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食器棚の上を片付けましたら、さっそく、あもが食卓からジャンプして棚の上に! 高いところが好きなんですね。 今日は、負けじと、まろがジャンプ!見事棚の上に着地。下りる時にはかなり決心が必要だったようですが・・。 あものジャンプの瞬間を偶然カメラにおさめることができました。
2009.01.31
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美味しいお料理をいただいたお店で、こんなお話をうかがいました。 今は、店を持つということは大変ですよ。若い人がお金をためて、土地と建物とを建ててお店を始めようといってもお客さんが中々来てくれなくなってます。安いお店がどんどんできてますからね。料理の修業をしたら、どこかの大きなホテルなんかに入るほうがいい時代かもしれませんね。 この前の通りなんか、いい時にはたくさんの人で溢れていて、一杯飲んで機嫌がいい人が並んで通っていたんですが、今じゃこんなに寂しくなってしまって。大きな会社があるのに、みんな定時になったらさっさと帰って行くんですから。 料理人に向いている人ですか?まじめで働き者ということでしょうね。それと、舌がしっかりしている人。 美味しいものばっかり食べていなけりゃダメなんですよ。まずいものに慣れてしまったらおしまいですから。 別に高いものでなくていいんですよ。きちんとした家庭料理、それを食べていれば大丈夫。かつおと昆布でしっかり出汁をとって。冷凍食品なんかは使わないで。 ケーキなんかはレシピに書いてある分量どおりに作れば美味しくできますけれど、日本料理はそうはいかないんですよ。書いてある分量どおりに作っても美味しいものはできません。そっから先はセンス・・とでもいいますか、そんなものがなくっちゃね。
2009.01.30
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定義 軍隊 「上の命令を遂行するための組織。」 司馬遼太郎さんが、『歴史と視点』(新潮文庫)の中に収録されている「石鳥居の垢」という文章の中で、大要以下のようなことを書いておられる。 敵が関東地方に上陸してくる場合、北関東にいる我々戦車部隊は、敵と戦うために南下する。ところが戦車が南下する道には北上して敵から逃れようとするものすごい数の人々がいる、交通整理はどうなっているのか? 司馬さんは、大本営からきた人にその疑問をぶつけた。 その人は言った。 「轢っ殺してゆけ。」 「同じ国民をである。われわれの戦車はアメリカの戦車にとても勝てないが、おなじ日本人の大八車にを相手になら勝つことができる。しかしその大八車を守るために軍隊があり、戦争もしているというはずのものが、戦争遂行という至上目的もしくは至高思想が前面に出てくると、むしろ日本人を殺すということが論理的に正しくなるのである。 私が、思想というものが、それがいかなる思想であってもこれに似たようなものだと思うようになったのはこのときからであり、ひるがえっていえば沖縄戦において県民が軍隊に虐殺されたというのも、よくいわれるようにあれが沖縄における特殊状況だったとどうにも思えないのである。米軍が沖縄を選ばず、相模湾をえらんだとしても同じ状況がおこったにちがいなかった。ある状況下におけるファナティシズムというものはそういうものであり、それが去ってしまえば、去った後の感覚では常識で考えられないようなことがおこってしまっているのである。」(p91から92) 私は上記の文章を、戦争に関する最も重要な文章の一つと考えている。 非戦闘員と戦闘員の区別なく生命を軽んじた結果が巨大な愚行につながった。そのことは繰り返し繰り返し語られ、暴かれねばならない。
2009.01.29
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このブログを始めたのが2005年2月15日。20万アクセスということになりました。 このブログを訪問してくださいました皆様に感謝申し上げます。 今日は、職場の同僚と食事会。同じ教科です。美味しい料理をいただいて、愚痴をこぼしたり、励ましあったり。いい時間でした。現実の世界でも私は人間関係には恵まれているなと思います。 そして、ブログの世界でも。励ましていただいたり、新しいことを教えていただいたり、時には間違いを指摘していただいたり。 幸せだと思っています。 今後ともかわらずよろしくお願い致します。 今日の料理の一つです。
2009.01.28
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室町時代の産業を教えていると、「下肥」という言葉が出てきます。 同僚が、生徒に質問、「下肥ってなんだと思う?」 教科書に書いてある文字をじっと見た彼の答え。「下半身が太ったメタボな人」。 「漢字を良く見て意味を考えなさい」という同僚の教えが生きた解答といえましょう。 私は授業で当時の町並みのイラストをプリントして、その中に「便所」があることに注意を向けて質問。「それまでは川に流していましたが、この頃から便所を作るようになりました、なぜでしょう?」 「環境への配慮」とか「川を汚したくない」という解答が出てきます。 で、おもむろに「下肥」という言葉に注意を向け、「下肥」について説明。 この頃から、大小便をためておいて畑の肥料にするようになった。だから、以前のように川に流したりしなくなったんやね。もったいない。 私が中学生くらいまではまだためておく場所が畑の中なんかに結構あったよ。野壷って言ってた。 そこからくみ出して畑にまく。 冬なんか、あたり一面の雪景色になるからえらいことになることがあったね。普段学校に通っている道なんか、ちょこっと高くなっているくらいかな・・・なんてモンだから見分けがつかない。近道しようと思って普段の道ではないところを歩いたりすると、野壷にはまる。 はまったところは見たことがナインやけれど、大変だったと聞いたことはある。何人かで引きずり出して、もうどろどろになってるからそいつの家まで送って行って水道で洗って・・・臭くて臭くてたまらんかった言うてたな。 そして中学時代の私の句を紹介します。 ○初雪や野壷に落ちておぼれ死に こんな句は期末テストに出すわけには行きません。
2009.01.27
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「猫馬鹿」の定義。 「猫馬鹿」とは、「猫馬鹿」と呼ばれる事に限りない喜びを見出す人間のことである。
2009.01.26
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ある女性エッセイストが、大要、以下のようなことを書いておられた。 ある男性流行作家が、自分がやっている家事と育児のことについて滔滔と語っているけれども、そんな事は女にとっては当たり前の話であって別に語るまでのことはない。女が家事や育児のことについて自慢げに語ったりすることはないんだから・・。 こういう文章に出会うと正直げっそりする。「女にとっては当たり前の話」、そんな事は百も承知、二百もガッテンなのだ。男は誉めてもらうと嬉しくなって木にも登ろうかという馬鹿なのである(私は特に馬鹿の度合いは高いかもしれない)。 うちの妻はそういう意味では知能犯で、私はずいぶんと乗せられていろんなことをやるようになった。誉められると嬉しくなってまた色々やってしまう。そういうものだと思っている。 家事ができると自慢している男をくさすべきではないと思う。誉めてやればもっと調子に乗って働くんだから。 私は時々料理をして家族からは好評を得ているが、これは、「おだててもっと働かそう」という妻と娘二人の魂胆かもしれない。しかし、毎日短時間で手際よく料理を作り、弁当も詰めて・・・という妻には私は到底かなわない。そんな事は分かっている。分かりきったことをわざわざ事新しくいう必要はない、そう思う。
2009.01.26
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寒い日が続いています。 ○冬晴れに梅のつぼみの固さかな ○松飾とれて初雪降りにけり こういう日は、このような暖かいものを見るにかぎります。
2009.01.25
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来週のベストセラー ○『そうか、もう君はいないのか』城山三郎 『そうか、まだ君はいるのか』麻生太郎 ○『自らの身は顧みず』田母神俊雄 『自らの身は省みず』田母神年男 ○『悼む人』天童荒太 『傷む人』竹中平蔵
2009.01.23
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よく行かせていただいている平川さんのページに、中々魅力的な写真が載っています。 平川さんは、「桃尻とオバマ」という題をつけていらっしゃいます。 「桃尻」というと、橋本治さんの『桃尻語訳 枕草子』を思い出してしまいますし、グーグルで、「桃尻」を検索すると、「あ、なるほどねー」という映像を眺めることもできます。 ただ、ワタクシ、「桃」というと、どうしても、とんがった桃を連想するのです。ほら、あの「バーミヤン」の桃。たしか、幼い日に目にした『桃太郎』の桃もたしかとんがっていたような・・。 で、「桃尻」という言葉を辞書で調べてみました。図書館にある日本語大辞典。 「桃尻」「(桃の果実の尻(実際は頭)がとがってすわりが悪いことか、)馬に乗ることが下手で尻が鞍に落ち着かないこと」とあります。 「方言」でも、「とがったような形の臀部。壱岐」「落ち着かない座り方。和歌山、山梨」「長く座っていられない人。山口県」などと書いてありました。 やっぱり、この場合の桃は、尻(頭)がとんがっていることが大前提になっているようであります。 現在の水蜜桃、これはなんとも座りがいい。 「桃尻」、桃の変化と共に意味も変わっていったようです。 最近の『桃太郎』、挿絵はやはり水蜜桃なのでしょうか。 あのとんがった桃、とんと見なくなりましたが、今でもどこかにあるのでしょうか。
2009.01.22
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<木綿と瀬戸物> 木綿が私たちの生活に与えた影響は大きなものであったことは簡単に想像することが出来るでしょう。 むかしの庶民は、木綿が輸入されてくる以前は麻布を着るしかありませんでした。 木綿のいいところはどんなところだったのでしょうか。 まず、肌触りです。野や山で働く男女にとって、絹は手がとどかない高価なものであり、あまりにも滑らかで肌触りも冷たいものでした。 やわらかさと肌に触れる摩擦とは木綿のほうがまさっていたといえます。 そして木綿はいろいろな色で染め上げることができました。これまでは絹しか染めることが出来なかった様々な色に木綿は染まってくれました。どんな派手な色にでも。 人々は木綿を求め、その結果、綿畑が日本各地に見られるようになり、綿の花が開く頃には、月夜もより美しく感じられるようになりました。 人々は、紅、緑、紫といった色で染められた衣服を肌に沿わせて着るようになりました。 心の動きはすぐに形に現れ、歌っても泣いても人はむかしよりも一段と美しくなりました。 もう一つ、人々の生活の中に瀬戸物(陶器の茶碗)が入ってきたことも大きな変化でした。 木で作ったお椀は使い始めたその日から汚れが染み付いてしまいましたが、瀬戸物のお茶碗は、いつまでも白くて静かな光をたたえていました。 貧しい家に片隅にもこの茶碗は入ってきてくれました。その事が当時の人たちにとってどれほどありがたかったことか、今では想像もつかないでしょう。 『木綿以前の事』柳田國男 より。 柳田國男の『木綿以前の事』は、おそらく柳田の著作の中でも一二を争う有名なものでしょう。 音読していても名文であるなという思いを強くします。 今回、「日本史」で室町時代を教える際に、この『木綿以前の事』をさらに書き直してみました。 柳田の文章は平易ですが、それでも今、私が教えている生徒たちには難しいのではないか、そう思います。ちょっとしたひっかかりで、つまづきで柳田のこの一文に接することができないのはなんとも残念である・・・そんな気持で「書き直し」ました。 柳田の文章の香気は消し飛んでしまいましたが、木綿とか瀬戸物といった生徒たちの身近なものにも歴史があり、人との関わりがあるのだということに気がついてくれれば、柳田も許してくれるのではないか・・そんな事を勝手に考えています。 ・・・・柳田國男さん、ごめんなさい。 高台寺の門の上部の彫り物です。兎ですね。
2009.01.21
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『東京の戦争』(吉村昭 筑摩書房 2001年)を読みました。 吉村さんの個人的な思い出を記した本です。体験者しか語れない箇所はいくつもあるのですが、吉村さんが特に思い出しているのは、戦争という極限状況の中でも必死に生きている人たちのことであり、焼け跡でも、頭を使い、身体を使ってたくましく生きている人たちの姿です。 そして、歴史書が書き落としている事、目を向けようとしていないことも丹念に拾い上げています。 たとえば、三月九日の夜の東京大空襲では多くの人々が焼き殺されたのですが、その死体を誰が片付けたのか。 吉村さんは、受刑者がその作業に携わったという事実を紹介しておられます。 三月十三日、受刑者によって作られた死体整理作業隊(刑政憤激挺身隊)141名に対する正木刑政局長の訓示。 「君たちは、今から罹災市民の死体埋葬の仕事に出る。決して死体を事務的に扱わぬように。気の毒な人たちなのだ。どうか自分の親が、子が、妻が、兄弟が災害を受けたと思って死体から顔をそむけず丁重に扱ってくれ。これは人類最高の尊い仕事だ。」 敵兵の死体も埋葬しています。 「海岸の波打ち際に、一個の異様な死体も発見した。あきらかに日本機に撃墜されたアメリカ爆撃機の搭乗員の死体で、受刑者たちはそれを埋葬し、後日の目印にと土まんじゅうの上に十字架の木標を立て、『B29搭乗員の墓』と書きしるしたという」(p125) 「空襲直後に焼け跡に散乱し、川に浮かんでいた多くの死体は、またたく間に一般人の視野から消えた。それは、軍隊、警察官、消防団員に受刑者も加わった人々の必死の作業によるものであったのだ」(p125) 焼け跡で水道の鉛管をコツコツと一人で掘り出している人のこと、そして以下のような人も。 「焼け跡の電柱はすべて焼きつくされ、焦げた頭部がわずかに土の表面にのぞいているだけであった。 その個所で、しきりに作業をしている男がいた。 スコップを土に突き立て、土をすくって深い穴を掘る。穴の中央には土中に埋められた太い電柱がみえた。 作業は恐らく一日仕事だったのだろう。夕方、ロープを巻きつけ、地上に電柱を穴から引き出しているのを眼にした。これほど深く電柱の根元が埋められていたのか、と驚いた。太く長い柱だった。 焼野原になった地上の、木という木はすべて灰になっていて、それは、薪にするものが皆無になったことを意味していた。 そうした生活の中で、土中に埋れた電柱の根元に注目した男がいたのである。それを掘り出すのを眼にした他の男たちも、それにならって電柱堀りをはじめた 掘り出した柱は適当な長さに切って、割って薪にする。電柱に使っているくらいだから、木の質はきわめてよく、上質の薪になる。それらは物々交換に使ったり、かなりの金額で売られた」(p61~62) こういう人たちに吉村さんは目を向け、記憶にとどめてきたのです。 吉村さんの小説がどのようにして生まれたのか、その秘密の小箱を覗き見したような気持になりました。
2009.01.20
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「唐茄子屋政談」という噺があります。円生師匠と志ん朝師匠で私は何度も聞いています。 放蕩が過ぎて勘当ということになった若旦那。「米の飯とお天道様はついて回ります」と啖呵を切って飛び出したものの、米の飯から離れてしまい、とうとう川へ飛び込もうというところまで追い詰められます。 たまたまそこへ伯父さんが通りかかり、家へとつれて帰り、ごはんを食べさせ、布団で休ませてやります。 朝になって。伯父さんは沢山の唐茄子、かぼちゃですね、を仕入れて、若旦那に売ってこいと命じます。もう嫌も応もありません。炎天下、働いたこともない若旦那は肩に食い込む天秤棒の重みに耐えかねて、往来で荷を放り出してしまいます。 そこへ折りよく通りかかった人が道行く人に声を掛け、友達と喧嘩までして唐茄子を大半売ってくれます。 軽くなった荷を担いで若旦那は・・・という筋なのですが、伯父さんと、通りすがりの人の描き方が心に残ります。 まず伯父さんは、若旦那に一通り説教はするもののまず引き取って、商売のコツを教え、これも勘当が解けるための事なんだから・・と送り出します。口は荒いものの、尾羽打ち枯らした若旦那への愛情が伝わってきます。 通りすがりの人。この人の行動は、「若い時の苦労」という言葉でさらりと説明されています。若い時の自分と若旦那とが重なるんでしょうね。ああ、ここに昔の馬鹿なオレがいる・・・てな感じでしょうか。「苦労人」って言葉が浮かんできます。 現実に困っている人がいる。その人に対して手を差し伸べようとする人がいる。そういう人たちの行動に対して、「偽善」という言葉を投げつける人がいます。 年末から年始にかけての派遣村の件に関して、「偽善」という言葉を使い、「自己責任」を説く人たちがいます。 「人生設計ができていないからこんなことになる」「貯金もしていないからこんなことになる」「会社を首になったら寮を追い出されるのは当たり前だ」「解雇を通告されてからの一ヶ月、何をしていたのか」「切羽詰っているのならどんな仕事でもすればいいじゃないか」「なぜ親に頼らないのか」「全国に何万人もホームレスがいるのに、たかだか数百人を助けてどうなるのか」等々。 いずれも「その通り」のご意見であります。「正論」のオンパレード。 しかし、現実に宿のない人がいる。寒空で寝なければならない人がいる。そういう人たちの事をナントカしたいと思う人達がいて、行動を起こしたのがあの「派遣村」ではないかと思います。 上記のような「正論」を耳にすると、こういう人たちは、振り込めサギの被害者の人たちに対してもアホやなぁ、そんな事で騙されて、そんなんサギに決まってるやん、テレビも見てないのか!と説教をなさるのだろうなと思います。 豊田商事のような(例が古い)サギに引っかかった人に対しては、欲の皮が突っ張っとるからそんな目にあうんや、そんなうまい話があるわけないやろう!と説教をなさるのでしょうね。 まことにご立派な、一点非の打ち所もない人生を送っていらっしゃる方々ばかりだろうと推測し、ワタクシは思わず襟を正してしまうのです。 「日本経済新聞」に「私の履歴書」という欄がありますが、名だたる方たちが若き日を振り返っていらっしゃる時に、タイプが二つあるように思います。 一つは、「あの時、こんなに厳しくしていただいたので、現在の私があります」という人。もう一つは、「あの時、こんなに優しくしてもらった、失敗を許してもらったために現在の私があります」という人です。 私などはもう許していただいたり見逃していただいたり、援けていただいたりの連続で、この通り生ぬるい人間になってしまいましたが、「私の履歴書」に登場されるような功なり名遂げた方たちにも二つのタイプがあることはとても興味深いことであります。 成績不良の生徒を進級させるかどうかで激論を交わした事を思い出します。 こんなヤツは退学させてしまえ!という強硬論もあります。勉強もロクにしないこんなヤツを許していたら、学校は学校で無くなる、という論でした。 庇う論もありました。家庭の状態の劣悪さを説き、その中でもこいつはこいつなりに頑張っているという論であったり、こんな風に指導してここまで来ている、ここで放り出したらホンマにこいつは駄目になる、という論もありました。 そういう論を聞きながら、私は「担任とはなんなのか」「教師とはどうあるべきか」を学んできたように思います。 切って捨てろ、情けをかけるとタメにならない、という論も、切ってはいけない、とことん寄り添う必要がある、という論も、私は両方必要であると思っています。そういう意味では、派遣村を立ち上げて奮闘している人たちの行動も、それを「偽善」と批判する意見も両方存在価値はあるのでしょう。 ただ、その意見のどちらに組するかは、個人の選択すべきことであります。私は、ぶつぶつ言いながらも目の前にいる困った人を助けたい、そう思います。 また、生命の危険に直面しながらなお家族に頼らない(頼れない)のはなぜなのか、そういう場所にいながらもなお仕事を選ぼうとする人がいるのはなぜなのか、個々の事例に密着して考えてみたいと思っています。
2009.01.19
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「小腹がすく」という言葉があります。寝る前にちょっとお腹が減って、軽く何かをつまむ・・といった感じなのですが。 米子に帰った時に、寝る前に冷蔵庫を覗いていたら、母がクスクス笑っているので、どうしたのかと訊ねますと、「お祖父さんと一緒だ」との事。父の父は若い時に亡くなっていますから私は逢った事もありません。 でも、お祖父さんもそうだった、のだそうです。 祖母は、老境に入ってから俳句を始めています。明治33年(1900年)生まれで、75歳の時に俳句の会に入り、合同句集に句が入っています。 ○新婚の孫の旅立ち銀河澄む この「新婚の孫」とは私であります。 祖母と一緒に句をひねる・・なんて事は考えたことも無かったのですが、私も時々、句をひねるようになりました。 祖母への供養になるかなと思っています。 それにしても、「隔世遺伝」なんでしょうかね・・。 あも君です。 今日、NHKの「男と女」という番組を見ていましたら、y染色体が消えてなくなりそうだという事を言っていました。500万年ほど先のことだそうです。 あも君も私も貴重なy染色体の持ち主ということになりましょうか。 精子の数が減ってきたり、元気がなくなったりという話は聞いたことがあったのですが(そのスピードの速さにびっくり)、男性が消えてなくなるという話は初耳でした。 それも、「性」というものを選択し、胎盤を作るという方向へと進化し、一夫一婦制を選択し・・ということの結果のようですし、人間を取り巻く環境の激変も原因の一つではないかと言ってましたね。 隔世遺伝によって孫の代まで「小腹がすく」という行動が伝わったり、孫がいつしか俳句をひねったり・・・そんな事はいつまで続くのでしょうか? 500万年・・・地球そのものがどうなっていることか・・。
2009.01.18
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鉢の梅が咲きました。 ○梅の香や一足早き居間の春 まろ
2009.01.18
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尻尾をふる猫君が来たときに、ぴょこぴょこ動く尻尾に反応したのがチャー君でした。 動くものに興味があるんですね。猫は三歳児くらいの知能と聞いたことがありますが、そこいらへんは同じなのでしょうか。 尻尾をチャイチャイしている姿を見ていると飽きません。 とても平和な空間です。
2009.01.17
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我が家の新入り猫グッズ君です。 お尻の部分に太陽電池がついていて、尻尾がぴこぴこ動きます。 愛嬌があり、見ていて飽きません。 ○背を伸ばしまた背を丸め風の街 まろ 風邪が流行っています。皆様お大事に。
2009.01.15
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我が家の梅の鉢に、今年もつぼみがつきました。 数年前に安く買い求めたものなのですが、上の娘がまめに水をやってくれたおかげで枯らさずにすみました。 寒風が吹き付ける中で梅はしっかりとつぼみをつけて花の季節を待っています。歳のせいでしょうか、そんな光景を見ていると、健気でいとおしくなって来ます。 ○梅の花つぼみに春をとじこめて まろ
2009.01.14
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米朝師匠は、平成八年(1996年)、「上方落語の復興に努め、古典の発掘、後継者の育成に取り組んだ」ことによって人間国宝に「認定」されています。「認定」ってなんとなくおかしいのですが・・・。 これが早速、お弟子さんたちのネタになりました。 この度、師匠の米朝が人間国宝に認定されまして、今日の会場みたいに階段をあがらなアカンとか下りなアカンいうことになったらホンマ騒動ですねん。もしも足滑らして怪我でもされたら、横についてる私らは、「国宝損壊罪」いうことでエライ罪になりそうで・・。 この『桂米朝 私の履歴書 』(日本経済新聞社)は、米朝師匠の、「上方落語の復興に努め、古典の発掘、後継者の育成」に取り組まれてきた軌跡を自ら記された本です。 米朝師匠の本ではなんと言っても『落語と私』(文春文庫)が名著の誉れ高いものです。ポプラ社から刊行されたこの本は、中学・高校生向けに書かれた落語の入門書なのですが、「落語という、単純なようで複雑な要素を持った、ちょっととらえどころのない芸の全貌を知る上で、中高校生むきに書かれたこの本以上に明快なものに、残念ながらお目にかかったことがない」(文春文庫あとがき 矢野誠一)という本です。 無趣味であると称し、唯一の趣味は落語に関する本の収集と研究、そして噺の復活と言い切る米朝師匠の足跡を辿ると、「初めて」ということに多くぶち当たります。 「能狂言、歌舞伎、文楽から舞踊、演劇、大衆芸能まで間口の広さが特徴の一つ」という『上方風流』(かみがたぶり)の発刊、そして雑誌刊行と並行しての勉強会がまずあげられます。 「上方落語」という言葉になじみがなく、「『土方(どかた)落語』ってなんですか?」という質問まで飛び出したという東京での独演会の成功と、関東と関西でのホール落語の成功という快挙は、上方落語を「全国区」に押し上げました。 テレビではいくつもの番組を持って師匠自身の活躍の場を広げるだけではなく、古い芸人さんたちにも出演の場を確保して芸の復活と後継者育成にも尽力をされています。 昭和四十九年(1974年)には、株式会社米朝事務所を設立、独演会、テレビ出演、出版、レコードの発売など多岐にわたる活動をスムーズにこなしていかれるようにもなります。弟子たちも発表の場、勉強の場を得て米朝一門だけではなく上方落語そのものが復活し、生き生きと活動するようになりました。その証拠となるのが、繁昌亭の大入りでしょう。 舞台正面にかかっている「楽」の字、米朝師匠の揮毫になるものですが師匠自身、感無量であったことと思います。 師匠の噺を高座でうかがうわけにはいきませんが、テープで、CDで、またビデオでと、名演に接することはいつでもできます。 私にとっての「名人」、それはやはり米朝師匠です。 例によって、小ネタをひとつだけ。ラジオ番組「題名のない番組」で、リスナーの投稿。 「障子破れてさんがあり」 お後がよろしいようで・・。
2009.01.12
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ジョン・リーさんから書き込みをいただいたのをきっかけにして昨年末に読んだ本を一冊紹介します。 『ナチスと映画』(飯田道子 中公新書)という本で、二部構成になっています。 第一部は、ナチスの時代の映画。ナチス政権の時代に映画がいかにプロパガンダ(政治宣伝の道具)として製作され効果を上げたかが紹介されます。中心人物は宣伝相のゲッベルスですが、「映画オタク」でもあった彼が「宣伝」というものをどのように考えていたか、初めて読まれた方はやや意外な感じを持たれると思います。それから本当の怖ろしさに気がつかれると思います。 その中でも(というか、その中だから、かもしれませんが)いかにして現代につながる技術と手法が開発されたかが、レニ・リーフェンシュタールという才能豊かな女性監督を軸として紹介されます。 第二部は、ナチスとヒトラーを描いた作品が紹介されます。 まず登場するのは、同時代の作品。皆様ご存知のチャップリンの『独裁者』です。ヒトラーを茶化し、笑いものにした映画ですが、著者は、チャップリンの以下のような言葉を引用します。 「もしあのナチス強制収容所の実態を知っていたら、あるいは『独裁者』はできていなかったかもしれないし、またナチどもの殺人狂を笑いものにする勇気も出なかったかもしれない」 「ナチスによるユダヤ人絶滅政策の全貌が明らかになって以来、ナチスをストレートに『笑う』ことは非常に難しくなった」(p145)のです。 第五章以下は、まず章題を紹介しておきましょう。 第五章「悪の定番」としてのナチス 第六章「美しく魅力的」な表象へ 第七章ホロコースト映画の変遷 第八章新しいナチス像 第九章「身近な存在」になった独裁者 終章創られる「記憶」 本の末尾には、参考文献と、「ヒトラー・ナチス関連映画一覧」というリストが載っています。リストに挙げられている映画は全部で106本。ジョン・リーさんが紹介されている映画は入っていませんから、いろんな形でのナチス関連映画まで入れたらさらに膨大な数になるのでは・・・と思われます。 106本の中で私は18本しか見ていないことが分かりました。がっくり。 映画好きの方、「宣伝」というものに興味がある方、またナチスについて知りたいという方にお奨めの本です。
2009.01.11
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ナチスドイツ ヒトラーをリーダーとするナチス党は、極端な主張をしていたためにあまり勢力は伸びませんでしたが、1929年にアメリカから始まった大恐慌がドイツにも影響を与えて、会社が倒産して失業者が町に溢れるようになって勢力を伸ばし始めました。 同じ時期に共産党も勢力を伸ばしました。革命を起こして労働者の政府を作ろうと主張する共産党が伸びるのを怖れた資本家や軍などはナチスを支持し、国民もその巧みな宣伝にひきつけられてナチスを支持、1933年にヒトラーは首相となり、その直後に共産党を弾圧し、他の政党も解散させてナチスの独裁政治を始めました。 なぜドイツの人々はナチスを支持したのか、説明しましょう。 ヒトラーは、ドイツは世界で一番強い国である、と日ごろから言っていました。では、世界で一番強い国であるドイツがなぜ第一次世界大戦で敗北したのか? ヒトラーは言います。ドイツは勝っていたんだ、だけど、共産党が国内で革命を起こして勝利するところを妨害した。そしてもう一つ、ドイツ人の中にユダヤ人の血が混じってしまった、これが最悪な結果を生んでしまった。 ヒトラーは、ユダヤ人を排斥し、共産党を弾圧しました。 普段ならもこんな単純なことを信じる人は少なかったかもしれない、しかし、生活不安に陥っていた人たちは、単純な答えを求めて、ヒトラーの言葉にひきつけられました。 ヒトラーは、こんなことも言っています。 大衆は理解力が乏しい、アホである。だから、複雑なことを言っても理解できない。単純に、低い理解力にあったように繰り返し繰り返し語りかけることが大切なんだ。 ヒトラーは、税金で道路建設などの仕事を作り出し、たくさんいた失業者に仕事を与えました。ヒトラーのところにはたくさんの手紙が来ています。小さな女の子からの手紙。 ヒトラーさん、お父さんに仕事をくれて有難うございます。お父さんは久しぶりに仕事に行って、いただいたお給料でクリスマスの料理を買ってきてくれました。みんなで笑いながら食事ができたのは本当に久しぶりでした。心よりの感謝を捧げます。 そしてヒトラーは、素晴らしい、清潔な国を作ろうと呼びかけます。 みんなが健康に生活している国。 そのためには、スポーツを盛んに行う必要があります。 ヒトラーは言いました。 私は若者たちが机にしがみついて役にも立たない学問をすることを望まない。若者たちはそんなもので頭を一杯にするのではなく、野獣のように身体を鍛えなければならない。 健康で強くたくましい国民を作るためには、身体や心に障害を持った人間は邪魔になります。政権をとったヒトラーは、ドイツ中の精神病院に映画のカメラを持ち込んで、患者を撮影させています。その映画には、こんなナレーションが付けられています。 みなさん、ここに映っている患者たちは人間といえるのでしょうか?自分のことが誰であるかも分からず、身の回りのこともすべてやってもらわねばならない患者たちが。 こんな人間ともいえないような患者のために、税金が使われています。あなたはこれを無駄とは思いませんか? 障害者はガス室へと送られました。また、遺伝病を持った患者は、子どもを作らないように、ということで、断種手術を受けさせられました。男性は睾丸をとられ、女性は子宮をとられてしまいました。 若者たちは国のために社会のために生き、そして死ぬことを求められました。大人たちの眉をひそめさせていた不良少年たちは一斉に逮捕されて、牢屋にぶち込まれ、まじめな青年にさせられました。 同性愛者も、普通じゃない、ということで逮捕されています。 一方では、健康な身体を作るためには、ということで、禁酒と禁煙が奨励され、食品添加物を含まない自然食品が薦められています。 ドイツのために頑張って働いた、というような人たちにはちゃんとご褒美があります。それは、格安の旅行です。各地で、或いは会社で推薦されたような人たちは長期の旅行と休暇を楽しむことができました。 伝統的な行事も各地で復活されて、お祭りやパレードが盛んに行われ、人々は着飾って参加し、楽しい時を過ごしました。 さらに、ちょっと頑張れば買う事が出来る車もこの頃製作されています。ポルシェが設計したこの車、なんですか? A ベンツ? 代表的なドイツ車やけれど、ちょっと違う。略称VW。 A ワーゲン? そう、フォルクス・ワーゲン。国民車、という意味です。1939年に戦争が始まって生産はされなくなりましたが、計画としてはあったということです。 さて、ヒトラーのドイツはどんな国になったか?ヒトラーの言うことに従っていれば結構快適に生活できたと言えるでしょう。 そして、身の回りでおきたちょっとした変化に気がつかなければそれでいいのです。 ユダヤ人はどこかへ行ってしまった。政府を批判するような人もどこかへ行ってしまった。障害を持った人たちもどこかへ行ってしまった。不良少年もいなくなった。 自分でアレコレ考える必要なんか無くて、ヒトラーとその部下たちのいうとおりに生活していたら楽だし・・・といった国になったわけです。 机に座ってかりかり勉強する必要もないし、テストで苦労することもない。 いい国やね。そない思えへん?
2009.01.11
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1月7日の内田さんの「読者と書籍購入者」を読んで、「本を持つ」ことについて考えました。 もし物を書く人間に栄光があるとすれば、それはできるだけ多くの読者によって「それを書架におくことが私の個人的な趣味のよさと知的卓越性を表示する本」に選ばれることであろう。 「無償で読む読者」が「有償で読む読者」に位相変換するダイナミックなプロセスにはテクストの質が深くコミットしている。 暮れから年初にかけて、本を整理しました。「燃えるゴミの日」に紐でくくって出したということです。古本屋に売り払うという手もあるのですが、私は線を引いたりページを折ったりしながら本を読むという癖があるためにそんな本は売り物にはならないのです(私も、そんな本は買いませんから)。 ある作者が気に入ると、その人の著作を集中的に買って読むのですが、憑き物が落ちたようになると途端に読まなくなります。今回はそんな人たちの本を処分しました。 それでもまだ結構な量の本が残っています。 授業をするために必要な本があるからです。 来年の三月に退職して後も、講師を数年間続けるとして、その時までは必要な本であります。では、辞めたとなると。その時は、私の本棚には、どんな本が残るのか。 確実なのは、『史記』です。筑摩書房の世界文学全集版、列伝と本紀の二冊本です。 ここ数年間で一番大きな買い物は、古書店で買った『遠山茂樹著作集』ですが、その後は、本屋への払いは減少しつつあります。 新刊を買うことは減っていますし、買う本の大半は文庫本や新書です。 図書館で本を借りる事も多くなりました(これは・・と思う本は買うこともあります)。 この一年間、私はどんな本とめぐりあい、どんな本を買い、どんな本を紐でくくって燃えるゴミの日に出すのか。 ※山陰の秀峰・大山です。高校生まで、ずっとこの山を見て育ってきました。
2009.01.08
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『話の後始末』(立川志の輔・天野祐吉 マドラ出版)という本を読みました。 志の輔さんの落語(勿論活字)と、お二人の対談で構成されている本です。 名作『バールのようなもの』を読むことができ、初めてこの噺を聞いたときのおかしさが甦ってきました。 対談の中から印象に残ったものをメモしておきます。 ○天野 気分が堅くなってる人のことを堅気って言うんですって。人間は「気」を持っているでしょう。その気は、融通無碍、本来は自在なものなんだけれど、共同生活をしていくうちに、いろんな規制やルールがあるから、だんだん窮屈になってきますよね。で、肩が凝るように,気も凝ってしまう。気が固まる。そういう状態になっている人を堅気という。 志の輔 はあああ。 天野 で、志の輔さんのような芸人さんは、言ってみればマッサージ師でね。堅気の気を揉みほぐしてくれる。 志の輔 結局、自分に悩みがあっても「こいつが生きてるんだから大丈夫かな」と思うじゃないですか。そういう立場になれるということなんでしょうね。 ○天野 どこかの町議会で、「そういう馬鹿なことをやってる馬鹿な町長がいるから困るんだ!」とかって言われて、町長がカーッときてね、「おれが馬鹿かどうか、医者に行って見てもらってくる」って退席しちゃったんだって。 「バールのようなもの」から。「何でライオンて頭でかいんですかね」「ライオンの頭がでかいのは、檻から出られないようにあんなに大きくなっているんだな」「ふあー、なるほど、確かに出られませんわね。ということはなんですか。檻ができた後からライオンが生まれたんですか」「当たり前じゃないか、檻もないうちからライオンが道を歩いててごらんよ。我々の先祖はみんな食われて誰もいないよ」 「キリンの首は何であんなに長いんですかね」「考えてみりゃ分かるだろう。頭があんな高いところにあるんだからしょうがないじゃないか」 もう一つ、「井戸の茶碗」のまくら。「歴史の時間だ。先生が聞いたら答えるように。いいかな。本能寺を焼いたのは誰だ?・・山田、答えてみなさい」「僕じゃありません」「大丈夫か?山田。先生は、本能寺を焼いたのは・・・」「ですから、僕じゃありません!」「もしもし、あ、お母さんでいらっしゃいますか、山田君の。担任の北沢でございます。授業の時間に、歴史でございますが、本能寺を焼いたのは誰だと聞きましたら、お宅のお子さんが僕じゃない、僕じゃないなんて言っちゃうんですがね」「うちの子はしてないと思います」「お父さん出して、お父さん!お父さんですか、お宅のお子さんが、本能寺をって言ったら」「いくらなんです。弁償しましょう」 お後がよろしいようで。
2009.01.07
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庶民の間でも武士の間でも、そして儒者の間でも浪士の処分を如何にすべきかは激論となったようである。忠義の臣であると称揚するもの、亡君の墓前で切腹もせずに生きのびたのは再就職を求める姑息な心があるからと批判するもの、様々であったが、最終的に、荻生徂徠の意見が柳沢吉保によって綱吉に伝えられ、切腹となったといわれている。 徂徠の意見を以下に記してみる。 浪士らが主君の仇を討とうとしたのは「義」のみちではあるが、それは天下の法を破る行為でもある。四十六士が主君の仇を討ったのは侍としての恥を知っていたからである。しかしそれは所詮四十六士の間だけのことであり、「私論」である。 そのもとは、長矩が殿中であるにもかかわらず刃傷を行って処罰されたのに、浪士たちは吉良を仇と狙い公許もえずに騒動を起こしたことは「法」に基づいて許せることではない。 四十六士の処分を決め、侍として切腹させれば上杉家の悲憤も静まる。 四十六士の「私論」を「公論」より優先させることになれば、天下の「法」はなきものになるといっていい。 浪士の切腹は、元禄十六年二月四日に行われた。 切腹についての池宮彰一郎氏の見解を以下に紹介する(大要)。 松平家の記録では浪士たちの切腹は午後二時に始まり、午後四時には終わっている。二時間の間に十人の切腹が行われており、一人当たり十分。切腹は庭で行われ、白い砂を敷いた庭に畳を敷き、さらにその上に布団を敷き、血を吸わせ、遺骸を包み込んで片付ける。布団と畳とは一人一人交換しなければならない。これが十分で可能であったか。おそらく、切腹用の刀をやや遠目のところに置き、それに手を伸ばして前かがみになった時に首を落としていたのではないか。つまり、浪士たちは腹に刀を当てる前に介錯人によって首を落とされていたのではないか。浪士たちはかなり罪人扱いされていたのではないか。 『赤穂事件』でも、「赤穂浪士らも名誉を重んじて切腹を命ぜられたものの、所詮は切腹刑であり、打ち首断罪であったことに変りはない」(p242)と評している。 四十六人のうちで実際に腹に刀を突きたてて引き回して切腹したのは間新六ただ一人であった。 吉良義周は、諏訪高島藩に預けられた。警戒は厳重で、自殺されては大変と剃刀や鋏も渡さぬという神経質な扱いであったようで、浅野の浪士たちへの暖かい待遇とは雲泥の差である。義周は三年間の幽囚生活の後に21歳で亡くなっている。 浪士たちが切腹し、吉良義周が死去して「事件」は終わったわけではなかった。 その後、庶民の世界では事あるごとに赤穂事件は取り上げられて芝居化された。もちろん直接扱うわけには行かないので、時代を変え、人物設定を変えて芝居化されたのだが、その最高傑作が1748年(寛延元年)に上演された「仮名手本忠臣蔵」である。竹田出雲、並木千柳、三好松洛の合作である。時代は南北朝、場所は鎌倉となっているが、観客は47年前の「あの事件」を思い浮かべてみることとなる。 さて、浪士たちの行動について儒者の間で意見が分かれたと書いたが、この後、江戸末期に至るまで議論は続くこととなる。浪士たちの切腹につながった荻生徂徠の意見は上で紹介したが、以下で、なぜ議論が長期化したかについて考えてみたい。 その原因は、江戸時代において、「忠義とは何か」「武士の行動原理は如何にあるべきか」についての統一見解が無かったことにあるといっていい。 以下、『赤穂四十六士論』(田原嗣郎 吉川弘文館)を参考とする。 浪士を批判した太宰春台は言う。 浪士たちは主君の仇を討とうとして吉良家に討ち入ったが、浅野内匠頭は上野介に殺されたわけではない。吉良は主君の仇でもなんでもない。浪士らは理由もなく上野介を殺害した事になる。 「殿中で人を殺すものは死刑」となっているが、内匠頭は上野介を殺したわけではない。死刑というのは重過ぎる刑であった。浅野の家臣たちはその事を恨むべきであったのに、吉良を恨むという間違いを犯してしまった。 また泉岳寺で切腹しなかったのは、あわよくば助命されてどこかの大名家に仕官しようというさもしい心があったからではないか。 浪士を擁護した三宅尚斎は言う。 主君は吉良に殺されたわけではない、将軍の命で死刑に処せられたのだから仕方が無いと諦めていいのだろうか。家来たちが「どんなに主君が遺恨に思われたことだろうか」と主君の遺志を継いで討ったことがなぜ理に合わないといえるのか。 主君は切腹となり吉良は生きている。それを放置しておいて浅野家家臣としての「人前」が立つといえるのか。 この「人前」という考え方は、武士としての生き方そのものに根ざしていると言って良い。しかし、主君の遺志を継ぐことと公法を遵守する事とどちらを重きとするかということになると、この場合は、公法のほうが軽いという結論となる。 幕末になり、徳川慶喜が鳥羽伏見の戦いに敗れた後に江戸に逃げ帰り謹慎して朝敵となる事を極度に怖れて、官軍に刃向うものは「わたしの心にそむき、私の身に刃物を突き当てるのと同じである」と町触れを出させたにもかかわらず、幕臣の一部は彰義隊を結成して上野の山に立て篭もった。 将軍の意思に反してまで立て篭もった彰義隊隊員の行動原理は幕府の恩顧への忠誠であり、薩長への憎しみであった。彼らも、このまま引き下がったのでは「人前」が立たぬと考えたのであろう。 武士とはどのような存在なのか。 戦国期、彼らは自立した個人として存在し、頻繁に主を変えた。しかし、「この方なら」と見込んだ主に出会うことができた武士は主君と生死をともにしている。 安土桃山を経て江戸期に入り、武士は大勢としてサラリーマン化し、「御家大切」を行動原理とし、保身に走る者も多数を占めることとなる。この場合、最優先されねばならないのは公法であり、主君の意思である。 しかし、そのような時代にあっても、「武士とはなんなのか。本来どうあるべきなのか」と言う問は常に発せられ続けた。他から強要されることなく自分の信ずるところに従って「武士とは何か」を追求する姿勢は形を変えつつ存在した。赤穂浪士に対する論争が長期化した理由の一つにそのような問いかけがあったという事は見逃すことはできないように思う。 丸山真男は、『忠誠と反逆』(筑摩書房)の中で以下のように指摘している。 「もともと武士的結合の本質が、主人と従者との間の、どこまでも具体的=感覚的な人格関係にあり、忠誠も反逆も、そうした直接的な人格関係を離れて『抽象的』制度ないしは国家に対するものとしては考えられなかったからである。たとえ主君が他の価値体系との関連において『逆賊』あるいは『朝敵』の名を蒙っても、躊躇なく『御恩』を蒙った主君の下に馳せ参じ、あえてともに『反逆者』となり、主家の没落に際しても運命を同じくするのが、弓矢取る身の『習』であり、また名誉観なのであった」(p11)。 赤穂事件は、内匠頭と、討ち入りに参加した家臣たちとの人間関係、個人的結びつきを抜きにしては考えられない。また、内匠頭の顔さえ知らぬ身分の低い武士たちが(このような下級武士は、47人中26人いる)、「武士とは斯くあるべきもの」という価値観を内面化していたことは重要であると思われる。 大石内蔵助はこのような価値観を明確に持っていた。しかし彼は様々な理由で脱盟せざるを得なかった者に対してはただ遺憾であると評するだけで、不忠不義の臣として非難はしていない。己は己、人は人であったと言えよう。 最後に、討ち入りに至るまでの赤穂浪士に対する上杉家と幕府の対応に触れておきたい。 幕府が本気で赤穂浪士たちの動静を探り、情報を収集しようと思えばその方法はあったと思われる。それは、浪士たちの中から最終盤に至るまで脱盟者が絶えなかったことにある。脱盟の理由は様々であるが、生活の困窮による者も多い。そのような者に接触し、金銭を提供して情報を収集し、浪士を一挙に逮捕する事は幕府の力をもってすれば簡単なことであった思われる。しかし、幕府はそれをしていない。 これはやはり内匠頭に対する切腹、吉良に対するお構いなしという綱吉の片落ちの処分に対する不満が幕閣の中に存在していたことを証拠立てるものといえないだろうか。 上杉家は、上杉景勝の代に百二十万石あったものが、関が原の合戦で西軍に加担したために一挙に三十万石に減らされている。さらに寛文四年(1664年)、藩主綱勝が跡継ぎの無いままで突然死去、吉良上野介の長男を養子にするのだが末期養子であるために本来ならば取り潰しとなるところを吉良が幕府に働きかけて上杉家の存続を図り、十五万石に減らされて藩は存続ということとなった。 百二十万石から十五万石となったわけだが、この間、上杉家は藩士を減らしていない。家臣の禄を減らすという形で対応している。筆頭家老の千坂兵部の場合、一万石の禄高のところ七千石を毎年返上して実質三千石となっている。それでも藩財政は窮乏をきわめ、特に討ち入りのあった元禄十五年は東北地方は大飢饉に見舞われて、その窮乏の度合いは大変なものであった。 その困難な財政の中から吉良上野介の屋敷の造営については上杉家は負担を強いられている。呉服橋の屋敷を造営する際に二万三千両、さらに本所竪川に屋敷替えとなった時には赤穂浪士たちの復讐を防ぐための屋敷の改修なども含めてやはり二万両は必要であったと思われる。 これだけの費用を掛けるくらいなら、いっその事、上野介を米沢城に引き取るという手もあったはずだが、それは行われていない。上杉家の江戸家老であった色部又四郎は浪士たちの討ち入りを想定して何度も徹夜で警戒させたり、上に記したように屋敷の改修に莫大な金をつぎ込んでいる。吉良を米沢城に引き取らせるという方法は、色部にすれば「負け戦を認めたことになる」(「忠臣蔵夜咄」池宮彰一郎 角川書店 p73)ということであったのかもしれない。 そして上杉家も赤穂浪士たちの動静を把握できず、討ち入りについての情報も収集できず、上野介の屋敷で護衛に当たっていた上杉家の家臣たちは寝込みを襲われて寝巻き姿で戦わざるを得ないという状況に追い込まれる。上野介を守るべく命を賭して戦ったにもかかわらず、彼らはついに「忠臣」と呼ばれることは無かった。赤穂浪士たちを「忠臣」と呼ぶのであれば、上野介を守るために命を捨て、負傷した上杉家の家臣たちも「忠臣」と呼ばれるべきであると思う。武士としての生き方に於いて差はないのだから。 ※年末と年始に、赤穂事件関係の本を数冊読みました。三回に分けて書き込みましたのはその結果なのですが、水野晴夫さん風に言うと、「いやー、忠臣蔵ってホントに面白いですね」となりましょうか。
2009.01.05
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この後、内蔵助たち四十六人(この段階で寺坂吉右衛門は行方不明となっている)は回向院に向ったが、槍を携えて返り血を浴びた異様な風体のものたちに門番が恐れをなして門は固く閉ざされたままであり、仕方なく泉岳寺へと向うこととなる。 十五日は礼日であり、大名、旗本、御家人は総登城する定めとなっているため、両国橋を通る者たちが多いことが予想され、内蔵助は道を変更して永代橋へと向かい、泉岳寺までの十一キロを約二時間で歩いて到着している。 途中、内蔵助は、吉田忠左衛門、富森助右衛門の二人を幕府大目付の仙石伯耆守の屋敷へつかわし、この度の事件について自訴し、幕府の処置を仰いでいる。つまり、泉岳寺へ入ったのは、四十四人ということになる。 一行はまず内匠頭の墓前に上野介の首を備え、上野介に一番槍をつけた間十次郎、武林唯七がまず焼香を行い、それからは内蔵助以下、身分別に焼香を行っている。 その後、寺から振舞われた粥を食べ、茶を飲んでいる。寺の人々は浪士と会話を交わし、何か書いてほしいと記念の詩や和歌を浪士に懐紙に書いてもらったりしている。 翌十六日に上野介の首は泉岳寺の二人の僧によって吉良家に届けられているが、その際、二人の僧は首の受取書を請求し、吉良家では受取書を渡している。以下はその内容。 覚一、首一つ一、紙包み一つ 右の通りたしかに請取り申し候、念の為、かくの如くに御座候、 午十二月十六日 吉良左兵衛内 左右田孫兵衛 斉藤宮内 大目付仙石伯耆守は直ちに登城し、吉良邸の検分を終えて帰城した者の報告を聞いたうえで評定を開いて将軍綱吉に報告した。 綱吉は、昨年内匠頭を処分した時とはうって変わって浪士らの行動を称揚し、早急に処分することを避けてゆっくり考慮するために浪士をしばらく四家の大名たちに預けるという裁定を下している。 綱吉は自分の下した裁定について矛盾を感じなかったのだろうか。浪士たちが吉良邸を襲撃したのは浅野内匠頭に対する片落ちの処分がそもそもの起こりであったわけで、浪士たちが泉岳寺で切腹せずに幕府の裁定を待ったのは、綱吉の処分に対する異議申し立てであったことに彼は気がつかなかったのだろうか。浪士たちの行動を称揚することは結果として自分が下した裁定が間違っていた事を認めることとなる。 綱吉の心境を伺わせる資料がないのは残念である。 内蔵助はじめ17人は細川越中守に、大石主税、堀部安兵衛ら10人は松平隠岐守、武林唯七ら10人は毛利甲斐守、神崎与五郎ら9人は水野監物にお預けとなった。 浪士らの処分はどのように決定されたか。 まず、老中より評定所へと諮問が行われ、三奉行(寺社奉行・勘定奉行・町奉行)、そこに大目付が加わって合議し、さらに老中、若年寄が協議して将軍に最終決定を仰ぐ答申を行っている。「評定所一座存寄書」とよばれるものがそれであるが、内容は以下の通りである。 一 上野介の養嗣子である義周は、命に代えても父上野介を守るべきであったのに、父が殺されて後もなお生きのびている。これは、切腹を申し付けるべきである。二 上野介の家来の中で、立ち向かって戦わなかった侍たちは面目が立たないのですべて斬罪とし、少しでも手傷を負ったものは親類預けとすべし。三 上杉綱憲(上野介の実子)は、浅野の浪士たちが上野介の首を討って泉岳寺へと引き上げたときに何もしていない。その領地は取り上げるべきである。四 浪士の処分について 浪士たちは亡き主君の志を継いで命を捨てて上野介宅へと討ち入ったのは真実の忠義である。幕府が奨励している「文武忠孝を励み、礼儀を正すべし」と言う事に合致している。大勢が申し合わせて兵具をつけたのは狼藉のようだがそれを遠慮していたのでは今回のような本懐を遂げることはできなかった。したがって今回のいたしかたはやむをえないと思う。 徒党を組むことは禁止されているが、浅野家の家臣たちは素直に城明け渡しに応じている。したがってこの度の行動は、大勢が心を合わせねばできないことで、徒党とは言いがたい。 内匠頭家来たちはこの度はお預けとしておき、おもむろに処分を考えればいいと思う。 吉良に厳しく浅野の浪士たちに同情的な判断である。この「存寄書」が提出されたのは元禄十五年十二月二十三日で、浪士らがお預けになって後、わずかに九日目である。当時江戸市中では浪士たちに同情し吉良をそしる声が高く、評定所の決定にもその事は影響したものと見られている。 幕府は庶民の動向などは一顧だにしなかったと思われがちであるが、庶民の動向に無関心であった政権が長続きした試しは無い事がこれでもわかる。
2009.01.05
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赤穂事件は、通常は赤穂浪士の討ち入りと言われることが多い。しかし、討ち入り自体、江戸城中での浅野内匠頭による刃傷と即日切腹、吉良はおかまいなしという処分がなければ発生しておらず、また討ち入り成功後、46人が四家の大名にお預けとなり、後に切腹という裁断が下るまでを通して考えてみようとするとき、やはり「赤穂事件」という呼称が適当であるように思う。 以下、主として『赤穂事件』(茅原照雄 東方出版)に拠りつつ、考察してみたい。 播州赤穂五万三千五百石の城主浅野内匠頭が、高家筆頭の吉良上野介に切りつけたのは元禄十四年(1701年)三月十四日の事である。このような事件は内匠頭以前にも例があり、いずれも成功している。それは、相手に充分に接近し、刀の長さもやや長めのものを用意して突いているからで、小刀を振りかぶった内匠頭が失敗したのは当然といえる。三田村鳶魚という江戸考証家などは、「武士としての嗜みが無い」と批判しているくらいである。 さて、刃傷の第一報を聞いた将軍綱吉は激怒し、田村右京太夫へ預け、即日切腹、城地没収を下命している。 そのために評定所へ召しだされて動機などを取り調べられることもなく、刃傷からわずか六時間で切腹という事態となってしまったため、事件の真相と動機は不明のままとなってしまった。 このスピードの早さ、そして田村家の文書の中に記載が無いことから、内匠頭が詠んだ辞世の歌「風さそふ花よりもなおわれはまた春の名残をいかにとかせむ」も、片岡源五衛門との庭先での別れも手記を残した多門伝八郎の捏造では無いかとされていることは最近の新聞報道でも知られているところである。 事件の真相、原因について内匠頭が明確に書き残していない、語っていないところから、「賄賂説」をはじめとする様々な推測が現れ、小説家に活躍の場を与えることとなった。 この事件は即刻国元の赤穂に伝えられ(620kmを四昼夜半で駆け抜けている。時速6kmの早籠)、藩士たちは「お家断絶」という事態に直面する。城明け渡し、篭城して戦う、とまず二つに分かれた意見は結果として城明け渡しとなり、吉良の生存が確認された後は、吉良への復讐か、お家再興かという選択へと変化していく。お家再興派の中心は家老の大石内蔵助、早期復讐派の中心は堀部安兵衛であった。 最終的に、内匠頭の弟の大学が知行の三千石は没収され芸州の浅野本家にお預け、という事になり、内蔵助が念願してきた浅野家再興の願いは水泡に帰してしまう。元禄十五年七月十八日のことである。 その十日後の七月二十八日、京都丸山において内蔵助をはじめとする十九人(堀部安兵衛も参加)が集まり、討ち入りが決定されている。路線の対立、分裂、脱落者が相次ぐ中で、方向性が明確になったといえよう。もっとも、お家再興という再就職につながる可能性に対して一縷の望みをつないでいたものにとっては、その可能性が消えたことによって脱落していくものがこれ以後も多数出てくる。 内蔵助の放蕩三昧を、「敵の目を欺くもの」という説があるが、内蔵助自身決して品行方正と言った人物ではなかったらしく、その素行について内匠頭からしばしば注意を受けている。 『忠臣蔵』(松島栄一 岩波新書)の、「現実に対する大石の、いてもたってもいられない、不安・焦燥・期待・動揺の、いりまじった心では、酒や女を求めずにはおれなかったのであろう」(p85)という説が正しいと見たほうがいいかもしれない。 内蔵助は、妻子を離別して但馬豊岡の石束家(現在、家の前に石碑が立っている)に帰し、主税(十二月に元服して十五歳となる)のみを伴って十一月五日に江戸に入っている。変名は垣見五郎兵衛。 これに先立つ十月二十五日に内蔵助は、討ち入りに関する最初の指令を出している。当日の服装、武器のこと、抜け駆けを行わずに全員で討ち入ること、雑談などによって計画が相手に漏れないようにすることなどがそうであるが、帯の結び方、下帯(ふんどし)の締め方まで細かく指示しているところが面白い。 その後、上野介が確実に在宅している日の探索、家の絵図面の入手と最新情報による修正などに全力を挙げることとなる。 十二月二日に内蔵助は全員を集めて最終の指示を出している。 討ち入りの日が決定したら、三箇所に集合する。討ち入りは寅の刻(午前四時)。討ち入り口上書は文箱に入れて竹に挟んでその場所に立てておくこと。合言葉は『山』と『川』、黒衣を着て両袖のみ白くする。上野介の首を挙げたら衣類に包んで、検分の使者が来た場合は許可を得て泉岳寺のご主君の墓前に供える。首を挙げることができたら笛で合図し、引き上げるときは鉦で合図する。引き上げる場合は裏門から出ることとする。引き上げ場所は回向院(立ち入れない場合は両国橋の橋詰)。吉良邸より討手が来たら踏みとどまって勝負をすること。 吉良邸の茶会情報は二転三転する。当初は十二月六日に茶会があり、五日の夜は上野介は邸内にいるはずであるとして、五日の夜(六日の午前四時)に討ち入ることを決定している。ところが五日に将軍綱吉が柳沢吉保の屋敷へお成りになるために六日の茶会が延期になったという情報が入り、討ち入りは延期となる。 その後、大高源五が茶人の宗偏の情報として十四日に吉良邸で茶会が行われる予定という情報を掴み、十四日に宗偏の駕篭が吉良邸内に入るところを確かめて、十四日の深夜(十五日の午前四時)討ち入りが最終的に決定された。※宗偏の偏は本当は行ニンベンです。 討ち入り衣装は火消し役人のような格好をして袖に白い布を縫い付けていたようだが、統一されていたわけではない。ただ、全員が鎖帷子を着用し、小手さしやすねあてをつけていた。そのために、吉良邸の警護に当たっていて運良く助かったものの証言に寄れば、「突いても斬っても斬れ申さず候」ということとなった。 完全武装の者たちと、寝込みを襲われて武装する暇もなく寝巻き一枚で戦った者たちとの激闘は約二時間で終了し、吉良側の死者十七名、負傷者二十二名、赤穂側は死者はゼロ、軽傷者数名という結果となった。 当日、討ち入った者の中で上野介を見知ったものが誰もいなかったために、炭小屋の中で殺害した老人の背中に傷があること(内匠頭に切られた傷)を確認し、さらに門番の足軽に首を見せて確認させている。 吉良邸が襲撃されたという第一報は、吉良家出入りの豆腐屋によって上杉家にもたらされた。 上野介の実子であり、上杉十五万石の当主であった綱憲は病臥中ではあったが直ちに起き上がり、浪士らを追撃して討ちもらすなと厳命したが、家老の色部又四郎に、「吉良殿がご尊父であっても上杉十五万石と浅野の浪人とを引き換えになさるおつもりか」と諫止された。また討ち入ったのが百五十人ほどではなかったかという情報があったので、人を集めているうちに(当時、上杉家上屋敷にいたのはたかだか四十名)いざ出発という段になって幕府からの使者が来て、「浪士の処分は幕府が行うから上杉家は追手の兵を出すな」と申し伝えたために上杉家としては手も足も出ないようになってしまう。
2009.01.05
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一週間ほど帰省してきましたが、丁度ヘルパーさんたちが年末年始の休暇中で、母が一人で何もかもやらねばならなかったところでしたから、ちょっとは助けになったようです。 母も米寿、父は九十二、私は還暦(数えで)。近くに姉がいてくれますから、普段はまかせっきり。本当に感謝です。 母が暦を見せてくれました。易によると私も母も六白金星で、今年はあまりいい年ではなさそうです。介護が大変とか書いてあってドッキリ。でも年末から運気が上昇と書いてあり、健康に注意しながら頑張らないと、と話し合ったことでした。 三十日は買出しに出かけ、注連飾りと正月飾りを買い込みました。雑煮用のお餅や芹も。それとささやかな贅沢として握り寿司のパック。 その日のうちに飾り付けを済ませたのですが、正月飾りにはびっくり。隣に宝船が並ぶという豪華版です。 ○宝船我が家に錨下ろす夜 まろ 31日には姉からの差し入れ。蟹と鴨鍋、新鮮な鰤、手作りのおせち料理。我が姉ながらたいしたものであります。美味しくいただきました。鰤は刺身、残りは酒と味醂と醤油に漬けます。 家中掃除機をかけ、拭き掃除。普段やりつけないことをしたものですから身体が若干痛くなりました。 三が日は仏壇を閉めて神棚にお灯明を灯すのが我が家の風習です。 雑煮は、元日が鴨鍋スープの利用、二日目は味噌仕立て、三日目は中華味。 あとは鰤を焼いたり、おせちを並べたり、魚屋さんが持ってきてくれたカレイを煮付けたり。母は大根とにんじんをことこと炊き合せ。 父と母とは姉夫婦から贈ってもらったCDプレーヤーで三橋美智也と春日八郎の歌を聞くのが楽しみなのですが、「千の風」の秋川さんのCDを買ったら(母の趣味)悦んでくれました。 今度帰れるのは夏になりそうですが、それまで二人とも元気でいてくれるように。遠いところにいる私は姉夫婦に頼るしかありません。日々のハガキと時々の電話で励ませたらと思っています。 帰る段になって、父が不自由になった足でタクシーの近くまで見送ってくれました。 ○父母の姿の消える曲がり角 まろ
2009.01.04
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あの頃は雁鍋の二階から大砲ぶっぱなして・・うろうろしてられなかったな・・・買いたくねぇ煙管だな・・・。 テープで何度か聞いた古今亭志ん生師匠の「火炎太鼓」のマクラだと記憶しています。ちくま文庫『志ん生集』の「火炎太鼓」には入っていなくて確かめようが無いのですが。 暮れから新年にかけて読んだ本の中に以下のような部分がありました。 彰義隊の砲は旧式砲で射程距離も短く、それとは対照的に薩摩藩の砲は、イギリスを介して輸入した最新鋭のアームストロング砲などで、射程距離も彰義隊のそれよりはるかに長く、威力も格段にすぐれていた。 それらの砲が上野広小路の呉服店松坂屋の付近にすえられ、放たれた砲弾が黒門口を守る彰義隊員に絶え間なく撃ち込まれたが、保塁を盾にした隊員たちは少しもひるむことなく応戦した。 薩摩藩の大砲隊長は、黒門口をのぞむ会席料理の松源と仕出し料理店の雁鍋の二階に砲をかつぎあげさせて、そこから砲撃させた。このことが後に江戸市民の批判を受け、人気のあった松源の客足は徐々に少なくなり、やがて廃業の憂き目にあった。 吉村昭さんの『彰義隊』(新潮文庫)p148です。文庫の帯には、「戊辰戦争でたった一人、朝敵となった皇族がいた」とあります。 帯の裏には、「吉村昭は輪王寺宮の悲劇を輪王寺宮側、徳川幕府の側、幕府と運命をともにする奥羽越列藩同盟の側から描いている。それは敗者の側から歴史を描く立場を固守していることを意味する」(川西政明氏 解説より)という一文が印刷されています。 解説には、上記の文章の次に以下のように記されています。 「もともと吉村昭は幕府贔屓、明治政府嫌いである。吉村昭は明治政府に加担した人間よりも、滅び行く幕府側に立った人間のほうがよほど優秀な人間であったし世界の情勢を的確に把握して行動していたという確信をもって歴史小説を書いている」(p467)。 寛永寺山主であった輪王寺宮が、なぜ「朝敵」となるに至ったか、また奥羽越列藩同盟がなぜ結成されるに至ったか、そこから透けて見えてくるのは薩摩・長州を中心とする「官軍」側の勝者の驕り、傲慢不遜さです。 以前、司馬さんの『峠』を読んだ時、同じことを感じたことがあります。長岡藩をひきいて北越戦争を戦った河井継之助を主人公に据えた『峠』は、『彰義隊』とともに読むべき本であると思います。 もちろん「戦うべき戦争ではなかった」という論もあり、河井は、長岡藩を荒廃させた元凶として、河井の「墓碑ができたとき、墓石に鞭を加えに来るものが絶えなかった」といいます。 徳川の譜代、親藩であっても早々に「官軍」になびいた藩もあります。 『明石市史』を調べていて、鳥羽伏見の戦いに際して、明石藩は斥候を出し、「勝ったほうにつく」と決定したという箇所を目にして笑ってしまったことがありますが、藩を預かるものとしては仕方ない決定であったのかもしれません。 『峠』の中に、『彰義隊』と関連する部分があります。 「徳川幕府の初期、幕府の要人たちはすでに後世における討幕運動を予想していた。倒幕勢力は西国からおこるということも予想していたし、その時は京が占領されるということも予想していた。討幕勢力は京の朝廷を擁し、官軍という名称のもとに江戸を討つということも予想し、それに対抗するため幕府は代々「輪王寺宮」という名目で皇子をひとり江戸におらしめるということにしてきた。万一の場合、京の天皇に対して、この皇子を立てて対抗するつもりであったのだろう。 日光の東軍は、それを企図した。が、諸事うまくゆかず、軍事上の自信も喪失し、官軍と戦う以前にこの要地をすて、陣をはらい、会津へ走ってしまった。 そのあと、江戸では彰義隊が官軍の攻撃をうけ、壊滅した」(下巻p314) 「予想していた」という事の根拠が示されていないのですが、結果として輪王寺宮は「朝敵」となり、数奇な運命を辿ることとなります。宮は明治天皇の叔父という立場で奥羽越列藩同盟の総帥に推戴されてしまいます。 列藩同盟側は、「源平の戦いで、後白河天皇の王子以仁王が平家追討の令旨を発し、それを得て源頼朝が伊豆国から兵をおこし、平家を追討して滅亡に追いこんだ。それと同じように、宮から薩長両藩を追討せよという令旨を頂戴できれば、奥羽諸藩はこぞって死力をつくして戦う」(p320)と宮に迫り、令旨を得ます。 しかし会津藩は抵抗むなしく敗北し、下北半島へと挙藩流罪となります(ここのところは大河ドラマ「獅子の時代」、そして『ある明治人の記録 会津人、柴五郎の遺書』石光真人編著・中公新書)。 会津の戦いについて吉村さんは以下のように書いています。 「伝えるところによると、朝廷軍の略奪、暴行は甚だしく、家財を分捕り、老若男女を容赦なく殺害し、強かんを常のこととしている」(p343) 「戦闘は凄惨をきわめ、朝廷軍の藩兵は女を裸体にして強かんした上で斬り殺し、城下には庶民の死体が暑熱にさらされて腐臭を放っている」(p351) わずか8ページのちにほぼ同じ文章を記している吉村さんの気持が伝わってきます。 上野寛永寺で彰義隊が壊滅し、輪王寺宮の逃避行が始まるのですが、宮を援ける人々の様子を吉村さんは、「つつましい」と表現しています。今では死語と言っていい「つつましい」という言葉に吉村さんの美学が集約されていると思いながら読み進みました。 この本は、12月29日に読了し(平成21年1月1日発行、ですが)また元日から再読しました。長年吉村さんの本(特に歴史小説と戦記)の愛読者であった私としては、年末年始にこの本と過ごせたことは幸せでした。 私は徳川幕府がずっと続けばよかったと思っているわけではありません。徳川幕府と薩長との内戦が長期化して諸外国の介入を招く事態も予想される中で、戊辰戦争が短期間で終わったことはよかったと思っています。 しかし、大政奉還と同時に発せられた倒幕の密勅、さらに幕府の側から戦端を開かせようという西郷の謀略、鳥羽伏見の戦いの後の徳川慶喜の態度、奥州の諸藩への嵩にかかった追い詰め方、赤報隊の切り捨て、それらはその後成立した明治政府の本質的な部分をなしていると思います。勝者のみを祀るという日本古来の伝統から外れたところに成立した靖国神社はその一つでしょうが。 私が明治の元勲とされる伊藤、大久保、西郷などの誰一人として親近感を感じることができないのはそこに原因があるのかもしれません。 だから吉村さんの小説に惹かれるのでしょうか。 蛇足。志ん生師匠、本名美濃部孝蔵の本家は、旗本の家柄であったそうです。(『志ん生一代』結城昌治 朝日文庫 上巻p26以下に詳しい)
2009.01.04
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あけましておめでとうございます。 今年もよろしくお願い致します。 ○山茶花の散って深紅の闇となり まろ
2009.01.04
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