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もうすぐ除夜の鐘が聞こえる。あるハンセン病療養所の夕方6時に鐘が鳴る。毎日鳴るという。本人に聞いたところ、奥さんが不自由舎に入っていて、ご主人が帰宅の途中に無事帰る知らせの鐘だという。夫婦だけの絆をみるようで、うらやましい夫婦だと思った。男と女は半分ずつ地球に入るのだろうが、その中でたった二人の男と女が一緒になるとは、なんと神秘的なことだろうか。ゴーン、ゴーーンと七回なる。何という響きだろうか。心の平安を皆さんが持てることを祈ります。
2012年12月31日
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黒インクをきらしたので買い物に行くが年末騒動で車は渋滞、みんなイライラしているのか運転が荒い。来年は良い年になりますようにと2012年を〆たい。来年こそは良い年になりますようにと神社仏閣参りと年越しソバを食べる。毎年まいとし同じことのくりかえしをして老いてゆく。これが人生というものなんでしょうが、何か物足りないような気がする。目が不自由になってから「書く」ことへの執念執着みたいな欲が強くなった。書けるということは何と素晴らしいことか。書けるうちに書かねばと。鉛筆もマジックペンに不自由はしないが、書くという意味から、なんと言っても原点に戻り「ペン」書きの習慣だけは残したいものと思っている。ペン書きは修正がきかないから創作意識が違ってくる。少しずつでも続けようと思う。
2012年12月31日
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久しぶりにバッハとベートーヴェンのマニュスクリプト版を見た。今年最後の大掃除とかで仕方なく自分の部屋を体裁程度に片付けをしていてマニュスクリプトがひょっこり顔を出したということ。とうぜんながら掃除は中断、楽譜を見すぎて右目の調子が悪く2時間ほど昼寝をして今まで手書き楽譜を見ていた。その昔に習ったことを思い出しながら楽譜を見ていると、作曲者の手の動き、書く勢いが想像できる。昔はインク書きだから消しゴムで消すわけにはいかないわけで、書く技術の素晴らしさが想像できる。じつに基本に忠実で、基本をしっかり学んだのがわかる。我々現代人はできるだけ手をはぶき、いかに即席で学んできたことか。聞いた話だが、戦中までは誰もがド・クレ(ハ音記号)が読め書けたというが、戦後生まれの民主的教育はこのドクレは難しすぎるとはぶいた。これによって楽譜が読めなくなった事実がある。まぁ、我々も民主的教育の被害者なのだろうか。目が良い時でも虫眼鏡でないと見えない作業だから、今の僕の目では大変な不自由さで、ほどほどでやめにした。眼圧もかなり高いのが分かる。筆圧、インクの濃淡から書き順もわかり、彼らがどのような順で音楽を書いていったのか。弦楽四重奏の楽譜をみて、いまもなお参考になった。いましばらく典礼ミサ曲とにらめっこをしているが、あまりにもストレスがたまりすぎ、気分転換にとあるプロテスタントの讃美歌を見た。実にいい讃美歌がありますね。旋律も詩もよくできている。西洋の音律に実によく翻訳歌詞がはめ込まれている。これもひとつの職人芸というか昔は素晴らしい翻訳家がいたことの証明でしょうか。そう考えると我が所属派はじつに情けない所業であります。昔を懐かしむのは年老いたからでしょうが、恩師がおられたころは一週間でオペラや交響曲を写譜したもので懐かしいです。模写もよくやった。
2012年12月30日
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今年もあと数日。この一年は早かったのか遅かったのか。何か良いことがあったのか無かったのか。人間の生活を束ねる政治が良かったの悪かったのか。給料が上がったのか下がったのか。東北大震災被災者に希望が持てるようになったのか持てなかったのか。政治にまたしても裏切られた感を覚える。が、これも日本人の民意なのでしょう。尖閣、竹島、四島とまわりの国々とのいざこざが武器をちらつかせる方向に向かう可能性が大きくなった。敗戦後半世紀も過ぎたのだから、それにこの不景気、人心の腐敗は一発ドカーンと何かを求めても不思議がないだろう。なんせ、わが国民は物事の反省総括など見たくないものにはフタをする国民性なのか。したがって反省したり戦争はコリゴリなどということはない。尖閣、竹島、北朝鮮とぶっそうな状況が続きスクランブル、迎撃ミサイル、軍備の強化、それに東北大震災での献身的ボランティア活動??の自衛隊員のお兄さんたちの発言に頭を垂れ、いよいよ軍備強化をしなければと賛同する国民がいることだろう。そして、若者の就職難、ニート、心の病と若者の心身強化、おまけに資格取得もできて万々歳ときては防衛軍か軍隊ができるのも時間の問題。選挙では民意は届かない国民だからなるようになれケセラセラと、あの先の戦争を思い出させる。司る天下人が難局に直面し病気でやめたのはいつのことだったろうか。これを敵前逃亡と言っては言い過ぎだろうか。下の乾かぬうちにまたして天下人となる。天下人とはなんと魅力のある地位なのだろう。欲とは恐ろしい原罪であろうか。来年は今年以上に悲惨な年になるだろうし、高齢者は増え続け、安住の行き場所も順番待ち。自殺者は大幅に増えることだろう。僕らのように人様のあまりで生活している文芸者はもっと深刻であろう。
2012年12月29日
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最近の話し。集会で久しぶりに友人に会った。時間がないので立ち話しの中でのこと。「裸の王様」の話となった。「タブー」。言ってはいけないようで、大人だから沈黙していること。「ロザリオの祈り」が始まり、我等は目が合うとお互いに沈黙姿勢。お互いに目で笑いあい、なぜここに参加しているのか、居場所がない。現行のロザリオの原義、天使祝詞、信仰宣言、主の祈り、と現行の祈り文についていけないからである。自慢にもならない話だが現行の主の祈りやアヴェマリアを覚えていない。現行の口語体は分かりやすく、くどくどと説明され、祈りの体をなしていないと言うのがその言い分である。したがって、じっと我慢の沈黙の時間となる。一時間の苦行?の後の話し。同じような考えの者が自然と集まりせきを切ったようにしゃべりだす。なぜこうなったのかお上のなすことに口出せないがいつまでこのまま続くのでしょうかね。我々が死ぬまで続くでしょう。だが、僕が、私が、我々の葬儀にだけは文語体で祈って下さいね。そうだ、遺言状に書いておかなければ、と。井戸端会議でどうあがいても、どんなにわめいても詮無(センナ)いこと。従順が厳守だからやめましょう、との結論。ではこの状況をどう解決するか?ある女性は、私はつぶやくように文語体で小声で唱えてます、と。一同膝を打つ。みんなそうしているんですね。プロテクトであります。だが、この所業はそうそう誰にでもすぐにできるというものではない。それなりに苦労をし努力の結果なのであります。祈りの意味を熟知し大変な集中力を必要とするからです。大勢の口語体に対してごく少数派の文語体が小声で唱えるわけで、口語体の声の勢いに負けて文語体で唱えることは非常に難しい。集中力が必要です。我が道をゆく的にできるようになるには大変な努力が必要です。そうこうしている時に一人の司祭が話に加わる。彼はあっさりと言いけるに、私はラテン語で唱えています、と。日本語の文語体よりもラテン語の方が唱えやすいとのこと。アンチ派が徒党を組むことなく、ひとりひとりがプロテストするだけで良いのでは、ということになり解散。しかし我々音楽をやる者は、そうはいかない。御ミサでオルガンを弾いたり、聖歌隊を教えたり、典礼に携わったりしているからである。細かいことを言うときりがないほどあります。現行では「イエス」と言うそうだが、現行の典礼ミサ曲ではいまでも「イエズス」と平気で歌っている。こんなちぐはぐなことが真面目に行われることを「裸の王様」と言わずしてなんと言うだろうか。不思議な世界です。
2012年12月27日
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主のご生誕おめでとうございます。毎年まいとし繰り返される言葉になぜか羽毛の羽のごとくフワフワを感じます。不景気のなか国民はじっと我慢し、その心のはけ口をテレビなどのお笑い番組でごまかし、東北の被災地に比べるとまだまだ幸せと心に言い聞かせる。政治は世俗の苦しみにわれ関せずと、政治家集団の権力闘争に終始するだけ。彼らは少なくとも人のためにと命を賭してなどと美名の叫び声だけで、議員任期を難なく無事に過ごし、あわよくば役職大臣総理大臣になればめっけもの、そんな程度なんでしょうか。難局にあって命をかけて職務真っ当でなく病気を理由に総理大臣を辞めた人はいったいどうしているのだろうか。ある教会では信者も少なく、クリスマスがわびしいもので、まさにイエズス生誕の場面のごとくごくごく内内の御ミサだった。どうかしようと言うのではなく、なるようになれケセラセラと、これも摂理りと他人任せのなれの果てかもしれない。何もしようとせず、してもらう言葉からに感謝する。日本人独特の考え行動なのだろうか。至急で頼まれ典礼ミサ曲と主の祈りの簡易伴奏譜を書いています。もう見ているだけで気分が悪くなる。どの分野もたくさんの作品が生まれ淘汰され良いものが残されるが、ことカトリック音楽だけは不滅の普遍的に踏襲されているように感じる。ミサ曲がたくさん生まれ、その中から良いものだけが残されれば良いのだが。おまけに著作権に入っているとなるとミサ曲主の祈りを歌うこともできなくなる。まぁ教会のミサは入場無料なのだから著作権の心配は必要ないだろうけど。これってどう考えてもおかしな話ではないだろうか。歌詞の流れから旋律が生まれるのが音楽。いまどきの音楽のように旋律があって歌詞を無理やりはめ込むのとは違う。「神の小羊」という言葉がる。歌うと「かみのこ/ひつじ」という旋律になる。どう誰がうたっても旋律上こうなる。「神の子/羊」で「神の/小羊」ではない。意味が全く違う。こんなミスを作曲家がおこすであろうか。不思議な話で、それもまじめに熱心に一生懸命に熱唱し神を賛美する光景は何と表現すれば良いのだろうか。まさに「裸の大様」である。だれも子供のように素直に「おかしい」と発言しないのである。みんな大人だから。こんな時代だからこそ精神性を求め信じる心が生まれるときに、宗教が低迷(?)するのは教えが良くないのではなく教える人に問題があるのではないかと思う。そんな中、わずかだが心ある宗教者と話ができる機会に恵まれた。2千年の空間を飛び越え主は我々に語りかけているような気がする。バッハは脱稿後に「Soli Deo Gloria」と書いて筆を置いたと言うが、我々現代にあっても同じように「神に栄光」と後書きしている。あした26日は「草津カトリック教会」1時からクリスマスミサがあります。ささやかでも雪の中を教会を訪れるあったかい時が流れます。訪問してください。
2012年12月25日
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1945年敗戦の前後のハンセン病療養所(療養所は美名で実質は強制隔離収容所)では法的に出産は許されず、結婚?は男子の断種が条件であったと聞く。今では信じられない真実が実際に行われていた。そんな中で生まれた子がいた。我が子を自らの手で育てる事ができず、人様にゆだねる母親の心情はいかほどのものであったろうか。その昔、預言者シメオンの言葉が思い出される。 Benedixit illis Simeon,et dixit ad Mariam matrem eius: Ecce positus est hic in Ruinam et Resurrectionem multorum in Israel.Maria,Tuam ipsius animam pertransibit gladius gladius. Benedixit illis Simeon. シメオン彼等を祝して、母マリアに言ひけるは、この子はイスラエルに於て、 多くの人の堕落と復活の為に置かれ、 汝の魂も剣にて刺貫かるべしと。(ルカによる福音書 24:2-34,35) この母親は我が子をその目で見ることはかなわなかった。病者ゆえの逃避行と出産だった。 1907(m.40)年「ライ予防法ニ関スル件」が制定された。制定当初は、浮浪患者の隔離が目的だった。その前のライ患者救済は外国人の慈善救済だったが、渋々重い腰を上げざるを得ないことになった。その根底には、ライ患者は近代国家、一等国の恥「恥ずべき病」と、患者を世の中から完全に強制隔離絶滅すると言う偏見と非人道性政策だった。1996(h.08)年「らい予防法」廃止。「らい予防法」が廃止されたのは1996(h.08)年。89年間強制隔離絶滅政策は89年間続いた。 これは他人事ではなく我々の一票による結果であることを認めなければならない。いつもそうなんですね日本人の我々は。第二次大戦の結果反省と顕彰もせず。沖縄の米軍基地に目とつむり、福島原発も人任せ。なんら事実の公表も知ろうともしない。民主党の大勝に大きな期待の歓喜、一夜明けたたつたの3年で元に戻った。
2012年12月20日
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お世話になった司祭の遺品をいただいた。もう禁煙して半年以上になるのだがダンヒルの煙草を買った。恩師が愛煙していたタバコである。恩師の生前には“まだネプチューンが卒業できないのかな”とよく笑われていた。最近、歯がボロボロでくわえタバコもできない状態なのだが、遺品を手にすると司祭を思い出す。紙巻きタバコは体に良くないけどパイプなら良いだろうと少し吸い出した。20数年前は今とは違いパイプも自由に吸えたが今はそうはいきません。あのころはホールのロビーなどでパイプの香りで誰々さんが来ていると分かった懐かしい時代だった。パイプも使わないとダメになる。30本前後持っているが、そのほとんどがいただきものだ。演奏会など何かの記念品が多く、パイプを手にするとその頃が思い出される。4,5年前の話だが銀座のパイプ店に行く機会があった。一元さん用だろうか数万円のパイプしか置いていない。以前は10万数十万が主流だったのに、パイプの余裕がなくなったんでしょうね。創作の時のイライラがなくなった。パイプの香りは脳を清くする効果があるのかも。そんな言い訳をする今日この頃です。ダンヒルの香りは先生を思い出す。
2012年12月19日
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大変興味を持って選挙を見た。投票率はあんのじょう最低だった。総理は責任をとって辞めると言うが、辞めればおしまいかよ! 議員年金と勲章をもらって本人は満足だろうが、国民はこの三年間まったんだよね、松下塾だかのエリート青年たちに期待をして。高速道路が無料になり、隠し金が暴露され、天下りの連中が文化大革命もどきに人前にさらされて、自民党の呪縛から解き放されて「万歳」のはずだった。右を見ても左を見ても、彼ら政治家は雲の上の人なんだよね。雲の上の人たちはみなお仲間。酒を酌み交わし庶民を馬鹿にしてチョロイものさと。結局は自民党にUターン。雲の上の政治家も悪いが国民も悪い。どっちもどっち。それが日本人なのだろう。自民党は3年間の屈辱を何倍ものお返しをするだろう。その反動か本音がもう出てきた。平和憲法にひびが入りそう。自衛隊が軍隊に昇格か、いよいよほんしきに動き出しそう。尖閣諸島、竹島、それに北方4島もひかえているから、今の自衛隊だけでは間に合わないし、若者は軟弱で草食男子だから少し鍛えないとと徴兵の声が聞こえそうだ。それに、徴兵期間は安定した収入にもなるし資格もとれるしいいことずくめ、とかなんとか言われれば馬鹿な国民だからは賛成の流れに乗ることだろう。我々ベビーブーム世代がリタイヤし長生きし、医療費だけでも国は破産するだろう。そして生活できなくて孤独死・自殺者が急増するだろう。新政権は以前に総理だった人が返り咲くことになるし、そんなことわかっていて国民は彼らを選んだ。あの総理は大変な政治事情下に、病気理由に辞任して逃げたのではなかったか。政治家なら病気を押して畳の上では死ねないと政治家魂を見せるところを病気を理由に逃げたと僕の頭には記憶している。天下人とは人間にとって最上のよろこび、望みなのだろうか。仏の掌のごとく、掌でもてあそばれて苦しむのはいつの世も馬鹿な庶民だけなのかな。
2012年12月18日
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いつも心配してくださる楽友友人に感謝してます。ここ少し無理をしているからか目に違和感を感じながら生活してます。寒暖の激しさかお先に天国に行く人が多く我が身とダブらせています。第6曲目の「死」マリアと十字架上のキリストとシメオンの予言。シメオンの予言のラテン語の確認、そしてマリアとイエズスとシメオンについていつものように教えてもらい、“スタバートマーテル”を書いてくださいと言われる。以前に2,3曲書いているしいまさら大変な苦労もしたくもないし、でも色々お世話になってもいるし、とデッサンを始めました。第6曲目の「死」を書き上げた日に、その宣教師が帰天。“スタバートマーテル”をあわてていま書き上げたところです。どちらも司祭に聞いてもらうこともなく、音の出ない楽譜を見てくれていることでしょう。日本に上陸してまる50年。半世紀も日本で司牧している。ある司祭がつくずく言った言葉“宣教師は私らとは違う”を思い出した。親子親族友人らと別れ聖書一つを持って何十日間も船に乗って、親の死に目に会えないことを覚悟しての来日。言葉では理解できるが言い尽くせないですね。食事も偏食栄養も考えず80にしてひとり自炊、毎日早朝の祈り、信徒のあほな愚痴を聞き、歩きに歩き亡くなった。音楽が好きで、バチカン公会議前の聖歌に希望を持っていた。そう思っても自分の葬儀は今風の典礼ミサだった。
2012年12月08日
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障害のある学童のピアノレッスンを見た。子供も親もひと時ではあるが別環境にあることはプライベートはお金はかかるが金では買えない精神的空間にもなろうか。パブリックでこうした時間を持てる政治社会に日本はいつもてるだろうか。音楽は高尚であるべき我々は音楽を作る。が、音楽は何のためにあるのだろうか。人の心に一瞬でも無の空間を与えることだと思う。そう考えると、障害のある人にも無条件に平等に彼らにも与えられるのが音楽ではないのだろうか。こんな単純で当たり前のことに気が付いていなかった。彼らは歌い体を動かし、恥ずかしいと言う概念をとっぱらって、じつに楽しく音楽を楽しむ姿は常人というバカ者達にはまねのできない姿である。音楽とは本来そうしたものであるのだろう。親は傍観しているだけで口を出さない。先生と生徒のあいだには常にスキンシップ、ほおずり、耳元で・・・と、見たこともない光景が展開していた。僕は一音の決定にこだわり、ひとつの和音の決定に悩まされる。この行為そのものも常人にはできない一種の障害者なのかもしれない。そして大切なことは旋律とリズムとハーモニーが人間の持つ基本音源をもとにしなければ彼らの理解を得られないと言うことです。障害者でいま思い出したことがある。精神を専門とする友人の話だが、一流の絵画に精神に障害を持つ彼らを美術館によく引率すると言う。一流の作品を前にじっと見つめる彼らは良くわかっていると。障害のある子供たちに音楽や美術などをおしげもなく与える環境ができるのを願います。
2012年12月01日
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