全106件 (106件中 1-50件目)
『ゴーシェ神父の養命酒』はアルフォンス・ドーデの短編集『風車小屋便り』の1編。 『風車小屋便り』は、パリの喧噪を離れて、プロヴァンスの古い風車小屋を買って住み着いたドーデが、そこで体験したり、耳にした話を集めたという設定です。 プロヴァンス地方を背景に、ユーモア、皮肉、哀愁を詰め込んだ話は、人々の人気を得ました。 『ゴーシェ神父の養命酒』は、聖職者としてはあり得ない失態なのでしょうが、人間味があって愉快な話です。 困窮したプレモントレ僧院を救ったのは、愚直な牛飼いのゴーシェ修道士でした。育ての親ベゴンおばさんと山の薬草から作った養命酒を僧院で作ってはどうかと思いついたのです。 その養命酒は大人気で、僧院は大いに栄えます。ゴーシェも神父となり、人々の尊敬を集めるようになりますが… ゴーシェ神父も周りの登場人物も生き生きと描かれます。登場人物のみならず、動物や風車や事物まで、文中から生き生きと立ち上がってくる短編集です。 参照元:アルフォンス・ドーデ 大久保和郎・訳『風車小屋便り』 グーテンベルク21デジタルブック
May 21, 2024
コメント(0)
4月20日は下村湖人の命日に当たります。 『次郎物語』はベストセラーになり、青少年のための国民的教育小説と言われました。自伝的小説であり、第7部まで執筆が予定されていたそうですが、著者の病のため未完のまま終わりました。(5部までは完結しています) 第1部は児童向けの本で読みました。再読しましたが、生きた等身大の次郎が描かれていて、今大人視点から見てもいい本だと思います。 自分の家に居場所がない、愛されないと感じている次郎が、少しずつ兄、弟、母と打ち解けていく過程が過不足なく書かれています。 粗暴でかわいげがなく、嘘つきだったりと欠点も多い次郎が、一進一退しながら変わっていこうとする姿勢を応援したくなります。 決して「教育的」「道徳的」過ぎる話ではありません。 一貫して公平に接して精神的な支柱になってくれる父を初め、母方の祖父母、乳母の一家、父の後妻の実家の人との交流も温かです。 第2部は、母の死後に始まり、ますます次郎を嫌う祖母との確執、継母との関係、学校生活が書かれます。 後書きに「自己開拓者としての少年次郎」がこの編の主題だとあります。1部では、次郎自身に与えられなかった家庭愛の問題がクローズアップされましたが、2部になると、次郎は自ら変わろうとします。愛されることを望むより、愛していこうと思います。のび太・画 「春の鬼」 権田原先生の言葉「世の中にはね-、沢山の幸福にめぐまれながら、たった一つの不幸のために、自分を非常に不幸な人間だと思っている人もあるし、…不幸だらけの人間でありながら、自分で何かの幸福を見つけ出して、勇ましく戦っていく人もある」や、気が弱くても人一倍公平・正義を大切にする兄恭一の言葉は考えさせられます。 教えられることの2~3倍も次郎は自分の頭で考え、変わります。本当に頭がいい人というのは、こういう人なんでしょう。 児童・青年期に読んで、また親世代になる頃に再読してみると、視点も変わって面白い本だと思います。 参照元:底本『下村湖人全集第一巻』池田書店 青空文庫
April 20, 2024
コメント(0)
4月6日は、4(し)月6(ろ)日の語呂合わせで、「白の日」です。 芥川龍之介の児童向け短編小説に『白』があります。 全身真っ白な犬の白は、お嬢さん、お坊ちゃんにかわいがられ幸せに暮らしていましたが、出かけた先で、隣家の仲良し犬、黒が、犬殺しに捕まるところに居合わせてしまいました。 白は、慌てて黒を見捨てて逃げ出します。お嬢さんたちの元に逃げ帰った白は、追い出されてしまいます。全身が真っ黒に変わっていて、おまえは白じゃないと。 この後、白は…。 白は「好ましいこと」「潔白」「無実」などいい意味の象徴として使われる言葉です。この小説の中の「白」は、好ましくない、罪ある行動によって「白い」属性を失ってしまいました。 物体が、全ての可視光線をほぼ100%乱反射するとき、目に映る色が「白」なのですが、全ての可視光線を完全に100%乱反射する物体はないそうです。100%潔白で、罪がなくい人間もまた存在しないのかも知れません。 参照元:『芥川龍之介全集5』ちくま文庫から 『白』
April 6, 2024
コメント(0)
馭者にとっては、どんな身分の高い客であっても運送荷物でしかないという序盤の言葉がちょっと皮肉で面白い。馭者は、ひたすら目的に向かって、一つの人生に向かって一途に進む、それは職業からくる特性だというのもなるほどと思いました。 O・ヘンリーの『馭者台から』は馭者ジュリーのある一日を描きます。 結婚祝いで浮かれるアパートから若い女性が出てきました。お客とみて、ジュリーは早速声をかけます。「どこへ?」「どこでも好きなところへ」 ジュリーは、公園を一巡りして、彼女をカジノに送ります。 「人生を愛する表情を浮かべた素朴な顔」の彼女の正体は…? O・ヘンリーがニューヨークで興味を持った話し相手の一人が、レイデンという馭者をしていた人でした。ジェリーのモデルはレイデンだと言われます。馭者特有の一途さも、レイデンとのつきあいから感じ取られたものでしょうか。 最後はもちろん、どんでん返しのオチです。 参照元:大久保博・訳『O・ヘンリー短編集2』新潮文庫 から『馭者台から』 婿…セイ、むこ
January 20, 2024
コメント(0)
僕の下宿先の隣は、岡田という学生の部屋でした。 岡田はちょっとしたきっかけで、無縁坂に住むお玉と知り合いました。お玉は高利貸しに囲われる妾でした。 岡田への思いが募ったお玉は、旦那が泊まりがけで外出した日に、岡田に近づこうと決心したのですが…。上野公園内 帝立博物館総長を勤めた鷗外の部屋跡 森鴎外の『雁』です。 お玉は、正妻がありながら、前妻が亡くなって独り身であると偽られ、職業も高利貸しと知らずに末造の妾になります。 真実を知って「悔しい」と思いながら人を恨む気持ちの薄いお玉です。不幸が続いてきた境遇からか、いつも〝あきらめ〟が〝油をさした機関のように〟その方向に働くのでした。 ですが、お玉の心境や行動に暗さは感じられません。末造やお玉を恨み、感情を爆発させる正妻のお常とは対照的です。 お玉が岡田に近づこうと準備をしていた日、たまたま下宿の昼食が「鯖の味噌煮」で、食べられない僕に岡田がつきあって外出することになりました。この日の献立が「鯖の味噌煮」でなかったら、岡田はひとりで出かけ、お玉は声をかけるはずだったのですが。 不忍池で石原に会い、雁に向かって石投げなどしていると、一羽の雁にまともに当たってしまいました。ぐったりした雁を外套の下に隠して持ち帰る僕と岡田と石原。 帰りもひとりでなかった岡田に、お玉は声をかけられずに終わりました。 そして、岡田は卒業を待たず洋行することが決まっており、下宿を引き払ってしまったので、お玉が思いを告げることはなかったのです。無縁坂 旧岩崎邸の塀 お昼の献立だとか、たまたま石が雁を直撃してしかったとかの些細なきっかけが、お玉の運命を左右します。 末造が、妻子ある高利貸しだと知ってからも、お玉は彼を軽蔑することなく、感謝の心を持ち、愛情をもって接しようとします。ひとしきり「悔しい」思いをした後はさらっと切り替え、女中の気持ちを思いやることもします。このピュアで強い気持ちが、不幸な境遇の話を暗さで終わらせません。 お玉にとってはバッドエンドの話なのに、読後感は悪くありません。 参照元:森鷗外『雁』新潮文庫
January 11, 2024
コメント(0)
『飛ぶ教室』は、エーリッヒ・ケストナーの児童向け小説です。 ケストナーは、ドイツの詩人、作家。パロディーや、シニカルな作品を残していますが、『エーミールと探偵たち』がヒットして児童文学家として知られるようになりました。 自由主義・民主主義の立場に立ってファシズムを批判されたため、ナチスから出版を禁じられますが、あまりにも民衆の人気が高かったため、ケストナーを拘束することまではできず、児童文学だけは出版を許可したという経緯があります。 戦後は西ドイツ文壇の代表的作家でした。 キルヒベルク高等中学校寄宿舎を舞台に、生徒と舎監の「正義先生」菜園の中の廃車に棲む「禁煙先生」らを巻き込んで、クリスマス前に繰り広げる物語。 「飛ぶ教室」は文才に富むヨーニーが脚本を書いたクリスマスを祝う戯曲の名。首席でおそろしく絵のうまいマルチンが背景を描き、小柄なウリーが独特の役を演じ、マチアス、ゼバスチアンたちもそれぞれの楽を演じることになっていました。 その稽古の最中に事件が…。 前書きでケストナーは言います。子どもの涙は決して大人の涙より小さいものではなく、大人の涙より重いことだって珍しくありません。 子どもだって、悲しい運命を背負って生きていることをケストナーは示します。人生の真剣さは子ども時代から始まっていることも。 大人にできることは、「正義先生」「禁煙先生」になることです。あるいはヨーニーを救った船長さんに。 物語の終わりは、クリスマスにふさわしい祝福に満ちています。 参照元:エーリッヒ・ケストナー 高橋健二・訳『飛ぶ教室』 グーテンベルク21 デジタルブック
December 10, 2023
コメント(4)
『逆ソクラテス』は、小中学生が主人公、主な登場人物の「デビュー20年の一つの成果(著者後書き)」という短編集です。こどもたちの領分での話は新鮮でした。 収録された短編のタイトルは「逆」「非」「アン」「ではない」と全て打ち消しの語が使われています。 『逆ソクラテス』は、ソクラテスの有名なことばに逆行するような行為を指しますが、さらには大人が示さなければならないことを子どもが逆に大人に提示するという意味の「逆」でもあります。他の短編に『逆ワシントン』というのもあります。 それぞれが独立したストーリーですが、中には複数編に登場してくる人もあり、一見全く関わりのない世界を結ぶ大切な役割を果たし、伊坂ワールドを作り上げています。この味が好きです。 『アンスポーツマンライク』では、小学校時代のバスケットバールの試合がグランドになります。仲間との信頼感、親やコーチといった大人たちとの関係が絡み、小学校最後の試合の展開が盛り上がります。 それぞれの道に進んだ仲間たちは高校生になってから集まり、怪しい男に遭遇しました。案の定大事件になり…。 バスケの試合のようなテンポの良い展開、意外性もあり、楽しく読めます。「アンスポーツマンライクファウル」は、試合中の一方に責任のある体の触れあい接触で、スポーツマンらしくない反則とされます。一発で退場になる場合もある大きな反則です。 作中ではこの用語が実に効果的に使われます。読後はとても爽やかです。最終話の『逆ワシントン』での一シーンも生きています。 参照元:伊坂幸太郎『逆ソクラテス』集英社
November 7, 2023
コメント(0)
五島美術館で見てきた「紫式部日記絵巻」第1段と第2段から。 第1段は、行幸の翌日、中宮権亮実成と中宮大夫斉成が、中宮彰子付きの女房たちを訪ねる場面です。日記に暮れて、月いとおもしろきにとありますが、画面左上に経年の劣化で黒くなった月がみえます。中宮の世話をする役所の職員に当たる、藤原実成と上司の藤原斉成が、昇進のお礼を中宮に申し上げてもらおうと思ったのか、女房のいる場所を探してやってきます。 蔀(格子)を上げて呼びかける公達に、中から対応するのが紫式部です。実成は自分には返事をくれないのに、斉成には返事をするのは、身分で差別するのですか、とすねてみせます。さらに、下の蔀も開けてくださいよ、と言い出します。蔀は上下に分かれていて、上部は引き上げ、下部は外す形です。 式部は、(若い女房ではあるまいし、調子に乗って開けたりしませんわ)ときわめて冷静に考えています。 第2段は、11月1日の敦成親王(後の後一条天皇)誕生後50日の「五十日(いか)」の祝儀です。現代では生後100日あたりに「お食い初め」の祝いをします。赤ちゃんがこれから食べるものに困らないように、と願って健康を祈願するのですが、ここでも、彰子中宮、親王それぞれに給仕の女房が付き、取り次ぎの女房がいることがわかります。 彰子中宮近くに控えるのは、身分の高い女房、御簾の外に控えるのはそれに次ぐ身分の女房と思われます。女房は、父・祖父などの身分によって身分の上下があります。紫式部は秀才であっても父が受領階級なので、身分は中くらいといったところ。奥の方にいたと記述があります。
October 14, 2023
コメント(0)
原田マハのショート・ストーリー集『ギフト』中の『コスモス畑を横切って』『茜空のリング』『小さな花束』は、さやかの結婚披露パーティーに招かれた、それぞれの「私」たちのお話になっています。 学生時代の親友の「私」は、さやかと同じ人を好きになり、彼が私を選んだため疎遠になっていました。さやかの誕生日には、バスケットに不出来な手作りケーキやワインを詰め込んで、あのコスモス畑の中の道を一緒に歩いたのに…。 新郎は間宮くん。招待された同期の彼と「私」。なかなかプロポーズしてくれない彼に私はため息が出ます。 さやかの同期四人の「私たち」。さやかだけ特別な場所へ行ってしまうようで、素直に喜べずにいました。 当日、待ち合わせをした私たちは思わず笑ってしまいました。四人並ぶとドレスはみごとなグラデーションになっていました。まるでコスモスのよう…。東高嶺森林公園のコスモス そして、パーティーが始まる頃には「私」も「私」も「私たち」も心から「おめでとう」と言える気持になっていました。それぞれが、かけがえのないギフトを抱いて、贈られ、贈って。 舞台になったコスモス畑は、実際お台場にありましたが、残念ながら現在は存在しません。メタリックな景観の建物が並ぶ一角、観覧車をバックに一面のコスモスが咲き乱れていたそう。 9月14日は「コスモスの日」だそうです。 参照元:原田マハ『ギフト』ポプラ文庫
September 14, 2023
コメント(0)
漱石と寺田寅彦の信頼関係は弟子の中でも特別だったようです。著書の中でも、寅彦から聞いた科学のエピソードが語られます。その一例が『三四郎』。 上京した三四郎に、田舎の母から手紙が届きました。そこに「勝田の政さんの従兄弟に当たる人が理科大学とかに」いるそうなので訪ねていきなさいとありました。それが野々宮さんで、三四郎は言いつけ通り、大学まで訪ねていきました。 寅彦の随筆『夏目先生の思い出』に、自分の研究室を見せろと言われて地下の実験室に案内したこと、そこで行われている実験を小説に書いていいかといわれたので、差し障りがあるため代わりに「光圧の測定」実験を紹介したことが書かれています。 野々宮さんの実験室、装置は寅彦から聞いたことの著述であることがわかります。 漱石は1回聞いただけで、見たこともない光圧実験をかなりリアルに表現したそうです。漱石は日本の文学者には珍しく、一般科学に深い興味を持ち、科学的方法論を論じることを好んだ人であったと、寅彦は綴っています。小山慶太「20世紀初期における放射圧測定の考察」から 実験室の真ん中の大きなテーブルの上になんだかこみいった太い針金だらけの器械が乗っかって、その脇に大きなガラスの鉢に水が入れてある。そのほかに三尺くらいの花崗岩(みかげいし)の台の上に、福神漬の缶ほどな複雑な器械が乗せてある。 夜になってから、望遠鏡の中からこの缶の横に開いた穴を覗いて光線の圧力を試験するのだと、三四郎は説明されます。 光圧については、先にマックスウェルが、光はエネルギーを持ち、光がぶつかることで物体は圧力を受けると理論を立てていました。その圧力も計算されていました。マックスウェルの理論を、実験で証明したのがニコラスとハルでした。 野々宮さんの実験は、ニコラスとハルが行って論文化したものです。光の圧力を受けると、ごく薄い羽のような片面鏡のガラス板が振動し、かかった力を目盛りで読み取る装置だったようです。穴を覗いた三四郎にも、ぼんやり明るい中に物差しの目盛りが見えたと書かれています。 福神漬けの缶は実感がわきませんが、元祖福神漬けは缶詰だったことはわかりました。 「穴蔵の底を根拠地として欣然とたゆまずに研究を専念にやっているから偉い」という野々宮さんへの三四郎の思いは、そのまま漱石の寅彦への賛辞であったでしょう。 参照元:夏目漱石『三四郎』角川文庫クラシックス 『寺田寅彦随筆集 第三巻』岩波文庫から『夏目先生の追憶』 早稲田大学社会科学学会1983年3月号から 小山慶太「20世紀初期における放射圧測定の考察」ーー二コルスの研究
August 25, 2023
コメント(0)
寺田寅彦は物理学者としても随筆家としても著名です。『備忘録』に出てくる線香花火の話は、科学の正確な裏付けがありながら、文の美しさも一流です。 科学者としての寅彦は、線香花火の火球から火花が飛び出し、二段三段と破裂、枝分かれする現象はどんな作用に因るのかと興味を持っていました。 この物理上、化学上の問題の結果が出たとき、今後の科学の重要な基礎的問題に触れるだろうと述べています。 学校を卒業していく人たちに、お金も設備もかからない実験として「線香花火の問題」を勧めてきたのですが、なかなか実験する人が現れませんでした。そこで、ある夏弟子の中谷宇吉郎ともう一人を誘って、ついに実験にこぎつけました。 次回は、中谷宇吉郎の実験結果を綴った『線香花火』と、最近の研究結果を見てみます。 参照元:『寺田寅彦随筆集 第二巻』岩波文庫から『備忘録』
August 10, 2023
コメント(0)
M君は夏休みに静岡在住の友人、倉沢を訪ねました。 倉沢家は旧家で、倉沢君は、六代前の祖先が書き残した古書を見せてくれました。それは西瓜にまつわる奇怪な話を随筆風に記したものでした。 倉沢君は自分の家に伝わる、西瓜を食べないという伝説も笑いながら教えてくれました。 どちらも、昔から伝わる迷信に思えましたが…。 古書の伝える奇談だけでもまとまった一つの話になっていますが、奇談を伝える倉沢家の話、さらにM君が体験する倉沢君自身の奇談が入れ籠のように組み合わさって、怖さを醸し出します。構成のうまさにひかれました。 映像で見せられたら、しばらく西瓜は食べられないかもしれません。 岡本綺堂が伝える異妖の怪談集、近代編の一編です。涼しくなりたいときに。 参照元:『異妖の怪談集 岡本綺堂伝奇小説集 其ノ二』原書房から 岡本綺堂『西瓜』
August 6, 2023
コメント(0)
夏目漱石などを読んでいると、「近代文学」というものが、もはや古典になりつつあることを強く感じます。 大体、世の中の仕組みも、日用品の名称も、身近でないのでわからなくなってきます。昭和半ばは普通に使われた言葉(たとえば「衣紋掛け」→ハンガー「下駄箱」→靴箱)が死語になっているくらいで、ましてや明治は遥か遠くの時代と言わざるを得ません。 勧工場(かんこうば)は何の工場かと思ったら、「明治・大正期に、多数の商人が商品を陳列して即売した所」だそうで、高齢者の私が知らないくらいですから、今の世では通じない言葉でしょう。のび太・画 『日』 漱石の小説の語彙は、今と比べものにならないくらい豊かだったことに感じ入ります。当たり前のように漢語、英語、仏教用語が駆使されます。 『草枕』は辞書を引き引き読みました。それも、国語辞典にはない語もあり、漢和辞典まで引く羽目に。 たとえばこの一文吾人の性情を瞬刻にして陶冶して醇乎として醇なる詩境に入らしむるのは自然です。「ちょっと何言ってるかわからない」と言いたくなります。 吾人=「わたし」の古風ないい方、性情=もって生まれた性格や気質、瞬刻=ごく短い時間、陶冶=陶器や鋳物を作るように試練を経させて一人前の人間に育て上げること、醇乎として=純粋であってほかより優れている様子から、「自分の生来の気質に働きかけて、あっという間に人間性に磨きをかけ、純粋な詩的な世界に引き入れてくれるのが自然です。」くらいの意味でしょうか。 こう書いてしまうと回りくどい感じで、原文の簡潔で厚みのある表現にはとても及びません。 澆李(ぎょうり)=末世、道徳や風紀の乱れた末の世、覊絆(きはん)=羈絆=束縛、鑒識する=鑑識する=よく調べて判断するまでは国語辞典で意味がわかりますが、 璆鏘(きゅうそう)=美しい玉(ぎょく)が触れあう澄んだ音になると国語辞典もお手上げです。 漱石は宛て字が多いことでも知られますが、この語彙の多さに驚嘆します。明治のエリートたちが書く文が、辞書を片手に読む古典になってしまったのも、漢字も言葉も簡略化されてきた現代では必然の流れなのでしょう。 参照元:『夏目漱石全集3』ちくま文庫 から『草枕』
July 4, 2023
コメント(0)
山路を登りながら、こう考えた。智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。夏目漱石の『草枕』の冒頭部分で、広く知られた名文です。 理知的であろうとすると、人間関係がぎすぎすしてしまいます。理屈だけでは暮らせません。かといって、情にほだされすぎると他人の思うままになってしまい、自分の考えを押し通そうとすると、周りから反発されて暮らしにくくなります。 人間関係の難しさを突いた漱石の言葉は、ことわざのように使われます。 『草枕』はこの後、「人の世」が暮らしにくければ「人でなしの世」ならどうか、いやいやだめだろう…と、話が進みます。 主人公は、暮らしにくい世の、暮らしにくさを束の間でも除いてくれるのが芸術だということに思い至ります。それも人情から離れられない芝居、理非を脱しない小説ではなく、そこから解脱した東洋の詩の境地「非人情」こそ求める世界だと。 旅先の出来事を能に、出会う人たちを能の役者のように見立ててみようと思いつきますが、そうこうしているうちに大粒の雨が降ってきて、茫々たる薄墨色の世界を、幾条の銀箭が斜めに走るなかを、ひたぶる濡れて行くわれと画(え)の中にわれを調和させてみますが、足が疲れたと気にかける瞬間、現実の小人物にもどってしまうのでした。 主人公は馬子に茶屋を教えてもらい、濡れた体を乾かし休めて、宿へ向かいます。 『草枕』一章は、那古井温泉を舞台に書かれる「非人情」の世界の序章で、漱石の「非人情」の考えが提示される部分です。難解な用語が多いのですが、漱石らしい自虐も含んだユーモアが感じられ、面白い文です。 参照元:岩男忠幸『日本のことわざを心に刻む』東邦出版 引用および参照元:『夏目漱石全集3』ちくま文庫 から『草枕』
July 3, 2023
コメント(0)
1813年ドイツのカール・フォン・ドライス男爵が足蹴り式の二輪車を発明しました。これが自転車の始まりだとされます。 1939年にはスコットランドでペダル式の自転車が、1863年にはペダルとクランクを取り付けた改良型の自転車が発明されますが、乗り心地の悪さから「骨揺り(ボーンシェイカー)」と呼ばれました。 1879年に前ギアと後ギアをチェーンで結ぶ駆動方式が発明され、安全性やスピードが改良され、1888年、ダンロップがタイヤを発明してからは飛躍的に乗り心地がよくなったそうです。 1902年、イギリス留学中の漱石は下宿の大家から「自転車に御乗んなさい」と言われてしまします。仕方なく○○氏に指導してもらうことにします。 初心者には婦人向けの自転車がいいと言われて、反発する自転車選びから、大変なことに。 〝自転車屋の物置に閑居静養を専らにしていたような〟老自転車を買って練習が始まります。 〝鞍壺にたまらずずんでん堂とこける〟〝流汗淋漓大童となって〟乗りこなせない自転車と格闘、忘月忘日、自転車で坂を下る場面は笑ってしまいます。 当時の自転車にはブレーキがなく、止まるときに相当の技術が必要だったようです。 そしてまた忘月忘日、美しきご令嬢から、自分の家族と一緒に夏目さんも遠乗りに出かけましょうと誘われ、「…エー…アノーまだ練(な)れませんので」「しかし、お天気が…」と言い訳に必死の様子も噴飯ものです。 〝大落五度小落はその数を知らず〟ついにものにならなかったと『自転車日記』は伝えます。貴重な留学時間を費やして、下宿の飯を2人分食べて終わったと。 「これを評して朦朧体(明治時代確立された絵画技法で、明確な輪郭線を持たず、批評家たちは批判的だった。)」「人間万事漱石の自転車」などユニークな表現で綴られた小品です。 参照元:『夏目漱石全集10』ちくま文庫
June 24, 2023
コメント(0)
「身を知る雨」は、「自分の身の程を知らせるような雨」→涙のことを指します。伊勢物語第百七段に出てくる「数々に思ひ思はず問いがたみ身を知る雨は降りぞまされる」の歌が元になっています。画・のび太 伊勢物語の百七段の歌物語の概要は以下のようです。 ある身分の高い人(在原業平と言われます)に使えている侍女に、藤原敏行が求愛してきました。 女はまだ若く、手紙の書き方や言葉遣いに慣れていないし、まして歌など詠めないので、主人の男が案を出して応答しました。敏行はもらった手紙にたいそう感激します。 女とねんごろになってから、敏行が送った歌の内容が「雨が降りそうな気配を見て、あなたのもとへ伺おうかどうしようかと迷っています。私の身が幸いならこの雨は降らないでしょう。」 女はまたも主人の代作で返します。「いろいろと思ってくださっているのか、わたしのことなど思っていないのか、お会いして問うこともできかね、私などの身の程を知らせる雨がどんどん降ってくるのです(涙が流れるのです)。」 この歌を読むと、敏行は蓑も笠もつけないような慌て具合で、急いで女の元へやってきました。 敏行は女性にぞっこんだったのでしょう。「わたしのことなど、どうでもいいのでしょう?(涙)」と言われて焦って駆けつけます。慌て具合が愉快です。 在原業平と藤原敏行は、ともに紀有常の娘を妻にしています。奥さん同士が姉妹になります。また、業平は六歌仙のひとり、敏行も三十六歌仙のひとりと、和歌に秀でた人であり、交流があったと思われます。敏行は能書家としても有名です。 「身を知る袖の村雨」と言う表現もあります。 参照元:岩男忠幸『日本のことわざを心に刻む』東邦出版
June 14, 2023
コメント(1)
死があたかも一つの季節を開いたかのようだった。と始まる堀辰雄の『聖家族』。亡くなった九鬼のモデルは堀辰雄が敬愛する芥川龍之介です。 師であった九鬼の葬送の日、扁理は九鬼の恋人であった細木夫人に再会し、以降交流を持つようになりました。 扁理は細木夫人の娘、絹子に恋心を抱くようになり、絹子もまた意識しないうちに扁理に惹かれていきます。 細木夫人は〝ダイヤモンドがガラスを傷つけるように〟九鬼を傷つけながら自らも苦しむような人でした。〝自分の弱さを独特な皮肉でなければ現そうとしない〟九鬼は、弱さを隠せば隠すほど苦しむことになりました。 扁理はふたりの愛をなぞるように絹子に気持ちを向けますが、絹子から目をそらし踊り子と恋仲になってみたり、突然の旅行を決めます。 見知らぬ町で、扁理は死んだ九鬼が自分の裏側に生きていて、力強く支配していることを理解したと、自分の生き方を探っていきます。 一方で残された絹子は、母との葛藤の中にあり、細木夫人も絹子が遠く離れていくように感じます。 『聖家族』は、ラファエロの画。 扁理は聖母像が細木夫人に、母を見上げる幼児の顔が絹子に似ていると感じます。 この絵の掲載された画集は、九鬼が所有していたものですが扁理に譲り、扁理が生活のため売ったのを絹子が見つけ、買い戻すようにと夫人から為替を受け取ったというエピソードがあります。 細木夫人のモデルは芥川のプラトニックな愛人、片山広子です。彼女は、歌人、随筆家、アイルランド文学翻訳者という才媛。堀は軽井沢に滞在する芥川を訪ね、片山広子に会いました。 細木絹子のモデルは、片山広子の娘、聡子です。 聡子は『菜穂子』の菜穂子、『ルウベンスの偽画』のおじょうさんのモデルでもあります。現実に、堀は聡子に恋していたようです。 堀は敬愛する芥川の自死に非常な打撃を受けましたが、この作品を書くことで、自分の中で芥川の死を受け止めていきました。九鬼の裏返しのような、同じ弱さを持つ扁理は堀自身でもあります。 5月28日が堀辰雄の命日です。 引用及び参照元:『昭和文学全集 第6巻』小学館堀から辰雄『聖家族』
May 28, 2023
コメント(0)
ある日目が覚めたら、25年後の世界で25年後の「わたし」になっていたら…?そんな不思議な時間のスキップに巻き込まれる物語が『スキップ』。 昭和40年代初め、17歳の女子高生、一ノ瀬真理子は、いつもの家でお気に入りのレコードをかけてうたた寝をしてしまいました。 目が覚めると、周りは全く見覚えのない家でした。パニックになりかけて逃げだそうかと思っていると、「ただいま」と帰ってきた女子高生。彼女に声をかけると「お母さん」と答えが。 事情がわからなかった真理子は、娘だという美也子と話して自分が突然25年後の世界にスリップしてしまったことを知ります。訳のわからない理不尽に憤る真理子でしたが…。 真理子は持ち前の負けず嫌いで、自分の置かれた状況を理解し、立ち向かっていこうとします。《わたしの指揮官はわたし》と。 娘の美也子からすると、突然母が変わってしまった訳で、よくこんな落ち着いた対応ができると思います。記憶喪失なのかと疑いつつ、同じ17歳の女子として真理子の気持ちをわかってかばいます。よく友達みたいな母娘なんて言いますが、この状況ではまさに17歳の友達母娘。 どんな経緯があったかもわからず、すでに夫がいる身であったりとか、国語の教師になっていた現状(前日まで教えられる側だったのに)を認めるのも難しいこと。その上、世の中全体が全て変わっていて、生活するのに必要な覚えることは山積みです。真理子のまっすぐ努力する姿に感動します。 ただ、女子高生がいきなり教師になって、うまくできていますというのは無理がありすぎでしょう。頭がよく、授業ならいくらでも教えられる高校生はいくらでもいます。授業自体はできるでしょう。 でも、学級全体を見る力、生徒像全体に関わっていく力は、経験と時間の積み重ねが作るもの。教師なめんなよ、とだけ言っておきます。 『ターン』の真希もそうですが、真理子は勇気も根性も持ち合わせ、そしてよき理解者も持っています。 高校生からの親友、池ちゃんは、25年のスキップを信じられないと断言しますが、真理子のある一言と涙で、理性を超えて信じます。「一ノ瀬。…あたしは信じる。世界中が違うと言ってもあたしは信じる」 完全なハッピーエンドではないかもしれませんが、終わり方もさわやかです。 引用および参照元:北村薫『スキップ』新潮文庫
May 19, 2023
コメント(0)
ある男が行方不明になります。 彼は砂地に住む昆虫を採集しにでかけたのですが、部落を守るため男手を必要としていた村民たちに捕らえられ、ひとりの女が住む砂底の家に閉じ込められてしまったのでした。砂はつぎつぎと土壌の中から生み出され、まるで生き物のように、ところきらわず這ってまわるのだ。砂は決して休まない。静かに、しかし確実に、地表を犯し滅していく…。 女は、家に流れ込む砂を夜の内に掻きだし、もっこで地上に上げてもらい、昼は休むという生活を続けていました。 砂に埋もれかけ、柱は傾き、畳は腐り、〝半分死にかけたような〟家を、女は守ります。外に出て行く必要など思いもせず。 一方男は、自由を求めて脱出を試みては失敗し、繰り返し脱出しようとします。一度は穴の外に出て村の外れを目指しましたが、砂に阻まれて再び穴の中に戻ってしまいました。 鴉を捕らえる罠を思いついた男は、その装置を〈希望〉と名付けます。鴉がかかる代わりに、水がたまったのを発見した男は、溜水装置を研究することに熱中します。いま、彼の手の中の往復切符には、行先も、戻る場所も、本人の自由に書きこめる余白になって空いている。 男の今の答は、「あわてて逃げる必要などないのだ」。都会で会社に通う生活は、果たして自由だったのだろうか?男はその生活から離れたいと望むことはなかったのだろうか?昆虫採集の道具を持って。 男はまだ結論を下してはいません。 海岸に近づくにつれ、砂浜が盛り上がって、家が穴の底に建っているという設定はまず非現実的です。地形的におかしい。砂が壁のようになっていて崩れてこないのか?砂はどこから降り注いでくるのか?あり得ない設定です。 が、ニワハンミョウの生態や砂の性質が科学的に正確に説明されることや、村や家の様子が写実的に細かく描写されることで、そのあり得ない光景が、現実として眼前に現れる小説です。 多用される比喩も巧みなので、情景も心情もありありと浮かびます。胃の中から笑いに似た激しいけいれんが、しぶきをあげて噴き上がってくる。時が馬のように駈け出したりすることはないかもしれない。しかし、手押し車より遅いということもなさそうだ。胃が、ゴム手袋のように、冷たくひえていた。 サスペンス映画のような脱出劇は、はらはらします。 地上に出たときの場面は黄金色の砂を舞台に輝いて見えます。男はどこまでも行けると思った道を走り出すのですが、村の外に出られずに終わってしましました。 再び穴に戻った男は、〝風景の仲間入りさえ拒まれ、ただむやみと暗い〟ばかりで、女はその暗闇よりもっと暗いのでした。 初めは、生活に順応したふりをしていた男は、だんだん単調な生活の中からささやかな充足を感じるようになります。砂から身を守るちょっとした発明が生きがいになりました。これまで彼が見ていたものは、砂ではなくて、単なる砂の粒子だったのかもしれない。 男は、人間関係をいったんゼロに戻そうと考えます。 男がかつて都会で送っていた会社員、家族の一員としての生活と、砂の底の生活、どちらも他者との関わりなしには成り立ちません。社会に生きる以上、集団からの拘束は避けられません。 反対に、他者と関わりたい、集団の中で自分を認識してほしいという欲求も個人には起こります。 男は、過去には、新種の昆虫をみつけたことを世間に報告したいという夢を持っており、今は、溜水装置を発見したことを村の誰かに伝えたいという欲求をもっています。 多くは単調な繰り返しの毎日で、流動するものがあり、流動する気持ちの持ち方があります。最終的に男が往復切符に書き込んだ行き先はどこだったのでしょう…。砂のがわに立てば、形あるものはすべて虚しい。確実なのは、ただ一切の形を否定する砂の流動だけである。 引用及び参照元:安部公房『砂の女』新潮文庫
April 25, 2023
コメント(0)
精神を病み、海辺の病院に入院していた母が危篤になり、信太郎は父と共に病院にきました。 母が亡くなるまでの九日間と、戦後の窮乏生活から現在へ至るまでの思い出が織り交ざって語られるのが『海辺の光景』。 「心にとけきれない困惑をかかえた」信太郎は、病院で落ち着かない思いで過ごします。ずっと信太郎に寄りかかって、父を嫌っていたかに思えた母が一言だけ口にした語は「おとうさん」でした。信太郎は失望と安堵をおぼえます。 対して、回想される父母の過去の生活は、経済的に大変な内容ですが、生き生きとユーモアまで感じる書かれ方です。借家から追い立てを食らわないため、苦労して鶏を何十羽も運んでくる二人の姿には笑ってしまいます。信太郎だけが心に空洞のような物を抱え、覚めた目で生きている感があります。 母のことがなければ申し分ない自然の中にある病棟。 1年前母を連れてきたときは「青空を映した海と、緑の斜面にかこまれた白い角砂糖のような建物」に思えた景色が、死を待つ今「暗い海面は、重そうな水で膨れあがりながら、生温かな空気であたりをジットリと浸して」いる風景になります。 母の死の実感がなく、涙も出なかった信太郎ですが、海面にいく百本ともしれぬ杙が屹立しているのを見た刹那、すべての風物が動きを止めたように感じます。 墓標のような杙の列。 死の風景。 風景の死。 母の死が実感として彼に迫ってきたのでした。 時代背景が古いため、病院の状況や患者の待遇などは現代と異なりますが、精神を病む本人と家族の困難は伝わります。 薬物療法が進歩しているので、今なら主人公の母親は症状が改善して退院可能だったかもしれません。が、周囲の偏見から入院の継続を余儀なくされるのは今も変わらないかもしれません。 ある患者が、死ぬまでこの病院にいるしかない、という内容を話しているのが刺さります。 『海辺(かいへん)の光景』は、「第三の新人」の一人、安岡章太郎の長編です。 参照元:安岡章太郎『海辺(かいへん)の光景』新潮文庫
April 20, 2023
コメント(0)
「沸く」と「湧く」 世界の美=欧州の美であった今日まで、日本の美は世界の一隅に湧き続けてきた。と、高村光太郎は言います。その一つ、「埴輪の美」をあげてみます。埴輪の美は、明るく簡素質朴である。自然からくみ取った美への満足があり、清らかである。日本美の健康性がここにある。と表現されています。埴輪(レプリカ)土偶(イメージ) 埴輪は、古墳時代の日本で祭祀や魔除けのために、古墳の周囲に並べられた素焼きの器物です。聖域と俗域の区切りを示していたとされます。人物形であったり、鳥獣、建物の形をしています。 高村光太郎は、縄文時代の土偶や土面は形式的な陰鬱な表現であり、埴輪は自然な美の純朴な明るい表現であるとします。埴輪に日本民族の根源的な美の性質の一つを見ています。 土偶の形はほぼ定まっていますが、埴輪は人物であっても「巫女」「武人」など一体一体が明確な役割を持っています。装飾的な土偶に比べると、シンプルで現実的、健全な感じです。 引用および参照元:『昭和文学全集 第4巻』小学館から 高村光太郎『美の日本的源泉』
April 8, 2023
コメント(0)
六枚の絵画に因んだ六つの物語、原田マハの『常設展示室』の一編『道』 イタリアの大学で教鞭を取った後、帰国して日本美術大学教授になった翠は「新表現芸術大賞」の審査員として目にした一枚の絵に衝撃を受けます。 百号ほどの大きさの厚紙に描かれた水彩画の『道』は、よく見ると何枚もの画用紙をつなげてできていました。 この絵に思い当たることがあったのです。 翠が、幼い頃目にした新しい舗装道路、そこで翠は大きな別れを経験しました。 二十歳の時、一時帰国した翠が出会った緑や青のグラデーションでできた絵画。その作者と見た東山魁夷の『道』が、応募の絵につながっていきます。 再び訪れる大きな別れ。それはまた一つの出会いにもつながりました。 翠が歩いて行こうと決めた道は…。 美術や文学はお腹を満たす糧にはなりませんが、心の栄養素にはなり得ます。芸術を創り出す力も、評論する力も持ち合わせていませんが、見たり、聴いたり、読んだりは続けていこうと思います。 参照元:原田マハ『常設展示室』新潮文庫 から『道』
April 4, 2023
コメント(0)
二年の留学中ただ一度倫敦塔を見学した事がある。その後は行くのをやめた。 明治三十三年のこと、漱石は英語教育法研究のため、文部省の命によりイギリスへ留学しました。倫敦塔を訪れたのは、イギリス着後まだ間もない頃だと作品内で述べています。 ロンドンの方角も地理もわからず、交通機関の利用はもってのほかで、地図を見ながら道を尋ねながらようやく目的地に着いたようです。倫敦塔の歴史は英国の歴史を煎じ詰めたものである。全てが過去のものであるような風光の中に冷然と二十世紀を軽蔑するように立っているのが倫敦塔である。 ちょっと皮肉な表現ですが、その塔を見学しつつ時に幻想的に、時にユーモアを交えて書かれた随筆が『倫敦塔』です。 エドワード四世は薔薇戦争に勝利し、ヨーク朝を開きますが若くして急死したため、政権は弟のリチャード三世の手に移ります。 エドワード四世の王子、エドワード五世と弟のヨーク公リチャード・オブ・シュルーズベリーは倫敦塔幽閉後、殺害されたと言われます。 まだ幼い兄弟の会話、刺客の会話、兄弟に会えなかった母の嘆きが、カンテラの灯りの向こうに揺らいで現れ、消えます。 十六世紀中頃、義父の策謀で九日間だけのイングランド女王となったジェーン・グレイの姿も。 ウォリック伯は、ヘンリー八世の妹の孫に当たるジェーンを息子のダドリーと結婚させ、王位を継承させようと画策しました。うまくいったかに見えましたが、ヘンリー八世の長女メアリー派に反撃され、満十六歳でジェーンは倫敦塔幽閉の後斬首されました。 シェークスピアの史劇『リチャード三世』、ドラロッシの絵画、エーンズウォースの『倫敦塔』から想像力を得て書いたそうですが、重厚で躍動的に表現された史劇的な場面は文豪の面目躍如といったところ。 幻影と交互に、現実の場面で子供を連れた若い女が現れ、二,三羽しかいないカラスを五羽と断言したり、はっきりと読めない壁の題辞をすらすら読み取って解読する謎を示します。これはミステリー要素として面白いところ。 後から、漱石の滞在した宿の主人が、漱石にとってはちょっと面白くない謎解きをしてくれます。漱石の渋い顔が目に見えるよう。 もともと神経衰弱の気があった漱石は、下宿に一人閉じこもってしまい、文部省への申報書も白紙で送るなどしたため、急遽帰国を命じられることとなりました。 「夏目発狂」という噂が文部省内に流れたそうです。 帰国後、帝国大学講師となりますが、硬い講義が不評であったり、いわれのない噂に苦しめられ、いよいよ神経衰弱に陥りました。 落ち着いてきたところで虚子に勧められて書いた『吾輩は猫である』が好評を博し、漱石は作家として生活していく決心を固めました。この時期に『倫敦塔』も発表されています。 引用および参照元:『夏目漱石全集2』ちくま文庫 から『倫敦塔』
March 22, 2023
コメント(0)
「うたかた」は泡沫、水面にできる泡のことで、はかないもののたとえに使われます。 『方丈記』の「流れは絶えずしてしかももとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし」の文章が有名です。 取り壊し予定の団地にひとり残っていた房子は、ニューヨークの息子の元に行くと言っていたのですが、餓死していました。ベランダに乗り出すようにして、幸せそうな微笑を浮かべて。 浅田次郎の『うたかた』は、昭和35年に20倍の抽選に当たって住み始めた房子と家族の歴史をたどります。 蛍光灯の白い光が幸福の象徴だった時代。紙芝居、アイスキャンディー売りや焼き芋屋さんが来て、奥様たちが井戸端会議をしていた中央公園。 白熱電球が当たり前であった時代、白い蛍光灯は来たるべき時代の明るい象徴でした。テレビは家庭にあった記憶がありますが、ブラウン管の白黒テレビでした。 房子が生きた時代は父母よりも少し前ですが、時代背景はリアルなものとして理解できます。私より下の世代では、歴史的な出来事になってしまうのでしょうが。 入居時は植えられたばかりの若木だった桜は、団地と、家族の歴史を見続けてきました。 大きく育った桜が満開になる頃、房子は旅立ちます。 この世の生はうたかた。でも、満開の桜に彩られた思い出は色あせることがありません。 参照元:浅田次郎『見知らぬ妻へ』光文社文庫から『うたかた』
March 18, 2023
コメント(0)
ぼくは《こんにちは火星人》のタイトルで、社会戯評風のラジオ番組脚本を書いていました。ある日、火星人のことで相談があるという奇妙な男が尋ねてきました。 妻だと名乗る女性からは「夫は精神病院から退院してきたばかりなので、適当に相手をしてほしい」と電話があります。 ぼくは男に怯えながら会話するのですが、男の話は二転三転します。 はたしてこの男は統合失調症(原文は古い言い方になっていますが、あえて言い換えさせていただきました)なのか、火星人なのか、火星人そっくりの人間なのか、人間そっくりの火星人なのか??? ぼくは次第に自分自身の存在が何であるのかもわからなくなっていきます。気がつくと、ぼくはここにいた。狂気の法廷の、証人席に、ゆがんだ鏡の檻に入れられたまま… 安部公房の『人間そっくり』のストーリーです。 ぼくは、もう火星人であるか、人間であるのかという質問に答えられなくなっています。 文中で、《トポロジー》理論を出して男はぼくに迫ります。 トポロジーは位相幾何学。平たく言うと「図形をゴムのようにグニャグニャと変形しても変わらない性質」を追究するものです。人間もぐにゃりと変形すれば火星人…? 読むうちに自分自身の存在も揺らぐ様な…、メンタルが弱っているときには読みたくない本です。 SFと言われますが、SFらしいのは、「特殊強制生物転位装置」を使用して、男が火星から地球に来たと説明する箇所くらいでしょうか。反重力の利用はSFの定番です。 物質転位は、「時間の不連続性」を利用して実現できるそうで、反時間の存在、時間の単弦運動、多次多元的な時間波と理路整然とした説明が述べられるのは、さすが理系出身の安部公房だと感じ入りました。 SFというよりホラー心理小説だと思って読みました。 3月7日は安部公房の誕生日です。 引用及び参照元:安部公房『人間そっくり』新潮文庫
March 7, 2023
コメント(0)
2月20日はメトロポリタン美術館開館の日です。 訪れる経験はおろか、展示されている美術品についての知識もないのですが、この美術館の名を聞くと原田マハの作品を思い出します。 原田マハはキュレーターの資格と経験も持つ小説家で、美術館、美術品が登場する作品を多く著しています。「マハ」のペンネームも、フランシスコ・ゴヤの「裸のマハ」「着衣のマハ」に由来します。メトロポリタン美術館 『ブリオッシュのある静物』 祖母のタマコさんが他界して5年、私はタマコさんの友人マサエさんに誘われてメトロポリタン美術館を訪ねます。 タマコさんが最期を迎えた部屋に飾られていたポスターはモランディの絵でした。そのモランディ展を見に来たのです。 人生最後までこう生きたいなと思わせられる生き方がありました。 絵画とか音楽とか文学…は、直接口に入るものではありませんが、人には必要な栄養素なのだと思います。 ジョルジョ・モランディは20世紀前半に活躍したイタリアの画家で、比較的小さいサイズの静物画に定評があります。激しい主張がない静謐さが独特です。 静寂に見えながら内に力を秘めた、そんな絵がタマコさんの生き方に重なります。 参照元:小説トリッパー編集部・編『20の短編小説』朝日文庫から 原田マハ『ブリオッシュのある静物』
February 20, 2023
コメント(0)
道子は、女学校を卒業して社会に出てから、慌ただしく縮こまった生活ばかりしてきたような気がします。 ある日、多摩川脇の草原に出た道子は、学生時代ランニングの選手だったことを思い出し、まっしぐらに走り出していました。 それからというもの、彼女は人目のない夜、銭湯に行くついでに走って帰ることにします。多摩川(2022年) 道子の行動は、当然家族の怪しむところとなります。心配する母、「よくよく屈託したんだろう」とおおらかな父。ふたりは道子をつけてみることにするのですが、後半の父母のやりとりが愉快でさわやかです。 かの子自身、世間から見たら突拍子もない奥さん、お母さんだったようです。縮こまった生活で凝った体をほぐすため、走り出す(実際のランニングでなく)こともあったでしょう。人類とは離れた、淋しいがしかも厳粛な世界に生きている感じがした。という道子の感覚は、かの子の実感でもあったでしょう。 長男である岡本太郎は、世間一般でいう母とは違って、かの子はいつまでも童女の心を持ち、自分の方が保護者であるような関係であったと言っています。しかし、そんな純粋なクリエイターの母を尊敬すると。 2月18日は岡本かの子の命日です。 引用および参照元:『岡本かの子全集5』ちくま文庫
February 18, 2023
コメント(0)
藤子・F・不二雄先生にとってSFは、S(すこし)F(ふしぎな)物語なのだそうです。 辻村深月の『凍りのくじら』は、藤子先生を敬愛する写真家の父と娘のお話。辻村深月自身も藤子先生のファンだそうで、各章のタイトルが、ドラえもんのひみつ道具の名前になっています。藤子先生像(藤子・F・不二雄ミュージアム庭) 不治の病が判明した父が、母と私((理帆子)の前から姿を消してから5年、母も入院しています。 高校生の私は、進学校の中ではやや顔立ちが派手、放課後の遊び仲間の中では頭がよすぎて、異質な存在にならないように行動していました。 生活感と現実感が希薄な私は、「S(すこし)F(不在)」。 ある日図書館で、3年生の別所あきらに写真のモデルになってほしいと頼まれ、運命の歯車が動き始めます。どこでもドア(藤子・F・不二雄ミュージアム庭) 別所と話をしていると、理帆子の中で何かが溶けていきます。学校の友だち、放課後の遊び仲間、元カレ、そして口を利かない郁也という少年との出会いが理帆子の心を変えていきます。 登場人物は脇役も皆キャラが立っていますが、理帆子のことを大好きで、ストレートに行動する美也子がいとおしく思えました。郁也の家政婦さんは、お茶目で、郁也への愛に溢れる、まるでドラえもん。父からもらったテキオー灯の光を世界に届けたいから、私は写真を撮っている。 「S(すこし)F(非凡)」ですが「S(すごく)F(普遍)」な愛情の物語です。 引用および参照元:辻村深月『凍りのくじら』講談社文庫
February 7, 2023
コメント(0)
有川浩(ひろ)の『クジラの彼』は、恋人の片方あるいは両方が自衛官という、やや辛めのラブコメ短編集。 自衛官であるにしろ、民間の会社員であるにしろ、主人公たちは皆任務に対して忠実であり、真摯に仕事をこなす人たちです。セクハラ、パワハラにもひるまず、仕事をこなす様は好感がもてます。のび太『波』 『クジラの彼』と『有能な彼女』は、同じ筆者の『海の底』の番外編といったところ。 冬原と夏木は共に潜水艦乗り。家族にさえ、はっきりした勤務予定、勤務場所を明かせないのが自衛官のきまり。加えて海に潜れば何ヶ月も連絡できないこともザラです。 『クジラの彼』の冬原の恋人聡子は、「潜水艦乗りの彼女は辛い」とつぶやきます。待つだけ待ってやっともらえた恋人からのメールは、あまりにも短く素っ気ないのです。 職場では、女子に超絶嫌われている上司から気に入られ、何かとつきまとわれ辟易する日々でした。 ついに冬原に「普通の会社員だったらよかったのに」と言ってしまい、「いつでも別れを言い出してくれてかまわない…」と返されてしまいます。 恋愛がテーマの主体ではありますが、お仕事ストーリーとしても読みごたえがあります。恋愛にも仕事にもまっすぐ向き合おうとする人たちを応援したくなります。 参照元:有川浩『クジラの彼』角川文庫
January 18, 2023
コメント(0)
1月5日は1(いち)月5(ご)日で、いちごの日です。 いちごは古くは「以知古」「伊致寐姑(いちびこ)」「一比古(いちひこ)」と書かれました。「覆盆子」という字も出てきます。…いとしいひともいいとししたひともいちど いちごをたべたらいちにちじゅうでもたべられる…言葉遊びとユーモアに満ちた岸田衿子の『いちごのかぞえうた』。 いい年した私もいちごが好きです。 品種改良も進んで、大粒で甘いいちごの数々が店先に並びます。いちごが「赤い」というのも昔の常識で、白いいちごだってあります。 それでも、いちごは「いとしい」と思ってしまう存在です。 引用および参照元:岸田衿子『明るい日の歌』青土社
January 5, 2023
コメント(0)
ジェイムス・カシャト=プリンクリーは、ジョン・セバスタブルに結婚を申し込むことにしました。 ジョンはすばらしい娘でしたが、ジェイムスはお茶のしきたりが大嫌いでした。特別な茶器で飾り立て、もったいぶっていれるお茶、延々とお茶の濃さ、砂糖、ミルク、クリームについて尋ねる会話が億劫でたまりませんでした。 お茶の時間をさけるため、ジェイムスは遠縁のローダの家に寄ります。職業を持つローダは、お茶は適当にいれてと、キャビアやバタつきパンを用意すると、お茶に関する以外の楽しい話題を提供してくれます。 事態は二転三転します。いざ家庭をもってみるとこういうことになるんだな、とある意味納得できるオチでした。 サキはイギリスの作家で、「モーニング・ポスト」の海外特派員を経て執筆に入りました。第1次世界大戦で戦死しています。 サキとO・ヘンリーは、「泊まり客の枕元に、O・ヘンリーあるいはサキ、あるいはその両方をおいていなければ、女主人として完璧とは言えない」と言われたほどの人気がありました。 サキの短編は、ユーモア、ウィットに富んでいますが、内面には怜悧な風刺や何とも言えない悲しみが光ります。裏切りも弱さも含めたところに、人間というものが存在するのだと教えてくれる作品たちです。 参照元:中村能三・訳『サキ短編集』新潮文庫
January 3, 2023
コメント(0)
オフィスに置いた卓上カレンダーも余すところ1枚に。来年から大阪本部に栄転する私は、部長がつぶやいた言葉が気にかかっていました。 「まったく、君は十二月のカレンダーみたいな人だからな。」さっさと終わって去れ、ってこと? 選別に友人が渡してくれたのは、十二月が1枚だけのカレンダー。その意味は… 原田マハの短編集『ギフト』は、一話が行間ゆったりの4ページほどで、ショートショートに近い短編集です。一話の区切りにカラーの挿し絵も入って、すらすら読めます。 各話とも、ある贈り物が出てきます。婚約指輪であったり、手作りのケーキであったり、メールで送る写真であったり、主人公にとってかけがえのない贈り物、生きる力にもなるギフトです。 短い一話を読み終わると、一話分の温かさが残ります。きっともらえるはずです、温かなギフト。 参照元:原田マハ『ギフト』ポプラ文庫から 『十二月のカレンダー』
December 16, 2022
コメント(0)
中島敦は明治42年5月5日、東京に生まれました。父は中学校の漢文教師(旧制中学校なので今の高等学校)祖父は漢学者という家でした。 父の仕事の関係で入学した京城(現ソウル)の京城中学校では開学以来の秀才と称されました。 残念ながら、33歳の若さで亡くなっています。12月4日が命日に当たります。作品数は少ないものの、珠玉の短編を残しています。 『名人伝』は最後の作品です。 趙の邯鄲の都に住む紀昌は、天下一の弓の名人を目指し、飛衛の門に入りました。「瞬きせざる事」「視ることに熟す」を達成した紀昌は奥儀秘伝を授けられますが、さらなる上を目指して、甘蠅老師を尋ねます。 甘蠅に一通りの腕は認められても「不射の射を知らないものと見える」と言われ、紀昌は老師の元で修行を積みます。そして、名人の域に達した紀昌は…。 元の話は『列子』にあります。道を習得した至人というものは、どんなときでも精神気力が変わらないものだ、と師は教えます。「是れ射の射にして、不射の射に非ざるなり」(射を意識しない射、射と被射が同化した射、それを体得した者こそ至人と呼ばれる者なのだ) 元の話に比べて、中島敦の「名人」は一ひねりされています。 参照元:中島敦『ちくま日本文学全集 中島敦』ちくま文庫
December 4, 2022
コメント(0)
十二月の、この冬一番気温が下がった、寒かったあの朝、御園が車にはねられ、死んだ。 御園とわたしは親友でした。ですが、演劇部のオーディションで御園が主役に選ばれてから、わたしは彼女に劣るとされたことが許せませんでした。 わたしは、彼女が自転車で下りる坂の途中にある蛇口をひねって、水を流してしまします。 亡くなった御園はそのことを知っていたのでしょうか…。 どこにでもありそうな嫉妬の話。彼女に劣ること、というより彼女に劣る自分が許せない「わたし」です。オーディションで、「力が入りすぎた演技」と評されたように、「わたし」の生き方そのものが、肩に力が入った生き方でした。 「わたし」が御園に会って話したかったことも自己弁護。そして、涙を流して「ごめん」は言えても、何をしたのか告白はできませんでした。 御園からの最後の伝言を受け取ってからの「わたし」の感情の流れの描写に圧倒されます。少女の心理の動きの描き方のうまさは、さすが辻村氏です。 いつか再び御園に会うときまで、「わたし」は伝言の重さを抱きしめて生きていく以外ないのです。 参照元:辻村深月『ツナグ』新潮文庫 から『親友の心得』
December 2, 2022
コメント(0)
「推し活」なる言葉があります。電車の車内ビジョンの広告に「推しを推せる自分を推せる」なんて言葉が出てきました。こんなアイドルにだったら言えるかなと思える短編に会いました。 辻村深月の『アイドルの心得』は連作短編集『ツナグ』の一編です。生きている間に一回だけ、「使者(ツナグ)」が死者との再会をかなえてくれるというお話。 一人でいるのが好きで「何を考えているのか判らない」と言われる平瀬愛美が切実に会いたいと思ったのは、急死したアイドルの水城サヲリでした。 単なる一ファンでしたない愛美がなぜ?サヲリは会ってくれるのか? 生前サヲリが愛美を諭した言葉「世の中は不公平。でも、みんなに平等に不公平。」などの語録がストンと心に落ちてきます。 最終章で愛美のその後がちらっと出てきますが、その様子は「推しを推せる自分を推せる」でした。 参照元:辻村深月『ツナグ』新潮文庫 から『アイドルの心得』
November 30, 2022
コメント(0)
『陽だまりの詩(シ)』は、短編集『ZOO』の一編です。 ほとんどの人間が病原菌のため死に絶えた後、一人残った「彼」は死後埋葬してもらうため、ロボットの「私」を作ります。 死の意味を知らなかった「私」は、ウサギの死を経験し、次第に生きることと死ぬことを理解していきます。のび太・画 「私」が死の意味を理解していく過程が感動的です。人間の理解行程といっしょです。 ただ機能停止だとしか捉えられなかった「死」が、愛すれば愛するほど、痛みを伴うことを、「私」は身を以て知っていくのです。 「死」 は「詩」。静かな最期は、悲しいけれど美しい。心などなかった方がよかったと嘆く時を越え、静かに看取る「私」の心象風景は陽だまりの丘でした。 参照元:乙一『ZOO 1』集英社文庫
November 9, 2022
コメント(0)
交通事故の後遺症で、痛みの感覚がなくなってしまった「ワシ」は、気がつかないうちに大怪我をしていました。山奥の山荘から救急車を呼んでも、到着するまで30分はかかります。 95歳の主治医が用意してきた輸血用の血液パックが見つからず、「ワシ」は命の危険にさらされることに…。 高齢のよたよたした主治医に、平然と夫の死を願う妻、無能な長男、弱虫の二男が、ドタバタのコントを繰り広げます。 終わりはハッピーエンド…??なのかな。 参照元:乙一『ZOO 2』集英社文庫
November 5, 2022
コメント(0)
小池真理子の『やさしい夜の殺意』は、思いも寄らない結末にぞくっとしたり、皮肉なラストに因果応報とつぶやいたり、話の展開に心揺さぶられたりのサスペンス短編集です。 それぞれの顛末 トランジットのため、モスクワ空港で待機中の貴夫と彩子、元一と公江の四人は、幼い子どもがボディーチェックの隙間をついて、怪しげなアジア人の男性から受け取ったぬいぐるみを、機内に持ち込むのを目撃します。 母親の指示で、密輸?爆弾かハイジャック用の拳銃でも持ち込んだのでは?2組の男女はそれぞれに疑い、機内で戦々恐々とします。 共通の思いは「まだ死にたくない」 自己中の四人は、言うことと思うことの落差がすごいのです。〝愛しているふり↔打算しかない〟の応酬が続きます。 元一は意を決して、母と子どもが怪しいと客室乗務員に伝えようとしますが、英語ができず身振り手振りで苦心惨憺。結局、トイレに入った母親の具合が悪そうと心配しているととられる始末。 はたして四人は無事に地上に戻れるのでしょうか…。 参照元:小池真理子『やさしい夜の殺意』双葉文庫
November 3, 2022
コメント(0)
乙一の短編集『ZOO』には、拉致監禁、殺人、虐待の場面が出てきて、残虐、グロテスクな表現も多く見られます。その割に読後感が悪くないのは、人間の善意を信じさせてくれる人物が登場するから。どんな状況でも助けが訪れることを伝えてくれるから。 『SEVEN ROOMS』も生々しい犯罪の話です。 遊歩道を喧嘩しながら歩いていた姉とぼくは、突然頭にひどい痛みが走ったと思うと、気がつくと灰色のコンクリートの部屋に閉じ込められていました。 体の小さなぼくは、両隣の部屋とつながる排水溝を抜けて、隣の部屋に行くことができました。ぼくから話を聞いて、姉は恐ろしい犯罪に気づきます。 弟のやさしさと姉の勇気、力を合わせる初対面の人たち、その心のつながりが、悪意を越えて心に響きます。 映像化されていますが、映像向きのサスペンフルでスピーディーな話の運びです。 参照元:乙一『ZOO 1』集英社文庫
October 19, 2022
コメント(0)
青空文庫にも入っていて、すきま時間で読める岡本かの子の1編。 ある都会のアミューズメント・センター(娯楽街)の映画館に、髪を振り乱した夫人が駆け込んできました。子どもが急病なので、夫を呼び出してほしいというのですが…。(『気の毒な奥様』) ヨーロッパ(かの子はフランスに行っていましたから、フランスの?)のおとし話の翻案のような味わいと、都会的なセンスが感じられます。 参照元:『岡本かの子全集2』ちくま文庫
September 25, 2022
コメント(0)
都会に進学しそのまま就職した俺は、ずっと離れていた実家に、妻と赤ん坊を連れて帰省しました。両親と祖母が住む実家との距離を縮めてくれたのが、初孫に当たる伸太の存在でした。 僕と妻のつきあいは、ドラえもんに出てくる「タマシイム・マシン」の話がきっかけ。 伸太に話しかける祖母の声、伸太の健康を気遣う父の行動は、かつて見聞きしたものでした。俺が小さい頃の記憶…。 (ドラえもんのひみつ道具「タマシイム・マシン」は、ノズルを頭に付けて「いつの日時」に「何時間」滞在するかをセットすると、魂だけが抜け出して過去の体に乗り移ることができる。いわゆるタイムリープができる道具です。 その間元の時代に残った自分自身の体は魂が抜けた仮死状態になります。) 「タマシイム・マシン」は確かにあるんだと「俺」は思います。家族みんなに愛され祝福された記憶は俺の中にも、妻の中にも、伸太の中にも残っていくのだと。 全ての子どもたちに「タマシイム・マシン」の記憶がありますようにと願います。 9月23日は、子どもたちに生きる喜びと夢を与え続けてくれた藤子・F・不二雄氏の命日です。 参照元:辻村深月『家族シアター』講談社
September 23, 2022
コメント(0)
ある土曜日の夕方、一郎のもとにおかしな葉書が届きました。 葉書をもらった一郎は喜んで山へ出かけます。〝すきとおった風がざあっと〟吹くとそこは別世界でした。 われこそは一番偉いと主張する赤いズボンをはいたどんぐりたち。「ドングリの背比べ」を地で行くようなどんぐりたちの主張です。頭がとがっている方が偉い、いや背が高い方が偉い、いや大きいのが偉い…。 一郎は山猫にアドバイスし、どんぐりは黙ってしまします。裁判が片ついたお礼に、一郎は黄金のどんぐりをもらって、馬車で送られて山を下ります。 そのうちに黄金のどんぐりは、当たり前の茶色のどんぐりにもどってしまします。おとななら騙されたと怒るかもしれません。一郎に落胆はありません。ただ、面白かったという思い出が残ります。 『どんぐりと山猫』では、風が場面展開に効果的に使われています。 『注文の多い料理店』でも、道に迷った二人の紳士は〝風がどうと吹いてきて、草はざわざわ、木の葉はかさかさ、木はごとんごとんと〟鳴る中でレストランをみつけ、レストランから逃れて夢から覚めると再び〝風がどうと吹いてきて…〟の中にいました。 風が吹く場所は、現実と夢の世界の境界線です。 参照元:宮沢賢治『注文の多い料理店』新潮文庫 から『どんぐりと山猫』
September 19, 2022
コメント(0)
妻の寿子を亡くしてタクシードライバーになった善田は、語学力があるため外国人観光客から人気がありました。今回も烏丸通りの交差点で声をかけたアンジーに、三日間貸し切りで京都案内をすることになりました。 離婚して息子とも連絡をとっていないというアンジーと、妻の死後、娘と疎遠になっている善田。 京都を発つ最後の日に、アンジーは今まで行きたくないと言っていた三十三間堂へ連れて行ってほしいと頼みます。三十三間堂 美術に造詣の深い筆者、今回は伊藤若冲の『雪中雄鶏図』が登場します。 ボストン美術館の会員になっているアンジーは、同美術館で見た日本の美術家の作品が見たいと希望しました。善田が探したのが、東山の細見美術館。コレクションの中の『雪中雄鶏図』が見られることがわかりました。 ボストン美術館には『日出鳳凰図』が収蔵されています。 若冲は模写から実物写生に転じたとされ、細部まで観察された写実的な絵で知られます。特に鶏の絵が得意でした。 善田とアンジーの間に流れる温かい空気が心地よい物語です。善田の人柄にひかれて、アンジーは京都を訪れた理由を善田に打ち明けます。「次はあなたの息子さんと、…娘さんを」連れてきてくださいという願いがかなうことを祈ります。最後の、娘から善田へのメモもほっとします。 参照元:『恋愛仮免中』文春文庫 から 原田マハ『ドライビング・ミス・アンジー』
September 18, 2022
コメント(0)
私はるか6年生の一つ下の妹、うみかは、いわゆる不思議ちゃん。私が巻き貝を耳に当てて「海の音がする」と言うと、「それは自分の耳の音だよ」と科学的な解説を始めるような…。 うみかの夢は宇宙飛行士になることでした。逆上がりの練習を見てあげるという約束を、私が破ったため、ひとりで練習していたうみかは鉄棒から落ちてしまいます。 1992年、9月12日から20日にスペースシャトル・エンデバーに、毛利衛氏が搭乗科学技術者として乗り組みました。ソユーズ号で初めて宇宙体験をしたのは秋山氏ですが、スペースシャトルへの搭乗は毛利氏が日本人初になります。 国際宇宙年だった1992年に9月12日が「宇宙の日」と定められました。 宇宙飛行士になるには、試験を受けるのですが、高いスキルが要求されます。実質的にパイロット、研究者、医師、エンジニアなどの実務経験が必要です。女性でも可能ですが、身長制限(低くてはいけない)があります。 参照元:辻村深月『家族シアター』講談社文庫 から『一九九二年の秋空』
September 12, 2022
コメント(0)
9月11日はOヘンリーの誕生日です。 彼は、ユーモラスだったり、皮肉に満ちていたり、ハートフルだったりと万華鏡のような短編作品を多く残しています。 金庫破りを生業としているジミイ・ヴァレンタインは、アナベルに出会い恋に落ちました。彼は靴職人のラルフ・スペンサーとして、まっとうに働くことを決意します。 ですが、金庫破りの道具を昔の仲間に渡そうとした途上で、アナベルの姪が誤って銀行の新しい金庫に閉じ込められてしまった場面に遭遇します。 ラルフは覚悟を決め、道具の入ったスーツケースを開きます。 『罪と覚悟』原題『よみがえった改心』から。 更生するところだったラルフの前に、彼しか破ることができない金庫が…、人生は皮肉です。 ラルフはジミイとしての腕を見せる道を選びました。近くにはジミイを追ってきた刑事もいます。 さて、結果は読んでみてのお楽しみ。Oヘンリーの、テンポよく進むストーリーは読者を飽きさせません。 Oヘンリー自身も横領の疑いで実刑判決を受けています。服役前から始めていた短編小説を刑務所の中で執筆し、3作品を発表しています。 刑務所での待遇は格段によく、出所してからも周囲の人に恵まれた人生だったようです。 『罪と覚悟』のジミイ改めラルフも、改心した後の誠意が、皮肉な人生を変えていきます。 参照元:Oヘンリー 大久保ゆう・訳『罪と覚悟』青空文庫
September 11, 2022
コメント(0)
20人の作家による「20」をテーマにした短編集の中の1編に、東横線20駅分の不思議な話をみつけました。 渋谷のデパートで蒸籠を買った私は、最寄り駅の自由が丘まで帰るところでした。電車に乗り合わせたのは、50代くらいの小太りの女性、20代らしきサラリーマン風の男性、ミニスカートの女の子。 皆顔見知りらしく、女性は、私の亡くなった父を知っているようでした。 終点の横浜までの20駅の間に、「私」は不思議だけれど、居心地が悪くない体験をするのでした。 出てくる駅名がどれも身近なので、興味深く読みました。 横浜駅 2004年まで、東横線の終点は桜木町でした。高島町・桜木町の両駅が廃止されてすぐ、みなとみらい線とつながったので、現在の終点は元町・中華街駅です。渋谷始発横浜終点の電車は現在ありません。渋谷始発の電車で元町・中華街駅まで行かない電車は、菊名止まりか武蔵小杉止まりです。 2004年以前、桜木町まで行かず横浜止まりの電車があった記憶があるので、その頃の話でしょうか。 そうすると、こんな体験はもうできないかも…しれません。東横線・横浜駅 参照元:小説トリッパー編集部・編『20の短編小説』朝日文庫 から 江國香織『蒸籠を買った日』
September 9, 2022
コメント(0)
『風の又三郎』は、宮沢賢治の代表作の一つです。 夏休み明けの9月1日、一郎たちが登校すると見慣れない男の子がいました。青ぞらで風がどうと鳴り教室のガラス戸はみんながたがた鳴り、学校のうしろの山の萱や栗の木はみんな変に青じろくなってゆれ 男の子は消えたかと思うと、先生の後から教室に入ってきました。転校生の高田三郎さんだと紹介されます。風がまた吹いてきて窓ガラスはまたがたがた鳴り、ぞうきんを入れたバケツにも小さな黒い波をたてました。 嘉助、耕助、一郎たちは三郎とけんかしつつ仲良くなっていきました。が、ある日から三郎は学校に来なくなり、先生からお父さんの仕事の都合で転校したことをしらされます。風はまだやまず、窓ガラスは雨粒のために曇りながら、またがたがた鳴りました。 一郎たちは、三郎がやっぱり風の又三郎だったんだと思います。 場面ごとに、生命を持つかのような風が登場するのが印象的です。 交通手段も乏しく、インターネットどころか電話も個々の家に引かれていないような昔の話。もう一生会うこともないかもしれない三郎と一郎たち。出会いは、風がどうと吹く間の幻だったのかもしれません。 参照元:宮沢賢治『童話集 風の又三郎』岩波文庫
September 1, 2022
コメント(0)
角田光代の短編に『イギー・ポップを聴いていますか』という1編があります。 イギー・ポップはアメリカ出身のロックミュージシャン・作曲家・俳優で、過激なステージパフォーマンスで知られるロックバンド「ザ・ストゥージズ」のメンバー。 物を拾う癖があるぼくは、ある日家の近くに届け物のように置いてあった紙袋を持ち帰ります。中には6本のビデオテープ。ぼくは興味がわいて見てみます。 最後の1本は結婚式のビデオでした。 披露宴に参加している気分で見るぼく。ビデオが終わったとき、ぼくはこのビデオが捨てられた理由について思い当たるのでした。最後のぼくの行動は、梶井基次郎の『檸檬』を思わせます。 参照元:角田光代『福袋』河出文庫 から『イギー・ポップを聴いていますか』
August 30, 2022
コメント(0)
並の顔、スタイルなのになぜか猛烈に女にもててしまう三波。うらやましいなんて言っていられません。同僚男性たちの嫉妬を買って仕事はうまくいかないわ、女に勝手に家に居座られるわで散々な目に遭ってきました。困り果てた三波はポケットティッシュを見て「ばくりや」を訪ねます。「ばくりや」は、特殊な能力を別な能力に取り替えてくれるという店でした。ただし、どんな能力になるかは選べません。 三波は女にもてる特殊能力から解放されますが…。 「ばくる」は北海道の方言で「交換する」の意味です。相手と何らかの物を交換するときに使うそうです。馬や牛の売買をする「博労(ばくろう)」から出た言葉です。 短編集『ばくりや』の中には皮肉な結末もありますが、成功例?は爽快です。『狙いどおりには』は痛快で、『さよなら、ギューション』『ついてなくもない』は心に残ります。いい気分になっていると最後はとどめのパンチを食らいますが。 参照元:乾ルカ『ばくりや』文藝春秋
August 20, 2022
コメント(0)
乾ルカの『てふてふ荘へようこそ』は、一部屋に一人の呪縛霊が住むという、不思議なアパートのお話です。 玄関・風呂・トイレ共同ながら2Kで家賃格安の「てふてふ荘」にやってくる住人はそれなりに訳ありで、住み着いた霊にもそれぞれ成仏できないわけがあるわけですが…。 お酒だけは実際に飲めるおっちゃんの幽霊と、恋をしているみっちゃんの二号室はコントのよう。 どの話もユーモラスですが、生きている人も霊もなく、心が通い合うってこんなものかと思わせてくれます。 端から見ると不器用な生き方かもしれませんが、自分の生き方を大切にする人たちがしっかりと描かれています。どの人も生きることに誠実なのです。 ばらばらだった住人と霊ですが、ピンチが迫り結託することに。最後は晴れ晴れとナイスショット!です。 参照元:乾ルカ『てふてふ荘へようこそ』角川書店
August 18, 2022
コメント(0)
全106件 (106件中 1-50件目)