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今日1月31日付の毎日新聞奈良版で、8車線化(高架4線、平面4線)された大宮道路の渋滞が解消していないという記事が出ました。 問題の場所は、こちらですね。これまで地上の4車線だった阪奈道路について、近鉄橿原線を越えたところから、宝来町の奈良パークホテル付近までの区間を拡幅&高架4車線増設して、渋滞を解消しようと言うものです。(「概成」ということですので、まだ完成というわけではなさそうです) 尼ヶ辻から西へ、尼ヶ辻橋東詰の先、近鉄線を越えると高架道路と地平道路に分れる↑ 阪奈宝来交差点は、大宮道路(阪奈道路)と大和中央道の立体交差↑ 最大の問題が、この宝来の阪奈&第二阪奈と大宮道路高架&地平の複雑なやりとり↑新聞記事では「高架道路から第二阪奈道路に入れない」ことが問題としてあげられていて、県も将来的にはこの点を改善したいとしています。 ただ実際には、このあたりの通行はもうちょっと複雑なんですよね。車線を選び間違うと目的地に行けなくなるという「クイズ」か「パズル」みたいな目に遭います。唯一、第二阪奈から来た場合は、「高架か地平か」を選べます(「大宮通りか三条道路か」も選べる)が、それ以外は違います。 その1) 1300年祭春フェア開幕前に拡幅開通して、無料シャトルバスのスムーズな運行にその功績大であった「三条道路」(三条菅原線&R308号)ですが、広々と気持ちの良い三条道路から、大宮道路の高架へは入れません。 せっかく気持ちよく走ってきたのに、大宮道路地平の信号に引っかかってしまいます。がっかり(但し大宮道路地平からは、第二阪奈、阪奈どちらへも行ける)その2) 記事のように、第二阪奈へすすむような場合は、尼ヶ辻を過ぎた時点で地平に降りて信号に捕まりながら宝来ランプをめざしますが、知らずに高架に上がった場合は、上記写真の宝来で第二阪奈方向への車線変更が出来ないので、そのまま阪奈道路を学園前インターまで進んで、藤の木台を抜け、砂茶屋から第二阪奈中町ランプへ上がります。 近鉄線越えから第二阪奈までの間、地平をとおれば信号は「4ヶ所」ですが、高架を通っても、そのあと学園前インターから信号が「7ヶ所」もあります。(いったいどうしろというんでしょうねえ)その3) これまでの阪奈道路を生駒方面から来た場合も要注意です。奈良国際ゴルフ沿いで右手から第二阪奈が割り込んでくるあたり、これまでなら、右に行こうが左に行こうが別段支障はなかった(まあラブホテルに入るには左でしたが)のですが、現在は「ここが運命の分かれ道」で、右=高架道路、左=地平道路と進路が決められてしまいます。 (第二阪奈からの車線を越えるような車線変更は不可) ☆なぜこんな「ケッタイな」ことになったのでしょう。巷間伝わる話では、道路設置者の県側では、宝来での4者(地平・高架×阪奈・第二阪奈)スクランブルをさせるつもりだったのが、安全第一の警察からストップをかけられたというもの。たしかに、大宮道路地平以外のどちらからも「下り坂」で車が交錯するというのはちょっとおそろしい。 普通に考えれば、自動車専用で信号のない第二阪奈と、大宮道路高架部とを直結するのが自然に思えるのですが、そうならなかったのは、何か「オトナの事情」があったのでしょうか。さいわいにも、1300年祭の混雑はなんとか乗り切れましたし、大きな事故もなく過ごしていますので、これからどうするのか、智慧の出しどころのような気がします。
2011.01.31
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いやー、奈良は寒いです。 昨夜、置いて帰った車を引き取りに行く途中、猿沢池の横を通りました。 なんでもない感じに見えますけど、これ池の水面は半分凍っています。半分から向う側のさざなみがたっているところは、凍っていないところ。それ以外は、ピシッと凍っちゃってます。空が晴れているということは、朝の冷え込みがそれだけきつかったということですね。 12月ごろからだったか、猿沢池の水がえらく澄んで見えるようになりました。深さは、5~60センチあるかないかに見えます。「納豆菌」由来の薬剤を使うと、水が透明になるらしいですが、誰かが処理をしたのでしょうか。以前に一度、透明化された時は、底にころがってる空き缶や携帯電話などのゴミが見えてしまって、興ざめでしたが、今回はそうでもないようです。 猿沢池については、どこからその水が来ているのかご存じの方は少ないと思いますが、こちらのサイトにその答えが出ています。「奈良公園を流れる川」この図の、飛火野の中程を流れる川(「鹿男あをによし」で小川先生がナンキンハゼの木の下でしゃべる鹿に驚いて転げ落ちた「みぞ」です)から、サイホンだのいろいろと通り抜けて、猿沢池にやってくるのですね。五重塔の下の池から、五十二段の横の水路を通って、池の北東端に流れ込んでいるようです。池の南側の「菩提川」は、池からの排出一方で、池の水量には無関係です。(この部分の菩提川は、実際に水量のある「暗渠」と、目で見えている表面の「流れ」と二重になっているようです)ともあれ、きょうの猿沢池は、落語「猿後家」(猿のような顔の商家の後家さんに、番頭たちが「いかにして猿という言葉を使わないか」と苦労する話。オチでは、小野小町か照手姫かなどとおべんちゃらを言ったあげくに「楊貴妃」ならぬ「揚ヒヒににております」と溜飲を下げる)に出てきたように、「さるさわのいけ」ならぬ「寒そうの池」でありました。
2011.01.30
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おん祭りから初詣、そして次は節分の万灯籠春日大社の行事も次々と続きますが、おん祭りに関わったグループの「おさらい会」がありました。 春日さんには本殿や祈祷所、摂社・末社の他に、貴賓館や慶雲殿といった建物があります。春日大社で婚礼を上げた方は、控え室の貴賓館や、披露宴の慶雲殿はご存じかも知れませんが、通常の参拝などでは、このあたりにはあまり用はないでしょうね。春日さんにまつわるいろいろな話が出ましたので、少しご紹介します。☆競馬・流鏑馬の「復興」は、850回おん祭りから。 前に、競馬のことを書いた時確信が持てなかったのですが、たしか昭和30~40年代には「競馬」とか「流鏑馬」とかは行われていなかったのですよねえ。亡き父親が、当時「昔は、競馬もあってなあ」と語っていた記憶があるのです。 「蘭陵王と納曽利の順を決める競馬ってずっと続いていたのですか?」と尋ねてみましたら、「天皇や皇太后など皇室の直系のご不幸があった年は、"賭け事"はやってません。」 いやそういう意味じゃなくて、近世は続いていたものが戦後の混乱期に途切れていたようなことは?ということなんですけどと突っ込むと、やはり「そりゃ、古儀の復興は850回からですから」ということでした。 1985年(昭和60年)は、1136年(保延2年)の第1回から数えて850回目の記念すべき祭事で、その6年前の1979年(昭和54年)に「春日若宮おん祭の神事芸能」が、国の重要無形民俗文化財に指定されます。文化財にふさわしい「伝統に則した内容を」ということで、近代に付け足されたものを取り除き、かつて行われていながら廃れていた儀式を復興させたのです。お渡り式のうちで「番外」や「先行」などと表現されているものは、付け足されていたものを取り外した「名残り」のようです。(昭和50年代ころの「お渡り式」って観光協会主導だったのか、ブラスバンドやバトントワラーなど!!が先行する反面、肝心の「大名行列」なども高齢の「ガイド」たちがショボショボと歩いていたといいます。)そうした「おん祭り」の変転については、奈良市教委の岩坂氏の講義内容が参考になると思います。☆神職の「階級」ってどんな感じ? 神社とお付き合いしていると、いろいろと独特の職名を聞くようになります。「宮司」さんというのは一般にも知られていますが、権宮司、祢宜(ねぎ)、権祢宜(ごんねぎ)となると、なんのこっちゃと思いませんか。この場合の「権」というのは、権現と同様に「かりの」とか「代理」みたいな意味。(アバターとはちょっと違うか)字面だけ見てると「権力のある宮司さん」なんて勘違いしそうですが、そうではありません。「祢宜」というのは、神官一般を指す言葉としても使われていて、高畑の社家町から原始林を通って春日大社に神官が出勤する道三本は、「上の祢宜道」「中の祢宜道」「下の祢宜道」と呼ばれています。(下の祢宜道は、「ささやきの小径」とも呼ばれていますね) 興福寺大乗院のあった奈良ホテルの方向から、鹿苑の横を通って春日大社二の鳥居に通じる道は「鷺坂の道」または「地僧道」といいます。ちなみに権祢宜の下は何て呼ぶのかというと「出仕」というんだそうです。ただ、神職の階級は、そういう職名の他に「1級」「2級」「3級」とかがあるといいます。現在の春日さんでは、袴の色で区別しているらしい。(2級=紫、3級=水色)ただ、昔の海軍の「艦長」「副長」「機関長」などと「大佐」「少佐」「大尉」などの関係と同様、「宮司」「祢宜」と、1級、2級とは必ずしも連動はしていないようです。まあ、他にもいろいろあるようですがややこしいので今日はこの辺で。☆天皇陛下の参拝に関するルール 最近では、平成20年に天皇陛下と皇后陛下が、春日大社を正式参拝されたそうで、その折のお写真が飾られています。で、それに関して「えっ、そうなの」というルールが。 それは、在位中の正式参拝は「一回こっきり」という決まりなんだそうです。たとえば、宝物をご覧になったり、舞楽などを参観されたりということは、これまでもこれからもあるようですが、「春日大社の神に、神道式で正式に参拝されるのはこれでおしまい」なんだそうです。別に、戦後の憲法の「政教分離」なんてこととは関係なく、ずーーーっと昔から、天皇の参拝は「在位中一回きり」と決まっているのだそうです。へええ、ですね。 勝手な想像ですが、皇室に直接関係する「伊勢神宮」や「橿原神宮」などとちがって、春日大社はあくまでも臣下の藤原氏の神さま。ということで「なんども参るのは、えこひいき」になるからなんでしょうかね。 まあ、いろいろな「へえ」を知って、春日さんが身近になっていただければいいかな。 あ、「春日さん」といえば、この本は、神職の間でも話題になっているそうですよ。
2011.01.29
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卸売市場時代の京終中街道について、 ちょっとした資料が手に入りました。 昭和の時代の「ゼンリン住宅地図」を引っ張り出してみました。 南都水産のHPにもありますが、昭和52年から54年にかけて、郡山の筒井に「奈良県中央卸売市場」が設置されたことで、京終の卸売市場の業者はその店をそちらに移しました。ちょうど52年と54年の奈良市東部住宅地図がみつかり、京終地方西側町、東側町から桜井線踏切にかけての当時の店の名前などが推測できたのです。やはり、52年と54年とではわずか2年の間にいくらか変わっているのですが、じつはそのころの住宅地図って、家や店の名前や町名が「手書き!!」なんです。なので、建物の間口なんかも、今の地図とは微妙にズレているので、必ずしも「当時と今との屋号、世帯名が対照できる」とは限りません。まあ「大いに参考になる」というあたりでしょうか。 まずは、「奈良中央漬物」のあったところのビルです。やはり普通の住宅とはちょっと違いますね。現在の郡山の市場のHPには、業者としてその名前は見あたりません。左手の角の石は、昨日の「京終青果卸売市場」の敷地です。これが、四つ角の北東側で、南西側にあるのがこちらです。 昭和の住宅地図では「生菓子の浪速堂」ともう一軒のように描かれていますが、よくわかりません。ちなみに現在の市場のHPでは、浪速堂さんは健在のようです。整骨院がテナントに入っています。 その向かいの3階建ての並びのうちの一つがこちらですが、古い地図では「奈良鶏卵」の場所のようです。(社名が変わったのか、市場のHPには名前がありません) 「奈良鶏卵」のあった中街道東側の並びです。車の上に交差点の点滅信号機、その右の白いのが先ほどの「奈良中央漬物」の建物ですね。昭和地図によれば、道を渡って屋根と柱の見えているのが「大和青果市場倉庫」、こちらへ一軒挟んで、「加藤青果(株)」「奈良鶏卵」「(株)ヤマカン&吉田商店」「富森商店」そして、売家の看板が出ているのは「かねてつ奈良直売所」ということになります。 ちなみに「ヤマカン」さんは、現在の中央市場でも活躍中です。 さらに南へは「太田商店」「田和新商店」「笹本商店(現在と場所が違うようです)」、さらに「八尾倉商店」「東商店」「奈良塩乾物(株)」と続きます。 そして、その南、踏切手前の「近藤たばこ店」までの間、昭和54年版では、現在のような建て売りっぽい家並みが10軒近く描かれていますが、52年版では空白になっています。この「更地」というか建物のない敷地が、まさに「市場」だったところのようです。 反対の西側にも、商店の名前が並んでいます。大きいのが「北和海産」の敷地(裏には社員寮もある)、今もある「奈良種苗園」「奈良塗料」の他に、「八尾かまぼこ店」「食肉卸センター」「大和青果市場バナナ加工場」「総合食品卸スーパーサンコ」などの名前が見えます。そして今の「北和海産」跡地は、こうなっているんですね。「ケアハウス らくじ苑」 もともと、かなり大きな敷地だったようで、立派なビルが建っています。いずれにしても、道路の幅に対して、両方の建物(半分ほどは「しもた屋」ですが)がずいぶんと立派なのが、このあたりの特徴かも知れません。「おかたに病院」も近いので、これからは介護や整骨などの事業所が増える可能性も高いですね。 最後に、「イワイのパン」のことですが、かつての場所(中街道と藤井家=谷井友三郎氏生家との中程)に今も美しい町家の姿がありました。(市場の関連業者で名前が上がっています) 京終周辺、意外と奈良らしい建物があちこちに健在なんですね。「お口直し」の写真としてどうぞ。
2011.01.27
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卸売市場だった京終の中街道今度は逆に、JR桜井線から見てみます。踏切から見えるのは「奈良塗料」、そして包装資材の「笹本商店」、その先には「奈良種苗」。これらの店はやはり一般消費者相手の店ではありませんね。いわゆる「プロ仕様」の店が、今も並んでいます。(写真にはありませんが、並びの先には飲食店に卸している「奥戸製麺所」もあったはず) さらに北へ進むと交差点の角に「廃墟」のような駐車場がありますが、これが実はかつての「京終青果卸売市場」だったのですね。途中には、水産関係卸の建物もあったはずですが、同じく駐車場などとして使われたあと更地になってしまったようです。少し前の住宅地図だと、この向かい側(中街道を挟んで東側)には、「奈良中央漬物」という会社の名前が見えます。 そして青果市場跡の裏にあるのは、こちら水産卸の「南都水産」の本宅と社員寮です。南都水産は、「川徳」とも称されて、奈良の生鮮食品卸売のリーダー企業ですが、今は大和郡山市の中央卸売市場での事業が中心となっています。川徳=故2代目川井徳蔵氏の実弟が、市内寺町で質屋「川春」を営んでいた故川井春三氏でした。 この通りを、中街道の反対側(東側)へ進むと、餅飯殿や下御門から鳴川町、瓦堂町と下ってきた「中つ道」との角に「京終天神社」が見えます。その「北京終町」あたり「イワイのパン」があったはずですが、見あたりませんでした。付近の美しい町家の写真を撮った中にあったのが、この写真の家でした。(向うに、天神社の赤い鳥居が見えています) あとで、ここが「谷井友三郎」氏の生家(藤井家)であったと知ったのは、tetsudaさんのブログで「なんか見たような家だな」と思ってのことでした。寮美千子さんが、「売りに出てる、何とかしなくちゃ」と言っていたのはここのことだったのですね。その後、売り家の話はどうなったのか、2011年1月現在、この姿のままではあったのですが。
2011.01.26
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話を「奈良町の中街道」に戻します。 本当は卸売市場の方が、中街道と京終の「本題」なのですが、その前に小売市場を ニチイ(現ビブレ)、ダイエー(撤退)、いそかわ(パケット)が出来る前の、食品を中心にした買物は、「小売市場」がメインでした。なかでももっとも賑わっていたのが「椿井市場」、そして「椿井市場」の客を奪うような形で繁盛していたのが「奈良市場」でした。まずは「椿井市場」のほうから。 「椿井市場」は、その名の通り椿井小学校と中街道を挟んだ位置に入り口があり、西へ100mほどの長さのある市場でした。昭和30年代には、青果、乾物、鮮魚、かまぼこ、生花、精肉、酒、味噌などの店がいくつも連なって大変賑やかなところでした。一部に、衣料品の店もありましたが、衣料・雑貨や電気・時計などの「もちいどの」と、食品なら何でもあるとも言われた「椿井市場」とは、まさに「名コンビ」でした。薄暗い通路にまぶしい裸電球の下、天井から下がった籠の現金と「サービス券」(台紙にノリで貼る)、電動で回る「はえ取り紙」、濡れた路面と店主たちの長靴姿といった情景は、当時の子どもたちにとって一種の「ワンダーランド」だったのです。 今は、東側入り口から3分の一ほどに「鶏肉・焼き鳥」「鮮魚・惣菜」「青果」の店の他、中華料理店などが残るほか、中程の生花店(女将は大仏さまの花を生けているという)や西端の酒店などが「生きて」います。かつて火事で存続が危ぶまれたことがありましたが、「倒産防止共済」を活用して東側の店が生き残ったというような報道があったと思います。(北隣が製墨の老舗「古梅園」ですが、製墨には「煤」を採るために菜種油の灯火が燃やし続けられます。なんどか発生した椿井市場の火事の中には、古梅園の灯火が移ったものもあったようです。) さて、椿井市場から北に100mあるかないかの位置に出来たのが「奈良市場」でした。もとは「セントラル映劇」だったかの映画館でした。その今の姿はこの写真です。 市場時代の建物の躯体はそのままで、1階がコインの駐車場、2階は市場のころから続く飲食店となっています。細長い椿井市場とちがって、間口の広い奈良市場は、お客の回遊性もよかったようです。現在「もちいどの駐車場」になっている率川(暗渠)の向う側も含めてかなりの広さがあり、椿井から移ってきた店もかなりあったようです。ちなみに、奈良市内のケータリング大手「東鮨」の発祥のころの「お持ち帰り寿司」の店の一つが、この奈良市場の南西角にあり、のちに「のれん分け」で独立したオーナーの店になりました。 現在、猿沢池近くにある「かきまぜ奈良うどん ふく徳」は、この奈良市場にあった「福助うどん」に弟子入りした方が、店を引き継ぐ形で営業されているはずです。また2階の飲食店でもバー「バック・ザ・フェイス」やジャズスポット「とらきち」などのお店は、奈良の夜遊び人種には懐かしいお店となっています。 さて、中街道を南へすすむと、もう二つの「市場」があります。 まずは、西木辻町といっても南城戸町の「音声館」駐車場のすぐ隣にあるのが「錦市場」です。京都の錦市場とはなんの関係もなく、「にしきつじ」町にあるから「にしき」市場と名付けたような。ここも本来の「市場」から飲食店中心になっていたことがありますが、それも姿を消して、理容美容とコインランドリーが残っています。たしか、こちらでも火事があったような。 そして、今一番元気なのが東木辻町にある「ビッグナラ」ですね。 実はこの場所も、昔々は劇場だったといいます。その後、キャバレー(たしかミスナラとか言ったような)になり、それがのちに小売市場になりました。ビッグナラは小売市場から、単一レジによるスーパー形式の店舗となり(経営体は「商業協同組合」)、さらに近年は「きたまち」手貝門近くの「若草店」や、五条西町の「西の京店」などを出店するに至っています。(追記)「ミスナラ」 ではなくて 「ナラタウン」 だったらしい。ミスナラという店は、猿沢池の近くの「池之町」にあった。一つ上の「錦市場」も、その前は劇場だったようです。(追々記)ご近所の方から古い情報をお聞きしました。・錦市場 「奈良劇場」という芝居小屋で、旅回りの大衆演劇がやって来ていた。・ビッグナラ この場所は、遊郭時代の診療所があったところ。そのころから今の駐車場の所へ張り出した敷地だったという。劇場だったということはない。 ところで、いまのこの付近(市内循環バスでいうと「綿町」「北京終」あたり)の様子を見ると、「なんでこんなところにキャバレーなどが?」と不思議に思われるでしょうが、それにはいくつかの要素が考えられます。 一つは、歴史のある「木辻の遊郭」の存在です。ビッグナラの北にある坂道やその東側の花園町あたりが、その場所でした。もう一つは、京終付近が「卸売市場」を中心にした「商業エリア」であったこと。つまり、この辺はもともと「お金がよく動くところ」だったのですね。さらに、循環道路をもう少し東に行けば、高畑(現在の教育大、女子大附属中高)は「進駐軍」の基地でしたので、そうした需要も高かったのでしょう。 次は、京終周辺の「卸売市場」と周辺のようすをたずねてみることにします。 ☆大事なことを忘れていました。椿井市場の「あの、お店」です。椿井市場の、たしか以前は「漬物屋さん」のあったところに、 小西通りから移ってきゃはったんですわ。もとの店は、コトーモールのところにあったんやったかなあ。「無愛想」というのか「お客に注文が多い」というのか、当時の奈良市の商店街の会長のところになんどか苦情の電話が入ったというあのお店です。「二つ下さい」というと、必ず「二個ですね」と言い返さはります。まあでも「予約は出来ません」とか「大きいお札はダメ」とかいうのは、直接目の前に来てくれたお客さんが大事で、釣り銭のために饅頭のための大事な時間とられたくはないということなんでしょうけどね。実際、饅頭は美味しいですし、私は、寝込んでいた母のためにわざわざ買いに行ったこともあります。で、なぜ餡が紅白揃ってもいないのに「夫婦饅頭」なのかが、最近ようやくわかったんです。(知らなかったのは私だけかも。一時「白あん始めました」と書いてあったけど、今はどうなのかな。) それは「白い肌と肌とを合わせて作るから」 なんですと。間のアンコの色はどっちでもよかったようで。どこやらの街道筋の夫婦饅頭の店の売り文句らしいです。なんやらえらい「大人の味」ですなあ。
2011.01.25
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昨日分の「続報」になりますが、いよいよ2月、シネマデプト友楽のうち東館について、解体工事が始まるようです。近隣に、県内広陵町の業者さんから、工事のお知らせが配られたようです。三条通りに面するところから、裏の「猿沢遊歩道」のところまでを、5月末までの予定で重機を使って解体するのだそうです。 なお、お知らせチラシには「施主」の名前は書かれていませんので、「H工務店」なのかどうかは確認が出来ません。三条通りの「地区計画」とは 平成9年10月27日に施行された「三条通地区地区計画」では、以下のようなことが定められています。(区域は都市計画道路三条線の境界から両側に15mで、南北46m、東西880m、約3.9ha) *地区計画の目標 (前略)地区計画を策定することにより、三条通をより奈良らしいシンボル性のある道路に整備するとともに人々が遊び楽しめる沿道を含めた商業市街地の形成を図ることを目標とする。*土地利用の方針 商業地として適正かつ合理的な土地利用を推進し、緑豊かな風格とにぎわいあるショッピングモールとして商業施設の集積を図る。(後略)*建築物等の整備の方針 (前略)なお、三条通に面する1階部分の壁面はショーウィンドウ、透視可能なシャッター構造等の街の賑わいを高める構造に努める。 ◎建築物のさまざまな「制限」については、奈良市の条例により規定されています。 奈良市地区計画の区域内における建築物の制限に関する条例第3条(用途制限) 別表第2 (三条通地区地区整備計画区域の項目) (1) 自動車修理工場 (2) この表の付表の危険物の欄に定める危険物の貯蔵又は処理に供する建築物(建築物の維持管理上必要なものを除く。) 第5条(壁面の位置制限) 3 三条通に関しては「建築物の外壁またはこれに代わる柱の面は、都市計画道路三条線の境界線より三条通側に設けてはならない。 (都市計画法53条2項による建築の許可を行わない規定)但し、「商業施設」とか「ショーウィンドウ」などについて、明文での「強制規定」までは条例には掲げられていませんね。他の地区では「この用途以外は禁止」というものがかなり事細かに書き上げられているものがありますが。
2011.01.25
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昨年の1月、奈良に大きな衝撃が走りました。 平城遷都1300年祭が始まって間もないという時期に、映画館「シネマデプト友楽」の閉館でした。同館のHPは、今も当時のままで残されています。 こちらは、三条通りと中街道との角の「シネマデプト友楽西館」 かつては「ニュース館」と呼ばれる映画館で「奈良東映」を経て、現在の姿に建替えられていました。1階表の「モスバーガー」もすでに閉店しています。 こちらは、かつて「友楽会館」のあった「シネマデプト友楽東館」ですが、三条通りに面したところには「セガ」のゲームセンターがありました。裏側は、菩提川~率川を暗渠にした「猿沢遊歩道」や「餅飯殿駐車場」に続いています。 奈良の町の大事な場所のこのような姿を見せるのは、決して本意ではありません。大切な人がノーメイクで昏睡する姿を衆人に晒すようなものです。しかし「兵どもの夢のあと」ともいえるこれらの場所から、どうやら「次の夢」が生まれる気配があるということで、あえてここに取上げてみました。 (株)友楽は、かつて「谷井興業」という名前で、奈良の市会議員・県会議員、奈良市観光協会長などを務めた谷井友三郎氏がそのオーナーでした。 上記の2館の他に、下三条町には「友楽座」という映画館もありましたが、そちらは三栄相互銀行>奈良銀行>りそな銀行の敷地となりましたが、現在は更地となっています。(入江泰吉さんの写真集「古都の暮らし・人」=奈良市写真美術館発行=のfig11には、昭和31年の友楽会館の一部が映っています。上の写真二枚目の自転車が置いてあるあたりですね。) 谷井友三郎氏の名前は、春日大社二の鳥居前の立派な狛犬にも記されていますが、現在50歳代後半以上の奈良市民には、50年前の「奈良遷都1250年祭」の記憶が鮮烈に残っているはずです。トップスター「長谷川一夫」らを奈良に呼び寄せ、まる3日間三条通りから春日野グラウンドに向かう連日のパレードを開催するなど、「興行師」として持てる力を奈良のためにすべてつぎ込んだ姿は、決して忘れられないものがありました。その「谷井さん」の会社が、50年後の「平城遷都1300年祭」の年に手仕舞いをすることになるというのは、なんという運命の皮肉かと思われたのでした。 昨年5月に開催された「まちなか1300年祭」は、その「1250年祭」のおぼろげな記憶を持つメンバーが、「次の50年後にもなんとか伝えていきたい」という思いをもって実施したものでした。そして、50年前に谷井氏によって製作された「奈良遷都記念祭」のみこしが、美しく整備されて子どもたちとともに奈良のまちなかを練り歩いたのです。 現在、西館は建築当時に関わった「S建設」が、そして東館はマンション建設大手の「H工務店」が、その活用について関わることになったようです。かつての友楽会館は、映画館の他に、書店・交通公社・サウナ・ビリヤード・展望レストランなど極めて多彩な「生活文化」の拠点でした。次の50年に、どのような「奈良の夢」が描かれるのか、未来を見据えていきたいものです。*しかし、実は少し気になることもあります。 東館が、もし「住居専用」のマンションになってしまった場合、はたして現在の周辺の「商業エリア」としてのレベルが維持できるのかどうか。中心市街地活性化の大きな要素は「まちなか居住」なのですが、「居住」と「にぎわい」とは必ずしも利害が一致するとは限りません。現在三条通りは、日曜祝日の「歩行者天国」が実施されていますが、「住民」としてみればどうなのか。有名になった「中谷堂」の高速餅つき実演の人だかりは、同様に「住民」からみればどうなのか。JR奈良駅から猿沢池に至る区間の三条通りには「地区計画」が設定されて、商業地域としてふさわしいまちづくりが想定されていますが、「住居」との関係がどうなるのかは注意の必要がありそうです。
2011.01.24
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奈良町の「札の辻」はご存じですか。上の写真は、かつて橋本町の「南都まほろば会」が復元した高札場です。昨年、里程元標も復元されました。三条通りと、餅飯殿・東向の通りが交わるこの場所は「札の辻」と呼ばれています。(最近は、中谷堂の高速餅つきが有名になっていますが) 奉行所からの命令などの「高札」がこの辻に掲げられたことからくる名前です。階段の上は「手力雄社」、その向うはかつてNHKがありましたが、現在は興福寺の信徒会館となっています。 大和盆地の南、八木にも「札の辻」があります。 こちらは、近鉄八木駅の少し東南の位置になります。この建物の全景は、次の写真で。 この場所は、大和盆地南部を東西にはしる「横大路」と、奈良町から郡山、田原本を経て南下してきた「中街道」との交わるところ。横大路は「伊勢街道」とも呼ばれますが、そのルーツは「最古の官道」である竹之内街道ですし、中街道はいまでいう国道24号線、京奈和道のいにしえの姿。まさにこの場所は、今の近鉄八木駅に相当する場所だったのですね。 上の写真は北の方=奈良方面を向いて写したもので左(西)側が、先ほどの建物、そして右(東)側の建物も、ともに旅館であったということです。中街道は、この先、近鉄大阪線の踏切を越え、現在の国道24号と斜めに交わり、寺川沿いに田原本町役場へと進みます。 また、逆の南方向には「井戸の辻」で国道165号を越え、JR桜井線を渡って晩成小学校から飛鳥川を越えます。(とちゅうで東へ曲がると、おふさ観音から藤原宮跡へとつながります) ちなみに、井戸の辻には「岸の竹酒造」という造り酒屋さんがありますが、その前には「八木町道路元標」という石碑もあります。 奈良市の「ならまち」に対して、橿原市の「今井町」が伝統的な建造物の保存地域(奈良町は「景観形成」地域)として有名ですが、実は、近鉄大阪線からJR畝傍駅周辺、おふさ観音・飛鳥川にいたる中街道沿道には、まことに立派な「町家」の建物がたくさんあります。奈良町の町家が、間口よりも奥行きの深い「鰻の寝床」スタイルなのに対して、八木町にはかなり間口の広い建物が多い印象があります。あくまでも個人的な感想ですが、環濠の中の閉鎖的な「今井町」エリアよりも、街道筋の「八木町」の方が親しみを感じます。ある意味では、クローズアップされた「今井町」が商業的にはあまりプラスになっていないことが、八木町の「町並み保全・活用」に対して「足を引っ張る」ことになっているのではないかとすら思うのです。 奈良町の「中街道」と八木町の「中街道」、二つの街道筋に注目していきたいと思います。 http://kazabito.com/yamato_yagi/
2011.01.22
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飛火野では「春日の大とんど」準備中 あす22日は、第4土曜日ということで「若草山焼き」と「春日の大とんど」が行われます。明日は予定があって「大とんど」に注連飾りなどが持ち込めないので、一足先に飛火野に来てみました。シカが様子を眺めるなかで、「尾田組」のスタッフたちが、鉄パイプを組んで破魔矢などを持ち込み、大とんどの「火炉」の準備作業をしていました。我が家の「注連飾り」や「お札」などを預けてきました。 尾田組は、永らく春日大社や東大寺などの「営繕」や「大工作業」など請け負っている会社です。おん祭りの御旅所の設営や、道具の受け渡しなども行っています。(一般の建築や下水関係の工事も行っています。)大仏前の「夢風広場」が、もともと尾田組本社ですが、現在は高畑の「旧NTTふれあい会館」に移転しています。 帰り道、大仏前バス停からその夢風広場の前を通りすぎると、南大門駐車場入り口では「れすとらん南大門」の解体の準備がはじまっていました。映画館「シネマデプト友楽」の廃業とともに、グループの「れすとらん南大門」も廃業・売却になったようです。この付近は、さまざまな規制があるはずなので、一度取り壊したあとに何かを建てるのは難しいのではないかと思うのですが。
2011.01.21
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奈良町の「中街道」をご存じですか。 下の写真は、角振町の「隼神社」に掲げられている「中街道」についての説明板です。 角振町は、三条通りと「中街道」の交わるあたり、北側はビブレやいそかわ、そして近鉄奈良駅に続く小西町の商店街となっています。 この「中街道」は、いわゆる「ならまち」の西側の通りとして南へ延びて、JR桜井線(万葉まほろば線)と「中街道踏切」で交わり、ここからは西へ方向を変えて大安寺、柏木町へとのびます。(県道「京終停車場薬師寺線」) 「中街道踏切」から見えるのは、現在の列車運行状況にはあまりに似つかわしくない広々とした京終駅の構内の様子です。 つまり、この中街道は京終駅から奈良町にさまざまな物資を持ち込むルートであったのですね。 というよりも、むしろ王寺から高田、畝傍、桜井と延ばしてきた「大阪鉄道」に対して、桜井、丹波市(たんばいち、現「天理」)と線路を敷いた「初瀬鉄道」は、「中街道」と交わるこの位置に物流拠点としての京終駅を設置したのでしょう。(初瀬鉄道は京都と結ぶ奈良鉄道に吸収され、大阪鉄道・奈良鉄道の「奈良」駅との間の線路も敷設されます。)これらの鉄道は、名阪間で官設鉄道と対抗する「関西鉄道」のもとに大合同しますが、やがて「鉄道国有法」により国有化されます。(関西鉄道の名残が「国鉄天王寺鉄道管理局」、さらに「JR西日本大阪支社」だったのですが、どうも最近はJR西でも「近畿統括本部」の下に権限が集中してきているようです。)中街道は「下津道」へ続く。あれあれ?? これ、ややこしいんですよね。古代大和盆地に「上津道(上つ道)」「中津道」「下津道」の三つの街道が南北に並行していたことは歴史の好きな方はご存じですが、中世・近世の「上街道」 「中街道」 「下街道」との関係はちょっとややこしいのです。上つ道のルートは、上街道(現在の天理街道の旧道)として存続し、その北端は「ならまち」の旧元興寺境内や猿沢池につながっています。(中新屋町の「はり新」さんは「かみつみち弁当」を出していますね) 一方、下津道は平城京の朱雀大路につながりさらに歌姫街道へと続いていたのですが、郡山の稗田あたりから北は大きくルートが変わって、郡山の城下町や奈良町へとつながる「中街道」に変貌しています。(下街道は、奈良県内でもさらに西南の地域に通っています) ちなみに「中津道」は、近世の街道としては存続しなかったようですが近年その位置などは発掘で明らかにされてきているそうです。「中街道」は、天理市二階堂あたりや田原本町役場周辺、橿原市の「札の辻」などでもその姿がのこっていますが、それは別として、私のブログでは「奈良町の中街道」の様子をお伝えしたいと思います。 特にかつての問屋街、卸売市場の名残を探ってみます。
2011.01.19
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奈良町には、もう一つの駅があります。近鉄とJRの二つの奈良駅の他にもう一つ、それはJR桜井線(万葉まほろば線)の京終駅です。今は貨物の扱いもなく一日の乗客700人台の無人駅ですが、昭和30年代には奈良市の中心部で「ジーゼルに乗る」のは京終の駅からというのが一般的でした。大阪へ行くのは近鉄奈良線の特急(特急料金なし)で、京都へ行くなら当時の「奈良電」の特急(これも特急料金無し)というのがすでに定着していましたから、あのころ「国鉄」というのは天理や三輪方面へ行く時に使うもので、それなら「三条の駅」よりも京終の方が近くて便利だったのです。イメージ的にも黒々とした蒸気機関車が咆哮を上げて煤煙のたなびく奈良駅よりも、ツートンカラー(当初は紺とクリーム、のちにオレンジとクリーム)の軽やかなキハ17系ディーゼルカー主体の京終駅の方が「親しみやすい」ものだったのかも知れません。もちろん、当時桜井線にもC58などの引く黒い貨物列車が走っていましたが、キハ55系の急行かすが(当時は準急)などを除けば蒸気機関車の牽く茶色の客車列車ばかりだった関西本線に比べると、早くにディーゼル化されていた桜井線(当時、奈良線京都行きと直通が多かった)は、なんとなく明るいイメージがありました。(そのころは近鉄の方も古い小型車は暗い緑色一色(のちにマルーン)でしたね)現在の京終駅舎↓と、京終駅に発着する105系電車↓↓です。 かつての奈良駅にも貨物ホームがあり車扱いやコンテナなどが発着していましたが、どちらかというと機関区や気動車区に、手荷物・小荷物の印象が強く残っています。一方、京終駅の方は駅のすぐ傍に製材所があったり、郡山に移るまで卸売市場があったりしたためか、貨物のホームやヤードの名残が今も残って、保線関係の設備や機械が置かれています。 1980年に電化されて以来、もとは東京の常磐線で地下鉄乗り入れに使われていたものを改造した105系電車が主体で運転されてきていますが、なぜか105系の塗色はもとのディーゼルカーによく似たクリームとオレンジのカラーでした。しかし1300年祭にあわせて一部の編成が万葉ラッピングを施されたほかは、JR西日本の「旧国鉄車両の塗装簡略化」方針で順次「青緑一色」に塗り替えられてきています。 一方、駅舎の中は自動改札機もなく、券売機とICカードのタッチパネルだけがおかれ、昼間も毎時2本ずつが発着するものの、年に何回か日曜昼間の「保守のための運休」が行われるという状況です。 本来、桜井線沿線は、「山の辺の道」 に、オオヤマト古墳群や、大神神社など観光資源の豊富なエリアですし、本来の「奈良町の南の玄関」という機能を回復させることが出来れば、奈良町~山の辺の道~藤原京 という黄金ルートが形成できるはずです。 また、近鉄奈良駅からならまち散策に入ってきた観光客にとって、「来た道をまた歩いて戻る必要がある」というのは、一つのマイナス要素となっています。市内循環バスの「田中町」バス停などを利用することも出来ますが、奈良町を京終駅まで突き抜けてJRで奈良駅に戻るという方法を推奨するのも一つの方法でしょう。(バスなら200円、電車なら140円です)
2011.01.15
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なんで、こんなところにこんな名前が???奈良の町の狭い路地の店頭に、こんな名前の「開店祝」が。「西島秀俊」って、あの「ジャッジ」の裁判官だし「純情きらり」の冬吾さんだし「リアルクローズ」で香里奈の上司だし、えっ「伊勢谷友介」ってこのまえの「龍馬伝」では高杉晋作だったしなんと言っても「白州次郎」だったでしょう。「森山未来」って、新米刑事だったり、あの神戸の震災をたどるドラマに出てたよね。(石田基紀さんってのは、ちょっと知らないけど)これ、実は12月始めにオープンした、カレーのお店なんです。 オーナーの「こみずとうた」さんは、東京の出身で映画ロケなどのケータリングが本職。河瀬監督との縁で映画「出演」でやってきた奈良が気に入って、お店を開くまでになってしまったという。上の開店祝はその「本職」での交流関係の為せるものということらしい。紹介する新聞記事に「へえ、また面白い人が奈良に来てるんだ」と思いながら歩いていると、路地から良い匂いが漂ってきて寄ってみるとこんなお店だったというわけです。トロトロに煮込まれた豚肉のカレーがレギュラーメニュー(並700円)で、夜はお酒におつまみもあるらしい。狭い店内は10名ぐらいで満員でしょうか。カウンターに折りたたみのイスもあるけど、立ってる方が楽かも。カレーの「お持ち帰り」を便利に利用しているお客さんもいるようです。 ちなみにこの鉄の扉は「やっこらさ」と横に引かないと開きません。2月は撮影の仕事でお休みらしい。追記です。お店の概要はこういう感じだそうですランチ11:30~15:00夜の部平日 18:00~21:00金土 18:00~23:00頃まで基本的に月曜定休『とうたりんぐ』奈良県奈良市椿井町51080-4344-6513
2011.01.13
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春日講は「春日曼陀羅」が本尊です。奈良の町々には、春日講(しゅんにちこう、かすがこう)と呼ばれる春日信仰の講社があります。その本尊は多くの場合さまざまな形の「春日曼陀羅」を掲げて行われます。春日大社の鳥瞰図を描いた「宮曼荼羅」、神を背中に乗せた神鹿を描いた「鹿曼荼羅」、春日と興福寺を描いた「社寺曼陀羅」、あるいは「春日赤童子」の像などが、それぞれの町や村の講社の本尊として伝えられてきています。 今月16日まで奈良国立博物館で行われている特別陳列「おん祭りと春日信仰の美術」では、博物館所蔵のものの他に、それぞれの町の所有する春日曼陀羅なども陳列されています。東城戸町所有の「春日宮曼荼羅」は16~17世紀の作品で、通常は博物館に「寄託」されていますが、1月11日の「春日講」の際には町役員が持ち帰り会所に掲げて礼拝を行います。そのため上記の展示では、前半のみの陳列となり、代わって後半では西城戸町の「春日鹿曼荼羅」が陳列されます。↓の写真は、会所の床の間に掲げられた「春日宮曼荼羅」の様子。お酒と灯明が上げられて、二礼二拍手で礼拝した後、一同で昆布とスルメをつまみながら御神酒をいただきます。(その後、氏神の御霊神社へ参拝・祈祷、さらに春日大社で御祈祷を受けて町内各戸分の神符を持ち帰る) 宮曼荼羅では、春日山の上に春日の五神(本殿のタケミカヅチ、フツツヌシ、アメノコヤネ、ヒメカミ、若宮のアメノオシクモネ)が、本地仏の姿で描かれています。↓ (タケミカヅチについては釈迦如来とするものと不空羂索観音(興福寺南円堂本尊)とするものとがありますが、他は順に薬師如来、地蔵菩薩、十一面観音、文殊菩薩とされることが多い)曼陀羅の中程には、春日大社の本殿・回廊や、御間道を隔てた若宮社、さらに参道途中の着到殿、祓戸社などが鳥瞰図としてかなり写実的に描かれています。そして、裾の方では一の鳥居と、現在は奈良博前に基壇が残る東西二つの「春日の塔」が描かれています。この宮曼荼羅は、一回り大きい「南市町自治会」所有の春日宮曼荼羅(重文指定)と同系統のデザインですが、やや不鮮明な部分があるのと推定製作年代に幅があるためか文化財指定はされていません。しかし奈良の「まち」のあちらこちらで、このような貴重な資産を伝え、それが「現役」であるということは大いに語られるべきでしょう。
2011.01.12
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奈良のお雑煮とお餅 関西では、まだ「松の内」ですが、この辺で正月のおさらいをということで、お雑煮の写真です。奈良のお雑煮は、基本的に京都大阪などとおなじ、丸餅で白味噌じたての雑煮(具は、金時人参、祝大根、里芋、豆腐に、鰹節をのせている)ですが、ちょっと違うところがあります。 それは、「餅は必ず焼く」ということ。 京都や大阪では、お餅は白いままで「煮る」または「ゆでる」という感じですが、奈良では焼きますね。難点は、焼いた餅を鍋に入れっぱなしだとせっかくの白味噌が濁ってしまうということですが。それと、我が家ではあまりやりませんが、奈良では雑煮から餅を取り出して、きな粉に付けて食べるんですね。白味噌ときな粉が、お餅にいい味付けになるようです。 さて次の写真は「あたたき」です。京都では、これを「星つき」と呼ぶのだそうですが、奈良では「あたたき」とよびます。大阪にもあるはずですが、何て呼んでいるのでしょう。要するに、ミニ版の「鏡餅」のことですが、丸いお餅を二つ重ねるのではなくて、餅の「おへそ」が出ているような形になっています。スーパーなどには売っていませんが、餅を搗いて売っている古くからの「お餅屋」さんなどに、「お鏡を一組と、あたたきを五つ、小餅併せて全部で二升で」などと注文しておくと作ってくれます。 使い途は、小ぶりな三方に載せて神棚や仏壇へのお供えにつかいます。メインの鏡餅以外のお供えの必要なところへは、このあたたきを、お酒、お水、お塩や細かく餅をちぎったお雑煮などとともにお供えします。注文を間違えて足りない時は、普通の小餅を二つ重ねて「代用」させたりしますが。
2011.01.10
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今年の山焼きは22日になります。県のサイトの一部(歴史街道)などでも、「成人の日の前日」などという記載が残っていますが、現在、山焼きの日程は「1月の第4土曜日」ということに決まっています。 そもそも、成人の日が本来の「小正月行事」という由来を外れて、ハッピーマンデーに巻き込まれたことから、このややこしい事態が生じてしまったわけですが。 但し、戦前の山焼きは、紀元節(現在の建国記念の日)の2月11日にやっていたという話もありますので、必ずしも「山焼き=小正月のとんど」というわけでもなかったようではあります。なぜ、今の日程(第4土曜)になったのか。それまで、成人の日(1月15日)の行事として、山麓での「とんど」(正月の注連飾りなどを集めて燃やす)と併せて行われていた 「若草山焼き」でしたが、2000年に成人の日が「第2月曜日」となってからは、「成人の日の前日」に行うこととなりました。「第2日曜日」とはならないのは、元日が月曜日だったりすることもあるからです。旅館ホテルにとっては、三連休で、山焼きを見た後に一泊してゆっくり出来るということでプラスの面があるのですが、肝心の山焼き行事にとってはちょっと困ったことに。それは、 山が燃えない!第二月曜日の前日ということになると、もっとも遅くても1月の13日になります。特に早い場合は1月の7日になります。それまでの15日でも、近年の天候不順やワラビの繁殖などで山が湿って燃えないことも多いのに、日程が早くなればなるほど草の水分が「枯れない」ので、せっかく山焼きを見に来ても「なーんだ、こんなショボショボとしか燃えないのはつまらない」ということに。それに、 人も燃えない!成人の日自体が、第二月曜で毎年日が変わるのに、「その前日」なんていう「三段論法」では、いったいいつなんだ>考えるの面倒くさい>どうでもいいやなんてことになって、山焼きへの関心度がグッと下がってしまいました。おまけに、人がクタクタ 「山焼き」の山に火を付ける実働部隊は、普段火を消す消防団です。1月の7~8日頃というのは、消防出初め式が行われます。場合によっては、一日で掛け持ちという事態も。かつて、消防団以外のメンバーで山焼きをやったことがあるのですが、そのときに、参加者の一人が炎に巻き込まれて死亡するという事故があったため、「火炎のプロ」である消防団が山焼きの現場を受け持つということは絶対条件になっています。じゃあ、平日であっても15日に戻しましょうか?という意見もあるのですが、残念ながら消防団は普段は他の仕事を持っている「非常勤の地方公務員」なので、相当規模の動員を行うには休日でなければ難しいのです。 「とんど」の方は、どうなっていたのか注連飾りなどは通常13日頃に片づけて15日ごろに焚き上げるというのが関西でのしきたりですが、「山焼き」の日程が13日以前になってしまうと、その日の焚き上げでは早すぎて間に合わなくなってしまいます。そこで、春日大社と奈良市観光協会が「春日の大とんど」として、15日頃の土曜日に飛火野に鉄パイプなどで火炉を組んで焚き上げを行うようになりました。太鼓の音と大祓の奏上のなかでボンボンと焚き上げが行われ、併せてご祈祷や炎で燗をしたお神酒を頂いたりなど、奈良の行事として定着してきました。 さて、山焼きを実質的に主催しているのは、公園や若草山を管理している奈良県ですが、1300年祭を前に「燃えない」「大して人が集まらない」状態の山焼きを何とかしなければということで、2007年頃から若草山麓でのイベントの充実を図る一方で、日程変更含めて周囲の意見を求めたりするようになりました。その結果、2008年には、宿泊客の確保と消防団の動員、大とんどとの連携などから、2009年の山焼きから「1月の第三土曜日」に変更という方針がほぼ決まりました。ところが、ここに大問題が! 大学関係者から「その日のその時間帯(午後6時頃)は、センター試験の英語ヒアリングが行われるので花火などは止めてほしい」という強い申し入れがあったという。 センター試験って、そんなに遅い時間までやってるというのも驚きですが、ちょうどその時期「ヒアリングの再生機の不調」とか「トラックの音が云々」とかでセンター試験のヒアリングがちょっとした社会問題になっていたこともあって、やむを得ず一週間ずらして「第4土曜日」という結論になったということのようです。(受験生をそんなに甘やかしてどうするのとか、センター試験が将来日程変更したらどうするんだとか、いろいろ突っ込みどころは多いですが、まあモンスターペアレントを刺激するのもアレですしねえ。) ということで、若草山の山焼きは「1月第4土曜」です。 それにあわせて、春日の大とんどの方も同じ日に行うことで「奈良の町の炎の日」というようなイメージができてきているようですね。山麓だけでなしに、もう少し町の中での関連イベントがあるともっと盛り上がるのでしょうけど。 奈良市観光協会若草山焼き 春日の大とんど
2011.01.09
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奈良の「えべっさん」は、5日がメインです。 関西で、正月三が日の次の人出というと、1月10日の「十日戎」(今宮戎、西宮戎、堀川戎など)ですが、奈良では南市恵比須神社の「五日戎」になりますね。餅飯殿町の商店街と今御門町の「上つ道」のあいだにある、ほぼ真四角の町が南市町で、その中心に恵比須神社があります。 「南市」があるからには「北市」もありまして、大宮通りから船橋通りを北に向かって進んで佐保川の手前右側のあたりが「北市町」、こちらにも戎神社がありますが、こっちは十日戎だそうです。 えべっさんは、神道的には大国主命(オオクニヌシ)の子の事代主(コトシロヌシ)神とされることが多く、ちょっと大きめの神社には「摂社」「末社」として事代主神が祀られています。春日大社の「佐良気神社」もその一つで、こちらは十日戎として売り出し中。大神神社の系列、率川神社でも境内末社のえべっさんで五日戎の祭りを行っています。 ↑写真は、手前「今御門」側と向う「餅飯殿」側から集まった行列の様子。もうお昼過ぎで、朝からの行列は少し減ってきたところですが。提灯のところを右に入っていくと右手に恵比須神社があります。鳥居をくぐると目の前に本殿が↓ 拝礼をして右手の南市町会所で吉兆福笹をいただきます。1500円なり。↓その後は本殿の後ろをぐるっと回って社務所へ。こちらでは福娘さんが、小判や鯛など縁起物を笹に付けてくれます。一つ300円、500円ぐらいから。猿沢池の采女神社と同じくこちらは春日大社の「出張所」といったところです。 こちらは一方通行の出口ですが、その外側には、吉兆や福箕など縁起物の露店が三軒ほど。 大阪(今宮戎)では、宵宮に本宮に残り福と正味三日間の祭りですが、南市の場合は本宮に宵宮が少し(夕方から夜8時まで)で、まあ一日と半分というところでしょうか。 奈良の住民でも、えべっさんは大阪(今宮)へ行くという人も結構あるようですが、この南市は隣町の元林院とならんで「奈良の花街」であったことから、昔は芸者さんなどをのせた「宝恵カゴ」なども出たようです。 奈良市内南部の山町にはえべっさんの縁起物を専門に作って西日本一帯に販売している「近畿戎協同組合」という珍しい組織もあります。(たまにテレビのニュースで製作風景が紹介されたりします) 吉兆や福笹のシステムやお値段も、各地の恵比須さんでいろいろあるようで、調べてみると面白いかも知れません。
2011.01.05
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年末に撮りためた写真から、テーマを決めて少しずつアップしてきました。 上の写真は、近年公納堂町(くのどちょう)で美しく整備修復されたならまちの町家です。 このお宅の完成した姿を見た時に、やっと本物の「奈良格子」が復元されたかと思いました。ならまちの「格子」というと、これまで「ならまち格子の家」やその向いにある「藤岡家住宅」が典型のように思われてきています。(下の写真2枚) どちらも奈良の立派な町家建築で、表の格子もやや丸みを付けたずいぶんと太い格子の家なのですが、江戸期のならまちの「格子」の意味からするとそれだけではちょっとちがうのです。もう少し、奈良の格子の写真を出してみましょう。 上が、ならどっとFMスタジオのある旧奈良オリエント館、下は大乗院庭園文化館の並びにある民家(格子の内側に防寒のため葭簀が貼られている)の写真です。 これら(オリエント館は、向かって左の格子)の特徴は、建物の本体構造とは離れて設置されていて、表から何かがぶち当たっても格子だけがその衝撃を受け止めるような構造になっているのです。一種の「クラッシュゾーン」ですね。しかも格子の縦の部材は、六角に面取りされて「当たってきた側も傷つけない」しくみです。これはなんのための構造でしょうか。その理由は、 奈良町で鹿の角切りをしていたから! だって、江戸時代には、公園の鹿苑(現在の角切り場)はありませんし、今のようにバス道路を自動車が走っているわけでもないので、鹿はどんどん奈良町の中にやってきていたようです。なので、町の人々が南都奉行の許可を得て、町を仕切る「木戸」を活用したりして、鹿を追い込み、縄を掛けて「角切り」をやっていたのですね。 町の中で、追い込んだ鹿が少々暴れても、家にも鹿にも大きな傷が付かないように工夫されたのが「奈良格子」というわけです。で、格子の内側から角切りの様子を住民が見ていたのですね。それだけ、鹿と町とのつながりは深かったということです。 ついでにもう一つ、「奈良町」の定義がいろいろとややこしいのですが、一つのヒントに「鹿除け柵」という言葉があります。江戸時代の奈良町の古絵図のなかには、町のまわりに柵のようなものが描かれているものがあります。北は佐保川から、西が今のJR線路あたり、南は京終あたりにかけて、奈良町をぐるっと囲むような形で柵が巡らされています。これ「鹿除け」ということですが、奈良の町から「鹿を遠ざける」ものではなくて、周囲の村の田畑に「鹿を出て行かせない」ためのものなんですね。 「奈良町」は、住民と鹿が一緒に生活する場所だったということです。
2011.01.04
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年末に撮りためた写真から、テーマを決めて少しずつ。 上の写真は、大乗院庭園文化館のトイレ入り口にしつらえられた「楽人長屋の土塀」の復元と称するものです。なぜ、こんなイヤミな書き方をするかというと、この門がかつての楽人長屋塀の門とは似て非なるものであり、それが「復元」として通用するというのはどうにも納得がいかないからです。 もとの楽人長屋の塀は、私の記憶ではこの場所から北西、高畑側から下ってきて御所馬場で北へ折れ突き当たったあたりにありました。「ならまち大通り」(市道杉ヶ町高畑線)の拡幅整備に伴って取り壊され、その景観を惜しむ声が多かったことから、この場所に「復元」されたという経緯になっています。大乗院など各寺社の楽人が、周囲の音をさえぎり、また音の漏れるのを防ぐ土塀に囲まれた中に住まいをしていたという歴史的な事実を伝えるためのものです。 まず、この門の間口が広すぎます。これでは、中の音も外の音もダダ漏れで「楽人長屋の塀」としての用をなしません。 もう一つ、石積みの上に土塀が乗っているのが本来の姿ですが、塀の裾の石積みはただの装飾と化して、グリ石を貼り付けて誤魔化してあります。 大乗院庭園文化館や、特にこのトイレはならまち散策に便利なので、あまり厳しいことは書きたくないのですが、このままこれが「楽人長屋の塀と門」として定着しては困るのです。 ということで、 本来の「楽人長屋の塀」の形に近いものがないかと近所を眺めてみると、ぴったりではありませんが参考になるものが、高畑のエリアに何軒かありますので、写真で紹介しましょう。もとの「楽人長屋」の門の、間口と形は、これに近いものでした。こちらのお宅は塀そのものを装飾的なデザインにしてありますが、石積みは装飾ではなくてちゃんと土塀を支える構造物になっています。上の写真の塀を、ノーマルな形にしたらこんな感じでしょうか。坂道に面しているので右上がりになっていますが、上の門をこちらの塀につければ、かつての楽人長屋の門のイメージになりますね。ちなみにこの戸口の右上に貼り付けられているのは「都市景観形成建築物」としての標章です。 上の二軒の建物があるのは庭園文化館から東南の方角、上高畑や閼伽井(あかい)と呼ばれるエリアですが、元来、春日大社の社家町であったところです。これらはそれぞれ一戸建ての建物の塀ですが、楽人長屋はその名の通り「何軒かの連なったもの」で、一面の塀に二、三ヶ所の門がつけられていました。門は、人の出入りや最低限の物を運ぶような間口で、庭園文化館トイレのような広いものではありません。本来の「楽人長屋塀の門」と比べると、それこそグリーン車のドアと、通勤電車の両開きドアほどの違いがあります。なぜ、そんなモノを作ってしまったのか、「実用」の公共的な入り口にするために建築基準法あたりの規制に従ったためかと思われますが、これではまったく意味がありません。はじめから「形を見せる」ためのものにしておけばよかったのにと思われます。(実は他にも高畑あたりの塀や門にはユニークなものが多いのですが、それはまた別途ご覧に入れたいと思います)
2011.01.03
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年末に撮りためた写真から、少しずつアップしています。 こちらは、ようやく庭園の復元整備が終わった「旧大乗院庭園」です。興福寺の「大乗院」は、現在の奈良地方裁判所のあたりにあった「一乗院」とともに、興福寺の門跡寺院として重きをなしていました。この一帯は、現在の奈良ホテルとともに旧国鉄のものとなり保養所として使われたりしていましたが、「ならまち大通り」の整備に併せて南端に「名勝大乗院庭園文化館」が財団法人日本ナショナルトラストによって設置され、ならまち散策の際の無料休憩所として便利な施設となってきました。 庭園の方は永らく発掘調査と復元整備のために公開されていませんでしたが、1300年祭にあわせて2010年4月から一般公開(一人100円)が行われるようになりました。↑の写真は、庭園から見た文化館の建物です。この建物を通して庭に入ることになります。 赤い橋が印象的な庭園には、この季節、カモの群れ↓の姿が見えるほか、白い尾が印象的なセキレイや、青い宝石のようなカワセミの姿も見られます。
2011.01.02
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年末に撮りためた写真から、少しずつアップしていきます。 奈良ホテルと天理街道(R169)を挟んだ東側にある山を「瑜伽山」(ゆがやま)と呼び、古い奈良町の絵図にもその名前が記載されています。その山には二つの神社が祭られていますが、一つはこのあたりの地名「中天満町」「北天満町」(行政町名は高畑町)の由来となった東側の「天神社」、もう一つが、山の名前の由来となったこの「瑜伽神社」です。 実は「瑜伽神社」さんは、奈良ホテルの側からも山の上の社殿が見えているのですが、石段の下の門扉が「安全のため」閉まっていることが多く、私も境内に入ったことがありませんでした。この日おん祭りの準備の様子を見に行ったついでに、たまたまこちらに回ってみると扉が開いていて入ることが出来たのでした。 たしかにかなり急な石段で、むやみに人が入っては危険といえば危険なのですが。 御祭神は、ウカノミタマノオオカミ ということで伊勢の外宮や稲荷などと同じ神さまで、本殿の前には狛犬ではなくて狐が鎮座しています。 この高台のお宮さんからの高畑かいわいから奈良町にかけての眺めは、とてもすばらしいものがあります。また紅葉の季節のイチョウやカエデも見事なもの。ぜひ広く参拝の方が訪れるようになってほしいものです。
2011.01.02
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我が家の初詣の定番は、春日大社と伏見稲荷ですが、ここ数年伏見稲荷の境内にはトルコ人シェフのドネルケバブの屋台が出ています。神さんの境内で焼肉はどうよと思ったりしますが、鶏肉だし構わないようです。毎年食べてるよ、と言ったら、少し肉をオマケしてくれました。
2011.01.02
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