◆ 『 食べ方のみだれ 』 ・ 障害の部位によって半側空間無視がある場合注視している方とは反対の 方側半分を残すことがある ・ 食器の位置、向きなどを変える工夫をする。 仕切りなどは視覚探索に繋がるので注意。 ≪ レビー小体型認知症(DLB)の方に対する食事ケア ≫ ◆ 『 のみ込みにくい 』 ・ 錐体外路疾患であるからパーキンソン病同様に嚥下障害が起こる。 ・ 不顕性誤嚥(のみ込むタイミングがずれむせる)も起こりやすい。 ・ 痰が絡んだり、嚥下に時間がかかったりで食欲の低下が起こる。◆ 『 食べ方のみだれ 』 ・ 調子のいい時、悪い時の状態を踏まえた対応が必要である。 ・ お薬などの調整によって摂取量力が改善される場合もあるので 専門医に相談してみましょう。◆ 『 食のみだれ 』 ・ 視空間認知障害 口に運ぶまでの距離や位置関係が判らずうまく食べ物を掴んだりすくえない事で 食べることを止めてしまうことがあるので考慮する必要がある。 ◆ 『 食べようとしない 』 ・ 幻視などの症状も特徴的で 「虫が入っている」 「何かがみえる」と 訴える事があるが、本人が納得・安心して食事が出来るよう対応する。◆ 『 途中で食べるのをやめる 』 ・ 注意障害(他の雑音や雑事が気になる)やパーキンソンによる摂取の中断 ・ 無動・前掲姿勢などのパーキソニズムによる食事への影響を予測することも 重要である。 症状に応じた食事への環境つくりが必要である。 ≪ 前頭側頭型認知症(FTD)の方に対する食事ケア ≫ ◆ 『 途中で食べるのをやめる 』 ささいな物音でも敏感に反応し、中断・立ち去り行動につながる。 ・ 落ち着ける環境つくり、食事中に声をかけない、壁に向かって食べる テレビをつけない、耳栓をする ・ 手に持って食べられるものをなど食事形態を工夫する ◆ 『 食べ方のみだれ 』 ・ 食べ物を次々と口に詰め込む、早食いなどの食行動も特徴である。 サイズの小さいスプーンにして1回の量を少なくする。 窒息しにくい食材・食物形態にする。 ・ 繰り返し行動により決まった時間に決まった(同じもの)料理に固執し 決まった場所で食べるという特徴があるので本人の主体的な食行動を 最大限に生かすことが大切である。 ・ 自発性の低下 嚥下障害はないが、長時間咀嚼する 視空間認知機能・手続き記憶・運動機能は保たれていることから その人に適した環境を用意するとともにゆっくりでも最後まで声をかけたり することで、後期まで自力で摂取可能となる。 以 上 認知症になると 「食べる事を忘れる」 「食べる事」が生きることに繋がる一番大切な事。色々な工夫をし配慮しながら食事を楽しんでもらえる環境つくりも大切な事。お話の後、みなさんから色々な質問や相談がありました。そんな中でやはり、「黙ってないで、しっかり施設には訴えましょう」と言う事を力を込めて発言されました。聞いて貰えない事が多々あるが、それでも言い続けるのですと。「言い続ける」 なかなか難しいです。
September 23, 2012
コメント(2)
母を我が家に迎えて13年の歳月が過ぎました。その当時、まだ「認知症」という病気をはっきりと認識せずにいた私は母をそのまま受け入れるだけの事しか頭になく、軽く考えていました。 「私はどうしたのかしら」「考えても考えても判らない」「頭がおかしくなったのかしら」困った顔をして悲しい顔をして私に訴える母に「お母さんはね、色んなことを忘れちゃう病気になってしまったの。でも、大丈夫。私がいつもそばに居て守ってあげる。私がちゃんと支えてあげるから安心していてね。 大丈夫だからね」何分もしない内に母の不安な心は頭をもたげ何度も何度も同じことを繰り返し訴える度に私は母を抱きしめ、手を握り呪文の様に「お母さん、大丈夫。お母さんをちゃんと守るから」と繰り返しました。 そんな日々を重ねながら母の認知症はどんどん進行し、混乱期真っ只中と言った状態になり、デイでトラブルを起し頭を下げる回数が増えました。 暴言を吐き、介護拒否による暴力、利用者さんとつかみ合い負けていない母。「見当識障害」もうまったく人格が変わり今までの母は居ません。とうとう、不本意な事に施設を変わらざるを得なくなりました。これから先の事を考えるとまだ在職中であり施設で受け入れてもらえなくなったらどうしようと言う不安が募り「認知症」と言う病気をしっかり把握し、介護のこと、施設の事などを本やインターネットであさるように調べました。母にはどういった施設があっているのかと施設見学もしました。その中で、母が私と一緒に住む前に姉と住んでいた吹田市に施設があるのを見つけ早速見学に行きました。そこは残念なことに、大阪市が管轄していて大阪市か吹田市に住んでいる人しか入れない事を知りました。しかし、職員の方が親切に「同じ敷地内にもうひとつ認知症専門の施設があります。そこはショートステイなら他市からでも受け入れしていますのでご案内します」と案内された。 案内されたと同時に施設を利用するには「認知症の診断」を受けて下さいと言われ、同じ敷地内にある病院を紹介された。 ただ、軽い気持ちで施設見学に行ったのにレールに乗った電車が助走から走り始めるような感じで道が開かれていきました。 この事の成り行きは考えても不思議な糸で操られたようにぐいぐいと引っ張って行かれるさまでした。 病院で検査を受けた診断の結果母は「アルツハイマー型認知症」でした。認知症の検査である長谷川式のテストでは25点満点の5点でした。 進行度は認知症の中期の後半。すでに母と同居して8年の歳月が経っていました。母には「アリセプト」と言う認知症の薬が投与されました。「まれに薬が合わなくなってショック状態を起こすことがあるので注意して下さい」と主治医から注意を受け母に投与しましたがやはり、ショック状態を起こし顔面蒼白となりお薬は諦めることとなりました。 色んな事が起こったり経験したりする中、私は母の記録を綴ろうとインターネットでブログを始めることにしました。 ブログでは同じ立場の方や介護を職業とされている方々から助言を頂いたり励まされたりで随分支えられました。そして、月1回の「認知症外来」の診察日は母だけではなく介護者である私の心身のケアまで主治医の先生はして下さり支えられました。 母の混乱はひどくなる一方。一旦スイッチが入ると顔つきが変わり暴言を吐き不平不満が爆発となってそれを吐き出すまで終止がつきません。 「お母さん、大丈夫。胸の中に溜まっているものを全部吐き出して。スッキリしたらいい」母は思いの丈を吐き出し、沈下すると嘘のように大人しくなりました。 病気が母を苦しめている。私は母が哀れでそんな母を見るたびに 「どうか母を楽にしてあげてください」「一日も早く何も判らなくなって苦しみから解放してあげて下さい」と祈りました。 母には精神安定剤が投与され、効果覿面で母は大人しくなりました。それは母を大人しくさせると同時に無気力となりうつろな目でボーっとしているか眠っているかとなりました。 「お薬にコントロールされている母」「こんな形で生かされている母」そんな母を見て私は自分を責めました。 母を観察し、お薬の服用時間、タイミングは母にとっていつがベストなのか負担が少ないのかを図りました。 色々試行錯誤しながらの在宅介護でしたがデイやショートステイの施設に支えられ守られて、母は漸くお薬からも解放され安定し穏やかに過ごす日々が多くなりました。 生活環境が在宅介護を断念しなければならなくなって梅◎苑でお世話になる事になった今母は元来の物静かな穏やかな母となりお茶目なチャーミングな笑顔を見せてくれています。 「認知症」になった母から私は沢山の事を学び教えられました。その中の「愛すること」「敬うこと」「受け入れること」が今までより深く考えるようになりました。 母は今なお親としてしっかり私を支え守り導いてくれていますことは感謝です。 これからも母の愛をしっかり受け止め母に寄り添って行きたいと心しています。職員の皆さま、そして利用者の皆さまに囲まれてお祝いの席に出席させて頂きありがとうございます。 これからも母共々よろしくお願いいたします。 「お母さん、ありがとう。そして元気に100歳のお誕生日を迎えられますように」 敬老の日に母がお世話になっている施設で お祝いがありました。 白寿 1名、米寿 4名、喜寿 2名 合計 7名の方のお祝いです。 母が白寿です。 その日にお母さんの事を書いて読んで頂けますか?と施設から前もって お願いをされました。 「書けないですし、みなさんの前で読むなんて出来ないので 不参加にさせてください」とお願いした。 「それでは、職員が代わって読ませて頂きますよ。 是非一言・・・」 折角お祝いをしてくださるのに・・・頑張って書かないと。 頭書の文面がそれです。 当日、母の担当の職員の方が 「私が読ませていただきます。 もう、涙が出て私読めません・・・」 「一生懸命読ませていただきますが、涙で十分に読めなかったらごめんなさい」 目をもう潤ませて私に話かけられた。 「大丈夫ですよ。 下手くそな文章を書いたので 『涙で読めません』って 途中で終わってください」 そんな事書いたっけ??? 式典で職員の方が声を詰まらせながら読まれるのを聞いて 母と過ごした日々が思い出されこちらまでもらい泣きをしてしまった。 母は昼食後いつもお昼寝をするのでその日も始まる前から 椅子に座ったまま眠った状態。 ずっと眠っているのだろうか?と心配したが催し物があったりで 目をしっかり開き見入っていました。 職員の方に囲まれて母はとっても嬉しそうでした。 どきどきの 「敬老の日」 が無事に終わりました。
September 18, 2012
コメント(2)
母の施設にお世話になって施設に 「家族会」とか施設との話し合いの場がないことが判り、母の事や施設での事柄の質問や相談、話し合いをどのような形ですればいいのかと考えていました。 その場その場で不特定な職員の方におしゃべり感覚ではなくちゃんとした形でお話が出来ればと考えました。丁度、母が施設で過ごした3ヶ月を区切りに母の入所時に説明に来られた職員の方に時間をとって下さいとお願いしました。聞きたいこと、知りたいこと疑問に思うことをリストアップして昨日、その時間を取って頂きました。 1. 母の施設での生活環境。 母の部屋は多床室。 窓際にゆったり取られたコーナーは母も私もお気に入り。 お部屋に戻ると母は外を眺めながら寛ぎます。 食事のテーブルは母が一人で使わせて貰っていますが 気兼ねやさんの母にとってはちょうどいい空間でここでもゆったりしています。 時々、利用者さんの家族の方が食事介助に来られた場合ご一緒するのですが 母は満面の笑顔で会釈して何やらおしゃべりしています。 みなさんとても98歳には見えないと驚かれます。 部屋の事、一日過ごすフロアでの母の位置など施設での対応に感謝とお礼。 2. カーテンの閉める時間帯のこと。 床からある大きな窓から外の景色がとっても解放的で心をゆったりさせてくれるのに 早い時は4時頃から利用者さんが遮光カーテンから厚手のカーテンまで 閉めてしまわれる。 その事を一度カーテンを閉める時間が早すぎないかと 開けておいて欲しいことをお願いしたが 「利用者さんが閉めてしまわれ、注意すると興奮されるので・・・」と言う回答だった。 その事を思うとそれ以上の事は言えない状態になり、この夏の日が高い内から それをされると気が滅入ってしまっていました。 しかし、考えても考えても施設、職員の 「・・・・利用者さんが興奮されて・・・」の 対応に疑問しか湧いてこない。 「施設としての対処の仕方」 「職員の対応の仕方」 「工夫がある筈」等が いつも頭と心にひっかかっていた。 西日がきつい時間帯以外は時間いっぱい外の景色を楽しませてほしい。 雨が降ったり、風がきつかったり、雲の様子色んな外の移ろいを 目で確認し、会話を広げさせてほしい。 ◆ 施設側は了承してくださり、カーテンの開け閉めは施設側が判断し 職員が利用者さんの行動を見て見ぬふりをして済まさず 利用者さんの対応を確認しながらしていく。 3. 同室の方のこと。 母と1日2日違いで入所された方。 相変わらず、「絶叫」型で職員に絶えず要求されている。 その都度、声をかけたり、母と一緒のテーブルに来てもらったりと 気にかけている。 職員の方も丁寧にその方の絶叫に応えて声をかけたりされることが多くなったが まだ、その方の心に届かない。 お話相手になれるので母と一緒のテーブルにしてあげて下さい。 脳梗塞で左半身が不自由になり全くリハビリもされていない。 母と一緒の時、手や指の運動の声掛けくらいは出来ますよ。 もう一人の方のこと。 この方も脳梗塞で左半身が不自由な方。 母が一人でテーブルに居るといつもそばに居て下さっているのを見ける。 気にかけてくださっている様子がわかる。 この方は私たちが部屋に居ると窓際にきて 「カーテンが開いて外を見るのが大好き」とおっしゃる。 そして、「今日は風がきつい」 「雨が降りそう」 「まだまだ暑そう」とか 外の景色を見ながらお話をする。 その方は食事の後、他の皆さんはそのフロアにある洗面で歯磨きをされるが 自室に戻り自室の洗面で歯磨きをされる。 私はそれを知って歯磨きセットのコップなどを取りやすい位置に置いておく。 夕方は近頃日が落ちるのが早くなったので電気をつけておいたり。 それが消されてしまっている時があったり、ご丁寧にコップが元に戻されていたり することがある。 初めてコップを手にしたらコップが滅茶苦茶な状態になっている。 使った後、十分に汚れを落としていないし、濡れたままだったのでカビがついている。 びっくりして洗い磨いたが十分にとれない。 同室の方の事又他の利用者さんに十分には出来ないが私の出来る事があれば お手伝いさせてもらいたいと伝えた。 ◆ 職員への気遣いとしてお気持ちを職員に伝えます。 コップの配慮も職員の手落ちです。 改善するように伝えます。 4. 職員の部屋に利用者さんが勝手に出入りしていること。 職員の作業室に利用者さんが勝手に出入りし、冷蔵庫を開けて居られたり、 引き出しを開けて居られたりする光景を見てびっくりした。 何故なのか? 問題はないのですか? 他の家族の者はびっくりする。 ◆ 利用者さんが持って来られている物を冷蔵庫で預かっている。 それを食事の時に出してもらっている。 職員の手が離せない時等がある場合、出来る方にはしてもらっている。 今まで問題はなかったが、この対応がいいのかは職員間で思考中。 再度、検討してみます。 5. 食事メニューのこと。 食事メニューに、同じ食材ばかりでバリエーションがなく、プロとしての 工夫、努力が足りないのではないか? (これは随分考えました、利用者の負担のコストの問題等が絡んでくる?) この話は丁度栄養士が居るので同席してもらいご家族さんのご意見として 生で聞いて貰った方がいいと思うので声をかけて来てもらいますと言われ 同席してもらった。 3ヶ所施設を利用させて貰って他と比べるのはとても恐縮だが ここの食事内容を見てこれは施設の問題かそれとも栄養士?それとも 調理師の方の責任? プロとして工夫、努力が足りないのでは? カロリー計算をされて、ちゃんとした栄養も考えられているとは思うが 他の施設は 「わぁ~おいしそう」とか 「こんな料理が出来るの」とか 家族がとても勉強になる工夫が見て取れた。 家族だけではなく、利用者にも 「わぁ~おいしそう!」と言う気持ちは ちゃんとあると思う。 ◆ 施設の食事は集中調理である程度出来上がったものが届けられ 調理する。 同じ材料でこちらは煮物にこちらはサラダにとかで使われたメニューが 続いたのは確かにある。 食費の単価はどの施設でも同じでメニュー内容との関係はない。 施設でも集中調理の業者には掛け合っているがその場限りで繰り返される。 改善します。 そして、プロとして工夫、内容を改善するように努力します。 最後に、食事のことで、母の食事の摂取が足りないのではとご注意をうけた。 入所時からの体重を量っているが、毎月体重が減っている。 41キロ → 40キロ 今月は39キロ。 見た感じは3キロの変化は見られないし、お元気な様子だが心配している。 施設での必須カロリーは1500なのだが、母の今は1200カロリーしか 摂取されていない状態になっている。 確かに配膳された食事の量を見て男性と同じ量のような感じだったのと今までの 家での量を考えると多いように思ったのと、 母が苦しそうにお腹をさすりだすと「お腹いっぱいなんだ」と判断し止めていた。 しっかり食べさせなければと反省。 お忙しい時間に話し合いの場をとって頂き良かったと思います。これから3ヶ月か半年に1回位でお話をさせて頂きたいとお願いしました。中途半端な思い込みや疑心暗鬼が相互の誤解を招き、信頼関係が崩れると思う。家族として施設の姿勢、職員の対応をプロとして受け止めこれからもご指導していただきたいと願っています。話の内容や、今後の対応の回答は時間を下さいとのことでしたが 母の様子の事を含め、色々お話が聞けて良かったと思います。 母の病院の家族会での交流の中で私は色んな形で教えられ知り得た情報があったから出来た事だったと思います。母が幸せな時間を過ごさせて貰っている施設に何らかの形で利用者さんを含めて一緒に穏やかな空間を共有出来たらと思います。
September 10, 2012
コメント(4)
母が特養に入ってそろそろ3ヶ月になります。不安だった日々が薄れ、毎日を迎えられるようになりました。(って・・・母が不安ではなく、私がですが・・・ ) 母はとっても穏やかに安定した毎日を過ごしてくれています。いつも笑顔がこぼれます。小さい声で遠慮がちにおしゃべりしてくれる母。「なんて、可愛らしい人なんだろう・・・」と肩を抱き頬を寄せます。母も嬉しそうに応えてくれます。 時々、その遠慮がちな声で私にポロリとこぼします。「ここにいてもいいの?」とか「これでいいの?」 「これ、使っていいの?」 とか・・・。母の遠慮がちな心はきっと自分が居る場所は 「家」ではないことを判って言っているような気がする。「お母さん、大丈夫。 ここに居ていいの」「何もかも オッケーよ!」 ってオーバーに母にリアクションしてみせる。 食事が終わって、お昼寝をしに部屋に戻る。部屋は南向きで大きな窓から燦々と陽がさしている。部屋に入るなり「わぁ~ とっても明るくて気持ちのいいこと」 と喜ぶさま。何もかも判っている母。こんな気持ちが言葉になるお母さん。 素敵です。 嫌な思いも、辛い思いも、悲しい思いも取り払われそんな素振りをしなくなった母。何をしても、判らない事を言っても私が笑っていると一緒に笑い返す母。母の心が満たされ、心身が豊かであることが手に取るように伝わってくる。心から私はうれしいです。 感謝です。 母のお世話に施設に通い色んな事が見え始めブログが書けなくなりました。母だけを見ていると何も思うことはないのですが家族の立場として考えたとき、「私に出来ること」を考えてしまいます。今、耳をふさぎたくなる光景が続き居たたまれなくなって飛び出したくなります。施設での対応には間違いはないとは思いますが「何か方法はないものなのか」母が昔、不安だった頃の状態が思い返されるだけに何かお役に立ちたい。 「みざる。きかざる。いわざる。」?私にはできない。 「あなたの中の最良のものを」 "☆" マザーテレサの祈りより "☆" 人は不合理、非論理、利己的です。気にすることなく、人を愛しなさい。 あなたが善を行うと利己的な目的でそれをしたと言われるでしょう。気にすることなく、善を行いなさい。 目的を達成しようとすると邪魔立てする人に出会うでしょう気にすることなく、やり遂げなさい。 善いことをしてもおそらく次の日には忘れられるでしょう気にすることなく、し続けなさい。 あなたの正直さと誠実さとがあなたを傷つけるでしょう気にすることなく、正直で誠実でありなさい。 あなたが作り上げたものが壊されるでしょう気にすることなく、作り続けなさい。 助けた相手から恩知らずの仕打ちを受けるでしょう気にすることなく、助け続けなさい。 あなたの中の最良のものを世にあたえなさい蹴り返されるかもしれませんでも最良のものを与え続けなさい。 <2010.6.22 の日記より> きっと、いい方法が見つかるはず。「あなたのために」
September 5, 2012
コメント(6)
今月も第3火曜日に母がお世話になる病院の認知症外来の家族会があり出かけてきました。 『 認知症の症状をどう考える 』~ 徘徊 ・ 不眠 ・ 意欲の低下 ~大阪市立弘済院附属病院認知症疾患医療センター精神内科・神経科 部長 中西亜紀 ◆ 認知症の中核症状と周辺症状 (主にアルツハイマー型認知症を軸に分けられている) 大きく分けると2つに分けられ 1. 中核症状(記憶障害、認知障害、人格変化) ● 程度のさはあれ、すべての患者にみられる。 ● 疾患の進行とともに悪化する。 2. 周辺症状BPSD(神経症状、行動障害など)<問題行動といわれていた> ● みられない患者もいる ● 疾患の重症度(進行)と比例しない。 ◆ BPSD とは? <周辺症状> 定義 : 「認知症患者にしばしば出現する知覚や思考内容、気分あるいは 行動の障害」 分類 : ● 抑うつ、不安、緊張、焦燥、妄想、幻覚 ⇒ 心理症状<感情面>(面接によって評価) ● 落着きのなさ、暴言、暴力、徘徊、不適切な行動 ⇒ 行動症状<行動面>(観察によって評価) ◆ 認知症に伴う心理面や行動の障害 <BPSD> ● 中等度から高度の認知症に生じやすい ● 症状の誘因となるのは 身体不調 ⇒ 脱水、便秘、軽度心不全など 入浴や更衣の介助、夕方から夜にかけての夕暮れ症候群 環境不適応 ⇒ 環境になじめない。 ● 不適切な対応がBPSDとして現れる 「だめ」と言う注意、禁止、否定、苛立ち口調、早口など。 ● 対応法の検討 : 医療の必要性、利用方法、ケアプランの検討。 ◆ 徘徊について 徘徊とは、一般的にはどこともなく歩き回ることやぶらぶらしていることを 示すと言われ認知症では頻度が高く長期間出現するBPSDの一つである。 アルツハイマー病と全島側頭型認知症の場合似ているが対応が違う。 ● アルツハイマー病 ⇒ 空間認知障害や記銘力障害と関係してとらえる。 ● 前頭側頭型認知症 ⇒ 周徊と言い同じパターンを繰り返す。 ◇ 自分の今いる場所が違うように思い 「帰ろう」とする場合 ◇ 誰かを・何かを探しに行く場合 ◇ 何かをしようとして途中で目的が分からなくなる場合 ◇ 不安や焦燥の為にじっとしていられなくなる場合 色んな場合が考えられるが頭ごなしに否定したり止めさせようとするのではなく 本人が安心、納得するように気持ちを切り替えさせてあげる。 「今日は遅いから明日にしましょう」とか「ごはんを食べてからにしましょう」とか 「今日はお出かけされているみたいですよ」等と言ってみる。 その中で子供を探したり、母親を、妻を探したりすることがあっても 「夫を探す妻はいない」と先生が言われた言葉に会場は爆笑。 何だか頷ける フムフム・・・・ ◆ 予測困難な徘徊については GPSをもたせる。 着衣に連絡先を張り付けておく。 ベッドや玄関等に音の出る道具を用いたりする。 ◆ 薬物療法 徘徊を「治す」薬はない。 鎮静をかけて動きを少なくすることのみを考えるべき。 ただし、不安・焦燥が強い場合、幻覚、妄想に導かれる場合などは 抑肝散やフマル酸クエンチアピン、塩酸チアプリドなどの使用。 ◆ なぜそのような行動をとるのかを考えてみよう。 認知症のBPSDは原因があることが少なくない。 まず、本人がなぜそのような行動や、発言をするのかを考える。 決して、叱ったり行動を制止しようとしてはいけない。 本人のしていることが正しいかどうかではなく、 本人が不安に陥り混乱しないよう安心させることが大切である。 ◆ 認知症と意欲の低下 ● 一般的には、鬱と意欲低下の区別は難しい ● アルツハイマー病の初期に多い ● 脳血管性認知症に多い ● レビー小体型認知症では鬱を伴いやすい ● 前頭側頭型認知症では進行ともに活動性が著明に低下する ◆ 最後に 考えてみることとして ● 何か鎮静がかかる薬剤を用いていないか ● 生活パターンに問題はないか 患者が自分で判断し、問題を解決することは出来ないことであり 周りが考えないといけない。 アルツハイマー型認知症を患い、初期から最盛期を経て今は穏やかに過ごす母の事が先生のお話を聞きながら辿った道のりを指でなぞるような気持ちになり「その通り」と心の中で復唱している自分がいた。決して、反論したり、苛立つ気持ちを投げかけたりせず「すべてを受け入れる」を頭に置き、まるごと包んであげて欲しいと思いました。 今回も心に響くお話が聞けて良かったです。
August 25, 2012
コメント(0)
昨日はお盆では車の渋滞で行けないので今年も早めのお墓参りに行ってきました。大阪から岐阜県。これまでは母も一緒に行っていたのですが空調の効いた施設から外気の暑さに耐えられないだろうと考え姉と二人で済ませることにしました。 早朝に出かけ夕方には帰宅出来る予定で向かいました。高速を乗り継ぎ、名神高速に入った途端、トラック2台の事故発生で区間閉鎖となり一般道へ。一般道も車が溢れ大渋滞。 結局、いつもなら2時間程で行ける距離。それが5時間もかかっての到着。母を連れて来なくて正解だった。早めに帰って母の夕食介助に姉が行ってくれる予定にしていましたがとんだハプニングに出くわし帰りも数ヶ所での渋滞に合い間に合いませんでした。 残念。 今日は早い目に施設へ。「お母さん、元気にしてた?」私の言葉に元気に笑顔で迎えてくれましたがどことなくよそよそしい。「◎×▲$%&’%()##’&%+‘@・・・」遠慮がちに小さな声で話す母の言葉に耳を澄まして聞いていると「だれ?」 と聞いている。「私? 知らない?」「知らない」「りよえり」「知らない・・・」「忘れちゃったよね。 りよえりのこと」「・・・・」いいの、いいの。 判らなくても。一緒に居て安心してもらえれば。一緒に居て心が和んでもらえれば。一緒に歌って、笑って居ようよ。何だか「だれ?」って聞いてくれた母が妙に新鮮。 施設にお世話になって母と一緒のテーブルで食事をされていた方が昨日亡くなられたと聞いた。1週間位前から食事を摂れなくなって殆ど眠った状態で個室に替わられた。家族の方が「お盆まで持たないと思う」と言って居られた。あれだけお元気だったのに? と信じられない思いで聞いていたが終焉の時を家族の方は冷静に判断され、施設での最後を望まれた。病院へ入院させて延命措置をとるか自宅へ連れて帰られるかこのまま施設で過ごされるかと選択肢を問われた様子。私にとってはあまりにも早すぎた特養での経験であっただけに母の昼食介助は心が飛んでしまっていた。ご冥福をお祈りいたします。 周りの利用者さんで食欲がない方やお元気がない方が居られると「いつもと様子が違う」が判る。母がお世話になってまだ短い時間でしか接していないがやはり同じ場所で共に生活をしていると家族のような気になってしまう。身近な方が亡くなられて、お一人お一人の方がお元気であるようにと願わずには居れませんでした。
August 10, 2012
コメント(2)
母が特養にお世話になって丁度2ヶ月が経ちました。先日の久しぶりの我が家の外泊も終え、施設に戻り元気に過ごしてくれています。 母にとって久しぶりの我が家はどんなだったでしょうか?在宅時、久しぶりにショートから帰っても母は場所が変わった事を認識し、よそにお邪魔しているかのような感じでしゃべらず言葉少なく遠慮がちに振舞っていましたが、今回もそのような感じでした。施設での足の浮腫みが酷かったこともあり、午前、午後と食事の後ベッドで横になって過ごしました。おかげで足の浮腫みはすっかり引きすっきりした感じです。母は殆ど眠って過ごしました。施設とは違い、狭い家でのトイレ誘導や移動は相変わらず怖いのかしがみついて歩くのがやっとです。3泊4日の外泊は母の大好きな兄に見守られて過ごしましたが母には兄の存在が判ったでしょうか。トイレ誘導も食事の世話も兄がずっとそばに居て介助してくれ私も久しぶりにホッとした時間を過ごす事が出来ました。 我が家を楽しむ余韻もなく、母は施設に戻りました。母は広々とした施設に戻り何だかホッとした感じです。言葉も増え、笑顔が出ます。そんな母を見て私もホッとしました。 「順応性」 は 母の方が優れていたようです。 施設では「いつも穏やかに笑顔を返してくださる」と職員の方や面会に来られている家族の方が言ってくださいます。遠慮がちにそっとそこに存在する母。 静かに小声で私におしゃべりをする母。 声をかけられると穏やかに笑顔で会釈する母。 そんな母を見て、本当の本来の母がやっと存在するようになったと感じ深い感銘が広がる。「これで良かったんだ」「長い年月。 何度か特養の入所を断り在宅を延ばしたが これで良かったんだ。 まだまだ混乱を内に秘めていた状態だったら きっともっとやりにくく困らせていたかも知れない・・・」「無駄な時間はない。きっとそれは後に続く正しい道を広げる為の時間だ」と言われた事があったがまさしく母にとっても私にとってもいい時間となってかえってきたように感じる。認知症が人格を変え本来の母ではない母を見られることなく優しい穏やかな母を見てもらえ、きっと母も幸せだと思う。 朝に、夕に 自転車に乗って母のお世話に通うが この暑さ、めげそうになる。 母の夕食を終え、口腔洗浄、トイレ誘導、ベッドへ寝かせ浮腫んだ足のマッサージをしながら、寝入った母を確認して施設を出ると外はすでに夜の街。暗闇を自転車で走らせながら幸せを感じる。「今日も頑張った。 一日がつつがなく終わった」そんな思いが胸いっぱいに広がり夕涼みの帰路を楽しむ。 この思いが次の日の元気の源になり私を励ましてくれている。 施設への要望や疑問、質問が色々あるがどう整理し、言葉にして伝えたら良いのか頭の中で空回りしている。妥協点はどこなのか? それぞれが納得し、施設や家族がお互いを心得て気持ちよく過ごしたい。様子を見ながら答えをみつけよう。 「特養」 色んな人間模様があり考えさせられる。 お母さん 今日も元気で居てくれてありがとう。
August 8, 2012
コメント(2)
今日は母の認知症外来の診察日。兼ねてより施設から「外泊を是非させてあげてください」と言われていた。母が施設に入所して以来、外泊は最早無理と勝手に思い込んでいた。「母に外泊をと言われても、もう1人で連れて帰る自信がありません」と答えた。「大丈夫です。職員が送迎させてもらいます。 2階への上げ下ろしもお手伝いさせてもらいます。 施設に入所されたら最後、外泊で連れて帰られる方は居られません。 是非、お家で過ごさせてあげて下さい」と力説された。考えも及ばなかった外泊を手伝って貰えるなら・・・と日程を考えた。丁度、神奈川県に居る兄の家族が大阪に夏休みを利用して帰阪すると言う連絡が入り、滞在を利用して母の外泊を決めました。丁度母の病院の診察日で外出するのを利用して外泊を組みました。 朝、母の病院への準備をして、施設に迎えに行く。久しぶりに車に乗って病院へ向かう。2ヶ月振りの診察。いつものように主治医の先生のご挨拶。「◎橋さん、お元気でしたか? 遠い所来てくださってありがとう」「◆$%&×△◎*‘+L????」「暑いですが、お食事はしっかり食べられていますか?」「???? ×◎*‘?>◆#$%&”・・・」チンプンカンプンの受け答えをすまし顔でやってのける母。もうすっかりお薬等の処方も無くなり、母との対面診察と経過報告の診察になりましたが、それでも診察日は家族にとって安心出来る場です。先生に6月から特養の入所が決まり入所した事を報告し2ヶ月後の予約をして病院を後にしました。 車の乗り降りも今日はスムーズに。階段もやっとの思いで何とか大騒ぎしながら汗びっしょりで上がりきる。 久しぶりの我が家、私も母もリラックス。「外泊を・・・」と言われた時は一人で出来るのかと不安とプレッシャーでためらいの方が強かったが、無事に連れて帰れて良かった。月曜日の夕方までの3泊4日、十分に寛いで貰えればと思います。 母の大好きな兄さて、久しぶりのご対面楽しみです
July 27, 2012
コメント(2)
毎月、第3火曜日に母がお世話になっている病院の「認知症家族の会」の定例月例会がありました。今月は病院でお世話になっている部長先生がお話を進めて下さいました。「改めて アルツハイマー病」大阪市立弘済院付属病院ものわすれ外来・精神科部長 中西亜紀 ◆ 認知症の原因となる病気 ・ 神経変性疾患 : アルツハイマー型認知症 非アルツハイマー型認知症 (レビー小体方認知症、前頭側頭型認知症) ・ 脳血管性認知症 ・ 身体疾患に基づく認知症 ・ 中核性感染症(ヤコブ病、エイズ「、梅毒など) ・ その他(アルコール性など) この中でアルツハイマー型認知症が一番多く、次にレビー小体型認知症、 前頭側頭型認知症、脳血管性認知症となる。◆ アルツハイマー病とは ・ 初老期(40代~64歳まで)・老年期(65歳以上)に発症する認知症疾患 ・ 現在のところ病因不明(アミロイド仮説) ・ 症状は進行性に経過 ・ 家族性と孤発生がある。 アミロイド仮説と言われているが、脳の中にアミロイドが溜まる。 家族性の問題も遺伝性ではないが罹患率が高い。◆ アルツハイマー型認知症を基準とした中核症状と周辺症状 中核症状として ・記憶障害 ・判断力の低下 ・見当識障害(失語) ・失行 ・失認他 周辺症状として ・せん妄 ・抑うつ ・興奮 ・徘徊 ・睡眠障害 ・妄想 レビー小体型認知症やチック症等はこの周辺症状が主に出やすい。◆ 「認知症によるもの忘れ」 と 「加齢によるもの忘れの違い」 ・ 体験全体を忘れる ・ 体験の一部を忘れる ・ 新しい出来事を記憶出来ない ・ ヒントを与えられると思い出せる ・ ヒントを与えられても思い出せない ・ 時間や場所の見当がつかない ・ 時間や場所など見当がつく ・ 日常生活に支障がある ・ 日常生活に支障はない ・ もの忘れに対して自覚がない ・ もの忘れに対して自覚がある 認知症によるもの忘れは記憶の中の一部が完全に抜け落ち記憶として残らない。◆ アルツハイマー型認知症の病態(アミロイド仮説) アミロイドが脳にたまり神経細胞の障害を引き起こす。 アミロイドをとってしまうと病気が治るのではないかと考えられたが 解明されていない。◆ 生活習慣病と認知症の関係 糖尿病 ・ 高血圧 ・ 肥満 ・ 喫煙等これらは危険因子となり アルツハイマー型認知症はもとより、脳卒中から脳血管性認知症の確率も 高くなる。◆ 新しい治療薬の発売(2011年より) ・ 全てアルツハイマー型認知症の薬 アリセプト ・ レミニール ・ メマリー ・ イクセロンパッチ・リバスタッチパッチ 薬により効き方が違う。使う時期が違う。又副作用の出方が違う。 先生のお話が終わりいつもの様に質問や相談事などの話し合いの場を持たれ家族の方から「お風呂を嫌がるのをどうしたらいいか?」「嚥下機能が低下し、むせるがこれはなぜ起こるのか?」等々色んなお話が出されました。今回も 「生活習慣病と認知症の関係」が深い関係にある事を聞くと少々、運動不足気味の生活と食生活を見直さなければと思いました。家族の会でも「・・・今更、遅すぎるのでは??」との発言もありましたが「遅すぎることはない。 気がついた時点から改善をする事が大切です」と言うことでした。 なかなか難しい です。
July 21, 2012
コメント(4)
全645件 (645件中 1-50件目)