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「世を愛された神」 甲斐慎一郎 ヨハネの福音書、3章16~21節 「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」(16節)。 この御言葉についてD・L・ムーディーは、「たとえ聖書の全部が失われても、ただこの一句さえ残っていれば、なお救いの道を知ることができる」と言い、マルチン・ルターは、「これは聖書の縮図であり、また小さな福音書である」と述べています。 一、世を愛された神(16節) このヨハネの福音書の3章は、1節から15節までがイエスとニコデモとの会話で、16節から21節まではヨハネの解説です。イエスは、「モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子(イエス)もまた上げられなければなりません。それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです」と言われました(14、15節)。 この言葉は、ユダヤ人の指導者でありイスラエルの教師であるニコデモには理解できたかもしれません。しかし旧約聖書を知らない一般の人は、何を言っているのかわからないでしょう。それで14節と15節の言葉を、だれにでもわかるように言い換えたのが冒頭に記した16節の言葉です。 この御言葉は、神の愛とは、どのようなものであるかを私たちに教えています。それはひとり子をお与えになったほどに私たちを愛された愛です。しかし私たちの生まれながらの感情は、次のような時に愛を感じるのではないでしょうか。▽自分に優しくしてくれる時▽自分に親切にしてくれる時▽自分を喜ばせてくれる時▽自分に良いことをしてくれる時▽良い感じや暖かい感じがする時これと反対の時には愛を感じません。 しかし聖書は、神の愛は私たちが神のお取扱いや御姿に愛を感じるとか感じないということに関係なく、ただ神が私たちの罪のためにひとり子をお与えになったことに現れたと教えています。すなわち、「神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです」(第一ヨハネ4章10節)。 二、世を救われる神(17、18、21節) 神が、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛されたことは、ゴルゴタの十字架を見れば、まちがいのない事実であることがわかります。しかし私たちは、神に愛されたことが、そのまま神に救われることではないことを忘れてはなりません。御子を信じる者だけが罪から救われます。 ヨハネは、16節を記した後、言葉を続けて「神が御子を世に遣わされた(すなわち世を愛された)のは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである」と述べています(17節)。 私たちは、「光のほうに来る」(21節)、すなわち罪を悔い改めて、キリストを信じる時、私たちを愛された神は、私たちを罪から救われるのです。 三、世をさばかれる神(18~20節) さらにヨハネは、「信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている」と述べています(18節)。 ここにも神に愛されたことは、そのまま神に救われることではないことが明白に記されています。御子を信じない者は、すでにさばかれています。私たちは、「光のほうに来ない」(20節)、すなわち罪を悔い改めず、キリストを信じない時、私たちを愛された神は、私たちの罪をさばかれるのです。拙著「キリストの生涯の学び」25「世を愛された神」より転載甲斐慎一郎の著書→説教集東京フリーメソジスト昭島キリスト教会
2012.06.26
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「化石と地層の形成について」 甲斐慎一郎 創世記7章17~24節 この創世記の7章は、大雨が四十日四十夜地の上に降り、大洪水が起こったことを教えています。神による天地の創造や聖書の記事を信じていない人たちは、世界的な規模の大洪水が起こったことを否定しています。それは、このような大量の水は、地球上のどこにもないという理由からです。しかし聖書の記事が真実であることは、次のような確かな証拠によって説明することができます。 一、化石と地層の形成について 前回述べたように創造された当初の世界は「大空の上の水」(創世記1章7節)が地球全体を覆っていて温室のような状態にありました。北極や南極にも植物が繁り、多くの動物が生息していました。四十日四十夜の大雨は、この水が降ったのであり、その結果、地球は急速に冷えて、北極や南極は氷の世界になったものと思われます。 このことは「熱帯植物や動物の化石が北極圏で発見されること」(トーマス・F・ハインズ)によってわかります。進化論者は、ノアの大洪水のような激烈な大変動を否定して「すべての地質現象は、過去も現在も同じ経過と営力で起こる」(『ウェブスター辞典』)という「斉一説」を信じています。しかし斉一説では、化石や地層がどのようにしてできたのかを説明することは不可能です。 化石は、動植物が大量の土砂によって、腐る間もないほど急激に、しかも高圧で埋没させられることによってのみできます。「化石は高圧の条件下で、しかも水中においてできること」です(トーマス・F・ハインズ)。水平に何重にも重なっている地層は、水のふるい分け作用によらなければできません。 このようにノアの大洪水という激烈な大変動によってのみ、化石や地層がどのようにしてできたかを説明することができるのです。 二、化石と地層が短期間で形成された証拠 冒頭の上の写真は「子供を産んでいるイクシヤサウルスの化石」と「魚を飲み込んでいる魚の化石」です。このような短時間の姿をとらえた化石は、進化論者が言うように、何万年もかけて化石になったのではないことを証明しています。ノアの大洪水による大量の土砂によって腐る間もないほど急激に、しかも高圧で埋没させられることによってできたのです。 冒頭の下の写真は、フランスのサン・エチネの近くで発見された「何層にもまたがったまま埋もれた木の化石」です。このような化石は、進化論者が言うように、木が異なった時代を何億年も生き続けたのではないことを証明しています。ノアの大洪水による水のふるい分け作用によって水平に何重にも重なっている地層が形成され、そこに大量の土砂によって腐る間もないほど急に、しかも高圧で埋没させられることによってできた木の化石が違った土質の地層にまたがって縦に埋もれたのであり、そうでなければ、決してこのような「何層にもまたがったまま埋もれた木の化石」にはならなかったでしょう。甲斐慎一郎の著書→説教集東京フリーメソジスト昭島キリスト教会
2012.06.18
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「時の自覚」 甲斐慎一郎 ローマ人への手紙、13章11~14節 「あなたがたは、今がどのような時か知っているのですから、このように行いなさい。あなたがたが眠りからさめるべき時刻がもう来ています。というのは、私たちが信じたころよりも、今は救いが私たちにもっと近づいているからです。夜はふけて、昼が近づきました」(11、12節)。 この短い箇所に「時」に関する言葉が七回も記されています。私たちは、時の流れの中で生きており、そこから逃れることはできません。時の記念日に因んで、「時を自覚する」とは、どのようなことかということを考えてみましょう。 一、時の自覚--考え方(思い)の変革 人間というものは、期間が限られている仕事や緊急の出来事以外のものは、いつしてもよいという考えを持ちやすいのではないでしょうか。しかしそのように考えている人は、決して成功しないでしょう。どのようなことにも時期を逃さずに、「機会を十分に生かして用い」(エペソ5章16節)た人のみ、真に有意義な人生を送ることができるのです。 機会には次のような三つの特徴があります。 1.自分でつくることができないものであることです。すなわち受動的なものであるということです。 2.いつ来るか分からないものですから、常に備えていなければなりません。 3.いつまでも続くものではなく、失われるものです。ですから決して逃してはならないのです。 伝道者の書の著者は、「天の下では、何事にも定まった時期があり、すべての営みには時がある」と記し(3章1節)、ダビデは、「それゆえ、聖徒は、みな、あなたに祈ります。あなたにお会いできる間に」と述べています(詩篇32篇6節)。「確かに、今は恵みの時、今は救いの日です」(第二コリント6章2節)。 このようなことから「時を自覚する」というのは、物事をするのは、いつでもよいのではなく、何事にも時があり、機会を逃してはならないことを知って、その思いや考え方を改めることです。 二、時の自覚--生き方(行動)の変革 パウロは、「今は救いが私たちにもっと近づいているからです」と述べています(11節)。この救いとは、世の終わりにあるキリストの再臨とその栄光にあずかることを指しています。「ですから、私たちは、やみのわざを打ち捨てて......正しい生き方をしようではありませんか」と勧告しているのです(12、13節)。ペテロも「これらのもの(天の万象)はみな、くずれ落ちるものだとすれば、あなたがたは、どれほど聖い生き方をする敬虔な人でなければならないことでしょう」と述べています(第二ペテロ3章11節)。 このようなことから「時を自覚するというのは、人間は何をしてもよいのではなく、すべての行いが神によって正しくさばかれる世の終わりが近づいていることを知って、その行動や生き方を改めることです。 三、時の自覚--在り方(心)の変革 しかし私たちは、その行動や生き方を改めるためには、その心が変わらなければなりません。それでパウロは、「主イエス・キリストを着なさい」と勧めています(14節)。 キリストを着るとは、どのようなことでしょうか。パゼット・ウィルクスは、聖書の中には、三つの衣があると述べています。1.新生の衣、すなわち義の衣です(ガラテヤ3章27節)2.聖化の衣、すなわち聖い衣です(エペソ4章23、24節)3.栄化の衣、すなわち不死の衣です(第一コリント15章53節) キリストを着るとは、救い主キリストを信じて、新しく生まれ変わり、さらに聖霊によって心に住む罪がきよめられることです。 このようなことから「時を自覚する」というのは、人間は、どのような心であってもよいのではなく、罪を悔い改め、救い主キリストを信じて、新しく生まれ、その心や在り方を改めることです。 私たちは、このように時を自覚しているでしょうか。甲斐慎一郎の著書→説教集東京フリーメソジスト昭島キリスト教会
2012.06.10
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「ヤコブの子ユダ」 甲斐慎一郎 ヨハネの福音書、14章18~24節 十二使徒の中にユダという名の人がふたりいます。ひとりはヤコブの子ユダ、もうひとりはイスカリオテ・ユダです。十二使徒の名簿においてマタイとマルコは、ヤコブの子ユダをタダイという名で載せていますが(マタイ10章3節、マルコ3章18節)、ルカはヤコブの子ユダと記しています(ルカ6章16節、使徒1章13節)。そしてヨハネは、ヤコブの子ユダを裏切り者のユダと区別するために「イスカリオテでないユダ」と書いています(22節)。 一、イエスの弟子になっただけでなく、十二使徒のひとりに選ばれたユダ(ルカ6章16節) ヤコブの子ユダのことは、十二使徒の名簿の中に名を連ねていることと、イエスが十字架につけられる前の日に弟子たちに「訣別の説教」をされた時、彼が主に質問したことばと(22節)、この二つのことしか新約聖書は記していません。 ですからヤコブの子ユダの家族がどのような人であったのか、その職業は何であり、また生まれつきの人柄や持ち前の性格はどうなのか、そしてイエスの弟子になった経緯はどのようなものであったかについてはほとんどわかりません。ただ大ぜいの弟子の中から十二使徒のひとりに選ばれたのですから、イエスの目に留まり、主「ご自身のお望みになる者たち」のひとりであったことだけは確かです(マルコ3章13節)。 二、イエスがご自分を世には現そうとなさらないのを知って、どういうわけかを主に質問したユダ(18~24節) ヤコブの子ユダは、十二使徒のひとりに選ばれ、喜んでイエスについていきました。しかし彼も、ほかの使徒たちと同じようにイエスを「イスラエルのために国を再興してくださる」(使徒1章6節)メシヤとして期待していました。そのイエスが受難週の日曜日にエルサレムに入城され、大ぜいの群衆はイエスを熱狂的に歓迎したのです。これを見たユダは、イスラエルの国の再興が近いことを直感し、期待に胸ふくらませたにちがいありません。 ところが四日後の木曜日にイエスは、「訣別の説教」において、ご自身を愛する人にだけ、「わたし自身を彼に現します」と言われました(21節)。ユダは、このことばを聞くと、がっかりし、すぐ「主よ。あなたは、私たちにはご自分を現そうとしながら、世には現そうとなさらないのは、どういうわけですか」と質問しました(22節)。この質問は、言い換えれば、「主よ。もしあなたがほんとうにメシヤであられるなら、そのことを少数の弟子だけでなく、世のすべての人に現すべきではありませんか」ということです。 ヤコブの子ユダも、ご多分にもれず、五旬節の日に聖霊に満たされるまでは、イエスを私たちに御霊をお与えになるために(16節、使徒2章33節)、「罪のきよめを成し遂げ」る(ヘブル1章3節)受難のメシヤとして理解することができず、イエスをローマ帝国の圧政からイスラエルの国を救い出してくださる栄光のメシヤとして夢見ていたのです。 三、人の目には忘れられた使徒であったが、神の前に忠実に仕えて生涯を閉じたユダ ヤコブの子ユダは、十二使徒の中では全く目立たない存在で、彼のことは、「訣別の説教」の時にイエスに質問したことば以外は、新約聖書に何も記されていません。しかしユダは、五旬節の日に聖霊に満たされる前も、その後も、ほかの使徒たちと行動をともにし(使徒6章2節、8章1節)、イエスの大宣教命令に従って地の果てまで福音を宣べ伝えました。 アルパヨの子ヤコブとヤコブの子ユダは、「忘れられた使徒」と呼ばれています。このふたりは、人の目には宣教の働きにおける名声も業績も覚えられることなく、また認められなかったかもしれません。しかし神の前において「死に至るまで忠実」に仕え(黙示録2章10節)、さばきの座において「よくやった。良い忠実なしもべだ」と神から賞賛を受けることでしょう(マタイ25章21節)。 ヤコブの子ユダは、ペルシャに伝道し、その地で殉教の死を遂げたと言われています。拙著「使徒ヨハネの生涯」29「ヤコブの子ユダ」より転載甲斐慎一郎の著書→説教集東京フリーメソジスト昭島キリスト教会
2012.06.05
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