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今まで自分の部屋を汚いと感じたことはなかったが、最近きれい好きなったのか汚く臭いもあり、そんな心境です。少しづつ断捨離を敢行することにし、少しはすっきりした部屋にしようと思います。貴重な書籍と楽譜の行先を真剣に考えておかないと。それにしても、良く集めたものだ。と言うよりは、自然と集まってきたと言うことです。つまりは僕に託されたということです。その託された責任があると言うことですね。
2017年09月30日
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草津のハンセン病療養所を訪問してきました。4泊5日の中で半日ほどゆっくり出来たのは、十年以上も訪問して初めてではないだろうか。日本タンポポが遠慮気味に咲いているのを見つけた。超珍しい。ひっそりと生き抜く日本タンポポもいるのですね。その隣で綿帽子になって今にも飛びそうだ。西洋タンポポになんぞに負けるなとエール。 「山栗」が落ちていると教えられて、半日間のんびりとできた。久しぶりの歩き。それもアップダウンの広大な敷地。古き時代には、上り下りをして食事を運び、治療に通ったのは大変だったのだろうと想像しただけでもゾッとする。長靴も軍手も帽子も何もないので、背広を着て田植えをするようなものだけに怪我が心配、いが栗が時折落ちてくる。山栗にも大中小の三種類がありそう。大と言っても普通の栗の半分くらいの大きさ。この地は栗生(クリウ)というだけに、もしかすると、この栗の大木が栗生の元祖かも。 あっちこっちに、スコップで掘り返したような跡が点在。イノシシが掘った跡が住居と目と鼻の先。危ないあぶない。 ハンセン病国立療養所栗生楽泉園は、一昨日現在、75人の入居者、平均年齢87才、施設職員200数十名也。あと5年もすれば入居者さんは何人になるだろうか。最後の一人まで国は面倒見てくれると言うことになってはいるが、面倒見るにも幾通りかある。つまり他の療養所と合併吸収。つまり草津から東京の全生園に移住させられる可能性が大。とどのつまりは、90才近くなって強制収容をまたさせられると言うこと。国のやることは、いつまでも罪の上塗りですね。
2017年09月29日
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これから草津の療養所を訪ねます。三時間かかるから十一時すぎるかも。有難いことで、福祉課の職員さんが宿泊所の部屋に鍵をさしておいてくれます。いつも仕事を終えての事なので遅くなるのを理解してくれるのは有難いことです。金曜日の早朝の帰宅ですので4泊5日。すこしのんびりできると良いのですが、そうもいきませんでしょ。ただ曲だけは書ければいいのですが。朗読と音楽「幸田マリ子」がほぼ台本が出来たので、さぁ音楽をどう料理しようか思案中。朗読を邪魔せず音楽の主張ができる構成が見つかると良いのですが。すこしグレゴリアンと離れて自立の試みをしてみようかとも思っています。問題は楽器編成。草津までの三時間の車中でどれだけデッサンできるか。
2017年09月25日
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9月23日は「聖ピオ司祭の記念日」と、「教会歴と聖書朗読」「カトリック手帳」には明記されている。しかし2016年出版の一番新しい「教会の祈り」には見られない。見間違いか?どういうことか? 「教会の祈り」の元の書物を見たいと興味がわく。これは、「主の祈り」や「アヴェマリア」「マリアの賛歌」等々、身近な祈りにも共通するからだ。平信徒は問答無用!と、ただ従っていれば宜しい!と言わずに、平信徒にだからこそ分かり易く教えて貰いたいものである。 (司祭に気楽な立ち話で聞こうと思う。気楽な立ち話程度で。本来?ならば日々の教会の祈りは聖務日課だから当然「聖人の記念の祈願集」に載っている筈だが載っていないのだから、誰もが不思議な筈。使い方の未熟ゆえだと思いますが)
2017年09月25日
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9月23日、聖ピオ司祭(記念)今日一日は、朗読と音楽「幸田マリ子」の台本つくりと音楽をと思っている。 最近テレビを見ていると「今風ではない音楽」をよく耳にする。世の中ひろいですね。目の付け所は共通なのでしょう。自称、僕らの専売特許である作曲の原点はグレゴリオ聖歌と実践している者としては、今風ではない音楽をグレゴリオ聖歌から拝借していることがすぐに分かるからだ。著作権が切れている音楽だけに誰が使おうが自由だが、彼らの使い方に疑問が起こる。それは旋法を大切にしていないと言うこと。つまり宗教への尊厳が無いと言うこと。あくまでの彼らにとっては商品なのでしょうね。言っても詮無いことだが。
2017年09月23日
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今日は何となく穏やかな一日になりそうな気がする。とは言っても三時までは拘束されるので、自分の時間はそれ以降になる。できたらドライブとしゃれ込みたいが、問題は目の調子にかかっている。 朗読と音楽「幸田マリ子」の台本つくりは今のところは順調。インテルメッツォとBGMの位置をどこにするか?一番の難題は楽器編成。いつもながら、演奏者探しの行動に入る前の、考えている時点で沈滞ムード。これを考えるだけで嫌になる。居るようで居ないのが人材。楽器編成で台本の出来不出来が来ますから。 頼まれてる曲つくりにそろそろ着手しないと。歌詞をどう料理するか?伴奏はギターかマンドリン指定なので、水を得たお魚的で、自由に音を流すことが出来る。二三日考えればほぼデッサンできるので一週間で完成するでしょう。頼まれていると言っても頼まれたのは二年前のこと。やっと重い腰を上げたということです。それにしても、「主」と「神」の使い分けが、この年でも頭を抱える。作曲家と宗教曲の関係は他人ごとではなく、いま手元のベートーヴェンのミサ曲Op86を眺めてみた。眺めるだけでそれ以上のアナリーゼはしない。歴史的評価を合わせて楽譜を見てみると理解できるような気がする。そしてソレニムスにつながる宗教曲への思いが分かるような気もしないでもない。
2017年09月22日
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御ミサの説教を大切に聴いている。人に優しいと言うか親切にと言うか、その日のミサの式次第が懇切丁寧に書かれた「聖書と典礼」と言うパンフレットが一人一枚は用意されている。最近は高齢者に配慮か大型版もある。旧約と新約聖書の朗読も、それに続く聖福音の朗読もこのパンフレットに目が釘付けとなるので、聴くと言うよりは自分で読むと言う結果となる。僕はなるべく司祭の朗読に耳を傾けることにしている。最近感じることだが、会衆がパンフレットを黙読しているのだからと、司祭も朗読の意義を省略していると言わざるを得ない。みんなが耳を傾けて聖福音を聴くという態度に改めるべきだと思う。その聖福音個所をどう司祭が話をするかが聞きもののはずだが。最近よく聞く話しだが、説教の準備もせずに説教をする司祭の仕草に疑問を感じる。さぁ、今日の話はどれにしようか?とばかりに、自分の知識の「引き出し」から引っ張り出して、それに受けを狙ってかの即興で装飾して話される、という雰囲気を感じることが多々ある。もちろん、原稿を準備されている司祭もいるにはいるが、少なくなっているような気がする。そんなことはないと思いたいですね。 ある教会とでも言っておきましょう。この日は二人の司祭がいて、「説教を今頼まれた、何を話そうか?」なんて、ミサの始まる前にそんな話を聞いた。いつでもどんな話でもできる、そんなニュアンスに感じたので不快感を持った。何を何を話すか、今日の聖福音がいま決まったわけじゃないでしょう!と言いたくても平信徒の身、用を理由にその場から失礼した。案の定、意味もないお説教と言うよりは、世間話を15分も聞かされた。
2017年09月21日
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9月21日「聖マタイ使徒福音記者」マタイ9:9-13 最近は、てっきり小鳥たちが寄り付かない。稲穂が腰を曲げているのだから食料は豊富。有るか無いか分からん餌場より、自然の中での食事が一番いいのでしょう。刈り入れが終わるまでは、食事の用意をしなくてもいいが、やっぱり、あのチュウチュウとわめきながらの食事合戦を早く見たいものです。
2017年09月21日
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ハンセン病をテーマにした「朗読と音楽」を発表したいと思いつつ長びいているうちに三つの作品がたまってしまった。今年の10月か11月にと考えていたが、演奏者を探すのがおっくうでズルズルしていた。弦楽器と管楽器の各一本とピアノ。たった三人の演奏者を探すわずらしさが馬鹿らしくて。なぜなら、こちらにも問題を抱えていてギャラがアゲアシ程度だから。相場のギャラが出せれば掃いて捨てるほどいるが、ボランティアだといざ探すとなると、人と言うのはいないものですね。世の中がセコセコしてお金の世の中。ゆったりとした考えは通じない世の中ですね。本当に人はいない。草津のハンセン病療養所で、7月9日に帰天されたパウロ米塚尚司さんを偲んで、療養所内にある草津カトリック教会で「追悼ミサ」と「小さなコンサート」を考えようかと非積極的に思っているところです。演奏者を集める(頼む)元気がないので、ツーカーで話して決め、曲は集まった楽器に編曲し直しして、米塚尚司さんの著作「変貌の讃歌」から「むしられた命」を底本に発表したいと思っていますが、ただ思うだけでジエンドかも。そんなことから、台本を書き直し、音楽の書いてみようと思います。とてもお世話になった方ですので、何か感謝の意味を込めてと思うと、これ位のことしかできないので。台本を書きながら、戦後すぐのライ療養所のなんと悲惨な地獄絵を他人事としてではなく知るべき。敗戦下の国民全員が苦しい時代とは言え、とても比較の比(ヒ)にもならない。そんなことを米塚さんに代わり発表したいところです。べつに宣伝する気力もないし、口コミ程度で、米塚尚司さんを偲んで集まる十人前後で充分だと思ってますが。はたして実現できるかどうか。実現は10%の確率かな。
2017年09月20日
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Confiteorいつも胸に引っかかっていることがある。ある人の葬儀でのこと。もっとああすれば、こうすれば良かったと。ひとこと進言すれば良かったと。故人の生前が言われていたことを進言しなかった。肉親でもない、ただの一介の訪問者の分際なのだから。それにしても、やはり言うべきだったと、僕にとっては苦い記憶だけが残った。 同じ葬儀でのこと。この時は直接関与してなく、一介の弔問者の立場だった。“最近の葬儀ではカトリック死者ミサではなくなった。少なくともカトリック聖歌は歌ってほしい。昔のグレゴリオのレクィエムやリベラメくらいは歌ってほしい。”と生前の故人は話をしていた。そのことを思い出すと、彼の葬儀は彼の本意とは違った。これで良いのかな?葬儀が事務的義理的でならないと。
2017年09月19日
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バタバタと探し物をしていると一曲の楽譜が出てきた。懐かしい五年位前の曲。DTMデーターを開いてみると、懐かしい思い出のある曲が並んでいた。ほとんど99%は音にしたことのない曲ばかりである。 人は何で生まれてきたのだろうか。搾り出して書いた曲がお蔵入りすることを徒労と冷笑する人がいるがそれも正直一理ある。僕の場合は曲を書いて、上演するでなく、ただただ書きまくって棺桶の中に曲を入れてジエンドが僕の生まれてきた理由だと感謝です。今さらながら、そう思うと気が楽になる。のびのびと自分らしさを表現すれば良いのだから。70になろうとしてもなお、「自分らしさ」はどの楽譜からも見えてこない。「らしさ」を感じるのだが、いまいち、決定的な「らしさ」が読み取れない。「らしい」は程遠く先が見えない。何が原因かは良く分かっている。才能がないと言うことだが、それでも「らしさ」をもう少し出せるといいのに。やはり、そのきっかけは、原点はグレゴリオ旋法の理解力につきます。これが難問なんですよね。
2017年09月19日
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きのうの大雨は嘘のようです。雨の被災地は気の毒です。痛ましいニュースが流れています。
2017年09月18日
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外づらがいい性分で、お盆からお墓参りが続いている。やっと両親の眠る八王子に墓参がかなった。が、いつも車の中に入れてあるお線香が入っていない。大雨だったのでお花だけを手向けて帰宅した。カトリック五日市霊園は、山肌に作られたカトリック霊園で、マリア様などの御像がにぎやかで、お墓参りというイメージとはちょっと違うかも。何を思ったかCDを車中で聞いた。CDなんて一年に何度聞くだろうか。パパ様のCDと典礼音楽のCDの二枚。パパ様のCDはなんとか全部聞いた(数年前に入手して一曲目でダウンした経緯あり)。幾つかの参考はあったが時間の浪費感疲労感だけが残った。企画がよろしくない。まぁ営利CDだと思えばそれまでだが、複雑な心境。典礼音楽のCDはあってはならないCDだと強く感じた。これらが参考に歌われると思うと身震いがする。これが伝統になるのでしょうね。まぁ、僕が個人的にそう思うだけで、多くの人は有難く参考にし実践している現実はありますが。ロートルの冷笑と馬鹿にされるだけですが。
2017年09月17日
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久しぶりに時間が取れそうなので両親の眠る八王子の霊園に墓参します。大雨と連休とで交通渋滞が心配ですが、今日を逃すといつになるか分からないので。それにしても地球は悲鳴を上げているのでしょうか。
2017年09月17日
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高齢者である自分をさておき、高齢者が高齢者を語るのは変な話だが、僕のまわりには高齢者がずいぶんと多い。ある高齢者は自分の住む地域の自治会や高齢者サークルなどを冷ややかな目?で痛烈に批判する。夏になると盆踊り、人も集まらず金ばかりかかって、と言う。盆踊りの音が聞こえてくるので、そっと覗きに行った。あの語る人が椅子に座って談笑しているのが見えた。高齢になると寂しいんですね。深刻ですよこれは。
2017年09月16日
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以前に画家から聞いた話しに、美術館での知的障碍者の鑑賞態度がある。ソワソワと一目にそれと分かる美術館鑑賞に驚きがあるという。その身体的ソワソワが絵画を前にして動作が変わるのだと。良いものは良い。良いものには感動感銘を受けるのは同じだということです。同じならば、同じように人としての生活をおくらせないと。音楽にはもっと顕著に見ることができる。そして日本人特有の音楽の志向も共通だということ。芸術的音楽には、音の速い動きに驚きを、ゆったりとした音の流れに感慨想起をと、これは誰もが同じに受ける音楽です。唱歌演歌など肩の凝らないリラックスな音楽には心を親しく開くのでしょうか、自然と手拍子身体拍子を素直に表現する。ある意味では、この部分では健常者より絶対的に優位だということ。音楽を字のごとく「音を楽」しんでいる。心弾む音には体で表現し、悲しみの音には目や指先で表現しているのが分かる。もっといえば、百人いる会場の空気の流れを感じますね。つまり、音楽に合わせて同じように呼吸しているんです。まさに息吹(いぶき)とはこのことでしょね。教会で賛美歌を歌う時がそうですもの。ともに一緒に息を吐き息を吸うと、空気の流れが空間を包み、その空気の流れが人の心を包むわけですよね。音楽の持つ強さですね。こんな場所にいると、音楽をやっていて良かったと、つくづく感じました。こんな環境の施設が沢山できるといいですね。そのためには、一票の重さを感じ投票しなければならないと言うことです。那須のマメゾンを訪問しての感想でした。
2017年09月16日
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那須の山奥?にある知的障碍者施設に訪問演奏をしたときのこと。椅子だけでも百を超えていたから、どれほどの人が全国から安住の地としてここを選んだことか。我が家の近くにも同じような施設がありよく音楽訪問するが、どうも違うような気がするのは錯覚だろうか。老人ホームもしかりで、最近は「株式会社の老人ホーム」が目に付く。株式会社がこの分野に進出してきた現実を見ると、高齢福祉も商売になるということでしょうか。やはりキリスト教の教えが根本にあるということが大きな違いだと思う気がする。職員の目線も入所者さんと同じ、じっくりと話を聞く、全てを押し付けるのではなく、交わるゆとりと言うか時間をかけている、そんな気がした。報道で次から次と施設での虐待殺傷などが報道され、税金の無駄遣いをなくそう殺そうと実行する現実がある。これは特異なことではなく、そんな社会の流れなんでしょうか。彼らも僕らと同じように才能を持って生まれてきたのであって差別されるものではない。ただ生活に不自由があるだけで、不自由であればお互いに補い合えば良いだけの話し、ただそれだけ。ただそれだけの話がスムーズにいかないのが人間なのかも。
2017年09月15日
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「寝る前の祈り」で福音の歌「シメオンの歌」が歌われる。そして「結びの祈願」「祝福」と続き、いよいよ最後に「結びの歌」が始まる所作(ショサ)が美しい。マリア様の前のロウソクが灯される。「聖母賛歌」(サルヴェレジナ)を尊厳と謙遜が律動、アルシス(飛躍)とテーシス(休息)と独自の音律で歌われる。カトリック聖歌集にある「サルヴェレジナ」(めでたし元后)とは記憶では同一旋法だが、独特の歌いまわしは歴史ですね、歴史が息づいていると感じた。これが一千年以上も毎夜歌い続けられているのですから信じられない事実です。 「寝る前の祈り」は、「初めの祈り」「良心の糺明」「回心の祈り」「賛歌」「詩篇唱和」「神のことば」「答唱」「福音の歌(シメオンの歌)、「結びの祈願」「祝福」「結びの歌」(聖母賛歌からサルヴェレジナ)が歌われ、ロウソクが消され、カンパネラが鳴って一日が終わる。30分くらいでしょうか。ロウソクを付けたり消したり、鐘を鳴らすにも所作があり別世界のよう。キリストの時代から信徒はそうしてきたのですよね。音楽がどれほど重きをなしてたかを感じました。 草津のハンセン病療養所には、カトリック信者の家庭がたった一つだけ残り、ここにも聖務日課が祈られている。僕らも参加した。ここでしか経験できない聖務日課が、朝と昼と夕方と寝る前に続けられている。ここでも毎日唱えられている。今は連れ合いを亡くし一人で続けられているわけで、月に一度か、何か月に一度か、一年に一度か、数年に一度でもいいから、ここを訪れる人が一緒に祈ることを願っています。目も悪く、指も不自由な人が、あの分厚い小さな文字の聖書のような祈祷書のページをめくる姿はトラピストと重なります。
2017年09月14日
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これから家を出て草津の療養所には十時半になるでしょう。今回はワイフと二人なので、高速は彼女に運転してもらい僕は寝ます。きょうは4時半起で忙しい一日でしたので寝不足ですので。あしたは一日買い物。それとあさって13日のミサの音楽の選曲と練習。今回からアンティフォナーレの調べをしたいので本を持参。聖務日課の元を知らないと、とオタクを始めます。調べても世の中に新風を起こすわけではないし、自分自身の為に必要かと思ってのことです。とはいえ、時間がかかるので一年計画になるでしょうか。買い物に行けない人がいますので、少しでもお役に立てばいいのですが。小さな演奏会を考えています。
2017年09月11日
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ロザリオで思い出すのは、何人かのハンセン病者の「ロザリオの祈り」である。トラピストに行くと言うと、先の諸霊と私らの為にお祈りしてくださいと言われた。彼らのロザリオは、勿論全員ではなく症状によって一部ですが、まずは目が見えなかったり、特に難儀するであろうことは指のない人。指がなければロザリオを繰(ク)れないから唱えの回数が分からなくなる。それが正確に数えているのが七不思議のひとつ。ロザリオは一連10個の珠が五連つながっている。仏式の数珠と機能は同じ。アヴェ・マリアを10回唱えて一連、一回唱えるのに30秒前後かかるから、これを50回唱えるとなると数珠の珠がないと勘定できない。この不思議をどう解決しているのかと言うと、心の指で数えているらしい。それが正確なのには驚かされる。心の指と言うか、無い指先が彼らには感じるらしい。指先がないのに、時としては指先が痛かったり痒かったりすると、よく聞く話しです。神様のお造りになるものは絶対ですね。ちなみにアヴェ・マリアはよくラテン語で歌われる有名な天使祝詞です。日本語よりもラテン語で唱えた方がわずかだが時間短縮されます。もっとちなみに言うと、アヴェ・マリアも現行の口語体と、古い文語体とラテン語があります。口語体だと唱えに流れとリズムがないように感じます。余計な話で批判しているわけではありません。
2017年09月11日
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ある母娘がシスターと共にトラピストの売店に立っていた。マリアさまの大小のメダイが、十字架が、ロザリオが、ヴェールが並んでいる。キラキラした、地味な、バラの香りがする、その中から一つのロザリオに目が留まったのでしょうか。ロザリオの意味をシスターから教わり、信者でなくとも祈ることの大切さを教わったのでしょうか買った。そこに偶然でしょうか必然なのでしょうか神父様が現れた。“このロザリオをどうぞ祝福をお願いします”とシスターが言う。ロザリオを祝別してくださり、母娘を按手してくだった。娘さんには目に見えない何かを授かったのでしょうか微笑みがこぼれた。四時間の長距離ドライブをして来た母子へ神様からの贈りものでしょう。神に感謝
2017年09月10日
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アメリカ人司祭と親しく話をする恵みがあった。昨年初めてトラピストを訪問して二度目になるが、残念ながら年末には移動でアメリカに帰るとのこと。場所が場所だけにゆっくりお話しすることができないのが残念でした。11月に今一度お会いしたいと考えています。今回は僕の二曲を簡易録音ですませたが、CDにして神父さんとトラピストに送ろうかと考えています。一曲は九時課、二曲目は終課。九時は現在の午後三時でキリストが十字架上で死した場面を書いたもの。二曲とも御聖堂にあるポジティブオルガンを使いグレゴリアンを織り込んでいます。音符も複雑で譜面とにらめっこしないと弾けないが、そんなことはお構いなしに音符を弾くだけなら誰でも難なく弾けるでしょう。ただ、この態度でトラピストで弾くとなると何と言ったらいいでしょうかね。グレゴリオ的音律の複雑さ、旋法とリズムの多様など譜面から読み取って頭を抱えてもらえることを願っていますが、願うだけでしょう。でも分かる人には分かるのを耳にすると救いです。
2017年09月10日
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那須にあるベタニア修道女会の聖ヨゼフ山の家は黙想会のできる施設です。トラピストの8月の宿泊は難しいが9月は大丈夫だろうと甘く考えていた。ところが団体さんの一泊二日の予約が入っていた。急きょ、お隣の聖ヨゼフ山の家にお願いした。偶然か必然か、ベタニアのシスターの黙想会を控えての準備で宿泊者はひかえていたようで、そこに潜り込ませていただいた。修道院にきて祈らなければと、聖務日課をやりましょう?と言うことになり、終課(寝る前の祈り)を唱えることにした。その話を院長さんに話すと、それではシスターたちとご一緒にと終課を御聖堂で歌いました。シスター皆さんとご一緒してくださったことには感謝です。「教会の祈り」と言う「聖務日課」は一般信徒には普及していない?だけに、いいチャンスと考えたからで、この経験が何かのきっかけになればと願ってのことです。僕的には一人での祈りになるので、歌うことはない。やはり祈りが歌われるのは自然ですね。こうして歌うということ、旋律が子供のころから歌われるということが歴史であり、音楽なんでしょうね。毎日歌われてきた旋律が淘汰に淘汰を重ねて、今ではたった二つの旋律だけになったのが長調と短調。何十通りもあった旋法が二つになりそれだけで音楽を作ろうとすると無理がある。僕が書いている曲をこの長調と短調で理解しようとするのはどだい無理があると言うことです。音律の不思議さに疑問をもち質問する音楽家のいないのは寂しいです。と言うか気が付いていない。“音が間違ってますよ”と平気で指摘するのが現実ですもの。
2017年09月09日
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トラピストを訪問し場違いなような気を強く感じています。反省するところ大。あれもこれものテンコ盛りの演奏に、はたと我に返った。とんでもないことをしたと。シスターの中には若くして修道院に入り演奏会に行ったことがない。そんなシスターもいるということに驚く。そうした話しに、それでは、あれもこれものテンコ盛りでと、サービス精神旺盛の演奏会の企画となる。赤いランプのともる祭壇であることに気が付く。世俗の曲芸的音楽や官能的音楽の羅列でいいのだろうかと。宗教曲にして宗教知らずでいいのだろうかと。選曲は吟味しなければいけないと痛感した。神の家ですもの。
2017年09月08日
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レクィエムだのミサ曲だのとキリスト教的名称が付けば何でも宗教曲だと思い込んでいるのをよく耳にする。信者にして分からないのだから、おまけに彼らには聞く耳を持たないので言っても詮無いとあきらめている。分かりやすいのはバッハ=グノーの「アヴェ・マリア」を宗教曲だと早合点しがちだが、プロテスタント的にはOKだが、カトリックでは歌われない。そういうケースが結構ある。フォーレのレクイエムをどうして教会で演奏できようか?祭壇を演奏会として使うなら別だが。音楽史の本を見れば簡単に理解できることなのに。キリスト教以外の宗教人にも音楽が平等に解放された結果が今日。西洋音楽の根源はキリスト教音楽にあるということ。作曲家は世俗曲を書くようになり、それが生業(ナリワイ)となった文化遺産でしょうか。
2017年09月07日
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那須トラピスト修道院で、歌・フルート・ピアノ・チェロの演奏会をさせていただいた。団体さんが入っているのでトラピストでの宿泊はできなかったが、お隣の聖ヨゼフ山の家(ベタニア修道女会の黙想の家)に泊めていただけた。お隣と言っても門から門までを車で測るとちょうど1キロある。6日からベタニア修道女会の黙想会があるのでその前は準備やらでお客はいない。お一人だけ黙想でおられ、すこし話ができた。ピアノ出でオルガンを勉強したとのこと。この偶然は必然でありたいです。演奏は、トラピストのオマージュで「九時課」と「終課」の2曲を今回持参した。九時課とは、朝の九時でも夜の九時でもない。ローマ時代の時間で九時は今の午後三時頃でキリストが亡くなられた時間。それと終課は今風には「寝る前の祈り」でしょうか。御聖堂にあるポジティブを一番の目的で書いたので、シスターの座られる場所で二曲を演奏できたことは、何よりも光栄なことでした。後で聞くところによると“グレゴリアンが聞こえていた”と。分かる人には分かってもらえることが嬉しかった。書いたかいがあったということです。演奏的には、それなりに人を誤魔化す程度には充分に演奏できたが、いつもながら未消化のストレスが溜まることになる。これはどうにもならない現実である。“今の若い者は”と言いがちだが、考えるまでものなく、そのように習ってきたのだから致し方ないと言うしかないし、言っても喧嘩になるだけで、嫌な世の中です。音符通りに弾ければ良いという風潮が強いし、音楽に対してそれ以上の意識を持っていないからだ。これは音楽への冒涜ですね。音楽家ではなく音楽屋である。それと、教会と言う場所をどう考えているかと言うこと。赤いランプがともる場所をどう考えているかと言うこと。祭壇にある大きなテーブルが何であるか、そこにおわすは誰なのかと言うこと。「神のものは神に」自分の才能は頂いたものだと言うこと。そう考えれば、ふだんのホールなどとは全く違うことを知らなければならないと思うのだが。ましては観想会のトラピストとなると、もっと意識をお互いに持つべきでしょうが、そうなると演奏者が限られるし、そんな意識を持つ演奏者が僕のまわりにはいないのが現実です。昨年も同じことを考えたが、僕らふぜいがノコノコと出かけて来る所ではないということを実感した。許しを乞わねばなりません。昨年もそうしたように。宗教を知らない音楽家は宗教曲を演奏すべきではないと、今回もまた実体験しながら恩師の言われた言葉が思い出されます。これが僕にとっての大きな収穫でした。
2017年09月06日
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那須から昨夜帰宅しました。知的障碍者の施設の音楽訪問。ハシゴで夜は那須トラピストでの演奏会でした。その間に色々なことがあり、出会いがあり、計らいがありと恵まれた四日間でした。知的障碍者施設は自然の広大な環境にあり、その歴史は70年を過ぎるそうです。三人のシスターと職員さん。入所者さんは10代から50なのか60代なのかそれ以上の人もいるのでしょう。玄関を入ると、もう知り合いのように話しかけられ輪になる。心の準備もなしにである。とにかく人なつっこい。純真なんでしょうね。中には同じ信者の人もいる。シスター△△は来てるの?シスター▽▽は来てるの?と何人ものシスターの名前を空暗記している。もう上(天国)にいるのに。同伴したシスターが体調が悪く指輪をしていなかったのを見て、早くシスターになってね、祈るから名前はなんていうの?と。もう40年もシスターになって、ここには何十回も来ているのに。シスターになる前の誓願者だと思ったんでしょうね。よく見ている。会場には、集まるは集まるは100人を超す。歌とフルートとピアノの女性とチェロが男。出てくると、赤あり黄色あり青ありの派手なドレス姿に大喜び。演奏中はどの顔も真剣、あっちを向いたりこっちを向く人がいる。落ち着かない嫌いなのかと思うと「彼は真剣に聞いている」と職員さんが説明してくれた。演奏は普段のクラシック。45分の後10分のトイレタイム。この移動が大変で、職員さんの仕事の大変さ、これが毎日だと考ええるだけで頭が下がります。そして15分の、皆で歌いましょうが30分に延長。エンドレスのように続く。盛り上がっていました。ただ椅子に座っているのではなく、前に出てどうぞの言葉に遠慮なしに出るは出るは・・・素直ですね。みなさん歌手になったかのように笑顔笑顔でした。髭の生えた天使たちです。世の中では、税金の無駄遣いと憎しみの行為や殺傷害がある中、彼ら彼女らは心穏やかに生涯を送ることでしょう。これもシスターの長い苦労と努力と愛のお蔭様です。本当に安心した生活のように見受けられました。11月に施設祭があるとかで、今一度、訪問することになるようです。
2017年09月05日
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これから那須に向かいます。僕は軽に電子ピアノと鉄製の聖書朗読台を積んで、東村山市のベタニア会でシスターとご一緒。軽自動車では危なっかしいが、シスターと一緒だから神様がついていて下さるでしょう。3日の演奏会が無事に終わることをお祈りください。お預かりしたミサ願いはしっかり持ちましたのでご安心ください。それでは
2017年09月01日
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