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「実践的な信仰」インターネットのテレビ局CGNTV(Christian Global Network Television)の番組「みことばに聞く」に当教会の牧師が出演しました。以下のURLをクリックすると見ることができます。2012年11月15日放映「神の愛と人の愛」http://japan.cgntv.net/_inc/player.asp?pid=2384&type=vod&player=8&bit=high&vid=58910&dreamon=Y「実践的な信仰」 甲斐慎一郎 イザヤ書、30章15~18節 イザヤが預言者として活動していた時代のユダは、北にはアッシリヤ、南にはエジプトという二つの強大な国家に挟まれた小さな国でした。 その頃、アッシリヤがユダに攻めて来ました。このような時、イザヤは、何の助けにもならないばかりか、かえって災いを招くことになるエジプトの国との同盟を譴責し、神にのみ拠り頼むことを教えました。 ユダの国の民にとって、神に対する信仰があるかないかは、自分の国の存亡にかかわることであり、それは取りも直さず個人個人の死活問題でした。彼らにとって信仰は、観念的なものでは全く役に立たず、実践的なものにならざるを得なかったのです。 そこで実践的な信仰とは、どのようなものなのかということをこのイザヤ書から学んでみましょう。 一、「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ......る」(15節前半) 実践的な信仰の第一の要素は、静かにすること、言い換えれば、「委ねること」、「任せること」です。ペテロは「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい」、「創造者(神)に自分のたましいをお任せしなさい」と勧めています(第一ペテロ5章7節、4章19節)。 「委ねる」とか「任せる」ということは、文字通り、そのことに関しては、何もしないということです。これを重い荷物を背負った人が汽車に乗ることにたとえてみましょう。 汽車に乗っても重い荷物を背負ったまま車内を走っていたのでは、委ねたことにも任せたことにもなりません。重い荷物を降ろして、網棚にでも置くことこそ、思い煩いを神に委ねることであり、車内で走らずに座席に腰を掛けることこそ、自分のたましいを神の任せることなのです。 二、「落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る」(15節後半) 実践的な信仰の第二の要素は、「信頼すること」、「信用すること」です。パウロは、「その方(神)は私のお任せしたものを、かの日のために守ってくださることができると確信している」と告白しています(第二テモテ1章12節)。 「委ねる」とか「任せる」ということは、「あきらめる」とか「見離す」ということと表面的にはよく似ています。これをキャッチ・ボールにたとえてみましょう。 「あきらめる」とか「見離す」というのは、キャッチャーがいないで、ただボールを投げることで、そこには何の解決も救いもありません。「委ねる」とか「任せる」というのは、キャッチャーである神に私たちの「思い煩い」と「かたましい」というボールを投げることです。 ですから私たちは、私たちが投げたものを神が確実に受け取るとともに、それを守り、さらに最善にしてくださるということを信じなければならないのです。 三、「幸いなことよ。主を待ち望むすべての者は」(18節後半) 実践的な信仰の第三の要素は、「待ち望むこと」、「期待すること」です。預言者イザヤは、「主は......恵もうと待っておられ......あわれもうと立ち上がられる」と述べています(18節後半)。 キャッチ・ボールの場合は、また同じボールが返って来るために不完全なたとえですが、神の場合は、私たちが投げた「思い煩い」や「問題」を、今度は「祝福」と「恵み」に変えて送り返そうとしておられるのです。 ですから私たちは、神が送り返そうとしておられる祝福や恵みを受け取るために、神を待ち望み、神に期待することが必要です。 実践的な信仰は、この「委ねること」と、「信頼すること」と、「待ち望むこと」の三つが一つになったものです。甲斐慎一郎の著書→説教集東京フリーメソジスト昭島キリスト教会
2012.11.26
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「静寂の力」 インターネットのテレビ局CGNTV(Christian Global Network Television)の番組「みことばに聞く」に当教会の牧師が出演しました。以下のURLをクリックすると見ることができます。2012年11月7日放映「神に会う備え」http://japan.cgntv.net/_inc/player.asp?pid=2384&type=vod&player=8&bit=high&vid=58799&dreamon=Y「静寂の力」 甲斐慎一郎 イザヤ書、30章15~24節 イザヤが預言者として活動していた時代のユダは、北にはアッシリヤ、南にはエジプトという二つの強大な国家に挟まれた小さな国でした。その頃、アッシリヤがユダに攻めて来ました。イザヤは、民に「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る」と仰せられた主のことばを告げました(15節)。 一、静寂の力の必要性(16節) ところが民は、「いや、私たちは馬に乗って逃げよう」と言いました(16節)。 ミデヤンの地において神の前に静まることを身につける前のモーセは、神を恐れず、人を恐れました(出エジプト2章12、14節)。そのために彼は、自分の力を知らない高慢のために出過ぎたまねをし(同2章12節)、また神の力を知らない不信仰のために正しいことにも臆してしまいました(同2章15節)。 このように人は、神の前に静まって力を得なければ、出過ぎたまねをし、しかも必要で肝心なことができなくなってしまいます。言い換えれば、止まっていなければならない時に飛び出し、進んでいかなければならない時に後ずさりするのです。これは忍耐と勇気の欠如によるものですが、この忍耐と勇気の欠如こそ、静まることが必要な理由です。 二、静寂の力の秘訣(18節) イザヤは、「幸いなことよ。主を待ち望むすべての者は」と言いました(18節)。 キリストは、人間の外側のことばや行動は、内側の心や思いの表れであると言われました(マタイ5章21~32節、12章34節)。心に満ちていることがことばになり、行動になるのです。ですから神に喜ばれない出過ぎたまねをせず、しかも神に喜ばれる必要で肝心なことをするためには、まず心がそうなっていなければなりません。 もし私たちの心の中に、神に喜ばれない願いが満ち、また神に喜ばれる願いがほとんどなければ、出過ぎたまねをし、必要で肝心なことができなくなってしまうのは当然です。 私たちは、静まって神を待ち望まなければなりません。祈りは、ただ神の前に自分の願いを並べ立てることではありません。それは、神に喜ばれない願いや思いを静め、神に喜ばれる願いや思いを燃え立たせて、神のみこころと力を待ち望むことです。 祈りの消極面は、静まることです。静まるとは、神以外のすべてのものから目を離して分離することであり、人間的または肉的な願いや思いを止めることです。私たちは、こうする時にのみ、真の忍耐を身につけることができ、出過ぎたまねをして飛び出すことから救われるのです。 祈りの積極面は待ち望むことです。待ち望むとは、ただ神のみに目を向けて期待することであり、神のみこころと力を受け取ることです(イザヤ40章31節)。私たちは、こうする時にのみ、真の勇気を身につけることができ、臆して後ずさりすることから救われるのです。 三、静寂の力の効果(21節) イザヤは、「あなたが右に行くにも左に行くにも、あなたの耳はうしろから、『これが道だ。これに歩め』ということばを聞く」と言いました(21節)。 静まって神を待ち望む人は、全く自主性がなくなり、神の操り人形になるのでしょうか。決してそうではありません。右に行くことも左に行くことも自由であり、日常茶飯事は聖書の教えに基づいた常識を働かせて自主的に行動することができます。 しかし静まって神を待ち望んでいる人は、常識を働かせている小さな出来事の中にも、気がつかないうちに神に導かれ、また大きな出来事は、アジヤからピリピに渡ったパウロのように特別な神の導きと干渉によって進退しているのです(使徒16章6~10節)。甲斐慎一郎の著書→説教集東京フリーメソジスト昭島キリスト教会
2012.11.20
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「厳粛な選択」 インターネットのテレビ局CGNTV(Christian Global Network Television)の番組「みことばに聞く」に当教会の牧師が出演しました。以下のURLをクリックすると見ることができます。2012年8月3日放映「キリスト教の信仰」 http://japan.cgntv.net/_inc/player.asp?pid=2384&type=vod&player=8&bit=high&vid=57593&dreamon=Y 「厳粛な選択」 甲斐慎一郎 申命記、30章15~20節 「私は、きょう、あなたがたに対して天と地とを、証人に立てる。私は、いのちと死、祝福とのろいを、あなたの前に置く。あなたはいのちを選びなさい」(19節)。 シェイクスピアの名作「ハムレット」の中に「生くべきか、生くべきにあらざるか、それが問題だ」という言葉があります。 人間の一生は、日常生活の小さな出来事から、人生の大きな転機に至るまで、どれにしようか、どちらにしようか、という選択の連続であるということができます。そして非常に厳粛なことは、人がどのような人生を送るかということは、事の大小を問わず、その人が何を選ぶかによって決まってしまうということです。 そこで人間にとって最も大切な選択ということについて、次のような三つの観点から学んでみましょう。 一、自由選択について--現世的なもの まず二つ以上のものの中から自由にいくつかのものを選ぶことができる自由選択です。 これは、私たちの衣食住や趣味、娯楽など、日常生活に関するものから、進学や就職や結婚など、人生の大切な転機、そして政治的、経済的、社会的な問題の解決に至るまで、その人の考えや思想、また希望や好み、さらに能力や才能、そして事情や境遇に応じて、自由に選択することができるものです。 この自由選択をすることができるものは、道徳的な善悪と関わりなく、従って人間の永遠の運命とは全く関係のない現世的なものに限ることを忘れてはなりません。しかしそれぞれの選択に違いがある以上、その結果にも違いが生じることは言うまでもありません。 二、二者択一について--永遠的なもの 次は二つのものの中から、必ずどちらか一つを選ばなければならない二者択一です。 これは、善か悪か、正義や不義か、真理か虚偽かのどちらかを選ばなければならない倫理や道徳、また神を信じるか信じないか、罪を悔い改めるか悔い改めないかのどちらかを選ばなければならない信仰や宗教など、局外中立はあり得ず、また両者とも選ぶことが許されないものです。 二者択一は、自由選択とは全く別個なもので、この二つは決して混同したり、交換したりすることができないものです。そしてこの二者択一の道徳や宗教こそ、私たちの人格を形造り、人間の真の価値を定めるだけでなく、私たちの永遠の運命を決定する根本的なものであることを知らなければなりません。 三、選択不能について--摂理的なもの この二つの選択に対して、人が生まれた時には、すでに定まっている選択不能のものがあります。これは男女の性別をはじめ、人種や民族、さらにどのような家庭に、どのようなものを持って生まれたかというような先天的な境遇や環境、また能力や賜物、そして性質や性格です。 この先天的にものの善し悪しに関しては、次のように考えていくのが最も賢明です。 1.この先天的なものの善し悪しは、その人のせいではないので、私たちは、良くても誇ってはならず、悪くてもひがんではなりません。 2.この先天的なものの善し悪しは、現世における人間の判断に過ぎず、永遠の観点からご覧になる神の判断は全く別です。 3.この先天的なものの善し悪しは、神の摂理として受け止め、その中で精一杯生きていくことが私たちの責務です。 私たちにとって最も大切なのは、二者択一です。もし私たちが信仰の方を選ぶなら、自由選択において最善のものを選び、選択不能のものも最善と見ていくことができますが、不信仰の方を選ぶなら、自由選択において気まぐれに選び、選択不能のものは、不可解なものとしか見ることはできないのです。甲斐慎一郎の著書→説教集東京フリーメソジスト昭島キリスト教会
2012.11.12
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「御霊による歩み」 インターネットのテレビ局CGNTV(Christian Global Network Television)の番組「みことばに聞く」に当教会の牧師が出演しました。以下のURLをクリックすると見ることができます。2012年7月23日放映「キリスト教の神髄」 http://japan.cgntv.net/_inc/player.asp?pid=2384&type=vod&player=8&bit=high&vid=57447&dreamon=Y「御霊による歩み」 甲斐慎一郎 ガラテヤ人への手紙、1~6六章 この手紙は、「割礼を受けて、モーセの律法を守らなければ救われない」という誤った教えを説くユダヤ主義の教師たちに惑わされたガラテヤの教会の人々を、正しい福音に立ち返らせるために書かれたものです。 ですから、この手紙には、信仰によってのみ救われ、御霊によって始まったキリスト者は、その後の歩みも御霊によって完成される(3章3節)という正しい福音が明白に記されています。キリスト者の歩みは、初めから終わりまで御霊によるものなのです。 一、御霊と肉との関係 この手紙には、鋭く対立している二つの言葉、すなわち「御霊」という言葉が17回、「肉」という言葉が16回も記されています。 御霊によって歩むためには、「肉」について正しく理解することが必要です。 1.物質的な意味--これは動物の肉や人間の肉体のことです(4章13、14節)。 2.人間的な意味(1)自然的な生命のこと(ローマ1章3節)。(2)有限な人間性のこと(ローマ6章19節)。(3)人間的な要素のこと(ピリピ3章3節)。 3.倫理的な意味--これは、神に逆らう罪の原理のことです(ローマ8章4~8節)。 冒頭の図のように人間を三つの部分に分け、三重丸にたとえてみましょう。一番中心の円が三番目の肉とするなら、中間の円である人間性は罪のために汚染され、一番外側の円である肉体は罪を犯す「不義の器」(ローマ6章13、16節)となります。しかし一番中心の円が御霊であるなら、中間の人間性は健全になり、一番外側の肉体は正しいことを行う「義の器」(同6章3、16節)となるのです。 二、御霊とキリストとの関係 この手紙には、「私のうちに」働かれるキリストの姿が実に鮮やかに描かれています。 1.「私のうちに啓示」されるキリスト(1章12、16節)。 キリストが私たちのうちに啓示されるのは、「人間によるものでは」なく(1章11節)、ただ私たちのうちに働かれる聖霊によるのです(第一コリント12章3節)。 2.「私のうちに生きておられる」キリスト(2章20節)。 キリストが私たちのうちに生きておられるのは、信じた時に与えられる御霊が(3章2節)、その後、自我に死んだ私たちのうちに働かれることによってなされるのです。 3.私の「うちに......形造られる」キリスト(4章19節)。 これは、私のうちに生きておられるキリストの品性が私たちの品性となることで、「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」(5章22、23節)という御霊の実を結ぶことです。 三、御霊とキリスト者との関係 御霊が私たちのうちに生きておられ、うちにキリストが形造られためには、次のようなことを守らなければなりません。 1.「聖霊に逆ら」ったり(使徒7章51節)、「聖霊を悲しませ」たり(エペソ4章30節)してはなりません。 聖霊は、私たちが罪を犯さないように、私たちのうちにあって執り成しをしてくださる方ですから、私たちが聖霊に逆らって罪を犯すと、聖霊は悲しまれるのです。 2.「御霊を侮っ」たり(ヘブル10章29節)、「御霊を試み」たり(使徒5章9節)してはなりません。 私たちは、罪の誘惑を受けやすい所や危険な所にわざわざ出掛け、そのような中でも神は私たちを守られるかどうかを知ろうとすることは、御霊を侮り、御霊を試みることです。 3.「御霊を消してはなりません」(第一テサロニケ5章19節)。 私たちは、継続的に御霊を悲しませたり、試みたりするとともに、私たちを悔い改めさせようと働かれる「聖霊に逆ら」ったり(使徒7章51節)、「御霊を侮」ったり(ヘブル10章29節)するなら、御霊を消すことになるのです。 私たちは、御霊によって歩んでいるでしょうか。甲斐慎一郎の著書→説教集東京フリーメソジスト昭島キリスト教会
2012.11.05
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