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まだ日本んかい、地主制度があいびーたんときぬ話しやいびん。あるとぅくるに貧乏な小作人がいちゃん。名みぃーを田五作んでぃいーん、でーじ貧乏な百姓で、種籾を買うくとぅもないびらんで、毎年、地主から種籾を借りてコメ作りをしてうぃびたん。ところでこの地主は、でーじがめつい男で、くぬぅ百姓に貸し付ける利息は五割も取ってうぃびたん。また小作料も穫れ高の五割も取ってうぃびたん ある年ぬくとぅ、くぬぅ悪どい地主はもっと儲けてやろうと企んで、使い物んならねーらん腐った種籾を、田五作んかい貸しましちゃん。こちらぬ方や、そんなくとぅや知らねーらんぬで、正直んかい腐った種を蒔いて芽ぬ出るぬを待ってなましちゃん。でも種は死んでいるぬで、いくら待っても芽は出るやずがありやびらん。何故やんやー? と田五作が悩んでいると、不思議なくとぅんかい、田んぼぬ真ん中んかい、一本のカボチャの芽が出てきたさー。くぬぅ芽や土ぬ栄養を独り占めして、どんどん成長して、いちぬ間んかいか、田んぼいっぱいんかい育ちましちゃん。くぬぅ大きく育ったカボチャは大評判となって豊作祈願のお守りだんでぃいーんくとぅで、遠く離れたところからも見物人がやってきて、百姓の田んぼは、大いほーな、観光名所んかいなってしまなましちゃん。なかんかいや、お賽銭を置―ていく人も多かったぬやいびん。ところが、欲ぬねーらんこの百姓は、「これや、わんぬ金でやねーらん」と言って、たったぬ1円たりと、自分のものにしないで、お寺に、むる寄付してしまなましちゃん。 さて収穫ぬときんかい至り、地主は空の荷車を馬んかい引かせてやってきたさー。「田五作、種籾代と小作代を取り立てんかいきたぞ」と言なましちゃん。田五作は、「あんたぬ貸してくれた種籾は腐っていたから種籾代も小作代も払う必要やねーらん」と反論しましちゃん。田五作と地主の言い分は、平行線でまさんかい、水と油、決着がつきやびらん。とうとう遠山ぬ金さんかい裁いてもらうかいしましちゃん。 遠山ぬ金さんちゃー田五作に、「やーは、地主が貸した種籾は最初から腐っていた、と言うが、ぬーがら証拠があるぬか?」と尋ねましちゃん。「なまとなってやありやびらん、半年みぃ~ぬくとぅですいら」と田五作は答えざるを得やびらんやたん。「でも種籾やじゅんに腐っていたんヤイビン」と田五作は言い張りましちゃん。金さんちゃー、次に地主に尋ねました。「やーは腐った種籾を貸し付けたぬか?」 「そんなくとぅをするやずがありやびらん」と地主はむっとして答えましちゃん。 遠山ぬ金さんちゃー、判決を下しましちゃん。「証拠がねーらんぬやくとぅ、種籾や腐っていなかった、んでぃいーん主張を認めざるを得ねーらんな。田五作、やーぬ負けだ。約束どおりぬ種籾代と小作代を払う義務がある。これが奉行ぬ判決やいびぃ~ん。これんかいて一件落着」 田五作と地主は地主や、ややぁーと平伏しちゃん。金さんちゃー田五作んかい加えて言った。「田五作、やーは、地主ぬ引いてきた荷車んかい栗ぬ実を一粒付けろ。しちゃんがって、穫れた南瓜を売って、うぬ一割を地主んかい支払え」と遠山ぬ金さんちゃー言った。なるほど、種籾代五割と小作代五割とを足した十割から栗(九里)を引けば、残りや一割んかいなる。理屈やうぬ通りやぐとぅ「おそれいりましちゃん」と地主が言うと、遠山ぬ金さんちゃー、「待て待て、これから、やーは荷馬車で運ぶじらーやんやー。だから、さらんかい二を引かねばならねーらん」 んでぃいーんわけで、田五作や、ちっとも財産を減らさなかったふらーりか、地主ぬ持ち物やいびぃ~ん荷車と馬をもてぃーんかい入れるくとぅとなったぬやびたん。おしまーいーかっぽ、まーすぬ団子、沢山食べねーらんと腹がせく。 いまでや、法治主義やら判例主義が幅を利かせて、くぬぅような名裁きや、望みようがありやびらん。ぬぅとも窮屈な世ぬ中となってしまーいーやびたん。もっともふつうぬ人が裁判員んかいなれば、大岡裁きや遠山捌きが復活するかもしれやびらん。やしが、死刑判決んかい関与するぬや、ややり、嫌やいびんね。最近、凶悪事件が増えているから、考え物やいびんね。
2008.07.27
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あうとこいに、キンカン頭のタクシーの運転手がおいもした。そん人は、ねんじゅ、そんこっ気にすーうち、しじゅう帽子ば被りおいもしたが、そん日は、うっかい忘れうしまいもした。ステンション場で一人の身ないのよか紳士ば乗せもした。そん人は、「運転手さぁ、おいが今から歌ばつくうから、一人言だと思ゆっ、気にせんでくいやんせ」ちゅう言おいもした。運転手は「かしこまいました」ちゅう返事をしもした。 すうと紳士は「日の本に 名勝佳境かずあれど 神無月にな 淋しかうらん」てつくうた。運転手は、すっかい自分のこっ言われう思いもして、「お客さぁ、これでん、後ろの方に、ちっとは髪の毛あいもす」と言って、「禿げ山の 前に取い得はなけれども うしろに神の 鎮座ましもん」とやい返しもした。 そんうえで、バックミラーでお客を何気なく見てみうと、鼻が欠けとうではあいもはんか。いや、ゆうと見うと、目と口の間に上を向いた鼻の穴が二つ開いとうごと見えもす。運転手は、「お客さぁ、今度はおいが歌ばつくいもす。一人言だと思ゆっ、気にせんでくいやんせ」ちゅう言おいもした。「ああ、よかどよ。好きにしなんせ」と客ば言おいもした。 そいから、運転手は、「日の本に 名勝佳境かずあれど 花に会えんのも 淋しかうらん」てつくうた。すうと紳士は、「おはんには、負けた負けた」と言おいもした。そして二人は大いに笑おいもした。そして、すっかい親しか友人同士になったそうござんで。昔こっぷりどじょうの日。 何とも不愉快なニュースが耳目を騒がせう昨今ではあいもすが、こげんごと、人々がユーモアの気持ちを忘れんごっで、日々を過ごしたら、社会が楽しゅなうんそ。これがおいの率直な気持ちござんで。おいの表現は、いろいろ間違いがあうとは考えもんどん・・・間違っていたら勘弁してくいやんせ。
2008.07.24
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昔、あったてんがの、あるどこに貧乏な爺さと婆さがいたてんがの。ほうして爺さ、まいんち、山へ行って柴を刈っているてんがの。あるどき、一日の仕事やっちゃけて、爺さ、家へ帰ねろうと来たれば、林の中で、ヨイショ、ヨイショて声がするてんがの。「はて、こら、まあ、何だろう?」って、声のする方へいじゃって見たれば、チーチ(ネズミ)二匹して相撲を取ってるてんがの。ほうして木の陰からそーそって見ていたての。ドンコロしたチーチと痩せひっついたチーチで、痩せた方が負けてばっかいるてんがの。「まあ、あったらチーチ、負けてばかりいるが、気の毒らぬか」とよく見たれば、痩せたチーチは爺さの家のもんで、太った方は庄屋どんのチーチだったてんかの。ほうして爺さ家へ来て、婆さに見た話を聞かせたてんがの。 「婆さ、婆さ、うちのチーチ、負けてばっかいるすけ、力の出るように猪子の肉でも食わせるかな」と爺さがゆうと、婆さも「それがいい、そうしょう」って賛成したてんがの。そんで爺さ、婆さから銭こもらって、町へ出て猪子の肉を買ってきた。そんでチーチの住んでるとこへ入れてやったてんがの。 次の日、爺さ、山へいじゃると、また例の二匹のチーチが相撲を取っていたてんがの。ほうして、こんだは、ドンコロしたチーチが負けてばっかいるてんがの。爺さは、「おここ、こんだは、おらちのチーチが勝ったや」と、喜んで見ていらいたてんがの。ほうしたれば、何度相撲を取っても、ドンコロした方が負けるんだが、さすがに、けげんねく思ってドンコロチーチがさがねた(尋ねた)。「おめえ、今日はどうして、こんげに力がついたや?」「おら、きんなうちで猪子の肉出いてくれて食わせらったがだ。そっれ、こげん力がついた」 「ほうせば、おんにもその肉分けてくれんか」 「おめえにも分けてくれたいども、おらちは貧乏らだんが、毎日、肉を食らわんねぇ。金こあればいつでも遣わるんだがの・・・」。 これを聞いた爺さは、たまげで家さ帰っでぎで、「婆さ、婆さ、うちのチーチはこう言うていたや。貧乏で、まいんちは力の出るもんは食らわえねぇ、と。そら、かわいげらに。おらのコメ、半分を餅米にしてこんだ、餅を搗いてくれんけ」 婆さはすぐさま、「それがいい、そうしょう」とゆったてんがの。ほうして爺さと婆さ、てめえの食うコメを半分、餅米に換やえて、餅を搗いて、こんだは二人分をチーチの住むとこへ入れておいたてんがの。 ほうして、次の日、爺さ、山へいじゃったら、又あの二匹のチーチが相撲を取っていたてんがの。爺さ見てるども、こんだ、いっこと勝負がつかねえてんがの。爺さと婆さがてめえの食うもんを減ずって搗いた餅を食べた二匹のチーチに力が付いたてんがの。 ここで話が変わるてんがの。この国の殿様は名君で、えー働きをした者に望みの褒美を取らせるというお触れを出したてんがの。庄屋どんから、優しい爺さと婆さの話を聞いて、お殿様、あーい感動されでな、家来のお傍用人に「えー話だ。いっかりすっかり感動した。早速、そのととかかを来やせよ。手厚い褒美をやんぞ」とわやいたてんがの。 ところが、この側用人がとんでもねえ、えげたい役人でな。お殿様に信用されていることをいいことに、何するんも、したもの(賄賂)なしには動かんヤツで、アチャーな取次ぎ役人だったてんがの。これまでも国の学校の先生を選ぶ試験で悪さの限り尽くしてきたてんがの。この男のモットーは「阿呆は俺の財布だ」ていうもんで、早速、このえげたい役人は、爺さ、婆さが、お殿様に面会する前に、二人を呼んで「ご褒美の半分を俺に寄越さねえと、何も貰えねえよにしてすまうぞ」と脅かしたてんがの。爺さと婆さは企みがあるさで「はい、はい」ってええように答えでおいたてんがの。 爺さと婆さに会っだお殿様は、いっかり喜びかやして「お前だちは、心がけがえー。何を褒美に欲しいか。何でも欲しいものを言え」とえっだ。爺さと婆さは、「なんも要らんですが、拳固を十くれでください」とえっだ。お殿様はあまりに突拍子もねえ答えだはんで、呆れで聞き返したが、「望みでごぜます」とえっで聞がない。お殿様は仕方なく夫婦の頭をそろっと五つだけはだいだんだ。爺さと婆さがお殿様との対面部屋を出ると、早速、側用人が寄りついてきだので、「お役人様に褒美の半分を差し上げますけ、頭かだかれ」、「半分、分けたど」て、思いきり側用人の頭を拳骨で五つくらねして、二人は家へ帰ったてんがの。爺さも婆さも気持ちがスッとしたがや。 その様子をじかっと見でいだお殿様は、追いかげるように沢山のご褒美を馬の引く馬車に乗せで、爺さと婆さの家に届けてやったてんがの。またお殿様は、家来の側用人を引き出して「お前のような悪たれは、もうよーなしじゃ」とえって、その男の仕事をいっさい没収して、身包み剥いでお城の外へおっ放り出したてんがや。トンピンパラリ、ソリバッカシ。
2008.07.19
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あるところに爺ちゃと婆ちゃがいたんだと。二人は、童しのない夫婦だったどや。若っげ頃、娘がいたども、七つのときに事故で亡くしてしまったんだと。珠子て名前つけて、そんこそ目んなか入れでも痛ぐないほど可愛がっでたから、爺ちゃと婆ちゃの嘆きさ、そりゃ大変なもんでなあ。とくに婆ちゃは、暫く寝込んでしまったほどだった。それがらは、童しに恵まれず、夫婦二人だけの寂し生活をしていたんだ。 ある日のこと、婆ちゃは、生まれて間もない真っ白な猫んごが家の前さ、捨でられてるのを見で、「誰が捨てたんだ。むごいべ! ぶるぶる震げているでねか」て抱き上げて、家に連れて帰ったどや。それからはタマという名前つけて、昔のわが子ど同じよに大切に育でていたんだど。二人とも、もう齢とって働けず、年金だけが頼りだったども、自分たちの食べるもんを減ずっても、可愛いタマには、好ぎな魚など、きしまずやっで大切に育でていたんだど。タマはまんず利口な猫んごで、爺ちゃと婆ちゃのさべる言葉がぺろりとわがるような様子だったどや。これでさべることができれば文句ねえな、爺ちゃと婆ちゃはまんず幸せな暮らしを取り戻したんだ。 いっどきは、そうやっで幸せに暮らしていたども、爺ちゃも婆ちゃも、だんでに体が弱っでお医者さまにかかることが増えてきたんだ。殿サンの道楽が過ぎ国も貧乏になって、年寄りの命の綱だった年金も減られる一方だ。とうど、その日の飯んまにも事欠くようになっでしまったどや。これまで自分だちの分は減ずっても、可愛いタマにだけは、やらえる限りひもじい思いをさせねよにしできた二人だったども、さすがに、はー無理だべとばかり、ある日、爺ちゃはタマを前にさべったど。「タマや、タマや、すっかと聞いてけれ。爺ちゃも婆ちゃも、がらっと貧乏になったで、この先お前を養っていぐことがもうやらえねぐなった。このままではお前も死ぬばかりだ。いいが、この家を出てお金持ちの飼い主を探せ。甲斐性のねえ爺婆を許しでけれ。優しい親切な飼い主を探すんだぞ」 こうさべるとタマは、ニャンニャンと鳴いて一瞬、悲しそうな顔をしたども、お爺さんのさべったことがわかっだように家を出ていったどや。 それから三日経ったある日、何か外で物音がするのに気づいた婆ちゃが、戸を開けでみるとタマがいるでねか。タマは袋ば引ぱっていたどや。「タマや、何を持ってござった?」 婆ちゃが袋を広げると中に三升ほどのおコメが入っでいるでねか。「タマ、このおコメばどこで見づけた?」と尋ねても、ニャオンと鳴くだけだったどや。そんで、そのおコメがあるうちは、それまでのように爺ちゃと婆ちゃの前でコロコロと遊んでいるのだったどや。そんでコメなぐなる頃になると、また出ていって、袋ぎっしりのコメ、引ぱってくるのだど。 あまりにおかしないことなので、あるとき爺ちゃと婆ちゃは、出て行ったタマの後を追いていったんだと。するとタマは歩いでいって、周りでだれも見てねことを確かめるとクリッと回って何と坊さまの姿になったど。白いべべ着て、頭の上には黒い傘を被っていたど。そして駅前に立つとゴノゴノとお経のようなものを唱えると、通りがかる人たちは、10円玉や100円玉を坊さまが手にもっている椀こに入れてくれるんだ。「こうやってタマはおらどを助げてくれでたのか!」 事情が解って、爺ちゃと婆ちゃは、泣き泣き家へ戻っていったどや。「タマはきっど死んだ珠子の生まれ変わりで、おらどのことが気になって猫の姿を借りて現れたんだべ」。家へ帰っでも二人でワンワンて泣いたどや。爺ちゃと婆ちゃは、このこどはタマには、さべらねえことに決めで、それからはタマに、がらっと養われて二人は暮らしたということだ。
2008.07.12
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以下は、1割が事実に基づいたとしても、残りは完璧な想像です。つまりは嘘です。お取り扱いはご注意を! 歴史語りは、立派な専門家が既に大勢いらっしゃいます。素人の出番ではありません。それにあまりワクワクするものはありません。私はフィクション(ウソ)を語ります。 私たちがいつも食べているジャポニカというコメの起源がインドネシアなど東南アジアであることが、遺伝子解析で解ったという。それがはるばる中国の長江経由で何千年も前に日本に伝来した、縄文のころだろう。しかし本格的にコメを日本人が食べ始めるようになったのは意外と新しいのである、江戸時代らしい。庶民まで行き渡るのは明治になって以降のようだ。もっとも水田を使ったイネの栽培法を日本人が覚えたのは、紀元前5~6世紀だという。時というのは日々、少しずつしか進まないようだけれど、長い目で見るとダイナミックに動いているものだ。だから歴史はおもしろい。 それまでは、私たちの祖先は、アワやヒエ、木の実など多くの種類のものを食べ命を繋いでいた。つまりは雑食生活を続けていたのである。なぜコメは普及するのにこんなに時間を必要としたのだろうか? 畑への直播きでは主食とするほどの収量が上がらなかったのだろうか? 土器の問題もあるかもしれない。原始的な焼成方法では、火温が低すぎるため、焼きあがった土器は密度が荒く、煮焚きの調理用には適さなかったのかもしれない。それとも今のコメほど味がよくなかったのだろうか? 私はもうひとつの仮説として、この時代以前からの低温化傾向があったのだと思う。なぜか縄文時代と弥生時代の境目辺りに寒冷化が進んだのである。その結果、食料が減ってしまった。仕方なくではないだろうが、コメへの依存が高まったのではないか。 いずれにせよ、水稲耕作が始まってからは、あっという間に拡大した。社会の変化も早かった。コメづくりは共同作業を必要とするため、身内の数家族が共同して住むようになり、いくつもの家族グループがそこに集まってムラを作るようになった。当時は数十人~数百人規模であったろう。まずは農業用水を確保しやすい川などでムラができていったのだろう。しかしそれだけでは、適地は自ずと限られる。だから奥まった地にも水田が開墾されていっただろう。ムラのなかの有力者が地面を掘り、大きな溜池を作って灌漑に使ったのに違いない。ムラの首長の誕生である。首長は、何重もの濠を作り、ムラに壁を作って、村人はそこに住むようになる。首長とすれば、一番怖かったのは、労働力としての農民を他のムラから奪われることであったに違いない。クニが形成され始めたのだ。首長はクニの王となり、税金(イネ)を取り立て、その見返りに人々の安全を保証した。 クニの内部はどうなっていただろう? 王の住む居住区と一般の農民が住む居住区は分かれていたはずだ。その他に、収穫したコメや兵器、祭具などの宝物を保管する倉庫もあっただろう。これらの物品は他のクニとの物々交換で手に入れた。食料や塩なども物々交換の対象になっただろう。魚などは干物にして、肉も干し肉にしてコメなどと交換された。流通を専門に担う商人もいたはずだ。そのためにクニの内部にはそのための市場もあったはずだ。クニの内部には共同工場もあったろう。弓や矢づくり、銅鐸などの祭器、酒なども作っていたことだろう。蚕を飼って絹糸にしたり、木の皮などをなめして繊維を作ることもしていた。クニの人々が着る衣服が作られていたことだろう。 ここで商人についてもう少し語る必要がある。クニは自給自足の社会であることはその通りだが、すべてを自給できるわけではない。そのために商業とという専門職業ができたわけであるが、商人の機能はそれだけではない。商人は、戦乱や迫害などで日本に亡命する中国や朝鮮の技術者や知識人など渡来人の受け入れ窓口ともなっていて、かれらをクニに送り込む役割をも果たしていたのである。なにしろ各クニとも先進技術を喉から手が出るほど欲しいのだ。とくに鉄だ。鉄を材料に使うことで農具の性能は大いに高まり生産力を増強できる。鉄で刀にしたり、矢の鏃に使うことで軍備を強化できる。 マツリはクニの中心の広場で行われた。マツリは農業のスケジュールに沿って春夏秋冬の佳き日を選んで行われた。農業は自然に左右されるから、自然の万物はカミとして恐れ、また敬まられる。素朴な原始宗教の発生である。とくに日本では四季の移ろいが鮮やかであり他の国より自然への思いは強まったことであろう。また、農業はどうしてもその時期に作業を終わらせなければならない適期というものがあるから、気象天文の知識を必要とする。いつ田植えをするか、いつ刈り取るかを決めなければならない。これらの役割を果たすのがミコだ。か彼女らは幼い頃から選抜されて専門の教育を受けたはずだ。おそらく自然との交感力の優れた少女が選ばれたのだろう。また彼女たちはクニの神話を共同体の人々に語り伝える役割をももっていた。他人同士が一緒に暮らすクニのなかでは、人々を心的に統合する物語が必要があるからだ。 だいたい、一つの家族は父親と母親の他、四~五人の子どもがいるのが普通だったと思われる。生まれてまだ小さいうちの死亡率が高いため、十五歳ほどの成人まで成長できるのは五割ほどに止まっていただろう。もっとも危険度の高いこの時期を除けば、人々はふつう60歳ぐらいまで生きたのだと思う。では、余暇はどう過ごしていただろうか? 人々の楽しみは詩をうたったり、物語を語ったりすることだったろう。抑揚をつけて、その日感じたことや、起きたことを歌い上げるのである。ときにはメロディをつけてうたうこともあっただろう。評判のよいものは口承で皆に共有されたことだろう。 大人たちの余暇ライフは現代人が想像する以上に豊かなものであっただろう。記録が残っていないのが残念ではある。子どもたちのためには、学校があったはずだ。選ばれた専門の教師が、言葉を教えたり、クニの神話を教える。子どもたちが可愛い声を揃えて暗唱したことだろう。家庭では親や姉や兄が即興のお話を創作して語って聞かせたことと想像できる。今に残るおとぎ話などの原型が形作られたのではないか? 記録が後世に残っていないが、私は当時の文化水準は今と比べても、かなり高かったのではないかと思っている。 もちろんユートピアのような平和な生活ばかりが続くわけではない。自然相手の農業社会であるから、不作の年には食料が不足する。そのときには遠く離れた森や海に行って狩や漁をしなければならない。それでもいつも運に恵まれるわけではない。またこういうときには他のクニからの襲撃もある。クニは深さ三メートルもの深さに環濠を巡らしている。高さ三メートルのクニを守る壁は木を尖らせ、逆向きにして容易に侵入できないようにしているのだが、敵は梯子をかけて潜入しようとする。守る側は石を放ち、矢を射、熱湯をかけて撃退しようとする。それでも時には、倉庫の財宝を奪われてしまう。なかでも最も影響の大きいのは、クニの民を略奪されることだ。かれらは民を強奪したうえで農奴にしてしまう。農業社会にとってはこれが最大の脅威である。いずれにせよこの国の歴史は弱肉強食の形で次第に統一国家へ進んでいくこととなる。
2008.07.07
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世界的にインフレ&不況という悪魔の様相。日本でも値上げのニュースが日々、紙面をにぎわす。無策な政府に抗議する一斉休漁も近々行われる。こうなると経済は経済に聞くしかないなどと他人事:俺の知るところではない、と開き直るわけにもいくまい。「さあ、かかってこい。我慢比べだ。喧嘩に巻き込まれぬよう用心せねばならないが、いったん巻き込まれたら相手が用心するまで徹底的にやれ」 新前川レポート:予想どおり、言葉遊びで中身はスカスカ、まるでピーマンのよう。どうせ不満のガス抜きに使われると知っていて、どうして委員を務めるのか甚だ疑問。前の前川レポートのときのようなバブル景気も期待できない。最悪の状況下で出された。「だがな、オフィーリア、その口先だけの炎は、光るほどには熱はないのだ」「今の世のなかは関節がはずれている」 「この天と地のあいだにはな、ホレーシオ、哲学などの思いもよらぬことがあるのだ」 あまりメジャーな話題ではないが、今、記紀に関心があるので。とくに今、最も興味のあるのが、沖哀・神功・応神紀。年代でいうと2世紀後半~4世紀前半だ。日本が国として形作られた時代だ。この時代をどう読むかで神話の数々の解釈も違ってくる。例えば日本書紀では、沖哀紀と応神紀の間には70年間の皇統断絶がある。これは何を意味するのか? 天皇を立てることができなかったのかもしれない。邪馬台国の卑弥呼の死もこの時期だ。大活躍したあの神功皇后はなぜ皇位につかなかったのだろう? なぜ沖哀天皇は突然死したのだろう? どうしてヤマトタケルは評判がよくないのか・・・。記紀の記述は編纂当時の政権(8世紀初め)がどう歴史を描きたかったかということに基づいている。表現されているようなきれい事とは実際の歴史は大きく違っていた可能性が大きい。だからいろいろ想像が働く。この時期は、国内政治が混乱状態だったのかもしれない。邪馬台国派(第一次ヤマト政権)と第二次ヤマト政権の戦乱の時期であったのかもしれない。日本の歴史は、応神以前と以後で政権の王統が異なるのかもしれない。あまりに第二次ヤマト政権を担う応神を讃えすぎ、沖哀をけなしすぎているが、これは異様だ。ひょっとしたら沖哀は暗殺されたのでないだろうか? 少なくとも万世一系などとはもはや誰も信じてはいない。いずれにせよ記紀をじっくり読むことでいろいろな推理が可能だ。ここからは作家の世界である。何しろ事実で何ひとう立証はできないのだから。キーワードは海外情勢と宗教の扱い方だろう、と思う。言えることは新編の推理小説を次々と読み漁るより、この世界の方がよほど面白いということだ。一度、自分の考え方を整理してみよう。
2008.07.03
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