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「弱さの霊的な教え」 甲斐慎一郎 コリント人への手紙、第二、12章1~10節 コリント人への手紙第二の11章24節から28節には26回の苦難が記されていますが、どれをとっても普通の人が経験したことがない大変な苦難です。このような大きな苦難を、しかも26回も経験し、しかもそれらを全部、乗り越えた人は、古今東西を通じてだれもおらず、世界でパウロほど「強い人」は、いないのではないでしょうか。 ところがパウロは11章21節から12章10節に「弱さ」とか「弱い」という言葉を9回も記しています(11章21節、29節に2回、30節、12章5節、9節と10節に各2回)。特に12章9、10節には世の常識に反した不思議な言葉が書かれています。▽弱さのうちに完全に現れる神の力(9節)▽弱さを誇る(5、9節)▽弱さを喜ぶ(10節、文語訳)▽弱いときにこそ強い(10節) このようなことは、世の中においては考えられないことですが、信仰の世界や霊の世界においては、非常に大切な事実です。それで聖書から「弱さの霊的な教え」について学んでみましょう。 一、弱さと真の信仰 パウロには肉体に一つのとげが与えられていました。それは、彼に苦しみを与えるからだの病を持っていたことを意味しています。この肉体のとげは、パウロが経験したすばらしい主の幻と啓示のゆえに、高ぶらないためのものでした(7節)。 高慢は、神から私たちを引き離すものですが、謙遜は、神と私たちを結びつけるものです。神の前に私たちを謙虚にさせるものは、罪ではなく弱さです。 主は、「わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです」と言われました(ヨハネ15章5節)。神を離れた人間は無力な者です。ですから私たちがほんとうに自分の弱さを自覚し、その弱さに徹するなら、堅く神に結びつかざるを得なくなるでしょう。これこそ神への不動の信仰です。 二、弱さと真の希望 パウロは、肉体のとげが取り去られるように主に祈りましたが、その願いは聞き入れられませんでした。普通なら、弱さそれ自体が失望や落胆の原因になります。ましてそれが取り去られるように祈ったのに、その願いが聞かれなければ、ますます失望し、落胆してしまうのではないでしょうか。 これに対する主の答えは、「わたしの恵みはあなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである」というものでした(9節)。 私たちが自分の弱さに失望するのは、自分に拠り頼んでいるからです。ですから私たちがほんとうに自分の弱さを自覚し、その弱さに徹するなら、自分に拠り頼むことがなくなるために失望することもなく、しかも神の力は弱さのうちに完全に現れることを知って、希望に満ちあふれるのです。 三、弱さと真の愛 世の中においては、肉体のとげをもっていること自体が神の愛を疑う理由になります。ましてそれが取り去られるように祈ったのに、聞かれなければ、ますます神の愛を疑いたくなるのではないでしょうか。 私たちが神の愛を疑うのは、自分に対する神の恵みが十分ではないと思うからです。しかし主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である」と言われました(9節)。 私たちは、弱さのゆえに高ぶらずに神への真の信仰を持つことができるだけでなく、自分に拠り頼まずに、神に真の希望を置くことができます。このようなことはみな、私たちの弱さを思いやり、同情してくださる神の愛の現れです。 ですから私たちは、自分の弱さを自覚し、その弱さに徹すれば徹するほど、ますます私たちの弱さを思いやり、同情してくださる神の愛の深さを知るとともに、私たちと同じような弱い人たちを思いやり、同情することができる愛の人に変えられていくのです。甲斐慎一郎の著書→説教集東京フリーメソジスト昭島キリスト教会
2012.03.27
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「摂理を信じる信仰」 甲斐慎一郎 創世記、22章1~19節 「摂理」という言葉の語源は、「アドナイ・イルエ(主が備えてくださる)」(14節)であると言われ、その意味は、「神の予知による人間への配慮」です。アブラハムがイサクをささげた出来事から、摂理とそれを信じる信仰について学んでみましょう。 一、キリスト者の悩みとその解決 アブラハムが神よりイサクをささげよという大きな試練を受けた時、彼とても先に何が起きるのかを全く知らない人間である以上、神のなさることを理解することができず、悩んだことでしょう。しかしこのアブラハムの悩みは、キリスト者の共通の悩みです。 人間は神を信じて罪から救われても、様々な苦難や不幸や災いはなくなりません。この苦難や不幸や災いがあるということは、世の人々が神を信じない最大のつまずきになっているだけでなく、神を信じているキリスト者にとっても最大の悩みであり、また多くの場合、それは信仰の成長を妨げる最大の原因にもなっています。 このような苦難があっても、先に必ず良いことが待っているのがわかっていれば、それにも耐えられますが、実際には神を信じても、先のことは全くわかりません。 しかして、この二つの大きな悩みに十分な答えと解決を与えてくれるのが神の摂理であり、またそれを信じる信仰です。 二、キリスト者の宗教とその本質 アブラハムが試練に会ったのは、最愛の子イサクを神にささげるかどうかによって、彼の神に対する真実な愛があるかないかを試されるためでした。真の宗教の本質は、神が与えてくださる祝福や恵みよりも、神を真実に愛する愛を持つことです。 ですから神を信じることによって、この世において全く苦難がなくなるなら、それは御利益宗教以外の何物でもなく、人は、ただ自分の利益のために神を利用していることになってしまうでしょう。その結果、真の宗教の本質である神への真実な愛などあり得ず、ただ罪深い、貪欲な人間が生まれるだけであり、宗教は、その存在価値を失ってしまうことでしょう。 また先のことに関して、もしアブラハムが天からの声によって止められることを予め知って、イサクをささげたとしたなら、彼の行為は芝居であり、その完全な献身も真実かどうか疑わしいものです。 このように苦難や先のことがわからないことは、御利益宗教や打算や偽りなど、真の宗教にとって致命的な不純物を取り除いて、真実な愛を持つために必要なことなのです。 三、キリスト者の勝利とその秘訣 アブラハムは、具体的には先に何が起きるのか全く知りませんでしたが、神は、良いものを必ず備えてくださることを信じていました(8節)。神の摂理を信じる信仰は、具体的な一つ一つのことに関しては、先に何が起きるのか、その時になるまではわからなくても、神は良いことはもちろんのこと、現在、目前にある苦難や不幸や災いなどの悪いことをも用いて、予め私たちのために最善のものを備えてくださると信じるのです。 しかしこの摂理を信じる信仰を持ち、また神の摂理の道を歩むために必要なことは、アブラハムがイサクをささげたように自分を完全に神にささげることです。これは具体的には、絶えず自分のためにではなく神のために、しかも安易な道ではなく、苦しくても最善の道を選ぶことです。 なぜなら、「ノークロス、ノークラウン(No cross,no crown)十字架なくして栄光なし、苦難なくして栄冠なし」という諺のように、神の道は、十字架の道、また自己否定の道だからです(マタイ16章24節)。十字架の道のみ生命に至る道であり、その苦しみは喜びに変わるのです。甲斐慎一郎の著書→説教集東京フリーメソジスト昭島キリスト教会
2012.03.20
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「聖なる民と世俗の民」 甲斐慎一郎 ペテロの手紙、第一、2章9節 聖書には「聖なるものと俗なるもの、また汚れたものときよいものを区別する」(レビ10章10節)ことについて記されていますが、これは人や民にもあてはまります。 一、聖なる民と世俗の民との対立 人類の始祖は、アダムとエバですが、その子のカインとアベルから「聖なる民」と「世俗の民」が別れています。すなわちアベルは「聖なる民」の先祖で、カインは「世俗の民」の先祖です(創世記4章2~8節、ヘブル11章4節)。アベルが死んだので、セツが「聖なる民」の先祖となりましたが、セツの子孫の大多数が「世俗の民」となったので(同6章2~7節)、神は大洪水を起こして、「世俗の民」を滅ぼし、セツの信仰を受け継いでいたノアを新しい「聖なる民」の先祖としました。 しかしノアの子孫の大多数も「世俗の民」となったので、神は、アブラハムを選び、「聖なる民」の先祖としました。そしてアブラハムの子イシュマエル(世俗の民)を退け、イサクを「聖なる民」の先祖として選び、イサクの子エサウは「俗悪な者」(ヘブル12章16節)なので退け、ヤコブを「聖なる民」の先祖として選び、ヤコブから十二部族が生まれ、イスラエル民族を「主の聖なる民」として選ばれたのです(申命記14章2節)。 しかしイスラエル人の大多数も神に背いて「世俗の民」となったので、神は、イスラエル人を滅ぼしましたが、神は「聖なるすえ」(イザヤ6章13節)を残し、その「聖なるすえ」が脈々と続き、キリストの弟子たちに受け継がれ、そしてキリスト者が「聖なる国民」(第一ペテロ2章9節)として選ばれて、現在の私たちに至っているのです。 二、ヘブライズムとヘレニズムとの対立 この世界の精神や文化には、大きく分けて二つの潮流があります。一つは「ヘブライズム」で、もう一つは「ヘレニズム」です。 ヘブライズムは「ユダヤ教を含めたキリスト教の精神や文化」のことで、「神中心、宗教的、信仰的」で、人間が有限であり唯一神への信仰が必要であると教えるものです。 ヘレニズムは、「古代ギリシャ(またローマ)の精神や文化」のことで、「人間中心、人間の自由と平等、合理主義」で、唯一神への信仰は必要ではないと教えるもので、ギリシャ、ローマ時代に始まりました。 「ヘブライズムとヘレニズムとの対立」は、聖書に始めから記されています。ヘブライズムは「聖なる民の精神や文化」であり、ヘレニズムは「世俗の民の精神や文化」です。 紀元30年にキリスト教が誕生してから現在までの「ヘブライズム」と「ヘレニズム」との対立を各世紀に従って述べるなら、次のようになります。緑の文字が「ヘブライズム」が優勢の時代で、赤い文字が「ヘレニズム」が優勢の時代です。 ◆1世紀~3世紀--キリスト教と教会への迫害の時代です。 ◆4世紀(313年、ミラノ勅令)~16世紀(1517年、宗教改革)--カトリック教会の黄金時代です。 ◆14世紀~16世紀--ルネサンス(文化復興運動、人間中心の文化)の時代です。 ◆16世紀--ルター、ツヴィングリ、カルヴァン、ノックスらによる宗教改革です。 ◆17世紀--清教徒革命とクロムウェルの共和制に見るピューリタン運動です。 ◆18世紀--ジョン・ウェスレーとその後継者によるメソジスト運動です。 ◆1789年--フランス革命(自由、平等、友愛、しかし教会を迫害した時代)。 ◆19世紀--世界の各地にリバイバル(信仰覚醒運動)が起きた時代です。 ◆1859年~現代--ダーウィンが「種の起源」を発表して、「進化論」によって神の存在を否定する「無神論」の宣伝の時代です。 世の終わりには、「汚れた者はますます汚れを行い......聖徒はいよいよ聖なるものとされ」、次に来る世(来世)において「聖なる民」は、天の御国に入り、「世俗の民」は地獄に行くのです(黙示録22章11、14、15節)。 甲斐慎一郎の著書→説教集東京フリーメソジスト昭島キリスト教会
2012.03.12
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「信仰と幻 (ビジョン)」 甲斐慎一郎 ヨシュア記、14章6~15節 「どうか今、主があの日に約束されたこの山地を私に与えてください」(12節)。 これはカレブがヨシュアに言ったことばです。この時のカレブは85歳でした。しかし彼は「モーセが私を遣わした日のように、今も壮健です。私の今の力は、あの時の力と同様、戦争にも、また日常の出入りにも耐えるのです」ということができました(11節)。 カレブがこのように言うことができた秘訣は何でしょうか。それは一言で言えば「主に従い通した」(8、9、14節)全き服従です。しかしこの神への全き服従の原動力は、彼の信仰と幻でした。 一、幻(ビジョン)の意味 一般的に「幻」とか「夢」というと、遠大であっても到底実現不可能な淡い希望のことを意味しています。しかし聖書が教えている「幻」は、全く異なった意味があります。 聖書は、エリの時代について、「そのころ、主のことばはまれにしかなく、幻も示されなかった」と教えています(第一サムエル3章1節)。この「幻」ということばは、口語訳、文語訳とも「黙示」と訳され、同じ節の並行文では「主のことば」と記されていますから、「幻」とは、「主のことば」であることが分かります。 しかし「幻」は、単に「主のことば」を表しているのではなく、パウロが「私は、この天からの啓示にそむかず......宣べ伝えて来たのです」(使徒26章19、20節)と述べているように、個人的にその人に与えられた「天からの啓示」をも意味しています。 さらに言い換えるなら、モーセについて、「彼は、キリストのゆえに受けるそしりを、エジプトの宝にまさる大きな富と思いました。彼は報いとして与えられるものから目を離さなかったのです」(ヘブル11章26節)と記されているように、「幻」とは、神が約束され、実現が保証されている「永遠の報い」のことを指しています。 この「幻」は、カレブにとっては「主が約束された山地」であり、パウロにとっては、「キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠」であり、彼は、これを「得るために、目標を目ざして一心に走っている」と告白しています(ピリピ3章14節)。私たちの場合は、神がその人に与えられた天からの使命とそれに伴う永遠の報いです。 二、幻(ビジョン)の効用 幻は私たちに何を与えるのでしょうか。 1.幻は目先の困難に負けない力を与える 荒野を放浪していたカレブの周囲は、困難と艱難に満ちていました。危険な荒野や呟く不信仰の民など、目先の困難だけを見ていたなら、とても耐えられないでしょう。 しかしカレブは、主が約束されたすばらしい報いである山地を望んでいたので、目先の困難に負けずに忍耐することができました。 2.幻は目先の欲に走らない力を与える 目先の困難に負けた人は、必ず安易な目先の欲に走るものです。イスラエルの民が荒野において呟いてばかりいたのも、目先の困難に負けた結果、私利私欲に走ったからです。 しかしカレブは、主が約束されたすばらしい報いである山地を望んでいたので、目先の欲に走らず、打算的になることもなく、前進していくことができました。 3.幻は世の流れに流されない力を与える 目先の困難に負けずに忍耐し、目先の欲に走らずに前進して来たカレブにとって、これからなすべきことは、約束された山地を獲得することでした。このようにして彼は、呟く不信仰の民と同じ道を歩むことなく、約束された山地を自分のものとしたのです。 三、幻(ビジョン)の実現 神が私たちに与えられた天からの使命とそれに伴う報いは何でしょうか。私たちは「天からの幻」を与えられ、その「目標を目ざして一心に走っている」時、目先の困難に負けたり、目先の欲に走ったりすることなく、主のわざを成し遂げて、「神の栄冠を得る」ことができるのです(ピリピ3章14節)。甲斐慎一郎の著書→説教集東京フリーメソジスト昭島キリスト教会
2012.03.06
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