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2012.08.08
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カテゴリ: キリシタン

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【保科正直・保科正光・保科正之】

 保科正直の戒名は「建福寺殿天関透光大居士」、保科正光の戒名は「大宝寺殿信巌道義大居士」ですが、上の写真の中央が保科正直の墓石で、左側が保科正光の墓石です。そして、保科正直は慶長六年に亡くなっています。保科正光は寛永八年に亡くなっています。

 この二人のことが『会津藩家世実紀』に出てくるのですが、それぞれ「透光様」「道義様」と記されています。この保科正直が溢保科郷から伊那谷へ移ったのか、はっきりしません。保科正光は保科郷で生まれたと書かれている本があったのですが、出典は記されていませんでした。そして、現在の伊那市高遠町には保科姓の家が数多く残っていますが、保科郷にも保科姓が残っています。

 この墓地は、旧高遠町中心部にある臨済宗妙心寺派の大宝山建福寺というお寺の墓地の入り口付近です。右端は「諏訪御料人」と言われた武田勝頼の母の墓です。この諏訪御料人は諏訪頼重の娘で、天文十一年(1542)に武田信玄の側室になり、天文十五年(1546)に勝頼を産んでいます。非常に興味深いのは、この諏訪御料人の位号が「大禅定尼」になっているのですが、保科正直と保科正光の位号は「大居士」になっています。保科家は諏訪氏の家臣だったことがあるからなのでしょうか。

 この時代のことは、江戸時代になってから書かれた史料が多く、内容に関してはあまり信用性がないようです。そうした意味では、『会津藩家世実紀』はその時その時に書かれた文書を後の時代に編纂した文書集ですから、かなりの信憑性があります。そして、そこに記されている内容に関して、伝わっていることと異なるところには註が記されています。

※下の写真は建福寺の境内に建てられている説明板を写したものです。






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Last updated  2012.08.08 20:24:43
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