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えー、昔から、「小人閑居して不善を為す」なんてことを申しますが、ワタクシ、しょうしょうこの「不善」てえ奴に興味がありましてね。閑居できる身分になったら不善を為してやろうと思っていたのですよ。60まではなんだかんだありまして、なかなか閑居できない。それどころか、「貧乏暇なし」てえ情けない状態になっております。 まぁ、ワタクシなどの凡人が考えます「不善」といえば、まず(小指を立てて)こちらのことを思い浮かべますな。ただ、この場合、「不善」を為すためには金と体力、さらにマメなことが必要だという事に思い当りまして、これはだめだと、全部今の自分にないものだと、本当に天の神様は私が不善を為さないように守ってくださっていると、散歩の途中にある小さな祠に手を合わせたものでございますよ。 しかし、神様から守っていただいているというのも癪に障ることで、何か不善ができないかなと思っていましたら、世に「ネトウヨ」と呼ばれる方たちは、金がない若者たちが不満をぶつけているのではなくて、小金と暇がある自営業の方たちがやっておられるてぇことを小耳にはさんだわけです。 どうも、暇と金とがあっても、あまり勉強はされていないようで、仲間内で回ってくる出所不明の「ニュース」ですとか、今を時めくベストセラー作家の千田先生の御本をちょこちょこっと読んで、「自論」を組み立てておられるようです。なんでも、「中国」「韓国」「朝日新聞」というのが、三大敵だそうで、このうちの一つでも擁護しようものなら、口を極めて罵るのでありますね。ただ、語彙が乏しく、パターン化されており、あまり胸には響かないのでありますね。 結局、千田センセイのmini版、いうなれば、百田といえばいいのでしょうか、そういう手合いが暇を持て余してツイッターをいじっているわけですな。 まぁ、そうなりますと、ワタクシとしては、「ネトウヨ」の向こうを張って「ネトサヨ」といきたいところですが、これは全くもって不善にはならないという事に気が付くのですな。あーあ、「不善」もできないとは、なんという不幸な星のもとに生まれたのか。古希になっても、不善もできない。 ついでのことにオチも浮かばない。…夜も更けてまいりました。どちら様もおやすみなさいませ。
2019.01.31
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高橋さんが、「漫画界のカンヌ」と呼ばれている「アングレーム国際漫画祭」で「最優秀賞」を受賞された。一ファンとして嬉しい事なのだけれど、受賞理由が面白かったので以下に紹介いたします。 「出る杭は打たれる日本社会でアウトサイダーや変わったキャラクターを前面に押し出し、彼らにもチャンスがあることを伝えてきた。コメディーに見えてきわめて進歩的」 なんだそうだ。「メゾン一刻」とか、「うる星やつら」とかにはずいぶんと楽しませていただいた。笑いの質がとてもよく、下品さはかけらもない。曲線を主体とした登場人物はどこか手塚さん的でもある。
2019.01.29
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17年前、東京 足立区のアパートで23歳の男性が殺害された事件で逮捕された47歳の男が、「事件のことを毎日夢に見て出頭した」と供述していることが捜査関係者への取材でわかりました。警視庁は、長年罪悪感にさいなまれて事件を告白したとみて調べています。 17年前の平成14年12月、東京 足立区島根のアパートで、会社員の成嶋健太郎さん(23)を殺害し財布などを奪ったとして、台東区の川瀬直樹容疑者(47)が強盗殺人などの疑いで逮捕され、23日検察庁に送られました。 この事件は先月、川瀬容疑者が浅草警察署を訪れ、「人を殺した」と犯行を自供したことで捜査が進展しましたが、その後の調べで「事件のことを毎日夢に見て出頭した」と供述していることが、捜査関係者への取材でわかりました。 捜査員を現場に案内する際も、事件後初めて現場を訪れたにもかかわらず、迷うことなく案内したほか、室内の状況も詳細に説明したということで、警視庁は、罪悪感にさいなまれて事件を告白したとみて調べています。 一方で「頭の中を他人から見られて犯行がばれた」などという言動もしていて、警視庁は責任能力についても詳しく調べています NHKニュース 1月23日 ☆「罪悪感にさいなまれて事件を告白した」とのことなのだが、一旦は自己の殺人を肯定していたラスコーリニコフが、罪悪感に耐えられなくなっていく『罪と罰』を思い出した。 それと同時に、敗戦後、日本に帰還した兵士たちの大半が何も語ることなく、まわりも「あなたは戦場で何をしてきたのか」を問う事もなく70年が過ぎたという事を思う。周りが聞かなかったのは、「おそらくそんなことはあったんだろう」という暗黙の了解があったからではないか。 幸い私の父は技術屋(航空機の潤滑油の研究)であり、台湾から、「お世話になりました」という人が訪ねてきてくれたので、「人を殺したことがあるのか?」という問いを発することなく父の終焉を看取ることができた。 ただ、改めて考えると、戦後、交戦国は多数の人を殺したことのある人間をそれぞれの社会の中に抱え込むことになっている。「ナチ」に対する追求は続いている。しかし、戦勝国で、戦場で人を殺した兵士たちは、「自分が行ったことは正しい。正義を遂行しただけだ」と自分を納得させ、まわりもそう仕向けたのだろうか。 アメリカの場合、「汚れた戦争」と断罪されたベトナム戦争での帰還兵たちは国民のモラルサポートを受けることはできなかった。その結果、精神を病んだ元兵士が続出したと聞いている。 夫に殺人を強いたマクベス夫人は、自ら手を下したわけでもないのに精神に異常をきたしている。 「人道的介入」と称されているコソヴォ空爆でも、果たして正しかったのかが疑われている。クウェートに侵攻したイラク軍をクウェート領内から撤退させるために、数々の「フェイクニュース」が流されて、多国籍軍の行為の正当化が図られた。イランに対抗するためにアメリカは独裁者フセインを育てた。ソ連のアフガン侵攻の際は、結果としてアルカイダとビン・ラディンを育てた。 そう考えれば、すでに「正義の戦争」などというというシロモノは存在しない。第一次大戦では、兵士の方が非戦闘員である市民よりも多数死んでいる。ところが、二次大戦ではその比率は大きく転換し、兵士は2500万人、非戦闘員は5500万人亡くなっている(殺されたというべきか)。その後の「紛争」においても、非戦闘員の死者は常に戦闘員の死者を上回っている。 私たちが「戦争」というものを拒否しなければならない理由がここにある。軍需産業を肥え太らせるために私たちは税金を納めているのか?兵器は通常の場合、契約を結んだ時点よりも高い金額で納入される 2011年末にA型の導入を決定した日本の防衛省は、1機あたりの調達価格を本体のみ約89億円(スペア部品などを含めた場合約99億円)としていた。翌2012年6月29日に正式契約が交わされた際には、2016年度に導入する4機については1機当たりの価格が約96億円(交換部品を含め約102億円)と上昇。毎日新聞は2012年9月4日の記事において、製造に習熟していない作業員が製造に関わっているためコストが上昇し、一機当たりの価格が当初の1.5倍の150億円に達する見通しとなったと報じている。wiki 膨大な財政赤字を抱えて、社会保障費と教育費とを削り倒している国にこんなものが必要なのか?
2019.01.23
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『歴史の愉しみ方』磯田道史 中公新書 買ったのは2018年8月20日の17版。よく売れているようです。新年に、京都の大垣書店で購入しました。磯田さんの本を読むのは確か初めて。 興味深いエピソード満載なのですが、「これは紹介しなくては!」と思った箇所を引用し、蛇足のコメントをつけます。 「(秋山真之は)日露戦争前に海軍で戦術を講義したが、教壇に立つやこういった。「ナポレオンは一戦術の有効期限を10年とした。海軍戦術の有効期限は2年を越えない。飛行機と潜水艦が発達。これから海軍は無用の古物になり空軍万能の時代が来る。巡洋艦が空中を飛行し、戦闘艦が水中を潜航する戦場は平面的でなく立体的だ。今から教える平面戦術は役に立たなくなる」。この教えを昭和の軍人が守っていたら歴史は違ったであろう」(p89~90) ライト兄弟が有人動力飛行に成功したのが1903年の12月。Wikiには、「世界初という点についてはグスターヴ・ホワイトヘッドによる1901年8月の初飛行が世界初であるという指摘があり、グスターヴ・ホワイトヘッドによる飛行が世界初とする説もある」という指摘があるが、日露戦争前といえば、1903年以前だから、この時期に「海軍無用の古物論」を唱えたのは異常と言っていいほどの卓見ではないか。 しかし当然のことかもしれませんが、日本海軍は大艦巨砲戦術を採用、第三次海軍軍備補充計画に基づいて戦艦大和、武蔵を建造、大和は1937年11月4日に建造開始、1941年12月16日に就役しています。 その6日前の12月10日、日本の海軍航空隊によって僚艦のレパルスと共に撃沈されたのが戦艦プリンス・オブ・ウェールズ。「完全装備で行動中の戦艦を航空機で沈めるのは不可能である」という「常識」を破ったのは皮肉にも日本だったのです。 大和と武蔵両艦の戦闘履歴を調べてみてあっけにとられるのは、両艦共に大戦果を挙げることなく、艦隊決戦を行うことなく撃沈されていることでした。敵の主砲が火を吹く前にその射程距離のはるか彼方から大和の主砲が敵艦を屠るという構想(アウトレンジ)は結局実現しませんでした。また、大和のカタログデータを見る限り、あらゆる攻撃を退け、襲いかかる敵機をことごとく撃ち落とす「不沈戦艦」のはずでした。しかし、すでに海軍内部でも、「世界の三大無用の長物。ピラミッド、万里の長城、戦艦大和」というささやきがあったそうです。 「土葬でなく火葬にしてもらいたい。天皇陛下がそう仰ったらしい。現在、皇族方は普通に火葬。しかし天皇・皇后は土葬。幕末の孝明天皇以来、「古墳」を造ってきた。・・・天皇の土葬は約360年前の後光明天皇から連続している。この帝は数え22歳で夭折。その時、天皇に魚を献じていた魚屋の八兵衛が「玉体を火葬するのは勿体ない」と奔走。火葬を阻止して土葬とした。・・・『後光明天皇外記』を読まねばならぬ。・・・後光明天皇の強い個性に驚かされた。何しろ仏教が大嫌い。・・・開けてはいけない三種の神器の鏡の入った唐櫃を開けてみた、中に鏡だけでなく仏舎利があったのを見つけ、「怪しい仏舎利め」と庭に捨てさせた。・・・それだけではない。この帝は本来、日本は朝廷が統治するものという思想の持ち主。「朝廷が衰微したのは和歌を第一にし、源氏物語・伊勢物語など淫乱な書物を読んできたからだ」と言い朱子学の研究に熱中した。・・・こんな仏教嫌いの天皇を仏教式に火葬するのはいけないと例の魚屋が動いたらしい。」(p71) 江戸時代の天皇については、授業ではほとんどといっていいほど扱いません。朝幕関係が緊張した紫衣事件とか幕末期にはクローズアップされるのですが、他の時期は私の不勉強で全く調べたこともありません。しかし、少し考えてみれば、禁中並公家諸法度などの法令があっても、それに縛られることを嫌って独自の行動をとろうとした天皇も存在したことは当然でしょう。それにしても、仏舎利まで捨てるとは・・。 第四章「震災の歴史に学ぶ」は、「東日本大震災をきっかけに、研究の方向転換を余儀なくされた」著者が、「来たるべき地震は何分間揺れるのか。大坂や名古屋はどの程度の津波に襲われたのか。原子力発電所が集中する敦賀湾に津波が来た証拠はあるのか。新幹線の安全対策はどうか」(まえがきⅤ)について古史料を発掘し、警鐘を鳴らす作品ばかりです。 それにしても、「東南海」の危機を煽りながらオリンピックと万博を誘致した日本政府は何を考えているのか。「歴史に学ばない人々」が政権についていることの怖さが迫ってきます。
2019.01.04
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『幕末維新のリアル』上田純子・公益財団法人・僧月性顕彰会 吉川弘文館 この本は、2017年4月から11月にかけて全7回の連続講演会として開催された柳井ひとづくりアカデミー2017「いま蘇る幕末維新」の講演録です、と「はじめに」には記してあります。柳井とは、山口県柳井市。この本を読み始めて、自分の過去の事がくっきりと甦るような体験がありました。それは、以下の漢詩です。 「男児志を立てて郷関を出ず」「人間到る処青山あり」「学若し成る無くんば復還らず」。 この漢詩は、私が中学生の時、卒業生の答辞の中に引用したものでした。家にあった漢詩の本をぱらぱらめくっていてこの詩に出会い、拝借したのでしょう。卒業式に出席していた祖父(元小学校校長)が、知り合いから褒められたらしく、家に帰ってからもご機嫌であったことを思い出します。 閑話休題。 私にとって興味深かった章を二つ紹介します。 まず、第四章「洋上はるか彼方のニッポンへ」<欧米列強は何を目ざし、どう動いたのか>後藤敦史。 執筆者の問題意識は、「外圧・討幕・近代化」物語からの脱却(p110)、にあります。当時の世界情勢と国力から考えれば、日本を開国させる尖兵はイギリスであってもよかったのに、なぜアメリカなのか? イギリスは南下を図るロシアを押えるためにオスマン帝国、フランスと組んでクリミア戦争を戦っています。「クリミアの天使」ナイチンゲールで有名な戦争ですが、イギリスは1854年に参戦しています。また、イギリスにとっての重要地点はあくまで中国市場であり、日本の優先度は低かったということになります。中国では1851年に「太平天国の乱」が勃発し、イギリスとしてもその「乱」の推移について無関心ではいられませんでした。また「インド大反乱」(「セポイの乱」とも)が1857年に勃発しています。 一方、アメリカはどうか?当時のアメリカは北太平洋地域での捕鯨を盛んに行っており、日本近海で鯨が多く獲れることを発見しますが、その代償として難破、漂流、そして日本へ漂着という例も多くなります。イギリスの捕鯨船員たちが薩摩藩領であるトカラ列島の宝島に上陸し、島民たちと交戦状態になる事件まで起きています。 1849年(嘉永2)に、プレブル号という軍艦が長崎に来航していますが、これは、日本に漂着したラゴダ号という捕鯨船の乗組員を受け取るための来航でした。ラゴダ号の乗組員たちは「踏み絵」を強制されており、その事を「残酷な措置」としてプレブル号艦長に報告、このことから、「捕鯨船員保護のためにも日本との国交樹立が必要」(p126)という声がアメリカ国内で影響力を強めていきます。1726年に出版されたジョナサン・スウィフトの『ガリヴァー旅行記』にも、踏み絵の話が出てきますが、かなり早い時期から鎖国体制下の日本では「踏み絵」というキリスト教徒にとっては「残酷な措置」が行われていたことはしられていたようです。 1851年にアメリカ海軍は東インド艦隊司令長官のジョン・オーリックに対日外交を命じ、「条約締結に関する権限」も付与します。「東インド艦隊というのは、1835年以来、中国近海に常駐し、東アジア海域におけるアメリカ人の生命や財産を守ることを主要な任務としていた艦隊」(p127)なのですが、オーリックは駐ブラジル公使と金銭トラブルを起こして解任され、その後任になったのが、ペリーです。ペリーは57歳、アメリカ海軍の名門の一族に生まれ、功名心に燃えていた彼は東インド艦隊の通常任務(アメリカ人の生命、財産を守る事)よりも対日外交を優先させるということを海軍に認めさせ、実際に1853年11月に中国在留の商人たちから保護要請が出た(太平天国関連)にも拘わらず、それを無視して1854年2月に日本に来航、1854年3月31日(嘉永7年3月3日)に日米和親条約を締結するのです。 この影響を受けたのが、北太平洋測量艦隊です。アメリカはこの艦隊を「外交政策として、蒸気船航路となりうる航路全体を調査する」(p133)ために1853年6月に派遣したのですが、ペリーが無視した中国在留のアメリカ人たちの要請を果たすために測量事業を中止せざるを得なかったのです。 ロシアは、クリミア戦争のために余儀なくされた英仏艦隊との遭遇を避けつつプチャーチンは「来航しては去っていく」(p137)行動をくり返し、1年半かけて「日露和親条約」を締結します。 さて、イギリスはというと、1854年の9月にイギリス海軍の中国艦隊司令長官のジェームズ・スターリングがクリミア戦争に対して中立を約束させ、国際法に基づく軍艦の寄港許可を求めるために長崎に来航したのですが、幕府側が「条約締結の要請であろう」と誤解して1854年9月に「日英和親条約」を締結してしまいます。権限がないにもかかわらず条約を締結したスターリングに対しては、香港総督のボウリングが強く批判していますが、あと戻りは出来ません。 一方で、1855年5月に来航したフランスの艦隊司令官のモーラベルは、イギリスと同様クリミア戦争に関する問題で交渉を行うのですが、外交権限がないことを理由として「和親条約」を締結していません。 アメリカでは、1861年に勃発した南北戦争(65年まで続き、62万人の死者を出した)のために対日交渉はいったん停滞しますが、1890年代、南北戦争後の国内再建と軌を一にして太平洋への進出が本格化します。 他、第5章の「「尊王」とは何か」<国学の誕生から帝国憲法まで>からは、本居宣長と「国学」への関心を掻きたてられたのですが、ここでいったん終わりといたします。 幕末という大激動期、いかに多くの要素が絡まりあったか、偶然が重なりあったか、「分りやすい」説では零れ落ちてしまうものがいかに多い事かを痛感させられた一冊でした。2018年の12月31日に読み終えた本でした。
2019.01.03
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