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*月末なので終わりにすることにした。*注をいれて原稿用紙換算で52枚。まあ皆さんもこれぐらいの分量を目処にして下さい。もっと長くてもいいけど。*紀要論文の「おわりに」と卒論の結論は微妙に違うところがあり、これは悪い例です。実質的な結論は最初の4行だけ。私は既に述べたことを蒸し返すのが嫌いなのでこんなスタイルにしちゃうのだが、皆さんはしっかり「結論」においてこれまで述べたことをしっかりまとめて下さい。*教育実習に行く人は既に心ここにあらずだと思うけれど、内定出た人なんかは10月にすぐ見ます。夏休みまだあと半分あるね。充実させましょう。おわりに 以上のように「朝のリレー」は一九六〇年代半ばという具体的な時期に、具体的な状況や個人史をそれぞれ反映する形で成立したものである。しかもそれぞれはいずれも当時の谷川にとって重要なものであった。しかしながらそれらの同時代的な要素は慎重に捨象され、半世紀以上の月日を超えて読み継がれる作品となった。 これまで見てきたとおり「祈らなくていいのか」という詩集は、六〇年代の谷川を考える上で重要な詩集であると考えられるが、単独の冊子にまとめられる事はなく、アンソロジーの一部という特異な形態で発行されたため、さほど重要視されてこなかった。またそこに収められた作品のうち、具体的な時代性を直接反映したものは、その後次々と発行されるアンソロジーの中に再録される事はなかった。東京オリンピックを描く作品群などは力をこめた優れた作品だと思われるが、オリンピックが歴史の中に埋もれる中で、作品自体も忘れ去られたといってよい。宇宙開発に対する同時代の興奮もまた同様である。 これに対して「朝のリレー」は、次世代へのメッセージであるがゆえに、同時代の具体性は捨象され、かつ現実の負の側面をあえて描かないことで、時代を超える力を獲得した。これを「普遍性」とよぶことは特に問題がないようにも思われるが、一方で今なお時代性の中にあるとも考えることが出来る。これまで特に強調しなかったが、「朝のリレー」の特色として国名ではなく、都市名もしくは地域名をとりあげたという点がある。これについてはまずこの作品の背後にあるオリンピックの開催形式が上げられるし、また仮に国名で表記しようとした場合、「カムチャツカ」は当時としては「ソ連」と呼ばざるを得ず、これでは冷戦がむき出しに連想されてしまう。さらにいえば国家という枠組みを経ずに、都市や地域を明示したことにより、地球規模の連帯という主題がより受け取りやすくなったと言えよう。 「朝のリレー」が光村に採用されていた八〇年代から九〇年代というのは、冷戦終了の期待やヨーロッパ統合の可能性など、新たな国際化が夢想される時代であった。その中で二一世紀という新しい世紀が意識されはじめ、現実にはそうはならなかったのであるが、国家の役割は相対的に低下してくことが予想され、「地球市民」などという言葉が用いられる時代であった。「朝のリレー」という作品はそういった時代の空気によく合致していたのである。 メッセージというものはそれが達成されてしまえば役割を終える。二一世紀に入っても「朝のリレー」が読み継がれ、新たな読者に新鮮なものとして受け容れられるとするなら、実はそのメッセージが未だ実現していないことを証明しているとも言える。一九六〇年代に視覚的なイメージとして現れた、青く美しい星地球と、その地上で行われている不合理な争いとの落差。この矛盾の解消は残念ながら、今なお次の世代に先送りされている。 注1,三省堂教科書では二四(2012)年度版からは、「朝のリレー」は除外されている。そのかわりに谷川作品は「いるか」が採用されてる。2,宇我部義則「詩の意味が群読を作る」中学国語実践講座刊行委員会篇『中学国語実践講座 第2巻 音読・朗読・群読の学習』ニチブン 1997.3.1など。3,竹田博之「詩を提示する三つの観点(中学校の教科書教材を中心に)」『月刊国語教育』東京法令出版1998、5。4,「朝のリレー」『中学校・詩の読み方指導』、科学的「読み」の授業研究会編、明治図書1994、10。5,池田一彦「谷川俊太郎「朝のリレー」私解」『聖徳学園岐阜教育大学国語国文学九』1990-03-156,関富士子「〈詩を読む4〉谷川俊太郎「朝のリレー」を読む」http://www.interq.or.jp/mars/ippo/rain3/shijin.html7,関富士子『音の梯子』七月堂2005、6、20。8,実例一および二 たんぎい「谷川俊太郎「朝のリレー」」。たんぎいというのはこのスレッドをたてた人のハンドルである。http://www.ozmall.co.jp/bbs/1-484135-snew.aspx 実例三 東日出夫「朝のリレー」http://urushi-art.net/hitokoto/backfile/best/asanorirei.html 9,センニン ”カムチャツカ" か"カムチャッカ" か:「朝のリレー」。http://music-1000.blog.so-net.ne.jp/2010-04-17-2 10,同注3、注4はいずれも「寒と暖」という読みを提案している。11,リオデジャネイロに関しては、谷川はその旅行をあまり楽しまなかったのではないかという石原慎太郎の見方がある。それゆえあえて取り上げなかったという可能性もある。石原慎太郎「谷川俊太郎と僕」『谷川俊太郎詩集』河出書房、1968,5,15。12,第八話「怪獣無法地帯」1966年9月4日放映。なおこの作品のシナリオは金城哲夫と上原正三の共作である。13,全集的な性格をもつ思潮社版の『谷川俊太郎詩集続』(2002,1)には「祈らなくていいのか」は再現されているが、それ以外に「月からの風景」の再録は無いようである。例えば比較的長い期間を網羅したハルキ文庫版『谷川俊太郎詩集』(1998、6)においては「祈らなくていいのか」から採用された作品は、「朝のリレー」および「祝婚歌」のわずか二編のみである。14,同注415,『東陵』第三号、1965年。16,例えば以下のようなものがある。「この空は 宇宙へ続く」(四日市南高等学校校歌1959)「丘の上から 青空見よう/ここも宇宙に 通じてる」(南陵中学校校歌1966)17,1964年に谷川に校歌の歌詞を依頼した北海道札幌開成高等学校のホームページは次のような記述がある。「谷川氏は翌月に「詩の中に風土性がなければだめだ」ということから札幌を訪れ、まだ建設途上であった開成高校にもジーパン姿でやって来て、開成高校の校歌のイメージを固めたそうです。」http://www.kaisei-h.sapporo-c.ed.jp/gakkou-youran/kouka/kouka.html
Aug 29, 2012
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台風が思いのほか長引き、これをいい機会として4年生は卒論をサクサク進めていると思う。私としてはもうちょい寝かせたかったんだが、他にやることがないので推敲にはいった。特に4,5は要約文みたいでコクが全くないwそれから62のソネットの45が関連作品であり、いれるかどうか思案中。45一部。地球に夜があり昼がある/そのあいだに他の星たちは何をしているのだろう/黙つてひろがつていることにどんな仕方で耐えているのかこのように実際には書きながら、あらたな素材が出てきたりするので、とにかく書けるところから書いてください。
Aug 27, 2012
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*予定していたブロックの五つめが完成した。一見するともうちょいな感じがするかもしれないが、ご覧の通り私の文章の初稿は粗雑なので、ここからが大変である^^。すでに間違いも見つかっているし。*またここまでは各ブロックごとに独立して書いているので、バランスなどは今後調整しなければならない。それがうまくいくためには、少なくとも私の場合、最低一週間は寝かせないといけない。*ただ自分で打ち込んだ文字列は、絶対に裏切らない。とにかく粗雑でも間違いがあってもいいから、書く事である。書かなければ間違う事すら出来ない。5、伝統と次世代への継承 最初の短い結婚生活を終えた谷川は 1957年に再婚し、1960年には長男、1963年には長女を相次いで授かっている。この個人史を反映した作品群が「祈らなくていいのか」後半に位置づけられているが、同時にこの時期から、世代の継承というべきあらたな領域が谷川の仕事に加わっていく。一つは絵本を中心とする児童文学の領域であり、絵本『しりとり』と最初の童話である『けんはへっちゃら』は、ともに1965年に成立している。もう一方の童謡、もしくは校歌のような次世代のために書かれた歌詞はそれよりも若干早く、最初の校歌「四日市南高校校歌」は1959年、レコード大賞作詞賞を受賞した「月火水木金土日のうた」は1962年に書かれたものである。子供むけのアニメ「鉄腕アトム」の主題歌(1963年)などもこの流れに位置づけられるだろう。 新しい世代へ引き継ぐということは、論理的な必然として、過去の伝統を尊重する事につながる。「祈らなくていいのか」所収の「パパ自讃」には「人類の子孫にして祖先たることに」という詩句がみえるが、これがはっきりとするのが校歌というジャンルである。次に示すのはこの時期書かれた校歌の中で「朝のリレー」の先行作品としての要素を持つ「静岡東高校校歌」(1963年)の歌詞である。「朝のリレー」の成立は既に述べたとおり1964年末から65年と推定されるから、一年もしくは二年前に書かれた作品である。東の空に日がのぼる 緑の丘に風が光る 新しい今日 自由な今日だ その今日に学ぶきびしさ その今日に生きる喜び あこがれやまぬ心いだいて 歴史をたずね 宇宙に問いかけ ひとりひとりが明日を拓く ひたむきに おおらかに 友よゆこう ふるさとの誇りを胸に われら静岡東高 谷川の作品としては平凡な印象があるが、谷川という表現者は常に自己を押し出すタイプではなく、むしろジャンルにあわせて役割をしっかり果たすというタイプであり、これが長年にわたる多くの領域での表現活動を支えたものだと思われる。この校歌についてのメッセージにおいて谷川は「作詞者の個性も、新鮮な表現という点では必要かもしれませんが、本当に大切なのはやはりその学校に内在している性格を探り、それにふさわしい言葉を見つけ出すことだろうと私は考えます」と述べている(注14)。実際「緑の丘」というのは何気ない表現であるが、この高校に隣接して北東部にはこんもりとした丘が広がっており、同窓会誌の『東陵』というタイトルもこれにちなむものだと思われる。 作詞者の個性を押さえる中で、それでもなお浮かび上がって来たのが「歴史をたずね 宇宙に問いかけ」の部分であろう。「宇宙」という語彙は伝統的な校歌の歌詞にはあまり無いものであるが、他の校歌においても谷川が好んで用いたものである(注15)。またそれにさきがける「歴史をたずね」の部分にも谷川の強いメッセージがある。作品前半部で、かけがえの無い「今日」が強調されると同時に、「歴史」を継承し、「宇宙」という広大な世界に思いをはせるというのが、次世代をになう若者たちへの願いなのである。 もう一点この歌詞の「ひたむきに おおらかに」の部分はオリンピックを描いた「祭 Oliynmpiad 1964」と完全に重なっている。成立順序からいえば、この校歌の方が先であるから、ひたむきに、おおらかにという若者への祈りの具現としてあらわれたのが、オリンピックの選手達であったということなのだろう。 「朝のリレー」はこれら既に書き続けられてきた校歌の延長上にある。谷川は校歌を依頼されるとかならずその学校に赴き風土を感じようとしたとされるが(注16)、「朝のリレー」とはいわば個別具体的な学校の個性を普遍化した、「地球」という学校の校歌といってよい作品である。基本的な枠組みは前掲「静岡東高校校歌」と同じであり、かけがえのない「今日」という一日が、朝のリレーという運動態として描かれている。また歴史の継承というモチーフは「ローマの少年は頭柱を染める 朝陽にウインクする」というきわめて象徴的、感覚的な表現に置き換えられている。そして空間的な隔たりそのものが、宇宙感覚を内包している。さらに地球の若者達が、国家や人種をのりこえ、あたかも同じ学校の友人達と同じようにつながりあうというのが理想型だろう。もちろんそんな事が簡単に実現するなどという認識が谷川に無かったというのは、既に述べたとおりである。それゆえにこそ、次世代へのメッセージなのである。(14)『東陵』第三号、1965年。(15)例えば以下のようなものがある。「この空は 宇宙へ続く」(四日市南高等学校校歌1959)「丘の上から 青空見よう/ここも宇宙に 通じてる」(南陵中学校校歌1966)(16)1964年に谷川に校歌の歌詞を依頼した北海道札幌開成高等学校のホームページは次のような記述がある。「谷川氏は翌月に「詩の中に風土性がなければだめだ」ということから札幌を訪れ、まだ建設途上であった開成高校にもジーパン姿でやって来て、開成高校の校歌のイメージを固めたそうです。」http://www.kaisei-h.sapporo-c.ed.jp/gakkou-youran/kouka/kouka.html
Aug 23, 2012
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*合宿も無事終了したので、作業再開である。今日はどうしても関富士子氏が閲覧した集英社文庫版を見たくなって、途中西原図書館にいったりした。こういうことはよくあるのであり、実際に資料が十分かどうかは、書き始めるまではわからない。*ちなみにコンテクストというのは「文脈」という意味である。4、コンテクストとしての「祈らなくていいのか」 ある一篇の詩を単独の作品として鑑賞するのか、詩集の中の一篇として理解するのか、という問題は常にあるが、「朝のリレー」においてその問題は特に顕著である。例えば昭和62(1987)年度版の光村図書の教科書の場合、「朝のリレー」のリレーの次に配置されている教材は長田弘の「おおきな木」であり、その冒頭は以下の通りである。 おおきな木をみると、立ちどまりたくなる。 芽吹きのころのおおきな木の下がきみは好きだ。 目を見上げると、日の光が淡い葉の 一枚一枚にとびちってひろがって やがて雫のようにしたたってくるようにおもえる。 これを連続的に学習する場合、まず「朝のリレー」で地球的な視野から連帯を学んだ後で、身近な生命を慈しむ気持ちを学ぶという展開が予想され、おそらく教科書編集者の意図はそういったものであろう。 一方「祈らなくていいのか」はオリンピック三篇のあと、太陽に照らされた庭石を描いた短詩「石と光」がおかれ、その次に「朝のリレー」が配置されている。問題となるのはその後の「月からの風景」である。以下に引用するのは全八連のうちの第三連と第四連である。地球はかなたにかかつている午前十時の午後五時の暁とうしみつどきの今日と明日とのまわりつづけるあやうい独楽かなたに地球はかかつているナパームの閃光はみえず黒も白も黄いもみえずセザンヌのりんごもみえずどんな廃墟もみえず 第三連からは、この作品が「朝のリレー」とくっきりと対になった作品であることが感じとられる。しかし「朝のリレー」のでは決して描かれる事の無かった「あやうい」という表現は、谷川本来の「地球」に対する両義的な感覚を示している。 第四連にはいると「朝のリレー」という作品が、何を避けているのかがはっきりとわかる。このうち「ナパームの閃光」は、特にあからさまに同時代性を表現しているといえるだろう。 ナパーム弾は既に第二次大戦中に開発されており、東京大空襲で使用された「焼夷弾」も本質的には同じものである。しかし「ナパーム」という語が日本人に一般的に知られるようになったのはベトナム戦争であろう。1966年に放映された「ウルトラマン」でも使用されており、怪獣を倒せる強力な兵器として子供たちにも認知されていた(注11)。 「黒も白も黄いも」はそれ自体は中立的な表現であるが、「ナパーム」の直後に配置されているため、オリンピックにおいて描かれた他者同士の連帯より、むしろ差別という負のイメージを喚起するだろう。 「セザンヌのりんご」は人類の芸術的営為を象徴しており、「廃墟」は実体としては「朝のリレー」におけるローマの「柱頭」と同じものなのであるが、この作品においてはむしろ地球全体の中では人類の歴史など矮小なものに過ぎない、という『二十億光年の孤独』の時期の感覚に近いものである。 この双子のような出自を持つ二つの作品は、その後全く離れ離れとなった。例えば先に取り上げた関富士子氏の批評には「詩集「祈らなくていいのか」所収(谷川俊太郎詩集「これが私の優しさです」集英社文庫より)」とその出典を明記しているが、『これが私の優しさです』(注12)に収められているのは「祈らなくていいのか」二八篇中、わずか八篇であり、「朝のリレー」の次に置かれているのはファースト・キスを暗示する「あげます」である。社会への違和と反発を描いた「乞食」こそ所収されているが、他は概ね明るい作品であり、オリンピックのような時代を反映する作品は一切排除されている。仮に関氏が初出形態で「朝のリレー」を読んでいれば、おそらく全く別の批評となったであろう。 「月からの風景」をふまえた上で、「朝のリレー」を読み直すなら、表層の明るさとは異なった読みの可能性が生じる。例えば冒頭、中学生その他の読者を惹きつけてきた「カムチャツカ」は、また別の一面を持っている。アメリカ合衆国のアラスカと隣接しているカムチャツカ半島は、冷戦期においては重要な軍事拠点であり、一九九〇年までは外国人の入域は禁じられていた。「カムチャツカの若者」の職業を想像する授業実践が有り、漁業か林業に従事しているというのがその答えであるようだが(注13)、実際には「軍人」の可能も高いのである。もちろん谷川がそれらを意図して冒頭においたと主張することはできないが、逆に冷戦期に世界の四箇所を無作為に選んだところ、偶然に米ソの都市、地域が含まれていた、というのも若干無理のある読み方ではないだろうか。 また歴史をひもとけば一七世紀末にロシア帝国に征服されるまでは、カムチャツカはアイヌ人達の土地であった。これはカムチャツカに限らず、「朝のリレー」四つの地域のうち、ローマをのぞく三箇所は、一六世紀から一八世紀にかけて白人の帝国によって、先住民から奪い取られたものである。 もちろん以上のような内容を、中一の授業で展開する必要は全くないと考えるが、むしろこのような事実をふまえた方が、次世代へのよびかけ、という「朝のリレー」の切実さがはっきりするように思われる。(11) 第八話「怪獣無法地帯」 1966年9月4日放映。なおこの作品のシナリオは金城哲夫と上原正三の共作である。1519年にスペイン人のエルナン・コルテス (Hernán Cortés) のメキシコ征服1664年、イギリス人がニューヨークと名付ける。
Aug 22, 2012
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合宿帰りに辺野古に行ってみた。おなじみの光景。金網越しにAAV7A1水陸両用強襲車。看板が戦っている。
Aug 21, 2012
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*論文はやっぱ、書いてて楽しい部分がないといけない。ここは割と中核部分で楽しくいけた。3東京オリンピックと谷川俊太郎 「カムチャツカ」の次におかれる「メキシコ」については、北に対する南である、という読み方がある(注9)。確かに「カムチャツカの若者が/きりんの夢を見ているとき」という冒頭には明らかに北と南との対比が意図されており、「経度から経度へ」という東西のつながりが強調される作品全体の中で、南北の共感、憧憬は重要である。しかしそれはこの冒頭部分で完結していると見るべきである。というのはメキシコは実際の寒冷地であるカムチャツカと対比されるのような気候ではない。低緯度ではあるが、標高が高いために最低気温は一番高い6月ですら12度程度、 1月の場合は6度を切る。また「もや」というのは水蒸気を含んだ大気の温度が急速に下がり、露点温度に達した際発生するものである。娘は少なくとも体感的にはひんやりとした朝をむかえているのである。谷川はオリンピック前年の1963年にリオデジャネイロを訪問しているので、もし南を強調したいのなら、リオの方がふさわしいし(注10)、きりんからの連想だとしたら、当然アフリカのいずれかの都市が選ばれたであろう。 これは作品を成立状況から切り離した場合には決して出て来ない読みなのであるが、メキシコが選択された理由は、東京オリンピックの次期開催地であるからではないかと思われる。それは谷川だけの問題では無く、当時の日本人の大多数にとって、メキシコからイメージされるのは、何よりもオリンピック次期開催地であるというところだったろう。これは2012年現在のわれわれがリオデジャネイロときけば、熱烈なサッカーファンをのぞけば、オリンピックをまず思い浮かべるのと同様である。後述するように谷川は「祈らなくていいのか」にオリンピックを描いた三篇をいれているが、閉会式を描いた「やみの中に」は次のように閉じられている。 やみのなかに まだ炎が見える それはひとりひとりの心に燃え やみの中に もう明日が見える よみがえる明日が 実際の閉会式では、会場の全ての電源を落とした後、花火が上げられ、最後に電光掲示板には「SAYONARA」「MEET AGAIN IN MEXICO 1968」と表示された。 谷川は記録映画「東京オリンピック」(監督、市川崑)に脚本で参加しており、個人的な思い入れは強かったに違いないが、多くの日本国民にとっても、戦後復興と国際的地位回復の象徴という意義があった。とくに1940年の開催を逃し、その後敗戦を経験した日本にとって1964年の開催は特別な意味を持っていた。それが典型的に現れたのが聖火リレーである。東京オリンピックの聖火リレーは、ビルマ(当時)、マレーシア、タイ、フィリピン、中華民国、沖縄と、大東亜戦争の戦場をまわり、過去の戦争の乗り越えと、新しい友情を表現しようとしたのである。この主旨からいうと中華民国(台湾)ではなく、中華人民共和国をまわるべきだったのだが、当時中国は台湾問題のためIOCを脱退しており、実現しなかった。 最終ランナーもまた特別だった。通常は有名人が担当するのであるが、この時は1945年8月6日、すなわち原爆投下の日にに広島県で生まれた無名の青年が担当した。まさに第二次大戦の最終的な乗り越えであり、沖縄復帰などの宿題を残しつつも、新しい平和国家日本が、世界に認知されたのである。世界をつなぐリレーという発想はここから得られたのではないだろうか。 それでは谷川はオリンピックをどのようにとらえたのか。それを最も直截的に表現しているのは、開会式を描いた「祭 Oliynmpiad 1964」である。 乾ききつた砂の匂う褐色のからだ 熟れたぶどうの匂う白いからだ 熱い鉄と油の匂う黒いからだ 男たち女たち 世界中から集まつた若者たちの 裸の脚の林のむこう 旗は風にひるがえる 谺するフアンフアーレ その静寂の一瞬に 秋の陽は輝きわたる 二千年の歴史をこえて オリンピアはよみがえる あふれるいのちのままに おおいなる祝祭はよみがえる 言葉にならぬどよめきに いま人間の心はひとつになる 若者たちは戦うだろう 武器無く 憎しみなく しかも彼等は戦うだろう ひたむきに なおもおおらかに 第一連では三つの肌の色の視覚的印象を嗅覚的に表現する事で、なまなましい生命力が表現されている。これは「人類」といった抽象的なイメージではなく、具体的な生命であり、かつそれぞれが差異をもった他者である。この生々しい肉体に対して、旗が象徴する「国家」は後景に控えている。 第二連では、この具体的な光景が、長い歴史の中に位置づけられている事を示す。これもこの時期の谷川の新しい傾向なのだが、この問題については後述する。 第三連で印象に残るのは「武器無く/憎しみなく」という部分であり、これはこの場所とは異なった場所で、憎しみあいながら武器を取る戦いが存在している事を暗示している。もちろん現実のオリンピックにはその背後に政治的な力が働いており、現に東京オリンピック開催中に中国は核実験を実行している。しかし少なくともアリーナでは、あらゆる色の肌が平等なのであり、かつ彼等の戦いは「おおらか」なのである。 異なった色の肌をもつ若者たちが、同じ目的のために集まり、心を一つにし、自らの肉体だけで競い合う。このあふれんばかりの生命力の祭典は、谷川が理想とした世界そのもである。しかしそれはオリンピックという、限定された、非日常的な「祭」の中でのみ実現するものである。 オリンピックという濃密な空間で、しかも選ばれたアスリートたちによってのみに許される体験を、ごく平凡な日常世界に拡大する事は出来ないだろうか。その夢を語るというのが「朝のリレー」の一面である。(9)同注3、注4はいずれも「寒と暖」という読みを提案している。(10)リオデジャネイロに関しては、谷川はその旅行をあまり楽しまなかったのではないかという見方がある。それゆえあえて取り上げなかったという可能性もある。(出典あとで)
Aug 17, 2012
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*書類選考が終わったので、気持ちが軽くなった。週末は夏休みなのに、勉強ばかりさせられている次男のために使わなければならないし、週明けは合宿である。でもう一本がんばった。*奇をてらわずにこっちが最初かなあという感じもするが、作っておいて損ではないブロックである。実際には一度全部書いた後、何度も調整するのである。2、書誌 通常の作品論ならまず最初に確認されなければならない作業なのであるが、ここでこの作品の初出とおおよその成立時期について考えておきたい。作品にもよるのだろうが、少なくとも「朝のリレー」の教材研究についていえば、初出について言及されているものは管見の及ぶ限り存在しない。 この作品の初出は『谷川俊太郎詩集・日本の詩人17』河出書房版・1968年であると断定してよいと思う。すなわちこの詩集以前に何らかの雑誌等に掲載された形跡はない。『谷川俊太郎詩集』というのは同名の書籍が何冊もあるが、この河出書房版はやや特異な性質を持っている。というのは旧作のアンソロジーという性質と新詩集という性質を合わせ持っているのである。既刊詩集からは『二十億光年の孤独』(1952)六篇、『六十二のソネット』(1953)12篇 『愛について』(1955)10篇 『絵本』(1956)4篇 『愛のパンセ』(1957)2篇 『あなたに』(1957)12篇 『21』(1962)4篇 『落首』(1964)9篇、この後に「祈らなくていいのかー未刊詩集」と題された28篇がおかれ「朝のリレー」はその中の一作である。その他巻頭に八枚のカラー写真があり、一枚ごとにおそらく新作と思われる詩が一つずつ付されている。巻末には「歌」として「死んだ男の残したものは」と「風のマーチ」の歌詞がそれぞれ楽譜とともに収められている。その他詩の余白にエッセイなどが挿入されているが、刊行同年の一月には同じ河出書房から『愛の詩集』が出版されており、またこの詩集に続く18巻『青春詩集』の編集も谷川が担当するなど両者の結びつきは強く、デザインから写真選定、付録のギフトカードにいたるまで、谷川自身の意志を強く反映していると見られる。 「祈らなくていいのか」は「未刊詩集」とあるように、単なる未刊詩編の寄せ集めではなく、はっきりと一つの詩集として構成されたものである。まず季節をめぐる作品から、オリンピック、実在した人物を素材とした作品、結婚から家族に至る作品へとブロックが緩やかに接続している。このうち「ワレンチナ・テレシコワに」に描かれている女性最初の宇宙飛行は、1963年6月16日のことであり、東京オリンピックの開催は 1964年10月10日から24日までである。一方後半に配置されている恋から結婚、父親になることや家庭生活を描いた作品群は1957年の二回目の結婚から、1960年の長男誕生などを反映したものと考えられ、成立時期はやや古い。「朝のリレー」については後に詳述するように、オリンピックを描いた作品群と結びつきが強いため、その成立時期を1964年後半から、1965年にかけてであると推定するのである。 この項の最後として、「朝のリレー」が成立した1960年代の状況について若干確認しておきたい。まず国際情勢としては61年にはベルリンの壁が建設されるなど東西冷戦は深刻化し、62年10月にはキューバ危機を迎える。また60年に始まったベトナム戦争においては、65年に北爆が始まり、泥沼の様相を呈していた。反面57年のスプートニクに始まる宇宙開発は急速に進歩し、60年代半ばには真っ青な地球のカラー映像が配信されるようになる。『谷川俊太郎詩集』の巻頭写真のうちの一枚は人工衛星から撮影された地球である。 一方日本は敗戦から急速に立ち直り、高度経済成長を謳歌していた。その重要な象徴が東京オリンピックであった。 「朝のリレー」そのものから、直接的には上記のような時代性は一切感じられないが、この作品はこのような時代に成立したのである。
Aug 16, 2012
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*批評史、受容史が一応出来た。これは一般的には研究史という事になるが、その場合淡々と事実だけを整理するタイプと、今回のように考察を加える場合がある。 今見ると「批評史・受容史」というのはちょっと違うな。受容状況?まあ後で考えよう。基本一回できあがるまでは、とにかく先に進む事が肝心である。 前半いじっていないので、関さんの批評から。 以上のような教材的な読みに対して、強い不快感を示す詩人がいる。関富士子氏の「〈詩を読む 4〉谷川俊太郎「朝のリレー」を読む」がそれである(注5)。 関氏は『歴程』同人であり、『音の梯子』(注6)などの詩集があるが、インターネットを中心に活動する新しいタイプの詩人であり、上記の批評もまたインターネット以外では閲覧できないものだと思われる。 関氏は別に教材研究的な読みに対して異議をとなえているわけではなく、そのようにしか読めない作品に対して不快感を表しており、その批判の骨子は以下の通りである。「朝のリレー」には、まず初めに、読者に押し付けようとするテーマというものがあり、表現はそのためにねじまげられているのだ。 さらに、明らかに意図的な比喩を、対句の繰り返し、断定的文末、切れのあるリズムでたたみかけてくる。詩のテクニック、いかにも詩的表現が、言葉をいまわしいスローガンに堕すのはこういう時だ。 これはまさに教材研究の合わせ鏡のような批判である。明確なテーマを持ち、そのために有効な技巧を用いるという「教材」としての価値そのものが、批判対象となっているのである。そして「少年少女」が学ぶのは「作者の意図」と「教育的意図」であり、それらは「詩の感動とは無縁のものだ」としている。 それでは実際の読者達はこの詩をどのように受容したのであろうか。 ある作品の受容状況という問題を考える場合、インターネットの普及はその性格を大きく変えた可能性がある。特に「朝のリレー」のようなよく知られた作品の場合、数多くの個人が、ブログ、掲示板、ツイッター等さまざまな手段で、感想、批評を表現している。その全てに目を通すのは物理的に困難であるが、教材としての思い出にしろ、CMの感想にしろ、概ね好評である。具体例をいくつか挙げると次の通りである。実例一 カムチャッカ(私が習ったときは、カムチャツカではなくカムチャッカだったような気がします^^;)ってどこだろう?朝もやの中のバスって? キリンの夢って?ってワクワクした覚えがあります。実例二 カムチャツカという言葉が出てきた時に先生が「カムチャツカはどこだ~?」と生徒に聞いたのですが、みんな聞いたこともなくて結局先生が「ここだよ」って教えてくれたんですが、そのときの思い出で出てくる先生の顔は中2の時の国語の先生の顔なんですよね・・・。実例三 谷川俊太郎の「朝のリレー」のフレーズがラジオから流れてきたときは、思わず鳥肌が立った。 URLは注においたが(注7)実例一,二は学校で教わった思い出を語りあう掲示板であり、実例三は工芸家のブログである。他にも無数にあるのであるが、典型的なものと判断して採用した。 興味を引くのは、多くのの一般読者にとって「朝のリレー」の中で最も印象に残っているのは、教室で教えるような「若者の連帯」というようなテーマや、「対句の構成」といった技法などではなく、冒頭の「カムチャツカの若者が/きりんの夢を見ているとき」という言葉の力そのものである。「カムチャツカ」という中学生にとっては聞き慣れない地名、日本語においては促音化しやすい位置の「ツ」がはっきり発音される事、北の地名だとわかった後の「きりん」との対比のおもしろさ。既に最初の二行でこの作品は、中学生の関心を引きつけているのである。グーグルで「カムチャツカ」を検索すると、一位の検索語句は「カムチャツカツアー」という実用的なものだが、第二位は「カムチャツカの若者が」であり、これは印象的な冒頭から詩のタイトルを検索しようという数多くの人々の行為から生じた現象である。 実例一でふれられているカムチャツカの表記については、既に1946年に出されていたた内閣告示「現代かなづかい」が徐々に徹底されていく中、促音を小文字にあらためる過程で、もともと促音ではなかったカムチャツカも誤って小文字表記に書き換えられてしまったが、その後誤りに気付き、再び大文字に戻された、といった事情であると考えられ、それほど本質的な異同ではないが、インターネットでは何度か話題になっており、この問題に特化した考察まである(注8)。これもまた「朝のリレー」という作品にとって、冒頭カムチャツカの印象がいかに強かったかという事の証左であろう。また実例二に登場する教師は、生徒のこれまでの反応を反映させたよい工夫であると言えるだろう。 以上のように実際の受容者達は、確かに関氏の指摘するとおり「地球の裏側のまだ見ぬ同胞への連帯感」などかきたてられていないようであるが、逆に関氏にとっては「テレビでよく見る全国各地の朝の映像」程度でしかない冒頭を、新鮮な驚きとして受け止めたのである。 1,宇我部義則「詩の意味が群読を作る」中学国語実践講座刊行委員会篇『中学国語実践講座 第2巻 音読・朗読・群読の学習』ニチブン 1997.3.1など。2,竹田博之「詩を提示する三つの観点(中学校の教科書教材を中心に)」『月刊国語教育』東京法令出版1998、5。3,「朝のリレー」『中学校・詩の読み方指導』、科学的「読み」の授業研究会編、明治図書1994、10。4,池田一彦「谷川俊太郎「朝のリレー」 私解」『聖徳学園岐阜教育大学国語国文学 九』1990-03-155,関富士子「〈詩を読む 4〉谷川俊太郎「朝のリレー」を読む」http://www.interq.or.jp/mars/ippo/rain3/shijin.html6,関富士子『音の梯子』 七月堂2005、6、20。7,実例一および二 たんぎい「谷川俊太郎「朝のリレー」」。たんぎいというのはこのスレッドをたてた人のハンドルである。 http://www.ozmall.co.jp/bbs/1-484135-snew.aspx 実例三 東日出夫「朝のリレー」 http://urushi-art.net/hitokoto/backfile/best/asanorirei.html 8,センニン ”カムチャツカ" か "カムチャッカ" か:「朝のリレー」。 http://music-1000.blog.so-net.ne.jp/2010-04-17-2
Aug 16, 2012
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*今日は業務が午前中だけでよかったので、3時間ぐらい作業できた。事前に相当準備していて3時間もかけてこの程度の進捗か、と思われるかもしれないが、実は学生に朽ち酸っぱく言ってるのに一部資料のレファランスを取っていなかったので、図書館にいったりしていた。><重要。コピーをとったら必ず出典を、そのコピーの1ページ目にメモしておこう。序盤は昨日と同じだが、少し厚みが出てきた。何より作業そのものが楽しくなってきたのでいい感じである。論文は楽しもう。1,受容史・批評史 「朝のリレー」を教材としてとらえた場合、群読の素材という試みもあるが(注1)、やはり第一連を中心に、「対比」を中心に取り上げられる事が多いようである。例えば竹田博之氏は「朝のリレー」を「表現技法を教える詩教材」に分類した上で、次のように整理している。(注2)「カムチャツカの若者は男か女か」を問うことで、この詩の対句の形がくっきりと浮かんでくる。若者(男)・・夜←→ 娘・・朝 少女・・夜←→ 少年・・朝 そして、この「対句」によって朝と夜がぐるぐる回っている様子(つまり「朝のリレー」)が見事に表現されている。そういう点で、この詩は「対句」という技法と、その技法を用いる効果を教える好例としてストックしておくことができる。 どちらがいい悪いの問題では無く、このみやすい図式は国語科教育と文学研究とのスタンスの違いを明確にしている。すなわち国語科教育において重要なのは、生徒達に教育目標、この場合は技法とその効果を教えることなのであり、作品はあくまでもそのための素材なのである。 他に「朝のリレー」が教材として重宝される理由としてあげられるのは、題名の喚起する初々しいイメージと、明快な主題である。例えば「科学的「読み」の授業研究会」は詳細な「朝のリレー」の指導案を提示している(注3)。この指導案ではやはり対句の分析に非常に力点を置きながら、同時に生徒が提案する多様な読みを提示しているが、最後の「主題読み」は非常にシンプルである。題名の「朝」は「希望、未来をイメージする」。「リレー」は「友情、連帯」を示す。そして作品の主題は「若者たちの決意と連帯へのよびかけ」であり、「ぼくら若者達は、連帯し、あしたへの明るい希望を持って、平和な世界をめざし努力していこう」といった「よびかけ」が二つ例示されている。 この「若者たちの決意と連帯へのよびかけ」という主題、あるいは明瞭な対句といった作品の特徴に異議をとなえるのは困難である。たとえばやはり教材研究の立場から、池田一彦氏は「谷川俊太郎「朝のリレー」 私解」という論文を書いている(注4)。池田氏は新批評的な立場から、作品外の情報を徹底的に排除し、「朝のリレー」の「の」という格助詞にこだわるなど、より精緻な読解を試みているが、作品の読解の大枠は従来の教材研究を大きく逸脱するものではない。 「朝のリレー」は中学一年の序盤、時には最初の教材であり、入学したての中学生達に未来や希望をしめし、連帯をうながすという意味で扱いやすい教材と言えるだろう。中学一年の教科書には他に、例えばヘッセの「少年の日の思い出」のような、重大な事案とは言えないが、人間の暗部を示すような教材も含まれているから、バランスもいいのだろう。すなわち教材としてみた場合、「朝のリレー」という作品は、明確で前向きな主題を持ち、わかりやすい技法の指導が可能なものであるという枠組みを出る事はないと思われるのである。 以上のような教材的な読みに対して、強い不快感を示す詩人がいる。関富士子氏の「〈詩を読む 4〉谷川俊太郎「朝のリレー」を読む」がそれである(注5)。 関氏は『歴程』同人であり、『音の梯子』(注6)などの詩集があるが、インターネットを中心に活動する新しいタイプの詩人であり、上記の批評もまたインターネット以外では閲覧できないものだと思われる。 関氏は別に教材研究的な読みに対して異議をとなえているわけではなく、そのようにしか読めない作品に対して不快感を表しており、その批判の骨子は以下の通りである。「朝のリレー」には、まず初めに、読者に押し付けようとするテーマというものがあり、表現はそのためにねじまげられているのだ。 さらに、明らかに意図的な比喩を、対句の繰り返し、断定的文末、切れのあるリズムでたたみかけてくる。詩のテクニック、いかにも詩的表現が、言葉をいまわしいスローガンに堕すのはこういう時だ。
Aug 15, 2012
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*今日は書類審査を5時間くらいやったので、勉強は1時間ちょいしか出来なかった。だがこの一時間ちょいが重要である。「今日はまあいっか」と空白をつくるのはだめである。これは過去の学生達から学んだもので、こういう時踏ん張れるやつだけが、勝ち残るのである。*というわけで、今日の進行はいまいちだが、できあがってきれいになったやつよりも参考になるかもしれない。*この章で取り上げるのは、「国語科教育における教材研究」「詩人による強い批判」「ネットで見られる一般読者の反応」なのだが、どういう順番に並べたらいいのか迷っている。迷ったら書く。これも重要である。実際に書いてみると、自ずと方向性が見えてくる。以下現状。1,受容史・批評史 「朝のリレー」を教材としてとらえた場合、群読の素材という試みもあるが(注1)、やはり第一連を中心に、「対比」を中心に取り上げられる事が多いようである。例えば竹田氏は「朝のリレー」を「表現技法を教える詩教材」に、分類した上で次のように整理している。(注2)「カムチャツカの若者は男か女か」を問うことで、この詩の対句の形がくっきりと浮かんでくる。若者(男)・・夜←→ 娘・・朝 少女・・夜←→ 少年・・朝 そして、この「対句」によって朝と夜がぐるぐる回っている様子(つまり「朝のリレー」)が見事に表現されている。そういう点で、この詩は「対句」という技法と、その技法を用いる効果を教える好例としてストックしておくことができる。 どちらがいい悪いの問題では無く、このみやすい図式は国語科教育と文学研究とのスタンスの違いを明確にしている。すなわち国語科教育において重要なのは、生徒達に技法とその効果を教えることであり、作品はあくまでもそのための素材なのである。 また「朝のリレー」が教材として重宝される理由は、(中断、以下別バージョン) ある作品の受容状況という問題を考える場合、インターネットの普及は既にその性格を大きく変えた可能性がある。特に「朝のリレー」のようなよく知られた作品の場合、数多くの個人が、ブログ、掲示板、ツイッター等さまざまな手段で、感想、批評を表現している。その全てに目を通すのは物理的に困難であるが、教材としての思い出にしろ、CMの感想にしろ、概ね好評である。特に興味を引くのは、かなりの一般読者にとって「朝のリレー」の中で最も印象に残っているのは、教室で教えるような「若者の連帯」というようなテーマや、「対句の構成」といった技法などではなく、冒頭の「カムチャツカの若者が/きりんの夢を見ているとき」という言葉の力そのものである。「カムチャツカ」という中学生にとってはきいた事のない地名、日本語においては促音化しやすい位置の「ツ」がはっきり発音される事、北の地名だとわかった後の「きりん」との対比のおもしろさ。既に最初の二行でこの作品は、中学生の関心を引きつけているのである。グーグルで「カムチャツカ」を検索すると、一位の検索語句は「カムチャツカツアー」という実用的なものだが、第二位は「カムチャツカの若者が」であり、これは印象的な冒頭から詩のタイトルを検索しようという 1,中学国語実践講座刊行委員会篇『中学国語実践講座 第2巻 音読・朗読・群読の学習』ニチブン 1997.3.1など。2,竹田博之「詩を提示する三つの観点(中学校の教科書教材を中心に)」『月刊国語教育』東京法令出版1998、5。*追加・ここまで読んでくれた人はいるのかw追加として、注は気づいたときに作っておくと後が楽です。
Aug 14, 2012
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最初に説明。序論部分ではだいたい「作品の紹介」「だいたいどのように取り上げられてきたか」「自分はどのようにとらえるのか(テーマ・問題設定)」が必要。今回のは「有名な作品だけど成立過程は知られていないよね、それを調べました」ということなんだが、ちょっとインパクトに欠けるので、最後に加筆修正するかもです。 谷川俊太郎の「朝のリレー」は長く定番教材として親しまれてきた。最もシェアの高い光村図書の中学一年用教科書では、1981年から1992年まで10年にわたり採録され、現在も2002年以降の三省堂教科書に採録されている。 またこの作品の受容者をさらに拡大させたのは、2004年、この詩の朗読と映像を組み合わせたCMであろう。このCMはACCグランプリ(テレビCM部門)を受賞しており、現在も動画閲覧サイト等に数多く上がっている。現代の日本人に最も広汎に親しまれた作品の一つと見てよいだろう。 その一方この作品の成立が1960年代半ばであることは意識されないし、言及される事もほとんどない。これは他の多くの谷川作品同様、この作品が高い普遍性を持っているためである。またこの作品については「教材」という観点から論じられる事が多く、その場合「対句」という技法に関心が向けられ、成立過程等に関心が向けられることはほとんどなかった。これは詩集というコンテクストから切り離された「朝のリレー」という単独の作品のとらえ方としてはほぼ妥当だと思われる。しかしどのような文学作品であれ、具体的な時代の制約と特色の中で誕生したのである。特に1960年代の谷川は他の時期に比較すると、現実の具体的状況にきわめて敏感であり、また具体的な事象を作品化している。「朝のリレー」という作品もまた、その成立過程には1964年という具体的な状況と、その時期の谷川の関心対象、思想が存在しているのである。 以下本稿では、「朝のリレー」という作品を、もう一度初出詩集である「祈らなくていいのか」に置き戻し、かつ1960年代半ばという具体的な状況から、何を捨象し、どのように抽象化したのかを明らかにしたい。
Aug 13, 2012
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はじめに1,受容史と研究史2,成立時期の社会状況3,谷川の思想と多様性4,時代性と普遍性おわりにむう、書く項目は以上の通りなんだが、この順番でいけるかどうか自信ない。というわけで、実際書く前の構成は、あまり神経質にならなくてもかまわない。
Aug 13, 2012
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やっと入試問題作成と成績報告が終わった。と思ったら明日からAOの書類審査で、来週はもう合宿か・・・。 という合間を縫って「論文を書いてみる」。特に内定出た人と院進学の人は夏を無駄にしない事。 教育実習前の人も一時間でいいからやってほしいです。1,その日のスケジュールを組む。 11時スタート12時まで。 12時から1時まで休憩。 1時から2時半まで作業。 2時半から3時までお休み。 3時から4時半まで作業。 5時に子供を迎えに行く。 無理ないプランだぜ。これで4時間ある。2,その日の目標を立てる。 概ねの構成→跡で変更しもかまわないので気楽に。 「はじめに」(卒論では序論として下さい)を書く。 できれば受容史、受容状況をまとめた1までいけるかな。
Aug 13, 2012
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