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081221 市の弓連の納射会。内容は、一手座射+四矢立射妻・娘の応援の甲斐あって、練習不足ながらもなぜか6射皆中優勝手午前中道場大掃除の為、めずらしく50人くらい参加してましたが、6射皆中が自分だけというちょっと物足りない感の残る優勝でやんした。。。(ちなみに6射5中も1人だけ。。。)なんと同じ日に自分の本多流の師匠も、別の大会で優勝をしてたらしくびっくり。実はこの師匠に借りている弓(竹・無銘・19kg並)とかなり相性が良かったようで、角見&矢束さえ一定に保てれば必ず中るという感じ。(ちなみに師匠はこの弓で妻手肩の筋を切ったそうな。。。)当日も2週間ぶりで練習不足の自分になり代わって、弓に中てて貰った感が。。。弦音も冴えてるし、離れの反動が気持ちいいくらい素直な弦の戻り方をしてくれて、執着心の強いもたれ気味の自分の射に対して、非常にいいバランスを取ってくれる。下が強い弓の為、会で若干もたれても矢が下に落ちず、学生時代から使っている羽根がボロボロの安物ジェラ矢でも、十分な飛行性能を引き出してくれています。-------------------------------------学生弓道を引退して数年経つけれど、今の自分の弓道に対する心境を報告してみたい。社会人の弓道(日弓連の弓道)の中で弓を引いていて、やはり緊張感が無くどこか弓という道具の本質から離れたものになっている感がある気がする。まあこれだけ組織が大きく一元化されれば形骸化も当然だし、弓を執る目的は十人十色なのでなんとも言えないけれど、でもやはり今の自分にはこの流派の弓が合っていると思う。真・善・美という理想だけを求めるのではなく、それ以前に飛・中・貫という実質が伴わない弓は現実的じゃないと思う。まあ、弓道やその他武道に限らず、「道場」という抽象的な場所がすでに現実的ではないのだけれど、でも道場の抽象性は、逆に現実の具体性が暗に前提されていなければいけないだろうと思う。現実の具体性というのは例えば、「戦場で的の甲冑を貫くこと」だとか、「一矢で迫り来る獲物を確実に殺すこと」だとか、現実の具体的な生とか死に直接に関わるような、そんな状況。学生時代はよく、的を虎のつもりで見るということを意識して練習をしいていた(弓道読本の影響もアリ)要はこの一矢を確実に中てなきゃ自分が喰われるというような緊張感。試合での弓も、戦場での弓も、狩りでの弓でも、お座敷弓道でも何でもいいけれど、要は現実から離れない弓を引くことが大事だと思う。生死を決するような強い要求の中で引く(ような覚悟での)一射を積み重ねていかなければと思う。ガチガチに緊張する試合。非常に追い詰められた中で試行錯誤した射というのは、確実な感触として細部の感覚まで強く残り続ける。もちろんその感触と共に、的中への強い要求も一緒に。その確実な感覚や、現実からの強い要求、それに基づいて弓を引くことが現実から離れない弓であるし、その状況で培うものこそが本当に意味のある「鍛錬」なのかなとも思う。おもちゃのような軽い弓で山なりの矢を飛ばして紙の的に穴を開けるだけ、というのはちょっと弓本来の目的からは逸れてきているのではないかなとも思ってしまう。また、的中と射形とどちらが大切かという議論もよくあるが、その議論自体が一射一射の創造性、その都度その都度の現実の創造性を無視して、射を現実から抽象してなされる議論であると思う。時間も空間も、自分も他人も、この現実のあらゆる状況というのはどこまでいっても既に与えられ続けているものではあるけれども、与えられている現実の状況に対し常に新しい現実を創造し、捉え直す、意味付け直すような生を、弓を求めていかなければと思う。
2008.12.22
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「心とは何か」と考える人は多いと思う。心という働きが相対的であることに気付くこと最近多い。仕事人に出会うことで常に新しい自分を確認している。キャリア相談はそう。弓の指導もそう。最近は営業先でお客さんと話をしていてもその感じが得られてきた。相手にはたらきかけることのできる自分を確認している。人に対して何かができている、相手の話を聞いていること、適切な回答が頭の中に用意されていること。その回答の表現方法を考えること。でもその実感は互いの間に成立する表現全体の場所から一転翻って、自覚として得られることになる。人に対してはたらきかけること。意志を向けること。それが人格と言われるものであるし、自覚の成立ということでもあり。和辻哲郎の言うように、人間存在の本質が「個」としてあるのではなく、「間柄的存在」としてあると言うことの意味が生活を顧みてみると理解されてくる。主体は、主観ではなく、主観・客観の成立する場所の方にあるということ。ただ、「主観としての自覚」⇒「場所としての自覚」というような自覚の発展の経緯は両親との出会い。兄弟との出会い。友人との出会い。妻との出会い。娘との出会い。。。「出会い」において成立してる。絶対に出会えないはずの絶対の他者に出会える場所がある。私であること、あなたであること、そのような相対性の成立の場所。
2008.12.22
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人が抱える現実というのは一つの現実だけではない。一つの現実にのめり込み身をやつすだけ、それだけその現実での自覚から客観性が損なわれてくる。。。仕事だけの日常にはまり込んでしまっている今の状態がいい例だ。それは質感の「捨象」が日課となるような生活である。毎日同じ時間に起きて、同じ電車に乗り、同じ道を歩き、同じ人に会い、同じ話をして、同じように机に噛り付いて、同じような時間の残業をして、会社を後にする。これが質感の「捨象」だ。現実の詳細に目を向けようとしない、現実の質の抽象化。世界の物質化。時間の空間化。形成力の捨象を日課とするサラリーマン生活の典型だ。帰り道、家に帰るのに急ぐ、そこから本当の短い自分自身の一日がようやく始まる。すでに眠りに着いている娘の寝顔を見る為に。妻の作ってくれた夕飯を食べる為に。しかし、10時に家に着き寝るまでの120分は、創造的な自分に還るには短すぎる。今日も創造性の無い一日だったと別の現実の立場から気付いた時にはもう眠る間際。。。公務員やサラリーマンという人種は、組織から「意志」を剥奪されることを余儀なくされている。「意志」というのは死に対峙する態度であり、生命力のことだ。そして生命力とは新しい現実を形成する力のことだ。強いられて行うスケジュール管理や、目標設定やそれに類するメソッドをいくら重ねても、意志が根底に働いていなければ無意味だろう。高校生や大学生の部活の方がまだモチベーションのマネジメントは上手だと思う。子供の頃「大人になる」ということを嫌悪していた原因の一つはここにあった。即ち質感の捨象である。かつてはあらゆる出会い、あらゆる発見が新鮮であった。しかし大人になり同じように新しいものに出会っても、そこに新鮮さは無い。あえて質感を捨象しているから。出会いが形式化しているから。繰り返される大人の現実の歴史性を乗り越えるのは、創造性。特に孤独に根ざした創造性である。「物が真に表現的なものとして我々に迫るのは孤独においてである。そして我々が孤独を超えることができるのはその呼び掛けに応える自己の表現活動においてのほかない」(三木清『人生論ノート』P67 新潮文庫)一つの現実に身も心も浸りきることで、人間は孤独を忘れる。孤独を忘れることは、死を忘れることだ。そして死を忘れることは生を忘れることである。三木の文脈に従うならば、孤独とは新しい現実、新しい質感の発見であり、発見は同時に表現であり、表現とは形成であり、形成とは新しい現実の創造である。いつもと同じ時間空間で生きることが強制されるような現実の中、いつも見ている道の木立の中にも、ビルの合間から見上げる空の深い青さの中にも、いつも見尽くされていない現実がある。いや、あるのではなく、創造される。
2008.12.12
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