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アッバス・キアロスタミ「風が吹くまま」元町映画館 キアロスタミ特集「そしてキアロスタミはつづく」の4本目です。「トラベラー」と二本立てで見ました。「トラベラー」は1974年のデビュー作だそうですが、こちらは1999年のヴェネチア国際映画祭審査員グランプリ受賞作だそうです。 見たのは「風が吹くまま」でしたが、ラストの麦畑が最高でした。 死にかけているおばあさんの死を待って、その地方独特の葬儀を取材しようと大都会テヘランから、クルド系の小さな村を訪れたテレビ・クルーの責任者が主人公でした。 もうそれだけで、「ちょっと、アンタ等なあ!?」という設定で、なんで、そんな、あまりに現代的な設定が思いつけるのか、まず、呆れました。 死を待つ時間といえば聞こえはいいですが、死者であろうが生者であろうが、商売のネタになるものはすべて食い物にしていく現在という時間があるということを冷静に見つめているのが、キアロスタミという表現者なのですね。 電気工事の集団に成りすまして村に入り込んだテレビ・クルーのディレクターだかプロデューサだかをしている主人公ベーザードが、電話も通じていないし、電波の受信もおぼつかない田舎の村で、持参のケータイを利用するために、村の裏山のジグザグの坂道をホコリをけたてながら自動車で駆け上がり、テレビ局に言い訳をするんです。「まだ、死にません!」 死んでくれないので、仕事にならない焦りとイライラが、映画の前半の気分を作っていきます。 で、電話をかけている、木が一本くらいしか生えていないはげ山が村の墓地なわけですが、テヘランに言い訳をしている彼のそばで、井戸を掘っている男がいるんです。なんか、その不釣り合いが笑えます。 で、まあ、場所が場所だけに人の骨とか、、変なものがいっぱい出てくるわけで、それを、まあ、三日のはずが、一週間、二週間と時が経っていくわけで、日課のように坂を車で駆け上がり、穴を覗きながら電話するということを繰り返しながら無為な時間がながれるんですが、とうとう、オバーさんが死ぬ前に穴を掘っていた男が生き埋めになるという事故が起こります。 ここから、「死を待っていた男」が「命を助ける男」に変貌するというのが物語でした。本人も、たぶん、仕方なしなのですが、見ているこちらは「いいじゃないか!」という気分です。 生き埋めの青年を助け出し、病院へ運び、村にやって来た医者に老婆を診察させ、医者の単車に同乗して薬をもらいに行く、風が吹き、麦の穂が揺れる中、二人が乗ったバイクが走ってきて、走っていきました。 なかなか、いいセリフもあるのですが、なんというか、なによりも、こんなさわやかなシーンが待っているとは思いもよりませんでした。麦畑が素晴らしい!いやはや、スゴイですね。キアロスタミに心から拍手!でした。監督 アッバス・キアロスタミ原案 マハムード・アイェディン脚本 アッバス・キアロスタミ編集 アッバス・キアロスタミ撮影 マームード・カラリ音楽 ペイマン・ヤズダニアン助監督 バフマン・ゴバディキャストベーザード・ドーラニーファザード・ソラビ1999年・118分・G・フランス・イラン合作原題「Le vent nous emportera」日本初公開1999年12月4日2022・04・04-no47元町映画館no146
2022.10.15
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アッバス・キアロスタミ「トラベラー」元町映画館 特集上映「そしてキアロスタミはつづく」で今日見たのは「トラベラー」でした。1974年の作品で、キアロスタミ監督の長編デビュー作だそうです。 主人公のガッセム君は10歳、小学校4年生、シマクマ君家のチビラ君の一人と同い年です。ガッセム君を演じるハッサン・ダラビ君は、同じキアロスタミ監督の名作「友だちのうちはどこ?」の主人公アハマッド君と年齢はほぼ同じだと思いますが、顔立ちは、実に対照的な子憎たらしい顔をしています。 こちらがアハマッド君。 こちらがガッセム君。(映画.com) で、この子憎たらしい少年がテヘランまで行って、ホンモノのサッカーの試合が見たいという一心で、ありとあらゆる子憎たらしいズルをしてお金を稼ぎ、バスに乗ってテヘランまで行って、入場料でボッタクラレて、とどのつまりは草臥れ果てていたのでしょう、試合が始まるのが待ちきれず、寝込んでしまって、念願の試合を見ることかなわず、一文無しになって知らない街をトボトボ歩くという、芥川龍之介あたりが書きそうな哀れな顛末の「トラベラー」を演じるお話でした。 うまいものですね。子供が子供であるという、イノセンスの大胆さ、意地悪さ、切なさ、そして罪の無さを、あたかもドキュメンタリーであるかのような距離感で描いていました。 だから、言わんこっちゃないでしょ!なにやってんの、あんたは! きっとこんなふうに叱り飛ばされて、とどのつまりは泣きが入りそうなのですが、監督は泣きが入る、その直前の少年の後ろ姿を高みから映しながら物語を切り上げるのでした。 発覚して叱り飛ばされたか、あるいは気づかれないまま誤魔化しきれたか、経緯や結末の違いはあるのですが、「かつて、たしかに、ぼくもガッセム君だった。」とでもいうような、あれだけは忘れられないというような、そんな悪事の記憶に浸りながら、それでもやっぱり、ガッセム君のように偽カメラで騙したりしたわけではありませんが、「カメラにフィルムが入っていなかったこと」はいつまでも、誰にも、言わないでおこうと、自分に言い聞かせる気分の帰り道でした。 絶妙の距離で少年を追ったキアロスタミ監督と、実に哀れなガッセム君を演じたハッサン・ダラビ君に拍手!でした。監督 アッバス・キアロスタミ原案 ハッサン・ラフィエイ脚本 アッバス・キアロスタミ撮影 フィルズ・マレクザデエ編集 アミール・ホセイン・ハミ音楽 カンビズ・ロシャンラバンキャストハッサン・ダラビマスウード・ザンドベグレー1974年・72分・G・イラン原題「The Traveler」日本初公開1995年9月16日2022・04・04-no46・元町映画館no134
2022.06.24
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アッバス・キアロスタミ「友だちのうちはどこ?」元町映画館 「そしてキアロスタミはつづく」という特集企画が元町映画館で始まりました。待ちかねていた監督です。最初の1本は「友だちのうちはどこ?」でした。記念すべき初日はチッチキ夫人と同伴映画でした。 なんだかよく分からない、なにかドアの取っ手のようなものが少しゆれていて、子供たちの声がします。教室のドアでした。ドアを開けて先生が入ってきて、子供たちが遊んでいたことを𠮟りつけて、こんどは、宿題の点検を始めます。なんだかやたら叱る先生なのです。ポスターの写真のアハマド君はすんなりと合格しましたが、隣の席のモハマド君は、宿題をノートにやっていなかったことを叱責されます。ほぼ、問答無用で、延々と叱り続けられて、「もう一度同じことがあれば退学だ」と、まあ、信じられない発言まで飛び出します。 モハマド君は、とうとう泣き始めて、隣に座って、モハマド君をじっと見つめているアハマド君の顔が映ります。おそらく世界中の子どもたちが、ちょっと困ったまわりの世界の様子をうかがう時にする、あの表情でした。 アハマド君の困ったというか、妙に真剣な表情を焼き付けられて映画が始まりました。その日の学校が終わり、帰宅したアハマド君は、今日、叱られた、あのモハマド君のノートを間違えて持ち帰っていることに気づきます。今日中に返してあげなければ一大事です。 アハマド君はコケール村というイラン北部の村の学校の生徒です。モハマド君は隣のポシュテ村というところから通っています。 アハマド君は、乳飲み子の世話をしながら家事に忙しい母親に事情を説明しようとするのですが、彼女は取り合ってくれません。「宿題を済ませなさい。それがすんだらお父さんのためにパンを買ってきなさい。泣いている赤ん坊をあやしなさい。」 次から次へと・・・・。 この日、彼の前に登場するのは、やたらに威圧的な先生、家事に忙しくて話を聞いてくれないお母さん、彼がそこにいることを、文字通り「歯牙にもかけない」村の人たち、子供のことを無茶苦茶なしつけの対象でしかないと信じていて、手元に持っているにもかかわらず、「煙草を取ってこい」とか命じるおじいちゃん、親切に道案内をしてくれるのですが、どうも、テンポが合わない老人たちです。「ちょっと、あんたら、もうちょっとこの子のいうことちゃんと聞いてやったらどうなん!?」 隣で見ているチッチキ夫人がこころの中で歯ぎしりしているのが聞こえてくるような、そんな大人たちです。 そんな大人たちをアッバス君はこんな表情で見ています。(ポスターにもある、あまりにも有名な写真ですが、映画館でいただいた絵ハガキです。) で、画面を見ているシマクマ君は、ただ歩きまわって、のぞき込んで、を繰り返しているこの少年から目を離せません。 隣村に向かうジグザグの坂道を駆け上がる、夢中で歩く姿。知らない家の庭先の洗濯物をうかがう後ろ姿。とうとう友だちのうちにはたどりつけないまま、すっかり暗くなったジグザグ道を降りていく少年の暗い影。帰宅が遅いと叱られ、ご飯はいらないと座り込む男の子。見ていてドキドキするのですが、夢中であとを追いかけている気分で、隣にチッチキ夫人が座っていることを忘れそうでした。 これが映画というものですね。いやホント!「そうか、あれからそう考えたのか、そうか、そうか!!!」 キアロスタミ監督がラストに用意した翌朝の教室のシーンでは、少年の頭をかき撫でてやりたいと思いました。見事なものですネ(笑)。少年のあとを追いかけて半日ウロウロして、本当に疲れました。でも、これがキアロスタミの映画なんですね。 歩きまわって、あれこれ気をつかって、結局、その晩徹夜した少年アハマド君(ババク・アハマッド・プール)に拍手!です。 で、今、ここで、映画館に座っていることを忘れさせて、そこに生きている人間のところに連れて行ってくれた、キアロスタミ監督の映画作法に拍手!でした。監督 アッバス・キアロスタミ脚本 アッバス・キアロスタミ撮影 ファルハッド・サバ美術 レザ・ナミ編集 アッバス・キアロスタミキャストババク・アハマッド・プール(アハマッド)アハマッド・アハマッド・プール(モハマッド・レダ・ネマツァデ)ホダ・バフシュ・デファイ(先生)イラン・オタリ(お母さん)ラフィア・ディファイ(おじいさん)1987年・83分・イラン原題「Where Is the Friend's House?」日本初公開1993年10月23日2022・04・02-no44・元町映画館no131追記2023・02・25 アービング・ラッパーという人の「黒い牡牛」という作品を観ていて「友だちのうちはどこ?」を思い出しました。主人公が年恰好が同じ田舎者の少年で、自分が大切だと思ったことを実行したくて、知らない村(「黒い牡牛」の場合はメキシコ・シティー)を行ったり来たりするシーンがそっくりだと思いました。 「黒い牡牛」は1956年のアメリカ映画ですが、1987年に「友だちのうちはどこ?」を撮ったキアロ・スタミはこの映画を知っているに違いないと思いました。まあ、それだけのことですが、それぞれちがう物語のなかでウロウロする子供の姿を追う二人の映画監督の視線には共通性があって、それはぼくが映画に求めていることのように感じたということですね(笑)。
2022.06.16
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アッバス・キアロスタミ「桜桃の味」元町映画館 今日はキアロスタ三監督の「桜桃の味」でした。不思議といえば、まあ、実に不思議な映画でした。 自動車に乗って、雑踏の中、町ゆく人に「いい仕事がある」と声をかけている、ちょっとインテリ風の主人公が自殺願望の男だとわかるまでかなり時間がかかりました。 運転していたこの男は、三人の男と会うのですが、最初に車に乗せたのが若いクルド人の、いかにもおぼこそうな兵隊さんだったのですが、彼の反応が一番印象に残りました。「明日の朝、穴の中に横たわった自分に声をかけ、 返事があれば助けおこし、返事がなければ土をかけてほしい。そうすれば大金を君に渡そう」 まあ、そんなことを隣に乗せた青年に、まじめな顔をして話しかけるのですが、映画をここまで見ているぼくにも、運転しているこの男が何を言っているのかよく分かりませんでした。「この人はなにを言っているのだろう?」 そう思いながら、基地へ帰るつもりの青年兵士を見ていると、訝しそうな眼をして首を振るだけで、運転手のすきを窺うように、何も言わず、自動車から降りて、そのまま道のない坂を駆け下りて逃げて行ってしまいました。 で、ようやく、運転している男が言っていることの意味が見ているぼくにも、なんとなくですが、わかったというわけです。まあ、始めにも書きましたが、自殺したいけど、死んだ後、何とかしてほしいというわけなのです。 「なんなんだ、この映画は?!」 今度は見ているぼくが訝しさの虜でした。そのあと、アフガニスタンからきた神学生、トルコ人の剝製士の老人とのやり取りがあって、神学生とのやり取りは、ぼくが寝てしまっていて覚えていませんが、トルコ人の老人との会話は覚えています。 一つ、わしの思い出を話そう。結婚したばかりの頃だ。生活は苦しく、す べてが悪くなるばかりだ。わしは疲れ果て、死んだら楽になると思った。も う限界だとね。ある朝暗いうちに、車にロープを積んで家を出た。わしは固 く決意してた、自殺しようと。1960年のことで当時はミネアに住んでい た。わしは家の側の果樹園に入っていった。1本の桑の木があった。まだあ たりは真っ暗でね。ロープを投げたが枝に掛からない。1度投げてだめ、2 度投げてもだめ。とうとう木に登ってロープを枝に結んだ。すると手に何か 柔らかいものが触れた。熟れた桑の実だった。一つ食べた。甘かった……。 二つ食べ、三つ食べ……、いつの間にか夜が明け、山の向こうに日が昇って きた。美しい太陽!美しい風景!美しい緑!学校へ行く子供たちの声が聞こ えてきた。子供たちが木を揺すれと。わしは木を揺すった。皆、落ちた実を 食べた。わしは嬉しくなった。それで、桑の実を摘んで家に持って帰った。 妻はまだ眠っていた。妻も起きてから桑の実を食べた。美味しいと言って ね。わしは死を置き忘れて桑の実を持って帰った。 桑の実に命を救われた。 まあ、こんな詳しく覚えているはずはなにので、これはどっかからの引用ですが、この記事を投稿している今となってはどこでコピーしたのかもわかりません。で、それは、それとして、こんなことを男に話しかけるのです。桑の実が、どこで題名のサクランボになったかというと、このトルコ人の老人が、この後、詩かなんかを読むんですよね。で、その詩に出てくるのがサクランボで、題名はサクランボになるのですが、見ていたぼくには桑の実の話でした。 で、なおかつ、最後の最後は、まあ、「こういう映画を撮っていた俳優はぼくで、あの人が監督です。」とでも言わんばかりに、「映画中映画」というか、「メタ映画」というかの関節外し技が待っていて、もう一度アゼン!でした。 まあ、映画日記というか、見た映画については何か書き残そうというのが、今のところの映画館徘徊の目的の一つなので、こうして、感想を絞り出しているのですが、いやはや、困った作品だったのですが、1997年のカンヌ国際映画祭のパルム・ドールなんですよね。 ようするに、ぼくにはこの主人公が「なにを言っているのか」わからないのですね。トルコ人の老人が言っていることは、ある意味、ありきたりですが、わかるのです。でも、この男のいっていることはわからない。だから、この男がいるほこりが立ち込める世界も、満天の星空も迫ってこないのです。 断っておきますが、ぼくが、あのクルド人の青年のようにこの男のシチュエーションを拒絶しているわけではありません。途中少々寝てしまったとはいえ、出て行ったわけではないのですから。映画がぼくを拒絶していたのです(笑)。繰り返しですが、参りました!(笑) ああ、そうだ、彼はよかった、クルド人の青年。彼に拍手!です。監督 アッバス・キアロスタミ製作 アッバス・キアロスタミ脚本 アッバス・キアロスタミ撮影 ホマユン・パイバール編集 アッバス・キアロスタミキャストホマユン・エルシャディアブドルホセイン・バゲリアフシン・バクタリアリ・モラディホセイン・ヌーリ1997年・98分・G・イラン・フランス合作原題「Tame gilas」日本初公開 1998年1月31日2022・04・06-no49・元町映画館no130
2022.06.11
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アッバス・キアロスタミ「ホームワーク」元町映画館 「そしてキアロスタミはつづく」という特集企画に毎日通っています。今日、見たのは「ホームワーク」というタイトルのドキュメンタリーでした。 小学校の近くにカメラを据えて、通りかかる子供たちを映しています。カメラは時々子供の表情にズームしていきますが、映し出される子供たちの表情がなんとも言えずいいのです。近寄ってきて「なにをしてるの?」「映画を撮ってるの?」とか声をかけていくグループもあります。学校は男女別なのでしょうか、子供はみんな男の子です。 校庭で朝礼のあいさつとみんなの合唱があります。そのあとシュプレヒコールです。イラン・イラク戦争が終わったばかりで、湾岸戦争が始まったころのイランです。イスラム革命の絶対的な指導者だったホメイニーという人が亡くなったころのイランです。 校庭で子供たちが歌い、大声でシュプレヒコールしているのは、日々の暮らしの道徳の誓い、宗教的指導者への讃え、そして戦勝祈願です。子供たちは元気いっぱいです。 映画は始まったばかりですが、ここまでの映像だけでも驚愕の連続です。シマクマ君はシーア派とかスンニ派とか、何もわかっていないのですが、宗教的な原理主義が讃えられ、その上、隣国との戦争の最中の社会がどんな様相なのかくっきりと形をとっているのがわかります。で、どこかに見てはいけないものを見ているような不安も湧いてきます。「ああ、これは、いつか、来た道⁉」そんな不安です。 子供たちが教室に入り、監督自身が聞き手になって、一人一人の少年たちに「宿題」について尋ね始めます。ここからが、この映画の本番でした。 話しかける大人の声、子供の表情、声、仕草。時々、画面が反転してカメラのレンズとインタビューをしている監督自身の姿も映ります。子供の目線の世界です。 次々と子供たちが登場し、宿題の仕方、成績、テレビのアニメの話、そして罰の経験が聞きだされていきます。 見ていて、どんどん引き込まれていきます。ぼく自身が教員だったことや、子育てが終わったことも関係しているかもしれませんが、子供たちの口から断片的に答えられる生活の様子や、自信、不安、怯えまで、今までに見たドキュメンタリー映画では経験したことのない面白さでした。 両親の文盲率の高さ、兄弟の多さ、一夫多妻の生活、子供の目から見たそれぞれの家族の呼び方や人間関係、疑いなく振るわれる体罰や、小学生に課される宿題の多さという、子供たちが生きている世界のさまざまな様相が子供たちの口を通して語られていくことで、イランという社会が見えてくるのが、まずこの映画の面白さでした。 しかし、映画のラスト近くい登場した一人の少年のふるまいと表情がなんといっても衝撃的でした。上のチラシに写っている少年です。 彼は友だちと一緒でなければカメラの前にいるのはイヤだと言って駄々をこねはじめ、監督の懸命な慰めも及ばず、とうとう号泣してしまうのです。 そこでインタビューは終わるのですが、その泣き顔には、隣国と戦争している宗教的全体主義国家とでもいうべき社会の中で、みんな一緒に元気に歌い、大声で「イラクを倒せ」とシュプレヒコールを上げている少年たちの心の底にあるものの姿がくっきりと大写しにされた印象をぼくは持ちました。 すごい映画です。素っ頓狂な変わり者の少年の面白いドキュメントを装いながら根底には子供たちに押し付けられた世界に対するアンチ・テーゼが息づいています。映画が世界を切り裂く方法であることをキアロスタミは知っているのです。 まず、子どもたちの世界を撮ることで社会に揺さぶりをかけている監督キアロスタミに拍手!、登場する、すべての子供たちに拍手!でした。監督 アッバス・キアロスタミ撮影 イラジ・サファヴィ編集 アッバス・キアロスタミ音楽 モハマド・レザ・アリゴリキャストアッバス・キアロスタミ1989年・77分・G・イラン原題「Homework」日本初公開1995年9月30日2022・04・05-no48元町映画館no117
2022.04.24
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アッバス・キアロスタミ「クローズ・アップ」元町映画館 「現代アートハウス入門」という企画が「東風」と「ユーロスペース」という二つの配給会社がタッグを組んで今年、2021年の2月にあったのですが、神戸では元町映画館が会場でした で、その第2弾が「現代アートハウス入門vol 2」と銘打って、やっぱり元町映画館で2021年の12月11日から始まりました。 初日はアッバス・キアロスタミ監督の「クローズ・アップ」です。ぼくはこの監督が評判になり始めた1990年代から30年映画館から遠ざかっていましたが、名前だけは知っていました。確か、元町映画館が、来年2022年の年明けに特集を企画しているはずで、それを心待ちにしていましたが、一足早く上映されるというわけです。その上、この企画の目玉であるレクチャーが深田晃司監督ということですから、勇んでやってきました。見たのはキアロスタ三監督の「クローズ・アップ」です。 週刊誌の記者がタクシーの助手席に座って運転手相手にシャベリたおしているシーンから映画は始まりました。 サブジアンという男がモフセン・マフマルバフという有名な映画監督に間違えられたことをいいことに、その監督に成りすまし、勘違いした一家をだましているらしいのだが、自分が行ってそれを確かめるという、なんというか荒唐無稽な話をまくしたてているのですが、映画はサブジアンという、仕事もなく妻にも逃げられた男の「成りすまし」事件をドキュメンタリーなタッチで描き始めます。 裁判のシーンとか、ものすごくドキュメンタリーなイメージですが、どうも怪しいのです。虚実の薄い皮一枚、どうも虚ではないかと疑いながら、しかし、夢中になって見終えました。 帰宅して、解説を読むと、話は実話であり、登場人物たちは、俳優ではなくその事件の当事者だというではありませんか。おそらく、事件の場面を再現しているのでしょうね。事件の最中に、裁判所のシーンも含めて、カメラが作動しているということ自体がありえないわけですから。というわけで、まず、この方法論にびっくり仰天です。 で、実話の登場人物による事件の再現という方法で、キアロミスタ監督は何を描こうとしていたのでしょう。そこが問題なのですが、ぼくは、あれこれ考える以前に不思議な体験をしました。 裁判所で問い詰められていくサブジアンの表情がスクリーンいっぱいに広がり、口から出てくる言葉の字幕を追います。母親の訴え、裁判官の諭すような言葉も同様です。最後に被害者の許しの発言を耳にしていると画面が変わりました。 何日間かの刑務所暮らしの結果でしょう、出所するサブジアンを、彼に成りすまされた、当のマフマルバフ監督が迎えます。オートバイの後ろにサブジアンを載せ、途中の花屋で「黄色より赤がいい」と赤い花の鉢植えを買わせ、被害者の家を訪ねます。40日ぶりだそうです。40日という数が怪しいとふと思いました。 監督が同行していることを知って、被害者アカンカハー家のドアが開きます。画面には赤い花の鉢植えを抱えたサブジアンが大きく映しだされ映画は終わります。 そのとき、「サブジアンはあなただ!」 というキアロスタミのささやきがぼくには聞えた気がしたのです。思わず「そうだよな、そうだよな。」 と繰り返しつぶやきながら、涙が止まりません。サブジアンこそ、情けなくてやりきれない、ぼくたちのような「人間」そのものだということをキアロスタミは描いたのではないでしょうか。 いやはや、すごい映画があるものですね。深田監督のレクチャーも面白かったのですが、帰りの最終バスが終わってしまうこともあって、お話の途中で早引けしました。 ちなみに40日というのは、キリスト教なら四旬節ですね。日本の仏教なら49日、この映画はイランの作品ですから、ムスリムのラマダンなら30日でしょうか?まあ、それにしても気になりますね。 マフマルバフがサブジアンに「黄色い花」ではなく「赤い花」を選ばせるのも意味深な気がしました。花の鉢を抱えるラストシーンにぼくは祝福を感じましたが、本当にそうだったのかどうか。ほかにも気づけていない徴(しるし)が仕込まれているのかもしれません。 何はともあれ、ただ、ただ、キアロスタミ監督に拍手!でした。監督 アッバス・キアロスタミ脚本 アッバス・キアロスタミ製作 アリ・レザ・ザリン撮影 アリ・レザ・ザリンダスト録音 モハマッド・ハギギ編集 アッバス・キアロスタミ字幕 齋藤敦子キャストホセイン・サブジアンハッサン・ファラズマンドアボルファズル・アハンカハーメハダッド・アハンカハーハスハング・シャハイモフセン・マフマルバフ1990年・イラン原題「Close Up」2021・12・11‐no129元町映画館no97
2021.12.16
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ヌリ・ビルゲ・ジェイラン「読まれなかった小説」シネリーブル神戸 2020年、初鑑賞は「読まれなかった小説」というトルコ映画でした。ヌリ・ビルゲ・ジェイランという監督は「雪の轍」という作品をはじめ、カンヌ絵映画祭のパルムドールを複数回とっている人らしいですが、ぼくは知りませんでした。 三時間十分という長さと、チェーホフ、ドストエフスキーに捧げるというキャッチコピーに惹かれて選びました。昨年の秋から、長い映画にハマっているのかもしれませんが、長いからといって感動するとは限らないということに、そろそろ気付き始めてはいます。でも、「見たゾオー!」という満足感はやはりあるわけで、一年の最初の作品はこれかなと期待してやってきました。 青年がバスに乗って帰ってきます。高台の上から谷間の町が見渡されて、映画が始まりました。 会話、会話、会話、この映画は主人公の「青年」と誰かが語り合ったり、青年が誰かにお願いしたり、言い合いしたり、ひたすら「青年」をめぐる会話の洪水でした。 「父と子」という、かなり古典的な葛藤が「青年」の側から語り続けられている感じです。「私小説」というジャンルがありますが、似た印象を受けました。そう思って見ているからかもしれませんが、カメラはほとんど「青年」の肖像を撮り続けている印象です。 作家を夢見る、この凡庸でおしゃべりな青年の周囲の世界は、対照的ともいえる印象的なシーンの洪水です。 ガルシア・マルケスや、多分、見たことのある女流作家(バージニア・ウルフ?)の写真が貼られた書店の光景。父を語る母のチェーホフを想わせるセリフと降りしきる雪。港の上空を飛び交うカモメの群れ。 中でも強烈なのはマルケスのイメージです。無数の蟻にたかられる赤ん坊のエピソードは「百年の孤独」の世界になかったか?こんなふうに、ふと、思い浮かぶイメージの際限のない乱舞。 そんなふうに意識を揺さぶられてしまえば、生活者としてはどうしようもない博打うちであるにもかかわらず、異様に善人である、この父親は、どの作品だったか(「罪と罰」のマルメラードフか?)はわからないけれどドストエフスキーの登場人物の誰かに似ていることになっていきます。 トロイの木馬の腹中の闇。深い井戸に垂れ下がる首吊りのロープ。死んでいる父の顔と腕にたかる蟻。村に取り残された少女の風に舞い上がる長い髪。すべてがアレゴリカルで意味深なんです。 要するに監督は「文学」へのオマージュとでもいうのでしょうか、捧げものとしての映画というコンセプトとひたすら戯れる映像をつくりあげようとしていたようです。 とどのつまり、父親が放置していた涸れ井戸を、再び掘り始めた青年は、まさに、志賀直哉の「和解」の主人公そのものだったのではないでしょうか。 「そうか、その井戸を掘るのか?」 しみじみしてしまった最後のこのシーンでは、やはり哄笑すべきだったということに歩きながら気づきましたが、後の祭りでした。 イヤ、本当に摩訶不思議な、それでいて魅力的な映画でした。 「いやはや、なんとも、・・・」 蛇足ですが、山場で流れる挿入曲は、多分、バッハなんですが、トルコの映画にバッハが流れるのも、ちょっと不思議な感じがしました。しかし、まあ、世界文学が相手みたいですから、音楽はやっぱりバッハかな? 監督 ヌリ・ビルゲ・ジェイラン 製作 ゼイネプ・オズバトゥール・アタカン 脚本 アキン・アクス エブル・ジェイラン ヌリ・ビルゲ・ジェイラン 撮影 ゲクハン・ティリヤキ 美術 メラル・アクタン 衣装 エムレ・オルメズ 編集 ヌリ・ビルゲ・ジェイラン 音楽 ミルザ・タヒロビッチ キャスト アイドゥン・ドウ・デミルコル (シナン・カラス主人公) ムラト・ジェムジル (イドリス・カラス 父) ベンヌ・ユルドゥルムラー (アスマン・カラス 母) ハザール・エルグチュル(ハティジェ 風に髪が舞う少女)2018年189分トルコ・フランス・ドイツ・ブルガリア・マケドニア・ボスニア・スウェーデン・カタール合作原題「Ahlat Agaci」(The Wild Pear Tree・野生の梨の木)2020・01・08シネリーブル神戸・no40追記2020・01・10 チラシの解説によれば、井戸掘りの話は、トルコのノーベル賞作家オルハン・パムクの「赫い髪の女」という作品にあるそうです。これは読んだことがありませんでした。 これも、チラシに載っている野谷文昭さんの解説によれば、ガルシア・マルケスの「百年の孤独」のラストシーンは無数の蟻に運ばれる赤ん坊だそうです。ああ、これは読んだのに忘れている。いやはや、忙しい事です。追記2020・01・11 挿入曲はやはりJ.S.バッハ「パッサカリア」だそうです。いい曲ですね。ズーッと、印象としてですが、音楽が耳に残ります。 ついでですが、青年が隠れた「トロイの木馬」はブラッッド・ピットの主演映画「トロイ」で使われた木馬なんだそうですが、見ていませんね。ザンネン!ボタン押してね!ボタン押してね!雪の轍 [ ハルク・ビルギネル ]
2020.01.10
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アミール・ナデリ Amir Naderi 「山 Monte」 元町映画館 no2 元町映画館が結構好きなのです。やってるプログラムが、ちょっとシブイんです。見るか見ないか決断を迫られるタイプが多いのです。この映画「山」も、どうしようかなと考えて、映画館の受付の人の顔を思い出して、行くことにしました。 今日は、昔からの知り合いの人はいなかったのですが、受付の人とちょっとおしゃべりできて、うれしかったのです。 自宅から垂水駅まで歩いて汗ばんだせいですね。映画館の椅子に座っても寒かったので、ジャンパーを脱ぐのはやめてサンドイッチをかじりながらコーヒーで一息入れていると始まりました。 山のふもとの丘の上のようです。白い布で覆われた小さな遺体を埋葬しているのですね。 風?山鳴り?鳥の声?様々な、うなりのような低い音がずっと流れていて、無言で動いている人間たちが、いかにも貧しいのです。怒りに満ちている、いや、哀しみにくれているのか、けわしく硬い表情と石を集めてきて積み上げていく手の動き。映像が伝えてくるのは、その場を吹き抜けていく透きとおった冷たい空気の流れでした。 山の音がずっと聞こえています。 夜のとばりが下りてきます。美しい男と女がいます。男が汚れた手に櫛を持ち女の髪を梳かしています。 野良犬がやってきて墓地を掘り返しています。仲間が去って行きます。男(アゴスティーノ )と妻(ニーナ )と息子(ジョヴァンニ)が山の小屋で貧しい暮らしを続けています。 美しいのです。しかし、何とも言えない悲しみに満ちた映像が少しづつ物語りつづけています。山の音が聞こえ続けているのですが、人が語る「ことば」はありません。荒涼とした畑には何も育っていません。見ているぼくは、ただ、呆然と画面にくぎ付けにされています。 「なにがおこるんだろう?」 男が木車を曳いて村に出かけていきます。彼は不可触選民のように指さされ、人々のささやき声が、ただ、さざめく音だけですが聞こえてきます。 「なにがおこるんだろう?」 ・・・・・・・・・・・・・ なにも盗んでいない男が盗みの罪で追われはじめます。男が逃げ込んだ部屋には聖母子像と磔刑のキリストが祀られています。男は祈りの灯がともった大きなローソクを一本手にすると逆さに立て直します。何かを決意した様子で男は部屋を出て行きます。画面には、たくさんの燃え続ける灯火のなかに一つだけ火の消えたローソクが立っているシーンが映っています。 すべてを失った男が山に帰ってきました。山の音が鳴り続けている中に、男の叫びが響き渡ります。 「ニーナ―!ニーナー!」 妻と息子は逃げてしまった男の罪で、刑吏と修道女に連れ去らたあとでした。見ているぼくは知っているのですが、男は知りません。 「男は怒っているのだろうか。絶望しているのだろうか。」 男の表情から何かが失われたように見えます。 「何を始めるのだろう。」 男は大きな鎚を持ち出し、岩壁を叩きはじめました。ずっと聞こえている山の音に、鎚をふるう「カーン」という甲高い音が混ざって聞こえてきます。男は叩き続けます。 やがて妻が帰ってきますが、男は槌を振るいつづけ、岩盤を叩き続けます。山の木霊と槌の音が響き合う不思議な音の世界が広がっていきます。 「何をやっているんだろう?」 ぼくの中には、不可解と諦めの渦のようなものが心に拡がっていきはじめた、その時、ベートーヴェン―だったでしょうか、場面とそぐわないシンフォニーの出だしの音が聞こえてきてギョッとします。三つ向うの席の女性が、慌ててケータイを取り出し、音が止まりました。画面からは山の音とハンマーの響きが聞こえ続けていて、山がそこに聳えています。 何年たったのでしょう、髭が生え始めている息子が帰ってきます。母親と抱擁し、父親のそばで鎚をふるい始めるではありませんか。やはり、ことばはありません。山の音の中に新しいハンマーの音が響くだけです。 時が流れているのです。おそらく何十年も。「参ったなあ。何がしたいねん。うーん、どうなんねんな。」 延々とつづく山のシーン。繰り返し響いてくるハンマーの音。くたびれ果てて、そっとコーヒーを取り出した。水筒の蓋を開ける手が止まった。突如、結末がやってきた。やっぱり、画面にくぎ付けにされてしまった。 岩壁の頂にまっ赤な太陽が輝き、画面が赤く染められてゆきました。映画が終わったのです。 こういうのを脱力感というのでしょうか。ぼくは、座席にもう一度、ぐったりと座り込んでしまいました。 「いや、いや、参りました。」 映画館の出口でチラシを見直しました。「これは、黒澤明の精神から生まれた映画だ」 ナデリ監督のコメントが書いてあって、妙に納得しました。「クロサワか。映像と音響かな。最後の太陽は夕陽かな?朝日かな?うーん、それにしても、ここまでやるか。」 垂水で約束していたお友達と出会って、久しぶりにビールで乾杯。「何、観てはったんですか?」「山、モンテっていうやつ。」「面白いんですか?」「うん、傑作やね。ずっと山たたくねん。ものすごい絶壁があって、岩壁やねんけど、それを叩くの、ハンマーで。見てて、どうなってんねんて思う。」「それで?」「いや、それだけやで。一応、結末は黙っとくけど。」「かわいそうとか?」「うん、観てる客がかわいそうみたいな。」「何ですか、それ?」「うん、見なわからん。ある意味、ホンマの映画かもね。見に行ってき。結果は保証できんけど。かわいそうな、ええ、経験することは保証できるな。ホンマ、結構かわいそうやで、見てる人。」「エーッ、やめときます。」「まあ、そういわんと。いっといで。怖ないし、エグないから。ああ、メチャ綺麗やし。ホントはね、あれこそが映画かもしれへんで。」 久しぶりに深酒してしまって、帰ってみると時計は次の日になっていて、同居人も寝てしまっていた。「残念!しゃべる相手がいない。」 監督 アミール・ナデリ 製作 カルロ・ヒンターマン ジェラルド・パニチ リノ・シアレッタ エリック・ニアリ 脚本 アミール・ナデリ 撮影 ロベルト・チマッティ 美術 ダニエレ・フラベッティ 衣装 モニカ・トラッポリーニ 編集 アミール・ナデリ キャスト アンドレア・サルトレッティ(アゴスティーノ ) クラウディア・ポテンツァ(ニーナ ) ザッカーリア・ザンゲッリーニ(ジョヴァンニ 少年期) セバスティアン・エイサス(ジョヴァンニ 青年期) アンナ・ボナイウート 原題「Monte」2016年 伊・米・仏合作 107分 2019-03-26・元町映画館no2追記 繰り返し男と女の手のシーンを思い出してしまうのは何故なのだろう。ハンマーを握る手。傷の手当てをする手。神をなでる手。「手」がクローズアップされて、印象に残っている。 何十年も岩壁を撃ち続ける毎日。そっと触れてくる手の感触。墓場で石を集めていた手がこの映画の描く「人が生きる」ということの姿だったのだろうか。追記2 2019・08・01 今年の春に見た映画だけれど、印象が持続している。やはり「手」の表情とでもいうのだろうか。これくらいセリフのない映画もめづらしいのではないかと思うが、記憶の中で「手」が語り続けている。 黒澤明の映画が、登場人物の立ち姿や、ブランコの揺れ具合で記憶に残っているのと、そこがよく似ているのかもしれない。追記2022・12・14久しぶりに修繕するために読み直して、意味不明だったので修繕しました。3年以上も前に見たのですが、案外よく覚えていると感じるのは錯覚でしょうか。にほんブログ村にほんブログ村
2019.04.13
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