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仏教界では追悼行事を呼びかけていました。震災から四十九日の4月28日、地震発生の午後2時46分に全国のお寺で法要や鐘をついて、被災者の守護や犠牲者の追悼をしようということでした。興福寺でも南円堂の鐘楼にこういう掲示がありました。興福寺南円堂でも、藤の花が咲いています。 藤棚越しに見える南円堂さん、二人のお坊さんが中に入って観音様に祈っています。 お堂から出てこられたお坊さんが般若心経などを唱える中、居合わせた20人ほどが交代で鐘をつかせていただくことができました。 全部で21回の鐘をついたあとは、光明真言「おんなぼきゃべえろしゃのうまかぼだらまじはんどまじんばらはらばりたやうん」が繰り返される中、合掌して追悼と復興を祈願いたしました。
2011.04.28
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旧世尊院の盆藤展は、3日まで開催中ですが、こっちの藤もしっかりと咲いています。こちらの場所は、奈良町の東城戸町「大国主命神社」です。左の屋根が、大国さんの拝殿で、お参りする時はこの藤棚の下に立つような形になります。この場所を外から見るとこういう感じです。奈良町の景観形成地区に指定され、数年前には奈良市の補助を受けて門や塀などが改修整備されました。道を挟んだ向い側には、ぶと饅頭の満々堂さんが所有する美しい町家もあります。 敷地の中はこういう風になっています。 藤棚の左手と奥とが、町の「会所」で右手が大国さんの拝殿(その右手で見えないのが本殿)です。拝殿手前の木は50年ほど前に植えられた桜ですが、先日まで満開で塀の外にもたくさんの花びらが舞い落ちていました。春日講などの行事は、現在、奥の会所で行われていますが、左の棟は町内会の会所としてはかなり広いものです。椿井小学校の前身の一つ「嚶鳴舎」がここにありました。 明治5年から6年にかけて、奈良市内でもあちこちに小さな学校が開設されました。その一つがここにあった嚶鳴舎でした。開化天皇陵に隣接する漢国町の「山の寺」(念仏寺)に設置されていた陶化舎と統合されて、現在の椿井小学校の前身となりました。 この広い敷地は、もともとこの地にあった「奈良晒」の大きな商家のもので、現在「柴田寝具店」となっている四つ角からここまでが一つの敷地であったと言います。移転の際に「家運隆盛は大国さまのおかげであった」として、町内一同が引き続いて大国さんをお祭りすることを条件として、その敷地を町有のものとして寄贈されたのだということです。現在は住人がいないため、行事などの時以外は鍵が閉まっていて入ることができません。ただ、最近水曜日の午後には先生が来られて書道教室を開いておられます。子どもたちの学舎としての復活も期待したいところです。
2011.04.27
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普段はひっそりした初宮神社ですが、昨日はイベントで賑やかでした。大門市場で始まった「一箱古本市」、楽器の演奏や手作りのお菓子の販売などもありました。ただ残念なのは、近鉄の駅から続く商店街が県庁などを相手にしたところも多く日曜はひっそりしていること。来月も22日にあるらしいです。ちなみに初宮さんは、興福寺旧境内の北西の角に近く、おん祭りのお渡りに先立って田楽座が参拝奉納することで知られています。
2011.04.25
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早くに出来ていたJR奈良駅高架下の公衆トイレですが、結局オープンは4月1日からだったようです。あの男子小便後ろ姿丸見えの仮設トイレで奈良の観光地としての評価をどれだけ落としたか、下らん予算年度にこだわった役人には東電とともに賠償請求したいところではないかと。なお写真左の「お手洗い」の看板の裏側は、1Fの自由通路に通じていて、自由通路から表に出ることなく(雨に濡れずに)トイレを使うことができます。
2011.04.24
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元興寺では企画展示が今日から。ということで、北円堂から五十二段を下り、ならまち大通りを越えてやってきました。 特別展示(極楽坊縁起絵巻と厨子入智光曼荼羅)でも拝観料はふだんと同じ400円ということで、まずは極楽堂に上がります。阿弥陀様の両脇に智光と礼光の両法師がいらっしゃいます。 企画展示は、かつての池のあとに建てられている収蔵庫の三階で行われています。この中には、国宝の五重小塔や、さまざまな仏さま、板絵智光曼荼羅(大きなケースに収められていて直接見ることはできない。近赤外線の複写が見られる)なども納められています。で、肝心の縁起絵巻は元禄時代の複製ですが、それだけに着色も美しく見やすいものでした。何よりも上巻で、智光法師が行基菩薩に嫉妬して頓死し、地獄で閻魔さんに叱られるなどというお話は、初めて知ったもので、大変興味深いものでした。 元興寺極楽坊境内でも、雨の中、八重桜が鮮やかに咲いていました。
2011.04.23
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今年も、北円堂は今日から特別開扉。ということで、やはりあの空間の魅力は捨てがたく今年も行ってきました。世尊院から地下道を戻り、金堂の工事現場をさけてぐるりと大回りをします。南円堂の方から、西へ曲がる角にはしばらく前に金春流の薪能石碑が建てられています。 今年も拝観料は300円で、大変お値打ちだと思いますが、拝観が終わってお堂の外からちょっと写真を撮ってみました。中央が弥勒如来(ここでは弥勒菩薩ではなくて、未来の姿として如来になっておられる)、後ろに立っているのが無着菩薩と世親菩薩で実在のお釈迦様の弟子ですが、とてもリアルな人間味のある彫刻です。(以上三体は鎌倉期の運慶ら慶派の作品) 手前の坐像は法苑林菩薩で向う側に大妙相菩薩がおられますが、こちらは室町時代。 柱の陰に立っていたりするのが、持国・増長・広目・多聞の四天王さまで、堂内ではもっとも古い平安時代の木芯乾漆像ということになります。 北円堂は、弥勒三尊と、四天王、無着・世親菩薩という三種類のそれぞれ異なる「風合い」の仏像が、八角の丸い壇上に不思議な共存関係を作っていて、魅力的な独特の「世界」となっています。また開扉は大抵の場合、二面もしくは三面の扉が開けられるため、外から差す光の効果もあります。この空間は、一度体験すると忘れられないものになるのではないでしょうか。 北円堂の南側は、道を挟んで「阿修羅」たち八部衆がいた西金堂跡、さらに南円堂が見えます。
2011.04.23
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「盆藤展」が、国際奈良学セミナーハウスで。 県庁東交差点の北東角にあるのが、県所有の「国際奈良学セミナーハウス」(民間事業者による指定管理)ですが、もとは興福寺の子院「世尊院」であったといいます。興福寺ゆかりの世尊院客殿の建物で、藤原氏に関わる盆藤展というのは、まことにふさわしいことではあります。というよりも、まあ今まで中に入った記憶がないので、この機会に旧世尊院とはいかなる建物かのぞきたいという本心で、出かけてきました。(盆藤展は18日から5月3日まで。400円) 門、前庭、玄関と、美しい藤が飾られています。この玄関に向かって左手には、喫茶スペースや宿泊施設、研修室などの備わった新築のセミナーハウスがあります。中へはいるといくつもの部屋に盆藤が飾られて、上品な藤の花の香りが漂います。私は花のほうは不調法なので、庭越しの知事公舎のようすとか、板戸に描かれた絵などのほうに目がいきました。
2011.04.23
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海住山寺さんのHPで見てそんな素晴らしい観音様がいらっしゃるお寺って、どんなところだろうと、ちょっとの間を作って大仏鉄道跡を車走らせました。(厳密に言うと下梅谷から先は違いますけど)もちろん、観音様は予約して10人以上でないと拝めないのは判ってますが「現光寺の場所」だけ確認したかったので。住所と地図で確認すると、加茂の駅の東の山裾を流れる「新川」(これ駅の周りの地面よりも水面の高い天井川ですね)に沿って北へ進み、線路にあたる手前の村(大字北小字山ノ上)の中とわかりました。手前の兎並(うなみ)は何度か行ったことがあるので、まあ要領は心得ています。余計なことですけど、加茂駅東の住宅地はもともと田畑だったところだし、万一、この新川が溢れたら浸水してしまうだろうなあ。 立派な建物の多い村の道から見るとこんな感じ。少し引っ込んだ場所にあるので知らないままだと通り過ぎてしまうかも知れません。 手前にあるのが「収蔵庫」のようです。観音様はこちらでしょうね。で、次の写真が左手の空き地(収蔵庫整備のための作業に使われたのでしょう)からみた、全体像。ちょっと木の陰に鐘楼(但し鐘はない)が見えます。そしてその次が本堂の正面。 ということで、現光寺の十一面観音様を拝観するには、10人集めないといけません。(「同等」ということは、10人分5000円の御布施すればいいのかな。) 昨年は、1300年祭で五條の草谷寺、阪原の南明寺、矢田の東明寺と隠れたところの仏様を拝ませて頂きましたが、こちらはリストに入っていませんでしたね。京都府とはいえぜひ広く見せて頂きたかったところです。で、最後はおまけ。JR関西線、加茂までは「大和路線」という路線愛称がついてますがこの先は「関西線」のままで非電化です。かつてのキハ35、36、キハ58等に代わって、いまは「第三セクター鉄道」によくあるようなスタイルの、小振りなディーゼルカーキハ120型が亀山までの運用にあたっています。乗務員扉なしで、当初はトイレもない車でした。
2011.04.21
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あるいた方が健康にもよいのでぐるっと一回りしてみました。 愉伽神社は相変わらず閉まってたけど、天神さんの何種類もの桜は元気だったし、大仏前には修学旅行がずいぶんと来てた。そうそう、浮見堂には中国人観光客も来てましたね。で、「公慶道」=公慶上人が、自坊(現在の龍松院=筒井さんの塔頭)から大仏殿に通った道を確かめようと、大仏殿の裏側に回ってきました。講堂跡と道を隔てて西側の広場で満開になっていたしだれ桜です。きっちりとディアーライン(シカの食害跡)が出ているのが、奈良らしくて面白い。こちらは同じ場所のもう一本。ディアーライン越しに見える白い壁は、正倉院のもの。正倉院から東へ進んで龍松院の前に出ると、はい、ありました小川に石を渡して越えたあと大仏殿に向かう「道」が。途中で後ろと前と写真を撮りました。先日の公慶堂公開では、公慶上人が勧進して歩いた道と思っていた方もあったようですが。(例の京都の街中歩いた地図もあるから紛らわしいかも)大仏殿の裏を通って、指図堂の裏あたりまでくると、こんなサクラもありました。カエデの新緑と相まって気持ちの良い風景でした。右手の塀は、勧進所(公慶堂などもこの敷地の中にある)です。 さて、このあとは焼門裏の喫茶「工場跡事務室」&「NATIVE WORKS」(どちらもお休み)をのぞいたり、大門市場が更地になっているのを見たり、一条通りに出て「萬林堂」さんのまんとくん看板や「ハタリ」さんの角細工を眺めたりなどしました。多聞城あとの若草中学へ向かう道で「コハル・カフェ」を見つけたりしたあと、多聞の町の中を抜けてきました。ちなみに佐保川北岸の「多聞町」は「絶対に普通自動車で入っていってはいけない」場所として知る人ぞ知る場所です。 えっと、ここで急にシカの写真です。それも、オスジカばっかりが10頭近くも木陰にたむろしています。じつは、ここ公園の中じゃないんですよね。 ここ、佐保川と一条通りの交わるあたりにある聖武天皇陵でした。こいつら、一条通を通ってここまで来たんだろうか。まあ観光客も来ないから、のんびりと草食べてくつろいでるようです。正面が聖武天皇のお墓ですが、右手奥には「仁正皇后陵」というのもあります。え、そんな皇后さん知らない? 実は、あの光明皇后の公式の名前が仁正皇后なんです。さてここから真南の方を目指して歩けば、奈良女子大学、花芝・東向北を経て近鉄奈良駅です。近鉄奈良駅をでて奈良交通バスのビルの横には「皇陵巡拝」のための石碑が残っていますが、気がつかない方も多いでしょうね。
2011.04.18
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「路地裏カフェ」の二つめです。震災前の3月上旬、朝のNHKで紹介された「奈良の路地裏カフェ」三軒、一つはすぐに判りましたが、あとの二つは「ならまち」ではなさそうでした。(三つ目は「山」がみえていた)二軒目の路地に入るあたり、どうも見覚えがある場所だったのですが、それは意外なところでした。 ここは、三条通り(下三条町)と大宮通りをつなぐ「今辻子(いまづし)」の通りでした。向うの「川本医院」は、象さんがシンボルの耳鼻咽喉科のお医者さんです。角に立つ赤い道標のところを左へ入ります。 今辻子町の会所などの先に、まずあるのがこちら。これはカフェではなくてギャラリーで、「OUT of PLACE」という名前です。その先にチラッと見えているのが「カフェ」でした。 「パビリオン」という名前で、絵本とコーヒーのお店ということです。テレビでは、ずいぶんと広々とした感じでしたが、場所はホントに「路地裏」の狭苦しいところにありました。とりあえず場所がわかったので、このあとは「今辻子町」を少し紹介しましょう。ここからは今辻子町のあれこれです。 さっきの質屋さんから50mほど三条通側に戻ると、こういう道があります。いまは東側しか残っていませんが、もともとは西の方、西之坂町に向かう道もあったようです。で、下の写真のように、開化天皇陵の参道敷地でまた途切れてしまうのですが、本来は林小路町まで続く道、いわば三条通りのサブとなる道でした。 (林小路側の道もホテルフジタの敷地まで来て、南へ曲がり三条通につながっている) 向こうに見える屋根は霊巖院のお寺で、このあたり、ホテルフジタの奥の方や御陵の敷地などは、住民はいないはずですが「百万ヶ辻子町」という町名がついています。「百万」というのは、謡曲「百萬」の主人公となっている春日の巫女で、その住処がこのあたりであったことから町名になったといわれています。その「百萬」の供養塔もあるのがこのお寺「西照寺」です。さっきの写真で突き当たりの少し手前に門の屋根が見えています。このあたり、徳川家康が大阪冬の陣で奈良に逃げてきた時のエピソード(桶屋の桶に隠れた)が残っていて、西照寺もかつての境内では東照宮を祀り、今も家康公の墓碑や位牌が残っているそうです。向う側林小路の漢国神社にも、家康が奉納した甲冑がつたわっています。 西照寺の手前には、今辻子町でお守りする神社「住吉神社」があります。三条通を挟んで南側にある「月日社」が、神功皇后の妹「与止日女」などを祀るのと好対照(住吉大社は神功皇后と住吉三神=表筒男、中筒男、底筒男を祀る)と思いきや、そう簡単ではありません。 この灯籠の柱には「九頭社」とあります。傍らの案内板によれば、もともと九頭神社、九頭大明神を祀っていたようです。明治の神仏分離では「明神」「権現」を禁止するようになっていますから、その関係で明治時代に住吉神社へと変貌したようです。(案内板では住吉三神と九頭明神と書かれています)三条通りの「裏側」にも、いろいろと面白いお店や歴史があるんですね。ところで、このページの写真撮ったのは3月11日のことでした。「その時間」には道で人と立ち話をしていて全く気がつかなかったんだけど、ある事務所に入った時に「今の地震気持ち悪かった」と言われました。
2011.04.17
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「楽人長屋」をおぼえていますか?1月3日の記事で、大乗院庭園文化館のトイレ入り口のことを書きました。「楽人長屋の復元」と謳われているけれど、ちょっと違うのではないかと。その後、どこかに当時の写真が残っていないものかと探していました。 そして、私が探しているのを知った方が見つけていただいたのが上の写真です。奈良市都市計画部が「奈良町都市景観形成地区」について紹介するために発行したパンフレットの中にあったものです。 ちょうど車が右手から顔を出しているのが、鶴福院の交差点で、そのずっと先の方はすでに道路が拡幅されているようにも見えます。電柱の手前に開いているのが、問題の「楽人長屋の土塀にあいた門」です。こちらの写真とは、あきらかに違いますね。昭和の写真で、電柱の向うには、馬蹄形ではない木造の「門」が映っていますが、こちらの方はちゃんと移設されていたのです。場所は伝香寺・いさがわ幼稚園の南側で、もともとは川(今は暗渠)に面していたところにあります。暗渠は「道路」ではないので、ちょっと目立たない場所ですが、案内板もついています。(手前の祠は、銘がありませんが弁天様のようです。) 案内板によれば、天井板から明和6年(1766年)の墨書が発見されたということですので、この門も「値打ちもの」であることは確かです。ただ、やはり「楽人長屋」と謳う以上は、あの特徴的な馬蹄形の門をきちんと復元してほしかったですね。ちなみに、楽人長屋のあったのは、このあたりということになります。この右手の方には柳生家のお屋敷と「飛鳥橋」(の欄干)があって道が曲がっています。
2011.04.16
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というのが、感想に出てきました。なにかというと、だんだん周囲の人にも知られてきた例の友楽東あと住宅専用マンションの問題です。なかには「えらい、なめたことするもんやな」ともいわれます。 そら京阪さん、大阪の中之島とくらべたら何やけど、これでも奈良では一等地やで、と。 登記情報によれば、友楽の二つの土地建物は、南都銀行によって貸付担保5億円、根抵当15億円という権利設定がされていたようですが、目先の資金回収で、将来の奈良に禍根を残すようなことにならなければよいがという意見もある。 東西の三条通の流れと、南北の東向・小西・餅飯殿・中街道の人の流れ、交流人口のいわば「潮目」にあたる場所だけに、「金の卵を産むニワトリ」となるはずの場所を首を絞めて解体=分譲してしまうという結果にもなりかねません。これだけの場所で住居のマンションというのは売れるのは確実で、たしかに「確実な資金回収」はできるのでしょうが。(一旦、底地まで含めて分譲してしまったら、万一あとで土地利用を変更するのは事実上無理でしょう。)少なくとも、こういうのだけは止めてほしいですね。 やすらぎの道、高天交差点近くのマンション。↑ この辺はオフィスビルも多いのですが、この区間は、一段とひっそりした感じです。 こちらは、ならまち大通りの北室町にできているマンション。下御門と勝南院の間です。いちおう「景観形成地区」としての修景は施されています。最近のマンションでは「セキュリティ」が売り物になっていることも多く、玄関には鍵がかかっていたりする。住民はそれで良いのでしょうが、近隣にとっては「大きな壁」ができているに等しい状態ですね。 で、「壁」ばかりのまちになってしまうと、こういう感じ。 ここは、7年前にあの「楓ちゃん」が誘拐された現場です。右手のマンションの防犯カメラに誘拐した車が撮られていたようですが、そりゃ「後の祭り」というもの。「人の目」とカメラの目では、意味がまるで違いますね。
2011.04.14
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公慶さんのお参りしてきました。今日4月12日は、江戸時代の大仏再建を行った公慶上人の月命日で(祥月命日は7月12日)昨年から法要のあと一般公開されることになりました。(毎月12日に法要がおこなわれています。) 大仏殿の西側からみた勧進所、この一角に公慶堂があります。ちょうど良い天気で、桜も満開。 ちょうど公慶上人も、こんな感じで大仏さまを見ておられるのでしょうね。
2011.04.12
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震災義援金の配分方法(第一次)が決まったとか。昨日8日に 「義援金配分割合決定委員会」が開かれて、赤十字などに集まった義援金の「第一次配分」の方法が決まったようです。義援金に協力しながらも「早く配ってほしい」「ちゃんと渡してくれるのか?」という思いも出てきていたところですし、ようやくスタートするのかというところでしょうか。第一次の配分は、以下の通りだそうです。(1)死亡・行方不明者に1人当たり35万円(2)住宅が全壊した世帯と福島第1原発の半径30キロ圏内の世帯に35万円(3)半壊の世帯に18万円被害の程度がまだ確定していないので、上記の配分で総額いくらになるのかは未定のようですが、生活再建には程遠くとも「とりあえずのお見舞い」というところでしょうか。ただ、ちょっと気になるのは(2)の項目です。福島原発30キロ以内(避難指示、屋内退避のエリア)が、「自宅全壊」と同じ扱いというのは、ちょっと気にかかりますね。なにか「全壊の扱いです。もう二度と元の家には戻れません。」と宣告されたようにも思えます。受け取る側の気持ちとしてはどうなんだろう。それとともに、「原発事故による避難」の扱いと、「地震・津波による全壊・半壊」の両方を同じように「義援金」の配分対象にするのはどうなのでしょう。原発事故については、まずは電力会社が「お見舞い」にしろ「補償」にしろ行うというのが「大前提」で、避難や退避の費用なども、今回なら「東京電力」の会社の責任ですね。 そこへ震災義援金のお金を配分するというのは、おかしいのではないか。募金に応じた側の気持ちとして、東京電力が出すべきお金を肩代わりするというのは変じゃないのか。そういう議論が、起こってきています。 もちろん、いま現在、困っている人がいるのだから配分しようということには異論はないのでしょうが、「天災の被害」と「事故の被害」とは明らかに違う。義援金として集めたお金を使うことで、「事故の責任」があいまいになるのではないかということです。実際、街頭募金などでも「人知を越えた天災」の被害に対してこそ、「自分にもできることを」と思ってお金を出しているのに、「東京電力原発事故の被害に」といわれたら、素直にお金は出せないのではないでしょうか。
2011.04.09
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文字ばかり続きましたので、 ちょっと春の雰囲気を。 先日、宇陀市のある施設の敷地の中で見つけた「ツクシ」です。実は、毎年この季節になると、たくさんのツクシが出てくるのですが、場所はナイショ。 少し探して袋に取り込み、しっかりと季節の味をいただきました。
2011.04.09
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JR西日本の「列車間引き」は回避へ先日来、震災&原発災のために、日立化成の工場がストップしたために、直流電動機のカーボンブラシが補充できなくなるということで、JR西日本の旧タイプの電車の運行を間引きするという話が出ていました。 特に、奈良駅発着の電車などに影響が大きいと言うことで心配されていましたが、JR西日本の発表では、何とか回避できそうです。 やれやれというところですが、「なお、現時点においても長期的な安定供給についての懸念は払拭されておりません。」とも書かれていますので、まだまだ安心というわけではなさそうです。 ところで、原発災絡みでネット上で話題になっているのが、「ずっとウソだった」というカバー曲。 斉藤和義の「ずっと好きだった」の曲を「本人?」が歌詞を変えて歌っているもの。You Tubeに上がるも一度は削除され、また別の動画サイトにアップされと「いたちごっこ」が続いたようです。「原発は安全です」ということばが、ずっとウソだったじゃないかという内容です。
2011.04.08
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そろそろ新学期、新学年の時期ですが政府から、こういうものが全国の生徒さんたちに向けて出されています。「国」からの文書にしては、ずいぶんと文学的かつ行き届いた表現で、ネット上では「書いたのは誰だろう。」「理系の菅総理とは思えない。」「文部科学省の三役の誰か?」とかウワサになっています。実際、なかなか歴史的な文書とも言えそうですので、全文をご紹介します。(中高生むけのもの。小学生には少し違ったバージョンがある。)東日本大震災に係る内閣総理大臣及び文部科学大臣からのメッセージ新学期を迎えるみなさんへ新学期を迎える皆さんへ 皆さん、入学、進級おめでとうございます。 皆さんは、この4月、希望に満ちた春を迎えるはずでした。 しかし、この春は、私たちにとって、とてもつらい春になってしまいました。 御存じのように、3月11日、あの未曾有の大地震と津波が日本を襲ったのです。皆さんの中にも、ご家族を亡くされたり、あるいはいまも避難所から学校に通ったりしている生徒さんがいることでしょう。 避難所の中では、皆さんが率先して、お年寄りや身体の不自由な方を助け、掃除をしたり、食事の準備をしたりしてくれているという話をたくさん聞いています。皆さんがボランティアで活躍しているという知らせも、たくさん届いています。本当にありがとう。 直接被災をした皆さん。皆さんは、十代のもっとも人間が成長する時期に、この大きな試練に立ち向かわなければならなくなりました。 いま抱えているすべての悲しみや不安から、完全に逃れることはできないかもしれません。でもいつか、皆さんが、その悲しみと向き合えるようになる日ま で、学業やスポーツ、芸術文化活動やボランティア活動など、何か一つでも夢中になれるものを見付けて、この苦しい時期を乗り越えていってもらえればと願い ます。 学校は、あらゆる面で、皆さんが、この逆境を乗り越えていくためのサポートをしていきます。 災害にあわなかった地域の生徒の皆さんにも、お願いがあります。 どうか、皆さんの学校にやってくる、避難してきた仲間たちを温かく迎えてあげてください。すぐ近くに、そういった友達がいなくても、遠く離れて不自由な 生活をしている同世代の友達を、同じ仲間、友達だと思ってください。そして、被害を受けた仲間の声に耳を澄ましてください。 この大震災を通じて、日本国と日本社会は、大きな変化を余儀なくされます。この大震災からどうやって国を立て直していくのか。自然と共生して生きてきたはずの日本社会が、その本来の姿を取り戻すためには何が必要なのか。 もちろん復興の過程では、「がんばろう」という元気なかけ声が必要です。しかし、それと同時に、新しい社会、新しい人間の絆(きずな)を作っていくために、大きな声にかき消されがちになる、弱き声、小さな物音にも耳を澄ましてほしいのです。 東北が生んだ詩人宮沢賢治は、科学と宗教と芸術の力で、冷害・凶作の多かったこの東北地方の農民を、少しでも幸せにしようと考え、そのことに一生を捧げました。 どうか、他人の意見もきちんと受け止めながら、自分で合理的な判断ができる冷静な知性を身に付けてください。しかしそれだけではなく、他人のために祈り涙する、温かい心も育んでください。そして、芸術やスポーツで人生を楽しむことも忘れないでください。 宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』には、こんな言葉があります。 「僕、もうあんな暗(やみ)の中だってこわくない。きっとみんなのほんとうのさいわいをさがしに行く。どこまでもどこまでも僕たち一緒に進んでいこう」 賢治の言う「ほんとうのさいわい」とは何でしょう。この大きな災害と混乱の中で、皆さんに、このことを考えて欲しいのです。 もしも、それを皆さんが本当に真剣に考えてくれるなら、きっと皆さんは、どこまでもどこまでも、一緒に進んでいけるはずです。そしてその先には、もっともっと素晴らしい新しい日本の国の姿があるはずです。 忘れないでください。一緒に進んでいくのは、決して日本人だけではありません。今回の東日本大震災では、世界中からたくさんの支援が寄せられています。 また、この非常時にあっても秩序正しく、理性を失わない日本人の姿に、世界中が驚き賞賛の声を揚げました。私たちは、世界と共にいます。 原子力発電所の事故に対して、危険をかえりみずに立ち向かう消防士や自衛官、電力会社の人たちの姿。各地の被災地で、救命救急活動にあたった警察官や医療関係者、そして何より、本当に命がけで皆さんを守ってくれた学校の先生たちの姿を忘れないでください。そして、みなさんも、もっともっと身体を鍛え、判 断力を養い、優しい心を育んで、他人のために働ける人になってください。 日本の未来は、皆さんの双肩にかかっています。 あなたたちのその笑顔、ひたむきな表情が、いま家族や地域の人々を支えようと懸命にがんばっている大人たちに、勇気と希望を与えています。 私たちも、全力で、皆さんの支援に取り組みます。 本当の幸せを求めて、一緒に歩んでいきましょう。 内閣総理大臣 菅 直人 文部科学大臣 高木 義明
2011.04.07
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5日から10日まで、東大寺本坊が特別に公開東大寺本坊で、小泉淳作画伯の襖絵40面などが公開されました。あわせて天皇殿・持仏堂なども特別拝観が行われています。 東大寺本坊は、南大門を入ってすぐ右手の一帯ですが、特別の用がないとなかなか入ることができません。今回の公開では、本坊の玄関ではなく向かって右手の「勅使門」を開いて(上の写真)そこからの出入りとなりました。拝観券の販売ブースも設けられていたので、特別公開を知らない一般の観光客も列に並んだりしたようで「こちらは大仏殿の拝観受付ではありません」というアナウンスも行われていました。5日の昼前には「80分待ち」だったようで、私が行った午後3時半ごろでも直前まで「40分待ち」の看板が出ていたようです。(写真は拝観終わってからのものです)この門を入りテントの受付を過ぎると、正面奥に天皇殿、右手に校倉の経庫、まずは左手の本坊大広間の縁側から、靴を脱いであがります。広間を巡る「蓮池」の襖絵を間近に見たあと、東南角の広間では、「吉野の桜」「しだれ桜」「東大寺本坊の桜」の三種の桜の絵が見られます。このうちしだれ桜は、宇陀の本郷滝桜、通称「又兵衛桜」を描いたものだそうです。一段高い北側の「上段の間」には正面に聖武天皇・光明皇后のお姿、左右に鳳凰、飛天の襖絵が見られます。(障子に貼られた散華は、大広間で展示) 関連グッズの販売所も設けられた本坊から戻って、次は、天皇殿へ上がります。 こちらの天皇殿では、正面に聖武天皇坐像、右手に菩提僊那坐像(両脇に持国天と多聞天)そして左手には、聖武天皇、光明皇后の復元衣装(御礼服)が展示されています。このお堂はもともと大仏再建の際に徳川幕府の助力を得るため「東照宮」として建てられたもので、明治の神仏分離で、勧進所天皇堂から聖武天皇像を移して「天皇殿」とあらためられたということです。5日午前には、公開に先立って聖武天皇殿に一山の僧侶が集まり、東日本大震災の犠牲者の追悼と復興を祈願する法要が行われたとのことで、堂内賽銭箱の位置には義捐金の箱と、法要で読み上げられた表白文が置かれていました。東大寺らしい格調高い文言だと思います。 天皇殿を出て、北東へ向かい門をくぐると、名残の椿や、ほぼ満開の桜などの美しい庭の先に持仏堂がありました。こちらには、餅飯殿ゆかりの聖宝理源大師の坐像がいらっしゃいました。手に持たれている猫じゃらしのようなものは、「五獅子の如意」というものだそうです。理源大師は、修験道大峰山の中興の祖で、京都の醍醐寺の開祖でもあるのですね。今回の特別公開・特別拝観、震災自粛ムードでいささか落ち込みがちな奈良の観光にとっては、ありがたい催しであったのではないでしょうか。華やかな襖絵と聖武天皇のお姿が、人の心に力を与えていただければと思います。
2011.04.05
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春日大社の「朝拝」に参加してきました。 今次の震災にあたって、春日大社では「被災者の救済」と「被災地の復興」を願って、「萬度祓」を行っておられます。祈願札を神前に立て「復興祈願詞」に続いて、中臣祓(なかとみのはらえ)を延べ1万回奉唱することで、神さまに願いを届けようというもの。大祓詞(おおはらえことば)とも呼ばれる中臣祓は、一般人も参加できる朝拝の他にもさまざまな拝礼の場面で神職が唱えていますが、それらを唱える回数*人数をカウントして一万回に達するまでやりましょうということです。(新聞報道では、中臣祓を何か特殊な祝詞のように書いているところもありますが、実は、戦前には「文部省監修」ということもあったようで、要するに神社本庁傘下の神社では極めてポピュラーなものです。まあお寺さんで言うなら般若心経みたいなもの。ただ春日大社は、まさに中臣氏~藤原氏直系の神社ですので中臣祓の意味は大きいと思います。)以下の写真は、神社のリーフレットより 春日大社では、もともと毎朝(特に祭事のある時を除く)9時から本殿に向かって左側の「直会殿」で行われる朝拝に、一般の参拝者の出席を奨励してきていますが、通常は大祓詞の奉唱は1回だけのところを、萬度祓祈願として今は5回ずつ唱えられています。4月4日は天気もよく、静かな朝の参道を抜けて、直会殿の板の間に上がるとやはり身が引き締まる思いがします。勝手に「3回」と思いこんでいたので、4回目あたりはさすがに足を少し崩させていただきました。5回終わったあと、あらためて春日大神に2礼2拍手、右へ直って御蓋山、そして伊勢神宮へも拝礼して、宮司のお話がありました。 そのあとは神職とともに摂社、末社を参拝します。若宮、夫婦大国社、佐良気神社、榎本神社などは一社づつですが、他は何社かまとめての拝礼です。1万回という「満願」ですが、この日で4千回ぐらいまで来ているらしい。カウントは、単に人数*回数だと私のように満足に唱えていない人も含まれてしまうので、7掛けか8掛けぐらいにしているようですが、要するに一般の者もどんどん参加すれば、それだけ早く達成することになる理屈です。(この日は神職以外の参加者が10名ほどでした)実際に皆さんの関心も高く、当初の神社側の予想よりもペースは速くなっているようで、ある程度先へ行ったら、現在5回ずつの所を3回ずつにして、より多くの方に参加してもらうという方法も考えられているらしい。(もちろん参加は無料です) 4月は、このあと5日、11日、21日をのぞく毎日朝9時から朝拝が行われます。萬度祓の関係で、少し時間が延びますので、約1時間みておく方が良いでしょうね。(最後は少しだけ御神酒がでます。)実は奈良でも、震災被害は切実なんです。 震災被害と言うよりも「原発災」が大問題。「外国人観光客」が、さっぱり消えてしまいました。昨年の1300年祭では、ずいぶんたくさんの外国の方が見えましたが、まるきりダメ。この間、外国人向けに「ゲストハウス」スタイルの宿がずいぶんと増えていたのですが、「日本は危ない」「放射能がどこまで流れるか」ということで、みんなアウトです。写真は「中街道京終」シリーズで撮っていた北京終町の「町家ゲストハウスならまち」さん。オーナーの安西さんがテレビのニュースに出てましたが、ホントに大変です。
2011.04.04
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震災前のことですが、朝のNHKで奈良の町の「路地裏カフェ」が、三ヶ所ほど紹介されていました。何しろNHKは店名を出さないので、どこのことなのかなかなか判らない。ただ、最初のここだけは、ははーんとすぐ見当が付きました。 この写真で見える、二軒の棟割り長屋が「沙緒ながや」という、アンティークとか、カフェとかの集まる一角。テレビに出たカフェは、左の方の建物にある「パーラー・チェリー」というお店です。たしかに、その二階の窓からなら、五重塔などもよく見えるはず。ただし、こちら側からは入れません。路地の入り口には柵が置かれています。で、入り口の方は鶴福院町の通りからになります。以前は、通り抜けのできる路地で、この駐車場やアパートの敷地にも昔は何軒かの町家が建っていました。向かって左手のブロック塀のあたりには「シュークリーム」を作る工場があったし、右手には墨やお菓子の「紙箱」をつくる家がありました。 路地の入り口はこちらです。入っていくと途中で少し曲がって、長屋二軒で挟まれた空間があります。右手のガレージの部分は、もとは町家があって、その下をくぐっていくような路地でした。ちょうど、先日終わった朝のドラマ「てっぱん」で「田中荘」や「橘不動」のある一角に、外からの人たちが出入りする「トンネル」みたいな路地が、当時のこの辺とよく似ていますね。で、ここのことはすぐわかったのですが、あと二軒は、ちょっと私にもすぐは判りませんでした。てっきり「ならまち」エリアだと思っていたら、実は、意外なところでした。それはまた次の機会に。
2011.04.03
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