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何のためなんかようわからん。それが、今回の行基広場の屋根に対する最大の疑問かもしれません。今回のパブリックコメントの計画案には、「目的」の記述がありませんので、昨年8月に最初の意見募集で使われたものを開いてみました。 「近鉄奈良駅前行基広場は、奈良観光の玄関口でありながら、待合いや交流のための場所としては、特に降雨時には利用しにくく、待合いだけでなく駅から商店街までの移動等においても雨に濡れる状況です。また晴天時には強い日射の影響を受けたり、団体の待ち合わせは地下になるなど、利用者環境に乏しい状況にあります。 このため行基広場に屋根を設置することにより、悪天候時の雨露を遮り、晴天時に日射等の影響を和らげることにより、快適な交流空間を創出し、奈良観光の玄関口にふさわしい待合い空間としての機能向上を図ります。」 で、そのときの最初の計画書にあったのが、以下の画像です。 「悪天候時」云々って、こんなん、やたら高い柱でちょっと雨降ったら確実に地面が濡れるやろというのは誰が見ても明らかですね。 それに「団体の待ち合わせ」って、小学生の一クラスだけでも、屋根からははみ出しそうです。昨年のいろいろな意見を受けて、今月出された計画案の画像が次の二つ。変わったのは柱の表面に「木」を貼り付けたのと、屋根の面積を広げて、アーケードや地下出口などとの隙間を減らしたこと、そして、屋根のアーチを深くしたことですね。 「木貼り」は、JR奈良駅構内の柱が好評なのを受けて、後ろの壁の色と合わせたのでしょうか。ただ、逆に駅ビルなどの材質との違和感が強くなって、よけいに目立つことになったかも。それに、雨を避ける機能のために、アーチが深く下端が下がったことで、内部からは「覆われている」という感覚が余計に強くなったのではないかと思います。いわば「鬱陶しさ」はより強くなったといえるかもしれません。そもそも、行基広場自体が、そんなに広さがあるわけではなく、「団体の待合い」といっても修学旅行の学年丸ごとなどはとても無理なところです。「目的」では、「団体の待ち合わせが地下になる」としていますが、本来、駅の地下コンコースは県や市の事業で作られた公共の空間であるのに、近鉄が喫茶スペースなどの「私的・営利的利用」を行うことで狭くなっているに過ぎません。団体の待ち合わせ云々というなら、そっち方の対策を先にするべきでしょう。当時、先代の「鍵田忠三郎市長」がわざわざ「空が見えるように」したというこの空間に、むりやり巨象のような大きな屋根と太い柱を持ち込む理由としては、根拠が薄弱のように思われます。どのみち、雨の吹き込みを完全に排除などできないのですから、南側の壁沿いからひさしのような形にすることで、広々とした奈良の空を味わう開放的な広場を維持してほしいものです。広場が屋根で覆われてしまったら「はい、あの道のさきが博物館、東大寺ですよ」と、坂道の登大路方面を案内しにくくなるのは確実です。
2011.07.23
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県の独断先行で反発を受けた「行基広場の屋根」いろいろと「有識者のご意見」とか、現地でのアンケートとかを行った上で、あらためて「意見募集」ということになっていますが、「え?全然変わってへんやん」というのが正直なところです。 ・近鉄奈良駅前行基広場の屋根設置計画(案) 前のプラン との違いは、柱の表面を「木貼り」にしたことと、屋根の面積をひろげて、東向のアーケードや近鉄駅ビルに近づけたこと、そして地下出口の上も覆うようにしたこと。柱や屋根の形は、基本的に最初の絵のまま、大して広くもない広場に、大きなゾウを無理矢理押し込んだような状態にかわりはありません。 もっとも肝心なことは、近鉄奈良に降り立って、地上に出た人が感じる「奈良だからこその空の広さ」「開放感」という、観光の第一印象を維持しながら、駅と商店街アーケードとの連絡性を確保することのはず。そういう配慮、指向が読み取れません。もちろん「計画書」には、「圧迫感を与えないような開放感の感じやすさ等を考慮して」という文言(「**感の感じやすさ」って、おかしな日本語だと思います)がありますが、その結果として最も低いところで6.7m(マンション2階ぐらい)という高さと、「アーチ屋根の傾斜設置」というどうも不安定で目障りな形状を固守しているようです。まあそれはともかくとして、現状、駅を降りたところで見える風景はどんなものか、ここに屋根がかかったらどうなるのかを想像するためにも、写真で確認してみました。 まずは、地下コンコースからエスカレーターを上がって、前へ進んだ時の光景。 すぐ前にあるのは、地下から直接あがってくる階段の出口です。 次に、駅ビルのピロティの南西端から見渡した広場の光景 登大路の坂から、商工会議所などの建物がよく見えます。計画では、屋根の上端と下端とは「ひがしむき」という文字の上端からアーケード下端ぐらいの高さになりそうです。また左の地下出口もすべて覆うような広さです。 さらに、地下出口を上がってきて見える光景です。 この視線の上に、屋根が架けられることになります。登大路は文字通り「上り坂」ですので、先へ行けば「空」の面積が小さくなります。屋根で押さえられると「奈良の空の広さ」はかなり損なわれることに。 ただ、逆にふり返るとこんな感じ。 これはしかし、行基さまに相応しいかどうか、かなり問題ではありますねえ。ちょっとこの南側の壁面は、隠せるものなら隠したい。(特に県庁方面から来ると気になるんでしょうね) ただ、そのために、広場の空をすっぽり覆うような屋根が必要なのかというとそうではないはず。南側の壁から張り出してくるような、片流れの屋根で十分でしょう。どっちにしろ、7mなんて高さでは雨の降り込みは必定ですから、気にする必要はない。(商店街のアーケードでも、そのぐらいの高さで家屋に接していないところは必ず雨が降り込んでくる)とにかく、そんなに広くもない「広場」に、目障りな太い柱や、大きな屋根を持ち込んで、せっかくの「駅を出た瞬間の視界の広さ」という奈良の「売り物」を破壊してしまうことはないと思うのですが。
2011.07.22
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ということは、片方が判ればおしまいです。なので今回で、一挙ネタあかしをします。抜け路地2は、三条通りの専念寺とNTTのビルの間の路地、これの出口は、抜け路地03でやすらぎの道・率川神社南側の路地となります。 ただし、こちらの他に北向町の常徳寺の横に出る道もあります。※この辺は、三条通りの現状ともあわせてあらためて詳しく取上げるつもりです。 さてもう一組は、「奈良町」を案内する時におぼえているととても便利な路地です。 元興寺極楽坊を過ぎて、鵲町(かささぎ)を東へ曲がるとこの公納堂町(くのど)の景色。左側には吉野葛の「天極堂」さんが経営する「一福茶屋」、そして「ならまち工房」(実はここもちょっとした「抜け道」ですが)、さらに人気抜群の町家カフェ「カナカナ」などがならんでいます。 そしてさらに東へすすむと、左手に菩提町のならまち大通りへぬける道がありますが、反対側に見えるのがこれ、興善寺の駐車場です。よく見ると、角のところにカフェの案内看板が出ていますね。 上の写真、右奥に見えている興善寺の山門に行き当たって、東を向いたところが、抜け路地05の写真です。それを角度を少し変えて、よく見通せるようにしたのが、次の写真。 突き当たりは、奈良での「手打ち蕎麦」のお店としてかなり早くに有名になった「玄」の入り口。後ろには、今西家書院の向うに清酒「春鹿」の酒蔵などが見えます。左手の自転車の置いてある先あたりが、角に案内のあった雑貨&カフェ「チャポロ」さんのお店です。実はこの先、突き当たりをまた右に曲がる道があります。それがこちら。ちゃんと抜けられます。 途中には、カレーとコーヒーの「香炉里」(こるり)さんのお店もある。写真の突き当たりが「チャポロ」さんで、右手が「玄」になります。 そしてこの路地を抜けたところが、抜け路地6の写真ですね。違う角度からみるとこんな感じ。電気店の先、興善寺の南門へ入る通路をはさんで、十輪院さんの塀が続いています。 十輪院のあたりからふり返ると、こんな感じ。右手の角にもなにやらお店の案内が出ています。 角を曲がって、さっきの路地の続きにあたる「紀寺中通町」も覗いてみましょうか。途中からはそこそこ道幅があるようです。突き当たりは紀寺草小路町ですね。 こちらの通りにも、こんな雑貨のお店があったりします。 で、知る人ぞ知る人気のお店が、こちらの「よつばカフェ」さん。 先の十輪院の通りに戻れば、その門前にも、こんな町家フレンチのお店があったりします。「めしあがれ ボナペティ」さん。 さて、公納堂町から、法徳寺、十輪院、興善寺と、三軒のお寺が並んだ十輪院町に抜ける今回の路地、おぼえておくと絶対にお得です。周辺には結構イイお店もあるし、なによりも、二つの通りをワープできるのが便利です。御霊神社から十輪院などを見て、カナカナや今西家へ行きたいという時に、いちいち毘沙門町・鵲町へ戻ったり、天理街道へ抜けたりしなくとも、平行移動ができますから、お客さん連れて奈良町を案内する際には絶対におぼえておくべきですね。
2011.07.19
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「春日曼荼羅」にはいくつかの種類があります。明治39年1月の、奈良帝室博物館(現在の国立博物館)新年特別陳列では、奈良市内を中心に各町や社寺に伝わる「春日曼荼羅」を60点、20日間に渡って展示されたという記録があります。東城戸や南市所有に代表される「宮曼荼羅」(春日大社の境内図と五柱の神=仏を描いたもの)が14点、興福寺の諸堂・諸仏と組み合わせて表現された「社寺曼荼羅」が8点、西城戸町所有など鹿の背に五柱の神(仏)が乗った「鹿曼荼羅」が21点、鹿島立ちや浄土曼荼羅、地蔵曼荼羅など7点、そして、「春日赤童子像」が10点となっています。 実は、6月の押熊常光寺の聖天さんご開帳で拝見したたくさんの絵像の中に、お伊勢さんの「雨宝童子」とともに春日の「赤童子」もありました。奈良町に伝わる「赤童子」も見たいなと思っていましたら、「フルコト」さんの行き帰りに、こんなポスターを発見したのです。 え?赤童子祭って、あの春日赤童子のお祭りなの。春日講とはちがうのかな。とにかく会所はどこだろう。山田熊夫先生の「奈良町風土記」には、東包永についてこう書いてありますね。「町内に弁財天をまつる。町有の春日赤童子像、三社託宣の掛軸もある。」 おっと、その前に「東包永町」ですが、これは「ひがしかねながちょう」と読みます。西包永町もあって、その南側に、東笹鉾町、西笹鉾町(ささぼこちょう)というのもあります。「包永」というのは刀匠の「手掻文殊鍛冶平三郎包永」が14世紀に住んでいたからとされていますが、この町を通る一条通の東の端は転害門(手貝、手掻)につながっています。さて、東包永町の会所は、一条通から北へ入っていく道の先にあるということなので、9日の夕方おじゃましてみました。途中のちょっとしたスペースで「金魚すくい」や「みたらし」など子どもたちの喜びそうなお店が作られていましたが、その先に「会所」がありました。 はやくも子どもたちが集まっていますが、会所の一番奥に祭壇、そして手前の部屋では、子どもたちの「くじ引き」の用意で、景品がひろげられていました。祭壇の写真の前に、いただいた由緒書きをスキャンしたものをご覧下さい。 どうやらこの記述によれば、明治になって奈良・大和に疫病が起こるようになり、この町内にも患者が発生したため、町の守り神として春日若宮を表わす赤童子をお祭りするようになったようですね。やはり一般的な「春日講」の拝礼とはちょっと違っているようです。さて、声を掛けさせていただいて、祭壇の写真を撮りました。左に赤童子、右側は春日・伊勢・八幡の「三社託宣」(神様の言葉)の額です。特徴的なのは、お供えものに「赤童子」の名に相応しく「赤いお餅」が右側の三方に上がっていることです。そして、左側はスルメイカですが、中央にも米、塩とともに小豆が乗っています。 赤いものには、天然痘などの厄除け効果があるという説もあるようですし、明治期の疫病から、大切な町内の子どもたちをまもるために赤童子をまつり、赤いものをお供えしたのでしょうか。お祭りの日程は、現在は7月の初旬の土曜日曜ということのようです。なおこちらのお祭りについても、調査と記録のために「奈良まちづくりセンター」の方が見えていました。
2011.07.10
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弁財天のお祭りでもあります。奈良町では、餅飯殿にも東向にも弁財天がお祭りされて、7月の6・7日に祭礼が行われます。<この間、更新が止まっていましたが、とりあえずこの辺からさかのぼって再開してみます。> スーパー「オーケスト」の向かって右手、マンション入り口との間に、餅飯殿の弁天さん(宗像神社)がお祀りされています。吉野の天河弁財天より勧請された七弁財天の内五柱を正面の神殿に祀り、のち町家より一柱をこの場所に迎えたという。 右手の聖宝理源大師堂も、お祀りの時には扉が開いて中を拝見することができます。 聖宝理源大師の御像に、神変大菩薩役行者像、「餅飯殿」のいわれとなった箱屋勘兵衛が祀られています。(上記2点の写真は以前に撮影したもので祭りの当日のものではありません)理源大師は元々東大寺で修行され、のち吉野大峰山で修験道を修め、醍醐寺の開祖となった方。この春公開された東大寺本坊の持仏堂にも御像がいらっしゃいます。 今年は、猿沢遊歩道(率川を暗渠にした道路)に面したミツハシさんの空き店舗で、餅飯殿町財団のさまざまな「お宝」が公開されていました。(以前はマーチャントシードセンターの2Fで行われたこともあります。)外からガラス越しに見えるところに、「釈迦涅槃図」が掲げられていました。いろいろ映り込んでちょっと見にくいですが、色鮮やかで美しいものです。 そして、こちらは「山上講」といえばこれという「吉野曼荼羅」。中央は蔵王権現さまですね。権現さまの足下右手には、神変大菩薩役行者が前鬼・後鬼とともに見上げている。左上が牛頭天王(スサノオ=祇園さん)、下から二段目は、左の勝手明神と右が子守明神だそうですが、毘沙門天と弁財天のようにも見えます。黒袍の4方は、金精明神など吉野山の神様たちのようです。上のほうに描かれた山の中には「八大童子」が点在しています。 とにかく、これだけの色鮮やかな曼荼羅が伝わっているというのはすごいですね。他にも、「餅飯殿」という名称のきっかけともなる山上講の縁起を記した古文書や、昔の餅飯殿町の戸別地図など貴重なものが展示されていました。また、そういう「お宝」を収めた箱なども相当な年代の文化財といえそうです。 現在「ならまちづくりセンター」の研究者の方が、奈良町の「会所」について調査・記録をすすめておられるようで、この餅飯殿の文化財についてもプロのカメラマンの方が丁寧に撮影をされていました。奈良の町の豊かな文化財を正確に伝えていくことは大いに意義のあることだと思います。
2011.07.07
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